- 『『1000番目の記録』』 作者:本条 / 異世界 未分類
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原稿用紙約11.55枚
記録を付け始めてから、男はもう999人を見送った。早かったのか、はたまたそうでもなかったのか、男にはよく分からない。やってきた1000人目は、少年だった。“オカジマケイタ”“6サイ5カゲツ”“オトコ”“ミシラヌ オトコ ニ ノド ヲ ササレル”――小さな少年の最期を、男は1000番目の記録に残す。
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人間が歩いている地面とは少し離れた場所に、“ここ”はあります。
“ここ”はとても殺風景です。空の簡易ベッドが一つと、私が座っている椅子が一つある他に、家具らしいものは何一つ見当たりません。ベッドの四方に、真っ白い壁があります。ただし、それらを平面で結ぶはずの天井も、ベッドを支えるはずの床も、ありません。終わりを知らない真っ白い壁が、上下に延々と続いています。
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私がそこに来てから、もう随分経ちました。それでも私の年齢は、二十四歳と十一ヶ月のままです。老けることもなく、体力も知識もまったく当初と変わらぬまま、私は二十四歳と十一ヵ月です。何故だか、それだけは分かるのです。
控えていた二十五歳の誕生日、私は彼女と夕食の約束をして、わくわくしながらその日が来るのを待っていました。優しくて、可愛くて、僕の傍が一番安心すると言ってくれた彼女は今、一体いくつになったのでしょう――僕のところに来ていないということは、まだ、どこかで生きているのでしょうか。もしかしたら、何か悪いことをして、別の場所に行ったのかもしれません。ここには地上のような時間の流れも、便利な情報の共有機能もありませんから、それさえ分からないのが少し寂しいです。
どうやら私は、死んだらしいのです。痛みも苦しみもまったく覚えていないのですが、随分前に交通事故で死んだらしいのです。まだここと地上との往来が自由に出来た頃、私は自分の墓というものを見ました。仏花と缶コーヒーが供えられ、父と母が手を合わせて泣いていました。
別の時には彼女が、僕の母と二人で同じように手を合わせて泣いていて、また別の時には、彼女は私の知らない男性と幼い少女を連れて、三人で手を合わせていました。もう泣いていない顔でさよならを言われて、思わず私が泣きました。
彼女に泣かされてからどのくらい経ったか分かりませんが、ある時、私はここに閉じ込められました。私のような半透明の姿が見えると地上の人間が未練を断ち切れないから、という理由で、こちらで暮らす人間たちは、地上に降りて行くことができなくなってしまいました。こんな場所ではそうそうすることもないだろうと、勝手に仕事を割り当てられ、その結果、私はここの見張り役になりました。見張りと言うほどのことはありません、終始そこに座っているだけのような仕事です。時々相手を慰めたり、時々相手と談笑したり、時々相手を叱ったりしながら淡々と仕事をこなしていましたが、そのうちそれもつまらなくなりまして、ある時、ペンとインクと羊皮紙を、書斎からごっそり拝借しました。様々に理由を持ってやってきた相手のことを、一つでも書き留めておこうと思ったのです。そうすれば後で読み返す楽しみも増えますし、何より暇つぶしになりますから。
そんな不謹慎な経緯で始めた“記録”も、気づけば九百九十九を数えました。これだけ分厚くなると、自分がしてきたことの重みなんてものも、感じられるような気がしてきます。
丁度今、千人目が昇ってくるという連絡が入りました。私が拝借したのと同じ羊皮紙に、何やら細かい字で色々と書かれたものが、椅子に座っている私の手元に現れます。上から順に、氏名“オカジマケイタ”、年齢“6サイ5カゲツ”、性別“オトコ”。一行空けて、死因“ミシラヌ オトコ ニ ノド ヲ ササレル”。年齢と死因を再度読み返し、可哀想に、と思います。子供の記録をつけるのは、久しぶりです。
私は、ペンと羊皮紙を手に取りました。そして、これから書き始めるそれを“1000番目の記録”と題し、どうせ千番目なら何か変わった書き方をしようと思って、この記録を一つの物語にすることにしました。それが、これです。
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ベッドのずっと下の方から、一人の少年が昇ってきました。仰向けの少年は眠っているようで、自分がそこへ浮いていることも知らずに静かに目を閉じ、ゆっくりとベッドに近づいてきます。その様子を見下ろす若い男性に驚く様子はなく、簡易ベッドの毛布をめくって、少年を迎え入れてやります。
枕に頭を乗せ、優しくベッドに降りた少年に、男性はそっと毛布をかけてやりました。ここはそれほど寒いと感じる場所ではないのですが、昇ってきた人に、男性はいつも毛布をかけてやります。地上から弾かれた瞬間は、誰もが寒い思いをしているものですから。現に男性も、そうでした。
少年が、寝言のような小さな声を出しました。怖い夢でも見ているような様子で、眉間にしわが寄っています。地上で、何かとても怖い思いをしたのでしょう。ペンを動かす手を止めて、男性は少年の顔をそっと覗き込みました。毛布を鼻まで引き上げ、寝返りを打って、少年はゆっくりと目を開けました。男性と、目が合います。
こんにちは、と男性が笑いかけると、少年は大きく震えて、怯えたような顔をしました。同時に何か喋ろうとするのですが、パニックになっているせいでしょう、ちっとも言葉になりません。男性は笑顔のまま言います。
