- 『探偵助手神楽坂杏里 03』 作者:プリウス / ミステリ 未分類
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原稿用紙約33.4枚
県立土御門高等学校で一人の少女が自殺した。非凡を自認する少女神楽坂杏里は“自殺”に疑念を抱き、“他殺”の線で独自に調査を始める。神楽坂杏里自己流の「探偵の真似事」が真相に迫る。
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01
私こと神楽坂杏里は普通の女の子ではない。出来ることなら普通の女の子でいたかったが、神さまがそれを許してはくれなかったらしい。唐突で大変恐縮だが私がいかに普通でないかをご説明しよう。
私はアルバイトとして探偵の助手をやっている。などと言えば大抵の人は二種類の想像をするだろう。まず漫画やドラマにありがちな名探偵の助手。シャーロック・ホームズのワトソン君や、明智小五郎の小林少年がそれにあたる。しかし残念なことに私は医者でもなければ少年探偵団のリーダーでもない。無能な少女である。そういうと最近はテレビか何か聞き知ったのか、浮気やら復縁などといった痴情のもつれ的なんたらかんたらをイメージする人も多い。むしろそちらが一般的な探偵の仕事に近いだろう。だがうちの所長はどういうわけか、そういった仕事を嫌っているらしい。人様の恋愛に口を出す奴は象に踏まれて圧死しろというのが彼女のモットーなのだ。
ならうちの事務所はいったい何を生業としているのか。と、改めて問われると私自身実は戸惑ってしまう。いったい何をやって稼いでいるのかは全くの謎だからだ。仕事はしている。けれどどこからどうやってお金を貰っているのかがさっぱり分からない。このあいだ寿司を奢ってもらったから、羽振りはいいのだろう。私自身は所長のもとで事務仕事をやっている。帳簿の管理や、光熱費とかの支払い、それから猫のエサやり。ちなみに猫の名前はクロネッカー。黒猫である。帳簿の管理をしているのにお金の流れが見えないから不思議だ。
さて、私がいかに普通ではないかという話の続きをしよう。私には中学三年生の妹がいる。名前は真由。腹違いの妹なのだが、私に全く似ない超絶美少女である。「超絶」なんて言い過ぎではなく、むしろ言い足りないくらいの美少女。その美少女分を十分の一でも私に分けてくれれば、私の高校生生活もそれなりに華やいだものになっただろう。彼氏彼女の関係などというものは漫画の中にしか存在しないと本気で思っている。いや思いたい。リア充? 爆発しろ。
話がそれてしまった。いや、あえてそらしたのか。分かるかな? 私には分からない。とにかく超絶美少女の妹はその超絶美少女っぷりを活かして当たり前のように芸能界デビューを果たした。どうすれば親戚や学校の教師から愛され、もてはやされるかを研究し尽くした妹はその能力を芸能界においてもいかんなく発揮した。彼女は「本物の」天然ボケキャラとしてお茶の間で広く愛される国民的アイドルとなった。このあいだの期末試験で数学満点を取った彼女はテレビのクイズ番組に出演し、円周の長さを間違えていた。
さてこれまで私の周辺について語ってきたが、最後に私自身について語ろう。本当は語りたくないのだが、語り始めた手前語り終えぬわけにはいかない。いや、もっと本音のところを言うと全く語るほどのこともないと思うので、語りにくいのだ。自分が誰か分からないなどと哲学者気取りではないが、私ほど語るに値しない人間も少ないように思う。
ともあれ、気を取り直し、深呼吸し、順序だてて語ってみよう。私の自己紹介が見ず知らずの他人の時間を無慈悲にも浪費したとして、それは私の責任ではない。私の辞書に「博愛」という言葉は載っていない。下手をすると「愛」ですら、インクが滲んで消えかかっているかもしれない。
