- 『twins』 作者:遥 彼方 / リアル・現代 サスペンス
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全角19433.5文字
容量38867 bytes
原稿用紙約62.75枚
一年前のあの日から僕は幽霊に取り憑かれている。可愛くて、無邪気で、減らず口のたたない少女、美硯奏。彼女は僕の存在に溶け込むように常に一緒にいてくれる。彼女の双子の姉、音葉さんの負の一面を僕は次第に垣間見ていく。犯罪に手を染めること、保険金殺人、そして彼女の自殺。僕らはきっと硝子のように脆くできていて、その実ワイヤーのように鋭い糸で結ばれている。きっと、僕らは一つになれると思う。
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その時、僕と彼女は集中医療室の前で、座席に座って沈黙していた。ふと振り向くと、彼女は俯いて目を瞑り、手の平を組み合わせて小刻みに震えている。
僕は何か声をかけようとして、そしてすぐにその言葉を飲み込んだ。
(こんな時、なんて言えばいい?)
わからなかった。僕はただ沈黙するしかない。
再び前を向いて、集中医療室の扉を睨んだ時、ふと手を握られる。
振り向くと、彼女が俯いたまま、僕の手の平を強く握り締めていた。あまりに力をいれすぎて、繋がれた手と手は震えている。
その痛みすら感じる手の抱擁に、僕は顔を歪めて微笑んで、そっと彼女の手の平を握り返した。
(今の僕にはこんなことをすることしかできない)
そう思うと、自然と強く強く握り返す。
その時、扉が音もなく開いた。その途端、彼女は何か声にならない悲鳴を上げて、座席から立ち上がる。
医師は僕たちの前に歩いてくると、立ち止まった。僕たちの顔を交互に見つめる。
僕たちは手を握り合ったまま、医師の言葉を待った。
そして、医師が口を開く。
――手を尽くしましたが、奏さんはたった今お亡くなりになられました。
その途端、彼女の体から力が抜けて、倒れそうになるのを僕は彼女を抱きしめて防いだ。
僕は彼女を強く抱きしめながら、虚空を見つめて打ち震える。
(嘘だ。そんなの、嘘だ)
彼女が、僕の腕の中で、嗚咽を漏らす。医師はそんな僕たちを見て、ただ無表情に立っているだけだ。
奏のいない世界。そんな世界に果たして意味があるのだろうか。
彼女はくしゃくしゃになった顔を僕の胸にこすり付けて、喉が裂けそうなほど大声を上げて泣く。
その時だった。僕はふと頭上に人影が浮かんでいるのを捉えた。
僕は目を瞠る。何度も目を瞬かせて、その影を見る。
(そんな……嘘だろ?)
死んだはずの奏が宙に浮かんでいた。
腰にまで届く長い黒髪。雪月花を思わせる真っ白な肌。整った目鼻立ち。間違いなく奏だった。
奏は、僕と目が合うと、アルメリアのように美しく微笑んだ。そして、言った。
「ただいま。和君」
*
桜並木が道の左右を囲むように林立する。その坂道を、たくさんの新入生が保護者を同伴させて、紫陽花のような笑顔をふりまいて歩いていた。
そんな僕も、姉さんと並んで歩いている。
姉さんは軽く鼻歌を歌いながら、長いブラウンの髪をなびかせて、颯爽と歩いていた。
今日は高校の入学式だった。
ぎりぎりのラインを踏み越えてやっと入った高校なので、その分期待も大きい。高校では、気のあった友達や、彼女が欲しい。欲を言うと、初体験も高校で済ませたい。
そんな中、僕はちらちらと女子生徒の顔を見てしまう。なかなかレベルの高い女子がそろっているようだ。
その時、突然僕の胸からにょきっと手が生えてきた。
僕はそれを見たけれど、いつものことなので、放っておく。
さらに、にょきにょきっと腕やら足やらが生えてきて、僕の体から一人の少女が出てきた。
彼女は僕の目の前で宙に浮かぶと、くるりと一回転して、こちらに向き直る。
「何してるんだよ、奏。ふざけるのはやめろ」
僕は人に聞こえないように小声でつぶやいた。
奏は自分の着ている服の裾をつかんで、もう一度くるりと回って、最後に腰に手を置いてポーズを決める。
『どう? この高校の制服。似合ってるかな?』
僕は奏の姿を上から下まで一通り眺めてみて、うーんと唸った。
「少しスカート長すぎないか?」
『そっかな?』
奏はそう言うと、スカートの裾に手を当てる。すると、ポン! と音が鳴って、スカートの丈が短くなった。
そう、この子は、幽霊だ。名前は美硯奏。一年前から僕に取り憑いている。
星空に浮く天の川のような長い黒髪。アリッサムのような白い肌。そして、すらりと細い体。
とんでもない美少女だった。そんな彼女が四六時中付き纏ってくるので、僕は気が休まることがない。
その時、僕は前方を歩く一人の女子生徒の姿に目が留まった。
(あの後姿はもしかして……)
「音葉さん!」
僕は声を上げて、その女子生徒に駆け寄った。奏もぴゅ〜〜と空中移動をしてついてくる。
その女子生徒は、僕の声を聞くと、足を止めて振り返った。
奏と瓜二つの顔をした少女だ。短いダークブラウンの髪を揺らせながら、彼女は僕を見て微笑む。
「あら。和幸君」
彼女は奏の双子の姉の美硯音葉さんだった。才色兼備のスーパーガールで、注目の優等生。
物腰が柔らかくて、誰に対しても優しく、男女共に人気があった。
そんな彼女と、何故か僕は仲がいいのだ。
(奏の影響かもしれないな)
僕はそう思いながら、「やあ」と手を上げる。
「また同じクラスになれるといいわね」
うなずくと、ふと、音葉さんの隣を歩く男性と目が合った。
軽く会釈しあう。
見たところ、齢は五十代前半といったところ。口元に髭を生やしていて、背が高い。
筋肉が盛り上がるように体の節々についていた。
こんなことを言っては失礼かもしれないけれど、音葉さんとは全然似ていなかった。
「音葉の父の源次郎です」
源次郎と名乗った男性は人のよさそうな笑顔を浮べて、僕に近づいてくる。
(そうか。この人が奏の養父なのか)
僕がしみじみと彼の顔に見入っていると、奏が源次郎さんの首筋に絡みつき、『お父さん、久しぶり』と嬉しそうに言った。
そんな中、僕たちは校門にさしかかった。
真新しい校舎が見える。僕は心が躍るのを感じた。
「音葉。入学式で眠ることがないようにな」
ふと、源次郎さんが、音葉さんに冗談めかした様子で言う。けれど、音葉さんは聞こえているはずなのに、彼に振り向こうともしない。拒絶するような空気さえ感じられた。
(どうしたんだろう、音葉さん?)
