- 『アイスクリームが溶けるから』 作者:こーんぽたーじゅ / 恋愛小説 ショート*2
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原稿用紙約12.15枚
僕たちはどこにでもいるような恋人同士だ。それ以上でも、それ以下でもない。
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「夏といえばアイスですね」
電話越しの彼女の声には、純粋なアイスクリームへの憧れと、水面に墨を一滴垂らすほどの暑さへの恨みが含まれているようだった。彼女は電気代を気にしてか、真夏でもめったなことがない限りクーラーを作動させないのだ。
「じゃあ明日、僕がアイスを持って君の家に行くよ」
「嬉しい」
「嘘だって言ったら」
「なぐる」
彼女は相当暑さにやられているようだった。
「真昼の暑さの中で食べたら美味しいだろうね。ということで昼ごろに行くから」
「ん、任せた」
僕は机の上におかれたリモコンに手を伸ばす。彼女とのとりとめもない話に、とりとめもない返事を返しながら、「冷房」と書かれたスイッチを指でなぞる。彼女の何気ない一言に笑みがこぼれる。その拍子に額の汗がスイッチをなぞる指におちた。
やはりこのスイッチを押すべきだろうか。僕は彼女の力の無い相槌を耳の中で転がしながら、「冷房」と「暖房」の間を行ったり来たりした。「冷房」「暖房」「冷房」と見せかけてやっぱり「暖房」たまに「除湿」。スイッチの凹凸の感触が指に上手い具合にフィットするのが癖になった。
彼女がアイスクリームの話をするから、気だるそうな声が猫のようだから、頑なな彼女を差し置いて僕がこのスイッチを押したのを彼女が知ったらどう思うだろうかなんて考えてしまうから、でもやっぱり彼女と暑さを共有したいという馬鹿な僕が顔を見せるから、だから僕は迷っている。
意識していなかった熱帯夜が徐々に、僕の中でむっくりと起き上がっていく。暑い。彼女は一体今どんな姿勢で僕と会話しているのだろう。寝そべっているのだろうか、それとも壁か柱に身を委ねているのだろうか。彼女との会話と並行して僕はくだらない想像に花を咲かせた。
「それでですね、彼氏さん」
「なんでしょうか、彼女さん」
「私はハーゲンダッツのバニラアイスクリームが食べたいと思っているのです」
「僕もちょうど今カップ焼きそばが食べたくなる時間帯だ」
「ハーゲンダッツ」
「カップ焼きそば買ってあったかなぁ」
「……暑い、いじわる」
「僕がいつ君にいじわるをした?」
「今」
「具体的に?」
「……むぅ、いじわる」
「だから何が」
「明日……そのぅ……」
彼女がじたばたと脚を動かしているのが分かる。ということはベッドの上かもしれない。
「僕がハーゲンダッツのバニラを買って君の家まで行けばいいんだね」
「ん、よろしい」
彼女は上ずった返事を残すと僕の返事も待たずに早々と電話を切ってしまった。彼女は時に横暴だ。でも僕は何で彼女が電話を切ったのか知っている。そしてきっと彼女も僕が電話を切られた理由を知っていることを分かっている。それでいいのだ。
僕は「冷房」のスイッチを押すと、台所にカップ焼きそばを探しに行った。
彼女のアパートは僕の家から歩いて十分ほどの場所にある。僕たちは大学生で彼女は下宿、僕は実家通いなのだ。
彼女のアパートへ向かう道中にコンビニはあった。僕はうー、と唸りながら自動ドアをくぐった。極度の暑さにへばっている時は、開閉と同時に響くリズムも耳障りだった。昨晩エアコンを掛けたまま眠ってしまったせいで全身がだるく、しかも外の暑さに対する免疫がことごとく奪われてしまっていた。おかげでアスファルトからの照り返しで蒸されるような気分を味わい、ここまで来るのも一苦労だった。コンビニのエアコンはいつも強すぎるくらいだけど、今の僕にはかえってそれが心地よかった。