私こと神楽坂杏里は花も恥らう十七歳の乙女、世間で言うところの女子高生である。成績は中の中。偏差値が五十をほんの少しだけ超える程度の県立高校に通っている。県立土御門高等学校はそれなりに歴史を持つ高校らしいのだが、多くの生徒たちからすれば薄汚れた校舎のダサい学校となる。
私の身体能力を説明しよう。スポーツは出来ない。一切出来ない。何も出来ない。バスケットボールをすれば必ず突き指。バレーボールではサーブが相手コートまで届かない。たまに空振りもする。テニスは壁が最大のライバル。水泳の授業はビート板を使っても溺れる。マラソンは保健室がゴール地点。これほどのドジっ子ぶりを説明すれば、さぞかし可愛い萌えキャラなのだろうと期待した男子諸君、ご愁傷様。私はクラスの女子で一番の高身長であり、萌える要素が全く無い。メイド服を着れば誰もが罰ゲームだろうと思い、猫耳を付ければ本当に生えてきた“病気”と思われるだろう。
とにかく、これが私である。あまりに凡庸で凡庸過ぎて非凡という私のキャラクターに加え、超非凡な人間を身近に持つ麗しの女学生が私である。
前置きが長くなってしまったが、そろそろ物語りを始めたい。あんまり説明に文章を割いたせいでどうすれば始められるのか、そもそも本当に始まるのかが不明瞭になってきた。だが安心してほしい。私はやるときにはやる女なのだ。これもまた唐突で恐縮だが、私には友達がいない。高校二年生の夏休みだというのに友達がいないというのは由々しき自体である。しかし今さらこの学校で友達を作ろうという気にもなれない。何故なら、阿呆どもと語り合うことほど非生産的で絶望的に嘆かわしい事態は存在しないのだから。
私はどうやらいじめに遭っているらしい。「らしい」というのは単に私に実感が伴っていないからだが、客観的に観ればこれはいじめと呼んでも差し支えないだろう。最初のいじめは一年生の頃に起こった。古典的だが机の上に「バカ、死ね」と油性マジックで落書きされていたのだ。私はそれをデジカメでパソコンに取り込み、筆跡鑑定の上犯人を特定し、ちょっとした罰を与えた。そんな大したことはしていない。私ももう子供ではないのだ。落書き程度の悪戯に本気で仕返しするなんて、大人げないだろう? 犯人の女の子は軽い精神的ショックで自分の部屋に二ヶ月くらい篭っていたらしい。
他にも似たようなことはあった。上履きを隠された時は即座に別の子の上履きを利用した。その上で私の上履きを盗んだ犯人を、その別の子の上履きを盗んだ犯人に仕立て上げて事なきをえた。私の教科書やらなんやらをずたぼろにされたこともあったが、隠しカメラで決定的な証拠を掴むことに成功した。知り合いの弁護士を通じて犯人の親に賠償金と慰謝料と心ばかりの口止め料を徴収させていただいた。どうしてそんな都合良く隠しカメラが置いてあったかって? 乙女のたしなみというものだよ。
そんなこんなで周囲の女たちは私と距離を置き始めた。いじめを仕掛けた連中だけでなく、それを傍観していた連中も私に対して恐れを抱き始めたのだ。私としては身の回りが静かになってくれれば、それに越したことはない。安心して睡眠、もとい勉学に励めるというものだ。しかしおかげで困ったことがあった。女どもは良いとして、どうも男からも距離を置かれてしまったらしい。女はお喋りなので、色々とあること無いこと触れ回っているらしい。例えば私が援助交際をしているとか、黒魔術をしているとか、2ちゃんねるに書き込みをしているとかそういった噂が流れていた。援助交際や黒魔術はまだしも、2ちゃんねるに書き込んでいるという噂には私も少々胸が痛んだ。「無い胸が痛むのか?」と疑問に思った君には、毒針入りのおはぎを進呈しよう。
