- 『『ごみ箱を空にする』』 作者:アイ / リアル・現代 ショート*2
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全角10095文字
容量20190 bytes
原稿用紙約28.05枚
家出した中学生・遥を拾った男。彼女は詮索もしない、理解を示そうともしないこの男に、愚痴まじりの悩みを打ち明ける。なくしたはずの夢を、追いかけていると……。
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小雨がやまない。小さな水の粒が地面を叩いて、さらさらと控えめな音を立てる。魂ごと乾いた街をゆるやかに潤おしていく、恵みの雨。同時に人の痛みを増幅させる雨。閑静な市街を丸ごと包み、夕暮れを濡らす。
そのとき、遥は薄暗い住宅地にそびえる見知らぬマンションの玄関で雨宿りをしていた。オートロック式の、けれど古そうなマンション。中から人が出てくる気配はなく、代わりに仕事帰りらしい人たちが自動ドアをくぐる前、彼女を一瞥して興味がなさそうに通り過ぎる。傘を閉じてそれを軽く振りながら。彼らにとって遥は、そのへんに立っている銅像か何かのようだった。
怒りが収まらない。叫んだから喉がまだ痛い。張られた頬も痛い。訳が分からない。考えるのが面倒くさい。
モヤモヤを残したまま飛び出したはいいが、特に行き先もなく、泊めてくれるような友人もいない。走ったせいで息切れはするし、最悪だ。これからどうすればいいんだろう。そんなことをぼんやりと考えながら空を見あげた。
どんよりとタールのように濁った空と、僅かに漏れる夕日の光。霧のような小雨。通り雨ではなさそうだし、そう簡単にはやまないだろう。遥は携帯電話を開き、時間とメールをチェックする。誰からも連絡がない。つながりが、ない。この宇宙の中で自分だけがたった一人、何者とも関係を持たない存在としてぽつんと立っているような、そんな不思議な孤独感に包まれた。
たぶん、周囲に人がいるからこそ孤独なんだと思う。誰もいなかったら孤独を孤独たるものとして感じることがないのに、自分の周りに大勢の人がいて、なおかつ彼らが自分を素どおりしていくと、孤独は増す。赤の他人と深くかかわることの稀なる日本人の性質。いつかはミラノかどこかに留学して絵の勉強をしたいと思っている遙は、そういう国民性が大嫌いだった。
「重いなあ……」
ため息と共にそう呟く。何が重いのか、自分でも分からなかった。空気中の水分を吸って重苦しく感じる服か、そもそもの湿度なのか、あるいは自分のこの心境か。親に夢を否定され、ひっぱたかれ、すねて家出。そんな自分の幼さに恥ずかしさを覚えるものの、親にわめいた言葉の数々に間違いはなかったと信じている。
世の中、特に親のすねをかじって生きている人間ほど、自分の素直な気持ちを言葉に出したくてしょうがない。しかし、望んで親のすねかじりの年齢でいるわけじゃないのに、気持ちを出せないように社会から抑圧を受けている。
そんなもの、まるで人形だ。どんなにつらくても苦しくても、笑ってそこに座っているのが「らしい」と言われる世界。そもそもの「らしい」って何だろう。平凡な成績の遥には分からない。
なくしたものがどこにあるのか分からないから、探せない。存在することの証明が一番難しいのだ、南京大虐殺のように。あるのかどうかも分からないものを探すなんて、やる意味があるのだろうか。
とにかく、重いのだ。その重さが心臓を圧迫する。
床が濡れていない場所を探し、そこに座った。膝を抱えて地面を見つめる。小雨はコンクリートに降りてははじけ、地面の色をほんの少しだけ濃くする。それらがじわじわと集まりくぼんでいる場所に溜まっていく。同じ学校の生徒が何人か目の前を通り過ぎて行ったが、誰も遙に目を向けようとしない。それもそうだ。人間は異常を感じる他人には一切かかわろうとしない生き物なのだから。一部を除き。
