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『梟は何処で啼くか‐1〜2‐』 作者:寝不足 / リアル・現代 未分類
全角72617文字
容量145234 bytes
原稿用紙約211.45枚
真実とやらに、いくらの価値があるのか。それは、何万の人の命に値するのか。
 歴史のなかで、数多くの戦争があった。
 争う種など幾らでもある、人は残念ながら知能を会得した時に、余分な物まで手に入れてしまったらしい。
 争う種など幾らでも作れる、我々は考える頭と、銃を持っているのだから。




――青い鳥――
「先手必勝とは言い得たものだな」
 初老の、それでいて老いを感じさせない、溌剌さを持った男はそう言った。
 短く刈り込んだ髪が多少白くなっている以外は、迷彩柄の軍服に浮かびあがる、老いを感じさせない筋肉の隆起や、多少の皺と、鋭い眼光を湛えた瞳が若々しい印象を持たせる。
 灰色を基調とした、緑と茶色の迷彩柄の軍服に身を包み、腰にダブルアクションの輪胴式拳銃を下げていた。
 この国では、既にオートマチックの拳銃が一般化しているので、これは趣味の物だった。
 趣味と言っても、芸術的観点からでは無い、彼は軍人として、武器に芸術観を持ち込む行為を受け入れていない。
 別に何の思い入れも無い、どこにでもあるような、型落ちの市販の銃、だが、どうもオートマチックの銃には無い、この銃の、引き金を引いた時、撃鉄が落ちる音、それらが作り出す『撃った感触』が良い。
 この初老の男性と、もう一人、この部屋には男がいた。歳は明らかに下だった。
 しかし、顔に焦燥を浮かべ、視線を床に向けたままの男は、多少贅肉の付いた体躯と、銀縁の眼鏡、少々禿げあがった頭と、軍人よりも中小企業のサラリーマンといった風体。
 彼らが向き合っているのは、入口を含め、奥の壁以外は全てがコンクリートで造られた部屋。
 窓の一つも無く、天井の電灯が発する、白色の味気ない灯りだけが彼らを照らしている。
 入口から見て奥の、特殊な強度加工を施されたガラスの壁には、黒い金属のドアがあり、その奥には様々な書類や資料が金属の棚に収められた資料室がある。
 部屋の大きさとしては、ガラスの扉の向こうの部分の方が広い。本来、ここは資料室に付属する会議室なのだが、それでも、小さな教室程度の広さはあり、真ん中に大きな机が置かれていた。
 初老の男性は今、机に置かれた世界地図の前に立っている。
 彼と、世界地図を挟み向かい合った、中小企業のサラリーマンのような中年士官は、先程の彼の発言に微かに眉を顰めていた。
「まったく、偉人とは世の中を良く分かっているよ」
 そう言って、初老の男は眉を顰めた中年士官を無視するように机の上に新しい地図を置いた。
 先程の世界地図とサイズは同じだが、世界規模のものでは無く、地図上には赤と青に色分けされた二つの国に絞られて描かれている。
 国境となるエール川を境に、東北に位置する青の国には、『クレリア』と書かれ、南西になる赤の国には、『トリストメリス』と書かれていた。
 地形や、道なども書かれておらず、主要な都市が大文字で、村や町が小文字で書かれた、非常に簡素な地図。
「今を逃せば、来年まで手が出せない、何せあちらには核兵器があるのだ」
 地図上の、青く塗られた国―クレリア―から、赤く塗られた国に―トリストメリス―に、指を動かす。
「しかしだ、この時期は季節風の影響で、もし核兵器を使用すれば」
 そして、そのまま指を動かし、とある一点で止める。
 『アム・ア・トリスト』そこにはそう書かれていて。
「我が国から舞い上がった死の灰は、奴らの首都にまで達する」
 唇を薄く歪ませて、初老の男はその一点を軽く突いた。
「しかし……風が我々に味方するのは十月までです、今は五月の終わり」
 口を挟んだ中年は、眼鏡を上げると少し黙った、初老の男が「かまわん、続けてくれ」と促して、生唾を飲み込むと、やっと続ける。
「長く見積もって、五か月、諸外国からの干渉もあるとすると、決着は難しいかと……」
 言い終わって、彼は頭を下げた。
「で、出過ぎた事を申しました、リミドール少将、私は決して……」
 リミドールと呼ばれた男は、手でそれを制した、顔に笑いを浮かべながら「そんな事は分かっているよ、セオーム君」と、そう言った。
「何より、国民が非協力的になる様な事は避けねばならんし」
 そして、薄いプラスチックのファイルを取り出す。
「外国に対して、正当な言い分も必要だ」
 それを机の上に置いて、胸から煙草を取り出した、この国では庶民的なメーカーの、安価な物であったが、リミドールはこの煙草の煙を好いていた。
 正直、リミドールは煙草の『味』とやらは分からない、しかし、口にくわえ、大げさな深呼吸した時に、吐いた息とともに安っぽい煙が空気中に飛散していく様が好きだ。
 中年士官、セオームはライターを取り出した、首を振って、リミドールはそのファイルを顎で示す。
「我々は、勝利しても、例え敗北しても、正義で無くてはならん」
 ――そして――、リミドールは胸の中でそう呟いた、彼は信用できると言っても一兵卒に過ぎない、だから続けなかった。
 青い鳥、そのファイルの表紙にはそう書かれていた。
「軍隊とは、国家とはそういうものだ、それが我々策略家では無く、大衆によって維持されている限り、分かりやすく、そして正しく、人の血と釣り合う『理由』が要る」
 一本目の煙草に、マッチを擦り、自分で火をつけ、紫煙を燻らしながら、彼はそのファイルをセオームが取るのを待った。
 失礼します、そう言ってセオームはファイルを開いた。
 その様子を見ながら、リミドールはただ煙を愉しむ、地下にあるこの要塞には窓が無い、ふと天井を見上げる、歴代の策略家共の出した煙草の煙による煤は、天井に貼り付き、コンクリートの色を変えていた。
 代々の軍記録や、策略家共の謀略書が置かれた資料室は火気厳禁であった。この会議室も火気の取り扱いに十分の注意を要するよう、貼り紙で警告されているが、長らく利用してきたリミドールにはもはやどうでもよかった。
 私も、ずいぶん歳をとったな。
 この会議室を利用してきた年数を思い出しながら、リミドールは先程あえて言わなかった言葉を噛みしめる。
――分かりやすく、信奉するに足る英雄が要る――
「分かりやすく、信奉するに足る英雄が要る」
 セオームが、ファイルから顔を上げるのを感じた、ちらりと、視界の端で彼の顔色が変わっているのを確認し、リミドールは少しの満足感を覚えた。
 やはり、自分こそその英雄に足ると、そう考えた。
「幸せをもたらす、青い鳥だ」
 セオームからファイルを受け取ると、燃えたマッチが一つ入った灰皿の上に置いた、そして先程まで吸っていた、火の点いたままの煙草を、ファイルの上に押し当てる。
 抹消に適した、水に溶けやすく、燃えやすい紙質の物を使っているだけあって、そのファイルは僅かな火力でもすぐに燃え上がり、縮んで、中の書類ごと灰になる。
 二本目の煙草を銜え、マッチを擦ったとき、丸くなって灰皿の中にポトリと落ちたファイルは、これが何らかの書類だったと思わせない、燻ぶった塊と化していた。
「鉱山都市レインバレーの、廃坑道に、トリストメリス人の部隊が極秘に基地を建造しようとしている」
 国境近くの、エール川沿いの一点を指差す、不可侵地帯の一歩手前、鉱山都市レインバレーは、エネルギー革命前までは、鉱山都市として栄えた。
 だが、石油燃料の主流化による、石炭の需要の減少に伴い人は離れ、一度は廃れた。しかし、坑道跡や、削岩中に発見された化石類などを利用した観光業が主流になり、未だ二千人程度が住んでいる。
「不可侵国境地帯に近いので、軍隊の動員はし難い、しかし……」
 絶句したセオームを横目に、リミドールは頷く。
「私の私兵ならば、と、私兵団と爆弾処理班で対処に当たる」
 リミドールは、地図を畳んだ。
「これで、幸せの青い鳥を捕まえられる」
 机の上を片付けると、未だ絶句するセオームを脇目にドアノブに手を掛けた。
 なぜセオームに話したか、それは彼なら理解してくれると言う、多少の期待もあった、しかし、最もの理由は彼が臆病な事に尽きた。
 内部告発などする勇気も無く、扱いやすい、そして、有能だった。
「待ってください」
 何もない机の上を見ながら、セオームはそう言葉を絞り出した。
 リミドールは、ドアノブから手を引き、向き直る。
「そんな、また戦争をなされるんですか」
 セオームは動揺で体を揺らしていた、リミドールは、ドアから離れ、奥のガラスの扉の脇にあった、書類の乗せられたパイプ椅子を取る。
 上に載せられた書類を床に置き、セオームの傍まで運ぶと、彼の肩に手を掛け、椅子へ促した。
 彼は少し抵抗を見せたが、直ぐに座る、彼はずっと足元の床を凝視していた。
「君には、確か妻と娘がいたね」
 リミドールは彼の正面に立ち、両肩に手をやると、腰を落とす。
「君には、妻と娘が、いたね」
 セオームの顔を見ながら、もう一度言う。
「三歳の娘と、三ヶ月後に、男が、生まれます」
 蚊の鳴くような声で呟いて、セオームは縋るようにリミドールを見た。
「そうか、私は国を妻とした男だから、わからんが、しかしな」
 リミドールは真正面からセオームを見た、猛禽の様な眼が、動揺し、揺れ、薄く涙を浮かべたセオームの目を捉えた。
「トリストの連中が、引き分けになった、前大戦の決着をつけようとしているのは分かるな」
 セオームの喉の奥で、掠れた音が鳴ったのを聞いた。
「君の妻と、娘と、息子は、核の火に焼かれ、瓦礫の中を彷徨いゴミの様に殺されるか」
 我ながら酷な事をする、リミドールはそう思った。
「あるいは」
 口調を強める、セオームの肩が跳ねあがり。
「妻と娘はトリストの蛮人共の玩具にされ、死ぬまで犯され、息子は戦火に散る、か」
 リミドールは立ち上がった、ドアに向かって歩き、ノブに手を掛け、振り返らずに言った。
「考えたまえ、君と、君の家族にとって何が幸せなのか」
 国外逃亡でもされたら、どうしようかと、リミドールは心の中で嗤った。

「待ってください、貴方は……彼らを……」

 椅子に座ってうなだれたセオームを残して、そしてノブを捻る、白色蛍光灯で照らされた、コンクリートの廊下が目の前に現れる。
 音を立てて閉まった扉を背に、リミドールはその廊下を歩きだした。

 扉の閉まった音が、セオームの何かを切った。
 ただ独りになった作戦室で、セオームは肩を震わせる。
 そして何度も妻と、娘と、これから生まれる息子の名前を呟いた。
 リミドール少将の言った事は事実だ、そう思う、しかし。
 軍人では無く、人の心を持った人間として、しかし、と思う。


「リミドールだ、奴らに伝えろ、作戦は一週間後、レインバレー付近に集合だと」


 自分は、士官になる気は無いのだけど、午後の陽気の中で、金色の髪と、深い蒼の目を持った十七歳の青年、リゼル・トライドールはそう思った。
 三十ばかりの机が並ぶ教室、黒板の前で、髪の薄くなった教員が黒板にチョークを打ち付ける。
 適当にそれを書き写しながら、飽きた様な溜息を漏らした。
 それでも、授業は真面目に受ける、傍から見れば、彼は成績優秀で、優等生であった。
 努力を惜しまず、特に目立った問題も無い、線の細く整った、中性的な顔立ち、教員からも周囲からも評価の高い、絵に描いた様な優等生だった。
 彼はそうある為にここにいるのだから当然ともいえる。
「えー、このように、我々トリスト人は、十二世紀半ば頃、ここにトリストメリスを建国した」
 下らない、そう思う、何が楽しくて俺は歴史の勉強など受けているんだ。
 別に、歴史の授業が嫌いなわけではない、ただ興味がないだけだ。歴史なんてものはそれこそ簡単に作れるし、崩れる、都合のいい解釈と、それを裏付ける証拠があれば、無論その証拠が造られたものであったとしても。
 ある意味、おとぎ話と変わらない、ただ筆者が何度も変わって、その度都合よく書きなおされただけだ。
 視界がぼやける、姿勢は崩さないが、意識がゆっくりと体を離れて行くのが分かる。
「我々は元移動民族だったが、他の人種との交流が薄く、トリスト人は主に遺伝として、えー、まあ常識だが、目の色が深い蒼だ、最近は減ったが、髪は金が多い」
 そう、別にこの国の歴史なんて知っても役に立たない。
「我々が他の人種と交流を深く持たなかったのはこの容姿が一因でもあるな」
 だらだらと、トリスト人は伝統的に美形が多く、奴隷商人に狙われていたなどと説明が続く。
 あまりに下らない講義に、教師のチョークが黒板を打つ音が遠くに聞こえる。
 襟元に手をやって、シャツのボタンを一つ外した。
 退屈だ、それでもやらなくてはならないのはなかなか苦痛だった。
「国家規模の移動民族だった事が幸いして、我々の多くは奴隷として狩り立てられる事は少なかったが、中世においてこの容姿はなかなか価値の高いものであり……」
 途切れ途切れに耳に入る音が、単調にチョークが黒板を打つ音が、どんどん意識を引きはがす。
「そうだな、典型的なトリスト人の容姿は、まあルカ、エミリ、あとはリゼルなんかもだな」
 名前を呼ばれてはっとした、さり気無く姿勢を正す。
 次の休み時間には顔を洗いに行こう、ちょっとでも評価を落とすわけにはいかない。
 自分を救ってくれた恩師の為に、やらなければならないのだから。

「なあ、リゼルってなんでそんなに頑張るんだ?」

 下らないと思える歴史の時間が過ぎた後、大きく伸びをした彼に向って、隣に座っていたクラスメートが尋ねた。
「あ、いや、なんか眠そうだったのに結局寝なかったから、頑張るなぁ、と」
 いぶかしむように、リゼルが眉をしかめたのを見て、彼はそう弁解した。
「そうそう、アイツの授業なんか寝てても寝てなくてもかわらねぇよ」
 少し離れた席から数名近づいてきて、眠そうに呟く。
「まあ、でも俺途中で名前呼ばれた時、寝てなくて良かったと思ったよ」
 苦笑を浮かべて、リゼルは肩を竦めて見せ、「若干ヤバかったからどきっとした」と付け足す。
 彼は未だ、信奉する恩師の事を明かした事は無かった。
 いつも、彼の心の奥底には、宗教的な熱を持った、師に対する想いがあった。
 『師の望みのままに』それは今の彼の、全て事柄に対する原動力であると言っても過言ではない。狂った宗教家の様に、彼は恩師の事を信じ、慕い、そして報いようとしていた。
 常人にとって、投げ出したくなるような苦痛の中でも、彼が耐え続ける事が出来るのは、すべて師に対する想いからだ。
 しかし、リゼルはその熱を表に漏らす事はまず無かった。
 
 
 物心が着いた時に、既に父の姿は無かった。
 母は、母は綺麗な人だった。
 あの頃、母が何をして自分を育てていたのか、今になっては知りようもないが、大体の想像はついている。
 物心が着いた時に、既に周りは戦争をしていた。
 今でも思い出せる、空を駆ける轟音、ややあって遠くから響いてくる震動、そして悲鳴。
 未だも忘れる事は無い、鉛筆よりも先に手にした銃の重さ、母のいない夜、独り廃墟同然の家で抱えながら過ごした銃の心強さ。
 まともな時代じゃ無かった、年端の行かない少年にもそう分かる、国境近くの街で、そう、恐らく兵士相手に娼婦をしていた母と生きていた時代。
 毎日が恐怖の連続だった、味方も敵も無い、昼間はただ銃弾と爆発と怒鳴り声に怯えながら震え、夜は独りで銃を握り締め丸くなる、少しの物音に驚き、母の持ってくる侘しい食事だけが楽しみだった。
 そして、死体を漁って生きていた、敵でも味方でも、子供はチームを組んで死体を漁り、食料や銃を集めて、大人が売る、そんな時代だった。
 人は、安心して眠れないと、自分が何時を生きているか分からなくなるものだ、まだ五歳にも満たない時にそう知った、泥と灰と塵にまみれた毛布の中で、朝から晩まで震えていると、今が明け方なのか夕方なのか分からなくなる、意識を失った一瞬に、気付けば夜が明ける、そんな生活が、それこそ何年も続いた様な気がする。
 いや、今調べれば、あの戦争はたった五年間の出来事なのだ、それでも、自分は恐らくその五年間の間に多くの物を落としてきてしまったらしい、子供らしい時間だとか、母と父の愛だとか、そんなありがちな物じゃない、もう、年齢も名前すら落としきてしまった。
 だから、今の十七という年齢も、正直あっているのか分からない、物心ついて、そこから戦争が終わるまで何年間あったのか、分からない、ただ一日が過ぎる事に安堵して、明日が来る事に怯えて過ごしていた。
 今、記憶を辿れば、ただ生きる事に固執していた、生きていてどうなるか、なんて事は考えもしなかった、子供だったから、ただそれだけでは無かった、未来の希望も無いままで生きていられたのは、そんな簡単な説明の付く様なものじゃない、今更になってあの活力の源を考えて。
 そして、ある一点で納得するのだ、あまりにも死が近すぎたからだ、と。
 半身吹き飛ばされてまだ生きていた奴も見た、昨日いた奴が今日いないなんて日常茶飯事だった、死んだ兵士の懐から手榴弾が転げ出て、運悪く花火になった奴もいた。日中に戦場をうろつけば、撃ちあいに鉢合わせする事なんかもあった、流れ弾で死ぬ奴もいれば、恐らく邪魔だからという理由で殺された奴もいたし、兵士の死に際もいくらでも見た。
 幸せだったかと聞かれると、不幸では無かった気もする、生きていられるだけであの時は幸せだった。死んでいないことだけが、心の救いだった、目の前で死んだ人間も覚えきれないくらいいる、ああはなりたくないと、必死に生きてきた。
 地獄の中でも、生きていられるだけでよかった、呼吸をして、心臓が波打っている、そんな一分一秒が幸せだった。
 自分が、明日、体に穴を開けて地面に転がっているかもしれない、容易に想像の付くそれが怖かった、そして、今日自分が生きていることに喜びを感じた。
 ある日、母が帰ってこなかった。
 自分はあまりにもあっさりそれを受け入れた、死んだにしろ、捨てられたにしろ、どちらでも良かった、ただ帰ってこないという事実だけがあった。
 母が嫌いではなかったが、楽しい思い出の一つも無かったのだから、生きる為にくよくよしてはいられなかった、あるいは、既にその時自分が歪んでいたか、だ。
 三日待った、三日待って、そして逃げ出した。
 母の持ってくる食べ物が無くなると、死体から漁った物だけで生きていかなくてはならなくなる、子供には銃を売りさばくのは到底不可能だった、食料を得るには、もっと多くの死体がある所と、仲間が必要だった。
 信用に足り、銃器を売る腕もある、そんな仲間が必要だった。
 そこで、エディアに会ったのは、天啓としか言いようがない。


