- 『光の薔薇による福音』 作者:鈴村智一郎 / 時代・歴史 童話
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全角8622文字
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原稿用紙約25.25枚
洗礼者聖ヨハネ伝の試みです。
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私、洗礼者聖ヨハネと呼ばれている者が語る。
私が幼い頃、母エリザベトは私を連れてヨルダン川のほとりを歩いていた。ふとした間に、私は子供心から川の奥へと進み、その深みにはまった。水面から手だけが出ている状態の私を、エリザベトは救った。彼女は涙したという。
父ザカリアは祭司であった。父は神を信じていたが、私はそう簡単には信じまいと決めていた。私は父とは別の、より行動派の教団であるエッセネ派に入った。私はそこで、義の教師と呼ばれる一人の長老から直接、教えを受けた。
ある時、義の教師は私にいった。
「もうすぐメシアが来る。お前は彼に洗礼を与えよ。お前は滅ぶが、彼は栄えるであろう」
これを聞いて、私は師の発言に複雑な感情を抱いた。私自信が滅んでしまうというのに、メシアだけが弟子たちに讃えられ続けるという未来が内心では怖ろしかった。メシアの到来の知らせは、イスラエル中の民の関心事だった。やがてその知らせはまやかしを生み、民の耳を誑かし始めていた。
民はメシアのことだけでなく、ヘロディアの噂をもしきりに話した。彼女の不倫の罪は、市井には政治的堕落の象徴として映っていた。
しかし私には、エッセネ派の最大の教えである、メシアが来る道を整えるという使命があった。メシアさえ訪れれば、政治の堕落によって腐敗したイスラエルは再び光を取り戻し、路地裏には童子の笑い声が響き渡るであろう。
一方で、この大き過ぎる使命がまだ若い肉体と魂を持つこの私、ヨハネを煩わしていた。メシアの教えのみが後世に残るとすれば、我々エッセネ派などは、ただの中継地点に過ぎないではないか? 私はメシアの輝かしい生涯にとって、ちっぽけな脇役だというのであろうか。メシアに対する複雑な想いが、説教の場所をやがて街から荒野へと変えた。
「だがいずれメシアは来るのだ」
私は終末的な世の光景を悲嘆しながらも、最後には必ずそういって聴衆を励まし続けた。おそらく、ここにいる全ての者が私を若く逞しい預言者であるとみなしたであろう。若き熱弁とは一つの美である。私の周りには、私の声に魂を揺すぶられるといって、貧しくとも若い女性たちや小さな子供たちまでもが駆け寄った。私はいよいよ気が抜けなくなり、少なくとも表面的には熱心に教えを説いたのである。
「若く御美しいラビよ、メシアとはどういう人なのですか? 」
ある婦人が説教を終えた私に駆け寄ってきて、そう問うた。
「光そのものです。太陽のように、素晴らしい御方です」
私はそういったが、婦人は残念そうに首を傾げて、「よくわかりません」とだけ返した。私はその直後、大いなる憂愁に支配され、メシアについて最も博識だとされる私ですら、その御方については何も知らないことを思い知ったのである。
それ以来、私にとってメシアとはどういう存在かを荒野で考える日々が始まった。私はそれを探る鍵を、己自身の体験にこそ見出そうとした。
「皆さん、神や奇蹟を信じない、というのであればそれはそれで全くかまいません。ただ、私自身はかつて、母に命を救って貰ったことがあります。ヨルダン川で水死しかけた私を、母はその手で救い出してくださいました。それは果たして奇蹟といえるのでしょうか? いいえ、これは全ての親が本質的に持っているものなのです。苦しい時こそ、一度私と共に考えてください。暗い川底にも、必ず手は届くと。多くの厳格に過ぎる祭司たちは、いかめしい父性的な神について語ります。しかし、神というのは無条件で子を愛する母親のような存在なのです。私が語れるメシアとはどういうひとか、その核心はまさにここなのです」