「大丈夫。僕は、君を刺したりしないよ」
ベッドの端の方に必死で這っていき、布団を抱えて縮こまる少年は、なんとか男性と距離を取ろうとします。酷く警戒され、困ったような顔をする男性は、先ほどまで書いていたものに目を落として、何かを書き始めました。
書いているそれは、どうやら一つの物語のようでした。所々に改行がなされ、ときどきカギカッコで会話文が出てきます。少年が怯えている間に男性のペンはリズム良くすらすらと進んで、今、物語の中の誰かが“終わりを考えてるんだよね……”と言い、
「終わりを考えてるんだよね……」
男性はそれを声に出しました。
少年はまだ怖がっているような素振りを見せますが、男性はそれには構わない様子で、ペンを動かしながら独り言のように呟きます。
「何か、ないかなぁ……」
組み直した足の上に羊皮紙の束を置き、男性はぐっと伸びをしました。少し高くなった目線から見上げた先の壁には、先ほどまでは無かった、小さな観葉植物の鉢が吊り下げられていました。その向かいの壁には、男女に挟まれた少年が笑いながらピースサインをしている写真。男性の目線を追って初めてその存在に気づいた少年は、その他沢山の洋服や三輪車などが色々な高さの壁から浮き上がって吊り下げられていく様子を見て、驚いたように目を丸くしました。植木や花の数が極めて多く、黄色の鮮やかな物、蔓の長さが鉢の何倍もある物、少年の顔よりも大きな花が咲いている物、などなど、もうとても数え切れません。色も形も実に様々な観葉植物の見応えは、とても素晴らしいものでした。
「おうち、お花屋さんだったの?」
それらを眺めながら、男性が尋ねました。少年は、浮き上がるもの全てに必ず見覚えがあることに尚更驚いている様子で、目を見張りながら頷きます。男性に対する恐怖心を驚きが上回ったのか、目立った怯えの見えなくなった少年の姿に、そう、と嬉しそうに男性が微笑みます。
「すごく綺麗に咲いてるね。お仕事、手伝ったことはある?」
「うん……あるよ。乾いてるやつにお水をあげたり、枯れたやつを切ったり、とか」
ぎこちなくもようやく言葉を話し始めた少年が、恐る恐るベッドの上に立ち上がりました。黄色いチューリップの花々の中に、一輪だけ枯れてしまっている花を見つけたのです。手元に浮き上がって吊り下げられたハサミに目をやり、おっかなびっくりそれを手に取って、少年はそのガクの下を切ってやりました。
男性が、遠くの壁に、血のついた包丁が浮き上がってきたのに気がつきました。すぐ横に、真っ赤に染まったシーツや呼吸器、包帯も出てきます。少年に目を向けると、手に枯れた花を握った少年も、じっとそれを見ていました。少し悲しい顔をして、少年は俯いてしまいます。男性は言います。
「これから君は、ずーっと上へ行くんだよ」
「ずーっと、上? あそこのヒマワリよりも、もっと上?」
床から十メートルほど高い所に吊り下げられた、立派なヒマワリの青い鉢を指差し、あどけない顔をして聞いてくる少年。男性は愛しそうに頷いて、ずーっと上、と繰り返しました。ふうん、と見上げた少年の横で、男性は更に言います。
「持って行きたいもの、なーんでも持って行っていいんだよ」
「なーんでも? じゃ、全部でもいいの?」
男性はまた頷いて、なーんでも、と繰り返します。それを聞いた少年は、途端に楽しそうなうきうきした顔をしましたが、でも、と言ってまたすぐに顔を曇らせてしまいました。どうしたの、と男性が尋ねると、
「僕、くまさんのぬいぐるみも欲しいし、赤い車のシャツも欲しいし、お砂場遊びのシャベルとバケツも欲しいけど……」
“もっと”。少年は、小さな声で言いました。それを聞いた男性の微笑も、なんだか寂しそうでした。こんなに幼いのに、可愛そうに――。男性は、胸の中でそっと思います。羊皮紙の上にペンを置いて、また俯いてしまった少年の肩をそっと両手で掴んだ男性は言いました。
「ずーっと上に行けば、きっと、もっと素敵なものが見つかるよ。見つけに行こうよ」
少年は、ほんのりと笑顔を見せました。きっと、きっとあるはずです。少年にも男性と同じように、長い“先”が待っているのですから。
男性は再びペンを取って、物語の終盤に取りかかります。最後に短い会話文を付け足して、丁寧に、丁寧に、その終わりのカギカッコを書きます。うん、と頷いた男性は、ペンにキャップをしました。羊皮紙と一緒にベッドに置いた男性はそこにしゃがんで、立ったままの少年を見上げます。
彼が向かう先に、彼の“もっと”が見つかりますように。
男性は心の中で強く祈って立ち上がり、少年の手を取りました。
「今、きみの二つめの命が始まったんだよ」
……本当はここまでで物語を終えるはずだったのですが、少年が去り際に嬉しい一言をくれたので、それも“記録”しておくことにします。
持っていきたいものを散々指差し、私と少年の周りをいっぱいに埋め尽くした少年は、くまのぬいぐるみを脇に抱えて振り返り、私に大きく手を振って言いました。
「お兄さん、またね!」
いつか、あの少年にもう一度会える日が来るといいのですが。
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2010/07/27(Tue)18:45:34 公開 / 本条
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■作者からのメッセージ
幼い子供が虐待その他で死亡する事件や事故を、ニュースで耳にしたのがきっかけで、突発的に思い浮かんだ希望的観測です。死後に新しい人生が始まっていく、という考え方が、今更と言ってしまえばそれまでなのですが私にはとても素敵なことのように思いまして、それを作品として残したくて一気に執筆しました。