- 『ベジタリアン』 作者:田中倫太郎 / リアル・現代 ホラー
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全角63933文字
容量127866 bytes
原稿用紙約200.6枚
校舎は霧に包まれている。その奥から、やがては蘇った死者が……。
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ベジタリアン
心臓は止まっていた。
脈拍も呼吸も確認できない。青白い肌は不愉快な程に冷たかった。
しかし死者は歩いていた。呪われた体を引き摺るように、亡霊の如くさまよう。
砂漠の様に渇いた肉体を動かしているのは、たった一つの本能である。生者の血肉に飢える食欲だけが、彼を操っているのだ。人間であった頃の記憶や理性は既に無い。自分が何者だったのかさえも、果てしない闇に葬られている。ただ、生前染みついた習慣のみが、人間らしい動作を再現させていた。
視界は白く染まっている。
辺りは霧に包まれていた。とても濃い霧だった。死者は、その中を茫然と歩きまわっていた。標的を探して。自分の欲望を満たしてくれる獲物を。
やがて、生きた者の姿を見つけた。死者はそれに歩み寄る。そこには、獲物を眼中に捉えた獅子の優雅や鋭敏さも、餌を与えられた飼犬の驚喜や愛嬌も、持ち合わせていない。ただ貪欲に、滑稽に映るほどの武骨さで、生者に近づいていく。その余りの静けさに、獲物もその存在を知覚する事は憚られた。
死者は獲物の手を掴むことに成功した。血色の良い肌。温かみのある感触。だが、死者はその感覚に触れる事は出来ない。彼は死んでいるのであり、調和された世界から追い出された存在なのだ。そして、彼自身にとっても、そんな事は重要では無かった。
食欲さえ満たせば良いのだから。
そして――――――。
1
深陽高校は、都内郊外にある高台に建てられている。緑豊かな山に囲まれ、校舎は平野を見下ろす様に構えられていた。そのため、登校路はどこも坂道で、急勾配なのは当たり前だった。三方は山に囲まれているため、学園は封じ込められている、という比喩が適切である。
犬神も、最初ここに訪れた時はそう思っていた。
――閉鎖されている、閉じ込められている。
前向きに考えれば、自然の豊かな場所で喧騒を忘れる事ができる、という捉え方も出来た。実際、校庭やグラウンドは幅広いスペースを有している。校舎は多少古臭いものの、落ち着いていて趣があった。
――まぁ、隠居する分には悪くないな。
犬神はそう呟いて、苦笑する。隠居、というのは自分自身に対しての揶揄のつもりだった。犬神は両親の都合で引っ越し、この学校には編入生という形で入学することになっていた。すでに高校三年生であり、卒業までは八ヶ月を残すのみだ。大学進学を考えているし、新天地で何かを起こそうという気概も無い。静かに、卒業するまで大人しくするつもりでいた。
学校の特徴を家族に話すと、妹が呆れた様に口をきく。
――なにそれ、陸の孤島じゃん。
妹の皮肉は的をえていた。学校は三方を塞がれているために、登校口は西にしか開いていなかった。学校に行くための道は葉脈のように分かれているが、実際に校門に辿り着く頃には一つの道に絞られている。その道を遮断されれば、学校は完全に孤立するのだ。
六時限目の終了を知らせるチャイムが鳴った。同時にそれは放課後を示していた。
今は八月の中旬。夏服に身を包む生徒達は、大義そうに帰り支度を始める。今日一日の作務を終わらせたのだという、大仰な仕草で。
犬神も、例に漏れずその一人だった。窓際の席で欠伸を噛み殺す。そして、教室を出ていくクラスメイトたちを、何とはなしに眺めた。仲の良い者同士グループを作って下校したり、談笑しているものも居る。最終学年という段階に入り、彼らの団結は強固になっているのは目に見えて分かった。だから今さら犬神がその輪に入るのは難しかった。
犬神は静かに孤立していた。
そしてそれを射る視線があることを、犬神は知っている。一人だけ、彼に目を向ける者が居た。そしてそれは、犬神の席へと近づいてくる。
――またか。
目を伏せてそれに備えた。
「しけた面してんなぁ」
目の前に立って軽薄に笑うのは、予想通り黒木という男子だった。彼も帰り支度を済ませていた。学校指定の鞄を、机に落とす。といってもそれほど音がしない。大して中身が入っていないのだろう。
「いつもの事だよ」
言って、見よがしに溜息をつく。物憂い気に窓辺を眺める少年。それを演じて孤独を隠すのは、少々無理があるようだ。
「それとも、天気のせいじゃないかな」
犬神は、窓の外を見やる。
真っ白に景色を呑み込むそれ。霧が辺りを覆い尽くしていた。夏真っ盛りの時期にはそぐわない光景である。
「先公が早く帰れ、だってよ。こんな濃い霧は見たことねぇって」
黒木は言う。犬神もこんな光景が見た事が無かった。気が付くと、他の生徒はほとんど教室を出ている。
「どっちにしろ、寄る所なんてない」
「何いってんだよ」
黒木は笑う。不思議の国のアリスに出てくるふざけた猫みたいだと思った。
「お前は俺と、体育館に直行だ」
「だからお断りだって、何度も言ってるだろ」
犬神は以前の高校でバドミントンをやっていた。その学校はバドミントンの強豪校であり、インターハイの常連だった。といっても犬神の実力はその栄光に及ぶものでは無い。レギュラーとして活躍することは無かった。中学はエースだったが、冷静に考えれば全国のエリートが集結しているのだ。そこでまた競争があるのは当たり前と言える。そして、犬神はそのレースから脱落したのだ。
「補欠でも、あそこでプレーしていたんだろ?」
口を滑らせたことを後悔する。編入初日の自己紹介で、挨拶のネタにバドミントンをやっていた、と言ったのがマズかった。もうやらないつもりで、部活に入る事も考えていなかったのだ。しかし、黒木はそんな事情は知ったこと無いようだ。バドミントンをやっていたと聞くと、最初の休憩時間に声をかけてきた。余りの熱意に、最初は宗教勧誘か何かと身構えてしまったほどだ。是非うちのバドミントン部に入部してくれ、君は救世主だ、とかなんとかのたまった。何度断っても、しつこく勧誘してきた。それは、残念ながら今日も続くようだ。
「悪いけどもう辞めたんだ。三年生だしさ、勉強に集中したいんだよ」
追い払うためだけの口実では無かった。前の学校では部活に集中する余り、勉強が疎かになっていた節がある。それは自分でも反省していた。進学希望の身としては、そろそろ受験に向けて臨戦態勢をとらねばならない。
「その言い訳は何度も聞いてる」
「お前が言わせてるんだろう」
「体育館も充分なスペースだし、今入部してくれれば、九月までの部費も払わなくていいから」
黒木は犬神の主張を聞かない。自分の話だけを進める。
「大体、新聞部の方にも話は付けてある。今更断られたんじゃ、俺の面子が潰れるだろ」
「新聞部?」
いつの間にそんな、という言葉を呑み込む。
「いや、期待の新人が入ってくるから、今年の夏は凄い事になるってね。良い記事が出来ると教えてやった。ここの新聞部は二人しか居ないけど、機関紙も出しているし、学校の定例月報にも載るような熱心な部活だ」
犬神は眉根を寄せる。
「そういう……勝手に話を進めるなよ」
黒木の方は悪びれた様子は無い。
「なんで、構わないだろ。三年の俺達は夏の試合が最後だ。正直いって、長い付き合いでも無いぞ。……それによ、ここに来て思い出の一つや二つ、残したいと思わないか?」
「全然。そんなの」
反射的に言った後で、決まりが悪くなった。咄嗟に黒木から視線を外し、窓の外を見る。そんなつもりは無かったのだが、犬神は何かを見つけた。目を凝らすと、霧の向こうに奇妙な人影を発見した。下校する生徒にしては奇観だった。
「――――安藤だ」
同じく視線を這わせていた黒木が、その人物を言い当てる。無論、聞いた事の無い名前である。
「ほら、新聞部の」
話の傍から妙な符合だ。少しばかり暗澹たる気分が立ち込め、犬神は眉を引き締める。だが黒木の方も、胡乱な目付きで窓に視線を打つ。
「でもどうしたんだろ、あいつ」
「なにが?」
改めて外を覗き込む。確かに安藤という男子は、奇妙な歩き方をしていた。左腕を庇っているのか、体が傾いたまま進んでいる。足取りが非常にぎこちない。ひょっとしたら怪我をしているのかもしれない。
黒木は窓を開けた。冷気が教室の中に入っていく。触れてみると、肌に絡めつくような不気味な感触だった。
「おい、どうかしたか」
黒木が大声を上げると、安藤は気付いたのか、こっちに手を挙げた。表情は暗いが、何とか無事なようだ。危篤そうな様子はない。
「大丈夫みたいだな」
彼は窓を閉める。さほど心配した様子は見せず、再び部活勧誘に話を戻した。
「見学だけでもいいからさ、今日だけ体育館に来ないか。練習を見て貰うだけでも、いいんだけど」
仕方なく、犬神は頷いた。
「わかったよ」
黒木は目を丸くする。
「お、何だ。急に素直になったな」
「何だよ。行かなくていいのか?」
彼は慌てて首を横に振る。
「いや、そんな事は無い。大歓迎だ」
冗談めかして、犬神が言う。
「観念したんだ。ここらで了承しないと、周りにも付き合いの悪いイメージが付きそうだ。編入早々、それは頂けない」
黒木は笑って、彼の肩を叩く。
「賢明な判断だ」
「見るだけだぞ、練習見るだけ」
教室を出たのは二人が最後だった。電気を消すと、より一層外の白さが際立つ。犬神は昔読んだスティーブン・キングのホラー小説を思い出した。霧に囲まれたマーケット。住人達はそこに閉じ込められ、外には出られない。やがて、濃霧の奥からは恐ろしい異形の怪物が…………。
――――馬鹿馬鹿しい。
己の妄想に自嘲めいた苦笑を浮かべ、そのまま教室を後にした。
※
シャープペンシルの先が英単語を書き記していく。ひたすら繰り返されるそれは、勉強というよりも義務的な作業に近いと感じる。果たして、自分の頭に入っているのかどうか疑わしい。一時間も経てば、忘却の彼方に違い無い。
小泉陽菜は、小さな溜息をついた。
小泉は、長テーブルに対面して座る川本梓に視線を注ぐ。彼女はイヤホンで音楽を聴きながら数式を黙々と解いていた。それだけなのに、と小泉は思う。その光景は額縁に入れて飾っておきたいほど画になっていた。無表情だが端整なその顔立ちは、凛々しさが香料のように広がっている。同性をも惹きつけてしまうような魅力を感じてしまうのだ。
図書室は静まり返っていた。受付に居た事務員も、書庫を行ったり来たりしているうちに姿を見せなくなっていた。ここからでは時計の短針が時を刻む音も聞こえない。窓の奥は霧のおかげですっかり白くなっていて、外の様子もわからなかった。小泉の隣には、佐藤美香が同じように勉強している。図書館に居るのはこの三人だけだった。
「もう限界。頭痛くなってきた」
蜘蛛の巣を払う様に、静寂が破られる。佐藤がお手上げという調子で、シャープペンシルを投げた。それは川本の方まで転がっていったが、彼女は取ってあげる仕草もしない。気付いていないというより、興味が無いという感じだった。
「いつまで経っても終わらないし、このプリント。内容だって、教科書丸写しの虫食い問題じゃん。手抜きしすぎ、腹立つ」
生物のプリント問題を解いているらしいが、佐藤は全く進んでいる様子が無かった。
「う、うん……そうだよね」
小泉は相槌を打ちつつ、川本の表情を窺った。やはり無表情だが、怒っている様にも見える。ひやひやしていると、佐藤は飽きて世間話を始める。
「ねぇ、陽菜。そういえばさ、昨日のアリトーク観た? ほっちゃんが……」
「帰る」川本が言うなり、席を立った。
小泉はその姿に茫然とする。
「でも川本さん、今日は一緒に勉強しようって……」
――だから誘ったのに。
川本は淡々と道具を片づける。
「一応、決めていた分は終わったから」
夜の黒を吸い込んだような澄んだ瞳には、小泉たちは映っていない。もっと先の何かを見据えているような眼差しだった。支度が出来てそのまま出ていこうとするので、小泉は慌てて席を立った。
「それに、今日は弓道部の練習はお休みだって言っていたじゃない」
「練習は休みだけど」彼女は振り返る。
「家で勉強していた方が、効率がいいから」言って、佐藤の方に一瞥する。「ここじゃ、とても無理」
言い残して、川本は廊下に消える。追いかけそうになる小泉を、佐藤が引きとめた。
「放っておきなよ、あんなの」
「でも……」
小泉の瞳には未練が残っていた。佐藤は出口の方をねめつける。
「ちょっと見栄えがいいからってさ、お高くとまりすぎ」
小泉は返す言葉を持たなかった。反駁するための材料が無いというよりも、川本に言い去られたショックの方が大きかったからだ。
佐藤は大仰に溜息を漏らすと、プリントを仕舞い始めた。
「あたしたちも帰ろ。今日はもう無理」
「うん……」
どん、と大きな音がして、小泉は跳び上がりそうになった。音は背後の窓からだった。振り返る。窓は白い画用紙を貼りつけた様だったが、その中にぼんやりとシルエットが映っていた。人の形をしたそれが、窓にぶつかったのだろう。
「誰なの?」
佐藤が目を細める。何かのイタズラだろうか。外の天気のせいで、誰なのかはっきりしない。小泉は薄気味悪さを感じた。
人影はしばらくふらふらとさまよっていたが、やがて離れていったのだろう。溶けるようにして消えていった。
※
放課後、村田は教室を出る。部室に行くつもりだった。
深陽高校は体育館を除いて三つの校舎がある。クラスの教室が並ぶ一般教棟、音楽室や理科室などが集まった特別教棟、最後に部活動の所室が集められた部室棟がある。村田はその部室棟に向かっていた。
「あれ、村田。おまえ帰らないの? 外凄いぜ」
すれ違った友達が聞いてきたので、部活だと答えた。すると彼は、馬鹿にした様な目で村田を見る。
「ああ、新聞部ね。てか、まだ活動してたんだ」
「してるよ。学級新聞、月に一回は発刊してるじゃん」
彼は鼻で笑う。
「あんなの、誰も読まねぇだろ」
その言い方に村田はむっとしたが、黙って通り過ぎる事にした。相手にするな、と己をなだめる。
いつもこんな調子だ、と思う。特に運動部の連中は、文化系の部活を見下している気がする。確かに、新聞部はたったの二人だが、熱心に活動している。文化祭では、二年連続で新聞部の出展が表彰を受けた事があるらしい。部員が少なくても、同好会に格下げされていないのはそのためだと村田は思う。
――まぁ、言わせておけばいいさ。
見ると、廊下の窓はミルク色に染まっていた。こんな濃い霧は今まで見た事が無かった。
部室のドアを開けると、もう一人の部員にして部長を務める、安藤が居た。彼はテーブルの席についている。
「こんにちは」
言って、村田は頭を下げる。村田はまだ一年生だったが、安藤はもう三年生だ。彼は背が高く強面である。身体付きも細いが華奢な訳では無く、引き締まって精悍な体つきだった。
安藤はぐったりとしていた。パイプ椅子に大きな身体を預けている。
「部長、どうかしたんですか」
顔も青ざめている。牙の抜かれたサーベルタイガーの様だと思った。安藤は村田に目を向ける。やっと村田の存在に気付いたという感じで、返事をした。
「ああ、村田か。お疲れさん」
彼は左腕を抑えていた。湿布が貼られている。保健室で治療を受けたに違いない。
「それ、どうしたんですか。怪我したんすか」
「噛まれた」
一瞬、彼の言っている事が理解出来なかった。体育の授業で怪我をした、喧嘩して怪我をした、なら分かる。
「どういう事ですか?」
要領の得ない村田に、安藤は抑揚無く言葉を繋げる。
「いきなり噛みつかれたんだよ、知らない奴に。いや、二年の生徒だったかな。校章が赤だったから――」
「でも、どうして」
「噛んだ奴に聞いてくれ。俺の知った事か」
味の無くなったガムを吐きだす様に、彼は言い捨てる。村田は良い様の出来ない気味の悪さを覚えた。
「大丈夫なんですか、でも」
「ぶん殴ってやったけどさ。でも手応え無いし、なんかそいつ気持ち悪くて――」
「確かに気味が悪いですよ」
それにしても安藤に喧嘩を売る様な生徒が居たとは。
「そうえいば、さっき黒木に会った」安藤は話を変えた。
「噂の編入生もそこに居たしな。今日だったろ、取材は」
バドミントン部の記事が決まっていた。三年生に優秀な経験者が入部するらしく、夏の大会でも活躍すると意気込んでいる。スポーツ系統の記事は何度も記載しているが、はっきり言ってうちのバドミントンは零細弱小だ。だから、今まで碌に取り上げる事は無かった。
「ええ……でも」
安藤は見るからに調子が良くない。しかし、何故そこまで体調が優れないのかわからなかった。まさか、噛まれたくらいで彼がそこまでぐったりするとは思えない。村田の不安気な表情を察したのか、安藤は苦笑を浮かべる。
「悪いけど、一人で先に行ってて貰えるかな。なんか調子が悪くて」
わかりました、と村田は答える。どんな記事を書くかは、企画会議を開く。だが取材や執筆、紙面のレイアウトなどはそれぞれ分業だった。
「行けそうだったら電話するからさ――って、無理か」
「何でです?」
「いや……」
言いにくそうに、安藤は自分の携帯電話を取り出す。
「圏外なんだわ、このポンコツ」
村田も何となく自分の携帯電話を開いてみた。
同じだった。いつも三本のアンテナが表示されている筈が、オレンジ色で圏外と出ている。これはどういう事だろうか。二人の電話機はそれぞれ違う会社だ。だから、そうそう同じ様になるのは珍しい筈なのだが……。
「自分も駄目ですねぇ……なんでだろ」
外には濃霧が立ち込めている。何かの関係があるのだろうか。村田の返事を聞いて安藤は眉をひそめたが、すぐに戻った。
「電波の調子が、悪いだけだろう」
本当にそうだろうか。脳裏によぎった言葉に、村田は自分自身で困惑する。何故自分は今そんな事を考えたのだろう。
「では、早速ですが取材してきます」
不安を薙ぎ払う様に、鞄を机に置く。
メモ帳を取り出した。まだ真新しい。文字で埋まっているのはまだ数ページしか無い。安藤のメモ帳を見せて貰った事があるが、それは分厚く黄色く変色していて、びっしりと文字が書き込まれていた。村田はそれを思い出しながらいつもメモを取る。長年使われてきた感じ、沢山書かれた充実感。ページを指の腹で撫でると、表面の凹凸が伝わってくる。早く自分もその感覚を味わいたい、と思う。
ここが自分の居場所なのだ。村田は部室に居るのが心地よいと感じる。教室や家では惨めな事が多くても、ここなら自分に出来る事がある。自分のやるべき事が、しっかりと用意されている様な気がする。
――部長は恩人だ。
階段を下りて一階に向かう。目指す体育館は独立している。そのためには、一度外に出なければならないが、大した距離でも無いので上履きのままで行く事が多い。
外に出ると、水蒸気で肌が湿っていく。視界はほとんど遮られていた。近くにある筈の体育館も霞んで見える程度だ。霧は禍々しい気配を湛えている。灰色のそれは、いざなうように村田を包み込む。
――これは、異常だ。
何かがおかしい。そう感じた瞬間だった。漂う白の向こうに、何かを見つけた。
目を見開いて、村田は絶叫した。
2
新聞部の村田が血相を変えてやってきたのは、黒木達が一階に降りた直後だった。辺りに生徒や教師は居なくて、その場に居たのは黒木と犬神だけだった。
「霧の中に何かが居る!」
村田は、黒木を見つけるなり叫び声を上げた。かなり興奮している。気色ばんだ顔色からは、それが冗談ではない事を充分に証明していた。最初、村田を見つけた時に犬神に紹介でもしようと思っていたのだが、そんなことができる雰囲気ではないと悟った。
「どうしたんだ」
どうしたんだ、と聞きながら黒木は異様な雰囲気を感じていた。彼は身を震わせながらの黒木の前で止まる。肩で息をしながら、再び口を開く。
「おれ、見たんです。外に何か居る」
「要領を得ないな」
隣の犬神が呟いた。
「ここの学校は、いつもこんな調子なのか」
「何を見たんだ?」
犬神の軽口を無視して、村田に尋ねる。村田が何かを言おうとすると、特別教棟の渡り廊下から女子が歩いてきた。下校するつもりだろう。クラスは違うが同級生なので知っている。川本という女子だ。
「何の騒ぎ?」
冷たい声だった。サーモグラフィで観たら真っ青なのではないかと、黒木は思う。
「大変なんです。学校の外に出ちゃいけない。き、霧が――」
犬神が眉をひそめる。
「落ち着けよ。どうしたんだ」
村田が頷き、息を整える。すると、今度は二人の女子の同級生が同じようにやってきた。小泉と佐藤だ。まるで、村田の話を聞きにやってきたかのようだ。
「黒木さんの所に、取材に行くつもりだったんです。体育館に向かっていて、それで外に出たら……。霧が、その奥に、みんながいて」
「みんな?」黒木は首をひねる。「俺達は、ここに居るが」
「そうじゃくなくて……その。深陽の生徒が居たんです、沢山。でも様子が、変で」
川本が踵を返して昇降口に向かう。これ以上付き合っていられないという意味だろう。細い足が床を蹴っていく。
「あ……」
小泉は、それを不安気に見ていたが、やがて追いかけていった。
「黒木さん、信じてください。本当なんです」
村田の目は真剣そのものだった。まだそれほど長い付き合いでもない。だが、その瞳は冗談の類ではないことを充分に物語っている。
「わかった。お前の話は信じる」
とは言ったものの、黒木には荒唐無稽な話に感じた。
「あの二人はどうするんだ? 行っちゃったけど」
犬神が、不安気に二人の後を眺める。
「放っておけないだろ。ちょっと行ってくる」
黒木がそう言って追いかけようとした時だった。成り行きを見ていた佐藤が、口を開いた。
「あんた達も川本さんに構うわけ? あの人も大層な御身分ね」
佐藤は顔を歪ませる。
「陽菜も皆も、おだて過ぎなのよ。あの人、ちょっと顔が良いからって図に乗ってるんだから。世間が右往左往して世話してくれるって、勘違いしてるんだわ」
黒木はそれを聞き流して、二人の後を追う。彼女達の間柄については詳しく知らないが、あまり仲は良くないらしい。
黒木は走った。二人は丁度、昇降口の下駄箱に居た。小泉が彼女を説得している。だが、効果は無いようだ。
「川本さん、やっぱり危ないよ」
川本が上履きを脱いで外靴に履き替える。昇降口の扉は、幾つものドアが並んでいて、どこからでも出られるようになっている。何ヶ所からは既に開かれていた。
「危ないって何が?」
「だって、さっきの話、聞いたでしょう?」
くすり、と川本は笑う。相手にしていられないという意味が、言外に含まれている。
彼女は頬に冷笑を貼りつけ、外に出ていこうとする。その肩を掴んだのは、黒木でも、小泉でも無かった。外から入ってきた男子生徒が、彼女に掴みかかっていた。川本はそれをいなして、数歩下がった。
その顔はとても動揺している。
「おいおい」
見かねた黒木が、男子に近づく。
「気持ちは分かるが少年。そういうのは、然るべき順序を踏んでからで……」
男子の肩を掴み、振り返らせる。黒木はその顔を見て、絶句した。
――人間じゃない。
感情を根こそぎ奪ったような顔は、紫色に視覚できるほどまで青白い。だらしなく開いた口の隅からは、粘性の高そうな唾液が垂れさがっている。何より驚かされるのは、重度の白内障を思わせる、白く濁りきった双眸だ。
そのインパクトに、黒木は茫然とする。
ぎしり、と両肩に激痛が走った。いつの間にか、肩を強く掴まれていた。見た目からも想像のつかない強い力だ。
「このっ……」
反射的に折り畳んだ右腕で肘鉄を作り、相手の側頭部に叩き込んでいた。奇妙な手ごたえと共に、彼の首はもげるように傾いた。
――く、首の骨折っちまった?