私はそのように民の前で説き、私自身もひたすらメシアを待ち望んだ。
だが、私は何のために生きているのか判らなかった。確かに私には使命があるが、それは私以前の者たちが構築した思想から出たものであって、私自身の思想からではないのだ。エッセネ派は、この私が纏っているような貧しい「らくだの皮」であり、着衣された思想なのだ。裸体の私そのものは、メシアなど露知らずのんびりと生きているに違いない。そして、民衆の前に立って今の私のように語っている若い預言者の話を聞いて、それを故郷の土産話にするだけのちっぽけな青年に過ぎなかった。私は「洗礼者」という与えられた仕事をしているだけだ。
荒野にある日、ある女預言者が現れた。彼女はヨハネの教えは完全に誤っていると断言し、民の前でこう叫んだ。
「樹木こそ、神の似姿なのです。我々ひとりひとりは、かけがえのない一本の聖なる樹として存在しているのです」
また別の老預言者は顔をしかめてこういった。
「若い自称預言者たちのいうまやかしを信じるな。この世の一切は空虚であり、だからこそ、我々は贅沢と堕落を極北まで極めねばならんのだ」
こればかりは、さながら荒野で真理という名の仮面劇が催されているといわざるをえなかった。
しかし、時はやって来る。彼はナザレ出身で、母はマリア、父はヨゼフといった。名はイエスで、彼の母マリアは、私の母エリザベトの従妹である。つまり、私にとって非常に懐かしい遠い親戚が、はるばる私から洗礼を受けるために、荒野まで来たのだ。私はイエスからそのことを聞かされ、真の家族が新しくできたほどの強い悦びを覚えたのだった。
イエスは律法学者のような知的な雰囲気の青年ではなかった。むしろ、彼は行動的で、どちらかというと向こう見ずで最初は粗暴ですらあった。彼は難解な思想を、判りやすく自分なりに消化するという点では天才的な才能を宿していた。彼はエッセネ派の教えを私から学び、特に「隣人愛」と「汝の敵を愛せ」という我々の信念に感動したと告げた。彼は「裁く神」を古い神と呼び、「赦す神」こそが新しい世界の神に相応しいと断言した。
イエスは一人の女性のようでもあった。彼の考え方の根幹にあるのは、罪人すら抱き締めようとする無垢な「母」の思想であった。イエスに何故、それほど大きな考え方ができるのかと問うと、彼は微笑しながら、「私の母マリアでもきっとそうするでしょう」とだけ告げた。
やがてイエスへの洗礼の日が訪れた。私は彼に水で洗礼を与えたが、その時のイエスの表情は少年のように澄んでいて無垢だった。
イエスは私の孤独に対して、独特な尊敬を寄せていた。私の女弟子の一人が、私とイエスの顔を交互に見て、顔まで似てるといって微笑んでいた。イエスは実際、ひとりでいることを好んでいた。仲間と笑顔で話すこともあるが、自分の内奥はけして覗かせようとしなかった。私たちは、似た孤独の痛みを知りつつ、そうした痛みによってこそ逆説的な癒しを得ているという点でも、まことの兄弟であった。
義の教師は、「お前自らが、メシアが誰かを決めるのだ」といった。私にメシアが誰かを決める権限を、エッセネ派の長老が与えたのである。私はイエスがメシアだと民に告げたかった。それは「洗礼者ヨハネ」から出た言葉ではなく、「ヨハネ」からである。彼が私と似ているということへの愛情からだった。私のように家柄が代々祭司であり、厳格な教育を受けてきた者に較べて、イエスは貧しく素朴なところがあった。だからこそ、我々には思いもしない大胆な行動に出られるのではないか。
ある夜、私はイエスにメシアの死について私が知っていることを全て教えた。メシアとは、全人類の罪を購うために捧げられる神の子羊である。全焼の供犠で捧げられる子羊のように、メシアは自ら死へと赴かねばならない。
私がメシアの死についての秘密をイエスに告知した時、驚愕すべきことが起きた。イエスが笑ったのである。イエスは圧倒的な自信に溢れた顔で、一言、「私がやります」といった。それはすなわち、全ての律法学者を敵に回すということである。私は念を押して付け加えた。
