- 『石の眠り』 作者:鈴村智一郎 / リアル・現代 ミステリ
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全角14903文字
容量29806 bytes
原稿用紙約43.3枚
「神秘」とは何かをテーマにしました。
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一 都市ウサギ
僕は淀川河川公園の草むらを仮装して歩いていた。幽霊のような、ハロウィーンの被り物を着て歩くのだ。僕は何のためにこんなことをしているのかよく判らなかった。とにかく、この世の一切のことがどうでもよくなり、かといって明日から自分が空中庭園で暮らす明るくて元気な少年になっているわけでもないので、仕方なくこういうゲームをするのだった。
大日のイオンショッピングセンターの前の大通りで僕は大笑いされた。行き交う全てのひとが「えっ? ヤバッ! 」といって目を丸くするか、「きっしょー」といって冷笑していた。少年たちは僕を写メで撮ってネットに流して愉しんでいた。この一日の行為で、実に多くのひとが自分のブログにこの日の僕について記すことができるだろう。
雨の日も風の日もパフォーマンスを続けた。そして、誰かの心に僕が<痕跡>として残ることを願っていた。
ところで、僕は普段通うミサにはこんな姿では行っていない。けれど、その日僕はミサにこの姿で向かってみることにしたのだ。多くのひとは驚愕していた。
「すいません、そういう姿はさすがに教会としては困ります」
そうあるひとがいった。しかし僕はいい張った。
「これが僕の真の姿です! 」
その声に気付いて、婦人会で役員長をしている女性がいった。
「えっ! その声……もしかして鈴村くん? 」
「そうです! 」
「どうしたのよ、そんな格好して……。脱ぎなさい」
「これこそ僕の本当の姿だと気付いたんです! このままでいさせてくれませんかね! 」
結局、僕はその姿のまま聖体をいただいた。仮面越しに届くパンの味はいつもと同じだった。神父がミサの後に僕を呼び止めた。
「一体何があったというんですか? 」
「わかりません」
僕自身も謎だったので、そう素直に返した。
「僕にとってのイエスさまのイメージを表現した結果、こうなりました」
「何ですって? それではあなたにとってこの奇妙な服がイエスさまだというのですか? 」
「僕にとって、イエスさまの姿を真似ると、こうなります」
「けしからん! 」
神父は絶叫した。
どこに行けば幸せがあるのだろうか? 僕はあてどなく大阪中を彷徨っていた。わからない、わからない、僕は幸せとは何かがわからない。
僕は淀川のほとりで考えていた。魔術師になれたら、世界をもっと変えられるのになあ……。
その時、川辺のテトラポットからウサギの仮面をつけた一人の子供が顔を出した。
「おじちゃん、何さい? 」
「僕はまだお兄ちゃんだよ。二十三歳」
「あたし七さい」
「へー」
「へー」
しかし、これは運命的な出会いだったのだ。彼女は本物の魔術師だったのだ。
「あたしね、指先から火を出せるよ」
「ウソだろ? 」
「ほんとほんと。ホラね? 」
彼女はそういって、マッチの火より三倍くらい大きな火を指先に灯した。それは、現代にもまだ神の力が残っていることの生きた証だった。彼女はシーラカンスなのだ。
「お兄ちゃん、あんまりうれしくないん? 」
「魔法は身を滅ぼすよ……」
「えっ? 」
「何でもないよ。でも、僕はもうそういう力に飽きた……」
一度、この世にそうした現象があることがわかると、僕の中で神秘の火は消えるのだ。力は目に見えない方が身のためだ。見えると信じなくなる。それがこの世界で当然のものになると、もう誰も探し求めなくなるのだ。
僕は失望して泣き始めた。神秘を見てしまったことを悲嘆したのだ。あまりにも簡単に神秘が開示されたことが哀しかった。もう生きる意味があろうか? 確かに力は存在し、それは僕の前で表出されてしまったのである。
僕は少女から去り、どこかのビルの屋上へ向かった。都市を見渡した。すると、どうだろうか? 神はどこにもいない気がした。空を見ると、まだ希望が持てた。しかし、地上にはもう神はいない気がした。神はいないのだ。神がいないのに、力だけが人間に与えられているのだ。
僕は深い絶望に襲われた。
それから半年後、僕はある女性が自費出版した独特な「神学論」を見つけた。その本のタイトルは、『都市ウサギの神学』についてだった。キャッチコピーに、「キリスト者の新しい提言」とあったので、早速買ってみることにした。
