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『群神物語U〜玉水の巻〜3後半』 作者:玉里千尋 / リアル・現代 ファンタジー
全角61360.5文字
容量122721 bytes
原稿用紙約174.9枚
これは、神と人の世が混じり合う物語……。◎あらすじ◎ 二千年前。神の国、神の宝の伝説を信じて、大陸から、海を越え、オホヤシマに降り立ったニニギ。己が真に求めるものを探し、その魂は、八咫鏡の中へ。そして、周りの人間たちの運命もまた、急速に動いてゆく。……一方、現代日本の宮城県仙台市。サクヤヒメの血をひく上木美子は、いつもと変わらぬ日常を送っていた。菊水可南子から、京都修学旅行の課題に『伏流水』をテーマとするよう勧められた美子。そんな中、躑躅岡天満宮を訪れた初島圭吾と出会う。
※管理者様の許可を得て、投稿者名を「千尋」から「玉里千尋(たまさと・ちひろ)」に変更しました。

三 『夢、二』
(六分の四)
                         ◎◎
 このようにしてオシヒと別れてひと月半後、カコはふたたびイヅモの地を踏んだ。それは、秋の初め、ちょうど、昼と夜の長さが同じになるといわれている日のことであった。
 カコが一人で放り出されるようにして海岸を離れたときと異なり、ナガスネヒコが乗ったツガルの船が、イヅモの湾に入ると、すぐに林の中から大勢のニニギ軍の兵たちが、待ち構えていたかのようにわらわらと現れた。そして、そのうちの半分がいく艘もの小船に分かれ、湾内に漕ぎ出して、あっという間にナガスネヒコたちの船をとり囲んだ。
 そのうちの一艘に乗った大柄の兵士が、横柄な大声で船に向かって呼びかけた。
『迎えに来た。船の中のうち、代表の三名のみ上陸を許す。急ぎ下りて、この船に乗れ!』
 ツガルの者たちはこれを聞いて、みな頭に血が上ったが、ナガスネヒコは、イハオシとカコのみを選んで、ほかの者には船の中で待機するように命じた。そうして縄梯子を伝って下船し、尊大な態度の兵士の船に乗り換えた。そのほかの小船とツガルの帆船は、互いににらみ合うように、その場にとどまった。
 ナガスネヒコ、イハオシ、カコの三人が、砂浜に降り立つと、残りの歩兵たちがわっと槍を構えながら周りを囲んだので、イハオシは、腰に帯びた剣に手をかけながら、ナガスネヒコを自分の大きな体で隠した。そうして、目の前の数十人の武装した兵たちににらみをきかせながら、ナガスネヒコにささやいた。
『ナガスネヒコ様。やはり、これは罠ではないですか。どうみても、歓迎されているようには思えませぬぞ』
 ナガスネヒコは、のんびりと答えた。
『友人を出迎えるのとは、さすがにわけが違うからな。しかし、ここで私たちを殺しても、何の益もないことくらいは、相手も分かっているだろうよ』
 すると、兵たちの輪が割れ、一人の身なりの整った、青白い顔をした男が現れた。男は、ナガスネヒコたちに軽く頭を下げると、言った。
『これは、これは、ヒタカミの方々ですな。お初にお目にかかります。わたくしは、ニニギ様の臣下で、コヤネと申します。ニニギ様のご命令で、あなた様方を出迎えに参りました。……ヒタカミの国主というのは、どちら様でございますか』
 ナガスネヒコが、イハオシの背の影から一歩前に出た。
『私が、ヒタカミの国主であるナガスネヒコです』
 コヤネは、ナガスネヒコの頭から足先までにさっと視線を走らせた。
『あなたが、ナガスネヒコ様ですか。むろん、本物のヒタカミの国主様と思ってよろしいのでしょうな』
 イハオシの顔が、怒りで真っ赤になった。
『貴様、無礼であろう』
 コヤネは、ちろりとイハオシを見たあと、平然とした口調で言った。
『失礼はお許しを。しかし、わたくしは、あなた方を初めて見るのですから、確認しようがないのです。それではナガスネヒコ様。あなたが来られた、ということは、お頼みした例のものもお持ちいただいたと考えてよろしいですか』
 ナガスネヒコは黙って、後ろに控えているカコを示した。カコは、両手で大事そうに大きな荷物を抱えている。それは、白絹の布で何重にも包まれ、麻紐で堅く結えてある、大きな円盤状のものであった。コヤネは、うなずいた。
『結構です。それではニニギ様のもとにご案内しましょう。ご家来の方々もご一緒にどうぞ』
 コヤネは、そう言うと、くるりときびすを返し、どんどんと歩き始めた。ナガスネヒコがそのあとをついていくので、仕方なく、イハオシやカコも歩き始めた。さらにその周りを、ニニギ軍の兵たちが槍を持ったまま、ぞろぞろと一緒に移動していく。その様子を、木の上から、オシヒは眺めていた。
《あれが、ナガスネヒコか。カコもいるな。手に持っている大きな荷物が八咫鏡というわけか。ヒタカミの残りの者は船の中に足どめか。それにしても、よく三人だけで上陸したものだ。自殺行為だと分からないのか。とすると、あのナガスネヒコも本物ではないかも知れないな。まあ、いずれにしろ、八咫鏡がそれを証明してくれるだろう》
 オシヒはそれだけ見てとると、さっと木を下りて、集団の先を行き、イシコに報告をするため、走り出した。
 コヤネが急がせたおかげで、ニニギは真新しく大きな宮殿の中で、ナガスネヒコたちを迎えることができた。それは、樹齢三百年以上の太く真っ直ぐな木のみを惜しげもなく使った、横にも縦にも壮大な、贅沢な造りのものだった。ニニギがそれを見てクマソを思い出したように、建物全体が太い柱によって床が高々と持ち上げられており、その周りを睥睨するさまは、見る者に威圧感を感じさせた。
 ナガスネヒコたちは、まず小さな控えの間に通された。むろん、入口は数人の兵士で固められている。扉が閉められ、かんぬきまでかけられた、薄暗い部屋の中で、一行は白湯すらも出されず、床に座って待たされることになった。
『いよいよ、捕虜のごとくになってきましたな』
 イハオシが、むっとした表情で、言った。カコは、ナガスネヒコに対する申しわけなさで、身の置き所がないような気持ちのまま、縮こまって正座をしていた。膝の上には八咫鏡を乗せてある。
 ナガスネヒコは、自室にいるかのようにくつろいだ様子で座っていたが、ふとカコのほうを振り返ると、言った。
『カコ。お前の懐に入っているのは、何だ?』
 カコは、きょとんとして、ナガスネヒコの顔を仰いだ。そして、気がついたように服の中から小さな革袋を引っぱり出した。
『これのことでございましょうか』
 そしてカコは、袋の中のヒスイを見せた。イハオシが、
『ほう、なかなかいいヒスイではないか。お前のものか』
と訊いたので、カコは、それを手に入れたいきさつを二人に説明した。
『……そのようなわけで、このイヅモには、そのヌシロ出身の兄弟も囚われているのです。ヌシロにいる彼らの母親にこれを届けるよう頼まれたのですが、慌ただしくまたイヅモに来ることになり、ヌシロへの連絡船に預けることもできませんでした。しかし、もしかすると、またイヅモでその男に会えるかも知れないと思い、とりあえずこうして持ち歩いているのです』
 ナガスネヒコが、訊いた。
『その者は、何と名のったのだ?』
『はい。ヌシロのサグヲと申しておりました』
『サグヲか……』
 ナガスネヒコの目が、面白そうにきらりと光ったが、それにはカコは気づかなかった。
『ナガスネヒコ様。サグヲという者をご存じなのですか?』
 カコが訊ねると、ナガスネヒコは少し考えながら、答えた。
『いや。知らぬ。知らぬが、おそらくそれは持ち主に返してやったほうがいいだろう。私に預けてはくれぬか。サグヲとやらに渡るようにしてやろう』
 カコは、ほっとしたような表情を浮かべて、ナガスネヒコに袋ごとヒスイを渡した。
『ナガスネヒコ様自ら、そうして下さるなら、ありがたいことです。できれば、サグヲとその弟をイヅモから解放してやることができれば、それに越したことはないのですが。しかしともかく、ヌシロにいる母親よりも、異国に囚われているサグヲたちのほうが、いざというときのために、これを持っていたほうがよかったのではなかったかと、悩んでいたところなのです。できましたらサグヲに、ナガスネヒコ様からも励ましのお言葉を与えてやって下さい。必ず故郷にまた帰れる日が来ると』
 ナガスネヒコは微笑んで、カコからヒスイを受けとると、懐にしまった。イハオシが、ため息をついた。
『その、故郷に帰れる日とやらは、俺たちにも来るかどうか果たして分からんぞ。仲間たちは船の中に押しとどめられたまま。この建物は牢のように頑丈だ。いや、我らにとってはまさしく牢獄そのものだろう。生きてヒタカミの地をまた踏むことができるかどうか、はなはだ疑問だ。しかし、何としても、ナガスネヒコ様だけは、無事にお帰ししなければならんことだけは、分かっているが、はて、どうしたものか。剣だけはとり上げられなかったのが、せめてもの幸いだが……』
 ナガスネヒコはイハオシに向かってなだめるように、言った。
『イハオシ。今から帰りのことまで気苦労をしても仕方あるまい。まずはニニギと会うことが肝要だ。すべてはそれから動き出す。大丈夫だ。お前たちの天命はまだ切れておらぬ』
 イハオシは難しい顔で、ナガスネヒコに言った。
『ナガスネヒコ様。私どもの命など、どうでもよいのです。肝心なのは、ふたたびヒタカミに、ナガスネヒコ様と八咫鏡を戻すことができるかどうか、なのです。私とカコの天命が切れていないというお言葉が、あなた様をお守りする我らの役目をまっとうできるということを意味しているのなら、よいのですが』
 その時、扉が開き、落ち着いた物腰の軍人ふうの男が部屋に入って来た。そして、ちょっと部屋の入り口にたたずむと、少し驚いたような表情を浮かべた。ヒタカミの国主とその側近が、何もない部屋にただ座りこんでいる様子が意外だったのだ。しかし、すぐに床の上にひざまずくと、丁寧にお辞儀をしたあとで、言った。
『長らくお待たせしまして申しわけありません。私は左大将のイシコと申します。我が王、ニニギの用意が整いましたのでお迎えに参りました。ヒタカミのナガスネヒコ王におかれましては、ご足労ではございますが、八咫鏡とともに、私と一緒に王の間へおいでいただくよう、お願いいたします』
『よし、行こう』
 イハオシがはりきって立ち上がろうとすると、イシコは気の毒そうに、言った。
『申しわけありませんが、私がご案内できるのは、ナガスネヒコ王だけなのです。ご家来の方は、ここでお待ちください』
 イハオシは、堪忍袋の緒が切れたように大声を出した。
『おい。我らを馬鹿にするのもいい加減にしろ。オホヤシロのヒタカミ王ともあろう方を、こんな小部屋に押し籠めたかと思えば、供も連れずに敵の面前に引き出そうとするなどと。そもそも、我らにはお前ら侵略者どもの理不尽な要求を受け入れる余地など、本来まったくないところ、イヅモとの長年の友情ゆえに、あえて怒りを呑み、しかも国主自ら足を運んでくださったのだぞ。それとも大陸人とは、最低の礼儀もわきまえぬような、それほどに野蛮な者どもなのか』
 イシコは、真っ赤になったが、それは怒りというより、恥ずかしさのためだった。しかし、言葉少なに、
『なにとぞ、ご容赦を』
と頭をもう一度下げた。
 ナガスネヒコは、ゆったりと立ち上がって、カコから八咫鏡を受けとり、イシコのほうへ歩き出しながら、言った。
『イハオシ、静まれ。ここでカコとおとなしく待っているのだ。ここに来ることは、私が自分で望んだこと。ニニギ王と同じくらいに、私にもこの時が必要なのだ。お前たちは邪魔になるだけだ。私は必ずまた戻る。分かったな』
 イハオシは、しぶしぶカコの隣に座り直し、ナガスネヒコを見上げた。ナガスネヒコの目は、言葉の厳しさとは裏腹に、いつものように優しく輝いていた。イハオシは、イシコをにらむと、言った。
『イシコ殿とやら、それでは我が王をお預けしますぞ。……しかし、これだけは覚えておかれるがいい。もし、ナガスネヒコ様が戻らねば、ヒタカミ人はその最後の一滴の血が流れきるまで、復讐することをあきめないということを。おぬしらの流儀はどうか知らぬが、我らの国では、王に対する敬意はまだ失われていないのだ』
 イシコは、イハオシの目を見て、答えた。
『肝に銘じておきましょう、イハオシ殿。しかし言わせていただければ、我らの王への忠誠心も、貴殿らに劣るとは思っておりませぬ』
 そうしてイシコは立ち上がると、八咫鏡をかかえたナガスネヒコを部屋の外へとうながした。
 イハオシとカコの目の前でふたたび扉が閉まり、ナガスネヒコの後ろ姿も消えた。
                         ◎◎
 伐り出したばかりの白木のすがすがしい匂いが漂う広々とした長い廊下を歩きながら、ナガスネヒコはまるで新居に招かれた友人のように、珍しげに辺りを見回し、イシコに親しげな口調で話しかけた。
『イシコ将軍。この建物は、ニニギ殿が新しく建てられたのでしょうね。以前はありませんでしたから。ずいぶん立派なものですね。しかし、様式はむしろクマソのものに近いようですが、設計はどなたがなさったのですか』
 イシコは、何故かひどく気持ちがくつろぐのを感じながら、あえて気を引きしめるように答えた。
『さあ、私は建築の方面にはたずさわってはいませんので……。しかし、おそらくコヤネという者が指揮をとっていたのだと思います』
『ほう。コヤネ殿というのは、最初に私どもをここまで案内してくださった、あの痩せた文人ふうの方ですね。わずかな時間で、クマソの建物をイヅモの地に再現させるとは、コヤネ殿は、なかなか多才な方のようですね。ニニギ王には、イシコ将軍を始めとして、優秀な方々が多く仕えておられるようで、結構なことです』
 イシコは、ちょっとうつむいて、小さな声で言った。
『ありがとうございます。しかし、私の身分は先ほど名のったとおり、将軍ではなく、大将でございますが』
 ナガスネヒコは、それにさらりと返した。
『そうですか。しかし、私はてっきり、イシコ殿はつい最近までは、将軍の地位におられたのだろうという気がしておりましたので、つい口をついて出てしまいました』
 イシコが驚いてナガスネヒコを見やると、ナガスネヒコは、にっこりと微笑んで、イシコの顔を横からのぞきこんだ。イシコは、激しい魅力を感じて、急いで目をそらした。
 ナガスネヒコは、またぶらぶらと散歩をするようなふうで、しばらく目線をあちこちにやりつつ、イシコの横を並んで歩いていたが、ふと思い出したように、また口を開いた。
『ところで、イシコ殿の部下で、サグヲという者はおりませんか。カコがここを出る前に会ったそうですが』
『サグヲ、ですか。さあ、心あたりはありませんが』
 ナガスネヒコは、イシコの返事に構わず、カコから受けとった革袋をさし出した。
『おそらくサグヲとは偽名でしょう。ともかく、その者からカコがこれを預かったのです。イシコ殿から返してやってください』
 イシコは戸惑ったように、袋を受けとった。
『返せと申されましても、私にもその者が誰かも分かりませんのに……』
『大丈夫です。それをお持ちになっていれば、自然と持ち主がイシコ殿の前に現れるでしょうから。さて、あそこが、ニニギ王がおられる場所でしょうか』
 イシコが慌てて顔を上げると、確かにすでに王の間のすぐ手前まで来ていた。廊下に立っていた二人の衛兵が、イシコに向かってうやうやしく敬礼した。
『イシコ様。ニニギ様がすでにお待ちです』
 イシコは、無意識に革袋を懐に突っこむと、衛兵の開けた道を通って、小さな控えの間に入った。そして、奥の大きな扉の前に立ち、大声で、
『ニニギ様。イシコでございます。ヒタカミのナガスネヒコ王をお連れいたしました』
と言った。そして重い扉を開けて、ナガスネヒコとともに部屋に入った。
 ニニギは、確かに在室していた。そこは、先ほどナガスネヒコたちが入れられていた殺風景で窮屈な部屋と、何もかもが違っていた。広い室内の床や壁には、大陸渡りと思われる色とりどりの絹が飾られ、美しく彫刻のほどこされた家具も、中原国ふうの豪華なものだった。おそらく、いずれも焼け残ったイヅモの宝物倉の中にあったものだろう。
 ニニギは、鮮やかな美しい色合いの絹の服を着て、一番立派な漆塗りの椅子に悠然と座っており、そのさまは確かに、王と呼ぶにふさわしい貫禄を備えていた。対してその前に座ったナガスネヒコは、何の飾りもない白っぽい麻の簡単な服を着て、同じ王という身分と呼ぶには、あまりにみすぼらしく見えた。
 しかし、ニニギの顔は何かに追いたてられているように顔色が悪く、その手はいらいらと服の袖を引っぱっていた。ナガスネヒコは机の上にそっと包んだ八咫鏡を置くと、静かな目線をニニギの顔に投げかけた。
『イシコ。もう下がってよい。俺が呼ぶまで、誰も中に入れるな』
 ニニギの言葉に、イシコは、
『かしこまりました』
と答え、扉を閉めた。そして、部屋の外を守るため、控えの間の小さな椅子に座りながら、少なからず、驚きを心の中で噛みしめた。イシコはてっきり、コヤネやヒルメが、ニニギと一緒にナガスネヒコを待ち受けているのだと思っていたのだ。しかし、部屋の中には、ニニギ一人きりだった。王の間は特に壁や扉が厚く作られている。今見たところ、窓はすべて閉めきられていたので、頑丈なこの正面の扉を閉めた時点で、部屋は完全に密室となった。ニニギは、ナガスネヒコとの会話を誰にも聞かせないと決めているようだった。
《オシヒも今度ばかりは、中の様子を知ることはできないだろうな》
 しかも、ニニギの後ろの壁には、クマソの八尺瓊勾玉と、イヅモの天叢雲剣までもがかかっていた。
《これで、この部屋の中には、オホヤシマの神の宝が三つともそろったことになる……》
 これがどういう意味をもたらすのか、イシコには想像もつかなかった。三つの宝がすべて集められた場所で、向かい合う二人の王は、いったい、どんな話をするのだろうか。
 イシコの脳裏に、ヒルメの言葉がよみがえった。
《このオホヤシマは、本来ならば一つの神、一人の王によって治められるべき地。三つの宝を手中にした者が、この世のすべてを思いのままにできる神の王となる……》
 そして、こんなウズメの言葉をも。
《もしそんな力を本当に手に入れることができたとすれば、その者はもうこちらに戻ってくることはできなくなるのではないか?》
                         ◎◎
 扉が重々しい音とともに閉められると、ナガスネヒコがまず口を開いた。
『お初にお目にかかります。私がヒタカミのナガスネヒコです。そして、これが我が国に千年の間伝わる八咫鏡です』
