- 『蒼い髪 13話』 作者:土塔 美和 / ファンタジー 未分類
-
全角45130.5文字
容量90261 bytes
原稿用紙約141.05枚
ネルガルの皇帝を父に、神と契りを交わしたという平民の娘を母に持ったルカは、その出生が故に、帝位継承から遠ざけられた。そしてネルガル帝国拡大のための道具としてボイ星へ送られる。
-
ここは王家の武器庫。と言っても中に納まっている武器はあまりにも年代物で、今では使えるようなものはない。武器庫と言うよりもは博物館と言ったほうがふさわしい。一年に一度の祭りに使う武器の手入れだと言うので、ハルガンと数名の者がルカの命令で手伝いに来た。肝心のルカはと言えば、レイまで巻き込んでコンピューター室に立てこもっている。
「まいったな、殿下があんな焼き餅やきだとは思わなかった」
先日、シナカと仲良く話をしていたというだけで、ルカのハルガンに対する態度がどことなく冷たい。
「あら、知らなかったのですか」と、問いかけるシナカに対して、また二人っきりで話しているところをルカに見られてはまずいと思ったハルガンは、シナカとの間を少し取り、キネラオやホルヘまで交えて話し出した。
「知らないって?」
「あの笛の紋章ですよ、あれが本物でしたら」
シナカはくすくすと笑う。
「あの竜は、文武に長けていますが、とっても焼き餅やきでもあるのです」と、キネラオとホルヘたちが言う。
ボイ人なら誰でも知っているという感じに。
「ついでに付け加えると、たいへん不器用だそうです」
それならモリーから聞いてハルガンも知っていた。ペンを持たせて円を描かせようとしても、小さな円を描くことが出来なかったと。
「私達の言い伝えではそういうことになっております」と、キネラオがハルガンたちの機嫌を取り繕うように言う。
乱暴そうに見える彼らが、一番嫌うのが自分の主であるルカの悪口だということをキネラオたちは気づいていた。それだけ殿下は彼らに慕われている。
ホルヘは包みを大事そうにシナカの前の床に置く。他にもいくつか、同じような包みが並べられた。
「何なんです、これ?」
ホルヘはシナカの前に置かれた包みを解いた。中から美しい螺鈿の箱が出てきた。
蓋を開けた途端、ネルガル人たちは息を呑む。
「先祖代々の家宝なのです。今回は私が使ってもいいと、父からお許しが出ました。ほんとうはそちらの物が使いたかったのですが」と、シナカはホルヘの前にある箱を指差し口惜しそうな顔をしながら、
「女では力不足だと言われ諦めました。それでそれはホルヘが。男の人でもコツを掴まないとなかなか引けないそうです。そしてルカは、まだ小さいから私が子供の頃使った」と、シナカが言いかけた時、
「まだ、お話しておりませんでしたか」と、ハルガンは彼らしくもなく丁寧な言葉で問いかけてきた。
「何をでしょうか」
「その」と、ハルガンがルカに恥をかかせないように言うには何といったらよいか迷っているうちに背後から、
「殿下、弓は駄目なのです。見ただけで」
「失神するんです」と、トリスとクリス。
この二人、名前は似ているが性格は行って帰ってくるほど違う。
「えっ!」と驚くボイ人。
ハルガンは急いでホロに入った。
「確かに、奥方様が言われた通り、殿下は文武に長けております」
現に今ではリンネルの剣もハルガンのナイフもルカには敵わない。ただ皆の手前、リンネルからたまに一本取るということにしているが、実際はリンネルがルカから一本取れるかどうかと言うまでの腕前になっていた。誰が教えたのか不思議な剣を使う。だがリンネルはその教え主を知っているようだ。
「しかし、弓だけはだめなのです。触れることもできない」
「どういうことなのですか?」
「殿下の胸に痣があるのはご存知ですよね。俺たちはあの痣と何か関係があるのではないかと思っているのですが、本人は否定しております」
ボイ人たちは黙ってしまった。
「申し訳ありませんが、せっかくの家宝ですが、殿下の目には触れないようにしていただけませんか」と、丁寧に言ったのはクリスだった。
だがタイミングが悪いというのはこのことだ。
「シナカ、どこにいるのですか」
日にちも経ち、守衛たちからも忠告され、やっと自分の妻を呼び捨てに出来るようになったルカが、シナカがこっちに居るということを守衛たちから聞いてやってきた。
「頼みがあるのですが」
弓を慌てて隠そうとするハルガンたちの行動よりも、ルカの方が一足早かった。
部屋に飛び込み、その目に映ったものは。
ルカの動きが止まる。顔からみるみる血の気が引き蒼白になった。
ルカはくるりと向きを変えると部屋から飛び出して行った。
「殿下!」
守衛たちは慌てて後を追う。
ルカは回廊の手摺にもたれかかるとそのままずるずるとしゃがみ込んだ。
ハルガンがそっと背中をさする。
「大丈夫か?」
ルカは軽く頷いた。
暫くハルガンに背中をさすってもらい、ルカはやっとの思いで話し出す。
「胸が締め付けられて、息が」
額からは玉のような汗。
ハルガンはハンカチでその汗をぬぐってやった。
ルカの右手が押さえているのは痣のあたり。
「立てるか?」
ルカは頷く。
ハルガンはルカの左脇の下に手を入れると、吊り上げるようにして立たせた。
「シナカに用が」
「少しベッドで横になった方がいい。用は後でも」
ルカは頷くしかなかった。まだ呼吸が乱れている。
シナカが心配そうに背後から覗き込む。
「大丈夫だ、何時ものことだ」とはいうものの、今までルカの館には弓矢はなかった。ナオミが徹底的に排除したから。カロルのところへ遊びに行って発作を起こすのが関の山だった。だがこの発作を見たカロルは、次回からはルカが遊びに来る時だけ、ルカの目に付くところにある装飾品から全て弓矢を抜き取ったらしい。
ベッドに横になると、シナカが看病に付き添った。
「少し寝るといいわ。ここのところ余り睡眠を取っていないでしょ」
何を根詰めてやっているのか、一晩寝ないときもある。
「用件なら、起きてから聞くわ。それでも間に合うでしょ」
ルカは頷くと目を閉じた。今までの疲れもあったせいか、ルカは目を閉じると直ぐに深い眠りに着いた。
ルカが倒れたというニュースは直ぐにリンネルの耳にも入り、ボイ人たちに武術を教えていたリンネルは途中で切り上げ、駆けつけて来た。
「殿下は?」
「お休みになられました」
部屋をそっとのぞき込むと、そこにルカの安らかな寝顔がある。
リンネルはほっと胸を撫で下ろし、
「驚かれたでしょう」と、シナカの気持ちを汲みながら、
「事前に言っておくべきでした。申し訳ありません」と謝罪する。
「しかし、不思議ですね」と言い出したのはホルヘだった。
「あの笛を持っているということは、ルカ殿下は紫竜様ではないのですか?」
「紫竜?」
リンネルはヨウカから紫竜のことは聞いていた。だが他の守衛たちは初耳。
「何だ、その紫竜様って言うのは?」
「紫竜様もご存知ないのですか」と、驚きの声を発したのはキネラオ。
「紫竜様とは白竜様に仕える人のことで、笛と弓矢の名手ということになっております。年に一回の竜神様の祭りは、この紫竜様を称える祭りで、皆でお社の前で弓の腕を競うのです」
「弓の名手ねぇー」と、ハルガンは顎を手でさすりながら、確かに剣もナイフもプラスターも、もう奴の右に出るものはいない。だが弓だけは、触ることはおろか見ることすら出来ないのだから。
まあ、一眠りすれば落ち着くから。と言うことでシナカとリンネルを残して皆は持ち場に戻った。
「一つ、お尋ねしたいのですが」と、リンネルは前置きしてから、
「弓の引けない紫竜様というのもおられるのでしょうか」
「さあ?」と、シナカは首を傾げた。
それからシナカは少し俯き加減に視線を下に落とすと、
「おそらくあの方は、紫竜様ではありませんよ。紫竜様でしたら結婚されるはずがありませんから」
その言葉でリンネルはナオミの言葉を思い出した。
神は結婚しないと。もし無理やり結婚させるようなことをすれば、良くないことが起きると。
それで今回の婚儀は、随分反対された。現にルカの前世であるというレーゼ様も、独身を通されたとか。
「どうして、結婚なさらないのでしょう?」
シナカは微かに笑うと、
「それはね、白竜様が大変な焼き餅やきだそうです。それで結婚などしたら大変な騒ぎになるとか」
「白竜様?」
エルシア様が本来仕えるべき方。
「では、どうしてこの婚儀をお受けになられたのですか。私はてっきり殿下を竜神様だと思われたからお受けになられたのかとばかり思っておりましたが」
なんならもう少し年齢の近い王子を希望されてもよかったはずだ。
「紫竜様ではなくとも、竜に愛されている方には違いないからです」
「竜に愛されている?」
「あの笛の紋章です。あれは本物です。あれは竜と何らかの関係があった者しか持つことが許されないのです。つまり竜に愛されているからこそ、持つことを許されているのです。あの笛を他の者が持っても何の意味ももちません。ボイでは古より、竜に愛された人に悪い人はいないと言い伝えられております」
この星でも言い伝え。そう言えばあの笛は、ルカが持ってこそ意味があると。ナオミ様は仰せだった。
ルカは悲鳴と供に飛び起きた。
「どうしたの、あなた?」
「少女が、少女が」と、ルカは言いかけ、辺りを見回しはっと我に返った。
「夢です、何でもありません」と、ルカは何時もの冷静さを取りもどす。
「そこまで言って、途中で止めたら気になるでしょ」とシナカは食い下がる。
少女と言えば青い髪の少女であることは、リンネルは過去の経験から察した。
ルカは言うか言わないか迷ったあげく、
「少女が、私を殺そうとしてナイフを」
シナカは驚いた。
「どうして!」
「だから、夢なのです。私には殺される理由がない。だいたい彼女に会ったことすらないのです」
ルカは暫し考え込むように布団の一点を見詰めていたが、
「そうだ、私はシナカに用があって」
あそこへ駆け付けた。思い出すだけでも身震いがした。
「用って、何かしら?」
ルカは気を取り直すと、
「今度の夕食に、この星の法律に詳しい方を何人か呼んでいただけませんか。こちらからはレイを出席させます」
彼の専攻は法学だった。
「わかりました。宮内部に伝えておきます」
こちらの宮内部はネルガルとは違い王族に献身的だ。
その食事の席でルカは憲法を作ることを提案した。ネルガル人に対等に見られるには、彼らが文明の証だと思っている物を用意しなければならない。さもないと野蛮人とみなし、会話すらしようとしない。ルカはそのことを強調した。まず対等に扱われないことには何も出来ない。ネルガル人の狙いはこの星の資源であって、ボイ人など居ないほうがよいのだから。最悪の場合は皆殺し。だが、このことはルカは口にはしなかった。
まずここのコロニーから、憲法がどんなものか教えなければ。
「まいったな、憲法がないって、本当なのか」と、ハルガンは驚いたようにケリンに訊く。
ケリンは肩をすくめると、
「俺の専攻は工学で法学ではない」
ここのところケリンがコンピューター室(ルカの自室)にこもっていたのは、法律の勉強、もっともこれはルカがしていたのだが、その資料作成を手伝わされていた。
「しかしよ、これだけの文明を作りながら、憲法がないっていうのはどういうことだ」
憲法はその国の礎。何を基礎にしてこの国は成り立っているんだ。
「ついでに刑法もない」
「はぁ?」
ハルガンは開いた口が塞がらなかった。
「刑法がないって、では犯罪をおかした奴はどうやって裁くんだ?」
「裁かれない」
「では、悪いことのやり放題か」
ケリンは苦笑いをすると、
「おそらくボイには、曹長のような考えの持ち主はいないのだろう」
「この野郎」
ハルガンがふざけてケリンの首を絞めにかかった時、ルカたちが入ってきた。
「ハルガン、何しているのですか」
「何って、見りゃわかるだろう。生意気な口を利くから、こいつの息の根を細くしてやろうかと思って」
「ハルガン、ふざけていないで仕事です」
「仕事って、何やるんだ」
「憲法をつくるのですよ。まず手始めにその草案を。ケリン、皆さんに端末を渡してやってください」
ケリンは銘々に小型パソコンを手渡す。
「それでは隣の部屋に移りましょう」
ルカの自室はネルガルの時のように作られた。周りはモスグリーンの壁に囲まれ明り取りようの窓があるだけ、半分は書斎、残り半分がコンピューターシステム、そして隙間に簡易ベッド。ただネルガルの時と違うのは配線が整然としていることだ。さすがに見た目を気にするボイ人だけのことはある。配線ですら壁や床のデザインの一部にしていた。
同じような部屋でも作る人によってこうも違うのか。と言うのは守衛たちの感想。
だがこの部屋で会議を開くわけには行かない。部屋自体はかなり広いのに、既に全員が座れるほどの空間がない。書物を整理すればそのぐらいの空間はいくらでも取れるのだが、書物は箱に入れてネルガルから持ってきたまま、ところ狭しと積み上げられている。
「後で片付けます」と言うルカの言葉を当てにしてそのままにして置くのだが、一向に片付ける気配はない。かといって手伝うにも何処に何を置いたらよいのかわからない。現在は、必要なものだけ出して、好きなところに置くという状態化している。
隣の部屋は十畳ぐらいの広さで、縁側がありそのまま庭に降りられるようになっていた。そしてその庭には池が。ここからの池の眺めが一番美しい。
部屋の中央に大きな丸いテーブルを出すと、銘々がテーブルの上に端末を置き好きなところに座った。メンバーはルカとレイ、シナカ、キネラオ、ホルヘ、サミラン。彼は外務担当なだけあって、他の星の憲法を幾つか知っていた。それにボイの法学者四名、内二名は女性。
「ハルガンはどうします?」
「法律は破るためにあるもので、作るものではない」と言って、ルカの背後の柱に寄りかかって座る。