「己のことを、神の御子であると確信し続けられるか? その覚悟が、イエスよ、お前にあるのか? 」
そしてイエスは彼自身にとっての運命が始まる衝撃的な言葉を発したのだ。
「洗礼者ヨハネよ、すべての人間の中で、最も祝福された最後の偉大なる預言者よ。貴方は水で私たちに洗礼を与えた。だが、私は違う。私は霊によって、洗礼を与えよう。私は己の死を厭わない。私の死が、千年、二千年の先を生きる人々にまで救いとなるのであれば」
イエスはそういって毛布に包まり、やがて静かな寝息を立て始めた。私は泣いていた。イエスの力強い言葉に励まされたからではない。この実の弟にも等しいイエスの死が、彼の偉大にして最も悲惨な死が、私にその時見えたからである。
やがてイエスは「メシア」として旅立った。かつて私が「洗礼者」として旅立ったように……。
私はイエスが去った後も、多くの民の前で教えを説き続けた。貧民の苦悩を無視し続けるヘロデ一族の治世に、私は批判の矛先を向けた。熱心な聴衆の一人が、他の民に対してこういっていた。
「ヨハネの説教は変わったな。力を持った預言者は、政治的な力を持つようだ。俺たちはヨハネを中心にして、政治的に結束すべきじゃないか? 」
私は熱情を込めて民にいった。
「今の政治では、やがて来るであろう。世の終わりが」
私がエッセネ派の教義として持っていた終末思想は、ヘロデの政治的堕落をその悪源と解した。
「政治が変わらぬ限り、救いは無い! 隣人愛という綺麗事よりも、私はむしろ実践的な政治の変革を要求する。蝮のヘロデは、我らの敵だ」
これによって、私の支持者は膨れ上がり、あの民の一人が囁いたように、一つの政治的共同体にまで発展したのだった。
やがて、私にとっての運命の日が近付いてきた。私の運命にとって重大な意味を持つ存在者は少なくとも二人存在している。一人は、メシアであるイエスだ。そしてもう一人は、我々の敵の隠れた女主人ともいうべき雌狐、ヘロディアである。
ある日、ヘロデの兵士たちが私の元へやって来た。彼らは私を「反逆」の罪で連行した。現在の政治を転覆させようと企てている者の悪しき親玉として、私ヨハネはヘロデ一族に危険視されていたのである。
私はこうして、どこか暗い地下牢に幽閉されたのだった。しかし私は敢然とし、イエスと交し合った孤独の絆を思い起こすことで全ての屈辱に耐え忍んだ。
私はその時、世界それ自体の強大な「怒り」を見た。否、世界というより、人間全ての圧倒的なまでに強靭な激怒を。私は大いなる怒りの渦に呑まれ、その中心で盲者の役を与えられたかのようである。
私はしかし、この暗闇を神から与えられた恵みであると考えていた。今こそ、私は己に問う。私は幸福であったのか? 私は、これまで真理について悩み、迷いながら生きてきた。民は私を一貫した教えを説く預言者として謳歌したが、私自身の魂は常に迷いという病を抱えていたのだ。真理は一つではなく、預言者の数だけ実在していたかに見えたのだから。偽預言者と呼ばれていた彼らは、果たして誤っていたのであろうか? 少なくとも彼らは毎日笑顔で食物を取り合い、幸せそうであった。
鳩は美しい陽光を浴びながら翼を広げる。それを見て、「神の微笑」と表現していた者がいた。彼の隣の男は、「大袈裟だな、パンを欲しがってるだけだよ」と優しくいっていた。鳩自身は真理を知らぬ。しかし、鳩の羽ばたきとは、真理なのだ。
現象に、意味が与えられる。真理は預言者の数だけ存在し、それら全てが共立して同じ地平にある。
その考えにまで達した瞬間、私は目の前に高貴な女が立っているのを見た。女は東方の秘宝と思しき豪華絢爛な衣装を身に纏い、胸元には巨大な宝玉が輝いていた。だが、その表情は怖ろしいほど冷たかった。
「お前が……かのヨハネか? 」
女はそう低い声で問うた。
「そうだ」
「お前は我々ヘロデ一族に背き、民を嗾けた。だから今ここにいるのだ。お前は名の知れた山賊であった隣の囚人同様、我が法に背いた。ヨハネよ、お前は罪人なのだ」
「女よ、お前は誰だ? 」
