- 『君たちと共に、島で(加筆改訂版)』 作者:天野橋立 / 未分類 未分類
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全角28479文字
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原稿用紙約80.65枚
沖縄旅行に行くはずだった一郎たちは、学生ゆえの資金の無さで、県内の離島へと行く先を変更せざるを得なかった。ガイドブックの白黒ページに小さく紹介されている程度の、観光地とも呼べぬこの島での旅行。当然退屈なものになると思われたのだが……。(11/30 加筆改訂版up)
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島影が目の前に迫り、港の周囲に立ち並ぶ建物が見えてきた。どう見ても大きな町ではない。背後にすぐ山が迫っていて、市街地の広がる余地はなさそうだった。一応、ビルもいくつか見えるが、高いものでもせいぜい五階建て程度だろう。紅白に塗り分けられたアンテナ塔が、最も目立って見えた。
「いやー、ついに来たねえ」僕は双眼鏡を覗きつつ言った。「お、コンビニもあるぞ。ちゃんと看板に『コンビニ』と書いてあるから間違いない」
「案外ちゃんと町なんだな、人口一万にしては。さすがは島の中心都市だ」と白滝が独り感心する。
「しかし、なんですね。沖縄のはずが、何でこないになったんですかねえ」阿倍野が首を傾げる。
「夕方まで延々、沖縄の話してたのにな。ドリンクバー五杯くらい飲んだよ、確か」僕はそう言って、双眼鏡を持った手を下ろす。
「しょうがないだろう、お前らが金がないとか何とか文句ばかり言うんだから」と、大沢さんが不満げな顔で言う。「俺は沖縄が良かったんだ。ホテルだって決まりかけてたのに」
大沢さんの言うとおりだった。元々は、バイト仲間同士で沖縄に行こうという話が持ち上がって、それで我々は旅行の計画を立て始めたのであった。
しかし、沖縄ツアーの費用は、今の我々には高すぎた。バイトのOBで、今は市役所勤めの大沢さんはともかく、後の三人は揃って貧乏な学生である。僕だけなら貯めた金で何とかなりそうだったのだが、旅行中はカップヌードルで食費を浮かすと言う阿倍野はまだしも、白滝は最高で二万円までしか出せないと言い張り、いくらなんでもそんな値段の沖縄ツアーはない。
そういう訳で、旅行の目的地は沖縄から、県内の離島に変更になったのだった。島であるということだけが共通点である。宿泊などの手配は、この島への旅行を強く推した白滝が全て引き受けてくれた。
「それにしても、天気がもう一つだな」そう言って、僕は空を見上げる。全体にうっすらと雲がかかっていて、微かに光を放つ太陽が肉眼で直視できる。
「秋晴れなら、どこへ行ったってまあまあ景色きれいなんだがなあ」大沢さんが嘆く。「こんな何にもない島で、天気まで悪くちゃどうにもならんぞ」
「大丈夫です」白滝が力強くうなずく。「ガイドブック見た限りでは、それなりに見どころもあるみたいですし」
「へえ、載ってるのかここ、ガイドブックに」僕は感心する。
「コピー持ってきましたけど。見ますか、一郎さん」白滝はポケットから、四つ折りにした紙片を取り出した。「隣の島と合わせて一ページ分の紹介だったんで、実際には半ページだけですけど。白黒ページだから、コピーはきれいに取れましたよ」
「いや、やめとく」僕は首を横に振った。そんなのを見ても仕方ない。
「やっぱり何も無いってことか」大沢さんが肩を落とす。
間もなく到着します、という船内アナウンスが流れると同時に、高速船は速度を落とし始めた。四人は展望デッキから船室内に戻り、荷物をまとめる。窓の向こうに見える町が、ゆらゆらと揺れている。やがて軽い衝撃と共に、船は着桟した。ステップを渡って桟橋に降り立った船客は、一様にほっとした表情を見せた。たとえ離島でも、揺れない陸地には安心感があった。
「妙に立派だな、この建物」桟橋の向こうに建つビルを見上げながら、大沢さんがつぶやく。
「船から見えた限りでは、この町で一番大きいビルみたいですね」と僕も建物を見上げる。「五階、いや六階建てかな」
「ええと、これが高速船ターミナルです。最近立て替えたらしいです」例のコピーを見ながら白滝が言った。「上の階はホテルになってます」
「それなら、ここに泊まりゃ良かったじゃないか。すごい便利だぞ、ここなら」と僕は言う。
「僕らの宿はどういうとこなんですか?」阿倍野がたずねる。
「町外れの山の上らしい。一応名前はホテルだが、まあ旅館だな、実際は」と大沢さんが言う。「とてもじゃないが便利な場所とは言い難い」
「便利な分、高いんですよ、ここ」白滝が顔をしかめる。「一泊一万二千円ですよ。そんな金出せますか?」
「無理だな」僕はあっさりうなずく。
「そういうとこに泊まれる身分になれたらええなあ」阿倍野が瞳に憧れを浮かべる。
「まあ、そういうことです」白滝が、浮かない顔でうなずく。
ターミナルビル内にはホテル以外にも、小規模ながらレストラン街やショッピングゾーンもあった。しかし我々がまず向かったのは観光案内所だった。例のコピー以外、島内の情報が何も無いままここまで来てしまった以上、この案内所が頼みの綱だった。
案内所はガラス張りの小ぎれいな造りで、誰もいないのが丸見えだった。恐らく昼食にでも行ってしまったのだろう。中に入ってみると、カウンターには島内観光のパンフレットと、イラスト入りの地図が山積みになっていた。これさえ手に入れてしまえば、もう無人のここに用などない。
「さて」と大沢さんが言った。「で、まずどうするんだ?」
「とりあえずは、昼飯でしょう」白滝が町のイラストマップを見ながら言う。「このすぐ近くに『銀座商店街』があるらしいですから、そこで店を探しましょう」
「銀座と名が付く商店街は大抵寂れてるもんだぞ。東京の本家以外はな」と僕は否定的な意見を述べる。
「まあ、行ってみないとどんなところか分かりませんけど、ここには島で一番の繁華街だって書いてますね」
「行ってみましょうよ」阿倍野がうなずく。「島一番の繁華街、なんや面白そうやないですか」
「最悪、なんにも店がなかったら、ここに戻ってくればすむしな」大沢さんも同意する。
ターミナルを出ると、すぐ正面にアーケード商店街があった。入り口の頭上には、金属製の大きな文字で「本島銀座」とある。探すまでもなく、ここが噂の銀座商店街だった。思ったよりも立派そうだと、さっそくその内部へと足を踏み入れた我々だったが、すぐにその足を止めることになった。
決して寂れてはいない。デパートまではさすがに見あたらないが、それなりにきれいな店が並んでいた。アーケードにしても薄暗いトタン屋根などということはなく、ガラスを用いた新しいものだ。しかし、距離がむやみに短い。まだ入り口に立ったばかりなのに、すぐ向こうに出口が見えている。全力疾走すれば、三十秒とかからないだろう。
「まあ、こんなもんだろうな」と大沢さんが言った。「島には相応だろう」
「銀座にしちゃ、頑張ってるほうじゃないですかね」と僕はうなずく。「もっとぼろぼろで、薄暗いところが多いですよ」
「それにしても、短いアーケードですねえ」阿倍野が感心する。「心斎橋の百分の一くらいやなあ」
入り口近くの定食屋で、一行は昼食を取った。何か島の名物はあるかと訊ねると、魚なら何でもうまいよと店員は答えた。特に名物はないと言うことらしかった。
「で、どこに行くんだ? これから」大沢さんがパンフレットを開きながら言った。
「今我々がいるこの町は、島の南端です」と白滝が地図を指さして説明する。「北の端にも、もう一つ町があります。要するにこの二つしか町はないわけですが」
「北の町は、城下町だって書いてあるな」と僕はパンフレットの内容を要約する。「一応、城の写真も載ってる」
「いいですよねえ、城下町」阿倍野が身を乗り出す。「お堀に鯉が泳いでたり、古い和菓子屋とか」
「結局、他に行くところないってことだろ。いいんじゃないか、その城下町で」大沢さんが消極的な結論を出す。「で、どうやって行くんだ?」
「バスが出てるみたいですよ」白滝がパンフレットをめくる。「バスターミナルは、ああ、ちょうどこの商店街の突き当たりですね」
「なるほど、この銀座は港のターミナルとバスターミナルに挟まれてるわけか」と、僕はイラストマップをのぞき込む。
「ええロケーションですねえ」阿倍野がまた感心する。「一等地や」
「交通の結節点ってのは、商業地が繁栄する大きな要素だからな」白滝がもっともらしくうなずく。「だてに、島一番の繁華街になった訳じゃないってことだ」
