- 『シリウスの子』 作者:雪宮鉄馬 / リアル・現代 未分類
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全角67938文字
容量135876 bytes
原稿用紙約193.7枚
離れ離れになってしまった兄と妹の絆を描いた、現代もの中篇小説です。
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【1】
その星の名は「シリウス」という。
それは、二つの星から構成される、冬の星。おおいぬ座の九番目の星であり、オリオン座のペテルギウスと、こいぬ座のプロキオンと結ぶと、冬の大三角を形成する。中国では「天狼」日本では「青星」と呼ばれ、地球から見える恒星の中では、太陽に次いで明るい星である。そのため、その名前の由来もギリシア語の「光り輝くもの」という意味の「セイリオス」に由来している。
「ねえソラ、このアパートって屋根に上れるの?」
十一月も終わりに近付いた頃、天体写真集を開いていた柚花が、何を思ったのかぼくに言った。パラパラとページを捲る手を休め、すでに彼女の瞳は天井の向こうを眺めていた。
「まあ、上れなくはないけれど、屋根なんか上って、どうするのさ」
ぼくは、柚花のためにコーヒーを淹れながら答えた。すると、柚花はニコニコと笑顔をぼくに向ける。少女のような、無邪気な笑顔だ。
「星を見るの」
「星? こんなに寒いのに? 風邪ひくだけだよ」
「じゃあ、毛布に包まって上がる」
柚花は言い出したら聞かない。わがままと言うよりも、頑固者だ。ミルクと砂糖たっぷりのコーヒーを差し出しても、それに口をつけようともせず、柚花はぼくが折れるのを待った。コーヒーの湯気が、ボロアパートの隙間風にふわふわと揺れる。
「なんで、星なんか見たいの? ほら、この前作ったお手製のプラネタリウムがあるじゃん」
そう言って、ぼくは部屋の隅にぽつんと置かれた、黒い球体を指差した。最近流行の、ルーム・プラネタリウム。柚花が材料をぼくの部屋に持ち込んで、星見表と睨めっこしながら作った力作だ。素人ながら、かなり良いものが作れたと自慢していたのは、柚花自身だ。
「それはそうだけど、やっぱり本物の夜空には敵わないよ。もっと高いところで、こんな星空を見ることが出来たら、素敵だと思わない?」
柚花はプラネタリウムに見向きもせず、開いていた写真集をぼくの目の前に突きつけた。無数の星が、キラキラと瞬く美しい写真。きっと日本で撮影されたものではないのだろう。それが、柚花には分かっているのかいないのか、星と同じように瞳をキラキラと輝かせていた。
「ね、ね。ソラも見たくなって来たでしょ、お星様っ」
「仕方ないな……」
ぼくは溜息混じりに立ち上がった。放っておいたら、毛布を被って屋根に上りかねない。そんな自殺行為をされてはかなわない。文字通り仕方なく、ぼくは押入れの奥から、しばらく着ていない厚手のコートを引っ張り出した。小柄な柚花には、大きすぎるコートだけど、何も羽織らないで、冬空に出るよりはマシだろう。
「これでも着とけ。それから、屋根から滑り落ちても、ぼくは助けないからな」
「やったっ」
満面の笑顔になる柚花。どうせぼくが折れることをわかっていたのに、わざとらしく笑って見せる姿に、ぼくは少しだけ呆れながら、それでもぼくは柚花に甘いと、反省してしまう。柚花はそんなぼくの心情を知りもしないで、受け取ったコートに腕を通しながら、「しょうのう臭い」と顔をしかめた。
ぼくの下宿するアパートは、築五十年のボロボロの二階建てだった。外壁はモルタルと木で覆われ、屋根は色の褪せた瓦葺。そのすべてが時代を感じさせるためか、近所の小学生からは「伊関ハイツ」と言う名前を文字って「遺跡ハイツ」と呼ばれている。明らかに揶揄されたあだ名だ。そんなアパートの二階がぼくの部屋で、ベランダから雨どいを伝って、よじ登れば簡単に屋根の上へ出られる。
「マジで外、寒いぞ」
すべりの悪い窓を開けると、冬の風が部屋の中に飛び込んでくる。その冷たさは、肌を切るようだった。やめにしないか、そう言いたくて振りかえると、丈の余ったコートに身を包む柚花の笑顔。どうやら、柚花姫は本気らしい。
「ぼくが先に上がるから、柚花は後で付いてこい」
柚花に指示をしながら、プラスチックの雨どいをゆすって強度を確認する。もしも、雨どいが破損すれば、二階から通りのアスファルトへ真っ逆さまに墜落してしまう。打ち所が悪ければ、病院送りだ。それだけは、ご勘弁願いたい。
幸い、雨どいは古いものだったけれど、金具がしっかりと固定されていて、簡単には壊れそうにもなかった。ぼくは、腹をくくって雨どいを掴み、よじ登る。やったことはないけれど、フリー・クライミングってこんな感じなんだろうか。
何とか屋根に上がることが出来たぼくは、寒さに身震いしながら、柚花を誘導しようと下を見る。そういえば、高いところは苦手だったことを、今更ながらに思い出し、もう一度身震いした。
「ねえ、大丈夫? 上れた?」
部屋からひょこっと頭だけ出して、柚花が言う。人の気も知らないで、と喉まででかかった言葉を飲み込んで、
「柚花、ぼくの手に掴まれ、引っ張りあげてやる」
と、屋根の端から両手を伸ばした。細い腕がしっかりと掴んだのを確認すると、渾身の力を込めて、柚花を引き上げる。思ったよりも、彼女の体重は軽く、難なく屋根の上に引き寄せることが出来た。
「うひゃあ。高いね」
屋根に上がった柚花は、すぐさま立ち上がり、コートに着いた埃を叩いた。ぼくはと言うと、やはり高いところが怖くて、立ち上がることが出来ないでいた。
「見晴らしサイコーっ」
柚花は楽しそうに辺りを見回した。周囲は住宅街で、このアパートより高い建物はない。その向うには、高層の建物が林立するビル街だ。何の変哲もない、都会の外れからの景色も、屋根に上ってみると、違った風景に見えるから不思議だった。
「ソラっ、見て見て、ビルがクリスマスツリーみたいっ」
今にも踊り出しそうな勢いで、両手を広げた柚花がビル群を指差した。丁度ビルに灯る明かりが三角形を描き、クリスマスツリーに見えなくもない。
「柚花っ、騒ぐな、はしゃぐな。落ちたらどうするんだ。それに、他の住人や大家さんに見つかったら、怒られるぞ」
「怒られるのは、ソラだから。別にいいじゃん」
ぼくに窘められた柚花は、頬を膨らませて言った。前言撤回したほうがいいのかしら。頑固者じゃなくて、わがまま姫だ。
「ぼくは怒られ役かよっ! まったく……それよか、星を見るんだろ」
溜息交じりでぼくが夜空を指差すと、柚花はまるで忘れていたかのように「そうだった」と両手を叩き、夜空を見上げた。
そこには見事な……曇天があった。月も星も、藍色の夜空も黒い雲がべったり塗りつぶしてしまい、何も見えない。柚花はきょとんとしながら、ぐるりと空を見渡す。
「何も見えないよ?」
夜空のどこにも光点がないことを知った、柚花の横顔に寂しげに俯いた。
「そりゃ、曇ってるんだから、星どころか空も見えないさ。残念だったな、お姫様」
ぼくは、少しだけ意地悪な笑顔をしてやった。ニヤリと歪むぼくの表情に、さすがのわがまま姫も察しがついたのだろう。ぼくが最初から、曇りであることを知っていたのを。
「え? もしかして、ソラってば、天気予報知ってたの?」
「天気予報なんて知らなくても、今日は朝から雲が張ってたじゃないか」
「し、知らないわよっ。わたしは、ソラと違って、真面目に授業受けてたもんっ。空なんて見る余裕なかったもんっ。だいたい、知ってるんだったら、最初に言ってようっ」
柚花がぼくを睨みつけた。してやったり。ぼくは意に介さぬ振りをして、口笛なんか吹いてみる。
「と、言うわけだ。ほれ、降りるぞ。このままじゃぼくが風邪引いちゃうよ」
手招きしながら、ぼくは屋根瓦を滑って、屋根の縁に掴まった。また雨どいを伝って下へ降りなければならないと思うと、上ったときより怖いことに気付く。
「ソラの意地悪……」
ぼくが振り返ると、柚花は空を見上げて呟いた。
「柚花のわがままに付き合ってやったんだ。ありがとうくらい言えよな」
「いいわよ、言ってあげる。でも、ちゃんと星空を見ることが出来たらね。それまで、毎日屋根に上るからっ」
柚花は腰に手を当てて誰に宣言するでもなく、言い放った。
「マジで?」
「うん、すっごいマジでっ」
ぼくの方を向いてニッコリと微笑む顔が、ぼくには悪魔の微笑に見えた。もしかして、これから柚花の望む星空が見られるまで、ぼくは付き合わされてしまうのか? そう思うと、何だか寒気がしてきた。きっとそれは、冬の木枯らしの所為だ。だから、風邪を引く前に三度、前言を撤回したい。柚花は頑固者じゃなくて、わがままじゃなくて、頑固でわがままな姫だ。
柚花に再会したのは、ほんの二ヶ月ほど前のことだった。
大学に進学して、一人暮らしを始めて半年が過ぎ、ようやく隙間風のボロアパートにもなれた頃。いつものように、眠くなるような講義を終え、夕日が染めるオレンジ色の帰路を真っ直ぐアパートへ向かう。そして、錆び付いた階段を昇ると、ぼくの部屋の前に、見知らぬ女の子が立っていた。
ブレザーの制服に身を包み、まるでぼくの帰りを待っているかのようだった。その幾ばくかの寂しさが通う横顔や、長くキレイな黒髪、夕陽を映しこむ瞳の色は、思わず見とれてしまうほどだった。だけど、女子高生の知り合いなんていないし、まして可愛い彼女なんていうのにも心当たりがない。ロートルの頭脳をフル回転させながら、記憶の隅々を調べようとしていると、彼女はぼくに気付いた。
「あ、おかえりっ、ソラ」
人違いの線も考慮していたぼくに、あどけない笑顔で女の子は近付いてきた。しかも、彼女はぼくの名前まで知っている。
「あ、あの、どちら様?」
「えっ……、あなた『このきそら』さんだよね?」
口許を覆いながら、女の子は質問を質問で返した。でも、間違いなくぼくの名前は「此木空」だ。
「そうだけど、どこかであったことあるかな? 喜多野さんに誘われた合コン? いや、女子高生と合コンなんかしたことはないし」
ぼくが小首をかしげていると、女の子は腰に手を当てて、眉を吊り上げた。
「ご、合コンって、まさかそんなことばかりしてるの? 大学生って暇なのね。お母さんが聞いたら、泣くよ。まあ、わたしは告げ口したりしないけど」
怒られる理由も、なぜそこでぼくの母が出てくるのかも良く分からなかった。もしかして、母の知り合いなのだろうか。それにしても、ずいぶんと馴れ馴れしい物言いをする子だなあ、などと、色々な思案をめぐらせながら、
「別に、合コンばかりしてるわけじゃないし、見ず知らずの君にそんなこと言われる覚えはないんだけど」
と、ぼくが言い放つと、女の子は急に眉を下げた。がっかりと言うより、少しだけ当惑しているようだった。
「もしかして、ホントに分かんない? わたしだよ、わ・た・し」
彼女が自分のことを指差した瞬間、探り続けていたぼくの記憶の隅に、光が灯った。
「ゆ、柚花?」
その名を口にしたのも久しぶりだった。本当に奥底に沈めた記憶。だけど、けして忘れられないし、忘れたくないと思っていた記憶。それが、彼女だった。柚花は自分の名を呼ばれて、まるで花が咲くように、笑顔になった。
「そう、柚花だよ、お兄ちゃんっ」
微笑む顔に、ぼくの知っている妹の柚花の面影が見える。十年と言う月日は、あまりにも長かった。それを言い訳にするつもりはなかったけれど、まさか離れ離れになった妹が、唐突に尋ねてくるとは思っても見なかった。
それでも、嬉しくなるような、懐かしくなるような、胸の奥が温かい気持ちと、驚きでいっぱいだった。たった一人の妹に、もう二度と会うことはないと思っていた。
もう十年も昔の話だ。ありきたりの、両親の不仲が原因で、ぼくたちは離れ離れになってしまった。どうして、好きで結婚したのに、喧嘩ばかりするのか。それを大人の事情と割り切るのは、ぼくの方が年嵩な分、柚花より早かった。
離婚が決まっても、ぼく達をどちらが引き取るのか、幾度となく父と母はぶつかり合い、罵りあった。そしてようやく至った結論は、ぼくを父が、柚花を母が引き取ることだった。子どもの意思なんかそっちのけだと、その時ぼくは思った。
「やだ、お兄ちゃんと一緒に行くっ」
まだ幼かった柚花は、母に引き取られることを拒んだ。母が嫌いだったわけではなく、家族が二つに分かれることが厭だったんだろう。何日も泣き喚いて、両親を困らせた。二人としても、柚花が泣くのは自分達の所為だと分かっているから、なおさら辛そうだった。
それでも、別れの日は来る。最後まで泣き崩れる柚花に、ぼくはどんな慰めのことばを言えばいいのかわからなかった。家の玄関を出た瞬間から、兄妹なのに、家族ではなくなる。奇蹟でも起こらない限り、ぼくにも柚花にもどうしようもない運命だった。
「じゃあ、お兄ちゃん、奇蹟を起こして」
柚花は大切にしていたぬいぐるみを抱きしめながら、ぼくに言った。今と変わることのない、頑固でわがままな言い分だった。ぼくは超能力者でもないし、魔法使いでもない。奇蹟なんていう、この世にあるかないかもわからない芸当をすることなんて出来ない。だけど、母と行くことをぐずる柚花を説得する方法は一つしかなかった。
「もしも、柚花が泣き止んでくれたら、ぼくがいつか奇蹟を起こしてやる」
大人のような嘘だと思った。柚花がそれで納得するかどうか、ぼくには自信がなかった。いくら幼くても、柚花にもぼくが奇蹟を起こせないことくらい知っている。だけど、ぼくの言葉を聞いた柚花は涙を拭い、そして母と共に我が家を去っていった。
それから間もなく、母と柚花は遠い街へと引っ越して行った。ずっと、ぼくの胸は寂しさでいっぱいだった。家族が二つに分かれ、もう二度会うことはない。柚花に泣くなと言った手前、兄のぼくがめそめそとしてはいられなかった。
それからずっと、母と柚花に連絡はおろか、会うことさえなかった。父と二人だけの暮らしは楽ではなかったけれど、家族が離れ離れになった寂しさを紛らわすには丁度良かった。その代わり、ぼくは生活の総てがひどく無味乾燥なもののように思えて仕方がなかった。友達と笑っていても、父と喧嘩をしても、どこか胸の奥に棘が刺さったままのような気がしていた。その度に、ぼくは柚花の泣き顔と「奇蹟を起こして」と言う言葉を思い出していた。
やがて、年月が過ぎ、母と柚花が去っていった日のことが思い出になり、すべてを記憶の底に閉じ込められるようになった頃、父は再婚した。新しい母はとても優しい人だった。それでも、どこか家族として受け容れられなかったぼくは、大学進学と共に家を出て、下宿に住むことにした。
そんな、新しい母から電話があったのは、柚花と再会する前の日だった。いつも通りおっとりした喋り方の新しい母は、柚花が家に尋ねてきたことを嬉しそうに話してくれた。
「とっても可愛らしくて、良い子ね」と付け加えた。その時気付くべきだったのかもしれない。新しい母は柚花にぼくの下宿先の住所を教えていたのだ。もしかすると、柚花はそのために、わざわざ実家を訪ねたのかもしれない。
いや、それは詮索だ。どうであれ、十年ぶりの再会を喜ぶべきだと、ぼくに微笑む柚花の顔を見ていると思えた。
再会のその日から、柚花は毎日のように、アパートを訪ねてくるようになった。そして、ぼくの部屋に上がりこんでは、何をするでもなく、ぼくの淹れたコーヒーを飲んで、楽しそうに下らない話をして帰っていく。学校の話、友達の話、昨日見たドラマの話。そのほとんどは一方的に柚花が喋り、ぼくが聞くだけ。
本当は、母と柚花がどこに住んでいるのか、どんな暮らしをしているのか、二人とも幸せなのか、聞きたいことは沢山あった。しかし、それを聞いたところで、家族ではなくなったぼくに、何が出来ると言うのだろう。あれほど、遠く離れてしまうことを寂しく思っていたのが、少し馬鹿らしく思えるほどに、あっけない再会で柚花の笑顔が目の前にある。それだけで十分だと言い聞かせた。
あの日、泣きじゃくっていた妹は「お兄ちゃん」と呼んでくれていたのも、遠い過去のことなのか。「ソラ」と呼び捨てにされる度、ぼくはそんなことを密やかに思った。
【2】
「であるからして、Fの値がこの法則の、一定方向へのエネルギーと考えることが出来るのであります」
大学の講義と言うのは、非常に退屈だ。教授の多くが、講義のことを、研究の合間のアルバイト程度に思っている。だから、教科書と言う名前の、自分の著書を学生に買わせ、やっつけ仕事のように講義を進める。少しでも、板書をして解説を加える教授はまだいいほうで、ただ教科書を朗読するだけの教授にいたっては、学生をバカにするなと、思わず声を荒げたくなる。
まあ、そういう教授の講義はたいがい、生徒の多くが机と仲良しになっている。ともすれば、ぼくたち学生は、睡魔軍団を引き連れた魔王「教授」に立ち向かう、兵士なのだ。そして、居眠りをする学生は、敵軍に敗北した、累々たる死体の山なのだ。そんな中で、勇者もいる。教科書を盾にして、自主学習に励む者、携帯電話をいじり倒す者、間食を貪る者。
ぼくは、彼らのような勇者にはなれそうにもない。要するに、小市民の生真面目で面白味のないヤツなのだ。ただ、眠気と戦いながら、何とか四時限目の講義までを乗り切るのがやっと。
「ねぇ、四時限目終わったらどうする? 今日はバイトないんでしょ。どっか遊びにいかない?」
瞼を必死にこじ開けながら講義に耳を傾けていると、隣の席に座る同期生の熊谷が、唐突に言った。講義中の私語はよくないことだが、それだけでも、余計な眠気を払うには十分だった。
ぼくは、チラリと講壇の教授の方を確認した。禿頭の教授は、黙々と自分の著書を朗読しており、どうやら熊谷の私語には気付いていないようだ。ぼくは改めて、熊谷の方に向いた。
熊谷薫は、ぼくの唯一の女友達だ。男なら目を奪われそうな大きな胸の持ち主で、顔立ちもはっきりしてる。たまたま、大学の入学式で迷子になっている彼女を助けて以来、何となくつるむようになった。
「カラオケとか、お酒飲みに行くとか、どう? 二人っきりで……」
熊谷が淡いルージュを引いた口許に笑みを浮かべて言った。なんだか妙に意味深なお誘いに、ぼくは渋い顔をする。なぜなら、熊谷にはちゃんと彼氏がいるのだ。
「そういうのは、喜多野さんと行けよ。そうしないと、ぼくが喜多野さんに殺される」
喜多野さんというのは、熊谷の彼氏の名前。今年四回生になる、ぼくたちの先輩だ。なんでも、高校生のころから付き合ってるらしく、熊谷は先輩を追ってこの大学に来た、と言うのだからとてもけなげだと思う。だからこそ、熊谷の安易な提案には乗りたくない。
「それならご心配なく。先輩は、ソラのことホモだと思ってるから」
熊谷の言葉に、ぼくは思わずぼかんと口を開けてしまう。よもやの爆弾発言。
「はぁ? なに言ってるんだよっ。ぼくはそっちの趣味はないよっ」
思わず、大声を出しそうになるのをこらえて、ぼくはきっぱりと否定した。
「でも、めちゃくちゃ可愛い、看護学校生の娘がソラにアタックしてたのに、ソラってばまったく相手にしなかったって。だから『ソラはホモに違いない』って先輩言ってたわよ」
「ああ、そう言えば……」
柚花と再会するより少し前、喜多野さんのサークルで開かれた合コンに、数合わせで引っ張り出されたことがあったのを思い出した。なんでも、参加予定だったメンバーが夏風邪を引いてしまったため、その代理にと言うことで、熊谷の友達であるぼくに白羽の矢が立ったのだ。その時、看護学校に通っていると言う女の子にしつこく言い寄られた。明るくて可愛い子だったのは覚えているけれど、名前も顔も思い出せない。
「タイプじゃなかっただけだよ。そんなことで、ホモ扱いされたら困るよ」
溜息混じりにいうと、熊谷は器用にに声を出さず、ニヤリと笑った。
「冗談よ冗談。からかっただけ。ほら、ここ数日元気がないみたいだから。何か困ったことでもあったんじゃないかって、思ったのよ」
困ったこと……と言えばもうそれはひとつしかない。妹の柚花の突然のわがまま。「星を見る」宣言後、ぼくはここ数日屋根の上に登らされている。高所が怖いのに加えて、十一月の寒空。しかし、ここ数日の間まともな晴れ空はない。何とか夜空に雲の切れ間があっても、ひとつふたつ星が見えるくらいで、わがまま姫のご満悦できるような夜空には出会えないでいる。
今日も窓の外は微妙な曇り空。時折風に流れる雲が千切れて、陽の光が差し込んだかと思えば、すぐその顔を隠し辺りが暗くなる。
きっと、今日も姫の命令に従って屋根の上に登らなければならないと思うと、自分の柚花に対する甘さを呪いたくなってしまう。そういう憂鬱が、熊谷にも伝わったと言うことなのだろう。熊谷がぼくを心配していることがわかり、友人の気遣いに感謝しつつ、事情を話して聞かせた。
「ふーん、柚ちゃんがそんなことを言うなんてね」
熊谷は首を傾げて不思議そうにする。熊谷は前に一度だけ、柚花に逢ったことがある。柚花ときたら、それはもう見事な猫をかぶって、熊谷の前で「可愛い女子高生」を演じて見せたのだ。熊谷には、柚花がとてもわがままを言うようには見えなすのだろう。
「だから、憂鬱なんだよ。まったく、小さい頃は大人しくて可愛いやつだったのに……十年も経てば人間ってこうも変わるものなのかなって思うよ」
「でも、兄貴としては、妹のわがままを聞いてあげたいんでしょ?」
痛いところを、熊谷は突いて来る。十年前、離婚する父母の前で泣きじゃくる妹に、ぼくは何もしてやれなかった。だから、せめて再会が叶った今、柚花のためにどんな些細な願いでも叶えてやれたら、と思っていることを、熊谷は見透かしていた。
「まあ、そうだけど。それが憂鬱にさせるって言うか……。何も屋根に登らなくてもいいような気もするけど」
「高いところ怖いんだよね、ソラってば男の子なのに」
「うるさいな。熊谷だって方向音痴だろ。入学式のとき、道に迷ってたのどこの誰だよ」
「まあね。……で、だいぶ脱線しちゃったけど、今日どうする? わたしと二人っきりがイヤなら、誰か友達誘おうか? ホモじゃないソラくん好みの女の子誘うよ」