僕は訝しく思った。
そうこうしているうちに、僕らは体育舘に着く。
「音葉。しっかりな」
微笑んで言う源次郎さんの言葉に、最後まで音葉さんは声を返さなかった。
体育舘での入学式が終わった後、僕は指定された教室に向かう。教室に入ると、僕は黒板に貼られた座席表を見た。
「えーっと……どこかな」
『窓側の一番後ろ』
奏が表をのぞきこみながら言う。僕はうなずき、窓側の席へと腰を下ろした。
その時、前の席に一緒に誰かが座る。ちらりとその横顔を見た瞬間、僕の顔は凍りついた。
「お前……笹山か?」
僕の声に、笹山が振り向いて、彼もびっくりした顔をする。
「なんだ、和幸じゃねえか」
「お前も同じクラスだったんだな。気付かなかったよ」
僕が言うと、笹山はからから笑う。
「お前とまた女の子の話を出来るかと思うと、嬉しいぞ」
その時、教室に音葉さんが入ってきた。僕は軽く手を上げて合図する。音葉さんは僕に気付くと、手を振り返してきた。すると、笹山が大声を上げる。
「おおっ! 美硯も同じクラスなのか! ラッキーだな! 毎日あの巨乳が拝めると思うと俺は嬉しいぞ!」
僕がはしゃぐ笹山の顔面を殴りつけた時、ちょうど担任の教師が入ってきて、ホームルームとなった。
今日はホームルームだけで解散となった。放課後になったが否や、笹山が椅子を蹴って立ち上がる。
「なあ、和幸! これからゲーセンへ行かないか!」
笹山は携帯を取り出して、画面を僕に見せ付けてくる。
そこには、女子店員が派手に転ぶ姿が激写されていた。
「見ての通り、彼女はドジっ子なのだ! もしかしたらパンチラもあるかもしれないぞ!?」
「盗撮なら一人でやってこい。僕を巻き込むな」
僕は歩き出す。「つれない奴だなあ」と笹山はぼやきながら教室を出て行った。
僕は音葉さんの席へとまっすぐに向かう。
僕が近づいていくと、音葉さんが冗談めかした様子で言った。
「あら何? 放課後デートの誘い?」
「うん、そんなとこ。一緒に帰らない?」
すると、音葉さんは苦笑した。
「ごめんね。今日、これから外せない用事があって」
「あ、そうなんだ」
僕は内心がっかりする。
「それじゃあ。また明日」
音葉さんは手を振って教室を出て行く。
僕は奏と顔を見合わせた。
「聞きたいこともあったんだけどな」
それは、源次郎さんについてだ。今朝の様子から見て、彼と音葉さんの関係がぎくしゃくしてないか、心配だったのだ。
奏は既に飛び始めていて、こちらに手を振って促している。
僕はうなずき、その後を追った。
それから一ヶ月が経った。学校生活に慣れ始め、それなりに楽しい毎日を送っていた。
けれど、この時すでに気付くべきだったのだ。僕の現実を脅かす危険が迫っていることを。それは僕の周囲の人間をゆっくりと侵食し始めた。もっと早く気付いていれば、結末は変わっていたかもしれないのに。
放課後。僕が教科書を鞄に詰め込んでいると、笹山がこちらに振り向き、言う。
「さあ、行くぞ! 和幸!」
もう、どこへ? とは聞かない。きっとあのドジっ子を見に行くんだろう。
「悪いけど、今日はパス。音葉さんと帰りたいから」
そう言うと、何故か笹山の顔が真顔になった。僕は驚く。
笹山のこんな真面目な顔は見たことがない。
(どうしたんだ、こいつ……)
僕が唖然としていると、笹山は「やめとけ」と一言言った。
「あいつはまともな人間じゃない」
僕は笹山の言葉が信じられなくて、言葉を失う。
(こいつ、なに言ってるんだ?)
奏も、唖然としたまま固まっている。
「もう一度言うぞ。美硯音葉はまともな人間じゃない。和幸、お前まで巻き込まれることはないんだぞ。いいから、やめとけ」
「お前、何言って……」
僕がつぶやきかけた時、ちょうど間の悪いことに、音葉さんがにこにこ顔で近づいてきた。
「和幸君」
音葉さんは上目遣いをしながら言った後、僕たちの間に流れる不穏な空気を感じ取ったのか、身をびくりと震わせる。
笹山が椅子を蹴って立ち上がった。そして、音葉さんに振り向き、言う。
「美硯。お前みたいなクズに、和幸を近づける訳にはいかない。とっとと失せろ、メスブタ」
音葉さんの笑顔が引きつった。
「和幸はこれから俺に付き合うことになっている。お前が出る幕はない」
「……どうして、あなたにそこまで言われる必要があるの?」
音葉さんが震えた声でそう言う。
僕は「おい!」と笹山の肩をつかんだ。
「何、さっきから訳わかんないこと言ってるんだよ!」
すると、笹山は僕を無表情に見つめ、言う。
「こいつには近づくな、和幸」
すると、その瞬間、音葉さんが僕から顔を背け、駆け出した。振り返らずに教室を出て行く。
「音葉さん!」
追いかけようとして、笹山に腕を掴まれた。
僕は思わず振り向き、笹山を睨む。
彼は僕の視線をものともせず、冷めた目をして言った。
「和幸。美硯に近寄るな」
「どうしてこんなことをしたのか、聞かせてもらおうか」
僕は低い声を出して、笹山を睨む。
僕らは行きつけのゲーセンに行った。アーケードゲームを黙々とやる笹山を睨んでいると、彼が視線をゲーム画面に向けたまま口を開く。
「怒ってるな、お前」
「当たり前だろ」