するとその本は、実は小説だった。ストーリーはというと、ある私立探偵が依頼主から「都市ウサギを捕まえて欲しい」と頼まれる。「都市ウサギ」という名の他には何一つ手がかりもない。
しかし調査の結果、ついに彼女はそれを捕まえる。それは都会で伝説になっているチョッキ姿の小さなウサギ人間だった。彼女は彼を見つけてコンタクトに成功し、依頼主に会ってくれるように頼むが、実現しない。都市ウサギは、自分の代わりにウサギの縫い包みを彼女にプレゼントして、そのまま消えてしまう。物語は、依頼主が自殺したことをメールで知るところで終わっている……。
この物語は不気味だった。「なぜ? 」と作者に問いたいところが多いだけではない。依頼主が何故死んだのかもわからないし、何故タイトルが「神学」なのかもわからないが、一番謎めいているのは、「都市ウサギは本当に存在していたのか? 」だった。
序文にある「キリスト者の新しい提言」というのにも引っかかった。もしも依頼主=教会、探偵=信徒、都市ウサギ=神とすると、これはかなり絶望的なテーマになってしまう。つまるところ、自費出版に追い込まれたのは、作品の非一貫性と不明瞭さによるのだろう。
だが、僕は小旅行で海辺の街まで列車で向かっていた頃に、この本の作者と偶然出会ったのである。彼女は僕の隣だった。どこかで見た顔だと思って尋ねると、やはり本の著者欄に写っていた本人だったのだ。念のためにいっておくと、僕はこの頃にはもうパフォーマンスをすっかりやめていた。
「どちらへ行かれますか? 」
「海辺の街まで行きます」
彼女は静かにそう返した。
「いや、でも驚きました。まさかあなたと出会うなんて。本当に偶然ですね」
「私みたいなプロじゃないアマチュアの書き手でも、その本の読者がいるなんて嬉しく思います」
「出版までされてるんだから立派ですよ」
「いいえ、実力がないんです。本物はきちんと応募してるんですから。でも、読んでくれたひとにこうして出会えて嬉しいです」
「ところで、あなたはカトリックですか? 」
「はい、そうです。プロフィールに載せてませんでしたっけ? 」
「いいえ。でも文体やタイトルから推測できますよ。実をいうと、僕もカトリックのはしくれなんです」
「そうだったんですか、それはとても嬉しいことです。こうして出会えたことを主に感謝します」
「でも、貴女は主をどうやら信じていないようですね? 」
「いいえ。カトリック信者はみんな……」
「あの作品は、神の不在と、応答不可能性をテーマにしているはずです。ミステリー風に還元されていますが、タイトルが示すとおり、あなたはひとつの神学を展開されていた……」
僕がそういうと、彼女は少しはにかんだように見えた。
「鋭いですね。告白すると、その通りです。私はカトリックだけれど、教会やイエスの教えに忠実ではありません。ヨーロッパの大半の哲学者がもう神を信じていないことに対して、失望しているのも事実です」
「例えば誰でしょうか? ジャン=リュック・ナンシー? 」
「ナンシーは神を讃えていません。私は、ライプニッツの『弁神論』が今のところ一番好きです。彼はカトリックではなかったはずですが、神を讃えています。私はキリスト教の神を信じつつ、同時に非凡な哲学的才能を持った小説家になりたいんです」
「それは難しそうです」
「はい、きっと無理です……。でも、なんとか現状を打破したいんです」
「現状? 」
「ええ、つまり日本においては、依然としてカトリックの信仰が驚異的な形で文学化されていないということ」
「遠藤周作の『沈黙』はなかなかの作品ですよ」
「ええ、私も読んでいます。でも、私たちの世代に、今何らかの信仰とテーマをはっきりと持ちつつ、神のことを思考している小説家が一人でもいるでしょうか? 」
僕は沈黙した。
「日本だからこそ感じ取れるものもあるでしょう。非西洋のクリスチャンの、二十一世紀へ向けた新しい小説」
「壮大な構想ですね。僕にはそんなものを書こうとするあなたが遠い存在に思えますね。きっと大変すぎて死んでしまいますよ」
「生きた痕跡をどうしても残したいんです。考えていたことの刻印としての文学……」
僕は彼女の名を知った。実名は穂花というらしい。
僕らはその日の夜、同じ海沿いの小さなホテルに泊まった。深夜に海岸に出て、薄暗い中を歩いていた。
「僕も作家を目指してたんです。でも、今は諦めました。その方が気が楽だから……」