 ニニギは、うなずいた。ニニギには、目の前の男が本物のナガスネヒコであり、男が持参したものがまぎれもない八咫鏡であることが、一瞬で分かった。
『ナガスネヒコ。おぬしが遠路はるばる来たということは、その八咫鏡と、イヅモタケルやコトシロの命とを交換するという、俺の条件を呑んだと考えてよいのだな』
『いいえ。私が参ったのは、あなたと会うためです。そして、あなたの真の願いをかなえてさし上げるためです』
 ニニギは、目を丸くして、目の前の男を眺めた。あらためて見れば、それはまだコトシロと同年代の若者だが、その長身の姿からは、ともすればニニギすら気後れしそうな気品と落ち着き、そして王としての威厳が漂っていた。
『俺の真の願いだと? オレの欲するものは、その八咫鏡だと、言ったはずだが』
 ナガスネヒコは、首を横に振った。そして、八咫鏡の包みを解きながら、言った。
『あなたは、もうご存じのはずです。宝を手にしても、その力までを手に入れることはできないと。この八咫鏡とて同じです。鏡をよむことができるのは、この世でヒタカミの国主のみ。ですから、私以外の者がいくらこの鏡をのぞいても、無益なのです。私はヒタカミの地で、あなたがこの世の誰よりも八咫鏡を必要としていると感じました。あなたが魂の真実の姿を知りたがっているのだと。ですから私は、あなた一人のためだけに、ここに来ました。さあ、私にあなたの魂を探させてください』
 ナガスネヒコはそうして、八咫鏡を壁に立てかけ、自身はその前の床にあぐらをかいて座った。
 ニニギは、ナガスネヒコの近くに来て、八咫鏡を見た。その面はまるで水銀でできているかのようにとろりとしている。しめきった部屋の中に点されている小さな明かりのゆらぎがそこに映っていてもいいはずなのに、そこには不思議と何の光もなかった。それどころか、
『おぬしも、俺も、映っていないではないか』
 ニニギは、多少ぞっとして声を上げた。鏡はすべての光を吸いとる闇のごとく沈黙していた。ナガスネヒコはうなずいた。
『この八咫鏡は外の光を映しません。内なる光のみを映す鏡なのです。そしてそれは、魂の真の呼びかけに応じて現れます。己の真実を探し続ける者、誠実に自分の魂と向き合う者、それらの者だけが鏡の前に立つ資格を得るのです。……ほら、もうあなたの光と闇がみえてきました』
 ニニギは、めまいを覚えながら、ナガスネヒコと一緒に八咫鏡をのぞきこんだ。そこには先ほどと変わらない空虚な闇のみがあると見えたが、じっと視線をあてているうちにニニギにもそれがみえてきた。
 鏡の面が次第に深い青みを帯びてくる。ひどくなつかしい青だった。そして無数のまたたく光が……。
『ああ、あれは、平原の星だ』
 どうしてこんなにも美しいものを、長い間忘れていることができたのだろう。いつの間にかニニギは、故郷の大きな夜空の下、広く固い大地の上に、かつてのように仰向けで横たわっていた。冷たい露を含んだ草の一本一本の感触さえ、もとのままだった。隣にはナガスネヒコが同じように星星を見上げていた。この世のどんな宝石よりも美しく、価値のある光の一つ一つが、深い藍色の天空にびっしりと埋めこまれているさまを。光にもきっと重さがある、そう思わせるようなその密度ある輝きを。
『美しいものですね』
 ナガスネヒコが感嘆したように言った。ニニギは誇るように答えた。
『ああ。俺は色んな国の空を見てきたが、故郷の空に優るところはなかった。澄みきった大気、遮蔽物のない広い大地が、このような空を生むのだ。オホヤシマから見る星は、故郷の星と姿は似ているが、輝きがまるで違う』
『そうですね。ここの星の光は、もっと純粋で、強くて、それでいて優しいように思えます』
『そうだ、そうだ。いつまで見ていても、ちっとも目は痛くならないし、甘い清水を飲んだように心の中が洗われてゆくのだ』
『あの、隅にある星座は何というのですか? まるで棒を持った少年のように見えますね』
『あれは、羊飼い座だ。そのわきには小さな角をもった雌羊を連れている。俺たちの部族の護り星だ』
『オホヤシマでは見ない星座ですね』
『そうかも知れない。あまりに下のほうにひっそりとあるから、角度が違うと見失ってしまうんだ。羊飼い座は誰よりも朝早く起き、誰よりも夜遅くまで起きている。そして部族のみんなのために草地や水を探して回る。自分は、連れている雌羊の乳しか飲まない。だからいつまでも少年の姿のままなんだ』
『それが、あなたの部族のものがたりなのですね』
『そう。部族ごとに違う護り星、違うものがたりをもっているんだ』
『確かに、こうして星を眺めていると、ものがたりが生まれる過程が分かる気がします。心が解き放たれて空を漂っていくようです。人類最初のものがたりも、こうして生まれたのかも知れませんね』
『ものがたりか……』
『一族には一族に伝わるものがたりがあるように、人にも、その人だけのものがたりがあるものです。ここはあなたの部族のものがたりの舞台であるとともに、あなた自身のものがたりの出発点でもあるのです。あの羊飼い座は、いわばあなた自身でもあるのですよ』
『確かに俺は、羊飼いだった。少年だった』
『今は違いますね』
『俺は、違う世界を見たかった。違う者に、もっと大きなものになりたかった。だから故郷を飛び出したんだ。そして日の昇るほうへ旅に出た』
 急に空が曇り出した。そしてたちまちのうちに真っ黒い雲におおわれたかと思うと、激しい雨と風が天をかき乱し始めた。ニニギとナガスネヒコは、荒れ狂う海の上の船の中にいた。塩辛い水が何度もニニギの顔を濡らした。何本もの雷光がとどろきながら海に向かって落ちていく。船の帆がたたむ暇もなくぎざぎざに破れ、ちぎれていった。そうして、船が左右に激しく揺れるたびに、船に乗った者たちが一人、二人と暗き海の中へ放り出されていった。ニニギはそれを数えて涙を流した。
『あの者も、あの者も、俺について来たばかりに命を落としていった。ここで俺の部族の者はたいがいいなくなってしまったのだ。それも、馬や船を守るために、最後まで働いていたからなのだ。俺のせいだ、俺のせいだ』
『いいえ。あなたのせいではありません。彼らは彼らの意志で最後まで生きたのです。自由に生きた者は、けして死に際して後悔することはありません。さあ、ご覧なさい。嵐がやんできました』
『そうだ、ここで船が島に着いたのだ』
『違います。あなただけが、島をみたのですよ。船はどこにも着いていません』
『何だって?』
 見れば、自分自身が、船の床の上に横たわっている。海はなぎ始め、揺れが小さくなった船の上では、ほかの者たちが、一生懸命ニニギを起こそうとしていた。しかし、頭を打っているのか、ニニギは気を失ったように目をつむったままだった。
『そうか、俺は仲間を起こそうとしていたつもりだったが、それは逆だったのだな』
『あなたは、夢をみているみたいですね』
 ナガスネヒコが、横たわるニニギのまぶたを指さした。それはぴくぴくとなにかをみているように震えていた。
『そうだ。俺は夢をみていた。とても、大事な夢を……』
『それは、わしの夢かの?』
 ニニギが振り返ると、あの、泉のそばの大きな岩の上に、スクナヒコが笑って座っていた。
『スクナヒコ!』
 ニニギは駆けよった。
『久しぶりじゃの、ニニギよ。ほう! 今日はナガスネヒコも一緒か。ナガスネヒコのことは、わしもよく知っておる。良き案内人じゃよ。ナガスネヒコに導かれてきたという魂をいくつもみたことがある。お前はいい道をみつけたの』
 ニニギは、スクナヒコの座る岩にしがみつきながら、言った。
『お前の言うとおりに俺はかじを操り、オホヤシマに上陸した。そして、クマソもイヅモも征服し、国の宝も手に入れた。しかし、宝の力は俺が持つと消えてしまうんだ。何故だ、何故なんだ。俺は神に選ばれた者ではないのか? 答えてくれ、スクナヒコ!』
 スクナヒコは、穏やかに微笑んだ。
『おお、お前は国への道を見つけることができたのに、自分自身への道をみ失ってしもうたのか。神に選ばれたかを問う前に、自分に選ばれたかを問わねばならぬのではないか。しかし、安心せい。たとえいっとき、自分が何者かを忘れたとしても、それはけして離れることはない。お前はお前のものじゃ。お前の欲するものは、すでにお前のもとにある。ただ、それをみるためには、いましばらくの旅が必要なだけじゃ。一番近くにあるからといって、すぐにそこにいけるとは限らぬのが、不思議といえば不思議なところじゃのう』
 ニニギは、スクナヒコの言葉をじっと聞いていたが、やがて首を横に振った。
『お前の言うことは、俺にはさっぱり分からない。俺はこれから、どうしたらいいのだろう……』
『今、お前の心の中にある言葉を、素直に口に出して言ってみるがよい』
 ニニギは、こんこんと沸き出でる泉の面を見ながら、言った。
『……サクヤヒメは、今、どこでどうしているのだろう』
『サクヤヒメに会いたいのか?』
 ニニギは、ますます泉のほうへうつむいた。泉の水はたえずちらついて、ニニギの影はその上でばらばらになりながら、あちこちにさまよっていた。
『分からない。彼女に会うまでは、俺は自分自身をしっかりと握っていた。彼女と会ってからは、俺は俺に自分というものがあることすら、忘れてしまった。そして、彼女がいなくなって、もう、俺には何もなくなってしまった。すべてが死んでしまった。風は匂わず、酒は砂のよう、どんな女を抱いても何の喜びも感じられない。たとえサクヤヒメにもう一度会ったとしても、同じことだろうと思う。俺の中から永久に何かが失われてしまったのだ。神の宝なら、そんな俺にも何かを与えてくれるのではないかと思ったのだが……。結局のところ、神の国や神の宝など、夢まぼろしにすぎなかったのだ。俺の旅は無駄だった。海を越えたところに俺の望むものなどありはしなかった。多くの血を流し、仲間を失い、俺自身すら生きながら死人のようになってしまっただけだ』
 ナガスネヒコは、黙ってニニギを見つめていたが、スクナヒコがふと目を上げて、わずかにうなずいたのをきっかけに、一歩うしろに下がった。すると、とたんにあたりがぼやけ、二人のいる泉の場所から、ナガスネヒコだけが遠ざかっていった。
 気づくとそこは、イヅモの、もとの王の間だった。ちらちらと揺れる灯りに照らされる色とりどりの布で飾られた部屋。その床の上に、ナガスネヒコは、八咫鏡に向かって座っていた。その隣にはニニギが、鏡をのぞきこんだ姿勢のままじっとしている。その瞳は、鏡の面のようにうつろだった。ニニギはまだ、魂の旅から帰ってきてはいないのだ。
                         ◎◎
 王の間の隣の控えの間で、イシコは徐々に不安になってきていた。ナガスネヒコを王の間に案内してから、すでに二刻もの時が流れている。ニニギに何か異変があったのではないだろうか。ニニギは自分が呼ぶまで邪魔をするなと言っていたが、やはり一度扉を開けて、その無事を確認すべきなのではないか。そう、決意して立ち上がろうとした瞬間、王の間の扉が開いたので、イシコは心臓がとまりそうになった。
 出てきたのは、ナガスネヒコだった。
『ナガスネヒコ殿。ニニギ様は?』
 ナガスネヒコは、黙って扉の奥を指さした。イシコが部屋の中をのぞくと、そこには、床に座ったニニギの姿が見えた。壁に立てかけた大きな鏡を床に座って一心に眺めている。王の椅子の両わきには、八尺瓊勾玉と天叢雲剣も、最初に見たままにかかっていた。ニニギに声をかけようとするイシコに向かって、ナガスネヒコは人さし指を唇にあてて黙らせると、静かに扉を閉めた。
『八咫鏡は、ニニギ殿にさし上げました。ニニギ殿は今、八咫鏡をよんでおられます。今宵はもうこれ以上、お邪魔をしないほうがよいでしょう』
 イシコは、何か言おうとしたが、言葉が思い浮かばないので、ただうなずいた。
 その間に、ナガスネヒコは、すたすたと控えの間を通りすぎると、衛兵の前を横ぎって、もと来た廊下を歩き始めたので、イシコは、慌ててそのあとをついて行った。
『ナガスネヒコ殿。あの、これからあなたは、どうされるのですか』
 訊いてから、イシコは、我ながらまずいことを言ってしまったと思った。ナガスネヒコに、すぐにヒタカミへ帰ると言われても困るのだ。八咫鏡をニニギが手に入れたあとは、ナガスネヒコとその家臣たちは、みな暗殺されることになっているからである。いや、当初の予定ではそうだった。イシコは、最終的な指示をニニギに仰ぎたかったが、先ほどの様子では、今夜一晩は話しかけるのは難しそうだった。
《そうだ。一体、コヤネは今ごろ、どこでどうしているのだ。そもそも、この計画の立案者は、あ奴ではないか》
 イシコは、昼以降、少しも姿を見せないコヤネに対して、腹をたてた。ナガスネヒコの始末は、コヤネがするべきなのだ。少なくとも、イシコは、自分ではその任にあたりたくなかった。
《とりあえず、ナガスネヒコをさっきの小部屋に案内して、あとはコヤネに任せよう》
『ナガスネヒコ殿。長旅でのご到着にもかかわらず、ろくにおもてなしもしないままで、大変申しわけございませんでした。すぐにでもヒタカミにお戻りになりたいとお思いかとは存じますが、もう夜もだいぶ更けました。今、先ほどの部屋に、心ばかりではございますが食事や酒を用意させますので、今日のところはお泊り下さい。本来ならば、主人のニニギがお相手をすべきところですが、ご容赦いただければと思います。その代わり、美しい女どもにお相手をさせますので……』
 ナガスネヒコは、それに対し、くったくのない調子で答えた。
『お心遣いありがとうございます。食事のご用意とのお申し出、ありがたくお受けいたします。しかしまあ、女性のお手配までは、結構です。我ら三人、ヒタカミの男だけでおとなしく飲み食いをし、お言葉に甘えまして、ひと夜の宿を貸していただきましょう。明朝は、早くにおいとまさせていただきますので』
『そうですか。あと数日はご滞在していただきたいところですが、他国の国主様をあまり長くお引きとめしても、ヒタカミの方々をご心配させるだけですからな。では、ごゆるりとおくつろぎください』
 イシコは、ナガスネヒコが案外簡単に宿泊すると言ったので、ほっとした。二人は、ところどころ、たいまつで照らされた夜の廊下を進み、やがて最初の小部屋の前まで来た。見はりの兵が二人立っている。
『何か、変わりはないか』
 イシコの問いに、兵の一人が敬礼しながら答えた。
『いえ。何もございません。中の二人には、イシコ様のお言いつけどおり、茶を出しておきました』
『そうか。ナガスネヒコ殿のご用事もようやく済んだ。ヒタカミの方々は、今宵はここにお泊りになる。すぐに食事と酒をお持ちしてくれ』
『はっ』
 イシコの命を実行するため、兵の一人がすぐに駈け出した。もう一人が、部屋の扉を開ける。中には、昼間と同じようにイハオシとカコが床に座っていたが、イシコが命じたため、下にはうすべりが敷かれ、茶や果物で簡単にもてなされたあとがあった。
 扉が開いたとたんに、じりじりしていた様子のイハオシとカコが、喜色を浮かべて立ち上がった。イハオシが涙を浮かべんばかりの様子で、ナガスネヒコに駆けよった。
『ナガスネヒコ様。よくぞ、ご無事で。あまりに遅いので、私どもは気が気ではありませんでした。外の兵に訊いても、知らぬの一点ばりでして。そろそろこの扉を蹴破ろうと考えておったところです』
 ナガスネヒコは、忠実な家臣に、微笑みを与えた。
『心配をかけたな。しかし、私は戻ると言ったら、必ず戻る。さあ、イシコ殿が食事の用意をしてくださるそうだ。二人とも腹が減っただろう。今日はあと、この場をお借りし、食べてぐっすり眠るだけだ』
 イハオシは、ナガスネヒコが八咫鏡を持っていないことや、今日はここに泊まると言ったことに対し、口を開きかけたが、ぐっとこらえた。
《何も言うな、黙っていろ》
というナガスネヒコの言葉が、心の中で響いたからだ。カコを見ると、わずかにうなずいているので、同様にナガスネヒコの言葉をきいているのだろう。
 相変わらず閉じこめられたままだったが、出てきた食事は、なかなか豪勢なものだった。スズキやワカメなど、海の幸が多いのは秋との端境期だからであろうか、それとも山が焼かれてしまったせいかも知れなかった。
 ナガスネヒコが酌も断ったので、膳が運ばれたあと、部屋の中はまた三人きりになった。イハオシは最初、なかなか食事に手をつけなかった。
『ナガスネヒコ様。毒が入っているやも知れませぬぞ』
 ナガスネヒコは、笑ってそれを否定したが、イハオシはそれでも、自分が毒見したあとの膳をナガスネヒコに食べさせることだけは譲らなかった。ナガスネヒコが冗談めかして、言った。
『おいおい、イハオシ。あまり食べたら、私の分がなくなってしまうではないか』
 イハオシは、慎重にすべてのものに箸をつけ、ようやくしぶしぶと膳をナガスネヒコに渡した。
『せっかくニニギのもとから無事に帰ってこられたのに、毒殺されましたでは、済みませんからな』
 そして、これも毒見済みの酒をみなの盃に注ぎながら、イハオシは厳しい顔つきでナガスネヒコに問うた。
『ところでナガスネヒコ様。八咫鏡はどうされましたか』
 ナガスネヒコは、スズキの造りをつまみながら、答えた。
『八咫鏡は、ニニギに渡してきた』
『何と! そして、いつ返ってくるのです?』
『当分は返ってこぬと思うよ。ニニギが手放さぬうちはな』
 イハオシとカコは、唖然として、ナガスネヒコを見つめた。やがてイハオシが、ため息をつきながら暗い表情でつぶやくように言った。
『そうですか。結局、八咫鏡はニニギに奪われてしまったということですな。しかし、ナガスネヒコ様はともかくご無事だったわけだし、これでよしとするしかないのでしょうな』
 ナガスネヒコは、ハマグリの吸い物をすすってみて、
『ほう! これはよい味だ。イハオシも、カコも味わってみるがいい』
と、にこにこして言ったが、苦虫を噛みつぶしたようなイハオシや、泣きそうになっているカコのしょんぼりした顔を見ると、箸を置いた。
『イハオシ。カコ。千年もの間ヒタカミの国宝だった八咫鏡を、他国に渡してしまった責任は、すべて私にある。このナガスネヒコ、過去、現在、そして未来のヒタカミ人に対し、いく重にも詫びよう。しかも、八咫鏡は奪われたのではない。私が自らヒタカミより持ち出し、私自身の意志で、ニニギに渡してきたのだ』
『えっ。何ですと?』
『八咫鏡は、今後は、ヒタカミの地ではなく、ニニギらの手もとにあるべきと、私が判断したからなのだ。理解できぬという顔をしているな。まあ、聞くがいい。
