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『save (2)まで』 作者:やるぞー / リアル・現代 異世界
全角32591文字
容量65182 bytes
原稿用紙約94.4枚
太郎君は今、高校生。ゲームが大好きな高校生。もう、ゲームがないと生きていけない!でも、ある日、そんな大好きなゲームをしていて大変なことが起こっちゃいます……。あともう少しで全クリできそうなんだけど、ラスボスの大魔王は只者じゃあなかった。奇想天外。摩訶不思議。太郎君がどうなっちゃうのかは誰にもわからないのでありました。
『save(セーブ)』



(1)


 人生は決してやり直せないわけではないのです。
 太郎君はテレビゲームが大好きでした。特に好きなのがロールプレイングゲームです。地道に時間をかけてこつこつとやっていくのが楽しいのです。
 ゲームの中で太郎君はよくセーブをします。ボス戦の前には必ずしますし、大事なアイテムを手に入れたときも必ずしますし、レベルが上がったときも必ずしました。そういうふうに逐一、セーブをしていました。そうしないと不安で堪らなかったのです。
 セーブという機能は本当に便利なものでした。セーブをするということは、ある時点を記憶するということでした。とってもいいと太郎君は思っていました。気の向くままに何度でも何度でも、そこからやり直せるということ、失敗を恐れずにプレイ出来るということが素晴らしい。セーブがなければ、おそらく自分はゲームをしないだろう。セーブがあるからこそ、自分はゲームをするのだ、と思うのでした。

 ※   ※   ※
 
 終わりのチャイムが鳴りました。太郎君は学校の教室にいて、机の上に出した鞄に手をかけていました。太郎君は高校生でした。周りのクラスメイトたちも同じく起立して、鞄を背負い、互いに手を振り合っていました。もう、帰りの時間なのでした。
「じゃあ、また明日」
「うん、また明日ね」
「今日の体育、すごかったね」
「だね。明日はきっと筋肉痛だよ」
 そういう会話が繰り返し行われています。中庭では、大柄でとても筋肉質な先生が「お前らぺちゃくちゃ喋ってねーで早く帰れバカ野郎!」と口悪く叫んで見送っています。みんな、明るく帰っていきます。けれども、俯きがちな太郎君だけは、とても元気がないようでした。
 明るかった教室が一気に暗くなりました。どうやら、さっきまで出ていた太陽が、雲の裏側へと隠れてしまったようでした。あっという間に、太郎君の影が、姿を消しました。教室の一角。太郎君はその中で、じっと、そこから出て行く人たちを見送るようにして、眺めていました。
「あっ」
 太郎君は咄嗟にそう口から零すと、なにかしらの行動を起こそうとしました。それは、横開き式のドアに手をかけて、ある男の子が今まさに出て行こうとしているときでした。教室から数人の友達と共に、出て行こうとしているときでした。
 太郎君はなにかをしなければいけない、と思っていました。なぜなら、その男の子が、野崎君だったからでした。両手で突き飛ばしたときの、掌の感覚が、まだ鮮明に残っていました。そのことを思うと、情けなくて堪らないのです、とても自分が。
 野崎君は太郎君とは違い、頑丈な体つきをしています。顔もかっこいいです。元気です。見れば見るほど、自分とは違うんだということを、感じました。いい奴なのです。自分とは違って。それでも、太郎君は必死に、一歩、足を踏み出そうとしました。
 不意に、野崎君は自分へと注がれているその視線を感じとったのか、そっと振り返りました。それから、太郎君を一瞬、本当に一瞬、横目で見やると、そのままなにも言わずに出て行きました。太郎君がしようとしていた行動は、その瞬間、ぴったりと止まったのでした。お前にはもう、さすがに付き合っていられない、と言われている気がしました。なにかが終わったような気がしました。
 誰もいなくなった暗い教室で、一人、太郎君は立ち尽くし、窓から覗ける空を見上げました。それは、角ばった空でした。おまけに、どんよりと濁っていました。軽く、椅子を蹴りました。衝撃を受けた椅子は蹴られた方向へ動いて、床を滑る音を出しました。その高くて不愉快な音は、太郎君の耳へと届きました。耳に入った音はすぐさま電気パルスへと変換され、物凄いスピードで脳へと行き着きました。脳では、大量のノルアドレナリンという物質が出されていました。そして、感情が引き起こされました。
 ――こんなの、嫌だ、と。

 ※   ※   ※

 学校が終わりました。すぐに、太郎君は急いで家まで帰りました。家に着くや否や、台所に行って蛇口を捻り、顔を洗って汗を流しました。誰かに追われるように階段を駆け上がって、自分の部屋へと滑り込みます。すると本棚の前に、妹が、座っていました。
「なにやってんだよ」
 太郎君は小さく、尖った声で尋ねました。
「本、借りようと思って」
 妹は太郎君に背を向けたまま言いました。「これ、借りるから」立ち上がりました。
「勝手に入るなよ」
 そう言うと、二人は向かい合って、なにも言わないまま何秒か経ちました。妹は太郎君を睨みつけました。そして、ぼそっと言いました。
「あーあ、帰ってくるの、いつも早いよね。友達いないんでしょ」
「はあ?」
 太郎君は拳をぎゅっと握りしめました。爪が肉の中へと沈み込みます。静かに妹は歩きだし、太郎君の横を風のように冷たく通り過ぎて行きます。
「おい、待てよ」
 太郎君は、部屋から出て行こうとする妹の手を掴みました。
「ちょっとなによ、離してよ。痛い」
「…………」
「なに? 言いたいことがあるんなら言えば」
「…………」
 太郎君はそれでも口を開きませんでした。その代わり、目を大きく広げていました。じっと見ていました。妹の、目を。じっと見ていました。しかし、
「兄貴ってさ、変」
 その言葉を受けて、太郎君は手を離しました。冷汗が額から滲んでいました。
「はあ? 俺のどこが変なんだよ。お前の方が変だろ。逃げるようにしてさ。バカみたいに親にくっついて回って。なにもわかっちゃいやしないんだよ」
「当り前でしょ。誰があんたのことなんかわかるのよ。私のことだってわからないくせに」
「そんなの知るかよ!」
 バタン、という大きな音。急いで鍵をかけます。ドアの向こうから「キモチワルイ」というぼそっとした声が聞こえました。太郎君は歯を食いしばり、頭を抱えました。鍵をかけたのは、妹が入ってくるのが面倒だからです。
 でも、本当はそんなことはしたくないはずだろう。太郎君は自分がどういう気持ちでいるのかわからなくなって、心の中で問いかけていました。返ってきた答えは、悲しい。ただ、太郎君は悲しかったのでした。
 どうしてこうなったんだろう。太郎君は無気力な感じで部屋の中央へと歩いて行き、そのまま明かりもつけずに、テレビの電源をまず入れました。カーテンも締まっていますから、部屋はとても薄暗いです。でも、太郎君はこの暗さの中で、ゲームをするのが好きなのでした。そう、ゲームをすればいいんだ。ただ、それでいい。太郎君は座り込んでコントローラーを握りしめました。

 ――ゲーム開始。題名が画面の真ん中に浮かび上がりました。太郎君は手慣れた動作でコントローラーをさばき、まずはロードを行います。ロードというのは、前にセーブした、その時点へと行くことです。これをしなければ始まりません。
 ロードの読み込みが終わるや否や、新たな世界が始まりました。最近のゲームは物凄く発達しています。3D仕様の立体的なグラフィックスが、瞬時にリアルな世界の扉を壊して、違う世界へと太郎君を引き込んで行きました。ついに太郎君は、不気味な世界の、大きな塔の前に立っていたのです。
 ぶわっと生ぬるい風が吹きました。死臭がしました。遠くで人間ではないなにものかの叫び声がしていました。そういう、暗い世界です。太郎君は鋭い切っ先の剣と、重く頑丈な盾を装備していました。魔法も頑張ってたくさん覚えてきました。目の前に聳え立つ塔を見据えます。高い塔です。恐ろしい塔です。ここは、最後の難関です。でも、今の自分は強い、そう太郎君は言い聞かせました。
 一世一代の決戦を予感させるBGMが、緊張感を一気に高めいき、早くもコントローラーを握る太郎君の手からは汗がびっしょりと滲み出していました。ゲーム画面以外はもうなにも目に入りません。耳にも届きません。今日出された宿題のことも頭にはもうありませんでした。太郎君の意識はそこを離れ、複雑にプログラムされた、セーブも魔法も殺し合いも可能なイマジネーションの世界へとやってきていたのです。そこには途轍もなく強い大魔王が存在しているのです。
「よし、今日こそはやってやる」
 太郎君は意気込み、そして堂々と塔の中へ入って行きました。中はとてつもなく広い空間、そこには髑髏の形をしたたくさんの蝋燭の火が、のろのろと大きく揺れています。辺り全体に黒っぽい霧がかかっています。前が見えにくいのですが、それでも太郎君は怯えることなく突き進んで行きました。
 と、前方の霧の中、大きく蠢く影が見えます。異様な大きさの影。奇怪な蛮声が轟きます。太郎君は素早く危険を察知して腰に差していた剣を抜きました。どんどんと影が近づいてきます。「うおー!」と大きな声を上げて太郎君は立ち向かって行きました。姿を現したのは緑色した大きな怪物です。突如として真上から大きな手が振り下ろされます。危ない。間一髪。太郎君は状態をそらして攻撃をかわしました。当たっていたらぺしゃんこでしょう。しかし今度は太郎君の番です。おもむろに右手を怪物の頭へと向けました。そして大きな声を上げます。するとなにもないはずの右の掌から、大きな火の玉が飛び出して行きました。これが魔法です。太郎君は魔法で応戦です。火の玉は怪物の頭を直撃し、燃え上がりました。苦しみ、苦しみ、まもなくして怪物は力尽きました。
「おお。危なかった。二匹いたらやられてた」
 時たま口角を上げるようにして笑みを浮かべ、太郎君はいろいろなことを呟きながらコントローラーを操作しています。暗い中、一人です。締め切られた部屋、空気が悪い部屋、ここだけが世界から見捨てられ、どこかに連れ攫われてしまっているようです。きっと、誰かがそっと囁いてやらなければ、どうにも逃れようのない状態に追い詰められているのかもしれません。いいえ、確かに追い詰められているのでしょう。今すぐにでも絶叫したい。暗い部屋に一人。暗い塔に一人。たった一人。どこまで行っても、どこまで行っても――。
 太郎君。実は昨日も同じ敵を倒してはいました。しかし、その戦いで致命傷を負った太郎君は、その先でなんでもない雑魚に殺されてしまったのでした。けれども今回は、一度も攻撃を喰らうことなくやっつけました。これでやっと、大魔王がいる部屋まで辿り着けそうです。今日こそは、という思いが高まって行きます。額からも汗が滲みます。自然とコントローラーを握る手にも力が入ります。体が震えます。なんだかいけそうな予感がしています。
 強烈な雷を纏った剣を振り、火の息を盾でガードしました。そうやって雑魚には目もくれずに先へ先へ、上へ上へと進んで行きます。そして「ついに、やったぞ」太郎君は目の前の分厚い扉を前にして言いました。とうとう、太郎君は最上階にある大魔王の部屋へと辿り着いたのです。
 ここで一気に大魔王を倒したいところですが、当の太郎君は辺りをきょろきょろと不安そうに見渡して、必死になにかを探しているようです。
「セーブポイント……セーブポイント……セーブポイント……」
 繰り返し呟いて、大魔王の部屋の前を狂ったように走り回っています。目が虚ろ虚ろしていて、その行動には焦りが見られます。テレビ画面を凝視。その瞳にはテレビから漏れた残光が怪しく映っています。「あっ」と太郎君の口から言葉が漏れました。やっとお目当てのものを見つけたようです。
 見つけたもの、それは白い石のようなものでした。一見すると、ただの小さな石ころのようですが、しかしこれは太郎君にとってはとっても大事なものでした。これがないとセーブもロードも出来ないのです。それをするためのアイテムのようなものなのです。
「……よかった。なかったらどうしようかと思った」
 白い石を掴んで、本当にホッとしたように太郎君は言いました。慣れた手つきでコントローラーを動かし、きっちりとセーブをしました。白い石は太郎君の掌の中で、強く眩しく輝いていました。白い光を放っていました。