「じゃあ今は何を目指しているんですか? 」
「何も。とにかく、重荷だったんです」
「そうなんだ……」
穂花は僕の顔を見ることなく、哀しげにそういった。
僕はその日の夜、海岸から部屋に戻って聖書を読んでいた。諦めたんじゃない、探っているんだ。今も探ってる……、そう僕は独り言をいった。
翌朝、ロビーで穂花と挨拶を交わした。彼女はここに滞在するらしい。僕がどうしよっかなぁ、というような素振りを見せると、彼女が僕の顔を少し期待するように眺めたのだった。
「じゃあ僕もちょっとだけいます」
「うん」
穂花は昨夜の哀しげな面持ちとはうって変わって嬉しそうだった。
翌日、僕と穂花はホテルの東にある森林公園へ向かった。そこで僕らは奇妙なウサギのブロンズ像を発見した。それを見た時、僕は彼女の小説『都市ウサギの神学について』に登場する、あの謎めいた存在を否応なしにイメージした。
それは紛れもなく「都市ウサギ」だった。彼女が描いた描写を何者かが実際にオブジェにしてしまったのか。
「どういうこと? 」
穂花が息を呑んでそういった。
「わからない。前から思っていたんだけど、一体都市ウサギって何なんだい? 今こそ真相を教えてくれよ」
「真相……そう、私は確かに小説には記していないわ。実は、私はある日、ネットで奇妙な被り物をしているひとのパフォーマンス映像を観たの。その時、このひとは何らかの<迷い>を表現していると直観したわ。そのことにインスパイアされて、私は都市ウサギの設定を思いついたのよ」
「何だって? それは……僕だ! 」
穂花は愕いて僕の顔を見つめた。僕は半年前まで、自分が街中で異常な自己表現をしていたことを伝えた。だが、考えて見るとこのブロンズ像の存在は何か奇妙だった。僕がパフォーマンスをして、それが穂花に小説のインスパイアとして働き、そして二人が偶然同じ列車で同じ海辺の街に向かう……それは「物語」であって、現実では起こりえない。
仮にこれが何らかの作為的な「物語」だとしても、長い年月の経過を思わせる苔生したその像は明らかに穂花が執筆を開始する以前に建てられている。穂花が嘘をついていることは絶対に考えられないので、この像は別の人のオリジナルだということになる。
しかし、穂花が実はこの像の存在をあらかじめ知っていたとすれば……? 彼女は改めて取材に来たというだけだ。そして、その方が自然ではある。
「何かがおかしい。君はどうしてこの街へ? 」
「もしかして私を疑っているの? 私は本当にこの一年以内で都市ウサギを考えたのよ。幽霊みたいな、ハロウィーンみたいな被り物をして、大阪のどこかのショッピングセンターの前を歩いていたわ! 彼はみんなに笑われていた! それがあなただっていうの? でも、もしそうだとしても、それじゃあこの古めかしいウサギ像は何なの? ああ、なんか怖くなってきたわ。 ここから早く離れましょう! 」
その時、僕は感じたのだ。もしかすると、あの仮装をしていたのは僕ではなく、他の誰かだったのかもしれない。あるいは僕が「都市ウサギ」という得体の知れない存在に知らず知らずのうちに変身していたのかもしれない。
僕らは走り出し、公園を横切った。ホテルに戻ると、僕らは地下の隠れ倉庫に逃れ、そこで怯え合っていた。
「都市ウサギがもし、<迷い>や<不安>、<不気味さ>の象徴だとすると、彼らはヨーロッパ中世から既に存在していたことにならないだろうか。いや、もっと起源は古いはずだ。禁断の木の実を口にするように勧めたのが、実は都市ウサギだったとすると……」
僕は震え、怯えることに酔い痴れながらそう小声でいった。
「一つだけいえるのは……」、穂花がやはり怯えることに酔い痴れながら小声で重ねた。
「二十一世紀の現代日本には、確実は都市ウサギが出現する温床があったということよ。彼らは何も語らない。ただ、一様に呆然としているだけよ! 」
僕はここでどうしても記しておきたい。その時の僕はけして不幸ではなく、まして戦慄に襲われているわけではなかったのだ。独特な安らぎに近いものがあり、それは僕が彼女の小説を読んでいく中でイメージした都市ウサギの姿に対する印象と同じであった。僕らはやはり悦んでいるのだ。
僕らは不可思議な恐怖を、日常の中でどこか内心では欲していたことを共に感じ合っていた。それは平穏さが生み出す独特な欲望であり、いわば危機的世界への信仰である。神秘を求める感覚は、恐怖と添い寝することなのだろうか。