我らオホヤシマに住む者たちは、大海に護られ、比較的安穏に千年もの時をすごしてきた。その平和により、国は栄え、人々は豊かな暮らしを営むことができた。我らは言葉では戦争というものを知っていたが、体験では誰も知らなかった。戦いは、海の向こうの国の、我らと関係のない人々の間でのみ起こり得るものと考えていたのだ。
 しかし、それは間違いであったのは、このたび、クマソとイヅモが身をもって証明している。
今、大陸では天候が不順となり、人々は飢え、国と国との争いも絶えないという。そんな中、豊かなオホヤシマの国土の噂を聞き、ニニギたちのように海を越えてやって来ようとする者たちは、これからも絶えることはないだろう。ある者は武力で土地を手に入れようとし、ある者は平和的に入国しようとするかも知れない。どちらにしても、彼らの流れを押しとどめ続けるのは不可能だ。
 このたびのニニギたちも、初めは力をもって入って来たが、これからは政治を掌握しながら、徐々に国に同化していこうとするだろう。
 そうだ、時が逆しまに流れぬように、クマソとイヅモももうもとの姿に戻ることはないのだ。これに対し、我がヒタカミがどう対してゆけばよいのか。ヒタカミの国土は守りながらも、同じオホヤシマに住む者同士、ときには彼らと話し合ってゆかねばならぬことも出てくるだろう。単に反発するだけでは、結局のところ、我らに展望は開けぬ。武力で対抗するのみでは、近い将来、クマソやイヅモと同じ道をヒタカミもたどることになるだろう。
 国の力とは、武のみではあらずというのは、そもそも我らが一番よく知っていることだ。彼らが単なる掠奪者ではなく、この地に根づこうとしているからこそ、我らの力も彼らに通じる余地がある。そして力を発揮するには、相手のことをよく知らねばならぬ。
 そのために、私は八咫鏡をこの地に持ってきたのだよ』
『あ、それでは……』
 イハオシが、気がついたように声を上げた。ナガスネヒコは、ちょっと左の目をつむってみせた。
『八咫鏡が、ヒタカミの国主がみるのでなければ、ただの鏡であるのは、この地にあっても同じことだ。いや、八咫鏡は通常の光を映さぬのだから、ただの鏡以下ということになるな。ニニギのもとにいるヒルメという巫女であっても、それをどうすることもできないだろう。
 しかし彼らは、ほかの二つの宝と同様、八咫鏡を大事に守り続けるだろうよ。このオホヤシマの神の力を象徴する霊宝としてな。彼らにとっては、それが支配者の証のように思えるだろう。
 一方、遠くにあっても、ヒタカミの魂をつうじて、私は八咫鏡をのぞくことができる。八咫鏡は私の目となって、ヒタカミの地にいてはみえぬものも、私にみせてくれるだろう』
 イハオシは、顔を輝かせながら、手を打った。
『なるほど! つまり、八咫鏡が我らの間者として、奴らの情報を届けてくれるというわけですな。これでナガスネヒコ様のこれまでのおふるまいすべてが腑に落ちました。さすがでございます。ニニギも、宝を手に入れたと喜んでいるでしょうが、まさかその宝から自分たちの秘密がつつぬけになるとは、思いもよらぬでしょうな』
 イハオシは、晴々として笑った。カコもようやくほっとした表情を浮かべた。八咫鏡がニニギの手に渡ったことで、ひどく自分の責任を感じていたのだ。
 ナガスネヒコは、酒を口に含み、ちょっと耳を澄ませると、言った。
『イハオシ。あまり大声を出すなよ。この地にも間者がいるようだからな』
 イハオシは、己の口を慌ててふさいだ。ナガスネヒコは、それを見て、微笑んだ。
『まあ、今はその気配は感じられない。間者もなかなか忙しいようだ。探る先は、我ら以外にもたくさんあるようだからな』
 イハオシが、訊ねた。
『ナガスネヒコ様。それでは八咫鏡はこのままでよいとして、これからの我らの手はずはどのようにしたらよいのでしょうか』
 ナガスネヒコは、空になった膳をわきに押しやり、ごろりと手まくらで横になると、あくびをしながら言った。
『手はずか? 腹もくちくなった。先ほども言ったように、あとは寝るだけだ。明日は早くにここを出て、ヒタカミに帰らねばならん。二人とも今のうちにたっぷり寝ておくがよい』
 イハオシは、カコと顔を見合わせた。
『しかし、ニニギがこのまますんなり、我らをヒタカミに帰すでしょうか。そして、タケル様やコトシロ様の件もございますが』
 ナガスネヒコは、目をつむったまま、答える。
『言ったであろう。八咫鏡をニニギに渡すことで、時は動き出す。我らはその流れをみ誤らず、行動すればよい。そして、今の我らの仕事は、体を休めておくことなのだよ』
 イハオシは、うなずいた。何があってもナガスネヒコへの信頼は揺らぐことはない。
『分かりました。さあ、カコ。我らも横になろう。来たるべき時に備えて』
『はい』
 部屋の中は、しんと静まり返った。イハオシはとうてい眠ることなどできないと思っていたが、ナガスネヒコの規則正しい寝息を聞いているうちに、徐々に眠りに引きこまれていった。イハオシが最後に考えたのは、ずいぶんここは静かだ、ということだった。虫の音すら聞こえない。まるで、この広い建物内に、ほかに誰もいないかのようだ。
《兵たちはまだ、扉の外を守っているのだろうか。あのイシコは今どこにいるのだろうか……》
 そして、あとは暗闇の中に意識が落ちこんでいった。

(六分の五)
                         ◎◎
 イシコは、ナガスネヒコと別れたあと、宮殿のはずれにあてがわれた自室に入り、着替えをしようと服を脱ぎかけたところで、懐に入っている袋に気がついた。ナガスネヒコからサグヲという者に返してくれと渡された革袋である。あのときは会話の途中で王の間に着いてしまったので、つい懐に入れ、そのままになってしまっていたのだった。イシコは、椅子に座り、袋の中身を確認してみることにした。
『いったい、何が入っているのだ』
 卓上に開けてみると、見事なまでに緑色に輝く、三つの宝石が転がり出たので、イシコは驚いた。
『なんと、ヒスイではないか』
 明かりを近くによせ、たんねんに見る。そこへ、戸が二、三度鳴った。なんだか動物が誤ってぶつかったような音だった。
『入れ』
 イシコはヒスイを眺めたまま、言った。このような合図をする者は一人しかいない。
 オシヒが音もなく戸を開け、すぐに閉めながら部屋に入って来た。そして、イシコのそばにひざまずこうとしながら、
『報告ですが……』
と言いかけたが、イシコが持っているヒスイを見て、
『あ』
と声を上げた。
 イシコは、オシヒのほうを見やった。
『どうした?』
 オシヒは、驚きを隠せない様子で、突っ立ったまま、言った。
『それは、いったいどうされたのですか』
 イシコは、変な顔をしながら、答えた。
『このヒスイか? 実はナガスネヒコから渡されたものだ。ナガスネヒコは、その家臣のカコが、サグヲという者からこれを預かったと言っておった。サグヲに俺からヒスイを返してやってくれというのだ。しかし、俺はサグヲという者など、知らんのだ。そうナガスネヒコに言ったのに、サグヲは俺の前にじきに現れるなどと言って、無理によこしたのだよ』
 オシヒは、口を二、三度開けたり閉じたりしたあと、ようやく言った。
『そのヒスイは、私がカコにやったものです』
 イシコは驚いて、オシヒを見上げた。オシヒは、イシコのそばの椅子に座りこむと、机の上にあった革袋をさわりながら、言った。
『そうです。この袋もまったく同じです。サグヲとは、私がカコに使った偽名です。ナガスネヒコはどうしてそれが分かったものでしょうか』
 オシヒは、額の汗をぬぐった。背にはぞくぞくするような悪寒が走った。イシコは、ため息をついた。
『なんと、サグヲとはお前のことだったのか。ナガスネヒコは、俺が将軍だったことも知っておったし、千里眼をもっているというのも、あながち嘘ではないかも知れんな……。しかし、このヒスイも、本当にお前が持っていたものか?』
 オシヒは、イシコの手の中にある、三つの宝石を見て、うなずいた。
『はい。色といい、形といい、私がカコに渡したものに間違いありません。私が、ヒタカミ人になりすます小道具の一つとして使ったものなのです。ヒタカミ国にいる母親に渡してくれと言って、カコに預けたのです。むろん、これがふたたび戻ってくるとは思いもしませんでしたが……』
 イシコは、何故か、難しい顔をしてオシヒをじっと見つめていたが、三つのヒスイをオシヒに渡しながら、念を押すように言った。
『本当にこれが、お前が持っていたヒスイと同じものか、よく明かりにかざして見てみるがいい』
 オシヒは、わけが分からぬまま、イシコの言うとおり、三つのうちの一つをそばの灯に近づけ、のぞいてみた。そして、
『あ、これは!』
と思わず、普段の習慣に反して大声を出した。
 ヒスイは親指の半分ほどの大きさで、ほぼ完全な卵型をしている。色は澄んだ緑で、まるでカワセミの羽のように鮮やかに輝いていた。しかし、よく見ると、その中央に赤い色が混じっているのが分かった。それは、ある一つの形をとっていた。
『勾玉のように、見えますね』
 イシコは、黙っていた。オシヒは、魅せられたようになおもヒスイの奥をのぞき続けた。確かに、オシヒが持っていたときには、このような模様は入っていなかった。その赤は、ひどく濃い赤だった。まるで床に落ちた血のようだった。形は、一ヶ所にくびれた尾がついた円で、その円の中に丸い印がついているように見えるのも、勾玉の孔を思わせた。
《いや、これは孔ではない。突起だ……。そうだ、まるで目のようだ》
 その目が、ぎょろりとこちらのほうを向いた気がして、オシヒはあやうくヒスイをとり落としそうになった。顔を上げると、イシコと目が合った。イシコも、このヒスイの中のものを見たのだ。オシヒは、ごくりとつばを呑みこんだ。自分の喉仏が上下に動くのが分かった。イシコが、オシヒの考えを口に出した。
『そうだ、勾玉のようでもあるが、胎児のようでもある。このようなものが、お前が持っていたときにも、入っていたか?』
 オシヒは、首を横に振った。イシコは、もう一つのヒスイをとり上げて、オシヒに言った。
『こちらは、また別の模様だ』
 オシヒは、おそるおそる、そのヒスイの中をのぞきこんだ。やはり中央に何かが見える。色は黒かった。形がはっきりしないが、楕円のようだ。一方が、よりするどくとがっている。オシヒは目をこすった。はっきり見えないのは、玉の中でちらちらと光が動いているように思えるからだ。外からの明かりではない。それは、玉の中央の、黒いものから直接発しているように見えた。光は蛇のように、または稲妻のように、うねうねと線を描きながら黒い模様の周りをうごめいている。辛抱づよく見ていると、ついに中央にあるものの形がはっきり分かった。
『剣だ。これは、剣の形ですね。その周りを金色の光が舞っているんだ』
 そうして、イシコを見た。イシコが、うなずいた。
『どうも、そのように見えるな。最初のものは勾玉を、それは剣を含んでいる。そしておそらく、これは鏡を表しているのだろう』
 イシコは、オシヒに、最後の玉を渡した。オシヒは高鳴る胸を抑えながら、それを受けとり、のぞきこんだ。そうして、深い感嘆の息を吐いた。
 最後のものが、もっとも美しかった。これは、鏡だろうか? オシヒにはそうは見えなかった。いうなれば、それは青い太陽だった。空がもっとも空らしく輝いた時の青、泉がもっとも奥深くまで澄み沸き出でている時の青、それらの青の光をよせ集め、凝縮させたもののように思えた。完全なる弧を描く円から、何本かの青い光の線が出ている。数えてみると、その線は八本あった。オシヒは、見つめているうちに時の感覚が分からなくなっていった。ようやく気づいてヒスイから目をそらしたが、目の前にいるイシコが、最初誰だか思い出せないくらいだった。
 イシコは、ぼんやりして夢から覚めたばかりのようなオシヒに、苦笑いをしながら、言った。
『オシヒ。大丈夫か。さっきから少しも動かないので、心配したぞ』
『はあ……。私は、どれくらいこうしていたでしょうか?』
『まあ、俺が着替えを済ませ、灯りに油を注ぎ足している間くらいだな』
 オシヒは、驚いた。それにまったく気がつかなかったのだ。しかし確かに、イシコの服は、先ほどと変わっている。そうしてオシヒの中から、身の奥が震えるほどの深いため息がついて出た。
『イシコ様。私は、こんなに美しいものを見たことがありません』
 イシコは、うなずいた。
『俺もだ』
 そして、革袋の上に並べた三つのヒスイを見ながら、言った。
『このように美しく、不思議なものが、この世にあることすら信じられぬ。ナガスネヒコは何故、これを俺に渡したのだろうか。これらは、クマソ、イヅモ、ヒタカミの三種の宝を表しているようだが……』
 イシコは、三つの国のそれぞれの宝、八尺瓊勾玉、天叢雲剣、八咫鏡、すべてを自分の目で見た。しかし、それら本当の宝を見た時も、この三つのヒスイを見た時ほどの感動はなかった。
 オシヒは、まだ自分の魂がふわふわと宙に漂っているような気がして、しきりに目を閉じたり開けたりしていた。目を開けると自然とヒスイに視線がいってしまう。
《こんなことではいけないな。このヒスイは人の心を惑わしてしまう。仕事も手につかなくなってしまいそうだ……》
 オシヒは強いて目をそらしながら、ヒスイを袋ごとイシコのほうに少し押しやった。
『ともかく、このヒスイは私のものではないようです。イシコ様がお持ちください』
 イシコは、オシヒとは別の考えをもっていた。
《このヒスイはおそらくナガスネヒコの言うとおり、オシヒが持っていたものに間違いないだろう。しかし、ナガスネヒコはこれを俺に渡す前に、この不思議な模様を、ヒスイの中に入れこんだのだ。どうやってかは知らぬが、おそらく彼のもつ不思議な力でやったのだろう。それにしても、何故これを俺に渡したのかは分からぬが……》
 しかし一方、ヒスイはとりあえず自分が持っていたほうがいいということは、イシコも思ったので、
『では、これは俺が持っていよう』
と言って、ヒスイを袋の中にしまった。オシヒは、ヒスイの輝きが見えなくなったので、ほっとした。ようやく自分自身が戻ってきた気がした。するとたちまち、自分の使命を思い出した。
『それで、イシコ様。本日の午後以降の報告ですが』
『何かあったのか』
『はい、二つございます。まず、コヤネの動きですが、ナガスネヒコたちを宮殿に案内したあとは、サヰの産屋に閉じ籠もったままです』
 イシコは、ちょっと驚いた。男が産屋に入ることすらないことなのに、閉じ籠もったままとは。
『サヰの産屋だと? 海辺のはずれに建てられた、あれか。まだ産まれぬのか?』
『はい。ひどく難産のようなのです。もう十日余りも苦しんでおります。とっくに産まれてもいい日はすぎているはずなのですが。それでヒルメが祈祷を続けております。コヤネもここ数日は心配して産屋を出たり入ったりしておりました。サヰの母親はもう死んでおりませんので、余計に気苦労するのでしょう。サヰの容体は、今朝から特に悪くなり、産婆は、あと一両日中に産まれなければ、サヰも、腹の中の子も、助かるのは難しいだろうと言っています。それでコヤネは半狂乱になっているのです』
 それで、コヤネが姿を見せない理由がイシコにも分かった。けして好きではない男だが、それでもイシコは、コヤネが気の毒になった。
『それはコヤネもたまらないだろう。一人娘がそんなふうでは。何とか娘だけでも助けてやれないものか。子供はまた授かることもあるだろうし……』
 オシヒは、ちょっと首をかしげた。コヤネもイシコと同じように考えているかは、疑問だったからだ。そして、半月前の夜にコヤネのところをひっそりと訪れた男のことを思い出した。男は闇にまぎれて現れたかと思うと、コヤネに何事かをささやいてすぐに去っていった。オシヒはその会話の中身を聴きとろうと耳を澄ませたが、あまりに声が小さくてよく聞こえなかった。しかし、『クマソ』、『子供』という言葉の断片があったので、その男がもたらした情報が何であるかは、おおよそ推測はできた。ウズメの妊娠がついに探り出されたのだ。それは、そのあとのコヤネの動きからも、窺い知ることができた。コヤネはヒルメに命じて、サヰの出産のために祈祷を始めさせたのだ。しかも、単なる安産祈願ではない。コヤネは、はっきりとこう言っていた。
『何としても、男子を、そして一日も早く産まれるように祈ってくれ』
 男子を望むのは分かる。ニニギの後継者として名のりを上げるなら、生まれる子は男でなくてはならない。
《そして、一日も早くというのは、サヰの子を長子とさせるためだ。となれば、あの闇夜に訪れた男がコヤネに話した内容というのは、ウズメ様が身ごもっており臨月間近ではあるものの、少なくともその男がクマソにいた時点では、まだ産まれてはいなかったということだ》
 オシヒは二人の女の産み月を数えた。予定では確かに、サヰの子ほうが半月ほど早く産まれるはずだった。しかし、サヰの出産は長引いている。一方、ウズメの子は順調にいけばそろそろ産まれるころだ。子が生まれてしまえば、さすがにクマソじゅうに伝わるだろう。一日でも早く生まれたほうが、ニニギの長子となるのだ。コヤネが焦るのも無理はなかった。特に、コヤネの出身地のカラ国では、長子継承が厳密に守られている。コヤネがここ数日、自分とヒルメ、そして産婆以外の人間を産屋に近よらせなくしているのも、万が一ウズメの出産よりも遅れた場合のことを考えてのことではないかと、オシヒは勘ぐっていた。数日の違いなら、生まれた日をごまかそうというのだ。むろんそのときには、秘密を知る産婆は殺されるだろう。しかし、そんな工作ができるのも、子供が無事生まれればこそである。死産ではもとも子もない。
 コヤネは気が気でないらしく、ナガスネヒコらを宮殿に連れて来たあと、すぐにまた産屋の中へ引き籠もった。オシヒは、コヤネがそのまま当分出てきそうにないのを見届けると、自分は宮殿に戻って来た。サヰの出産のことも気になるが、ナガスネヒコとニニギの会談の様子はもっと重要だった。
 実はオシヒは、宮殿のどこの部屋のことも盗み聞きできるような工夫をひそかにしていて、それは王の間であっても例外ではない。王の間の分厚い壁を逆に利用し、その中に人一人入れるような空間をくり抜いておいてあるのだった。多少狭いが、中に入ってぴたりと板を閉じれば、外からはまったく分からないようにしてある。その場所へ行くにも、オシヒにしか分からない経路を通って行くのだった。それはちょうど、控えの間と王の間の境に作ってあった。だから、控えの前でイシコが気を揉んでいる間中、オシヒはそのすぐ横で王の間の様子を窺っていたというわけなのだ。