 ――大魔王の部屋の前。

 どうやら、ここがセーブポイントのようでした。不安になって太郎君はもう一度確かめます。「大魔王の部屋の前」しっかりと記録されています。
 ようし、これでもう大丈夫だ。負けたとしても、どうせまたここからやり直せばいいだけだしな、太郎君はそう自分に言い聞かせて、高揚した気分を落ち着けました。ふー、と大きく息を吐きます。
 そう、何度でも何度でもやり直せるんだ、太郎君は強く思いました。セーブしてロードして、セーブしてロードして、セーブしてロードすればいい……。そうすればいいんだ。ただ、そうすればいいだけなんだ。
 そうして、白い石を自分のポケットへとしまい込んだときでした。忽然と突き刺さるような痛みが、頭の中を通りすぎたのでした。そして、ポケットから白い光の粒が漏れ「でも、もし――」と、なぜか、不意に、ゲームとは関係ないはずの考えが、なんとなしに浮かんできたのでした。それは囁きに似た言葉でした。囁きに似た――そんなような、
「――ド、コ?」
 もし、人生においても、この機能があったとしたなら、どうなるだろう、もしも、セーブが出来るとしたら、自分は、人生のどのポイントにセーブをするだろうか、僕が、一番いいと思うセーブポイントはどこなんだろうか、ロードしたい、あの日、あの時間、あの場所は一体どこなのだろうか……。もしや、それこそがぼくの、大事な、本当に大事だった瞬間なのかもしれない。ああ、思い出されるたびに引き千切られそうになる想い。分岐点? 僕のセーブポイント……。
 そこまで考えて、太郎君は大きくかぶりを振りました。頭が酷く痛みました。ツンとした、鋭い針が突き刺さっているような、そんな痛みでした。なにかが囁かれます。でも、今の自分の腰には、立派な剣が差さっていて、左手にはかっこいい盾を持っていて、右手からは火の玉も出せるのです。しかも、目と鼻の先に大魔王がいるのです。
 そう。リアルな世界の、今日の宿題のことや、昨日些細なことで喧嘩してしまった友達のこととか、彼女がなんで出来ないのかとか、お父さんのこととか、そんなことを考えている場合ではないんだ、と太郎君は思い直しました。そう、そんな場合じゃない。そんな場合じゃないんだ。逃げなきゃ。逃げなきゃ。追われてるんだ。
 ふー、ともう一度息を吐きました。目の前には、分厚い威圧感漂う黒い扉があります。セーブはちゃんとした。大丈夫だ。大丈夫だ。まだ頭が痛みます。でも、大丈夫だ。大丈夫だ。だって、何度でもやり直せるんだから。大丈夫。そう思って、太郎君はその扉に手をかけました。ぎぎーと不快な音がして、扉がゆっくりと開いて行きます。冷たい空気が肌に染みました。重苦しい雰囲気に埋もれそうになります。痛み、囁き――。
 ああ、煩わしい。待っとけよ大魔王。今からお前をぶっ倒してやるからな。そういう意気込みで、一歩、太郎君がその部屋へと踏み入れました。突然、「ザザザザザッ」という大きいノイズ音と共に、低い重い声が聞こえてきたのです。それは殺気に満ちた声でした。おそらく大魔王の声。あの囁き。これは大魔王の声。
 なんて声をしているんだろう。その声を聞いただけで、太郎君は恐怖に慄き、後ずさりしてしまいました。
 圧倒。これが、これが、この世界の全てを支配する者の、威圧感なのか、いやしかし、ここまでとは。太郎君は今までに感じたことのない、はっきり言って、これがただのゲームであるとは思えない程の、異質な、異質な、恐怖感を覚えていました。大魔王はなにかを囁いているように感じられます。太郎君は信じられないといった感じで、もうそこからは一歩も進めずに立ち尽くしていました。鳥肌が全身に広がります。
 突発的な「ザザザザザ、ザザザッ」不快なノイズ音。痛む、頭の奥。それに交じるようにして、戦慄の囁きが届きます。異質。恐怖感。虚無。絶望。それと、閉じ込められたような圧迫感。振り返るともう扉は閉ざされていました。太郎君は強い危機感を覚えました。 
 勝てない。圧倒的過ぎる。太郎君はここから逃げようと扉を押しました。強く、押しました。しかし、扉は頑なに閉じられていて、開きません。逃げれません。もう、逃げれません。
「おい、開けろ!」
 何度も何度も力いっぱい叩きますが、ビクともしません。強く叩きすぎて、手から血が滲みました。ああ、嫌だ。嫌だよ。怖い。怖いよ。
「おい、開けろ! 開けろってば!」
 戦うしかないのか。無理だよ。心臓がバクバクしているのを感じています。もう真っ暗です。周りも、頭の中も、全て真っ暗です。いつの間にか、視界も閉ざされているようでした。なにも見えないのです。感じ取れるのは「ザザザ、ザザザザザッ」という不規則なノイズ音だけ。それしか、今の太郎君にはわかりません。心臓は今にもはち切れそうなくらい、波打っています。
「頼むから、ねえ、開けてくれよ……」
 太郎君はもう祈るようになっていました。殺される。そう思いました。殺される。殺される。殺される。殺される。殺される。殺される。死にたくない!
「ザザザ! ザザッ!」
 またノイズ音。故障なのか、もしくはこういう仕様なのか、太郎君には、やはりわかりません。頭の奥の痛みから、導かれしは過去の記憶。どうしてこうなったんだろう、どうしてこうなったんだろう、そういう凄惨たる思いが、不思議と駆け廻っているのでした。それは、走馬灯のようでした。極限状態でした。ただ、聞こえるのはノイズ音と――
「ザザザ、ザザザッ……オイ、タロ、オマエ、セ、……セ」
 大魔王の声。なにかを囁いているようでした。
「ザザザッ、……セ、セ、……セーブ、……ド、ドコ、」
 セーブ、どこ? 確かに大魔王はそう言っているようでした。太郎君はその言葉を聞き取り、その意味を理解しました。辺りが白くなり、ぼんやりとしました。涙が溢れ出しました。すると――
 