 エディア・ライトドールは、トリストメリス軍の教導隊に所属している。
 くしゃっとした茶色の髪が特徴で、一応目は深い蒼だった。
 この国では、どこにでもいるような十八の青年で、他人より優れているとすれば、軍人だから多少筋肉のあるくらいだ。とは言っても、筋肉質には見えない細身の体は、少しスポーツをやっている学生とさして変わらない。
 ちょっと前までは、髪は短く切っていたのだが、教導に入ってからはとやかく言われない為、面倒になってしまった。服装もいつもの軍服の上に、市販のジャケットを羽織って、街に出る時もそれで済ましている。
 階級は大尉だった、孤児の志願兵で大尉というのは、それなりの出世だった。
 それでも、士官学校の途中で新設の教導に抜擢されてからは、士官学校の方がましだったと言える暇な生活を送っている。
 そもそも、教導という部隊が、模擬演習の仮想敵部隊という、普通の軍学校ならば同学年内で数チーム作り対抗させるため、ほぼ必要のないなんとも微妙な立ち位置にあり、教導部隊員のほとんどは上級士官や政治家の子息といった状態、所謂ボンボンの受け皿なのだ。
 今、彼はそのボンボンの集まり故に、人もまばらな射撃演習場の一角にいた。
 少し空いたスペースに、プラスチックのテーブルと、幾つかの弾痕のあるアルミパイプの椅子がある、彼はそこに腰かけて、演習場の静けさに浸っていた。
 テーブルの上には、先程まで演習に使っていた、上部弾倉式中口径アサルトライフル(ライフル類において、この国では、6.5mm〜9mmまでを中口径として扱う)、通称『ボックスカートリッジ・アサルト』が置かれている。
 この、『ボックスカートリッジ・アサルト』は、アサルトライフル類としては大きめの弾を用い、中から遠距離の殺傷能力が高い、しかし弾倉が上部にあり照準器を覗けないという致命的な欠陥を持っている。
 ただ、弾数は群を抜いて多く、連射もきく、遠距離ではどうしようもないにしても、近距離においては爆発的な火力を誇る。だから、一応『ボックスカートリッジ』はシリーズ化もされていて、ハンドガンからライフルまで、多様な種類があるのだ。
 が、無論射撃演習には向かなかった、数発で見切りをつけたエディアは、こうして場違いな場所に置かれた休憩スペースで呆けている。
 そこは、『お茶の間』と呼ばれている、理由は簡単だ、教導に配属されたボンボン共は、まず嬉々としてここにやってきて、適当に弾をばら撒く。
 自分がばら撒いているのが、一発で人に致命傷を与えられる危険物であると自覚も無いまま、的の付いた鉄板に向かってばら撒いて、仲間内で笑い合う。
 そんな、団欒の場としての『お茶の間』と。
 教導部隊長が、良くここでコーヒーを啜りながら射撃をしている事から来ている。
 銃弾飛び交う演習場でも、かの軍人姫君には『お茶の間』なのさ、といった具合に。
「おう、ライト」
 肩に、既に旧式のレバーアクションのライフルを担いだ、黒い肌の青年が近づいてくる。軍服に着いた階級章は大尉の物だった。
 片手を上げて挨拶をして、椅子をずらす。
「おいおい、ネール、そんな骨董品どっから持ってきたんだ」
 遺伝的に黒い肌の彼は、エディアと同じく深い蒼い目をしていた、世話好きで、リーダーシップと忠誠心のある秀才、そして、笑うと微かにえくぼができる、そんな好青年だった。
 パイプ椅子を広げると、どっかと座って、テーブルの上にそのライフルを置くと、えくぼを作った。
「隊長からぱくった」
「まじか、隊長って……まじで、これ、グロリアのか」
 言われてみれば、教導部隊長であるグロリア・エールベルグがこんなのを扱っていた気がする。
 目を丸くしたエディアを見て、ネールは満足したように椅子から立った。
「嘘だ、嘘。俺だってアイツににらまれたくは無いしね」
 そして、ボックスカートリッジを手に取る。慣れた手つきで弾倉を押し出し、ロックをかけ、体を捻ると的に向かって引き金を引いた。
 カチン、という小気味のいい音に、銃声が追随しない事を確かめると、彼はライフルの代わりにそれを背負う。
「愛しの軍人姫君殿が、お前に、ってさ」
 エディアは自分の顔を指差す。
「俺?」
 空いているほうの手で、ネールはエディアを指差し、「以外に誰かいんのか」と、またえくぼを作った。エディアが軽く周りを見渡すのを見て、指差した手で顔を抑える。
「あー、隊長は天然馬鹿の部隊員がボックスカートリッジ片手に演習場に向かったのを見て、哀れにお思いになった」
「……見られてたのか」
「そこで、右腕のワタクシに、あの馬鹿に適当な銃を届けろ、と仰ったのだ」
 そして、テーブルの上のライフルを指差して「ワカル?」と言った。
「だいたい」
 細かな質問を飲み込んで、エディアはライフルを手に取った、溜息をついたネールが、頑張れよ、と囁いてさっていく。
 彼は、競技場で的との距離が一番遠いコースに陣取り、しゃがむと、スコープを覗いた。
 深く吸って、止める、十字架の真ん中に、的の中心を合わせ、引き金を引く、スコープから目線を移し、金属と金属が真っ向からぶつかり合った甲高い音を聞きながら、息を吐きながらレバーを引き、空になった薬莢をはじき出す、自動で次弾が装填され、再度スコープを覗く。
 その余韻が、悪くないものに感じられる。
 もう一度、同じ動作で甲高い音を響かせながら、彼はこの銃の持ち主、軍人姫君、グロリア・エールベルグの事を考えた。
 彼が教導に近づいたのには多々の理由がある、その中の一つが、烏合の衆を束ねる役目を買って出た、対クレリア前大戦の英雄、エールベルグ中将の娘、グロリアだった。
 エールベルグ中将の功績は、子供でも知っている。
 前戦争の発端となった、現在の不可侵国境地帯に存在した、アルトメアという街での二月の暴動。トリスト人とクレリア人双方が往来で殴り合い、付近の街から急遽トリストメリスの軍隊が派遣された。
 しかし、これがいけなかった。
 当時より、トリストとクレリアの国家としての仲はあまり芳しくなかった。
 しかし、アルトメアでは、両国家首都と距離があり、戦争肯定派の主張はあまり届かず、なおかつ両人種とも、医者を始め、食料の生産など、街にとって必要不可欠な役割を担っていたため、これと言った争いは無かった。
 だが、前述の暴動が起きる、『我々こそ至上であり、下等な奴らは管理されるべきである』往来でそう言い放った扇動家がいた。
 正直、これには信憑性が無い、エディアはそう思う、戦後、どちらが悪いか、と言う事にならないよう、配慮され造られたものなのだろう、そう思う。
 それでも、事実として暴動は起こり、トリスト軍がアルトメアに入った。
 暴動は鎮圧され、街に平和が戻る、だれもがそう思った矢先。
 クレリアが利権を主張する、アルトメアが、トリストの物の様に扱われた事に異議を申し立てたのだ。
 クレリア側の要求は、トリスト軍の全面撤退、もしくは、クレリア軍の駐屯の承認だった。
 無論、アルトメアは実質的に『中立地帯』であり、トリストが駐屯する事は、今まで曖昧だった『国境付近』に一本の線が引かれてしまう。領土が減る、軍としては耐え難い屈辱であり、さらにその国境近辺に敵国の軍隊が駐留するという状態は、黙って傍観する訳にはいかなかった。
 トリストメリスは、クレリア側の要求を飲む。
 だが、アルトメアにいたトリスト軍は、兵士と言う細胞を持つ生き物として、それに黙って従うわけにはいかなかった。
 首都で囁かれる、クレリア軍備増強の噂、自分たちの民族こそ上だと言う妄信、長年の確執、そして、疲れ。
 四月十三日、それらが爆発する。
 アルトメア粛清と呼ばれる、史上類を見ない虐殺が、たった数部隊、総勢三百名程度によって行われる。
 攻撃対象は、一般の、罪の無いクレリア人だった。
 世界各国がトリストメリスを批難した、クレリアは怒り狂った。
 孤立無援のまま、トリストメリスはクレリアの猛攻を受ける。
 そんな中、当時予備科と呼ばれていた志願兵団を率い、アルトメアに向かったのが、エールベルグ中将だった。
 彼の、詳しい話は伝記としても、童話としても残っている、しかし、今語るべきは彼の英雄譚では無い。
 その、エールベルグ中将は、怒り狂ったクレリアからトリスト人を守りながら、アルトメア粛清を行ったトリスト軍を殲滅した。
 同族殺しである、しかし、世界各国に対し、そしてクレリアに対し、その三百名の首を晒す事が、唯一トリストメリスを生きながらえさせることができると、彼はそう信じたのだろう。
 四年間に渡る戦乱の末、エールベルグ中将は同族の虐殺魔の首を世界に晒し、戦争は終結した。
 しかし、右腕を失うといった、多くの傷を負ったエールベルグ中将もまた、この世を去る。
 多くの犠牲を出して、戦争は終結した。

 俺―エディア―と、あいつ―リゼル―の故郷を、瓦礫の山にして。
 俺と、あいつの家族を、ゴミの様に殺して。
 そして戦争は終わった。

 そう、グロリア・エールベルグは、このような働きをした英雄の娘だ。
 軍に入って、士官学校の入学式で、遠くからだったが、彼女を見た事があった。
 第一印象は、お人形さん、だった、酷く美形で、華奢のさらに向こうの、カラス細工の様な少女、ウェーブのかかった、金色に輝く髪を腰まで垂らして、色白で、体を、飾り気のない白のドレスに身を包んだ彼女は。
 はっきり言って、お人形さんだった。
 絵本の仲の御姫様を、熟練の職人がまるまる硝子細工の人形にした、そんな感じだ。
 椅子に座っているだけで、時折自分よりも年上の新志願兵達を見渡すように首を動かす。
 心の奥底で、英雄の娘でも、あれか、と、誰かが言った。今になって思うのだが、英雄の娘だからこそああだったのだ。
 特段何を期待していたわけでもない、貴賓席に彼女がいる事態驚きで、紹介されて初めて気付いたくらいだった。
 英雄の娘で無ければ、ただの『すごい美少女』で終わっていた、英雄の娘と言うだけで、自分は彼女に心の奥底で幻滅した。
 そして、その思い込みを、彼女が烏合の衆を束ねる役目を買って出て、グロリア・エールベルグという名を再び聞くまで、心の奥底に持ち続けた。

 レバーを引いたところで、装填音が鳴らなかった。
 弾倉が空になっていた、溜息をつき、銃を肩に背負う。窓から差し込む光が、すでに赤くなりつつあるのを視界の端に感じて、そろそろ帰るかと、立ち上がり、振り返る。
 お茶の間に目をやり、そこに座っていたいつかのグロリアを思い出す、ネールと、彼女と、あそこで茶を啜ったこともあった。ネールは、士官学校来の友達として、エディアが名前を挙げる事の出来る唯一の同期だった、孤児院から途中入学という、少々無理な入学方法をとったエディアに対しても、彼は生まれや身分を気にせずに対応してくれた。
 ネールは士官学校の主席だった、だから教導に抜擢された、恐らくその際に教導隊隊長である彼女と面識があったのだろう、そこそこ普通に会話をしている彼らを横目に、ハンドガン用の射撃台に陣取ったエディアを、ネールは強引にお茶会に参加させた、後々から聞くと、それはグロリアの命令だったそうだが、軍人姫君の扱いに困った彼が、これ幸いと次の生贄を差し出し逃げようとしたというのは想像に難くない。
 何せ、彼女は


 教導は歴史の浅い部隊であるから、新造された教導の『基地』もまだ真新しい。
 教導の施設は、全く軍施設に見えない、五階建ての近代的な建物であるが、ゴシック調の意匠が、ささやかにではあるが各所に散りばめられ、エントランスにはシャンデリアと、知らずにここを訪れれば、それなりのホテルの様に見えるだろう。
 エントランス正面には受付があり、その両脇には階段がある、一階は食堂や倉庫があるのみで、作戦室、待機室、そして部隊長室は二階以上にある。
 受付には、今は誰もいない、午後になると、教導に来る人間は全くいなくなるため、受付嬢は帰るのだ。
 階段を上がると、廊下だ、この階には待機室しかない、談笑し、数部屋ある待機室内で遊ぶ人間の声が聞こえる、今は、夕暮れであっても施設内には人が残っているが、恐らく自分がこの廊下を帰る頃には、誰もいなくなっているだろう、何せ教導は訓練以外やる事がないのだ、ほとんどの部隊員は、日が暮れる前に寄宿舎か自宅に戻る、夜間は一部の部屋以外は暗く静まりかえる。
 気の抜けた訓練しかする事がないのは、士官学校と変わらないが、構成員のやる気が全くない点で士官学校よりも酷い、将来が既に決まり、評価も付けられないですむ、一人前の軍人であるという妄想に浸った半人前が大部分を占めるここでは、誰しも腐る。
 だからこそ、一部の人間は恐ろしい程に異彩を放つ。
 廊下を直進し、階段を昇る、部隊長室は四階にある、三階には作戦室と資料室があり、五階は講堂となっている、正直、軍事施設としてどうなのだろうか、そんな事を考えながら階段を上っていると、呼び止められた。
「おい、まだ帰って無かったのか」
 三階の廊下を、茶色の髪をした青年が歩いてくる、エディアは疲れたように息を吐いた。
「悪いが、隊長に用があるんで、お前にかまっている暇は無いよ」
 その青年は、エディアの少し前で立ち止まり、彼の持っているライフルに目をやる。
「分かった、それは俺が代わりに隊長に渡しておく、お前は帰れ」
 エディアと、ネールと同じく階級は大尉であった、軍服を着こなしており、いつでも銃を手放さず、ぬるま湯の様な教導でも評価を気にし、緩む事を良しとしない。たっだ、熱い男かと言うとそうではない、いつでも至って冷静である。
「ああ、それは助かるが、結構だ、断る」
 そう言って歩き出したエディアに対し、追うように数歩前に出ると、少々苛立ったように咳払いをする。
「大尉任官は俺の方が早いんだ、形式上はでも、俺が上官の筈だが?ライトドール大尉」
「ええ、そんなの知った事ではありませんが、何か?オニキス大尉殿?」
 歩みを止めずに言い放つ、オニキスと呼ばれた大尉は、諦めたように溜息を吐くと、「全く、兵士としてならお前の実力は評価に値するが」と、聞こえるように呟いた。
「お前みたいな乱雑な奴が士官とはな、世も末か」
 そう言い放って、元来た廊下を歩きだしたオニキスを見送る、腕時計に目をやろうとするが、今日はしていなかった事を思い出す、数段階段を昇り、階段の途中の窓から、既に闇が降り始めている風景を眺める。
 何故か、心がざわついた、視線を逸らし、階段を昇り、廊下の先を見ながら、エディアは適当に襟を正した、部隊長室の前に立ち、軽くノックする、返事は無いが、いつもの事だ、ノブを捻り、鍵がかかっていないことを確認すると、失礼します、と言って部屋に入る。
 部隊長室は、かなり広い、四階の半分を占めるこの部屋は、実は六つの部屋から構成されている、入口から一つ目の部屋は応接室として機能しており、ソファーとテーブル、そして部隊長用の机が置かれていた、入口のドアの両脇には本棚があり、軍用書や書類が置かれている、そして、全ての壁にドアを持つ、エディアの知る限りは右とその奥、この二つは倉庫と化しており、左は入れてもらえていない。
 そして、執務に使われる机の奥、そこにあるドアの向こうの部屋、そこは、グロリアが壁をぶち抜かせて、壁のほぼ半分を窓に改造し、風景が良く見えるようになっている。
 冷蔵庫や、菓子類が入った箱が隅にあり、彼女が部隊内の人間を呼び、話をするときはそこが使われる。
 入口の脇で、直立のまま待つ、「いらっしゃいませんか?」と声をあげて、奥の部屋で物音がした。
 すぐに奥のドアが開く、ふと、昔の記憶の『おにんぎょうさん』が、現れた彼女の姿と重なる、ただ、特注の軍服を完璧に着こなし、大佐の階級章を輝かせる彼女には、もっと荘厳とした何かがあった。
 たいがいの場合、貴族や英雄の血族が高位の階級を受けるのは、政治的なアピールである。階級を贈る行為は、この国での伝統であると同時に、贈った有力貴族や将官に対し、民衆の間で評価が高まる効果を期待して、といったところか。より高い階級を送る事で、送った側の名誉となる。
 士官学校を卒業するだけで、尉官になれるのもそのためだ。もちろん、エディアの大尉の階級も贈られたものである。
 しかし、グロリアは、見かけ倒しの貴族連中とは何処か違っている。
 外見は、あまり変わっていない、軍服を着こなしても、華奢の向こう側の、その身体には少しの逞しさも感じない。
 髪の長さは昔と変わっていない、軍服から出る部位の透き通ったように白い肌も、そのままだ。
 ただ、瞳に宿る光が、違う。遠目に見ただけだったため、気付かなかっただけかもしれないが、その、深い蒼の瞳は、圧倒されるほどに強い光を灯していた。
 彼女の、荘厳とした何かは、その瞳から発せられているのだろうと、そう思う。こちらを見て、微かに笑うと、また奥の部屋に引っ込んだ、ライフルを持ち直して、その後を追う。
 部屋の真ん中に、丸いガラスのテーブルがあった、一人用と二人用のソファーが、そのテーブルを挟むように向かい合わせで置かれている、一人用のソファーには茶色い封筒が載せられており、テーブルの上には空のコップが一つだけあった。
 冷蔵庫の前にしゃがみ、中を漁っている彼女は教導の食堂でも扱われているカフェオレのパックを2つ下げて、パックを下げたままの片手でこちらを指す。
「呼ぼうかと思っていたのだけれど、丁度いい、まあ、適当に座ってよ」
 冷蔵庫の脇から、もうコップを一つ取りだすと、戻ってきて、カフェオレのパックとコップを机の上に置くと、一人用のソファーの上から封筒取って座る、「失礼します」、と言ってエディアもやっと腰を下ろし、ライフルを脇に置いた。
 グロリアは薄く笑いを浮かべた、上官より先に座るな、士官学校でまずそう教わるのだ、いまだ律儀にエディアがそれを守っている事がおかしかったようだ。
 一つ溜息を漏らすと、彼女はソファーに体を沈めるようにして、エディアを見る、立っているときはもちろんのこと、座っていても、エディアとグロリアの目の高さには開きがある、歳が二つも違い、なおかつ彼女は女性なのだから仕方のないかもしれないが、上官に見あげられる、というのはどうも毎回奇妙な感覚を覚える。
 それがさらに開くのだ、子供に見あげられるような気恥ずかしさを覚え、ふいに目を逸らしてしまう。
「まったく、君はいつになっても硬いな」
 姿勢を戻して、テーブルの上のカフェオレを開けるグロリアを見ながら、ライフルを近くに寄せる、カフェオレを開けて、コップに注ぐ、一つをこちらに押してよこして、もう一つに口を付ける。
「これ、ありがとうございました」
 ライフルを返す、ああ、と呟いて、それを抱えると、立ち上がり、すこし離れた壁に掛けると、こちらを見る。
「で、感想はどうかな?ボックスカートリッジより良かったならいいけど」
 そう言って、座りなおす、つい先程の、撃った後の静かな余韻、演習場に響く甲高い金属音、スコープの中の無音の世界、あの感触を思い出す。
 手を口元にやって、考えてしまう、グロリアが向けてくる視線をちらりと見て、早急に取り繕う。
「いい銃ですね、アレ」
 言いたい事はたくさんあった、しかし、あの感触をどう形容していいのか、分からなくて、自分の中からは、そんな簡単な称賛の言葉しか出てこなかった。
 それでも、ふっと笑うと、満足したように、「そうだろう」、と言った、彼女の反応に、こちらも軽く笑う、伝わったようで、ほっとする。
 笑ったエディアから、壁にかかったライフルに視線を移し、グロリアは少し物憂げな顔をして、支えを求めるように、ソファーに身体を埋めた。
「父の、だからな」
「……そうでしたか」
 同じく、その、旧式のライフルに目を移し、なんでそんな大切な物を、と考える、聞こうかと迷って、これ以上踏み込んでいいのだろうかと、やはり辞める。
 エディアは、グロリアと付き合いが長いわけではない、しかし、上官と部下という関係ながら、他よりも親しくしてはいた。
 それは、エディアが教導に、というより彼女に自分を売り込んだ為だった。
 昔見た、英雄の娘が、教導の頭を買って出た時、エディアは初めて彼女に興味を抱いた、彼女の人間性を、能力を知ろうと思った、士官学校の学生ではあるが一兵士である彼には、英雄の娘であり、既に中佐であった彼女に面会するのは難しい、しかし、それはあくまで公的に、の話だった。
 結果としてエディアは教導に抜擢される、本人もそれを望んで。
 それからの付き合いだった、それほど長くも無いが、エディアはグロリアを上官としても友としても信頼した、それでも公的な場では部下としての態度をなかなか崩そうとはしなかったが。
 そして、グロリアもエディアを友として扱っていた、しかし、エディアはグロリアの私的な悩みなどを聞かされた事は無いし、話したことも無い、あくまで、仕事上で信頼できる『同志』、エディアはグロリアをそう思っていた。
「まあ、いい、本題だ」
 グロリアが背筋を正す、エディアもそれにならい背筋を伸ばす。
 グロリアはふっと笑うと、「ここからは私用だよ」と呟いた。
 先程から片手に持っていた封筒から、数枚の書類を取り出すと、グロリアはそれをエディアに手渡した。
「完璧とは言い難いが、上々だ」
 その書類をめくってみる、どうやら近々可決された新しい軍案らしい、全部で四つの項目からなるそれは、『緊急時の積極対応の利権』についてだった。
 一項目、本軍案の概要の説明、大まかに言えば、緊急時に近場に居合わせた士官が簡単な許可さえあれば全体指揮官相当の指揮権を把握でき、対応にあたることができる、という事だ。
 この軍案を発案したのはエディアだった。
「教導の抜擢部隊の案は潰されたんですか」
 第一候補として上げた案の行方を尋ねる。グロリアは天井を仰ぐと、その向こうの星空を眺めるように吐きだした。
「私兵団になる、とのお咎めを受けてな」
 二項目の、積極対応を要する事態の概要に目を通しながら、ふぅん、と呟きかけた声を飲み込む、若干不服であったが、上層の『お咎め』は的を射ていたし、グロリアの手腕がいくらあっても、正論をひっくり返す事は難しい、何より、教導が戦力獲得に躍起になっている、戦争を始めようとしているのでは、と疑われたくない。
 侵攻を受けた場合、不可侵国境帯で敵を発見した場合、自国民が攻撃を受けた場合……具体的に上げられた十数個の項目を眺め、先程の問いの答えに対する意味も含めて、「なるほど」と返す。次のページを開き、積極対応対象外と書かれた項目を読み飛ばす。
 今は、そんな事が重要なのではない。第三項、積極対応指揮権対象者と書かれた場所に、間違い無くグロリアが含まれる事を確認して、例外項目を読み飛ばす。次のページへ向かう前に、どうだろうか、という視線を向けてくるグロリアをまじまじ見た。
 首を傾げた彼女の目もとに、微かなクマができているのに気付く、元々白いが、どうも顔色も悪いようだ、恐らく、第一案を潰され、お開きになりかけた議会で即座に次の案を持ち出し、説得に尽力したのだろう、それは何も議会の最中だけでは無く、前々からの『根回し』も含めて。
 いつも通りを演じる彼女から、確かな疲労と、決してそれを表に出そうとしない努力を感じた。労ってやるべきか、そう考えて、まずは不備がないか確かめてからにしようと、書類に目を戻した。一瞬あった妙な間に不安を覚えたのか、グロリアが「何かあったか」と尋ねてくる、「いえ」と呟いて、ページをめくった。
 第四項、積極対応時に居合わせた士官が、許可される軍事行動の概要である、首脳部に対する意見権、現場での指揮優先権、そして、ありとあらゆる支援要請権。
 その最後に、階級が大佐以上ならば、一時的に事態収拾への指揮全権を委任する、と書かれている。
 そして最後、緊急行動中の軍団指揮によって発生する責任は、この軍案によって任命された指揮官が負う、戦後処理、殉職時の対応など、雑多な事のまとめだ。
 エディアは溜息を漏らした。
「これは、やってくれましたね」
 書類をテーブルに置き、グロリアを見る、彼女は得意そうに笑うと、目線を外の風景に向ける。
「案外、楽だった」
 エディアは、満足してもう一度書類を手にとると、念入りに読んだ。
 重要なのは、そう、本当に重要なのは第四項の、『一時的に事態収拾への指揮の全権委任』の範囲内に、グロリアが入っている事と。
 その、『一時的な全権委任期間』が、いつまで続くのか、明記されていないことだ。
 読みようによっては、一瞬とも、戦争終了までともとれる、そしてそのトリックを仕込んだのはグロリアとエディアであり、自分たち以外は、恐らくこのトリックに気付いていない。
 ゲームが始まってしまえば、そのトリックを利用し彼女がプレーヤーの席に座る事が出来る、無論、これはエディアにとってもグロリアにとっても保険に過ぎない、できれば戦争など回避したい、しかし、現に昔戦争は起こったのだ。いざというその時、事態を多く知る人間が座った方が良い席なのだ。
 そのゲームを長引かせないために。
「あとは、どうやって現場に居合わせるか、だが」
 書類から目を離しグロリアを見る、欠伸をして、彼女は指を折り始めた。白い細長い指が一本ずつ折られていくのを見ながら、大丈夫です、と、にやりと笑って見せる、同じく唇を歪め、グロリアは頷く。
「そこは俺の領分ですよ」
 策がないわけじゃない、というより、策はある。それを前提として、自分はこの『英雄の娘』をプレーヤー席に座らせようとしている。
「戦争抑止の為に、教導お抱えの部隊を新造して動員する事は叶わなかったが」
 心底残念そうにグロリアは呟く。
「現場に居合わせれば、結局同じです」
 手に持った書類をひらひらさせ、エディアは「でしょう?」と言った。グロリアは溜息を吐く。「私の負担は確実に増えるがな」そう愚痴を呟いて、首を振る。
「文句を言える御身分でも無い、か」
「まあ、たぶん開戦が近づいたら分かるので、あとは国境付近にネールでも派遣して……」
 グロリアは立ち上がると、隣の部屋に消えた、書類を漁る微かな音を聞きながら、エディアは後ろめたさを感じた。グロリアにはともかく、この案ではネールを含めた一般の教導部隊員にはいろいろと迷惑がかかる。しかし、正直なところ、第一案であった『精鋭部隊新造』よりもこちらの方が格段に良い、タイミングが重要になるが、確実に実権を握れるだけでなく、範囲が違う。
 この案なら、全軍とはいかずとも、前線と補給ライン程度なら掌握できるだろう、そもそも、全権を握る必要性は無いのだ、即座に行動さえできれば、その新造部隊でも構わなかった、だが、即座かつ柔軟に対応する為には、ある程度の権利は必要だろう。
 それでも、新造部隊の案を第一希望にしたのは、『未然に防ぎたい』というグロリアの主張を優先したからだった、始まってからではなく、始まる前に防ぐ、それが一番だとはエディアも思ってはいる、思ってはいるが、エディアは、戦争は最早回避不能であると、そう感じ取っていた。
 戦争は、ある日突然、天災のように始まるものじゃない。
 様々な要素があって、確かな前兆の先に、初めて起こるのだ。
 人々からにじみ出た負の感情が、どんどん積み重なって一つの『爆弾』を形成していき、それが爆発する、目には見えないが、だれもがその『爆弾』の存在を感じている、おぼろげながらも、たしかに。
 だから、戦争の気配を感じ取っているのはきっと自分だけでは無い、自分が、最も敏感に戦争を感じることができる位置にあるとは思うのだが、グロリアだって明確にそれを感じているはずだ、国境付近の農夫から、この国の首相(トップ)まで、恐らく感じているはずだ。
 それでも、きっと、グロリアを含む多くの人間は否定したいのだ。
 爆発したそれは、恐ろしいまでのエネルギーを持って突き進む、何の創造も無い、破壊のみを撒き散らして、昨日まで唯一無二と子供に教えていたはずの物を大量に刈り取るのだ。怒り、憎しみ、恐れ、負の感情が、知能の介入を許さず、さながらアメーバ状の単細胞生物の様に突き進む、その流れの中に飲み込まれてしまえば、我に帰った時、自分が血の池の中に半身を埋めているかもしれない、そして、それが敵のみならず、自分や、自分にとって大切なヒトの――
「どうした?大丈夫か?」
 向かい合ったソファーに、既にグロリアは腰を下ろし、隣の部屋から取ってきた人員名簿を開いていた、反応を示さず、思いつめたような顔をし、俯いていた自分を心配したのだろう。
「いえ……えっと、それは?」
 グロリアが持っている人員名簿が、どうやら趣味や特技、そして出身地などをまとめた、通常の部隊名簿と異なる物であるのに気がつく。
「どうせ、僻地に派遣するなら、実家が近い方がいいだろうし」
 軽く微笑んだグロリアは、言いにくそうに「有事には、家族の近くにいたほうがいい」と付け足す。
「そこらへんは、お任せします、要は教導が実権を握れればいいんですから」
 手段は示した、過程はご自由に。暗に示し、名簿を確認しているグロリアの邪魔にならないよう、黙って、また書類を開く。
 彼女は優しすぎる。
 書面の文字を、漠然と眺めながら、エディアは、カフェオレを啜るグロリアをちらりと見た。
 彼女は、優しすぎる。
 彼女だけじゃない、ネールも、オニキスも、優しすぎるんだ、きっと。
 みんな、優しすぎて、そして臆病だ。この戦争が起きようとしている事実から目を逸らし、『防止策』で何とかしようとしていた。何とかなるはずがない、それは必ず起こる、運命と言ってしまえば、そうかもしれない、そう、それは運命的に来るのだ。その事実が、誰にとっても恐ろしく、否定したいものであっても。
 その点、俺は臆病なだけだ。
 起きてからの事しか、考えてない。
 現実を直視し、何処を襲い、何を壊し、誰を殺すか、それを、もう考えている。
 殺したいわけじゃないが、殺すしかなくなってから考えても遅すぎる。目の前に敵が現れてから考えていたら、生き残れない、あらかじめ備えるか、無意識のうちに人を殺せるようにならないと、生き残れない、戦争だから。
 そして、俺が殺さないと、グロリアに人殺しをさせてしまう。
 俺のせいで、誰かが死ぬのも、殺さなければならないことになるのも、嫌だ。
 彼女の様に、殺さず守ることができると信じられたらどれほどいいのだろう。殺して守るしか無くなるような事態が、起きないように行動出来たらどれほど楽だろう。
 景色が、黒に染まり始めていた、今日、夜が来たように、戦争も自然とやってくる、そして、気付いたら暗闇の中にいるのだ、砂と、血と、硝煙の闇に包まれるのだ。
 エディアはもう一度書類を確認する。
 自分が、嘘を吐いて、グロリアや教導員の、戦争は起こらないという夢を守ろうとしたのを、グロリアは感じ取ったに違いない。彼女に蔑まれようが、第一案が棄却されたことは、自分にとって、嬉しい結果だった事に変わりない。
 あくまで、エディアというたった一人の人間にとってだが。
 結果オーライ、って奴か。そう微かに呟いて、エディアは書類を閉じる。
 閉じた書類を、再度机の上に戻したところで、グロリアが静かな寝息を立てていた事に気付いた。エディアへの報告も済み、気が緩んだか、張り詰めていた緊張が途切れ、疲労が露呈したか、その両方か。ソファーに身体を埋め、目を閉じ寝息を立てている少女。その強い瞳の光が、長いまつげと瞼に覆い隠されているときは、年相応の少女に見えるのか、エディアはあたりを見渡し、何かかけてやるものはと探すが、生憎見当たらず、仕方なく自分のジャケットをかけてやる。
 部屋を後にし、不用心だろうかと振り返る、せめて、来客が彼女の眠りを妨げる事の無いようにと、外出中、と書かれた札をドアノブに掛けてやる。
 教導の建物から出る、少し離れた場所にある駐車場に向けて歩く途中で、ズボンのポケットに入れっぱなしだった、軍用のとは違う、個人用の携帯端末に電源を入れ、確認した。
 しばらくの沈黙ののち、それは微かに振動した、宣伝か、誰かからの遊びの連絡だといいのだが、闇の中で、ディスプレイに浮かんだ黒い文字群に、エディアは、自分の戦争が始まったのだと、教えられた。
 足を止めて、再度携帯端末の電源を落とす、遠く離れた電灯と、月と星しか光源の無い、暗い世界に包まれて、エディアは唇を歪ませた、運命的なものを感じずにはいられない、喉から、嗚咽の様な物が漏れた、天を仰ぐと、堪らず慟哭した、数秒間後に、これは慟哭じゃ無く自分が阿保の様に笑っているのだと思った。それでも、目の脇を生温かい滴が伝い、闇の中に落ちて溶けて消えた。