会議には参加しないが部屋には居るようだ。
「ケリンは?」
「俺は、寝る」と言うと、ハルガンの隣にごろ寝した。
「システムがトラブったら起こしてくれ」
ここまで準備するのに十二分に働いた。少しは休ませてくれという感じだ。
ルイがいつの間にか毛布と枕を持って来ていた。
「もし本格的に休まれるのでしたら、自室へ行かれた方が」
「いや、いちいち何かある事に呼びに来られるのも面倒だからな」
結局、ここで寝ると言うことらしい。
「では、始めましょうか」と言うルカの言葉で、皆が一斉に自分の前のディスプレーを見た。
「この中にネルガルの幾つかの憲法を紹介しておきました。参考のために一通り目を通してください。他の星にも素晴らしい憲法はあるのですが、なにしろネルガル人は、自分の口から言うのもおかしいのですが、何事に関しても自分たちのものが一番よいという錯覚に陥っておりますので、できるだけネルガルのそれに近いものを作れば間違いないと思います。ただしこれはあくまでも暫定的なもので、ネルガルの圧力が完全になくなった段階でこの憲法は効力をなくすということにしていただきます。これから皆さんが必死で作成しようとしているところに水を差すようで申し訳ないのですが」と、ルカは前置きをして、憲法の草案作りを始めた。
だが、真っ先に飽きたのはルカだった。
画面の中のネルガルの憲章には、自由だの平等だの平和だの国民主権だのと美しい言葉が綴られている。だが今のネルガルの何処にこのような規律を実行している国があるだろうか。それは確かに王制から民主主義に代わった時はよかった。だが民主主義も長く続けば腐る。いつの間にか貨幣が人を支配するようになり、貨幣を多く持つ者が王になり、今では完全に帝政に移行している。ただ前の王政と違うのは、皇帝といえども家臣に利益を与えなければ、その帝国は家臣によって潰されるということだ。そのため利益を出し続けなければならない。ネルガル全土を併呑し、アパラ星系を飲み込み、それでも足りずに近隣の惑星へとその手は伸びて行く。貴族と呼ばれる一部の者たちによる尽きることのない利潤追求。彼らの喉の渇きを満たさなければならない親父も大変なことだ。ネルガルはこの星より水は豊富だが、人の心はこの星の人々より乾ききっている。
ルカは深い溜め息を吐いた。
ネルガルの皇帝を親父と呼んだところで、ルカにはその感覚はなかった。むしろボイの国王の方が。彼は政務の暇をみては、ルカにいろいろ教えてくれた。シナカは刺繍、ホルヘは銀細工が得意なように国王は盆栽いじりが好きだった。こうしていると心が落ち着くと言われて。ルカもやってみるように勧められた。ちなみにキネラオとサミランは木工。釘を使わずに匠に組上げられ箪笥は、一度開ける順番を間違えると、二度と開かなくなる。これでは鍵もいりませんね。とつくづく感心させられた。
不思議な星だ、ボイ星は。それぞれの日常生活のほかに手に職を持っている。それらは趣味だと言うが、ルカの目には趣味の範疇を遥かにこえているように思えた。
ルカは大きく背伸びをすると、後ろに仰向けにそのまま倒れ這い出した。
ルカの隣で画面を見ながら、レイは咳払いをする。
守衛たちならルカのこの行為が何を意味しているのか直ぐにわかる。ルカの悪い癖。ナンシーからボイに嫁ぐにあたり事細かに忠告されたものの一つ。随分いろいろと気をつけてはいたようだが、ボイにも馴染んできたせいか、うっかりするとネルガルの館に居た頃の癖が出てしまう。
ルカはしまったと思い起き上がろうとした時、シナカと目が合う。
シナカはにっこり笑った。
「すっ、すみません。皆さんが一生懸命なのに」
「お茶にいたしましょうか」
シナカはそう言うとルイを呼び、縁側の方にお茶を用意させた。
「お茶にしてもなぁー」と、ルカは天井を見ながらネルガル語で呟く。
無駄なことをすることほど、むなしく疲労を感じるものはない。
この星に憲法はいらない。
「何か、仰せになりました?」
「いっ、いえ何も」と、ルカは上半身を起こしたが、
「私は少しここで横になります」と言って、また仰向けになってしまった。
「それでは毛布と枕をお持ちしますわ」と、シナカが立ちだそうとすると、
「いえ、いりません」
こんなことでシナカを使うのは申し訳ないと思ってのことだ。必要なら自分で取りに行く。
だがシナカは何を思ったのか、
「私の膝枕の方がよろしいですか」
ルカは慌てて上半身を起こした。
「とっ、とんでもありません」
「そうしてもらえ」と、ハルガンが笑う。
ルカはハルガンをぐっと睨み付けてから、申し訳なさそうに、
「では、毛布を持って来てくれますか」と、シナカに頼む。
シナカはにっこりして立ち上がった。
取扱説明書、その一。
やりたくないことを無理やりやらせると、芋虫のように床の上を仰向けに這う。それでもやらせると、周りの者に当たる。
シナカはルカの行動の意味するところを知っていた。ちなみにキネラオとホルヘも、後であの説明書をシナカから見せてもらった。知っていた方が便利だと思いましてと。
最初は、これは酷いと笑いながらも、最後にはいかに館の人々が彼を愛していたかがよくわかるプロフィールだった。
キネラオやホルヘもあのプロフィールを思い出していたのか、笑いを堪えている。
ルカは横になると直ぐに寝てしまった。
「随分、疲れているみたいですね」と、キネラオが心配そうに言う。
「こいつは昔から、嫌なことをやるのが嫌でな」と、ハルガンが言う。
「殿下にかかわらず、誰でも嫌なことをやるのは嫌だと思いますが」と、法学者の一人が言う。
「普通は言われれば諦めて我慢してやるものだ、だが、こいつの場合はやりながらでも抵抗しているから、往生際が悪いというのか諦めがよくないというのか、その分、人の数十倍は体力を消耗するんだよ。見ていておもしろいぐらいにな」と、ハルガンは笑う。
「まあ、そんな、笑ったらかわいそう」と言うシナカの言葉を取ってハルガンは言う。
「本当にかわいそうなのはケリンだぜ。この件じゃ、意味もねぇーのに、相当あたられたんじゃねぇーのか」
「いや、俺じゃなくてクリスだ」
ケリンはいつの間にか起き出してお茶を飲んでいる。
「あれ、起きたのか」
泥のように寝ていたような気がしたが。
「いい香りがしましたから」
「まったく、鼻がいいな。ところでクリスとは、どういう意味だ?」
「その条文打ち込んだのはクリスですよ。さんざん殿下に言われて」
最もネルガルの条文は全てコピーだったが、ボイ語に翻訳する時、微妙な言い回しに気を使ったようだ。
噂をすれば影。庭先にクリスが現われた。
「クリス、お前も随分鼻がいいと見えるな」
「別に私は、お茶を飲みに来たわけではありませんよ」
「せっかく来たのですから、いかがですか」と、シナカに促され、クレスも縁側に腰掛けた。
「あれ、殿下は?」
「寝てるよ」と、ハルガンはルカの方へ顎をしゃくる。
クリスは暫しその姿を見て、ほっと溜め息を吐き、
「憲法の草案を作ると聞きましたから、またと思いまして」
「随分と、当たられたんだって」
「殿下、どうして憲法を作るのをあんなに嫌がるのでしょうね。てっきり私は殿下はこういうこと好きなのではないかと思っておりましたが」
「意味があればやりがいもあるのだろうが、意味がないから面倒なのさ。ああ見えて、殿下はかなりのものぐさだからな」
「そんな、憲法を作ることが、どうしてそんなに意味がないことなのですか。国には憲法は必要だと思いますが。だって憲法は国の礎ではありませんか」
「それはネルガル人の考えだ。憲法などなくとも、うまく治めている国はいくらでもある」
「私は、聞いたことがありませんが」
それはそうだ。ネルガルの勢力圏内ならば、どの星の政治体制もネルガルと同じ形を取らざるを得ないのだから。
ハルガンは顎を撫でると、
「この国がそうさ」
「えっ!」とクリスは驚き、ボイ人たちを見た。
「ボイには、憲法がないのですか?」
ボイ人たちは答えに窮した。代わりに答えたのはレイだった。
「慣習法はあるようですが、決まった条文はないようです」
「それで、今まで。信じられません」
クリスの驚きは、ネルガル人にすれば当然のことだろう。
それでネルガルに見せるだけでもいいから、形だけの憲法を作ろうということになった。さもないと国として相手にされない。それでは交渉もできない。まずこの不平等条約を解除するにも。既にルカが来る前から、人の良いボイはネルガルにいい様に資源を持ち出されていた。これを確固たらしめるためにルカは送り込まれたようなものだ。
「すっかり寝てしまったようね」
寝顔は無邪気そのもの。
ルイが簡易シートを持って来た。
「畳の上ではかわいそうですから」
シートに移しても起きない。それどころか、「こんなもの、いらない」と、寝言で怒鳴る有様。
驚くルイたちにハルガンは言いながら笑う。
「寝てまで、憲法を作るのに抵抗しているみたいだな。ご苦労なことだ」
「どうしてそこまで」と、首を傾げるクリスにレイは言う。
「殿下に言わせると、この星は法律の前段階の道徳が、全国民にいきわたっているそうだ。だからそれを何も条文にする必要はないと」
憲法を作るにあたり、ルカはレイに言った。
私もこの星へ来るまでは不平等条約を解除するためだけではなく、この星の未来を考え憲法は必要だと思っていた。だがこの国の人々の暮らしを見ているうちに、この星に憲法はいらないと思うようになった。なぜならば、ネルガル人が憲法に謳っているようなことは彼らにとっては常識なのです、何も強いて文章にすることもないほどに。それはちょうど前進するのに右足を出せば次に左足を出すのが当然なように。前進するのにいちいちそんなことを条文に書いてチェックしながら歩く人はいない。だが書き記すということははっきり理解するということにもなるが、逆に書いていなければ何をやってもよいとも取れる。それでネルガルでは法の網を潜って犯罪を犯すものが出てくる。それを防ぐために法はより複雑になり、今では一般の人は理解できないほどになっている。だがこの星の法律は単純だった、幼児でも理解できるほどに。人を殺めてはいけない。傷つけてもいけない。人の物を取ってはいけない。無論、人権擁護などという難しい法律はない。そんな法律がなくとも、相手を尊重するのはこの星では当たり前なのだから、いちいち口にするほどのことでもないのだ。
「なるほど、出来ないからこそ、表記して神棚にでも厳かに掲げなければならないのですね」と、クリスは納得したように言う。
ルカはこの星へ来てつくづくネルガルの法整備をそう感じるようになった。一つの法律を作るたびに一つの道徳が消えて行く。人を殺してはいけないという法律を作れば、人を傷つける。そして人を傷つけてはいけないとは書いてなかったと言う。それで傷害はいけないと記すれば、今度は罵声を浴びせる。人体に手を下したわけではないのだから傷害罪にはならないと。最初にこの法律は何の目的のために作られたのかと、疑いたくなるほどだ。
法の抜け道ばかりを見るようになるから、醜い国民性が出来てくる。法の存在を全面的に否定する気はないのだが、もう少し道徳心で物が図れないものだろうか。
結局、今日のところは、憲法の草案はルカ抜きで始めることにした。
「彼を起こしても邪魔になるだけで、前には進みませんよ」と言うハルガンの忠告から。
クリスもそれには大いに頷いた。
「嫌なものは嫌なのですから、殿下には無理ですよ」
「でも、言い出したのは彼なのよ」と、シナカはルカを見る。
「それはこれからのネルガルとの交渉に、どうしても憲法が必要だからです。それも彼らが納得するような」
皆はまたそれぞれの端末の前に座った。
ルカの所にはクリスが座ることになった。ハルガンは相変わらず柱にもたれかかり、協力する様子はない。ケリンはまた寝てしまった。システムがトラブらない限り、傍観者を装う気だ。
レイは大きな溜め息を吐くと、あの二人のことは諦め草案作りを開始した。だがその前に、
「一つだけ忠告しておきます。これからネルガル人と交渉をする時には、決まったことや決めようとしていることは必ず文章にしてもらってください。ボイ人同士なら口頭でもよろしいのですが、ネルガル人相手の場合は、後で水掛け論になる場合がありますので」
草案は意外にも順調に進んだ。なにしろ何も無いようなところに新しい物を作るのだから、たいして抵抗はない。ネルガルに幾つかある憲法に基づき、それらをボイの人々でも理解しやすいように書き直したようなものだ。もっともどうしてもボイ人の肌に馴染めなそうなものは削除し、代わりにボイ人らしい法律を加えていった。もっともこれはまだ草案だ。これを議会にかけ皆で話し合わなければならない。
「今日は、この辺にしよう。続きは明日」と、レイが言いかけた時、
「あの、申し訳ありませんが、明日は殿下のお誕生日なのです」
「えっ!」と言う声を出したのはネルガル人の方だった。
ボイ星は回転軸がネルガル星のように傾斜していないため、一年中気候は同じだった。これで季節感でもあれば、夏の終わりと同時にルカの誕生日も思い出したのだろうが。
「ボイの暦とネルガルの暦を適合させますと、だいたい明日あたりかと。母が、誕生会を開きましょうと言うもので」
ボイでは誕生会をやる慣習はなかった。だがネルガルではやっているという噂を聞きつけた王妃は、特別にルカのためにパーティーを開こうと申し出た。いきなりネルガルでやっていた慣習が全てなくなってしまうのもかわいそうだということから。
レイはクリスの方に振り向くと、
「誰か、何か言っていたか」
クリスは、いいえ。と言う感じに首を横に振った。
「守衛の方はもとより、誰も知りません。こちらが内緒で進めていたことですから。彼を驚かそうと思いまして」と、シナカはルカの喜ぶ顔を思い描きながら少しチャメッケに言う。