 ※   ※   ※

 その刹那、世界は幕を閉じたのでした。そして新たな世界が始まりました。気が付くと、太郎君は学校の体育館に来ていました。バスケットボールが空中に飛び交い、バスケットへ次々と吸い込まれていっています。気づけば見覚えのある人たちばかりです。館内にはクラスメイトたちの笑い声が響いています。
 茫然自失。太郎君はただただ、そうでしかありませんでした。我を失い、なぜだろう、あるボールは導かれるようにしてゴールへと吸い込まれるのに、あるボールはあんなにも簡単に弾かれてしまう、なにが違うのだろう、同じボールなのに、と無意識のうちに考えたりしていました。それはほぼ、なにも考えていないのと同じことなのでした。
 ビクッと身震いをして、太郎君はかぶりを振りました。目を擦って、自分が今、目に映している世界を疑っています。頭をフルに回転させて、考えました。立ち尽くしたまま、考えました。自分が今、なにをしているのか、ただゲームをしていただけではないのか、僕は悪い夢でも見ているのだろうか、どうして、どうしてだ。そんな考えが頭の中を巡ります。しかし、いっこうに答えらしきものは見つからないのでした。より、混乱していく一方なのでした。
 ゴールから弾かれた、一つのバスケットボール。それを太郎君は見ていました。ころころと、太郎君のもとへ転がっていきました。途端に、太郎君はハッとしました。その光景に見覚えがあったからです。
 ……今日の体育の授業で。
「おーい太郎。とってくれ!」
 また太郎君はハッとしました。この台詞にも聞き覚えがあったのです。
聞こえてきたのは、明るく元気な野崎君の声でした。喧嘩してしまった野崎君です。
「おーい。なにボーと突っ立ってんだよ」
 野崎君はそう叫ぶように甲高い声を発して、手を左右に振っています。ですが、既視感。違和感。この光景も太郎君は見ていました。自分に向かって手を振る野崎君を。体育の時間と同じ。太郎君はそう確信しました。向こうにいる野崎君は、はにかむような笑顔を見せ、
「おい太郎! いい加減にしろよ。冗談のつもりか?」
「……あ、ああ」
 太郎君は足元に転がってきたバスケットボールを手に取り、まだおぼろげな瞳で野崎君を見ました。
「ヘイパス!」
 そう叫ばれ、半自動的にバスケットボールを投げました。
「あっ」
 野崎君はうげっという表情をしました。ボールは野崎君が構えているところとは、まったく違った方向へと飛んで行ってしまったのでした。
「おーい! ふざけんなよ!」
 笑いを含ませながら憎たらしそうにそう言った後、野崎君はもといた周りのクラスメイトたちのところへと、楽しそうに交じって行ったのでした。
 おもむろに太郎君は自分の手を見詰めました。そこには今までにないぐらい、震えている手がありました。それは自分でも驚いてしまうくらいの震えでした。ボールが逸れるのも無理ありません。
 一体、自分に何が起こっているのだろう。夢かもしれないと思い、太郎君は震える手で自分の頬を掴むと、思いっきりドアノブを捩じるようにしました。「イタッ……」確かに痛かったのです。
 夢ではない。それでは現実なのか。いや、わからない。なにもわからない。ただ、クラスメイトたちがいて、みんなは普通にしている。そして見覚えがある景色がある。おそらく今日の、三時間目の、体育の時間。大魔王の言葉。セーブ。関係しているのか。でも、あれはゲームだぞ。ただのゲームだ。それ以外のなにものでもない。とてもじゃないけど現実とは思えない。ぼくはタイムマシンにでも乗ったのか。いや、そんなものある筈がない。だったらこれは夢なのか。でも頬っぺたは確かに痛かったけど。
 太郎君の頭の中では、同じことが堂々巡りしていました。それでも、なにもわからないのです。なにもわからないのです。ただ、とても不可解な現象が起きていることは確かでした。体の震えも治まりません。
 そんな太郎君の調子とは裏腹に、賑やかな笑い声が館内には響いています。バスケットボールが床を叩く音もします。その振動が足の裏までしっかりと伝わって来ています。着ている服は体操服です。もちろん着替えた記憶もありません。自分は一体、なにをしているのか。驚愕を通り越しての、脱力状態に太郎君は陥っていました。
 ピー、とここで笛の鳴る音がしました。これは、先生の鳴らす笛の音です。クラスメイトたちがシュート練習を止めて、一斉に駆け出します。先生のもとへと集まって行きます。そして整列します。座ります。体操座りです。綺麗に並んで座っています。その中でただ一人だけ、太郎君だけが遠くの方で茫然と突っ立っていました。
 先生は、「なにを?」と、一瞬まったく理解ができないというふうに、不思議そうな表情になり、太郎君を見詰めました。太郎君もポカンと先生を見詰めていました。その時間が長く続きました。座っているクラスメイトたちもそんな不穏な空気に気が付いていき、後ろを振り返りました。やっぱり無表情の太郎君が、ただそこへボーと突っ立っていました。
 途端に大きな大きな笑い声が館内に響き渡りました。「あいつなにやってんだよー」とか「ついに太郎も反抗期かよ」とか「あいつ、顔おもしれーなー」などと次々、大きな声が上がっていきます。 
 すると、先生は見る見るうちに顔を真っ赤に染めていき「うるさいぞ!」と一喝しました。一気に空気が締まり、恐ろしいほど静かになります。言うまでもなく、嫌な空気です。
「おーい、太郎っ! お前そうか、ああそうか。いいんだなそれで。いいんだな!」
「…………」
 太郎君はなにも言いませんでした。いえ、言えませんでした。
「ああ、そうか。ああ、わかった。ようし、みっちり教育してやろう。さぁ来い。走って来い。今すぐ来い! 俺のところへ来い! 早くしろ! こっちに来るまでの間に、拳骨がいいか、それともビンタがいいか、よーく考えとくんだな」
「…………」
「ああ、それと、お前はグラウンド本気ダッシュ三本だ。この後な。文句ないな!」
「…………ああ」
 太郎君は思いました。自分一人へと注がれる先生の視線、それとクラスメイトたちの視線。これが現実であろうが、そうでなかろうが、たぶん関係ないことだ。誰がこの視線を真っ向に浴びて、なにもせずに突っ立っていられるだろうか。
 やっとのこと、機能を停止していた太郎君の脳味噌は、次のように考えることが出来たのでした。とりあえず、この場を乗り切るしかない。わからないけど。なにもわからないけど、おそらくこの場は開き直るしかないんだ、と……。
「文句があるってぇのか! おい! なんとか言えやコラァ!」
 はぁー。大きな大きな溜息が一つ、口元から虚しく零れ落ちていきました。
「……あ、ああ、いえ、全くありませんとも。ええ、全く。はい、全くです。なにもありませんとも……ほんとになんにも、ありませんとも……」
 そう呟いて太郎君は走り出しました。みんながクスクスと笑いながら座っている場所まで、ぶち切れた先生が不敵な笑みを浮かべているところまで、泣きそうになりながらも、必死に走って行ったのでした。もうどうなっても知ったことか、もうどうにでもなればいい、と強く固く決意して、でも、できればビンタのほうがいいなぁ、などと悲しい物思いに耽ながら……。はぁ、ビンタか、嫌だなぁもう……。



(2)