 その、数時間前に、リゼル・トライドールも同じ連絡を受けていた。

「黄色いインコの、巣穴を見つけた
    今日から、一週間後に、レインバレーに、巣穴を見に行こう」


 リゼルは車もバイクも持ってない、理由は国籍がないからだ。
 親が申請しない限り戸籍が与えられず、更新もされないトリストにおいて、辺境で生まれ、戦時中に戦災孤児になったリゼルには戸籍が無い、というよりあっても証明できないのだ。しかし、戦後という状況下において、それも珍しい事ではない、リゼルや、エディア以外にも同じような奴は幾らでも居る。
 一応、救済の政策もある、申請すれば、自分の姓と名を好きに決め、それを戸籍として登録できる、だから、リゼルの『トライドール』も、エディアの『ライトドール』も、自分で決めたと言う事になっている。しかしこの国籍も仮の物でしかない、年齢やそもそも人種も怪しい戦災孤児に、ちゃんとした戸籍が保障される訳がない。
 ありとあらゆる免許、学校、仕事、住居においても戦災孤児は『区別』されている。孤児院で過ごした後は、国籍を受け取り、国からもらえる雀の涙程の手当てと、狭い国営住宅で、学校にも通わず、汚れ仕事を引き受けるか、裏の社会に紛れ込むか、あとは軍人なるしかない。
 軍人になれば、ちゃんとした戸籍が保障されるのだ。そして、親を奪った敵国に対する恨みもあってか、戦災孤児の内軍人を目指す割合は多い。
 この、九死に一生を得た孤児たちを、戦地に送り込むような救済策に、改正の動きもある。しかし、実際に改正されるのはいつになるか見当もつかない。
 リゼルやエディアは士官学校生になれた、ただの戦災孤児は、志願兵にはなれるが士官になることはまず難しい。異例なだけに、学校を出るまでは、通常の戦災孤児と何ら変わりない扱いだった、しかし、少なくとも周りの人間は彼らを認めていた、特にエディアはグロリアを筆頭として認められていた。
 周りから認められていても、法的には認められていない。先に教導という正規軍に抜擢されたエディアは軍用車の運転ができるが、リゼルの交通手段は乏しかった。中途入学のリゼルは運悪く寮に入れなかったため、帰宅に時間がかかる。本人は気にしていないが、周りは気にかけている、もっとも、当の本人はその厚意を疎ましく思っていたが。
 一応、奨学金は余す程貰っていたので、リゼルは学校の近場に引っ越すことも出来た、それでも、わざわざ遠くから通うのは、学校帰りに友達が家に来るのを避ける為だった。
 他人に自分の領域を侵されるのはどうも気に入らない。そして、自分が意図的に引いた線を乗り越えてくる奴が嫌い。もちろん、さり気無くであって、表面的に他人を拒否するような態度をとる事はまず無いのだが。
 それで、彼の家であるごく普通の集合住宅の一室は、士官学校から徒歩で約一時半間程の距離にある、公共の交通機関を使えばその半分もかからない、家といっても彼は戦災孤児で、帰っても待っている家族などはいない。しかしそれを寂しいとは思わない。
 街灯もまばらな、車もなかなか通らない寂しい通り、だまって静かに歩くリゼルではあったが、心の中は、歓喜に満ち溢れていた。
 やっと、始まった。
 先程受けた短い文章、それはリゼルにも『戦争』を予感させるものであった。
 リゼルは、戦争を待ちわびていた。あの戦争のなかで、自分が生き残ったのは、天の導きでも何でもない、救われたからだ。
 『あの人』に、今でも忘れない、さしのばされた手の大きさ、自分は生かされたのだ、次の戦争に勝つために、自分は最期まで闘う、あの人の前を阻む物全てを壊す、それこそが自分の『存在意義』であった。だから、士官学校にも通った、それが必要だったから。
 頭の奥底がぼやけて、身体が火照る、生憎、感じた事は無いが、遠足(ピクニック)の前に子供が陥るという、夜眠る事のできなくなる様な、そんな熱を感じた。この熱なら、背筋の凍るような死の恐怖を、きっと熔かしてくれるのだろうとも、思った。
 夜の外気を吸い込む、静かに吐き出して、携帯端末を取り出した、エディアに連絡をしようか、恐らく彼も同じ連絡を受けているはずだ。できれば、できれば合いたい、同じ思いを共感できる唯一の親友として、語りたい、そして、遠足の予定を話し合う子供の様に、はしゃげたら。
 端末のディスプレイの右上に表示される時刻を見て、明日にしようと諦めた、せめて連絡だけでもいれたいが、家に帰ってからにしよう。シャッターの閉まった商店の脇を曲がり、その通りのずっと向こうの三階建ての建物、自分の家、しかし、リゼルは足を止めた。
 その建物の下に、見慣れない軍用のジープが停まっていた。心臓が高鳴る、何食わぬ顔で近付く、あと五十メートル程で、自動車のドアの閉まる音に思わず半歩下がった、どうやら誰か出てきたらしい、微かな街灯と、月の光では対象の顔が見えない、リゼルは静かに背中に手を回すと、ベルトの裏に隠し持っていた小型のナイフを握った。
 相手がこちらに近づく、ふっと上げられた手が、挨拶なのか、静止の動きか、次の瞬間、「よう」と発せられた声にリゼルは肩を落とした。
「なんだよ、来るなら連絡くらいよこせよ」
 微かに笑った様に見えたその顔は、エディア・ライトドールだった。
「まあ、なんだ?その、……急だったし」
 エディアは車に鍵がかかっているか確かめる様な素振りで、視線をそらした。逸らしたものの、横顔には、困った様な表情が見えた、たしかに、教導入隊直後にこれでは戸惑うのも無理は無いだろう、せっかく今のポジションを得たのにもったいないとも思う。
「ピクニック、だよな!」
 大げさに手を広げ、笑って見せる、疲れた様な笑いを漏らしたエディアは、「ピクニックねぇ……」と頭を掻いた。
「今更なって、ピクニックか……」
 階級章を微かに弄る、この階級になってからなのが気に食わないのか、不安なのか、あまり喜びを露わにしないエディアに、リゼルは少し落胆する。自分たちはこの為に生きてきた、いや、これから初めて自分自身として生きていけるのだ。
 今までここで演じてきた、リゼル・トライドールとしてではなく、リゼルとしてあの人の下で。
「まあ、とりあえず上がって行く?」
 階段を少し昇り、自分の部屋の方に指を向けたリゼルは、エディアに聞いた。ここではしたい話も出来そうにない、冷蔵庫の中身を思い出して、飲み物と、インスタントでもいいから楽に食える物があったか確認する、結局、いってから確かめた方が早いと結論に達し、エディアの答えを待つ。
「時間も遅いけど、少し、いいか?」
 すこし考えて、エディアはそう言った、頷いて、階段を昇る。ドアを開けて、靴箱も、傘立ても無い、殺風景な玄関にエディアを通す、「相変わらずだな」と呟いて、脇に立って待つエディアに、先にリビングに行って、と指で示す。
 キッチンに向かおうとしたリゼルを、エディアは呼び止め、市販のサンドイッチ数個を肩に掛けた鞄から出すと、ビニール袋ごと投げた。
「こういうの持ってくるなら、スープも用意しろよ」
 憎まれ口を叩くと、にやりと笑って、リゼルはキッチンのドアの向こうに消える。
「へいへい、生憎パン屋ではスープ類は取り扱ってなかったんでね」
 その小さい背中をエディアは見送った、ドアが閉まる音を背中に受け、自分もリビングの扉を開けて、広くは無いにしろ、それなりの大きさのリビングを見渡す。部屋の大きさは、それほど大きいわけではない、一人暮らしにしては大きすぎる四角いテーブルと、埃を被り、使われていないことを思わせる三つの椅子、あと一つの、普段リゼルが使っていたであろう椅子も、古新聞が山の様に積まれ、どうみてもここで生活しているようには見えない。そして、それ以外に棚の一つも無い、ただ広い部屋に、テーブルと椅子があるだけだ。前の借主が付けたであろう花弁を思わせる吊り電灯が、やけに浮いて見える。
 ベランダにも植物の一つも無く、洗濯物が乱暴にぶら下げられている。溜息を吐き、新聞の積まれていない椅子の一つを引いて、埃を払うと座る、そういえば前来た時はテレビがあったはずだ、無駄とは分かっていても首を回し室内を眺める、当然の様にテレビは無い。
 だいたい予想はしていた、リゼルの生活範囲が、自分の家からその中の一室に狭まった、つまりそういう事だろう。初めてこの部屋を見た人間なら、奴が随分綺麗好きでマメな人間だと思うだろう、実際は逆だ、真逆だ。
 リゼルが生活範囲に選んだ一室の惨状が浮かぶ、たぶん、鳥の巣穴のようになっているのだろう、部屋の真ん中に置かれた机の周りにいろいろな物が積み重ねられ、すり鉢状のなんとも奇妙な部屋になる、数年前、一緒に暮らしていた時は、自室と寝室が分かれていたからまだ良かったが、もしかして奴は、今はあのすり鉢の中で寝ているのだろうか。
 エディアはまた溜息を吐いた、初めて合った時から、彼はいろいろ欠如していた。物を大切にしない、というよりできないのだろう、多くの物が壊される瞬間を目の当たりにしてきた、本棚に詰まった本がその本棚ごと紙屑に変わる瞬間から、大きな建物が根元部分から崩落して倒れる様まで、物事の無常を悟ったと言えば格好が付くが、実際は脆いものへの価値観が恐ろしく乏しいだけだ。
 前に聞いた事がある、何でお前は手袋を買わないのか、と。リゼルは首をかしげると、「必要なのか?」と言った。兄貴面して、まああった方がいいな、なんて言う俺に、奴はじゃあ要らないと言った。理由を聞くと「どうせ壊れるじゃん、めんどう」とだけ。
 手に入れる事で、失う事の怖さを知る。何かの小説でそんなことを言っていた。それならいい、でも、手に入れる物も無いのに、失っていく事ばかり見せつけられると、物が、どれだけの価値を持つのか分からなくなる。価値観が崩落する、俺は多少ひびが入ったくらいで助かった、もっとも、自分の隣にいた少年が価値観を完全に崩落させていたと気付いたのは、自分が助かった事を知ったずっと後だったが。
 そう、奴の価値観は完全に崩落している、何も物だけじゃない、命の価値観だって、完全に崩れ去っている、きっと、命は幾らだと聞けば、銃弾一発から二発、それぐらい。と、そう答えるだろう。リゼルが命を安く思っていても、それを責めることなど誰にもできない、奴も被害者で、その価値観を奪ったのは戦争だ。
 だからこそ、誰からも奪い返せない。誰も責められない、いや、責任があるとしたら俺にあるのだろう、自分が生き残る事に必死で、奴の事などあまり考えていなかった、戦争を生き残る事に必死で、その後の事なんか微塵も考えていなかった。それも仕方の無い事と言ってしまえばそうだろう、しかし、どうにかできたはずの自分が、仕方の無かったと言ってしまえば、それまでだ。それが、どうしようもなく悲しくて、悔しい。
 確かに、あの経験から得られるものもあった。奴は絆や、銃弾一発では壊れない、精神的な、無形であっても、硬く、強いものならば信じている。自分との友情もそうだし、あの人に受けた恩もそうだろう。しかし、奴の『戦争』は終わっていない。静かに冷たく、冷めた様な温度を保ったまま、まだ燃えている、奴は本当の平和を、感じていないのだろうから。
 キッチンからは未だ食器を弄る音が聞こえてくる、溜息を吐き、硬く冷たい椅子に背中を預ける。カーテンも敷かれていないベランダの窓の向こうには、冷たい夜景があるのみだった。
 きっと、リゼルは、ここでは誰にも心を許していない。それでも彼が生きていけるのは、きっと使命を信じ、任務を全うしようとしているからだ。そしてその任務は戦争を起こさないと完遂できない、もしかしたら、自分は彼と敵対する事になるかもしれない。俺は戦争を停める為に戦う、奴はまた燃え始めた戦争によって果たす為に戦う。
 覚悟はあった、何としてでも、被害を喰いとめる、その為に生きてきた。俺にとって戦争は憎むべきものだ、存在悪だ、あってはならない物だ。しかし奴にとっては恩返しの場所に過ぎない、誰かを、何人、何十人、何万人と殺す事が奴の信じる恩返しなのだ。許されるはずがない、いくら友だからと言って、許せるものじゃない。
 それなら、俺は奴を撃てるのか。ホルスターに入った拳銃を確かめる、撃てるわけがない、撃てるわけがないじゃないか。もし、もしもと思う事が許されるなら、俺がもっとちゃんとしていたら、貧乏でも、古くて小さな家を借りて、給料が安くても、ちゃんとした仕事について、奴を学校に、そう、普通の学校に通わせてやって、人を殺さなくても済む様な仕事に就かせてやりたかった。
 頭を抱えるように額に手をやった、エディアはそのまま動かない。いまやエディアにとって、リゼルは血のつながりの無い赤の他人に過ぎない。しかし、生死を共にしたという意味では、その絆は兄弟のそれよりも強かった。
 それは、リゼルにとっても同じでもあった。