 しかし、ナガスネヒコが王の間に入ったあと、しばらくは二人のやりとりを聞くことができたのだが、途中でぱったりと音が途絶えてしまい、以後、二刻以上も何も聞こえなくなってしまった。オシヒはのぞき穴を作って中の様子を見たい誘惑に駆られたが、さすがにその危険は冒せなかった。最初の二人の会話から、八咫鏡に何か映ってきたというのは分かったのだが。
 じりじりした時間だけが無為にすぎ去り、ようやく夜にさしかかるころ、部屋の中に動きがあったかと思うと、ナガスネヒコ一人が立ち上がり、部屋を出て行ってしまっただけだった。ニニギはまだ鏡を見ている最中らしい。オシヒはがっかりしてその場を去った。これからは、聞くだけでなく、見る細工もしておかなくてはならないようだ。そのままイシコのところに行こうか、それとももう一度サヰの様子を確認してからにしようかと考えながら宮殿の敷地内を移動していた時、厩のほうがざわついていることに気がつき、そちらのほうへ行ってみることにした。そこでは、ちょっとした事件が起こっていた。それはイシコにも知らせておいたほうがいいようなものだったので、オシヒはすぐにイシコの部屋へ向かった。ところが、不思議なヒスイの美しさに、しばらくの間己の仕事を忘れてしまったのだった。
『それで、イシコ様。もう一つの報告ですが、どうも宮殿の厩につながれていた馬のうち、一頭がいなくなってしまったらしいのです』
 イシコは、興味がなさそうに、椅子にもたれながら言った。
『馬が一頭? 馬番がしっかりつないでおかなかったのだろう。おおかた辺りの林の中をでもうろついているのではないか。朝になれば戻って来る。よくあることだ』
『しかし、そのいなくなった馬というのが、ニニギ様の愛馬なのです』
 イシコは、がばっと身を起こした。
『ニニギ様の? サリフか?』
『そのようです。まだ発覚したばかりのようで、馬番が必死になって探し回っているようですが』
 イシコは、立ち上がった。
『サリフであれば、こうしてはいられぬ。おそらく何事もないとは思うが、サリフに、もしものことがあっては大変だ。俺も探しに行こう』
 大股で歩き出したイシコに従って、オシヒも部屋を出た。
『私は街道に通ずる道を行ってみます。馬泥棒であれば、一刻も早く国を出ようとするはずですから』
『おとなしく盗まれるような馬ではないが、よし、そちらは任せたぞ』
 イシコが厩にたどり着いてみると、確かにサリフだけがいなかった。イシコはその場にいた一人の馬番を問いつめた。
『おい。サリフはいつからいなくなったのだ。ちゃんと探しているのか』
 イシコにばれたと分かり、馬番は恐怖に震えて口もろくに聞けないありさまだった。イシコはいらいらして馬番を揺すった。
『お前の責任をどうこう言っているのではない。さっさと答えろ!』
 馬番は、つっかえながら、身振り手振りを交えて、ようやく答えた。
『は、はい。すみません。いつからと申しますと、夕方に飼い葉をやった時までは確かにおりました。そのあと、日が落ち始め、私が夜の一度目の見回りに来た時に、いないことに気づいたのです』
『ここには四六時中、見はりはいないのか?』
『申しわけございません。なにぶん人手が足りないものでして。山から運び出す材木をひくために、馬番も駆り出されておるのです。騎馬隊用の馬も、今は新しいイヅモの村作りのために多くが使われております。むろん、サリフやイシコ様の栗毛などは別ですが。しかし、なかなか厩の見はりまではゆき届きませんで……』
 イシコは、舌うちをして馬番の服から手を放した。
『それで、今はどこをどう、探している?』
『はい。馬番のあと二人が、海と山、二手に分かれて探しに行きました』
 イシコは、顔をしかめた。
『二人きりでは、どうしようもない。俺が兵を集めてくる。お前はここを離れるなよ。馬泥棒がまた来るかも知れん』
 馬泥棒と聞いて、馬番は震え上がった。
『イシコ様。泥棒がいるのでは、私一人ではここを守るのは無理です。こちらにも兵をよこしてください』
 イシコはすでに兵の詰所へ向かって歩き出しながら、答えた。
『泥棒がいるかどうかも、分からん。しかし兵はよこそう。それまでは、その目をしっかり開いて、馬を見はっているのだ』
 そして、馬番の返事も聞かず、その場を離れた。場合によっては宮殿の衛兵もさいて捜索する必要があるかも知れない。闇の中、山に入られたら、少人数では捜索は困難になる。
                         ◎◎
 イハオシは、遠くから自分を呼ぶ声で目が覚めた。はっとして目を開けると、ナガスネヒコとカコはすでに立ち上がっていた。イハオシは、頭を振って意識をはっきりさせようとしながら、素早く起き上がった。
『どうなさいました、ナガスネヒコ様』
 ナガスネヒコは、一つ微笑むと、言った。
『そろそろ出かけよう、イハオシ』
 イハオシは、天井にある明かりとりから、空を見上げた。イハオシが横になってから三刻ほどすぎたようだが、星はまだ、真夜中をさし示している。むろん、ここを出ることに異存はないが。
『どうやって、この部屋を出るのですか。私はここを全部調べてみました。壁はあきれるほど太い木を組み合わせて作ってあり、ひどく頑丈です。窓はあの上にある小さいもの一つきり。子供ならともかく、カコでもあそこから出るのは難しいでしょう。結局のところ、扉をぶち破るしかないですが、そうすると兵どもが大勢押しよせて来るのは必至です』
 イハオシは、言いながら、うなずいた。その場合には、宮殿内の衛兵を残らず相手にしてでも、突破するしかないだろう。
 ナガスネヒコは、ゆっくりと扉に向かって歩き出した。
『それでは、自ら困難を作り出すようなものだ。そもそも扉は壊すためにあるのではない。開けるためにあるのだよ』
 そう言うと、ナガスネヒコは、やおら扉を叩き始めた。そうして、外に向かって大声を出す。
『すみません、すみません』
 外から何か答える声が聞こえたが、何を言っているかは分からない。扉の厚さが邪魔をして、よく聞きとれないのだ。ナガスネヒコは、イハオシとカコがはらはらしているのに構わず、戸を叩き続けた。そのうちに、兵が扉を少し開けて中をのぞきこんだ。
『いったい、どうしたのです。おっしゃっていることが、よく聞きとれませんでしたが。何かご用ですか』
 ナガスネヒコが、真剣な顔をして、部屋の奥を指さしながら、見はりの兵に言った。
『大変です。ちょっとあれを見てみてください』
『え、何が、どうしたんです』
 兵は慌てて部屋の中に入って来た。そのみぞおちに、ナガスネヒコは肘で鋭くひと突きを入れた。兵はたちまち気絶して、その場にばったりと倒れた。ナガスネヒコは、かがみこんでその額にちょっと手を置くと、気の毒そうに言った。
『すまぬ……。さあ、イハオシ。この者を部屋の中に入れてやってくれ。この兵には悪いが、私たちの代わりにしばらくここにいてもらおう』
 イハオシは倒れている兵を引きずって部屋の中央に寝かせると、ナガスネヒコとカコとともに部屋を出て、かんぬきをかけた。見はりはほかに見あたらない。宮殿の内部はしんとしている。イハオシはささやき声で言った。
『見はりは二人いたはずですが、どうしたんでしょうな。それに夜とはいえ、ずいぶん人気がないようですが』
『何かあって、そちらに人が回されたのかも知れぬな。我らにとっては幸いだ。ところで、カコ。コトシロ殿たちのいる場所は分かるか?』
 ナガスネヒコの問いに、カコがうなずいた。
『はい。以前と変わっていなければ、分かると思います』
『では、案内してくれ』
 カコの後ろをついて歩きながら、イハオシは、ナガスネヒコに言った。
『ナガスネヒコ様。これからはあのようなことは、私にお任せくださいませんか』
『あのようなこととは?』
『ですから、兵にあて身をくらわせるようなことでございますよ。誤ってはずして、相手が反撃してきたら、どうなさるおつもりですか。また、見はりがもう一人いたかも知れなかったのですし。力仕事は、私がいたしますから』
 ナガスネヒコは、ちょっと笑った。
『そうか。しかし、私だってたまには体を動かしたいからな。まあ、よいではないか』
 イハオシは、ちょっと肩をいからせた。
『いけません。ナガスネヒコ様にお怪我でもされたら、私の責任となります。体を動かしたいのなら、ツガルの宮殿にお戻りになってから、私がいくらでもお相手いたしますから』
『やれやれ。どうもお前は口うるさくてかなわぬよ。そんなに私が頼りないように見えるかね』
『ナガスネヒコ様の武術の腕前は、私もよく存じております。しかし、それを実際に使うお立場にはおられないということです』
『分かった、分かったよ』
 それは月のない夜だった。闇にまぎれながら進んで行くと、そのうちに、宮殿を離れ、敷地のはずれに建つ古ぼけた建物が前方に見えてきた。三人はそばの茂みの影に隠れた。カコが、小声で言った。
『あれは、もとからイヅモにあった古い神殿です。新しい宮殿ができ上がるまで、ニニギはあそこにいました。イヅモのほかの建物は先日の山火事でほとんど燃えてしまったためです。そして、あの神殿わきの倉庫が牢代わりに使われていました。私もそこに入れられていたのです』
 なるほど、こちら側からも神殿の周りを囲むようにして倉庫らしき建物群がいくつか散らばって建っているのが見えた。しかし、人影は見えない。
『タケル様たちがおられるところは、もっと向こうです』
 カコは木立の中を通るようにして、二人を神殿の裏側へ案内した。
『あれです』
 うす闇の中にぽつんと建つ小さな建物の前には、そばのたいまつの明かりに照らされて、兵士が一人立っているのが見えた。
『つまり、あそこにはまだ見はるべきものがある、ということだな。さて、あの見はりを何とかせねばならぬが……』
 ナガスネヒコがつぶやくと、イハオシが断固とした口調で、言った。
『ナガスネヒコ様。私がやります』
『殺すなよ』
 ナガスネヒコは、茂みの中から出ていこうとするイハオシの背中に向かって、ささやいた。イハオシはうなずきながら、そっと立ち上がると、素早い動きで濃い影の中を選びながら、建物のほうへ音もなく近づいていった。辺りを確認したが、兵は一人しかいない。
《ずいぶん人手を惜しんでいるな。それとも、やはり何かあったのか》
 イハオシは、すっと兵の背後に立つと、手刀で相手の首の後ろを打った。兵が声も出さずに崩れ落ちるのを抱えてやり、そっと寝かせたあと、自分の服の片そでをちぎって兵にさるぐつわをかませ、さらに念のため両手と両足をきつくしばった。そして、茂みに向かって合図をした。ナガスネヒコとカコがそれを受けて、倉庫に近づく。
 ナガスネヒコが、イハオシに声をかけた。
『さすが、見事なものだな』
『いまさら、お世辞をおっしゃってもだめですよ。さて、この中をあらためてみましょう』
 カコが慎重にかんぬきをはずし、そっと扉を開けた。中は真っ暗である。イハオシはたいまつを台からとって中を照らした。床は、地面を掘って固めた上に板を敷いて作ってある。入口がひどく低いので、イハオシはかがみながらたいまつをさし入れ、小声で呼びかけた。
『どなたか、いらっしゃいませんか。私は、ヒタカミのイハオシと申す者です』
 言いながら、イハオシは一歩内側に足を踏み入れたが、とたんにむせかえって咳をした。ひどい臭いがする。ナガスネヒコが大きく扉を開け放つと、むっとするような汚れた空気が、塊となってさっと外に流れ出てきた。カコがたまらず、数歩後ろに逃げ出した。ナガスネヒコが、中に向かって声をかけた。
『コトシロ殿。ナガスネヒコです』
 すると、倉庫の隅の暗がりがゆらりと動いたかと思うと、垢じみてひげをぼうぼうに生やした、痩せこけた男が立ち上がった。かと思うと、すぐに倒れそうになったので、ナガスネヒコは駆けよってそれを支えてやった。そうして、ゆっくりと建物の外に連れ出す。
『ありがとう。大丈夫だ』
 コトシロは、倉庫の壁にもたれかかりながら、言った。イハオシはなおも中をのぞきながら、聞いた。
『タケル様もご一緒でございますか? それとも別な場所にいらっしゃるのですか?』
 コトシロは明かりに目を慣らすように、まばたきをしながら、言った。
『父上は、中におられる。しかし、お出しするには及ばない。十日前に身罷(みまか)られた。今は、タケミナカタの首と並んで横たわっておる』
『なんと……』
 イハオシは、あまりのことに言葉を失った。コトシロは、腐りゆく二人の死骸と一緒に、ずっとこの中に閉じこめられていたというのか。イハオシは、コトシロのほうを振り返って見たが、長くは正視できなかった。あの貴公子然とした優雅な姿は、どこにもなかった。
 ナガスネヒコが、自分の服の上半身を脱いでコトシロに渡す。コトシロはぼろぼろになった自分の上着を破り捨てると、礼を言ってそれを受けとり、はおった。そうして、ナガスネヒコを見上げた。
『ところでナガスネヒコ殿。おぬしはどうしてここにおられる?』
 その口調は半分問いつめるようなものだった。ナガスネヒコは、わずかに微笑んだ。
『ニニギに呼ばれましたのでね』
 コトシロは、顔を怒りでゆがめた。
『あ奴め。やはりナガスネヒコ殿を巻きこみおったか。それでまさか、八咫鏡を持って来たのではないでしょうな』
『いえ。持ってきました』
 コトシロは、乱れた髪の中から、ぎらぎらと光る目をのぞかせながら、言った。
『して?』
『ニニギに渡してきました』
 ナガスネヒコが答えると、コトシロはうおーという声を上げた。それは、けものじみて辺りに響きわたったので、イハオシとカコは、きっと誰かに聞かれたに違いないと思った。
『何ということだ。これでオホヤシマの三つの神の宝が、すべてニニギの手に渡ってしまったではないか。私はそれだけは避けようと、何をされようとも耐えてきたのに』
 そして、コトシロはそばに控えているカコにぎっと目を移した。
『カコ。私はお前に言ったな。ツガルに戻ったら、ナガスネヒコ殿に言って、絶対にここに来ないように言えと? それをのこのこ、この場に一緒にやって来て、いったいどういうつもりだ』
 カコはコトシロの詰問に震え上がって、
『は……』
と息を吐いただけだった。ナガスネヒコが静かに割って入った。
『コトシロ殿。カコを責めないでください。実をいえば、カコが帰ってくる前から、私は八咫鏡をニニギに渡してやるつもりでいたのです』
 コトシロはまた、ナガスネヒコのほうに向き直った。そうして、鋭くナガスネヒコの目を見た。
『いつから?』
『この春からです』
 コトシロはしばらく黙りこくっていたが、その視線はひたとナガスネヒコの目にはりついたままだった。片側の頬が、一、二度ひくひくと動いた。そして、ようやく口を開いた。
『八咫鏡でみたものを、話すかどうかは、ヒタカミの国主の判断にゆだねられている。私はそれに異を唱える気はない。しかし、今話せるだけのことは話してくれ』
 ナガスネヒコはうなずいた。
『大陸から人が渡って来ることに気づいたのは、昨年の秋のことでした。彼らはまず、オホヤシマの南へと向かっているようでした。分からないのは、彼らの性格でした。彼らは、我らに血と悲劇をもたらすもののように思えました。しかし同時に大いなる再生をも意味していました。その時点で鏡からよみとれるものは、それだけだったのです。私は彼らのことをもっとよく知るために、部下をクマソに向かわせました。そののち、さらに鏡に、サルタヒコの死がはっきりと映し出されました。その死は、一人の大陸人によってもたらされたものでした。鏡に映ったその大陸人の魂の影をみたとき、私は震えました。彼の魂が、私たちにも強く運命づけられている、そう感じたからです。そうです、それがニニギです。彼の魂は、誰よりも熱く激しく燃え、何かを非常に強く求めていました。彼は自分の魂の求めに応じて、はるか彼方の国より、海を越えて我らの国までやって来たのです。しかし、彼自身にすら、自分が本当に何を求めているのかがはっきりとは分からないのです。そのため、彼はひどく苦しむことになりました。彼は最初、一人の女を求めました。クマソのサクヤヒメです。しかし、サクヤヒメは自ら身を投げ、彼のもとから永久に去りました。彼はその後、オホヤシマのすべての国土と宝を手に入れようとしました。一つには、彼が海を渡るために引き連れてきた大陸人の仲間たちと、そういう約束がなされていたためです。また、彼自身も、神の宝というものへの夢をまだ捨てきれていなかったせいでもあります。それで春になって、彼と彼の軍は東へ東へと上ってゆきました。私は、彼に直接会わなければならないと思いました。彼の魂は、たとえオホヤシマのすべての国、すべての宝を手に入れたとしても、満たされないだろうということが分かったからです。しかし同時に、その機はいまだ訪れていないことも分かっていました。彼の魂の真の姿をみつけ、その魂に確かな方向をみつけてやるためには、彼自身がある程度、鏡に向かって開かれている必要があるからです。私は待ちました。もしその時がくれば、おのずとそれが分かるはずだと思っていましたが、それがいつのことかは分かりませんでした。つらい数ヶ月の時が流れました。その間に、多くの犠牲が払われました……』
 コトシロが、笑うように甲高い声を上げた。
『犠牲? なるほど、確かにそのとおりだ。そうか、イヅモは犠牲というわけか! ニニギという一人の男の魂が、真に欲するものをみつけるための、布石にすぎんというのか。そして、ナガスネヒコ、おぬしはそれを分かっていながら、黙ってみておっただけなのだな。イヅモの民が殺され、イヅモの御山が燃え、イヅモの国が滅びていくさまを!』
 イハオシは、ナガスネヒコの危険を感じて、コトシロとの間に体をさし入れようとしたが、ナガスネヒコにそっと押しとどめられた。ナガスネヒコは、静かにコトシロの視線をただ受けとめていた。コトシロはぎりぎりと歯ぎしりをして、ナガスネヒコにあやうくつかみかかると見えたが、やがてその手で自分の顔をおおった。コトシロの手は、ひどく傷ついていた。爪はぼろぼろにはがれ、指の皮はむけて肉がただれたようになって土と混じって見えていた。自分をようやく制止できると、コトシロは、ふたたび顔を上げた。それは土と涙で汚れていた。
『いや、すまなかった……。八咫鏡にすでに映ったものは、この世の誰にも動かすことはできない。おぬしが鏡でみようとみまいと、イヅモの今の姿は変わらなかっただろう。鏡をみる者が選択できるのは、何をみようとするかくらいだ。それは分かっている。いや、私に謝らないでくれ。たのむ』
 口を開こうとしたナガスネヒコを、コトシロはとめた。その目から憎しみに似た光が消えたように見えたので、イハオシはほっとして体の緊張を解いた。コトシロの言葉はまた穏やかなものに戻った。