「まだ言うか……。だけど、そいつは残念だなあ」ぼくはわざとらしく言った。
「今日は、桂の様子を見に行かなきゃならないんだ。どうも家に戻ってないらしくて、あいつのお母さんから様子見てきて欲しいって頼まれてるんだ」
「ふうん。そうなんだ。そりゃ残念だわ。桂くん、相変わらずあそこに篭ってるの?」
「変人だからね、あいつ」
真っ暗な部屋の中、ディスプレイの光に向かう友人・桂の姿を想像して、ぼくと熊谷は苦笑した。彼ほど「変人」の名前が似合うヤツはいないだろう、とぼくは思う。しかし、熊谷は苦笑しながら、
「変人って、他人ごとみたいに言ってるけど、いくら可愛いからって柚ちゃんにばかりかまっていると、ソラもいつか変人扱いされちゃうわよ。大学生なんだからちゃんと恋愛しなさい」
と、ぼくに忠告をくれた。大学生なんだから、とはよく分からない理屈だが、少しだけ耳に痛い。柚花のことといい、女の子のことといい、どうして熊谷はぼくの耳に痛いことばかり言うのだろう。
ぼくが熊谷に生返事を返すと、あらぬ方向から咳払いが聞こえてきた。
「あー、そこの二人。わしの講義が詰まらないのは分かるが、私語は慎みなさい。ホモじゃないソラくん?」
教授のその一言で、どっと講堂中が笑いに包まれた。ぼくたちの会話は、講堂全体に筒抜けだったらしい。すべての視線がぼくに注がれて、ぼくはいたたまれない気持ちになる。その怒りをぶつけるように、熊谷を睨みつけると、「ホモじゃないソラくん」と言った本人は、みんなと一緒になって笑っていた。
講義が終わったぼくは、すこしバツが悪くて逃げ出すように講堂を飛び出した。まだ、学生たちの視線がぼくに向けられているようで、チクチクする。
「待ってよ、ソラっ」
スカートを翻しながら後から追いかけてきた熊谷が、ぼくを呼び止めた。
「まったく、熊谷の所為でいい笑いものだよ」
「ごめん、ごめん。いいじゃん、これでソラの名前は随分多くの人たちに知れ渡ったわよ。大学一の有名人になるのも、夢じゃないわ」
ぼくを笑いものにしてくれたことを悪びれる様子もなく、熊谷が言う。ぼくは、少し呆れてしまい、彼女に対する怒りが足元から抜けていくのを感じた。
「それよりも、桂くんのところに行くんでしょ? わたしもヒマだから一緒に行くわ」
「別にいいけど……」
反対する理由もない。桂と熊谷は面識がある。それに、一人であの「ジャングル」に足を踏み入れるのは、ちょっと気が引けていたところだ。
ぼくと、熊谷は連れ立って桂のところへ行くことにした。
ぼくたちの通う大学は、ビルの立ち並ぶ繁華街下宿のある住宅地少し離れた山際に広々とした土地を構えている。広大な敷地には、十以上の講堂や教授たちの研究棟、大学図書館の他に、アリーナを備えた巨大体育館とその横にグラウンドがあり、さらにその奥に、サークル活動のための四つの部室棟がある。この部室棟は、一番手前から二つが運動系サークルに割り当てられており、残り二つが文化系サークルに割り当てられている。
文化系サークルには音楽系のサークルが多いらしく、激しいロックミュージックやら、ブラスバンドの甲高い音色、果てはなんだかよく分からない民族楽器の音まで聞こえてくる。ぼくたちは、そんな部室棟のなかでも、一番奥の第四棟にむかった。目的の部屋「ジャングル」は、この第四棟の一番隅にある。
青いペンキが剥げかかった鉄の扉。そこには色あせたプラスチックのプレートが嵌め込まれている。「電算部」薄く読み取れるその文字が、この部室を所有する部活の名前だった。
「ここだけ、ひどくうらぶれてるわよね……」
ドアの前で、熊谷が言った。モルタル造りの部室棟は、それだけでも年代ものなのだが、各サークルは自前で修理したり、プレートを飾ったり、ポスターを貼ったりして、それなりに華やかにしている。しかし、電算部の扉は、「うらぶれた」と言うのがじつに的を射ている。
もっとも、そういう綺麗好きはこのサークルには集まらないことを、ぼくも熊谷も知っていた。
「ペンキくらい塗りなおせばいいのにな」
ぼくはそう言いながら、部屋のドアをノックした。返事はないが、ノブを回すとどうやら鍵はかかっていないらしい。
「勝手に入るよ」
そう言いながらドアを開くと、悪臭ともなんともいえない、鼻を刺すような臭いが部屋の奥から廊下へと吹き抜けて言った。
「入るんだったら、さっさと入ってドア閉めろっ」
突然奥から怒鳴り声が聞こえた。ぼくと熊谷は慌てて部室の中に飛び込んだ。そこは、真っ暗な部屋。電灯のスイッチを探してみるけれど、金属の棚やよく分からない何かがみっしりと壁際を埋め尽くしていて、何処にあるのか分からない。
「きゃっ!」
部屋の奥に進もうとした熊谷が何かに躓いて悲鳴を上げる。慌ててぼくは熊谷の腕を掴んだ。
「気をつけて、そこら中にいろんなものが散らばってるから」
「あ、ありがとう、ソラ」
熊谷は心なしかほっとした様子だった。やがて、少しずつ暗がりに目が慣れてくると、闇の奥でぼんやりと光るものを見つけた。光源は、人影に邪魔されて、明かりと呼ぶには微弱だ。
「わたし、初めて電算部室入ったけど、すごいね……ゴミの山ね。まさに『ジャングル』だわ」
目を凝らしながら、床や壁に散らかった、よく分からないものたちを指して、熊谷が言った。すると、光源をさえぎっていた影がゆらりと蠢く。
「此木と熊谷か。なんだお前ら、悪口を言いに来たのか?」
影は察するまでもなく、桂だった。桂はおもむろに振り返り、メガネの奥にある円らな瞳で、ぼくたちを睨みつける。
「そんなんじゃないよ。お前の様子を見て来てほしいって、今朝、お前のお母さんから電話があったんだ」
「ええっ!? ママが? そう言えば、もう一週間くらい家に帰ってないなあ……ママ怒ってた?」
桂が思い出したように言う。ぼくと、熊谷は呆れ果ててしまう。
「そりゃもう、カンカンだったよ。まったく、コンピュータいじり始めたら、周りが見えな来るのな、お前ってば」
「まあ、それが俺の取り柄でもある」
どうだ、と言わんばかりに桂は笑うと、再び光源……パソコンのディスプレイに向かった。桂の肩越しに見える画面には、ぼくたちには理解の出来そうにもないアルファベットや数字の列が並んでいた。
桂はぼくの高校時代からの友人だ。何で仲良くなったのかはよく思い出せないが、高校生の頃は二人でよくくだらないことを話した。そんな桂は、今や「ジャングル」とあだ名される電算部室のヌシとなっている。桂は一言で言うなら、コンピュータ・マニアだ。一度パソコンに向かうと、ご飯を食べるのも、お風呂に入るのも忘れて、キーボードを叩きまくる。
実家住まいの彼を、母親が心配するのも無理はないだろう。
「ねえ、桂くん。電算部って、ほかに部員いないの?」
熊谷が、辺りを興味深そうに見回しながら尋ねた。
「いるさ。キミの彼氏と同じ学年の部長が一人。でも、この不景気で就職活動が忙しい、とか何とか言ってまったく顔を見せない。実際、俺も一度しか会ったことないから、名前も忘れたよ」
桂の言葉に、ぼくは心の隅で「よく廃部にならないな」と思った。
「やだねえ、世間の垢にまみれて、景気だの就職だのぼやくのは……」
「そう言う桂は、本物の垢を落とせよ。どうせ、風呂にも入ってないんだろう?」
「おっと、女性の前でそう言うことを暴露しないでくれよ、此木」
露骨に嫌そうな顔をするが、熊谷はきっと気付いていると思う。それにも増して、桂が女の子の前で身なりを気にするのはもっと以外だった。ぼくも熊谷に忠告されるほど恋愛には疎く、この歳になっても女の子と付き合ったことがないけれど、桂は恋愛どころか、女の子に興味がないと持っていた。「俺の彼女はパソコンだ」とか言うと思っていた。桂に対して、随分失礼だったのかもしれない。ごめん桂っ……。
「ねえねえ、桂くんは講義にも出席しないで、一体何してるの?」
ぼくの心の謝罪に、熊谷たちが気付くはずもない。熊谷は、ひとしきりジャングルを見渡すと、その興味を桂のパソコンに向けた。
「これかい? これはね……、俺の独自開発したステルスプログラム。相手のパソコンとかサーバーに入り込んで、その機能を一時的に乗っ取ることが出来る。あくまで一時的に乗っ取るだけだが、それでも相手のシステム内でできることはたくさんあるからな。そして、プログラム自体はそこで意味のないものに自壊……つまりまったく害のないプログラムに変身するから、アシもつかない」
桂は自慢気に説明する。
「その名も『忍者くん一号』だ」
あまりにもひどいネーミングセンスだが、ツッコミを入れるとしたらそこじゃない。
「うんうん、へーっ、すごいわね。大学生なのに、そんなもの作れるなんて」
熊谷は、熊谷は桂の言っていることが理解できているのかいないのか、深く頷きながら感心している。いや、感心している場合じゃないよっ。
「お褒めに預かり光栄だな。まあ、世界広しといえども、こんなプログラムできるのはこの桂様だけだろうっ」
「それって、犯罪じゃないか。桂はいつからテロリストになったんだ?」
とげのある口調でやっとツッコミが入れられた。すると、傍らの熊谷はきょとんとする。やはり、桂の言ったことがよく分かっていなかったらしい。ぼくは溜息をつきながら、
「いいか、熊谷。これはハッキングソフトだよ。例えば銀行とか、政府施設とかのコンピューターに侵入して、悪いことをするソフトなんだ」
と、桂の解説に補足を加えた。熊谷は大げさに口許を覆って驚く。無理もない。友人がテロリストと知っては、ショックも大きいだろう。
「失礼だな、此木。これは、純然たるプログラムなんだ。別に世の中に出そうとは思ってない。勿論、悪用なんてしないし、させない。でも、こいつの技術を転用すれば、世の中に役立つかもしれないソフトだって作れるんだ。此木は、展望的視野を持っていないのか?」
憮然として桂が言う。まあ、ぼくとしても桂が犯罪に手を染めて喜ぶようなやつじゃないことは、よく知っている。
「展望的視野ね……それもいいけど、とにかく家には帰れ。そして、風呂に入れ。ぼくの用件はそれだけだ」
「ふむ。そうだね。友人の忠告を素直に聞いて、久々に家に帰ろうか。ママを心配させるのも悪いしね。いや、足労かけたね、二人とも」
そう言いながらも、桂はパソコンに向かいっぱなしだ。丸渕のメガネにディスプレイの明かりが怪しく反射する。きっと、この分だと「犯罪ソフト」が出来上がるまで、家に帰りそうにもない。そうなれば、このことを彼の母親に伝えるのは、ぼくの務めらしい。
ぼくはがっくりと肩を落としながら、パソコンに夢中になっている桂を置いて、部室を後にした。
「やっぱり、桂くんって変わってるわね。面白い人」
部屋を出てすぐに、クスクスと笑いながら熊谷が言った。変わった人と言うのは確かだが、面白い人かどうかは、賛同しかねるところだ。
廊下の窓から外を見ると、曇天の空からぽつり、ぽつりと雨粒が落ちている。これから、遺跡アパートまでの道のりを、雨の中帰らなければいけないのか、と思うと更に気が重たくなった。
ぼくたちは連れ立って、ジャングルから大学の正門前にあるバス停までの道を歩いた。雨足は急速に強くなり、バス停にたどり着く頃には、アスファルトを叩きつける音まで聞こえるようになっていた。
彼氏である喜多野さんの車で家まで送ってもらうと言う、熊谷とはバス停で別れた。「一緒に送って行ってもらう?」という熊谷の提案をぼくは丁重にお断りした。さすがに、先輩の喜多野さんを脚代わりに使うのは気が引けるし、恋人の甘甘空間にお邪魔するのは、もっと勘弁願いたいところだ。
そうして、ぼくは誰もいないバス停で、下宿までの路線バスを待った。バス停にはご丁寧にトタンの屋根が設けられており、傘を持っていないぼくにとっては、ありがたい避難場所となった。
「まさか、ソラって、柚ちゃんのことが好きなの?」
別れ際、ふと思い出したように熊谷が言った。とんだ爆弾発言だ。人のことを満座の中で「ホモ」呼ばわりした次は、「妹に恋をしている」などと言う。大切な友人ながら、ちょっと額に四つ角が出来そうな気分になった。
「そりゃ好きさ。妹として。それ以上でもそれ以下でもない。柚花はぼくの妹だから」
「でもね……、なんだかソラってば、柚ちゃんのお願いだったら、無理なことでも叶えてあげようとしてる。それって、恋愛感情じゃないの?」
「違う。……っていうか、ぼくと柚花は兄妹なのに、十年以上離れて暮らしてたから、ずっとあいつに兄貴らしいことしてやれなかった。だから、せめて今、あいつの願いをひとつでもかなえてやりたいんだ。それにな、恋愛なら、ぼく好みの可愛い子が現れたら、ちゃんとするから、熊谷は心配するな」
諭すような口調でぼくが言うと、熊谷は納得してくれたらしい。愛らしい口許に笑みを浮かべて、
「じゃあ、今度ソラ好みの可愛い子紹介してあげる。柚ちゃんみたいな女子高生がいい? それとも年上の女子大生がいい? ハッ、まさか女子中学生がいいの?」
「アホっ!!」
「冗談よ、冗談。でも、ホントに可愛い子紹介してあげるね。だって、ソラってば顔はけっこういけてるもの。もったいないわよ。友人として、頑張る兄貴にご褒美あげなくちゃ」
何様のつもりだと問えば、友人様だと帰ってきそうな熊谷は、楽しそうに笑いながら言った。しかし、ぼくにはその笑顔が意味深に映った。今日の熊谷はなぜかやたらと「女の子を紹介してあげる」と口にする。何か企みがあるようにしか思えない。だけどぼくにはそれが何なのか、よく分からなかった。
「星、見れるといいね」
そういい残して熊谷が去った後、ぼくは独りで雨雲が流れていくのを見つめていた。
顔を褒めてくれたのは、ちょっと嬉しいけど、彼女を紹介する、というのはありがた迷惑だ。ぼくは、恋愛が苦手だ。そう言うのをオクテというのも解っている。その所為で、この歳になるまで、女の子とお付き合いをしたことがない。かつて高校生のころ、ぼくに好意を持ってくれた女の子がいた。後輩の女の子でとても明るくて元気な子だったことを覚えている。でも、ぼくと言えば、その子の好意に気付いていながら、彼女を避けてしまった。
その後も、付き合いで参加した合コンで女の子に言い寄られたりすることもある。でも、その度にぼくは恋愛から逃げ出している。友人の熊谷が心配するのも無理はない。ホモやシスコンだと思われても仕方がない。
それでも、恋愛が目の前に迫ってくると、ぼくの脳裏にちらつくのは、十年前の出来事だった。泣きじゃくる柚花の瞳、去っていく母親の冷めた顔つき。父とぼくの前から姿を消して、二人は十年の間、幸せだったんだろうか。もしも、そうじゃないなら、ぼくだけ幸せになんてなりたくない。遠く離れて、苗字が変わり、戸籍が分裂してもぼくにとって、柚花は大切な妹なんだ。
黒に近い灰色の空を見上げていると、何故だか気分もマイナスの方向へ進んでいく。だめだな、そう言う顔をしているから、熊谷に要らない心配をかけるんだ。せめて笑ってなきゃ……。でも、柚花の「星を見る宣言」や、桂の母親への連絡とか考えていると笑顔は出てこない。
無理して両手で、頬筋を引っ張ってみたりしていると、バスが目の前に現れた。雨に濡れた車体に、ぼくの奇妙な笑顔が映し出される。美人の熊谷に「もったいない」と言わしめた顔じゃないな、これは。
ぼくは肩で思いっきり溜息を吐き出すと、定期券を取り出してバスに乗り込んだ。雨の所為か客足はまばらで、ぼくが適当な窓際の席に腰掛けるとすぐにバスは発進した。
揺れのひどいバスだった。大学前を離れ、坂を駆け下りて街並みを横切る。大学から下宿まで、それほど遠い距離ではない。ただ、街並みを横目で追いかけているだけで、下宿近くのコンビニ前にある停留所にたどり着く。それでも、大学から歩けば三十分以上の道のりで、傘もなく雨に降られれば、風邪を引くこと間違いなしだ。
「そうだ……コーヒー豆切れてたな」
定期券を見せてバスを降りたところで、そのことを思い出した。昨日の夜柚花に淹れてやった一杯で、丁度コーヒー豆が切れた。最後の一杯は、いつもより豆の量が少なかった所為か、「薄い、不味い」と柚花から不評をいただいた。
ぼくは、鞄を掲げて雨の中を走り、コンビニの軒下に入った。バスはまもなく発車して、排気ガスの嫌なにおいだけが、ぼくの鼻をくすぐった。その臭いにいたたまれなくなって、ぼくはさっさとコンビニに入った。目的のコーヒー豆と柚花の好きそうなお菓子を一つ二つ買い物籠に入れると、やる気のないアルバイト店員の女の子が、愛想もなくレジを打ってくれる。
すると、レジを打っていたアルバイト店員の手が止まった。
「あれ? もしかしてキミ、ホモのソラくん?」
店員がぼくの顔を見て言う。どうやら、そのアルバイト店員の女の子は、あの講義にいたらしい。「大学一の有名人になれる」という熊谷の言葉も、あながち嘘じゃないかもしれない。まあ、少しだけ情報が歪められて、ぼくはホモというレッテルを貼られかけているみたいだけど。
財布からお金を取り出しながら、ぼくはアルバイトの子にやんわりと、ホモではないことを説明した。
「ありがとうございましたー。また来てねっ」
アルバイト店員の女の子は、さっきまでの愛想の悪さが嘘のように、明るい笑顔に手まで振ってぼくを見送ってくれた。彼女の応対の変わり身は測りかねるけれど、ぼくが噂のような人間でないことは、理解してもらえたらしい。
外に出ると、雨足は弱まるどころか強くなっていた。息を吐き出すと、空気の冷たさに白くなる。ぼくは鞄を傘代わりに、遺跡アパートへと走り出した。
雨に濡れた鞄の水を払い、少し湿った体に身震いをしながら、アパートの錆びた階段を駆け上がると、ぼくの部屋の前にうずくまる人影が……。推測するまでもなく、それは柚花だ。
「あっ、ソラ、おかえり。くしゅんっ」
柚花は派手にくしゃみをした。見れば、学生鞄を抱えながらうずくまった制服姿の柚花は、頭の先から全身びしょ濡れだった。その手元に、傘はない。雨の中、傘なしでここまでやってきて、どのくらいの間ぼくの帰りを待っていたのだろう。
「何やってるんだよ、傘もないのにこっちへ来たのか?」
「うん。だってわたしが来ないと、ソラが寂しがると思って。でも、天気予報ってチェックしなきね。朝出かける時、傘を持ってくればよかったよ」
濡れて額に張り付いた前髪の隙間で、ニコニコしながら言う。だけど柚花の肩は寒そうに震えていた。
「まったくもう。風邪ひいたらどうするんだよ。お前、あんまり体が強くないんだからな。少しは自分を労われ」
兄貴らしく苦言を呈しながら、ぼくは部屋の鍵を開けた。こんなことなら、柚花に合鍵でも持たせたほうがいいんだろうか。今度大家さんに相談してみよう。
「分かってるよう」
ぼくの苦言に、柚花は頬を膨らませながら立ち上がった。
とりあえず部屋に入ったぼくは、暖房のスイッチを入れる。室外機から聞こえて来るヒートポンプの騒音を耳にしながら、箪笥を開けた。
「とりあえず、シャワーでも浴びろ。その間に、温かいコーヒーでも淹れておくから」
そう言ってぼくは無造作に、バスタオルと長袖Tシャツ、ジャージの三点セットを柚花に向かって放り投げた。
「うん、ありがと」
柚花は三点セットを受け取ると、鞄を部屋の隅に置き、そして、ちらりとぼくの顔を見て、なぜか睨むような視線を向ける。
「ソラ……欲求不満だからって、妹のお風呂覗いちゃだめだからねっ」
「覗くかアホっ!! そう言う下らないコト言ってないで、さっさとシャワー浴びて来いっ」
妹の馬鹿な発言にぼくは大声で怒鳴った。柚花はちろりと舌を見せて、そそくさとお風呂場の方へ走っていった。
「ああいう、無駄な知識をどこで覚えてくるんだろう」
深く溜息を吐きながら、ぼくは濡れた髪をバスタオルで拭いた。
【3】
柚花がシャワーを浴びている間に、ぼくはコンビニの袋を開けて、購入したばかりのコーヒー豆の瓶と、お菓子を取り出した。お風呂場からは水の音が聞こえてくる。柚花が妙なことを言うから、妹とは言えども、ちょっと意識してしまう自分が、恥ずかしいやら情けないやら。
それでも、キッチンの隅でコーヒーメーカーにお湯を注いでいると、湯気とともに豆の香ばしい香りが漂ってきて、気分も落ち着きを取り戻した。
大学生には似つかわしくないコーヒーメーカーは親父の持ち物で、下宿を決めた時にこっそりとくすねたものだ。勿論、親父にはバレているけれど、返せとは言われないので、別にかまわないのだろうと勝手に解釈している。
柚花はぼくの淹れたコーヒーが好きだと言ってくれる。もっとも、市販の豆を買って市販のコーヒーメーカーで出したコーヒーの味は、誰がやっても同じ味になるに違いない。すると、柚花は決まって「ソラが淹れるから、美味しいんだよ。きっと、淹れ方が上手なんだよ」と嬉しいことを言ってくれる。だから、懲りもせずに妹のためにコーヒーを淹れるのだ。我ながら、おだてには弱いらしい。
「ふーっ、さっぱりしたよ。お風呂ありがと、ソラ」
長袖Tシャツにジャージ、頭からバスタオルを被ったいでたちで、柚花がお風呂場から出てきた。
「風邪引かないように、しっかり、暖まったか?」
ぼくが尋ねると、柚花はこくこくと二度頷いた。
「うん。勿論だよ。きっと、ソラの帰ってくるのがあと三十分遅かったら、きっとわたし凍え死んでたね。で、遅まきながら帰ってきたソラが言うの。『すまない、妹よっ。兄ちゃんが遅く帰ってきたばかりに……およよよ』」
「およよって、何だよっ。茶化すなよ、柚花。ぼくはお前のこと心配して言ってるんだぞ」
ぼくがちょっと眉を吊り上げて言うと、柚花は不意に視線をずらした。怒られてバツが悪いと言う顔つきじゃない。
「いいんだよ、どうせわたしなんか……」
ぼくの耳に届くか届かないかの小さな呟きは、得意の冗談を言っているようには見えなかった。泳ぐ視線、眉目に漂う影、口許の震え。ぼくはそんな柚花に、少しだけ違和感を覚えて怪訝な顔をする。
「柚花? どうした、何かあったのか?」
「ううん、別に、なにもないよ。まあ、とにかく、肺炎起こすまえに、帰ってきてくれたから良かったよ。でも、今日に限って帰り遅かったね」