僕は低い声で言葉を返した。
「いずれ俺が正しかったことを理解する時がくる。必ずだ」
笹山はそう言って、高速でレバーを操作する。笹山の操る筋肉モリモリのキャラが、ちっこくてすばしっこい敵キャラを蹴り倒した。
「お前が何であんなこと言ったのか、理解できないよ」
僕がそう言うと、笹山は溜息をつく。
「駄目だ、こりゃ。完全にいっちまってるな」
笹山は画面を流れるスタッフロールを見つめながら、苦笑した。
「俺がこうやって口をすっぱくして言っているのには訳がある。聞いてくれ」
僕はただ、ゲーム画面を睨み据えている。
「美硯が、ヤクザと一緒にいたのを見た奴がいる。それだけじゃない。美硯がその手の奴らと恐喝しているのを見たとか、いい噂を聞かないんだ」
「そんなの、所詮噂だろ」
僕はぶっきらぼうにつぶやいた。
それまで黙っていた奏が僕を気遣うように僕の腕を握ってくる。
「噂じゃなかった。俺も見たんだ」
笹山は険しい顔をして、ゲームの台を拳で叩いた。その音で、周囲にいた人々が一斉に振り返る。
「俺も信じたくなかった。でも、あんな現場を見た後じゃ、そんなことを言う気も失せた。残念だが、美硯は裏の世界の人間だ」
僕はいい加減痺れを切らして、笹山の胸倉をつかんで叫んだ。
「ふざけるな!」
笹山はただじっと僕を見据えて黙っている。そして、ふとぽつりとつぶやいた。
「お前、ここまで言ってるのにわからないのか?」
笹山はそう言って、荒っぽく僕の手を自分の胸倉から離す。
「お前が少しでも危険な目に遭いそうになったら、俺は必ずお前を守りに飛んでいく。それだけは胸に刻み込んでおけ」
笹山の悲しそうな表情を見た途端、責める気持ちが失せた。
僕は舌打ちをついて、近くにあった椅子に座り、額に手を当てて溜息をつく。
『和君……』
奏がそっと僕の腕を握ってくる。僕は悔しくて、強く強く歯軋りする。
笹山の話を聞いた後も、音葉さんへの気持ちは変わらなかった。絶対に音葉さんを見捨てはしない。たとえ、笹山の話が本当だったとしても、それならば彼女をこっちの世界に連れ戻すだけだ。
僕は音葉さんを守ると決心する。けれど、決心を固めるのが遅すぎだ。それを知るのは、すべてが終わってからだった。世界はゆっくりと確実に崩壊していっている。
僕は翌日の放課後、まっすぐに音葉さんの席に向かい、彼女に歩み寄った。そして、笑いかける。
「音葉さん、一緒に帰ろう」
すると、音葉さんは食い入るように僕の顔を見て、そして泣きそうな笑い顔をした。彼女は何かをつぶやきかけて、すぐに押し黙り、ただただうなずく。
僕らは並んで歩き出し、教室の外に出た。
校舎を出てからも、僕たちは無言だった。しかし、彼女がふとつぶやく。
「どうして……」
彼女は僕をじっと見つめて、唇を震わせた。僕はそれを見て、笑う。
「どうしてって、そんなの僕が音葉さんと一緒にいたいからだよ」
すると、音葉さんは俯いて、唇を噛んだ。そして、小さな声でつぶやく。
「笹山君の言っていたことが本当だったとしても? それでも私の側にいてくれるの?」
「そうだよ」
僕は迷いなくうなずいた。すると、彼女はもう一度俯いて、手の甲を目尻にこすりつける。
そして、顔を上げて、満面の笑みを浮べた。そして、僕に近寄ると、そっと手を握ってくる。
『うわ……』
奏が口に手を当てた。
音葉さんはすっと僕の手を離すと、距離を取る。そして、微笑んで言った。
「……そう言ってくれて本当に嬉しい」
彼女はこちらを向いたまま背中を前にして歩き出した。そして、ぽつりと言う。
「家に寄ってかない?」
僕はその言葉に、少し戸惑う。
『和幸君の……馬鹿ッ!』
奏が僕の頭をぽかぽか叩いた。
その後、僕は音葉さんのマンションを訪れ、紅茶を飲みながらぽつぽつと会話をした。
こうした時間がなんだかかけがえのないものに感じて、僕は胸に温かい感情が広がるのを感じる。
放課後、僕はまっすぐに音葉さんの席へと向かい、「一緒に帰らない?」と言う。すると、彼女はうなずいた。僕たちは一緒に教室を出る。
彼女がさりげなく「今日も家に寄っていかない?」と誘ってきたので、僕は行くことにした。
住宅街を抜けると、彼女のマンションに着く。すると、音葉さんの部屋の前で、いかつい格好をした男が三人待ち構えているのを見て、僕は目を瞠った。
僕は音葉さんの方へ振り返り、彼女の顔を見た。彼女は無表情だった。
男が近づいてこようとしたので、僕は彼女の前に進み出て、かばう。
男の一人が口を開いた。
「お前、なんで定時連絡をしてこなかった?」
男は、目を吊り上げて、薄い唇を歪めて罵る。
僕はただただ音葉さんを見つめた。
よくない想像が頭をよぎり、僕は拳を強く握る。奏も蒼白な顔をしていた。
音葉さんは僕を見て、何かを迷うような素振りを見せた後、震える唇を開く。
「定時連絡なんて、毎回する必要はないでしょ」
音葉さんの突き放すような口調に、男が「ああッ?」と声を張り上げた。
「てめえ! 何勝手に自分で決めてるんだよ! 何様のつもりだ? ああ!?」
他の二人の男たちも口々に音葉さんを罵った。
音葉さんはただ地面を見つめて、固く唇を引き結んでいる。