『それで、ナガスネヒコ殿。これからおぬしはどうする気だ。このまま八咫鏡を、ニニギのもとに置いていく気か』
『はい。まさに今この時も、ニニギは八咫鏡をとおして自分の魂を探し続けています。彼はすでに、この世にあるどんな宝も、国も、人間も、自分を救うことはできないと知りました。あとは彼自身による、彼自身の中の旅が長い間続けられるでしょう。彼の時は、もう私たちと同じ場所で刻まれることはありません。しかし、彼が遺した夢、命は、さらに長く現世で生き続けます。彼のみせた残像があまりに鮮やかに、強いので、その色は、このオホヤシマ全体をおおうほどの力をもっているのです。彼の子孫は、我らの国土を席巻するほどに繁栄するでしょう。彼の血と我らの血は、互いに争い、反発しながらも、ときに混じり合ってゆくでしょう。私は、彼と彼の子孫に、八咫鏡を残してゆきます。彼らのためというよりも、私たちのために。ヒタカミは、八咫鏡をとおして、彼らをみ続けます。彼らが何を思い、何を欲するのかを知るために。このオホヤシマの地で何をしてゆくのかをみるために。もしともに栄える時が訪れるのであれば、その時を判別するために』
『やつらをみる。それがヒタカミの選択だというわけだな』
『あなたは、どうされるのですか、コトシロ殿』
『私か?』
 コトシロは、ぼんやりとナガスネヒコを、そしてイハオシやカコを、たいまつの明かりやその周囲の闇を見回した。イハオシが、一歩前に出た。
『コトシロ様、僭越ながら我が国主に代わって申し上げます。私どもと一緒に是非ヒタカミへおいでください。湾にツガルの船を待機させてございます。ニニギの兵はいるでしょうが、なんとかなるでしょう。ともかく一刻も早くここから離れましょう。そうでないと、いつまた別の兵が来るかも知れません』
 するとコトシロが、思いのほかてきぱきとした口調で、言った。
『ここの敷地は何重もの垣根でとり囲まれ、その出入り口はすべて厳重に兵で固められている。そこを無理に破ろうとすれば、必ず騒ぎとなり、たちまちさらに大勢の兵が集まってくるだろう。ニニギたちはこの守りがあることもあって、中の警備を軽くしているのだ。外の警備は、中とは比べ物にならないくらい分厚いぞ。そこをどうやって突破しようというのだ。イハオシ、お前の武勇にも限りがあるのだ。そんな安易な考えで、自国の王を本当に守りきることができるのか?』
『は、しかし……』
 イハオシが言葉につまると、コトシロはにこりとした。瞬間、以前の美しい王子の面影がよみがえったように見えた。
『私がもっとよい方法を教えてやろう。こちらへ来るがいい』
 そう言ってコトシロは、自分が入れられていた牢の中にまた戻っていった。ナガスネヒコとイハオシ、カコもそれに続く。扉を開け放していたおかげで、中の空気はだいぶ入れ替わっていたが、それでもまだ、臭気のために涙がにじんでくるほどだった。コトシロはまったく気にしない様子で、建物の奥に進むと、ひとところで立ちどまり、イハオシを呼んだ。
『イハオシ。ちょっと手伝ってくれ』
 イハオシは、言われるがままコトシロのそばまで来た。足もとには布がかぶせられた平たく長いものが置かれていた。布にはところどころ大きな黒いしみがあり、そして何故か全体がもぞもぞと動いているように見えるのは、気のせいだろうか。そうしてそこからは、間違えようもない死臭が強烈に発せられていた。イハオシは、頭ががんがん鳴るのを聞きながら、言った。
『コ、コトシロ様。これはもしや……』
『我が父上だ。イヅモ国主のなれの果てよ。さあ、イハオシ。この床板の端を持ち、父上ごとずらしてくれ』
 コトシロは死骸のわきにあった丸い塊を無造作に足で蹴飛ばすと、タケルの頭の下に手をさし入れた。かたりと音がして、タケルの下に敷いてあった床板がはずれた。イハオシが、転がって壁にあたった丸いものを見ると、それは半分白骨化した人の頭部だった。
《タケミナカタ様だ》
 イハオシは、痛ましさと、臭気と、そしてそれ以上にコトシロへの恐怖に涙を流しながら、タケルを板ごと持ち上げた。とたんに布の下から何百ものハエが飛びたち、イハオシやコトシロの顔を打ったので、イハオシはギュッと目をつむったまま、板を運んだ。タケルはひどく軽かった。自分の手や足にぼたぼたとたくさんのウジ虫が落ちかかるのが分かった。
『よし。下ろせ』
 コトシロの合図で、タケルを床に置くと、イハオシはたまらず建物の外に飛び出し、膝をついて、胃の中のものをすべて吐き出した。視界の片隅に、同じく真っ青な顔をしてうずくまっているカコの姿が見える。からっぽになった胃がまだ痙攣を続けるのを感じながら、イハオシはよろよろと立ち上がった。牢の中に戻ると、ナガスネヒコとコトシロが、タケルが寝ていた場所を見下ろしていた。そこには、ぽっかりと井戸のような穴が口を開いていた。
『十日かけて、私が掘った。父上の死骸を隠れ蓑にしてな。昨夜ようやく完成したのだ。さて、よく聞くのだ。この穴は、隣の神殿の地下通路につながっている。通路に入ったあと、左に曲がれば、裏山の洞窟に行きつく。洞窟の奥には四方八方に枝分かれをしている横穴がいくつもあるが、そのうちのもっとも浅いものの一つが、西の海岸線、ヒの岬という場所にまで伸びている。そこから湾はすぐ近くだ。おぬしらはこれを通って、船まで行くといい。ほかの横穴にはけして入るな。迷って出られなくなる。洞窟の中に出たら、西側の一番広くて真っ直ぐに伸びた穴に入るのだ』
『イヅモ国には、秘密の地下道があるといううわさは本当だったのですね』
 ナガスネヒコが言った。コトシロは顔をゆがめるようにして笑った。
『そうだ。裏山の洞窟は、黄泉比良坂(よもつひらさか)と呼ばれておる。地下へ向かう穴の一つをどこまでも下っていけば、黄泉や常世の国へもつながっているといわれているのだ。もっとも、まだ誰もそれを見たことはないそうだが。もともとこの場に建てられた神殿は、その入口を護るために作られたものなのだ。イヅモの国主は、この神殿の祭主でもある。私は父上から、その亡くなる直前に神殿の通路について教えていただいた。黄泉比良坂自体は外から隠されて見えない。地上とつながる場所はいくつかあるが、その位置は国主のみが知っている。その一つが隣の神殿の地中深くから掘られた地下通路であり、西の海への道なのだ。そのほかにも、この辺りの地下には多くの穴が走っておる。むろん、大陸人どもは、そんなことは一つも知らぬよ。自分らの足もとに黄泉へとつながる道があるなどとはな。しかし、ここはイヅモ。私の国なのだ』
 そうしてコトシロは思いつめたように、じいっと暗い穴の奥を見つめた。
 イハオシが、勢いこんで、言った。
『コトシロ様。それでは、コトシロ様のご計画どおり、この穴を通って外に逃れましょう。海まで出れば、もうこっちのものです。ツガルの船にかなう船などありません』
『いや、私は行かぬ』
 イハオシは、驚いて、コトシロを見、そしてナガスネヒコを見た。ナガスネヒコは悲しそうな顔をしてコトシロを見つめていた。コトシロは、穴の上にかがみこみ、へらのようなもので入口の土を固めていた。
『言ったであろう。ここはイヅモ、私の国だ。父上が亡くなった今、私がこの国の国主、イヅモタケルだ。王が国を離れれば、もうそれは王ではなくなる。そうではないか? 治める場所もなく、治めるべき民もいない王ではあるが』
『イヅモの土地はまだあります。民もまだ大勢生き残っております』
 そう言ったナガスネヒコを、コトシロは見上げた。
『ナガスネヒコ殿。本当に、そう思われるか。イヅモはまだあるのだと? 山を失い、天叢雲剣を奪われ、民はみな奴隷となったこの国が、あのイヅモと同じものだと言われるか』
『まったく同じではありません。しかし、完全に違うものでもありません。そうではありませんか?』
 コトシロは、また下を見た。
『私は、完全に、以前のコトシロではない。ここにいるのは、人の形をした鬼だ。この世でもっていた、すべてのものを奪われ、恨みに凝り固まった鬼なのだ。そうだ、私の魂はすでに黄泉の中にある。私は自分の魂とひきかえに誓ったのだ。必ずや、ニニギの命を断ち、その魂を呪い続け、その子子孫孫が絶えきるまで、けして赦さないと。この穴を私が掘ったのは、この国から逃げ出すためではない。私は父上から、代々の国主に伝わるすべてのことがらを受け継いだ。黄泉比良坂から伸びる穴の一つは、やつらが建てた、あの大仰な建物の床下付近にまでつながっているそうだ。しかし夕べ黄泉比良坂にたどり着いた時点では、たくさんの穴のうち、どれがそうかは分からなかった。父上はそれをお話しになる前に、亡くなられてしまったから……。それで今夜からは、それを探そうと思っていたが、おぬしらのおかげでここから出ることができ、その手間が省けた。私にはもう余り時間がないからな……。私はこれから直接ニニギのもとへ行く。やつが鏡に夢中になっているのなら、余計に好都合だ。我らの恨みの万分の一でも、思い知らせてやるつもりだ』
 イハオシが、あえぐように言いかけた。
『しかし、コトシロ様……』
『もう何も言うな、イハオシ。私は、もうあと戻りはできない。恨みを晴らす。そのために私は、弟の肉を食べ、父の血をすすって生きのび、その骨で土を掘り続けてきたのだ』
 イハオシはぎょっとして、コトシロの手もとを見た。その手に握られているのは、白い人間の骨だった。コトシロは、作業が終わると、骨を放り出して立ち上がり、言った。
『さあ、間もなく夜が明ける。見はりの交代の時刻も近いはずだ。行くなら、早く行け。おぬしらが穴の中に入ったら、私がまたふたをしておこう。少しは時間がかせげるはずだ』
 イハオシは、ナガスネヒコを見た。ナガスネヒコが、小さくうなずいた。それで、イハオシも悟った。イハオシはコトシロに深く一礼をすると、真っ暗な穴の中に飛びこんだ。カコもナガスネヒコにうながされ、そのあとに続いた。ナガスネヒコは自身も穴の中に半身を入れながら、コトシロを見上げて、言った。
『コトシロ殿。ありがとうございました』
 コトシロは、ナガスネヒコの顔を見つめた。
『ナガスネヒコ殿。イヅモの、クマソの記憶を、後世に伝えてくだされ。我らが、このオホヤシマの地に確かに生きていたことを』
『分かりました』
 ナガスネヒコはうなずき、そして穴の奥に消えた。
 コトシロはそれを見届けると、タケルの死骸を板ごと引きずり、ふたたび穴の上にぴたりとはめた。そして建物を出て扉を閉めかけたが、足もとに、縛られて転がっている兵に気づくと、その腰に帯びている剣を奪ったあと、襟をつかんで建物の中に放りこんだ。その衝撃で、兵は息を吹き返したが、猿ぐつわのため、目を白黒させながら軽くうなっただけだった。コトシロはその男に向かって、にやりと笑った。
『しばらくここにいてもらうぞ。まあ、そんなに長いことはないだろう。それに私の父も弟も一緒にいるから、寂しくはないはずだ』
 そして、ばたんと扉を閉め、かんぬきをかけた。

(六分の六)
                         ◎◎
 宮殿の内と外の夜番の半数を投入したにもかかわらず、サリフは真夜中すぎになってもいっこうに見つからなかった。イシコは、イヅモから東と西に伸びる街道へもそれぞれ騎馬兵を派遣して探させたが、何の手がかりも得られなかった。最後に、じりじりして待つイシコのもとにオシヒがやって来た。イシコはオシヒの顔を見たとたん、言った。
『だめか……』
『はい。東と西の道のほか、以前イヅモ国があったヒバの山中へも行ってみましたが、見つけることができませんでした。夜中に馬を連れ歩けば、必ず誰ぞが見聞きしているはずなのですが。もしかすると、海から船に乗せていったのかも知れません』
『しかし、湾にはヒタカミの船を見はるための兵がいく人も配置されているが、それらしき者は見ていないというのだ』
『宮殿の裏の山はどうですか。あの向こうも海につながっておりますが』
『北側の海岸は断崖絶壁だ。とても船に馬を乗せられるような場所ではない』
 イシコはため息をついた。
『やはり、ニニギ様に一度報告したほうがいいか』
『朝になって、ひょっこり馬が帰って来るかも知れませんよ』
『それはそうかも知れないが……』
 そこへ一人の兵が、慌てたように走りこんできた。オシヒはすっと影に隠れた。
『イシコ様!』
 イシコは期待に満ちて立ち上がった。
『見つかったか!』
『それが、はっきりしないのですが……』
『はっきりしないとは? 手がかりがあったのか?』
『いえ。馬は見つかったのですが、それがサリフかどうか、はっきりしませんで』
 イシコはいらいらして怒鳴った。
『お前も、サリフくらい判別できるだろう! 体中が渦を巻いた青い斑のある葦毛馬など、ほかにないではないか』
 兵は、顔を青くしながら、答えた。
『そ、それが、皮が全部はがされておりまして……』
『なんだって?』
 イシコはその兵に劣らず真っ青になった。
 兵の案内で、イシコは馬の死骸が発見された場所に行った。そこはまさしく、オシヒと話し合った最後の場所、宮殿の裏山の中だった。宮殿がある平野の北側は険しい山になっていて、それが海との境をなしている。通常、船が出入りするのは、西の穏やかな湾のほうである。北の山道を上っていくと、突然視界が開け、目の前に大海が広がる。ふた月前、イシコが海を眺めたヒの岬は、この山の西の端だったが、馬の死骸が横たわっているのは、もっと東よりの崖の上だった。
イシコは唖然として、それを見下ろした。
 兵の言ったとおり、馬は体の大部分の皮をはがされていた。しかも、首から上は切り落とされて、なかった。殺されて間もないのは、まだ生温かい血がそこら中に流れ出ていることからも分かる。
『これはいったい、何の意味があるのだ……』
『イシコ様。これはサリフでしょうか』
 兵の問いに、イシコは我に返った。
『たいまつをよこせ』
 そして、馬の死骸をたんねんに火の明かりで照らしながら確認する。ふさふさとした尾の形や、足の部分にわずかに残った体の模様に、見覚えがある。イシコは大きく息をついた。
『確かに、これはサリフに間違いない』
 それで、兵も深くため息をついた。発見しても、褒美は出そうになかった。兵は首を振って、自分をあきらめさせると、イシコに訊ねた。
『それにしても、犯人はどうしてこんなことをしたのでしょうか』
 イシコとて、それが疑問だった。考え考え、言葉を口に出す。
『うむ。馬を盗んだはいいが、思いのほか早く捜索の手が伸び、行き場を失ってここまで来た揚句、切羽つまって馬を殺したあと、逃げたのか。皮をはぎ、首を切ったのは、これがサリフとばれるのをなるべく遅らせるためかも知れん』
『なるほど、それでは犯人は、この崖を伝って、海へ逃れたのでしょうか』
 兵はそう言って、崖の下を慎重に見下ろした。たいまつを掲げても、下は真っ暗で何も見えないが、ごつごつした岩肌に荒々しくうちよせる波の音で、その険しさが容易に想像できた。
《切羽つまって、馬を殺し、逃げただと?》
 イシコは自分で言って、そんな馬鹿なことがあるわけがないと思った。
《そもそも馬を盗んで、こんな逃げ先のない崖になど来る奴があるか。追手が迫ったのなら、馬を置いてさっさと逃げればよいのだ。皮をはいだり、首を切ったり、こんな手間暇をかける必要などない。ちょっと調べれば、これがサリフかどうかなど、すぐに分かるのだから》
 イシコは、兵からたいまつを借りると、もう一度よく死骸の隅々までを調べた。皮はきれいにはがされ、首の斬り口は見事だった。イシコは一人うなずいた。
《これは、落ち着いてじっくりやった仕事だ。生皮をきれいにはがすのは難しい。よほど慣れた者でないとこうはいかぬ。馬を殺したあと、時間をかけて、熟練者がやったのだ。となると、サリフを盗んだのも、この場所を選んだのも、もともとこの作業をするためだったということだ。犯人はサリフが欲しかったのではない、その皮と首が欲しかったのだ。それを手に入れたから、ここを去っただけだ。問題は、やつが何者で、どこに行ったのか、ということだが……》
 イシコは、兵がしたように、崖から海を見下ろしてみたが、首を横に振った。ここから犯人が逃げたとは考えられない。この場所はほとんど捜索されていなかった。時間はたっぷりあったはずだ。おそらく山をまたあと戻りして下りたのだろう。
《いやしかし、この山を下りたあとは、どこもかしも兵たちがうろうろしていた。大荷物をもった不審者がいれば目についたはずだ。やはり崖から逃げたか。それとも……》
 イシコは、発見者の兵を見た。兵は、気味悪そうに馬の死骸を少し離れたところで眺めている。イシコは、兵に訊いた。
『お前は、馬の扱いに慣れているか?』
 兵は、きょとんとしてイシコを見たあと、答えた。
『は? いえ、私はツクシの東、ウサの海辺の村の出身でして、馬はそれまで見たこともございませんでした。こちらの軍に入れていただいたあとも、馬は支給されておりませんので、いまだに乗ったことすらございません』
『ああ、そうだったな……』
 馬は数も限られており、普通の兵には与えられていない。しかしイシコは念のため、発見者である兵の剣をあらためてもみたが、血の跡はまったくなかった。
『いや、悪かった。念のためだからな。……それにしても、ずいぶんなまくら刀だな』
 イシコは、兵に剣を返しながら、苦笑して言った。これでは、馬の首どころか、木の枝すら切り落とせるかどうかも疑わしい。兵は目を丸くして自分の剣の刃を見やった。
『そ、そうですか? 私ども歩兵には、全員にこれとほぼ同じような剣が与えられているのですが。なにせまだ使ったこともないので、どんな斬れ味かも分かりません』
『うむ。このたびのイヅモ戦では、剣を使う場面がなかったからな。それにしても、そんな剣では何も切れぬ。研ぎ師を手配せねばならんな。それに全体的に、剣や弓矢といった武器の数も不足ぎみだ。その手あても考えなければ。また、増兵したはいいが、訓練も最近ではゆき届いていない。特にクマソを出たあとに入隊した者については、ほとんど何もおこなわれていない状態だ。これではいかんな……』
 イシコは、軍がかかえる様々な問題について思いをめぐらせかけたが、足もとに横たわる死骸が目に入り、すぐに当面の解決すべき事柄を思い出した。
『サリフはもうどうしようもない。この上は、ニニギ様の愛馬を盗んで殺した犯人をとり押さえねばならん。遠くへ逃げてしまったのなら、捕まえることはもう無理だが、この辺りにまだ潜んでいる可能性もあるからな』
 兵が疑念をはさんだ。