これからどうしよう。そう思い再び空を見あげた。相変わらず吸殻色の空からは絶え間なく水滴が重力にしたがって落ちてくる。たくさんの雫たちが身を寄せ合っている。
空を眺めていると、ふと視界の端に誰かの影が写った。雨で濡れた顔をそっちへ向けると、傘をさした二十代前半ほどの男がショルダーバッグを肩からさげてそこに立っていた。チェックのシャツに白のトレンチコートを着ていて、背が高い。好奇の目というより、ダンボールの中で鳴いている捨て猫を見つけた時のような目をしている。遥は、何だこいつ、と思い彼を睨んだ。イライラしている時に見知らぬ人間とかかわりたくない。
しかし男は何も言わず、傘を閉じてマンションの玄関先でぱらぱらとそれを振って水滴を払う。このまま私を無視して中に入ってくれたら、と願ったがそうもいかないらしく、男が悪意の見えない笑みを浮かべて遥を見たのでぎょっとした。
「君、高校生?」
男の口から低い声が発せられる。別に身元を調べたいとか警察に引き渡したいとかいう気持ちがないと悟り、視線を彼からそらして、中学生、と答えた。あまり嬉しくない言葉だ。
傘をくるくる回してまとめていた男は、あーそこの塚中の生徒の子か、と呟いていた。なんとなくむかつく物言いだが、どうせすぐどこかに行くだろうと思い、このまま腰をあげて雨の中に飛び出して逃げる気にはならなかった。
中に入るなら入るで早くどっかに消えてくれ。うんざりしかけていた遥を見て、男がマンションの玄関を指さした。
「びしょ濡れじゃないか。タオル貸してあげるから、中に入りなよ」
特に下心のなさそうな口調。男はにこやかに笑っている。
遥は一瞬たじろいだ。もちろん、全く知らない赤の他人の家にあがりこむなど、命を捨てに行っているようなものだ。何か犯罪に巻き込まれても文句は言えない。しかし、家出中でもはや何もかもどうでも良くなっていた遥は、殺されようが犯されようがもういいや、と諦めて肩を落とした。
このとき、本当に心から意気消沈していた。生きることそのものに意味を見いだせなくなるほど、ひどく落ち込んでいた。そういう心の隙間に付け込むともろくも崩れ去ってしまうのが人間の弱さで、それが社会を動かしている。全く、面白くもない生き物。遥は顔に出さず苦笑し、立ち上がって男を真正面から見つめた。
男は笑っただけで何も言わなかった。
中学二年生の時、合唱コンクールで井上陽水を歌った。「探し物は何ですか、見つけにくいものですか」と。あのときは何も思わなかったが、今になってこのフレーズがひどく重く圧しかかってくる。
探し物。いったい何だろう。私が追い求めた夢? 希望? あこがれ? どんなものを探して私が今、家出をしてまでさまよっているのか分からないけれど、とにかく大事なものなのだ。どこかに失くしてしまった、それを手放せば生きてゆけないライフラインだったのだ。
男から名前を尋ねられたので正直に答えた。
「へえ、遥っていうんだ。かわいい名前だね。下手すれば“ゆう”って読めそうな漢字だけど」
しかし、男は名前を教えようとしなかった。彼が洗面所から持ってきてくれたバスタオルで髪を拭きながら、心の中で文句を言った。私だけ名乗って、馬鹿みたい。彼の部屋に入る前、ドアの前で「林」というネームプレートを見かけたが、それが本名なのかどうかは分からない。
見てくれはきれいなマンションだったのに、内装はそうでもなかった。しかし、一人暮らしの男に部屋三つは少し贅沢じゃないか。遥はそう思ったが口には出さない。リヴィングのソファに座らせてもらい、ただひたすら髪を乱暴に拭いていた。口を引き結び、出来るだけ会話はしまいとした。
