- 『フィアンセ(仮』 作者:浅田明守 / ショート*2 恋愛小説
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親しすぎる間柄に恋は生まれず、あるのはただ相手を想う愛情だけ……
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三月。暦の上では春になるけれども、まだまだ冬の寒さが残っている時期。雨が降ればその雨粒は身を切るように冷たく、傘を持たずに外を歩けば風邪をひくのは必至な今日この頃、私は全身ずぶ濡れになりながら冷たい雨の中を歩いていた。
きっと目は真っ赤になっているだろう。もうどれほど雨の中にいるのかわからない。もうどれほどの間涙を流しているのかわからない。頬を流れる雫が空から降ってきたものか、あるいは自分の目から零れ落ちたものなのか、そんなことはもうとうにわからなくなっていた。
昔から雨は嫌いだった。ジメジメするし、髪は膨らむし、濡れるし、滑るし、どことなく気分も暗くなってしまうから。でも今日だけは嫌いなはずの雨が少しだけありがたかった。だって、きっと私は酷い顔をしている。涙と鼻水で顔はグシャグシャで、目は擦りすぎで真っ赤にはれあがっていて……。でも、この雨ならそんな顔を見られなくて済む。涙と鼻水で顔がグシャグシャになっていても雨がすべて流してくれる。
「もう、恋なんか……」
もう二度と恋なんてするものか。この言葉を口にしたのはこれで幾度目だろうか。きっと友人にこの言葉を言えば『あんたのそれ、今回で何度目よ』と笑われるか呆れられるかするだろう。つまりそれほどの数、私は失恋をし、その度に言葉を言い、そして破ってきた。もってせいぜい一ヶ月、短ければ一週間で私は恋に餓え、新しい誰かを探してきた。
今回はほんとに本気だ。そう自分に言い聞かせるのもまたいつも通り。そんな自分が嫌で仕方がない。
酷い失恋をした。より正確に言えば酷い捨てられ方をされた。友人曰く私は“男運がない”らしいが、正確に言えば少し違う。
私は昔から自分に素直じゃなかった。好きなものを嫌いと言い、嫌いなものを好きだと言い張った。本当は真面目な人が好みなのにちゃらちゃらした人と付き合ったり、一人は寂しい癖に率先して家を出てみたり。
だから失恋するといつも自分を見失う。なんでそんな人を好きになって、何で自分がこんなに傷ついているのかがわからなくなる。
私を捨てた男は二つ年下のフリーターで、ふらりと気ままにバイトをしては稼いだお金すべてをパチンコか競馬につぎ込み、勝ったり負けたりしているような男だった。ルックスはそこそこだったけど頭はお世辞にもいいとは言い難く、人に気の一つも利かせられないようなダメ男。唯一の取り柄と言えば、アソコが人より大きくてセックスが人より少し上手いということぐらい。本当に、なんであんな男のためにアパートを借りて同棲生活までしていたのか理解できない。
アパートは男と別れたその日のうちに解約した。荷物はすべて実家に送り、それからしばらくの間は会社と友人の家で寝泊まりしていた。
男と別れて一週間が経って、ようやく実家に帰る決心がついた時、ふとアパートの合鍵をまだ返していないことに気がついた。
別に放っておいてもよかったのだけれども、そのまま持っているのも嫌だし、かといってカギを捨ててしまうというのもなんとなく後味が悪い。
だからもう一度、あのアパートに足を運んだのだ。もう二度と近づくまいと思っていたあのアパートに……。
もうあのことは吹っ切れた、そう思っていた。事実カギを返すところまでは私の心が揺らぐことはなかった。
でも、違った。吹っ切れてなんかいなかった。
カギを返し終えて、最後にもう一度だけ見ておこうとアパートを振り返った。もう大丈夫だと、このアパートを見てもきっと動揺なんかしないと、そう思っていた。