『しかし、宵から我々がイヅモ中を探しつくしておりますので、まだ国内にいるとは思えませんが。やはり、海へ逃げたのではありませんか』
『イヅモ中を探索したといっても、それは馬を探していたのだ。人一人隠れる場所など国の中にはいくらでもある。それに、犯人は見知らぬ者であるとは限らないからな』
 兵は、驚いたようにイシコを見た。
『イシコ様は、やはり我々の中に犯人がいるとお考えなのですか?』
 イシコはなだめるように、言った。
『そう不満げな顔をするな。そういう可能性もある、ということだ。それにお前がやったのでないことはもう分かっている。つまりたとえば、イヅモ人がニニギ様への恨みのためにやった、ということも考えられるわけだからな』
 すると兵は、強くうなずいた。
『なるほど。そうでございますよ。きっとこれは、イヅモ人の仕業です。それ以外に考えられません。イヅモ人であれば土地勘もあるし、動機も充分です。もしかすると村人たちが示し合わせて犯人をかくまっているかも知れませんよ。これから行って奴らを問いつめてみましょう』
 さっそく駈け出そうとする兵の襟足をつかまえて、イシコは引き戻した。
『おいこら、先走るんじゃない。イヅモ人がやったという証拠は何もないのだからな。もしこちらが間違っていたとしたら、彼らの不満が爆発して、暴動に発展しかねん。ともかく俺が指示するまで動くな。不確実な噂も振りまくなよ。お前はとりあえず、ここで死骸を見はっていろ』
 そう言って、イシコはきびすを返した。兵は、ちらと、赤くてらてらと光る馬の死骸に視線を走らせ、イシコの後ろ姿に向かって泣きそうな声を上げた。
『イシコ様。お願いです。もう一人誰かここによこしてください!』
『わかった、そうしよう』
 イシコは歩きながらそう答えると、来た道ではなく、西の海岸へつながる道を通り、足早に山を下りはじめた。
《イヅモ人とて馬の扱いに慣れているわけではない。オホヤシマにはもともと馬はいなかった。しかもサリフは気性の荒い馬だ。よほど見知った者でないと近よらせもしないだろう。そうだ、犯人は、俺たち大陸人の中にいる!》
 星明かりが波間にきらめく海岸の砂浜を、ほとんど走るようにして横ぎると、イシコは小さな小屋の前に立った。サヰの産屋である。
 小屋に近づき、様子を窺おうとした瞬間、ひぃぃぃっという、闇から朝を一気に切り裂くような、甲高い悲鳴が中から外に響きわたったので、イシコはぎょっとして、その場に棒立ちになった。
続けて、ごぼごぼという喉の奥が鳴るような音が、低く響く。
イシコが、今の叫び声は、もしやサヰではないかと考えかけたところで、今度は、
『サヰ! サヰ!』
という男の悲痛な声がはっきりと聞こえた。まぎれもなくそれはコヤネだった。耳を澄ますまでもない。コヤネは辺りにはばかりもなく大声で叫んでいた。
『ヒルメ! サヰはどうしたのだ。息をしていないぞ。死んだのか? 子供はどうなる?お前の言ったとおり、サリフの皮を逆はぎにしてサヰにかぶせ、サリフの首をはねてその血をサヰに飲ませた。これでお腹の子が無事に産まれると、お前は言ったではないか。違うのか? 助けてくれ!』
 イシコは意を決した。サリフ殺しの犯人がはっきりした以上、このままにしておくわけにはいかない。思いきって小屋の戸を開ける。しかし、中に入ったとたん、あまりに凄惨な光景に言葉を失ってしまった。
 中は、生臭い血の臭いでいっぱいだった。床の上には、馬の皮をかけられ、口の周りを血で汚したサヰが横たわっている。すでに絶命しているようだった。サリフの首はその横に転がり、血で満たされた椀も見える。ヒルメは服まで血でじっとりと濡れ、なにか禍禍しい呪術をおこなっていた様子だ。コヤネは、イシコが入って来たことも気づかぬのか、サヰにとりすがって泣き続けていた。
『コヤネ、ヒルメ。お前ら、いったいここで何をしているのだ』
 しかし、イシコの言葉はむっとする空気の中で、宙に浮いたままだった。コヤネは自分の泣き声以外、何も聞こえないようだった。
『ヒルメ、ヒルメ。サヰを、子供を助けてくれ。お前の力でよみがえらせてくれ。お前を国で一番の巫女にしてやる。いや、神と崇める。どんな呪われた力でもいい、この子が黄泉から戻ってくるのなら!』
 イシコが呆れて言った。
『おい、コヤネ。お前は自分で、何を言って、何をやっているか、分かっているのか。サヰも、お腹の子もあきらめろ。そしてニニギ様のもとへサリフを殺したことを謝りに行くのだ』
 その時、ヒルメがおもむろに立ち上がり、コヤネをサヰのもとからどかせた。そしてサヰにかぶせられた馬の皮を引きはがす。大きくふくらみ、馬の血がべっとりとついたサヰの腹があらわになる。ヒルメはかたわらの小さな刀を手にとると、その刃をサヰの下半身にぐっとさし入れた。イシコは真っ青になって、
『ヒルメ、何をする!』
と言ったが、足が震えて動けなかった。ヒルメは構わず、そのままサヰの腹を一気に二つに裂いた。そして開いた腹の奥に手を突っこむと、中から赤黒いものをとり出した。ヒルメが、ばちいんと、その背を強く叩くと、赤ん坊は力強く息を吸い、
『ぎゃあ、ぎゃあ』
と産声を大きくたて始めた。ヒルメは、へその緒を噛み切り、子供を、コヤネの腕に抱かせた。コヤネは、泣き叫ぶ赤ん坊を渡されると、喜色を浮かべて踊るように立ち上がった。
『おお! 黄泉から戻ってきたか。しかも、男だ。でかした、ヒルメ。でかした、サヰ。ああ、これで私の願いが叶う。おや、イシコか。いつの間にここに来た? 見てくれ、私の孫だ。サヰの子だ。まぎれもなくニニギ様の子だ。祝ってくれ。皇子の誕生だ。そうだ、さっそくニニギ様にご報告せねば。サヰの命と引き換えに生まれたのだ。よしよし。私がお前を必ずやオホヤシマの王にしてやるからな。イシコ、何をしている? ニニギ様を呼んで来てくれ!』
 イシコは、しばらく言葉を失っていたが、
『よし、分かった。ニニギ様には、俺が報告申し上げてこよう』
とコヤネに言って、産屋を出、その戸をまた閉めた。そうして新鮮な海の空気を肺いっぱいに吸いこむと、宮殿へ向け歩き始めた。後ろからは、ウミネコにも似た赤ん坊の泣き声がまだ聞こえ続けていた。
《コヤネは正気を失っている》
 イシコは先ほどの不気味な呪術の痕を思い出して、胸が悪くなった。
《サリフはあんなことのために殺されたのか》
 ヒルメはやはり追放すべきだ。イシコはあらためて思ったが、一方、ニニギの子がヒルメのおかげでこの世に生を受けたことも、また事実なのだ。馬と母の血を浴びながら、老巫女のしわがれた手ですくいとられたあの赤ん坊は、まるで何かの儀式のいけにえのように見えた。イシコはぶるっと身震いをした。コヤネはあの子をオホヤシマの王にすると言っていたのだ。
 前方に宮殿前の門が見えてきた。もうすぐ夜明けだ。空全体が、うす紫色に煙ってきた。イシコはため息をついた。今見てきたことを、どのようにニニギに伝えればよいのか、分からなかったからだ。
                         ◎◎
 宮殿敷地内の牢からコトシロが掘った穴は、ひどく狭い上に曲がりくねっていたので、イハオシは、途中で自分がつまって動けなくなるのではないかと危惧するくらいだった。それで、広々とした地下通路にぬけ出たときには、心の底からほっとした。イハオシに続いて、カコと、ナガスネヒコも穴から現れた。
 イハオシが、持ってきたたいまつにもう一度火をつけると、通路の中がぼうっと明るくなった。ナガスネヒコは、裸の肩についた土を払いながら、通路の中を見渡した。壁と天井は土のようだったが、床は石がたんねんに敷かれてある。道幅はナガスネヒコとイハオシが並んで歩けるほどの余裕があった。
『これがイヅモの地下通路か。噂には聞いていたが、立派なものだ』
『黄泉比良坂はどちらの方向でしょうか』
『コトシロ殿は、穴を出て左と言っていたから、こちらだろう』
 ナガスネヒコが、真っ直ぐに通路の奥を指さす。イハオシはたいまつをそのほうへ向けた。道は奥へ向かって、かなりの上り坂となっているようだったが、特に問題はなさそうだった。
『では、参りましょう』
 イハオシが歩き出そうとした瞬間、カコが、
『あ!』
と声を上げたので、イハオシは驚いて立ち止った。
『どうした?』
 そして、慌てて周囲を確認したが、何も異常はなかった。カコはひどく困ったような顔をしていた。
『サグヲのことを忘れていました。どうしましょう』
『サグヲ? ああ、お前がヒスイを預かったという、ヌシロの商人か』
 イハオシも思い出した。カコは今出てきた穴をのぞいた。
『先ほどの神殿近くにサグヲもいたかも知れません。弟が牢の中に入れられていると言っていましたから』
 イハオシは、穴の中に戻りたそうなカコを制した。
『カコ。そのサグヲには気の毒だが、今さらあと戻りすることはできんぞ。外はもうすぐ夜が明ける。コトシロ様の牢が破られたことも間もなくばれるだろう。そうすれば、このぬけ穴もほどなく発見される。もしそれがまだだとしても、穴の上はコトシロ様がまたふさいでいるだろうし、牢の扉はかんぬきがかけられ、どちらにしても外に出ることはできないだろう。サグヲのことはあきらめろ』
 カコはがっかりしてうつむいた。ナガスネヒコが、言った。
『カコ。そんなに悲しむことはない。サグヲという男など、もとからいないのだから』
 カコは驚いてナガスネヒコを見上げた。ナガスネヒコは笑った。
『サグヲがいなければ、その弟や母親もいないことになる。安心するがいい』
 カコは目を白黒させた。ナガスネヒコは二人をうながして歩き出した。
『つまりな、サグヲとは、探男、つまり間者のことだよ。おそらくニニギの手の者だろう。お前に近づいて、ヒタカミの情報を手に入れようとしたのだろうよ。とっさに自分をサグヲと名のるあたり、なかなか遊び心がある奴ではないか』
『サグヲが、ニニギの間者……』
 カコは、呆然とした。それに気づかず、サヲネやナガスネヒコのことまでべらべらとしゃべってしまった自分を思い出す。悔しさと自分への腹だたしさで涙が出た。
『申しわけありません、ナガスネヒコ様。そうとも知らず、私は……』
 あとは嗚咽で言葉にならなかった。ナガスネヒコは優しく言った。
『そう気にするな、カコ。お前はこうして私をニニギやコトシロ殿に会わせてくれたではないか。それにサグヲともヒスイをとおして、私は間接的に会うことができた。会うということは、とても大事なことなのだ。そこから往々にして色々なものが動き出す。お前は私に多くのものをもたらしてくれたのだよ。謝ることなど、ない』
『は……、ありがとうございます、ナガスネヒコ様』
 カコはしゃくりをあげた。その時、イハオシが高々とたいまつを掲げた。
『あ、ナガスネヒコ様。着いたのではありませんか』
 石敷きの通路が終わり、三人は土の上に立った。イハオシがたいまつで照らそうとしたが、洞窟の中は驚くほど広く、全体像をつかむことはできなかった。しかし、かび臭い通路の中とは違い、そこはひやりとした新鮮な空気で満たされていた。たいまつの火も力強く燃え出した。カコが右側の壁に沿って少し歩いてみたあと、声を上げた。
『イハオシ様。ここに穴があります。これではないですか?』
『お、そうか』
 イハオシがカコのほうへ向かおうとした時、ナガスネヒコが二人に言った。
『そちらは東側だ。コトシロ殿は西の穴だと言った。イハオシ、反対側の壁を照らしてくれ』
 イハオシとカコは慌てて戻って来た。今のが、黄泉の国へ通じる穴だったかも知れない。
 西の海岸へ通じる穴は、すぐに見つかった。コトシロが言ったとおり、洞窟から真っ直ぐに伸びた、大きな穴だった。進んで行くと、やがて出口にたどり着いた。イハオシはそこから少し頭を出して外をのぞいてみた。穴は断崖の途中に開いている。ちょうど灌木の影になっているので、外からはこのような穴があることはめったに分からないだろう。すでに空は夜から朝に、移り変わろうとしていた。
 ひととおり外の様子を窺うと、イハオシはたいまつを足で踏みつぶして消した。
『確かに、コトシロ様のおっしゃったとおり、ここはヒの岬です。見覚えのある岩が確認できました。ここからほんの少し南には、我らの船がいるはずです。その船に乗ってしまえば、こっちのものです。岬の崖はそんなに急ではないので、ここから海に下りることは不可能ではありません。しかし、夜が明けかけています。三人で崖を下り、船に近づけば、ニニギ軍の兵どもに見つかりやすくなります。誰か一人、泳いでそっと船まで行って、船をここまで走らせるよう指示したほうがいいと思います』
『では、私を行かせてください』
 カコが申し出た。
『私は泳ぎが得意で、長い間潜水することもできます。うまく船に近づいて、仲間たちを呼んで参ります』
 イハオシは、いったんナガスネヒコを見たあと、うなずいた。
『よし。では、カコに頼もう。俺とナガスネヒコ様はいつでも船に乗り移れるように、岩の陰に隠れている。気をつけて行けよ』
『はい』
 イハオシとナガスネヒコが見守る中、カコはするすると崖を器用に下りてゆき、たちまち一番下の岩場までたどり着いた。そして、躊躇なく海に飛びこむと、ぐんぐんと泳いでいった。西の湾から見えそうな場所まで来ると、一つ大きく息を吸ったあと、その姿はふっと波間に消えていった。イハオシはそれを確認すると、ナガスネヒコを振り返った。
『泳ぎが得意だと言うだけありますな。まるでひれのついた鹿のようです。さあ、私たちも崖を下りて、カコが船を呼んでくるのを待ちましょう』
 二人の主従は、カコほどではないにしろ、特に難しさを感じることもなく、岩や灌木を伝いながら、崖を下り始めた。
 カコは、ほの明るい海の中をイルカのように泳ぎながら、ツガルの船の大きな底を目指した。陸から見て船の影になっている場所にそっと顔を出し、辺りを窺うと、うまい具合に敵の船はこちら側にはいない。
カコは水面から上を見上げると、船腹に水平に何本かはられている補強板を手がかりにしながら、いっきに上り始めた。あともう少しで船べりに手が届く、というところで、甲板で見はりに立っていた男と目が合った。
『あ!』
 船員が大きな声を上げようとするのを、カコは慌てて、
『しいっ。私です。カコですよ』
と言って、制した。船員は驚きながらも、カコが甲板に降りるのを手伝った。
『カコさん。いったい、こんなところで何をしているのです?』
 そうして、カコのずぶ濡れの体を呆れながら見た。カコがもどかしげに、
『ところで、ニニギの兵はまだ見はっていますか?』
と訊くと、船員はうなずいた。
『砂浜にまだ大勢いますよ。最初は船に乗って監視していたのですが、どうも奴らは、船にあまり乗り慣れていないようですね。半日も経たないうちに、みな気分が悪くなったようで、陸に引き揚げていきました。さすがに船をいつでも出せるようにはしているようですが。こんな静かな湾内で船酔いするとは、情けない奴らです。こっちは船の上で育ったみたいなものだから、逆に陸に上がると調子が悪いくらいですがね』
 そう言って、船員は日に焼けた顔から真っ白な歯を見せて笑った。カコは陸のほうを眺めた。朝霧がたちこめてきて、辺りはもやがかっているが、確かに浜には船と人の影がいくつか見えた。カコは、船員をかえりみた。
『サヲネ様に会いたいのですが』
 今回の船旅には、むろんサヲネも同行していた。サヲネはツガルの海運をとり仕切る責任者であって、この船では船長として乗りこんでいた。
 船員がサヲネを呼びに行くと、サヲネは服をきちんと着た状態で、すぐにやって来た。夕べから一睡もしていなかったのである。
 サヲネとカコは、陸から見えない場所で、ひそひそ声で話した。
『カコ。お前だけ、どうしたのだ。ナガスネヒコ様とイハオシ様は、どこにおられる』
『ご安心ください。無事ニニギのもとからぬけ出し、今はヒの岬の崖下で、船を待っておられます。あとはお二人を船にお乗せして、いっきにヒタカミまで走らせればよいのです』
 サヲネは、目を輝かせた。
『よし。いつでも出港できるよう、準備はすでに整えてある。あとは命令を出すだけだ。この霧も我らに幸いだ。すぐに船を出そう。カコ。お前はナガスネヒコ様たちをすぐに引き揚げられるよう、準備をしておいてくれ』
『かしこまりました』
 サヲネはきびきびと船員に指示を出し始めた。
『漕ぎ手を位置に着かせろ。帆をはる用意をしておけ。鳥のように素早く、魚のように静かに行動しろ。奴らが寝ぼけ眼のうちに、この港から出て行くんだ』
                         ◎◎
 朝日が湾に徐々に射しこんできて、霧の奥を照らし始めた時、ニニギ軍の一人の兵が、同じくツガルの船の監視に就いていたフトダマに、言った。
『あ、フトダマ様。奴らの船がありません』
『何だと?』
 フトダマはぎょっとなって、目を凝らした。
『まさか……』
 確かに一瞬前までは、霧の向こうにその大きな影が映っていたはずなのに、今ではかき消えたように失せている。
『早く、早く船を出せ』
 兵たちが慌てて船の準備をしている間、フトダマはまだ自分の目が信じられずにいた。
《まさか、奴らがナガスネヒコを置いて船を出すはずはない……》
                         ◎◎
 フトダマがようやく小舟に乗りこんだ時には、ツガルの船はすでにヒの岬にまで回りこんでいた。ナガスネヒコとイハオシは、船影が見えた瞬間に海へ飛びこみ、あっという間に船まで泳ぎ着くと、カコが垂らしておいた縄梯子にしっかりとつかまった。サヲネはそれを確認すると、二人がまだ船上にまで上りきらぬうちに、すぐにまた船を動かした。
『帆をはれ! 漕ぎ手はちぎれるほどに腕を動かせ! オホヤシマで一番の船と一番の船乗りは、どこの国のものか、目にもの見せてやれ! ツガル人を船に乗せたままにしておいたことを、奴らに後悔させるのだ』
 船中から、おおっという男たちの喊声が上がった。帆がはられ、ぐうんと船脚が速くなる。たちまち船の周りに風が強く巻き起こるほどだった。カコは船尾の向こうへ目を凝らした。朝日のまぶしい光に射ぬかれ、霧は急激に晴れてきているが、その中に追手はまったく見あたらなかった。
 カコはほっとして、言った。
『イハオシ様。もう大丈夫のようです』
 イハオシも胸を撫で下ろしたが、すぐに顔を引きしめた。そして、わきに立ち、前を見つめているナガスネヒコを見やった。ナガスネヒコの髪は暖かい風に吹かれ、すぐに乾いてさらさらとなびいていた。
『ナガスネヒコ様。ヒタカミに戻ったあとこそ、我らの正念場ですな』