そんなこんなで私はクラスどころか学校全体で孤立し、彼氏はおろか女友達すら作れずに怠惰極まる高校生活を送っているのだった。私としては愚昧な女どもの相手をせずに済むことは大歓迎なのだが、その代償として男を得られないという致命傷を受けてしまったわけだ。先見の明が無いと言えよう。この結末が予想出来ればいじめを受けていた時にしおらしく涙でも見せつつ、相談と称して男の一人や二人篭絡できたものを。私もまだまだ知恵が浅い。
ただ孤立しているからと言って、決して男を諦めたわけではない。実は随分前から狙いを定めた男子生徒が一人いる。彼の名前は松田龍一。成績全体は上の下というところだが、数学がずば抜けている。他の科目は平均を多少上回る程度だと言うのに、数学に関してだけは常にトップを維持している。県全体でも上位十人に含まれるくらいだ。運動神経もそれなりに良く、男子の中心的存在と言えるだろう。私とは真逆の立ち位置なのだ。
その松田龍一には彼女がいる、と噂されている。その女の名前は飯田橋楓。大和撫子という概念が具現化したと信じるものも多い、徹底的に完璧な日本の乙女、お嬢様。趣味は活花と茶道。愛読書はカポーティの『ティファニーで朝食を』。長い黒髪はシャンプーのCMでしか見たことのないほど艶やかで、歌う声はまさに天使ともっぱらの評判である。ちなみに私の趣味は倒産寸前企業の空売り、愛読書はカフカの『変身』、髪は肩まで伸ばしているがキューティクル細胞からはやる気が感じられない。
飯田橋楓。この女こそ今、私にとって最も強大かつやっかいな壁なのだ。この女が私に攻撃を仕掛けてくれればしめたもので、容易に撃退出来るのだが、大和撫子はそもそも荒事を好まない。私から仕掛ければ確実に私が悪人になってしまう。たとえ合法的に貶めたとしても、足がつく可能性はゼロではないのだ。最終目標である松田龍一奪取を見失ってはいけない。
私こと神楽坂杏里は花も恥らう乙女らしく、いかにして男をものにするかを十全に検討中であった。検討に検討を重ねて、重ねまくった結果何も起こらずに夏休みが来ようとしていた、大問題である。しかし縁は異なものと言うべきか、飛んで火に入る夏の虫と言うべきか、棚から牡丹餅と言うべきか、というか何と言うべきか分からない事象が私に降りかかってきたのだ。ひょっとして自分はスタンド攻撃を受けているのではと考えたが、そもそも私にスタンド能力は無いのだった。
「どうなさったの、神楽坂さん。さっきから心ここにあらず、という感じですわよ? ひょっとして夏風邪でもお召しになったのかしら」
目の前の麗しのご令嬢は私の心がここにあらずな元凶であるがそんなことは全く思いもよらないことですわ、おほほほ、というのは私の心だがとにかく何を言いたいのか私にはさっぱり分からず混乱し切っていて何を言われたのかよく聞き取れなかった。
「いや、大丈夫……」
何が大丈夫か。夏風邪を引いていないという意味で言ったのだ。だが、本来的な意味で私は全く大丈夫ではなかった。
「それでは神楽坂さん、楽しみにしていますね。詳細はまたのちほど」
教室に担任が入ってきたので彼女、飯田橋楓は自分の席に戻っていった。
02
うだるような暑さ。うだるは漢字で書くと「茹だる」となる。これは「ゆだる」とも読める。実はうだるもゆだるも同じ意味らしい。普段ならがんがんに冷房のきいた部屋で毛布を被りながらパソコンを二台ほど立ち上げて日経平均株価と睨めっこしている私がどういうわけか外出中である。どういうわけか、というのは言葉のあやだ。理由なら私が一番よく知っている。理由もなくこんな暑い思いをしていたらそいつは間違いなく変態だ。レーオポルト・フォン・ザッハー=マゾッホも驚きのドMである。
とにかく私は暑さに耐えながらゆるやかな坂を上っていた。ゆるやかではあるが、長時間、それも猛暑の時期となるとそれなりに辛い。こたえる。体育の成績が学校はおろか全国レベルで最下層の私にとっては地獄である。何度も帰ろうと思いながら何度も己を奮い立たせてここまでやって来た。すでに引き返すには遅いほどに私は歩いてしまった。