結果としては、私はアパートを振り返ったことを深く後悔することになった。
もうとうに流れつくしたと思っていた涙が次から次へと零れ落ちてきた。もう降り切ったと思っていた心のもやもやがまた出てきて、どうしたらいいのかわからなくなった。それはきっと悔し涙。捨てられたことに対するものではなくて、自分に素直になれない“わたし”に対する悔し涙。
冷たい雨が降り始めた時、私は顔を涙と鼻水でグシャグシャにしながら人通りの少ない道を俯いて歩いていた。
身体は冷え切っていて震えが止まらなかった。そのくせ頭は熱くてぼーっとしていた。
「いっそこのまま死ねたら……」
無意識のうちにそう呟いていた。でもその呟きは私にとって凄く、魅力的な提案に思えた。
「このまま……死ねたら」
「なに言ってんだ馬鹿」
絶えず私を打ち続けていた雨がふっと途切れ、私の呟きに声が重ねられる。それと同時に頭を硬いもので強く殴られる。
「その気もないやつが、死ぬとか言うな」
どこか不機嫌そうな無骨な声。それは酷く懐かしい声だった。
「ユウ君……? なんでこんなところに」
「人の家の前で言うセリフか、それ?」
言われて顔を上げる。店先に出た古びた本棚、そこに並ぶ薄汚れた本の数々。そして込山古本書店と書かれた看板。
ふらふらと歩いているうちに実家の近くまで来ていたようだ。
「とりあえず、入ってけ。震えてんじゃねえか」
「……確かに、少し寒いわ」
「ったり前だ。さっさと……って、おい!」
懐かしい人と出会ったからだろうか、緊張の糸か切れたように身体から力が抜けていった。なぜだろうか、身体は冷え切っていて、震えは止まらなくて、胸のもやもやは酷くなる一方なのに……どうしてか彼の声を聞いたとたんにどうしてか安心していた。
優しい誰かの温かさを感じながら、私はゆっくりと意識を手放した。
目が覚めたら私は布団の中で眠らされていた。
最初に見たのは今更な感じの裸の白熱電球に埃除けの笠が付けられているだけの古臭い照明器具。ドアなんてものはなくて部屋を仕切っているのは全体に黄ばんでところどころに穴があいている障子の引き戸だった。部屋中に畳みと線香の香りが充満していてどことなくおばあちゃんの家を思い出す。部屋の端にある柱には子供の身長でも記録していたのか、無数の傷が平行に走っている。その柱の側には歴史を感じさせるタンスが置いてある。
そこはとても懐かしい、よく見知った家の、よく見知った人の部屋だった。
「目、覚めたか?」
障子の引き戸を開けて彼がのしのしと入ってきた。どうでもいい話だが、のしのしという足音がこれほど似合う人を私は知らなかった。別段身体が大きいとかそういう訳ではないのだけど、肩幅が人並み以上に大きいせいか、それとも足が普通の人より二回りも大きいせいか、どうしても彼の足音はのしのしというイメージが私の中にはあった。
「人の顔見て何笑ってんだよ」
手に持っていたお盆をそっと畳の上に置きながら不機嫌そうな声を出す。お盆の上にある土鍋からはおいしそうな匂いが漂ってきて私の食欲を誘った。
笑っていた……そうか、私笑ってたんだ。さっきまであんなに悲しくて仕方がなかったのに、彼の顔を見た途端になんだかほっとしちゃったんだ……
「ここ……ユウ君の部屋?」
「そうだよ。お前、いきなり倒れたからな。あんな雨の中、傘も差さずに突っ立ってるからだ」
さっきよりずっと不機嫌そうな声で文句を言う。でもその口調とは裏腹に顔はどこかほっとしているように見えた。
……心配、してくれてたんだ。
「寝てる間に何かしなかったでしょうね」
「なんもしねぇよ。風邪がうつる」
自分でも悪い癖だとはわかっていたが、そうやって自分を心配してくれる人をついついからかってしまう。強がり、なのかもしれない。