「ですから、彼には内緒にしておいて下さい。パーティーの時間はネルガル式に夕方からです。それで一晩やるそうですが、彼はまだ子供ですから途中で切り上げさせるそうです。その後は大人の時間として楽しんでもらうそうです」
「それは、誰が言ったんだ?」
今まで傍観者を決め込んでいたハルガンが、いきなり問いただしてきた。
「誰がと申されますと?」
「会場を準備している奴だよ」
ネルガル式にやるにはネルガル人が絡んでいなければ出来ないはずだ。俺たち守衛がノータッチということは、俺たち以外のネルガル人。
レイも同じ事を考えたのだろう、いっきに警戒色が濃くなった。その会場を裏で指揮している者によっては、殿下を出席させるわけにはいかなくなるかもしれない。ネルガルは、些細なことにどんなイチャモンを付けてくるかわからない。
「ハルメンス公爵です」
「あいつか」と、ハルガンは舌打ちした。
「この件、王妃の提案ではないだろう。奴の、もしくは奴が王妃に吹き込んだのか」
ハルガンの執拗な問いに、シナカは答えに躊躇した。
それを見かねたキネラオが、
「何か、不味かったでしょうか」と、逆に訊いてきた。
「悪いが、今後、俺たちに内緒で事を運ぶのは止めてくれないか。殿下に黙っていろと言うなら黙っている。こう見えても俺たち口は堅いほだ。俺たち殿下の守衛なんだ。遊んでいるようだが仕事は真面目にしている」
ハルガンの口から出ては、信憑性がいまいち低いが。
「すまなかった」と、素直に謝ったのはホルヘだった。
「いや、わかってくれればいい」
「でも、どうしてそんなに警戒なさるのですか」と、法学者の女性。
ハルガンは彼女たちがどれだけ今回の友好条約について知っているか疑問に思いながらも、これ以上裏を知っている者を増やさないために嘘を付く。
「殿下と公達はあなた方も知ってのとおり、仲が悪い。それで奴等から何か意地悪でもされたらと思ってな。ああ見えてもまだ幼いから」
「そっ、そうでしたか。仲が悪いなんて知りませんでしたから」
どうやら法学者たちは何も知らないようだ。では、どうやってここへ呼び出されたのだ。
「憲法を作れば、不平等条約を解消できると聞きまして」
なるほど、なかなかこいつらやるな。とハルガンはキネラオたちを見た。
ルカがこの星に来た真の目的を知っているのはおそらくこいつら三人なのだろう。では奥方は? 知っているのだろうかという疑問を残して、この場は解散になった。
次の日、午後から王宮内はパーティーの準備でおおわらわだ。
「誕生パーティーって、どなたの?」
ルカはとぼけたような質問をシナカにする。
既に着替えは始まっていた。シナカはネルガル式に髪を上げ、ネルガル式のドレスを纏う。
「殿下、殿下もこちらで」と、モリーが促す。
だがルカはまだ答えを聞いていないとばかりにシナカの背後に立っている。
シナカは鏡からルカの方へ視線を移すと、
「あなたの誕生パーティーに決まっているでしょ」
「私の?」
「ネルガルの暦だと、今日で八歳になるのよ。おめでとう」とシナカは言う。
ルカは驚いたようにシナカを見ると、
「ボイには誕生会はないと聞きましたが」
一年に一回、全員で一斉に年を取る。それがこの星の元旦のお祝い。
「ええ、ですから特別です。ボイにはないパーティーなので、全てをネルガル式にやりましょうって」
「誰が言い出したのですか」
それにはシナカはさぁーとばかりにとぼけて見せた。
ルカは心当たりがあるという感じに大股で部屋を出て行った。
「もう少し、喜んでくれると思っていたのですが」と、シナカは少しがっかりした感じに言う。
「驚きの方が先になってしまったみたいですね。随分、驚いているみたいですもの」
「ルイ、あなたも、私が終わったら髪、上げてもらいなさい」
「わっ、私もですか」
「そうよ、あなたもネルガルのドレスを着て、パーティーに出席するのよ」
シナカはルイのドレスも用意していた。
一方ルカは、ハルガンを呼び出そうと守衛所に向かう途中で、リンネルに会った。
「殿下、まだお支度を」
「リンネル、いいところで会った。ハルガンを呼んで来てくれないか」
「ハルガンですか」と、リンネルは一瞬首を傾げたが、
「このパーティーに関してはハルガンも知りませんでした」
「では、誰が?」
「ハルメンス公爵のようです。彼が我々に内緒で」
守衛たちは誰も知らなかったのか。だが、奴なら知っていたはずだ。
ルカは池の方を向くと、
「レスター、いるだろ」と、呼びかけた。
何処からともなくレスターが庭先に現われた。
「何か?」
「お前、知っていただろー、このパーティーの件」
「知っていたが、それが」
「何故、私に知らせなかった」
そこには少し怒気が含まれている。
リンネルが何か取り繕うとした瞬間、レスターはあっさりと答えた。
「知らせる必要がなかったから、知らせなかった」
「私は、どんな些細なことでも知らせるように言っておいたはずだ」
「殿下、下の者が判断できることは下の者に任せたらどうだ。俺だって大佐だって、脳味噌がなにわけではない。何から何まで自分でやっていたら、体がもたない」
それはリンネルも思っていたことだ。ここの所殿下は、疲れすぎている。
「少し気分を転換させてやろうというハルメンスの好意だ。悪意はない」
レスターは全ての情報を掴んだところで、報告する必要はないと判断した。
「殿下、レスターの言うとおりです」と、今まで黙っていたリンネルが口を出した。
「我々で判断できるものは我々で行います。ただ迷うようでしたらどんな小さなことでも、殿下にご報告いたします。さもないと殿下の体が終えてしまいます」
ルカは黙り込んだ。
「その沈黙は、俺たちが信用できないということか」
「レスター」と、リンネルは彼を咎めた。
ルカの目だけがレスターを睨み付けた。だが暫しして、
「わかった」と、一言。
ルカは相手の言い分が正しいと判断すれば、自分の否は素直に認める。
「なら、一つ報告がある。公達だが、あいつら口で言っているだけでは駄目だな。何か手をうたないと、今にボイ人との間に亀裂を入れるぞ。それと奥方がネルガルのドレスを着て現われたら、綺麗だ。の一言ぐらいは言ってやったほうがいい。決してボイの服の方が似合うとは言わないことだ。お前は言いそうだからな」
ルカは怪訝な顔をしてレスターを見た。
「お前から、そんなことを言われるとは思わなかった」
「スパイは相手の心を読むところから始めるんだ。お前は既に一度失敗している」
「私が?」
「誕生パーティーの件、もっと喜ぶと彼女は期待していた。次で挽回しないと、夫婦の間にも亀裂が入るぞ」
そう言うと、レスターは廊下にキネラオとホルヘが居ることを伝えて去って行った。
話しは全て聞かれたとみてよい。
「ホルヘさん、何か御用ですか」
ルカはわざと明るく言う。
キネラオとホルヘはすまなそうに壁の背後から出てくると、
「取り込み中のようでしたので、つい声を掛けそびれてしまいました」
「別に、聞かれて困るようなことは話しておりませんから。どうぞ」と、ルカは二人を自分のところに促す。
「お支度の方、急がれたほうが。そろそろお時間ですので」
そう言われてルカは、あわてて着替えに向かった。
「しかし、意外でした。レスターさんがあのような忠告をされるとは」
彼はボイ人の間でも怖がられる存在になっていた。彼が特別何をしたと言う事はないのだが、なんとなく誰も近寄らない。陽気なシナカでも、彼には声を掛けづらそうだ。どうしてこんな人があの人の? 他の守衛の方々は個性こそ強いが陽気な人が多い。
リンネルは苦笑した。
「ああ見えて結構彼は優しいのです。ただその表現方法を知らないだけで」
「お待たせしました」
ルカが正装する頃には、シナカもルイもすっかりネルガルの貴婦人に化していた。
袖がない分、腕の長さがめだってしまうが、似合わなくもないか。とルカは心の中で思いながらも、レスターの忠告を忠実に再現した。
顔に万遍の笑みを浮かべながら、
「素敵ですよ、見違えました」
その時、背後から咳払い。
「見違えたではなく、惚れ直したと言うんだ」
声の主はハルガン。
「それになんだ、紳士ともあろう者が、ご婦人方を待たせるとは。つくづく俺が会場までエスコートしようと思った」
ルカはくるりとハルガンの方へ向きを変えると、
「このパーティーの主役は私なのですよ。私が行かなければ始まらないのです」
「知ってんなら、さっさと行け」
どちらが主でどちらが臣なのか、傍目にはわからない。だがこれが公の場に出ると、きちんとしてしまうのだから不思議だ。
「行きましょう、シナカ」
ルカはわざとハルガンを無視するようにしてシナカの手を取る。
ハルガンはニタリと笑いながらルイの手を引いた。
会場は王宮の一画、ネルガルとの交渉のためにネルガル式に建てられた館。既に多くの客人が集まり、ネルガルの舞曲が流れていた。
ルカの登場を知らせるアナウンスが入ると、会場は一瞬静まったが、次の瞬間、お誕生日おめでとう。という声とともにクラッカーがならされた。そしてよりリズミカルな曲が演奏される。
主催者であるハルメンスがグラスを片手にやって来た。ボーイを呼ぶと、ルカにジュース、シナカにはアルコール度の低いカクテルを渡し、ルカの誕生日に乾杯した。
シナカがいっきにカクテルを飲み干すのを見て、
「お強いのですね」と、ハルメンスは言う。
「これ、ジュースではなかったのですか」
口当たりはとてもまろやかだ。
「これは、ネルガルの上流貴婦人の間ではやっている飲み物なのです。殿下はまだ子供ですからね」
ジュースで我慢しなさいという感じだ。
シナカとハルメンスは大人の会話。
ハルメンスめ、後で覚えておれ。
そしてハルメンスの背後には、何時ものように美しいネルガルの女性が数人控えていた。
「お久しぶりですね、殿下。覚えておられますか」
「少し背が伸びられました?」
それぞれに感想を述べる。
それから彼女たちの視線がハルガンに向くと、態度ががらりと変わった。そこは男と女の世界、子供の出る幕ではなかった。
結局、ルカと組んではうまく踊れないシナカは、他の男性と踊ることになった。
ひとり取り残されることになったルカに、ルイが声をかける。
「つまらないですか」
「いえ、見ているだけで楽しいですよ。結構ボイ人もうまくダンスを踊るものだと感心しておりました」
結構巷には、ネルガルの商人がどんどん進出し、ダンスホールやバーが出来ていた。
パーティーはたけなわ、だが子供であるルカの目には、そろそろ睡魔が襲いかかろうとしていた。
「そろそろお部屋へ戻られますか」とリンネル。
主が眠くなってきたのに気づいて声を掛けてきた。
「シナカは?」
ネルガルとの慣習の違いをしっかり楽しんでいる。
「ルイ、シナカに伝えてください。私は先に休みますって。あなたはしっかりネルガルのパーティーを勉強して下さいと」
「よろしいのですか、それで」
「これからはこういうことが必要になりますので。今度は私達が主催しなければならないかもしれません。ネルガルではサロンがうまくいくかいかないかは、婦人の腕に掛かっていますから。この機会にしっかり覚えてもらえるとありがたいと思います。ルイ、あなたも、私に気を使わずに、ネルガルのパーティーがどのようなものか学んでもらえるとありがたいです。シナカの助手をしてもらわなければなりませんから。大半のネルガル人は、ネルガル式以外のもてなしを余り喜びませんので」
そう言うとルカは、リンネルを従えて会場を後にした。
憲法だけでは駄目だ。全てのものをネルガル式にしなければ。だがそれによってボイのよさが消えることをルカは危惧した。
一時、ネルガルの圧力が消えるまでだ。そしたら全てを昔のボイに戻さなければ。
モリーはひとり、編み物をしながらルカの戻るのを待っていた。
「あれ、モリーは出席しなかったのですか」
「私はもう若くはありませんから」
「でも、久々にネルガルの雰囲気を味わえましたよ」
守衛たちなど、ハルメンスの連れてきた高級娼婦にいいようにあしらわれているが、本人たちは気づいていないようだった。
「そうですか、それは気分転換にもなりよろしかったですね。ところで、奥方様は?」
シナカの姿がないことを心配する。
「おいてきました」
ルカのその言葉にモリーは危惧して、リンネルを見る。
リンネルは何も心配することはないという感じに首を横に振った。
「ネルガルの社交を少し学んでもらおうと思いまして」
「では殿下も、もう少しお傍にいらしたら」
社交場で妻を一人にすることほど危険なことはない。
「疲れました」
モリーはほほえむ。
「殿下はどちらかと言えば、ネルガルよりボイの雰囲気の方がお好きなようですものね」
ルカはこの星に着てから雰囲気が変わったような気がする。それはさすがにネルガルとの決戦を控えているからぴりぴりとはしているが、くつろいでいる時の顔つきは、今までにない穏やかな顔をしている。そして時折り池の辺で吹く笛の音も、ネルガルに居たときよりしっとりしている。
「そうかも知れませんね」
この星は母の故郷に似ているのかも知れない。一度も行ったことはない母の故郷。だが母から話は何度も聞いていた。
一度ぐらい、行ってみたかった。
ルカはパジャマに着替えると、
「寝ます」と言うと、さっさと寝室へと向かう。
「まぁ、本当に疲れているようですね」と、モリーは笑う。
次の日、久々のパーティーで守衛たちは言わずもが。ボイ人たちも国王からして慣れない宴会だったとみえ全滅だった。
「やれやれ、これでは」と、夕べパーティーに出席しなかった大臣たちが嘆く有様。
だが、元々がのんびりしているボイ人のこと。今日できないものは明日やればよい。何も無理して今日やることもないということで、今日は全ての執務がお休み。と言うことになってしまった。