 
 ただ一か所、左の頬を除いて、太郎君は全体的に青ざめた顔になっていました。太郎君の様子は明らかにおかしかったのでした。夜中、帰りによく見かけたりする、あの、ぐでんぐでんに酔っ払ったサラリーマンのような、ふらふらと定まらない足どりだったのです。
 おまけに、太郎君は涙ぐんでいるようでした。肩で息をしていて、それは誰もが憐れむほどに、生命力に乏しい薄らげーな呼吸になっていました。ぐったりしています。この状態を簡単に一言で表すなら、今にも死にそう、なのでした。
 それもそのはず、太郎君は地獄の、グラウンド本気ダッシュ十本、をやり終えたばかりなのでした。
 そんな太郎君の横にはぴったりと、先生が付いて歩いていました。太郎君とは打って変わって、なにが楽しいのやら、にやにやにやにや不敵な笑みを浮かべています。
 筋肉質な体、ばっちりと日焼けした黒い肌、それらに似つかわしい濃いめな顔。これらが、なにも言わずとも、己が体育の先生であるのだぞ、ということをしっかり証明しているようでした。
 二人は地獄のグラウンドを後にして、体育館へと続く中庭を歩いているところでした。
 おもむろに、先生は太めの眉をぐいっと上げ、何かを思いついた顔になりました。すると、その図太い片腕がスルスルと伸びていきます。隣をとぼとぼと歩いている、太郎君の肩に回されました。
「うげっ……」
 今の太郎君には、ただの一人の腕の重さにも耐えられなかったのでした。あれよあれよという間に膝が折れ、地面へと突っ伏してしまいました。膝立ちの状態です。
「ガハハハハ!」
 そんな太郎君を横目で見やり、今時よくもまあ、こんなに気を張った大袈裟な笑い方が出来るものだ、と驚いてしまうほど、大きな声を出して先生は笑い出しました。二人がいる中庭の、その隅々にまで笑い声は響いたのでした。
「ガッハハハ!」
 もうここまできたら逆に褒めてやりたいほどの、巧妙に傲慢づけられた笑い声でした。中庭に面して並んでいる各々の教室から、それを見つけた窓際の生徒たちが、クスクスと笑い合いました。先生は、かなり授業を妨害しているようでした。先生なのに。
 あんた、ちょっとは気を配れよ。と、太郎君は顔を上げるようにして先生を見やりました。けれども先生は、どうだ、と胸を張り、見下す視線を向けました。
「なんだぁその目は? 文句あるなら言ってみるんだな!」
 あるに決まってんだろうが! と、今すぐにでも叫びたい太郎君でした。が、しかし、それは心の中で思うだけでありました。なぜなら、もっと酷い目に遭う可能性が増してしまうからです。代わりに、太郎君は「……いえ、なにもありませんよ」と小さく呟くようにして言って、下唇を噛み締めました。
「じゃあ早く立ち上がれ。いつまで座り呆けているつもりだバカ野郎!」
 太郎君は悔しそうに口を真一文字に結んで、言われるがまま、ゆっくり立ち上がりました。いえ、ゆっくりとしか立ち上がることができなかったのでした。足の筋肉はもう限界に達していたのです。膝がカクカク震えていたのです。
 まるでそれは、細胞という細胞の穴の中から津波のように一気に乳酸が押し寄せてきて、疲労という名の鉄の塊が、足の隅から隅まで余すことなく占拠しているようなのでした。この状態を、これまた簡単に一言で表しますと、足が棒になった、なのでした。
 今、二人がいる中庭は体育館へと続く道でありました。つまり、これからまた、体育館へと戻るつもりなのです。それはあまりにも恐ろしいことでした。先生は左手首に装着している、スポーツウォッチに目をやりました。
「おい、もう授業時間終わりそうじゃないかバカ野郎。あと十分しかねぇーじゃねぇーかバカ野郎」
 だったらここまで走らせるなよ。バカ野郎はお前じゃねぇーかバカ野郎。太郎君はそう心の中でツッコミを入れますが、本当のところは、ただ億劫でしかありませんでした。この期に及んで、まだ、自分に運動をさせようというのか、僕はもう、おそらく一カ月分の運動量はこなしたぞ、ふざけるなよ。太郎君の口から、今日でもう幾度かめになる、大きな溜息が出て行きました。
 太郎君がゆっくり立ちあがると、それを見計らうようにして、先生はまた太い腕を、ガッチリ肩へと回しました。ぐらっと太郎君がまたまたふらつき、転びそうになりました。が、今度は倒れることなく、前へ前へと進んで行きます。体育館という絶望への入り口が、少しずつ近くなっていきます。
「お前、そんなに疲れたのか」
 体育館から漏れてくるクラスメイトたちの歓声に、太郎君は慄きながらも答えました。
「……いや、そりゃ疲れますよ。グラウンド本気ダッシュ十本なんて聞いたことがないし。だいいち、二桁いっちゃってる時点でおかしいでしょ。一歩間違えば、虐待ですよこれは。見て下さいよ。歩くこともままならない生徒がいて、それにつけ、運動量の激しい、いや、激しすぎるバスケットボールなんてものをやらせようなんて。さらに今日は、チーム別対抗試合の最終日、一番盛り上がっている日ですよ。無理ですよ。無理、無理、無理。無理なことは誰が見ても明らかなんですって。これは、一歩間違えば、いえ、一歩間違わずとも、虐待ですよ。あー虐待だ。僕は虐待されているんだ」
「うるせぇ! ガタガタ言ってんじゃねーよ。無理、無理言いやがって。俺がなぁお前、高校生の時なんかは一日、んーと、そうだな、二十本はかるーくやってたぞ、バカ野郎! 虐待だと? ふざけんなバカ野郎!」
 あ、やばい。と、太郎君は思いました。この人に対しては、下手に出続けることが大事なんだ、と再確認したようでした。
「……そ、そうですよね。僕がひ弱すぎるのがダメなんでしたわ。で、でも先生、昔は陸上の選手だったっていうじゃないですか。それとですよ、僕みたいな、一般平均より大幅に運動能力に劣っている輩たちを、一緒にされちゃあ、ちょっと困るってもんですよ」
「ん、ああ、まぁそれもそうか。ちなみに最高成績は、国体で九位だ。百メートル走でだぞ。すごいだろ?」
 そんな昔話、聞いてねーよ。とは、心の中で思うだけです。でも、確かに、すごいにはすごい。
「へぇ、すごいっすね。いや、ホントにすごいっすよ。あはは。憧れちゃうなぁー僕」
「バカ野郎。そんなに褒めるなよ。あともう一歩で入賞だったんだ。八位以内に入っていたら賞状がもらえただろうな。ぜひ、見せてやりたかったよ」
 いやいや、それは別に見たくねーよ。というのも心の中。
「そうですねー。実に惜しいですねー。いやー見たかったなぁ」
「なんだ。そんなに見たかったのかよ。もしや、俺の凄さを知って、惚れちゃったか?」
 まったく、憎たらしいほど単純明快な人だ。これも、心の中で呟きます。
「なんだよ。否定しないのか? やめてくれよ、男に好かれても嬉しくはないっての!」
 先生は途端、上機嫌になったようで、また「ガハハハハッ!」と笑いました。その声はまた辺りに響き渡りました。各々の教室から授業を真剣に受けている生徒たちの、冷たい視線が二人へと注がれます。
 当の先生はまったく、このことに気が付いていないようですが、無論、太郎君は気が付いていました。せめてものと思い、並んでいる教室のほうを見て、小さくお辞儀をしました。どうも、この先生がすいません、と。
 すると、向こうの教室で数学の授業をしていたと見受けられる、メガネをかけた先生が、そんな太郎君たちを見て苦笑いをしました。そして溜息を吐いてから、黒板にチョークを押し当てて数式でも書こうとしたようでした。が、しかし、そのチョークはポキっと虚しい音を鳴らして、折れて落ちていきました。
 その光景をたまたま太郎君は目撃して、ああ、あれは相当ムカついてたんだろうなーと思いました。小さい事ながらも、それはある意味、衝撃的な光景でした。
 ああ、可哀想に。きっと、この先生、嫌われてるわ。職員会議とか、大丈夫なのだろうか。いやいや、なにを僕は考えてるんだ。そんなこと考えても、この先生がどうにかなるわけでもなかろうに。 
 にしても、楽しそうに自分の肩を掴んでいるこの先生は、いろんなところで、いろんな人たちに、おそらく自分が気が付きもしないうちに、ものすごーく色々と迷惑をかけてちゃっているんだろうなぁ。
 太郎君はそう思って、少し、いやかなり、不憫に思ったのでした。
「ガハハハハッ!」
 まだ笑っていました。まったく、大丈夫かよ? 思わずつられて太郎君も笑ってしまいます。苦笑いです。
 そんな笑いを浮かべながらも、太郎君は憐れむような眼差しを、大口を開けている先生に向けました。それから、はぁー、と大きな溜息一つ。体育館という、絶望への入り口はもう目の前です。
「そういえば、お前、頬っぺたはまだ痛むのか?」
 唐突に、先生は太郎君の、その赤く腫れあがっている左頬を見て、わかりきったことを聞いたのでした。
「……当り前です。今でもジンジンと脈打つように、痛みがやって来てますよ。しかも、頬っぺただけじゃないでしょ? どうせ聞くんなら」
「ガハハハハ! ああ、ああ確かに、そうだったなぁ」
 先生はそう言って子供のように可愛い無邪気な表情を見せ、続けて笑いながら、もう一度、太郎君に問いかけました。今度はゆっくりと言葉を吐きます。
「……頭はまだ、痛むのかな?」
 この悪童め。そう思って太郎君は「ハハッ」と苦笑しました。
 そうだったのです。太郎君は強烈悪質なビンタに加えて、リアルに脳天カチ割れレベルだと思われる拳骨までも、お見舞いされてしまうという、全くナンセンスなことをされてしまっていたのでした。