「ここからさらに寂しい町へ行くんだな、俺たち」心細さを感じながら、僕はつぶやく。
四人はバスの時間に合わせて、日替わり定食のコロッケをゆっくりと食べ終えた。店を出ると、高速船ターミナルの方向から、急ぎ足の人々が次々と歩いてくる。恐らく、今着いた船から次のバスへと乗り継ぐのだろう。
「40分くらい乗りますから、座れないとまずいですよ」と白滝が言った。「我々も急ぎましょう」
よし来たと、我々もバスターミナルへ向かって歩き出す。早足ならアーケードはすぐ終わる。曇り空の下に出ると、もうそこが銀座バスターミナルだった。広場の真ん中に低いホームがあって、両側に緑色のバスが一台ずつ停まっている。
ホームの屋根から吊り下げられた行き先案内には「1番 北線」「2番 東線」と実に簡潔な表示があり、我々が乗るべきは「北線」であろうと思われた。係員のおばさんから切符を買って乗り込むと、すでに半分以上の座席が埋まっていた。
「やっぱり、結構乗ってますね」シートに座った白滝が、そう言いながらシャツの袖をめくる。わずかに歩いただけなのに、彼はもう汗をかいていた。「座れて良かった」
「さすがは、銀座やねえ」隣席の阿倍野は感心してばかりである。
「案外きれいなバスだな」大沢さんが周囲を見回す。「うちの市バスより立派なんじゃないか」
「一応、島の二大都市を結ぶ幹線ですから、それなりに力を入れてるんでしょう」と白滝が、またしてももっともらしい顔で言う。何が「二大都市」だと思ったが、僕は何も言わずに黙って窓の外を見る。
間もなくブザーが鳴り、バスはホームを出発した。低いビルがちらほらと建つ二車線の道を走り、やがて大きな橋を渡り終えると、もうそこから先に町はなかった。左に海、右には山があるだけだ。ここまで来て初めて、我々はさっきの道が町のメインストリートであったことに気づいた。一行は名残惜しげに、窓の後方に去りゆく町を振り返る。本土へ帰るらしい高速船が、大きく揺れながら港を出ていくのが見えた。
バスはひたすら、ひと気のない海岸沿いを走る。退屈したらしい大沢さんは、さっさと眠ってしまった。空がどんよりと曇っているせいか、海はいかにも寒々しく見えた。波も高くなってきているようだ。
たまにバス停に停まっても、周囲に集落らしいものはほとんど見あたらなかった。それでも必ず、数人の乗客が降りていく。時折、右側の山の中腹辺りに民家が建っているのが見えることがあったから、そういう所に住んでいる人々なのだろう。
ちょうど中間地点と思える辺りで、初めての集落が姿を現した。漁港があるらしく、何隻もの漁船がガードレールの向こうに並んでいる。「漁協キャッシュコーナー」の横にバス停の待合室があり、十人近い乗客がバスを待っていた。降りた乗客の数も約十人、差し引きすれば車内の人数に変化はない。白滝が、地図を取り出してバス停の地名を探す。
集落を出ると、風景はまた単調な繰り返しに戻った。どこを走ろうが、どうせ彼方まで海なのだ。良く気をつけていれば、空を流れる雲の流れが次第に早くなっていたことに気づいたはずなのだが、その時の僕はそんなことに気づくこともなく、やがて眠りに落ちてしまった。
それぞれに眠ったり起きたりを繰り返していた我々が、次が終点です、という案内テープに起こされて間もなく、眼下に町が姿を現した。ビルなどがほとんどなく、古びた民家が並ぶその町並みは、なるほど城下町の感じである。
崖の上の道を外れたバスは、屈曲する狭い通りを走り抜け、行き止まりの狭い広場で停車した。ホームも待合室もなく、地面は砂利だが、ここが北の町のバスターミナルだった。
「ああ、良く寝た」バスを降りると、僕はそう言って大きく伸びをする。
「俺も、海見てるうちに寝ちまった」大沢さんがあくび混じりで言う。「たまにはいいもんだな、こういう退屈な時間も」
「きっとまだまだ退屈には事欠かないと思いますけどね、今日も明日も」
「それにしても、向こうの町とかなり感じが違いますね、こっちは」白滝が広場の周囲を見回しながら言う。どちらを向いても瓦屋根ばかりだ。「どうこう言っても、あっちのほうがだいぶ都会だ」
「僕はこっちの方が好きやなあ。城下町は空気が違うよ、やっぱり」と阿倍野は言う。「高山とか倉敷なんかに似た感じがするよ」
「じゃあ、いずれここにも観光客が押し寄せる日が来るかのもしれんな」と大沢さんは笑う。
「島の古都、なんてコピーがつくわけです」と僕は言う。そして、OL三人組とかが事件を解決しに来るわけである。
「そういうことなら、できれば温泉があったほうがいいな。入浴シーンが撮れる」
「まあ、地中を延々掘っていけば何とかなるでしょう、多少沸かしてやらなきゃ冷たいかも知れませんが」
「草津辺りの湯をタンカーで持って来るって手もあるな。海草津温泉とか命名してな」
「そういう風にはならんで欲しいですね。この静かな感じがいいんです」阿倍野は大まじめである。
「高山も倉敷も、どっちも城下町じゃないんだけどな」白滝がつぶやく。
またしても大活躍のイラストマップ片手に、我々は町巡りを始めた。さすがは城下町だけに、歴史の名残があちこちにある。塀の一部だけが小学校の敷地に残った武家屋敷や、遊郭跡の石碑の向こうに並んだ数軒のバー。かつて米問屋がここにあった、という案内板のある公民館。
想像力の翼を激しく羽ばたかせれば、過去に思いを寄せることは決して不可能ではなかった。しかし羽ばたき続ければ疲れるし、疲れてやめれば落ちるだけだ。一時間ほど歩き回った我々は次第に無口になり、足の動きも鈍くなっていった。阿倍野だけは「この坂の角度は馬籠に似てますね」などと独り元気だったが、最後に訪れた城跡でその元気も尽きることになった。
当然の如く、城跡は観光のメインと思われた。なにせ写真で、ちゃんと城があることは確認している。たとえ再建されたものでも、天守閣はやはり絵になる。城跡が有るはずの丘を見上げても、なぜかそれらしいものは見あたらなかったが、それでも我々は丘を登った。ここがこの城下町最後の切り札であるはずだった。
丘を登りきると、石垣が見えてきた。城跡だから当たり前だが、昔のものにしてはあまりにも整然と積んである。どうも近年、かなりの整備がされたらしい。しかし、天守閣らしいものは見当たらない。
とりあえず、石垣の上に登ってみる。町の全景が見えるのではないかと思ったが、周囲の森に遮られて、眺めは悪かった。大きな案内板が立っているだけで、天守閣などどこにもない。案内板の解説によると、天守閣は江戸時代初期に取り壊され、城は麓に移転したらしかった。それ以降この城跡は長らく放置され、荒れたままだったということらしい。整備されて公園になったという日付は、たった二年前である。
「おい、じゃああの写真の城は何だったんだ?」解説を読み終えた僕は声を上げた。「ここまで来て、何も無しかよ」
白滝がパンフレットをめくる。「確かに載ってますけどね、写真」
「無いものは、しょうがない」大沢さんが暗い声で言う。「引き上げよう」
「ちょっと待ってて下さい。便所に行ってきますんで」そう言って、白滝は矢印が指し示す「手洗所」の方向へと小走りで去っていく。残った三人はベンチに腰掛けて、彼が戻るのを待つ。
「帰りのバスは、どうなんだろう?」大沢さんが疲れた顔でつぶやく。
「確か、一時間半後だったはずです」時刻表を思い出しながら、僕は答える。
「もうこの町、一通り見ちまったよなあ。どう時間をつぶすかだな、後は」
「喫茶店でもあればいいんですがねえ。しかし、あの商店街じゃ」望み薄だなと、僕はこの町のメインストリートを思い浮かべる。郵便局、農協、小さなスーパー。銀座が懐かしい。
「純喫茶があるかもしれへんですよ、70年代まんまの」うつむいていた阿倍野が顔を上げた。
「そりゃいいな、緑色のクリームソーダとかが飲めるかもしれん」大沢さんがうなずく。「アイスクリームにはちゃんとウエハースがついてるはずだ」
「スパゲティーのフォークが空中に浮いてたりするんですよ、ショーケースの中の」僕は、どこかの町で見た風景を思い出す。「あれは変だ」
「ああ、あれだろ、麺が垂直に盛り上がってフォーク支えてるやつ」
「で、ミートソースが変色してひび割れてたりね」
「白滝君、帰って来ましたよ」と阿倍野が告げる。白滝が、やはり小走りでこちらへ戻ってくるのが見える。
「じゃあ、戻るか」大沢さんがベンチから立ち上がる。
「見つけましたよ、城」近づいて来る白滝が、そう叫んで手を振る。
「え? 本当か」僕はそう言って、白滝のそばへ歩み寄る。「どこにあった」
「手洗いに行けば、すぐ分かりますよ」
「よし、行ってみよう。折角だ」大沢さんも歩き始める。阿倍野が後に続く。
「僕は、ここで待ってますよ」白滝が我々三人に声をかける。