 サンドイッチが、どうやら数種類あるということが、皿に出して初めて分かった。
 そのまま持っていくべきかと悩んだが、何となく、切った方がいいだろうという結論に落ちつく。包丁を探すが、前にそれを使って何処に置いたか見当が付かない、物がありすぎて何処に行ったか分からないのも困るが、無さ過ぎて予備が無いのも困る。
 そもそもいつもは包丁とナイフを使い分けたりしない、軍用のナイフであっても食品が切れない事は無い、しかし、自分だけが喰うものなら別に構わないが、誰かに喰わせる物を軍用ナイフで裂くのはどうも良くない気がするのだ。
 仕方なく、お湯を沸かすことを優先し、包丁はお湯が沸くのを待つ間に探す事にする、置きっぱなしのヤカンに水を足し、買いだめしてあったインスタントのコーンポタージュのカップスープを二つ取り出すと、包丁を探して食器棚の中も覗いてみる、食器を取り出して、入れ直す作業を少しした後、思い出して辞めた。少し前に、ナイフを投げる訓練をした時、市街地で、家庭用品を使って戦うために、包丁を使ったんだった、今、家にある唯一の包丁は、空き部屋の壁に突刺さっていたんだった。慣れないものを投げたせいか、狙いが狂って的を外れて壁に刺さった、そしてそのままだった。
 数を数えて、そのまま出すことを決意する、エディアの喰いたいのを先に選ばせれば、まあいいだろう、できれば、ハムと卵のものは残しておいて欲しいが。
 多少ぬるいかもしれないお湯を、粉末の入ったカップに注いで、まずサンドイッチの盛られた皿を持つ、お盆なんて高尚なものはウチに無い。両手で皿を持ったため、ノブが捻れない、片手で皿を支えて、ドアを蹴破るようにしてリビングに向かう。
「今スープ持ってくるから、適当に喰ってて」
 言った後で、天井を見て頭を抱えていたエディアを見て、首を傾げる。
「どしたん?」
 そのままの姿勢で硬直したままのエディアは、微かに唇を動かした。聞き返そうとするが、直ぐにエディアが手を避け、部屋の片隅を指差す。
「テレビどこにやった」
「え?」
「テレビ、あったよな?お前また巣でも作ってんのか?」
 そういえば、テレビを自室に担ぎこんでからエディアが来るのは初めてだったかもしれないと思い当たる、テーブルの上に皿を置くと、額を掻く。
「だって、面倒だしさ」
 我ながら酷い言い訳だった、墓穴を掘ったかと直感し、即座に逃げるようにスープを取りに行くが、エディアはさらに追い打ちをかける。
「テーブルも埃が積もってたぞ、完全にとは言わないから、一応掃除しろ」
 背中にかけられた言葉に、答えようとして飲み込んだ。もう戦争が始まるんだ、ここに戻ってくる事も無い、どうせ、ここも壊れ去るんだ、なら無駄じゃないか、テレビも、綺麗にされた部屋も、新しい包丁も、無駄じゃないか。そう考えると、今が馬鹿馬鹿しい物に思える、ここは生きるために不要だ。戦争では、健康な体と、手入れの行き届いた信頼できる銃があればいい、こんな壊れてしまうものなんかいらない、生き残るために必要じゃない。
 キッチンのテーブルに両手をついて、じっと未だ湯気の立つカップの中の、コーンポタージュを見る。買いだめしたのに、無駄になったかな。二つのカップを手にとって、リビングに向かう。ここで築き上げてきたもの全てが無駄なんだ、こうなる事は分かっていた、ずっと前から分かっていた。次の戦争を待っていたから。
 エディアは既にサンドイッチに手を出していた、流石に付き合いが長いだけあって、リゼルの好きではないトマトのものを先に食べていた。恐らくエディアもトマトは好きではないはずだ。輪切りにされたものであっても、どうしてもあの赤い丸型が脳裏に浮かぶ。
 そして、それの潰れた様が、緑色の種や果肉を奇妙にへこんだ箇所から溢れださせる様が、いつか見た死体の頭と重なる、喉の奥が詰まり、ひと思いに飲み込むことすら許されない。結局啄ばむように食べるしかない、頭の内容物を撒き散らした、血まみれの誰かの顔を脳裏に浮かべながら。
 白い食パンでトマトを隠すように、エディアはそれを食べていた。椅子の上に置かれた新聞の山を床に避けて、座ると、ハムと卵のサンドイッチを摘まんだ。
「その新聞、随分と溜めたんだな」
 手を伸ばして、リゼルの前に置かれたカップを取ると、床で崩れて広がった新聞の山を一瞥してエディアは言った。
「いや、一週間分だよ、経済紙も合わせて五社分」
 ふぅん、と呟いて、音を立ててコーンポタージュを啜ると、エディアは顔を顰めた。
「……混ぜろよ」
「あー、粉後だったかな」
 自分のそれを飲んでみる、非常に粉っぽく薄い。テーブルの上を見渡してみるが、生憎何もない、仕方なくサンドイッチの端を浸けて混ぜる、エディアは口の中を洗うように一気に飲み干すと、新しいサンドイッチに手を出した。
「それで?新聞五社分もいるのか?」
「うん、一面に出す記事はだいたい同じだけど、経済面と地方面は結構違うしね」
「テレビ欄と四コマしか読んで無いってわけじゃ、なさそうだな」
 リゼルは軽く笑った。しかし、エディアは探る様な視線を投げかける。
「別に、危ない事をしようってわけじゃないさ、ただの偵察。扇動とかに走る気は無いよ」
「そんなことを気にしているんじゃない、ただ……」
 エディアの口から続きの言葉は出なかった。彼は口の中に残った違和感を舐め取るように、口をもごもごと動かした後、目を瞑って「いや、なんでもない」と言った。

 歳相応の生活をして欲しかった。兵士である以前に、一人の少年として、平和で、気兼ねの無い日常を送ってほしかった。戦争のことなんか忘れて、普通の友達と、もっと普通の、新しい漫画だとか、ゲームだとか、恋とか、そういう日常を送ってほしかった。今更、俺の願望を言ってどうなるのか、何より、どう言っていいのか分からない。リゼルを歪めたのは俺じゃないのか、その罪悪感故に、あえて今まで触れずに逃げてきた、街で遊ぶ時も、こうやって話す時も、逃げ続けてきたツケが、今彼の口を噤んだ。
 リゼルには、なぜ親友が黙ってしまったのか理解できない。リゼルはエディアを恨んではいない、だから、今更になってのエディアの遠慮した態度が腑に落ちない。聞いてしまえれば楽なのだろうが、今までより、今からの方が共に行動する時間が増えるだろうから、そのうち解るだろうと。
 もう、日常が終わろうとしている。二人とも、その意識は、先程連絡が来た時から共通に持っていた。ただし、片方はそれを歓迎し、片方は畏れている。これまで生死を共にした仲間であるから、何となくその意識の違いを感じている、それでも、これから生死を共にする仲間であるが故に、相手の意識が自分と違う事に触れられない。わだかまりを抱えたまま、二人は黙ったままだった。
「……ピクニック、か」
 静寂を破ったのはエディアだった。口調は、遠足の期待に飽きた子供のような声だった。しかし表情は先程にも増して硬い。
「鳥の巣……、『巣穴』か?」
 同じく表情を変え、リゼルも呟く。
「だろうな、レインバレー付近で巣なら……」
「前線基地だと思うけど」
 リゼルの言葉にエディアは顔を顰めると、サンドイッチを齧る。一介の士官兵、しかも士官学校生徒に過ぎない自分はともかく、正規軍に抜擢されたエディアならば何らかの情報を掴んでいてもおかしくは無い、リゼルはそう考えてエディアの答えを待った。しばらくの沈黙の後、「聞かんな」と、期待はずれの言葉が飛び出す。溜息をついて、憎まれ口でも叩こうかと口を開けるが、すぐに続けられたエディアの言葉に遮られる。
「情報が全くないとすると、秘密裏に建造されたと考えるのが妥当だろう」
「秘密裏って、衛星技術も発達したこのご時世に、秘密裏も何も……」
 エディアは黙って右手の握りこぶしを突きだす、そのまま親指を立てて、手首を捻ると、親指が真下を指差した。
「地下、か」
 たしかに、合理的でもある。地下ならいくら掘ろうが露呈しない、つまり、国境付近から不可侵国境帯を越え、敵地へと地下通路を伸ばす事も可能だった。しかし、それにしても大量の資材の搬入や、土砂の搬出で、物資が出入りするのは間違いない。地下に軍事施設を建設しようものなら、その物資の量も莫大になる、広域に範囲を伸ばせば伸ばす程、必要な材料や掘削後の土砂も比例して多くなる、だから、全く足が付かないという訳にはいかない。
「よほどの大物がバックに付いているんだろうな」
 物資の流れが露呈しないよう覆い隠し、今まで維持できるような大物が。エディアも頷くが、どこか釈然としない様子でじっとテーブルの上を見つめている。
「坑道跡が、こちらから繋がっている?」
 ぼそっと、エディアがそう漏らした、たしかに、既に建造された坑道を利用したならそこまで多くの物資の出入りも無いだろう。
「たしかに、あそこら辺は廃坑道が多いから、あり得ない話でも無いけど」
「なんにせよ、まずいのは確かだ。秘密裏に運ばれたことでも、戦争になりかねない」
「戦争をしようってんじゃ無いのか」
 リゼルが呟いた言葉に、エディアは唇を噛んだ。前回と一緒だ、一部の人間の引き起こした事でも、戦争になりかねない。たしかに、止めなくてはならない。『あの人』の腹の内は知れないが、後手に回るなら対処のしようはあるはずだ。
 エディアは腕時計を確認した。やらなくてはならないことが多すぎる。「なんにせよ、なってみないと分からんな」、そう言って席を立つ。
「帰るのか?」
 リゼルも立ち上がる。黙って自分の腕時計を指したエディアは、にやりと笑って見せた。「お前がこんな僻地に住んで無けりゃもっとゆっくりするが」
「車に乗れる奴が、つべこべ言うなよ」
 リゼルも笑って、玄関まで見送りに出る。次、いつ会えるかと聞こうとする。しかし、ドアノブに手をかけたエディアが、やけに悲しそうな顔をしたせいで、言葉が出なかった。
「じゃあ、ピクニックで」
 背を向けたまま、絞り出すように吐かれた言葉に、戸惑いながら「ああ」と返してしまう。振り返らずに軽く手を振ったエディアが、ドアに遮られて視界から消える。銀色のドアの表面を見つめながら、底知れない寂しさを感じた、いつの間にか、兄弟がいなくなったような感覚だった。
 リゼルは、黙ったままポケットから携帯端末を取り出す、そして、胸の奥に未だ漂う寂しさを吐き出す。

「俺にはまだ、父さんがいるさ」

 軍用ジープの運転席に収まったエディアは、背もたれに深く身を沈めると、軍用の携帯端末を取り出す、グロリアに連絡しなくてはならない。真っ先に彼女に伝えなかったのは、今回の集合の目的が何にあるか不明だったからだ、自分だけが呼ばれるのか、そうでないのか。
 現段階で、グロリアに通じていることが『あの人』に知られているなら、自分を処罰しようとする可能性もあった。それならエディアだけを呼べば事が足りる。しかし、内通が知れるような事をした覚えがない。いや、グロリア自身が漏らさなければバレる事も無いだろうから。つまり、自分はグロリアさえも完全に信用していないのだ。
 エンジンをかけて、今すぐ連絡を取ろうとする、しかし、番号を半分入力した所で手が止まった。去り際に、疲れのあまり寝てしまっていた彼女を思い出す。平和と、個人、どちらが大切かと言われれば、無論平和だ。ただ、それでも、今日は平和に眠らせてやりたい。きっと彼女の事だ、今伝えてしまえば、睡眠すらとらずに奔走するだろうから。自分が、彼女を完全に信用していなかったことによる罪悪感からくる、仮初の優しさだろうかと、そう考えてしまう捻くれた内心を嗤い、エディアは自宅への帰路に就く。

「もしかしたら、最後の平穏な夜になるかもな」

 そう呟いて、それを味わう時間もない、我が身を呪いながら。

 実際、戦場で子供が生きていくことは厳しい。
 特にあそこまで泥沼の様な戦場だとなおさらだった。四六時中銃声は絶えなかった、例え通常ならば比較的余裕のできる場所であるはずの軍キャンプ地ですら、周囲に耳を澄まし肌で敵の気配を探るような、そんな殺気に満ちていた。あの時は知りようも無かったが、三つ巴の状態の戦争は、平穏なぞ存在していなかった。
 逃げる事のできる大人たちはさっさと逃げ出していた。そして残されたのは、親も無く頼るべき親類も無い、哀れな戦災孤児たちだった。
 戦場は、初期の内は、アルトメアには暴動鎮圧に動員され、実質暴走したトリスト軍と、それの排除に乗り出したクレリア軍しかいなかった。両陣営はほぼ街の両端に陣を構え、主戦場となる中央部以外は一応の安全は確保されていた。しかし、現代戦争とは大部隊規模の戦闘よりも小隊規模の戦闘の方が多く、例えどちらかの軍のキャンプに近いからと言って安心はできない。それに、容姿によっては問答無用に射殺されることもあった、戦争だから『敵』を殺すのも当然でもあるのだが。
 そう考えると、どこをどう見てもトリスト人の容姿だった自分たちは、トリスト側のキャンプに近かったと思える。
 そして、具体的にいつとは言えないが、母がいなくなったのは、エールベルグの率いる予備科が侵攻した時期と同じだと、なぜかわからないがそう直感している。
 エールベルグの目的は粛清を行ったトリスト軍の殲滅だった。と言っても、その頃に、暴徒軍となったトリスト側のキャンプの近くに行ってみたら、そこにいた大半が勝ち戦に便乗しようとしたアルトメアのトリスト人だった記憶がある。隣人だったクレリア人を殺し、盗み、のうのうと生き残ろうとした彼らには、予想だにしない敵国と味方国からの徹底的な攻撃が待っていた。
 三つ巴になった戦場から平穏が消えたのはそれからだ。そして、ここから逃げる事のできるまともな大人たちも消えた。半ば自棄になったトリストの暴走軍は、クレリア人を見るなり殺していたし、命令も行き届いていないから、ゲリラのように街中を駆け巡って、どこででも戦闘を起こした。クレリア軍とはともかく、エーレンベルグの予備科にも攻撃をした。
 戦闘の銃声に予備科が引き寄せられ、報復を叫ぶクレリア軍がトリスト人と見るなり発砲する。戦闘は絶えず、物資も戦意も十分では無く、敗残兵となりながらも抵抗を続ける暴走軍は、行き先の無い撤退戦を演じながら誰彼構わず奪い殺し犯す、劣悪な犯罪者の集団にも劣る有様だった。
 もっとも、リゼルもそんな高尚な生き方はできていなかった。いつも痩せた腹とズボンのベルトの間に、少年の腕にはあまりにも大きすぎる様な、それでも軍人にとっては護身用以下の小口径のハンドガンを挟んでいた。勿論、撃ったこともあった。だけど、殺した事は無かった。
 母がいなくなって直ぐは、戦災孤児が集まる廃校で過ごした。校庭があるから視界も良い、壁もそこそこしっかりしていて、銃弾の貫通も少ない、何より水があった。災害時への備えで、屋上には雨水を貯水する濾過タンクがあった。戦災孤児らが知る限り、付近では唯一の死体の浮いていない水場だった。川や溜め池は身ぐるみを剥がされた軍人、市民の死体が浮き、水はいつでも血の味がしていた。
 それでも、廃校も完全に安全ではない。戦闘の行われる日中は、戦場跡に行く奴以外はほとんど真っ暗な用具室で過ごす、たまに勇気のある奴が屋上で見張りをしていたが、大半は見つからないことを祈って震えていた。
 活動は、主に戦闘も少なく、視界も悪く敵に見つかる事の無い夜が主だった。ここで言う敵とは、軍隊だけじゃなく、一般市民も含まれていた。要するに、大人全てを避けた。戦災孤児は大人を信用せず、畏れていたのだ。
 恐らく、助けてくれるようなまともな軍人もいただろうが、軍人に親を殺された身の上からすれば、軍人と言うカテゴリーに属す人間は全て恐怖の対象であった。リゼルは親の死んだ瞬間も、そもそも死んだのか、それすらもわからないから畏れる事は無かった。しかし、ここにいた大勢は恐怖し、そして憎んでいた。
 戦災孤児にとって、ある意味大人は敵だった。良い大人は記憶に残らない、悪い奴だけが憎しみによって脳に刻みつけられる。
 戦場では、軍人でも、一般人でも、突如戦災孤児を襲う事がある、理由は様々だが、理不尽な暴力を受ける側にはどうでもよかった。ただ自分の不運を呪い、逃げ出すことを考えるのに精一杯であった。大半はそういう目に会うと殺される。傍観し、あるいは逃げた奴らは、自分の罪悪感を減らすために、仲間が殺されたという事実を噛みしめ大人を憎み畏れる。
 その頃、リゼルは既に自分と仲間とのずれを感じていた。彼らは戦おうとする意志がない、死体から物をはぎ取る時に、彼らのほとんどは銃器を捨てる。子供にとってはサイズ的にも、反動的にも、扱いきれない物もある。しかし、自分よりも年上で、突撃銃すら握れるような奴が、いくらでも落ちているそれを手にしないのだ。もっと僕も大きければ、と、リゼルが羨む、強力な銃を扱えるという事実を、否定するかのように目を逸らすのだ。
 ある日、廃校の校庭に軍人が集まってきた、見通しの良く建物の頑丈な廃校は軍隊にとっても格好の基地となる、幼心なりにそれを理解し、孤児たちはそそくさとそこを立ち去った。無論、自分の安全の為だ。
 次に陣取ったのは古いオフィスビルの二階だった。大通りに面してはいたが、構造がなかなか複雑で、さらに階段ごと一階部分が崩れていたため、孤児たちは隣のビルから窓を乗り越えて出入りした。しかも、気付かれにくく、橋となる板を置かなければ誰も入ってこられないのだから、格好の隠れ家となった。
 水は、屋上にある雨水のタンクを利用した。この水は、硝煙の臭いと苦みを伴ったが、埃と砂と火薬の漂う戦場では、どこの雨水もそんなものだった。そして、死体を漁るグループの他に、廃墟となった民家に忍び込み物資を集めるグループができた。
 しかしここも天国では無かった。リゼルが死体からはぎ取った缶詰を抱えて、隠れ家の付近に到着した時、戦車の重々しい大砲の音が響いた。後にあの時垣間見たシルエットを思い出すと、装甲車だったような気もするが、戦災孤児にはそれが戦車か装甲車かなんてどうでもよかった。姿勢を低くして、瓦礫の合間を縫って隠れ家の隣のビルに着いた時、目の前には瓦礫の山と唖然と立ち尽くす数人がいた。
 一階部分を潰されて、辛うじて持ちこたえていた建物の壁と柱、その道路側の一角が倒壊し、連鎖するように建物も崩れた。道路に乗り捨てられていた車を、戦車が行軍の邪魔とばかりに吹き飛ばし、宙を舞った車が運悪く壁を粉砕したらしい。ガソリンをいくらか残した車は、壁をぶち抜いて爆発し、その衝撃が建物全体を倒壊させたのだ。
 目を凝らすと、瓦礫の中に腕が飛び出ていた。すぐ傍の奴に聞くと、数人隠れ家の留まっていた奴がいたらしい。運の悪い連中は、逃げ出すこともままならずに、瓦礫の中に埋もれた。一息に死ねたならそれも運の良いことなのかもしれない。何せ奴らは飢えにも寒さにも、理不尽な暴力にも怯えずに済むのだから。死体を漁らずに済むのだから。
 それでも、リゼルには死のう、という意識は浮かばなかった。何故かはわからないが、生に執着していた。異様なまでに執着していた。飢えも寒さも、理不尽な暴力も、怖いのは、その先にあるだろう死だった。
 取り残された連中は、しばらくただ呆然としていたが、そのうち数名がゆっくりと歩き出した。新しい隠れ家を見つけなくてはならない、死んだ奴を悼む暇も無い、ただできるだけ早く新たな隠れ家を見つけなければ、ただその一心で彼らは歩き始めた。
 しかし、次は無かった。彼らは運悪く軍人に出くわした、そして、逃げ出した背中を追う怒声に、それがトリストの暴走軍だと気付いたのは、それが思い出の中の出来事になってからだった。ともかく、リゼルは背を向けて仲間からも敵からも逃げ出した、そして結果、遠くに響く仲間の悲鳴と銃声に、足が止まらなくなった。
 帰れない。その一心で脱兎の如く走った、その途中で自分が何故走っているのかを忘れて、気付いて立ち止まってみれば夜だった。暗がりの中で、ただ唖然と空を見ていた。別に、帰る場所が無い事なんて怖くない、死にはしない。でも、唖然としたまま動けない。雨が降ればいいのに、そう思った。雨が降って、どうしようもなくなれば、どうして自分がこうも唖然としているのか納得できるから、雨が降ればいいのに。
 その様を、きっとエディアは、すぐ脇のアパートの窓から見ていたのだろう。手にしたアサルトライフルの、ホログラフィックサイト越しに。

 エディアにとって、突然訪れた来訪者ははっきり言って扱いに困る奴だった。
 呆けたように立ちすくむ少年は、どう考えてもこちらに気付いてはいなかった。このままやり過ごそうかと、照準をつけたまま黙ったエディアの気を変えたのは、その髪の色だった。
 煤けて、元の色が分からないくらいになってはいたが、月明かりに微かに揺れた金色。ここら一帯はクレリア軍のキャンプに近く、哨戒兵もしばしば見かけた。そのため、隠れる場所がないのなら、何処から見てもトリスト人の少年にとって、危険極まりない地帯でもある。戦災孤児の例に漏れず、エディアも軍人に対する偏見を抱いていた。そのため、クレリア兵と出くわした不運なトリストの少年の末路は、良い事にはらなんだろう、と、容易に想像できた。
 どう声をかけたらいいのか、エディアは迷った。ここ十日で会話をしたのは、死体から奪った銃を闇市場に持って行ったときだけだった。その会話も、ごく簡素な物であったため、どう話しかけていいのか分からなかった。
「迷子かい?」
 唐突に自分の口からそんな言葉が吐かれた。
 少年は、はっとして周囲を見渡し、タイヤのパンクした車の陰に隠れた。警戒されてる、そう気付いたエディアは、アパートの窓を開け放つと、銃を足元に置いて、両手をあげてみせる。しばらく周囲を見渡した少年の目が、エディアを捉えた時、エディアはもう一度「迷子かな?」と聞いた。
 少年は何も言わなかった。疑う様な眼を向けたまま、腹のあたりを探ると銃を取り出し、下に向けて構えた。エディアはあくまで手をあげたまま応じた。
「だれだ」
「名乗ればいいのか?」
 少年は静かに頷いた。

「エディアだ、エディア・クランクっていう」

 リゼルは車の影から、エディアと名乗った少年のいるアパートの下に向かった。
 自分より、少し年上か。真っ先に受けた印象は、場数を踏んでるな、だった。
 ここで他人を気遣える奴は少ないし、一人で生きている奴も少ない。リゼルが銃をしまうと、エディアは足元から銃を持ち上げた。
「まあ、とりあえずおいで」
 未だ警戒しつつも、アパートの入口にあるアーチをくぐり、階段を昇りながら、やはり場数を踏んでると再確認する。だって、銃を扱えるみたいだから。階段を昇り、左右に伸びる廊下を確認する。すぐに右手の廊下に面するドアの一つが開き、先ほど見た顔が飛び出す。
 歩き出しながら、何の用だろうかと考える。まさか、ほんとうに迷子かどうか確認するために呼んだわけじゃないだろう。
「いらっしゃい」
 目の前の少年はそんなことを言う。黙ってしまったリゼルに構う事無く、エディアはドアを閉めて、またこう言った。
「で?迷子なのか?」
 部屋の中は、案外広かった。それは、部屋から持ち出す事のできる物品が可能な限り持ち出されていたためだった。この部屋の、元の主が持って逃げたか、あるいは誰か―このエディアという少年か―の犯行か、廊下から覗けるキッチンは、冷蔵庫が仰向けに倒され、扉が取り外され、次いで入った部屋も、棚の取り外された箪笥が横に転がり、真っ二つに折れたベッドが木片を露出させ、唯一まともなのは窓辺に置かれた椅子とテーブルだけだった。
 部屋の中を見渡して、窓辺に近寄る。狭い通りが見渡せ、敵が来れば先手を打てる、部屋の隅にまとめられた毛布と、リュックに目を走らせ、悪くないな、と小さく呟き、向き直るとリゼルは質問に答えた。
「……ひとりかな」
 微かにずれた返答に、エディアは全てを理解した。恐らくではあるが、孤児になり、数人で生活していたが、何らかの事情により別れた。その事情が何かに首を突っ込む気は無いし、それを知ってどうなるものでもない。
 