 ※   ※   ※

 時は少し前へと遡ります。
 太郎君は、自分が今置かれているこの状況に、強い戸惑いを覚えながらも、乗り切るしかない、そういう気持ちでいたのでした。
 そして、目の前にいる人の、怒り心頭の面持ちを窺い見て、この人は本気なんだ、そう覚悟していたのです。
「おい、それで? 拳骨とビンタ、どっちがいいんだ?」
 どっちも嫌ですけど、と強く主張したい。が、その要求はまず通らないだろう。それならば、あっちを選ぶしかないのか。太郎君の心は、ほぼ、決まっていました。
 体育館正面の舞台前、行儀よく体操座りをして並んでいるクラスメイトたちみんなの、視線が集まっているところ、そこで、先生と太郎君は見詰め合っていました。
 先生は顔を真っ赤にして、目を充血させるほどに、ただ怒っていました。キレていました。
 一方、太郎君はなにかが吹っ切れたような表情、でも、どこか悲壮感漂う疲れた顔をしていました。
「走ってくる間に、どっちがいいか決めとけって言ったろ?」
「……えっと、はい、言われたかもしれません」
 こ、怖い。なんだこの威圧感。この人、本当に、人なのか。いや、悪魔じゃないのか。大魔王とかじゃないのか。ゲームでいったらラスボスレベルだぞ。間違いなく。
「だったら、どっちがいいんだ! 言ってみろよぉ!」
 ああ、そんなに怒らないでくださいよ。僕が悪いわけではないんですよ。悪いのはそう、きっと、他のなにかなんですよ。だから、そんなに怒らないでくださいよぉ。
 太郎君は悲哀に満ちた面持ちで、願うように口を開きました。
「……えっと、あの、できれば」
「なんだ! 早く言え!」
 プツンと、今にも脳の血管が切れてしまいそうな、熱の籠った言い方でした。
 怖すぎる。そう太郎君は思いました。なぜなら、鍛えられた図太い右腕が、もう頭の真上にセッティングされていたからでした。なんでだよぉ。
「太郎、ガンバレ」
 小さく、後ろからそう聞こえてきました。その声色は、必死に笑いを堪えているけれど、でも末端まではどうしても堪えることは出来なかった、無念、というような変な声になっていました。
 そんな声で励まされても、腹が立つだけなんだが、と太郎君は思うのでした。事実、そうでした。
「……あの、えっと、それじゃあ、その、頭上に構えられている拳を無視してしまうようで悪いですけれど、できれば、ビンタでよろしくおねがって、え?」
 ――プツン。おそらく、人はキレると、己の理性を制御できなくなるので、大変な行動をしてしまうこともあるのでしょうが、とはいえ、これはあまりにも酷かったのです。
「おめぇは、拳骨、ビンタの両方じゃあぁぁぁぁぁい!」
 大声でそう叫ぶと、勢いそのままに、図太い右腕は振り下ろされ、固く握られた鉄拳は太郎君の頭の頂点のところで、大きな音をたてました。頭にヒビが入りそうな、そんな鈍い音でした。緑の怪物の攻撃は避けられたのに、今度の攻撃はかわす暇もなかったようです。太郎君、無念。脳天カチ割れ。大ダメージ!
 イタッ、という声を出すこともできずに、太郎君、顔を歪ませます。白目になっています。
 攻撃は息つく間もなくまだ続きます。振り下ろされた右腕は、そのまま、大きく後ろへと振りかざされます。反動を利用してより、抜群に発達した上腕筋群に強い収縮しようとする力が働き、人知を越えた破壊力を伴うマッチョな鉄腕が、鞭のようにしなって前へ伸び、全ての力を凝縮した右の掌が、バチーン、という壮大な衝撃音を出しながら太郎君の左頬へとめり込みます。吹っ飛ぶ太郎君。やめて、もうHPはゼロよ。
「おどりゃぁああぁぁ!」
 そして、先生は甲高い勝利の雄叫びを上げました。
 先生がとったこの行動は、まったく、ほとほと、太郎君にとっても、それを見守るクラスメイトたちにとっても、意味不明なものなのでした。
 えっ? 思わず言葉を失います。唖然。誰もが。唖然。先生の行動に、我が目を疑っているのです。
 座っているクラスメイトたちは、ああ、可哀想すぎる。そう思ったことでしょう。半開きの口から、キレのいいツッコミが一斉に聞こえてきそうです。
 ――いやいやいや、あんたが、拳骨かビンタ、どっちがいいか選ばせたのに意味ねー! 太郎、絶対ビンタが来ると思ってたー!
 床に倒れ込み、悲しくも動かなくなっている太郎君。理不尽。太郎君の頭の中は、その言葉で溢れかえっていました。あー、なんだこの理不尽すぎる痛みは。
 本当に、先生の行動は理不尽すぎたのでした。しかし、当の本人はそんなことなどまったく気にしないのだ、といった感じで、堂々と、どうだと言わんばかりに、右腕を天へと高く突き上げていたのでした。表情は、もう赤くはありませんでした。鬱憤はもう出しきったようでした。努めて明るく、先生は言いました。
「先生は、先生は、悲しいぞ太郎。見ろ、この右腕も、悲鳴を上げているじゃないか。こんなことは、出来ることなら、したくはなかったと」
 ――じゃあするなー!
 またまた、座っている生徒たちから、心のツッコミが入りました。
 しかし、心の言葉は次第に、ポツリポツリと実際の笑い声へ変わっていきました。人間、急に理解不能なことが起こると、まず戸惑ってしまうものなのですが、本質的なところでは、やっぱり理不尽なことが大好きなのです。
 ――太郎、お前、本当に、ついてないよな。
 男子も女子も、みんなそう笑います。他人の不幸、これもやはり好物なのです。
 太郎君は、自分が笑い物になっていることに、歯がゆい思いを馳せました。悔しい。恥ずかしい。
 先生はみんなに向かって言いました。
「お前らもうるさいぞ。見ろ、こんな風になりたいのか」
 先生が指をさした先には、倒れたままの太郎君がいました。急いで先生は駆け寄ると、太郎君の脇を両手で抱えるようにして持ち上げて、無理やり立たせようとしました。
 ――そのとき、白い宝石のようなそれが、太郎君のポケットから、ころころと音を立てて床へと転がり落ちたのでした。太郎君は目を疑いました。痛みを忘れてしまうほどに、驚きました。
「なんだこれは!」
 先生はそれを拾い上げ、まじまじと見つめました。見たところなんの変哲もなさそうな、小さな白い石ころのようなのでした。先生他、クラスメイトにとっては、それはただの石なのでした。
 が、太郎君は喉の奥に溜まった唾をごくりと飲み込まずにはいられませんでした。見覚えのある、というか、ゲームの中で使う石、それがなぜここへあって、それをなぜ僕は持っていたのだろう。ますますわからなくなったのでした。これがリアルか、それとも違うか。これがリアルか、それとも違うか。
「太郎、これは一体なんなんだ。なぜこんなものを持ってきた」
「……わ、わかりません僕にも」
「もしや!」 
 先生は突然なにかを閃いたようでした。まるで、名探偵コナン君が、トリックの謎を解き明かしたときのようでした。そして、先生は、見破ったぞ、という感じで叫びました。
「これは凶器だな! 俺を殺るための。そうだろう! 俺に嘘は通用しないぞ!」
「そうそうそう、人を殺めるためにはちょうどいいくらいの重さ。って、違うわー!」
 思わず、太郎君は叫んでいました。しかもノリツッコミをしていました。
「じゃあ、なんなんだこれは」
 先生は、白い石を前へと突き出しました。太郎君はまじまじとそれを見やります。やっぱり、あの石でした。間違いありません。しかし、それをここで言うわけにはいきません。ゲームの中で使うものだなんてことは。
「わかりません」
 しょうがなく、太郎君はそう答えました。
「わからないって、お前、なにを言ってるんだ。お前のポケットに入ってたんだぞ」
「はい、でもわからないんです。入れた覚えはないし、というか、そもそもこの世界にはないはずだし。僕の方こそ知りたいです」
「はぁ? ふざけやがって。大人をからかってそんなに楽しいか。お前、この期に及んでまだ、そんなことを」
「いえ、違います。ホントに知らないんですよ」
 もういい! そう言って先生は白い石を、自分の胸ポケットに入れました。それから、へたり込んでいる状態の太郎君を無理やり起こして、座っているみんなの前へと立たせました。
 太郎君は俯いていたので、表情までは見えませんでしたが、おそらく、暗い顔をしているだろうということは、そこにいる誰にでもわかることでした。
「授業をまじめにやらずに、先生をバカにしていると、こういうことになるんだ。体育は主要科目じゃないから、国語や数学の方が大事だから、という理由で持って、手を抜いてもいいんだ、と考えている輩が最近は増えているらしいが、俺は断固として、そんな姿勢は許さない。絶対に、絶対に許さない。体を動かし、鍛えることの重要さ、楽しさ、スポーツの素晴らしさ。お前たちがこの高校に入ってきてから、俺はずっと言い続けてきたつもりだったが、どうやらまだまだわかっていないやつがいるようだな」
 クラスメイトたちは、固唾を呑んで、その言葉に聞き入っていました。とっても気になっている事柄があるようでした。 先生の言葉を待っています。先生もそのことをわかっているのか、ゆっくりとした口調で、次のように言いました。
「確か、今日は、チーム対抗戦の最終日だったな。予定なら、今日で優勝チームが決定するはずだったが、しょうがない。こんな状態で行うわけには――」
 そこまで先生が言ったときに、黙っていた生徒たちから大きな「えー!」という愚痴が沸き起こりました。
 すかさず、一人の女の子、生徒会所属の優等生が立ち上がって声を上げます。
「先生、私は今日のこの日を楽しみにしていました。ぜひ、やらせていただきたいです」
 それいけ、畳みかけろ、と一番手前に座っていた男の子も、立ち上がって声を荒げます。
「先生、やろうよぉ。俺、この時間のためだけに学校に来たようなもんなんだからさ」
 続けて、その子の隣に座っていた茶髪の女の子が、座ったままでだるそうに言いました。
「先生、優勝チームには、今度のテストでプラス二十点とか言ってたよねー。もしやらないってなると、それはどうなんの?」
 なんの迷いもないかのように、先生はこう言い切りました。
「なしに決まってんだろ」
 途端に「ええー!」という先程より遙かにデカイ、歓声にも似た悲鳴が沸き起こります。体育館中を埋め尽くすような、大きな大きなざわめきでした。太郎君は、その悲鳴が全部、自分へと向けられているような気持ちになって、とても惨めな気持ちになりました。
 先生は、そんな太郎君の様子を横目でちらっと窺った後、うるさい声を宥めるように「わかった、わかった」と静かに述べて、それでもまだ歓声がやまないのを確認すると、首に吊るしていた笛をピー、と大きく鳴らしました。そうすると、ほぼ機械的に、一気にざわめきがやむのです。
「わかった。わかった。お前らがそこまで言うのなら、今日は予定通り、試合を行うことにする」
「イエーイ!」
 またもや、ざわめきが巻き起こります。
 瞬時にピー、と笛の音です。
「一位のチームは二十点。二位のチームは十五点。三位のチームは十点。それ以下は五点ずつを、次の中間テストに加算する」
「ヨッシャー!」
 すぐに、ざわめき。
 ピー、と笛の音。
「しかーし、責任はとってもらわないとダメだ。もちろん、今回問題を起こしたのは太郎だから、こいつには運動場にて本気ダッシュを行ってもらう」
「ヒューヒュー!」
 ざわめき。
 ピー、と笛の音。
「しかも三本だ」
「ワー!」 
 ざわめき。
 ピー、と笛の音。
「広い校庭を思う存分走り回ってもらう」
「ヒョエーキツイー!」
 ざわめき。
 ピー、と笛の音。
「太郎君は頑張る!」
「ガンバレー! タロォー!」
 大きなざわめき。
 ピー、と笛の音。
「そして、お前たちも頑張る!」
 ざわめき、なし。
 ピー、と笛の音。虚しく響く。
「なんだぁ? なんだなんだよ! さっきまでの勢いはどうしたんだ。おい、どうしたんだよ!」
 先生のその予想外の言葉に、太郎君は顔を上げました。目に映ったのは、戸惑いの表情を浮かべているクラスメイトたちでした。
「お前たちもって、どういうことですか」と生徒会の女の子。
 先生は、どや顔で答えました。
「お前たちも一緒に走るんだよ。そしたら太郎のを一本だけにしてやってもいい」
「い、嫌ですよ。そんな、一度外に出て、またここに戻ったりしてたら、それこそ試合をやる時間がなくなるし」と男の子が慌てて言います。
「なんだ、なんだよ。散々、嬉しそうにはしゃいでおいてお前たち、自分たちのことになると急に静かになりやがって。そういうのが俺は一番嫌いなんだよバカ野郎!」
「ふ、ふざけんなよー。先生の話を無視したのは、太郎だろ。関係ないじゃん、私たちは」と茶髪の女の子が必死に抵抗しています。
「あー確かに、なにを考えていたのか知らんが、集合の笛を無視して、ボーと無気力な顔をして突っ立っていた太郎は悪い。だが、そんな太郎に気が付いた奴もいただろうに、なにも声をかけなかったクラスメイトたちも悪い。違うか?」
「…………」
 反応はありませんでした。シーンとした空気、時間が続きます。太郎君は、自分のせいでこうなっているのだ、ということを思うと、肩身が狭い気がして、心落ち着かないのでした。とても嫌な気分なのでした。怖いのです。
 あー、もう、いい。自分だけが、僕だけが罰を受ければそれでいいんだ。それで済むんなら、みんなに迷惑をかけるようなことはしたくない。そんなことをしたら嫌われる。だったら、僕一人でやればいい。それでいいんだ。そう思っていたのです。ところが、