「おい! 何黙ってんだよ!」
男がつかみがかってこようとしたので、僕は咄嗟に音葉さんを背中にかばった。
すると、初めて男は僕の存在に気付いたかのようにこちらを見据えた。
「なんだ、お前」
男はそう言った後、音葉さんを見る。
「お前もしかして、昨日の夕方こいつと会ってたんじゃねえの? 俺たちにしか体は預けないって自分で言ってたじゃねえかよ」
男はそう言って音葉さんに拳を向ける。僕は咄嗟に男の腕をつかんで、「やめろ!」と叫ぶ。
すると、その途端、男の目の色が変わり、僕は腹に鈍い衝撃を感じた。
僕は地面に膝をつく。
「てめえ、気に入らねえな」
男が僕の顔を見下ろし、唾を僕に向かって吐いた。
鼻筋に唾液が降りかかる。
奏が僕に寄り添い、『大丈夫、和君?』と声を張り上げた。
僕は弱弱しくうなずき、立ち上がる。
その時、音葉さんが僕をかばうように前へ進み出た。そして、頭を下げて男たちに謝る。
「ごめんなさい。昨日は外せない用事があったの。今度から定時連絡を欠かさないようにするから」
男は音葉さんを睨みすえて、再び唾を吐いた。
その時、男の懐から携帯が鳴った。男の表情が急に引き締まり、彼は携帯を開いて、耳元に当てる。
何度か「ああ」と繰り返してうなずいた後、携帯を懐にしまって、後ろの二人に振り向いた。
「サツに感づかれたかもしれねえ。これからなんとかするぞ」
男の言葉に、後ろの二人もうなずく。男は音葉さんに振り向くと、「お前も仕事しろよ!」と彼女の頬を張り飛ばした。
「音葉さん!」
音葉さんは倒れそうになるのを踏み止まり、俯く。そして、ぽつりと「わかったわ」と言った。
男は舌打ちをつくと、後ろの二人を従えて、僕の横を通り過ぎ、エレベーターに乗り込んだ。
ゆっくりと駆動音が聞こえてくると、僕たちの間に重苦しい沈黙が降りる。
僕は音葉さんの顔が見ていられなくて、ただただ唇を噛んで打ち震えた。
すると、音葉さんがそっと僕の手を握ってくる。僕はその瞬間、彼女の手を払った。
そうすると、音葉さんは寂しげに笑いながら、「場所を変えましょ」といって、階段を降り始める。
僕は俯きながら、その後に続いた。
僕は悔しかった。彼女を信じていた自分が裏切られたような気がして、胸が締め付けられるような心地がする。
奏は今にも泣き出しそうな顔をして、『和君、どうしよう』と言った。
(わかってる。僕だって信じたくないんだ)
僕らは近くの自然公園を訪れた。噴水がある広場の前のベンチに僕らは座る。
音葉さんが「もうこれで」と一言つぶやいた。
「もうこれでわかったでしょう? 私がどんなことをしているか」
僕は言葉を返さず、俯いて唇を噛む。
「私は犯罪に関わっている」
音葉さんはそう言って、懐から白い箱を取り出し、中から一本抜き取って、口にくわえた。
火をつけると、むさくるしい煙が鼻をつく。
音葉さんは煙草を深く吸いながら、寂しげに微笑んだ。
「ヤクザと共謀してるの。暴力団とだってつながりがある。詐欺をしてお金を稼いだわ。女の人を襲って、それをビデオに撮って、マニアに売りつけたりもした。私自身、何度も男に穢された体をしているの」
僕は額を押さえて、深く深く息を吐く。
「私はあなたが思っているような清純な人間じゃない。心にぽっかりと穴が空いた故障したロボット。ただ金を稼ぐ為に生まれた機械」
僕は首を振って、「もうやめてくれ」とつぶやく。
すると、音葉さんは煙を吐き出しながら、突然声高に笑い始めた。
「私はたくさんお金を稼いだわ。それをすべて自分の為に使うの。それって素晴らしいことだと思わない?」
「思わない」
僕は強くそう言いきる。音葉さんが無表情で僕を見据えた。
「音葉さん。もうこんなことするのはやめてくれ。僕はもう君を信じたくなくなってきた」
音葉さんは「ふーん」とつぶやいて嘲笑を浮べる。
「やっぱりそうなんじゃないの。真実を知ったら私のこと、嫌いになったじゃない」
音葉さんはそう言うと、煙草を地面に投げ捨て、ベンチから立ち上がった。
「あなたになんと言われようと、私はこれからも仕事を続ける。それしか私が生きる道はないの」
そう言って彼女は僕をじっと見据えた後、「バイバイ、ヘタレ」とつぶやいて去っていく。
僕は額を押さえたまま、ベンチに突っ伏した。
奏が静かに泣いている。『姉さん』と言葉を繰り返しながら。
もうこれで、何もかもがめちゃくちゃだ。音葉さんとの関係も、音葉さんへの気持ちも。
すると、奏が僕の胸にすがりついて、涙でぐしゃぐしゃになった顔で叫んだ。
『お願い! お願い和君! 音葉姉さんを見捨てないで! 姉さんには和君しかいないんだよ?」
「いるじゃないか。体を預けるほど仲のよい友達がさ」
僕が嘲笑うようにつぶやくと、奏は僕の胸を叩いて、さらに叫ぶ。
『違うよ、和君! 姉さんは本当は寂しいの! 一人ぼっちで、壊れてしまいそうなの! 和君がいなくちゃ、本当に姉さん、死んじゃう!』
じわじわと奏の言葉が頭の芯に染みていく。
その途端、音葉さんとの思い出が膨れ上がって僕の胸を焦がした。そんな中、僕は自分に問いかける。
(本当にいいのか?)