「そっか……まあ、ここら辺はトリスト側に近いから、あまり出歩かない方がいいぞ」
 リゼルは首を傾げる。
「なんで?」
「なんでって、見つかったら酷いめにあうぞ」
「そんなの、だれに見つかってもおなじじゃないか」
 どうやら、彼がいった「何で?」は、どうして自分がトリスト側に近い事を理由にしたかに向けられた質問らしい、とエディアは思った。そして、民族の違いに関わらず、この少年は誰も信用してないのだと悟った。
 エディアは、悲しいと思った。戦場において、生き残るためには当然なのかもしれない。しかし、どうしてか悲しいと思ってしまった、たしかに、自分も聖人君子じゃない、死体も漁るし、大人を信用しているかと言えばそうでもない。ただ、自分より子供であるはずのこの少年が、誰も信用せず、このまま生きていくのが悲しい。もしかしたら、寸分の違いで、自分もこうなったのかもしれない、だから、憐れんでいるのかもしれない。
「そっか……」
 エディアは、寂しげに呟く。
 リゼルは、訳が分からず分からずに頭を掻いた。いきなり呼んでおいて、しんみりとされてはたまったものじゃない。ふっと、脳裏に浮かんだのは、このままコイツを殺して、ここを奪ってはどうか、と言う事だった。
 しかし、その案は即座に却下される。自分ひとりでどうしろというのだ。死体から集められる食糧にも限りがある、飢え死にしない程度に食いつなぐためには、やはり武器や物資を売らなければならない。恐らく、自分にはそんな交渉はできない。
 で、あるならば、このままコイツに『寄生』すべきだろうか。孤児としてのグループが形成されていれば、潜り込むのも容易いが、どうやら一匹狼らしいコイツにはどうやってとりいっていいのか分からない。手広く展開するために人出が必要で、欠けても補充可能な孤児のグループと違い、安全性を求める個人行動が主の奴らにとって、グループ化はそのまま喰わせなくてはならない人数の増加に繋がる。結果手広く展開しなければならず、危険度も増す、だから、個人主義の奴らは人数を増やすことを極端に嫌う。
「で、なんか用があったのか?」
 要件によっては、寄生する事も不可能じゃない。用がないならさっさと次を考えよう。
「俺たちって、似てないか?」
 エディアは自分の発した言葉に驚いた、リゼルははっとして固まった。しばらくの沈黙の後、エディアはバツが悪そうに苦笑した、固まったままのリゼルは、口を微かに開けたかと思うと天を仰ぐ。エディアは、微かにリゼルの口の端から音が漏れたのを聞いた、突如それは大きな笑い声となって響く。
 気付けばエディアも笑っていた。しかし、天を見詰めたままのリゼルの瞳は、冷たかった。
 同情された。
 憐れまれた。
 突如として心を支配したのは憎悪だった。そしてそれは目の前を真っ白に染めて、気が付けば何処かに去っていた。ふっと脳裏に浮かんだのは、仲間を真っ赤に染め、突如去っていく軍人達だった。
 ともかく、突如として去って行った憎悪は、度し難い空白を残した。そしてそれを埋めるためには嗤わずにはいられなかった。後のリゼルには、どうして無二の親友となるべき少年に憎悪を抱いたか理解できなかった。しかし、この瞬間にリゼルが感じたのは、まぎれも無い憎悪であった。きっと、戦場で他人を憐れむような奴に、似てると言われたのが気にいらなかったのだ。コイツは恐らく知らないのだ。全てに怯える一日を。だから嗤うのだ、分かった気になった愚かな少年を。
「そうかもな」
 しばらく嗤ったあと、リゼルはそう言った。エディアも収まりきらない笑いを押さえつけ、頷いた。
「お前、名前は?」
「リゼル」
 しばらく待って、エディアはきっと続きは出ないだろうと悟った。この少年はきっと苗字も無いのだ。
 このとき、エディアはこの少年を放ってはおけないと思った。しかし、それはこの少年の為を思ってのことでは無く、自分の自尊心を満たし、罪悪感に蓋をするための物でしかないと気付かなかったし、認めなかった。エディアは傲慢だった。自分がこの少年を救えるとすら思っていた、救おうとする立派な自分を誇れると思った。だから、エディアは、似たもの同士協力しようと提案するのだ。この寂しい少年に、温もりと喜びを教える為に。
「じゃあ、お前は今からリゼル・クランク、おれの弟だ」
 あまりに傲慢な、この一言と共に。

 リゼルは無論その提案を飲んだ。しかし、武器の売却等はエディアに任せる代わりに、死体漁りは自分が行いたいと言って譲らなかった。エディアはなかなか受諾せず、結局売買行為は自分がし、死体漁りは共同で行う、ただし売買中の時間のみリゼルのみが行うとした。
 エディアは隠れ家を決めなかった。戦場を渡り歩いては、体力の限界が近づくと、近場で安全そうな場所を見つけて、そこで休む。留まる期間は数日程度、また、所々煤けた地図に半分に、折れた鉛筆でその場所を器用に記し、戦争の痕……つまり死体を追って狩猟民族の様に動いた。
 リゼルにとって、エディアはあくまで今までの孤児グループの延長線上の存在に過ぎなかった。言ってしまえば寄生するための宿主、人数が減っただけで、今までと何ら変わりなく、ただ生きることだけに執着し、そのためだけに行動した。しかしエディアはそれを許さなかった。何かにつけては口を出し、弟の様に扱った。エディアはそれで満足だった。そうすることでちっぽけな自尊心が満たされ、死体を漁る罪悪感を、年下の少年を養う為だと納得できた。エディアはこの少年と接している時、傲慢だった。自分が誰かを救えている気になって、それに満足感を得ていた。
 リゼルがエディアに懐くまでそうそう時間はかからなかった。元よりちゃんとした愛情を注がれたことも無いリゼルにとって、肉親として扱われること、そして注がれる無償の愛情は、乾いた土に注がれる雨の様に染みいった。何故こうも良く扱ってくれるのか、その疑問も、自分が『リゼル・クランク』だから、それだけで十分な答えになった。
 リゼルが築いた城塞は、あまりにも脆く陥落した。しかし、リゼルは知らなかった。エディアが自分に注いでくれる愛情が、凄惨な現状の中、死んだ両親に誇れるような生き方のできないエディアにとって、自分を許す為の免罪符でしかないことを。いや、エディア自身も気付いていなかった。自分が、この少年を弟として扱う事で、罪悪感から逃れようとしている事に。
 そしてリゼルは肉親の愛し方を知らないのだった。リゼルは、いつしかエディアを崇拝していた。遥か昔、大地に依って行き始めた人間が、空と土を神格化したように、エディアという人間に依存し始めたリゼルは、無償の愛情に酔い、心の奥底でエディアを妄信した。
 自分の目的であった、生き残ることを忘れる程に。

 ある日、戦場が街の東部に移動した。追い込まれたトリストの暴走軍が、クレリア軍の猛攻に陣を下げた。それを追ってエールベルグの予備科も進軍し、クレリアとも熾烈に争った。東へ東へと移動し続ける戦場は、多くの残留物を残し、なおかつ付近をうろつく軍人もなかなかいないため安全だった。
 アルトメアの東部は、中央部に比べ戦争の爪跡も少なかった。戦前は閑静な住宅地となっていた地区を、エディアとリゼルは慎重に歩いた。数件の家には人が住んでいるようだった、板が打ちつけられ、厳重に戸締りされた民家群は、生活感を感じさせなかったが、止まった水道の代わりに利用されているらしい古井戸と、きれいに何もかもを持ちだされた大型商店が、人の気配を微かに匂わせていた。
 区画整理のきちんとされた道は、見通しが良いが十字路では誰かとばったり出くわす危険もあった。リゼルは銃を決して手放さなかったし、エディアは十字路に差し掛かる度に銃を構えなおした。道路のはるか先には公園が見えており、なかなかの規模らしい敷地内に植えられた木々が、その向こうの景色を二人の視界から遮っていた。
 エディアは焦っていた。破棄されたビルの多い中央部では、一晩しのげる場所もいたるところにあった。しかし、今両側に並んでいる住宅地は、どこに人が要るのか分からない。何より厳重に戸締りがされていれば、侵入も難しいのだ。そしておそらく簡単に侵入できるような家は、すでに誰かが入っている。
 表から見るだけでも、壁に穴が開けられた家もいくつかある。そして、家の前に転がった腐りかけの死体もそこらに見られた。家の主のなれの果てか、家に侵入しようとした不届き者か。遠目に見える死体に、焦りのみが大きく膨れ上がり、不安が後を付きまわる。
 そもそも夜間に行動しなかったのは、直線の道路は見通しが良いという利点を生かすためだった。見通しが良いのだから移動速度は速くなる、エディアはそう思っていた。そして、住宅地をビル街と同じような認識しかしておらず、日が暮れれば、どこかで朝まで待てばよいなどといった、甘い想像をしていた。
 現実はそう甘くは無かった。しばらく手入れのされていない植木は、どこに敵が潜むか知れない民家群を覆い隠し、時折風も無いのにざわざわと揺れて見せる。雑草が覆い茂り、質素な庭だっただろう場所に、不自然に置かれたドラム缶からは誰かの腕がはみ出ていた。通り過ぎて見返せば、ドラム缶には穴が開いており、どれくらい前かにそこから流れ出ただろう血は、雑草の林の肥やしになったのだろうか。戦々恐々としながら、どこまで続くか知れない道を歩き続ける。一歩一歩進むごとに自分の影はゆっくりと伸びていき、道路にこびりついた血の跡と斜陽の赤が混じり合い、時折死体を啄ばんだカラスが飛び立ってゆく。後になっても、この時の恐怖をエディアは思い出す、脳裏に刻まれた恐怖とともに、風景がありありと蘇る。
 エディアは汗を拭って、リゼルをちらりと見た。リゼルはただ周囲を見渡すだけだった。彼は怯えていない、夜を畏れているのは自分だけだ。違う、きっと自分が畏れているのは、自分の甘さが自分たちに危害を及ぼすのではということだ。要するに責任を恐れていたのだ、なぜか、決まっている、一人じゃないからだ。
「走ろう」
 エディアの唐突な言葉に、リゼルは何も言わず頷いた。理由は必要なかった、エディアの言葉にリゼルは反対しない。走らなければ置いていかれるかもしれない、着々と迫る夜よりもそれが怖い。だから歩き続けの疲労をたしかに感じていたが、リゼルはエディアに何も言わず、頷いたのだ。
 エディアは唐突に走った。追ってくる不安から逃げるように、着実に去ってゆく陽光を追うように、左右には目もくれず、十字路の確認もせずに走った。その少し後をリゼルも追って走る。どこまで行けば止まれるか分からない。とりあえず公園まではいこう、その先にまた、民家が続いていたら諦めて、どこかの窓をぶち壊そう。エディアはリゼルが遅れないよう、少し速度を緩める。
「さきいって」
 荒い呼吸でリゼルはそう言った。「大丈夫か?」と尋ねはするが、答えは聞かずエディアは速度をあげた。はるか遠くに見えていた木々は、もう数百メートルのところに見えている。銃を握り直し、悲鳴をあげ始めた足を無視してエディアは走った。
 下水の臭いを嗅いだ。
 公園の手前で、立ち止まる。周囲に立ちこめる嫌な臭いは、下水の臭いだけでは無く、たしかに硝煙の香りも混じっていた。振り返って、いまだ遠くを走るリゼルを見た。リゼルは腕を振り上げて、向こうを指した。行けという合図だ、そう解釈して、エディアは公園の入口に近づく、そして、すぐに足を止めた。
 数十秒後に、リゼルが追いついた時、エディアは呆けたように立っていた。
「嘘だろ」
 エディアの数歩後ろで息を整えていたリゼルは、エディアがそう呟いたのを聞いた。意味もわからずエディアの脇に立って、やっとその意味が分かった。
 入口から数十メートル向こう、背の低い植木を挟んだ奥、公園の、恐らく広場となっていた場所に、大きな穴が開いていた。爆発の跡の様な穴だが、あまりにも大きすぎる。直径は十メートル程だろうか。深さも数メートルはあり、その穴の底に、拉げた下水管が見えた、嫌な臭いの元はここか。リゼルは冷静に周囲を見渡す、そして、穴の周りに散らばった肉塊を見た。それが人の、兵士のなれの果てだと気付くまで、少し時間がかかった。何しろリゼルはこんなになった死体を見たことが無かったから。
 エディアもいろいろ考えていた。ここで何かが爆発した、問題は爆発音が聞こえなかったことだ。爆発からどれくらい時間が立ったのだろう、戦場はいまどこまで行ったのだろう。立ちすくんだままのエディアを尻目に、リゼルは既に残留物を探し始めていた。エディアは自分の目論見が外れたのではないかという危機感に困惑していた。じきに夜が来るから、早くどこか安全な場所を確保しなくてはならない、頭ではそう思っているのに、脱力した身体はぴくりとも動いてくれない。
 しばらく、リゼルは周囲を物色していた。そして不思議そうな顔で立ったままのエディアに近づくと、「どうかした?」と聞く。生返事を返したエディアは、不思議そうに顔を覗きこんで来るリゼルに、無理に微笑んだ。
「どうしたんだよ」
「いや……これ、どうなってるんだろうな」
 顎で大穴を示す、ひょこひょこと近づくと、リゼルはこちらを見た。
「分からない、ただ、何もかもスクラップ状態だね」
 言われて、それもそうかと気付く、銃撃戦で無いなら、銃器を回収できる可能性は低くなる。
「……そっか、今日は……たぶん、もう駄目だな」
 当ては無いが、どこかで夜を越さなければ、あたりは既に薄暗くなり、既にどこかに隠れた夕日が、微かな残光を放つのみだった。普通なら白色の明りを灯すはずの公園の街灯も、今は寂しく立ち尽くすだけだった。鎖のみが揺れているあれはブランコだったのだろうか、現実から逃避するように、視線を空に移すと、かなり大きめの鳥が上空を旋回していた。それが、無人対地爆撃機だと知るのは、もっとあとの事だ。
「駄目か……じゃあとりあえず、どっかの家に行ってみる?」
 リゼルは軽くそう言って、公園の入口まで走ると、闇に包まれつつある家々を見渡す。
「危ないかなぁ、でも戸締りの厳重なとこなら、侵入者とか、住んでる人とかいないか」
 どちらにせよ、もっと暗くなってから。そう暗に付け足し、エディアは周囲を見渡す。窓に打ち付けられた板の間から光の漏れる家は駄目、ドアノブに手をかけて、簡単に空く家は駄目。
 そして、ドアノブがシリンダー型の、衝撃で空くようなものではないと駄目、最悪窓か、通気口か、とりあえずは探してみるかと、半ば自棄になりながら歩きだす。
「なあ、アレ……」
 リゼルがどこかを指差している。背中に背負った銃を手に取りながら、「ネコでもいるか」とからかうが、「ネコ?」と聞き返す声に、ああこいつ猫知らないのかと、首を横に振る。
「いや、たぶん店」
 リゼルが指差したのは、公園と道路を挟んで向こうに、住宅と並んで一軒だけある個人商店だった。
 ショウウインドウ型のガラスは割られ、中の物はだいたい持ち出されているが、奥に見える重厚なシャッターは、その先への侵入者を阻んでいるようだった。
 エディアは即座に二階に目を付ける。板の打ち付けられていない窓からは、グリーンのカーテンがそよぐさまが見える。注意深く周囲を探りながら近寄ったリゼルの跡を追い、近づいてみれば、シャッターにいくつもの弾痕があるのが見える。
 一階部分は、スチール製の様な棚が、いくつも横倒しになり、木箱が転がっている。乱暴に引き裂かれた段ボールの切れ端が、壊れたショウウインドウから噴き込む風にカサカサと揺れている。元々はレジであった場所には、ビニール袋が散乱し、壁にはナイフを突き立てた痕もあった。
 リゼルは壁から突き出たパイプに手をかけると、猿の様によじ登り始めた。二階部分の窓には、掴めそうな場所は無く、リゼルはナイフを壁に突き立てると、それに掴まり、拳銃をガラス窓に叩きつける。念入りに破片が残らないよう、枠の部分まで丁寧にガラス片を取り除き、上着のシャツを腕に巻きつけると、鍵を開け、一気に中へ滑り込んだ。しばらくして、奥のシャッターが微かに浮き上がり、エディアは、木箱を吹き飛ばしながら慌てて駆け寄り、その隙間に手を入れ、押し上げた。
 中ほどまで上がると、エディアは中に滑り込む。暗い、拾ったライターで微かな灯りをともすと、リゼルは疲れた様子で、壁に寄りかかっていた。
「出るのに一苦労だよコレ」
 どうやら倉庫らしい一階奥と、居住スペースと思われる二階部分。リゼルは自分のライターで、先程安全確認をした二階部分へ通じる階段を照らしながら、溜息とともに言った。
「飛び降りる手もあるじゃないか」
 倉庫スペースを覗く、中の物はだいたい持ち出されているようだったが、大きな木箱が数個置かれていた。
「冗談きついぜ、もっとねぎらえよ」
 ライターの小さな明りしか光源が無いため、エディアは仕方なく木箱を壊す。中から転げてきたのは、缶詰だった。
「大当たり、か!」
 歓喜の声に、リゼルもやってくる。しゃがんで何の缶詰かを確認するエディアを、リゼルは秘蔵の懐中電灯を取り出して照らした。
「電池とかねぇ?」
 木箱を探るリゼルに、「後な、とりあえず二階に持っていくぞ」とエディアは言って、いくつかの缶詰を両手に持って、階段を上がる。
 二階は、居住スペースだと思っていたが、どうやら違うらしい。キッチンは無く、トイレらしき個室と、大きな部屋が一つあるだけだった。テーブルも椅子も、棚の一つも無い。
 とりあえず窓際に缶詰と荷物を置いて、下に戻る。何回かの作業を繰り返し、あらかた荷物を二階に持ち出すと、リゼルは心底疲れた様子で座り込んだ。
 エディアも荷物の脇に行くと、缶詰の種類を物色する。魚を始め、ほぐし肉や、水に野菜の物あり、種類は豊富だった。まずは防災用のパンの缶詰の蓋にナイフを入れる。缶を乱暴に開けながら、エディアは安心して一息ついた。背負っていた銃を投げ捨て、リゼルを呼ぶと、どれが喰いたいか聞いた。
 安心していた、油断していた。長旅の疲れと、不安から解放された安心感で、エディアは致命的なミスを犯したことに気付かなかった。
「同じのがいい」
 そう言ったリゼルに、パンを渡す。エディアは、シャッターが押し上げられた音に気付かなかった。階段を上がる音にも気付かなかった。自分が吹き飛ばした木箱がシャッターと床の隙間に転がりこみ、シャッターが閉じられるのを邪魔していたことにも気付かなかったし、そもそもあのシャッターは上方からの力がかけられなければ、閉じないものだという事も知らなかった。
 エディアの吹き飛ばした木箱は、この夕暮れの中、遠目から見てもシャッターが閉じきっていないことが分かる程の隙間を作っていた。そして、リゼルがガラスを叩き割った音は静かな住宅街に響き渡っていた、誰かが気付いて寄ってきてもおかしくは無い。そう、エディアは気付けなかった、そしてその誰かが、半開きのシャッターから侵入してくるかもしれないことも。
 唐突に響いた物音は、床の軋みだった。目を輝かせてパンを頬張ったリゼルも、次の缶にナイフを突き立てたエディアも、音の方向を見た。
 階段に、男が立っていた。中肉中背、若干猫背になった男は、手には缶切を持っていた。近くの住人だろうかと、一瞬戸惑う。脂っこい顔に驚愕の表情を浮かべた男は、すぐに奇声を発した。
 ヤバい、そう判断したエディアが、回避運動をとり床に転がった時、男は突進の姿勢に入っていた。
「逃げろ!!!」
 姿勢を整える前に、エディアが張り上げた声に、リゼルははっとして突進してくる男を見た。
 これを置いて逃げるのか?数週間は生き延びることができそうな缶詰の山に、彼は逃げ出すことはできなかった。リゼルは、気付けば腹に手を伸ばし、銃を握っていた。しかし遅かった。
 リゼルが銃に手をかけた時、既に男はリゼルを弾き飛ばしていた。両手で銃を持っていたため、受身も取れず宙を舞い、自分の手から銃が飛んだのを感じた次の瞬間には、背中からコンクリートの床に衝突し、瞼の裏に星が瞬いたのを見て、気を失いかける。しかし、飛んで行く意識を引きとめたのは、覆いかぶさるようにして首を絞めてきた男だった。
 力が違いすぎる。子供の身ではどうしようもない力に、リゼルは体を捩じることしかできなかった。
 窒息しかけ、脳から急速に酸素が失われていく、足をばたつかせるがどうともならない。冷静な判断力が失われ、両手で男の腕を外そうと必死にもがく。
 死にたくない。
 次の瞬間、男が視界から消えていた。
 缶詰の缶が散らばり音が聞こえる。荒い息で、はっきりとしない思考を働かせる。両手を床に突き、立ち上がろうとするが力が入らない、定まらない視界を、右―缶詰が積まれていたあたり―に向けた時、エディアと男が組み合っているのが見えた。
 エディアは、何か叫んでいた。五感が宙を浮遊した様な感覚。エディアの声が、遠くから響くように聞こえ、洞窟の中のように反響し、聞き取れない。
「急げ!逃げろ!」
 エディアは必死にそう叫んでいた。
 男がリゼルを攻撃していた、その不意を突いて突き飛ばしたものの、放心したように脱力したリゼルは、なかなか逃げようとしない。急いで追撃に入り、顔を押さえつけたり、腹を蹴っては見たが、男は即座にエディアの首を抑え込み引き倒した。
 床を転がりながら、自分がなぜ投げ出した銃を手にして、コイツを撃たなかったのか考えてしまう。
 人は殺したくないからだ。
 甘かったのだ。これは、甘かった自分のせいなのだ。
 いざという時、殺せるかなんて考えたことも無かった。
 人殺しなんて、考えたことも無かった。考えたくなかった、自分が、人を虫けらみたいに殺せる軍人と同じようになるなんて。
 考えられるはずもないじゃないか、俺は普通の日常をすごしてたんだ、いきなり殺せるようになるわけがない。俺は殺人鬼じゃない、人間だ、人間なんだ。
 俺は人間だ、血と涙を併せ持った人間だ。情も愛もあるんだ。人の命が大切だと知ってるんだ。奴らとは違う。違うんだ。
 だから殺せない。
 ふと、リゼルを見た。体を引きずりながら、必死に逃げようとしている。
 殺す覚悟も無いくせに、戦場であってもだれかを守れると思っていた。
 缶詰の缶を手に取ると、意識を失ってくれと願いながら殴る。
 こんな状況になっても、死ね、と、殺してやる、と、思えないのか。
 甘かった。弱かった。覚悟が足らなかった。でも、しょうがないじゃないか。