もっとも彼はそんな私の癖にも慣れた様子で私のからかいを簡単にあしらってしまう。それが何となく面白くなくて、
「ふーん……風邪引いてなかったら何かしてたんだ」
ついつい重箱の隅をつつくような意地悪をしてしまう。
彼がうろたえる姿を一度でいいから見てみたい、というのもあった。だって、それこそ幼稚園のころから付き合いがあるのに私は未だに彼がおろおろしている姿を見たことがない。私はこんなにもしょっちゅう取り乱しておろおろしていると言うのに……。何となく、不公平だ。
「風邪引いてなくても何もしてないよ」
でも彼はそんな私の意地悪も顔色一つ変えずにいつもの調子で言葉を返してくる。
「……フェアじゃないだろ? お前の意識がないのに何かするとか」
「あっ……う……」
ずるい、と思った。そんなセリフをさらりと言ってしまうなんて。しかもいつも無愛想で顔色なんて変わった試しがないのに、こういうときに限って赤くなるとか……。そんな顔をされたら私、何にも言えなくなっちゃう……。
「……バカ」
結局私は小さく呟いてそっぽを向くしかない。
「雨の中、傘もささずに歩くようなやつにバカと言われたくないな」
憮然とした口調で言いながら私の頭に手を乗せ、グシャグシャと叱るように乱暴に髪をかき混ぜる。
それは彼が私に何かお説教をするときの癖みたいなものだった。頭の上に手を乗せて乱暴に髪をかき混ぜる。それをされるとどうにも身体の力が抜けてしまって抵抗できなくなってしまう。
「そもそもお前はいつも無茶をしすぎなんだ。五メートルもある橋の上から川に飛び込んでみたり、『私はこんな田舎にいていい人材じゃない』とか言って無一文で家出してみたり、片思いの相手の好みが知的な女性だからと言って三日三晩一睡もせずに勉強してみたり。挙句に雨の中を傘なしで散歩して風邪か? 大方男にでも振られたんだろ」
彼の手のせいで抵抗できなくなった私にずけずけと人の痛いところを言ってくる。しかもそれがあんまり嫌じゃないというのがまた困りものだ。
この感覚はあれだ。子供のころ無茶をやって怪我をして、お父さんに叱られた時の感覚に似ている。怒っているのは本当に私のことを心配しているからだというのが良くわかる叱り方だ。
そんな怒り方をされては、どんなに強がりたくても黙って叱られるしか、悔しいけれどもそうすることしか出来るはずがない。
そんな私を見て満足そうに彼が頷いているのがまた悔しい。まるで自分が無力な子供になったみたいだ。
「それ……中身はなに?」
だから腹立ち紛れに話題を変えてやった。
これ以上彼のペースで話を持って行かれるのは嫌だったし、何よりさっきからどうにもおいしそうな匂いがして気になって仕方がないのだ。そう言えば昨日のお昼にサンドウィッチを食べて以来、何も食べていなかった。今が何時なのかはわからないけど少なくとも朝の八時ということはないだろう。
一度自身の空腹を認識してしまえば我慢が出来なくなるのが人というものだ。
はっきり言って今は目の前のおいしそうな匂いがする何かを食べることしか頭になかった。
「粥だよ。風邪人にはこれが一番だ」
「……牛乳で炊いたやつじゃないと許さない」
「承知しているよ」
そう言って土鍋の蓋をあける。途端にミルクの甘い香りが辺りに漂い、食欲をそそられた私のお腹が「ぐぅ」と盛大に音を鳴らした。
「ほら、食え。食ってさっさと風邪直せ」
ぶっきらぼうな口調で言いながらミルク粥を取り分けてくれる。
取り分けられたミルク粥は、味が薄い上に少し芯が残っていて、そのくせ所々焦げていたけれど、なぜだろうか、とても美味しく感じられた。
「……帰って来い。いい加減に意地を張るな」
「意地じゃないもん。それに……どうせ帰っても誰も私のことなんて……」
「俺が待っている」