そんなに力を入れたつもりは無かった。何より、そこまで自分の腕力があるとも思えない。しかし彼は表情を変えず、こちらに視線を外す事は無い。
痛みを感じていないのか。得体の知れない恐怖に慄き、黒木は退く。
男は大きく口を開いた。殺意を整列させたような歯が並び、その奥に毒みたいに鮮やかな赤が覗いている。
――な、何を。
「川本さん!」
小泉の声で我に返る。川本が男子めがけて消火器を振り上げていた。振り下ろされたそれは男子の頭にぶつかり、彼は倒れた。
「何なの、ねぇ!」
小泉が悲鳴を上げる。
「おい、馬鹿、何してんだよ」
そこまですることないだろ、と黒木は言ったが、川本は答えない。
彼は起き上がらない。置物の様にピクリともしない。
「大丈夫なの、その人……」
「わからない」
黒木は思った事をそのまま述べた。自分が殴った時、彼の首は完全に明後日の方向に向いていた。
――殺しちまったのか、まさか。
身体が震えた。そんなつもりなど無かったのに。ただ、黒木は怖かったのだ。あの下水溝を思わせる暗い眼が。
川本が片膝をついて男の身体に触れる。
「脈が無い」そう言って鼻の上に手をかざす。「呼吸も……」
「嘘でしょう……」
小泉はその場にへたりこんだ。
――自己防衛だよな。いや待てよ、俺は人殺しか?
仕方がなかった、と言おうとしたが、黒木は噤んだ。
「その人、死んでるの?」
「たぶん」
そう言った川本の声は低い。そこから動揺は感じ取れないが、何を考えているかもよくわからなかった。
「ねぇ、救急車呼んだ方がいいんじゃないの」
「……いや」
川本は自分の消火器を見やった。血が付いている。
本当に死んだのだろうか。黒木は不思議に感じた。こんな簡単に人間がこと切れたりするだろうか。或いは、生きていてほしいという希望的観測がそうさせているのか。黒木は自分で生死を確認したかったが、怖くて彼に近寄れなかった。
「……本当だったのかもしれない」
川本の言葉に、黒木は疑問符を浮かべる。
「どういう意味だ?」
「さっきの男子の話」
――霧の中に、何か居る。
「触ってみて」
川本は、男子の手首を掴み、こちらに向ける。一度は躊躇したが、黒木はその青白い肌に触れてみた。とても冷たい。もう人間ではなく、人間だったものの抜け殻などだと分かった。
「どう?」
「どうって……」
「もうこんなに冷たくなってる」
「そりゃぁ……死んでいるからだろ」
「死んでからすぐに、こんなに早く体温が冷めるはずが無いでしょ」
「それは」
黒木は言い淀む。そういう事は自分は門外漢だ。特別な知識がある訳ではない。だが、言われてみるとそんな気もする。さっき死んだとしたら、この氷の様に冷たい皮膚はいくらなんでも異常だ。
「でも、だから何だって言うんだ? まさか、最初から――」
その先の言葉が続かない。馬鹿げている。最初から、死んでいたなどと。彼は殴り倒されるまでは動いていたのだから。
「この人……知ってる」
震えた声で、小泉が言った。
「一年の生徒でしょ……私、風紀委員で一緒だったらから。会合の時、少し話したことがあるの。でも」そこで言葉を区切り、彼女は身を震わせる。「全然、違う。まるで、今じゃ別人みたい……まるで、化け物みたい」
化け物、という台詞が背筋を走る。その言葉は彼の禍々しさを明瞭に浮かび上がらせていたのだ。
※
佐藤は、村田とかいう一年生の話を信じてはいなかった。当たり前だ、そんな馬鹿げた話、信じられる訳が無い。
――本当に、どうかしてるわ。
それは小泉に向けられた言葉でもある。彼女は川本に憧れているのだ。だからあれだけ付き纏う。
――川本さんは、あたしみたいな、とろくさいの嫌いだよね。
――ねぇ、名字じゃあれだから、名前で呼んでもいい?
それを本人はたぶん自覚していない。飼犬みたいにへらへらしては、いつも彼女のご機嫌を伺う。そうやって水を向けている。
あんな女のどこがいいのだろう。川本は密かに男子に人気がある。見た目もそうだが、何でも適度にこなす所や、あの歯牙にもかけない、つっけんどんな感じが、男達の下碑た関心を高めているに違いない。
佐藤は下唇を噛んだ。
――あいつが陽菜を奪っていったんだ。
「遅い……な」
同じくその場で留まっていた男子が、口を開く。確か犬神とかいう名前の筈だ。ついこのあいだ編入してきたばかりの生徒である。
「何かあったのかな」
「だから、言ってるじゃないですかっ」
村田は、気色ばんだ顔で訴える。
「外には、何かが居るんです。だから学校を出ちゃいけない」
「いい加減にしてよ!」
耐えられなくなった佐藤は啖呵をきる。
「くだらない…………。あんたも信じてるわけ?」
犬神に詰め寄ると、彼は首を振った。
「い、いや。僕にはよくわからない」
「付き合ってらんない。もう帰る」
彼女が昇降口に向こうと、足を踏み出した時だった。小泉たち三人が戻ってきた。その事に、佐藤は違和感を覚える。小泉ならまだしも、なぜあの川本まで戻ってきたのだろうか?
「ちょっと、来てくれないか」
黒木という男子が、沈んだ声で言う。その仰々しい物言いに不安を覚えた。
「どうしたんだ?」
「いや……」
犬神に聞かれても、彼の歯切れは悪い。青ざめた表情で佐藤や村田を見渡す。
「とりあえず来てくれ。見せたいものがある」
六人は昇降口に向かった。佐藤も不承不承、後に着いていく。どちらにせよ、下駄箱に行かなければ帰れない。
「で、何があるっていうの?」
下駄箱のロッカーが並んでいた。傍には履き替え用の、すのこが敷かれている。それだけだった。置き残したジュースのブリックパックや、プリントの切れはしの様なものはあるが、異変と呼べるものは無い。
「嘘だ……」
黒木が呻いた。
「こんな筈じゃない。ここに――――」
「死体があったの」
川本が言い足して、犬神が顔をしかめる。
「ここに倒れていた、本当は」
「馬鹿言わないでよ」
佐藤は笑う。信じられなかったが、信じたくも無かった。全員で真剣になってこんな事を喋るなんてありえなかった。
「川本さんさぁ。あんたまで、こんなくだらない事に付き合ってるわけ」
とん、と後ろから手が置かれる。無意識に、佐藤はその手を払う。
「私は帰るわ。これ以上、こんな事に構っていられるもんですか」
「……美香」
小泉が、こちらに怯えた視線を送っている。――おかしい。異変に気付いた。ここには川本も、男子三人の姿が視界に映っている。肩を触ったのは……。
首筋に、痺れるような感触が伝わった。冷たくて固い何かが、皮膚を破り肉に押し込まれた。
「畜生!」
誰かの叫び声が聞こえる。それはどこか、薄い膜で隔てられたかのように、ぼんやりとしていた。
身体はしっかりと、背後から抑えつけられていた。強い力で抗う事が出来ない。熱い何かが溢れだしている。意識は外の霧と同じように、白く染まっていった。
――熱いよ、陽菜。
再び、冷たい何かが首筋を伝う。それは歯だと分かる。――食べられている。他人事のように、佐藤はぼんやりと思った。本当だったのだ。霧の中には何かが居る。外に出てはいけない。それでも信じたくないという自分が居た。
彼女は、ゆっくりと床に倒れた。ここも不愉快な程冷たい。四肢はほとんど動かない。糸を切られたマリオネットの様だ。
「くそ! この化け物が!」
赤い何かが過ぎる。消火器だった。筒状のそれは、彼女を蹂躙していた者を薙ぎ払っていた。だが、身体は既に動かなくなっている。意識が次第に遠のいていく中で、小泉の声を聞いた。
「美香! しっかりして!」
――ああ、陽菜ったら、すぐ泣きべそかくんだから。そんなだから舐められるのよ。
自分が死ぬ、という事がわかった。まるで眠るようだ。何もかも唐突すぎる。
「美香、目を開けてよ! 美香!」
ここを卒業することも出来なかった。まだまだ色々とやりたい事があったのに。
周囲を取り巻くあらゆるものがざわめき立ち、やがて途切れた。
※
犬神は、血溜まりが上履きを汚しているのに気付き、悲鳴を上げた。そこには、二つの死体が並んでいた。佐藤と名前も知らない男子の亡骸だ。目の前の惨劇に犬神は呻いた。
「なんて酷いことを……」
黒木は、持っていた消火器を床に落とした。渇いた音が響き渡る。
「仕方無かった」
黒木は呻く。
「こいつは、化け物だ。さっきまで、死んでいた筈だったんだ。なのに――」
「仮死状態、という事は無かったのか。ほら、テレビでよくあるだろ。本当は死んでいなかったのに、そのまま埋葬してしまった、とか……」
犬神は、何とか修正しようとしていた。普段の日常に戻ろうとする修正だ。それを行わなければ、自分は取り返しのつかない事になる、そう思った。
「お前も見たろ。こいつが……佐藤に喰い付くのを」
黒木は言って、男子を指した。
「こいつは外からやってきた。霧の中から……。さっきも襲ってきたんだ。俺たちが、殺した筈なのに」
血の匂いを嗅ぎつけたのか、無数の蛆虫が二人にたかり始める。耳触りなその音は、完全に二人が死者だということを自覚させる。
「美香が……」
小泉が放心したように呟く。頬には涙の跡が残っている。
犬神は目の前の光景に眩暈を感じた。とても受け入れられるような光景では無かった。
「電話は……無理か」
犬神は舌打ちして携帯電話を閉じる。救急車に連絡しようと思ったが、誰の電話も通話は不可能だった。全員圏外だったのだ。
「また、起き上がるって事は、無いんですかね」
おろおろしていた村田が言い出した。
「黒木さんの話じゃ、この男子は始めから死んでいた。それなのに起き上がって、もう一度襲ってきた。とすると……」
「何度殺しても、甦ってくる?」
川本の言葉に、一同は口を噤む。死体が動く気配は今のところ無い。だが、その可能性は考えられる。しかし、どうすればいいのだろう。また殺すしか無いのだろうか。そんな事が簡単に出来る筈が無い。自分なら、とても無理だろうと犬神は思った。
川本が、昇降口のドアを閉めて、鍵をかけた。
「外を塞ぎましょう。あいつらが入ってくる」
村田が頷く。
「そうです。外には、死んでから起き上がった奴らがうようよ居るんだ。絶対、入って来させちゃ駄目だ」
それは下校していた筈の生徒だ。なのに、霧の向こうで化け物へと変わってしまった。もう既にいくつか中に入って来ているかもしれない。
「僕は、職員室に行って先生を呼んでくるよ。この時間なら、先生は残っている筈だ」
言いながら、犬神は滑稽に感じていた。一体、先生を呼んだからといって何が出来るのだろうか。しかし、今までに染みついた習慣を簡単に捨てる事など出来はしない。普段は馬鹿にしたりしていても、彼らは自分達の庇護者なのだ。
「俺は、まだ学校に残っている奴らに呼び掛けてくる」黒木が言った。そして、その場にへたり込んでいる小泉を見やった。彼女は憔悴しきっている。
「しばらく……そっとしておいた方がいいな」
彼女は茫然と佐藤の亡骸に寄り添っていた。
「でも、ここに一人にしておくのは危険じゃないのか?」
犬神が言うと、彼女はこちらを向いた。
「大丈夫」掠れた声だ。「私は大丈夫だから……しばらく一人にさせて」
黒木は小さく頷くと、村田と一緒に、教室のある二階に駆け上がっていった。
犬神も職員室に向かおうとすると、川本も着いてきた。自分も行く、という意味だろう。さすがに犬神も職員室の場所は知っていた。二人は歩き始めた。
「ついこの間、編入してきたばかりなんだ」
歩きながら、犬神は喋り出した。何か話していないと落ち着かない。どうにかなりそうだった。
「まさか、こっちに引っ越してすぐに、こんな目に遭うなんて。夢にも思っていなかったよ」
彼女は返事どころかリアクションも返してこない。それでも、犬神は口を動かし続ける。
「塔青高校って知ってるかな。前はそこに居たんだ。スポーツが盛んな学校で、僕はバドミントンをやっていた。聞いたこと無いかな。手前味噌になるけど、スポーツに関しちゃ結構有名なんだ、そこは」
彼女は押し黙っている。ようやく、犬神は俯いた。
「……いや、何でもない。ごめん」
職員室に辿り着く。川本が扉を開けた。
無人だった。普段なら慌ただしく教師達がそこに居る筈なのに。山積みにされたプリント、生徒が触る事さえ許されない数々のファイル、色んなもので溢れるペン皿。そういったものたちが、部屋の中で静寂に佇んでいる。
――なんで、一人も居ないんだ?
まさか、と嫌な予感な頭を過ぎる。先生達もまた……。
川本は置いてあるテレビの電源を着けた。どのチャンネルを回しても砂嵐だった。やはり、何かの回線が遮断されているのかもしれない。
――霧のせいなのか?
「どうしよう……これから」
彼女は言葉を返さない。犬神の声は静まり返った職員室に浮かんで消える。本当に外に出る事が出来ないのだろうか。あの霧は晴れる事は無いのだろうか?