入店して棚を二列ほど過ぎたところに冷凍庫があった。そのガラス越しに色とりどりのアイスクリームが見える。ハーゲンダッツもある。なんと他のアイスの三倍近くもする。彼女は貧乏学生の僕を殺そうとしているに違いない。
僕は隣の百円のラクトアイスに手を伸ばした。冷凍庫のガラスに彼女の半開きの目が映る。振り返るがそこには誰もいなかった。そうだ、彼女は知ってるのだ。僕が断れない性格ということを。のほほんとしているように見えて彼女は意外と策士なのだ。
『ハーゲンダッツ、食べたい』
ラクトアイスを手放し一旦ガラス戸を閉める。顎に手を置く。
『食べたい』
親指の腹で剃り残した髭をなぞってみる。
『買ってこないと、なぐる』
冷や汗が首筋を伝った。同時に罪悪感めいた切なさがわき上がる。顎に置いた手を離す。
『ん、おいしいっ』
「はいはい」
不覚にも頬が緩んでしまった。
それから僕はハーゲンダッツのバニラ一つと、ラクトアイスを数個籠に放り込むとレジに並んだ。値段も見ず、適当に紙幣を差し出す。金髪をツンツンに尖らせたお兄ちゃんが少し煩わしそうな顔をした。僕は少し詫びるような仕草で釣銭と商品を受け取った。
「横暴だ」
インターホンから指を離すと僕はその手で額の汗をぬぐいながら呟いた。この動作を繰り返すこと四回、彼女は出てこない。中からも人の気配はない。
彼女のアパートは最近の女子大生が住むには少々セキュリティに課題が残る。オートロックのドアもないから彼女の部屋の前までは簡単に行けるし、防犯カメラも見た限り設置していない。それに女性専門アパートでもないから男の僕でも簡単に入れてしまう。玄関の鍵も一つだ。そのことを彼女に訊ねたことが一度だけあった。彼女のその時の返事はあまりにもこっ恥ずかしいものだったので、僕の心の中だけに仕舞っておくことにするが、その一件以来僕は何となく彼女の部屋のセキュリティについてとやかく言えなくなってしまった。
それにしても、だ。
「横暴だ」
僕は再度呟いた。
確かに時刻をはっきりと決めなかった僕も悪い。けれど訪ねると言った以上、彼女には家で待っていてほしかった。帰ってくる彼女を迎えるようでは、どちらが客人か分からなくなってしまうじゃないか。おもむろに携帯を鳴らしてみた。お約束のように留守番サービスに繋がった。僕の留守番が確定した。
彼女の部屋は二階建てアパートの二階にある。その廊下には一応屋根はついているけれど西日が絶妙な角度で差し込むので、外気温とほとんど変わらない。彼女はどこに行っているのだろうか。飼い猫の帰りを待っているような、そんな気分でコンビニの袋を指先で弄んだ。
ビニール袋の中ではいくつものアイスクリームが顔をのぞかせている。少し迷った末、僕は一つを手に取った。スイカの形をかたどったアイスクリームだ。汗で滑る指でパッケージを開けて齧りついた。彼女の姿や、一緒に食べられない残念さが頭をよぎったが、一つくらい食べても罪は無いだろう。それくらい暑いのだ。
舌の上でゆっくりと溶けていく最初のひとかけらは、すぐに飲みこんでしまうのも惜しかった。咥内の体温でゆっくりと溶かされるのを待つひとかけらのスイカアイスは、夕立が止むのを待つ子猫のようでもあり、そして今の僕のようでもあった。じっとりとスイカの風味が口いっぱいに広がっていく。フルーツの苦手な僕はスイカの味を知らない。けれどこのアイスの味が本当のスイカの味に近いのだとしたら、夏にヒトがこの果実を食べたくなる理由が何となく分かるような気がした。根拠はないけれど。ただ今は、この冷たさと甘さに浸ることができれば、スイカが果物か野菜かなんてことさえどうでもよかった。