手の指が氷のように冷たいと思った時、男が火傷しそうなほど熱いコーヒーを持ってきてくれた。目の前にしゃがみ、優しくにっこりと笑ってカップを差し出している。遥は数秒、防空頭巾のように頭から垂らしたタオルを握りしめてコーヒーの湯気を見つめていたが、やがて両手で受け取り、ありがとう、と呟くように言った。
「こんな時間に、って言うほど夜遅くもないけど、あんなところで雨宿りしてるんだったら家の人に連絡して迎えに来てもらえばいいのに」
事情を何も知らない男は、私が傘を忘れて雨がやむのをあそこで待っていたものだと判断して勝手に話を進める。私はコーヒーを一口飲んだ後、違うの、と肩を落とした。濃いコーヒーの深みが心地良い。
「家出してるの。親と喧嘩して」
「あらら。まあ、年齢がそうさせるんだろうけど、何もこんな寒い時期に」
「だって、腹が立ったんだもの。思いっきり平手打ち食らって、自分の夢も何もかも全部否定されたんだから」遥が声を荒げて怒鳴ると、男は目を見開いて口に運ぼうとしたカップを下ろした。
別に他人に八つ当たりしたくてしてるわけじゃない。しかし何も知らない他人にとやこう言われるのも癪に障る。知らないからこそこんな物言いが出来るしそれは純粋な好意なんだろうが。
男はしばらくぽかんとしていたが、やがて声をあげて笑った。手に持ったコーヒーが零れそうになるほど笑う彼を見て眉をひそめ、子供っぽいな、と遥は呆れた。
「分かるよ、誰だって中学生ぐらいにゃそんな気持ちになるし、一度は親に自分の将来の夢について文句言われるんだよね」男はカップに口をつけながら話す。「自分に無力感を感じる。自分が何も取り柄のない人間で、生きててもしょうがないとか、何のために頑張ってるんだろうとか、そういうので悩むよね。だから追い求めたものをちょっとでも否定されると、人生終わったみたいな絶望を味わう。でもそんなものは通過駅だよ。そうやって疑問を持ちながら、ないものを探しながら、人間は生きていくものさ。ありきたりで陳腐なフォローで悪いね」
幼い少年のように笑うその男の声は、声優のようによく通って綺麗だった。遥は顔を赤らめ、綺麗な声だなあと思った。そんな彼女の心境など露知らず、男は隣に座って笑いかける。
「立派に思春期だねえ。別にそんなグダグダ悩むような大それたことじゃない。誰でも同じさ。俺だって、君ぐらいの年頃のときは、そんなふうにやたらと親相手に喧嘩したり、ちょっとしたことで世界の終わりかっていうぐらい落ち込んだりしてたんだから」
「誰でもって、そんなことないでしょう。厳しく育てられた家の子は、親の言うことをよく聞いて、親が提示した道を行くものじゃないの?」
「それは漫画やドラマの見すぎでしょ。俺も、いわゆる富裕層の人たちとの関わりはあったけど、放任な親だって金持ち層にはごろごろいる」
男は笑っていたが、目に若干の憂いを含んでいた。問いただしてみたかったが、今自分が親に反発して家出している身分であることを思い出してやめた。
親に反発する。誰だって、表に出さなくても必ず一度は抱く感情。
男は悩ましげな表情を浮かべる遥を、頬杖をついて眺めた。彼女のような年頃の少女が命をかけて悶々と考え込む思春期の煩悩や不安、絶望の数々も、彼の中ではとっくに忘却の彼方へすっ飛んでしまった些末なことだ。懐かしくもしょっぱい過去の痛み。目の前で絶望する少女を見て、初恋の相手やクラスで騒がしかった快活な女子、教室の隅で本を読んでいた女子を思い出す。今ここでかつて自分が遥のように思い悩んでいた中学時代を回顧しても、それらは今では鼻で笑ってしまうほど下らないことだし、その諸々を乗り越えてしまっているから余計にそう思う。しかし同時に、自分がそう言った過去の傷に対して果てしない無力感を背負いながら生きているから、「ああしていれば良かったのに」というそれらの後悔を元にいつだって遙かに突破口を提示できる。それはやはりエゴだと気づき、男は一人苦笑した。