周囲を見渡すとお洒落な家がいくつも並んでいた。お洒落なカフェもあったが、おそらくとっくにリタイアした老人が趣味で始めたものだろう。人通りは少なく「閑静な」という表現がぴったりの住宅街、いや高級住宅街である。すぐ傍には川が流れていて、猛暑で苦しむ私の心をささやかながら癒してくれた。叶うことなら今すぐにでも飛び込みたい。
地図と周囲を見比べる。自慢では無いが私は地図を読むのが苦手だ。かなりの方向音痴だという自負がある。なので当然ながら地図だけでは心もとないと思い、携帯電話もGPS機能の付いたものを購入している。GPS機能は自分がどこにいるのかを教えてくれる優れものだ。私は自分が今どこにいるのかを知るために携帯電話を取り出した。絶望した。知ってるかい? 絶望は死に至る病なんだぜ。
携帯の充電が切れていたのだ。普段、携帯電話なんかめったに使わないのですっかり忘れていた。私の携帯電話には超絶美少女の神楽坂真由、要するに妹しか登録されていない。両親は海外にいてほとんど連絡することもないから家の電話で事足りる。探偵であり私の上司である嫦娥峰かぐやは私の携帯番号を知っているが、私の携帯に彼女の携帯番号は登録していない。それも単に必要性を感じないからで、深い理由もない。
現状を合理的に判断しよう。まず私は自分がどこにいるのか分からない。目的地は個人の家であるため、人に尋ねてどうにかなるという期待は持てない。そして何よりも暑くて本気で死にそうだ。賭けても良いが、あと一時間このまま立っていれば私という人間はあっさりと天に召されるだろう。いや、地獄に飲まれる方が相応しいか。地図を見たが頭が朦朧としていてまともに字も読めない。この状況において当初の目的を達することは不可能であろう。仕方ない、今回のことは不可抗力であり私に罪は無い。よってこのまま引き返し、駅までの道を尋ねて帰ることとしよう、と思ってきびすを返したその瞬間に彼女と目があった。
「こんにちは、神楽坂さん。よく来てくれたわ」
そこにはルノアールの代表作である『イレーヌの肖像画』が架かっていた。いや、それ以上に清楚な雰囲気を身にまとう大和撫子が日傘を手に微笑んでいた。私としたことが危うく惚れてしまうところだった。念のために言っておくが私は大の男好きであり、女に興味は無い。
「どうしたの、そんなにぼんやりとして。ひょっとして、熱中症? これさっき近所のスーパーで買ってきたのだけれど、お水、飲む?」
彼女、飯田橋楓の持つペットボトルを奪うように取り、中の水を一気飲みする。少しばかり驚いた顔で彼女は私のことを見ていたが、何が面白かったのかくすくすと笑い始めた。人の飲食を見て笑うとは全く失礼な奴だが、その笑顔があまりにも可愛いので許してやろうかと思わないこともない。水のおかげで私の頭も徐々に冷静さを取り戻していた。よく考えたら駅の道を聞こうにも、通りには人影が全く見当たらないのだ。こんな中をさ迷っていては、それこそ熱中症で倒れてしまう。冷静さを取り戻したおかげで体中を支配していた絶望も解き放たれた。まだしばらく死なないで済むらしい。
悔しいが飯田橋は美人の類だ。化粧で誤魔化した美人ではなく、素のままで綺麗な顔立ちをしている。多少、目のあたりをいじっている風だったが、全体としては自然なままだろう。白い日傘に白いワンピースなど、まるで明治時代のご令嬢ではないか。そういう趣味の人からすれば実に萌えるいでたちと言える。艶やかで長い黒髪をたなびかせ、涼しげな顔をしている。実際に私の周囲と彼女とでは気温が五度くらい違うのではなかろうか。
「こんなところで会えるなんて、丁度良かったわ。さっきアイスクリームを買ってきたのだけれど、まだ誰も来てないの。だから食べるの待たなきゃって思ってたんだけど、神楽坂さんのおかげで待たずに済んだわ。ねえ、アイスクリーム食べるでしょ?」