僕らは帰りの列車の中でぐったりしていた。穂花の冷たすぎるがゆえに美しい顔に、世界の終焉のような夕陽が射し込んでいた。幾つものトンネルを越え、やがて僕らにまどろみの種子が発芽し始めていた。瞼を閉じてしまう前に、悪夢のような声色で穂花が耳元でこう囁いた。
「全てが私の思い通りだわ……」
U <有る>というものの墓前
穂花との出来事から半年後、僕は休日ともなると足繁く淀川河川公園を歩いていた。都市ウサギの件は、僕の心の中でひとつの都市伝説のような謎めいた想い出と化していた。僕はそれを謎の記憶としていつまでも残しておきたかったし、これ以上解明するつもりもなかったのだ。
僕がしていたのは、写真撮影だった。堤防沿いにある短いトンネルの中で、僕は一ヶ月ごとに写真を撮っていた。今、手元に五枚ある。
全て同じ対象だった。半年前、僕自身がトンネルの壁面にこっそり描き込んだ小さな天使の絵である。それを忠実に4月19日→5月19日→6月19日→7月19日→8月19日と現在までで五枚撮影したのである。
僕が想定しているのは「差異」の問題だった。同じ天使だが、五枚とも少しずつ異なっているのである。撮影した時刻が全て同一のpm1:30ということもあり、天候に影響されているということもあるだろう。だが、断言して五枚の天使は同じ一人の天使である。
彼は僕が他の何かをしている間も、ずっとこのトンネルでほとんど変化せずに、行き交うひとを眺めていた。この先、彼は市の職員に消されたりしない限り、トンネルの内壁を神のように司る。「物」である彼は、ずっと人間よりも「不動」であって、まさにこの点において「物」は「神」に限りなく近いのだった。
僕は淀川のほとりを歩きながらよく考える。この世の一切は「言語」で解明できると。今こうして、僕が自分の生活世界の断片について明かしえぬ読者に語っていること、これこそが最大のテーマなのだ。
僕の書く全てのものは、明確に読者の顔をイメージしない。僕はそれらを心象風景のフリーズとして痕跡化しているのであって、読者というのはまさしく今文字を書いているこの僕の全能なる観察者、すなわち「神」だ。
たとえ現実で何が起ころうとも、厳密に重要なのは文字空間であって、僕は文字によって神との出会いの契機を探っていた。それは現代世界において神の不在を確信しているからではなく、あくまで現代においては姿を隠しておられる神を、その虚構化としての物語によって復元=発掘するということなのである。
マルブランシュは、我々の腕を動かしているのは究極的には神だと断言した。だとすれば、今これを記しているのは「僕」という一個の主体を纏った、見えざる神である。僕が「書く」行為は、一つの機会原因に過ぎず、文字空間のうちで我々は実質的に書くように仕向けられているのである。ゆえに、全ての文学は神の作品であり、神が己を顕示するための様態である。
僕は神の精神的自動機械である。僕は「書く」のではなく、「書くように( )に動かされている」のである。この( )内に神を明記することが、二十一世紀の若いカトリック作家の存在意義ではないか。
僕は自分の天使が眠るこのトンネルのうちで、たった一人眠ってしまいたかった。天使は僕が存在したことの痕跡だった。それは僕にとってイコンであり、ある種のイコンが永遠に達するように、僕の描いた幼稚なそれは安らぎから愛されていた。
「書き始めて良かった」
僕は主にそういった。トンネルの中は無人化した黄昏の教会のように静謐だった。天使は変わることなくそこにいた。目の前で見ると、前の写真よりやはり少し色が落ちてはいる。だが、天使はあくまで慎ましく何かを守っていた。彼が自分のためにではなく、誰かのために祈っているのだということを知った時、僕は無言で涙を流した。
トンネルの中の独自な謐けさ、天井からゆっくりと零れ落ちる水の音、薄暗さの中に根をしっかり張った独特なやさしさ、そうしたものを僕はこの聖域から感じていた。はるか昔、一人の青年が集落から離れ、ここへやって来た時、彼はその深奥で<光>に出会い、「生きて光を信じなさい」といわれたのではなかったか。
真理というような固定化した啓示など存在しない。ただ、自分の弱さとしての<洞窟>を魂に抱え、その中央に<光>を灯せば、それで僕は安らぐのだ。ル・トロネ修道院の写真を見て、僕が教会建築に対して初めて感動できたのは、それが「教会」だったからではない。あれは洞窟だった。真の教会は、この大阪という込み入った迷宮に、看板など掲げられずに確実に潜在しているのである。