ぼくの表情を察知したのか、柚花はいつも通りの笑顔に戻って、何事もなかったかのように言う。でも、無理に話題を逸らそうとしてるのは、バレバレだった。
「ああ、友達のところに、熊谷と一緒に寄ってたからな」
それでも、とりあえず気が付いていない振りをして、話しに乗ってやる。
「ふーん。薫さん、元気?」
「ああ、元気だよ。相変わらず、お前と一緒でぼくをからかってくれるよ。まったくもう……」
ぼくがそう言うと、楽しそうに柚花は笑った。からかわれて迷惑してるんだ、とぼくは言いたかったのだけど、それは柚花には伝わっていないみたいだった。
ぼくは肩を落としながら、サイフォンからカップにコーヒーを注ぐ。封切りたてのコーヒー豆の香りは、安物であっても香ばしく感じる。それから、ミルクを垂らし、砂糖を入れる。柚花は甘党なので、砂糖たっぷりだ。
「お前の好きな、チョコレートのお菓子買ってきたから、あっちで食べよう」
顎をしゃくって指示しながら、ぼくは二人分のコーヒーカップを、柚花はお菓子の袋を持って、リビングに移動した。
「お前の制服。後で、コインランドリーに行って乾かさないといけないな」
丸いちゃぶ台に向かい合って座り、ぼくが言うと柚花は頷いた。さすがに今の格好で家に帰るわけにも行かないだろうし、明日も学校はあるはずだ。
「雨ってイヤになっちゃうよね……。灰色の雲を見てると、気分まで重たくなっちゃうよ」
柚花が顔をあげ、窓の外を見つめて言った。風雨が叩きつけ、年代ものの木枠に嵌め込まれたガラスをカタカタと言わせている。ぼくも、なんとなく窓外に広がる灰色の空を見上げた。もう少し寒さが厳しくなれば、この雨は雪に変わる。
十年ぶりに妹と過ごす冬だ。あの頃はまだぼくたちは小さな子どもで、雪が降ると喜び勇んで庭を駆け回った。母親が「あんたたちは、童謡に出てくる犬みたいね。さしずめ、お父さんは猫かしら」と言って笑いながら、コタツの中で丸くなる父に呆れていた。まだ、離婚だとか、親権だと言って両親がいさかいを起こす前だ。ぼくと柚花は、ずっと家族一緒に季節を過ごしていくものだと思ってた。だけど、あっさりそれが壊れ、ぼくたちの心に傷を残した。十年という長い月日を経て、こうして再び妹と冬を過ごせると思うと、少しだけ感慨深いものがある。
「柚花、今日も星空は見れそうにないぞ。残念だったな、姫様」
わざとらしく言ってやる。
「それを言わないでよ、もー。一番イヤなことなんだから! 神様ってヤツはホントに意地悪っ……そうだ!」
柚花は何かを思いついたように独りで頷くと、急いで部屋の隅に置いた学生鞄から携帯電話を取り出した。そして、何やら熱心にいじり始める。
「何だ? 友達にメール?」
「違う。早速、天気予報のチェック」
そう言って、黙々と携帯サイトを開く。部屋の中に、静かな沈黙が訪れる。柚花の天気予報チェックを待っているだけ、というのも退屈なので、ぼくは一口コーヒーをすすって、先ほどの違和感を尋ねてみることにした。
「なあ、柚花……学校楽しいか?」
正攻法で尋ねるよりも、柚花の性格から鑑みても、少しずらしたところから尋ねる方がいいだろう。
「楽しいよ。ソラは、大学楽しい?」
「ああ。楽しくもあり、退屈でもあり。柚花ももう少ししたら大学受験だろ。大学生になったら分かるよ」
「ふーん。なれれば、だけどね」
やっぱり、柚花の様子が変だ。言葉の端々に、これまで気付かなかったけれど、妙な違和感がある。
「ところで、母さんどうしてる?」
「えっ? 何で突然そんなこと聞くの?」
「いや、お前とこうして再会してから、一度も母さんや柚花のこと聞いてなかったなって思ってさ」
「別に……さっき、何もないって言ったでしょ」
顔を上げずに、携帯電話をいじりながら柚花が答える。心なしか顔が曇るのを、ぼくは見逃さなかった。どうやら、ぼくの読みは当たったらしい。母親と何かあったんだ。喧嘩でもしたんだろうか。だから、二ヶ月前、突然ぼくのところにやってきたんだろうか。
「何もないってことはないんじゃないか。毎日夜遅く帰ってきて、母さん心配してるんじゃないか? ちゃんと、ぼくの下宿に邪魔してるて言ってあるのか?」
「ちゃんと言ってるよ。そんなこと、ソラが気にしなくてもいいよ」
「気になるよ。今住んでる所も教えてくれないし、それにいつもぼくのことばかり聞いて、自分のことは話してくれないじゃん」
「それは……わたしのことを話しても面白くないからだよ。そんなことよりさっ」
柚花がぼくの目の前に携帯電話を突き出した。バックライトに照らされた画面には、翌日の日付とその下に赤い太陽のマーク。
「明日はすっきり晴れるって! いよいよだよっ。心の準備はいい?」
晴れのマークと同じようなニコニコとした笑顔で、ぼくに言う。
「うーん、楽しみだねぇ。流れ星が出たら何をお願いしよう。やっぱり、『ソラに彼女ができますように』かなあ!?」
遠足に行く前の子どものような、柚花のはしゃぎっぷり。どうやら、これ以上柚花のことを尋ねても、何も教えてくれそうにはない。ぼくの質問は、天気予報の所為で上手くはぐらかされた。ぼくは、仕方なく笑って、
「ぼくに彼女って、余計なお世話だよ」
「えーっ、こんなに可愛い妹が心配してるのに? でもね、実は内緒だったんだけど……。今度、薫さんにも協力してもらうんだ」
ニシシと、白い歯を見せて柚花が笑う。それで、合点がいった。今日、熊谷がやたら「女の子を紹介してあげる」と言っていたその影には、柚花がいたらしい。意味深に笑ったのは、そう言うことなのだ。いつの間にか、熊谷と柚花はお互いに連絡を取り合う仲になっていたらしい。
バス停での友人の笑顔を思い出していると、もう独りの友人のことをふと思い出した。そうだ、桂のお母さんに、桂がもうしばらく帰らないことを伝えておかなくちゃ。
「悪巧みするのも、ほどほどにしておけよ。それから、明日、屋根に上るんだったら、マフラーくらい持って来いよっ!」
「はーいっ」
景気のいい柚花返事を聞きながら、ぼくはズボンから自分の携帯電話を取り出した。アドレス帳から桂の自宅の番号を探す。桂のお母さんは主婦だから、この時間に連絡してもいいだろう。不精な親友に代わって、その親に事情を説明するのも、なんだか奇妙な気がした。
耳元で、騒がしい機械の音がする。なんだか頭の中が掻き回される様で気分が悪い。なんとかして、その機械の音を止めようとももがいてみるけれど、体が思うように動かない。眠りから目覚める前の体は、いつも鉛のように重いのだ。
それでも何とか布団を撥ね除けた。部屋中の冷たさが体を刺す。それでも、もう一度布団の中に戻ろうとしないのは、朝陽の所為だけでなく、耳元の機械音の所為でもある。冬の寒さに意識がはっきりし始めると、視界に掛け時計が入ってくる。アナログの時計の針は、十時を示していた。その驚愕の事実はぼくの頭を、眠りの世界から一気に現実へと連れ戻した。
「うわっ!! 寝坊したっ」
慌てて飛び起きて初めて、耳元の機械音の正体が携帯電話のバイブレーションであることを知った。しかし、手に取った瞬間に携帯電話はしんと静まり返る。後には、着信を報せるメッセージだけが残される。電話は実家からだった。
掛け直そうかと思ったけれど、そんなことをしている場合でない。完全に一時限目に遅刻してしまった。今から着替えてバスに飛び乗っても、ギリギリ二次元目に間に合うかどうかだ。そんな状態で、掛け直している暇なんかない。
ぼくは布団を片付け、歯を磨き寝癖を直して着替えると、急いでアパートを飛び出した。それもこれも、柚花の所為だ。
あの後、柚花は明日の天気を知って上機嫌になったのか、勝手に冷蔵庫をあけて、勝手にぼくのビールを飲取り出してきた。勿論、兄として、高校生にお酒なんて勧めたりはしない。しかし、柚花を制止したときにはもうすでに時遅く、たった二口で柚花は伸びてしまった。
「飲めないんだったら、口つけるなよっ」
ぼくのぼやきは、顔を真っ赤にして倒れた柚花に届くわけもなく、仕方なく介抱してやった。酔っ払った柚花はニヤニヤしながら「えへへー、ごめんねー、お兄ちゃん」と言った。普段ぼくのことを、呼び捨てにするくせに、分かっているのかいないのか。
困ったやつだと思いながらも、ぼくは柚花の制服を紙袋に詰めて、独りでコインランドリーに向かった。雨がやんだあとの、夜の道はいつも以上に冷たくて、危うく風邪を引きそうだった。それから、柚花の制服を乾かして戻ってくると、当の柚花はすやすやと可愛らしい寝息を立てながら眠っていた。
呆れるやら腹が立つやら。頭を引っぱたいて起こしてやろうかと思っていると、ぼくの傍で柚花がそっと寝言を言った。
「お母さん……」
その言葉は、ぼくの手を止めた。柚花の頬に、一筋の涙が伝う。それが一体何を意味しているのかよく分からなかった。ただ、間違いなく、柚花は何かを隠してる。それも、夢にまで見て、涙を流すほど辛いことなんじゃないだろうか。だけど、柚花に何を聞いても、話を逸らすだけだろう。まして、酔っ払って眠りこける柚花には、何も聞けない……。
そのことが、喉の奥に小骨が刺さった時のように、ひどく気分が悪くて、ぼくは柚花の残したビールを一気に飲み干した。
それがマズかった。それほどお酒に強いわけでもないのに、飲み干したアルコールはぐるぐると体中を駆け巡り、そしてぼくも妹の二の舞いとなってしまった。
深夜になって、ようやく目を覚ますと、ぼくの肩に毛布がかけてあった。そして、ちゃぶ台の上に書置き。
『迷惑かけてごめんね、ソラ。もう帰ります。お布団は敷いておいたから、目が覚めたら風邪を引かないように、お布団に入って寝てください。それじゃ、また明日。柚花』
半分寝ぼけ眼で書置きを読んだぼくは、そのまま柚花が敷いてくれた布団に潜り込み眠った。そうして、大学生活初の大遅刻をやらかしてしまったのだ。
バスに乗り込み、昨日の事を反芻していると、ポケットの中の携帯電話が再び震えた。ぼくは他の乗客に見つからないように、そっと携帯電話を取り出すと、熊谷からのメールが届いたことを報せていた。熊谷がやたらと心配していることが伝わってくる文面に、慌てて返信を返す。これは、一秒でも早く大学へたどり着かなければ。
そんなことを考えているうちに、ぼくは朝の電話のことをすっかり忘れてしまっていた……。
大学にたどり着いたぼくは、遅刻した事情を知った熊谷に散々からかわれた。普段遅刻しないクソ真面目人間は、たった一度の遅刻でも、他人の十倍の罪のように言われるのは、随分と損な役回りだった。ぼくよりも、普段から講義に顔を見せない桂の方が、もっと問題ありだと思う。
熊谷の笑い声を聞きながら、ふと空を見上げると、そこには連日の曇り空とはうってかわった、雲ひとつない淡い青色の空が広がっていた。
「今日は、星空が見れそうね。良かったわね、柚ちゃんも、ソラも」
熊谷が、ぼくと一緒に青空を見上げて言った。
今日はわがまま姫のために、屋根の上に昇らなければならない。高いところが苦手なぼくとしては、それだけで億劫になりそうだったけれど、ものは考えようで、今日でわがまま姫の無茶なお願いを終えることが出来る。
そう思えば、幾分か二日酔いの気分も楽になった。
そうして、残りの講義を消化して、ぼくはアパートに帰った。いつも通り、部屋の前で柚花が待っている。帰宅したぼくの姿を見つけた柚花は、ちょっとバツが悪そうに頭をかいて、
「やー、昨日はホントごめんね、ソラ。今度から気をつけるから」
と言った。ぼくは何も言わずに、軽く柚花の頭にゲンコツを入れてやった。ぼくがそれほど怒っていないと悟った柚花は、いつもと変わらない笑顔を浮かべる。
「今度、お酒に手を出したら、力いっぱいゲンコツするからな。よーく覚えとけっ」
念を押して、ぼくも笑った。
部屋に入って、ぼくたちはコーヒーを飲みながら、夜の帳が降りるのを静かに待った。柚花は待ちきれないといった顔をして、ぼくのブカブカコートに袖を通し、窓の外をずっと見つめていた。
「あんまり、日本の夜空に期待するなよ」
と、柚花の期待に水を差してみたけれど、柚花のワクワクに軽く弾き返された気がした。
そして、ついに待ちわびた時がくる。青空に夕日が差し込み、それが藍色に染められていく。ぼくたちは、完全にその空が夜に変わったのを見計らって、窓を開けた。
「先にぼくが上がって、柚花を引き上げる」
そう言って、ぼくは窓から身を乗り出して、雨どいの強度を確かめた。屋根に上るのも、もう何度目かだが、それでも下へ落ちるのではないかという恐怖は、高いところが苦手な者たちにとっては、深刻な問題だった。
雨どいをぐいぐいと揺すってみたけれど、頑丈に取り付けられた雨どいは壊れそうにもない。ぼくは勢いをつけて屋根によじ登った。そして、初めて屋根に上ったときのように、屋根の隅から両腕を伸ばして、柚花を引き上げる。本当は、このタイミングが一番怖いけれど、柚花の体重は思うほど重くはない。
そうして、ぼくたちは最後の屋根上りを完遂した。
深呼吸をして、肺一杯に冷たい冬の空気を吸い込んでから、空を見上げた。
「ねえ、ソラ。これはどういうこと?」
柚花は困ったような顔をする。それもそのはずだった。意気込んで見上げた夜空に、想像した美しい夜空なんかなかった。
「星、少ししかないよ……」
黒く塗りつぶされた夜空の、ところどころに、六等星と見紛うばかりの小さく弱い光を放つ星があるだけ。あの外国の夜空を写した、天体写真集ほどの夜空とまで言わなくとも、せめて満天の星空を想像していたぼくたちは、その閑散とした光景に目を疑った。
原因は簡単だった。以前、柚花が「クリスマスツリーみたい」と言ったビル群に、夜の間中灯る明かりの所為だった。それだけではない、繁華街も住宅街でさえも、眩いばかりの人口の光を放っている。それが、夜空にまで照り返り、遠い宇宙の果てから届く光を遮っていたのだ。
「これじゃ、晴れてても、星空なんて見えないね……」
「そうだな……残念だ」
ぼくたちは落胆しながら、屋根を降りた。部屋に戻り、ぼくが窓を閉めると、柚花は夜空なんか見たくないと言わんばかりに、勢いよくカーテンまで締め切ってしまった。そして、部屋の隅に放置されていた、お手製のプラネタリウムを取り出すと、まるで呟くように、
「これで我慢するしかないのかなあ」
と、言った。
冷静に考えれば、すぐに分かるようなことだった。豊かさと科学技術を手に入れた現代の街は眠ることを知らず、ぼくたちはそんな灯の下で暮らしている。その光の強さは、何十年も昔とは、比べ物にならない。そんな現代の街中で、満天の星空を見ようとする方が、無理な話だった。
もしも、美しい星空があるとすれば、それはきっと、天体写真集の中だけと言うことなのだろう。
「じゃあね……わたし帰るね」
ひとしきりプラネタリウムで、部屋の中を星空にした後、柚花はひどく憔悴しきったような顔をして帰って行った。星ぐらいで気を落とすなよ、と言ってやりたかったけれど、そのがっくりと落ちた肩や、うな垂れた頭、元気のない顔を見ていると、なんだか言い出せなかった。
「やっぱり、奇跡なんて起こらないんだ」
アパートの階段を降りていく柚花が、そう呟いたことに、ぼくはちっとも気付かなかった。
【4】
次の日から、柚花はぼくのところへ来なくなった。
星が見れなかったくらいで、そんなに落ち込むものだろうかと、最初は半分呆れていたのだけど、次第に時間が経つにつれて不安になってきた。柚花が不意に見せたあの違和感が、もしも星空を見ることと関係があるとしたら、やっぱりちゃんと柚花の話を聞かなくちゃいけない。あいつが嫌がっても、聞き出すべきだ。
そう思い立って、何度か柚花の携帯に電話を入れてみたのだけど「お客様がおかけになった番号は……」という冷たい機械のメッセージが流れるだけで、柚花に繋がらない。これは、いよいよ変だ。何とかして、柚花を捕まえなきゃならない。
ところが、肝心なことに気付く。ぼくは、柚花の携帯番号を知っているだけで、柚花の通っている高校も、柚花の住んでいる場所も、遺跡アパートまでどうやって来ていたのかさえ、何一つ知らなかった。
そうしてやきもきしているうちに、数日が過ぎてしまった。その日も、一つも身に入らない講義が終わり、荷物をまとめると、一目散にアパートに帰った。もしかしたら、今日は柚花が部屋の前で待っているかもしれないと、根拠のない淡い期待を胸に、アパートの錆びた階段を駆け上ると、
「あ、おかえりなさい、ソラくん」
夕日の差し込むぼくの部屋の前で、ぼくの帰りを待っていたのは、柚花ではなかった。
「なあに? わたしの顔を、もう忘れちゃったの?」
柚花よりも、熊谷よりももっと年上だけど、どこか二人よりも幼い雰囲気を振りまきながら、その人は頬を膨らませて見せた。
「か、母さんっ!?」
「あら、やっぱり覚えててくれたのね。そりゃそうよね、ソラくんが下宿始めてから、まだ一年も経っていないものね」
ニコニコと笑いながら、母さんが言う。母さんと言っても、父が再婚相手に選んだ、新しい母の方だ。ときどき、突拍子もないことをする人だとは思っていたけれど、思いもよらない人物の来訪に、ぼくは驚きを隠せなかった。
「何、突然っ!? 来るなら連絡ぐらいしてよ」
「だって、ソラくん一度もお家に帰ってこないし、もしかしたらわたし、ソラくんのこと怒らせちゃったのかなって心配になって。それでいても立ってもいられなくなって、来ちゃいました」
なんだか周りの空気まで春色に染め上げてしまいそうな、おっとりとした笑顔に、ぼくは思わず呆然としてしまった。確かに、新しい母の言うとおり、五月の連休も、お盆を挟む夏休みも、一度も家に帰っていない。別に、新しい母のことが嫌いだからそうしたわけではない。
「あれれ? 迷惑だったかしら?」
呆気にとられたぼくの顔を覗き込むようにして、新しい母は少しだけ不安そうに眉を下げた。
「迷惑じゃないよ。家族なんだし……。とにかく、外は寒かったでしょ? 入りなよ」
新しい母に気付かれないように溜息をついてから、ぼくは玄関の扉を開けて、新しい母を招きいれた。新しい母は「お邪魔します」と丁寧に言って部屋に入るなり、母親らしく部屋のあちこちを見回してチェックする。
「思ったより、綺麗に片付けてるのね。さすが、ソラくん。偉い偉いっ」
一通り部屋のあちこちをチェックした新しい母は、おっとりした口調で感想を述べた。その笑顔を見ていると、ぼくを待っていたのが柚花ではなかったことへの落胆も、新しい母の突然の来訪を咎める気力も、何処かへと失せて行く。
かつて、父に「この人が、新しいお前の母さんだ」と紹介されたとき、ぼくは素直に新しい母のことを「母さん」と呼ぶことは出来なかった。ぼくにとって「母さん」と呼べる人はたった一人で、その人は父と離婚して、柚花を連れ、ぼくの前から姿を消してしまった。そうして、現れた新しい母を、簡単に「母さん」賭して認めることは、とても出来なかった。
ところが、この新しい母と言う人は、いつもニコニコと笑って、おっとりした顔でぼくに優しくしてくれるのだ。その姿に、ぼくはいつしか、ほとんどなし崩し的に「母さん」と呼ぶようになっていた。心の中では、それを認めたくないと思っているにもかかわらないで。
その、かみ合わない感情が、ぼくに「家を出て下宿する」と言う決断を与えた。きっと、新しい母が、もっと嫌な人だったなら、かえって家を出たりしなかったのかもしれないと、相変わらずな新しい母の笑顔を横目に思った。
「それで、何か用なの? ただぼくに会いたいから、電車を乗り継いでアパートまで来たってことはないでしょ」
ぼくは、新しい母のために温かいコーヒーを淹れながら言った。新しい母は、いつも柚花が座っているあたりに腰を下ろして、首にぐるぐる巻きにしたマフラーを必死で解いていた。
「そうそう、この前電話したのに、ソラくん出てくれなかったでしょう?」
そう言えば、数日前に実家から電話があったことを、いまさらながらに思い出した。あれは確か、雨の日の翌日。二日酔いした朝だ。
「あ、その顔は、完全に忘れてたわね? もうっ」
新しい母は、再び少女のように頬を膨らませて怒る。ぼくは、コーヒーカップを差し出しながら、素直に謝った。あの日は、遅刻騒動や星が見れずに落胆した柚花で頭が一杯で、その後も柚花がここへ来なくなって、そのことばかりに気をとられてしまい、すっかり実家からの電話ことは、忘却の彼方になってしまっていた。
「あら、可愛いカップね……。もしかして、ソラくんの彼女のものかしら?」
ぼくが、新しい母に差し出したコーヒーカップは、男のぼくには不釣合いな花柄で、新しい母は妙に興味をそそられたらしい。
「ソラくんにもやっと彼女ができたのね。わたし、ずっと心配してたのよ。わたしの息子はホモじゃないかって……。ねぇ、可愛い子? 今度、ちゃんと紹介するのよ」
勝手に想像を膨らませて、嬉しそうに新しい母は笑った。ぼくは話が脱線しそうな予感を秘めつつ、
「ぼくに彼女はいないよ。残念だけど……。って言うか、それ、柚花のだよ」
と言うと、急に新しい母は何かを思い出して、コーヒーカップをぼくに突き出した。
「そう、危うく脱線するところだったわ! 柚花ちゃんよ、柚花ちゃん。彼女のことで、ソラくんに電話したのよ」
目の前で、ピンクや黄色の花柄がチラチラする。
「この前、柚花ちゃんのお母さんから電話があったのよ! 娘を知りませんか? って」
家族を捨てた母と、新しい家族になった母。その二人が電話口で会話する。なんだか、お昼のドラマみたいなすごい光景だ。だけど、そんな光景どうだっていい。
「どういうことだよ?」
ぼくは怪訝な顔をして尋ねた。
「だから、柚花ちゃんが家に帰ってないのよ。それで、前に柚花ちゃんがウチへ来たとき、このアパートの住所を教えたことを思い出してね、もしかしたらソラくんのところにいるんじゃないかって思ったのよ。どうやら、わたしの名推理は大正解だったみたいだけど」
新しい母は、ちょっと自慢気に鼻を鳴らす。事実を整理しただけで、名推理とは言わないと思う。ん? ちょっと待った。住所を教えた……? それって、まさか!!