「のんびりした星だなー」と、呆れたようにレスターが言う。
無論、憲法草案も、レイすらが二日酔いということで、使えない有様。
「久々でしたので、ついピッチが早くなってしまいまして」
頭を冷やしながら横になって言い訳をする。
そして次の日、アルコールも抜けたところで、草案作りも終盤へと向かった。自衛権と軍隊だ。これが最後になってしまったのには訳がある。ルカが、重い腰をなかなか上げようとしなかったからだ。
自分たちの国を自分たちの力で守らなければ、一国とは認められない。それは重々わかってはいるのだが、ルカは軍隊を持つことに反対した。
「殿下!」と、咎めるように言うレイに対し、
「わかっています、わかっているのですが」
ネルガルの歴史を見ると軍が国民のために動いたためしがない。軍が真っ先に銃口を向けるのはいつも国民。食糧騒動しかり、労使騒動しかり、政治騒動しかり。軍はその時の一番強い者の言いなりになる。国民の血税で養われているくせに。
「レイ、考えてみて下さい。隣の家と喧嘩するよりも、家族喧嘩の方が多いでしょう。そこにナイフ(軍隊)があれば使ってしまうのが人の性。なければ使わなかったものを」
まだネルガル人は知性への発展段階なのだろう。言葉がコミュニケーションの道具だということを知らない人々が多すぎる。暴言や悲鳴には使っても、会話で使うことを知らない。まるで犬のようだ。いや、こう言っては犬に失礼かな。彼らですら幾つかの音を使い分け会話をしている。ボイ人のように、ナイフが果物の皮をむいたり道具を作るときの道具だったりすればよいのだが。
ボイ人は手のひらサイズの折りたたみ式のナイフを携帯している。これが結構シナカと町を歩いている時に便利だということをルカは知った。
一方、ハルガンはリンネルやレイを中心に、ルカがネルガルに嫁いでぐずぐずしている間に軍の整備にかかっていた。まずは近衛からと、毎日近衛を相手に鍛錬している。
例えこいつらが殿下のために動かなくとも、ボイのためになら動くだろう。それで充分だとハルガンは考えていた。ボイの軍隊がネルガルの軍隊と交戦し、少しでも時間を稼いでくれれば、その間にルカをネルガルへ逃がすことはできる。後は俺がボイ軍を指揮して、出来るだけ時間を稼いでやればいい。
「力なくして何の交渉だ。まず最初に恫喝ありだ」と、ハルガンがルカの背後から声をかけた。
今まで草案作りに何の興味もしめさなかったくせに。まるで犬だ。先に唸った方が勝ちと言わんがごとくのハルガンの作戦。しかし犬だってまずは挨拶から入るだろうに。
「殿下」と、気が進まないルカにレイは言う。
「わかってます」
「では、軍の規定だ。まず名前から」と、ハルガンが乗り出してきた。
「災害救助隊と言うことにしましょう」と、すかさず言ったのはルカだった。
「災害救助隊? それりゃ、何だ!」
「部外者は、黙っていて下さい」
今までハルガンはルカの背後に居て、憲法草案作りには協力していない。今更、
「軍の規約については元参謀本部勤務だったんだ、一言言わせてもらいたいですね」
ルカはハルガンをねめつけたが、ここはやはり餅は餅屋、彼に任せたほうがよいのかもしれない。
「ケリン、ハルガンに端末を」
ケリンはおっくうげに立ちだすと、隣の部屋から端末を持って来てハルガンに渡す。
シナカの横が少し空いている。クリスが遠慮して少し空けて座ったせいだ。ルカはクリスにその空間を詰めるように指示すると、ハルガンにクリスの隣に座るように言う。シナカの横になど絶対に座らせない。
ハルガンは苦笑しながらもクリスが空けてくれた所に端末を持って座る。
暫しの議論の後、自衛権に関する法案が成立した。だが軍隊の名称は災害救助隊として譲らない。
「これなら、天災でも人災でも軍を出動させることができるではありませんか」
「これじゃ、消防隊の延長線のようじゃないか」
ボイ星に警察や消防隊は存在していた。
「それでいいのです」
「よいではありませんか、これで」と、言ったのはレイだった。
これならカモフラージュが出来る。名前だけを聞いたのでは、誰も戦闘用の軍隊だとは思わないはずだ。
だがルカはそんなつもりは毛頭ない。そもそも戦争をする気はない。軍隊が必要なのは、常日頃訓練している機動力は、大きな災害の救助にはうってつけだからだ。
「まぁいいか、名前などどうでも」と、最後にはハルガンも折れた。
中身がきちんと訓練されていればいいんだ。
「ではこれを議会にかけて、皆さんの意見を聞いてみて下さい」
そう言ってルカはレイに法律らしく清書するように指示した。
「しかし、何だ。ボイ星には刑法がないと聞いたが、それは事実か?」
ボイの法学者が揃っているのだ、この際はっきりと聞いておこうとハルガンは思った。
ひとりの法学者が答えた。
「刑法がないわけではありません。ただ、ネルガルの罰則とはかなり違うようですが」
それは次のようなものだった。例えば物を盗んだ場合、それを返すか、又はその物と同等の労務をすれば許された。人を殺めた場合、本来その人が生きていればしたであろうことをその人に代わってその人がいた周囲の人たちにしてやれば、それで許された。過失の場合はお互いに話し合いでその対価を決める。等々でこれと言った罰則がない。罰則よりもは地域ぐるみで彼が更生するのを手伝うという感じだ。
「それでよく国が成り立つな」と、ハルガンは感心した。
「神をうまく利用しているのですね」と、ルカ。
水の神である竜神は争い事が嫌いだ。よって争いをすれば湖の水は枯れる。これは母の故郷の伝承と同じ。この星で湖が消えるということはその民族の死を意味する。ネルガルでは神のために戦えば天国に行けるという話は聞くが、戦えば地獄に行くという話は聞かない。同じく神を祀るならボイ人の方が頭がいい。これなら民族間の闘争はなくなるから。
「神を利用するなんて、随分と罰当たりなこと言うのね」
「罰当たり?」
「そうですよ。だれも利用などしていないわ。これは事実ですもの。本当に湖が枯れてなくなってしまったのですよ、しかも二つも」と、シナカは真剣な顔をして言う。
「それは、地殻変動のせいですよ」
ルカはあっさりと答えた。
「地殻変動?」
「そうです。神の力などではありません。地下のマントルの活動のせいでしょう」
「では湖が消えたのは、神の仕業ではないと言うのですか、あなたは」
「当然です。神など存在しませんから」
シナカは唖然としてしまった。
「暇ができましたらその湖、調べてみましょう。何か原因がわかるはずです」
「調べたって無駄よ。昔からの言い伝えなのですから」と、シナカは怒るように言う。
「母の故郷にも似たような伝承がありました。だから私は母に言ったのです、それは迷信だと」
シナカはぐっとルカを睨み付けると、
「私達だって、最初はそう思って調べてみたのよ、もう何千年も前の話ですけど。でも何度調べても何もでなかった。時代をかえて調べても結果は同じだった。それで皆が結論付けたのよ、あれは神の力なのだと」
「神の力だなんて、絶対にありえません。きっと昔だったので、よい測定機がなかっただけです。今の科学なら」
シナカは完全に怒ってしまった。あれだけボイの科学者が調べても、今世紀に入ってからも、他の湖が僅かながらも小さくなっているのを危惧した者達が調べたのだ、それでも。
シナカは思いっきりテーブルを両手でドンと叩くと立ち上がった。
一同が驚く。
「ボイを、馬鹿にしないで」
「別に、私はボイを馬鹿になど」
どうしてシナカが怒り出したのかルカには解からず、とまどいながら言った。
「ネルガルの測定機なら測れると言いたいのでしょ」
「別に私はそんなつもりで言ったのではありません。装置は日進月歩で進化しています。昔の機械とではと」
立ち上がったシナカをルカは下から仰ぎ見るように言う。
周りの者たちはどうしてよいか迷った。
「あれは神の力です。あの二つのコロニーは、神の怒りに触れたのです」
シナカはそれだけ言い残すと部屋を出て行った。
ルイが慌てて後を追う。
ルカは唖然としてしまった。自分の何が、彼女の怒りに触れたのかわからない。
「殿下」と、レイは豆鉄砲でもくらったような顔をしているルカに声をかけた。
「殿下も先程言われたではありませんか、ボイ人は神をうまく利用していると。そもそも神を利用するという言葉が、奥方様の逆鱗に触れたのかもしれませんがね。ボイ人にとって竜神様は大切な神様なのですよ。そのことを重々念頭に入れて話をなさらなければ」
「私は、アパラ神ですら信じていない。あんなものがあるから、紛争が絶えないのだ」
アパラ神とはネルガルの絶対的な神。
「殿下」と、レイは首を横に振って忠告する。ボイ人の前で神を信じる信じないという言葉は、口になさらない方がよいかと存じます。
「あの湖、調査しない方がいいと思う」と、ぼそりと言ったのはケリンだった。
「どうしてですか」と、突っかかるようにルカはケリンの方へ振り向く。
「ボイの湖は、今あるものも次第に小さくなりつつあると聞きました。その原因を突き止めるには、あの消えてしまった湖を徹底的に調査するのがベターだと思いませんか。何か原因があるはずです。その原因さえわかれば、今小さくなりつつある湖も、元には戻せなくとも、これ以上小さくならないようにはできるかも知れません」
「俺も、ケリンの考えに賛成だな」と言ったのはハルガンだった。
「どうしてですか、このまま湖が小さくなるのを指をくわえて見ていろとでも言うのですか」
「ボイ人だって馬鹿ではない。既にあの湖、徹底的に調べたのではないか」と言ったのはケリン。科学者なら当然の判断だ。
「やるのなら、内緒でやれ。特に奥方にはな」と言うのはハルガン。
「どうして?」
「さっきお前が言っただろう。ボイはこれでバランスが取れているんだ。神を信じることで民族間の争いを避けてきた。お前が科学を信じて生きるのも一つの生き方だが、奥方が神を信じて生きるのも一つの生き方だ。相手の生き方を否定するのはよくない」
「しかし、このまま行けばいつかは湖が全て枯れてしまう」
「それは、数千万年先のことだろう。それに枯れるとは限らないし、俺たちがそれまで生きている訳じゃあるまいし、と言うのは少し無責任か。でもその頃には新しい惑星に移住しているかもしれないだろう、もっと水の豊富な」
実にハルガンらしい楽観的な考えだ。
「それに俺たちの考えが正しいとは限らない」と言ったのはケリンだった。
「科学を崇拝したために今のネルガルがある。この銀河で一番強くなったかもしれないが、どう見ても今のネルガルがこのボイより住みよい星とは思えない。神秘なものは神秘なままでもいいのではないか」
ルカは黙ってしまった。
「それに、家の中では女が威張っていた方がうまくいくものだ。奥方にあんまり口答えするな。何でもそうですねと言っておけば丸く収まる」
「別に私は、口答えなど」
「ほら、それが口答えだというんだ。後で奥方様に謝っておけよ」
「どうして私が謝らなければならないのですか」
「お前が悪いからに決まってんだろー」
「どうして!」と、ルカはハルガンに食い下がった。
「つべこべ言っていないで、さっさと謝って来い。家庭内の喧嘩は男が悪いに決まってんだ。お前、男だろう。罪を認めろ」
「罪って?」
「男であること自体が罪なんだ」
「そんな、理不尽な話、ありますか」
「理不尽もくそもねぇー。それが全宇宙共通の常識だ。なっ、キネラオ」
いきなり振られたキネラオは、だが、答えるすべを持たなかった。
「あのー、私は独身ですので」
「なんだお前、まだ結婚していなかったのか」
ハルガンは意外だという顔をする。独身のわりには落ち着きすぎていた。
キネラオはすまなそうに頷く。何も悪いことはしていないのに。
ハルガンはホルヘとサミランに視線を向けた。だが、その二人も。
「なんだお前ら、三人揃って独身なのか。どいつもこいつも揃いも揃って、もてない男ばかり揃ったものだ」
法学者たちは笑ってよいものかと迷いながらも笑わずにはいられなかった。この三人は宰相の倅である。しかも三人が三人とも倅という肩書きだけではなく実力もあった。ある意味、ボイ人の間では敬意をはらわれている立場の者たちなのだが、このハルガンというネルガル人にかかっては台無しだ。
「そう言う曹長も、独身ではありませんか」と、三人への助け舟を出したのはクリスだった。
ハルガンはむっとした顔をクリスに向けると、
「俺はな、相手が多すぎで選べないから一人でいるんだ」
ハルガンが言うと冗談にならないからきつい。
結局ハルガンは自分の意見に賛同してくれる者を得ることはできなかった。まったくどいつもこいつも、いざとなると役に立たない奴ばかりだ。
「できました」と、レイ。
ハルガンたちがくだらないことで騒いでいる間に、レイはひとりこつこつと、先程の草案を綺麗に清書して印刷までした。さすがは法学専攻だけのことはある、形式はみごとなものだ。
一部をルカに渡し、一部は自分で取り、残りはボイ人に一冊ずつくばった。
「それではさっそく議会を開き、これを参考にあなた方の憲法を作って下さい。その憲法をもとに今の不平等条約を解除させるつもりです。それには宰相にも骨を折っていただくことになりますが」
今のルカではまだ小さすぎる。ネルガルでは十五にならなければ交渉の相手とは見なされない。どんなに頭がきれても。
「それがうまくいきましたら、次はネルガルと同盟星としての条約を結ぶつもりです」
これこそがルカの狙い。だが前代未聞だ。今までネルガルは異星人の星に属国、隷属は認めたが同盟国を認めたことはない。全宇宙の星は我が星に跪く。これがネルガル人の考えだ。
「わかりました」と、法学者はその草案を受け取る。
「それにこの憲法はあくまで暫定的なものです。ネルガルからの圧力がなくなった時点で、無効にします」
ルカはくどいようだがもう一度その言葉を繰り返した。