昔の自分が絶対ああはなりたくないとかつて思っていた、「社会に出れば分かる」「まだ若いから」と言いながら子供を笑う大人に、今、なっている。出来ればそういった若者への上から目線などやりたくないのだが。エゴなのか自己満足のためなのか、己の身分をふりかざして、地位を獲得したがっているだけなのかも知れない。嫌な大人だ。
コップを軽く傾けてコーヒーを流し込む。その間も笑いが止まらなくて、吹き出しそうになった。肩が揺れる。己を滑稽だと思うことなんてもう限界まで回数を重ねた。
一人で己をあざ笑う男を見て、遥は羞恥に赤くなった。自分が親に反抗して家出していることを笑われていると思った。よく考えたら、さっきそこで知り合ったばかりの名前も分からない男にこんな身の上話をするなど、理性を保った状態でやることじゃない。いや、それ以前に、そんな男の部屋に上がり込むこと自体、何か間違っている。私はそのへんの頭が弱いビッチの女子中学生と違うんだ、馬鹿野郎、そんなに軽い女じゃない。
と、そこまで考えて愕然とした。いくら絶望の真っ只中にいるからって、何もかも放り出してこんなことをしているようじゃ、結局私だってビッチと変わらない。
中学生だから多少学校をサボっても退学にはならないし、最低限のことをしていれば卒業は出来るから。そんなふうに適当な理由をつけて、このままずっと家出していたいと思った。一瞬でも死が頭を掠めたが、こんなものは一時的なはしかみたいなものだとすぐに気づいて、そういった不吉な選択肢を選ぶことをやめた。そこは逃げ場所ではないからだ。結局、死は私の手からすべてを消してしまうだけで、自分自身の何かが変わるわけではない。
けれど、全身を蝕んでゆく、異常なまでに粘ついた喪失感。
突破口がそこにあると目が認知していても、それを振り払ってまで己に無理矢理引き寄せようとする、孤独感。
孤独とは心地よいものだ。そうすることで自分に酔っていようとする。
ぽろっ、と涙が眼からこぼれ、コーヒーを入れたカップの持ち手に落ちる。遥はあわてて目を人差指でこすり、口元を覆って鼻をすすった。みっともない鼻水の音が部屋に響く。その瞬間だけ、すべてが真っ白に見えた。生クリームが肌の表面でてろりと溶けているような空気。時が停止し、世界が微動だにしていないような錯覚。遥は声をあげて泣きたくなるのをぐっと堪え、気を紛らわすようにコーヒーを一気に飲んだ。
「そんなに慌てなくてもいいのに」
男は遥の手元をそっと押さえて苦笑した。遥は釈然としない表情のままで、下唇を噛みしめて男を睨んだ。
「どうせまた、若さゆえの過ちだーとか、思春期の心の闇だとかわけの分からないことを言うつもりでしょう? 私が失くしたものの大事さなんて、知らないくせに」
「大事さ? なんだか不思議な日本語を使うね。まあいいけど、大事さのレベルってなんだろうね。君にとって大事なものでも、その大事さは他人にとっては大したものじゃないかもしれない。僕がそうとはあえて言わないけど」
彼は変わらず肩をすくめて笑い、手をひらひらと振った。遥は一瞬、このとぼけた男の顔面を一発ぶん殴ってやりたい気持ちになったが、親切にしてもらった矢先にそんなことは出来ない。いや、感情だけで動くな、私! 必死で言い聞かせ、カップを垂直に傾けてわずかに残ったコーヒーをすする。詰まった水道管のような音がカップの内部で反響して、変な音が鳴った。