今、まさにこの瞬間、主従関係が決定した。一時は恋のライバルと思い憎しみを募らせたがアイスクリームという名の極上の餌が垂れ下がったことで、私は心理的にも深層心理的にも彼女の下僕と成り果てた。
などという服従心は冷房とアイスクリームと冷えた麦茶を我が物とした時点であっという間に消えうせた。朝令暮改などとさげすむのはやめてくれたまえ。臨機応変かつ柔軟性のある思考と言ってほしいものだ。しかし某元総理大臣もかくやの豹変っぷりに私も多少は後ろめたさを覚えないでもない。心の中で神に謝罪することとしよう。
あれこれどたばたと騒いだが今日の目的地は彼女、飯田橋の自宅であった。事の発端は先日彼女から申し出た一つの提案による。
「うちで集まって勉強会するんだけど、神楽坂さんも来ない?」
この申し出に対し私は北極海のごとく冷静であった。これは何かの罠に違いないと判断したのだ。前述した通り飯田橋は大和撫子である。ゆえに荒事は好まない。だが、謀略となれば話は別だ。大和撫子には謀略がよく似合う。何か曲がった思想に染まっている気もするが、私にとってはそれが真理であった。
どのような謀略か。例えば貧弱な女子高生を夏の日差しに晒して病院沙汰にしてしまうという手段が考えられる。偽の地図を渡して相手を道に迷わせるのだ。現に私は罠にはまる以前に死にかけていた。しかしこの考えは誤りであることはすぐに明らかとなった。彼女から渡された地図は正しい地図だという確認が取れたのだ。ちなみにどうやって確認したかと言うと、学校のデータベースにルート権限で入り込み、彼女の情報を覗き見たのだ。ルート権限とはそのコンピュータで何でも出来るぞという強力な権限であり、どうしてそんなことが出来るかは企業秘密である。それにしても学校のセキュリティというのは本当に脆い。盗撮し放題ではないか。
などと下らないことばかり考えていたら、勉強会当日となり、特に断る理由も無いので参上することにしたというわけだ。
「ああ、美味しかった。このブランド、ミルフィーユがとっても美味しいのよね。チョコレートのパリパリっとした感じとか、もうたまんない。何杯だっていけちゃうわ」
飯田橋が心の底から幸せだと言わんばかりにアイスクリームについて語る。まったくアイスクリームごときでそこまではしゃぐとは、お子様な奴め。
「神楽坂さんはどのアイスが好きなの? やっぱりスタンダードにバニラかな。それともチョコレート。意外に抹茶とか」
「わ、私がどんなアイスが好きかなど、どうでもいいことだろう。世の中にはもっと他に考えるべきことがあるはずだ」
そう言うと彼女は、いったい自分が何を言われたのか分からないという顔をした。そしてその直後、大和撫子にあるまじき大笑いを始めたのだ。ドリフターズも羨むほどの大爆笑っぷりにさすがの私もどうしたら良いか焦ってしまう。
「や、やっぱり、思った通り。神楽坂さんってすっごく面白い。だって好きなアイスクリームは何かって聞いただけなのに、世の中とか言っちゃうんだもん。そうよね。確かにその通りだわ。世の中にはアイスクリームよりも大事なことがいっぱいある。それを忘れちゃいけないわよね」
大爆笑からくすくす笑いに沈静化したがまだ飯田橋は笑っていた。目に涙を浮かべている。左手で口を押さえて、大爆笑の再発を必死にこらえている様子がうかがえた。
「ねえねえ。それで、神楽坂さんはどんなアイスクリームが好き?」
飯田橋がどこか期待した顔でこちらをじっと見てくる。犬が散歩のおねだりをするような目だ。テーブル越しにぐっと顔を近づけてくるので慌てて顔を背けた。改めて彼女の部屋を見ると、大和撫子というイメージとは正反対の内装だった。ピンクや白といった色が目立つ。クマのぬいぐるみが当たり前のように飾られている。なんというかお姫様お姫様しているのだ。こういうのをひょっとしてロリータと言うのではなかろうか。
何か返事をしてやらないと彼女は離れてくれそうもない。そう思い、かつ期待に応えるのも癪なのでここは真面目に答えてやることにした。