確かに、彼が言ったとおりだった。手洗いの前に立った我々は、ついに念願の天守閣を目にすることができた。それは手洗い所の屋根に作られた鉄骨製の小さな櫓に、こじんまりと載っていた。高さは全体で三メートル程度だろう。櫓には、「タバコのポイ捨て山火事のもと 消防分団」という標語の書かれた看板が取り付けられていた。典型的なお役所センス建造物だ。
「というか、こういうものを観光パンフレットに載せるなよな」僕は無表情につぶやく。
「あ、雨や」阿倍野が空を見上げた。いつの間にか、本格的な雨雲が頭上を覆っている。
「こりゃいかんな。とにかく、撤退だ」大沢さんが足早に、来た道を戻り始める。
丘を下る階段の途中で、雨はついに本降りとなった。町を見下ろせば、雨のヴェールがいかにも城下町らしいしっとりとした情感を醸し出していたが、我々にとっては冗談じゃない、それどころではない。誰一人、傘など持って来ていないのだ。木陰から木陰へと必死で雨を避けながら、地上を目指し駆け降りる。
メインストリートである商店街には、純喫茶はおろか開いている店さえほとんど無かった。仕方なく我々は、唯一営業中だったスーパーの中でバスを待つことになった。小さな食品スーパーであり、雑誌スタンドの前くらいしか居場所はない。普段まず読むことのない主婦向けの雑誌を読みながら、我々は長い一時間が過ぎるのを待った。その間にも外はどんどん暗くなって行ったが、これは別に我々の心象風景を表現しているわけではない。雲が確実に厚くなってきていたのだ。
白滝がバッグから小型ラジオを取り出し、音量を絞って電源を入れた。雑音の向こうから、何かしゃべっているのが聞こえてくる。
「なんだよ、突然。演歌ヒットパレードでも聞きたくなったのか?」雑誌のページから目を上げて、僕は言う。手にしているのは「踊れキッチンママ」の十一月号だ。
「静かに」白滝はスピーカーを耳に当て、顔をしかめる。「気象情報やってるんですよ、今」
ラジオはなにやらぶつぶつとつぶやき続けた。どうも、各地の気圧やら風向きやらを読み上げているらしかった。しばらくして、白滝が「え?」と小さな叫び声を漏らした。
「どうやの?」阿倍野が訊ねる。
「今、漁業気象だったんだけど、低気圧が来てる。九八七ヘクトパスカルだって」
「え、台風なの?」
「いや、それが温低なんだ。でも予報円まで出てる」
「まずいわ、それ。爆弾低気圧じゃないのかな」
「お前らの会話は訳が分からん」意味不明ながら深刻そうなやり取りに苛立った大沢さんが、大きな声を上げる。「一体なにがどうなってるんだ」
「いや、だから要するに低気圧が近づいてるんですけどね、それがほとんど台風並に強力な奴で」
「台風なんか来てたか?」
「だから、台風じゃありません。前線を伴った温帯低気圧です」
「普通の低気圧のことを、専門用語で温帯低気圧って言うんです」阿倍野が横から説明する。「台風は熱帯低気圧で、その中でも中心風速が17.2メートルを超えたのを特に台風て呼ぶんです」
「誰もそんな定義を聞いてるんじゃない。要するに嵐が来るってことじゃないのか」
「まあ、まあ」僕はとりなしに入る。「もうじきバスも来るし、南の町にさえ戻ればとりあえず後はなんとかなるでしょう」
「あれだけ海沿いばかり走るバスなんだぞ、海が大荒れになれば運休だ。そうなりゃ帰れなくなる」大沢さんが不安げな表情でまくし立てる。
「いや、まだそこまでは近づいてませんから、低気圧。大丈夫です」白滝がなだめる。
「とにかく、もうそろそろ時間ですから、停留所に行ってみましょうか」僕はそう言って、雑誌を棚に戻す。
雨よけ代わりに上着を頭に被って、我々はバス停目指し走った。商店街の外れがすぐバス停だから、それほどの時間はかからない。心配するまでもなく、バスはちゃんと来ていた。水に浸かった砂利の上を駆け抜け、我々はバスの中に飛び込んだ。
「いやー、びしょびしょだ。まいったね」僕はそう言いながら、上着の水滴を払う。
「今度はがらがらですね」そう言って、白滝が車内を見回す。我々四人以外に乗客はいない。
「しかし、陰気なバスだな」大沢さんが顔をしかめる。こちらへ来た時とは違って、かなり古い型のバスだった。天井の蛍光灯は弱々しく、車内は薄暗い。
バスは定刻どおりに発車した。結局我々以外には誰も乗って来なかった。町外れのトンネルを抜けると、あとは灰色の海が続くばかりだ。波は確かに前より高くなっているようにも見えたが、窓を伝う水滴の為に良くは分からない。ただ、まだ大荒れはしていないようだった。
最初に異変に気づいたのは、不安げに海を見つめていた大沢さんだった。はるか沖合、海のど真ん中で、まるで噴水のような激しい水しぶきが上がっている。その水しぶき目指して、上空の雲の一部が長く伸びて垂れ下がって来る。まるで巨大な象の鼻のような感じである。
「なあ、おい」大沢さんは隣で眠りこけていた白滝を揺すり起こした。「起きてくれ」
「何ですか」白滝が寝ぼけ眼で顔を上げる。「もう終点?」
「ちょっと、窓の外見てくれ」そう言って大沢さんは沖を指さす。「何だと思う、あれ」
「何だって、そりゃまあ海が」そこまで言ったところで、白滝は絶句した。「あれは」
「どう見ても変だよな。水面まで届いてるんだから、あの雲」大沢さんがこわばった声で言う。「前に、映画でああいうの見たことあるんだが」
「そう、あれは」白滝が震え声でうなずく。「間違いありません、竜巻です」
白滝の言葉に、僕は驚いて窓を見る。「おお、あのでかい柱みたいなやつ、あれがそうか」
「初めて見ましたわ、本物の竜巻。すごいなあ」隣の阿倍野は感嘆の声を上げる。「何百メートルくらいあるんやろう、高さ」
「もし、あれがこっちに近づいて来たらどうなる?」蒼白になった大沢さんが、かすれ声で訊く。「やっぱり空に巻き上げられたりするのか」
「海上の竜巻はウォータースパウトと呼ばれる、あまり強くないものが大部分です。日本国内でも、年間に数十回の発生が確認されていて、そんなに珍しくはありません」まるで図鑑の一部を諳じるような棒読みで、白滝が言った。「バスごと持ち上げるような力はないでしょう。安心です」
「そんな汗びっしょりで安心だとか言われても、ちっとも安心できん」
僕はバッグから双眼鏡を取り出し、竜巻のほうに向けた。風がすごい渦になっている。
「あんなのに巻き込まれたら大変だ」僕は言った。「しかも、段々大きくなってきてる」
「明らかに、近づいてきてますね。雲がこっちに流れて来てますから」竜巻をぶら下げた雲を見上げて、阿倍野がうなずく。
しかしバスは大騒ぎの四人を乗せたまま、動じる気配もなく走り続けた。竜巻の移動速度は驚くほど速く、バスを追い越す勢いで前進を続け、どんどん陸地に近づいて来た。もう双眼鏡などなくても、それが巨大な渦巻く気流であることがはっきりと見て取れる。竜巻の足下で激しく上がる水しぶきは、そのまま吸い上げられて雲とも霧ともつかぬ白い気体となり、ぐるぐるとねじれるように上空へ昇っていった。走るバスの中にいてさえ、風の轟音がはっきりと聞こえる。
窓に顔をぴったりとつけて思い切り見上げれば、竜巻が雲の中へ吸い込まれていく様子が見えた。確かに、こんなものすごいものに巻き込まれて無事で済むとは思えない。いよいよ雲の彼方で虹を見るのかと我々が観念しかけた時、バスは速度を落として道の左側に寄り、停止した。海上の竜巻はバスを追い越して進んで行き、道の行く手で上陸した。道沿いの木々の枝を軽々と引きちぎりながら、道の上を遠ざかっていく。
「おい、見ろよ」大沢さんが呆然とつぶやく。「竜巻が道を歩いて行くぞ」
「これでも、力の弱い竜巻なのか?」僕は白滝に訊ねる。「何だっけ、ウォーター何とかって言ってたやつ?」
「ウォータースパウトです」白滝が額の汗を拭う。「多分、あれぐらいならかなり小さいほうでしょう。でかいやつだと直径数百メートルとかになりますから。そんなのに出くわしたらとても助かりませんよ」
「確かに、藤田スケールでせいぜいF1程度やろうね。だけど、すごい迫力やったなあ」阿倍野が満足げに言った。「来て良かった、この旅行」
「頼むから、普通の言葉でしゃべってくれよ。意味がわからんから余計不安になる」大沢さんが嘆く。
バスは再び走り始めたが、道の上のあちこちに木の枝が転がっているので、さっきまでに比べると速度は出ない。白滝が両替ついでに運転手に聞いたところ、あの程度の竜巻はこの島ではそんなに珍しくないということだった。雨はますます激しくなり、視界はさらに悪化していた。空はもはや、夜のような暗さだ。
カーブする道の前方に、家々の灯りが見えてきた。来る時にも通った、あの港町である。実際には町と呼べる規模はなく、あくまで小集落に過ぎないのだが、今の我々の瞳には頼もしい町の灯と映った。