 父さんとの、約束だから。
 殺せない。

 だったら、リゼルを守るために、時間は稼ぐ。俺だって死にたくは無い、逃げて見せる。
 男の両腕がエディアの腹に叩き込まれた。よろけて、力が抜けた腕を、男は振り払うと、エディアの胸を蹴る。
 壁に叩きつけられ、床に伸びたエディアの首を、男は抑えると、万力のような力で締め始めた。
 駄目だと、思った。首を絞められ、脳に酸素が欠乏した瞬間、思考にノイズが走るようにして、意識が剥離し始める。
 死ぬのか。最後にと、階段の方に向けた視界に、リゼルは映らなかった。
 逃げだせたのか。体が弛緩する。死がどんどん迫ってきて、エディアは全身の力が流れ出たのを感じた時。

 銃声が響いた。

 男の体が、横に吹き飛ぶ。床を転がりながら、べっとりと血の跡をつけ、男の体は止まった。顔を、冷たい床に押し付けるようにして、血が流れ出る以外の動作を失った男の体が、しばらくして少し小刻みに震え、やがて完全に動かなくなった。
 エディアは、男の側頭部に小さな穴があいているのを見た。そこで、初めて首を回して、リゼルを見るのだ。
 銃をだらりと下げ、壁にもたれかかるように座り込むリゼルを。

 そして、床に横たわった、潰れたトマトの様な亡骸を、もう一度見た。

 斜陽の中に転がった死体が、床に、夕暮れの紅と違う赫を、静かに、じわじわと垂れ流してゆく。
 やがて、世界が闇に包まれた後も、網膜に焼きついた赫が、闇の中に死骸を浮かびあがらせる。他の何も見えないのに、その横たわった姿は消えてくれない。
 目を逸らす、それでも、自分の先には、床にとくとくと流れ出る赫と、微動だにしない身体があるのだ。
 どこを見ても、網膜に焼き付いてしまった死骸は、自分の視界を追ってくるのだ。

 どれくらい時間がたったのか分からないが、夢見心地のような頭で、エディアは窓から注ぎ始めた朝日を見た。
 朝だ、と思う。気付けば、十時間近い時が過ぎていた。
 自分は今まで寝ていたのだろう。きっと、悪い夢を見ていたのだろう。そして、今、目覚めたなら、きっと全てが、戦争も、リゼルも、何もかもが、うまくいっているのだろう。
 恐る恐る現実へ目を向けてみれば、そこにはまだ、静かに血を垂れ流し、既に悪臭を漂わせ始めた死体が転がっている。目を逸らそうにも、じわじわと空間を充満しつつある死臭が、意識を引きつける。
 そして、心の中に広がってゆくのは、リゼルに対する恐怖心だった。
 人殺し、それだけだ。昨日の奴と違うのは、奴が人を殺した事実だけだ。それがどれだけ大きいといのだ、重いというのだ。戦場だから仕方ない。それだけじゃない、相手はこっちを殺そうとしていた。正当防衛だ、仕方ない。
 殺させたのは、俺だから、仕方ない。
 ずっと、一晩中、そんな事を考えていた。
 人の命は、重い。だれしもそう言い、誰もがそう信じている。それでも、実際に人を殺した時、人は、それが仕方のないことだと思い込む。そして、それも仕方のない事なのだ。
 割り切らなければやっていけない、そう分かっていても、人殺しを肯定してしまえば、まるで今までの全てが無駄になる様な気さえして、エディアは八方ふさがりの現状に、立ち上がる事さえ忘れていた。
 視線だけを横に走らせる。
 リゼルは、昨日と変わらない場所で、壁に寄りかかり、ただじっと自分の手の中の拳銃を眺めていた。
 なんと声をかけよう。考えても思い浮かばず、やがて解決してくれるのではと、時間に縋り、視線を窓へと向けた。
 陽光は、未だ色を変えず、ただ降り注ぐのみで、床に広がる血だまりを、きっと鮮やかに照らしているのだろう。

 リゼルは、意味のわからない感動に心を震わせていた。
 絶対的な暴力の行使、それをたった一動作で行ってしまったこと。
 躊躇なく執行した殺人の余韻が、幼すぎる彼にもたらしたのは、反省でも嫌悪でも無く、ただ静かに広がってゆく感激の波だった。
 撃った瞬間、反動を吸収するように振り上げられた腕が、一瞬視界を遮る。
 それに伴い、飛び散った火薬と、何故か大きく感じられた発砲音、一瞬の恐怖、それらから感覚を遮断するように閉じられた瞼。
 反動に任せた腕が振り上げられ、瞼を開けた瞬間、視界の先で、血を噴き出す『的』があった。
 途端に、脳内で生まれた甘い痺れが、背筋を震わせ、リゼルは倒れるように壁に背を預ける。
 きっと、この一瞬を一生忘れないだろう。いや、忘れないでいたい。
 しかし、潰れたトマトの様な頭の死体から感じだのは、じわりと染みだす恐怖だった。
 ゆっくりと全身を侵食する恐怖と、身体の内から湧き上がる歓喜に、四肢を投げ出し、リゼルは全てを委ね、無気力な瞳を、この感情の元凶となった小さな凶器に向けた。
 恐怖が、汗の様に引いていき、やがて訪れた申し訳程度の罪悪感も、歓喜の余韻と狂気に満ちた少年を諌めるには足りなかった。
 自分が、今まで嫌悪してきた軍人や大人たちと同じく、理不尽な暴力を行使し、命を奪ったと気付かなかった。
 もし、この時エディアが、「なんてことをしたんだ、人殺し」と、リゼルを責めたならば、きっと、彼は罪悪感と、嫌悪に悶え、慟哭しただろう。
 正気を失い、命の重さを弾丸一発分と履きちがえた少年は、静かに暴走し始めた憤怒と高慢に、やがて歪み始める。
 エディアは、黙ったままだった。

 やがてリゼルは立ち上がった。
 壁際の缶詰の山を、リュックに詰め始め、エディアをちらりと見ると、戸口へ歩き出し、その脇に落ちた缶切を拾った。
「立てる?」
 缶切を片手に、殺人者は片手を差し出す。エディアは頷くと、命の恩人の手をやんわりと払った。
「大丈夫、驚いただけだ」
 リゼルは「何に?」と問うように首を傾げた、しかし、エディアは何も言わなかった。ただ自分の頭に手をやると、考え込むようにして髪を擦った。そして、リゼルの頭へと手をうつし、心配するな、と撫でる。
「ここ、もうだめだな」
 リゼルは、缶切をくるくる回すとそう言った。
 エディアも同感だった。こんな所は一刻も早く去りたい。そして忘れたい。
 リゼルにとっては、あくまで機能的に見ての提案だった。死臭を放ち始めた死体は、虫を呼び、下が土でも無ければ、染み出た血が床のタイルの下に入り込み、ゴキブリや蛆の餌になる。
 エディアはリゼルも、殺人の事実を否定し、忘却したがっていると誤解した。そして、信じた。
 その日の内に、彼らは逃げ出すようにそこを去った。



 グロリアが、欠伸を噛みしめながら四階の廊下に着いた時、部屋の前にエディアは直立していた。
 時計に目をやる、八時半、一般士官の出勤には早い。一応出勤時間は決められているが、基本的に教導は遅刻しようが出勤しようがサボろうがだいたい自由だった。
「早いね」
 エディアは敬礼した。右手をあげて、略式で答礼する。
「おはよう、……何時からいたの?」
「だいたい本部解錠と当時刻です」
「もしかして、君はあのジャケットが無いと死んだりするのかな」
 冗談を言いながら、鍵を開け、エディアを中に通す、要件を聞く前にと、机の上に畳まれたジャケットへ手を伸ばす。
「質問、よろしいでしょうか」
 溜息を吐く、手でどうぞと示し、「硬いよ」と呟いた。
「昨晩は、よく眠れましたか?」
「おかげさまで、寝違えるから起こして貰いたかったけどね」
 ジャケットを掴み、エディアに向き直る。
「それで? 良いニュースならいいんだけど」
 ジャケットを羽織りながら、エディアは「どうでしょうね」と言った。
「始まります」
 グロリアは止まった。数秒経過し、ゆっくりと口元に手を持ってゆく。
「何、が?」
 確認だった。縋る様な思いとは裏腹に、自分の口から飛び出た言葉が、エディアの報告を否定するような響きを込めていた事に内心焦る。
「戦争、いえ、まだ作戦かもしれませんが」
 しかし、始まるのです。それは決まったのです。いえ、決まっていたのです。
 それをいってしまえば、終わりだと、エディアは知っていた。だから止めた。
 ちらと確認したエディアの顔に、冗談めいた色は無く、静かに沈んだ瞳を見て、グロリアは何も言えなくなった。
 黙ってしまった上官を気遣ってか、エディアは即座に報告を続ける。
「集合命令が出ました、一週間後レインバレー付近です」
 グロリアはエディアに背を向けた。少し歩いて、呟く。
「仕掛けてくる……? いや、早すぎる、条件が整わない、そのはずだ」
 先の戦争以来、こちらの対応は温厚かつ慎重だった。難癖を付け――先の戦争の報復を理由にしても――戦争を始めるならば、それ相応の準備期間がかかるはずだった。
 何より、向こうの世論は反戦を謳っていると聞いていた。そしてそれはこちらも同じ、そのはずだ。
 しかし、軍部というものは、恐らくどの国も世論の楔に抑え付けられる魔狼だ。
 唆し、嘯き、或いは、力づくで世論と民衆を引き摺り動く、狂気を糧とする魔狼だ。
 しかし、先の大戦は軍の一部が暴徒化したとして解決している。戦犯も残らず刈り取られた。先の遺恨は解決済み……国際的に見ても、そう扱われている筈である。
 全世界を敵に回す気が無いのならば、こんな早く仕掛けられるはずがない。
「侵略戦争? 馬鹿な、大国が黙っていない、国際的に見ても批難の対象になる」
 腑に落ちない。しかし、戦争を始める手段は幾らでもある。グロリア自身、それをよく知っている。
「どうでしょうか、もっとまずい事態になるかもしれません」
「というと?」
 エディアはレインバレー付近の地図をポケットから取り出した。観光用のそれは、国境付近の地理などは正確に書かれていないものの、地図上には後から付け足されたような赤のラインが数本引かれている
「坑道跡……の予測です、最悪の、ですが」
 数本の地図を縫うように引かれた赤のラインを、エディアは指で辿るようになぞる。
「あそこら辺は北から流れ込んだ雲が山脈前で往生して、雨が多いので」
 とは言っても、レインバレーの街は北側の乾燥地域に位置します、と付け足す。
「川か」
 頷いて、今度は赤のラインから指を離す。
「ええ、山地の川を避けて掘られた坑道は、一方向に伸びます」
 自分の口元に手を当て、グロリアは鼻を鳴らす。
「それが国境を超えていた場合……? そんな坑道、こっちが掘ったわけじゃない」
「それでも、軍事基地が構成されていた場合、話は異なります」
「そんな軍事基地が存在しないことは分かっている、私は仮にも大佐だぞ」
 国内の基地の場所ぐらい、把握している。と、グロリアは拗ねたように椅子に身を投げ出した。
「承知しています。 しかし……」
 エディアは微かに扉の方を見た、躊躇うように舌で上唇を舐める。
「我々だって一枚岩、という訳ではないでしょう」

 トリストは、創立より近代まで貴族中心の国家であった。
 国家元首は存在しないものの、十三人の貴族によって構成される『元老院』が、国家の大半を占める『臣民』に助言を与え導く、という政治方式をとっていた。
 しかし、この方式は、臣民が元老院の助言を拒否する事を想定しておらず、事実上の国家元首は元老院の議長であり、元老院議員と国家元首たる議長、その選出は単純かつ明快な力比べで行われた。
 つまり、戦争である。
 元老院、そしてその議長の席を狙う者同士が、臣民に政治公約を提示し、戦力として領土の臣民を集め、侵略、及び防衛にあたらせる。
 提示した公約が悪ければ、士気は上がらず、相手側の提示した公約が良ければ、戦力となるべき臣民はそちらに流れる、戦後、公約を履行しなければ、次の戦で士気は落ち、民は他の貴族領へと流れる。
 自国民ということで、臣民に対する扱いは敵味方で異なることは無かった。略奪、強盗等はあまり行われなかったものの、敗戦した貴族側には過酷な扱いが待っている。
 しかし、席を諦めた事を宣言すれば、侵略の理由は無くなるため、往々にして虐殺、処刑等が行われる前にだいたいの戦争は終わっていた。それでも、トリストメリスの歴史の中で、ギロチンに掛かり、絞首台に立ち、火炙りの十字架に括られた、あるいはもっと酷い死にかたをした貴族は少なくは無い。
 無論、元老院内部でも、熾烈な争いは水面下で行われていた。
 議長席を狙っての争いから、発言力を高める為に分家や配下を席に据えようと企む、気に食わない者を陥れる、利益、宗教派閥(この国は主に拝主教信者で構成される)、集団、様々な理由を巡り、戦争が絶える事は無かった。
 近代に近づくにつれ、デモクラシーの流れに取り込まれ、力を付け始めた民衆の中で、生き残るために、元老院は政治機関としての立場を退き、貴族達は政治の表舞台から降り始めた。
 だが、彼らが向かったのは観客席では無く、暗い舞台裏、『軍隊』と名を変えた、力による新たな国家主導の席だった。
 トリスト軍は、中世より続く貴族社会の名残として、中枢に潜るほどに、静かに燻ぶる争いを残している。
 多くのしきたりなどは形骸化したが、思想、理念、利益、宗教派閥、集団、様々な理由を巡り、中世より続く対立は、今なお朽ちてはいない。
 そして、得る目的は領土でも、元老院の席でも無く、臣民の人気と、それに追随する名誉、そして権力だった。
 グロリアは溜息を吐いた。
「なるほど、憎き仇との来るべき決戦に向けた強襲秘密基地、それを作った英雄、ね」
 ――安直な考えだ。言い終わってすぐに、グロリアは吐き捨てるように呟いた。
 エディアは頷く。そして、内部でも秘匿されている基地を敵に漏らす行為から考えるに。
「そして開戦の理由を作った馬鹿の失脚と、クレリア占領下での地位の保証」。
「考えたくないな」
 そう言ってグロリアは考え込んでしまう。エディアも、内心でふつふつとわき上がってきた不安に、頭を抱えたくなる。
 グロリアは気付いていないかもしれないが、もし、本当に強襲秘密基地が建造されていて、それが何らかの理由で彼女に伝えられていないとしたら。その理由はなんだろうか。
 未だ世間では救国の英雄と名高いエーレンベルグ家に、更に権力を与えることを良しとしない連中は、軍部に多い。
 救国の英雄の遺恨となる、宿敵との決着を勝利で飾る英雄。
 言ってしまえば、好戦派の連中にとって、穏健派の中でも特に人気の高いグロリアは邪魔なのだ。しかし、表立っての批難は自らの失脚も招きかねない。グロリアはそれだけ模範的な優等生だった。
 で、あるならば。好戦派が、先の戦争から、国民の心の内に燻ぶり続ける闘争心を、再度爆発させるような事態を創り出し、世論を一気に牽引するか。
 そしてもう一つ。エディアが予想する最悪の戦争、グロリア――または運の悪い誰か――が『開戦の理由を作った馬鹿』に吊るし上げられ、破れかぶれになったアリストが一気に核戦争に踏み切るという想像。軍事施設があったという証拠だけなら、それの規模は問題とされない。何しろ終戦までに事故で潰れたことにすれば調査団も入れない。
 自作自演で戦争を演出する。クレリアが核武装に踏み切る前に、決着を付ける。
 そしてその場合、疑うべき相手は何も好戦派の連中のみになるわけではない。穏健派に属する戦争屋や政治屋も、全員が『人が死ぬのが嫌』などという理由で反戦を謳っている訳ではない。
 貴族時代から続く確執を始め、政敵の牽制や、人気取り、利益、産業など、裏には複雑な思惑があるはずだ。

 凄惨な戦場を経験してきたエディアにとって、人の、とりわけ軍人の善意はあまりにも信じがたい幻影の様なものに感じられるのだ。
 だから、自分の善意も、信用していない。表向きは何とでも言える、しかし、いざ相手が銃をこちらに向けたら、撃たれる前に、撃たねばならない。後に、後悔と罪悪感に苛まれようが、自分は撃つことを躊躇ったりしない。それはこれまでも、これからも、自分が軍人という生き物である限り、不変の摂理なのだ。

「どう転んでも良い事態にはなりそうもない、ですね」
 結局エディアは、自分の考え、そして不安をそれだけの一言にまとめた。
 保身目当てに、知らぬ、存ぜぬ、を主張するならともかく、戦争を停めようとしている現状では、場所も主導者も定かではないのでは告発すら無理だ。
「犬の真似ごとは好きではないのだけれど」
 そう言って、執務机に置かれた電話を手に取ると、グロリアはどこかに電話をかけ始める。
「すみません、俺も、もう少し調べてみます」
 受話器に耳を当てながらグロリアはにやりと笑う。
「そこまで不甲斐なく見えるのかな」
 年相応とは言い難い、自虐的な笑みに、リゼルを思い出し、エディアは背を向けてドアノブに手をかける。
「気を付けてください、俺ら、下手すれば国家反逆罪ですよ」
 敵がどれだけの規模かも分からないんですから。
 通話を始めていたグロリアは何も言わなかった。ただ空いている片手をひらひらさせ、エディアを見送った。
 
 
 階段の途中、立ち止まり、窓辺に近づいた彼は、出勤したときよりも建物内がにぎわい始めていることに今更気付いた。ややあって、それも当然かと独り苦笑する。
 多くの人々の気配は、多少の余裕が生まれた脳内に、僅かながらの安堵感を感じさせてくれる。屋外では、訓練と称された球技に同僚たちが興じている、ボールを足で操る誰かを眺めながら、エディアは目眩すら感じる現状に戦慄していた。
 



 リゼルは、初めて学校をさぼった。
 朝、目が覚めて、再度、今までの自分の積み重ねが、無に帰す事実を確認すると、これ以上あの面倒な空間にいる意味を感じ得なくなってしまった。
 学校に向かう途中で、あまりのけだるさに、逃避するように回れ右した。
 と言っても、行きたい場所も、行くところもない。ピクニックの準備に、軍用品を揃えに行くかと、街に繰り出してみたが、まだ正式な軍人では無いリゼルは、銃器の所持や、軍用物品の購入は制限されている。
 手近なスーパーを覗くが、一般人の日用品に入る部類に、戦場でまともに使えそうなものがそうそうあるはずもない。
 厳重にプラスチックで包装され、軽さを売りに出すセラミック製の包丁を手に取り、柄の部分を掌で弄ぶ。軍用の物に比べあまりに軽いそれを、放るように棚に戻したリゼルを、店員が怪しげに見ている。
 その視線を感じながら、素知らぬ顔でガラガラに空いたレジにガムを持ってゆく。シールを貼られたそれをポケットに投げ込み、サラリーマンしかいない、平日の昼間の通りを歩く。
 士官学校の制服のままうろつくのは、落ち着かなかったが、誰も気に留めないようなので、そのうち適当に着崩して、それで気にしなくなった。
 ウィンドウショッピングと言っていいのかすら分からない放浪具合で、多様な店舗の店先を覘いては、数分もせずに店を出る。
 地味な喫茶店を眺めながら、あそこのカウンターは、遮蔽物によさそうだな、などと考える。
 今日は一日中、そんなことを考えている。
 平穏な日常が静かに崩れ落ちた。戦争が始まろうとしていることを、未だ知らない一般人共を眺めながら、このなかの、何人が生き残れるのかなと、あそこで笑ってる女性も、喫茶店のテラスで、にこやかに一時を過ごす老夫婦も、時折溜息を吐きながら歩くサラリーマンも、どれくらいが醜い屍を路上に晒すのか。
 肉塊に化した死骸に、そしてそれ以前にあったはずの生に、果たして意味があったのだろうか。
 何をしたって、死んだらおしまいだ。何を持っていたって、殺されたらおしまいだ。
 死んでしまえば、全てが無意味だ、人生も、物も。
 無意味な生に、人としての価値はあったのだろうか。
 いや、無い。無いが、僕には、死ぬ意味のある生が――任務がある。そして、死なないようにしてくれる友がいる。死なないように、守らなくてはならない友がいる。
 しかし、死んだ奴らはどうだ。ただ平和に依存して、誰にも守られず死んだ奴らはどうだ。そうだ、そんな奴らは死を待つ家畜と何ら変わりない。
 だから――だから?
 