「自分が大事にしているものが大事だなんて、誰が決めたんだろうね。人は自分が大事にしてるものこそが自分のすべてだと思い込んでいて、でも他者も同じ価値観を持っているとは思わないんだよ。だから人の娘を殺すのと自分の娘が殺されるのとでは、状況は同じなのに当人によって憎しみやら何やらの感情がつきまとう具合が変わってくる。だから本当に大切なものなんて、この世界には何一つないんだよ。これぞ宇宙の真理、世界を動かすイデオロギーだ」
意味が分からない。
それだけじゃない、こいつは無駄に自信過剰だ。頭からイッてる気がする。大いなる偏見だが、家に引きこもってギャルゲーや漫画にどっぷり浸かり、想像力はたくましいがその内容は過激でエロくて男の夢が入りまくっている、常人の思考から数万マイル以上斜め上にふっとんだ考え方をするような類の人間に見えた。遥はやたらとエロい少女マンガを読む夢見がちな女もキモイと思うが、エロと萌えだけで構成されているアニメを見る男もまたキモイと思う。
自分にとって大切なものは、他者にとって大切なものじゃない。
それが確かだ。結局、人間はどれだけ絆が深くても、全く同じ気持ちを共有することはできない。
遥はため息をつき、ごちそうさま、と言ってコーヒーカップを男に返した。彼はふんわりと笑い、一旦流しに引っ込んでカップを片づけに行った。彼がそうしてる間に、私はぐるりと部屋を見渡した。綺麗に整頓された棚の本や飾りを眺めていると、ふと本の間で伏せて置かれている写真立てを見つけた。
遥は立ち上がり、本棚に歩み寄ってその写真立てを手に取った。写っているのは二人。一人は男の、さほど古くない最近の姿。橙のTシャツを着て、髪をワックスで立てている。
彼が肩を寄せているのは、まっすぐなストレートの黒髪が目を引く美しい女性だった。白いワンピースを身にまとい、清楚でおとなしい印象を受けた。二人とも、幸せの真っただ中にいることが一目で分かる純粋な笑顔を浮かべていて、一ミリの隙間もないほど身を寄せ合っていた。ほとんど夜の闇に消えてしまっているが、上海らしい美しい夜景を背景にしている。
遥がその女性の美しさに見入っていると、背後から男の手が伸びてきて再びぱたんと写真立てを棚に伏せてしまった。肩越しに振り返ると、彼が今にも泣きそうな笑顔でそこに立っている。
「俺の彼女だよ」消えてしまいそうな声でぽつりと呟く。「練炭自殺したんだ」
「ごめんなさい、私」
「いや、全く気にしてないわけじゃないけど、もう戻ってこないってことは十分分かってるから。人の命は二度と帰ってこない。どんなに探したって、一度失った命はもうそこでおしまいなんだ」
彼はそう話しながらどっかりとソファに腰を下ろし、ため息をついた。遥もその隣に座り、彼の表情を覗き込む。天井をぼんやりと見つめて、過去を回顧するような瞳をしていた。
「命は、戻らない」彼が繰り返すように語る。「親しい人を失うと必ず誰もが思うんだ。『帰ってきて』と。もちろんそんなことはありえない。アニメーションじゃないんだから。死んだ人間は、それっきりだ。この世の中で絶対唯一、消えてしまったら二度と復元不可能なのが命だね」
彼の視線が遥とかち合う。口元では笑っているが、目が充血している。遥は勝手に想像した。彼が恋人の死を目の当たりにし、絶望して膝をつき、天を仰いで幾度となく「戻ってきてくれ」と願う様を。愛する者の死。遥にはまだ経験がない。
「けれど不思議なもんだ。絶対に戻らない命を失ったらみんな戻ってくることを願うくせに、いつだって近くに転がっていてすぐに見つかるようなものを『もう戻ってこない』と諦めて放置する。ものによるけど、そういうパターンは多いよ。でもって、もう戻らないだろうと決め込んでると、ふと時間のスキマから出てきたりする。世の中は下手くそに出来てると思うよ。近くにあるからこそ、あえて手を出さないっていう人間もいるぐらいだしね。大事なものをなくしたフリだよ、バカバカしい」