もう一度問いかける。こんなところで、彼女を見捨てて、いいのか、と。
そうして奏の顔を見ているうちに、僕の頭が次第にクリアになっていった。
(そうだ。僕は決心したじゃないか)
何があっても、彼女を守ると決心した。大切にしてきたものを天秤にかけてでも、守りつくしてみせると。
『和君がここで折れて、どうするの!』
僕は勢い良く立ち上がった。奏の腕が僕の胸にすり抜ける。
「ごめん、奏。僕が間違ってた」
そう言ってすぐに音葉さんの後を追って走り出した。
奏は僕のすぐ横を飛びながら、『そうだよ。和君それでいいの』とつぶやく。
『和君はいつも優しくて、弱くて、それでも何かにいつも一生懸命で。それは私が出会った頃から、ずっと変わらない。だから、私は和君が好きなの』
そう言って、彼女は微笑んだ。僕は息を切らして走り続ける。
音葉さんの部屋のインターフォンを何度も押した。けれど、彼女は出なかった。
留守なのか、無視しているのか。いずれにしろ、僕はドアに向かってそれだけを言う。
「絶対に僕は音葉さんを見捨てないから」
かすかにドアの向こうで息を呑む気配がしたような気がした。
翌日の放課後、僕はまっすぐ音葉さんの元へと向かう。彼女は僕と視線を合わせようとせず、鞄を持って、早足で教室を出て行く。
「音葉さん、待って!」
音葉さんは振り返らない。
僕は彼女に走り寄って、肩を掴む。
「待って!」
すると、ようやく音葉さんが振り向いた。彼女は何故かおびえた顔をしていて、僕にすがりつくような視線を向けてくる。
僕は音葉さんの表情に唖然とした。
「何かあったの?」
僕がつぶやくと、彼女は静かに首を振った。
「あなたには関係ないことでしょう」
そうぽつりとつぶやくと、彼女は歩き出す。けれど、僕には彼女の背中が頼りなげに見えて、耐えられなくなって、彼女の横に並んだ。
「ついてこないで」
「嫌だ」
僕はそう言って、一緒に歩く。
学校を出て住宅街に入っても、僕は音葉さんの元を離れなかった。
そのころから彼女の様子がおかしくなり、彼女はどこか震えながら、周囲へ絶えず視線を向けて、何かを警戒しているようだった。
僕は彼女の腕をつかんで、「本当にどうしたんだよ」と聞く。
すると、突然音葉さんが僕の腕を握って、すがりついてきた。
「怖いの……」
彼女の唇から声が漏れる。
「あいつらが来る」
「あいつら? もしかして昨日の奴のことか?」
彼女は首を振って否定した。
そして、僕の腕をつかんで離さない。
「本当は、ずっと和君が側にいてくれたら、と思ってたの。怖いの、本当に」
音葉さんは僕のことを和君と言った。その呼び名が、彼女の本当の気持ちを表しているようで、僕ははっとする。
やっぱり彼女はずっと僕に助けを求めていたのだ。僕を突っぱねながら、それでいてずっと助けを求めていたのだ。
僕は音葉さんの肩をつかんで彼女の体を支えるようにして、歩き出した。
マンションの前まで来ると、彼女はようやく僕の腕から手を離す。そして、青白い顔で笑い、言った。
「ありがとう。もうここでいいわ」
「本当に大丈夫?」
「うん。なんとかなると思う」
彼女はそう言って、僕への未練を断ち切るように背中を向けて歩き出す。僕もそれ以上、何も言わずに「じゃあ」と彼女に背を向けて歩き出した。その時だった。
突然タイヤの擦れる甲高い音が鳴り響き、曲がり角から車が現れ、こちらに突っ込んでくる。
車はまっすぐ音葉さんの立つ道路へと直進してきた。
音葉さんが悲鳴を上げる。
「音葉さん!」
『姉さん!』
僕は咄嗟に彼女に駆け寄り、彼女を抱きしめたまま、反対側へと跳躍した。
車がすれすれのところを掠めていく。
僕は道路の端を転げまわりながら、腕の中の彼女が無事であることを確認した。そして振り向くと、もう車の姿はなかった。
見ると、彼女は生気のない虚ろな目をしていて、静かに泣いている。唇を震わせて、「和君。和君」と繰り返した。
震えている彼女を支えて、彼女の部屋に行くと、飲み物を用意してあげる。すると、ようやく彼女は落ち着いたようで、カップに入ったホットミルクをすすりながら、ぽつりとつぶやく。
「私、命を狙われているの」
僕は彼女の言葉に絶句した。
(やっぱりさっきのは偶然じゃなかったのか)
僕は心中でつぶやく。
「こんなことを知ったら奏は悲しむかもしれないけれど」
そう言葉を切った後で、彼女は僕を見据えて、言う。
「私の命を狙っているのは、私の養父母よ」
僕は言葉が出ない。
(源次郎さんが? そんな、まさか)
「そして、あいつらは奏を殺した。専門の殺し屋に依頼して、彼女をひき逃げさせたの」
奏が『そんなの嘘……』と目を見開いて震えながらつぶやいた。
「冗談でしょ? 音葉さん?」
僕は震える声を搾り出して言う。音葉さんは首を振った。
「真実よ。あいつらは保険金を目当てに奏を殺し、そして私さえも殺そうとしている」
音葉さんはそう言って、悔しそうに唇を噛む。
「私はあいつらを許さない。奏の命を奪ったあいつらを」
僕はあの日のことを思い出した。奏に告白された日、別れ際に彼女は笑顔を見せた。そして、すぐにそれをかき消す車のタイヤ音。空中で反り返る彼女の体。絶叫する僕。
僕は額を押させて「嘘だろ……」とつぶやく。
奏は強く唇を噛み締めて、拳を握り締めて僕たちを見下ろしている。
『何言ってるの。そんなの嘘に決まってるでしょう』
「奏……」
『そんなの嘘よ! あの優しいお父さんがそんなことするはずない! 私のこと大好きでいてくれたもの!』
そう言って、奏の姿がかき消えた。
僕は言葉もなく、ただ俯くしかなかった。
次の日から音葉さんは学校を休んだ。放課後、彼女の部屋を訪れる。けれど、彼女はチェーンをかけたままのドアを細く開いて、「今日は帰って」とつぶやくばかりだ。
僕は奏や音葉さんのことで頭が混乱していて、ろくに食事も喉を通らなかった。奏は姿を消して僕とは口も聞いてくれないし。
そんな中、いつものように彼女の部屋を訪れると、ちょうど部屋から一人の男が出てくるところだった。よれよれのシャツにだらしなくネクタイを締め、裾が擦り切れたジーンズをはいている。二十代後半といったところか。
僕が警戒の眼差しで彼を見つめていると、彼は僕を見据えて、不敵に微笑んだ。
「音葉に何か用か?」
僕は答える気がしなくて、ただ彼を睨みつける。
すると、彼は煙草の箱を取り出して、一本口にくわえて火をつけた。
煙を吐き出して、僕に視線を向けてくる。
「お前もしかして、音葉の彼氏か? やめとけよ、あんな女。ろくな人生歩んでないぞ」
「あんたも似たり寄ったりだろ」
僕が低い声で言うと、男はからからと笑った。
「それもそうだな。俺もろくな人生歩いてねえよ。そもそも普通の人生にはあまり興味がない。お前のような奴には、俺のスリリングな人生の魅力がわからねえよ」
そう言って、歩き出す。僕の横を通り過ぎる際に、「ま、がんばりな」と言って廊下から姿を消した。
僕は奥歯を噛み締めると、音葉さんの部屋のインターフォンを押した。
彼女が出て来て、「入って」と促してくる。
僕は部屋に入ると、ベッドに腰掛けて、溜息をつく。
「あいつは?」
「同業者」
音葉さんは短く答えながら、パジャマのままで紅茶を淹れ始めた。
「私、あいつのこと嫌いじゃないよ。なにより仕事の腕はピカイチだし、人のことよく理解してくれるし、私の救世主だから」
彼女はそう言いながら、上機嫌にティーセットをテーブルに運んでくる。
「それはよかったね」
僕はぶっきらぼうにつぶやいた。すると、音葉さんは僕の顔をのぞきこんできて、「怒った?」と微笑む。
「で、大丈夫そうなの? 命の危険は」
僕が言うと、音葉さんは苦笑した。
「うかうか外も歩いてられないわよ。さっきあの男に買い物頼んだの。コンビニにも寄れないし。でも、大丈夫」
彼女はどこか決然とした表情で僕を見据え、言う。
「もう手は打ったから」
翌日、学校に行くと、担任の小百合先生が、音葉さんの両親が亡くなったことを告げた。
少し元気になってちらちら姿を見せるようになっていた奏は、今度こそ姿を現さなくなった。
僕はお通夜に赴き、音葉さんの実家を初めて訪れ、お焼香をして、それから音葉さんと話せる機会が来るのを待った。
ようやく音葉さんが僕の元に近づいてきて、喪服姿のまま礼をする。
「来てくれてありがとう。きっとあいつらも今頃嘆き、己の愚行を悔いている」
音葉さんの目には一片の悲しさもなかった。それどころか、どこか寒々とした狂気すら感じる。
「和幸君。今日はもう帰ってくれる? 少し一人になりたいの」
僕はうなずくと、後ろ髪をひかれる思いで、その場を後にした。
夜道を歩いていると、いつの間にか奏が傍らに浮かんでいる。彼女は静かに泣きながら『もう私、どうしていいのかわからない』と掠れた声でつぶやいた。
僕だって、途方に暮れている。
あの時、音葉さんは「もう手は打った」と言っていた。
(もしかして、音葉さんがやったのか?)