 気付くと、携帯端末を開いていた。心の奥底を震わせ、小波が打ち寄せるように痺れる脳髄が、自分の思考を揺らす。
 軸の定まらない思考が、導いた訳のわからない結論が、この携帯案末をとり出す事だった。
 エディアに連絡を取りたい。
 奴は勤務中だろうか。
 足を止める、メールだけでもしておこう。ただ、何を言っていいか分からない。周りを見渡し、少し離れたところに見えるハンバーガーショップの看板を目指す。
 座って、冷たい飲み物でも飲めば、いくらかこの熱も冷めるだろう。
 そうしたら、きっとエディアに言いたいことも分かるはずだ。
 リゼルは、言いようのない不安を感じていた。しかし、それに気付けていない。戦意に震える脳髄が、待ちに待った状況が、片隅にある、恩人の称賛を得たい欲望が、リゼルの感覚を麻痺させている。
 その麻痺した感覚に、微かに訴えかける存在に、薄々気づけていたのかもしれない。
 様子のおかしいように思える親友が、不安だった。そして、今まで彼を救ってきた直感が告げる、不気味な焦りと引っかかりが、不安だった。
 出どころの分からないそれは、あまりに無価値な情報で、それに翻弄されることを、軍人を気取った少年は否定せざるを得なかった。
 

「なるほど、さすがにそちらにも情報が無いとなると……」
 グロリアは受話器と電話機を接続している白いコードを取った、内蔵バッテリーで子機として動く受話器を持ったまま、書類棚を開けて年度分けされた予算の申請書を探す。
 几帳面な性格では無いと自負しているが、棚の中はきれいに整頓されている。下段の軍用書類の中で最も大きなサイズ――主に予算や人員の表などが該当する――が入れられる場所は、色分けまで拘ったファイルで必要書類が取り出しやすいよう工夫している。
 そのため、目当てのものは直ぐに発見できた、ぱらぱらとめくっているうち、老人の声が響く。
(予算表を確かめているね。 残念ながらそれは私も調べた)
 グロリアは溜息を吐くと、手に持っていたものを押し込むように棚に戻した。
(偽造予算もありえんわけではない。が、地下に基地を作るなら、相応の金が要る)
「元ある穴を拡張する場合なら、それほどかからないのではないですか?」
(逆だ、軍事施設用の準備も無い穴倉に、十分な規模の施設をぶち込むなら、逆にかかる)
 グロリアは机に戻ると、立ったままパソコンを開いた。オフィス用のパソコンと大して変わらない見た目ではあるが、開くと同時に指紋の照合が要求される。照合にかかる時間が惜しいとばかりに、『照合中』の文字が点滅するディスプレイを睨みながら、グロリアはエンターキーを腹立たしげに連打した。
 電話の向こうでは、老人が地下施設に必要な物を上げている。
(兵士の宿泊施設、食事の為の調理施設、兵士の宿泊施設と同程度の武器庫や食在庫、それらの材料を運び入れるゲート、そしてそれらの換気設備、何より水の問題もある)
 軍務用のパソコンはプロテクトが厳重なため、立ち上がりに時間がかかる。悪戯心で設定した、『お待ちください』と書かれた吹き出しを揺らす、イルカのキャラクターが目障りで仕方ない。起動が完了しても、軍のネットワーク回線は、将校の階級に応じて情報のロックが解除される仕組みになっており、情報レベルが進むごとに逐一指紋の承認が必要になる。
(余程の金持ちがいるか、その穴倉に兵士を押し込む程度のものか、どっちかだ)
 一通り上げ終わった後、そう言い放って老人は黙った。やっと起動が完了したパソコン
「……換気施設やゲートに出入りする車があるはずです。最近の衛星写真を調べてみます」
 指紋センサーに指を押し当て、続いて開いたパスワード画面に打ち込みながら、グロリアは言った。
 
(賢明な手だ。 だが恐らくそんな痕跡は無いだろう、私の目が節穴になっていなければね)
 グロリアは片手で頭を抱えて椅子に座る。口の端を歪め、苦笑を浮かべながら、背もたれに身体を預けた。
「確認済みですか……」
(君が突拍子もない事を言い出した時点で、ここ数年のはね)
 電話の向こうの声が、柔らかみを帯びる。今までとは異なった、祖父が孫娘に諭すような声で、電話の向こうの老人は言った。
(どこが情報の出所か問わんが、ガセネタだよ、グローリイ、心配はいらない)
 電話機と受話器をコードで繋ぎながら、グロリアは「信用できる情報源なのですが」と呟く。
(……ふむ、先の案件と言い、どうやら君はまた面倒事に首を突っ込む気だね?)
「面倒事に関わりたがるのは、恐らく遺伝ですから」
 一拍置いて、電話の向こうから笑い声が聞こえてきた。下手な冗談に我ながら苦笑してしまう。
(まったく、親子ともども、後始末をするこの老体の身も考えてくれよ……エーレンベルグ大佐)
 言い終わり際、声色にかすかに寂しげな色が滲んだ。恐らくそれは、既に殉職し、英雄となった、かつての生徒であり、部下だった男にも向けられた言葉だったのだろう。
「ご心配なく、オルランド中将」

 レイル・オルランドは旧元老院の家系の末裔にあたる。
 オルランド家は、長らく元老院内の席を占めた名家であり、中世には支持を二分化し、二度の戦役を勝ち抜いた。広大な領地に名馬の産地と鉱山を有し、強大な軍事力を誇っている。
 資本主義化が進み、領地は配分され、全盛期の十分の一以下に減少したが、オルランド家の地位は軍部内でも揺るぎなく、非常に好戦的な鷹派の首領の地位にあった。
 歴代のオルランド家の嫡子は、軍の中で重要な地位に着いていた。英才教育、そして、勇将の血筋を継ぐと言う意識から生み出される、人一倍の努力があってこそだ。
 しかし、その中でも、レイル・オルランドは才能、そして経歴共に異彩を放っている。
 彼はオルランド家の長男として生まれ、初等軍予備学校では神童と呼ばれるに至る才覚を発揮する。
 彼の才能は十代半ばでは、軍事だけでなく、政治的な所でもその片鱗を見せていた。しかし、士官学校入学直前、彼は父に反発し軍人としての道では無く学者としての道を選ぶ。
 戦争で辛うじて貴族の力を維持していた、自国に対する失望が原因とも言われるし、青年特有の反抗心からとも言われている。
 だが、その頃のトリストにおいて、軍学校卒業者の選べる道は軍人か、軍事研究者しかなかった。
 彼は軍から逃げる事は出来なかった。彼は軍事研究家の道を歩き、二十代半ばで士官学校に歴史教員として赴任する事となる。
 彼の生より百年ほど前、トリストメリスは堪えず領土戦争を続け、領土を拡大していた。
民主化により、形骸化した貴族という存在の、存在意義が軍事力であり戦争であった。
 貴族という概念が、軍隊という形で今なお残り続けるのも、常に戦争を続けることで、その存在が必要であると民衆に誇示し続けたからに他ならない。
 同時に、貴族達は戦後の生き残りを考え常に活動し続けてきた。貴族の子弟が、軍隊に入隊すると、高位の階級を受けることもその一環であった。
 つまるところ、レイル・オルランドの学ばされた、この国における歴史とは、遥か昔にまで遡り、貴族の戦争での活躍を宣伝し、必要性に説得力を持たせる為の、英雄譚でしかなかった。少なくとも、彼はそう考えていた。
 それでも、赴任した当時、彼は単なる一教員にすぎなかった。実際、周囲の扱いは異なっていただろう事は容易に想像できる。だが、彼は自分を、多々いる教員の一人に過ぎないと考えていた。周囲の反応がどうであろうが、自分が未だ家系に縛られていることを認めなかった。
 彼は、疑問を抱きながら、生徒たちに教科書通りの授業を続けた。しかし、その中の多くの戦術を取り上げ、独自の見解を交えた。彼の授業は、歴史というよりも、歴史を題材にした戦術講義に近かった。
 彼の授業は生徒には好評価であった。同僚の間ではどうか知らない、彼に文句を言うものは一人もいなかったからだ。
 彼は常に生まれた家系の呪縛に縛られている事を意識していた。だからこそ、普通の一教員であろうとした。
 しかし、赴任二年目にして、貴族専門の士官学校への異動と、そこでの校長に任命されたとき、彼は自分が家系に縛られていた訳では無いと知った。
 オルランド家の、父の掌の上で、抵抗の真似事をしていただけなのだと知った。軍という世界に自分が存在する限り、呪縛からどころか、父の掌の上からさえも逃れられないと知った。
 士官学校の教員であっても、軍人であった。一つしか選択肢の無い軍命であれば、その場で自分の命を絶つ以外、抗命の手段はない。
 つまりレイル・オルランド……オルランド家に生まれた自分にとって、そのオルランド家、そして父への抵抗手段は、父に屈して死ぬ、自害以外にない。
 彼は絶望の中で、士官学校の校長という要職と、大佐の階級を受け取る。
 校長でありながら、教鞭を振い続けると決めたのは、それ以外彼に生きがいとなるべきものが無かったからだった。
 そして、彼は授業初日に、ささやかな抵抗として、学生たちの歴史の教科書を、自分のそれと一緒に校庭で焼いた。

「私が諸君らに教えるのは、軍人が歴史から何を学ぶべきか、だけだ」

 十数年後、後の英雄となる、ラウ・エーレンベルグも、赤々と燃える火に照らされながら、後の恩師となる男を、批難の目で、睨んだ。


 今でも、思い出す。
 老人は、既に切れた電話の、通話終了を告げるブザー音を聞きながら、受話器を握った状態で、軋む身体を質素なソファーに沈めた。
 質素ながら、広い部屋だった。狙撃を警戒してか、建物の中央部に作られた部屋は、窓一つない。壁際に並べられた棚、書類が散らかった執務机、応接用のソファーとテーブル。全て落ち着いた木を利用している。
 飾りといったものは、この部屋の前の主の趣味であった、豪華なシャンデリアの形をした電灯以外存在せず、調度品の全てが簡素であった。そのシャンデリアも、ファンの単調な音を響かせ続ける換気口の横にあっては、元の魅力を発揮できていない。
 ただ、この部屋に存在する物ほぼ全てが、簡素ながら、原料に拘った高い物だというのは素人でも判断が付くだろう。
 今、この部屋の主たる老人は、軍で要職にあった父からこの部屋を受け継ぐに当たり、それまであった豪華な調度品などを撤去し、必要最低限の、最も安い物を所望した。
 その当時は、父の使っていた物を使い続けることに抵抗があった。今になって思えば、最も安く済んだのは父の使っていた物を受け継いでしまう事だったように思える。
 ただ、自分がまだ少しでも若さを身に秘めていた時、そこまで考えが至らなかったのも仕方なく思える。
 それまで士官学校の校長を務めていた男は、父が倒れても、その病室へ行くことはなかった。
 父を憎んでいたからだった。
 しかし、後継ぎ等の問題で、家系が騒ぎ出し、ついに父が死ぬ、という時、やっと彼は父に会うことに承諾した。
 父に感謝していたからだった。
 彼はもう子供では無かった。だから、父が、自分の死ぬ間際まで、息子が望んでいた教職に着かせてくれた事を、無理にでも家を継がせようとしなかったことを、感謝していた。
 そのおかげで、自分が素晴らしい教え子たちに出会うことができたことを感謝していた。
 病室で、身体の何か所もチューブに繋がれ、冷たく、硬くなりつつある心臓の代わりに、機械で無理に血液を循環させられている父に会った。
 父が求めたのは握手だった。手の甲に着いたチューブごと、レイル・オルランドは父の冷たい手を握った。
 そして父は死んだ。レイル・オルランドは、陸軍大将の一人となった。
 彼は、小さな体育館ほどもある、何も無くなった部屋で、最低限の、安い物を、と、父の部下だった、そして今は自分の部下である人々に頼んだ。
 彼らが、二日間の協議の末、上官の言葉をどう解釈したかは知らないが、運ばれてきた調度品が、『最も安く見える最も高い物』であることには薄々気付いた。ただ、それがわざわざ特注で作られたことには気付かなかった。
 椅子に身を沈めながら、家を継ぐ、ということに考え込んでしまう。
 先程まで、会話をしていた、エーレンベルグを継いだ少女に、自分は無理を見ていた。
 彼女の仕事ぶりや、周囲の評判、軍事的、政治的な手腕、能力的な部分では何一つの心配は無いと思っている。
 過大評価だろうかと、考えてみれば、祖父の様に慕われてきた身として、世間一般で親馬鹿と呼ばれる感情が働かないはずもない。
 で、あるならば、この不安感は、それに付随する過ぎた心配なのだろうか。
「そうであれば、どれほど楽かね」
 思わず言葉が出る。彼女から無理を感じるのはいつから、と自問すれば、教え子だった男、彼女の父が死んだ時から――そして軍人としての道を選んでからずっと――と、確信めいた答えに至ってしまう。
 民衆には伏せられているが、救国の英雄、ラウ・エーレンベルグの最後は自殺であった。

 今でも思い出す。
「先生、先生にとって、この国の歴史とはそれ程価値の無い物でしょうか」
 教室で、出席を取ろうと名簿を開いたオルランドは、起立、礼が終わっても一人だけ直立のままの生徒を目にした。
 オルランドは、自分のやり方が一部の者からの反感を買っていると承知でやっていた。
 そのため、こういった問答も、今までなかったわけではない。
 ただし、愛国心がどうの、英雄の業績がどうの、という問答では無く、こういった問いは初めてであったし、何より生徒に問われた事など無かった。
 まさか教室で、生徒の前で、生徒にこういった事を問われるなど想定外であった。
 貴族用の士官学校の生徒は、教職に着く軍人にとっては従順な部下だ。だから、反抗されるという事はそもそも存在しない。頭の良い生徒たちは、ここが軍隊の一部であり、反抗は軍隊と同じく処罰されるものと思っている。
 軍隊での、上官に対する反抗の処罰としては、介錯――つまりは処刑――が適当とされる。
 規律と処罰が無ければ、軍隊を纏める事が出来ない。将官を目指すものはまずはこれを叩き込まれる。
 不穏分子の抹消と、他の者への見せしめ、その両方ができるのだから、効率的を突き詰めた軍隊組織にとっては当然の様にそれは執行される。
「正しい歴史は、大いに学ぶべきものでもある」
 オルランドは少し考え、言葉を選んだ。同時に、名簿と席表を照らし合わせる。
 ラウ・エーレンベルグ、手元の名簿ではそれ以上は分からなかった。ただ、エーレンベルグの名を聞いたことはなかった。
 無論士官学校で処刑が行われるはずは無い。最悪退学である、が、士官学校からの退学は、貴族にとって、余程の名士でもない限りは、家系ごと世間的に抹殺されることと変わりない。
「この国の歴史は、正しくないから無価値と仰りたいのですか?」
「物語を有難がる者もいれば、歴史書を愛する者もいる。価値など人それぞれだ。だが、命を物語から得た高揚に賭けるか、歴史書から得た知識に賭けるかは、よほどの馬鹿でなければ間違わん」
「我々が馬鹿と?」
 オルランドは生徒を見渡した。半数の者は何が起きているか理解していない。彼らは、学校という小さな軍隊の最高指令官たる人間に、級友が反抗しているという状況に当惑していた。
 当然の反応でもある。軍に属する身として『育てられた』貴族の子弟なのだから、士官学校でも、もちろん軍隊でも、上官に抗命するということが処罰に繋がることを理解している。
「馬鹿でなくとも、選択肢……知識を与えられていなければ、選べないとは思わないか?」
――それとも、軍人であることを強要された私の様に、馬鹿であることを強要されたいのかね――
 久々に沸いた激情が、吐き出そうとした言葉を心の内にしまい込み、オルランドは時計を一瞥した。この場を早々に切り上げ、後でゆっくり討論する事も出来る。とりあえず、オルランドはこの少年を罰則にかける気は無かった。
 彼は、生徒の疑問に答えることが、教師たる者の責務であると考えていた。罰則や暴力をちらつかせ、黙らせるのは、軍人のやることだ。
「ですが、だからといって従来の歴史が我々にとって無価値なわけではないでしょう」
「よくできた童話としては、どこかの文学賞にでも応募してみれば良いところまでいけるのではないかね」
 オルランドの言葉には、若干蔑みの色が滲んだ。ただし、自分でも誰に、何処に向けたか分からない。
 ただし、それを最も強く感じ取ったのは、正面から向き合うエーレンベルグであった。
「ですが、今日までこの国が団結してこれたのは、この国が存在しているのは、歴史がそれほど民衆に対し求心力を持っていたからでしょう?」
 たしかに、世界中では革命が騒がれていた時期もあった。その中で、トリストが――実際にはトリストの貴族達が――生き残れてきたのは、英雄譚としての歴史も多少貢献しているのかもしれない。
 そこを認めた上で、オルランドは虚構の歴史に頼って生きながらえてきた全てを嫌悪していた。
 作られた歴史、それに裏打ちされる仮想敵、故に必要とされる軍。士官を貴族で固め、貴族用の士官学校でしか高等な軍事教育を与えない体制。
「それは、政治屋にとってだ、我々は軍だ。請われ、戦うための存在だ、ならば」
 一呼吸置く、呼吸を整えながら、どう続けるべきか一瞬思案して、思ったことありのままを言った。
「勝つためのことを、強くあるためのことを考える、それが軍だ」

 今思えば、違う、拗ねていただけだ。父に反抗して、行き場の無い不満を、貴族達、そして父の作った体制、そして歴史にぶつけて、蔑んでいただけだ。
 しかし、後悔はしていない。教え子たちに教えたことの、一つも間違ってはいなかったはずだ。
 勝つためのことを、強くあるためのことを、彼らが一日でも長く生き延びるためのことを、教えたと、自信を持って言える。
 老人は老いて乾いた自分の手の甲を擦った。
 身体を軋ませながら立ち上がると、壁際の机の上に置かれたコーヒーポットに近づいた。既に冷え切った中身を、オルランド家の家紋である馬とつるはしを守る盾が、金であしらわれた上等なティーカップに注ぐ。
 砂糖の瓶の蓋に手をかけ、冷え切っては溶けないかと、そのまま飲み干した。
 彼らが一日でも長く生き延びるためのことを、教えたと、信じている。
 それなのに、自ら命を絶ったものもいる。

 救国の英雄、ラウ・エーレンベルグの最後は自殺であった。
 戦場で何があったか、彼の口から聞く事は無かったが、それが深い傷となって、精神的に彼を死に至らせたのは容易に想像できる。
 彼は戦場で右半身をほぼ失った。部下の報告によると、暴徒軍に暴行を受けていた少女を、戦災孤児を保護しようとし、その孤児の自殺に使われたグレネードに被弾した。
 愛娘――グロリア――とその孤児を重ねたのか、部下を制止し、自分ひとりで孤児と向き合い、信頼を得ようとした。だが、錯乱したその少女は暴徒軍の所持していたグレネードに手を伸ばし、ピンを抜くと、抱えた。
 それを取り上げようと、ラウは駆け寄ったらしい。無論、無謀だった。半径数メートルを吹き飛ばす爆風と、鉄片が切り出した肉塊が炸裂し、伸ばした右腕は吹き飛ばされ、鉄片、骨片、砂利が散弾の如く殺到し、眼球を抉る。続いて高温の爆風が身体を吹き飛ばす。
 それでも、ラウは見たのだろう。救いたかった人間が花火の様に爆散するのを。
 人の死にかたとして許容できないものを、それが、愛娘と重ねてしまった少女の末路であれば、彼が発狂に至らなかったのが不思議でならない。
 しかし彼は、それでも戦争の終結まで職務を全うした。
 凱旋を果たすと同時に、過労と、心労と、傷から回った炎症で倒れ、生死を彷徨い、快方に向かったところで、自分で喉を裂いて死んだ。
 それもグロリアの前で。
 ほぼ毎日の様に見舞いに行っていたが、意識が戻ったという報告を受け、職務を投げ出して、エーレンベルグ家に向かった。取材陣や野次馬から隔離するため、家を護衛兵が取り囲む、物々しい雰囲気を忘れられない。
 玄関先で、医師に会った。今でも多少の交流はある、軍人だからと特別な扱いをせず、気さくに話せ、尚且つ素晴らしく腕の良い医師だった。快方に向かい、先程意識を取り戻したとの報告を受け、今は娘さんが面倒を見ていますとの言葉に、心底安堵した。
 中に入ると、ラウの妻、ルイナが待っていた。美しい顔を心労で青くし、寝ずにラウの看病をしていたのか、隈が酷かった。ただ、表情は明るかった。
 その頃から、記憶が定では無い。何しろ喜びに夢見心地で、そして夢であってくれと即座に願うような出来事だった。
 二階で、何かが倒れる様な物音がした。立ち上がろうとしたラウが、転んだのでしょうかと、ルイナは笑った。苦笑しながら、まだ数カ月は休んでおいて貰って構わんよと、答えた。
 そして、寝室で、だらりとした左手に、包帯を切る為のナイフを握って、ベッドの上に血を撒き散らし、喉を掻っ切って絶命したラウを。
 その、握られたナイフが、手から転げ落ちて、床の絨毯に突き刺さったとき、ベッドから転げ落ちた様な形で、顔に血を浴び、真っ青な顔をして、それでも涙も浮かべず、震えもしないグロリアを見た。

 コーヒーカップを置くと、溜息が出た。
 そう、心配なのだ。
 彼女が、無理をしているのが、彼女が無理をできるのが、もし、復讐の為ならと、不安に思わずにはいられない。
 何に対しての復讐かは、オルランドには見当もつかない。しかし、若者とは行き場の無い怒りと失望に振り回されたりもする。そして、振り回されたまま、何かにぶつけてしまう。
 自分が、歴史に対して、そうしたように。
 もし、戦争を憎んでいるなら、それは、それでいい。
 だが、そうでないのならば、復讐の為に闘争を始める娘では無いと信じてはいるが。
 最悪の想像、自分が母国の歴史に怒りを向けたように、彼女が憎んでいるのが、戦争を起こし、父を死なせた母国だったならば。
 レイル・オルランドは、自らを戒めるように乾いた唇を強く噛んだ。何故自分がそのような想像をしているのか、どうして自分が彼女を信じられないのか、理解できなかった。

 エディアが、準備と調査に追われているのを、グロリアは知っていた。
 帰宅するなり、休めとうるさい母親から逃げるようにして自室に戻ると、電気も付けずにベッドに転がりこんだ。
 自分でも無駄に広いと思える自室だった。母の買ってきた服類が、包みから出されないまま衣装棚の前に置いてあって、本棚には、半ば無理矢理飛び級したため、ほぼ新品のままの士官学校の教科書類が埃を被っていた。
 最近触れた痕のある机は、父の書斎から持ってきた軍用書が積まれ、場違いさを詫びるように、隅に小さなぬいぐるみが置いてあった。
 静かに、一人で考える時間が欲しかった。
 戦争の発端となるような施設。
 結局、そのような施設は存在しないとの結論に至った。しかし、だからと言って安心できる訳ではない。
 この数日間、所在の知れない軍事基地に翻弄され、無駄骨を折ったのはグロリアよりエディアの方だった。それでもエディアは一向に調査を止めようとしない。
 調べれば調べるほど、そんなものは存在しないということが明確になってゆく。不気味な靄が晴れることは無く、切り払っても何もそこにはないことが見えてくる。
 見えない軍事基地の輪郭線に、得体の知れない気味悪さが湧き上がってくるだけであった。クレリアが、どうやって仕掛けてくるかわからない。仕掛けられる要素がない。
 そして、それはエディアに対する不信に繋がりつつあることをグロリアは感じていた。