「基本的にバニラのアイスが好きだな。とは言え、単なるアイスでは遊び心に欠ける。普通過ぎる。だから私はバニラアイスにブランデーを少量垂らして食うことにしているのさ。なに、ブランデーと言ってもほんの少量だ。ウィスキーボンボンを未成年が食べたとて、怒られるということもないだろう?」
ふふん、と鼻で笑うような仕草をして見せた。深い意味は無い。期待はずれの回答でがっかりしただろうと思って飯田橋を見ると何故か彼女は感心し切った様子をしていた。何故だ。
「すごいわ、神楽坂さんってなんか大人って感じ。そうね私も今度試してみよう。お父さんが書斎に隠し持ってるやつがあるから、ちょっとだけ失敬しちゃえ。いいえ、今度と言わず今試しちゃおうかしら。アイスクリームが一人分減っちゃうけど、それは松田くんに我慢してもらえば済むわよね」
飯田橋は嬉しそうにはしゃいでいる。その姿は大和撫子よりも、公園で遊ぶ小さな女の子と言った方が近い気がした。いったい誰だ、こんな可愛い子に謀略が似合うだなどと言った奴は。出て来い。この私が小一時間問い詰めてやる。
03
私という人間の歴史を紐解いてみよう。まず生まれたときから小学校を卒業するまで。これは私には語りようがない。なぜならば自我が全く形成されていなかったからだ。この頃の私はそれなりに社交性らしきものを身に付けていたらしい。しかしその社交性はあくまで自我を持たない状態のものであり、無意識のなせるわざ。そして今の私はそれなりに自我を有している。かつての振る舞いを全く思い出せるわけもない。それ以降の流れについてはすでに述べた。つまり私には隣人と芸能人の噂話をしたり、進路について語り合ったり、色恋沙汰をきゃっきゃと嬉し恥ずかし喋り散らしたりといった高度な技術が皆無というわけだ。
そんなわけだからこの状況に私は異様なまでに緊張し、手に汗にぎり、今にも逃げ出したい衝動に駆られるのだった。よもや自分がここまで対人能力に問題を有しているとは思いもよらなかった。学校という空間で私は周囲の人間を敵とその他無害なる人畜程度に認識していた。だからこそ平気でいられたのだろう。ところが今は違う。こともあろうに私の周りで同世代の少年少女が仲むつまじく楽しげに談笑しているのだ。だがこういう状況で孤立するのであればまだ理解できる。周囲を無害なる人畜と思い定めれば良いのだから。だがそうは問屋が卸さない状況に私は立たされた。恐るべきかな、現時点におけるこの場の中心人物はなんと私なのだった。自分でもどうしてこうなったかさっぱり分からない。
「じゃあさ。神楽坂さんって家ではずっとパソコンに向かってるの? 私、株とかそういうのって全然分かんないんだよねえ」
このやたら気さくな調子で馴れ馴れしく話しかけてくる女子は二条すみれ。どこぞの公家かと思わせる名前だがれっきとした庶民である。飯田橋とは中学からの付き合いらしく、クラスが変わった今でも仲良くしているのだとか。ふちの黒い眼鏡をかけている。髪形はチャーミングなボブカット。服装にはさほど力を入れていないらしく、近所のスーパーで見たようなポロシャツを着ている。意識してラフにしているのだろうか。下はスカートではなくジーパンだ。
「い、いや、ずっとというわけではない。さすがに風呂やトイレまでパソコンを持ち込めないからな」
「やっだ、それってつまりお風呂やトイレ以外の時間はずっとってことじゃん」
二条は心底から驚いたという表情をしている。
「でもまあ、分からなくはないかな。僕だってずっとカンバスに向かって一日過ごすってことがあるからね。集中し過ぎていつの間にか時間が過ぎちゃう感じ」
クラスメイトの葛西正敏が分かる分かるという風に頷いて言った。葛西は松田の親友で、温厚な性格で誰からも好かれるタイプの人間だ。美術部に所属して暇があればいつも絵を描いているのだとか。変な模様のTシャツを着て、山登りに適した短パンを穿いている。