※
小泉は女子トイレの個室で泣いていた。
「美香……どうして死んじゃったの?」
嗚咽と共に、後悔の念が残っていた。もっと自分がしっかりしていれば。あの時、彼女を助けられていたかもしれないのに。
「ずっと友達だったのに……」
どん、と外からドアが叩かれた。ノックにしては大きいその音に、小泉は身を竦める。
「あ、あの……入ってます」
嗚咽でつっかえないように気をつけながら、小泉は言う。だが、叩かれる音は止まない。いや、叩かれているのでは無く、ぶつかっているのだ。――誰かが身体をぶつけてきている。ふいに彼女は、図書室で勉強していた時のことを思い出した。窓にぶつかる人影――。
「――だれ?」
するとドアの揺れは収まった。不意に、肉の腐ったような嫌な臭いが鼻腔をかすめた。
「あの、だれなの?」
不審を覚え、指が鍵に向かう。開けていいのだろうか。あの化け物は退治された。だから、もう心配は無い筈だ。学校の外にさえ出なければ……。
ドアはゆっくりと開いた。
「…………なんで」
そこに立っている人物に、茫然とする。
「無事だったの…………美香?」
佐藤の瞳は光を失っていた。彼女の首筋は、赤く染まっている。そこに、白い粒のようなものがびっしりと埋まっていた。それが、ぽろぽろとタイルに落ちている。最初ライスクリスピーみたいだと思ったが、蛆虫の死骸や抜け殻だった。
――生き返ったんだ。
自分に会うために。
佐藤は手を突き出してきた。青白いその両腕は小泉の首を捉える。冷たい指は首筋に食い込んだ。その余りにも強い力に、呼吸が出来なくなった。
――どう、して……。
声に出そうとしたが、言葉にならない空気が漏れただけだった。呼吸に喘ぐ淡水魚の様に、彼女は口を天に向けた。意識が霞む。自分も死ぬのだろうか。
目尻に溜まっていた涙が頬を伝う。
佐藤はゆっくりと口を開けた。その中は地獄の入口を思わせた。これは罰だと思う。清算するのだ。親友を見殺しにした罰を。彼女は怒っているのだから。
黄金色の残像が走る。鈍い音が聞こえ、小泉は解放された。そのまま尻餅をつき、溜まった息を吐き出す。何が起きたのかわからなかった。
「女子トイレに入るのは、ちょっと躊躇しちゃいますね。助けるためとはいえ」
軽やかな男の声が聞える。佐藤は床に倒れていた。目をつむり、頭から血が流れている。
「大丈夫ですか?」
男子が金属バッドを持って立っていた。校章の色を見る限り二年生だ。どこか落ち着いた雰囲気を纏っている。
「あ、あの……」
息を整えて、何か言おうとしたが、何も言葉が出てこない。
「噛まれていないですか?」
意図がわからない質問だったが、正直に頷く。
「え、ええ」
「それは良かった」
男子は微笑み、視線を佐藤にやる。
「彼女とは知り合いでしたか?」
ふいに、胸の奥で込み上げるものがあった。――美香。
「と、友達だったんです。親友だったんです」
「そうでしたか」
「あの、美香は……彼女はどうなったんですか?」
「死にました」淡々と男子は告げる。「もう蘇生する事は無い」
「そんな……」
「彼女はあなたを殺そうとしたんですよ。いや、違うな。食べようとしたんです。だから助けたんです」
小泉は彼女を見詰めた。もう動いていない。もう生き返る事は無い。
「もう此処を出た方がいい。酷い臭いだ」
男子は鼻をつまむポーズをする。小泉は首に手をあてた。あの冷たい指の感触は消えようとしている。
「ひとつアドバイスをしましょう」
そう言って、男子は笑う。
「こいつらの弱点は頭だ。頭を潰せば死ぬ」
3
黒木は、校内に残る人間を探していた。まだ現状を知らない彼らに、今起こっている事を伝えなければならない。これ以上の犠牲者が出る前に、何としてでもだ。
しかし、校内は人気が無かった。ほとんどの生徒は下校して、あの化け物になってしまったのだろう。自分も早く外に出ていたら、あのような姿になっていたのかもしれない。そう考えると、自分は運が強いのではないかと思う。
三階に上がると、そこで初めて話し声が聞えた。その教室のドアを開くと、ひと組の男女が居た。一つの机に向かい合って、何か喋っていた様だ。突然の闖入者に二人は振り返り、唖然とする。
「あの……何ですか?」
黒木がじっと見つめていたので、男子の方が怪訝に声を上げる。やはり、まだ外の事態に気づいていないらしい。
「ここは、君達のクラスか?」
教室には二年A組と書かれている。そうです、と男子は言った。
さて、何と言えばいのだろう。黒木は口を開いたが、言葉にならない。ありのままを伝えようとしても、信じてくれないだろう。馬鹿げた話だと一蹴されるに決まっている。結局の所、自分の目で見てもらうしかないのだろうか。
「外には出るな。死人が出たんだ」
「え……」男子は絶句する。
「誰か自殺したの?」
聞いてきたのは女子の方だった。黒木は迷ったが、こう答えた。
ゾンビが居る、と。
※
村田は、新聞部の部室へと向かっていた。
――部長。
安藤は怪我をしていた。噛まれたと言っていた。ならば、考えられる原因は一つしかない。
――あの化け物だ。
安藤は霧の中で襲われたに違いない。だが彼は軽傷で済み、事の重大さに気付かなかった。校内に無事戻って来られたのは、幸いと言えるだろう。
無事だろうか。いや、そうに決まっている。ただ腕を噛まれた、それだけだ。それだけで人間が死ぬはずが無い。そんな筈は……。
勢いよくドアを開ける。
「うわっ!」
声を上げたのは安藤だった。部屋にはヤニくさい臭いが充満している。彼の手には煙草があった。
「ば、馬鹿。脅かすなよ、先公かと思ったぜ」
「部長、無事だったんですね」
安藤はきょとんとしている。顔色は悪く無い。
「というかお前、取材はどうした。もう終わったのか」
「良かった……」
村田は安堵の溜息を漏らす。そうだ、死ぬ訳が無い。不安を募らせていた自分を自嘲する。そして、ゆっくりと顔を安藤に向けた。
「大変な事が起きているんです。これは凄いネタですよ」
※
職員室の隣にある会議室。普段は教師達が集まり、成績不良者や態度に問題のある生徒につて、話し合いが行われる場だ。ちょうど教室ほどの大きさで、中央には長テーブルがあり、椅子が囲まれている。
五時半を過ぎている。学校残っていた生徒たちが集結していた。
犬神は席に着くと、同じように座る生徒達の顔を見渡す。自分も含めてその数は九人。知らない顔が新たに三つ増えていた。一組のカップルと思わしき男女。黒木が見つけて連れてきたらしい。他には金属バッドを持った男子。どちらも二年生だ。もちろん前に遠目で見た安藤も参加している。腕に湿布が貼られているが、特に具合が悪そうでは無い。
「みんな集まってくれたな」
黒木がそう言って、窓の霧を睨んだ。
「見ての通り、霧が出ている。俺は三年間ここに通ってきているが、こんな濃い霧は初めてだ。――尋常じゃない。そして……」
「あの」
話を遮ったのは、二年のカップルだった。男子は青田というらしい。その横に居る青田の彼女は、横井亜紀といった。
「なんで、こんな所で集まっているんですか? なぜ俺たちは帰れないんですか」
「そうよ。あたしたちは関係ないじゃない」
「だから今、順を追って説明する」
「霧が出ているから帰れないって? そんな馬鹿な」
「見てみろ、携帯は圏外が表示されている」
「そんなもの、電波の調子が悪いだけだ。問題じゃない」
青田は嘲り笑う。黒木は息を吐いた。
「――それだけじゃないんだ」
「さっき教室で聞きましたよ。ああ、ゾンビでしたっけ。あいつらが、霧の中に居て俺たちを食おうとしていると?」
「そうだ」
「原因は何ですか。地獄の門でも開きましたか?」
「――わからない」
「馬鹿馬鹿しい」
青田は一蹴する。
「付き合っていられない。皆さんもそう思うでしょう? それとも、この人の話を信じようっていうんですか?」
誰も居ない劇場に向かって叫んだように、青田の声は浮いて消えた。誰も反論しない。出来ないのでは無く、それは黒木の主張の肯定を意味するのだ。意図をくみ取ったのか青田は、苦笑いを浮かべる。
「……冗談だろ。俺達は帰らせて貰いますよ」
「好きにすればいい」
低い声が部屋中に響いた。全員がその声の主に振り向いた。犬神は最初安藤かと思ったが違った。金属バッドを持った男子のものだった。彼は注がれる視線の多さに気付いて、慌てたようにおどけた顔をした。
「いや、すみません。つい本音が」
「君は、名前は何て言ったかな」
黒木が質問すると、彼は爽やかな笑顔を見せる。
「あ、いや、はは。草野といいます。よろしく」
「小泉から聞いたよ。襲われていた所を、助けたんだって?」
本人の小泉は俯いている。草野は照れ臭そうに頭を掻いた。
「そうです。佐藤美香さんと言いましたか。彼女、甦っていましたから」
カップルが顔が不審気に見合わせる。バッドは血濡れていた。佐藤の血だろう、と犬神は鳥肌が立った。それは鮮やか過ぎた。しかし、腑に落ちない事を見つけ、口を開く。
「甦った? 佐藤さんは……殺されて死んだ筈じゃ」
「ゾンビに噛まれた者はゾンビになる。これはホラー映画じゃ常識です」
草野はそう言って、安藤を見やる。安藤は、湿布の貼られた左腕をすぐに隠した。
「彼女はゾンビに噛まれて死んだ。だから感染するようにゾンビになってんですよ。いや、それだけじゃない。例え傷は浅くても、一度噛まれたらもう助かる事は無いんです、絶対に。必ずゾンビになって人を襲う。友人でも家族でも、関係無くね。彼らには既に理性だとか知能だとか記憶は一切無いんです」
安藤の喉仏がゆっくりと上下する。
「……映画の見過ぎだぜ」
「そうですね。よく言われます」草野は笑って、青田の方を見た。「信じられないなら、俺が始末した死体を見せてやる。一階の女子トイレに置いてあるからな」
「……いや、遠慮しておく」
蚊の鳴く様な声で、青田は返す。
「あん、何だって?」
「もう沢山だ!」
テーブルが強く叩かれる。青田は席を立った。部屋の中は冷たいのに、彼は汗をかいていた。
「知らない……知ったことじゃ無いよ……。そっちの問題だろ、そっちで解決すればいい。俺には関係ない。俺は、家に帰るんだ……」
その声はうわずっている。今まで生きてきた日常が崩壊していく。それに耐えられず、意地でも信じようとしない。目を向けようとしない。犬神には、その気持ちが少しわかる気がした。
「亜紀、もう出よう。時間の無駄だ」
しかし横井は振り向かない。顔を下に向け、無言を決め込んでいる。
「おい……まさか、お前も」
彼女の肩に手を置く。
「信用しているのか? ただのホラ話だ! こいつら全員グルになっているんだよ。俺達を騙そうとしているんだ。そうに決まっている」
彼女は青田の手を払った。青田は、顔を歪めて震わせていてが、諦観したように呟いた。自棄になっている声色だった。
「そうか、そうだよな。ついさっき縁を切ったばかりだしな。もう関係ないよな」
犬神は、耐えられず口を開いた。
「考え直せよ。いま外に出るなんて、正気の沙汰じゃないぞ」
「よせ、無駄だよ」
隣の黒木が首を振る。
「あいつは考えを改めない」
青田は鞄を掲げて部屋を後にする。犬神はそれでも引き留めようと、席を立つ。だが、驚いた事に立ち上がったのは全員だった。すぐに、彼を止める訳ではないという事に気付いた。皆は見たいのだ。外に出るとどうなるのか。危険とは承知しつつも、まだその実体を上手く把握出来ていない。
青田と一緒に廊下を進み、昇降口に出た。草野が、持っていたバッドを彼に渡した。
「何のつもりだ?」
「餞別だ。くれてやる」
「いるか、そんなもん」
「いいから」草野は苦笑して、それを押し付ける。「持っておけって」
青田はしばらく逡巡する素振りを見せたが、やがて渋々と受け取った。
安藤が率先して鍵を開き、ドアを開けた。冷たい空気が入り込んで来る。青田はそれを感じ取ったのか、一瞬身を竦ませた。が、決心したような顔付きになると、バッドを構えて前に踏み出す。
犬神は茫然とその光景を眺めていた。はっきり見えていた彼の背中は、やがて霞んでいく。まるで映画でも見ている様だ。やがて霧は完全に彼の姿を覆い尽くし、白一色に埋没していった。
しばしの沈黙。
「何も……起こらないな」
安藤が呟いた瞬間だった。
消えていった奥から、張り裂ける様な悲鳴が聞こえた。一同は顔を見合わせる。川本だけが、不愉快そうに宙を睨んでいる。
やがて、渇いた音が響き渡った。何かがこちらに転がって来る――バッドだった。先程とは比べ物にならないほど、べったりと血が付いていた。
騒然とする一同に、草野が語りかける。
「これではっきりと分かったでしょう。……外には出られない」
※
安藤は、外を見詰めていた。霧は晴れる事無く、景色を白く染めている。
――本当だったのか。
安藤は草野に言われた言葉を反芻する。自分は噛まれたに過ぎない。ただのおかしな奴が、喧嘩を売ってきた。そうとしか捉えていなかった。まさか、本当に霧の奥には化け物が潜んでいるとは。
――俺は、死ぬのか。
左腕を見る。ちょっとした傷だ。こんなもので……。これが、己の体を蝕み、あの化け物へと変容していくのだろうか。
「部長」
傍に村田が居た。
「あいつが言った事、本気にしているんですか?」
あいつとは、草野の事だろう。安藤は、答えに窮した。その通りだったからだ。それを察したのか村田は、笑顔を作る。
「気にしない方がいいですよ。そりゃ、たしかにあの化け物はゾンビそっくりです。でもそれは、ホラー映画のクリーチャーとしての側面が、たまたま今の事態に合致しているに過ぎないんです。全てがフィクション通りになるなんて、それこそ荒唐無稽ですから」
「あ、ああ……」
生返事しか出来なかった。分かっている。分かってはいるのだが、不安なのだ。見えない蛇に首を絞められている様な恐怖を感じる。
ふいに、視界に女子が映った。不安を薙ぎ払う様に、安藤は話題を変える事にした。
「そういえば、あいつ誰だっけ」
「まさか、部長と同級生じゃないですか。知らないんですか、川本梓ですよ」
その熱の篭った言い方に、安藤は「へぇ」としか言えなかった。流行りの有名人を説明されるような風情だった。
「結構モテるみたいですよ。ま、見てくれだけは良さそうですからね」
「ほぉ、お前、ああいうのが趣味なのか」
いたずらっぽく返すと、村田は顔を赤らめた。
「いやっ、全然違いますよ! やだなあ、僕は女になんて興味無いですから! いやホントに!」
安藤は笑って頷きながら、村田の肩を叩く。それはありふれた日常の光景だった。そうだ、こうやっていけば不安は取り除かれる。恐怖は遠のいていく。
「ねぇ」
川本が声を上げた。村田はびくっとする。
「バリケードを作った方がいいんじゃない? このドア、そこまで耐久性があるとは思えないし」
会話を聞かれているのかと思ったが、そうでは無かったようだ。
「それはそうだな」近くに居た黒木が賛成した。「ここと職員玄関は補強しておいた方がいいだろう」
「それはいいが、道具はどうするんだ?」
編入生である犬神の質問に、黒木は笑う。
「ここは学校だぜ。机とイスが沢山ある。バリケードには持って来いだ」
川本は頷く。
「じゃぁ、早速取り掛かりましょう。まずは机を運んで」
「あれ、草野くんと横井さんは?」
気弱そうな女子が辺りを見回す。安藤も彼女は知っていた。小泉という女子だ。彼女は地域の未成年者喫煙防止の会に入っている。それを知って、ヘビースモーカーの彼は苦笑を漏らしたものだった。
「さぁな。お楽しみの最中じゃないのか?」
黒木が侮蔑の入った声色で言うと、作業するため適当な教室に向かった。
「何だか、あの草野って二年。妙な雰囲気だったな」
犬神が訝しげに呟く。
「手慣れているというか、熟知しているというか。それに、いくら化け物に変わったとはいえ、あんな容易に……」
それは同意せざるを得ない。彼はどこか、水を得た魚ばりに活き活きとしている。
「気をつけた方がいいわね」
川本が息を吐く。それが彼女なりの冗談かどうなのか、安藤は判断できなかった。
彼は自分の左腕を覗く。
何かが疼く様な気がした。
※
横井は廊下を歩いていると、物音を聞いた。映像研究同好会と書かれた部屋からだった。恐る恐る近づいてドアを開くと、そこには草野が居た。彼は、部屋の中に埋め尽くされた荷物を漁っている。
「ドロボウ」
言って、彼女は小さく笑う。
「何してるの?」
「見ての通りさ。御名答」
草野は言ってから、目線を下に逸らす。
「……それで、落ち着いた? 青田とは付き合っていたんだろ」
「ああ、そのこと」横井は盛大な溜息をついた。
「もういいの。別れたし。今日残っていたのは、その話をしてたから」
なるほど、と彼は頷く。
「だからアイツ、苛々してたんだ」
「ねぇ、本当に何してるの?」
彼が持っているのはビデオカメラだった。他にも機材を揃えている。
「ホラー映画を作るんだ。ゾンビ映画を」
横井は渇いた笑いを漏らした。こんな状況では冗談にならないからだ。
「オタクなんだ」と呆れた声を出す。
「愛好家と言ってほしい。割と健全な趣味なんだぜ?」草野は、カメラ用の三脚を掴む。「これを持ち出したりしたら、同好会の連中は怒るかな」
「死人に口なし」
「それじゃ、いただきだ」
くすりと彼は笑う。
「近頃のゾンビ映画は腑抜け揃いでね。どうも納得行かないんだ。なぜゾンビが走る? 情緒のカケラも無いよ。だから、俺が作り直す。ロメロもフルチも真っ青の大傑作を作るのさ」
ふうん、と横井は頷いただけだった。自分に関係の無い様に感じたのだ。けれど、彼からは妙な意気込みが感じられた。こんな事態だというのに、輝いて見えるからだ。
「君さ、女優をやってみない?」
「――あたしが?」
「そう。ぴったりだと思うんだけどなぁ」
そんなこと、という言葉を彼女は呑み込んだ。悪い気はしない。
校舎は正体不明の霧によって孤立している。それこそ不条理小説の世界に入り込んだようだ。それは退屈を意味している。だけれど、死人の怪物はちょっぴり刺激が強すぎる。
「ええ、いいわ……」
草野はよろしく、と言って手を差し出した。
4
犬神は、額に溜まった汗を拭った。職員玄関を机で埋める作業に没頭していて、気付くと、外はすっかり夜霧が立ち込めている。
「終わりましたか」
振り向くと、村田が皮張りの大きなソファーを押していた。おそらく応接室にあったものだろう。
「それも使うの?」
「あ、いやこれは違います」
村田は照れ臭そうな顔を浮かべる。
「これを寝具にするんですよ」
そうか、と犬神は気付いた。学校から出られない以上、ここに泊まるしかないのだ。
村田からは、僅かに高揚感のようなものを感じた。それこそ合宿や修学旅行を楽しむ様な。わからないでもなかった。
「部長、今は元気そうですけど、万が一って事もありますから。今はきちんと養生して貰わなきゃ」
優しいな、と思わず感嘆を漏らす。
「いえ、部長には世話になってますから」
「そうか……」
犬神は頷く。こちらも一通り終えたので、昇降口の方に向かった。
昇降口のドアは、ロッカーが横倒しになって出口を塞いでいる。その後ろには机や積み上げられており、入る事も出る事も不可能になっていた。黒木は傍にある階段に腰を掛けている。
「あれなら外の様子も見れるし、便利だろう」
黒木は言って、立ち上がる。犬神も現状を報告した。
廊下の向こうから、ビデオカメラを肩に担いだ草野がやってきた。レンズを昇降口や犬神たちに向けている。何のつもりだと黒木が問うと、撮影ですと草野は答えた。
「BWPスタイルって知ってますか。こうやって個人が撮影しているビデオカメラが、実際の映画の視点になるんです。擬似ドキュメンタリーというやつですね。といっても、これはノンフィクションな訳ですが」
「それは何かの記録のつもりか?」
「正確には映画です。俺は監督であり、脚本であり、カメラマンなんです」
草野は微笑を浮かべると、何か喋って貰えますかと言った。黒木は呆れた表情をしてから、カメラを覗き込む。
「俺なんか映すよりも、外に出た方が面白いものが撮れるんじゃないのかい?」
言外に、余所に言ってくれという意図を犬神は掴んだ。知ってか知らずか、草野は笑顔を湛えている。
「いずれは外に出るつもりですよ。ただ、今は登場人物を紹介しなきゃいけないじゃないですか。いわば触りです。日常のシーンをしっかりと描いておくのも、ホラーの定石ですから」
「前から気になっていたんだが」
黒木は苦笑を浮かべる。
「あの手の映画は、最後の方までカメラマンが残るだろう。あれは展開が読めちゃうんじゃないのか?」
「そうしなければ、映画が終わってしまいますからね。視点の終わりとはすなわち、その幕引きを意味します」
「しかし、これはお前の好きなホラー映画じゃない。現実で起きている事だ」
草野は含みのある笑いを浮かべ、去っていった。
「気味の悪い奴だ」と黒木は吐き捨てる。
犬神は喉が渇いていた。傍にある自動販売機に歩み寄り、財布を取り出す。こんな状況になっても、飲み物を買うために小銭を入れているのが滑稽だと思う。黒木の分までジュースを購入し、一本を彼に渡した。
「いいね。自由の味だ」
「自由というよりは、囚われている気がする」
犬神は呻いて、タブを開けた。
――そう、囚われているんだ、僕達は。
全員、二階で眠る事になっている。一階で眠るのは危険だと判断したためだ。男女で二つの教室に分かれる。
村田が運んできたソファ―は二つしかない。年功序列ということで、黒木と安藤が薦められたが、黒木は断った。
「俺は外の見張りをしておきたい。あいつらが中に入って来るかもわからない」