しかし、その灯りの列に向かって、巨大な影のような竜巻が突き進んで行く。上陸してしまったため消滅の時が近いらしく、先程に比べればやせ細ってふらついているが、それでもなお怪物だ。影が町の灯りと重なり合ったその時、激しい火花が散るのが見えた。次の一瞬で、町の灯のほとんどが一斉に消えた。送電線が寸断されたらしかった。
「真っ暗になっちまったぞ」大沢さんが心細げな声を出す。「なあ、あれって結構な災害なんじゃないか?」
「もうだいぶ弱ってたはずですから、そんなひどいことにはなってへんと思いますけど」と阿倍野は首を傾げる。「ただ、竜巻は連続発生することが多いですから、あの状態で次のが来たら大変です」
バスが大停電中の港町を通りがかった時には、もう竜巻は雲の中へと引き上げた後だった。あちこちで電柱が傾いたり、瓦が半分しか残っていない家屋があったりするものの、確かにそれほどひどい被害が出ている様子はない。しかし集落内はやはり大騒ぎで、雨合羽を着込んで懐中電灯を持った人たちが、至る所で何かを大声で話し合っていた。バスは形だけ、と言った感じで停留所に停車し、逃げ出すようにすぐに発車した。
「この天気じゃ、今夜中の復旧は難しいでしょうね」白滝が暗い声で言う。
「明日の朝まで、この真っ暗な町で過ごす訳か。竜巻におびえながら」大沢さんが身震いする。「俺なら耐えられそうにないよ」
「で、明るくなったら町には誰もいなくなっていた、なんてことになったら、これは怖いですね。ははは」僕は低い声で笑う。
「何でお前は、そういう嫌なことを言うんだよ」と大沢さんは力無く怒って見せる。
そこから先も天候は荒れ続けた。普段なら、とてもじゃないが平穏な道程とは言いがたい。しかしとにかく竜巻よりはましだ。時折、強く吹き付ける風の音に怯えることもあったが、もうあの禍々しい姿を見ることはなかった。
南の町が湾の向こうに見えて来た時、我々は疲れと安堵に声を失った。海沿いに並んだ明るい光は、まさに都市の姿そのものだったからだ。
銀座バスターミナルには、ほぼ五時ちょうどに到着した。闇を見続けた我々の目はほとんど時差ぼけ同然になっていたのだが、実はまだ夕方なのだ。
白滝が旅館に電話してみると、二十分後に送迎のマイクロバスを寄越すということだった。とりあえずお茶でも飲もうかと、四人はふらつきながら本島銀座に足を向けた。
外の嵐から守られたアーケードの下は、それなりに明るくにぎわっていた。一行は、ここでやっと現実感を取り戻すことができた。もう純喫茶などを探す必要はない。ここには喫茶店もカレー屋も定食屋も揃っていた。服も宝石も買えるし、信金キャッシュディスペンサーで金も出せる。見よ、確かに距離はすごく短いが、都会の商店街に比べて大きな遜色は無いではないか。と、今の我々には思えるのだった。
「文明っていうのはありがたいもんですねえ」白滝はエスプレッソを一口すすって、大袈裟にため息をついた。四人はパン屋の二階にあるコーヒースタンドに落ち着いていた。「ああ、うまい」
「やっぱり、俺は都会にしか住めないな」窓の下に見える通りをぼんやりと見下ろしながら、大沢さんがつぶやく。市松模様になっている路面のタイル舗装が、アーケード天井のスポットライトに照らされて光っているのが見える。
「問題は、今夜の宿だな。これがまあまあなら、こんな疲れはきれいに取れるはずなんだが」ココアのカップで指先を暖めながら、僕は言った。
「場所が不便なのは確かですけどね、山の上ですから」白滝がそう言って、旅行代理店のロゴ入り封筒から旅館の案内パンフレットを取り出す。
「しかしすごい名前だ」と大沢さんが感心する。「『ブルートワイライトホテルかのがしま風雲閣』って、これ何がどうなってるんだろう?」
「写ってる女の人が、みんな八〇年代ファッションだぞ」僕は少し不安になってパンフレットの写真を指さす。「こいつなんか、唇が紫色だ」
「ほんまですね、チアノーゼみたいや」
「風呂に浸かってるくせに、今にも凍死しそうに見えるな」
「いや、解凍中かもしれん」
「でも、ほら、眺めはきれいみたいですよ。海と町が一望できます、ってこの写真」
「それはまあ、山の上だから」
「山の上ホテルってのは、ここのことですかね」
「全然違う」
迎えにやってきたのはごくまっとうなマイクロバスで、特に不安を感じさせる要素はなかった。嵐に煙る町の灯を見下ろしながらぐいぐいと坂道を上り、登り切ったそこが我々のホテルだった。
慣れない丁寧な応対に、逆におどおどしながら案内された部屋は、十畳ほどの和室だった。ちゃんとお茶とお菓子も用意されている。まさに海と町が一望できる部屋であるらしく、湾の形に沿って並ぶ町の光が、窓を叩く嵐の向こうにぼんやりと見えた。しかも、風呂はちゃんと天然温泉だということだった。
「上出来だな、これなら」窓際のソファーに体を預けて、僕は言った。
「旅行ってのは本来こういうもんだよ。うまいもの食って、温泉入って」向かいに座る大沢さんは、すでに浴衣姿になっている。「雨の中走り回ったり、ああいうのは違う」
「あれ、おかしいな」テレビの電源を入れた白滝が、首をひねる。「テレビのチャンネルが違う」
「ほんとだな、SKTって書いてある」首を伸ばして画面をのぞき込んだ大沢さんが言う。SKTは隣りの県のテレビ局だ。
「多分、地形の関係でそっちの電波のほうが良く届くんでしょうね、県内の局より」阿倍野はそう言いながら、チャンネルを変えてみる。「ほら、全部局が違います」
「全部って言うか、民放二局しか入らないじゃないか」白滝ががっかりした声を出す。
「まあ、いいじゃないか。テレビ見に来た訳じゃないんだからな」僕はソファーの上で思い切り伸びをした。「ああ、極楽」
夕食は固形燃料で暖める小鍋のついた、日本旅館の標準食とも呼べる内容だったが、我々にとっては十分なご馳走である。しかも食堂ではなく、部屋でテレビを見ながら食べられるのだから、これは贅沢である。もっとも、全員が食べるのに夢中で、画面に気を向ける余裕などなかった。なにせ、刺身や天ぷらや蕪蒸しや、普段口にできないものが次々と出てくるのである。島の名産品かどうかなど、もはやどうでも良かった。
デザートのシャーベットが出てきた頃、ローカルニュースが始まった。さすがに食べ疲れた四人は、座椅子の背もたれに寄りかかったままぼんやりと画面を眺めている。
「なんか古くさいですね、これ」白滝が、ニュースのオープニングにけちを付ける。一面緑色の画面の真ん中に、「SKTニュース」と言う白い文字が微動だにせず映っている。BGMは優雅なワルツ調だ。「静止画面にタイトルが出てるだけなんて、今時こんなニュースないですよ」
「別にいいじゃないか、ニュースだってことは分かるんだから」腹一杯で穏やかな気分らしい大沢さんが、のんびりした声で言う。
「でも、ほら、コマーシャルまで静止画ですよ。深夜でもないのに」白滝は興奮して画面を指さす。「すごい田舎ですよこれは」
トップニュースは例の、竜巻に襲われた集落のニュースだった。やはり、まだ停電は続いているらしく、けが人も数人出ている模様だった。暗い画像に記憶がよみがえったらしく、大沢さんが身震いするように首をすくめる。
「しかし、あれだね」僕は首を傾げる。「何でニュースの時は必ず『竜巻と見られる突風』による被害って言い方をするのかね。普通に竜巻って言えばいいのに」
「役所じゃ、よくそういう曖昧な表現使うぞ」と大沢さんが言う。「俺だって『総合的に勘案』とか『一定の改善が見込める』とか『当面の間、可能な範囲において』なんてのをいつも書類で使ってる。気象庁でも同じだろう」
竜巻のニュースが数分で終わると、次は天気予報だった。画面に映る天気図の真ん中には大きな低気圧があり、九七七と言う数字が表示されている。進路を指し示しているらしい矢印は、ちょうどこの地方の真上にかかっていた。
「もう九七七ヘクトパスカルか。この数時間で十ヘクトパスカルも下がったわけだな」白滝が暗い声を出す。
「やっぱり、爆弾低気圧やね」阿倍野も表情を曇らせる。「直撃やな、今夜あたり」
「その、爆弾て何なんだ?」僕は二人に訊ねる。「確か、さっきも言ってたな」
「短時間に急成長して、台風並の勢力になる低気圧のことをそう呼ぶんですよ」白滝が説明する。「普通は冬に多いんですが」
「もう、中堅クラスの台風並になってますから、かなり大荒れになると思いますよ」阿倍野がそう続ける。
「明日、帰れるのかな、俺たち」大沢さんがつぶやく。
室内を沈黙が覆った。微かに聞こえてくる嵐の中、テレビだけがしゃべり続ける。告げられる予報は、いずれの地域も「今夜は暴風雨、降水確率九十パーセントです」と同じ内容の繰り返しだった。