「母さんっ! それっていつのことだよ!?」
ぼくは新しい母の両肩を持って、揺すった。新しい母は、突然声を荒げたぼくに驚いて、目を丸くする。
「柚花ちゃんのお母さんから電話があったのは、わたしがソラくんに電話する前の日の夜よ」
「ちがうっ!! 電話があった日じゃなくて、柚花が家に帰ってないのは、いつからなんだ!?」
「えっと……、確か、二ヶ月前よ。柚花ちゃんは二ヶ月前からお家に帰ってないのよ」
柚花が家出……。それは、半ば信じがたい事実だった。母の肩から手を離すと、ぼくは指を折って月日を数えながら、記憶をたどった。
二ヶ月前と言えば、柚花と再会した頃だ。いや、きっとあの日に柚花は家出したのだ。そして、昔懐かしい実家に向かい、そこで新しい母からぼくの下宿先を聞き、ここへ毎日やって来るようになったのだ。だから、柚花は自分の住んでいる場所も、今どうしているのかも話したがらなかったんだ……。
母と喧嘩でもしたのだろうか。それとも、もっと辛い何かがあったんだろうか。いずれにしても、何でそれを話してくれなかったのか、そして、ぼくはどうしてそれに気付かなかったのだろうか。それで、柚花の兄のつもりだったと言うのか。
「ソラくん……どうしたの?」
きっとぼくは真っ青な顔をしていたんだと思う。新しい母は、ひどく心配そうにぼくの顔を覗き込んだ。
「警察に捜索願は出したの?」
ぼくの問いかけに、新しい母は首を左右に振った。
「しらみつぶしに心当たりを捜しても見つからなくて、警察に届けを出す前に、最後にウチへ電話したそうなの」
それを聞いたぼくは立ち上がり、壁に掛けたコートを取る。
「母さんっ。あの人に、捜索願を出すのを待ってもらうように電話して! ぼく、柚花のことを捜しに行って来るからっ!!」
そういい残すと、ぼくは急いで部屋を出た。後ろで新しい母の呼び止める声が聞こえたような気がしたけれど、ぼくは振り向かなかった。
突然話は変わるけれど、アパートの近くにあるコンビニのアルバイト店員の名前は「恵野かなえ」という。同じ大学の同じ学部に通う同級生だ。とは言っても、大学に通う学生の数はとても多くて、一つの学部だけでも三百人弱もいる。その中で、ピンポイントに知り合って、仲良くなると言うのは、なかなか難しい。殊に、恵野さんのようにアルバイトに忙しい人とはなおさらだ。そう言う人と知り合いになるには、例えば、同じサークルに所属したり、熊谷のように偶然の出来事でもない限り、同じ学部の同級生と言えども、卒業までの四年間、その名前も、存在すら知らないままで過ごすと言うことだって、珍しくはなかった。
だから、あの禿頭の教授の「ホモじゃないソラくん」発言がなければ、ぼくたちは知り合うことなんかなかったと思う。実際、大学に入って下宿するようになってから、ぼくたちは何度もコンビニで、客と店員というかたちで顔を合わせているのに、同じ大学の同級生ということさえ知らなかった。そういった意味では、禿頭の教授と熊谷には感謝しなくちゃいけないのかもしれない。彼らが居なければ、ぼくと恵野さんは「客と店員」のままだっただろう。
あの一件以来、コンビニへ行く度に、レジで応対する恵野さんと話をするようになった。話と言っても「今日の講義眠かったね」とか「レポート課題終わった?」なんていう、レジ打ちの間にだけ交わす、他愛もない会話だ。
それでも、実家から遠く離れた、知り合いの少ないこの街で、新しい知り合いが出来ることは、とても嬉しいことで、彼女がもしも、ぼくにとって重要なことを教えてくれたのなら、それは、知り合えて本当に良かったと思う……。
柚花の家出を知ったぼくは、新しい母を部屋に残したまま、柚花を捜すためにアパートを飛び出した。目ぼしい心当たりはなかったけれど、新しい母の言葉を借りるなら「名推理」くらいは出来る。
柚花は再会した二ヶ月前のあの日、即ち家出した日から、毎日のようにぼくの部屋にやって来ていた。その理由はよく分からないけれど、今大事なのは、柚花がぼくのところにやって来た理由よりも、柚花が毎日ぼくの部屋に上がりこむようになった、と言う事実の方だ。
高校の授業が終わって、それからいくつも電車を乗り継いだり、バスで通っていたと言うのは、あんまり現実的な考えじゃないと思う。むしろ、柚花はずっとアパートの近くにいたと考えた方がいい。もっとも、ぼくはそのことに、随分前から感付いていた。だけど、それは、柚花が今住んでいる家が近くにあるからだと思っていた。家出していたなんて、露も思わなかった。
きっと柚花は、二ヶ月の間どこかで、寒さをしのいでいたのだろう。そして、ぼくが大学から帰る時刻になる前に、アパートの部屋の前でぼくの帰りを待っていたのだ。
ぼくはとりあえず遺跡アパートの周囲を駆け回ってみた。公園とか、お店。この二ヶ月間の記憶を順にたどって、柚花と行ったことのある場所を巡ってみた。
だけど、当然のように何処にも柚花はいなくて、部屋に新しい母を残して飛び出した時には、まだ夕日に染まっていた空は、いつの間にか夜の帳が下りてしまっていた。昨日と同じように、星の瞬かない夜空を見上げ、途方に暮れたぼくは、アパートへ引き返すことにした。
その帰途、ぼくは恵野さんのバイトする、あのコンビニの前を通った。夜になっても、二十四時間のコンビニは、煌々と明かりを焚く。それを、ぼくは少しだけ憎らしく思った。無表情な蛍光灯の光は、青白くて眩しいだけで、何の温か味もない。そんな人口の光が、星がきらめく夜空を侵していく。そして、ついには夜空から星を一つ残らず消し去ったのだ。
もしもあの時、アパートの屋根の上に、目が奪われるほどの星空が広がっていたとしたら、柚花は今日もアパートの部屋の前で待っていてくれたのかもしれない。
そう思えば思うほど、コンビニの光が憎らしい。こんな場所はさっさと通り過ぎてしまおう。そう思ったときだった。
「あっ、此木くん。こんばんわー」
コンビニの入り口を清掃するために、自動扉から出てきた恵野さんが、うな垂れて家路を歩くぼくを、目敏く発見して声を掛けてきた。コンビニのユニフォーム姿の恵野さんは、普段愛想のない店員とは思えないくらいの笑顔でぼくの方に近づいてくる。そして、ぼくの背後で蠢く、暗いオーラに気付いた。
「あれれ、どうした?。元気ないじゃん……」
無視するわけにも行かず、ぼくは「風邪気味なんだ」と適当な嘘をついた。きっと、それが嘘であることは、恵野さんもすぐに分かったに違いない。それでも、恵野さんは、ぼくの嘘に付き合ってくれた。
「そりゃ大変だっ! 風邪は万病の元だって、わたしのお婆ちゃんが言ってたよ。そうだ! 此木くんの下宿先って、この近くだよね? わたし、看病しに行ってあげようか? あっ……、でもそんなことしたら、あの可愛いカノジョに殺されちゃうね」
コンビニの前の往来で、恵野さんが随分と物騒なことを言う。「カノジョ」って、もしかして、熊谷のことだろうか……。でも、熊谷は良き友人であって「カノジョ」なんかじゃないし、そもそも熊谷には喜多野さんという恋人がいる。もしも、勘違いしているのなら、今のうちに訂正しておかなきゃいけない。
「キャンパスではよくつるんでるけど、熊谷はただの友達だ。むしろ、彼女なんていったら、熊谷の彼氏にぼくが殺されるよ」
と、ぼくが冗談めかして言うと、恵野さんは強く頭を左右に振った。
「違う違う、熊谷って人じゃなくて。ほら、ときどき高校生くらいの女の子と買い物に来るじゃない。あの娘、此木くんの彼女じゃないの?」
どうやら、恵野さんは柚花のことを言っているらしい。確かに、恵野さんとこんな風に話しをする前から、何度か柚花と一緒にこのコンビニに買い物に来たことがある。でも、残念ながら、柚花も「カノジョ」なんかじゃない。
「ああ、あいつはぼくの妹だよ」
「ふーん、なんだ、そうなんだっ。いやぁ、すっごく仲よさそうだったから、もしかしたらって思ったんだけど……。そっか、そっかぁ」
まるで、ぼくに「カノジョ」が居ないことが嬉しいと言わんばかりに、恵野さんはニコニコしながらぼくのことを見つめた。熊谷ほどじゃないけれど、恵野さんも結構美人だ。特に、ぼくを見据えるキラキラした瞳は大きくて可愛らしい。ぼくは、そんな恵野さんの視線にちょっと恥ずかしくなって、視線を逸らした。
「あっ、そう言えば」
何故かぼくに視線を送り続けていた恵野さんが、突然何かを思い出して言った。そして、ちょっとだけ深刻そうな顔をする。
「もしかすると、見間違いかもしれないんだけど……。この前、偶然その妹さんを見かけたのよ。まだお昼なのに、高校生が何人かたむろしてて、何だろうって思ったの。まあ、人のこと言えないけどね。わたしも講義サボって、友達と繁華街に遊びに行ってたワケだから」
「柚花を見たって、何処で!?」
「へっ? 確か繁華街の方。アーケード抜けたところに広いロータリーがあるじゃん。白十字通りって言う。そこの中央にある噴水のところだったと思う」
恵野さんの言葉に、希望の光が見えた。
「ありがとう、恵野さん。助かったっ! 今度なにかお礼するよっ」
ぼくは手早くお礼を言うと、いても立っても居られなくて、アパートとは逆に伸びる、繁華街への道に向かって走り出した。
「期待しないで待ってるねーっ」
ぼくの背中に向かって、大きな声で恵野さんが言う。ぼくは振り返らずに手を振った。
恵野さんが、柚花を見たという白十字通りは、繁華街のど真ん中にある。一番街から四番街までの、四本のアーケード街が、十文字に交差する場所で、中央に噴水を構えたちょっとした広場になっているのだ。この街の人たちは、主に待ち合わせ場所として使うことが多いらしい。
らしい、と言うのは、ぼくが白十字通りに来るのは、これが初めてだったからだ。大学に入学してもう半年以上この街に住んでいるのだけど、どうも白十字通りのような華やかな場所は自分みたいな地味な大学生に、似合っていない気がしていた。単に気がしていただけで、一度でもそんな気がすれば、自然とこの場所に足を運ぶ機会はなかった。
さて、ここに本当に柚花はいるのだろうか。恵野さんの見間違いと言うこともある。恵野さんは、直接柚花に会ったことはないのだから、他人の空似と言うことがあっても、全然不思議じゃあない。それでも、住宅街の何処を探しても、家出姫の所在が掴めなかったぼくとしては、ほとんど藁をもすがるような気持ちだった。
白十字の名前の由来にもなっている、真っ白なアーケードを見上げて立ち尽くしていても仕方がない。ぼくは、意を決すると、アーケード街に足を踏み入れた。
アーケードの両脇には、様々な商店が立ち並んでいる。そのどれもが、十一月も下旬になると、真っ赤な下地にアルファベットで「メリークリスマス」と書かれた看板を掲げ、クリスマス商戦の真っ只中だった。
ぼくは、早すぎるクリスマス色一色の商店街を、足早に駆け抜けた。やがて、長いトンネルのようなアーケードの切れ目が見えてくる。アーケードの切れ目からは僅かに黒い夜空が覗き、そこだけが露天になっていることが分かった。
白十字通りの広場には、中央に居座る大噴水を取り巻くように、たくさんコート姿の人がいた。ある人は待ち合わせ、別のある人は談笑に花を咲かせていた。その中から、柚花を探し当てるのは、困難に思える。それでも、雑踏のような人を掻き分けながら、見覚えのある姿を、ぼくは探した。
すると、どこからか一際明るい笑い声が聞こえてくる。柚花だと言う確信はなかったけれど、ぼくは目の前を通り過ぎる人の隙間から、その笑い声を追いかけた。
噴水の傍。キラキラとライトアップされた水しぶきが落ちるプールの淵に、三人の女子高校生が腰掛けて、楽しそうにおしゃべりをしている。三人三様に制服がちがうけれど、その姿は仲のいい友達のようだ。そして、その真ん中に、柚花はいた。何事もないかのように、明るく笑う柚花の顔をみて、ぼくは安堵と呆れの溜息を吐き出してから、ゆっくりと三人に近づいた。
最初にぼくに気が付いたのは、柚花の右隣に座った髪の短い女の子だった。やってくるぼくのことを変な人だと思ったのだろうか、明らかに警戒していた。
「柚花。こんなところにいたのか」
柚花の友達の警戒心を解くためにも、ぼくはなるべく優しい声で呼びかけた。予期せぬ人の声に、柚花の笑い声が、ピタリと止まる。そして、柚花はまるで、悪戯が見つかった悪戯っ子のように、ぼくの方に顔を向けた。
「そ、ソラっ。どうしてここに……?」
そう言って、柚花は顔を引きつらせた。そんな柚花の表情を見た、柚花の友達は更に警戒心を強めてぼくを睨み付けた。
「柚ちゃん、この人誰?」
「わたしの……お兄ちゃん」
柚花は友達の問いかけに、小さな声で答えると、ぼくから視線を外して俯いた。
「ええっ!? 柚ちゃんって、お兄さんがいたの?」
素っ頓狂な声で驚いたのは、柚花の左隣に座る、眼鏡の女の子。柚花は下を向いたまま、頷いた。二人の柚花の友達は、ぼくと柚花の両方を交互に見比べて、なおも目を丸くする。確かにぼくたちは、あんまり似ていない兄妹だ。
「君たちは……二人とも制服が違うけど、柚花の友達かな?」
ぼくは少しだけ笑みを浮かべて、二人に確認をすると、二人はそろって頷き、
「あたしは、ひかり。で、こっちは夏生。あたしたちみんな、学校違うけど、ここで知り合って友達になったんです」
と、髪の短い方の女の子が答えた。高校生が他所の学校の子と、商店街にある公園で知り合う、というのはちょっと変わったことだ。三人が友達になった経緯や事情を聞いてみたくはあるけれど、今は家出姫のほうが最優先だ。
「そっか。あのさ、二人とも。悪いんだけど、柚花に大切な話があるんだ。二人にしてもらえないかな?」
「は、はいっ」
二人はそろって返事をして、すっと立ち上がった。そして、眼鏡の女の子、夏生が「後でね、柚ちゃん」と言うと、二人はぼくに一礼をしてその場を後にした。残された柚花は、俯いたままだ。
ぼくは、柚花の隣に腰を下ろした。背後では、噴水のしぶきが人は一際大きな音を立てた。夜、特定の時間になると一瞬だけ大きく水柱を吹き上げる仕組みらしい。さながら、時計代わりといったところだろうか。見れば、アーケードに掲げられたデジタル大時計が、夜の九時を示していた。
ぼくは、水柱が静かになるのを待ってから、口を開いた。
「ここ何日か部屋に来ないし、携帯にも出ないし、心配したんだぞ。……星を見られなかったのが、そんなにショックだったのか?」
「別に……」
柚花は、素っ気無く言う。ぼくの方なんかチラリとも見ようとしない。いつも目を合わせて話す明るく柚花らしくないと、ぼくは思った。
「じゃあ、、何で何日も連絡をよこさなかったんだ?」
「誰かから聞いたんでしょ? わたしが家出してるって」
わざと家出のことを言わないぼくに、察しがついていたのか、問いかけには答えないで、柚花の方から本題の口火を切った。
「ああ、つい数時間前に知ったよ。ウチの母さんにお前の母さんから電話があったそうだ。みんな心配してるよ」
ぼくの言葉に、柚花がぴくりと反応する。そして、小さな声で「お前の母さん……」と呟いた。だけど、その声はあまりに小さくて、周りの雑音や噴水の音にかき消されてしまい、ぼくの耳まで届かなかった。だから、ぼくはそんな呟きには気が付きもしないで、話を続けた。
「二ヶ月前に、ぼくの部屋に始めてやってきた日から、ずっと家出してたんだな。お前ってば一言もそんなこと言わないし、いつも夜になると帰るから、てっきり家に帰っているんだと思ってた。お前、泊まるところとか、ご飯とかどうしてたんだ?」
「さっきの、夏生ちゃんの家に泊めてもらっる。あと、日中は大学生の振りしてバイトしてしてるから、ソラが心配するようなこと、何もない」
「何もないことはないだろう。学校にも行かないで、バイトしてその日暮らしって……親じゃなくても心配になるよ。無鉄砲だな、柚花は。十年前には泣いてばっかりだったのになぁ」
そう言って、ぼくは柚花に笑いかけようとした。なるべく穏やかにいようと思っていた。家出したことを頭ごなしに叱り付けても、高校生の女の子には逆効果だと思ったからだ。ところが、柚花は突然顔を上げると、ぼくの瞳を鋭く睨みつけた。
「何も知らないくせにっ。十年前とは、わたしは違うんだよ。わたしは泣かない。泣いたりなんかしない」
突然、柚花の声色が変わる。
「覚えてないの? 十年前、お母さんがお父さんと離婚した日にソラはわたしに言ったよね。『もしも、柚花が泣き止んでくれたら、ぼくがいつか奇蹟を起こしてやる』って。だから、ソラを信じて、わたしあれから一度も泣かなかった」
「それは……」
「その場しのぎの嘘だったの? いつだって、ソラは優しい振りしてるだけ。心配してるなんて言っても、心の中じゃわたしのことなんて、これっぽっちも分かってない……。わたし、ずっと待ってた。ソラが奇跡をおこしてくれて、いつかお父さんと一緒に、わたしとお母さんを迎えに来るって! 馬鹿みたいだけど、本当に信じてた。でも、ソラにとってはあんな約束なんて、その場しのぎだったんだもんね。奇跡を起こす気なんて、はじめからなかったんだ」
堰を切ったように、柚花はぼくにたたみかけてきた。
冗談みたいな話だ。ぼくは魔法使いでも奇術師でもない。奇跡なんて起こせない。あれは、あの時、柚花に泣き止んで欲しくてぼくが吐いた嘘なんだ。でも、柚花はぼくの吐いた「大人みたいな嘘」を信じていたんだ。そのことを今はじめて知ったと、言い訳をするわけにはいかない。柚花の憎らしげに睨み付けてくる瞳が、それを物語っているようだった。
「だから、試したの。わたしが星空を見たいってわがままを言ったら、ソラがどうするか知りたかったの。本当は、何処にいたって、天体写真集やプラネタリウムみたいな星空なんか見られないことくらい、知ってたよっ。でも、もしも、ソラがあの日の約束を覚えていてくれたら、わたしに奇跡を見せてくれるんじゃないかって思ったの」
「そんなこと……」
今度は、ぼくが柚花を直視できなかった。柚花の肩は僅かに震えていたけれど、その瞳は潤んでなんかいない。ただ、何かを訴えかけようと、ぼくを睨み付けるだけ。
「無理に決まってる? じゃあ、ソラの嘘を信じてたわたしは何なの? ただの馬鹿?」
「ちがう、お前は馬鹿なんかじゃない……。あの時、ぼくもガキだったって、言い訳はしたくないけれど、嘘を吐いたのは悪かった。ごめん。でも、お前が家出して心配なのは、本当に嘘じゃないんだ。な、だから、一緒に帰ろう、柚花」
ぼくは柚花に手を差し出した。だけど、柚花はさらにきつく尖った瞳でぼくを睨んで、その手を払いのけた。
「やだ、帰らない。わたしは何処にも帰らない。わたしのことなんて放っといて!!」
つんと、柚花はそっぽを向く。その仕草は、わがまま姫そのものだった。家出の理由が何であれ、例えぼくの嘘を確かめるためだったとしても、それとこれとは話が違う。心配しているのは、ぼくだけじゃない。かつてのぼくの母、つまり柚花の母も、ぼくの新しい母も心配している。それを、放っといてとは、それこそ、究極のわがまま姫だ。
「そんな、わがまま言うなよ。家に帰らないで、どうするんだよ? 歳を偽ってバイトするその日暮らしで、いつまでも生きていくことなんか、出来やしないことくらい、お前にもわかってるだろう!?」