「俺も手伝いますよ」
機材を部屋に運んでいた草野も手を挙げた。「それに」
「安藤先輩がいつ変容するかわかりません。寝首をかかれる可能性はありますから」
「あ、あんた……」
村田が気色ばんだ顔で言いだそうとしたが、安藤が抑えた。
「いいんだ、気にするな。こんな事態なんだ、疑心暗鬼になるのは仕方ないだろ」
「でも――」
「俺はくたばらない。あの化け物にもならない。もしそうなるのがゾンビ映画のセオリーってんなら」そう言って安藤は微笑む。「俺が破ってやるさ」
「そうだ。その意気が大切だ」と黒木。
「痛まないのか?」
「いいや、全然。ピンピンしてる」
安藤は見せびらかす様に、左腕を出す。その瞬間、彼は大きく咳き込んだ。草野はお手上げ、というポーズをとる。
「だ、大丈夫ですか?」
村田が蒼白な顔色で駆け寄る。安藤の目は充血し、涙が溜まっていた。
「いや……平気だ。煙草の吸い過ぎだな、こりゃ」
苦笑を浮かべる彼に、草野以外の全員が安堵のため息を吐く。
「僕も、床で寝る」犬神が口を挟む。「というか、眠れないと思うし」
結局ソファーは安藤と村田が使う事にした。
「悪いけど、もう俺は眠らせて貰うよ」
安藤はそう言って目を瞑る。村田も疲れたのか、ソファーの上で横になる。
「では、俺達は武器調達といきますか」
草野が仰々しく言う。黒木は渋々頷いた。
「そうだな……。出来れば奴らと事を構えるのは避けたいが、用意しておく事に越したことはない」
校内は、まだ通電しているらしい。電気を点けると、洞窟の様に薄暗かった廊下に明かりが灯る。人工的な光は壁を白く濡らした。
「部室棟に寄るだけなら、外に出る事はありません。渡り廊下を使うだけですから」
「よし、まずは部室棟に行こう」
草野に案内されるようにして、三人は部室棟に向かう。その二階。運動部系の部室がずらりと並んでいた。
「武器になりそうなものを探すんだ」
「家庭科室とかにも、良い物は揃ってそうですがね」草野が意見を出す。「特別教棟にありますから。これが終わったら、後で寄ってみますか」
「なるほど、良いかもしれない」
「……包丁みたいな刃物は、まずいんじゃないかな」
やりとりを眺めていた犬神が、口を出す。
「取り扱いが危険だし、怪我をするかもしれない。それに、これが一番重要だと思うんだけど……。いくらゾンビだからといって、人の体に刃物を刺すのは、どうだろうか」
「確かに……躊躇するな」
黒木は呻く。
「ゾンビと戦う事にしろ、撃退が目的であって、殲滅じゃない。それは肝に銘じてほしいんだ」
犬神はそれだけは譲れなかった。嬉々として積極的に彼らを殺す事は、それは正当防衛の名を借りた人殺しだ。彼らは、同じ年代であり、共に学業を共にしてきた筈だ。例え、自分自身が編入してきたばかりだとしても。
「まぁ、確かに刃物は不適当ですかね」
草野は顎に手をやる。
「ゾンビの急所は頭ですからね。刃物で心臓を刺したところで、何にもなりませんし。素人の俺らじゃ、首を切断するのも難しいですしね。潰すだけなら、バッドで事足りる。包丁の場合、刺しても抜けないという可能性もある」
どうやら、違う面で納得してくれた様だ。
「やれやれ」と黒木は苦笑する。
「こりゃ本当に映画みたくなってきたな」
野球部の部室に入る。鍵は既に草野が職員室から入手していた。開けると、埃っぽい臭いが鼻先をかすめる。くしゃみを誘う様な調子だった。
部屋の中は強盗が入ったように散らかっていた。草野が荒らしたせいだろう。犬神はバッドを握った。握ると、少しばかり緊張がほぐれた。安心感が出たのだとわかった。
草野は虫除けスプレーを持っている。何に使うのかと聞くと、彼はライターを取り出した。火を点けるとスプレーのノズルに持っていき、ガスを噴出する。緋色のエネルギーが宙を焼き、犬神の頬を一瞬熱くさせた。
「インスタント火炎放射機です」
今度は黒木が陸上部の方から、砲丸と鉄アレイを持ち出してきた。中身の詰まった段ボールを床に下ろす。
「上々だな」
やがて深夜になった。
隣に眠っている村田を見やる。安らかな寝顔でいびき声まで出している。あれだけの事が起きたというのに、こういう時だけは緊張感がまるで無い様だ。そこが可笑しくもある。安藤は左腕を摩っていたり咳き込んでいたが、今では舟を漕ぎだしている。
「ただいま」
ドアが開き、バッドを握った黒木が顔を出す。廊下の光が漏れ出して、犬神は目を細める。携帯電話で時間を確認すると二時を過ぎている。見張り交代の時間だ。
「なんだお前、寝てなかったのかよ。起こしてやったのに」
「眠れないよ、普通は」
「まぁ、そうかもな」
黒木は息を吐く。
「一緒に居た草野はどうしたの?」
「さぁな。撮影とやらじゃないのか。戻る頃には消えてた。別に、一人にしてもあいつなら平気だろう」
犬神はバッドを受け取り、黒木と入れ替わるようにして廊下に出る。蛍光灯の光が眩しかった。
「じゃぁ三十分後に」
「ああ、気をつけろよ」
別れて、犬神は一階に下りる。当たり前だが、学校は静まり返っていた。此処に居るのは、死者ばかりなのだ。
今頃家族はどうしているのだろう。暢気な両親も心配しているに違いない。自分より出来の良い妹はどうだろうか。こんな時間まで家に帰って来なかった事は無いし、無断外泊だって経験が無かった。警察に連絡しているだろうか。学校は霧によって孤立している。出る事は出来ない。とてもじゃないが、警察や何やらがこの場所まで来てくれるとは思えなかった。来れるとすれば、とっくに来ている筈だからだ。何かの大いなる力が働いているのかもしれない。
窓の施錠を確認し、昇降口に向かう。どこも異常は無い。霧は闇を吸って暗色に変わっていた。死者の姿は見えない。
――あいつらも寝るのかな。
そんな言葉が脳裏をよぎった。今度は職員玄関に足を運ぶ。ガラスケースの奥に、トロフィーが幾つも仕舞われていた。前の学校では、バドミントン部の表彰盾が幾つも飾られていた。ここには一つも見当たらない。
犬神はふと思い立ち、部室棟に向かった。場所はもう覚えている。バドミントン部の部室を開けて、ラケットを取り出した。備品であるため、ラケット自体は安物で性能も低い。だが、今は何でもよかった。廊下に出て適当なスペースを確保すると、素振りを始める。眠れなかったりすると、犬神はすぐに練習を始める癖があった。もう辞めたにせよ、手放す事の出来ない習慣なのだ。
誰かの視線を感じて、動きを止める。見ると、幽霊の様に川本が立っていた。黒く澄んだ髪が揺れている。弓道部の部室から出てきたようだ。左手で弓を持っているのだが、右手は手袋のようなものが填められている。弓を引く時に必要なものかも知れない。
「何で止めるの?」
彼女の口から予想だしもしない事を言われて、戸惑った。
「いや……もう辞めたんだ、これは」
言って、ラケットを立てかける。イタズラが見つかった子供のような気分だ。何故か恥ずかしくなってしまう。
「ここに編入してからはもうやらないつもりだったんだ。別に、未練が残っている訳じゃなかったのに」
川本は目をしばたたかせる。長い睫毛がゆっくりと上下した。
「どうして転校してきたの?」
「え?」
「転校の理由」
「父親の……仕事の都合で」
「月並み」
犬神は苦笑いを浮かべた。
「ああ……でも、本当の事なんだよ」
「ホントは、嫌になって逃げ出してきちゃったりして」
川本はそう言って、微笑む。彼女の笑顔を、初めてみた気がした。
「いや、ベタ過ぎかな」
そして踵を返し、階段を下りていく。。辻斬りにあった気分だった。
不意に、あの時の光景が脳裏に広がった。遅れるな、落ちこぼれるな、とまるで洗脳のようにラケットを振っていた日々。コートに入る度に震える手足。そして、自分を嘲笑うかのように射る冷たい視線。
「そうだね…………さすがにそれは、有り触れている」
――でも、本当の事なんだよ。
5
「おい、いい加減起きろ」
頬を叩かれている。
村田は、糊でくっつけたみたいな瞼を無理矢理こじ上げた。暗闇の中に、黒木と犬神と顔が浮かんでいる。
「三時だ。交代の時間だ」
村田は呻いた。まったく寝足り無かった。というか眠ったという自覚が無い。自分としては、ちょっとだけ目を瞑っていたつもりだったのに。いつの間にか熟睡していたらしい。
「……パスって無しですか」
「御冗談」
黒木に無理矢理立たされる。重い体が悲鳴を上げた。幼稚園児の着替えでもさせるように、力の入らない手のひらにバッドを握らされる。
「三時半までな。途中で寝るなよ」
「あんまり無理しない方が」
見かねたのか犬神が口を開いた。この人は優しい。村田はその言葉に甘えようとしたが、黒木に睨まれて廊下に出た。
「まったく、人使いが荒いよよな」
愚痴をこぼしながら、階段を下りていく。こんな所を一人で歩くなんて、どうかしている。夜の校舎はただでさえ不気味なのだ。外に化け物が居るなら尚更では無いか。
村田は思い出す。外に出て、初めて彼等を見つけた瞬間を。霧の中に包まれたかつての仲間達。
――いや。
村田は仲間や友達と呼べるような存在は無かった。学校に行くのを苦痛に感じていた。クラスメイトと話したりはするが、それは友達と言えるほどの仲ではない。新聞部に入って、初めて自分は居場所を作れた気がした。安藤の人脈から各部活の先輩とも交流する事が出来たのだ。
冷気が頬に当たった。窓が割れているのを見つけた。そこから空気が入り込んできているらしい。
――なぜ。
不審に思い、近づく。
ずるり、と何かを引き摺るような音がした。それは割れた窓の外から聞こえてくる。村田はその場に凍りついた。――何かが這う様にして進んで来る、ここに入って来る。
最初に見えたのは、赤い手だった。
血の染まった芋虫の様な指が、窓の桟を掴んだ。這いあがってきたのだ、奴らの一人が。それは直感でわかる。全貌はわからないが、窓の向こうに居る「それ」が、いま中に入ろうとしている。
「だ、誰か……」
上手く声が出なかった。叫ぼうとしても、声帯が凍りついてしまったかのように役に立たない。情けない自分に苛立ちながら、入ってきた死者を見ていることしか出来なかった。
――や、やらなきゃ僕が殺されるんだ!
覚悟を決めてバッドを握る。
足を掴まれていた事に気付かなかった。その時には、床に倒されていた。
バッドが転がる。
もう一人の死者が足首を握っていた。村田は悲鳴を上げた。
「うああっ! 安藤さん助けて!」
なんとか振りほどき、声を出せる事に気付いた。這いつくばりながら、村田は叫ぶ。
「誰か! 誰か!」
すると、廊下に並ぶ幾つかの窓が割れ始めた。外から入ろうとしているのだ。
――あいつら、どうやって?
村田は目を丸くする。死者は、石を握って窓を叩いていた。蜘蛛の巣のように亀裂が入ったと思うと、すぐに打ち破られ、また一人と入って来る。村田には、それは地獄絵図に思えた。
――死にたくない。
気が付くと、何人もの死者に村田は囲まれていた。彼らは全員、青白い顔でこちらに視線を送っている。
「お、お前らみたいなんかに、なってたまるか!」
落ちていた窓の破片を握る。その手で、目の前の敵に一閃する。
しかし死者は顔色一つ変えず、肩を掴んで噛みついてきた。咄嗟に放すと、シャツの繊維が引きちぎられた。あと少しでも反応が遅かったら、確実に肉ごともっていかれただろう。
――駄目だ、死ぬんだ、僕は。
黒い何かが通り過ぎたかと思うと、目の前の相手は押されたように床に倒れた。その後を追う様に、二人目、三人目と倒れていく。何かの手品を見ているかのようだった。村田を囲っていた敵は無くなった。
――どういう……。
彼らには細長い棒のような物が突き刺さっている。ジュラルミンかカーボンを思わせるその材質は、弓道で使う矢だと、新聞部だった村田は理解した。
――川本梓。
その本人が、遠くで弓を構えていた。右手に手袋のようなものをつけて、矢がつがえている。彼女は鉄串の様に真っ直ぐな視線をこちらに向けている。その姿は獲物を射る狩人を思わせた。
「もう大丈夫だ」
武器を持った黒木が傍に来ていた。
「済まなかったな、村田」
「あ、あの……」
目頭が熱くなり、涙が出そうだった。構わず、黒木は続ける。
「あいつら、窓を破ってきやがった。このままだと、バリケードも突破される」
川本がこちらにやって来て、自分の「的」を見下ろす。
「……駄目。もうこの矢は使えない」
「あと何本あるんだ?」
聞きながら、黒木は近寄ってきた死者を叩き返していく。彼らは次々と侵入し、廊下に溢れようとしていた。
「私の矢はあと三本しか無い。けど、部室で調達すればまだある」
「そうか。……こいつらどんどん入って来るぞ」
「黒木!」
犬神が走ってきた。
「昇降口の方が破られた! あいつら、道具を使っている。どういう事だ?」
「奴らに知能は無い筈だ」
「草野の話は信用できない。違ったんだ。あいつら、きっと学習するのかもしれない」
「どちらにしろ、二階に上がらせる訳には行かない。犬神と川本は、ここを頼む」
「あの、僕はどうすれば」
恐る恐る口を開くと、黒木はこちらに振り向く。
「俺と来い。昇降口に行く」
黒木は、下唇を噛んだ。
村田は彼の後を追って昇降口に向かう。バリケードとして積み上げていた机や椅子が吐き出され、扉は無惨に蹂躙されていた。吹き飛んだ破片が床に散らばっている。置いたロッカーもどかされていた。
酷い有様だ、と村田は思った。まるで小さな竜巻が通り過ぎたかのようだ。
「職員玄関の方は無事です。なんとか片づけました」
すると、草野がスプレー缶を持って歩いてきた。暢気な顔をしているのが不思議でもなり、腹立たしくもある。
「草野さん、あんた、今までどこに」
「撮影だよ。――っと、後ろです」
村田は振り向くと、女子生徒が掴みかかって来る所だった。
――噛まれては駄目だ!
それは本能に近かった。咄嗟に腕を引っ込め、バッドを上段に構える。叩き込む。鈍い音を立てて、彼女は倒れ込んだ。
「危なかった……」
「人間じゃない。もう、人間じゃない……悪く思わないでくれ」
黒木だった。自分に言い聞かせるように、呟いている。
「黒木さん……」
村田の声はほとんど届いていなかった。黒木が倒れている女子に凶器を振り上げ、頭を狙って振り下ろす。とどめを刺した。真っ赤に染まった彼女の顔は陥没し、髪の毛がへばりついているせいで、誰かも確認できない。
黒木は肩で息をしながら、草野に顔を向けた。村田は吐きそうだった。両手で口を抑える。
「聞いておきたい事があった。こいつらに知性はあるのか」
「いえ、ありません」
「だけど、現にあいつらは!」
耐えられなくなり、村田は口を挟む。
「それはそうだな」
草野はあっさり肯定する。
「だが、それはゾンビ達に知能がある訳じゃない。人間だった頃の習慣――、生きていた頃の名残りなんだ」
「記憶がある、という訳じゃないのか」
黒木の質問に、草野は神妙に頷く。
「ええ、違いますね。癖みたいなものですよ。死んでもなお、その残滓を彼らは繰り返している」
習慣。村田は汗を拭う。そんな物が、彼らを突き動かしているのか。
「ここは学校です。それでもって、俺達はここの生徒です。勉強が嫌だの、あの先生がウザいだの、あれこれ文句をつけつつも、俺達にとってここが生活の中心だった」
噂をすれば、と草野は微笑む。かつては新陽の生徒であった死者の群れが、こちらに歩きだしていた。死んでもなお、生きていた頃の習慣に囚われる彼らは滑稽に思えた。
※
横井は、一階の騒ぎを嗅ぎつけた。あの化け物達が襲ってきたのだと直感でわかった。
――嫌だ。
まだ死にたくない。それも、こんな味気ない学校でなんて真っ平だった。やりたいことがまだまだ沢山あるというのに。自分の描く華やかな未来。それをあんな醜い怪物に邪魔されるなんて冗談じゃない。
――死んでたまるか。
「横井さん、どうしたの?」
小泉も異変に気づいたようだ。横井の見立てでは、今ごろ男子達が食い止めている筈だ。そのまま働いて欲しい所だ。草野が言うには、ゾンビに噛まれるとゾンビになってしまうらしい。自分にそんなリスクは背負えない。それは男子たちの仕事なのだ。自分がするべき仕事といえば、しおらしく悲鳴を上げて助けを求めるだけ。やがて自分は助かる。そう役割が割り振られているのだ。
「あいつらが入ってきたんだ……」
小泉が呻く。
「ねぇ横井さん。私たちも行った方が……」
「馬鹿じゃないの? さっきまで泣きべそかいて、まるで役立たずだったあんたが? 足手まといになるだけでしょ」
横井は笑う。こういう無駄に正義感があってとろい奴が、真っ先に死ぬタイプだ。
「でも、川本さんだって……」
足音が聞えたかと思うとドアが開き、数人の生徒が入ってきた。驚くほど青白い肌、光を失った瞳。マネキンを思わせるぎこちない動き。――死者だ。二階にやってきたのだ。
小泉は悲鳴を上げて尻餅をつく。しめた。こいつを囮にできる。
「助けて! 動けないの!」
そう言われて足を掴まれる。横井は、躊躇い無く振り払った。
「そんな……」
何とでも言え、は思う。安全な反対側のドアを開き、廊下に出る。
――まず上の階に行けば時間が稼げるはず。
「あたしは生き残るの。こんな所で死んでたまるもんか」
嬉々として廊下を走る途中で、一人の死者が場を塞いだ。それを見て、横井は驚愕した。――青田だった。
「あんた……生き返ったの?」
生きていた頃の面影は既に無かった。首の動脈が食いちぎられていて、そこだけが赤く染まっている。しかし、彼は動いているのだ。
――生きる屍。
気付くと、両肩を掴まれていた。凄い力だ。青田の五指が、万力のように押し込まれる。
まるで抵抗できない。
「や、やめ――」
強靭な顎が彼女の首に喰らい付く。
意識が爆発した。鮮血がほとばしり、気が狂いそうなほどの激痛が全身を襲う。叫び声を上げようとしたが、泡の混じった血が吐き出されるだけだった。ただひたすら、噛まれ、啜られる感触だけが知覚されていく。
――嫌だ、こんな所で、嫌だ……死にたくない。みっともない、このあたしが……こんな屈辱を……。
自分は生き残る、その器だ。草野も言ってくれたでは無いか。
――そうだ、これは夢だ。悪い夢に違いない。目が覚めればきっと……。
彼女は笑顔を作ろうとした。だが出来なかった。青田によって頬の筋肉が食べられていたからだ。
夜が更けていった。
※
村田は、階段を駆け上がった。死者たちは、それを追う様に上がって来る。彼はそれを敢えて狙っていた。
――こいつらは、足が遅い。
それは経験から獲た教訓だった。バッドを握り締める。手のひらはじっと汗がかいていた。
一人、一人上がってきた死者を順番に薙ぎ払う。思った通り、簡単にいなす事が出来た。登ってくる彼らは隙だらけだった。後はタイミングを掴んで、バッドで応酬してやればいい。
村田は黒木と別れ、一人で行動していた。死者たちは二階に上がってしまい、黒木はそっちの処理に向かったのだ。
ふいに、後ろから声が掛けられた。
「手伝ってやるよ」
驚く事に、背後に安藤が控えていた。教室で休んでいた筈だ。顔色が悪くなっていて、村田は不安を覚えた。
「だ、大丈夫なんですか?」
彼は質問には答えない。陸上部で使う砲丸を抱えている。その一つを掴み、階段下の生徒達に投げつけた。効果は抜群のようで、鈍い音を立てて次々と倒していく。村田はその光景に圧倒された。
「凄い、やりましたね!」
振り返ると、安藤は腹を抱えて咳き込んでいた。落ちた砲丸が階段を転げ落ちる。
「まさか――」
彼に駆け寄る。噛まれた左腕は赤く爛れていた。恐る恐る湿布を外すと、黒紫の腫瘍が出来ていた。まるでそれは、呪われた体として烙印を押されたかのようだった。村田は固唾を飲む。
「部長……」
危惧していた事が起こってしまった。今になって、その症状が彼の体を蝕み始めたのだ。
安藤は血の混じった痰を吐く。苺ジャムみたいだと、村田は意識の隅で思った。
「…………村田、バッドを貸せ」
安藤は口元の汚れを拭い、村田を睨む。一瞬、あの化け物になってしまったのかと錯覚したが、違った。彼はまだ人間だ。だが――。
「でも、部長」
「あの死に損ない共を、全員墓に叩き返してやる」
安藤の瞳は狂気が宿っていた。手負いの獣を思わせる病んだ目付き。村田から無理矢理バッドを奪い取ると、階段を飛び降りて踊り場に着地する。その姿は鬼の様だった。死の恐怖に怯え、彼は暴徒と化しているのだ。
――なぜ今になって。
考えを巡らせていた村田は気付き、はっとする。噛まれた部位、その大きさ。佐藤というあの女子は、首をいきなり噛みつかれて即死した。だからすぐに死者の仲間入りを果たした。ところが、安藤は腕を少し噛まれただけだった。変容するのに、時間のズレがあっても不思議ではない。
――部長が、ゾンビになる。
それは限りなく近いうちに起きる。
「かかってこい化け物どもが!」
とり憑かれたようにバッドを振り回す。踊り場は死者の亡骸で、血の海が出来ていた。その光景に、村田はたまらず嘔吐する。昼に食べたサンドイッチの残骸が吐き出された。
※
黒木は二階に階段に足をかける。右手にはしっかりと身を守る凶器が握られていた。その金属バッドからは、血と、饐えた臭いが絶えず鼻腔の辺りをちらつく。まるで、獲物を探して練り歩く殺人鬼の様では無いか。そう思うと、自分のしている事がぞっと背筋を凍らせるようでもあり、不格好な自身が滑稽のようにも映る。
二階に来た目的は、教室に居る筈の女子達だった。川本の話では、教室に置いてきたままだという。最悪、事態に気付かないまま襲撃を受けているケースもあるのだ。
―――おや?