「心配してても、しょうがあらへんですよ。温泉でも入って、ゆっくり寝て、明日に備えるとしましょうよ」と阿倍野が明るい声を作る。
「そうだ。それが旅行ってものだ。それに、ここにいればとりあえず不安はないんだしな」大沢さんが大きくうなずく。「よし、風呂だ」
四人はそれぞれタオルや下着を手にして浴場へと向かった。嵐の為に露天風呂は閉鎖になっていたものの、とりあえず温泉に入れれば不満はない。他の客がいないのをいいことに、湯船で日立グループの歌を歌ったり、大騒ぎである。
「そう言えば、お前さ」並んだ蛇口の前に座って体を洗いながら、僕は隣の白滝に訊いた。「みさきちゃんとはどうしてるの?」
みさきちゃんとは、彼がこの夏見事に振られた、同じゼミの女の子である。失恋のショックで白滝は居酒屋で大暴れし、一緒に飲んでいた我々も出入り禁止になってしまっていた。しかし振られたとは言え、ゼミで顔を合わすことは避けられないはずだった。
「ああ、もういいんですよ、あんな女」白滝は妙に余裕の調子でそう言うと、ざばざばと湯を浴びた。
「さすが、失恋王だな」湯船の大沢さんがからかう。白滝が大学に入って振られた相手は、みさきちゃんでもう三人目のはずなのである。「振られた女の一人くらい、気にもならんか」
「人間やっぱり、未来を見つめて生きなきゃ駄目ですからね」白滝はにこやかにうなずいた。
こうして温泉成分で疲れを癒した我々は、すっかり上機嫌で部屋に戻って来た。ふすまを開け、真っ暗な室内に入る。その瞬間、爆発音を思わせる激しい雷鳴が部屋を揺るがした。
「うわ、何だ、今のは」僕は思わずたじろぐ。
「すごい雷でしたね」阿倍野がそう言いながら、敷かれた布団を踏み越えて窓辺に近づく。窓の外は完璧な暴風雨で、樹々の影が風になぶられて踊り狂っている。彼が室内を振り返った瞬間、窓の外を閃光が走った。そして、鼓膜を叩くような爆発音。
「うわあ、やられた」大沢さんが悲鳴を上げた。「目が、目が」
「全然タイムラグなかったな。まさかこの旅館に落ちたのか?」白滝が不安げな面持ちで灯りを点ける。
「いや、違うみたいや」阿倍野がそう言って窓の外、暴風雨の彼方に目を凝らす。市街地の真ん中に建つアンテナ鉄塔の先端が、ちょうど目の高さ辺りにあった。赤いランプが点滅している。「鉄塔の先に落ちたみたいやな。ほら、赤と白に塗ってある高いアンテナ塔、島に来るときも見えたやろ?」
「ああ、あったな」船から見えた町の風景を、僕は思い出す。「あれだけ高いものがあれば安心だな。あそこに落ちるだろう、雷は」
「テレビ、つけて見ろよ」大沢さんが白滝に声をかける。白滝は這うようにテレビに近づき、スイッチを入れた。
画面に、眼鏡をかけた白人女性が映った。ブルー一色の背景の前でじっと動かず、ただ微笑んでいる。ナレーションの声が、「タカラ町のシマバラ眼鏡店では、秋のファッションメガネフェアを実施中」と告げる。
「やっぱり静止画ですよ、コマーシャル」白滝が嬉しそうに三人を振り返る。
「宝町一番町・島原眼鏡店」のテロップが画面から消えると、再びさっきのブロンド美女が現れた。ポールモーリアをBGMに、また同じナレーションが繰り返される。
「しかも、同じのを二連発ですよ。すごい」白滝は興奮して声を上げる。
テロップが消えると、またしても眼鏡女が画面に出現した。聞き飽きたファッション眼鏡フェアの告知。白滝もさすがに怪訝そうな顔になる。いくらローカル局でも、三回も同じコマーシャルが流れるのは変である。何だこりゃと思いながらテロップを見送ると、驚いたことにまた同じコマーシャルが始まった。
「おい、これ放送事故なんじゃないか、さすがに」と僕は言う。
「こうも続くと、気味が悪いもんだな」と言って大沢さんが布団に潜りこむ。
「次も続くようやったら、これは本格的におかしいですね」と阿倍野が首を傾げる。
そしてやはり、次もまた島原眼鏡店だった。彼女は呪いをかけられたが如く、全く同じ微笑みを浮かべる。ナレーションの声にも変化はない。五度目の繰り返しに、室内は緊張感に包まれ始めた。これは、本土で何か起きてるんじゃないのか?
「NHKに変えてみたらどうだ?」大沢さんが白滝の顔を見る。しかし、彼は動かない。次こそは画面が変わるのではないか。
島原眼鏡店のCMは、さらに六回、七回、八回と続いた。四人は息をのんで画面を見つめ続けた。もう雷鳴も耳に入らない。一回十五秒として、わずか二分が経過しただけなのだが、それはひどく長い時のように思えた。同じコマーシャルが繰り返される、たったそれだけのことで、現実感はいとも簡単に失われてしまっていた。
無限にも思われたこの反復も、九回目の途中で突然終わりを告げた。何かを引きちぎるような音と共に彼女は消え去り、その後に現れたのは、色あせて半分セピアになりかけた回転木馬の写真だった。右下には「しばらくお待ちください SKT」という文字がある。やはり放送事故だったようだ。
「おい、この画面も随分古臭いじゃないか」大沢さんがほっとしたように笑いながら、白滝の顔を見る。しかし白滝は笑わなかった。あとの二人も硬い表情で、かつては赤や青だった馬を見つめている。
ふいに画面が消え、再び青一色となった。またしても眼鏡美人の出現かと一同は身構える。しかしそこに大きく映し出されたのは、手書きと思える歪んだ字のテロップだった。かすかに上下にぶれるそのテロップには、「ANNN緊急報道特別番組」とあった。
すりきれたレコードのような、かすれた音のマーチがスピーカーから流れ出す。暗く悲愴なそのメロディーには、まるで戦時中のニュース映画を思わせるものがあった。
ここは確かに離島だが、しかし大地は堅固なはずだ。だが、その画面を見た我々は、足下がぐらつくような、言い知れぬ不安感に直撃されたようだった。
「やっぱり、何かあったんか」阿倍野が、つぶやく。
深刻なマーチは延々と流れ続け、不吉感を増幅させた。しかし画面には白い文字が大写しになったまま、肝心の報道特番は一向に始める気配がない。僕はついに業を煮やし、手を伸ばしてチャンネルをNHKに変えた。
途端に、画面はカタカナの列で埋め尽くされた。それは全て人の名前だった。「シラカワ マルオ」「シオコウジ タカシ」「ホリカワ シメ」……。中には「シンマチ.K」など、一部が頭文字だけになっているような名前も見られた。それら無数の名を、アナウンサーの抑揚のない声が静かに読み上げていく。
「うわあ」白滝が顔をこわばらせて身震いした。「なんなんだよ、これは」
「何か、かなり大規模な事故か災害が起きたみたいだな」布団から這い出した大沢さんが、テレビに近づく。「これ、みんな行方不明者とかだろう」
名前の読み上げは延々と続き、いつまで経っても終わる気配がなかった。もしこれだけの人間が被害に遭ったとすれば、とてつもない大事件である。
さすがの我々も冗談を言う気にもならず、知らず知らずのうちに身を寄せ合うように一箇所に固まって、ブラウン管を見つめ続けた。しばらくして、やっと画面がスタジオのアナウンサーに切り替わった。
「繰り返します」深刻な顔をしたアナウンサーが早口でしゃべり始めた。「今日午後九時半頃、沖縄県の那覇空港を離陸した直後の羽田行き三三一便が、那覇市郊外の富味城町に墜落した模様です。この事故により、同機の乗客三百六人、及び同機の墜落地点近辺の住民の中からも多数の死傷者が出ていると見られ、現在警察と消防が消火及び救助にあたっています」
画面は、墜落現場と思われる映像に切り替わった。闇の中で、何が燃えているのか、赤い炎が上がっているのが見える。炎の手前には、家々が黒いシルエットとなって浮かび上がっている。飛行機はどうやら、海岸沿いの住宅地のような所に落ちたらしかった。炎の周囲では消防車なのか救急車か、無数の赤色回転灯が不吉な光を点滅させていた。
「ひどいことになるぞ、これは」大沢さんが深刻な顔で腕を組んだ。
「もし沖縄に行ってたら、やばかったんじゃないですか」僕は顔をこわばらせる。
「でも、こんな時間の飛行機には乗らんだろう」
「あの、誰かトイレ行きませんか?」白滝が情けない表情を浮かべて三人の顔を見る。
「そこにあるじゃないか、トイレなら」大沢さんが、部屋の入り口のふすまを指さす。
「この部屋を出るのが怖いんですよ」白滝はますます情けない顔になる。「一人だと、さっきの緊急報道の画面とか、名前のカタカナとかが目の前に浮かびそうで」
「外に出るって、そこを一歩出るだけじゃないか」
「ええよ、僕もトイレ行きたいし」阿倍野が立ち上がる。
「おかしな奴だな、テレビの画面が怖いなんて」大沢さんが笑う。
「いや、分からないこともないですよ。こういう大事件のあった時のニュースとかは、確かに怖いですよ」僕はそう言いながらテレビに手を伸ばし、チャンネルを変える。画面に、ホテルらしき建物の色あせた写真が写った。「あ、これトミービーチホテルですよ」