やがて夢が訪れた。これまで壁画の天使に過ぎなかったはずの彼が、僕の前にフッと湧出したのだ。天使は僕にこういった。
「苦難の日に、主があなたに答え、ヤコブの神の名があなたを守りますように。我らは歓呼しよう、あなたの救いを、我らの神の名により、我らは旗を掲げよう。我らにお答えください、我らが呼ぶ日に」
天使の御告げはそれで終わった。僕は眠りの森へ足を踏み込んでしまうのに必死で抗いながら、なんとか彼とコミュニケーションしようと意気込んでいた。しかし彼は、あの言葉以外、僕に何一つ語りかけなかったのである。
気付けば、彼は既に壁画の中で安らっていた。仮に今この絵を消しても、最早彼には何の影響も生じないだろう。始祖鳥の化石が全てこの世から消失されても、彼らが地上に存在していたという事実にはいかなる亀裂も生じないのと同じなのだ。彼は淡い桃の果実の香りを漂わせていた……。
それからも僕は、休日には電車に乗って意味もなく長い時間を過ごすということを繰り返していた。駅はめまぐるしく交代し、同時に数知れない顔が交通していた。そこにはただ、流動している、という現象のみがあった。
やがて電車から完全に人が消え、気がつくと隣に都市ウサギが座っていた。彼は僕の膝くらいの小ささで、紳士服を着込んでいるものの、その様相は明らかに児童向けのマスコットという具合だった。
「君は本が好き? 」
僕がそう尋ねると、都市ウサギは無表情に「うん」と小さく返した。そして彼は怯えるように顔を斜めにしながら、「ぼくは真理とは何かを知りたいんだ。世界の創造について」と洩らした。
彼の声色は、澄んだ少年のものだった。
「君がそういうことを考えていたなんて知らなかったよ」
僕がそういうと、都市ウサギは目を丸くしてみせた。
「君はぼくのことを知っていたの? ぼくは何も知らないよ。ぼくが知っているのは、エデンの園に生えていた木のことだけさ」
奇妙なことだが、僕にはその時、彼がエリヤやエゼキエルの末裔であるような気がした。つまり、現代の預言者であると直観したのだ。
「マルブランシュというオラトリオ会士がこんなことをいっていたよ。“神はあったのではなく、あるであろうのでもなく、あるのである”。これを信じれば、神は今、僕と君、そしてこの電車、窓の外で流れていく景色として、現にある。僕は日本というこの国の宗教人口を調べたことがあるんだけれど、07年のもので、カトリックは1%くらいだった。そういう中で、マルブランシュが自信を持ってカトリックを“我らの聖なる宗教”と自負しているということに、僕は励まされるんだ」
僕がそう笑顔で自慢げにいうと、都市ウサギは一歩哀しげに距離を置く表情を浮かべたのだった。
「ああ……、君はカトリックなんだね。僕はいかなる宗教的共同体にも属していない。コミュニティを持っている君が羨ましいよ。僕はでも、ずっと考えているんだ。自分でもしも、信仰を同じくするひとたちとの教団を組織することができたなら、どれほどの悦びであることだろうってね……」
「君は孤独なのかい? 」
「聞いてほしいんだ。真の共同体は、きっと理想としてしか存在しないんだ。だから僕は何にも属さず、こうして電車の中でひとり本を読み、哀しみに浸っている……」
都市ウサギは瞳に、鮮やかな空色の涙すら浮かべてそう囁いた。
自分で選び抜いたこのカトリック、数ある中からこれが自分に相応しいと決めたカトリック――しかし今、僕は何かを喪っている。憧憬だ。カトリックになりたいと希求していた洗礼志願期の、あの名状し難い渇望なのだ。
僕は神父になりたいとも思えなかった。神父になっている自分は、「果たしてこれで良いのか」と悩み、今よりも自死への誘惑に駆られるのではないだろうか。僕は要するに、信仰的に生ぬるかった。
僕は本気で伝道者として自立することを微塵も望んでいなかった。僕はある種の知的ファッションの一つとして洗礼を受けたに違いなかった。そして、その通りになったのだろう。僕は急速にありのままの己を見出した。そうだったのだ、知的ファッション……そうだったのだ。
「君は神父になる気なの? 」
「いや……、僕にはそんなことはできないよ。僕は自分というものがよくわからないんだ。それが苦しみで、生の虚しさが日に日に強くなっている」
僕らはやがて「化石」という名の駅で下車した。誰もいない街路を越え、ゆとりのある整備された広い並木道を抜け、僕と都市ウサギは広漠とした墓地へとやって来た。夕刻、小高いその霊園からは山々が見渡せた。烏が樹木の上から供物を狙うために何かを小声で語り合っていた。