廊下には誰も居ない。
一組の男女を除いて。
「あ、青田……?」
そこには青田と亜紀が並んで立っていた。手を繋いでいる。一見すれば、普通のカップルにしか見えない。だが、彼らの肌は青白く、剥き出た赤黒い腐肉が、酸っぱい腐乱臭を放っている。
「横井……」
彼女の瞳にも、光は無い。顔半分が白骨化していた。口から頭頂部までの肉がむしり取られている。
「おまえら……」
生きる屍だ。彼らの双眸が、黒木を捉えた。すかさず、彼は身構える。
「…………え?」
驚いた事に、二人は踵を返す。黒木の姿ははっきり認識している筈なのに、まるで興味が無い様だ。血濡れた彼らの背中を見送りながら、黒木は窓の外が白み始めているのがわかった。
――夜明け?
携帯電話を開くと、もう四時半を回っている。この季節、太陽は早く昇って来る。気にはなっていた。なぜ死者たちは夜に襲ってきたのか。
天井の蛍光灯が目に入る。壁のスイッチはオンになったままだ。
――まさか、光に集まってきたのか?
深夜の害虫じゃあるいまいし……と黒木は途方に暮れる。だが、習慣に操作されている話とも妙な繋がりを感じた。
カップルは反対側の階段から下りていき、やがて見えなくなった。つまり、他のゾンビ達も撤退していったという事だろうか。
途端に、腰の力が抜けて、黒木は尻餅をついた。
――終わった、のか?
だが、やっと一日を凌いだに過ぎない。黒木にはこの一日がとても長く感じられた。同時に、うっすらと感動を覚えている事に気付く。朝がやってきたという当たり前の出来ごとにさえ、妙な感慨を持ってしまうのだ。
だが、横井は死んでしまった。彼女は死人となって朝を迎えた。青田も死んでいた事が確認出来た。こうして一人、一人死んでいく。そして奴らの一員となっていく。霧の中に引き摺りこまれるようにして。いったい、あの奥には何があるのだろう。黒木には、それが気になって仕方が無い。
――小泉。
彼女の姿が思い浮かんだ。彼女の事をすっかり忘れていた。
「小泉!」
もし彼女も同じような姿になっていたら……。黒木は固唾を呑み込み、ドアを開けた。
「……居ない?」
左右に目を走らせる。机がいくつか錯乱している。抵抗の跡だ。彼女の姿は無かった。その代わりに、黒木は窓が一つ開いているのを見つけた。外に出たのだろうか。追いつめられたのなら、それは考えられる。この棟にはベランダがあって、隣の教室と行き来できる様になっている。それが出来るのは緊急避難時だけで、普段は通る事が許されてはいない。
陽菜もここを通ったに違いない。黒木は外に出た。
霧雨がミストシャワーの様に体を包み込む。夏服がびっしょりと濡れた。やはり、外は白色一色に広がっていた。かつて学校の窓から臨む景色は、悪魔の様な霧だけが立ち込めている。うっすらと、下校していく死霊たちの影が見えた。
予想した通り、隣の教室の窓が一つだけ開いていた。同じように、そこから入り込む。驚いた事に、教室のドアは二つとも机で塞がっていた。小泉の仕業だろうか。だが、本人の姿は見当たらない。
――どこだ?
密室トリックのミステリーでも解いているみたいだ。だが黒木はすぐに正解がわかった。掃除ロッカーから人の気配がするのだ。
「そこに居るのか?」
返事が無い。
「おい、小泉だろう?」
返事が無い。
仕方なくロッカーを開ける。どさり、と洗濯物が倒れる様にして、小泉が床に手をついた。乱れた髪が蒸れていて、こちらまで熱気が伝わって来る。
「大丈夫か?」
彼女は震えていた。
「……いで」
「なに?」
「……殺さないで。わ、私は噛まれてない。ゾンビじゃない」
恐怖の虜になりパニックを起こしている。
「お、落ち着け。平気なんだな?」
「川本さんは?」
「大丈夫、川本も無事だ」
確信がある訳では無かったが、黒木は頷く。良かった、と彼女は呟いた。どうやら落ち着いたらしい。
「じゃぁ横井さんは?」
黒木は一瞬押し黙る。
「……あいつは駄目だった」
「…………これからどうするの?」
その質問には答えられなかった。外は霧に囲まれ、生き残った生徒たちも次々と命を落していく。脱出の糸口さえ見つけられない。知ることが出来たのは唯一つ、彼ら死者の事だけ……。
「それはこれから考えるしかない」
黒木は息を吐く。
「とりあえず、バリケードの修復だな」
太陽の光が霧を貫通し、窓の形に切り取られて浮き上がる。
確かに考えるべき問題は山ほどある。だが今くらいは、生き延びた事を喜ぼう。黒木はそう思った。
6
窓の外が明るくなっている。
村田は、やっと一日が明けたという事を理解した。死者達はまるで寝床に戻る様に、霧の中へと帰っていく。
「見てください! 部長、あいつらが引き返していきます。僕達が勝ったんです、追い払ったんです」
「村田……おれ……」
安藤は壁に寄り掛かっていた。声は生気を失い、身体は人形の様にぴくりとも動かない。
「目が……目が見えないんだ……何も見えやしない。そこに、居るのか?」
「居ます、ここに居ます……!」
手を握ったが、驚くほど冷たかった。皮膚は既に白色を帯び、両眼もガラス玉のように虚ろになり始めている。
「畜生……こんな所で死ぬのはやだけど、もっと嫌なのは……あいつらの仲間になる事だ。俺は嫌だ。生き返りたくない。ゾンビになりたくない」
安藤の白濁した瞳は、何も無い宙に視線を送っている。それが痛々しかった。
「部長――」
「俺が、もしあの化け物になったら、その時は殺してくれ」
「大丈夫です、部長は死にません」
「いや……俺にはわかる、自分が死ぬんだってことが。結局、草野の言うとおりになった訳か。あいつの宣言通りにくたばるのは癪だけど、もう駄目みたいだ」
ゆっくりと瞼が瞳を覆った。握った手からは、何の反応も無かった。
「そんな……こんな筈じゃない……」
彼が死ぬ訳が無い。否、死んではいけないのだ。喉の奥から熱い物が込み上げてきた。
――そうだ、無かった事にするんだ。
部長は死んで何かいない。村田はそう呟き、横たわる安藤を見据える。
しばらくすると、彼の瞼は再び開いた。
「…………おかえなえりなさい、部長」
※
朝の七時、犬神は会議室に向かった。面子は既に揃っている。ただ、自分を含めても六人しか居ない。前回より三人も減っていた。それは、彼らが脱落した事を意味している。
おはようございます、と横から声が掛った。草野だった。例のごとく、カメラを回している。神経を疑いたい。
「今朝は眠れましたか?」
「ひょっとして、そんな質問を全員にしてるのか?」
「出来ればそうしたいんですがねぇ」
草野は言って、対岸に座る村田に目をやる。彼の顔は俯いていた。
――安藤が消えた。
その知らせを聞いた時、心の中で「やはりか」と思う自分が居た。村田は、それがよほど堪えているらしい。彼に掛けてやる言葉が見つからなかった。
「妙なんですよね」
「死体がどこにも無いんですよ。やっぱり、ゾンビになって、霧の中に戻っていたんですかねぇ」
黒木が大きく咳払いし、話を遮る。
「ちょっといいか。皆に話したい事があるんだが……俺は、外に出てみようかと思う」
その言葉に、一同の顔は彼に向かった。
「どういう意味だよ?」
すかさず、犬神は口を開いた。
「いや、そのまま」黒木は鷹揚としている。「一日経ってみたが、霧が晴れる様子も無い。腐れゾンビが共食いを始める訳でもない。助けだって来やしない」
「だからって、殺されに行く様な真似、することないだろ。それに、助けの望みが無い訳じゃ」
喋りながら、自分の言ったことに説得力が無いと感じていた。救助なんてやって来ない。昨日の夜、犬神は既に確信していた。
「でも、このまま手をこまねいている訳にはいかない。だいたい、食い物だってないんだ。皮肉な話だけど、俺はもう腹が減ってる。お前は、どうだ?」
昨日の昼から、食べ物らしいものを口にしていないのは事実だった。騒ぎで気付かなかったが、身体は空腹を訴えていたのだ。
「もちろん自殺行為だってのは分かってるんだ。でも、このままじゃジリ貧だ。横井は死んだし、安藤も姿をくらました。どんどん人が消えていく。俺はこれ以上耐えられない」
黒木の気持ちは分かる。何かをしなければ不安でどうしようもないのだ。なぜ霧がやってきたのか、生徒達が生きる屍となって襲ってくるのか、それは解決できない理不尽な問題の様に思える。だが、彼らから身を守るためにバリケードを築いたり、食糧の問題について考えるのは単純明快。現実的に対処できる事である。少なくともその対処に向かっていれば、根源的な恐怖からは一時的ではあるが解放される。
「メンバーを選んで、一度外に出てみたい。だから手伝ってほしい」
「そのまま学校を出るつもりなの?」
川本が口を挟んだ。
「出来ればそうしたい所だ。もしかしたら、助けを呼べるかもしれない。俺は今朝、屋上に行ってみたが、霧で何も見えやしなかった。一体外の様子がどうなっているのか、まるでわからないんだ」
「……そういえば」
小泉だった。目の下には隈が出来ていた。死んだ横井とは一緒に居たらしい。やはりショックだったのだろう。
「食べ物ならあると思います。ほら、うちの食堂って、パンも置いているじゃないですか。業者がきて惣菜パンを売ってくれるおばさん達が」
「食堂は昨日探したじゃないですか。何も食材は残って無い」
村田が言ったが、小泉は首を振る。
「あの、そうじゃありません。その業者のトラックが、確か外に置いてあったままだったんです。一度外に出た時、確認しました」
隣の教室に逃げ込んだ時だろう。黒木から事情を聞いていた犬神は、そう思った。
「昨日の夜みたいな事が続くかもしれない」川本は、鷹のような目で部屋を見渡す。「バリケードはあんなに丈夫だったのに」
川本はそこで言葉を区切り、犬神を見る。
「犬神君はどう思うの?」
彼女のキラーパスに、犬神は息をのむ。
「僕は……」
前に読んだキングの作品を思い返す。霧によって閉じ込められた人々。彼らはどうしただろう。彼らはただマーケットに閉じこもっていた訳では無かった。勇敢に、外に出ていったはずだ。
「わかった。僕も手伝うよ」
「ちょっと待ってください」
草野だった。口元をつりあげながら、嘲笑に近い笑顔を作る。
「本気ですか。外にはゾンビがうようよ居るんですよ?」
「ああ、その通りだ」
黒木が、慇懃に頷く。草野が信じられない、と呟く。
「つまり、黒木さんのやりたい事は……。すぐ傍で待ち構えているゾンビを何とかして、外に出る。その後、ほとんど視界の確保できない霧の中を進みながら、碌な装備も持たずに、居るかどうかもわからない生存者を捜す。彼らに少しでも噛みつかれたらゲームオーバーで、リセットは無しと、こういうことですか」
「その通りだ」
草野の大笑いが部屋に響いた。彼は目尻に溜まった涙を拭く。「はは……なるほどね」
「乗りますよ」
朝の八時に、行動を起こした。
「外に居るゾンビをひきつけて、どうにか別の場所から出発したい」
言って、黒木は川本を放送室に向かわせた。その他全員は、昇降口に集まっている。昇降口はこの前以上に、頑丈に封鎖していた。ロッカーを積み重ね、完全に出口を塞いでいる。少し外の霧が覗ける程度だった。
「これが効くかどうか、賭けだな」
黒木は天井を睨む。これ、とはどういう事だろう。そう思った時、学校のチャイムが廊下に響いた。聞き慣れたその音色は、まるでいつも通り授業の開始を知らせてくれるかのようだった。端で見ていた草野が、にやりと口元を歪めた。
「なるほど、陽動作戦ですか」
「習慣によって動いている、と教えてくれたのはお前だ、草野。……さぁ、授業が始まるぞ。サボってないで、戻ってこい……」
その光景に、犬神は悲鳴を上げそうになった。ウェンストミンスターの鐘の音は、効果覿面だった。生徒達が、霧の中から一人、また一人とやってくる。彼らは一つの塊となり、昇降口に押し寄せてきた。死者達の再登校だ。
「草野。すぐに職員玄関に回ってくれ、意味はわかるだろう」
彼は頷き、廊下を走っていった。
「俺と犬神と草野の三人は、その職員玄関から外に出る。昇降口は囮だ。ここにゾンビ達を集中させる」
白く膨れた指が、窓の外で蠢いている。外皮が垂れさがり、赤黒い腐肉を剥き出しにしている。生者の血肉を渇望する、飢えた亡者たち――。
「さぁ、入れるもんなら入ってみろ!」
黒木が叫んで挑発する。犬神もそれに合わせて大声を出した。続いて、見守っていた村田も叫び始めた。小泉だけが後ろで、異様なものを見る目で居た。だが、決心がついたのか彼女も叫び始めた。
やがて草野が戻ってくる。彼は微笑んで報告する。
「ばっちりです。向こうにはほとんど居ませんでした」
「よし。じゃぁ村田、ここを頼むぞ」
「ええ、任せてください」
黒木に応えた村田の目は、少しおかしかった。それに少し違和感を持ったが、二人に急かされて犬神は職員玄関に回った。
職員玄関に溜まった椅子や机を下ろしていく。言うとおり、ゾンビの姿は皆無だ。昇降口に完全に流されたのだろう。三人はバッドを握った。
「準備はいいな」
以前出ていったのは青田だった。彼は、同じように武器を持っていたにもかかわらず帰って来なかったのである。不意に、犬神は怖くなった。凶兆の鳥がねぐらに戻る様に、心の内に恐怖が蘇る。
――もし、帰って来れなかったら。
帰って来れたとしても、奴らと同じ存在になっていたら。
黒木がドアを開け、先頭として出ていく。次は草野が霧の中に埋もれていく。慌てて、自分も外に踏み出した。しっかりとバッドを握り締め、草野の背中についていく。そうでないと、見失ってしまいそうだった。振り返ると、職員玄関が霞んで見えなくなっていた。目を凝らすと、やっと川本が出口を塞ぎ直している姿をなんとか確認できた。
陽動作戦は徹底したらしい。ここにもゾンビの姿は見えなかった。三人は、身を低くして、慎重に進んでいく。――ひょっとしたら、このまま学校の外に出られるのでは無いだろか?