意外な彼の言葉に思わず顔をまじまじと見てしまう。その顔はどこまでも真面目で、からかいの色も誤魔化しの色もない。
嫌じゃなかった。きっと他の男が言えばキザったらしくて胸やけがしそうなセリフなのに、彼が言うとどうしてか心地よい。
あぁ……そうか。わかってしまった。
「そんなセリフ、よく真顔で言えるわね」
「年も年だしな。家の親がそろそろ身を固めろって煩いんだ」
「それで手頃な女に手を出そうって? 私も随分軽く見られたものね」
違う。そんなことを言いたい訳じゃない。
心ではそう思っていても口から出るのは正反対の言葉ばかり。彼を傷つけるつもりなんてなかった。彼の言葉が不快な訳じゃなかった。それどころか嬉しいくらいだ。
それなのに私の口から出るのは彼を傷つける酷い言葉ばかり。
どこまで素直じゃないんだろう、どうして“わたし”は素直になれないのだろう。これじゃあ、彼に嫌われても仕方がない……
それなのに、
「お前以外の女に言い寄るつもりはない」
彼は怒ることも、傷つくこともせず、ただまっすぐに私の目を見つめていた。
「本当に……ズルイ男ね」
「何をいまさら言ってるんだ」
そう言えば、彼は昔からそうだった。昔から“わたし”は素直じゃなくて、いつも口にするのは私の本心とは真逆のことばかり。そんな中、彼だけは私の心を汲んでくれる。私が何を言っても顔色一つ変えず、私の本心を探ってくる。
そんな彼が、私はずっと大好きで、大嫌いだった。
「もう……恋なんてしないって、そう決めたのよ」
「恋なんてする必要はないだろ?」
当たり前のように彼が言ってくる。
恋は必要ない。その言葉に込められた意味を噛みしめる。
きっと私はずっと彼に甘えていたのだろう。だから彼といるとこんなにも落ち着く。さっきまで放心状態で街を歩いていたはずなのに、少し彼と話しただけでもうこんなに元気になっていた。
それはきっと、彼が誰よりも優しかったから。そして私が……
「恋は互いをよく知らない者同士がするもんだ」
そう言いながら強引に私の手に小さく光る指輪を握らせた。
指輪は渡す。これをどの指にはめるかはお前に任せる。そんなぶっきらぼうな彼の声が聞こえてくるようだった。
「確かに……私たちは恋をするには互いを知りすぎているわね。恋人、というより家族って言った方がしっくりくるぐらい」
彼から受け取った指輪を手の上で弄ぶ。
どこの指にはめるかはもう決めてある。でも素直にはめるのも何か負けたみたいでおもしろくない。
いや、何に負けたのかは知らないけどね。
「ねえ」
だから私は、
「あなたがはめてくれる?」
とびっきりの笑顔で彼に最後の意地悪を言うのだった……
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2010/04/24(Sat)23:27:04 公開 / 浅田明守
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■作者からのメッセージ
初めての方は初めまして、そうでない方はこんにちは、そして現在投稿中の小説を読んでくださっている方には申し訳ありません。現在絶賛書かなインフルエンザ発症中の浅田明守です。
まずはお詫びから。連続投稿の方は私の個人的な都合によりしばらくの間更新出来なくなってしまいました。本当に申し訳ないです。別にネタに詰まって放り出した、とかではないのでいつかまた更新すると思われます(汗
さて、今回の作品ですが……はっきり言って丸っきりヤオイです。もちろん山なし落ちなし意味なしの意味で。
久々にショート、というか読み切りを書こうとしたらこんな感じに……ぶっちゃけた話タイトルもまだ仮ですし。なんかどうにもいいタイトルが思いつかなくて(汗
お目汚しですが厳しい目で批評して頂ければ幸いです。