墓地は宗教的差異に関わりなく、全ての死者を受容していた。都市ウサギは供物としての花束を持ち、僕は墓を洗うためのバケツを持っていた。僕らが向かっていたのは、イエスの墓でもヨハネの墓でもなかった。僕らは、<有る>というものの墓前に立っていた。
<有る>は、そこには存在していなかった。だが、<無い>わけでもなかった。それは死を経て実体を喪い、化石化した全ての存在者たちなのだ。
僕はカルメル会の祈祷書を開き、レクイエムを静かに唱え、手を合わせた。都市ウサギは孤独な面持ちで墓を眺めていた。墓にはいかなる家名も存在しなかった。
「いつか僕もここに入るのだろうか? <有る>というものの墓へ」
僕がそういうと、都市ウサギは蝋燭に火を灯しながら口を開いた。
「<有る>ことをする全ての者が、いつかは<有る>ことをやめる。<有る>は、<有った>へと変わり、痕跡になるんだろうね」
「ここは世の果てだ」
僕は不意にそう呟いたのだった。
「ここはあらゆる宗教的差異が意味を喪い、正者に貼り付いていた全ての意味が剥離される場所だ……」
「君はどうして意味にこだわるんだい? 」
「何故だろうね……。たぶん、聖書が意味の系列に過ぎないということを信じているからだろう。何者かが最初の人間をアダムと記した。でも、鎌倉時代の武士たちがアダムを知っていたろうか? 普遍的であるはずの真理が国の差異で策定されるのは妙だ」
「日本人には、かつて森の神がいたはずだよ」
「古のイスラエルの民も、何もない砂漠で見えざる神に救いを求めた。全ては意味を現象に賦与するという点で共通する。でも、<意味それ自体>は白紙なんだ。人間の死の本質に、何か特定の宗教的意味を与えること、それがもしかすると苦しみの原因かもしれない」
僕がそういうと、都市ウサギは古い預言的な時代を眺め渡すような眼差しをしたのだった。
「ああ……、僕らは<有る>ことをいつだって自ら投げ打てるんだ。<有る>こと、これは苦しいことだ。でも、それをやめると、もっと楽になれる気がする」
「眠りたい」
僕はそういった。
「世界はあまりにも哀しいことで満ちている。何とかしなければ……」
都市ウサギはそう、決然といい放った。
僕はその時、自分が何故カトリックで洗礼を受けたのかを考えた。それは、信徒になった今でも希求してやまないものを思い起こすだけで十分だった。そう、抱き締めてくれる愛だ。
カトリックとは、哲学の最果てに佇む女性だ。マリア様は、教会の母というだけではまだ足りない。彼女は、子供たちが何人いてもそれを一人残らず抱き締めてくれた、僕の母親のような存在だったに違いない。
永遠に変わらない慈愛そのものであるマリアこそが、カトリックの中心にあるとすれば……。古のデメテル信仰の名残として、マリアが再表象されていたのだとすれば……。明かしえぬ真の神とは、実はマリア様であり、神とは、マリア的存在により近いのではなかったか……。
V 石の眠り
僕は今、まさにこの小説を書いている。休日に部屋ですることといえば、書くことだけだ。僕は書く果てに、着地点というものを設定しない。何かを探っているのであり、遺書の小説的形式を企て続けていたいのである。
この作品を書いている期間で、僕は夢を見た。その夢とは、新宗教に属するある教団施設の本部として利用されていたらしい建物の壁の上を歩いているというものである。僕は壁の内側に入ろうとしていた。
しかしすぐ外側には仕事で商談中の父がおり、おそらくこの建物の打ち壊しと、そこに新しく建つ建物の建築計画に携わっていた。父は僕が壁の上を歩いていることに全く気付かず、僕はといえば建物の中にある奇妙な石や、無残に千切れた畳の残骸などを眺めていた。やがて父は僕に気付いたが、ちらりと目が一瞬合っただけで、僕を「見なかった」ことにしたようだった。
覚醒して、僕は悟った。新しい救いの形を求める者、それを自ら創造する者、それを徹底的に論駁する者……全てがその本質において、「哀しみ」を核として宿しているのだと。
穂花から電話がかかって来たのは、それからしばらくしてのことだった。読者は既にお気付きだろうが、穂花などという女性は実際の作者の周囲に存在しない。彼女は作中の「僕」の対話者として創造された虚構である。
「ねえ、始祖鳥のジレンマって知ってる? 宗教上の難問の一つなんだけれど……」
彼女は突然そういった。
「初めて聞いたな、何なんだい? 」