草野が止まった。何事かと追い付いてみると、黒木もその場に立っている。目の前にトラックが止められていた。会社ネームの入った塗装が施されている。三人は頷き合う。犬神は忍び足で運転席に向かった。もぬけの殻だ。
草野と黒木が荷台のドアを開いた。プラスチック製の箱がいくつも積まれていた。中身を覗くと、ビニールで包まれた惣菜パンが沢山入っている。草野は、その一つを無造作に掴むと、包みを破いて食べ始めた。犬神は咎めようとしたが、黒木も同じようにパンを一つとった。
「……食べないのか?」
犬神は唾を飲み込む。本当は腹が空いていたが、学校の中に居る皆に罪悪感が少しあった。
「……さっさと運び出さないと。中に持って行ってやろう」
「いや、その前に体育館の方も調べておきたい。バドミントン部の仲間が居るかどうか調べたいんだ」
黒木はパンを飲み干すと、賞味期限を見た。
「うん、昨日までだが、大した事はない」
ほれ、とハムカツパンを渡された。犬神は首を横に振り、それを返した。
「なんだ、いらないのか?」
「いや、そうじゃなくて。……菜食主義者なんだ、僕は」
「ベジタリアン、ですか」
草野が苦笑を浮かべ、卵サンドを渡してくれる。
「うん。もともと、肉はあんまり好きじゃない」
感触も嫌だったが、噛んだときに出る肉汁が気持ち悪くて嫌だった。
「それでよくスポーツなんか出来たな」
黒木が感心するような、貶すような口調で言う。
「お前なら、ゾンビになっても人を襲わないかもしれん」
「やめてくれよ、そんな縁起でもない事は……」
その時だった。何かを引き摺って歩いてくる音が聞えた。一つや二つでは無い。その音は次第に近づいてい来る。
「……あいつらか」
「陽動が足りていなかったみたいですね」
外を覗く。白い靄の中に、黒い影が幾つか踊っていた。このままではすぐに囲まれて奴らの餌食になってしまう。三人はすぐさま荷台の中から飛び出した。黒木はケースを二つ積み重ねて取り出すと、犬神に渡した。
「このまま体育館まで走る。ゾンビは俺に任せろ」
「駄目だ、学校に戻ろう」
黒木は頷かない。彼の目は真剣そのものだった。自分の意志を貫き通す覚悟が宿っていた。首を縦には振らない。
「嫌だ、俺は何としてでも行く」
「無茶言うな」
「仲間が居るかもしれないんだよ。助けられるかもしれない。……お前達が嫌なら、俺一人でも行く。おまえにとっては何てことも無いかもしれない。だけど、俺はずっとここに居たんだ」
それは、犬神の胸に小さな痛みを与えた。部外者だという宣告。自分が余所者だと言う事実を再確認させられた。
「おい、待て――」
黒木じゃ体育館の方へ走り去っていく。霧が彼の姿をすぐに覆い隠した。すぐさま追いかけようとすると、草野に肩を掴まれた。予想以上に強い力で、一瞬怯んだ。
「は、放してくれ」
草野は仏頂面で無理です、と言った。
「青田の事を思い出してください。好きにさせるのがいいんです」
納得がいかなかった。なにより、あの時だって青田を止められた方法は充分あった。あの時の自分も半信半疑だった。だが、今ならわかる。間違いだとわかる。自分にはやるべきことはあった筈だったのだ。それを今、清算しなければならない。
「お前は、何とも思わないのか?」
「むしろ好都合です。食糧は限られている。分配する数が少なくなれば、それだけ多くせしめられる」
「お前は……」
草野の顔は冷淡だった。酷薄な瞳が、犬神を見下ろしている。
「さぁ、奴らが来ますよ。犬神さん、あなたは荷物係りです。俺は化け物を担当するから、学校まで送り届けましょう」
それが俺達の仕事なんです、と草野は言う。犬神は、身を震わせて彼をねめつけた。
「化け物は…………本物の化け物はお前だ、草野」
彼は息を吐いた。
「こんな時に格好つけないでくださいよ。殺されるか、殺すか。二者一択なんです」
「僕は……僕はそんなのは嫌だ。こんな事をするために、ここに越してきたんじゃない!」
青白い皮膚を覗かせる死者達が、すぐそこまで来ていた。彼らはまるで、目隠し鬼の鬼役のように、両腕をこちらに突き出してきた。
「結局、ごたくを並べておいて、自分の手を汚すのが嫌なだけじゃないですか」
「あたり前だろ、生きてようが死んでようが、こいつらは人間なんだよ」
草野は笑って、傍にやってきた生徒二人を殴り倒した。躊躇する素振りは一切見せずに。
「人の形をしている、人間の記号性を持っている。それだけでしょう。こいつらは俺達の血肉を糧にしているんだ。共食いはしないから必ず俺達を襲ってくる。それなのに、自分の手で下したくないという。それでいて、仲間も助けたいと主張する。あなたっていう人を何て言うか、教えてあげましょうか」
――――偽善者だ。
「おまえの言いたい事はわかってる。でもな、そんな人間は単純じゃないんだよ。……割り切れない奴も居るんだよ。お前みたいになれないんだよ、僕は」
ケースを下ろした。草野は眉間に縦皺を刻む。
「犬神さん、あなたは……自分のやっている事が理解できていないようですね」
犬神は駈け出した。黒木の向かった体育館へと。
「――どうなって知りませんよ!」
脳裏には、編入初日の出来事が広がっていた。
自己紹介を済ませ、指定された席に着く。クラスの皆の目付きが、犬神萎縮させる。まるで動物園の檻に入れられた珍獣の様だ。もう高校三年生で、受験シーズンに突入している。模試の結果がどうだとか、あの大学は狙い目だとか、そんな言葉ばかりが飛び交うピリピリしたムード。その中で、編入生という刺激はちょっとした気分転換なのは理解できる。それでも、犬神は耐え抜ける自身が無かった。
バドミントンを辞めて、彼は目的を失っていた。今さら勉強にも手をつけられない。新しい部活だって、勿論無理だ。もともと根が暗い所もあり、積極的に委員会に入ったりすることも出来なかった。このまま大人しく、卒業するまでじっとしていよう。大した期間じゃない。だから、誰とも親しくするつもりなんか無かったのに
――塔青から来たんだって? あそこ、凄い名門だろ。
一時間目が終了し、五分の休憩時間。まさかすぐには話しかけられないだろうと高を括っていた。
――なぁ、うちに入ってくれないかな。大歓迎なんだが。おい紙村、滝川。何突っ立ってんだ、お前らもこっちきて手伝え。
タチの悪い新聞勧誘に捕まった気分だった。だが、心の隅では何かが揺れ動いていた。しどろもどろに返事をしながら、じんわりと胸の奥で嬉しさが広がっていくのがわかった。
――まぁ、同じスポーツを嗜む者同士、仲良くしようや。
そう言って、手を出される。まごまごとしていると、
――ああ、そうか。自己紹介してなかったっけ。黒木だ、俺は。よろしく。
冷たい冷気で、いつの間にか鳥肌が立っていた。体育館の場所はわかっている。中庭を横切ると地面がアスファルトに変わった。そのまま道を進んでいく。遠くの方で、ぼんやりとゾンビの黒い影が横切ったかと思えば、ふっと消えた。心臓は緊張で早鐘を打っている。
――見つけた。
二階建ての大きな建物が目の前にある。玄関は二枚の厚いアクリル板で出来ており、今はしっかりと閉まっていた。中を覗くと暗く、ここからでは人の気配は確認できない。だが、ドアの内側からはパイプ椅子などが積まれている。これは、人が居て、きちんと彼らに対して対策をしているという証だ。
――生きているんだ、この人達も。
透明の扉を軽く叩いてみる。声は上げられない。やはり、何の応答も無い。黒木はどうやって入ったのだろう。
諦めて、別の入り口を探すことにした。犬神は玄関の傍から離れ、建物の壁伝いに歩き始めた。学校の敷地内を囲うフェンスが見える。だが、その奥はずっと森が続いている。白にまぎれて、ほとんど確認できないが。
建物の裏に回った。プールサイドと、柔道や剣道で使う格技場などの建物が隣接しており、見晴らしの良いグランドとは遮蔽されている。幸い、こちらまで化け物は及んでいない様だ。
裏の階段を見つけた。体育館は二階構造だ。裏口からそれぞれ出入りできる仕組みになっているのだろう。恐らく、非常用として。一階のドアはやはり、叩いても反応は無かった。ドアノブを回してみるが、やはりおさえつけられているようだ。犬神は傍に立てかけてあった箒を掴む。息を殺しながら、ゆっくりと上がっていった。
ドアの取っ手を掴む。鍵が閉まっている。順序が逆だが、声をかけてみた。
「誰か居るだろう、返事をしてくれ」
返って来るのは耳に吸いつく様な沈黙だけだった。見た所、他に入れそうな場所は無い。あくまで犬神は食い下がる。
「開けてくれ、頼む。僕は人間だ」
「誰だ?」
諦めかけて下に降りようとしたその時だった。一瞬、聞き違いかと思い、茫然と経っていたが、もう一度声をかけた。
「中に居るんだな?」
「……あまり大声を出すな、奴らに感づかれる」
ドア越しに、男の押し殺したような声が伝わって来る。犬神は嬉しくなった。
「良かった、そっちの方も無事だったんだな」
彼の物言いからして、やはりこの状況を把握出来ている様だ。
「お前は誰なんだ? うちの生徒か?」
「三年二組の犬神だ。たぶん、知らないと思うが、編入生だ。こっちには、三日前に越してきた。なぁ……開けてくれないか」
しばしの沈黙。中に居るのは、一人だけだろうか。微かに、やりとりを交わすような気配が伝わって来る。
「駄目だ。中には入れられない」
「黒木は、そこには居ないのか。バドミントン部の生徒なんだろう? 黒木も生きてるんだ。僕達は校舎に居たが、助けに来たんだ」
「黒木が……?」
「そうだ、だから開けてくれ」
「無理だ。絶対に開けるな、って言われたんだ」
――この声、どこか聞いた事のある様な……。
「いいから、開けてやれよ」
真後ろから声がかかって、犬神は跳び上がった。悲鳴を出す所だった。後ろに黒木その本人が居たのだ。
「黒木、そこに居るのか?」
「その声は、紙村だな」
黒木は言って、ドアに寄りかかる。――そうだ、紙村。初日の部活勧誘で、会った事がある。彼は苦笑するばかりで、実際しつこく誘ってきたのは黒木だが。
「中に入れてくれないか。こんな壁越しに会話するのも野暮だ。あんまりここに長いことたむろしていると、例の化け物だって見逃しちゃくれない」
「――駄目なんだ、滝川に言われてる……ここを開けるなって」
苦悶の声が聞える。
「いいから開けろ。俺もあんまり無茶はしたくないんだ」
黒木の低い声で、開錠の音がした。離れると、ドアが開き、気弱そうな男子生徒が顔をのぞかせた。やはり、紙村だった。同級生であり、犬神は何度か面識があった。
「紙村、お前が生きていてよかったよ」
黒木は先程の調子とは打って変わって、破顔する。二人は中に入った。後に入った犬神はドアを施錠した。紙村は、たった数日しか会っていないが、痩せたように見えた。
「黒木……おまえも生きてたなんてな」
「校舎の方に居たんだ。俺達の他にも、何人か生き残りは居る」
三人は狭く廊下を進んだ。昼間だというのに、ここは薄暗い。
「それにしても、お前まで来るとは思わなかった」
黒木が苦々しげに犬神を見据える。
「見学する約束だったからな」
体育館の放送室へと繋がる場所で、もう一つ独立した部屋があった。紙村がドアを開けると、そこにもう一人の影があった。
「わ、黒木さんじゃないですかっ」
男子生徒はそう言って腰を上げる。面識の無い犬神を察したのか、黒木が言い添えた。
「後輩の一年だ。森下という」
一年生とあってか、森下は身長が極端に小さかった。右足が赤く腫れている。白い足に、鮮やかな赤のコントラストが痛々しかった。
「その傷は、まさか……どうしたんだ?」
犬神は、思わず詰問口調で言う。その真意がわからないのか、森下はけろっとした調子で堪える。
「ああ、あの化け物達に噛まれちゃったんですよ。でも大丈夫です、大した傷じゃないですから」
「まぁ、傷が化膿するとまずいがね。今のところ心配は無い」と紙村。
犬神と黒木は、苦く重苦しい顔を突き合わせた。感染している――。安藤の例があるのだ。彼は、もう手遅れかもしれない。だが、彼らはその事に気づいていない様だ。
――やはり、こっちはまだ知らないんだ。
「どれくらい前に、噛まれたんだ?」
さりげない風を装うつもりが、単刀直入に聞いてしまった。
「……三時間くらい前です。下の様子を見に行ったら……死んでると思ったのに、倒れてる奴が足を掴んで」
「下? 一階の事か」
「そうです。滝川さんはたぶん向こうに居ますよ。ずっと下を眺めてますから」
森下は明るかった。そういう性格なのだろう。滝川、という名前も知っていた。黒木と一緒に会った事があったのだ。
犬神は黒木と一緒に、滝川の元へと向かう。吹き抜けになっていて、二階から下の様子を見渡せる作りになっている。滝川は、背中を向けて柵の傍に佇んでいた。気配に気づいたのか彼は振り返り、二人を見据える。気の強そうな瞳が黒木に向いていた。
「てっきり、俺たち以外はくたばったかと思ったぜ」
「それはお互い様だろう。ここに先生は居ないのか?」
「いや、居ないよ。他の奴は皆死んじまった。俺と紙村と森下。この三人だけだ……ほら、見てみろよ」
そう言って、滝川は下のホールを指した。
地獄が広がっていた。
赤い海が出来ている。幾重にも塗りこまれたそれは、キャンパスを埋める絵の具のように鮮やかだった。放りだされた手足。開き臓物を吐き出す胴体。放射状に粘稠性のそれをぶちまける生首。子供が遊び半分でフィギアをバラバラにしたかの様に、そこら中に体の一部が散らかっている。彼らの表情は多種多様だった。苦痛に悶え苦しみ、鬼の様な形相で天井を睨む顔もあれば、静かに瞼を閉じて、白い顔に静寂を彩っている顔もある。
そして、居た。生きる屍、歩く亡者が。彼達はその手足を掴んで食べている。皮膚を悔い破り、肉をチューイングガムの様に咀嚼していく。そこには、かつて人間であった面影など皆無だった。まるで獣の様だ。餌に食らいつく野獣。だが、その静かすぎる食事もまた異様だった。
世紀末を描いた絵画を思わせる光景だった。
「こりゃぁ……」
犬神はその場で嘔吐した。だが、昨日から何も食べていないので、胃液を吐き出しただけだった。黒木は吐きはしないものの、口に手を当てて目には涙をためている。
「さっきから、ずっと食ってるんだ、こいつら。俺はもう、クチャクチャって音が、耳から離れないんだ。ずっと聞こえてくるんだ」
滝川は、死者のように無表情に呟いた。
「黒木……俺達は、死ぬのか?」
放心したように呟くその言葉。黒木は、息をのんで数歩下がる。
「臭いだってそうだ。もう慣れて気付いてないけど、ここは反吐の様な臭いがする。俺も直に、あいつらみたいになるのかな」
「…………いや、そうはならない」
犬神は、力強く言った。吐いた直後で眩暈のように視界が霞んでいたが、自分の意識はしっかりとしていた。心の中で、確固たる思いが体中を巡っている。
「僕達は生きるんだ、何としてでも……」
「遅れを取ったのは、少し寄り道していたからだ」
黒木が見せたのは草刈り機だった。エンジンから伸びた細長いスチール製の棒から、ハンドルが取りつけられている。先端には、円状の刃が剥き出しになっていた。いわゆるブッシュカッターという奴だろう。聞いてみると、管理小屋からくすねてきたという。
「これで奴らを狩るんだな?」
滝川が口元を歪める。
「一度でいいから、使ってみたかったんだ。俺に貸してくれ」
「おい、それはやりすぎじゃないのか」
犬神は耐えきれず口を挟む。
「今は手段を選んでる場合じゃないだろ」
滝川は黒木からブッシュカッターを受け取る。すかさず、黒木が忠告した。
「自分を切らない様にな。エンジン音がするから、忘れるなよ」
「校舎には食いもんもあるんだろ。おまけに……川本も生きているって話じゃないか」
ブッシュカッターを恍惚とした表情で触れる滝川。それを見て犬神は、後悔している自分が居る事に気付いた。ひょっとしたら、黒木を止めるべきでは無かっただろうか。
黒木の指示で、全員が体育館から出た。最後尾の森下は歩きにくそうにしている。足の怪我が辛いのだろう。乳白色のゆらめく霧は、未だ視界を埋めている。黒木、犬神、滝川、紙村、森下の順に階段を下りていく。黒木はブッシュカッターの他に持ってきたスコップを滝川以外に配った。
死者達は散らばっていて、容易く攻略する事が出来た。彼らは動きが鈍い。恐るべきは一度捕まった時の力強さと、少しの噛み傷でも痛手を負うという脅威である。この要素さえ排除すれば、難なく進む事が出来た。
「このまま外に出てみないか?」
中庭に入りかけた所で、紙村が提案した。滝川はまだブッシュカッターを使っていなかった。犬神たちのスコップだけで事足りたのだ。
「この調子なら、あいつらを全滅できるかもしれないですよ」
森下はそう言って笑う。そうかもしれない、と犬神は思った。この人数でこの装備が揃っていれば――。
「おい、見ろよ。四組の高田じゃねぇか」
滝川は、近くに倒れている女子生徒を見つけてにんまりと笑った。彼女は既に死んでいる。滝川は傍にしゃがみこんだ。
「きれいな顔してたのにな。勿体ねぇ」
「おい――」
犬神の制止も無視して、彼はポケットから携帯電話を取り出した。バッテリーの残量はまだ残っている様だ。それを紙村に渡した。
「撮れよ」
滝川はブッシュカッターを置くと、彼女の遺体に手を差し入れ、ピースサインをした。紙村はカメラモードにして、レンズを二人に向ける。
「やめろ! 何考えてんだ」
電話を奪い取り、犬神は草むらに放りこむ。滝川は激怒する。
「何すんだよ、お前は。余所者のくせにしゃしゃり出やがって」
「黒木、お前からも何とかいえ!」
そう言って黒木の肩を掴んだが、彼はバツの悪そうな苦笑いを浮かべるだけだ。少し前に、草野を化け物となじったのが生ぬるいほどに思える。
それは気付かないうちに近寄って来ていた。白く染まる視界に、ちらほらと黒い影が浮かび上がってきた。独立し散らばっていたかと思えたそれは、手を繋ぐように大きく塊になり始めた。
死者の大群だった。
「囲まれた……」
森下が呻いた。
死者たちによって四方を囲まれていた。死角は無い。先程の傲慢な余裕をあざ笑うかのように、生者と死者の空隙は埋まっていく。
「馬鹿野郎が、俺にまかせろ」
唾を吐き捨て、滝川がブッシュカッターを手に取る。獣の唸り声のようなエンジン音が鼓膜を叩く。円状の刃は回転し、鈍い輝きを放つ。
犬神の視界は捉えていた。高田と呼ばれていたその女子生徒――彼女の手がぴくりと動き、蛇のようにするすると滝川の足首を掴んだ。滝川は体勢を崩し、地面に倒れ込んだ。刃を回転させたままのブッシュカッターが転げ落ちる。それを黒木が拾う。
「悪く、思うな」
振り下ろす。掴んだ女子の手首を、一刀両断した。水道の蛇口をひねったみたいに、鮮血が飛び散った。
校舎は目前なのだ。このまま、死ぬ訳にはいかない。犬神は、スコップを握り直す。
「うわああ!」
森下が突進する。
「よ、よせ!」
紙村の声は届いていなかった。森下は死者の壁に突入し、手足を掴まれた。そして、幾つもの口が彼の体に噛みついた。
「森下っ……」
少しでも自分の取り分を得ようと、死者たちがそこに集まり始めた。
「今です! 早く逃げてください!」
森下は噛みつかれてもなお、スコップ振り回し、暴れまわる。自ら囮になったのだ。僅かだが、取り囲む壁に穴が開き始めた。
滝川が真っ先に走り出した。紙村と黒木は茫然と立ち尽くしている。
「今の内に!」
森下は赤黒い血を吐き出す。――ひょっとして。犬神は立ち尽くす二人の肩を取った。
「犠牲を無駄にするな!」
「で、でも」
口ごもる黒木。それに対し、犬神は言葉をかける。
「あいつは、知っていたんじゃないのか。自分が助からない事を……」
森下は、電池の切れたロボットの様に倒れていた。黒木が頭を下げる。
三人は、滝川の後を追った。校舎が浮かび上がる様にして視界に飛び込んでくる。
驚いた事に職員玄関が開かれていた。川本と草野がバッドを持って構えている。
――草野、無事だったのか。
滝川が先に入った。続いて三人が中に跳び込む。
「この人達は?」
草野が滝川たちを見て聞くと、黒木は肩で息をしながら「話は後だ」と答える。
「人数はこれだけ?」
川本の質問に、犬神は心が沈んだ。
「あ、ああ……。もう居ない」
彼女はそれを確認して頷き、ぴしゃりと扉を閉じた。
「おかえり」
それが、生き残った彼らを迎えた。
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鏡に向かって眉を描く。川本は四階の女子トイレに居た。この場所は血痕や臭いから逃れている。密かに聖域と揶揄していた。換気扇の傍にある小さな窓は、乳白色に塗り込まれている。
「か、川本さん」
鏡に小泉が映り込んだ。怯えた小動物のような目をしている。といっても、彼女はこれがデフォルトの様な気がするが。何か喋りたそうに口をもごもご動かしている。だが、小さな口はパクパクと形を変えるだけだった。
「なに?」
自分ではそっけない疑問のつもりだが、改めて聞くと苛々とした声だ。不機嫌では無いのだが、不思議とそうなってしまうらしい。
「いや……やっぱりなんでもない」
そう言って顔を俯く。だったら何をしに来たのだろう。化粧を済ませるとトイレを出て、階段を下りた。
「よし、これで六対七だぞ。巻き返してきたあ!」
黒木の嬉々とした声が聞える。隣には紙村という男子も居る。対面するようにして、犬神と滝川が立っていた。全員がラケットを持って、広いスペースで羽根を打ち合っている様だ。彼らがバドミントン部の部員だというのは知っていた。こんな事態だというのに、気楽なものだ。だが、こんな事態だからこそ、何か楽しみが欲しいのかもしれない。
「おい川本」
彼女の姿を見つけた滝川が呼びつける。この男はあまり好きでは無かった。二年生の時、しつこく誘ってきた事があった。クラスメイト全員が居る前で冷たくあしらってやると、それ以上は声をかけて来なかったが。
「村田を見てねぇか?」
「……知らない」
そのまま通り過ぎようとすると、今度は犬神が口を開く。
「外から帰って来てから見てないんだ。安藤の事もあるし……」
「見てない。知らない」
実際、見ていなかった。犬神達を見送った後、村田はいつの間にか姿を消していた。そして帰った来た後も見ていない。だから口にしないのだが、滝川らはそれを快く思っていない様子だった。愛想が無いだいとか、お高くとまっているとか言われてそう認識される。