「ヘロディアである。この世界で最も堕落した醜い女と、お前から烙印を捺された女。だがそのヨハネも、今は籠の中の愚かな鳥に等しい」
私はしばし沈黙した。
「私を殺すのか? 」
「そうだ。お前の存在は我々にとって危険なのだ」
「なぜ私を殺すのか? 」
「聞こえなかったか? 私ヘロディアが、お前ヨハネを滅ぼしたいと欲したからだ」
「私はそれが嬉しい……」
私がそういうと、ヘロディアは耳を疑って一歩退いた。私は更に付け加えた。
「ヘロディアよ、お前は美しい。そして私の首を見て微笑むお前とその娘は、いっそう美しいことであろう」
ヘロディアは信じられぬとばかりに驚愕していた。やがて彼女は兵士たちに命じて、私のわずかな光を奪えといった。三人の兵士が私を押さえつけ、焼いた鉄で私の左右の目から光を奪った。私は激甚な痛みに耐えていた。その時、ヘロディアの微笑む声が聞こえた。
「これで、お前は真の闇に囚われた。少しでも刑を軽くしてもらうように世辞をいう魂胆だったのであろうが、軽率なことをぬかしたな。誰もお前のような男から愛されたいなどとは思わぬわ」
私はヘロディアの最後の顔を記憶している。彼女は、目が潰される私の姿を直視してはいなかった。
何故ヘロディアにあのようなことをいったのか、私にも判らなかった。ただ、私は彼女にも聖なる乙女のように微笑を浮かべていた時代があることを信じたかった。微笑する女に、醜い女は存在しない。
私は真の暗闇の中にいた。腰の辺りに、虫が這っている。
私は何故、ここにいるのか? いつかイエスに私はこういったものだ。“神とは、優しさなのかもしれない。神はその見えざる手によって我々を抱き締め続けている。だから、私たち二人は、死を前にしても誇り高くあろうではないか”。私はかつて自分がいった言葉に、今の自分が慰められるなど思ってもみなかった。
空腹は激しく、足は絶えず震えていた。取るに足りぬ私の体、私の霊……私は何のために生きてきたのか? かつての「洗礼者」では、最早ない。
深い眠りの後、私は兵士たちの小さな話し声を耳にしていた。
「明日はヘロデ様の宴会らしいぜ」
「なに、毎日してるじゃないか」
「かのサロメ様が自慢の舞を披露されるとのことだ」
「それにしても、何故ヘロデ様はあのヨハネとやらをさっさと始末なさらないのか? 」
「怖れておられるのではないか。あいつを死なせれば、自分も命取りになるのではないかと……」
私の前の牢にいる囚人は、兵士たちが話している間は鼾をかいていた。だが、彼らが螺旋階段の上方へと松明を片手に消えてゆくと、その囚人が私の名を叫び始めたのだった。
「ヨハネ! エリヤに比せられし偉大なる預言者、ヨハネ!」
「誰だ? この盲いた男を呼ぶのは……? 」
「ヨハネ! ヨハネ! 」
「ああ、静かにせよ。私の命もお前の命も、けして長くはないのだ」
「この俺が誰だかわかるか? 俺はナザレのイエスだ! 」
それは私にとって冒涜にも近い不可能な発言だった。イエスは軽々しく己の名を告げはしない。
「私は耳まで萎えたわけではないぞ」
「そうとも! 俺はナザレのイエスではないんだ! 」
どうやら、この哀れな囚人は長い幽閉生活で気が狂ったようであった。
「静かに祈るがいい。死はやがて我らを襲う」
「その通りだ! 預言者ヨハネはもうすぐ死ぬ! 死んじまうんだ! お前は首をすっぱり斬られて盆の上にひょいと乗せられる! でも、俺は死なないのさ! 」
私はその時、何か大いなる不気味さを感じ取った。牢獄の中は静まり返って時間が静止しているかのようであった。
「お前は誰だ? 」
「俺の正体を教えてやろうか? 俺は<死>という者だ! お前は明日の夕刻に斬首されて死ぬ! 斬首! 胴と首とで、ヨハネは二つ! 」
<死>と名乗る男は、大声で狂癲的な笑い声を発した。
兵士の一人に私は、すぐ前の囚人の奇声を黙らせるように告げた。
「何をいっている? お前の前の牢には、百日以上も前にくたばった詐欺師の骨があるだけだぜ」
私はそれを知り、静かに右の掌に左手の指を乗せた。
イエスよ、お前は今どこで何をしているのか? 苦しんではいないか?