「ある街に、とても孤独な少年がいました。少年は名状し難い孤独や怒り、哀しみに支配されていて、救いを求めるようになっていました。彼はある日、美しい本に出会い、その教えを体現しているらしい集団A……で洗礼を受けました。すると彼はパッと明るくなり、自分は幸せであると信じられるようになりました。めでたし、めでたし……」
「ずいぶんとぶっきらぼうな筋立てだな」
「いいえ、これで話は終わりよ。でも、集団A……っていう表現が“B”や“C”の存在を暗示していて、めでたしの後に、再び孤独が深まると彼は別の集団Bへと改宗してしまう。Bの次はC、Cの次はD……そうやって彼は真の居場所を求めて渡り歩くの」
「始祖鳥の意味は? 」
「それについては諸説があるんだけれど、一説によると、真理という共通の祖先を持ちながらも、無数に枝分かれしている現在の宗教状況を、始祖鳥から進化して様々な姿、形を持つに至った現生鳥類になぞらえているらしいわ。彼が求めているのは始祖鳥なのに、それはもう現代には存在していない」
「なるほどね。まるで自分の症例を聞かされたような気分だよ」
そう、僕は確かに「始祖鳥のジレンマ」を患っていた。だが、そのことをカトリック教会の誰に相談できよう? 相談相手はどこにも存在していない。たとえ存在していても、毎日の時間のサイクルが、彼らとの出会いを拒んでいるのである。
僕とは何であろうか? 僕とは、カトリックの若い男と、カトリックの若い女が恋をしている光景を影で見つめながら歯を食いしばって死を思う存在者だ。僕には常に孤独が付きまとう。それを救うために自ら見出したカトリックが孤立の場と化し、やがてこの世の一切に意味を喪い、僕は原子爆弾のように怖るべき光と化すのであろうか……?
「ねえ、私たちってさ、何故書くのかな? 」
沈黙していた僕に、電話の主がそう聞いた。
「痕跡を残すためじゃないかな。未来の自分のために」
「他に何もすることがないからじゃなくて? 」
「それは99%当ってると思う。でも残り1%は、自分を救うためさ。自分を救うために書かざるをえないから、人間がひとりぼっちで何かを書くと、どこかエゴイスティックになる。でも、仕方ないよ。治療なんだから、それが」
「文字があなたの恋人なの? 」
「わからない。でも、文字の組成方法によっては壮大な宇宙論を生み出したり、見えざるマリアの肉声を想像することもできるだろう」
翌週の休日、僕と穂花はこの物語の核心である都市ウサギを再び見つけるために、電車に乗っていた。しかしどこまで行っても結局発見できなかった。仕方なく、僕と穂花は「目覚め」という駅で下車し、その街を歩いてみることにしたのだった。
いつの間にか、街路に樹木が多くなっていた。気がつくと、辺りは深い森の中だった。その先に、夕陽が射し込んでいる広くて丸い空間があり、旅行客たちがそこで写真撮影したり、ベンチに座って弁当を食べたりしていた。
「誰もいないかと思えば、けっこう普通にひとがいるんだな」
「でも、駅名は<目覚め>だったわ。私の直観だけど、ここに彼はいるわ」
森林公園のような場所を更に進んでいくと、水の音が聞こえ始めた。僕らは無言で音源へ向かって歩いていた。どうやらその音は、滝のようだった。
そこは整備されており、古代の遺跡を公開している空間だった。中央の浅い小川を挟んで砂利道がはるか奥まで伸びていた。その先に、僕らは一つの謎としかいえない光景を目の当たりにしたのだった。
巨顔。巨大な赤ん坊か、少年の顔の石像である。彼は大きな口から多量の水を猛烈な勢いで吐き出し続けていた。音の正体はここだったのだ。
巨顔は池から顔を出すような形になっており、彼の左右には水面から突き出た岩場があった。その上を、まるで門番のように銀色の毛を持つ古代的な犬が座っているのだった。犬は呼吸し、僕らを見つめていた。
この巨顔は、東アジアの古に活動していた秘教団の痕跡のように感じられた。巨顔は神殿の入り口か、あるいは聖堂の門として機能していた気がした。これほどの巨大さと、直観的に伝わる慄きにも関わらず、人々はこの聖域の存在にあまり意識していないようだった。
「何なんだ、これは一体……」
僕も穂花も、自分たちの物語の最果てにこのようなものが待ち構えていたことに驚愕し、畏れ慄いていた。キリスト教の神とは、全く異なる別の謎めいた神がここにいたのではないか? もしもこれが夢であるなら、その夢は記録されなければならないだろう。犬の視線の厳しさが、妙に僕の気に障った。