 八咫鏡を渡したからといって、ニニギたちがヒタカミを、オホヤシマ全土の支配をあきらめるとは思えなかった。必ずや近い将来、彼らと戦うことになる。イハオシはヒタカミの未来に暗い霧がたちこめてきており、それはなかなか晴れることはないだろうと思った。
 ナガスネヒコは、沈んだ顔をしているイハオシとカコを振り返った。その目は海を反射して青く澄んでいた。
『そうだ。長い戦いになる。それは間違いない。今までとは違う千年が、我らを待っている』
 イハオシが訊いた。
『ヒタカミは、奴らに勝つことができるでしょうか』
 ナガスネヒコはまた、船の行く先に視線を移した。
『あるときは勝ち、あるときは負けるだろう。一時的に彼らが優勢に思え、我らの力があまりに小さく弱く感じられるときもあるだろう。しかし大事なことは、そんなときであっても命をつないでゆくことだ。ヒタカミの血と魂を、この地に確かに刻んでゆくことだ。どんな国であっても、永遠に続くことなどあり得ない。しかし、その国に生きた命は、連綿と次の世代、次の国になっても受け継がれていくのだ。山が焼けても、新たな芽ぶきはすぐにまたある。その芽はどこからきたのだろうか? やはり同じ山の中から生まれてきたものなのだ。我と彼との命の違いはどこにある? コトシロ殿に言ったとおり、私は彼らの命と魂をみ続けようと決めた。それはとりもなおさず、我らの生き続ける道を模索するということにほかならない。もしかするとそれは、死ぬよりもつらい道かも知れぬ。恥辱を受けるときもあるだろう。しかし、自分の魂をみ失ってさえいなければ、真に誇りを傷つけられることはないのだ。ヒタカミの命と誇り。私は未来に、これらを残していきたいのだ。それに成功したときこそが、我らの勝利だと、思っている』
 船は、ひたすらに東へ東へと上っていった。太陽が生まれいづる母なる大地、ヒタカミを目指して。イハオシにはそれが、未来への時の扉を押し開ける、あらたな旅路の始まりのように思えた。
                         ◎◎
 イヅモの宮殿の、王の間の前を守っていた二人の兵は、明るくなってゆく空を眺めながら、のんびりと会話を交わしていた。
『ああ。眠いな。もうそろそろ交代の奴が来てもいいころだが、どうしたんだろう』
『なんだ、お前知らないのか。盗っ人が現れたとかで、隊の半分が駆り出されているんだよ。俺なんて、本当は休暇だったのに、ここの立ち番に来させられたんだぜ。代わりなんて、しばらく来ねえよ』
『本当かよ。……それにしても、ニニギ様はまだこの中におられるんだろうな? まったく音がしないが』
『眠っておられるに決まっているだろう。俺たちと違って、ニニギ様は何かを見はっている必要はないわけだからな』
『そりゃ、そうだ』
『しかし、立ち番はいいが、いつも出される夜食も結局来なかったな。ニニギ様だって昼から何も食べておられないんじゃないか』
『ああ。腹が減ったな』
 兵士が自分のすきっ腹を撫でようとした時、背中から腹にかけて何かが貫通した。驚いて下を見ると、赤くぬらぬらと光る刃が、自分の腹から突き出ていた。兵士は、驚いた表情で仲間のほうを振り返ろうとして、そのまま床に崩れ落ちた。
 コトシロは剣をその兵の体から抜くと、すぐさまもう一人の兵に斬りかかった。兵は剣を抜こうとした右腕をコトシロに切られ、ぎゃっと言って逃げ出そうとしたが、後ろから心臓を貫かれて絶命した。
 コトシロは最初の兵の体をまたいで、控えの間に入ると、王の間の扉を押した。鍵はかかっていない。扉は音もなく開いた。部屋の中は明かりもなく、暗かった。しかし、ニニギはすぐ目の前にいた。ナガスネヒコが出た時と同じ姿勢のまま、床の上で一心に鏡を見つめている。コトシロが入って来ても、ぴくりともしなかった。コトシロはニニギの顔をのぞきこんだ。目がひどくうつろだった。そこには何の光も映っていない。
『鏡の中に、魂を囚われたか……』
 コトシロは顔を上げた。真正面の壁に、天叢雲剣と八尺瓊勾玉がかけられている。コトシロは血で汚れた剣を床に捨てると、天叢雲剣を手にとった。そして、ニニギの真後ろに立ち、剣を構えた。イヅモの国主として、初めて天叢雲剣を手にしたのだ。そしてこれが最後となるだろう。コトシロは、ともすればふらつきそうになる我が身に強いて力を入れると、ニニギと同じように八咫鏡を見た。鏡には、ニニギの顔の上から、コトシロの顔がくっきりと映っていた。
 コトシロは、鏡をとおしてニニギの顔を睨むと、いったん大きく息を吸った。そして、朗々とした声で詞(ことば)を上げ始めた。それは、イヅモの新しい国主が、襲名の儀式に際し、神と民に向かって唱える誓いの詞なのだった。
『八雲立つ国 霧たなびく国 八百万(やおろず)の神々の住み給ふ 此の国に 百歳千歳万世(ももとせ ちとせ よろずよ)に 仕え奉(まつ)る 我が名は 出雲建(いづもたける)、亦の名は大國主(おほくにぬし)、亦の名は大穴牟遲(おほなむぢ)、亦の名は葦原色許男(あしはらのしこを)、亦の名は八千矛(やちほこ)、亦の名は宇都志國玉(うつしくにたま)
 此れ 此の大八洲(おほやしま)の万(よろず)の大神等(おほかみたち)の御前(みまへ)に 恐(かしこ)み恐みも白(まう)さく 参集(まゐつど)ひたる美(うるは)しき国民(おほみたから)の前に 忠信より誓ひて白さむ 我が身 八(や)つに引き裂かるるとも 出雲の神に背くことなく 我が魂(たま) 八十(やそ)の隈路(くまぢ)にゆくとも 出雲の民を捨つることなし 
 出雲の霧より湧き出でたる 此の広き天叢雲剣をもちて 穢れを祓い 惑ひを晴らし 道を切り開かん
 願わくは 我が魂(たま)幽(かく)るるとも なほ 此の国に留まり 我が子孫(うみのこ)の八十(やそ)続く護りの神とならんことを 
 願わくは 我が身 我が国の土となり 我が骨 我が国の礎(いしずえ)となり 我が血 我が国を潤(うるほ)す川とならんことを
 今ここに 海川山野の味物(ためつもの)を捧げ奉り 鹿(しし)じもの膝折り伏せ 鵜じもの頸(うな)ね突き抜き 我が国の弥遠(いやとほ)に五十橿八桑枝(いかし やくはえ)の如く立ち栄えしめ給へと 祈(ね)ぎ奉る状(さま)を 聞こし食(め)せ』
 そしてコトシロは、天叢雲剣を力いっぱい振り下ろした。ぶうんと重い音とともに、天叢雲剣は空と、そしてニニギの首を斬り裂いた。血しぶきとともに、ニニギの首が宙を舞った。コトシロは全身にニニギの血を浴びながら、しばらく像のように身動きもしなかったが、やがて力尽きたようにがっくりと膝を折った。かたんと物音がして、扉の外を見ると、殺したはずの兵のうち、一人の姿が消えていた。とどめを刺しきれなかった兵が逃げたらしい。間もなく仲間を呼んでくるだろう。どちらにしても、コトシロには、この場から逃げきれる体力は始めから残っていなかった。いや、何故コトシロがこの場から逃げねばならないのだ。この国から去らねばならぬのは、奴らのほうなのだ。国を穢し、神を冒涜した奴らこそ、今に、永遠の呪いが自分たちにかけられたことを知り、恐怖におののきながら逃げ惑うことになるだろう。
 コトシロは、激しく咳をした。大量の血がぼたぼたと口からあふれ出てきた。コトシロの血とニニギの血が、床の上で混じり合った。
《ナガスネヒコは何と言っていたかな。我らと彼らは互いに争い合い、血が流れ、そして混じり合う、だったか。そのとおりになったではないか? ナガスネヒコの言うことは、いつも正しい。彼は今も、この八咫鏡をとおしてこちらをのぞいているのだろうか》
 コトシロは、首を失ったニニギの体越しに八咫鏡を見た。ひどく目がかすんで、鏡の面は泉をのぞきこんでいるようにゆらゆらと揺れているようだった。違う、揺れているのは、コトシロのほうだった。コトシロは、ゆっくりと床に倒れた。世界は血のように赤く、波うっていた。
《ああ、イヅモ、イヅモ。我が命、我が世界よ。私を受け入れてくれ。私は最後までお前の子、お前の王として生きた。そしてこれからもお前に仕え続けよう。だから、私を忘れないでくれ。私をその腕(かいな)に抱き、けして離さないでくれ!》
そうして、最後の息を吐いた。しかしその目は、大きく見開いたまま、血の赤を映し続けていた。
                         ◎◎
《これは、嘘だ。何かの間違いだ。でなければ、悪い夢だ》
 イシコが宮殿の正門に着いてすぐ、王の間を守っていた衛兵の一人が血まみれの体を引きずり、門のそばに倒れこみながら、
『ニニギ様が……』
と言ったきり、こときれた。イシコは兵の言葉を聞くより先に、全速力で駆け出し、宮殿内を風のように走り抜けて、王の間に飛びこんだが、すでにニニギの頭と胴は離れたあとであった。血の海の中でしっかりと天叢雲剣を握ったまま死んでいるコトシロを見れば、ニニギに何が起こったのかは一目瞭然だったが、イシコの頭の中には、
《何故だ、何故だ》
という言葉しか浮かばなかった。
 ぴちゃぴちゃと音をたてながら、部屋を横ぎり、隅に転がるニニギの首にすがりつく。
『ニニギ様、ニニギ様』
 ニニギの顔はまったく血に汚れていなかった。その目は真っ直ぐに前を見つめていた。それは、イシコには分からない、しかし具体的な何かを見ているようだった。
『何故です? ニニギ様。何故、あなたはこんなにも早く逝ってしまわれたのです? あなたの国は、これから大きく育っていこうとしていたのに、何故それを見ぬうちに旅だってしまわれたのです? 海を越え、神の国と神の宝を手に入れた、あなたは神の王となられたのではなかったのですか? ああ。ニニギ様。あなたをこんなところへお連れするのではなかった。体をはってでもおとめするべきだった。あの平原の、大きく単純な世界から、我々は出るべきではなかったのです。神は空の上にあり、人は地を駆けるあの土地こそ、我らが生きるべき場所だったのです。ニニギ様、ニニギ様。私の居場所はあなたと同じと、幼きころに誓いました。しかし、今のあなたはいずこにおられるのです? あなたの目は何をご覧になっているのです? 私はいったいどこに行ったらいいのです?』
 そして、大きな声を上げて泣いた。王の間の前には、兵たちが次々と集まり、部屋の中を驚き恐れながら見守っていたが、イシコは何も気がつかなかった。ニニギがいなくなった今、何をどう考える必要があるというのか。
 そこへ、足音高くやってくる者がいて、兵たちを退かせて部屋の前への道を開けさせた。コヤネだった。腕には白絹につつまれた産まれたての赤ん坊を抱えている。そして、王の間を一瞥し、はっと息を呑んだが、すぐに大声で宣言するように、言った。
『みなの者。偉大なる日は落ちた。しかし、安心するがよい。その血、その意志は、新たな日に受け継がれる。我が腕に抱かれているこの幼子こそ、ニニギ様の正当なる継承者となるべき皇子である。皇子は今朝ほど、夜明けとともにこの世に生を受けた。新たな日は、古き日よりもさらに大きく光り輝くであろう。我らは我らの国をこのオホヤシマの地に作ると決めた。その国は、空は太陽神により護られ、地は黄金の穂の実りに満ちたものになろう。太陽の祝福を受けて生まれた日継ぎの皇子、このヒコホノニニギとともに、ニニギ様の意志を継ぎ、我らの王国を、力を合わせて築いてゆこうではないか!』
 その時、計ったかのように、まばゆい朝日が射しこみ、コヤネが高々と掲げた赤ん坊の生まれたての顔を神々しく照らし出した。赤ん坊は、ひとしきり声を上げて泣いたが、それが、聞く者には、まるで進軍を告げる喇叭のようにも聞こえた。
 わあっ、という兵たちの歓声が沸き上がった。
『ヒコホノニニギ様、万歳!』
『我らが新王、万歳!』
 熱狂の渦のかたわらでは、先ほどまで自分たちの王だった者の首が転がっていることなど、誰もが忘れ去ってしまったかのようだった。コヤネは巧みに兵たちを王の間の前から連れ出しながら、そばにいるフトダマに目配せをした。フトダマが万事心得たように、うなずく。
 コヤネたちが見えなくなると、フトダマは王の間で、放心状態で座りこんでいるイシコの腕から、そっとニニギの首をとり上げた。イシコは何の抵抗もしなかった。フトダマはそっとささやいた。
『イシコ様。少しお部屋でお休みになられたほうがよろしいですよ。ニニギ様のことは、私のほうでいたしますから』
 イシコはうなずいて、立ち上がった。そして、ふらふらと部屋を出かけたが、ふと、もう一度振り返り、王の間の中を見わたした。初めて気づいたように、フトダマを見て、言った。
『フトダマか。ニニギ様を、ニニギ様をよろしく頼む。俺はもう、ニニギ様のお役にはたてない。ニニギ様がどこに行ってしまったのか、分からないのだ。ニニギ様は、俺を置いて、いってしまった。ニニギ様には、もう俺が必要でないのだ。一人でいってしまわれた……』
 フトダマは変な顔をしたが、イシコは一人うなずいて、歩き去った。その後ろ姿は、かつての勇壮な将軍とは似ても似つかぬ年よりじみた小さな弱弱しいものだった。
《一晩で人が年をとるというのは、ほんとうだな。これでコヤネ様の政敵がまた一人減ったというものだ》
 そうして、自分の手の中にある血まみれの首と、床にある二つの体をながめた。
《コヤネ様は、確かに強運に恵まれている。サヰ様はお亡くなりになられたが、皇子をお残しになった。しかも、前王は同じ日、同じ時に別な敵の手で殺された。何だか、コヤネ様の思うとおりになっていくではないか》
 フトダマは、ニニギの首を持ったまま、自分の臭いをちょっと嗅いだ。夕べからコヤネの命でサリフの皮をはいだりと、汚れ仕事ばかりしているので、血の臭いが体に染みついているような気がする。
《さっさとこいつを終わらせるか》
 フトダマは壁にかかっている絹の織物を引き裂いて、ニニギの首をくるむと、大股で王の間を出た。王の間と、控えの間の扉を二重に閉める。そして近くにいた兵に、王の間に誰も入れないよう命じたあと、宮殿の広い廊下を足早に歩きながら、今後の手はずを頭の中で反芻した。
《ニニギ様の首はヒルメに渡し、神の死にしかるべき儀式をさせる。そうだ、これと同時に新王の即位礼もおこなわねばならん。忙しくなるぞ。それから、キギシの奴を呼ばねば……》
                         ◎◎
 宮殿全体が慌ただしく動いている中、イシコだけはじっと部屋に閉じ籠もりきりになっていた。
 真夜中、ふと目が覚めた。いつの間にか眠っていたらしい。起き上がって、灯りをつける。血で汚れた服と体は、誰がしたのか、きれいになっていた。闇の中から帰ってきて、まず心に浮かんだのは、
《もう、この世にニニギ様はおられないのだ!》
ということだった。彼の王、彼の日、彼の魂は失われた。イシコは、ニニギの子をあらたな主人として戴く気持ちにはなれなかった。彼が愛し敬ったのは、ニニギという一人の偉大なる男の魂なのであって、その血ではないのだ。
 ぼんやりと灯りを眺めていると、どんどん時がすぎ去っていくのが分かる。王の間に駆けつけたのは、昨日のことだったのだろうか。自分の腕にニニギの首をかかえ涙したのは、一昨日のことだっただろうか。こうしている間にも、自分は確実に年をとっていっているのだ。イシコには、もう、何もかもがどうでもよかった。
 突然、部屋の戸が開いた。イシコは入って来た人物を見たが、最初、それが誰か分からなかった。強いて焦点を合わせる。
『ああ、オシヒか……』
 オシヒは怒ったようにばたんと戸を閉めると、立ったまま、言った。
『イシコ様。起きておられるのに、何故お返事をされぬのです。私は何度も合図をしたのですよ』
 イシコは、また灯りのほうを向きながら、答えた。
『そうか? ちっとも気づかなかったな』
 そうして、ちょっとオシヒのことを考えた。
《何故、俺は、この男を使っているのだっけ。……ああ、コヤネか。これはコヤネのことを探る間者なのだ》
 しかし、何故自分がコヤネのことを知らねばならないのか、イシコにはどうしても思い出せなかった。
『イシコ様、イシコ様。聞いておられますか?』
 オシヒは、イシコを揺さぶった。イシコは、はっとした。
『なんだ。コヤネのことか? 俺にはもう、コヤネのことなどどうでもよいのだ。オシヒ。お前ももう、コヤネを無理に探ることなどない。俺には必要のないことだ。俺は必要ではないのだから……』
 オシヒは腹をたてて、言いつのった。
『ほんとうですか? もう、イシコ様にはどうでもよろしいのですか? コヤネが、ウズメ様とそのお子を殺そうとしているのに!』
『なんだって?』
 イシコは驚いてオシヒを振り返った。
 オシヒはほっとした。イシコの正気がもう二度と戻ってこないのではないかと思っていたのである。
『今、さっきのことです。フトダマがキギシを呼んで命じているのを聞きました。クマソに行って、もしウズメ様が無事出産されているようであれば、そのお子が男君であろうと女君であろうと、ウズメ様もろとも暗殺するように、と』
 イシコは、唖然とした表情のまま、オシヒを見つめた。
『何故コヤネは、ウズメが身ごもっていることを知っているのだ? そして何故、子供を殺さねばならんのだ?』
『コヤネの情報網はオホヤシマ中に延びております。むろん、クマソの情報も折りごとにもたらされているのです。ウズメ様がいくら隠そうとしても、腹が大きくなってきてしまえば、しまいには分かることですからね。コヤネは、ウズメ様の妊娠を、半月前には知っていました』
『半月も前に? であれば、何故今さら殺そうとするのだ?』
『それはむろん、まず自分の孫が無事産まれたからですよ。ウズメ様は女性とはいえ、我が軍きっての武勇の持ち主。暗殺に失敗する恐れも十二分にあります。失敗するだけならまだしも、暗殺計画を裏で指示していたのがばれ、それをニニギ様に訴えられれば、いくらコヤネとて失脚は免れませんからね。失脚してしまえば、自分の孫をニニギ様の継承者にするどころではないでしょう。それに、昨日までは、その肝心の孫も、産まれるかどうかすら分かりませんでした。ですから、コヤネは、情報だけ受けとって、動かなかったのです。それと、コヤネの性格からいって、サヰの子が無事産まれても、ウズメ様の子を殺すことまでは、これまでは本気で考えてはいなかったと、私は思っています。といいますのは、コヤネはヒルメに、サヰの子が、ウズメ様の子よりも早く産まれるよう、祈祷させていたからです。長子であれば、ほかの子よりも優位にたてますからね。だいたい、これからニニギ様の子が生まれるたびに殺すわけにもいきませんよ。それに、サヰの子も、ウズメ様の子も、ほんとうにちゃんと育つか分からないのですし。コヤネが、ウズメ様たちの暗殺を最終的に決断したのは、ニニギ様の死を知ったためだと思います』
 イシコの体が、ぴくりと動いた。