ぼくは撥ねのけられた手で、無理矢理に柚花の腕を強く掴んだ。柚花はすこし怯えた様に、ぼくの手を振り解こうとしたけれど、ぼくは強く掴んで離さなかった。すると、柚花の顔色が途端に変わる。それはさっきまでの厳しい表情が嘘のような、まるで、深海の暗闇を覗き込むみたいな、深く悲しい顔色。
「わがままじゃない。どうせわたし、死ぬんだもん……」
噴水の音にかき消されそうな小さな声だけど、今度ははっきり聞こえた。死ぬ? その不気味な響きの言葉に、ぼくは戸惑いを隠せなかった。
「どういう意味だよ?」
ぼくは訝しげに眉をひそめて、問いかけた。
「別に。そのままの意味だよ。わたし、もうすぐ死ぬの……。だからこの先、生きていけるかなんて、考えたって無駄なの」
ぼくに対する皮肉や、冗談めいた比喩なんかじゃないと、悲しげな柚花の瞳は言っていた。
「でも、家族じゃないソラには関係ないよね? わたしがどうなったって、誰にも関係ない」
「そんなことあるもんか。ぼくとお前は、兄妹じゃないか。家族じゃないか。それを関係ないなんていわないでくれ」
柚花の細い腕を掴む手に力が篭る。
「また嘘を言うの? さっきソラは確かに言ったよね。『お前の母さん』って。でも、わたしのお母さんは、ソラのお母さんでもあるんだよ」
「それは、言葉のアヤだよ」
「アヤなんかじゃないよ。もしも、ソラがわたしのことを家族だって思っていてくれたなら、そんな言葉は出てこなかった! だって、十年ものあいだ、いつだってわたしとお母さんに会いに来ることは出来たんだよ。でも、一度もそうしなかったのは、ソラが心の中で線を引いたからだよ。お父さんとお母さんが離婚して、ソラとわたしたちの間に線を引いたんだ。もうお前たちは家族じゃないって……」
言い返す言葉が見つからなかった。「そうじゃない」と言っても、それがまた嘘になることは分かっていた。ぼくは、十年前に諦めてた。両親の事情は大人の話だから、子どものぼくにはどうすることも出来ないと。それは、柚花より年嵩な分、賢しいのだと思っていたけれど、そうではなくて、ただ単に諦めただけなのだ。その代償が、乾いたような空虚な十年間だった。そして、ぼくは間違いなく、ぼくの前から去っていった母と柚花に線を引いた。もう、あの人たちは家族じゃないんだ、と。柚花の言葉で、はっきりとそのことに気が付いて、ぼくは愕然として、脱力するみたいに、柚花の腕から手を離した。柚花はぼくの顔を見て、再びきつく睨みつける。
「だから、心配してるなんて気安く言わないでっ」
「違う。それだけは嘘じゃない。例え家族じゃなくても、ぼくにとって柚花は大切な妹だ。それだけは嘘じゃないんだ。どうしたら……、どうしたら信じてもらえる?」
ぼくは、柚花に問いかけた。すると柚花はぼくに背を向けて、ただ一言、
「奇跡を起こしてよ」
と、言った。
【5】
頭上で目覚まし時計の音がする。朝になると、いつも規則正しく鳴り響く忙しないベルの音は、眠りを貪るぼくの頭の中を掻き回していくようだ。だけど、ぼくは、毛布を頭から被って、その暗闇の中にうずくまり、ベルの音が鳴り止むのを必死に待った。やがて、部屋の中が静かになると、ぼくは再び惰眠の世界に落ちて行った。
あれから、二日が過ぎていた……。
家出した柚花を叱り付けるつもりが、ぼくは柚花を連れて帰ることが出来ないどころか、すべて自分の所為だと思い知らされてしまった。
「奇跡を起こしてよ」
と、柚花は言い残したまま、広場に集まる人ごみの中に消えていった。
奇跡。ぼくたちの空白の十年間。その間、柚花はずっとその言葉を信じ続けていたんだ。それが、どれほど果てしないのかは、筆舌に足らない。奇跡と言う、たった漢字二文字の言葉が持つ意味は、ぼくたち兄妹にとって果てしなく重いからだ。
結局、柚花が家出した理由は、ぼくの所為なのか、それははっきりと分からなかった。柚花の口にした「どうせわたし、死ぬんだもん」という科白の意味も、ぼくには分からない。ただ、確かなことは、柚花はぼくに失望していたと言うことだけだ。だから、柚花はぼくのことを「お兄ちゃん」と昔のように呼んでくれないんだと、今更ながらに気が付いた。
十年前、まだ子どもだったぼくに、両親の離婚を止めたりなんか出来るはずもない。まして、壊れた夫婦の関係を修復する力なんか何処にもない。それはきっと、柚花だって分かっていたはずなんだ。でも、柚花はぼくが奇跡を起こすのを待っていた。約束どおり、泣くのを止めて。そのことを十年経った今、妹の口から聞かされたとしても、すべてがあとの祭りだ。
どうすればいい? どうしたらよかったの? どうしたって、ぼくには、奇跡なんて起こせない……。
白十字通りからの帰り道、一人きりでとぼとぼ歩きながら、冬の身を切るような寒さに、ぼくの頭の中はぐちゃぐちゃになりかけていた。遺跡アパートまで、どの道を歩いて帰ったのか、よく覚えていない。ふらつく足取りで、携帯電話の時計をみると、液晶の画面にメールの着信。
なかなか帰ってこない息子を心配した、新しい母からの伝言だった。ぼくは、それを開かなかった。新しい母は、自分の娘でもないのに、柚花のことを気にかけて、わざわざ遺跡アパートまでやってきたのだ。そんな母に、事情を説明するには、メールの短い文面では事足りない。
ところが、部屋に帰ると、新しい母の姿は何処にもなかった。代わりにちゃぶ台には、特製シチューが入った鍋と、書置きが一通。
「明日用事があるので、帰ります。ソラくんの好きなシチューを作っておきました。柚花ちゃんと一緒に食べて下さい。母より」
独特の丸みを帯びた文字。新しい母は何も知らないまま、帰ってしまった。シチューの蓋を開けてみると、中はもう冷め切っていた。それもそのはずだ、時計の針はもうすでに深夜を指していた。
ぼくは食欲も湧かず、ちゃぶ台にシチューを残したまま、布団に潜り込んだ。夢なんか一つも見なかった。ただ、深い眠りの奥でぼくは、悩み続けた。
どうすればいい? どうしたらよかったの?
それから丸二日、携帯の電源も切ったまま、大学もサボって、来客を知らせる玄関ベルも無視して、ひたすらに惰眠を貪った。まるで、柚花のあの視線から逃れるように……。
しかし、さすがに二日も布団に包まっていると、お腹はすくし、眠気もやってこない。一度眠気が遠ざかってしまうと、かえって目が冴えてしまう。仕方なく、布団から這い出して、ちゃぶ台の上のシチューの蓋を開けてみた。
冬の隙間風が入り込む遺跡アパートの部屋は、天然の冷蔵庫状態で、シチューは痛んでいないようだったけれど、さすがに二日前に放置したものを食べるのは、ちょっと気が引けた。せっかく、ぼくと柚花のために、新しい母が作ってくれたものだけれど、止む無く処分することにした。そして、本物の冷蔵庫を開いてぼくは少しだけ、シチューを捨ててしまったことを後悔した。
冷蔵庫の中には、目ぼしい食べ物が入っていなかった。あるものと言えば、コーヒー用のミルクと調味料、それと賞味期限の切れたハムくらいだ。どうやら、新しい母は冷蔵庫のものを全部使ってシチューを作ったらしい。時々天然ボケを炸裂してくれるのが、新しい母と言う人だったことを思い出した。
このままでは飢え死にする、とまでは思わないけれど、さすがに二日前のシチューを捨ててしまった身としては、賞味期限切れのハムを食べるわけには行かない。
「仕方ない、買出しに行くか……」
冷たい部屋の中で、誰かに言うでもなく呟くと、肩で思い切り溜息ををして、二日間着通しだった服を着替えた。靴を履きながらふと、玄関口のカレンダーに目をやって、今日が日曜日であることに気付く。
だからどうした、と言うことはない。今日が平日でも休日でも、外を吹く木枯らしは冷たくて、あちこちの木々には枯葉は一枚残らず吹き飛ばされ、見上げる空はどんよりと雲を張っている。ともすれば、雪でもちらつきそうな空だ。ぼくは、曇り空を眺めながら、コンビニの道を歩いた。
そして、コンビニの前まで来て、恵野さんのことを思い出した。恵野さんに会えばきっと、二日前のことを尋ねられるだろう。どう答えたらいいのか分からない。わざわざ、他人に込み入った話はしたくないし、された方もなんだか嫌な気分になること受けあいだ。
だけど、別のコンビ二や店に遠出する元気はありそうにもない。ぼくは腹をくくって、コンビニの自動ドアをくぐった。心の隅で、恵野さんのシフト時間じゃありませんように、と祈りながら。
「えー、何でっ。いいじゃん、お姉ちゃんっ」
「良くないわよ。まったく、あんたって時々無茶言うよね。お父さんが知ったら、きっと雷が落ちるわよっ」
ぼくの祈りは、自動ドアをくぐった瞬間に打ち砕かれた。レジコーナーにはコンビニのユニフォームを着込んだ恵野さんがいた。だけど、恵野さんは入店したぼくに気付いていない。レジの前で、柚花くらいの歳の女の子となにやら言い合いをしている。
ぼくはそっと奥の棚に向かった。いくつか食べ物と飲み物を籠に入れていく。その間も、レジの方から恵野さんたちの声が聞こえてくる。
「別に男の子と旅行に行くって言ってるんじゃないんだよ。女の子同士で旅行に行くんだもん。しかも、国内だよ。何にも危ないことないよう」
「バカいわないで。一番あぶなっかしいのはあんたでしょ? わたしは、お父さんを説得してあげないからね」
「何でよう。可愛い妹のために、何とかしようって思うのが姉の務めってやつじゃんか」
「可愛い妹のためならね……。でも、鏡をよく見てみるといいわ。少なくとも、あんたは可愛い妹なんかじゃないわ。おあいにく様っ」
どうやらレジの前で恵野さんに食いかかっているのは、恵野さんの妹らしい。事情はよく分からないけれど、いつもの恵野さんと違って、妙にお姉さんらしい喋り方だ。ぼくも、柚花の前ではあんな喋り方になっているのだろうか? それにしても、二人とも声が大きすぎる。ぼくは買い物をしながら、思わず苦笑してしまった。
「ほら、お客さんが来たわ。どいてっ。いらっしゃいま……あ、此木くんっ」
会計のためにレジへ近づくと、さすがに恵野さんはぼくの方に気付いた。そして、ぼくが苦笑しているのをみて、ちょっと恥ずかしそうにする。そんな姉の姿を奇妙に思ったのか、恵野さんの妹がぼくの方に振り返った。
「何? お姉ちゃんの彼氏?」
恵野さんの妹は眉をひそめながら、ぼくのを見る。どこかで見たことある女の子だ。だけど、柚花以外の女子高生と知り合いになった覚えはない。
「ななな、何言い出すのよ、ひかりっ!! 大学の友達よ」
頬を染めながら、妹の訝しむ関係を否定する恵野さんの前で、ぼくと恵野さんの妹は同時に、眼を丸くした。そして、ユニゾンするみたいに「あっ」と叫んだ。
「柚ちゃんのお兄さんっ」
「柚花の友達のっ」
そう、ぼくの目の前にいる女子高生は、二日前に白十字通りで柚花と一緒にいた友達の一人、髪の短い方の女の子だった。制服とは違う私服姿に、全然気付かなかった。
「君、恵野さんの妹だったの?」
「そういうお兄さんは、お姉ちゃんの彼氏だったんだ。へーっ、世界って狭いねっ」
偶然の出会いにニコニコしながら、恵野さんの妹、ひかりちゃんは言った。
「だから、違うって言ってるでしょ。まったくもうっ。それより、何なの、あんた此木くんの知り合いなの?」
恵野さんがきょとんとする。すると、ひかりちゃんはこくこくと二度頷いた。
「あたしの友達のお兄さん。この前、白十字通りで会ったの」
「白十字通りって……あんた」
白十字通りというキーワードに、恵野さんの脳裏になにか引っかかるものがあったのだろう。一方、ひかりちゃんも、姉が何かを知っていることに気付いた。
恵野さんが白十字通りで、友達と一緒にいる柚花を見たのは、お昼過ぎ。そして、恵野さんの妹、ひかりちゃんは、柚花の友達。たったこれだけの情報でも、バラバラだったパズルのピースがパチパチとはまっていく。
「わたしが、此木くんの妹さんを白十字通りで見たのはお昼過ぎだったわよ……、まさかひかり、学校サボってるんじゃないでしょうね?」
「わわわっ、やばいっ」
姉の眉が釣りあがっていくのを見たひかりちゃんが慌てる。そして、何故だかぼくの袖を掴んだ。
「お兄さんっ、来てっ」
そう言うと、ひかりちゃんはぼくをぐいっと引っ張った。
「こら、ひかりっ!! 待ちなさいっ」
恵野さんが大声で怒鳴る声を背中に受けながら、ぼくはレジテーブルに買い物籠を残したまま、ひかりちゃんにコンビニから連れ出されてしまった。
ひかりちゃんはぼくの袖を掴んだまま走った。道行く人から見ればぼくは、女の子に引っ張られる変なやつにしか見えないだろう。少しだけ恥ずかしくなって、「ね、手を離してくれないかな? それと、どこへ行くつもりなの?」と彼女に問いかけてみたけれど、ひかりちゃんは答えてはくれなかった。きっと、姉に学校をサボっていることがバレてしまったから逃げ出しただけで、どこか行く当てがあったわけじゃないのだろう。
そう思っていると、コンビニからそれほど遠くもないファミレスの前で、ひかりちゃんはぴたりと足を止めた。
「立ち話するのもなんだから、お兄さん、何か奢ってよ」
ファミレスの看板を指差しながら、ひかりちゃんが言う。友達の妹とは言え、出会って間もない女の子に奢るというのもおかしな話だけど、どうやら姉から逃げるためだけに、ぼくを連れてきたわけではなさそうだ。
「わかった。でも、ぼくは貧乏だから、高いものは勘弁してくれ」
と溜息交じりに了承すると、ひかりちゃんはニッコリと笑って二つ返事を返してきた。
暖房のよく聞いた店内に入ると、蝶ネクタイをあしらった制服姿の男性店員がぼくたちの方に近づいてきて、「いらっしゃいませ。二名様ですか? 喫煙席と禁煙席がございますが、いかがなさいますか?」
と、お決まりの台詞を口にする。ぼくが適当に答えると、店員はぼくたちを窓際の席に案内した。ひかりちゃんは、席に腰掛けるや否や、テーブルの端に立てかけられたメニューを取って、水を運んできた店員にケーキとジュースを注文した。ケチと言われたくはないけれど、少しは遠慮して欲しいもんだ、などと心の中で思う。
「しっかし、どうしようかな。お姉ちゃんってば、あたしが学校サボってること、絶対お父さんにチクルよね。うわぁ、地獄だ……」
店員が下がっていくと、途端にひかりちゃんが頭を抱えて言った。
「それは、自分の身から出た錆ってやつだろ? 君が学校サボったりしなきゃいいだけの話じゃないか」
「いつもサボってるわけじゃないんだよう。時々ね、頭ん中がグルグルになったら、夏生たちと学校サボるの。ほら、ガス抜きってやつだよ。高校生にも色々あるんだな、これが」
「まあ、学校生活が、大人の考えるよりもストレス社会だっていうのは認めるけどな」
「でっしょー? ヤなクラスメイトとか先輩とかさ、口を開けば受験だ勉強だって口うるさい担任。それに、数学の先生なんて、あたしがバカなの知ってて、わざと授業中に当てるんだよ。もう、嫌がらせ。パワハラだよ」
ひかりちゃんは頭に四つ角を作りながら、愚痴をこぼす。
「あたしは無難に青春を過ごしたいんだよ。お姉ちゃんみたいにさ、フツーに高校卒業して、フツーに大学行って、フツーに就職して、フツーに結婚するのが、あたしのフツーの夢なんだ」
「随分小さい夢だなぁ……。でも、学校サボるのは無難で普通な青春じゃないよな。フツーにすごしたければ、大人しく、お父さんの雷を受けるんだね。その方が、君のためだよ」
「分かってます。あーあ、これで旅行の話はおじゃんだねぇ。って言うか、なんで柚ちゃんのお兄さんに叱られなきゃいけないのよっ」
それもそうだ。大学を丸二日もサボっているぼくに、説教されるというのも変な話で、そもそもそんな話をするために、わざわざ友達の妹とファミレスにいるわけじゃない。
そうこうしているうちに、先ほどの店員が、ひかりちゃんの注文したケーキとジュース、それにぼくの注文したホットコーヒーを提げてきた。
「ここのケーキ美味しいんだよねっ」
テーブルに並べられたケーキに早速フォークを入れ、一口頬張ると、ひかりちゃんは嬉しそうに笑う。何となく、その表情は柚花のそれに似ているような気がした。
「ひかりちゃんは、どうして柚花と知り合ったの? あいつこの街の人間じゃないし、勿論学校だって違うのに……?」
ぼくはコーヒーをすすりながら尋ねた。
「偶々だよ。夏生と一緒に学校サボって……あ、夏生とは今は学校違うけど小学校の頃から友達なんだ……、それでね、白十字通りをブラついてたら、噴水の傍で寂しそうに座ってる柚ちゃんを見かけたんだ」
「柚花のヤツ、寂しそうにしていたのか?」
「うん。じっと足元を見つめて。それでね、最初に声を掛けたのは、あたし。柚ちゃん制服着てたから、きっと、あたしたちと同じように、学校サボってる、プチ不良なんだって思ったのよ」
「プチ不良って、自覚あるんじゃん」
「そりゃそうだよ、小市民ですもの。なんだかんだ言ってもさ、学校サボってるっていうのは後ろめたいもので、罪悪感もあるんだよ。だから、サボりの共犯者は一人より二人がいいって、考えたの。もしも、心無い善良な大人に補導された時に、三人の方が何かと心強いでしょ?」
「心無い善良な大人って、無茶苦茶だな。それで、ひかりちゃんたちによって、柚花は悪の仲間入りしてしまったってわけか」
呆れ眼で、ひかりちゃんを見る。すると、ひかりちゃんは口の中でもごもごやっていたケーキを飲み込み、フォークを振り上げた。
「悪の仲間入り、とは失敬なっ! 少なくとも、あたしと夏生は学校では真面目な学生なんだよっ……とまあ、そんなこんなで三人そろって白十字通りでつるむようになった訳。ユーシー?」
「アイシー」
「ふむ。あたしへの質問は終わり? そしたら、こんどはあたしから質問ね」
振り上げたフォークの切っ先をぼくの方にピッと向けて、ひかりちゃんが言う。
「あんまし立ち入ったことを聞いてもよくないとは思うんだけど、でも、柚ちゃんはあたしたちの大事な友達だから、聞かないわけにも行かないの」と、前置いて、
「お兄さんが柚ちゃんと二人っきりにしてくれって言った後、実はあたしたち噴水の向こうでこっそり見てたんだよね。さすがに何を話してるか分からなかったけど、柚ちゃんがお兄さんに何か起こってることだけは分かった。それでね……」
柚花の言葉、「奇跡を起こして」と言われたぼくは、自分にはどうすることも出来ない。妹の信頼を取り戻すことも出来ないと、ただ黙って、打ちひしがれて、白十字通りを一人で去った。ずっと背中に、柚花の厳しい眼差しを受けているようで辛かった。
ぼくが立ち去った後、噴水の陰に潜んでいたひかりちゃんたちは柚花のもとに駆け寄って、事情を尋ねたそうだ。だけど、柚花はその場で周りも気にせず、泣き崩れてしまったらしく、ひかりちゃんたちは、それ以上何も尋ねることは出来なかった。
柚花と知り合って二ヶ月とはいえ、ひかりちゃんにとっては、サボりという秘密を共有する仲間だ。その仲間が何か辛い思いをしているのなら、そしてその原因が柚花の兄貴にあるのなら、それをぼくに問いたださずにはいられなかったと、ひかりちゃんはぼくに言った。
何から話すべきか。妹のことを心配してくれる人に対して、無下に「関係ないから」とは言えない。それでも、他人にあらゆることを話してしまうのも、違う気がする。
ぼくは、何度か説明につまりながら、掻い摘んで、事情を聞かせた。ひかりちゃんは、ケーキを食べながら、時に頷いて、ぼくの話を聞いてくれた。そして、ぼくがすべて話し終わると、ひかりちゃんは一度だけ深く頷いた。