男はくっくっと喉で笑って目を細めた。心の底からバカにしているような素振りに、私は茫然とした。こんなふうに世俗を蹴散らしてばかりの人間が、またここにも一人いようとは思わずにいたから。
「ねえ、ちょっと、それってどういう意味? あんたが結局何を言いたいのか、さっぱりわからないんだけど」
「そう? あまり本とか読まないタイプでしょ」
ほっといてくれ。遥は口に出さずに罵倒した。
「将来の夢を否定されて、家出してきたんでしょ。別にそれは悪いことじゃない。大いにそうやって暴れて遊んで、悩み苦しむべきなんだよ。その先に真理があるなんて宗教めいたことは言わないけど、もし乗り越えたりしたら自分で何かを見つけるスキルぐらいついてるはずだから」
「私は分かってるのよ」遥がソファから立ち上がって叫ぶ。「絵の修復士なんて、技術が要るでしょう? それを勉強したいから留学するっつってんのに、こっちの意見を全然聞かずに否定するお母さんもお母さんよ。そりゃ私は絵なんて趣味の範疇を超えてない。専門的な知識なんてまだまだパーよ。だからってちょっとした可能性でも滅しようとするのは一体何なの? 私はやりたいって言ってるのに、どうしてお父さんもお母さんも最初からダメとか言うわけ? それで私の夢を潰して、それでも親ぶってるつもりかっつの」
「夢を否定してるのは一体誰?」
「さっきから言ってるでしょ、全部否定しやがった私の親よ」遥はほとんど叫ぶように反論した。
「違うと思う」男は肩をすくめる。「否定してるのは遥ちゃんだよ。まあ君がどんなふうにお父さんやお母さんから言われたのか、俺は知る由もないけどね。けれど、自分の夢は自分の夢だ。君のご両親の夢じゃない。せいぜい期待程度にとどまってる。何も口出し出来ない。君が持ってるはずの将来の夢の可能性を否定してるのは、まぎれもない君自身だよ」
男の眼は至って真剣だった。遥はその場に硬直して動かない。
私が、私の夢を壊してる?
こいつバカじゃないの。
不明瞭な思考回路を整理させようと必死になる遥を差し置いて、彼はゆっくりと立ち上がって腰に手を当て、大きなため息をついた。
「僕の恋人は二度と戻らない。けれど君の夢なんかいくらでも戻ってくる、君次第でね。それをあえて拒否して悲劇のヒロインぶってるのは君だよ。絵師だか修復士だかの可能性なんか、中学生の女の子にはいくらでもあるのに……」
男はそのまま部屋の隅にあるパソコンデスクに歩み寄り、ディスプレイを人差指の第二関節でコンコンと小突いた。「新型のパソコンなんだ、結構高かったんだぜ」と誇らしげに語って笑う男を、遥はじっと見つめた。まだ考えがまとまらない、次に何を言って反論すべきか見つからない。
男は肩を落として苦笑し、遥から二メートル弱離れたパソコンデスクに寄りかかった。ベランダの向こうをぼんやりと見やる。雨足は弱まることも激しくなることもしないまま、来たときの霧のような滴を延々と降り注いでいた。ガラスに滴の跡がつく。黒いセロファンを重ねたような薄暗さに拍車がかかり、近隣の家の明かりがほとんど全てともされている。
「……人間っていうのは、孤独な方が楽なんだよ。だから無意識に、孤独でいることを選んでいる」
男がぽつりと口にした。それは数分前、雨雲を見上げる遥も感じたこと。
しばらく男は窓の外を見つめ、遥は窓の外を見つめる男を見つめていた。
「知ってるかい?」数秒の沈黙のあと、男が遥に向きなおって笑顔で語った。「このパソコンには当然、ごみ箱機能がある。パソコンのごみ箱は、所詮ごみ箱だ。ただのダストボックスだよ。あそこに何かを捨てに行ってもデータが消えてしまうわけじゃない。『ごみ箱を空にする』を押したって、ハードディスクから完全には消えない。あれはね、実はハードディスクごと物理的にぶち壊さないと、全部この中に残るんだよ。この世にとどまってしまう」