 ――俺、走ってもいいですよ。

「ガハハハハ!」
 先生は楽しそうに、あの王様のような笑い声を上げると、「走ってもいい」と言った野崎君を愛くるしい目で見やったのでした。
 太郎君は思わぬ言葉に、また顔を伏せました。そして、そう言ってくれた人物が野崎君であったことに、後悔にも似た、なにか非常に悲しい気持ちになったのでした。恥ずかしく思いました。
「ガハハハハ。走るのか、お前も?」
「はい。そこまで言うならいいですよ。なんか悔しいですもん。バカにされているみたいで。もちろん、太郎には俺より多く走ってもらわないと納得いかないですけどね」
「なるほど。そうか。俺がお前たちをバカにしているっていうのは、その通りだと思うぞ。なぜだかわかるか、野崎」
「……いえ、先生の考えていることは正直俺にはよくわかりません。連帯責任つっても、こいつが悪いのは確かだし。でも、だからと言って、さっき先生が言ったことを俺は否定できないと思ったから、一本ぐらいなら走っていいと思ったんです」
 野崎君のそのハキハキとした声に応えるようにして、太郎君はゆっくり顔を上げ、前を見ました。すると、野崎君の目は澱むことなく、しっかりと自分に向けられていたのでした。驚いてしまいました。また顔を伏せます。
「別に、変な友情ごっこなんかをしているつもりはないですよ。ただ、テストのときのプラス二十点はデカイと思うからってだけです」
 まっすぐすぎる眼差しが、太郎君には痛く遠く、遠く、果てしないほど遠くに感じられたのでした。
「ガハハハハッ、あーいいねー。若いころの俺にそっくりだ。このまま行けば国体で九位になれるぞ。まぁ、九位止まりだけどな、所詮」
「一体なんの話ですか。やるんなら早く走りましょ。時間が勿体ないし」
「そうだな。じゃあ他に走りたいって奴はいるか?」
「…………」
「なんだよ。いねぇのかよ! だっらしがねぇな!」
 憧れにも、似ている感情からなのかもしれません。太郎君は、野崎君を見て、とてもこんなんじゃダメだ。あー情けない。自分が途轍もなく小さな存在に思えて、「いいよ」と無意識のうちに呟いていたのでした。見栄を張っていたのかもしれません。
「はぁ? なんだって?」
 ぼそぼそとしたその声に、敏感に反応した先生は、眉を上げて不愉快そうな表情になっていました。いいところでお前が口を挟むなよ、と文句を言っているようでした。それでも、太郎君は言いました。決して手が届かない。だからこそ、言いたかったのです。
「いいです。僕、一人で走れますから。三本くらい余裕っすよ。はは」
 太郎君はもう、野崎君の顔を見ることはできませんでした。目線を外して、誰とも目を合わせないようにしました。
 いま、野崎はどんな顔をしてるだろう、太郎君はそう思いましたが、なるべく考えないようにしました。
「ガハハハハ!」
 このときの先生の笑い方はなにか変っていました。先程までの、うるさい声の出し方とは打って変わって、その笑い声からは、作為的な悪魔の香りが潜んでいるようでした。
 先生は不敵な笑みを浮かべて、言いました。
「それじゃあ、外に出ようか、太郎君?」

 ※   ※   ※

 その後はもう、散々たるものでした。
 三本くらい余裕っすよ、とみんなの前で宣言してしまったばっかりに、グラウンド本気ダッシュは前代未聞の二桁、十本にも及んだのでした。また、その十本に費やした時間は約四十分にも及びました。
 おかげで、今にも死にそう、足が棒になった、のダブルパンチ。これを受けた太郎君の足は、ただただ、ふら付くばかりでした。死ぬ物狂いで走り回ったあの時間を思い出すたび、嗚咽が漏れていきます。けれども先生はただ大きく笑っていたのでした。他の先生の迷惑になるほど大きな声で、ガハハハハッ、と。
「おお、そうかそうか、頭も痛いか。よしよし。それじゃあ、ついでに手も痛くしとこうか。付き指はそれを達成するには、絶好の怪我になるなぁ」
 ようやく辿り着いた体育館、今の太郎君には絶望への入口を前にしか見えません。
 ここまでされてそれでもまだ、太郎君はバスケットボールをやっぱりやらなければならないのでした。
 はぁー、そう溜息を吐いて、鬱々とした想いの中、太郎君はそっと地獄の扉を開きました。すると――

 目が眩んだのでした。輝きすぎていて、目が眩んだのでした。絶望とはこういうことなのでしょうか。歓声、どよめき、地獄のような熱気、もう空気が全然違ったのでした。
 こんなにすごかったっけ。そう太郎君は思いました。情熱、パワーに満ち満ちていて、それらが肌に染みるようでした。自分を包み込んでいくようでした。得点板を見ると、50対50の同点。
「マジか……」
 太郎君は思わず呟いていました。誰かがシュートをする度に、それだけで歓声が上がるのでした。それもそのはず、この試合は事実上の決勝戦。リーグ戦形式で今まで三カ月もの間やってきて、五勝一敗のトップ同士が、まさかまさかの最終日でぶつかり合うという、盛り上がるには最高のシチュエーションだったのです。
 なんとも表現しがたい、ボールがネットを綺麗に潜り抜けたときの音、その感じ。鳥肌ものの歓声が館内に響きます。
 53対50。どうやら、スリーポイントのロングシュートが決まったようでした。そして、大きなガッツポーズを掲げていたのは、野崎君でした。太郎君は、汗を輝かしている野崎君のプレーに目を丸くしました。
「おっしゃあぁぁぁ! このまま守り切るぞ!」
 熱中している様子が、眩しく映ります。この場全体から、熱い魂のようなものが、迸って、燃え上がって、噴き出されているようで、ああ、なんだか自分一人だけが、置いて行かれている、そんな気がしていました。
 みんな、笑っています。なんて綺麗な笑顔なんだろう。真剣に、笑っているのです。とても楽しそうです。
 ワー、とまた大きな歓声が上がりました。53対52。速攻でパスを前線へ繋いでからの軽やかなドリブル。一人をかわしてからの、レイアップシュート。さすが、五勝をしているチーム同士の戦いです。手に汗握るドラマティックな展開になっています。
「ちくしょー!」
 コートの中央付近。悔しがっているのか、笑っているのかわからない声で、野崎君が吠えました。観戦しているクラスメイトたちが、大笑いしました。でもそれは、野崎君をバカにしているわけではなくて、一緒に熱くなっているからなんだ、だから自然に笑えるんだ。決して作られた笑顔ではない、自然な優しい笑顔。
「これなんだよなぁ。スポーツっていうのは」
 横で先生の呟きが聞こえましたが、頭には入っていきません。太郎君は美しいなにかを感じて胸が高鳴っていました。ああ、いいなーとそればかりを思っていました。こういうの、いいなー。いいなぁ。いいなぁ……。
「点、取り返すぞ! 時間ないぞ!」
 そう言った野崎君と目が合いました。あ、いけない、そう思ってすぐ目を逸らします。いいなぁ、の想いが瞬時に消え去ります。しかし、
「おーい、太郎! やっと戻ってきたか。早く来いって!」
 お前を待ってたんだ、と言わんばかりでした。太郎君にとっては暖かすぎる言葉でした。暖かすぎる故に、どうしても怖いのです。とっても。
「ガハハハハ!」 
 先生は無邪気に笑いました。そして言いました。
「行って来い。思う存分、迷惑かけて来い。チャイムが鳴るまで、あと3分だ」
 いえ、もう僕は、と口にする前に、先生が太郎君の背中をそっと押します。前に一歩、足が踏み出ます。暖かい空気が、前から吹いてきているような気がしました。もう、戻ってきてはいけないような、そんな気がしました。
「太郎ー! 早く来いよ。四人でここまで凌いだんだぞ。すげえだろ?」
「…………」
「なにやってんだ。早く。早く早く早く! バスケって、五人でやるもんだろ」
 ああもう! そんなこと知ってるよ、むかつくなーちくしょー! 口には出しませんが、そう無言で伝えて、太郎君は走りだしました。足の痛みなどは、この雰囲気が醸し出す魔法にかけられ、忘れ去られているのでした。
 走って走って、走っていきます。輝きに満ちた場所へ、走っていきます――

「野崎、あの、……さっきは悪い」
 太郎君は、野崎君のところへまず駆け寄って、そっけなく、そう声をかけました。
「なんの話だよ。試合に集中しろよな。なんせ、これに勝ったらプラス二十だからな」
 野崎君の方も、本当に淡々と、言葉をかけました。それが野崎君なりの優しさなのでしょう。
「うん、わかってる」
 太郎君は広いコートを眺めて、瞳を輝かしました。天井のライトが、いつもよりやけに明るく感じました。心臓がバクバクしていました。楽しい、心の底から久々にそう感じられました。アドレナリンが大量に発生し、興奮が高まっていきます。53対52。残り時間は、あと三分を切る。
 ――あ、これは見覚えのある光景だ。ここで初めて、太郎君はそのことに気が付いたのでした。一抹の不安が襲います。でも、違うかもしれないじゃないか。違うかもしれない。前とは、違うかもしれないじゃないか。そう繰り返して、その不安を拭おうとします。
「ヘイパス!」
 大きな声を出して、野崎君が自分にボールを呼び込みます。ロングパスされたボールを、空中で難なくキャッチし、ドリブルの体勢に入ります。相手チームの男の子が一人、そのボールを奪おうとダッシュしてきました。
 しかし、野崎君はその大きい体型を上手く活かして、その子にチャージをかけました。ボールは奪われません。体でぶつかられた相手の子は、後ろに二メートルほど吹っ飛びましたが、審判の笛は吹かれません。ドン、ドン、ドン! 床から伝ってきた力強い振動が、響いてきます。足の裏まで心地よく響きます。
「おい、野崎、一人で行くな。囲まれるぞー」
 後ろの方でディフェンスをしている仲間の一人が叫びました。勢いよくドリブルで攻め込んだものの、野崎君はすでに三人に囲まれてしまったのでした。仲間の女の子がそれを見て、助け船を出そうと駆けつけますが、すぐにマークをされます。相手チームは徹底的なゾーンディフェンスで持って、インターセプトを狙っているようです。そこから速攻に繋がれば、点に結び付く可能性は高くなります。
「太郎、来たばっかしで悪いけど、頼んだ」
 苦しそうにそう言った野崎君の手元から、ボールが離されます。それはパスというよりは、苦し紛れに投げ出されたといってもいいほど、弱弱しく床を転がっていきました。
 ま、マジかよ。ここで? 太郎君は、弱気な想いを振り切るように、全速力でそのボールに向かっていきます。相手チームからも一人、走り出す選手がいます。
「うおおおお!」
 魔法は、痛みを感じさせなくするだけで、疲労までとってくれたわけではありませんでした。太郎君は思うように動かない足を、懸命に動かしますが……。
 ――ウオー! 館内から今日一番の歓声が響きました。その歓声は、体育館から漏れ渡り、各々の教室まで届きました。勉強していた生徒たちの手が一瞬止まって、笑うものも現れます。数学の授業を進めていた先生は、またまた、チョークを折ってしまう羽目になったのでした。それほどまでに、凄まじい歓声が上がったのです。
 ――太郎君は飛ぶようにして、頭から豪快に転倒したのでした。足が縺れて、もうダメだ、と思ったとき、飛ぶしかないと閃きました。そうして飛び出した先にあるものは、ただ一つ。まあるいボール。間一髪。相手より先にボールへと届いた指先が、吸いつくようにそのボールを掴みました。太郎君がボールを死守したのです。相手選手は思わぬ太郎君の動きによろめいて、前へと滑りこけました。
「太郎、そのままシュートだ! 左手は添えるだけだぞ」
 バカ野郎、こんなときに冗談を言うなよ! そうツッコミを心の中で唱えながら、太郎君はすぐに立ち上がり、シュートの構えを見せました。試合を見詰めるクラスメイトたち、体育館内のボルテージは最高潮に達していました。黄色い歓声が飛び交います。
「入れぇぇぇぇ!」
 本当に左手を添えただけのボールは、前へと押し出す右手首の柔らかい動きと共に連動し、大きな放物線を描いて放り出されました。太郎君には、その瞬間がスローモーションに見えました。
 ふわり、ふわふわと、ボールはゆっくり、ゆっくりと、バスケットへ吸い寄せられていきます。頼む、入ってくれ! 願いがボールへ、もうひと伸びの力を与えます。
 太郎君は、この光景をどうしても乗り越えなければならないのでした。ボールはリングへと乗り上げて、ルーレットのように回転します。ここなんだ、頼む! 頼む!
太郎君は祈りました。ただ祈りました。
「ああっ!」