「ほんとだな。どうしたんだろう」大沢さんが首を傾げる。
画面に初老のキャスターが現れ、緊迫した口調で話し始める。「……三三一便はこのホテル・トミービーチに頭から突っ込むような状態で墜落したと見られ、建物の大部分が崩壊しているらしいという情報が入ってきております。なお、宿泊客の中からも多数の死傷者が出ている模様ですが、宿泊客の人数等については今のところまだ情報が入っておりません」
今度こそ、全員が真っ青になった。トミービーチは、沖縄旅行を検討していた時、第一候補だった場所である。もし沖縄行きが実現していれば、我々はこの事故にまともに巻き込まれていたことになるのだ。トイレに向かいかけていた白滝も、慌ててテレビの前に戻ってきた。
「これって、すごい大惨事になってるんじゃないですか」こみ上げてくる寒気を感じながら、僕はそう言った。
「何人死んだかわからんぞ、これは」大沢さんが呆然とつぶやく。
それから四人は、ひたすらニュースを見続けた。民放もCM抜きで番組を続け、たまにCMの時間に入っても、「電波妨害はやめよう」「覚醒剤はあなたを破壊する」などと言った公共広告しか流れなかった。
事故の全容が解明されるにつれて、死者・行方不明者の数はどんどん増えていった。暴風雨と、時折不気味に轟く雷鳴の中、我々は現実感を失ったまま深夜を漂い続けた。
やがて、疲れに負けた大沢さんがついに寝息を立て始めた。つられるように、白滝と阿倍野が眠りに落ちる。僕もいい加減寝たかったのだが、テレビと照明が点けっぱなしなのでは気になってとても眠れない。かと言って、消して真っ暗になるのも怖い。
何でみんな先に寝ちまうんだと理不尽な怒りを感じながら、ニュース画像を一人眺める。もう新しい情報はほとんど入らず、同じ映像が繰り返されるばかりだった。さすがに疲れてきて、枕に顔を埋めて目を閉じた。見えるのは闇だけだが、自分が今いるのは闇の中ではない。これなら安心である。
ふいに聞こえて来たジェットエンジンの金属音に、僕は顔を上げた。テレビに、離陸するジェット機のアニメーションが映っている。動きはコマ送りめいて妙にぎこちなく、輪郭はにじんでぼやけている。事故の再現画像だろうか、しかしこりゃ出来悪いなと思って眺めていると、エンジン音に雑ざってかん高い笑い声が聞こえてきた。妙だな、と不審に思ったその瞬間、画面一杯に血のように赤い文字がオーバーラップする。
「オ チ ロ」
「ぎゃあ」僕は悲鳴を上げて飛び起きた。
「おい、なんだ」声に驚いた大沢さんが布団から起き上がる。
「いや、何でもないです。すみません」僕は汗びっしょりで謝る。気味の悪い夢もあったものだ。
もう窓の外はすっかり朝だった。晴れてはいないが、雨は上がっている。風はまだ強いらしく、樹々が枝を振り回していた。テレビは知らぬうちに消されていた。
「みんな、起きはりましたか」阿倍野がふすまを開けて部屋に入ってきた。
「今、何時だ」大沢さんが目をこすりつつ訊ねる。
「八時前ですわ」そう答えながら、阿倍野は窓辺に近づく。「今フロントで聞いてきましたけど、高速船、午前中はやっぱり欠航らしいです」
「低気圧はどうなったんだろうな」大沢さんががそう言ってテレビの電源を入れると、ぼろぼろに崩れ落ちた建物が映った。コンクリートが煤で真っ黒になっている。
「何でもいいから、このニュース以外が見たいですよ」僕は弱々しい声になって言う。さっきの悪夢が、かなりこたえている。
チャンネルを変えてみたが、どの局もやはり墜落のニュース一色だった。仕方なく、テレビを消す。
「で、今日はどうする?」大沢さんが訊く。
「この島はもう充分堪能しました、城下町も見たし温泉にも入った、竜巻まで目の前で見た、とにかく本土に帰りましょう」早口でそう言ってから、僕は暗い声で付け足す。「これ以上、何かが起きる前に」
「でも、船が出ないんじゃどうしようもないぞ」
「とりあえず、チェックアウトは昼まで延ばしてもらうように頼んできました」と阿倍野が言った。「ここで運航の再開を待ちましょう」
「そりゃありがたいな」大沢さんがうなずく。「しばらく様子を見よう」
「あれ、そう言えば」僕は部屋の中を見回す。白滝の姿が見当たらない。彼の布団はいい加減に折りたたまれて、押入れの前に置かれていた。「あいつもどこか行ってるのか」
「僕が起きた時には、もう部屋にいませんでしたよ」阿倍野は言った。
「電話してみろよ。そろそろ朝飯に行かなきゃならんだろう」大沢さんにそう言われて、阿倍野はポケットから携帯電話を取り出した。
「出ませんね」しばらく呼び出してみてから、阿倍野は首を傾げた。
「しょうがないやつだな。俺らだけで先に食っとこうぜ」僕はそう言って、はだけた浴衣を直す。
広間で朝食を済ませた我々は、部屋でごろごろと時間をつぶした。大沢さんと阿倍野はテレビを眺める。やはり事故のニュースばかりだが、他に何もやっていないのでは仕方ない。
僕はソファーに座り、ヘッドホンで音楽を聴きながら、持参した小説を読むことにした。俯いたまま、テレビの方向を見ようとはしない。
思わず顔を上げてテレビのほうを見たのは、「電波ジャック」という言葉が聞こえたからだった。「深夜の電波ジャック」という見出しの上で、アナウンサーが何かしゃべっている。僕はヘッドホンを外し、テレビの前の二人に訊ねる。
「何ですか、電波ジャックって」
阿倍野が振り返る。「誰かが、SKTの電波に割り込んで海賊放送を流したらしいですよ、昨日の夜中」
「テロ声明みたいな感じだな、この内容だと」と大沢さんが背中を向けたまま言った。「過激派の仕業じゃないか」
画面に、イラストが映った。ぼやけたジェット機が離陸しようとしている。僕はあっと声を上げた。
「これ見ましたよ、多分。映りの悪いアニメーションで、最後に『オチロ』って出るんですよ、赤い字で」あの笑い声を思い出した僕は、身震いした。「夢じゃなかったのか」
「らしいな。今、そう言ってた」大沢さんが振り向く。「貴重なものを見れたな」
「一生忘れられませんよ、あれは」僕はため息をつく。
その時、床の間の電話が鳴り出した。三人は一瞬、体を堅くして電話機を注視する。やがて阿倍野が、受話器を取った。
「はい。ああ、どうも、すみません。え? あ、そうなんですか。もちろん、助かります。ええ、お願いします。十一時ですね。分かりました」受話器を置いた。
「どこから?」僕は訊いた。
「フロントからです」阿倍野はそう答えると、大沢さんに向かって言った。「船が、午前中に一便だけ出るそうです。で、宿の人が、四人分の席を押さえてくれはったんですけど、」
「乗らいでか!」僕は叫ぶ。「帰ろう、本土に」
「そうだな、事態が変わらないうちに帰ったほうがいい」大沢さんはそううなずいてから、首をひねる。「しかし、この宿はむやみに親切だな」
「ここのオーナー、うちの大学のOBらしいんですわ。で、僕らが後輩って知って」阿倍野が笑う。「やっぱり、この地方じゃ強いですねえ、うちは」
「しかし帰るとなると、いい加減白滝を呼び戻さないとまずいな。もう一回電話してみろよ」僕は阿倍野に言った。阿倍野は再び携帯電話を取り出し、白滝の番号を呼び出す。
「やっぱり、あかんですわ」
「何やってんだ、あいつは」大沢さんが苛立った声を出す。「船の時間までに戻らなかったら、見捨てて帰るぞ」
「先に僕らだけでも港に行っときませんか?」僕は言った。
「そうだな」大沢さんがうなずく。「阿倍野、悪いけどあいつの荷物も持って行ってやってくれ」
「しゃあないなあ」しぶしぶ、と言う感じで阿倍野が白滝の荷物をまとめ始める。
ホテルのマイクロバスで高速船ターミナルへ送ってもらい、我々は無事にカウンターで切符を手にすることができた。ターミナルビルの中は、船を待つ客でごった返していた。ベンチはすでに人で埋まり、多くの人が床に置いた荷物や、新聞紙を敷いた上に座っている。あちこちで子供の泣きわめく声が聞こえる。テレビの画面には、千キロの彼方で起きた墜落事故犠牲者の顔写真が並ぶ。
もし臨時便の席を押さえてもらっていなかったら、我々もいつ帰れるか見当もつかないまま、彼らと一緒に床の上で船を待つことになっただろう。
「大変だねえ、この人たちは」僕は笑みを浮かべる。我々にとってはもはや、この大混乱はまるっきり他人事なのである。
「そやけど、まだ風強いですよねえ。ほんまに大丈夫なんやろか」二人分の荷物を背負った阿倍野が、首を傾げる。確かに、彼方の桟橋に係留された高速船の船体は、この距離から見てもかなり大きく揺れているようだった。
「万一欠航にでもなったら、この連中と同じ立場に逆戻りだな」大沢さんが暗い顔をする。