「お兄さんは大学生なのに、話下手だね……。でも、顔はそこそこいけてる、あと、究極の真面目さんだね。お姉ちゃんはそんなところに惚れたのかなぁ?」
ニヤリと、ひかりちゃんの口許が曲がる。恵野さんがぼくに惚れてる? いやいや、そんなことはありえない。だいいち、知り合ってからの歳月なら、ひかりちゃんが柚花と知り合ってからのそれよりも、ずっと短いんだ。
「あのなあ、恵野さんがぼくなんかに惚れるわけないだろ……って、それは今、全然関係ないだろ!?」
「うーん、関係なくもないんじゃない? 要するに、お兄さんは鈍いんだよ」
「ぼくが鈍い?」
「そう。なんだか、柚ちゃんが拗ねてるのを、全部自分の所為みたいに思ってるけどさ、柚ちゃんの言ってることって、無茶だよ。奇跡なんて、そんなに簡単に起こせるわけないでしょ? それくらい、柚ちゃんも分かってるはずだよ」
ひかりちゃんは、テーブルに頬杖をつきながら、ぼくに言った。
「それじゃあ、柚花はなんだってあんなことを言ったんだろう?」
ぼくが問いかけると、ひかりちゃんはしばらく考え込む。そして、ジュースを一口飲んでから、
「そんなこと、分からないよ。でも……これはあたしの勝手な想像だけどさ、柚ちゃんは、一番辛い時に大好きな家族が傍にいてくれなかったのが悲しかったんじゃないかな? そんで、お兄さんがそのことに気付いてくれないのが、もっと悲しかったんじゃないかな」
「一番辛い時って……?」
「さあ? だから、言ったじゃん、あたしの勝手な想像だって。もしも、あたしが辛い時に、お姉ちゃんがいてくれなかったら、もっと辛くなる。でも、傍に大好きなお姉ちゃんがいてくれれば、辛いことを分けっこ出来る。まあ、あたしの話だけどね」
「あれ? 君は、お姉ちゃんのこと嫌いじゃないの?」
「そんなことないよう。そりゃ、口うるさいし、偉そうだけど、大切な家族だもん」
そう言って、ひかりちゃんは少しだけ照れたような顔を見せた。家族……。そうだ、両親が分かれてしまっても、ぼくと柚花が家族であることには、何にも変わりがない。それは、ごく単純なことなのに、どうして気付かなかったのだろう。
「ぼくは……どうしたらいいと思う? このままじゃ、柚花がどうなってしまうか、心配なんだ。でも、その気持ちも、あいつには伝わらない」
肩を落としてぼくが言うと、ひかりちゃんは再びフォークをぼくに突きつけた。
「大学生のお兄さんが、高校生のあたしに、それを聞くの? そんなこと、自分で考えてよ。だって、お兄さんと柚ちゃんの問題だもん。それに、あたしは柚ちゃんの友達だから、柚ちゃんを慰めてあげるくらいしか出来ないよ」
「厳しいなぁ。でも、君の言う通りなんだろうな、きっと」
ぼくは、コーヒーカップに残った、温い最後の一口を飲み干して、言った。ひかりちゃんも、いつの間にやらケーキを平らげ終わり、自分のお腹をさすって、
「ケーキご馳走様でした。まぁ、バカ兄妹のためのお説教代だと思えば、安いけどね」
と満足そうに微笑んだ。その口ぶりを聞きながら、年下の高校生に説教されるとは我ながら情けない、と思う。その一方で、ひかりちゃんに話を聞いてもらって何となく、心が軽くなったような気がした。今の自分が柚花のために何が出来るか、それはまだよく分からないけれど、ヘコんで引きこもってるわけにはいかない。柚花のためにも、ぼくのためにも……。
食事を済ませて、ファミレスを出ると、やはり身を切るような冷たい木枯らしが、頬に吹き付けてくる。ひかりちゃんは寒そうにコートのポケットに手を突っ込むと「コンビニに戻って、今度はあたしがお姉ちゃんに説教食らってくるかぁ」と、一人ごちると、もと来た道を歩き出した。
「ああ、そうだ」
ぼくはとぼとぼと歩いていくひかりちゃんを呼び止めた。
「これからも、柚花とは仲良くしてやってくれよ」
「そんなの、わざわざ言われなくても分かってるよ。お兄さんも、ウチのお姉ちゃんのこと、よろしくね。それじゃあね」
何をよろしくなのか……その意味が分からない辺りが「鈍い」と呼ばれる所以であることを知ったのは、もう少し後のこと。それは、ぼくと柚花のこととは関係ない。
ひかりちゃんの姿が曲がり角で見えなくなってから、ぼくはアパートへの帰り道に向かった。そして、コンビニで買い物をするはずだったことを思い出して、少しだけ後悔した。
次の日の朝。ぼくは、電車に揺られていた。平日の出勤ラッシュ後の車内は、人もまばらで静か。聞こえてくるのは小声の雑談と、レールの音ばかり。
窓の外を流れる私鉄沿線の長閑な風景を、ぼんやりと眺めていたら、車掌のやけに篭った声のアナウンスが車内に響き、目的の停車駅が近いことを知らせてくれた。
二日も大学をサボった上に、追加でもう一日サボるというのには、多少なりとも抵抗があった。実際、電源を切りっぱなしにしていた携帯電話には、メールが何件も寄せられていた。そのほとんどは熊谷からのものであることは、容易に想像できたけれど、まさか『ジャングル』と呼ばれる電算部室のヌシ、桂からのメッセージもいくつか混じっているとは思っても見なかった。そんなメールはどれも、ぼくを心配したもので、ぼくは暖かい友人たちの声に、心から嬉しくなった。
「帰ったら、すべて話す」
ぼくは熊谷たちに、わざと素っ気無くメールを返してから、アパートを出た。これからのことを考えると、明るいメールは打てなかった。何故ならぼくは、人生初の三日連続サボりを敢行して、ある場所へ向かうつもりだったからだ。
そこへ行くには、アパートから電車をいくつも乗り継がなければならない。思うよりも、遠出になることは予想していた。いや、近くてはダメなんだ。そこには、ぼくが十年前、もう二度と会うことが出来ないと思っていた人が住んでいる。そう、正確に言うなら、ぼくの母がいる。父が再婚した、あのおっとりした新しい母ではなくて、ぼくを産んでくれた、本当の母だ。
本音を言えば、家族を壊して、ぼくと柚花を引き離した張本人の一人である、本当の母なんかには、会いたくない。それでもぼくは、どうしても母に会わなければいけない理由があった。柚花が十年の間、どのように過ごしてきたのか、そして、どうして家出なんかしたのか。柚花がこだわる、ぼくの「奇跡」とは一体何なのか。それを知っているのは、ぼくと柚花の母しかいないだろう。
停車した電車から、駅のプラットホームに降り立つと、すでに時計は午後を示していた。柚花も家出した後、こんなに長い時間をかけて、遺跡アパートまで来たのかと、そんなことを考えながら改札を出て、駅前のロータリーでタクシーを拾ったぼくは、住所を告げた。柚花の家の住所は、新しい母から聞き出した。以前、柚花が新しい母を訪ねた時に、訊いていたそうだ。
ぼくから行き先を聞いた、愛想のないタクシー運転手は、短い返事とともに、街中へと車を走らせる。車窓からの眺めは、ぼくの知らない街並みだった小さな駅の割には、街はそれなりに大きな都会だった。国道の両脇には、お洒落なお店や商社が軒を連ね、歩道を人が賑やかに行き交う。僅かに見える空をビルによって真四角に区切られてしまったこの街でも、ビルの明かりで満天の星空なんて見えないだろう。そんな街で、七歳だった柚花は、十七歳になるまで成長した。
「お客さん、大学生?」
唐突に、さっきまでろくに口もきかないような無愛想だったタクシー運転手が、おもむろに言った。
「この街には、旅行か何か? いいねぇ、近頃の大学生は、ろくに勉学に励むことなく、暇をもてあましていて」
皮肉めいた運転手の口ぶりに、ぼくは少しだけ不機嫌になった。確かに忙しいと言うわけではないが、そんな風に言われるのは、すこしだけ心外だ。
「いえ、旅行ではなくて、ちょっと私事がありまして」
わざと棘のある口調で言うと、運転手はさすがにそれを察したのか、バックミラー越しに笑顔を見せた。
「いやいや、気分を悪くしたなら謝るよ。いやね、ウチの娘も今年大学に入ったばかりでね。親としては目の行き届く、近くの短大にでも進学させるつもりだったんだが、こんなゴミゴミした街はイヤだって、田舎の大学に進学しちまって、一人暮らしを始めたら、連絡ひとつよこさなくなっちまった。ちゃんと飯くってるのか、ちゃんと勉強を頑張ってるのか……」
「はぁ、それは心配ですね」
「親の心子知らず、とはよく言ったもので、こちとら家族だって言うのに、娘の考えていることがわからないとは、親として情けなくもあるんだがね。お客さんのご両親は、息災なのかい?」
「ええ、おかげさまで」
「そうか。いつまでもあると思うな親と金ってね、せいぜいしっかり親御さんには親孝行するんだね。見たところ、お客さんは真面目そうだ。ウチのドラ娘とは大違いだ」
そう言って、運転手は大きく口を開けて笑った。それが、自嘲なのかそれとも単に笑っただけなのか、曖昧な笑いだった。まだ、中途半端な大学生のぼくには、子を持つ親の気持ちは知りようもない。だけど、ぼくも運転手と同じように、妹である柚花の気持ちが分からない。いや、それを確かめるために、ぼくはここまでやって来たんだ。
そうこうしているうちに、タクシーは大きなマンションの傍で止まった。タクシー代は馬鹿にはならなかったけれど、駅から歩くにしてはそれなりの距離があった。タクシーが去っていくのをしばし見届けてから、ぼくはマンションを仰いだ。想像していたよりも高層で綺麗なマンションだ。入り口は自動扉になっていて、その隅に据え付けられた、目的の部屋のインターホンを鳴らして、自動扉を開けてもらわなければ、マンション自体に入ることはできない。
ぼくは、インターフォンに取り付けられたネームプレートから、母の苗字を探した。柚花は、まったく母との暮らしのことを話してはくれなかったけれど、父と離婚した後、再婚していなければ、母の苗字は旧姓のはずだ。そして、それはいとも簡単に見つけ出すことが出来た。
インターフォンを鳴らす。平日の午後に、家主の応答はないと思っていた。しかし間をおかず、ボタンの横にあるスピーカーから、母の応答が帰ってきた。
「はい、どちら様ですか?」
母の声。十年ぶりに聞くその声は記憶の中の声と、あまり変わりはなかった。何て言おう……。母の声を聞いた途端、ぼくは言葉に詰まってしまった。
「……柚花? もしかして、柚花なの?」
ぼくがあまりに黙りこくっていた所為で、母は柚花が帰ってきたものと勘違いした。
「あの……ぼく。此木空です」
多少裏返った声で、名を名乗る。短い沈黙。そして、母の脳裏にぼくの姿が浮かんだのだろう。母の域を飲むような音が聞こえた気がした。
自動扉の施錠が開く。ぼくは、マンションへと足を踏み入れた。エレベーターで上がった、六階の一番角の部屋。そこが、母と柚花の住まいだった。
母は玄関の前で、ぼくを待っていた。一目見ただけで、記憶の中の母とその姿が合致する。だけど、あの頃より皺や白髪が増えて、何処となく歳を感じさせる。
「ソラ……」
母がぼくの名を呼んだ。ぼくは、ゆっくりと母に近づいた。母は口許を押さえながら、目頭に涙を浮かべてぼくの姿を見る。十年ぶりの再会。それは、ぼくが柚花と再会したときと同じような感覚だったのだろうか。
「お久しぶりです」
ぼくは、あえて無感情に頭を下げた。ぼくにとっては、感動の再会なんかじゃない。理由はどうあれ、父と母は家族を引き裂いた張本人なのだ。今になって思えば、子どもだったぼくたちにとって、大人の事情は関係ない。それをぼくはあの時、賢しいだけの頭で、諦めかけていたのだ。母の涙ぐむ姿を目の当たりにして、ほくは胸のあたりがムカムカし始めた。それは、自分に対する怒りなのか、目の前にいるかつての母に対する怒りなのか。
「ええ、そうね。ずいぶん大きくなったわね……ソラ」
「当たり前じゃないですか、あれから十年も経ったんです。でも、ぼくはあなたに会うために来たんじゃないんです。聞きたいことがあって来たんです」
母の感動をぶち壊しにするような、抑揚のない声で言うと、母は少しだけ困ったような顔をした。
「聞きたいこと?」
「柚花のことです。母さんから聞きました、柚花が家出してるって……」
そう切り出したぼくは、ぼくの知っている柚花のことをすべて話した。二ヶ月前に柚花と再会したこと、柚花が今何処にいるのか。そして、三日前、白十字通りで柚花に言われたこと。母はぼくの言葉を驚きを持って耳を傾けていた。
「そう、柚花があなたのところに行っているというのは、悠子さんから聞いていたの」
母はぼくの話を聞き終わると、静かに言った。悠子というのは、新しい母の名前だ。
「随分と、ソラに迷惑かけてるのね、あの子……」
「違う。ぼくが聞きたいのは、そんなことじゃない。教えてください、柚花はどうして家出なんかしたんですか?」
ぼくは、母を睨みつけた。母はそんな視線に耐えられないのか、チラリと部屋の玄関扉をみて、
「ここでする話じゃないわね。ソラ、家へお上がりなさい。柚花が家出をした理由を教えてあげるわ」
と、言った。
「それで、柚花ちゃんの家出の理由は分かったの?」
電話口の向こうで、熊谷が言う。マンションからの帰り道、ついに痺れを切らした熊谷が電話をかけてきた。そりゃそうだ。素っ気無いメール一つじゃ、三日間も大学をサボった理由に説明はつかないだろう。ぼくは、星の見えない夜道を、駅まで歩きながら、母から聞いた話を熊谷に聞かせた。
柚花と母が十年間暮らしてきた、2LDKのマンションは、母娘二人で暮らすには、ひどく殺風景だった。最低限の家具しか置かれていない部屋には、まるで生活感が欠落し、どこかモデルルームのようで落ち着かない。そんな部屋に案内され、母が用意してくれた紅茶の水面を眺めながら、十年ぶりの再会を喜びたい母と、再会したくもなかったぼくは、どこかちぐはぐな会話のままだった。
父と離婚した後、母と柚花は親戚を頼った。ぼくの叔父に当たる人だ。だけど、母はもともと自立心の強い人で、一年も経たないうちに今のマンションへと転居した。柚花と二人で暮らすようになって、母は仕事に追い立てられた。社会がどれほど文化的に、精神的に進歩したところで、片親が一人で子どもを育てるのに、易しい環境になることはない。そういった意味では、父も同様だろう。しかし、父は離婚からほどなくして、再婚相手に恵まれた。その違いは、ぼくたち兄妹にとっても大きな違いだった。
毎日深夜になって、疲れきった体を引きずりながら会社から帰ってくると、玄関口に母を待ちくたびれた幼い柚花が眠っている。母の足音に気付いた柚花は眠い目を擦りながら、
「お母さん、お帰り」
と笑顔を作って言う。だけど、母の仕事が落ち着くことも、ぼくが柚花に会いに来ることもなく、十年の月日は淡々と過ぎていった。
「離婚して二人きりで暮らすようになってから、あんなに泣き虫だった柚花は、一度も泣かなかった」
母はぼくにそう言った。父と兄という家族を欠いた、柚花は何を思って成長していったのか、それはぼくには分からない。でも、母は知らないだろう。ぼくが泣きじゃくる柚花についた嘘のことを。柚花はずっと、信じていたのだ。そして、眠い目を擦りながら、家族の帰りを待っていたのだ。
そう思うと、ぼくの胸は尚も締め付けられるような気がした。子どもの頃、ぼくが悪気など感じないでついた嘘が、その後の十年あまりの柚花の人生を変えていったとしたら、その責任はとても重い。家族が離れ離れになる原因を作った、父と母と同じくらい、ぼくの罪なのかもしれない。
もしかすると、柚花はそれが原因で家出したのだろうか? それを知ることが、とても怖くなった。
「どうして、柚花は家出なんかしたの?」
ぼくの問いかけに母は、一枚の紙きれで答えた。薄っぺらい洋白紙の上には、四角い文字で「診療結果」と記されていた。医大生でもないぼくにとって、そこに書かれた走り書きのような文字意味を理解することは出来なかったけれど、重苦しい病名と、その隣にある受診者の名前だけで、ぼくは十分な衝撃を受けた。
そして、柚花が言ったあの言葉の意味を知った。
「どうせ、わたしは死ぬんだもん……」
柚花が倒れたのは、柚花が家出をする少し前のことだった。授業の真っ最中に、顔面蒼白で机に突っ伏した柚花を隣席のクラスメイトが気付いた。慌てた教諭の「気分でも悪いのか?」という問いかけにも、意識が朦朧として答えられない柚花は、すぐさま近隣の病院へと運び込まれた。そして、駆けつけた母の元に、その薄い紙切れが手渡された。
「ずっと以前から症状はあったはずです。お気づきになられませんでしたか? このまま放置すれば、娘さんは三年も生きられないでしょう」
医師の冷たい宣告は、母を驚愕させた。不治の病などと、現代には似合わない言葉なのに、その病魔は母の知らないところで、最愛の娘の体を蝕んでいた。そして、そのことを柚花自身は知っていたのだ。
母は診断書を握り締めて、病室のベットに横たわる柚花を叱った。何故もっと早く、調子が悪いことを話してくれなかったのか、作り笑顔で元気を装われるより、相談してくれた方が良かった、と。
柚花は、そんな母を厳しい目つきで睨みつけた。そう、あの夜にぼくを睨みつけたのと同じように。
「わたしが一番辛い時に、お母さんはいつもわたしの傍にいなかった。お母さんだけじゃない、お父さんも、お兄ちゃんもいなかった。それなのに、わたしは何をどうやって伝えたらいいの?」
そう言い放つ娘の姿に、母は再び愕然とした。家族が離れ離れになってからの十年間、娘のためと割り切って仕事に打ち込んだぶん、二人の暮らし向きは、それほど厳しいものではなかった。だけど、その代償と言わんばかりに、母が柚花に振り向いてやる時間は、どんどん削られていった。それが証拠の、生活感のない殺風景な2LDKなのだ。
柚花の言葉はまた、ぼくに向けられた言葉でもあると、思った。涙をこらえて、明るく振舞う柚花が待っていたのは、ぼくが奇跡を起こして、家族全員がまた同じ屋根の下で暮らせるようになること。子どもじみた願望でも、幼いときに両親の離婚を経験してしまった柚花にとっては真摯な問題だった。それだけ、ぼくの吐いた「奇跡」の意味は重いのだと、何度も思い知らされる。
柚花は退院を前に、病室から姿を消した。何の書置きも残してはいなかった。そうして、ぼくの下宿する遺跡アパートまでやってきたのだけれど、そのことを母が知る由もなく、母は仕事を休んでまで、あちこちを探しあぐねたのだ。
奇跡が見られれば、もしかしたら自分の病も治るのではないのか。もしかすると、柚花はそんな願いを託して、家出をしたのかもしれない。そして、再会したぼくを試した。見えるはずのない綺麗な星空を見ることが出来たなら、それこそが奇跡なんだと。
だけど、結果は知っての通りだ。星空は町の明りで見えない。ぼくには、奇跡なんて起こせない。柚花の病気が治ることなんてない……。そう思い至った柚花は、ぼくに言った。
「どうせ、わたし死ぬんだもん……」と。
母からの話、柚花の思い、ぼくの考え、そのすべてを話し終えると、電話の向こうで熊谷が静まり返ってしまった。
駅まで続く国道沿いの歩道は車のヘッドライトとテールランプの光が行き交う。ぼくはそのちらつきを背にして、歩道の真ん中で立ち止まった。
「なんか、暗い話しちゃってごめんな。でも、ぼくたちのことを心配してくれてありがとう、熊谷」
「ううん、別にいい、ソラも柚花ちゃんもわたしの大切な友達だから……。ねぇ、そんなことよりも、柚花ちゃんの病気、本当に治らないの?」
熊谷が心細そうな声で言う。ぼくは電話の向こうの相手には伝わりもしないのに、首を左右に振った。