 ガセネタだよ。

 その言葉が、思考に沈む度、静かな水面を掻き混ぜ、頭を掻きむしりたい様な衝動に駆られる。
 ガセネタ、そう認めてしまえば、自分がエディアを信じていないことを裏付けてしまうような気がしていた。
 だから言いだせない。エディアも踊らされているのだろう、だから、信じていないわけではない。
 そんな詭弁を貼ってみても、不信、という言葉は、認めてしまえば全てを引き裂いてしまいそうな鋭さを持って、グロリアの心の中に存在したままだった。
 こちらの不信は、相手からの不信に繋がる。
 上官と部下の関係なら、それでもいいだろう。いくら疑われようが、蔑まれようが、嫌われようが、規則と命令で従わせることができる。
 戦争が、人の命が懸かった状況で、不信を買いたくないなどと言ってはいられないだろう。
 つまりは、私はアイツを特別視しているのか。
 たしか、教導の職務に慣れ始めたころだった。
 今よりも暇だった、何しろ定時には帰れていた。そして、意欲を失いかけていた。
 国家の、軍隊の将来を担い、教え導く人材を、育成する部隊、設立の概念はそうだった。
 優秀な人材を後方での訓練と育成にあたらせ、エリートを育てる、そういった部隊だと聞かされていた。
 ただし、実情は違った。
 実戦に参加する事はおろか、実弾訓練すらなかなか許可されない。月に数回士官学生とお遊戯の様な演習をして、仕事をした気になる様な所だった。
 無論、それを承知の上で立候補した。実際貴族の子供だけでなく、優秀な人材を士官学校から抜擢できる、その特権を生かし、教導という部隊を戦える軍隊にしようと考えていた。
 優秀な隊長さえいれば、部隊としての体面は保てる。あとは優秀な指揮官がいれば、その他はどうあろうと軍隊としての体面は保てる。
 そう考えていた。しかし、計算外だったのは、自分以外に教導を立て直そうとする人間がいなかったことだ。
 どんなに優秀な者でも、教導の温い空気に触れれば意欲を削がれ、優遇された生活に慣れれば向上心を失う。
 特に何もせずとも、ある程度の階級が保障され、高給を受け取ることができる。終着点としての教導という部隊が、それに拍車をかけた。
 部隊内では積極的な改革に賛同の声は無かった。反対の声も無かったが、それを自分の仁徳だと自惚れればどれだけ楽か。
 単に恐れられただけだと容易に想像できる。だからこそ、部下たちの積極的な行動は望めなかった。
 結果、改革の為に、一人で奔走してみた。優秀な者を集め、訓練時間を数倍にし、演習場を拡張させた。
 優秀者のみで構成される、特別に優遇された部隊を作り、対抗意識を煽ったりしたが、ほとんどが無駄に終わった。
 無意味に空回るだけだった。
 そのうち、空回ってどうしたいのか分からなくなった。国を助ける。戦争を防ぐ。人民を助ける。
 自分が行っている行為が、いかにそれに繋がってゆくのか、見えなくなってしまった。
 父から継いだ権威と人脈を振り回す自分が嫌になった。
 そんな雨の日だった。前日から降り続けている雨が、曇天が、ただでさえ憂鬱な気分をさらに酷ものにした。
 傘を片手に、待たせていた車に向かった。職務の終了時間は数時間前に過ぎており、秋の日はとうに沈んでいた。
 冷たい雨が、単調に降り続いていた。全国の士官学校の中で、優秀な成績の者に加えて、優秀な成績を残した者も調べていた。
 教導の駐車場には雨で無くとも送迎の車が集まる。
 部隊員の大半が送迎付きだった。グロリアもそうだった。
 さして家が遠いわけでもない、徒歩で二十分ほどの距離だったが、送迎車に乗る事は、名家の人間にとって半ば義務に近い。
 いつもは真っすぐ駐車場へと向かうが、ふと思い立って、運転手に寄り道をして帰宅するとメールを打った。そして、返信を待たずに電源を切った。
 この曇天に、雨、だれしもが傘を差している。この陰気な天気で、人々はだいたい下を向いている。
 ならば、自分の容姿も目立たないはずだ。父と共に戦ったと語る中年に敬礼を送られることも、父を神様と勘違いをした少年を疎ましく感じることも、誰かに気にされることも無い。
 傘の影に隠れるようにして、苦笑した。我ながら馬鹿らしい、些細な反抗だった。
 運転手は青くなるだろう。母が心配するだろう。そんな、何になるかも分からない、些細な、気晴らしに近い反抗だった。
 ほんの少し軽くなった足取りで、両手で傘を持ったグロリアの後ろを、校門の脇からするりと抜けだし、傘も差さず、追い始めた人間がいた。
 ずぶ濡れの士官学校の制服を着た、エディア・ライトドールだった。

 グロリアがその存在に気付いたのは、エディアに声をかけられてからだった。

「すみません」
 振り返ると、ずぶ濡れの少年が、数メートルも無い距離にある街灯の下に立っていた。
 制服からして、士官学校の学生に見えた。が、グロリアは瞬時に腰の銃に手を伸ばし、傘を即座に地面に放った。
 体術……格闘技を主体とする接近戦には自信がなかった。役に立つかどうかは不明だったが、傘を盾にできないかと考えての行動だった。
 見た目通りの士官学校の学生には感じられなかった。何より、いきなり銃に手をかけたグロリアを見て、驚く様子がない。
 首筋を冷たい物が這った。それが雨のせいだったのか、殺気と呼ばれるものを感じてか、その時は分からなかった。
 相手が臨戦体形に移ったのを見て、少年は大仰に両手を上げて見せた。
「ご覧の通り、武器は持ってません、すみませんが、話だけでも聞いていただければ」
 グロリアは動かなかった。聞こえなかったと判断したのか、少年は言い直そうと口を開く。
 少年が息を吸う。その一瞬隙の内に、グロリアは銃を抜いた。銃口を少年に向ける。
「要件を聞こう」
 歳も背丈も下の少女に銃を突きつけられ、一瞬動揺したかのように見えた少年は、軽く周囲を見渡した。
「ここではちょっと」
 そう言ってこちらへと歩み寄って来る。
「寄るな、そこで話せ」
 少年は立ち止まると困ったように顔をしかめて見せた。酷く濡れているせいもあってか、その仕草が憐れな印象を持たせる。
「……要約したもので構わない、その内容によってはちゃんと聞く、手短に話せ」
 少年はまだ躊躇った。そして再度周囲を見渡すと、グロリアをじっと見た。
 値踏みするような眼だった。無数の雨粒によって遮られているのに、そう分かった。
「どこから言えばいいのか分からないんですが、そうですね、一番重要なことは」
 そう言って少年は瞼を閉じた。次にその瞼が開いた時には、静かな意思を湛え、射るような眼光を放つ深い蒼の双眸があった。
 
「僕がクレリアのスパイで、戦争を防ぐために二重スパイを希望したい、って事ですかね」
 
 一筋の光明が見えた気がした。その光が、闇の中にあった目的を照らした。

 上官と部下の関係としては特別だろう。自分にとって奴は優秀な部下であって、そして友だった。
 こちらが不信を抱いてしまえば、きっと奴を裏切ることになる。
 上官と部下なら、それもいいだろう。
 でも、友なら?


 エディアは焦っていた。
 ランチタイムをかなり過ぎた教導の食堂で、エディアは半分になった食券を片手で弄んでいた。
 やらなくてはならないことが多すぎる。その上、ほぼ全ての項目が、一般人には相談すらもできない。
 そして、その大半はグロリアにどうにかしてもらっている状況だ。
 グロリアにならば相談くらいはできるかもしれないが、これ以上働いてもらうのは少々酷な気がしてならない。
 対象となる基地についての調査は、エディアの階級や、人脈を含めた能力ではどうにもならなかった。
 得に貴族層に対しては何らの影響力を持っている訳ではない。孤児院時代の友人も、今では全く連絡が取れない。
 一軍人と変わらないエディアに調べられる範囲で、確かな情報が得られるとは考えていなかった。それでも、調べずにはいられなかった。
 徒労で終わるとしても、何もしないよりはいいと思っていたが、グロリアの努力があっても何の情報も得られないとなると、次第に焦るようになってきた。
 自分にはどうしようもない。それが分かっているだけに辛い。グロリアの努力を見ていると、自分の不甲斐なさに押しつぶされそうになる。
 それ以外にもやる事は多すぎる。どのような任務が当てられるか分からない。銃器の類は現地で渡されると思ってはいるが、現地調達ということになるかもしれない。
 普通に購入できるナイフ類、携帯食料類、発煙筒類は準備しておきたい。特に、軍用の発煙筒は数種類用意しておきたい。
 もし本当にトリストの施設に潜入するとしたら、発煙筒類は種類によって囮にも光源にもなる。
 そして、いざという時、グロリアに非常事態発生の合図にできる。
 直接は無理だろうが、せめて誰かに、合図があったという事だけでも伝えて貰わなくてはならない。
 だから、せめて教導の隊員を付近に派遣してもらう必要がある。
 何も聞かずただ職務を全うし、場合によっては臨機応変に行動できる人間を。
 あとは、もしクレリアに帰還を命じられた時にも備えなくてはならない。
 そして、もう一つ気がかりなことがある。
 もし、開戦してしまえば、自分はクレリアのスパイとして動くことになる。
 しかし、教導という傍流組織に属している身では、流れてくる情報にも限りがある。
 だから、自分がちゃんとした軍部に配属されるか、教導でそれなりの階級を与えられるまでは開戦に踏み切らないと思っていた。
 だから、教導……グロリアにアプローチをかけ、時間を稼げるかと考えた。その考えの片翼を、リゼルが未だ士官学校の学生であることも担っていた。
 それなのに、今回の事態で状況が動くとなれば、恐らく、自分以外に相当の影響力を持つ地位にある工作員がいる。
 その工作員の影響力によっては、私財を擲って形だけでも、兵士駐屯所のようなところを作ることができる。それを自分たちに派手に破壊させる事で、不可侵地帯付近に大規模な火薬庫があった、という事実ができあがる。
 要は、自作自演で開戦を演出できる。
 グロリアには、その可能性を伝えられていなかった。
 それを伝えれば、きっと彼女は行くなと言うだろう。
 自分にとっても、それが最善の策であると思えた。
 クレリアが、トリストの領地内で動き回る事はできない。なら、自分たちが行かなければ、作戦の決行を遅らせることができる。

 リゼルはどうなる。

 その一点が、気になった。今、クレリアのスパイと明かしたエディアと違い、戦争を止める為に動くエディアと違い、奴は戦争を待ち望んでいる。
 止めても納得するわけがない。最悪でも軟禁状態になる。
 それだけじゃない、奴は恩返しの為に生きてきた。命令を忠実にこなす、操り人形と言ってもおかしくない。
 ならばその糸を絶ってしまえばどうなるだろう。
 それが怖かった。

 配膳口に、自分の昼食ができあがっているのを見て、やっとエディアは立ち上がった。
 時間を逃してしまったので、食堂に人はまばらだった。
 それを狙ってもいた。ここ数日様子のおかしいエディアを友人たちは気にしていたし、何より自分が彼らを裏切ることになるのではという、後ろ暗い感情を抑えられなかった。
 パスタはすっかり冷めていた。
 それを食道に掻き込みながら、これが喰い終わったら、グロリアに『運転手兼通信役』を用意してくれと頼みに行こうと決めた。

 リミドールは、トラックのミラーに映った、すっかり農奴しか見えない自分を見て、苦笑した。
 運転席には、同じく農奴にしか見えないセオームが既に収まっている。
 そして、荷台に乗るコンテナの中には、藁や生活用品の詰まった箱と、リミドールと同じような格好をした数人の男が収まっている。
 彼らはコンテナの壁に仮設された固定椅子に座り、出発の時を待っていた。
「準備はいいな、よこせ」
 男の一人がコンテナの奥から箱を引きずり出し、そのままリミドールに向かって床を滑らせた。それを小脇に抱えると、リミドールはコンテナの扉を閉じた。軍歌を鼻歌交じりに謳いながら、箱の中身を取り出す。
 箱の中身は、いつもの軍服と、通信機類の入ったホルダーと、オートマチックの拳銃だった。
 ホルダーから長方形の弾倉を取り出し、銃の上部にスライドさせるように装填した。それを軍服で覆い、助手席の戸に手を掛ける。
 そこで気付いたように、ミラーに引っかけていた麦わら帽を被ると、一気に乗り込み、箱の中身を足元のシートの下に隠した。
 そして顔色の悪いセオームを一瞥した。
「存外、似合うな」
 セオームは小さく、ええ、と呟いた。
「さて、行こうか」
 セオームは黙って頷いた。
 
 トラックは鈍いエンジン音を鳴らすと、ゆっくり走りだした。
 荷台のコンテナには、数人の男と、藁と再活用品に偽装された、大量の爆薬と銃器が乗っていた。


 エディアは教導の部隊員寮の自室で、床に座り込みながら所持物の整理をしていた。
 教導の部隊員には寮が割り当てられはするが、そこに住むかは個人の自由意思に準ずる。
 リゼルはどうやってレインバレーまで向う気でいるだろう。
 それに気付いたのは、集合前日の夜だった。
 すっかり忘れていたが、運転ができるはずがない。
 きっと奴は無免許で走ることも、車を盗むことも厭わない気がした。
 慌てて連絡をいれようと、電話をかける。
「おい、俺だけど……」
(遅刻、欠席は認めないぞ)
 内心怯んだものの、不信感を抱かせないように、少し笑って見せる。
 妙なところで鋭いのは昔からだ。冗談の一つでも言ってやらないとと、考えてみるが、何も浮かばない。
「士官学校では遠足サボる奴は多いけどな、あれは行軍演習だって」
 やっとの思いで吐きだした言葉は、我ながら少々無理があるように感じられた。
 電話の向こうから鼻を鳴らす声が聞こえた。
(安心した、変だったから調子でも悪いかと)
「寝不足だ、気にするなって」
(寝坊で遅刻は、きっと父さん怒るよ)
「いやそれより、お前明日どうやって集合場所に向かうつもり?」
 リゼルの声の調子はいつもと変わりなかった。少し安心する。
(一応バスがあるよ、そっちは車?)
「ああ、車だけど、帰りも五体満足って訳にはいかないかもしれない」
(帰るつもりなのか?)
 何のためのスパイだよ、と笑った。電話の向こうからも笑い声が聞こえた。
(そうだよな、じゃあ帰りのバスも確かめる)
「いや、俺の乗る車で行かないか?」
(足がつく、それにもし帰らないってなったら、車どうするの?)
「運転手を雇う、一応」
 ふーん、と呟く声。エディアは黙って答えを待っていたが、明確な返事が返ってこないので、もう一度聞いた。
「どうする?」
(あー、実は俺もう現地入りしてる)
 学校をサボったのかと、問い詰めそうになるが、溜息一つで何とかそれを押しとどめる。
「お前学校は?」
(問題無くサボった、心配しないでいい、じゃ、遅れるなよ)
 通信が切断された。とりあえず多少は安心した。
 リゼルと話していると、今更いろいろ悩んだところでどうしようもないと思えてきた。
 最悪、流されて工作員をするのも悪くない、か。
 
 床に横になると、今日はこのまま寝てしまおうと思った。

 リゼルは今日は寝れないなと思った。
 だから、宿をとったりせず、月と星の光だけの荒野を歩いていた。
 振り返ると、多くには街の明かりが見える。
 その光景が、いつか、エディアと一緒に軍用トラックの荷台から闇に静まりつつある故郷を見ていたときを思い出す。
 あのときは、あんな明りは無かった。クレリアへと去ってゆくトラックの荷台から見えたのは、何だったか。
 澄んだ外気を吸って、埃まみれの空気の中を駆けまわった遠い日々を思い出す。



 エディアは悪夢を見ていた。
 それは現実にあったことだった。
 路地裏を血を流しながら逃げ回る夢だった。
 リゼルに支えられ、血の不足を感じた脳を、貧血でだるい身体を、無理矢理動かす。縛ったのに、ガラスの破片が刺さったままの左腕からは、覆った布切れでは吸いきれない程の血が流れて、コンクリートに不気味に光を反射する痕を残す。
 抜いたら死ぬと思った。しかし、これが抜けないように壁を乗り越えたりするのは無理だとも思った。だから抜かなくては捕まって、たぶん死ぬ。
 損傷があまりない元繁華街の付近に近寄ったのが良くなかった。
 背後から伸びるライトの光と、足音。それが自分の血の痕を追ってきているのは分かっていた。
 だから、その時自分は、自分が一緒ではリゼルも逃げ切れないと考えていた。
――俺を置いて逃げろ――
 その一言がどうしても出ない。死ぬのが怖い。それでリゼルを殺すのはもっと怖い。
 貧血でうまく回転しない頭は、自分なしではリゼルは生きていけない、だから、俺はリゼルを残して逝けない、と、極めて利己的な結論をはじき出していた。
 撃たれる危険性を感じて、路地を曲がった。脇にあるビルを眺め、振り返ると、先程曲がった十字路の路面に光が伸びていた。
 横の、どこにでもあるような商業ビルの勝手口のガラスが割れていた、エディアが指差すと、リゼルはガラスの割れ目から手を入れる。かちりと音をたてて鍵が開いた。そのまま蹴り開ける。内側から鍵を掛け、暗い廊下を逃げる。
 エディアは自分の血が、先程のドアの縁にべっとりとついたのを確認していた。
 時間稼ぎにもなりはしない。このままでは追いつかれる。
――俺を置いて逃げろ――
 上辺だけでも、その言葉を絞り出そうとして、リゼルの顔を見た。
 リゼルは、どこからか小銃を取り出していた。
 微かに高揚したような顔で、眼を爛々と輝かせ、エディアを支ながら、銃を確実に握って、暴力的な笑みを浮かべていた。この絶対的に不利な状況でも、コイツは死ぬことを考えていないと思った。敵を殺す気だと気付いた。
 その決心には数の差も、力の差も関係ない。ただ死ぬまで銃を撃ち続けるのだ。
 幼い自分にはそうしか気付けなかった。ただ、今なら何となくわかる。士官学校で習った心理学の中で、少年兵の異常なコンバットハイについて習った。
 訓練を積んだ兵士でも、戦場では恐怖する。そこは死と隣り合わせであり、死は個人単位の終焉を意味する。自分自身が終わってしまう、その恐怖は大義や復讐を注ぎ込んでも埋める事はできない。
 いつもの訓練と違うと気付いた瞬間、自分の目の前に広がる世界がゲームでは無いと知った瞬間、新兵はともかく、歴戦の兵すら恐怖に喰われる。
 恐怖は判断も動作も鈍らせる。
 誰も一歩間違えば蜂の巣にされると知ってしまえば、砲火の中に駆けだせない。
 ただし、子供は違う。子供には、確立された自己同一性がない。
 自己が終わるという事を理解しきっていない浅い器は、大義や復讐を素直に受け入れ、簡単に満たしてしまう。
 そうすれば、彼らは死を恐れなくなる。加えて命を軽いと誤解してしまえば、不思議な高揚感の中、酔い狂った様に殺せるし死ねる。
 紛争地域では、子供の命よりも、小銃一つの方が『価値がある』ことが良くある。
 あの時、士官学校の机に座っていた連中の中で、その言葉に秘められた残酷さに気付いたのはエディアだけだったろう。
 飛び込んだ扉の先に、今なら普通に街中で見られるような空のテナントのような風景が広がり、隠れ場所も無い空虚の中、月光が照らす外は見えず、背後から漏れるライトの光に、目の前の厳重なシャッターが鈍く照らされた。
 リゼルはしゃがんで銃を構えた。コツコツと響く大勢の足音が近づく。回らない頭で、エディアは、リゼルに飛びかかった。
 他から見れば、この行動は兄が弟を庇う感動的なものに見えたかもしれないが、エディアはリゼルの銃をしっかりと左手で押さえていた。加えて右手はリゼルの腕を抱え込んでいる。
 放っておけない。どうしてそんなことを考えたかは、今の自分にも分からない。それは、その感情が友情的な美しい感情から生み出されたものではないからだ。
 俺が死ぬなら、コイツも殺さなくてはならない。そんな身勝手で理不尽な意識が頭の片隅に存在しているような、無茶苦茶な思考で、リゼルを抑え付ける。放っておけないのは、コイツが危険だからだ。
 何も感じずに人を殺せる奴は、危険だ。暴虐を尽くす軍人と変わらない、危険だ。そしてコイツはたぶん狂ってもいる、危険だ。
 俺はコイツの兄だ、責任を取るべきだ。
 突き動かされる理解不能な衝動に駆られ、エディアは敵意も無くリゼルと心中しようとした。
 リゼルの眼は見えない。周囲を取り囲む足音に眼を閉じながら、叫びたくなる気持ちを抑えて、死を待った。
 銃を構える音、子供だぞ、との声。無論軍人はそんなことで躊躇しない。トリスト人だ、殺しとけ。その言葉で、相手がクレリアの軍隊だと知った。
「待て」
 声が響いた、周囲に静寂が満ちる。
「子供には罪は無い、敵意が無いなら、殺す事は無い」
 エディアはリゼルの銃を抑えたまま、尚且つリゼルの顔を見ないように振り返った。
 意識がぼやける。俺は今、起きようとしているのか。
「銃をこちらに、大丈夫だ、君たちの面倒は私が見る」
 リゼルの腕から力が抜ける。そっと屈みこんで、その銃を取り上げた男が、ゆっくりと立ち上がり、父親の様な笑みを浮かべて、銃を持っていない手を差し伸べた。
「君たちはこれから、私とクレリアの子供だ」

 リミドール……父さ……ん……

 浅い眠りだったようだ。
 上体を起こして、髪をぐしゃぐしゃにする。
 水が欲しい。欲しいが、そのまえにシャワーが欲しい。
 洗濯したての軍服を抱え、ジャケットを放った。
 あの時のツケを、払わなくてはならなくなれば、俺は支払いを放棄しようかとも思う。
 二度と、あいつを裏切りたくない。死んで、全てから逃げるか。
 ご迷惑をおかけします、隊長。そう呟いた。
2011/02/28(Mon)03:30:19 公開 / 寝不足
■この作品の著作権は寝不足さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
どうも、投稿するのは2回目となるような気がする寝不足です。
拙い文章ではありますが読んで頂けたのなら、幸いです。
一応ではありますが、長編予定です、続きます。
ただ、長編を書いたことは初めてなので、ちゃんとした作品にできるかは不安があります。
5月4日23時、誤字発見につき修正しました。
6月18日 追加です。19日、誤字訂正です。
8月25日 修正と追加です。
11月30日 修正と追加です。
2月28日 追加です。

よろしければ、指摘や、評価など、お願いします。
この作品に対する感想 - 昇順
こんにちは! 羽堕です♪
 リミドールの「負けても勝っても正義でなくては」という言葉は、本当に意味のある戦争だったのかなど考えさせられる言葉だなって思いました。そしてセオームが背負わされた正当な理由の為の使命と、やりきれなさを感じます。
 リゼルが子供の頃は戦争の最中で、母がいなくなった寂しさよりも、どう生き残るかを先ず考えなくてはいけないというのは、大変な時を生きて来たんだなと。そして出会ったエディアへと移るのも自然だったように思います。
 戦争を終わらせる為に同族を殺しさらしものにした英雄の娘グロリアと、その中に家族がいたエディアとの同士としての感情など複雑な物があるんだろうなと。そして戦争をとめようとしているグロリア達や、エディアの元に届いた連絡と、どうなるのか期待しています!
 「あくまで」が「悪魔で」になっている所がありました。
であ続きを楽しみにしています♪
2010/05/10(Mon)14:56:310点羽堕
返信遅れて申し訳ないです。
恐らく『あくまで』の訂正終了しました。
表現上、漢字とひらがなで同一の意味と思ってしまっていたので、直していきたいと思います。
2010/08/28(Sat)01:39:190点寝不足
作品を読ませていただきました。非常に丁寧に書かれていて良かったです。状況説明の部分も普通なら冗長になりやすい部分なのですが、冗長感を感じさせませんでした。題材的に非常に重いから意識して書いているのかもしれませんが、全体的に淡々としている印象を受けました。では、次回更新を期待しています。
2010/09/12(Sun)11:44:460点甘木
合計0点
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