僕はそれを想像して、怖気がして打ち震える。
世界は少しずつ、大きな圧力を伴って崩壊しているような気がした。
源次郎さんが死んでから一週間が経つ。僕と音葉さんは中庭で一緒にご飯を食べていた。
どこか重苦しい沈黙の中、ふと彼女がぽつりとつぶやく。
「私、新しい養父母に引き取られることになったから」
僕は箸を止めて、唖然とした。
奏が蒼白な顔をして、『どうして……』とつぶやく。
これまで奏はずっと塞ぎこんでいたけれど、やっと明るい表情を見せるようになったのだ。それが、またこんな苦しい現実を突きつけられて、本当に気が触れてしまうのではないかと思う。
「新しい人生を始めたいと思ったのよ。あいつらは死んだし、これで私を脅かすものは何もなくなったわ。『残りのわずかな時間』を平和に生きていけるのよ」
(何を言ってるんだ?)
僕は言葉もなく、ただ音葉さんの顔を食い入るように見つめた。
すると、彼女は穏やかな表情をして、微笑む。
「やっと私にも大切なものができたの。みすみすそれを手放したりなんかしない」
(大切なものって一体なんだろう)
僕はそれを聞こうとしたけれど、音葉さんの幸せそうな顔を見ていると、責める気も失せた。
奏は『もういい加減にしてよ。私と和君を解放して』と泣きながらつぶやいている。
そうしてさらに一週間が経った。音葉さんはマンションを引き払い、養父母の自宅に移り住むことになる。彼女は本当に幸せそうで、逆に僕と奏は身を切られる想いで彼女を見ていた。こうして現実が歪んでしまった今、彼女をまだ友達として受け入れられるのか、信じられなかった。
しかし、現実はさらにさらに悪い方へと動いていた。
ある日の夜、マンションの自室で、溜息交じりにコーヒーをすすっていると、チャイムが鳴る。気だるげに「はい」と答えながら、ドアを開くと、音葉さんが立っていた。僕は驚く。
彼女は強張った顔をして、無言で僕の部屋に踏み入ってきた。
彼女はふらふらと頼りげない足取りで部屋に上がると、「シャワー貸して」と掠れた声でつぶやき、バスルームに入っていく。
「ちょっと、音葉さん!」
僕が慌てて彼女の後を追うと、すでに彼女は服を脱ぎ始めているのか、衣擦れの音がドア越しに響いてきた。僕は慌てて目を背ける。
すぐにシャワーの音が聞こえてきて、僕は溜息をつきながら、女物の着替えを用意した。姉さんが女の子が部屋にきた時のために、と用意してくれたのだ。
(こんな時に役に立つとは)
僕はそう思いながら、そっと脱衣場のドアを開いて中に入り、音葉さんの脱ぎ捨てた衣類が入ったカゴの横に置く。と、その時、ふと音葉さんの服に目がいった。
『ちょっと、何見てるのさ!』
奏が慌てて僕の目を目隠しする。
「そうじゃない。これって……」
荒っぽく脱いだ服の上には、コートがかけられていて、そこから下に置かれた服の袖がのぞいていた。そこにべっとりとこぶりついている赤い色。
奏がそれを見た瞬間、『うそ』とつぶやく。
僕はそっとコートに手をかけ、それを押し退けた。下にあったワイシャツには、血が飛沫を上げたような跡を残してべっとりと染みこんでいる。
「嘘だろ……」
(音葉さんが傷ついたのではないとしたら、この血は……)
僕は唾を飲み込む。
(彼女が、誰かを傷つけた、ということなのか?)