彼は静かに、ふふっと笑った。
「だけど、みんな『ごみ箱を空にする』を押すことで、データが完全に消えたと思ってる。だからもし必要なデータを消したら、泣き寝入りするしかないと思ってるんだ。メモリーの奥を漁って、消えたように見せかけたものを探しに行く奴なんて、早々いないのにさ」
マンションのドアをくぐり、空を見上げる。相変わらず、霧のようなしっとりとした雨は続いていた。遥は傘をゆっくりとひらき、頭上に掲げて外へ歩き出した。
男の部屋を出ていく直前、あげるよ、と言って彼は黒い大きな傘をくれた。遥が、走って帰るから大丈夫、と言うと彼は子供のように笑って傘の柄で遥の頭を小突いた。その時の彼の笑顔が妙に頭について離れない。
雨の中をうつむいて歩きながら、あの人は近いうちに死ぬんじゃないか、と遥は考えた。彼女は自分の洞察力などには自信がない。しかし、もしかしたらそれが正しいかも知れないと思い、だが引き返さなかった。
彼は彼で、ハードディスクの奥底に消えてしまったものを探しに行くのだろう。まともに挨拶もしないまま、タオルとお茶だけもらって出てきたことを少し後悔した。
同じ学校の生徒が何人か、グループになって早足に追い越して行く。足元で爆ぜる雨水と、人の寝息のように静かな雨音。どんよりと光を押し殺した灰色の空。あの分厚い雲の向こうにすら、恐ろしいまでに明るい太陽が鎮座しているのだ。
遥は傘を少し後ろにもたげ、視線を上げる。電線と古びた瓦の屋根と雨雲と湿った空気。
自分自身で、ボタンを押してしまったのかも知れない。それがどこに消えてしまうのかも知らずに投げ捨てた、自分の探しもの。
頬に滴が落ちる。それがすうっと肌を伝って首筋に流れる。あとから幾筋も幾筋も顔を濡らす雨水は、太陽を隠し地上を潤わせながら、遥の後悔すらも押し流していった。
ただ、空を見上げる。
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2010/03/30(Tue)23:52:55 公開 / アイ
■この作品の著作権はアイさんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
お世話になっております。アイです。
今でも結構気に入ってる少し古いお話を引っ張り出してきました。
自分自身を叱咤するために書いたもののはずが、見せる友達みんなから「それもそうだ」とうなずかれ、いつの間にやら私の預かり知らぬ場所で誰かを勇気付けたりしてしまったらしく、勝手に独り歩きしてくれやがった、手を離れた子供のようなやつです。
そんな深い意味、込めたつもりではないのですが(笑)。
実は主人公の遥と男はそれぞれ別の長編小説の準主人公で、ふと、この二人が出会ったらこんな会話になってただろうなと思って実践してみました。
遥は別の小説で、ミラノへの留学を親にめいっぱい反対され家出するのですが、そこから家に戻るまでの間という設定。
男はネームプレートのとおり林(リン)という在日二世の中国人で、恋人を失い練炭自殺で後追いをこころみるのですが、その小説に入る少し前の出来事という設定。
それが組み合わさってこんなことになりました。
それぞれの小説は原稿用紙500枚を超える大長編なのでとてもじゃないけれどここでご紹介することは出来ないと思います。申しわけありません。
けれど、これはこれで単独のお話として楽しんでいただけたらと思います。
最後までお読みくださりありがとうございました。
感想、批判、指摘などぜひぜひ頂けたら幸いです。