ルカは今のボイの雰囲気を壊したくはなかった。だが一時でも、この憲法が成立し試行された後、また今のボイのように戻ることが出来るだろうか。出来ることなら今のボイをこのまま存続させたい。
法学者たちは頷くと部屋を出た。
ハルガンは法学者たちが完全に去ったのを見届けてから、キネラオたちが居るのを承知で話を切り出した。
「軍隊を作るのもいいが」
軍隊が必要だ。と言ったのはハルガンのくせに。
「自分で自分の首を絞めるようなものだな。いざとなれば、何時奴等が殿下に銃口を突きつけるか知れたものではない」
そのハルガンの言い方にキネラオたちは嫌な顔をする。
「我々が、信じられないと」
「ああ、お前らはボイ人だからな」
「ハルガン!」と、ルカは忠告する。
ハルガンはニタリとすると、
「俺は、ネルガル人も信じていないんだ」
ハルガンが言わんとすることは、この部屋にいる者は全員わかっていた。
「ハルガン、その時は、速やかにネルガルへ戻れ。私の供として来た者全員を連れて。これは命令だ」
いつにないルカの強い口調。
「人質は、私ひとりで充分だ。復讐なら、ネルガルに戻ってからにしろ。ただし、相手を間違えるな。相手は、私の実の父親だからな」
これにはクリスが驚き、自分の小さな主の顔をまじまじと見る。
ハルガンは俯くと微かに笑い、
「俺は目くらじゃねぇー、これでも人より目はいい方だと思っているぜ。俺に言わせれば、お前の親父も犠牲の一人さ。本当の敵は、ネルガルの仕組みそのものさ。それを破壊しなければこの悲劇はいつまでも続く」
その点ではハルメンスと考えは同じ。
ルカはハルガンをじっと見る。
「破壊」
「そうだ」
ハルガンと目と目が合った。
「それでは首の付け替えにすぎない。力で奪ったものは所詮それだけのもの。また力で奪い返される」
「では、お前ならどうするつもりだ」
ルカは考え込んだ。
「みろ、答えがねぇーだろう」
「否、ある」
「何!」
ハルガンは驚く。こいつ、既に答えを持っているのか。
「改革だ」
「改革?」
「内側から新しく作り直す」
ハルガンは大笑いをした。期待しただけに笑いが止まらない。
「馬鹿か、そんなこと出来れば、とっくに」
主を平然と馬鹿呼ばわりする。しかも皆の前で。
「新しく作る前に、更地にした方が早いと言っているんだ」
話しは平行線だ。時間をかけてでも穏やかに改革を進めようとするルカと、革命で全てを破壊した上で一気に新たに作り変えようとするハルガン。
「あなたも、ハルメンス公爵と同じ考えですか」
ルカはこれ以上話しても無駄だと悟ったのか、立ち出すと縁側から庭へと降りて行った。
「そんな甘い考えで、何が出来る!」
ハルガンはルカの背に怒鳴りつけた。時間が経てば経つほど犠牲になる惑星は増えていく。それほどまでに今のネルガルは金の亡者と化していた。この貪欲は、誰かに止めを刺してもらわない限り、既に自分では止めることが出来なくなっている。
「ハルガン」と、レイが咎めたが、ハルガンはいらいらしげにテーブルの前で胡坐をかくと、
「悠長すぎる。そんな悠長なことを言っていては」
ハルガンは思い立ったかのように三人のボイ人を睨み付けた。
「いいか、覚えておけ。奴に銃口など向けてみろ、奴が何と言おうとこの俺が許さないからな」
ハルガンの凄み。キネラオはうっかり頷いてしまった。
本当にあいつを必要としているのはボイ星などではない。ネルガル星こそあいつが必要なのだ。こんなくだらない所で、あいつを殺されてたまるか。
リンネルはいつからそこに居たのか、ハルガンが気づいた頃には縁側の隅にじっと座っていた。彼は作戦にはあまり口を出してはこない。作戦は参謀が立てるもの。武人はそれを実行するのみ。これが彼のモットーのようだ。
ハルガンはリンネルの姿を見て黙り込む。
「奥方様は? ご一緒では」
「やった」と、ハルガンが一言。
「何を?」
「犬も食わないって言う、あれさ」
リンネルはハルガンの説明がわからず、レイを見た。
「少し些細な行き違いがあれまして」
それでボイ人たちも暫しハルガンの恫喝は忘れ、
「さて、どうするか」
誰が言ったでもなく、今残っている人たちの心の中にはその言葉があるようだ。草案はできたものの夫婦仲の方が。あのご気性、下手に口をだせばかえってこじれる。傍観を決め込むしかないか。
シナカはどたどたと自室へ戻ると、ぴしゃりと扉を閉めた。
「姫様」と、ルイが情けないような声をだす。
扉の音に驚きウツギがやって来た。
「どうしたのですか」
ルイから一通りの話を聞く。
気性の激しい姫のことだから、いつかはぶつかると思っていたが、今までもったのが不思議なぐらいだ。相手がまだ子供だったため、姫も手加減されていたのか。
「姫、入りますよ」
ウツギは許可もないのに部屋へ入って行った。
「喧嘩、されたそうですね」
「あの人が悪いのよ、神を神とも思わない」
ウツギはシナカの前へ座ると、
「それがネルガル人だということは、最初からご存知のはずです」
「でも」
シナカはルカの言葉が許せなかった。
神を利用するだのしないだのと、神はそんな存在ではない。竜神様は本当に私達ボイ人に水と文明を与えて下さった。
「何故、竜に愛されている方が、あのようなことを言うの。それでも竜はあの方を」
「どんなことを仰せになられたのかは、私は存じませんが、それを許してでも、あの方の心の純粋さには余りあるのでしょう。だから竜は彼を愛したのです」
シナカはじっとウツギを見る。
「育ちが違うのです。何もかも同じと言うわけには参りません。これからも考え方の違いは多々出てきます。そのたびに脹れていたのでは前には進めません。お互いにじっくり話し合わなければ。殿下の方ではどうして姫が怒ったのか、わからないでいるのではありませんか」
「そんなはずないわ」
「わからないと、思います」と、ルイははっきり言う。
「困った御様子でしたから」
「ネルガル人とボイ人では、神の概念が違うのかもしれません」とウツギは言う。
ルカは池の辺の石の上で笛を吹き始めた。久々だった。ボイに着た当初はよく吹いていたが、ここのところ草案作りに明け暮れ笛を吹く余裕すらなかった。今では唯一これがルカの娯楽のようなものだ、池で泳ぐことも出来ないし。シナカは泳いでもいいと言ってはくれたが、やはり、あまり行儀のよいことではないから、と自分から自粛していた。
「久々ですね」とレイ。
「竜の子守唄ではないのですね」と、言ったのはホルヘ。
「竜の子守唄って、ボイにもそういう曲があるのか」と、ハルガンは驚いたように訊く。
あらゆる面でナオミ夫人の故郷と重なるこの星。
「そう言えばこの星へ来て、あの曲を一度も吹いてはおりませんね」と、キネラオ。
彼ら二人は、ルカが一度ネルガルで吹いているのを聞いたことがある。
「一部音が違うところがありますが、ほぼ私達の星に伝わる曲と同じです」
その時だった、いきなりルカがバランスを崩して池に落ちた。否、落ちたと言うより引きずり込まれたという感じだ。
まずいと思ったハルガンは慌てて池の方に飛び出したが、それより早くリンネルが止めた。
「心配はいらない」
「落ちたぞ」
「否、飛び込んだのだ」
「俺にはそうは見えなかったが」
「俺も」と同意したのはケリン。
だが辺をよく見ると、もう一つ人影があった。
「レスター!」
奴も助けに行こうとはしていない。
ハルガンはレスターに駆け寄った。後からケリンたちも続く。
「何で助けない?」
「必要がないからさ」
「必要がない? 落ちただろー」
ハルガンは池を指し示して言う。
だがハルガンのその質問には答えず、レスターは去ろうとした。それを止めたのはリンネルだった。
「お前にも、白蛇が見えるのか?」
リンネルは白蛇がルカの足に絡みつくのが見えたから、助ける必要はないと判断した。ヨウカさんが遊びに来たのだから。
「白蛇?」
レスターは不思議な顔をしてリンネルを見たが、
「女だ。女が奴の足を掴んで池に引きずり込んだ」
「女?」
これはハルガンたちには初耳だった。白蛇や大蛇なら聞いてはいたが。
「それなら尚更助けに行かなければならないのではないですか」
悠長に訊いてきたのはクリスだった。本当に溺れていたのでは間に合わない。
レスターは肩をつぼめるような仕種をすると、
「あの女は何もしない。俺は、脳味噌をいろいろといじられたせいか、変なものが見えるのだ。いや、生まれつきかな」
そこらへんはレスターにもわからなくなっていた。
「変なもの?」
「幽霊とでもいうのかな。あいつには憑いているんだよ、女が。初めて会ったときから」
ハルガンは怪訝な顔をした。こいつ自体が化け物みたいなのに、おまけに幽霊が見えるのか。
「どうしてその女が何もしないと言える」
これはこの場にいた者全員が訊きたいことだった。
レスターは暫し考え込んでいたが、どうせ信じてはもらえないと思いつつも話し出した。
「奴が、毒を盛られた時のことだ」
それは忘れようとしても忘れられない事件。あれ以来、ルカが口にするものは厳しく検査するようになった。
「あの女が、俺のところへ来た」
主を助けたいか。
俺が頷くと、
なら、お前の気をくれ。
「なんだか知らないが、俺が持っているもので奴が助かるならと思い、俺は承諾した」
リンネルはその話を聞いてはっとした。
ヨウカ様は確か、気をもらいに村に行くと言っていた。ここにはよい気がないから。だが戻って来るのは早かった。時間を必要としない彼女のことだからと、その時は不思議には思わなかったのだが。レスターから取って来たとは。
「承諾すると同時に俺は意識を失った」
気づけば夜は明けていた。体が鉛のように重く、地を這って移動するのがやっとだった。奴のことが気になる。すると声がするんだ。
奴は無事だ。お前は寝ろ。次に起きた時は体も楽になっていると。
「俺はその声に従った。その声は、俺が洗脳されている時も、ときおり聞こえた。お陰で俺は洗脳されずに済んだ。次に目が覚めた時は昼過ぎで、あの女が枕元に立っていた」
奴はスラム街にいる。それだけ言い残すと女は姿を消した。
「俺は、何処のスラム街だと訊きたかったのだが、不思議と奴の居場所が訊く必要もないほどわかっていた」
誰が聞いても不思議な話だ。
話しているレスター自身、信じてもらえるとは思っていないようだ。
ハルガンは暫し考え込んでいたが、まあ、いい。それより、もっと大事なことがある。
「以前からお前に一つ、聞きたいと思っていたことがある」と、切り出した。
どうしてもこの化け物の正体を知りたい。否、正体ではなく考えだ。一緒にやっていて俺たちに危害がないかどうかだ。どこまで信用できるのか。
レスターは煩げな顔をしてハルガンを見たが、話をしたついでだ、一つぐらいなら答えてやってもいいかと、
「何だ」と、訊いてきた。
「お前、一匹狼なのに、どうして奴に仕える気になったんだ」
それはハルガンお前もだろうと、ケリンたちは言いたかったがここは黙っていた。
レスターは苦笑すると、
「俺を怖がらなかったのは、クリンベルク将軍とあいつだけだからな。将軍はわかる。実力があるからな、俺など目ではないのだろう。だがあいつは、馬鹿かと思った」
ルカが三歳の時だった。あまり煩く付きまとうので、脅しのつもりで銃口を向けた。
「俺は今まで、人に相手にされたことはないからな、ましてガキなど、煩くてたまらない」
「それで銃口を」
「そしたら奴、何と言ったと思う。撃つはずない。俺は意味なく相手の生命を奪うような人ではないと」
ほっー。とハルガンは感心する。
「だから言ってやったんだ、お前を殺す意味ならあるって。煩くてたまらないと」
「そしたら」と、ハルガンは先を促す。
「この性格は生まれつきだから、直せないと。それが理由なら撃たれてもしかたないと」
ハルガンは笑い出した。
「おい、聞いたか」と、ボイ人たちの方へ振り向くと、
「あいつ、死んでもあの性格、直すきないらしいぜ。となると、ここはやはり奥方に折れてもらうしかないな」
だがシナカの気性を知っている三人兄弟は、直ぐには返事できなかった。
ハルガンはレスターの方へ向き直ると、
「だが奴は生きている」と、ニタリとした。
「つまり、銃口を下ろしたのか」
レスターの完全なる敗北。それ以来レスターは、
「なるほど、それでお前は奴が何をしても何を言っても、逆らわない訳か」
レスターはそれには答えてこなかったが、
「なるほど、なるほど」と、ハルガンは納得しながら大笑いをし始めた。
「しかしよー、おめーも随分あっさりと負けを認めたものだな」
だが人のことは言えない。ハルガンもいつしかルカに魅入られ、ずるずるとここまで来てしまった。
ハルガンは自分のことを笑うと同時にレスターのことも笑っていた。
それがレスターには気に入らなかったのだろう。気づけばハルガンの眉間に冷たい感触。
クリスは焦る。
「じょっ、冗談だ」と、ハルガンはゆっくり両手を挙げた。
「俺は冗談でも、笑われるのは嫌いだ」
「おい、よせレスター」と言うケリンの声と、池の中から何かがバシャと上がる音とが重なる。
「でっ、殿下!」
誰が叫んだのか。
「誰ですか、こんなものを持って来たのは」
「こっ、これは!」
驚いたのはここに居合わせたネルガル人全員。
ルカはハルガンを睨んだ。
「おっ、俺じゃない」と、挙げていた両手の平を振る。
「あなた以外に考えられないではありませんか。私への嫌がらせに池に投げ入れておいたのでしょ」
それは件のホースだった。本来ならネルガルのルカの館にあるはずの。
ルカは池から上がると、
「クリス、そのホース処分して下さい」
クリスは両手を振って断る。
「まずいですよ、そのホース。何か憑いていますよ、きっと」
クリスには幽霊が見える訳ではない。だが何故か、そのホースを処分すると罰があたるような気がしてならない。