それは昔からずっとそうだった。だが自分自身としては、悪気があってそうしている訳ではない。とびきり無口という訳ではない。会話はできる。ただ、無理に明るくふるまえないだけだ。多く喋らないのは、クラスメイトと話が合わなそうだから口を閉ざしているだけ。彼らのコミュニケーションには必ずお約束だとか前提があって、それに合わせるのが面倒だということにしか過ぎない。孤独は苦ではないし、やりたいことはやれている。だから、そのままにしていただけだ。だが、気付くと周りは腫れ物に触る様な態度で接してきていた。同時に、嫌でも聞こえる陰口まで。
――だからさ、そういう奴は一度、ひっぱたいてやればいいんだよ。
脳裏に、その一言が蘇る。川本にそう言った男子は、にんまりと笑っていた。名前は武原といい、同じ弓道部の部員だった。
川本は過去に浸りながら、弓道部の部室に向かう。
部室の中は狭い。三畳ほどの広さだから、真ん中に立てば千手観音のように、大抵の物は掴める。壁には部員の弓と矢筒が立てかけられている。深陽高校に弓道場は無い。普段の練習はプールサイドの近くにある射場でしている。月に一度だけ、近くの道場を借りて射込みをするのだ。だから実際、ここはほとんど物置化している。
武原の矢筒を手に取る。彼の弓もあるが、川本の腕では満足に引けない。彼は部のエースだった。だがそれを鼻にかけることなく、どこか飄々としていた。川本の弓を射る姿を見ると、いつも褒めるものだった。
――すげぇ綺麗な射形だな。当たらないけど。
的の的中率で言えば断然、武原の方が上だった。彼女はそれが腹立たしかった。当たらなければ意味が無いと言うと、彼は首を横に振る。
――まぁ、そういうのにこだわる奴も居るけどさ。でも、俺はお前が羨ましいよ。そんなに美しくやられると、嫉妬しちゃうな。
気味の悪い奴だ、と吐き捨てると、からからと笑う。変な男だと思った。
矢筒から矢を抜き取り、使えそうなものを集める。武原がこれを見たら、何と言うだろうか。人を殺す道具なんかじゃないとなじるだろうか。それとも――――。
渡り廊下を通り過ぎて、階段を下りる。
丁度、職員玄関に面する廊下を横切る。
透明の板の向こうには、死者たちがこちらを覗いていた。思わず足を止め、まじまじと見つめる。
「あなた達は、いったい何者なの……?」
答えは返って来ない。呟かれた声は、虚しく溶けていく。
武原は死んだのだろうか。それとも、どこかで生き延びているのだろうか。その答えも見つからない。何度考えてみても、辿り着く事が出来なかった。そんな事を逡巡し続ける自分も滑稽だと思った。
再び歩き始める。心の奥底にあるざわめきは収まりはじめ、波紋は消えていった。
※
犬神は、三階へと繋がる階段を目指して歩いていた。職員室に届けものをした後の事だ。黒木達が騒ぎながら勧めるので、苦笑いしながら入部届けを書いたのだ。入部先は勿論バドミントン部である。自己満足に過ぎない事は承知だが、この状況ではそんな些細な事が心の支えになった。
階段を昇り切り、目当ての教室に入る。探し人は居た。ビデオカメラを固定させて、黒板に書かれた文字を映している所だった。
「おや、どうかしましたか」
草野は振り返って彼の姿を認めると、微笑を浮かべた。犬神は頭を下げる。
「すまなかった。君を化け物呼ばわりした」
くくく、と草野は喉を鳴らす。
「律義ですね。わざわざ謝りにきたんですか」
「僕は仕事を投げ出した、君を置き去りにした。結局、食べ物は君が居なければ手に入らなかった」
「教えてくれたのは村田ですし、そもそも外出を提案したのは黒木さんです」
「いや……」
考えてみれば、彼の言う事は全て正しかったのでは無いだろうか。所詮はホラー映画マニア、その程度にしか考えていなかった。だが、彼の助言で進展することも多かった筈。
「僕も自分が変わり者だと思っていますが、あなたも相当ですよ」
「というと?」
「ええ、愚直といいますか」
そうだろうか、と犬神は自問する。答えに窮していると、草野はカメラを取り上げた。
「撮影終了」
映していた黒板にはチョークで文字が刻まれていた。犬神は国語の教科書を朗読するように、その言葉を読み上げる。
「ベジタリアン……。これは、何だ。僕のことかい?」
「いえ、映画のタイトルですよ」
言って、彼はニヒルに笑う。
「俺らは生者だ。しかし、奴ら生きる屍は肉食です。いわばこれは、我々が人間として留まっている証な訳です。くだらないでしょう?」
死んだ者は甦り、ゾンビとなって襲いかかる。しかしゾンビは死んでも、人間に戻る事は無い。こちらはチェス、向こうは将棋のルールで勝負している様なものだ。勝てっこない。
「実を言うと、ちょっと憧れていたんですよ、こんな状況を」
意味を捉えきれず黙っていると、彼は再び口を開く。
「今の状態です。俺はずっと、考えていたんです。もし自分の理想とする世界があったとしたら――。自分の都合よく、自分の幸せだけが広がっているシャングリラがね」
「これがユートピアだというのか?」
血肉踊るおぞましい世界。
「そうですね、理想郷とは少し違いますが。一度入れば、誰もが戻れない。亡骸の山を築き、やがては自分も、狂気の叫びでもって、息絶える」
草野の目が見開かれる。
「生きているって感じがするんですよ。血潮が濁流のように体中を駆け巡るのがわかる。だけど、それだけじゃ駄目なんだ……理解して欲しいんです。嫌がるな、受け入れろとは言わない。ただ、知ってもらいたいだけなんだ。俺が思っている事を……誰かに知って貰えれば」
犬神は沈黙を守っている。草野は外の景色を一瞥する。窓の奥に蠢く白い闇。未だ晴れる事など無い。
「犬神さんには、理解して欲しかったんですよ…………」
※
黒木は応接室のソファーに深く腰を沈めていた。天井近くの壁には、歴代校長の写真が並べられている。彼らは無機質な視線をこちらに投げかけていた。
ノックの後入口のドアが開き、滝川と紙村が入ってくる。御苦労さま、と労いの言葉をかけた。
「それで、どうだった?」
滝川は首を振り、大仰に溜息をつく。
「部室棟の方も調べてみたが、やっぱり安藤は居ねぇ」
「村田もすっかり消えちまった。どういう事だろう?」
紙村は眉間に縦皺を刻み、バッドを立てかける。
「安藤はゾンビになったと思ったんだが……」
黒木は考えていた事を口にする。あの夜の出来事だから、彼も霧の中に戻ったのかもしれない。だが、村田はどこに消えたのだろう。試しに放送で呼び掛けてみたが、返事は無かった。どこかで居眠りをしているとは考えづらい。彼の身に、何かあったのだろうか。
「おめぇの方は、ちゃんと探したのか?」
滝川は紙村をねめつける。紙村は慌てて何度も頷く。こいつらはいつもこうだ、と思う。紙村は滝川に怯えている。滝川もそれをよしとしているようだった。滝川は息を吐き、視線を黒木にやった。
「草野って、あの二年にも手伝わせるか?」
「いや……」
黒木は言葉を濁す。彼は協力的だが、どこか妖しげな気配を放っている。その思惑を汲み取ったのか、滝川は片眉を上げる。
「確かに、あいつは解せねぇな。でも黒木は、あいつと面識はあるんだろ?」
「え?」
「違うのか? てっきり、俺は……お前か犬神と仲が良いのかと思ったよ。俺は見た事もない面だと思ったが」
「おいおい待ってくれ。俺だって、そうだ。こんな事が起きる以前は、知らなかった。二年だっていうし」
紙村に目をやると、彼も知らないと首を振る。そもそも犬神は編入生だ。
――待てよ。
ゾンビ達が学校に入ってきた時の事を思い出す。確か自分の周りには、犬神と村田に三人の女子。そして、校舎を駆けまわって一組のカップルと出会った。その後職員室に集合した時にはもう草野は――。
「……あいつを知ってる奴は居ないのか?」
黒木は三年間、真面目とはお世辞にも言えないがこの学校に登校してきている。全校生徒の名前を挙げろと言われたら不可能だが、顔くらいは見ればうちの生徒だとわかる。黒木は、草野と同級生である青田や横井と交友があるのかと思っていたが……冷静にあの状況を思い返してみれば、知り合いだった痕跡はあっただろうか。
――正確には映画です。俺は監督であり、脚本であり、カメラマンなんです。
彼の言葉を反芻する。
なぜ霧が自分達を閉じ込めたのか。下校した生徒は息絶えて、再び登校してきたのか。先生達はおらず、携帯電話も通じない。あらゆる疑問の渦が、彼を中心に渦巻く錯覚を覚えた。
――いや、違う。
奇抜な言動が目立っているだけであって、それに付け入って問題を彼に押し付けているだけだ。そもそも、彼は充分自分達の役に立ってくれたではないか。草野の助言で、黒木たちは外に出る事も出来た。
――いや、出されたのか?
何のために。
「おい、黒木?」
黒木は立ち上がる。
「悪いが紙村、もう一度村田を探してくれないか? 俺は別に調べたい事がある」
「あ、ああ……そのつもりだ。まだ、行ってない所はあったから」
「それじゃ、頼む」
「お前はどうするんだ?」
滝川の問いに、黒木は黙ってドアを開き、外に出る。
足は職員室に向いていた。
※
村田は、縮こませていた体を元に戻した。彼を探していた人影は廊下の角を曲がり、消えていった。
――しつこい奴らだ。
外に出ていった黒木達は、脱出の糸口は掴めなかったが、生存者や食べ物を見つけてきた成果はあった様だ。だが、村田にとってはどうでもいいことだった。
今の自分の姿を見られる訳には行かない。村田の夏服は、真っ赤に染まっていた。しかし、これは自分の血では無い。両手で掴んでいると滴り続けるものが原因だった。
周囲の気配が無いことを悟ると、足早に階段を下りる。この学校には、体育大会や文化祭用に大きな物置部屋がある。普段は、余った角材や看板などが置かれており、生徒が立ち寄ることはない。
薄暗い廊下を進んでいると、何かが腐ったような臭いが鼻をかすめた。その原因が何であるか、村田は知っている。そのまま歩き、さらに強い腐敗臭を放つ元へと進む。
物置部屋のドアを開けると、小さな虫の大群が一斉に襲いかかってきた。村田は舌打ちしながら、手で追い払う。視界が確保できると、そこには安藤が横たわっていた。
「部長……お腹すいたでしょう」
ドアを閉め、安藤に近づく。彼は柱にベルトを巻きつけられ、身動きが出来なかった。白く淀んだ双眸が村田に向いた。既に人間だった頃の雰囲気は消え去っていた。
「向こうで良い物を見つけたんですよ。食われ途中だった死体の一部です」
村田が持っていたのは、人間の腕だった。肘から先が食いちぎられていて、肉と脂の隙間に白い骨が覗いていた。誰の腕かは知らない。村田がそれを盗んだ時、持ち主の顔は大半食べられていてわからなかったのだ。だが、それもどうでもいいことだった。重要なのは、安藤に御馳走を運ぶ事なのだ。
その腕を安藤の口先に持っていくと、餌を待っていた檻の中のライオンみたいに、勢いよく齧り付いた。汚れた歯が皮膚を悔い破ると、飛び散った血が顔を染める。意に介さず、安藤は食事を続ける。村田はそれを愛おしそうに見つめていた。
「気に入ってくれたようでなによりです」
微笑み、村田はタオルで手の汚れを拭きとるそしてズボンの後ろポケットからメモ帳を取り出した。安藤が新聞部として使っていた物だ。
「部長、これを覚えていますか?」
手品師があらかじめ客に種がないことを説明するように、安藤にそれをまじまじと見せつける。だが、彼は食べることに夢中だった。手帳のことなど眼中にないようだ。
「思い出してください。あなたは人間だったんです」
次に、ボールペンを取り出し、慎重に安藤に掴ませた。油断していると、こちらまで餌になるのは承知していた。安藤はペンを受け取ると、しばらくそれを眺めていたが、再び腕に噛みつく。すでに大部分を食しており、食べ終わった骨付きフライドチキンを思わせた。
「記憶が無いのか。必ずある筈なんだ……」
村田が落胆しかけた時、両耳に足音を捉えた。廊下からだ。身体は硬直する。ドアが開き、そこに見知った顔を覗かせていた。
「紙村さん……」
紙村は瞠目し、自らの手で口を塞ぐ。部屋を見渡し、そこに安藤の姿を見据えた。村田を探していたのだろう。だが、まさかこんな状態で見つけるとは思ってもみなかった筈だ。
「これは――どういう……」
紙村は狼狽している様子だった。震えながら、こちらに歩を進めてくる。恐る恐るといった調子で、安藤に近づいた。村田は咄嗟のことで、弁解が出来なかった。入って来る彼の姿を茫然と眺めることしか出来なかったのだ。
「安藤だ……それも、ゾンビになってやがる」
「違う。部長は人間なんだ」
「おまえ、自分のしている事が……わかっているのか?」
死者の飼育だ。
「安藤さんは……特別なんです。他のゾンビと一緒にしないでください」
気付けば口は反論をしている。紙村は唾をのみこんだ。顔には恐怖が宿っている。
「このことは……お願いです、誰にも喋らないでください」
安藤の存在を知られる訳にはいかないのだ。なんとしてでも。
「ふ……ふざけるな」
「お願いです、見なかった事にしてください!」村田は両手を付き、頭を床に擦りつけた。「お願いします。この人には世話になってきた――、恩があるんです。居場所が出来た」
面を上げると、紙村は首を横に振っている。
「おまえは狂ってる。異常だよ」
「紙村さん――」
「この事は黒木達にも報告する。それでもって、お前の今後の処遇についても話し合うつもりだ」
村田は紙村にすがりつく。
「ま、待ってください。部長はどうなるんですか。この人は、生きているんですよ!」
「離せ!」
突き飛ばされ、村田は床に倒された。紙村の表情は、憎悪と恐怖の念で歪んでいた。
「こんな化け物のことなんか、知ったことか!」
「ば……」
――化け物。
とくん、と何かが村の中で溢れだした。暴力的なその衝動が指先まで行き届く。村田は目を見開き、傍にあった角材を掴んだ。紙村は背を向け、外に出ようとしている。
「部長を……」
立ち上がる。
「侮辱するなあああっ!」
怒りに身を任せ、木材を振り下ろしていた。鈍い感触が手首を伝わり、紙村は呻きを上げて倒れ込む。
「お、おまえっ……!」
頭を手で押さえ、振り返った紙村は村田を睨みつける。指の隙間からは血が流れ出していた。構わず、今度は腰に向かって凶器を叩きつける。短い悲鳴を上げ、紙村は這い付くばった。
「この……外道が」
罵声も村田には響かなかった。何度も何度も、振り下ろす。木材が折れると、また別の物を取って殴りつけた。
「だ、誰か、助け……」
歯を食いしばり、必死で外に出ようとする。村田はその両足を掴んで引き戻す。紙村は喚きながら、張り叫ぶ。
「お前は、部長に食べて貰う。安心しろ、お前の肉体は失われるが、魂はずっと、部長の中で生き続けるんだ」
背後に気配を感じた。振り返ると、安藤が立っていた。見ると、ベルトが噛みちぎられていた。
「部長……」
安藤の口が迫っていた。
※
耳を覆いたくなるような悲鳴が、部屋中に響いた。紙村は、頭を抑えながら壁に寄り添う。村田はこめかみに青筋を立てながら、絶叫を繰り返していた。安藤が食らいついているからだ。
――地獄だ。
紙村は、なんとか体を持ち上げ、出口に向かう。幸い、安藤は村田を食べる事に夢中だった。だが、いつその興味が自分に向かうかもわからない。この体では、まともに戦う事も出来なかった。
ドアを開き、廊下に出る。すぐに思い浮かんだのは、黒木と滝川の顔だった。助けを呼ばなければ。
――いやだ、もう家に帰りたい。
首を振り払う。滝川にはこき使われ、常に周りからは黒木の腰巾着と笑われていた。こんな事態になっても、その関係は変わらないのだ。
「冗談じゃない……」
我が家に帰るのだ。全身の打撲や傷の痛みが、声なき訴えを上げている。もう沢山だ、こんな事に巻き込まれるのはもう御免だ。普段は不平を言っていた家庭の食事。狭く散らかった自分の部屋に、嫌気がさしていた。だが今はそれが、どうしようもなく必要だった。暖かい風呂に入りたい。そして、あれは全部悪い夢だったのだと、深い安寧の眠りに浸かりたい……。
無意識のうちに、身体は出口を求め、彷徨っていた。辿り着いた先は昇降口だった。
「家に帰るんだ」
そう呟く。眩暈がしている。身体はボロ雑巾の様だった。
「出口……」
道は塞がれている。ロッカーが横倒しになっていた。紙村はそれを眺めていたが、すぐに肩で押し始めた。身体が悲鳴を上げたが、歯を食いしばってどかした。次は机だ。
「こんなもん、ふざけやがって」
邪魔でしか無かった。
脚の部分を掴むと、廊下に放り投げた。それが思ったより痛快で、向こう側の壁に叩きつける様な気概で作業を続ける。覆っていた物が無くなると、窓枠越しに外の霧が見渡せた。
紙村が使っていたロッカーはまだ人の手が入っていなかった。そのままある。自分の場所から、ローファーを取り出し、履き替える。帰るのだ、とそれだけの装備で強く想った。
鍵を外し、扉を開く頃には、疲れで体はふらふらになっていた。汗の量も相当出ている。額に溜まったものを拭い、外を眺める。冷気がすぐさま昇降口の中に入り込み、侵略するような勢いで下駄箱を取りこんでいく。
冷たいつんとした感じが、鼻腔を刺激する。紙村にはそれが、解放の証に思えた。
――自由だ、俺は帰れるんだ。
外に向かって一歩踏み出す。
「家に……帰るんだ」
ぼんやりと、白い中からゾンビ達が現れた。かつて生徒だったそれは、紙村に近づいてきて、周りを囲み行く手を阻む。紙村は舌打ちをしたが、それは今までの意味とは違った。渋滞に巻き込まれた気性の荒い運転手が、前を並ぶ車に抱くイラつきの様なものにしか過ぎなかった。
「腐れゾンビが……そこをどきやがれ」
威勢のいい声だが、身体は対照的にふらついていた。死者たちに包囲されるという恐怖は、家に帰るのだという強い意志によって塗りつぶされている。酔漢のようにたどたどしい足取りの紙村を、ついに一人のゾンビが捕まえた。
「放し……やがれ」
それはもう呻きでしか無かった。手足を食われながら、紙村の視界は捉えていた。
死者の行列が、開かれた学校に入っていくのを。まるでいつもの光景だと思う。いつもの朝、同じように、彼らはああして学校に入っていくのだ。
死人のような顔付きで。
8
犬神が教室でぼんやりとしていると、黒木が息急き切って、中に入ってきた。彼は黒板に刻まれた文字を見る。
「草野が書いたんだよ、映画のタイトルだそうだ」
苦笑しながら犬神は説明する。だが、黒木は真剣な顔つきで歩み寄る。見ると、脇に紙の束を抱えていた。
「その草野は?」
「もうどこかに行ったよ」
「そうか、丁度いい」
黒木は眉根を寄せ、犬神の座っている前の席を陣取ると、こちらに向き直った。
「犬神、おまえは草野と以前会った事があるか?」
「いや、無い」
即答する。当たり前だろ、という言葉をのみ込む。黒木が険しい顔をしていたからだ。なぜそんな質問を、と聞く前に、黒木が先に行動した。抱えていた紙の束を、机に置く。
「うちの名簿だ。全校生徒の名前がここに記されている」
どこからそんなものを、と言うと、職員室だと黒木は答えた。
「そこで俺は調べていたんだ、草野の名前をな。考えてみれば、あいつを知っている奴は俺達の中には居なかったからだ」
犬神は早速、その書類に目を通していく。彼は二年生だと言っていた。校章の色からして、それは嘘偽りないと思っていた。だが、二年の欄に草野という名字は無い。「草野」という当てた漢字が違うのかと思い、同じ発音を調べてみたが、そんなものも無い。続いて、三年生と一年生も調べてみたが、それらしき名前は見つからなかった。
「どうして、あいつの事を調べたんだ?」
「俺は、考えてみたんだ」言って、黒木は黒板を一瞥する。「馬鹿馬鹿しい話だと、お前は一蹴するだろうな」
「何がだ」
「学校は霧に包まれていて、死者が甦る。外に連絡する手段もない。こんな不条理な状況があるか。まるで、誰かが俺達を閉じ込めて観察しているようじゃないか。俺達が戸惑い、もがく様を見てにんまりとな」
黒木は一旦息を吐くと、自嘲めいた笑いを漏らす。
「なぜ俺達は出られないのか……考えた末、結論が出た」
「それは何だ」
「笑うなよ、いいか……草野なんだよ」
「草野?」
「そう…………」黒木は外を見詰めた。「これはあいつの作ろうとしている映画なんじゃないのか。ベジタリアン、という」
悲鳴が轟いた。下の階の方からだった。
二人は教室を飛び出し、聞こえた方に走る。嫌な臭いが鼻をかすめる。そして、深い戦慄の気配がした。階段を降りると、そこは昇降口に面する。そこには苦労して築かれたバリケードがある筈だった。だが。
外に繋がる扉が、開いていた。
二人は目を見開く。ゾンビの大群が、昇降口に溢れている。彼らは驚くほど静かに、校内を闊歩していた。
「大変だ……」
「な、なんで扉が開いてるんだ」
犬神は見つけた。どかされたロッカー。廊下に錯乱した机。誰かがどかしたに違いない。深い怒りと絶望が交錯する。
下から小泉が駆け上がってきた。悲鳴の主は彼女だったのだろう。
「大きな音がして、様子を見に行ったら……あ、あいつあらが……」
「ここはもう駄目だ。階段の通路を分断して、封鎖するしかない」黒木はそう言い、下唇を噛んだ。「あの量だ。全滅させるなんて不可能だ」
入口に居ただけでもクラス二つ分の人数が居た。到底、敵う相手では無い。
「とりあえず非難しよう」
犬神の言葉に二人は頷き、二階に上がる。ゾンビ達も階段を昇ってきた。ゆっくりとだが確実に、こちらに向かってくる。もはや死者の塊だ。犬神は全身が粟立つのを感じ、足を急いだ。
そのまま廊下を走る。後を追う様にして、ゾンビたちも二階に侵入してきた。まるで毒が全身を少しずつ蝕んでいくかのように、安全だった砦が浸食されるのが分かった。
「畜生、このままじゃ……」
弦音が聞こえ、黒い残像が一人のゾンビに突き刺さる。彼はそれを抱きかかえるようにして倒れ込み、進もうとする仲間の何人かを阻んだ結果になった。
走った先に、川本が弓を構えていた。その姿はこれ以上ないほど頼りに映った。黒木、小泉が礼を言ってその場を通過する。
「川本!」
犬神は叫び、傍にある消火器を取った。ピンを抜き、ノズルを死者たちに向けた。鈍い白が宙を舞い、視界を覆い尽くす。
「今だ、君も逃げるんだ」
言って、彼女の手を掴もうとする。その瞬間だった。犬神の巻いた煙から、一人のゾンビが顔を出した。それを見た途端、川本の目が見開かれる。
「た、武原……」
か細い声だった。これまで、そんな彼女の声を聞いたことが無かった。真の狼狽。犬居神は首を傾げる。
――武原とは、誰だろう?