溶かしては、飲み込む作業を何度か繰り返すうちに廊下を叩く音が届いた。歩調で彼女だと分かった。確かめる必要がないからだろうか、それとも暑さでいじわるな気持ちになったからだろうか、僕はわざと足音に視線を向けなかった。徐々に近づいてくる気配を感じながらまた一口スイカアイスを齧る。
「美味しそうなものを食べてますね」
彼女が僕の顔を覗き込んだ。
「誰かさんの帰りが遅いから」
「しょうがないです。急ぎの用だったのですよ」
彼女の視線が僕の手のビニール袋に向けられた。ぱぁっと表情が明るくなる。
「それはもしや」
「彼女さんの御所望の品もございますよ」
「帰りが遅くなってごめんなさい、彼氏さん」
彼女はぺこりと頭を下げた。
「急にしおらしくなりましたね」
「まさか本当に買ってきてくれるとは思わなくて」
「心外ですね」
彼女は含みのある笑みを洩らしながら玄関の扉を開けた。溶けかけの最後の一口と、彼女の鍵に取りつけられた根付の鈴の音が妙に涼しかった。「入って」と彼女がスリッパを出しながら手招きする。
僕はさりげなく時計を確認した。待ちぼうけを食らってから十五分が経過していた。
いつのまにかビニール袋は彼女の手に渡っていた。滴る水滴が、西日に照らされて眩しい。ぺたぺたと部屋の奥へ駆けていく彼女の表情も驚くほど明るい。そこまで喜んでもらえるのならば、この炎天下の中十五分も待った甲斐もあったものだ。
そう、僕はあのビニール袋と、アイスクリームと炎天下の下、過ごしたのだ。
それに彼女は、まだ気付いていない。
「何を笑っているのですか」
「何でもないよ」
「ハーゲンダッツ、すごく楽しみですよ。彼氏さん、ありがと」
僕はちょっとの罪悪感と、いじわるな期待を背負いながら――それでもやっぱり彼女には言わないでおこうと小さく決心して時計の盤面に落ちた汗を指でぬぐった。
それはもしかすると、僕は彼女をからかいたいのかもしれない。炎天下の中待たされたことをちょっとだけ不服に思っているのかもしれない。むくれた彼女を、なだめてみたいのかもしれない。アイスクリームが溶けているのか、溶けていないのかはっきりと言い切れないからかもしれない。そのどちらかを想像しながら、アイスクリームのふたを彼女が開けたときの反応を予想するのを楽しんでいるのかもしれない。そして、彼女がアイスクリームを口に運ぶ姿を早く見てみたいのかもしれない。
よく、分からないんだ――だけど。
すべては、アイスクリームのふたを開けた先に待っているのだろう。
なんとなくそんなことを思いながら、僕は差し出されたスリッパに足を通した。
<了>
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■作者からのメッセージ
読んでいただいた皆さんありがとうございます。はじめまして、もしくはこんばんはこーんぽたーじゅ、略してこんぽたです。それ以外の呼び名も随時募集しています。「おいこら、『夜半のフモト』の更新をほっぽり出して短編とはいい度胸してるじゃないか。歯ァ食いしばれ」と思った方には申し訳ないです。……そろそろ書き始めようと思います。
今回の作品はいままでのこんぽたの作品に比べて、ゆるりとした穏やかな作りにしてみたつもりです。なのでびっくりするようなオチも展開も用意していませんが、楽しんでいただけたら幸いです。
彼たちはお互いにお互いを理解しあって、好きあって、だからこそたまにいたずら心が湧いてしまう。彼が優位に立つこともあれば一転彼女が優位に立つこともある。……何となく彼女に彼が振り回され続けているような作りになっていますが……その辺はラストから察してくれると面白いかと思います。何だか別の場面で別の短編が書けそうな気もしますね。
ご意見、ご感想お待ちしております。
ではでは、