「それにしても女子高生が株取引だなんて、すげえ世の中になったもんだな。株ってよく知らねえけどあれだろ? 値段が上がりそうな株を買って、予想通り上がればそこで売って儲けるってやつ。神楽坂に教えてもらって、俺も上がりそうな株でも買うかな」
中野雄介が妙に高いテンションで私に問いかけてきた。中野は陸上部に所属しているが、今日は練習をすっぽかしてこちらの勉強会に参加しているらしい。あまり真面目な部員でもないようで、のらりくらりと遊びまわっているのだとか。中野も別のクラスの人間で、葛西の繋がりだ。美術部員と陸上部員でどういう接点かと不思議だったが、どうやら互いに趣味が合ったらしい。一般人の集まるビリヤードサークルがあり、そこで知り合ったとのこと。葛西曰く、中野の腕はかなりのもので、町内の小さな試合で優勝したこともあるらしい。言われてみるとカッターシャツに黒パンツといういでたちは“それ”っぽく見える。
「どの株が上がるかと聞かれても分からない。例えばある会社が画期的な新技術を発表したら、その会社の株は上がるだろうな。だがそんなタイミングで買っていたのでは遅いのだよ。世に溢れる機関投資家が買いあさった後、値段の上がった株を買うはめになる。だから私は上がる株ではなく……、な、なんだ」
見ると飯田橋がなにやら嬉しそうにくすくすと笑っていた。昔読んだ小説に黒髪の乙女といちゃいちゃしたくてたまらないばかりに時空を歪めてしまう男の物語があったが、私は彼に彼女の存在を知らしめてやりたいと思った。昔読んだ小説に上級生の美女が下級生をご指名して妹(スール)などと言っては百合百合する話があったが、私は彼女こそ私のお姉さまに相応しいと思った。飯田橋楓に見つめられて私の心拍数は急上昇し、頬が目に見えて赤くなったのではないかと思うほどに火照ってきた。ひょっとしてこれが恋。などと馬鹿なことを考えるくらいの余裕はあるらしい。
「だって杏里ちゃん、さっきまで挙動不審な感じだったのに、得意分野のことになると急に饒舌なんだもん。なんだかすごく可愛らしくって」
「ば、な、なにを」
もう完全にアウト。私の脳は停止した。今すぐ無意識に移行してかつての社交術を手に入れたい。そういえばユング先生は人間にはシャドウという性格が存在すると言っていたな。影。表の性格に対して裏の性格。表とは反対の性質を持つ。例えば明るい性格の人には暗い性格のシャドウが、大人しい性格の人には乱暴なシャドウが、といった具合に。であれば私のシャドウはどういった性格だろうか。きっと天真爛漫、元気溌剌、海のように広い心と太陽のように暖かい優しさ、当然のように溢れる社交性で輝かんばかりの少女であるに違いない。人間は追い詰められた時にこのシャドウが現れるものらしい。であれば今こそその時ではないか。シャドウによって私という人間を輝かせる時。自分で言っていて訳が分からない。
「楓ったら、神楽坂さんが困ってるじゃない。あんまりからかっちゃダメよ」
二条が飯田橋に言う。二条すみれという女は周囲の調整役を買って出るタイプのようだ。
「ごめんなさい。でもからかうつもりは無かったのよ。ほんとに可愛いって思ってるんだから」
「そ、それよりも。そろそろ勉強を始めるべきだろう。私はここに来てすでに一時間を過ごしているが、教科書を開いてすらいない。今回は勉強会だというから参加したのに」
かく言う自分自身が勉強会をすっかり忘れていたのだが、そんな様子はおくびにも出さずに意見した。勉強というのは口実で、今はとにかく会話の流れを断ち切りたかった。やはり私という人間は人間関係が苦手らしい。つい先日までいじめられていたような人間だ。いや、今は夏休みだから何もないだけで、休みが明ければまたいじめられるのかもしれない。そういった環境に慣れっ子になってしまったので、周囲の人間を敵か他人としか見れないという。