それもそのはず、そのホースはヨウカのお気に入りなのだから。
「わかりました、それでは私が」
そう言ってルカがホースを持って立ち上がろうとした時、今度は本当にバランスを崩して倒れこむ。それを透かさず受け止めたのはレスターだった。
早い、あの反射神経。こいつとまともに遣り合っては勝てない。
「大丈夫か」
体が熱い。
「ハルガン、医者を呼べ」
ハルガンは慌ててルカの元へ駆け寄ると額に手をかざした。
「酷い熱だ。クリス、オリガーを呼んで来い」
一番若いクリスが走る羽目になった。
「キネラオ、バスタオルだ。それと寝室を暖めてくれ」
レスターはルカの濡れた服を脱がせると、自分の服でルカをくるんだ。
見る間にルカの顔から血の気が失せ、唇が青くなって行く。
「とにかく、寝室だ」
ベッドに寝かせる前にバスタオルで水を拭き取り、パジャマを着せる。その頃にはオリガーも駆けつけて来ていた。
「どけ!」と言う感じにハルガンたちを押しのけると、ベッドの横に立ち、ルカの口の中の粘液と血液をとり分析し始めた。
まず最初に疑うのは毒。
オリガーは前任の主治医に言われていた。まず王族が体の不調を訴えたときは毒を疑えと。
だがこれには何の反応もなかった。次は、
オリガーは一通りの検査を数分で済ませると、ほっと息を吐き、
「過労ですか。随分、根を詰めてなされたようだ。そこへ来て、池で泳いだのでは倒れない方が不思議だ」
だがハルガンに言わせれば、泳いだというよりも、この畜生、あの野郎、今度こそ捕まえてやる。と言う感じだった。
「一晩ぐっすり寝れば、元気になります」
そう言うと、冷却シートを頭の下に敷いてやり額の上にも乗せた。掛け布団を丁寧に掛けなおしてやると、道具をしまい始めた。それと同時に、一緒に付いてきたボイ人の医者にルカのサンプルを見せながら説明し始める。
「おい、それだけか。ここは戦場じゃねぇーんだ。薬を節約する必要はなかろー」
オリガーはハルガンの方を見ると、
「ボイの食事は、実に栄養バランスがいいですから、強いて栄養剤を与える必要もないでしょう」
「じゃなんだ、こいつはただの研究材料か」
病状が軽いとなると、オリガーはあっさりしていた。
「私に何かあった時、ネルガル人を診られる医者が一人もいなくては困るでしょう。腕のよい医者とは、どれだけの数の病状を実際に見たかにつきます」
「それは、そうだが」
オリガーのその言葉には誰も反論できなかった。だが何も、殿下のサンプルで。
そこへ慌ただしく駆け込む足音。
「姫様!」と、ボイ人の誰かが叫ぶ。
オリガーはにっこりすると、
「私の処方する薬より、もっとよく効く薬が届きましたよ」
そう言うとオリガーは場所を空けた。
シナカはルカに駆け寄る。
白い顔。だがもともとルカは色白だ。どこまでが正常でどこからが病気なのか、まだ今のシナカには見分けがつかない。
心配そうにオリガーの方へ振り向くと、
「心配には及びません。疲労のようです。一晩よく寝ればすぐ回復いたします。もう熱も下がられたと思います」
今はルカは、すやすやと寝息を立てていた。
「有難う御座います」とシナカはオリガーに対し、深々と頭を下げた。
オリガーたちが出て行ってからもシナカはルカの傍にいる。
「では、俺たちも。寝れば直るそうだから」と、ハルガンたちも部屋を後にした。
レスターはいつの間にかいなくなっていた、奴の服までも。
あいつ、何時の間に。
ハルガンたちが去ってからも、ずっとシナカはルカの傍にいた。
「代わりましょうか」と言うレイの言葉に、いいえ。と答えて。
ボイのためにこんなに頑張ってくれていたのに、私は。
その時ルカが微笑んだ。まるでシナカを許すかのように。
ルカは夢を見ていた。
「おい、カロル。そっちへ行ったぞ」
ここはネルガルのルカの館。池の中。二人は網を持って右往左往している。
「いや、そっちだ、ルカ」
二人は白蛇を挟み撃ちにした。
「やったぜー」
どちらが叫んだのか。その声でルカは目を覚ました。
腕に重み。
見るとシナカが自分のベッドの脇に寄り添って寝ていた。
シナカ!
「風邪、ひきますよ」
ルカのその言葉でシナカは目を覚ました。
さっと長い腕を伸ばし、ルカの額に手を当てる。
「熱、ひいたみたいね」
「心配かけました」
シナカは軽く首を横に振ると、
「オリガーさんはもう大丈夫だと言って下さったのですが、顔色がいつまでも白いもので。でもよくよく考えると、ボイ人ではないのですから、よくなったところで赤くなるわけではないのよね」と、シナカは笑う。
だがルカの白い顔から死を連想させられて本当に怖かった。
ルカはもう一度心配かけたことを詫びる。
シナカはまた首を軽く横に振ると、
「随分、楽しそうな夢を見ていたようですね」
「ええ、久々にカロルの夢を見ました」
カロル、ルカの唯一の親友。
「カロルにも白蛇が見えるのです。それで二人で白蛇を捕まえようと池に網をかけたのですが、その網に入ったのは何だと思います」
さぁー、とシナカは首を傾げる。
「ハルガンの靴ですよ、それも左足だけ、六足も」
ここら辺の数はもう適当だった。
「どうして?」
「彼、靴を人にぶつける癖があるのです。あの調子ではまだ落ちていますよ、きっと」
そう言えばボイに着てから、その癖を見かけない。
彼も彼なりに、何か思うところがあるのか。
「まぁ、あのような紳士な方が」
相変わらずハルガンは、公衆の面前では卒のない振る舞いをしていた。
「どこが紳士なものですか」と言うルカの言葉に、縁の下で聞いていたハルガンは、
「あの野郎」と、立ちだしそうになるのをケリンが必死で留める。
「いいではありませんか、曹長を肴に、仲直りができたのですから」
「よくない」
「あっ、そうだ」
ルカの弾む声に、ハルガンとケリンは息を潜める。
「腕の良い鍛冶屋を知りませんか。カロルの元服のお祝いに、一振り贈りたいと思います」
心当たりは何人かいた。
「それでは午後にでも邸に呼びましょう」
「いえ、それでは失礼になります。頼むのは私の方ですから伺いましょう」
「起きても大丈夫なの?」
「ぐっすり寝たら、さっぱりしました」
朝食前にホルヘがやって来た。国王夫妻が大変心配され、様子を見てくるように言われたらしい。それにホルヘ自身も気になっていた。
「心配おかけしました。と、お伝えてください。朝食には伺います」
そう言うとルカは起き出した。
心配そうに見詰めるシナカとホルヘ。いくら大丈夫だと言われても顔色が、正常なのか異常なのか、ボイ人の二人にはまだ判断がつきかねた。
そこへオリガーがやってきた。昨日、ああは言ったものの、診断ミスはないと思うが、とりあえず様子を見に来た。
「お早う御座います。元気そうですね」
「昨日は、お手数かけました」
オリガーはルカの所へ来ると、
「とりあえず、脈と体温だけ診させてもらえるかな」
ルカは腕をだす。
手首を軽く装置で挟むだけで瞬時に結果は出た。
「やはり子供は回復力が早いな。羨ましい限りだ」
オリガーだってそんな年ではないはずなのに。
オリガーはシナカの方を向くと、
「今日は天気もよいことだし、町へでも繰り出したらいかがですか」
オリガーは、この二人が邸の中でじっとしていないことは百も承知だった。それなのにここ数日、憲法の草案作りだなどと言って邸にこもっていたのが、ストレスの一因だと診断している。
「よろしいのですか、出歩いて」
「どこも何ともないですからね」
シナカは嬉しそうな顔をする。
オリガーも、もう私の仕事はここで終わりと言わんばかりに部屋を出て行った。
「面白い方ですね、あまりにもあっさりしていて」
「転んで膝をすりむいたぐらいで、俺を呼ぶなというところですか」
ルカのその物言いに、シナカは笑った。
「ですが、次の日にきちんと様子を診に来るところなど、やはり名医の証拠ですね」と、ホルヘは感心する。
午後、ホルヘの案内で一軒の鍛冶屋を訪ねた。既に先触れがあったのか、鍛冶屋は時間を空けて待っていてくれた。
「すみません、お仕事中」
「いいえ、丁度一段落ついたところですから」
中へと案内される。
土間に座り、友人への贈答品の依頼をした。
剣の大きさやデザインが決まったところで、ルカはいつも腰に下げている笛を取り出すと、
「刃の根元に、これと寸分違わない柄を彫っていただきたいのですが」と、笛に彫り込まれている竜の絵を見せた。
こうすれば一目でこれが誰からの物か、カロルにはわかる。
鍛冶屋はその絵を見た瞬間、黙り込む。暫し考え込んだ後に、
「殿下、この絵を彫り込むと言う事は、竜の御神体を作るのと同じことなのです。それにはまず、白竜様にお伺いをたてなければなりません。私どものような者が作ってもよろしいのかどうか」
「伺いをたてるって。どうやって?」
「その笛を一晩お借りしまして、枕元に置き床に着くのです。さすれば白竜様が夢枕にお立ちになり、許可を与えてくださいます。万が一、許可がおりなかった場合は、他の方をあたってください」
ルカは驚いた。許可が出ないということもあるのか。
「私はこれより体を清め、食を断ち、私の生命をその剣に入れる覚悟で作ることを白竜様にお伝えするつもりです」
「少しお待ち下さい。私はそのような大それたことを頼みに来たのではなく、ただ剣を一振り。この竜の絵は私からだという目印のつもりで。現に旗を作るときなど、そのようなことをしたとは聞いておりません。おそらく機械で自動で」
「軍旗のことを仰せですか」と、ホルヘ。
ホルヘは軍旗をネルガルのルカの館で見ている。
ルカは頷く。
「あれは、白竜様によく似ておられますが微妙に違います」
それは母も言っていた。どこがと訊いても、答えてはもらえなかったが。
ルカが不思議な顔をしていると、
「魂が入っていないのです」
「魂?」
「魂の入った竜は、目を閉じております」
ルカは笛を見た。確かに目は閉じている。だがこの目、開いているような時がある。否、そもそも閉じていただろうか。
ルカは疑問に思った。いつも、開いていたような気がしていたが。
ルカはまじまじと笛を眺めた。いままでずっと肌身離さず持っていたが、竜の目、開いていたのか閉じていたのか、定かではない。
「お借りできますか」
「別にいいですけど、枕元に置いても、何も変わらないと思いますが。現に私はずっと枕元に置いておりますが、竜が現われたことなど一度もありません」
「それはあなたが信じないからよ」と、シナカ。
そう言えば、母にも似たようなことを言われたことがある。
「白竜なんて」と、ルカは言いかけ、神を信じて生きる生き方もあると、ハルガンが言った言葉を思い出す。ここでは迷信とは言えない。
この人たちは竜神を本当に信じて生きているんだ。否定してはいけない。
でもやっぱり、迷信だよなー。とルカは心の中で呟く。
「でも不思議ですね、どうして竜はあなたのような方を愛されたのか」
「私は別に、竜に愛されたことはありません。竜に会ったことすらないのですから」
「でもその笛、あなたのでしょう」
「それは、母や村の人達がそういうものですから、仕方なく預かっているだけです」
仕方なくねぇー。とシナカは呟いたが、何も言わなかった。
ルカは笛を袱紗にしまうと、鍛冶屋に差し出す。
鍛冶屋は、暫し。と言うと部屋の奥から塗りの美しいお盆を持って来て、その上に紫の袱紗を敷き、改めて笛を押し戴くと、重々しくそのお盆の上に置いた。
ルカは心の中で、少し待ってくれと叫んでいた。いままで笛をぶん投げたり蹴飛ばしたりしてきた。カロルの頭を叩くのにはもってこいの道具ですらあった。乱暴に扱ってきた割には笛には傷一つない。竜木とは、意外に丈夫な木なのだなーと感心するほどだ。がしかし、このように度がすぎるほど丁寧に扱ったことはない。
「たかが笛ですよ」と言った瞬間、ボイ人たちに睨まれた。
「これは白竜様の御神体ですよ。あまり粗末に扱うと、罰があたりますよ」
ルカは何も言えなかった。今更そんなことを言われても遅い。
シナカはつくづく不思議に思った。どうして竜神様はこの人を愛されたのだろうか。
次の日鍛冶屋が一人の女性と供に現れた。
「お笛様、お返しに伺いました」
笛に御と様を付けるな。とルカは心の中で叫びながら、
「それで?」と、冷静さを装い訊く。
「打たせていただきます」
「白竜から、許可が?」
「はい」
ルカはつくづくボイ人がわからなくなった。
「して、隣の方は?」
「私の娘です。図柄の方を」
娘は畳に手をつくと丁寧にお辞儀をし、
「私が、御神体を彫り込ませていただきます」
「私は刀は打てますが、柄の方は彫れませんので、誰がよいかとお伺いいたしましたところ、娘に彫らせればよかろうとの事でございましたので」
「それでは、親子でやってくださるのですね」と、シナカは嬉しそう。
ルカはつくづく信じがたいと頭をかかえた。
「どうなさいました、あなた」
「いや、なんでもない。それより、食事のことだが」
食を断ったのでは。
「それでしたら、白竜様に言われました。食を断ったのでは力が入るまいと。よいものも出来ぬと。中途半端なものをあなた様に持たせることは許さないと」
えっ。とルカは驚く。まあ、中途半端だろうとどうだろうと、そんなことはどうでもよいが、白竜とかいう奴は、どうやらまともなようだ。誰が化けているのかはしらないが、少なくとも彼のお陰でこの星には争いがない。まあ、その存在、よしとするか。だが、
「一度その白竜様という方にお会いしたいですね」
ルカのその言葉にボイ人たちは驚く。
会うと言う事になれば、私達より殿下の方が確率が高い。竜に愛されておられるのだから。少なくとも過去に一度お会いしておられるはずだ。
「あなた。竜神様は会うとか会わないとかではなく、信じれば自ずと姿を現してくださるのです」
ルカは黙り込んでしまった。理解しがたい。
シナカはやれやれという思いでルカを見る。どうしてこの人が、愛されるわけ?