 ――スローモーションが消え、ボールが素早く床を叩きました。跳ねっ返り、悲鳴にも似た歓声が上がります。ボールは転がり落ちたのでした。とうとう、祈りは届きませんでした。
 シュートは惜しくも外れました。あの時と同じように。そう、あの時と同じだったのです。
 どうしてこうなんだよ。太郎君は、ボールがリングから逸れて転がり落ちた、あの一瞬、あの一瞬の既視感に、自分の運命を呪わずにはいられませんでした。
「どんまい太郎、惜しかったぞ!」
 駆け寄ってきた野崎君が優しく声をかけます。が、太郎君はなにも答えられませんでした。
 どうしたんだろう? という顔をしながらも、野崎君は相手の手に渡ったボールを、さっそく取り返してやる、というように元気よく走り出しました。
「おい太郎、ディフェンスだ。戻れ。次、点に取られたらきつくなるぞ!」
 瞬間、沈み込まれようとしていた心持ちが、その言葉を受けて浮き上がりました。今度こそ、今度こそ、という想いが強くなります。今度こそ!
 あの時もシュートは入りませんでした。しかも、その後の攻撃を守りきることが出来なかったため、チームは負けたのでした。自分のせいで、負けたのでした。その光景が思い出されます。
 相手チームは得意の速攻攻撃を仕掛けてきました。もう残り時間も少ないため、ここで一気に決めてしまおうという魂胆です。今までディフェンスに人数をかけていたのに、ここにきて一斉に駆け上がります。太郎君も一歩出遅れましたが、動かぬ足に鞭を打ち、懸命に走り出します。

「まさに、ここが勝負どころだな」
 試合を眺めていた先生がここでぼそっと呟きました。いつにない、真剣な眼差しを送っていました。そして、左手首のスポーツウォッチで素早く時間を確認し、
「短距離走でいうところのゴール直前。胸を突き出し、最後の悪足掻きを試みるのか。それとも――」
 先生は独り言を言いながら、戦いを見守ろうと前を向き直しました。
「なにもしないまま、鮮やかに走り抜けるのか」
 
 ――太郎君が追いついたときには、相手チームの全員が攻め込んでいて、スリーポイントラインの内側、外側に散らばっていました。
 得点板を確認します。53対52。スリーポイントでなくても、シュートが入れば逆転されます。
 そうなれば、もう負ける。太郎君はそう覚悟しました。同じ二の舞を踏むわけにはいかないんだ。
 上手いこと、相手チームは途切れることなく高速のパスを回しています。味方も総力を挙げてマークに付きますが、ことごとくかわされてパスを通されます。
 ここにきて、仲間たちのスピードが極端に落ちてしまっているようでした。四人で今まで戦ってきた、その疲労が、急に圧し掛かってきたのかもしれません。
 太郎君はそのことに薄々気が付いていました。これも、全部、自分のせいだ。だからこそ、余計にこの攻撃を止めなければならない。絶対にそうしなければならない、と思っていたのでした。懸命に足を動かし、マークに付きます。
 そのとき、太郎君のマークを振り切るようにして、男の子が一人、動きを見せました。空いているスペースに見つけて、そこに駆けこんだのです。
「くそったれ!」
 太郎君もその動きに付いて行こうと必死に走ります。これも見たことがあるような光景でした。おそらく次は、ボールを持って左側へと大きく展開した女の子から、リバウンドパスが来る、太郎君はそう思いました。
 すると案の定、左側からリバウンドパスが来たのです。ホントに来た。太郎君はそう思って精一杯、腕を伸ばしました。届け。届け届け届け!
 身を寄りだすようにして、限界まで伸ばされた太郎君の右腕は、そのボールに触れました。
「ああっ!」
 が、しかし、指先を掠っただけでした。パスはどんぴしゃりで、空いたスペースに通ります。これ以上ないチャンスに、どっと館内は沸き起こり、全体が鼓動するように震えました。 
 太郎君の心臓も同じく震え上がっていました。同じだ。これじゃあ、まったく同じじゃないか!
 諦めきれない太郎君はただがむしゃらに、思い切って体を反転させ、膝を曲げ、斜め方向にジャンプしました。シュートを空中で止めようというのです。
「太郎、止めろー!」
 野崎君が大声で叫びました。パスを受け取った男の子もすぐさま、シュートをする体勢になりました。その子の視界からは、太郎君の手が、バスケットを覆いかぶさるようにゆっくり前へと伸びて行きます。
 絶対に止めるんだ! 太郎君は両腕を突き出して、無我夢中で雄叫びを上げました。
「うわあああああ!」
 太郎君にはその瞬間、周りがとても静かに感じられました。自分の心音だけしか感じられません。
 ボールを持った男の子は、ついに膝を曲げて飛び上がりました。誰もが息を呑みます。静寂。静寂が訪れます。
 張り詰めるような緊張と静寂の中、太郎君の指に、またしてもボールが触れました。一方、シュートをした男の子は後へと倒れ込みました。太郎君は、思い出していました。あのときの景色と、今の景色では、明らかに、断然、今の方が高い所に位置している、と。だから、止めれられる! と思いました。
 ――そして、物凄い歓声が上がりました。歓声というより、それは、絶叫に近いものでした。

 そのプレーにときめいた女子たちが「キャーカッコイイ!」と喚きます。
 ボールは太郎君の指先の、そのさらに上を、大きな放物線を描いていきました。長い時間、空中を漂ったボールは、結果的にリングを少しも掠ることなく、綺麗に吸い込まれていったのでした。
 あのどうにも例えようがない、ボールが一直線にバスケットへと導かれるようにして入ったときの、気持ちいい音がしました。その音はしっかりと太郎君の耳にも入っていました。もちろん、クラスメイトたちの歓声も。
 シュートをした男の子は、このままシュートをしたら止められてしまうと咄嗟に判断したのでしょうか、一か八か、後ろに下がるようにして飛んだのでした。素晴らしい判断でした。フェイダウェイ・ジャンプシュート。難しい技です。それを見事に決めました。
「よっしゃあああああ!」
 相手チームの全員が、大手を振って喜びます。それもそう、これ以上ない劇的なシュートです。喜びも、ひとしおでありましょう。楽しそうにジャンプして、天真爛漫に喜び合います。シュートを決めた男の子はガッツポーズを決めました。
 その光景を見て、太郎君は意気消沈し、茫然とその場に倒れ込みました。その瞬間、完全に魔法は解け、全身に痛みが走りました。あのときと同じ。もう負けた。
「あと三十秒あるぞ!」
 と、先生の叫ぶ声がしましたが、なんだかずいぶんと遠くに聞こえました。53対54。得点板の点数はそう変わっていました。もうどうでもいいような気がしました。なにも変わらない、そう思うと、もうどうでもいいような気がしました。
 太郎君は無気力にふらふらと立ち上がりました。すると目の前に、ボールを持った野崎君が笑顔で立っていたのでした。真っ直ぐすぎる瞳が、胸に突き刺さりました。
 なんでそんなに楽しそうなんだろうか。太郎君はもどかしい気持ちになりました。なんでそんなに笑っていられるんだよ。
 野崎君は、さぁ攻めようぜ、と言ってボールを太郎君に渡しました。優しいふんわりとしたパスを受け取って、太郎君はもう、堪らない気持ちになりました。
 無理するなよ。僕がチームに合流してから、一点も取れない、逆転される。散々じゃないか。無理して笑うなよ。惨めなんだよ。だから止めろよ。最初っからやらなければよかったんだよ。僕、迷惑しか、かけてないよ。
「……あ、行ってくれ」
 太郎君は努めてそっけない素振りでそう言って、ボールを返しました。
 野崎君はボールを受け取ると、なにも言わずにただ黙っていました。
 時間がどんどんと過ぎて行きます。まだ諦めていない仲間たちが、なにやってんだよ、と前の方で叫んでいます。野崎君は笑って言いました。
「なんだよ、攻めようぜ」
「あ、いいや。やって」
 その言葉を受けても、野崎君は笑っていました。
「攻めないのか?」
「攻めたら攻めただけ迷惑かけるから。なんか僕って、負けることにしか貢献できないっぽいんだよ」
「ははは。いいじゃん。負けたってさ。太郎、お前、一体、なににそんな怯えてんだよ」
「えっ。怯えてないって。野崎たちだって、二十点がなくなったら嫌だろ。だからだよ」
 野崎君は笑っていました。
「お前、本当にそう思ってるのか。俺たちみんな、二十点が欲しいからこんなことやってるって」
「だってそうだろ。違うのか」
「いいかげんにしろ……お前、ふざけんなよ!!!」
 野崎君は笑って怒っていました。本気で怒っていました。太郎君の胸ぐらを掴みます。
 ボールは野崎君の手から離れて、床を叩きました。異変に気が付いた生徒たちが、徐々にざわめき立っていきます。
「ふざけてねぇよ!」
 太郎君は両手で力一杯、渾身の力で、野崎君の肩を押して、突き飛ばしました。その掌の感覚は酷いものでした。野崎君は、ドンと床に尻餅をつきました。
 床に尻餅をついている男を、上から偉そうに見ている、この眺めには、悔しいほどに見覚えがありました。
 あのときと同じじゃねぇか! なんだよチクショウ!
「おめぇな!」
 いつもは優しい野崎君も、このときばかりは本当にキレて、立ち上がるとまたすぐに太郎君の胸ぐらをぎゅっと掴みました。その力は凄まじいもので、太郎君は少し浮き上がりました。
 幾人かの女子生徒が「キャー」と悲鳴を上げました。
「お前らぁぁぁああぁぁぁぁ!」
 先生もキレていました。物凄い勢いで、おそらく百メートルを十秒台で走り抜けるほどの速さで突進してきて、もう、誰にも止められないというような鬼の形相で、台風のように恐ろしい駆け足でやってきて、雷のような激しい熱情を持って口を開いたまま、それから、黙って静かになったのでした。
 野崎君もまた、どうしたらいいのかわからないといったふうに、胸ぐらはまだ掴んでいるものの、力はなく、ただ握っているといった感じなのでした。なぜなら――