『和君……』
奏が蒼白な顔でじっと見つめてきた。
僕は唇を噛み締め、そっとコートを元の位置に戻す。
僕は脱衣場を出て、リビングのソファにもたれた。
「音葉さん。一体何してるんだよ、君は」
もう限界だった。僕には彼女を守りきれそうもない。自分があまりにもちっぽけすぎて、彼女の負を取り除くことはできないのだ。
その時、脱衣場のドアが開いて、音葉さんが出てくる。
僕は声をかけようとして、その瞬間、目を背けた。
彼女は着替えを着ていなかった。バスタオル一枚を体に巻きつけたままだ。
視線を彼女に向けずにいると、そのまま足音が近づいてきて、僕の視界に音葉さんの足が見える。
僕はゆっくりと視線を横へ向けて、彼女を見た。
音葉さんは唇を震わせて、恐怖に引きつった顔をしながら、泣きそうな声で「和君」と言う。
「もう私駄目だよ。君と一緒にいさせて」
そう言って、音葉さんはバスタオルから手を離した。タオルが滑り落ちて、彼女の足元に舞い降りる。
彼女の裸身は生気が抜けたように真っ白で、形のよい胸も、しなやかな太ももも、すべてが蝋人形のように現実感がなかった。
「抱いてよ、和君。あいつの血で、私の体は穢れてしまったの。君の純真な体で私を癒して」
そして、彼女は夢遊病のように歩いてきて、僕の顎に手を差し伸べる。
視界がぼやけた。僕は嗚咽をかみ殺しながら、彼女を強く強く抱きしめる。
「もう、やめよう。音葉さん。それ以上やったら、おかしくなっちゃうよ」
――僕も君も。
音葉さんはゆっくりと僕の背中に手を回して、僕の腕の中で歯をかちかち鳴らして震えていた。
音葉さんに服を着せ、僕たちは手を握り合ったまま、長いことソファの上で黙っていた。そんな時、彼女の携帯がけたたましく鳴る。
彼女は携帯を耳に当てると部屋を出て、廊下でぽつぽつと誰かと会話を交わした後、戻ってきた。彼女は苦笑すると、じゃあ行くから、とつぶやく。
僕はうなずいた。
「夕方からこの家にいたことにして。お願い」
彼女はさらにつぶやく。僕はもう一度深くうなずいた。
「服はすべて捨てて。それじゃあ、私は行くから」
彼女はそう言って、最後に僕を潤んだ目でじっと見つめると、微笑んで、部屋から出て行く。
翌日、音葉さんの養父が強盗に刺殺されたというニュースがテレビで報道された。家からはわずかな現金が盗まれており、犯人がそれを持って逃亡した可能性が高いと伝えられる。
僕はその最悪の想像をした。彼女が、養父を殺したんじゃないか、と。
源次郎さんが死んで、さらに立て続けに新しい養父が死んだ。こんな偶然、ありえるのだろうか。
彼女は一週間ほど学校を休んだ。ようやく教室に顔を見せた彼女は、憔悴しきっていて、何度声をかけても曖昧な返事をするだけだった。
奏も彼女についてはもう何も言わない。このまま僕らは重い現実に押しつぶされてしまうのだろうか。
放課後、僕は音葉さんに「一緒に帰らない?」と誘った。彼女は無言でうなずいた。僕らが校舎を出た時、校門にスポーツカーが止まっていて、彼は僕らを見ると、手を振ってきた。
近づくと、声をかけてくる。
「よう、音葉」
以前、音葉さんのマンションの自室から出てきたあの男だった。軽薄そうな笑顔を浮べて、肩を揺らせて笑っている。
「最終確認しにきた。本当にいいんだな?」
男の問いに、音葉さんは一瞬間を置いた後、黙ってうなずいた。
「もういいの」
彼女はそう言って、俯く。
「そうか」
男はうなずくと、スポーツカーにすぐに乗り込み、「それだけ確認しに来たんだ。じゃあな」と言ってアクセルを踏んだ。
男の乗った車が消え去ると、僕は音葉さんに振り向き、「あいつは一体何者なんだよ」とつぶやく。
音葉さんは「殺し屋よ」とぽつりと言った。
「ひき逃げをする専門の殺し屋。私も彼にお願いして、源次郎達を始末してもらったの」
僕は目を瞠る。奏は『そんな……』とつぶやいた。
(源次郎さんが交通事故で死んだのは、偶然じゃなかったのか)
あの時、「手を打った」と言っていたのは、こういうことだったのだ。
つまり、音葉さんが、前の養父である源次郎さんを殺したのだ。
「もう驚くことじゃないでしょ? 行きましょ」
そう言って、彼女は車が去っていった方向へ歩き出す。
「音葉さん」
僕が呼びかけても、音葉さんは振り返らない。
そのまま住宅街へと進んだ時、音葉さんが道路の真ん中で足を止めた。
「ここで別れましょ」
音葉さんはそう言って、道の先を指差す。
「和幸君の家はあっちの方向でしょ。ほら、早く行って」
「音葉さん、僕は」
僕はまごつく。
「大丈夫。君はもう十分私に尽くしてくれた。それだけで十分だから」
そう言って音葉さんは微笑んだ。
「音葉さんは僕の大事な友達だ」
音葉さんは「うん」とうなずく。
「行って」
僕は彼女に背を向けて歩き出した。
彼女はただじっと立ちすくんで、手を振っている。
その時、道の先からワゴン車が現れて、音葉さんの立つ道路に突っ込んできた。
僕は振り向き、声を張り上げる。
「音葉さん!」
音葉さんは最後に「じゃあね」とつぶやき、車にはね飛ばされた。
彼女の体がぐちゃぐちゃに歪んで、そして鈍い音と共に地面に潰される。
僕と奏の叫びが重なった。
そして、ようやく世界は崩壊を止める。
救急車を呼んでそれからのことはよく覚えていない。
気付けば僕は集中医療室の前にいた。隣には、音葉さんの養母を名乗る女性が蒼白な顔をして立っていた。
音葉さんを預かったという新しい養母だ。
夫を亡くしたばかりでこれでは、こうして立っているのもやっとだろう。
音葉さんが、夫を刺し殺したという事実を知ったら、彼女はきっとおかしくなってしまう。
「こんなことになるなんて……」
女性は涙を必死に堪えて打ち震えている。
僕は音葉さんが轢かれる寸前のことを思い出す。車の運転席に座っていた男は間違いなく、校門で出会ったあの男だった。奴が音葉さんを殺そうとしたのだ。
(でも、なんで……)
誰に依頼されたのか。音葉さんは死ぬ前に「じゃあね」と言った。それはつまり、こうなることを予期していたのか?
僕は額を押さえて考え込んだ。
(わからない。音葉さんに何が……)
すると、女性が僕に話しかけてきた。
誰かと話していないと、気がおかしくなりそうだ、と彼女は苦々しく笑って言う。
そして、彼女は音葉さんに関わる様々なことを話しだした。
出会ってからの、彼女とのほんのわずかな思い出。彼女が語っていたこと。
すると、突然女性が音葉さんと出会った頃のことを語りだす。
「音葉さんと出会ったのは、夏の夕暮れのことでした。彼女は突然私たちの家を訪れて、博也に会わせてほしいと言い出したんです」
「博也?」
僕は思わず振り向いて、女性に聞き返した。
「私たちの息子です。養子ですけれど。病弱で、ずっと病院暮らしなんです」
(博也君、か……)
彼女に弟ができたなんて、一言も言っていなかった。
音葉さんはどうして、博也君に会いにいったのだろう? 何が目的で?