「あのー」 ルカは彼らとの間に相当なギャップがあることを知りつつも、訊かずにおられなかった。
「竜神様って、どんなお姿をしておりました?」
「あなた様の様なお姿です。なにしろ夢ですので、はっきりとは覚えておりませんが」
「私のような?」
「はい」と、鍛冶屋は頷く。
「つまり、ボイ人ではなく、ネルガル人のような姿をしていたというのか」
鍛冶屋は頷いた。
「我々がネルガル人から酷いことをされても、あまり敵意を抱かないのはそのせいです」
不平等条約を始めとするこの星でのあらゆる特権。だがボイ人たちはそれに対して表立って不平を言わない。そこにはある意味、彼らは神の使者だからという思いがある。
「おそらく、ネルガル人ではなくイシュタル人なのだろう」
イシュタル人。ネルガル人が悪魔と呼び忌み嫌っている星人。もとを正せば同じネルガルの一民族。そのため姿形はネルガル人とそっくり。
「イシュタル人って、あの悪魔の」と、言ったのはボイ人の方だった。
今ではネルガル人の宇宙観がそのまま他の惑星の人達の宇宙観にもなっている。
「おそらくそうでしょう。あなたが私にあって最初に話しかけた言葉は古代ネルガル語。神の言葉だと言っておられましたが、今あの言葉を使うのはイシュタル人だけです」
彼らは今でも何千年も前にネルガルでは使われなくなった古代ネルガル語を使っている。
ルカは考え込む。そんなルカをホルヘはじっと見詰めていた。
この方には一度、あれを見せた方がよいのかもしれない。陛下にお頼みして。
議会では憲法をめぐって、喧々諤々の議論が続けられていた。ルカは結果が出るまで暇だった。後は彼らが納得する法律を作ればよい。ただしそれがネルガル人に通じるものでなければならない。
「暇そうですね」
縁側で池を眺めていたルカにシナカは声をかけた。
ここのところキネラオもホルヘもサミランも姿を見せない。よほどもめているのだろう。だがあれを作らないことにはネルガルとの交渉は出来ない。なぜなら憲法がないような国をネルガルは国と認めないから。
「議会が気になります?」
シナカはルイが用意してくれたお茶を点てながら。
キネラオからは議会に出席したらどうかと勧められたのだが、ルカはそれをあえて断った。
「気にならないと言えば嘘になります。でも後は、ボイ人に任せるしかありません。この星はボイ人の星なのですから」
シナカはお茶をそそぎルカに渡す。
ルカはそのお茶をすすりながら、
「シナカ、私に刺繍を教えてくれませんか」
「刺繍ですか」と、シナカは怪訝な顔をしてルカを見る。
「私が刺繍をするのはそんなに不思議ですか」
「そうではありませんけど」
でも似合わないような気はする。
「ボイの人達は皆さん、何かできます。ですから私も何かと思いまして。丁度刺繍の先生でしたら近くにおりますので」
「まぁ、先生だなんて」と、シナカは頬を少し赤くし、
「いいわ、教えてあげます」と、承諾した。
「お願いします」と、ルカは頭を下げた。
それで基本的なステッチから教わったのだが、なにしろ不器用なルカのことだ、布に針を刺すより指に刺す回数の方が多かった。
「痛っー」と、指をくわえるルカ。
「また」と、シナカは呆れる。
いつしか白い布はルカの血で赤くなった。
指先のバンソーコも増える。
「でも、器用な人ね。どうやれば右手の中指、しかもお腹のほうに針を刺すことができるの」と、シナカはバンソーコを貼ってやりながら感心する。
「そう言うところで感心しないで下さい」
そういう日が何日か続いた。
食事の時に顔を合わせるたびに、指のバンソーコが増えていくルカを見て、王妃は心配する。
「どうなされたのですか、その指?」
ルカは慌てて両手をテーブルの下に隠すと、
「何でもありません、ちょっと」
シナカは笑う。
「ちょっと、刺繍の練習をしているのよね」
「しかし、それにしては」
バンソーコの数が多すぎる。
王妃は納得しかねていたが、
「きっと、先生の教え方が下手なのでしょう」
「おっ、お母様!」
同席の者達は笑った。
部屋へ戻ってから、シナカはルカに文句を言う。
「もー、あなたが下手だから、私がとばっちりを受けたわ」
「ご免」
「そんな、素直に謝らなくとも」
この件に関してだけは、ルカには弁明の余地はなかった。
そこへキネラオたちが議会でもめにもめてやっと出来上がった憲法を持って来た。
「目を通してくださいますか」
ルカはそれを受け取ったが目を通す気にはなれない。そのまま横に置くと、
「後で」と、断る。
「何か、お気に召さないことでも」
「いいえ、そういうわけではありませんが」
ルカは気が進まなかった。そもそもこの星に憲法などいらない。
「今通されたほうがよろしいかと存じます」と言ったのはレイだった。
レイは既に一部を受け取り目を通したようだ。と言うより、議会にルカの代理で参加していた。
「あなたが居たのですから、間違いはないでしょう」
レイは苦笑する。
「その御様子では、後では二度と通しませんから。これはボイの人達が一生懸命作られたものなのですよ」
ルカは暫し黙り込んでいたが、そうかもしれない。それでは苦労して作ってくれた人達に失礼にあたると思い、草案を読み出した。
その速さ、尋常ではない。あっと言う間に最後まで目を通してしまった。
「いかがです?」とレイ。
「ほぼ単語は網羅してありますね」
とりあえず形は出来ている。
「多少、訳の上で解釈が違うところがありますが、よほどボイ語に長けていなければ気づかないと存じます」
レイは自分がネルガル人であることを棚に上げて言う。
ルカはキネラオたちの方を向くと、
「これで大丈夫だと思います。次は交渉ですが、こちらは近いうちに宰相と細かい打ち合わせをいたしましょう。ネルガルのやり方を教えます。それとその打開策も」
キネラオと法学者は頷いた。
刺繍は下手なのに、こういうことには抜け目がない。
憲法が国民に発布されるころには、ルカの刺繍も出来上がりつつあった。
「こりないねぇー」
「まだやっていたのですか?」
「途中で投げ出すかと思っていたのに」
「俺なんか、投げ出すほうに賭けちまったぜ」
守衛たちの会話。
「煩いですね、あなたたちは。もう少しで出来上がるのです、あっちへ行っててください。気が散る」
ルカは真剣だった。ひと針ひと針が。
額の汗を拭って、最後の一針。
「やったー。完成だ!」
その声に守衛たちが振り向く。
ルカが枠を持ち上げた瞬間、何故か自分の服まで持ち上がった。
はっ? と思い刺繍の裏側を見る。
しっかり自分の服まで刺していた。
守衛たちが笑い出す。
ルカは唖然としてしまった。
どうする。せっかく刺した刺繍を壊すか、服を切るか。
考えあぐねた結果、ルカは糸きり鋏を持ち出すと、刺繍の糸を切りにかかろうとした。服は、シナカが私のために作ってくれたものだから。
その時、何処からともなく裁ち鋏が現れ、ルカの服をざっくりと切ってしまった。
ルカはあっ! と顔を上げると、シナカが鋏を持ってにっこりしている。
「せっかく作ったのですから、壊してしまうのはもったいないわ」
「でも」
「そのぐらいの穴なら、どうにでもできるわ」
数日後、ルカの刺した花の刺繍は、きれいな額に入れられサミランが持って来た。それと同時に、あの穴のあいたルカの服は、数箇所似たような穴があけられ綺麗に刺繍され、まるで別の服のように生まれ変わっていた。
すごいとしか言いようがない。
ルカはそれらをしみじみ見ると、
「なんだかこれでは、枠の方が立派に見えます」
「そうでもないわよ、初めてですもの、これだけできれば充分よ」
とは言ったものの、この人に刺繍は向いていないとシナカは心の中で思った。
ルカもそれを感じたのか、それとも自分の実力を納得したのか、
「私には、こういう細かいことは無理のようです」と、サミランを見ると、
「木工細工を教えてくれませんか」と言い出した。
この枠ぐらいなら、自分にも作れるだろうと。木工は刺繍より細かくないから。だがその考えが甘かったことは直ぐに実証された。のこぎりの使い方、かんなのかけ方、どれ一つとっても一筋縄ではいかない。あげくに金槌に至っては、
「痛―い」
釘を打つつもりが、指を、しかも思いっきり打ち据えた。
直ぐに冷やしてくれたものの、指は見る見る腫れ、爪はドドメ色と化した。
オリガーはボイの医師にルカの爪を診せると、
「この爪は既に死んでおりますから、下から新しい爪が生えると同時に剥がれます」と説明する。
「それは、ボイ人も同じです」
「そうですか」と言いつつ、オリガーはルカの指を消毒すると包帯を巻いた。
私は標本か。と言いたくなるようなオリガーの口ぶり。
食事の席で、ルカの指の太く巻かれた包帯を見て、王妃は心配する。
サミランは申し訳なさそうに俯く。
「別にあなたが悪いわけではないのです。私が不器用なだけで」
ルカはホルヘに銀細工だけは教えてくれと申し出なかった。あんな細かいこと、できるはずがないと最初から諦めていたから。だがそれ以外のものは一通りやってはみたが、どれもうまくいかなかった。
「本当に不器用な人ね」
竜の紋章を見た時からわかってはいたが、これほどとは思わなかった。
ルカはすっかりしょげてしまった。
「殿下、何も作るだけが能ではありません。音楽でしたら」と、言い出したのはサミランだった。
サミランのその言葉は、私にもルカの自信をなくさせた一環はあると責任を感じての一言だった。
「そうですよ、殿下には笛があるではありませんか」と言い出したのはキネラオだった。
「明日、ヒベスを連れて参ります。彼は笛の名手なのです」
次の日、サミランは約束どおりヒベスを連れて来た。ヒベスの妻、キササも一緒だ。彼女は竪琴の名手で、この二人の奏でる音は湖に眠る竜ですら呼び寄せると言われている。
「お初にお目にかかります」と、二人はルカの前で丁寧に挨拶をした。
「笛がご趣味だと聞き及んでおりましたので、お声がかかる日を待ちわびておりました」
「ご趣味と言うほどでは、私はそんなに笛がうまいわけでもありません。母からもさじを投げられたほどで、それでも一曲だけはと言うことで、母は一生懸命教えてくれましたが」
それが竜の子守唄。これが吹けないことには村に災いが起こると。
ルカの不器用は徹底していた。しかし、すらりと細く伸びた白い指を見る限りでは、器用そうに見える。
器用、不器用は指の形ではないのですね。とナオミはよく溜め息を吐いたものだ。
「何か、吹いていただけませんか」
「そのつもりで参りました」と言うと、ヒベスは笛をキササは竪琴を構えた。
美しい音色。さすがは夫婦、二人の呼吸はぴったりだ。
「ボイの民謡です」
「きれいな曲ですね」
二人の演奏に邸の者たちは呼吸をするのも忘れたかのように静かに聞き入った。
いつ集まったのか、演奏が終わると周囲から大きな拍手。
さすがに竜は出て来なかったが、代わりに守衛たちが笛の音に釣られて現われた。
「殿下にしてはうまいと思ったら、やっぱり殿下じゃなかったんだ」
開口一番の台詞。守衛たちは納得する。
納得されたルカの方は、何とも言えない気持ちだったが、これほどまでに吹かれては諦めるしかない。
「サミラン、連れてくる相手を間違ったな。これじゃ、殿下が」
「そうだよ、もっと下手な奴、連れてこなきゃ」
ルカはむっとした。
それが守衛たちにわかったのか、皆で笑い出す。
だがヒベスは困った顔をした。どう対処してよいやら。
「気にしないで、彼ら、いつもこうなの。ネルガル人って変わっているのよ。主を主とも思わないのですから」と、シナカが言うと、
「そうでもないのですよ、あれでいざとなると」と、ルイが守衛たちの味方をした。
誰もがルカのために命を投げ出す覚悟だ。
「上手ですね」と、ルカはもう一度大げさに拍手をする。
「有難う御座います。殿下もいかがですか」
ルカは慌てて両手を前に出すと、掌を振った。
「とっ、とんでもない。私なんか」
先ならまだしも、これだけの笛の音を聞かされた後では、吹けるはずがない。
紫竜は弓の名手でもあると同時に、笛の名手でもあった。
「ボイにも竜の子守唄という曲があるそうですね。よかったら聞かせてもらえませんか」
「ええ、今度の祭礼で吹くことになっておりますから」
今度の祭礼、竜神様の祭りだ。弓の腕試しがあるとルカは聞いていた。そのためシナカはルカの目に触れないところで弓の練習をしている。おそらく私は出席できない。だが皇太子の席が空いていたのでは。この星の一番メインの儀式に、ネルガル人である私が参加しないと言う事は、この星のアイデンティティーを否定することになる。それだけは避けたい。これがルカのここ数日の悩みだ。
しかし何故、よりによって弓の腕試しなのだ。プラスターにでもすればよいのに。否、ここは平和的に笛と太鼓でよしとすべきだ。
ルカの独り言がリンネルに聞こえたのか、