その時、阿倍野の携帯が鳴った。荷物で両手がふさがっている彼は、慌てて右手のボストンバッグを乱暴に床に下ろし、電話に出た。
「あ、もしもし。え? 何それ。なんでそんなとこに。うん、今? 港来てる」
「白滝か」阿倍野の受け答えを聞きながら、大沢さんがつぶやく。
「うん。ちょっと待って」阿倍野は携帯電話を耳から離した。「なんか白滝君、島から帰らへんとか言うてるんですけど」
「はああ?」
「なんじゃそりゃ」
僕と大沢さんは、揃って呆れ顔になった。
「僕も良くわからへんのですけど、要するには島の女の子に振られたらしくて、それがショックやったみたいで」
「振られるも何も、まだこの島に来て一日しか経ってないじゃないか」苦虫を噛み潰したような顔で、大沢さんは大声を出した。「この短期間で女見つけて振られるって、どんだけ失恋の天才なんだよ」
「朝から何やってんだ、あの馬鹿は」僕の声も大きくなる。このややこしい時に、とんでもなく迷惑な奴である。「もういい、俺たちは本土に帰る。帰りたくないってんなら、あいつは心ゆくまでこの不吉な島にいればいいんだ」
「そうだ、そう伝えてやれ」大沢さんがそう言って、阿倍野の携帯を指差す。
「分かりました」阿倍野は再び携帯電話を耳に当てた。「もしもし。あ、聞こえてた。うん。そういうこと。え? いや、そんなん言われても。僕困るよ。あかんて、ちょっと待って」
「今度は何を言ってるんだ?」大沢さんが訊いた。
「いや、その」阿倍野は言いよどんだ。「みんなが帰る言うんやったら、海に飛び込んで死ぬって」
「何だって?」大沢さんが再び唖然とした表情になる。
「おい」僕は阿倍野の耳元に顔を寄せて、小声で言った。「とりあえず携帯、保留にしろ」
「あ、はい」阿倍野は慌てて携帯の保留ボタンを押した。
「あいつは一体、何がしたいんだ」大沢さんが頭を抱える。
「奴がどこにいるのかは分かってるのか?」僕は阿倍野に訊ねる。
「はい、それは。電話かけてきて真っ先に言うてました。なんか、煙突岩とかいう所にいるとか」
大沢さんが、例のイラストマップをショルダーバッグから取り出した。指先で、この町周辺の海岸線をなぞっていく。
「あった、ここだな」大沢さんはそう言って、イラストマップの該当箇所を僕と阿倍野に指し示した。町から少し東側の海岸沿いに、なるほど煙突のような形をしたひょろ長い岩のイラストが描かれており、そばには「エントツ岩」の文字がある。
「どうしましょうか、大沢さん」
「飛び込むとか言ってる以上、放って置くわけにもいかんだろう」大沢さんは足元に溜まりそうな、重いため息をついた。「とにかく行ってみよう、そのエントツ岩。で、俺らが着くまでは自重しろと白滝に言ってやってくれ」
「分かりました」阿倍野は再び携帯のボタンを押した。「ああ、もしもし。僕らも、とにかくそっち行くわ。うん、話聞いてくれるって、大沢さんたちも。待っててな、それじゃ」
「何で俺らがそこまでしてやらなきゃならんのだ」僕は思わず、天を仰ぐ。
エントツ岩の辺りまではバスも出ているようではあったが、時間があまりないので、我々はタクシーに乗らざるを得なかった。社会人の大沢さんはともかく、僕が普段の生活でこんな高い乗り物に乗ることは有り得ないだけに、余計な出費もいいところだった。荷物は、コインロッカーに預けることにした。
「エントツ岩ってのはあれですか、何か特にいわれとかあるんですか?」大沢さんが、運転手に訊ねる。
「あるともさね」いかにも田舎のタクシードライバー、という感じのゴマ塩頭のおじさんがうなずく。「昔々の話だけんどな、庄屋の娘にぞっこん惚れちまった網元の息子がおらっしゃったんだが、どうしても思いが通じねえ。で、その息子は嘆き悲しんだ挙句にだわ、エントツ岩の上から身投げしてだな、死んじまったと、こういう話だ」
「それで終わり、ですか? 庄屋の娘は?」
「終わりだよ。娘っ子は、代官様に嫁入りして幸せに暮らしたそうだよ」
「何か…… 全然救いがあらへんですね」阿倍野が暗い顔になる。「まるっきり無駄死にや」
「白滝もやばいんじゃないか、これは」僕はため息をついた。
市街地を抜けたタクシーは、海沿いの道を快調に飛ばした。まだ波は高いようだったが、海の色に昨日ほどの寒々しさは感じられない。雲に覆われた空も、少しずつ明るさを取り戻しつつあるようだった。
しばらく走るうち、行く手の海岸に高い塔のようなものが見えてきた。明らかに人工物とは異なる、ゴツゴツとした表面を持つその物体こそ、件のエントツ岩に違いなかった。近づいていくにつれ、その高さがかなりなものであるらしいことが分かってきた。人の背丈の十倍はあるのではないか。なるほどこんなのから飛び降りれば、即死できること請け合いである。
「立派な岩だな」大沢さんが、感心したように言った。「これは、登れるんですか?」
「段梯子が一応ついとるからね、登ろうと思や登れるけんども、私はあんな怖いもんに登るのはごめんですわ」ゴマ塩頭ドライバーは言った。「あんたたちも、登るつもりじゃったら、よう足もとに気をつけたがええよ。時々、落ちよる人がおるからね」
エントツ岩の麓にある駐車場で、我々はタクシーを降りた。周囲を見回してみたが、白滝の姿は見当たらない。公衆便所と無人のバス停があるだけだ。阿倍野がまた電話してみたものの、呼び出し音が鳴るばかりで、白滝が電話に出る気配はなかった。
「登ってみるしかないな、こいつに」大沢さんが岩を見上げる。
岩の登り口には観光案内板があって、その案内板にはタクシーの運転手が教えてくれたいわれが、「喜兵衛の悲恋」として紹介されていた。これが悲恋かね、などと言いながら階段を登り始めた我々は、運転手が気をつけろと言っていたことの意味をすぐに理解した。岩の周囲をらせん状に取り巻くように取り付けられた階段の外側には、柵も手すりも何もなかったのである。
階段の幅は人がようやくすれ違える程度しかなく、強風にあおられてふらついたりしようものなら、あっさり踏み外しかねない。これでは、「時々落ちよる人がおる」のも当たり前である。岩を半分ほど登ったところで、僕の足は次第にすくみ始めた。立ち止まり、階段の外側を恐る恐る覗き込むと、海面がはるか下方で泡立っている。
「あの、大沢さん」僕は悲鳴混じりの声で、先行する大沢さんを呼んだ。
「何だ」ゆっくりと振り向いた大沢さんも、少し顔色が悪いようだ。
「これ、ほんとに上まで登るんですか?」
「仕方ないだろ、白滝がこの上にいるんだから」
「しかし、洒落にならんですよ、この階段。落ちたら喜兵衛の二の舞で」
「落ちなければいい」大沢さんは素っ気なく言った。「気が散る。つまらんことで話しかけるな」
落ちなければ良い。よろしい、その通りだ。僕は何もかもあきらめて、再び階段を登り始めた。
高いわ、視界を遮る物はないわで、見晴らしは最高だった。もしも天気が晴れならば、海の向こうに本土だって見えるだろうと思われた。階段がこんなでさえなければ、なかなか悪くない観光スポットとも言える。ならば、この景色を楽しまなければ損なのではないか。
と、前向きな思考をしようと努力を続けていた僕の耳に、何か不吉なざわめきが聞こえてきた。思わず足を止めた僕の目に、眼下の海岸沿いに並ぶ木々が激しく枝を揺らしているさまが飛び込んできた。まずい、と思ったその瞬間、ごうという響きとともに、強い風が吹き上げて来た。あわててしゃがみ込み、岩肌に体を押し付け、頭を抱える。
風が吹いていたのはほんの数秒間だけだったはずだが、僕にはそれが随分長い時間のことに思えた。風が去り、ゆっくりと顔を起こして振り返って見ると、何段か下の段に阿倍野が平気な顔をして立っていた。
「いや、びっくりしましたね、一郎さん」
「お前、良くそんな風に立ってられるな」僕は呆れて言った。
「僕、高いとこ全然大丈夫なんですよ」阿倍野はにこやかに言った。
その時だった。どこからともなく、「おーい」と呼ぶ声が聞こえてきた。間違いない、白滝の声である。どこだ? と周囲を見回したものの、こんな空中に白滝がいるはずもない。それに、どちらかと言うと低い所から声が聞こえる気がする。またしても恐る恐る階段の外側を見下ろしてみる。駐車場の公衆便所のそばで、白滝が大きく手を振っているのが見えた。表情までは良く分からないが、何となく笑っているように見える。
「くそ、何だあいつは」僕は腹を立ててわめいた。「俺らが誰のせいでこんな目に遭ってると思ってやがるんだ」
「しまったな。あいつ下にいたのか」大沢さんが舌打ちした。
「登らんでも良かったんですねえ」阿倍野が呑気な調子で言った。
仕方なしに、我々三人は階段を下り始めた。今度はずっと下を見ながら歩くことになり、登るときよりもさらに怖い。足元の、ほんのちょっと向こうはもう空なのだ。はやる心を抑えながら、僕は慎重に一段一段を踏みしめて地上へと向かった。