『これで、ニニギ様の血を引くのは、この世でサヰの子と、ウズメ様の子以外になくなりました。ニニギ様は跡目のことを遺言される間もなく、お亡くなりになりました。こういった場合、先に継承者を名のり、軍を押さえた者が有利になります。コヤネはイヅモではとりあえずそれに成功しました。しかし、もしウズメ様も、クマソで同じことをしたら、どうなりますか? 軍は真っ二つに割れ、あとは双方の実力による衝突によって、雌雄を決することになるでしょう。ウズメ様は兵たちからの信頼も厚い方です。そのウズメ様が、ニニギ様の子を旗印に掲げ、クマソの豊かな土地と兵力を背景に立ち上がれば、コヤネとて危ういものです。コヤネは慎重居士です。しかし、将来の危険を察知することにも長けております。コヤネは危険の芽を摘もうと決心したのです。ウズメ様が、ニニギ様の死を知らぬうちに、その子もろとも殺すと決めたのです』
 イシコは立ち上がった。
『そんなことはこの俺がさせぬ。キギシはもう出発したのか』
 オシヒは、イシコの目にまたよみがえった光を見て、喜んだ。
『いえ、まだのはずです。夜明けと同時に出ると言っておりましたから』
『よし。お前はすぐにクマソに向け、発て。キギシよりも早く、ウズメにこのことを知らせるのだ』
『イシコ様は、どうされるので?』
 オシヒは、イシコが剣の準備をし始めたのを見て、訊いた。イシコは、不安げなオシヒの目と合うと、にこりとした。
『大丈夫だ。お前の道中に誰も邪魔を入れぬよう、俺が見はっておいてやるからな。そうだ、ウズメに、これを持って行ってくれぬか』
 そう言ってイシコは、棚の奥から革袋をとり出し、オシヒに渡した。
『これは……』
『ナガスネヒコから渡されたヒスイだ。ほんとうは、ニニギ様にさし上げようと思っていたのだ。……しかし、今となってはそれもできぬ。ニニギ様のほかにこれをもつ資格がある者がいるとすれば、ニニギ様のお子だろう。サヰの子に渡せば、コヤネの手に渡ってしまうからな。ウズメの子に渡してやってくれ』
 オシヒは、イシコの目の輝きに、今度は落ち着かない気持ちになった。
『それでは、イシコ様からウズメ様にお渡ししたらいかがですか? そうです、私と一緒にクマソへ行きましょう。ニニギ様がいなくなった今、イシコ様がここにおられる理由もなくなったのではないですか』
 イシコは、笑ってオシヒの肩をぽんと叩いた。
『ははは。俺はまだ、ここの軍の大将だぞ。忘れたのか。これはニニギ様が決められたことだ。大将が軍を捨てていくわけにはいかんだろう。武人が軍を離れるときは、死ぬときだよ。ニニギ様も、そこを分かってはおられんようだった。さ、早く出るのだ。馬は俺の栗毛を貸してやろう。サリフの次に早い馬だ。性格もごくいい。かわいがってやってくれ』
                         ◎◎
 イシコは厩へ行くと、馬番に馬を二頭出すよう、命じた。
『俺の栗毛と、あともう一頭貸してくれ』
『かしこまりました』
 馬番が馬の用意をしている間、イシコは厩の中を見わたしていて、はっとした。
『馬がもう一頭見えぬが、俺のほかに馬を用意させた者がいるのか?』
『はい。フトダマ様のご命令で、つい先ほどお渡ししました。なんでも長旅をするので、丈夫なやつを、ということでした』
『しまった!』
 イシコはもどかしげに馬番から二頭の馬を受けとると、栗毛の手綱を持ちながら、もう一頭にまたがり、走らせた。
『オシヒ、オシヒ』
 宮殿の外に出て、街道へ向かう道に出ると、イシコは声を上げた。オシヒが木の枝の上から、栗毛の鞍の上に飛び乗ってきた。
『キギシのやつ、もう出てしまったかも知れんぞ』
『分かっております。さっき、私の目の前を通りすぎていきました。しかし、まだそんなに遠くには行っていないはずです。国の中にいる間は、そんなに飛ばさないでしょうから』
 オシヒの言ったとおり、二人が馬を駆けさせていくうち、前方に馬に乗った人の影が見えてきた。そこは、もうほとんどイヅモ国のはずれで、海に面した崖と山の間に作られた街道だった。
 その男は、後ろから蹄の音が近づいて来たのに気づいて、振り返り、そのうちの一人がイシコと分かって、一瞬、ぎょっとした表情をしたが、すぐに素知らぬふりをして前に向き直った。それは、やはりキギシだった。
 イシコは、キギシの左にぴたりとつけると、その顔をのぞきこんだ。
『キギシではないか。こんな夜中に、馬でいったいどこへ行こうとしているのだ? 旅の準備をしているようだが』
 そうして、キギシの馬に乗せられた荷物をじろじろと見る。キギシは平然とした様子をとりつくろいながら答えたが、その声は若干震えていた。
『私は、フトダマ様のご命令で、クマソへ向かう途中なのです』
『クマソへ? 何をしに行くのだ?』
『むろん、ウズメ様に、ニニギ様が崩御されたことをお伝えにゆくのです』
『ほう! それにしては、変な時間に発つものだな。それに警備もつけずに不用心ではないか。一人でこそこそと、まるで秘密の任務を負っているようだぞ』
 夜明け前にまたたくわずかな星の明かりのもとでも、キギシの額からじっとりと汗が流れ出ているのが、見えた。
『人聞きの悪いことをおっしゃらないでください。コヤネ様が、一刻も早くウズメ様にお知らせするようにと、言われたものですから。それに私は、クマソへの道はよく知っております。警備などなくても、大丈夫です』
『コヤネが? 先ほどは、フトダマの命令で、と言ったではないか』
『コヤネ様のご命令を、フトダマ様より伺った、と申したつもりでした』
『そのコヤネの命令とは、ウズメとウズメの子を暗殺せよ、というものだろう』
『な、何をおっしゃいます?』
 キギシは、イシコを振り返ったが、イシコが剣に手をかけているのを見て、とたんに馬に鞭を入れて、駈け出した。
『待てっ』
 後ろにいたオシヒが、すかさず背負っていた弓で矢を放った。あやまたず矢はキギシの乗る馬の脚に突き刺さった。馬がいななきながら、立ち上がったので、キギシはたまらず、地面に落ちた。イシコはキギシを、馬の上から見下ろした。
『おい、キギシ。何故逃げる? 俺の言ったことが、あたっていたからか?』
 キギシはぎょろぎょろとイシコとオシヒを交互に見た。
『イシコ様こそ、何故私にこんなことを? コヤネ様に知れれば、イシコ様とてただでは済みませんよ』
『何だと? コヤネが俺に対して何ができる? 俺は、ウズメとともにニニギ様の第一の側近。俺を裁けるのは、この世でニニギ様ただお一人だ』
『そのニニギ様がお亡くなりになった今、我らの上に立たれるのは、ニニギ様の跡継ぎであられるヒコホノニニギ様でございますよ』
『あれはまだ産まれたばかりの赤ん坊だ。すると何か? その赤ん坊の代わりに、コヤネのやつは、俺たちに命令を下そうというのか? その子の祖父というだけで?』
『いえ、そうとは申しておりませんが……』
『それに、サヰが生んだ子だけがニニギ様の血を引いているわけではない。ウズメの腹の中にいるのも、まぎれもなくニニギ様の子。きさまらの理屈でいえば、ニニギ様の跡を継ぐべき者が二人いる、ということになるな。これをコヤネはどう考えているのだ?』
『いや、そんなことは、私には……』
『ウズメがニニギ様の子をはらんでいるという言葉には驚かんところを見ると、そのことはすでに承知のようだな』
『…………』
『二人の同じ条件の世継がいるなら、あとは俺たちめいめいがどちらにつくか判断していくことになる。俺は、コヤネの孫の下にはつかんぞ。俺の部隊とてそうだ。ウズメの子が無事生まれたら、その子をニニギ様の正統な後継者として支持するつもりだ。コヤネの思うとおりにはさせん』
 そう言って、イシコは自分の剣をすらりと抜いた。キギシはじりじりと後退したが、自分の命が今や風前のともしびであることを感じていた。
 その時、背後から、
『イシコ!』
と呼ばわる者がいる。イシコが振り向くと、後ろの道に、コヤネとフトダマ、それに八人の兵が馬に乗って並んでいた。
 コヤネが一歩前に進み出てきた。
『厩から栗毛がいなくなったことを知り、もしやと思って来てみれば、やはりお前か。イシコ。先ほどのお前の言葉、ヒコホノニニギに対する反逆とみてよいのだな?』
 イシコは、激高し、答えた。
『反逆だと? 反逆とは自分の王に対して使う言葉だ。俺はヒコホノニニギなどに忠誠を誓った覚えはない!』
 そのときキギシがだっと逃げ出したので、イシコは持っていた剣をその背へ向かって投げた。剣はうなりをあげて宙を飛び、キギシの喉を後ろから貫くと、そのまま地面にぐさりと突き刺さった。
 コヤネが怒りの声を上げた。
『イシコ、何をする!』
 イシコは、ゆっくりとコヤネのほうに向き直ると、予備の剣を抜いた。
『何をだと? 俺が忠誠を誓ったウズメの子を殺そうとした者を、排除したまでだ。コヤネ。お前もそうなら、お前も殺さねばならん』
 フトダマと兵たちが剣を抜きながら、いっせいに向かって来た。イシコはそれを迎え撃つべく道の真ん中に陣どりながら、オシヒに叫んだ。
『オシヒ! ここは俺が防ぐ。お前は一刻も早くクマソへ行くのだ』
『しかし……』
『いいから、早く行け!』
 イシコは、栗毛の尻をぴしゃりと打った。栗毛は、さっと駈け出した。
『そいつを逃がすな!』
 フトダマが部下に命じて、オシヒのあとを追わせようとしたが、イシコがその兵の首をあっという間にはねた。兵の馬は駈け出したところを荷の釣りあいを崩されたため、脚をからませ、悲しげにいななきながら首のない体を乗せたまま、海へと落ちていった。
『フトダマ。ここは俺を倒してからでないと抜けられんぞ!』
 イシコはそう言っている間にも、二人の兵の体を次々に剣で突き刺していた。兵はそれぞれ地面に落ち、乗り手を失った馬どもはそのまま国外へと走り去った。
 全身に返り血を浴びたイシコは、てらてらと黒く濡れた剣を大きく構え、残りの兵たちの真正面に相対した。フトダマと、三人の兵が、イシコを半円の形で取り囲む。
 じろり、とイシコが右端の兵をにらんだ。その目と合った兵は、びくりとして剣を持ちなおそうとしたが、その時、自分の両の腕がないことに気づいた。肘から先をすっぱり斬られた腕が、剣と一緒に地面に落ちたのを見届けたのと同時に、兵は喉を貫かれた。
 次の瞬間、流れるような動きで、イシコの馬が、二人の兵馬の間へと、移動する。
 兵たちは、慌てて間合いをとろうとしたが、狭い山道ゆえ、思うように身動きがとれない。体勢の整わぬまま、一人は、イシコの剣の柄で頭をかち割られ。血泡を吐いて、鞍の上から滑り落ちた。その乗っていた馬が、動揺し、後脚で立ち上がる。イシコは、その後ろへするりと廻ると、山側から自分の馬で体当たりした。当たられた馬は、見境をなくし、味方の馬のわき腹へと突進した。
 フトダマのすぐ隣にいた兵は、それを避けることもできず、剣を虚しく振り回しながら、二頭の馬とともに、真っ暗な崖下へと転がり落ちていった。
 すべての部下を失ったフトダマが、獣の咆哮に似た雄たけびとともに、イシコに斬りかかった。
ぶうんとフトダマの剣が強烈な勢いで真上から振り下ろされる。が、イシコはそれを自分の剣でがっちり受けとめると、躊躇なく空いている手をフトダマの右目に突っこんだ。
『ぎゃっ』
とのけぞったフトダマの厚い胸板に、イシコの剣が深々と突き刺さる。フトダマはそのまま落馬し、ぼきりと嫌な音をたてて首の骨を折り絶命した。
 イシコはもぎとったフトダマの目玉を地面に捨てると、コヤネのほうを振り返った。
 コヤネは少し離れた場所で戦いを見守っていたが、イシコの鬼神のごとき戦いぶりに、心底恐怖を感じていた。フトダマまでがあっさりと倒されると、その顔は、普段よりももっと青く、むしろ白いといってもいいくらいになった。コヤネはかたわらの兵に向かって、
『何をしている! イシコを狙え!』
と怒鳴った。兵は慌てて弓に手を伸ばしたが、矢を放つ前に、
『ぐっ』
とうめいて、馬から落ちた。その背には一本の矢が深く突き刺さっている。コヤネが驚いて後ろを振り向くと、いつの間に回ってきたのか、わきの深い山の中から、オシヒが弓をさらに構えながら歩き出て来た。
『ばか、オシヒ。お前、まだいたのか』
 オシヒは、ぴたりとコヤネに狙いを定めたまま、イシコに答えた。
『イシコ様。コヤネを殺さないうちは、ウズメ様とそのお子の命はいつまでも危険にさらされ続けます。こ奴を何とかするほうが先ですよ』
 コヤネは手綱を握りしめ、どこかに行こうとするかのようにきょろきょろとしたが、道は狭く、後ろにはオシヒ、前にはイシコが立ちふさがり、どこにも抜ける場所はなかった。
 イシコは、フトダマの体に刺さったままの剣の代わりに死んだ兵の剣を拾うと、それを持ってコヤネのほうへ馬を進ませた。
『なるほど。オシヒ。お前の言うとおりかも知れん。すべての元凶は、こやつの野心。国をかき乱し、幼子すら政治の道具に使わんとするその権力欲こそ、憎むべきものだ。さあ、コヤネ。覚悟しろ!』
 イシコは馬の腹を強く蹴った。馬はひと飛びに、コヤネのもとに駆けよった。コヤネは、大きく口を開けて叫ぼうとするようだったが、声は出なかった。イシコは、コヤネの体を真っ二つに斬り裂こうと剣を高く振りかぶったが、
『あっ』
と言って、そのまま止まってしまった。コヤネの懐には、産着にくるまれた赤ん坊がいたからである。コヤネは自分をかえりみて誰も信用できず、虎の子である赤ん坊を肌身離さず連れ歩いていたのだった。
 一瞬の迷いは、イシコの命とりとなった。いつの間にか馬を下りて近づいていた、コヤネの最後の兵が、子供に目を奪われていたイシコのわき腹から胸に向かい、ななめに剣を深く突き刺した。イシコはものも言わず、ゆっくりと馬から落ちた。
『イシコ様!』
 オシヒはすぐに矢を放って、その兵を殺した。そのすきにコヤネは馬に鞭うつと、オシヒがもう一度矢をつがえる暇を与えず、そのわきをすり抜けて、呆れるほどの速さでイヅモのほうへ逃げ去っていった。
オシヒは、急いでイシコのもとに走りよった。
『イシコ様! しっかりして下さい!』
 イシコはうす笑いを浮かべた
『最後にへまをやってしまったな。コヤネを討ちもらしてしまった。ウズメに謝っておいてくれ』
『イシコ様。今にコヤネがあらたな兵を連れて戻って来ます。早くここから逃げましょう』
『そうだ。オシヒ。早く行け』
『イシコ様もご一緒に!』
 イシコは半眼を開けた。
『オシヒ。俺が行けぬことくらい分かっているだろう。分かっているなら、さっさと行くのだ。お前にはまだ、重要な仕事が残っているではないか。その仕事を台無しにする気か?』
 そして、また目を閉じた。
 オシヒは、唇を噛みしめたが、無言で立ち上がった。前方の曲がり道に隠しておいた栗毛の馬が、ゆっくりと戻って来た。栗毛は、イシコのそばまで来ると、主人の匂いを嗅ぐようにその顔に鼻先をすりつけた。
 その時、さっと風が起こり、後ろの林から、何かが飛び出した。
 オシヒが、振り仰ぐと、翼をいっぱいに広げた鳥が、海に向かって、飛び立っていくところであった。
 その黒い影は、濃紺と瑠璃に塗り分けられた海と空のはざまを、なめらかに滑ってゆき、やがて水平線上で小さな点となって、消えた。
 栗毛が、オシヒに向かって合図するように軽くいなないた。
 オシヒはうなずいて、鞍に飛び乗った。そして、最後にもう一度イシコを見た。イシコは眠っているように見えた。
 オシヒが馬の首を向けさせると、馬はすぐにクマソに向け駈け出した。びゅうびゅうと耳もとで鳴る風の音を聞きながら、オシヒは馬の首に手のひらを押しあてた。馬も分かっているのだ。自分の主人に、この世ではもう二度と会えないことを。それは、自分の力ではどうしようもないことを。
 オシヒは、自分の頬が濡れているのを感じて、驚いてそれをぬぐった。自分の中に渦巻いているこの感情に、何と名をつけたらいいのだろう? 悲しみか? 怒りか?
 オシヒはふと思いついて、懐の革袋から、ヒスイを一つとり出した。中に青い光の入ったものだ。明るくなり始めた空を背景にして、オシヒはそれを左目に押しつけるようにして、みた。それは、以前見たような、妖しい美しさではなかった。ゆっくりと瞬きながら、濡れたように光っている。痛みと、温かさを、両方感じるような光だった。
 オシヒはヒスイをそっとしまって、また懐に入れた。もう、ヒスイをみる必要はなかった。その光は、オシヒの中にあるものと、同じものだったからだ。
                         ◎◎
 目を閉じたあと、イシコの前は、急に光でいっぱいになった。何千何万ものきらめきが、宙を埋めていた。それは、故郷の平原で見た星空に似ていた。しかし、その光はもっと近く、強く、輝いていた。生まれるずっと前に、知っていたような光だった。
《ああ、ここだ。俺はここから来たのだ》
 何故、この光を今まで忘れていたのか、不思議なくらいだった。光はこんなにも明瞭な現実感をもっているというのに。イシコは、強いて今までの人生を思い出そうとした。
《オシヒ、ウズメ、コヤネ、ニニギ様……》
 しかしそれらの名も、最後に聞いてからずいぶん長く経っている気がして、ひどくよそよそしいものに思えた。
《もう、終わったのだ。一つの世界が完全に終わり、閉じたのだ。もう俺には関係のないものになったのだ》
 イシコは安らかになった。そしてやがて、自分自身からも遠ざかっていった。◎◎◎◎

三『夢、二』完、四『伏流水』につづく
2012/03/04(Sun)09:20:19 公開 / 玉里千尋
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■作者からのメッセージ
 明鏡の巻に続く第二巻目となりますが、一巻目を読まない方でも大丈夫なように(一応)したいと思っております。
 二重カッコが気になると思いますが、今巻は現在と過去が入り交じる構成になっているため、区別の意味で、過去の部分は、全部二重カッコを使わせて頂いておりますので、ご了承ください。
 超長編になる予定ですが、多角立方体のように、世界は、見る角度で様々な姿をもっていると思っているので、一つ一つのエピソードが互いにつながりながらも、やっぱりそこに固有の物語がある、というふうに書いていけたら、と思っております。
 つたなく読みづらい点が多々あるかと思いますが、よろしければ目をとおしていただき、ご感想・ご批評などいただけると、大変嬉しいです。
 よろしくお願いいたします。
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