「紫竜様を称える祭りですから、紫竜様は弓の名手だそうです」
おそらくエルシア様も。
ルカは一瞬リンネルに視線を向けたが直ぐに宙に漂わせ、一度、弓と対峙してみるか。何故自分が弓を怖がるのか、その原因さえわかればどうにか克服できるような気もしないでもない。
「どうかなさいましたか」
ルカが宙を仰ぐような恰好をしていたのでヒベスは尋ねる。
「いいえ、何でもありません」
「では、お言葉に甘えましてもう一曲」と言ってヒベスは件の曲を吹き出した。
所々音が違うところがあったが、全体を通せば同じ曲。おそらく伝承されていく間に少し音がずれたのかもしれない。
「この曲って、こんなにきれいな曲だとは思わなかった」
ルカが吹いている時もきれいな曲だとは思っていたが、ここで改めてこの曲の美しさを思い知らされたという感じの守衛たちの反応。
どうせ私が吹いたのではとルカは思いつつも、そうだ! とあることを思い付いた。
ルカはベルトに差してある笛を出すと、
「この笛で、もう一度その曲を吹いてはもらえませんか」
これだけ美しく吹くのだから、もしかして。とルカは思った。
「かまいませんよ」と、ヒベスは笛を受け取ると、もう一度吹き始めた。
なんという美しい音色だ。
「あの笛って、こんな美しい音を出すのか」
守衛たちがまたまた感心する。
ルカまでもが唖然としてしまった。自分には絶対出せない音色だ。
吹き終わると、ヒベスは笛をルカに返した。
「素晴らしい笛です。こんな笛、初めてです。誰の作なのですか」
そう言われてもルカに知るよしはない。
「これは、母の故郷に昔から伝わっている笛だそうです。もう何千年もだそうですが、見る限りでは何千年も経っているようには見えません。せいぜい二、三百年ぐらいでしょうか」
「そうですか」と、ヒベスは少しがっかりしたようだ。
「作者がまだ健在でしたら、私にも一本作ってもらおうかと思いまして」
「あなたのような方に吹いてもらった方がこの笛も喜ぶでしょうから、差しあげたいのはやまやまなのですが」と、ルカが言いかけた時、
「この笛はあなたの笛です。どんなに下手だろうと、あなた以外の者が吹くことは喜ばないでしょう」
えっ! とルカが驚いた顔をすると。
「ここ数日、拝聴させてもらいました。もう少し呼吸を丁寧になさると、より美しい音が出るようになりますよ。笛を吹くというよりもは、命を吹き込むという感じで」
ルカは何と答えてよいかわからなかった。
「妻の琴と合わせてみませんか、笛の音を引き立たせてくれます。妻も池の辺で笛を吹いている殿下のお姿を拝見して、一度合わせてみたいと申しておりましたから、今日連れてまいりました」
ルカは弱った顔をしながらも、
「あのー、一つだけ訊いてよろしいでしょうか」
「何でしょう?」
「先程の曲を吹いている時ですけど、あのー、そのー」
ルカにしては歯切れが悪い。
ヒベスが怪訝な顔をしていると、脇から、
「幽霊を見なかったかって」
「少女の」と言ったのは守衛たちだ。
ヒベスはますます怪訝そうな顔をしてルカを見る。
ルカは少し俯き加減に笛を見ながら、
「この笛であの曲を吹くと、少女の幻覚を見るのです。あなたも見ないかと思いまして」
見るのはルカだけ。他は誰に吹かせても見ないようだ。やはりヒベスも同じ答えだった。
「やはり、私だけなのですね」
「それが何か?」
「あまり悲しい顔をするものですから」
ルカはその曲を吹くのを止めた。
ボイ人たちは顔を見合わせた。竜に関する話はいろいろ聞くが、笛を吹くと少女が現われるという話は初耳だった。
「いえ、気にしないで下さい」と、ルカは明るく振舞った。
「きっと酸欠で脳が幻覚を見せるのかもしれません」
よく風船を膨らましたりすると頭がくらくらするのと同じ原理。だが母は、私が幻覚を見るようになってから笛を教えなくなった。これで私の役命は終わったといわんがごとくに。
「呼吸の仕方が下手なのかもしれません」
ルカはそれで自分を納得させるしかなかった。
次の日から、ルカは弓と対峙することを決意する。
キネラオに頼み、小さな弓を用意してもらった。これなら刺さっても死ぬほどのことは無いと思えるほどの。
座敷の中央に箱がある。その中にそれが納まっているのだが、
「自分で開けてみます」
「大丈夫なの」と、シナカは心配そう。
「祭り、欠席するわけにはまいりません。試合の方に参加できなくとも、せめて会場で応援ぐらいできなくては。私の妻が出るのですから」
「まぁ」と、シナカは顔を赤くする。
キネランとホルヘは顔を見合わせた。
ルカは震える手を箱に伸ばし紐を解いた。箱の蓋をそーとずらすとその中から五十センチほどの弓、それを見た瞬間、ルカは蓋を閉めると駆け出した。まるで生首でも見たような勢い。縁側に行くとそのまま吐いた。
「大丈夫、あなた!」
ルカは呼吸を整えると、平気ですと言うように汚れた手を軽くあげる。
「ルイ、お湯とタオルを」
ルイが急いで湯をはった桶とタオルを持って来た。
シナカはタオルを濡らすとそれでルカの口の周りを拭いてやり、手を洗ってやる。
「大丈夫?」
ルカは少し落ち着いたのか顔をあげると、
「どうしてあんな物が私は怖いのでしょう。たかが五十センチの弓ですよ、おもちゃではありませんか」
自分に言い聞かせているつもりだ。だが、あの箱の中の物を想像しただけでも手が震える。
「あなた、無理しなくともいいのよ」
「でも、今度の祭りはボイの人達にとっては、この上なく神聖なものなのです」
竜神、自分たちの命を育んでくれる水への感謝の気持ち。
「風邪をひいたということにでもすれば」
「そんな」
ルカは考え込んでしまった。最悪の場合はその手を使うしかないか。だが、まだ。
「まだ祭りの日までは時間があります。それまでに」
ルカはこの恐怖を克服しようと思った。
キネラオとホルヘは考え込んでしまった。ルカの弓に対する異常なほどの恐怖心。彼は前世で弓によって殺されているのか。
その日からルカは、リンネルに頼み弓を箱から出してもらい、部屋の片隅に立てかけさせた。
こうして少しずつ眺めれば。
最初は廊下の方からしか眺めることが出来なかった。否、その廊下を通ることすら怖かった。だが次第に慣れてゆき、どうにか部屋に入れるようにはなったが、だが風の音でも、叫んで飛び出してくるありさまだった。
呼吸は荒く、顔は蒼白、全身嫌な汗をかいている。
廊下で突っ伏して呼吸を整えているルカを、シナカはそっと抱きしめた。
「もう、止めた方がいいわ。体調がすぐれないと言えば」
ルカは軽く首を振る。
「いいえ、そう言う訳にはまいりません。私がボイ人ならそれでも済むでしょう。でも私はネルガル人ですから」
ルカはシナカを押しのけて床に座った。
「弓が怖いなんて、誰が聞いてもおかしいです。私自身、おかしいと思いますもの。格式高いボイの儀式に参加したくなくって、あんな演技をしていると思われても仕方ありません」
「そんなことないわ」
ルカはまた首を横に振る。
「私自身がそう思うのですから仕方ありません。こう言っては失礼ですが、皆がみんな、私に好意的だとは最初から思ってはおりません。少しずつ理解してもらおうと思っております。それには」
ルカは立ちだした。そして弓の立てかけてある部屋へと入る。
せめて三つ数えるぐらい座れたら。
だが、努力の甲斐があってか、少しずつ座って数を数えられるようになってきた。だが最後の数を数え終わる頃にはほとんど逃げ腰だ。まして音などした時は、脱兎のように逃げ出していた。
こんな調子では駄目だ。昨日は十まで数えられたのだ。今日は十五まで。こうして徐々に数を増やして行き、一時間近く座っていられれば。どうにか試合も終わるだろう。
何が怖い。たかが弓ではないか。こっちに焦点があっているわけでもないのに。そう思った瞬間、止めども無い恐怖が湧き上がった。ルカは痣のある辺りを両手で押さえ部屋から飛び出した。柱に寄りかかりながら息を整える。
「もう一度だ、もう一度やりなおしだ」
「頑張りますね」と、キネラオはルカのそんな姿を庭から垣間見、ホルヘに言う。
二人は弓の練習をして戻って来たところだ。どちらも汗でびっしょり。だが同じ汗でも、ルカのかいている汗は違った。
「そうだな、ああいうところは見習わないとな」
ルカは一度決めたことは曲げない。
ルカのこの様子を伺っていたのはキネラオたちだけではなかった。守衛たちも、代わり番に見張りに立っている。
「あなた方も頑張っておりますね」
「殿下にもしものことがあったら大変だからな」
万が一恐怖のあまり狂って池にでも飛び込まれたら一大事だ。
そして数日が経った。どうにか部屋に一時間ぐらい座っていられるようになったルカは、リンネルに問う。
「シナカは何処で弓の練習をしているのでしょうか。そこへ案内してはもらえませんか」
「よろしいのですか」
「陰でそっと見るだけです。だめなようなら戻ります」
リンネルはその場へ案内する。だがその場所が近づき、矢を放つ弦の音が聞こえたと同時に、ルカの足は動かなくなった。
「殿下」
「手を、引いてくれませんか」
リンネルはルカの手を握った。
だが次の矢が放たれた瞬間、ルカは耳を両手で覆うと地面に突っ伏した。
リンネルは動かなくなってしまったルカを抱きかかえ、邸へと戻る。ソファにルカを寝かせると、気付け薬を嗅がせる。
ルカは瞬時に意識を取り戻した。
「大丈夫ですか」
ルカは周囲を見回し、自分の位置を確認してから頷いた。
そこへシナカが走り込んできた。武着姿だったが弓矢は置いてきたようだ。
「あなた、大丈夫」
どうやらルカが倒れる姿を見ていたようだ。
ルカは軽く苦笑した。
「せっかく、あなたの武勇を見ようと思って行ったのですが、音を聞いただけで」
シナカは何も言わずにルカの手を握った。
「稽古の邪魔をして申し訳ありません」
「いいのよ。音がだめなら、耳栓したらどうかしら」
耳栓。ルカは暫し考えた。
「それ、いいかもしれませんね。それと、本来なら私も参加すべきなのでしょうがこんな調子では、それで私の代理としてリンネル、出てもらえますか」
「私はかまいませんが」と、リンネルはシナカの方を見た。
ルカならともかく、ボイ人以外の者が参加できるのかどうか。
「そうね、この人の代理としてなら」
「では、もう一人。一人では控え室に居るとき心もとないだろう」
「武技を前にして、心もとないもなにもありません」と言うリンネルに対し、
「それもそうね」と答えたのはシナカだった。
「ではあと一人、弓に長けている者は」
「レスターだろう。彼はあらゆる武器に長けている」
「彼は駄目です」と、即答したのはルカだった。
「おそらく彼は、儀式やゲームはやらないでしょう。彼が得物を抜くときは相手を殺す時だけです」
それにはリンネルも納得した。
「他に?」と訊かれても、プラスターや剣ならわかるが、弓などネルガルの実戦武術にはなかった。
「では明日、中庭で弓の腕試しをしましょう。その中で一番腕のよいものをもう一人の代表としましょう」
「中庭って?」
今、目の前にある庭だ。
こんな所で弓を引かせたら、ルカに見せないなどという話ではない。
「よろしいのですか」と、リンネルは念を押す。
ルカは頷いた。
弓を持って勢ぞろいした守衛たちを見るところまではよかったのだが、彼らが的めがけて弓を放つと、ルカは部屋の隅に走りより、そこで両足を抱えてうずくまる。その異常に気づいたリンネルが、守衛たちに弓を射るのをやめさせ慌ててルカの所へ走り寄った。
「大丈夫ですか」
「私は心配ありません。続けてください」
顔色は既に青い。大丈夫なはずがないとは思うのだが。
シナカも心配そうにリンネルの脇でしゃがみ込む。
「シナカ、筋のよさそうなのを一人選んで、指導してやってくれませんか。私の家臣が一回戦敗退では恰好がつきませんから」
「それはいいですけど、奥に行って休んだ方が」
ルカは軽く苦笑すると、
「もう少し、ここに居ます」
もう一人の代表がロンに決まった頃にはルカの意識はなかった。痣の辺りの服を右手で強く握り締め、唇は血が滲むほど噛みしめられていた。
「殿下」
「ベッドへ」と、シナカ。
リンネルはルカを抱えると寝室へと向かった。
「まったく、意地だけは人並み以上だな」と、ハルガンが呆れたように言う。
「しかし、あの怖がり方。普通ではありませんね」
「おそらくあの痣と弓は何か関係があるのだろう」
それを池の辺で見ている人影があった。
(馬鹿じゃ。自分で封印しておいて、封印を解かない限り無理じゃろーが)
-
2010/01/10(Sun)23:30:31 公開 / 土塔 美和
■この作品の著作権は土塔 美和さんにあります。無断転載は禁止です。
-
■作者からのメッセージ
今日は。続き書いてみました。いかがでしたでしょうか。コメントお待ちしております。