ようやく登り口まで戻ってくると、そこに白滝が待っていた。
「ははは、みんなすごいですね、こんなの登るなんて。僕はちょっと登ってみてすぐやめましたよ。怖くなかったですか?」
白滝のその言葉を聞くなり、僕と大沢さんはこの男に襲い掛かり、二人がかりで散々にぶちのめした。
白滝が白状したところによると、振られたその相手というのは夏の終わりに知り合った、メール友達の女子高生だということだった。島に来てから知り合ったというわけではなかったらしい。
朝からホテルを抜け出して町に降りた白滝は、女子高生がバイトをしているという「コンビニ」に出向いたのだった。そして、レジに立つ彼女の顔を見るなり「好きだ、付き合ってくれ」と告白したらしい。
「いや、写真どおりのかわいい娘だったんですよ。ところが、ごめんなさいって言われちゃって頭真っ白になりまして、気がついたらこの岩の近くで海見てたっていうわけで」と白滝は言った。「そうこうしているうちに、体が冷えたせいか腹具合が悪くなってきまして、しばらく公衆便所にこもってたんです。で、出すもの出したらなんか気分がすっきりしてきましてね」
そして白滝がトイレでしゃがんでいたちょうどその頃、我々三人はここに到着したのだった。白滝とすれ違いになった我々は、おかげで意味も無くあんな岩に登らされる羽目になったというわけだ。
要するに白滝がこの島に来たのは、半ばその娘と会うのが目的なのであって、金が無いとか旅行の手配を引き受けるとか言い出したのも、全てそのためなのであった。我々三人はまんまと白滝の個人的な計画に巻き込まれて、こんな島まで来てしまったと言うわけである。何ともまぬけな話だ。
しかしまあ考えようによっては、おかげで我々は沖縄に行かずに済み、命拾いしたのだとも言える。動機の不純さを考えると、こいつを命の恩人だなどとは死んでも言いたくはなかったが、白滝の責任はとりあえず不問とすることになった。
とにかく、とっとと港に帰って島からおさらばだと、我々は道路のそばに立って、タクシーが通りがかるのを待った。しかし走り過ぎる車の数はごく少なく、タクシーは全く姿を見せない。船の出港時刻は次第に近づいてきており、もはや時間の猶予は無かった。来た時のタクシーを待たせておくんだったと後悔したその時、道の向こうにバスが姿を現した。行き先は「銀座バスターミナル」とある。
「よし、あれに乗るぞ」と大沢さんが叫び、我々は急いでバス停に戻った。昨日の帰りに乗ったのと同じような古ぼけたバスは、車体を大きく揺らしながら駐車場に入ってきて、我々の前に停車した。
走るルートこそ来た時のタクシーと同じではあったが、そのスピードは全然違っていて、路線バスは実にのんびりと町へと向かった。もう時間がないのにと僕はいらいらしたが、焦ってみても旧式のバスが走る速さが変わるわけもない。いくつかの停留所に止まったりしながら、結局バスが銀座バスターミナルに着いたのは、船が出る予定時刻の二分前だった。
運賃を払うのももどかしく、我々は転げ落ちるようにバスを降り、本島銀座商店街のアーケードの下を二十五秒で駆け抜けた。そしてそのまま足を止めずに、高速船ターミナルのビルへと駆け込んだ。コインロッカーの荷物を出し終えたとき、壁面のデジタル時計の数字が、出航時刻ちょうどを告げた。荷物を振り回すようにしながら、我々はビル内を全力疾走で桟橋へと向かった。高速船はまだ桟橋の彼方にいたが、桟橋への通路に立っていたターミナルの職員が、両手を大きく広げて我々を制止しようとした。
「待ってくれ!」先頭の大沢さんが走りながら大声で叫んだ。「俺たちはあの船の乗客なんだ」
「まだ出ませんよ、この船」冷めた声で、職員が言った。僕は前のめりに転びそうになりながら、走るのを止めた。
「出航遅れてるんですか?」と阿倍野が訊ねた。あれだけ走ったのに彼は息一つ上がっておらず、平然としている。
「天候状況の回復が遅れてまして、とりあえず十一時二十分まで出航を見合わせてます。お急ぎのところ、誠に申し訳ありませんが」と職員は答えた。
阿倍野を除く三人は一気に脱力して、その場に座り込んだ。あんなに慌てる必要はなかったのだ。
そして十一時二十分、ようやく桟橋への通路が開いた。そこを通れるのは、貴重な切符を手にした人々だけである。恨めしげな視線を感じつつ、我々も桟橋を船へと向かった。しかし船に乗り込んでしまっても、まだ油断はできなそうだった。定員ぎりぎりで満席の船は、ゆらゆらと不安定に揺れ動いている。果たして本当に出航できるのだろうか? いや、出航したはいいが、海の真ん中で転覆などということになるのではないか。我々はいつになく真剣な表情で、脱出口や救命胴衣の場所を確認した。
やがて、ついに出航の時が来た。高速船はゆっくりと桟橋を離れ、沖へと向かった。船尾の方向を振り返ると、ガラス窓の向こうに次第に遠ざかっていくターミナルビルの姿が見えた。まだ先は長いが、とりあえず島からの脱出には成功した訳である。
動き出してしまえば、船の揺れも思ったほどではなかった。僕と白滝は展望デッキに上がり、少しずつ離れて行く町の姿を二人並んで眺めた。双眼鏡を貸して欲しいと白滝が言うので、鞄から取り出して渡してやると、彼は何かを探し求めるようにそのレンズを左右に向けた。
「かわいかったのになあ、有紀ちゃん」白滝が未練がましい声を出す。「もう会えないのかなあ」
「今度会いに行くときは、お前一人で行けよ。二度と俺らを巻き込むな」僕は冷たい声でそう言った。
町の姿が小さくなった頃、床の下から聞こえるエンジン音が急にかん高くなった。途端に航行速度が上がる。さすがは高速船なのだが、波を次々と乗り越え始めた船は上下に大きく縦揺れを始め、僕と白滝は慌てて船室内に戻った。しかし座席に座ってはいても、体が浮き上がっては落下するの繰り返しで、前席の背もたれをつかんでいないとじっと座っていることすら難しかった。船内の至る所で悲鳴が上がる。
「だ、だ、大丈夫なんでしょうかこれは」真っ白な顔の白滝が泣き声をあげる。
「しらん、もう、何もわからん。俺にはわからん」大沢さんが目をつぶったままわめく。
「わはははは」僕は爆笑する。「わははははは」
「船って、こんなに揺れても転覆せんもんなんですねえ」海と空が目まぐるしく入れ替わる窓の外を見ながら、阿倍野は冷静に感心している。
大波を越えたのか、船は空を目指すかのごとく勢い良く上昇し、次いで激しく降下した。白滝がついに床に転げ落ちる。「助けて、誰か助けてくれ」
「もう駄目だ、これは限界だ」
「わははははははははは」
高速船は高波を切り裂くように、ひたすら本土を目指した。船内の状態など意に介しないその勢いは、力強く、頼もしい限りだった。しかしそれは、我々にとって最後の受難の時でもあった。
本土が近づくにつれて天候は急回復し、船の揺れも次第に収まっていった。ついに港が見えてきた時、上空の雲の切れ間からは太陽がのぞいていた。海の向こうに並ぶビル群。中には十五階はあろうかと思える高層ビルの姿もある。ガラスの塔の如きその姿に降り注ぐ陽の光は、神々しいまでの輝きを湛えていた。
「ああ、帰ってきた。俺たちは、都会に」しみじみと、僕は言った。
「いつもは、『こんな田舎町なんて』って馬鹿にしてはりませんでしたっけ? この町」阿倍野が混ぜ返す。
「人間、苦労すると変わるものなのさ」僕は重々しくうなずく。
「とりあえず、着いたら昼食にしよう」と大沢さんが言う。
「ファストフードに行きましょう」僕は急に元気を取り戻す。「牛丼か、ハンバーガーとポテトのセットが食いたい!」
床に転がったままの白滝含め、三人に異議はなかった。
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2009/11/30(Mon)20:40:14 公開 / 天野橋立
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■作者からのメッセージ
はじめまして、天野橋立といいます。
今まで、人の目につかないところで、一人でこつこつと小説を書いてきましたが、一度は他人に読んでもらわないと上達しないな、ということで、投稿してみました。
もし良ければ感想や批評などをいただければ、大変うれしいです。よろしくお願いします。
11/30
いただいた感想を参考に、「この島に来ることになったのは、実はあるメンバーの思惑によるものだった」という設定を付加し、旅館の場面以降を中心に十数枚分程度を書き足した、加筆改訂版をupしました。
尻切れトンボの感じを、若干緩和できたかなと思います。