「日本には、柚花の病気を治す専門医や施設がないけれど、アメリカに渡れば病気を治すことが出来るんだ。ただ、お金は随分かかるらしい。それは、ぼくが父さんを説得して、ウチからも協力すべきだと思ってる。でも、そのことを、柚花は知らないんだ」
「じゃあ、すぐ伝えてあげなくちゃ、病気は治るんだよって」
「いや、それだけじゃダメだ。それじゃきっと、柚花は素直に、快くアメリカへ行ったりしないと思う」
「どうして?」
「あいつにとって、一番悲くて辛かったのは、病気のことじゃなくて、家族がバラバラになったことなんだよ。あいつ、ぼくに言ったんだ。『親が離婚してしまったら、お母さんもわたしも家族じゃないの?』って。ぼくは、ぼくの前からいなくなった母親と妹のことを、家族じゃなくなったって、線引きしてたんだ。そうやって忘れようとしてたんだ……。でも、柚花はずっとぼくのことを憶えていてくれた。だから、忘れようとするなんて間違いだったって、今ならはっきり言えるよ。それを柚花に伝えなきゃいけないと思うんだ」
ぼくがそう言うと、スピーカーから熊谷の笑い声が聞こえてきた。
「青春だねぇっ。聞いてるこっちが恥ずかしくなってきちゃうわよ」
「ち、茶化すなよっ。真剣なんだぞこっちは」
けたけたと笑う熊谷の声に、急に恥ずかしさがこみ上げて、顔が赤くなるのが自分でも分かった。
「分かってるわよ。だけど、妹思いのお兄ちゃんとしては、どうするつもり? 適当な考えじゃ、奇跡なんて起こせないし、起こせたとして、柚花ちゃんの気持ちを変えることなんて、出来ないかもしれないわよ」
それが一番の問題だ。柚花にぼくの反省と、心から心配していることを伝え、それと同時に病気を治す決心を固めてもらうためには、あいつが言った「奇跡」を起こすしかない。だけど、何度も言うように、ぼくは魔法使いじゃない。ごくありふれた、大学生なのだ。そんなぼくに、奇跡を起こす手立てなんか、簡単に思いつかないし、子供だましな手品じゃ、柚花は納得してくれないだろう。
携帯電話片手に、うーんうーんと思わず唸ってしまう。わがまま姫を納得せられるだけの、奇跡を起こす方法……。
「うーん、一つだけ奇跡を起こす方法を思いついたんだけど……」
と、熊谷。突然の一言に、ぼくは当たりに構わず大きな声で驚いてしまった。道行く人たちの視線が、一発でこっちに向く。
「な、何? どんな方法なんだよ、教えてくれよ」
ぼくは慌てて車道の方に向くと、やたら小声で熊谷に尋ねた。すると、熊谷はほくそ笑むように、
「じゃあ、明日。講義が終わったら教えてあげるね」
と言って、プツリと電話を切ってしまった。おかげで、なんだか狐につままれたような心地で、ぼくは家路までの数時間、電車に揺られる羽目になってしまった。
【6】
三日ぶりの講義は、やはり眠気を誘う子守唄だった。言い訳をさせてもらえるのならば、ぼくが遺跡アパートにたどり着いたのは、日を跨いでのことだった。そのために、ぼくは十分眠ることが出来なかった。それと、もう一つ。ずっと熊谷の言った「奇跡を起こす方法」も気になって仕方がなかった。
その日はまるで計ったかのように、熊谷と同じ選択講義がなく、結局放課後まで首を長くして待たなければならなかった。
そうして、禿頭の教授の長い長い講義が終わりに近づいた頃、ぼくのポケットがブルブルと震えた。発信者を確かめるまでもなく、それは熊谷からのメール着信だった。
「ジャングルに集合」
短いその文面に従い、終業のチャイムがなり終わる前に、荷物を片付けてジャングルへと向かった。勿論、ジャングルというのは、電算部室のこと。そして、そこに棲むヌシこと桂が、熊谷の言う「奇跡を起こす方法」のキーワードであることを、ぼくは悟った。
文化系部室棟の一番奥にひっそりとたたずむ電算部室は、あいも変わらず塗装のはげかけたドアで、何処となく、うらぶれた感を醸し出していた。
「おーい、桂。入るぞ」
鉄の扉をノックして、返事が帰ってくる前に、ぼくは部室の中に入った。部室の中は、いつも通りの真っ暗な部屋を想像していたのだけど、先客が窓を全開にして外の光を部屋中に取り込んで、別の部室にでも迷い込んだかのような錯覚を覚える。
「助けてくれ、此木っ!! 熊谷さんを何とかしてくれよっ」
桂がぼくに駆け寄るなり、泣きそうな顔で訴えた。不精髭を生やした面で泣きつかれても、若干気持ち悪いだけだ。
「遅いわよ、ソラっ」
ひゅっと音を立てて、ぼくの眼前に箒の先が突きつけられた。見れば、熊谷は両手に箒とちりとりを装備している。それで、何故部屋が明るくて、桂が泣きついて来たかが分かった。
「なんだ熊谷、押しかけ女房見たいだぞ」
ぼくが冗談を言うと、熊谷が反論を返してくる前に、もう今にも泣きそうな顔をした桂が、
「こんな押しかけ女房、こっちがごめんだっ!! いいかい、熊谷さんっ!! コンピューターって言うのは、とてもデリケートなんだ。光も風も埃も、全部敵なんだ。それをそんな風に、箒を振り回したりなんかして、壊れちゃったらどうしてくれるんだーっ」
と、顔に似合わないような甲高い声で悲鳴を上げる。
「あら、折角人が親切にしてあげてるのに、随分な言い草ね、桂くん。……それから、ソラ。押しかけ女房なんて冗談やめてよね」
「分かってるよ。でも、そのくらいにしてやれよ。本気でこいつが泣き始めたら、見てられないからな」
「そうだ、そうだ。これ以上掃除するって言うなら、俺、本気で泣いちゃうからな、わーんっ」
泣きまねをしてから、ジトっと、桂が熊谷を睨んだ。
「せっかく、汚い部室を綺麗にリフォームしてあげようと思ったのに……。仕方ない、やめてやるかぁ」
溜息を吐きながら熊谷は、ぼくに突きつけた箒を下ろした。きっと、桂にとっては、部室のリフォームなんて、ありがた迷惑以外の何者でもないだろう。だけど、このジャングルと呼ばれる、コンピューターとその周辺機材の山に囲まれた雑然とした空間をどうにかしたくなる気持ちの方が、少なくとも理解できる。
桂は熊谷が掃除するのを諦めたのと同時に、すばやく窓辺に走り、熊谷が開け放った窓を一つ残らず閉め切ると、ブラインドを下ろして回った。そして、すかさず空調のスイッチを入れる。
「学友会の会長が、電算部室は電気代かかりすぎだって、嘆いていたわよ」
顔の広い熊谷が、ほっと胸をなでおろす桂に言った。しかし、桂はそれを苦言と思いはしないだろう。
「それで……君たちは何をしにここへ来たんだい? 俺はこの部屋を溜まり場にするつもりはないから、そのつもりならさっさと出て行ってくれ」
「そうだ、熊谷。昨日言ってた、奇跡を起こす方法ってやつを教えてくれよ」
危うく、桂の同情できない泣き顔に、一番肝心なことを忘れてしまうところだった。
「ふっふっふっー。わたし、すごいこと思いついちゃったのよ。聞いて驚くなかれ、奇跡を起こす魔法を見つけちゃったのよっ!!」
「おい、君たち。俺の話しを聞いているか? 雑談するのなら、俺の作業の邪魔だ。出て行ってくれたま……」
「魔法!? 熊谷お得意の冗談を聞くために、わざわざジャングルまでぼくを呼び寄せたのか?」
「人の話を聞けよっ、此木、熊谷っ!!」
「わたしはいたって真面目にはなしてるのよ。冗談なんかじゃないわ」
「頼むよ、二人とも。俺を無視するな。泣いちゃうぞ」
「その魔法の扉を開く鍵は、桂くん、あなたなのよっ!!」
ちょっと芝居がかった口調で言い切ると、熊谷は、桂のことを指差した。完全にぼくたちの会話から弾き出されていた桂は、突然自分に話題が振られたものだから、きょとんとしてしまう。
「どういうことだよ。この引きこもりマニアが、奇跡とどういう関係かあるんだよ」
ぼくは思わず、いぶかるように桂と熊谷の両方を見た。
「うーん、正確に言えば、桂くんじゃなくて、桂くんの作った……ほら、この前見せてもらった例のプログラムだよ」
「確か……忍者くん一号?」
桂が電算部で開発し続けているというソフト、それが「忍者くん一号」だ。妙なネーミングだか、その実はネット回線を利用して、別のコンピューターに忍び込むことが出来るという、いわゆる一つのハッキングソフトである。
ぼくは思わず小首を傾げてしまった。犯罪まがいのハッキングソフトと熊谷の言う「奇跡」がどうやっても結びつかないのだ。すると、熊谷はぼくに向かって「察しが悪い」と言う。魔法だの桂だの、断片的な情報だけで察しろという方が、無茶だと思う。
「もう鈍いわねぇっ。だから、これを使って、街中を大停電にして、星空を柚花ちゃんに見せてあげるんだよ」
と言って、熊谷は人差し指を天井に向けた。その指がさしているのは、コンクリート地が剥き出しの電算部室の天井ではなくて、その先にある空だ。
「待て、待て、待てっ!!」
桂が、唐突に大声でぼくたちの会話を制する。
「お前たちの話が、全然見えてこないぞっ!! 一体どういうことなんだ、俺の自慢の『忍者くん一号』を何に使うつもりなんだっ!?」
そうだ、桂には何にも話していなかった。いや、むしろその辺りのことは、熊谷から聞いているものと思っていた。ぼくは、少しばかり面倒に思いながら、事情を掻い摘んで説明してやった。
「なるほどな、そのために俺の『忍者くん一号』を使うってわけか……って、そんな犯罪に『忍者くん一号』を貸すことなんかできるかぁっ!!」
そう言って、桂は愛用のパソコンの前に立ちはだかった。桂の言うのももっともだ。ハッキングソフトを使って、街中を停電させれば、確かに柚花の望む夜空を見ることが出来るだろう。しかし、それは犯罪だ。
「ぼくは、反対だ。それは、奇跡なんかじゃないよ」
と、ぼくが言うと、熊谷はがっくりと肩を落とした。そして、今度は自ら天井を見上げると、
「ソラ。君には、奇跡が起こせる? 魔法の杖を振り上げて、呪文を唱えて、柚花ちゃんに奇跡を見せることが出来る? 現実的に考えても、できないでしょう? わたしがソラだったら、柚花ちゃんのためになら、これは犯す価値のある犯罪だと思うよ」
と、静かに熊谷は言った。どうやら、発案者自身にも、これは犯罪だと言う認識があるようだ。だけど、熊谷の言うことは、的を射ている。ぼくの力では奇跡を起こすことは出来ない。事実は小説よりも奇なり、なんて嘘っぱちもいいところだ。現実的に考えるなら、それは、とても作為的で、必然的な方法でのみしか、得ることは出来ない。
「だから、これは三人の秘密。奇跡にはタネもシカケも必要ないの。必要なのは、度胸と決意だけ。ソラ自身のね……」
決意。そう、妹のために犯罪的行為に手を染めるか、否か。その答えはもう、決まっているはずだ。
「わかった、やろう」
ぼくは意を決して頷いた。熊谷がニッコリと微笑む。
「いやいやいや、俺は納得してないぞ。だいたい、俺は此木の妹になんか会ったこともない。なんで、協力しなきゃならないんだようっ」
ぼくたちだけが納得して、決意をしたとしても、肝心の桂が納得して協力してくれなければ、ことは始まらない。しかし、そう簡単に犯罪的行為に参加する、なんて言えるはずもなく、桂はぼくたちを睨みつけて拒否の姿勢を決め込んだ。
「じゃあ、この子のために頑張るって言うのは、どう?」
熊谷はそう言うと、鞄から携帯電話を取り出して、桂の目の前に突きつけた。
「ぴっちぴちの女子高生よ」
なんて言う熊谷の携帯電話の液晶には、いつ撮ったのか、柚花の写真が映し出されていた。写真の中の妹は可愛くポーズなんかとっている。それは、桂の意思を挫くのに、大層な威力を持っていた。
桂は真顔でぼくに近寄ってくると、ぼくの両手を取って、「これからは、お義兄さんと呼ばせてくれっ」と言った。
「どうやら、決まりみたいねっ」
ニコニコと嬉しそうに熊谷が微笑む。ここに「隠し砦の三悪人」ならぬ「ジャングルの三小悪党」が結成された。ぼくはそんな気分になってしまった。
「それで、柚花ちゃんのための作戦決行は、いつなんだっ!?」
本気モードになった桂は、学者先生よろしく、眼鏡をくいっと上げると、三小悪党の実質的リーダーとなった熊谷に尋ねた。
熊谷は自信たっぷりの表情で「今夜よっ!!」と言い放った。
見上げる夕刻の空は上々。邪魔な雲は一つもない。
しかし、たとえ街の電気がすべて消えたとしても、望む星空が見られる保障はない、と桂はぼくに忠告した。大昔のように星が綺麗に見られない理由は、街の光だけじゃない。世界中で科学技術が進歩し、その代償として、空気が汚れてしまった所為もある。だけど、これが最後のチャンスかもしれない。ぼくは、後に引き返すつもりはなかった。
作戦は至ってシンプルだ。桂のハッキングソフトを使って発電所のコンピューターを乗っ取り、この街全体を停電にする。ただし、ハッキングソフトのプログラムの性質上、その時間は三分余り。決行の時間は夜九時ちょうどから、三分間。その前に、柚花を連れて、遺跡アパートの屋根に上らなければならない。
勿論ぼくと熊谷は、作戦によって病院などの施設まで停電してしまう懸念した。しかし、桂曰く、そういう場所には必ず自家発電をする機械があるから、要らぬ心配らしい。むしろ、停電によって生じるかもしれない、他の事故や損害などの方が大きい。
だけど、その愚を犯してでも、奇跡を起こす。ぼくたちはそう決めた。そうして、何かあったときには、ぼくがすべての責任を負うつもりでいた。もっとも、ぼくなんかにどんな弁償が出来るかなんて、分からない。それでも、ぼくと柚花のために無償で協力してくれる、この愛すべき友人たちのために、出来ることはしたい。
そんな、熊谷と桂の友情と、ぼくの覚悟を無駄にして、最後のチャンスを逃してはならない。ぼくは計画の段取りを終えると、ハッキングシステムの立ち上げを行う桂と熊谷を電算部室に残して、柚花を捕まえるために夕刻の街へと繰り出した。
いつもとは違うバスに乗り、いつもとは違う方へ向かう。その方角にある白十字通りに辿り着くころには、もうすでに、太陽は姿を隠し、夜の藍色がオレンジ色の空を半分以上塗りつぶしていた。
「クリスマスセール実施中!」
気の早いアーケード街の横断幕の下、ぼくは噴水広場へと走った。そこに柚花がいるという確信はなかった。ほとんどイチかバチかの賭けみたいなものだった。
長いトンネルのようなアーケード通りを走り抜けると、水柱を吹き上げる噴水が目に飛び込んでくる。キラキラと水の粒子が、あたりの間接照明に照らされて、幻想的な風景が演出されているのだけど、それを呑気に眺めているような時間はぼくにはなかった。
噴水には目もくれずあたりをくまなく探す。相変わらず人が多い噴水の近くに、見知った人影を発見したぼくは、その子に駆け寄った。
「あれ? 柚ちゃんのお兄さん」
だけど、振り向いたその人影は、柚花ではなくて、恵野さんの妹で柚花の友達、ひかりちゃんだった。
「柚花を知らないか?」
と、ぼくが尋ねると、ひかりちゃんは傍らのもう一人の友達、夏生ちゃんと顔を見合わせた。そして、すこしだけ驚いた顔をして、
「入れ違い。柚ちゃんなら、さっきお兄さんの下宿に行ったよ」
と、言った。とんでもない誤算だ。まさか、柚花の方が先に遺跡アパートへ向かっているとは、これっぽっちも思っていなかった。
「いやー、ちょっとね、柚ちゃんと喧嘩しちゃった」
呆然とするぼくに、ひかりちゃんは頭をかきながら言う。
「お兄さんと仲直りしたら? って言ったら、柚ちゃん駄々っ子みたいに、いやだ、あたしには関係ないことだって言うから。思わずあたしも頭にきて売り言葉に買い言葉。折角、バカ兄妹の間を取り持ってあげようと思ったのに」
「余計なお世話だよ……まったく」
「同じことを、柚ちゃんにも言われたよ。そんで、今何故だかあたしが夏生に諭されてたところ。余計なお世話って言われても、友達だからね。なんだか心配になっちゃって」
えへへっと、恥ずかしそうにひかりちゃんは笑った。
「ひかりはこういう子なんです。妙に友情に厚いところとかあって、それが原因で、ときどき誰かとトラブルを起こしたりするんです。おせっかいなんですよ」
そう言って、夏生ちゃんがひかりちゃんのことを小突く。そう言う彼女も、家出した柚花のことを泊めてあげてたくらいなんだから、他人のことは言えないのだろう。
「柚花は、いい友達に恵まれたんだな……それで、どうして柚花がぼく下宿先に行ったって分かるんだい?」
「それは、あたしが行けって言ったの。あの子、お兄さんが自分のことを心配してるなんて嘘だって言うから、じゃあちゃんと確かめて来いって、蹴っ飛ばしてやったの。まったく、似たもの同士のくせに、世話の焼ける兄妹だこと」
ふうっ、とひかりちゃんは溜息を吐き出した。彼女の言うとおり、妹の気持ちも分からない兄貴と、頑固でわがままな妹。俯瞰してみれば、似たもの同士なのに、分かり合えないなんて、なんて馬鹿らしいことなのだろう。こんなにも、ぼくと柚花のことを気にかけてくれる、ひかりちゃん、夏生ちゃん、熊谷、桂、母さんたち、たくさんの優しい人たちに、ぼくらは囲まれているというのに、ぼくは少し前まで、そんなことにも気が付いていなかった。そして、柚花は今もまだ、気が付いていない。自分が死ぬと言う運命を前に、すべてに目を瞑って、見ないことを決め込んだ。
もしも、この優しい友人たちに、感謝の言葉を述べるのであれば、それは、口から零れる幾千の単語などではないのだろう。柚花の瞳を開かせること。自分の運命を頑なに信じて怯える、柚花の心を開かせることが、彼らへの感謝の言葉なのだ。
そのためには、必ず奇跡を起こさなければならない。そして、奇跡の瞬間にぼくの隣に柚花がいなければならないんだ。
「二人とも、九時になったらここから空を見上げてごらん。素敵なものが見えるから」
吹き抜けになったアーケードの隙間からのぞく、夜空を指差した。ぼくの指先につられて、二人は空を見上げたけれど、そこに星があるわけではなく、ただ、黒い絵の具で塗りつぶしたような空間が浮かんでいるだけ。二人は揃って、きょとんとしながらぼくを見た。
ぼくは少しだけはにかむと、踵を返して、もと来た道を駆け出した。急いで、アパートへと向かう。都合良く、アパートと白十字通りを結ぶバス路線がないことが、妙に腹立たしい。一端大学まで帰ってもいいのだけど、そうする時間がもったいなく思えた。
脚力に自信があるわけではないけれど、あの日に比べて走る事が苦ではなかった。柚花に奇跡を見せると言う目的があるのだ。
大通りの歩道をひたすらまっすぐに走り、交差する住宅街の路地に入る。ひかりちゃんに説教されたファミレスの前をかすめ、恵野さんがバイトするコンビニの前を通り過ぎて、ようやく倒れかけそうな遺跡アパートが見えてくる。
ぼくは足を止めて、息を整えた。そして、錆付いて、踏み板の外れそうな階段を登る。一番奥の部屋の前。ドアを背中に、うずくまるようにひざを抱えて座る柚花。
「お帰り……ソラ」
近づく足音に気付いた柚花は、元気のない声で言った。少しだけ顔色が悪い……。
「大丈夫か、柚花?」
と、ぼくが尋ねると、柚花はそっと頷いた。彼女の手には、薬の入った銀のケースが握られていた。
「さっき、発作が起きて、胸の奥が苦しくて、息が出来なくてもう死んじゃうんじゃないかって思ったの。でも、ソラいないし、ここにはわたしの知っている人は誰もいないから、助けも呼べなくて、薬を飲んで我慢してたの。そうしたら、ちょっと楽になったよ」
「ごめん。お前のこと探してて、白十字通りに行ってたんだ」