川本は放心したように呟く。
「あ、あなた……」
煙から姿を現したゾンビの男子。彼の引き締まった精悍な体立ちも、今では醜い腐肉を覗かせている。彼女は彼を目の前にして、弓を落した。二人の距離はほとんど無いというのに。
「お、おい」
彼女は茫然と立ちすくみ、こちらに進んで来る男子を見ている。助けようと、犬神は川本の肩を掴む。
後ろに居た二人も異変に気付いたようだ。
「川本さん!」
小泉が叫び、こちらに戻ってこようとする。それを、慌てて黒木が止めた。「行っちゃだめだ!」
男子が川本に飛びかかる。禍々しく開けられた口が、彼女の腕に噛みついた。
「川本!」
彼女は尻餅をつく。犬神は消火器で男子を殴りつけた。彼は後ろのめりに倒れた。彼女は傷ついた腕を抑えながら、放心したようにその場を動かない。黒木と小泉がかけつけ、川本を運ぶ。犬神は、死者の追撃に舌打ちしながら、その後を追った。
「どうしてボケっとしてたんだ! 死にたいのか!」
珍しく怒鳴る犬神を、黒木は宥める。川本は黙り込み、教壇に体を乗せている。小泉は彼女の傷に包帯を巻いていた。四人は一旦、教室に身を隠していた。だが、すぐにここも奴らに感づかれるだろう。
「何故だ、なぜこんなことになった……」
犬神は堪え切れない怒りを吐き出す。
「もう二階も駄目だな。浸食された」
黒木は言って、俯く。学校はもう彼らの手に落ちたも同然だった。
「先に行ってよ」
抑揚の無い川本の声に、犬神は口を閉ざす。それはいつもの、彼女の姿だった。強く開かれた瞳は、とても気高く見えた。
「もう噛まれてる、助からない。三人で逃げて」
「いえ、私も残る」
小泉が、きっぱりと言った。普段とは一層違う強さを孕んでいた。黒木が呆れた声を出したが、彼女は上履きを脱ぐと、靴下をずらした。そこには、変色した噛み傷があった。
「黒木君、ごめんなさい。本当は昨日の夜、ロッカーに隠れる前に、噛まれていたの」
「そんな……」
小泉は、恥じらう様に川本に視線を変える。
「本当は、今日のトイレで川本さんにも言おうと思っていたんだけれど……言い出せなくて」
黒木は、愕然として犬神と顔を見合わせた。犬神は眩暈に似た衝撃を受けた。
「二人とは、ここでお別れ」小泉は、深々と頭を下げる。「短い間だったけど、お世話になりました。今までありがとう」
「駄目だ」
犬神はそう言ったが、自分では何も出来ない事は分かり切っていた。だが、自分の無力さをどうしても受け入れる事が出来なかった。「そんなのは駄目だ」
「犬神」黒木はその肩を掴む。
「どうして……なんでこんな酷い……」
自分の声が急に遠く感じた。目頭が熱くなった。視界が涙で歪んだ。川本がせせり笑う。
「泣き虫」
「茶化すな、ばかやろう」犬神は震える。「死ぬのが、怖くないのかよ」
頬を伝う涙を、擦りつけるように強く拭った。鼻を啜り、吐きだされたのは言葉にもならない喘ぎだった。
――ちくしょう。
「もう時間が無いぞ」
黒木が外の様子を伺ないながら、言う。
「行って。早く」川本の声。
黒木に肩を掴まれ、そのまま廊下に引きずられる。強い力だった。黒木は、二人に向き直る。
「死ぬまでは生きろよ」
犬神達がその場から遠ざかると、小泉は教室から顔を出して、手を振った。
「さようなら。私たちのことを、忘れないでね」
それは二日前の彼女からは想像もつかないほど、逞しかった。ぼんやりと見える彼女の手を、犬神はじっと目に焼き付けた。
時間が無い。
心臓が早鐘を打っている。口の中は渇いていて、舌は毛ばったカーペットの様だった。行く先々で、出会い頭のゾンビをなぎ倒していく。単体の場合は何とか対処する事ができたが、複数居ると仕方なくその先は断念し、迂回した。そうして、少しずつ進路は阻まれていく。
「草野はどこに消えたんだ!」
黒木が怒鳴る。犬神には見当もつかなかった。
「あいつが元凶なんだ。あいつを何とかすれば――」
黒木の言葉に、犬神は戸惑いを覚えた。彼の言葉の意味が、わかっていたからだ。
――いや、待てよ。
草野は「撮影終了」と言っていた。クランクアップを果たしたのだ。映画の完成、それはすなわち放映……。
「視聴覚室……」
自分の台詞では無いようだった。まるで誰かが横から囁いたかのように。黒木は胡乱な目付きで犬神を見る。
「この学校にスクリーンがあるような場所は無いのか」
「ある。部室棟の一階だ」
二人は顔を見合わせ、頷き合う。そして、一層足を速めた。
※
屋上へと続く階段は、自分の寿命だと川本は思う。段を上がればそれに応じて、目的地への距離は縮んでいく。
横で歩く小泉は咳き込み、体勢を崩す。慌てて立て直してやると、彼女は弱々しく微笑んだ。
ドアノブの感触は重く冷たい。開くと視界は一面、純白に刷かれた。目を凝らすと、柵が溶ける様にして佇むのが見えた。風も音も無い。さっきの喧騒とは打って変わって、ここは静寂に包まれていた。薄汚れたタイルを踏みながら、何もかも呑み込んでいく霧をぼんやりと見詰めた。
「私たち、もう死ぬしかないんだね」
小泉は言って、柵を掴んだ。諦観したその言葉に、川本はぼそりと呟く。
「……あいつらにはなりたくない」
小泉はそれを聞いて、ゆっくり頷く。黒木は死ぬまで生きろと言ったが、自分達には無理だと思った。こんな短い人生なら、死に方くらいは自由にさせて欲しいと感じる。
二人で柵をまたぎ、縁に立つ。数センチの先には、何も無い。空白だけが存在している。上履きの先が少し震えた。思い出したように、右腕の傷が痛みを知らせる。包帯の上から摩って、呪われた証を確かめた。
――ここからじゃ、何も見えやしない。
逆にその方が良いのかもしれない。
二人は手を繋ぐ。そこで初めて、小泉も震えているのだと思った。
背後でドアが叩かれている。正体は分かっていた。二人を嗅ぎつけてきた死者たちだ。もう時間は無いだろう。
「さよ……なら」
自分でも、誰に向けた言葉なのか分からなかった。隣に居る小泉なのか。置いていった仲間たちか。それとも――。
身体はゆっくりと傾ける。視界も傾いたかと思うと、僅かな浮遊感が一瞬遅れてやってきて、足元の確かな感触が掻き消えた。
体が放りだされた時、方向感覚の一切が弾け飛んだ。握った手のひらの感触だけが確かで、それが安心させた。
※
切り刻んだそれは、もう動いていなかった。床の上に転がる肉の塊を一瞥し、滝川は怒りに身を震わせる。
――どうなってやがる。
異変に気付いたのはついさっきだった。トイレから出ると、廊下は死者で埋め尽くされていたのだ。
約束が違う。黒木はここが安全だと言ったではないか。だが、既に学校は死者によって陥落している風だった。安住の地はがらがらと音を立てて崩壊しようとしている。体育館に居た方が、まだ助かる見込みはあったのかもしれない。あそこで救助を待っていれば……。
――ふざけやがって。死んでたまるか。
自分はまだ楽しんでは居ない。学校は面倒で退屈だったが、何とか我慢していた。卒業さえしてしまえば、後はこっちの物だ。大学に進学し、一人暮らしを始める。口うるさい両親から解放され、悠々自適の生活を送る。その筈だった。なのに、これだけ辛抱していた結果がこれだ。
――冗談じゃねぇ。
ブッシュカッターのエンジンを再びかける。その振動が、まるで心臓の鼓動と一体するように体中に響いた。同時に、自分の意志と同調し付き添ってくれているかのようでもあった。
滝川は辺りに視線を打ち続ける。自分を呪縛していた忌々しい校舎。何もかも、憎らしかった。自分を見下してきた教師、生徒たち。だがそれは、死んでしまった。ざまあみろ、と思った。そして、自分だけは何としてでも生き残るだという意思がより強固になった。
「死んでたまるか」
回転させた刃を、ゾンビに向かって振り下ろす。彼らを血霧に染め上げながら、滝川は校内を闊歩する。その跡には血濡れた亡骸が生まれていた。
獲物を探して、一階へと降りた時だった。壁が死角になっていて、滝川はその存在に背後を取られるまで気付かなかった。
背中に激痛が走り、滝川は叫び声を上げる。振り返ると、自分の肉を口に含ませた紙村が、茫然と立っていた。
「て、てめぇ……」
彼はゾンビになっていた。滝川は痛みよりも、紙村から危害を加えられた事に、猛烈に怒りが込み上げてきた。屈辱だった。普段はおどおどして、自分の言いなりだったというのに、反旗を翻してきたのだ。
「くたばり損ないが」
ブッシュカッターで一閃する。斬りつけた喉仏から鮮血が溢れだした。そのまま蹴りつけ、床に叩き付ける。
「俺に逆らうとは、いい度胸じゃねぇか!」
もう動いてはいないそれを、何度も何度も蹴りつける。僅かだが溜飲が下がった。亡骸に唾を吐きかける。そこで、ようやく閃いた。
――噛まれ、ちまった。
取り返しのつかない事になった。自分も目の前に横たわるそれと同じようになるのだ。全身が粟立つ。
さらなる激昂が体中を駆け巡った。
※
犬神と黒木は渡り廊下を進んで階段を下りる。黒木の話では、視聴覚室は授業以外では軽音楽部の練習場所になっているらしい。
廊下の角を曲がり、慎重に歩いていく。非常口の蛍光灯が妖しく光り、入口の二枚扉は緑色に濡れていた。防音が効いているのか、中からは音が聞こえない。ドアノブを握ると、すんなりと開いた。
途端に、視界に光が雪崩れ込んできた。思わず手でさえぎる。部屋は暗幕が引かれ真っ暗だったが、奥のスクリーンが光っていた。幾つもの話し声が聞こえた。笑い、手を叩く音、おどけた声、冗談を飛ばす者、それに対する反応、声援、掛け声……。部屋を見渡しても、それらを作り出している存在は無い。スクリーンの両端に、大きなスピーカーが置かれている。そこから流れているのだ。
「これは……」
二人は暗い道を歩く。映画の上映の間に合わなかった客が、遅れて劇場に入った気分だった。部屋の中は段差が出来ていて、スクリーンに近づくに応じて低くなっている。それに合わせて、長テーブルが並んでいた。
スクリーンには学校の景色が映っていた。青空を背景に悠然と佇む校舎。かと思うと画面は変わり、校舎の廊下が映った。カメラを直接移動させているのだろう。人の歩いている様な視線で進んでいく。眺めていると、また画面が変わる。教室だ。何人かの男女の生徒が混じって、談笑している。
犬神の知らない深陽高校の映像だった。鳴り響く放課後のチャイム、下校する生徒たち、夕焼けのグラウンドを走るサッカー部員、トロンボーンの音色を奏でる吹奏楽部員…………。
犬神は口を開く。
「これは君が作ったのか、草野」
草野は最前列の席に座っていた。他に観客は居なかった。スクリーンの光が、彼の静かな表情を浮かびあがらせている。草野はゆっくりと瞼を閉じ、それからまた開いた。瞳は絶え間なく流れ続ける映像を映していた。
「ずっと夢だった……映画を作るのが。でもいま観てみると下手糞ですね。カメラもぶれているし、編集が雑過ぎるや」
草野は言って、諦観めいた微笑を漏らす。スクリーンは今、文化祭の模様を映している。校舎の外に並ぶ出店、それに行列を作るお客。映像はどれも具体的な台詞が無かった。中身もバラバラで関連性があまり無い。草野の言うとおり、雑音が混じっていたり、映像がぼやけている箇所があった。
「お前はうちの生徒だったのか」
黒木の問いに、彼は答えない。ただ、ぼんやりと前を見詰めている。
「――それは何かの記録のつもりか?」
黒木の声。だが、それは本人から発せられたものではない。スクリーンの中に黒木が映っている。後ろに映り込んでいるバリケード。昨日の映像だ。続いて、カメラは犬神に向いたようだ。客観的に映った自分自身の姿に、良い様の出来ない複雑な気持ちが脳裏を掠めた。
「――しかし、これはお前の好きなホラー映画じゃない。現実で起きている事だ」
画面の人物に合わせて、本人も同じ台詞を吐く。その後、黒木は苦笑する。
「俺は戻りたいんだ、元のちっぽけな日常に。だから、このくだらない映画を終わらせてくれ」
その時だった。入ってきた扉から、エンジン音が聞こえてくる。スピーカーから流れる音声と張りあう様に、それは段々と近づいてくる。
その正体が暗闇から姿を現し、こちらに微笑みかけた。
「面白そうなコトしてるな。俺も混ぜてくれや」
滝川の声に、草野の片眉がぴくりと動く。
「もう満員ですよ。出ていってください」
「ふざけろ、俺は噛まれたんだ。もう後には戻れねぇ」
滝川は歩を進める。ブッシュカッターを握る彼の姿は、暴徒を思わせた。犬神は嫌な予感がした。黒木も緊張した面持ちで、滝川と草野を交互に見詰めている。
「治る方法を教えろよ、お前なら知ってんだろ」
唸るような声に、草野は首を横に振る。
「いえ、知りません。死ぬだけです。死んでください」
「おい――」
犬神が口を挟む。余計なことを言って興奮させるのは――。
滝川が雄たけびを上げながら、ブッシュカッターを振り上げた。スローモーションの様に、その光景は犬神の中でゆっくりと進んでいく。回転する刃は、草野の喉仏に叩き込まれた。
「やめろ!」
生首が宙を舞う。真っ赤な血飛沫を撒き散らしながら、草野の瞳はずっとスクリーンを映していた。
※
……ざわめき。
聴覚だけが、外界の波動を捉えていた。
闇の中にさらに黒を溶かし込んだような、完全な暗黒。
その中に彼女は居た。奥行きを失った無限の空間を漂っているような気分だ。視界はどこまでも呪われた様に黒濁した世界が広がっている。
――私は。
――私は、死んだはず。
ここは死後の世界だろうか。人間が死ぬとはこういう事なのだろうか。
――いや、違う。
意識が次第に形を帯びてくるのを感じた。肉体が感覚を取り戻していく。川本は、ゆっくりと目を開けた。
目覚めは緩やかに訪れた。
視界に映るのは、知らない天井だった。
「ここは……」
彼女はベッドに横たわっていた。意識が溶け込んでいたシーツは、皺だらけになっている。窓からは、切り取られた陽光が眩しすぎるくらいに差し込んでいた。跳び上がると、全身に鈍い痛みが走る。思わず、呻き声を漏らした。だが、動けない訳では無かった。慎重に体を動かし、ベッドから出た。スリッパが用意されていたので、それを履く。
病室だと、一目で分かった。学校の保健室などではない。どこかの大きな医療施設。部屋には同じようなベッドが幾つか並べられていた。どれも、もぬけの殻だった。この部屋に居るのは、自分しか居ない。
窓に寄り添う様に立つと、今居るのは一階だとわかる。庭の景色が見渡せた。
霧は晴れていた。
(了)
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2010/09/30(Thu)23:58:08 公開 / 田中倫太郎
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