私とて一人の穢れ無き少女である。誰も彼もを敵だのなんだのと言い張ることは決して本望ではない。独りが良いとか甘ったれたことを言うつもりもない。ただ、とにかくどうすればいいかさっぱり分からない。それだけなのだ。言葉も習慣も何もかもが違う外国に突然放り込まれたら、君ならどうする? どう感じる? そういうことだと思ってくれればいい。
「勉強会つっても、ただの口実だろ? 皆で集まってわいわいやるのが本来の目的で」
中野の言葉に私はぎょっとした。飯田橋に視線を移すと彼女はぶんぶんと首を振って中野の言葉を否定する。私は安堵した。
「もう、勝手なこと言わないでよ。そう思ってるのは中野くんだけでしょ。まさか、勉強道具持ってきてないってわけじゃないでしょうね」
二条がやれやれといった仕草をややオーバーにし中野をたしなめる。中野は悪い悪いと悪びれることなく鞄の中からノートと筆記用具を取り出して見せた。
「夏休みの宿題をさっさと済ませてしまいたいってのは皆共通の願いだからね。僕は今日中に数学と英語を終わらせてしまうくらいのつもりだよ。英語はわりと得意だし、数学は松田に協力してもらえるなら楽勝だろう」
一瞬、葛西が何を言ったのか分からなかった。一瞬後、葛西が何を言ったのかを理解した。
「え、松田くん、来るの?」
私としたことがまるで乙女のような言葉を発してしまった。いや、正真正銘の乙女であるから何の問題もないのだが。何の問題もないはずなのだが。
「あれ、言ってなかった? 今日の勉強会は私と杏里ちゃん、すみれと葛西くん、中野くん、そして龍ちゃんの六人でやるのよ。龍ちゃんがいれば数学で分からないとこも教えてもらえるからっていう感じでみんな集まったんだから」
飯田橋に中野が同調する。
「確かに松田がいればだいぶ楽だよな。まさに、呼吸するように計算するってやつ? 数学に関しちゃ学校の先生だって歯が立たないって話だし。ああいうのを天才って言うんだろうな」
「でも龍ちゃんに向かって天才って言ったらきっと怒られるわよ。龍ちゃんいつも言ってるもの。天才ってのはこんなもんじゃないって。天才はもっと高いところで計算している。それは努力だけでは到達できない崇高な世界。だから自分のことを天才だなんて言うのは、“本物”に対する侮辱になるって」
「本物ねえ。俺からすれば松田は十分に本物だけどな。ま、本人がそう言うんならあえて言うこともないわな」
二人の会話は私に何の価値も与えなかった。私の頭脳は松田龍一という一人の男でいっぱいに満たされ、それ以外のことを考える余地などありはしなかった。家の中をチャイムが鳴り響く。身体が震えた、飯田橋が「はぁい」と元気良く応じ、玄関に駆けて行く。他の面子はチャイムを合図にいそいそと机の上に勉強用具を並べ始めた。私もその動きに倣って鞄の中からノートを取り出す。筆箱。教科書。数学の教科書。微分。リミット。Xが限りなくYに近づく時、私は死ぬだろう。
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2010/08/19(Thu)23:38:24 公開 / プリウス
■この作品の著作権はプリウスさんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
【登場人物一覧】※随時更新
神楽坂杏里(かぐらざかあんり) 主人公。高校二年。
松田龍一(まつだりゅういち) 杏里のクラスメイト。
飯田橋楓(いいだばしかえで) 杏里のクラスメイト。
葛西正敏(かさいまさとし) 龍一の友人。美術部員。
二条すみれ(にじょうすみれ) 楓の友人。
中野雄介(なかのゆうすけ) 葛西のビリヤード仲間。
2010/8/19
久しぶりの更新です。しばらく登場人物紹介を続けます。もっと人間関係に深みを持たせられればと思うのですが、なかなか心情表現って難しいですね。