「見ず知らずの人に、会わせることはできないと断ったんです。でも、何度も家に来てお願いしてくるんです」
僕は地面を見つめて、考えた。
音葉さんがそうまでして会いたがった理由。
「うちは貧乏で、博也の手術費を捻出することもできずに困っていたんです。そんな時、音葉さんがお金を私たちに差し出してきて。手術費に使ってくれと」
「……え?」
僕は目を見開く。
その時、今まで理解できなかった音葉さんの行動の理由が、わかった気がした。
彼女が必死に、お金を稼ごうとしていた理由。
彼女が、犯罪から手をひかなかった理由。
彼女は、ずっと博也君の医療費を稼ぐ為に、動いていたのか。
(じゃあ、音葉さんは今まで……)
様々な想いが駆け巡って、色々な感情が渦巻き、駆け抜けていった。僕はじっと黙りこくった末、ゆっくりと顔を上げ、女性を見据えた。
そして、口を開く。
僕は総合病院に向かい、指定された病室に足を運んだ。
博也君は、色白の美少年だった。
突然の僕の訪問に戸惑っていたけれど、音葉さんについて色んなことを話してくれた。
音葉さんが病室に来て色んな話をしてくれたこと、彼女に早く元気になってと励まされたこと。
必死に音葉さんについて語る博也君を見ていると、僕は胸が締め付けられる心地がした。
きっとまだ、お父さんが死んだことや、音葉さんが交通事故に遭ったことを知らされてないのだろう。
「最近、音葉さんに変わったところはなかったのかな?」
すると、博也君はうーんと真剣に考え込んで、「そういえば」とつぶやいた。
「三週間くらい前かな、お父さんに渡された薬を飲もうとしたら、音葉ちゃんが、「ちょっと待って!」って僕からそれを取り上げたの。その後、じっと薬を見つめて、青い顔になって……「絶対に飲んだら駄目」って言ってきたの。変だよね。お薬飲まなきゃ僕死んじゃうのにさ」
その瞬間、僕の頭の中で、パズルのワンピースがカチリ、とはまった音がした。
僕は思わず額を押さえる。
(そんなまさか。でも、なんで……?)
僕はその想像に震え、歯を食い縛る。
(こんなことがあっていいのか。こんな悲しい結末があっていいのか)
僕は耐え切れなくなって博也君の病室を出て、音葉さんがいる病院へと向かった。
集中医療室の前で、椅子に座っていた女性は僕に気付くと、儚げな笑顔を見せる。
「博也とは会えましたか?」
僕はうなずく。そして、言った。
「音葉さんと博也君って……」
すると、女性は「気付きましたか」と思案げな顔をしてうなずいて、顔を歪めて笑った。
「そうです。実の姉弟です」
僕は深く深く息を吐く。
音葉さんは、自分に生き別れの弟がいることを知って、博也君の養父母に会わせてくれと頼み込んだのだ。そして、自らお金を稼ぎ出して医療費を捻出した。
けれど、音葉さんはある日、養父が博也君に毒を飲ませて息の根を止めようとしていることを知った。養父はきっと博也君の保険金を狙っていたのだ。
音葉さんはそれを知って、激昂して、彼を刺し殺した。
そして、彼女は生きることに希望をなくし、彼女に残っていたのは、博也君が幸せに生きて欲しいというただそれだけの願いだった。だから、彼女は――。
「そう、音葉さんから、養子にしてくれって言ってきたんですよ? 博也と一緒に楽しく生きたいからって」
(違う。彼女の目的はそれだけじゃない)
僕は心中でつぶやく。
「彼女を養子にしてから、音葉さんは自分に保険金をかけろ、と頼み込んできたんです。必死に頼むものだから、私たちもとうとう折れて……。彼女は自分にもし何かあったら、その保険金を博也の医療費にあてろって何度も念を押してきて。まさか、それがこんな形になるなんて……」
そう、音葉さんは、ひき逃げ専門の殺し屋に自分をひき殺すことを依頼し、交通事故に巻き込まれることによって、保険金を捻出しようとしていたのだ。自分の死までも利用して、弟を助けたいという気持ち。それが彼女をここまで突き動かせた。
僕は何も知らなかった。彼女のうわべだけを見て、彼女が何を考え、そして苦しんでいたのか、気付かなかった。
(僕は、馬鹿だ)
その翌日、携帯に連絡が入り、僕は音葉さんが一命を取り留めたことを知った。しかし、彼女は植物状態で今後目を覚ます可能性は限りなくゼロに近いのだと彼女の養母に言われる。
三ヵ月後。僕はある病院を訪れ、指定された病室に向かっていた。傍らには奏が浮かんでいる。
「大丈夫だよ」
僕はそっと奏に呼びかけた。
『でも……どうするつもりなの?』
「どうするもこうも。普通に接するだけさ」
僕はそうつぶやき、一つの病室の前で立ち止まる。すぐにノックをした。「どうぞ」と小さな声が聞こえてくる。
僕は目を瞑り、深く息を吸った後、扉を開いた。
すると、ベッドに一人の少女が座ってこちらを驚いたように見つめている。
ダークブラウンの髪。整った目鼻立ち。意志の強そうな目。
僕は微笑んで、彼女に「こんにちわ」と声をかけた。
彼女は僕を警戒するように見つめ、黙って見つめてくる。
僕はゆっくりと彼女に近づいて、ベッドの横の椅子に腰掛けた。
「はじめまして。僕は清水和幸」
すると、おずおずと彼女は自分の胸に手を置いて、言った。
「私は、長谷川音葉」
僕は「知ってる」とうなずく。
「簡単な自己紹介をするよ」
僕はそう言って傍らに浮かぶ奏へ視線を向けた。
奏は黙ったまま僕を見つめて微笑んでいる。
「僕はね、幽霊憑きなんだ」
音葉さんがその途端、「は?」と間抜けた声を上げた。
「君の妹さんに取り憑かれてるの」
音葉さんは口をあんぐりと開けて、僕を見つめていたが、その途端ぷっと噴きだす。
「何言ってるんですか? 変な自己紹介だなあ」
ようやく音葉さんは警戒を解いたようで、僕を興味深そうに見つめてきた。
僕はゆっくりとうなずく。
少しずつでいい。僕と彼女は少しずつ歩み寄っていけばいい。
僕はゆっくりと横へ振り向き、奏を見つめる。
奏はそっとうなずき、微笑んだ。
僕は口を開き、語りだす。
僕たち三人が出会ったあの日々のことを。
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2010/09/30(Thu)18:21:01 公開 / 遥 彼方
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■作者からのメッセージ
二回目の投稿になります。自分なりに精一杯書いたつもりの作品です。
ですが、まだまだ至らぬ部分が多く、そうした欠点を改善したく思い、ここに投稿させていただきました。
何か気付いた点があれば、なんなりとご指摘ください。感想をお待ちしています。