イエスよ、どうか私ともう一度、握手をしておくれ……。
その夜、私の前にあの女が再び現れた。貧しい民では絶対に手が出せない香水の香りで、私には彼女の存在が直ちに判ったのである。それはヘロディアだった。
「お前に良き知らせがある。明日、お前が饗宴の最高の催し物として、捧げられることになった。まだサロメと私しかこれを知らぬ」
「知っている。私の首は明日の夕刻に胴を離れ、ヘロデ一族の晩餐の愉しみとなるのであろう」
「既に己の死を知っていたと申すのか? 」
「ヘロディアよ、お前は<死>の女王だ」
「さすがは預言者と呼ばれただけの男ではあるな。死に方まで予知できるとは」
「私は最早預言者ではない」
「いや、お前は脅威的な預言者であった。お前はメシア到来が近いことを説き、支持者を集め、やがて一人の男を実際にメシアとして認めるに至ったと聞く。はて、そのメシアとやらは、今どこにいる? 」
「ここにいる」
「私には一人のみすぼらしい盲者しか見えぬが」
「彼は今ここで、死の苦しみと闘う私と共に、苦しんでおられる」
私がそういうと、ヘロディアはしばらく沈黙していた。
「ヨハネよ、お前に一つだけ聞いておきたいことがある。ヘロデ一族は古より近親相姦を認めてきた。私もかつては今の夫ヘロデ・アンティパスの兄弟ピリポの妻であった。民はこのヘロディアのことを不倫の女と嘲笑しておる。ヨハネよ、私は、否、我が一族はお前のいう地獄へ堕ちるのか? 」
その意外な問いかけに、私は哄笑した。
「それがヘロディアの怖れか……」
「問うているのだ、答えよ」
「お前は既に己の罪に気付いている。そして、人知れず十分に苦しんできたはずだ。私はお前が誰もいない広間の片隅で、真の幸せとは何かを想い、涙していたことを知っている」
「それが民を誑かす預言者の口ぶりか。知った口をききおって」
私は見えない目で、ヘロディアの目を見つめた。
「私も同じなのだ、ヘロディア。私も真の幸せとは何かを考えてきた。その答えは、実は今も究極的には判らぬ。だが、同じ孤独、同じ苦しみを“分かち合う”ことで、その糸口が見つかるのであれば……」
「分かち合うだと? 他人に過ぎない者と分かち合うと申すのか? 」
「私とお前に違いなど無い」
私がそういうと、ヘロディアは微笑の声を洩らした。
「愚かしいものよ、つくづくお前たちのような人間は。お前に一つ愉快な話を聞かせてやろう。ある女王が一羽の鳥を飼っていた。鳥は傷ついていたが、女王の必死の手当てで癒された。やがて鳥は元気になり、女王は空へ返そうとした。するとどうしたことか? 鳥が命の恩人の指先を啄ばんだではないか。女王は飛び立った鳥を、即座に矢で射殺した。これが世界の真理だ。例外など存在しない。その女王は今、預言者という名の大きな鳥を飼っている」
その時、私は真の「喪」を感じた。死んでいくのだ、どこにも救いは無いのだ。<死>の女王は去り、牢獄には私一人が残された。
私は大声で叫び、頭を石の壁に何度も何度も打ちつけた。死にたくない、私はまだ死ぬわけにはいかない。こんな暗い牢獄で死にたくはなかった。
私は泣いた。私には光の手が訪れる。かつてエリザベトがヨルダン川で溺れた私を救い出したように、あの光の手が<死>を打ち砕くはずだ。だからここから出られるはずだ。母よ、父よ、ナザレのイエス、メシアよ! 私を御救い下さい。私の<死>に犯された灰のようなにがい苦悩を取り去ってください!
私はまだ、誰をも真に愛し返していないではないか……。
その時だった。私は牢の片隅でひっそりと輝く一輪の薔薇の存在を感じた。
見えぬ私は、薔薇の花弁の一枚一枚の輝きを見た。その薔薇に、私は巻き込まれ、やがて花弁の一枚となるであろう。そう思わせるほどの何かが私の前には不可視の実在としてあったのである。
私の死は、この薔薇の輝きを増し加える栄養ではないのか? 私は不意にそう感じた。薔薇は創世以前に既にあり、これからもあり、今ある。薔薇は死を吸って成長するのだ。
薔薇はまるで母のように、イエスのように私を優しく見つめていた。最早ヨハネや、イエスや、ヘロディアといった固有名などその次元では意味を成さなかった。薔薇は慈愛に溢れた眼差しをしていた。その時、ちっぽけな私は漠然と感じた。<死>は恐怖ではなく、慈しみそれ自体なのだと。
私の愛、私の迷いの過程は、全てこの薔薇に行き着くためにあったのだ。私はかつての故郷へ帰るだけに過ぎないのだ。私は光の手からすくい上げられ、かつて私がそうであったものとなるのだ。
私は己の死を受け容れた。
やがて、静謐な海辺の眠りが、私の存在を懐かしく満たした。
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2009/12/02(Wed)20:42:12 公開 / 鈴村智一郎
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■作者からのメッセージ
二十一歳の時にカトリックで洗礼を受けて以来、自分の洗礼名であるヨハネを、自分なりに解釈して物語ろうと計画してきました。
これはその試みの最初のものです。
ヨハネ関連のものとして、福音書、ウォラギネの『黄金伝説』、ワイルドの『サロメ』、クリステヴァの『斬首の光景』などを参考にし、そこに自分自身の体験も混ぜ合わせました。
文体は聖書特有の重厚さを意識して、簡潔にしています。
一人称にしたのは、私自身が「ヨハネの黙示録」の書き手のように強い感情移入を望んだためであって、これは「ヨハネはいった」と記すよりも、「私はそう感じた」と表現した方が良いと思ったからです。
三人称的存在に過ぎなかったヨハネを、一人称に同化するまでに二年かかった、ともいえるでしょう。