よく見ると、巨顔の口から溢れ出ている滝の下部に、小さな洞窟があった。しかし僕らは、今は入るべきではないと感じていた。入れば、僕自身の<有る>ことが変わってしまう気がしたのである。
「入るべきさ」
不意に、聞き覚えのある声がした。僕らの背後にいたのは、都市ウサギだった。穂花は初めて目にするこの少年に、言葉を喪っていた。
「知っているよ、君たちだって現状に不満なんだろう? 高齢化して活力のないカトリック教会、ミサの最中ですら浮上する孤独……そうしたものは、全て今ここで生まれ変わるための試練だったんだ。君たちが入らないなら、僕一人でも入る。僕はこの門を通るのに十分すぎるほど、人間社会で孤独を味わってきたのだから……」
都市ウサギは決意しているようだった。
「中に入れば……変化できるの? 」
穂花が震えるような小声でそういった。
「ああ、この巨顔は過去の文明の遺物じゃない。これは神に触れ、僕らの存在変化を起こさせる力の場だ。来るべき新しい救いの形は、この奥で開かれるに違いない」
都市ウサギは必死になってそう熱弁していたが、僕は彼にもどこか不安の種子が潜んでいることを嗅ぎ取っていた。
「本当に、本当にここが世界の果てなのね? 」
「そうだ。蛹と蝶の違いについて考えてごらんよ。蛹には暗い閉ざされた壁が見えるのみだ。それは無限に続く自我の壁、自我のトンネルだ。でも蝶は、空を舞い、花を見て、陽を浴びながら蜜を吸う。どちらが世界認識の究極形式だろうか? 今の君たちは蛹なんだ。でも、ここで羽化する」
そういうと、都市ウサギは自らの着包みを脱ぎ去った。すると、中から少し小さなサイズのもう一人の都市ウサギが顔を出した。しかし彼もすぐに自らを愉しげに脱皮させ、この作業を彼らは果てしなく反復したのである。その結果、最終的に彼はCITY RABBITとでもいうべき、たんなる一個のキーホルダーにまで成り下がったのだった。
都市ウサギは霊を喪い、「物」になったのだ。巨顔の奥へ入る前に。
穂花が「あっ、可愛い」といって、彼をポケットに入れてしまった。まるで長い長い御伽話が今終わったかのような、解放的でありつつも懐かしい感覚が僕に訪れた。
残されたのは、僕と穂花だった。目の前には、巨顔が待ち構えている。
「どうする? 」
「入ろう」
僕がそう断言すると、穂花はやはり愕いて顔をまじまじを見つめた。
「本当に? 」
「僕らは神秘を求めていたんじゃなかったか? その最果てに、これがあるんだ。この先に何があるのかはわからない。でも……」
「でも? 」
「いや、僕は思い出していたんだ。自分が何故教会へ行ったのかって。憧れはあった。僕の家系にカトリックが一人もいないからこそ、自分で何か新しい精神世界に飛び込んでみたいという願望はあった。でも……実際は、きっと出会いを求めていた気がする。そして、そこにいたのはおばあさんたちだけだったんだ……」
僕が肩を落としてそういうと、穂花が面白おかしく笑い始めた。
「やっぱりユートピアは存在しないんだ。若さと思索と理性と美で統一された完璧な教会なんて、この世界におそらく存在しないだろう。だから、この巨顔の奥に何があるのか、僕には今わかった気がする」
「何があるっていうの? 」
「何も無いんだ。おそらく」
「どうしてわかるのよ! 」
穂花が自分のほのかな期待を幻滅に終わらせまいという表情で力んだ。
「直観だ」
「私は入るわ。蝶になって、蛹であるあなたの前を飛んであげる」
穂花はいよいよ勢い込み始めていた。穂花は、おそらく都市ウサギに誘惑されたかったのだ。彼女の宗教的な欲望とでもいうべきものを、僕は今はっきりと感じ取った。
僕が神秘を目前にして立ち止まっていることに変わりはない。前にも淀川で、一つの神秘を見せられたとき、僕はその現前に悲嘆したではなかったか?
神秘は解釈されることを怖れる。それを書いてしまうことで、神秘の解明が終わってしまうのだ。だからこそ、書くことは、神秘を守護し続けることであらねばならない。
見えないままでいい。知らないままでいい。
知って、美と殉教するよりは、たとえ堕落していても、その一瞬の到来を待っている方が。
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2009/12/28(Mon)20:32:04 公開 / 鈴村智一郎
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