「じゃあ、入れ違いか……携帯の電源入れておけばよかったかな」
そう言って、柚花は制服のポケットから携帯電話を取り出して、電源スイッチを押した。ディスプレイの画面が柚花の顔を青白く照らす。
「母さんに会ってきた。お前の病気のことも聞いた……」
「そっか……。馬鹿だよねわたし、どうせ死んじゃうのに薬なんか飲んで。どうせ奇跡なんか起こらないのに、ソラのこと嘘つき呼ばわりして。ひかりちゃんの言うとおり、わたし、わがままだ……ごめんなさい、ソラ」
力なく、ぼくに作り笑顔を見せる。そんなに儚げな顔つきは、今まで一度も見たことはない。だけど、どんなにわがままでも馬鹿でも、素直な柚花は、十年前と何も変わっていないのだと、やっとぼくは気付いた。
「どうせ、なんて言うなよ」
柚花の手を強く掴んだ。突然のことに、柚花は驚いて目を丸くする。ぼくは構わず、柚花の手を引いて立たせた。
「奇跡をみせてやる!」
柚花を引っ張って、部屋の中に入ると、ぼくは押入れから厚手のコートを引っ張り出して、柚花に投げつけた。見事にコートをキャッチしながら「どうするの?」と、柚花は訝る。
「決まってるじゃないか、星を見るんだよ。プラネタリウムでも、天体写真集でもなくて、本物の夜空の星を」
「何言ってるの? 星なんか見えなかったじゃん……」
「だから、奇跡を起こすんだよっ」
そう言うと、ぼくは立て付けの悪い窓ガラスを開いて、半身を乗り出す。手を伸ばして、雨どいの強度を確認する。どうせ壊れないだろうけれど、なんだか星を見るための儀式みたいだった。
「奇跡なんか起こらない。そう言ったのは、ソラじゃない」
ぼくの背中に、柚花が語気を強めて言う。
「奇跡を見せてって言ったのは、柚花だろう? もう時間がないんだ。ほら、ぼくが先に登って、お前を引き上げてやるからっ」
「ちょ、ちょっと、ソラっ」
柚花の制止を無視して、ぼくは窓枠に脚をかけた。高いところが苦手だったはずなのに、慣れというのはすごいもので、もうちっとも怖くなんかない。雨どいを掴み、勢いをつけて屋根瓦の上に上がる。そして、体を反転させてから、上体を屋根から乗り出すと、両手を窓のほうに伸ばして、柚花を呼んだ。
兄の行動に納得がいかない、そんな表情をありありと浮かべながら、コートを着込んだ柚花は、細い両手をぼくの方に伸ばした。柚花の体重は思うより軽くて、ぐっと力を込めて、引き上げてやれば、何のことはなく簡単に、屋根の上に上がる。
「ほら、やっぱりみえないじゃん」
柚花の指さした夜空は、街の光が薄い膜を張ったように覆い、そこにあるはずの星なんて見えない。夜風が冷たくぼくたちの間を吹き抜けて行った。柚花は寒そうに身を凍えさせる。
ぼくは腕時計の時刻を確認した。カンのいい柚花に作戦のことを悟られたくないから、桂たちとは連絡を取っていない。彼らが首尾よくやってくれるかどうかは分からない。特に、桂を手伝うと言った熊谷にいたっては、コンピューターについて素人同然なのだ。
しかし、彼らを信じるなら、腕時計の秒針があと半分回れば……。
「もういいよ、ソラ。無理しなくても。わたし、ちゃんと分かってるから、奇跡なんて起こらない。わがまま言ってごめんなさい」
「いいから、空を見上げてろ。奇跡は絶対起きるから」
屋根を降りようとする柚花の腕を掴んで止める。ぼくの真剣な眼差しに戸惑いつつ、柚花はもう一度夜空を見上げた。
「五、四、三、二、一……」
左腕の腕時計の秒針を目で追いながら、カウントダウン。そして、最後の一秒。赤い秒針が動き、夜九時を指し示した。
「零っ!!」
始まりの音があったわけじゃない。ただ、何かが途切れるような気配があった。それはまるで、雑音が静寂に飲み込まれていくような不思議な感覚だった。街の騒音は、光が一つ一つと消えていくのにあわせるように、吸い込まれて消えていき、住宅街は西から、国道沿いは東から、そしてはじめて屋根に上ったとき柚花がクリスマスツリーと形容したビルは地上階から順番に、光を失っていった。
そして、すべての光が消えると、街一帯が無音で真っ暗な世界に早変わりする。それと同時に、見上げる空は真っ黒な夜空ではなく、淡い藍色のヴェールに、宝石のような小さな光の粒が散りばめられた満天の星空となった。
「星が……たくさん」
瞳いっぱいに星空を映しこんだ柚花が、呟いた。見られない、奇跡は起こらないと、そう信じていた世界の隅っこに、見たこともないような満天の星空が現れたことに、柚花は圧倒されていた。
「数え切れないな、こんなにたくさん星があったら。なあ、柚花」
「うん」
幾千もの星が瞬き、それだけで胸がいっぱいになるほどの、美しい夜空。天体写真ではなくて、手を伸ばせば届くくらい近い場所にきらめき、プラネタリウムのような人工的で温か味のない色の光じゃない。何百年、何千年も地球をそっと照らし続けた星は、文明の光に覆い隠されていただけで、ぼくたちの目の前にずっと瞬いていたいうことを知らしめてくれる。
「これって、奇跡?」
星を見上げる柚花がぼくに問いかけた。
「そうだよ。柚花がぼくとの約束を守って泣かないでいてくれたから、ぼくも柚花に奇跡を起こしたんだよ。すごいか?」
「うん……すごいっ!!」
ニッコリと微笑んで柚花は、じっと星空を見つめ続けた。きっと察しのいい柚花のことだ、これは奇跡なんかじゃなくて、タネもシカケもあることだと気付いているかもしれない。それに、奇跡を起こしたのはぼくじゃなくて、桂と熊谷なのだ。それでも、素直に喜んでくれる妹の横顔に、ぼくは嬉しくなった。
「わたしね……死んじゃっても、この星空はずっと覚えてるよ。きっとわたしみたいなわがままなヤツは、地獄に落ちちゃうと思うけどね。でも、この星空をずっと覚えていられたら、きっと寂しくなんかないから」
柚花の愛らしい瞳から、ぽろぽろと透明な涙の雫がこぼれだす。涙は頬を伝いコートを濡らした。
「あれっ!? ち、違うんだよ。悲しいんじゃないんだよ。何で涙が出るの? おかしいなぁ。わたし、すごく嬉しいんだよ」
「嬉しいから涙が出るんだよ」
「そうなのかな? えへへ。なんか恥ずかしいや」
そう言って、少しだけ笑い鼻をすすって、柚花はコートの袖で涙を拭った。だけど、止め処なく柚花の頬は涙が伝っていく。ぼくは、そっとそんな柚花の頭を撫でてやった。昔、柚花が泣きべそをかくたびに、ぼくはこうして柚花の頭を撫でてやったことを思い出す。
「ずっと、お前のことほったらかしにしていて、ごめんな。ずっと、お前が待っていてくれるなんて思ってもなかった。でも、考えてみたら、ぼくたちは世界にたった二人だけの兄と妹で、大切な家族なんだ。言い訳がましいけどさ、あの日父さんと母さんが別れて、ぼくもショックだったんだと思う」
「ソラ……」
「だから、必死で母さんやお前のことを忘れようとしてた。でも、間違いだったんだよ。忘れる必要なんかない。両親が互いに別の人になっても、母さんはぼくを産んでくれた母親だし、お前はぼくの妹なんだ。だから、お前のことを心配してもいいだろう?」
星空を見上げながら言う。柚花が頷いてくれたかどうかは、ぼくの視界には入らない。
「ぼくだけじゃないよ。ぼくの新しい母さんも、ぼくたちの母さんも、熊谷も、友達の桂も、ひかりちゃんや夏生ちゃん。みんなお前のことをめいっぱい心配してる。そういう優しい人たちのことを、関係ないなんて言っちゃだめだ」
「でも、わたし……」
「お前は死んだりなんかしない……。母さんが言ってたよ、アメリカへ行って治療すれば、その病気は治るんだ。もっとも、それを聞く前にお前は家出しちゃったけどな」
「アメリカ……遠いね。あの星にたどり着くくらい遠くて、お金たくさんかかっちゃう」
「そんなもの、お前が心配するなって。ぼくが説得して、父さんにも出させる。新しい母さんは、納得してくれるよ。あの人は、底抜けにいい人だからな。それに父さんも反対できないよ。だって、父さんはお前の父親なんだ」
ぼくが柚花の頭を軽く叩くと、柚花はうつむいた。その瞬間、停電の瞬間を巻き戻すように、消えた光が街に戻ってくる。三分なんて、あっという間だ。再び夜空は、人工灯の膜に覆われて星は消え黒く塗りつぶされていく。そして、反対に広がる街に灯る明りが星の瞬きのように見えた。
「あ、あそこに星が……!」
驚きの声とともに、柚花が指し示したのは、クリスマスツリーのような形をしたビルの明りの上。そう、ちょうどそれは、クリスマスツリーの頂点に飾られる金色の星形の飾りみたく、キラリと星が一つだけ輝きを放っていた。
「あれは……」
天体写真集で得た知識で、この時間、その方角に輝く星は青白く光を放つ、宇宙で二番目にもっとも明るい星だということに、ぼくは気付いた。
どれほど、科学が生んだ光が輝度を増したとしても、消えることなく輝くその星の名前は、シリウス。
「あんなに輝けるなんてすごいね……こんなに街は光にあふれかえっているのに」
と、柚花は星を見つめながら言った。
「わたしは、シリウスみたいに光り輝けるのかな?」
「もしも、街の光が眩しくて、柚花って言う名前の星が光り輝けないなら、ぼくが他の光を全部消して、奇跡を起こしてやる。何度だって」
ニッと笑顔で言ったぼくの言葉が、冗談に思えたのだろうか、柚花は少しだけ声を立てて笑った。
「じゃあ、いっぱいわがまま言っていいの? お兄ちゃん」
柚花の少し潤んだままの瞳がぼくの顔を見つめる。その「お兄ちゃん」という響きも、その顔も、昔から知っている妹の柚花の顔だった。
「ちゃんと、お前が病気を直したら、なんでもわがまま聞いてやるよ」
「それ、嘘じゃないよね?」
疑いの眼差しに、ぼくはまるでお芝居に出て来るお城のじいやみたいな口調と仕草で、
「誓って、嘘なんかではございません。わがまま姫様!」
と言った。すると、柚花もそれにあわせるように、腰に手を当てて胸を張るとまるで、お姫様のように、
「ふむ、よきにはからえっ!」
ぼくたちはお互いの顔を見合わせて、吹き出した。きっと階下では、先ほどまで、停電に焦っていた大家さんが、今度は屋根の上から聞こえてくるぼくたちの笑い声に驚いていることだろう。だけど、ぼくたちはそんなこと気にも留めないで、シリウスの輝く星空の下でずっと笑い合った。
【7】
「そうだ、今度の日曜日のデート、何処に行きたい? リクエストに応えるよ」
コンビ二で会計する間に、ぼくはレジを打つ恵野さんに尋ねた。恵野さんは、ピッピッと、バーコードリーダーを商品に押し付けながら、天井を見上げて考える仕草をした。
「じゃあ、映画に行かない? ほら、この前から始まったやつ」
そう言って、バーコードリーダーで恵野さんが指した先には、映画のチケット販売のポスター。「星空の下で」というタイトルの映画。キラキラの夜空の下、人気の若手俳優と女優が手をつなぎあって、空を見上げている。
「友達がこの前観たって言ってたんだけど、すっごい泣けるラブストーリーらしいよ。ダメ?」
「分かったよ。じゃあ、映画館の前で待ち合わせしよう」
財布から、代金を取り出しながらぼくは笑顔で頷いた。正直、ラブストーリーとかは苦手なんだけど、カノジョのリクエストとあれば、断るわけには行かない。
コンビニの自動ドアが開いて、来客を知らせるベルが鳴る。「いらっしゃいませ」と、恵野さんは仕事の声で応対する。来店した客は、商品棚の方には向かわずに、真っ直ぐこっちへ向かってきた。
「なあに、お姉もソラくんもラブラブですなぁ。外は木枯らしだって言うのに、暑い暑いっ」
どこかのオヤジみたいな野次を飛ばしながらやって来たのは、恵野さんの妹、ひかりちゃんだった。いつも通り、チェックのマフラーに顔の半分を埋めているけれど、その瞳はニヤニヤまでは隠しきれていない。
「うるさいな。悔しかったら、あんたも素敵な彼氏見つけたら?」
恵野さんは妹の前で、これもまたいつも通りの棘のある口調で言った。
「あれれ? この前は、勉強しなさいって言ってたのに、今度は恋愛しなさいって? あたしが勉強と恋愛を両立できるほど器用じゃないのは、お姉ちゃんなら知ってるでしょう?」
「ぐっ、減らず口だけは達者なんだから……っ!」
「へへーん。それがあたしのとり得だもんねぇ。お姉ちゃんは、バイトと恋愛を両立するのが得意なのかなぁ?」
「このっ! バカ妹っ」
この姉妹は顔をあわせるたびに、言い合いしているけれど、実は仲がとてもいいことをぼくは知ってる。実際、ぼくと恵野さんの距離を縮めたのは、ほかならぬひかりちゃんだ。だから、二人のちょっとした喧嘩を見るたびに、少しだけ苦笑してしまう。
「じゃあ、日曜日に。バイト、頑張って」
ぼくは顔を赤らめる恵野さんにそう言うと、コンビニ袋を提げてコンビニを後にした。外は、ひかりちゃんの言ったとおり木枯らしが吹いて、冷たい風がぼくの頬を突き刺す。
柚花が病気療養のためにアメリカへ旅立ってから、一年が過ぎた。再び街には冬がやって来た。柚花に奇跡を見せた後、ぼくと桂と熊谷はお互いに、停電事件の秘密を隠すことにした。三分間の停電は多少なりとも話題に上りはしたものの、大した事件も起こることはなかった。だから、悪事は三人で墓まで持っていくことにしたのだ。
桂は、心血注いだハッキングソフトを捨ててしまうことを悔しがって、とうとう電算部を止めてしまった。一ヶ月くらいはしょんぼりしていた桂だったけれど、ある日無精髭を剃って、ボサボサの髪を解いて、眼鏡をコンタクトに変えると、真面目な顔をして、
「決めた、これから俺は、恋愛に生きる!! 柚花ちゃんがアメリカから帰ったら貰い受けるからな、覚悟していろ、此木……いや、お義兄さんっ!!」
と息巻いた。人は変われば変わるもので、引きこもりの似合う男は妙に、いまどきの外見が似合う男になってしまった。ぼくは「柚花が認めたらな」と曖昧に答えたけれど、どうなることやら。
一方熊谷は、相変わらずぼくをからかったりしながら、良き友人でいてくれる。喜多野さんとの仲も上々で、時折ノロケ話を聞かされる。また、熊谷は柚花にとってもよい先輩だ。アメリカへ渡る前、病気のことや治療のこと、言葉の通じない海外に緊張する柚花を勇気付けたのは、ぼくではなくて熊谷の方だった。こういうとき、同性の先輩と言うのは、とても力になるものなのだろう。ちょっとだけ悔しかった。
柚花はそれからまもなく、遠いアメリカの空へと発っていった。偶然なのか、それとも神様の悪戯なのか、空港で柚花を見送ったのは、ぼくと父さんと母さんの三人だった。十年ぶりに、ぼくたち家族四人が顔をあわせた。久々の再会に、離婚した時あれほどいがみ合っていた父と母は、ぼくの心配を他所に、互いにぶつかることもなかった。十年と言う年月が、ぼくや柚花を成長させたように、両親をも成長させたのだろう。
「お兄ちゃん。今度帰ってきたら、わがまま聞いてくれるっていう約束忘れないでね」
柚花は、デパーチャーゲートをくぐる前に、振り返ってぼくに言った。妹はぼくに、どんなわがままを言いつけるつもりなのだろう。それを考えると、ちょっと怖くて楽しみでもある。
父さんと母さんは、それから変わることなく別々の人生を歩んでいる。でも、母さんは時折はぼくの事を気にして、電話なんかかけてくる。勿論、新しい母も同じで、ぼくには二人も母さんがいると言うことを改めて、嬉しいような、うざったいような、そんな気分を味合わされている。
アメリカに渡った後、柚花からは月イチのペースでエアメールが送られてくる。いじわるな妹は、いつも英語で文面をよこすものだから、英語が苦手なぼくはいつも読めなくて腐心していた。
「きっと、恥ずかしいから、英語でごまかしてるんだよ。柚花ちゃんも可愛いところがあるじゃない」
と、英語だらけの手紙を見て言ったのは、恵野さんだ。あれから、ぼくたちは大学でも顔をあわせることが多くなり、ひかりちゃんの後押しもあって、付き合いはじめた。あれほど、恋愛を敬遠していたのに、いざ恵野さんという恋人が出来ると、それは、それで毎日が楽しく思えてくるから不思議だった。
でも、ぼくが恵野さんと付き合い始めたと言うことは、柚花には秘密だ。柚花が帰ってきてから、驚かせてやろうと思う。まさか自分の兄が、友達の姉と付き合っているなんて、思いもよらないだろう。
いじわるにはいじわるでお返しだ。
そんなことを考えながら、遺跡アパートまでの道を歩く。相変わらず、今にも崩れ去りそうな外観に、このアパートの本当の名前が「伊関アパート」ということを忘れがちになる。ちなみに、停電の後屋上で笑い合ってたぼくたちは、大家さんにものすごく叱られた。だけど、あの美しい星空の光景に興奮冷めやらぬぼくたちにとっては、大家さんの雷なんて、雑音にもならない。むしろ、大家さんの禿げあがった頭の上にも光る、シリウスの輝きにぼくたちは星空に思いを馳せた。
それは、すべて一年前の出来事なのに、今だって鮮明に思い起こせる。十年前バラバラになったぼくと柚花を、もう一度兄と妹に戻してくれたのは、間違いなくあの星が瞬く夜空なのだ。そして、ぼくは優しい友人たちとともに、妹が元気な笑顔で帰ってくるのを待ってる。そして、いつものように笑って「お帰り」と言ってくれるのを待ってる。そう、こんな風に。
「お帰り、ずいぶん遅かったねぇ」
妙に現実味のある声。ぼくの想像の声ではなくて、確かにこの耳が捉えた声。錆び付いた、階段を上りきったぼくは顔を上げて、二回の一番奥の部屋の前を見た。そこには、長い髪をした女の子が一人。
「なに、たった一年で、可愛い妹の顔を忘れちゃった?」
呆然とするぼくは、思わず提げたコンビニ袋を落としそうになった。目の前で笑っているその顔は、柚花だった。一年前と変わらない明るい笑顔にぼくは、思わず言葉を失った。
「えへへ、ただいま。昨日アメリカから帰ってきました」
「帰ってくるなら、そう言ってくれればよかったのに……」
ようやく口にしたぼくの言葉に、柚花は少し頬を膨らませる。
「エアメールにちゃんと書いたよ。まさかっ! 読んでないの? この薄情者めっ。めちゃくちゃ可愛い彼女が出来たからって、浮かれてるんじゃないわよっ」
「はぁ? あんな英語だらけの手紙、読めるわけないじゃないか。それよりも、恵野さんのこと、誰から聞いたんだよ?」
「薫さん」
柚花の答に、悪友・熊谷のニヤリとした顔が思い浮かぶ。
「顔、赤くなってるよっ」
「うるさいなっ! まったく、お前らはぼくのことからかってばかりなんだから……そんなことより、病気は? もういいのか?」
「うん。元気いっぱいだよ」
そう言って、柚花は顔一面に笑顔をたたえた。それを見ていると、ぼくをからかう妹のことをそれ以上怒る気にもなれない。それよりも、元気に帰って来た柚花に言うことがあったのを、ぼくは思い出した。
「お帰り、柚花」
「うん、ただいま、お兄ちゃん」
(おわり)
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2010/01/30(Sat)18:59:20 公開 / 雪宮鉄馬
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■作者からのメッセージ
拙作を最後まで読んでいただき、大変ありがとうございました。文章表現など至らぬところも多く、読みづらかったかと思います。このあたりは常に反省点だと感じているところであります。
そののあたりを含めて、ご指導ご鞭撻のほどいただければ幸いかと存じてます。よろしくお願いいたします。