 なぜなら、太郎君が泣いていたからでした。

「どうしたよ」
 それを見て、心配そうに先生はそう呟いて、太郎君を胸の中へと抱き寄せました。
 気づけば、胸のポケットが小さく、白く光っていました。太郎君は不思議な感覚に囚われました。
 野崎君は、はぁー、と落ち着いた溜息を吐いて、それから太郎君に語りかけるように、大らかに諭すように、
「俺らがそんなにもの欲しげに見えたか? もちろん、二十点はでかいよそりゃ。でも、そのためだけに試合をやってたんじゃないと思うんだ。たぶん、そのことを太郎、お前はよくわかっているんじゃないかな。そうだろ? なのに俺ら、そんなに信用できないか? お前にとって、俺らって、ムカつく存在でしかない? だったら、すげー悲しいよ。お前のこと、そんなに嫌いじゃないんだぜ。俺らはさ、みんな。たぶん、お前が思っているほど」
 先生の胸ポケットから溢れる白い光は、だんだんと強くなっていきました。強烈に光り輝きます。野崎君の姿が、その光に包み込まれるように、薄くなっていきました。
「頼ってくれたっていいじゃん」
 眩しいほどに照らします。白い石は光ります。強烈に光り輝きます。先生の姿も、他のクラスメイトたちも、その光に包み込まれるように、ぼんやりと薄くなっていきました。
「そうだぞ太郎。迷惑かけりゃあいいじゃねーか。生きるってことはそれだけで、誰かに迷惑をかけるもんなんだよバカ野郎。つまりあれだ。生きるってのは迷惑なもんなんだ。だから、いちいちそれを気にしてちゃ、生きてる心地がしないんだよ。まぁ俺は、迷惑をかけすぎているかもしれないけどな」
 そう言って先生は、
「ガハハハハ!」
 と、なにがそこまで楽しいのか、大きな声を出して久しぶりに笑いました。
 すると、ついに、白い石から放たれた光は、辺り全体を全て包み込み、視界を真っ白に染めたのでした。
 そこは、誰もいない、ただ真っ白な世界へと変わり果てました。
 急に突き刺さるような頭の痛みが、また太郎君に襲いかかり、
「ザザザ、ザザザザザッ!」
 という不規則で、とても大きいノイズ音が、頭の中に響き渡りました。同時に悪魔のような、低くて重い声が聞こえます。それは囁いているようでした。あの異様な囁きが届きます。
「ザザザ、ザザザザザッ!」
 殺されそうなほどに冷たい、戦慄の囁きが届きます。その度に、頭が、もげてしまいそうなほど痛みます。もう爆発しそうです。爆発したのなら、この白い世界も瞬時に真っ赤に染まるでしょう。
「ザザザ、ザザ、ザザッ」
 なにかを囁いています。
「ザザザザザ、ザザ、……ロ、……ロ、……ロード」
 ロード。必死に囁かれている言葉は、どうやら、これのようなのでした。
 その言葉に導かれるように、太郎君はポツリと言い放ちました。
「……ロード」

 ※   ※   ※
 
 ――その刹那、世界は完全に幕を閉じたのでした。そしてまた、新たな世界が始まりました。
 ゆっくり目を開くと、驚くことに、太郎君は体育館に戻ってきていたのでした。クラスメイトたちの騒いでいる声がします。バスケットボールが、空中に飛び交って、次々にバスケットへと沈められていっています。
 茫然自失。太郎君は、ただ、そうでしかありませんでした。
 太郎君は、ただ、願ったのでした。

 ――もう一度、やり直したい、と。

 そう、もう一度やり直したいと願ったのでした。そして「ロード」と呟くと、ここへ戻ってきていたのでした。本当に、見覚えのある景色が広がっていたのです。
 ふと気が付けば、一つのボールがコロコロと、足元へ転がってきていました。太郎君はしゃがんで、それを掴みました。
「おーい、太郎。とってくれ!」
 前を見ると、なにもなかったかのように、野崎君が元気そうに手を振っていました。野崎君は、本当に涼しげな顔をしています。
「おーい。なにボーと突っ立ってんだよ」
 太郎君はまた、同じ台詞を聞いたのでした。身震いがしました。まったく、なにが起こっているのかわかりませんでしたが、それでも、もう一度、やり直せるということは確かでした。
 先程の野崎君と先生の言葉が思い出されました。それは身に沁みるような言葉でした。
 僕はなにを一体、なにを怖がっていたんだろう、そう思いました。たった一人で、思い詰めて。バカみたいじゃないか。
「おい太郎! いい加減にしろよ。冗談のつもりか?」
「……冗談? ああ」
 冗談じゃない!
「ヘイパス!」
 太郎君はボールを投げました。

「おお! ナイスボール!」

 野崎君が構えている、その懐に真っ直ぐ、少しもぶれることなく、ボールは飛んでいったのでした。
 その直後、ピー、と大きな笛が鳴りました。みんな、一斉にシュート練習を止め、先生のもとへと集まっていきます。
 自然と太郎君に笑みが零れました。薄っすらと滲む瞳を前へ向け、今度は、茫然と立ち尽くすこともなく、足を一歩、前へと踏み出しました。
 走り出しました。

 ※   ※   ※

 それから、太郎君は体育の時間を一杯に使って、バスケットボールをしました。
 残念ながら、結果としては48対58で敗れたものの、楽しいという想いに溢れかえっていました。あまりにもはしゃぎすぎて、クラスメイトから笑われたりもしましたが、とても気分がいいのでありました。
「最後までバカみたいに動き回りやがって。グダグダじゃねーか。技術がないのにそんなに汗かきやがって、勝てるわけがねぇだろバカ野郎。あんなのは、ただの悪足掻きって言うんだよ。いいかぁ、最後にちょっと胸を張って、少しでも上位につこうなんて、百メートル走で見ててもみっともないだろ。それと同じなんだよお前らは。無駄、無駄。あー、そんなことをしたって無駄なんだよ。圧倒的な力がないとダメなんだよ。先生みたくだな。最強の筋肉を身につけなければ勝負は出来ないんだよ。わかるか? そんな悪足掻きをしたってなぁ、せいぜい国体で入賞を狙えるってだけの話なんだ。所詮そんなもんなんだよバカ野郎。ガハハハハ!」
 先生は野崎君や太郎君たちを見て、そんなふうに言っていました。野崎君は、
「なんの話をしてるんですか」
 と冷たくあしらっていましたが、太郎君は、先生が、なんだかとても嬉しそうにしているような気がしました。
 太郎君は、野崎君を突き倒すことも今回はありませんでした。野崎君から逆に、胸ぐらを掴まれることもありませんでした。
 そうして、体育の時間はチャイムと共に終わりました。
 チャイムの音を聞きながら、太郎君はなんだかとっても、不思議な気持ちになりました。
 人を頼っていいじゃないか、ミスをして、誰かに迷惑をかけたっていいじゃないか。それを怖がっていたら、いつまで経っても、シュートは入らない。そんなふうに思いました。
 すると、ポケットから溢れんばかりの白い光が、これでもかというほどに放出されたのでした。
 もちろん、それと同時に頭も痛くなって、ノイズ音もして、変な囁きも聞こえました。
 ポケットに手を突っ込んで、そこにあるものを取り出すと、やっぱりというか、なんというか、白い石が入っていました。
 光に包まれながら、太郎君はこう思っていました。またかよ! あー最悪。もう、いいかげんにしてくれないかな。楽しいけどさすがにバスケットはもう、飽き飽きなんだよ。何回目だよ。
 頭の中は、ツッコミのオンパレードでした。ツッコミの遊園地でした。ツッコミの宝石箱でした。
 はぁー。もうヤダ。誰か助けてぇーーー! そう思っていました。
「ザザザザザッ! ザザッ、ザザザッ……ク」
 く? 「く」ってなんだよバーカ! 大魔王、死ね!
「ザザザザザ……、ザザッ……ク、……ク、……クリアー」
 ああ、なるほどなるほどクリアーね。ついにやったぜー。って、バカかー!
 ――そうして、世界は、またまたまた、幕を閉じたのでありました。

(性懲りもなく、続く)
2009/11/27(Fri)17:12:20 公開 / やるぞー
■この作品の著作権はやるぞーさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
11月5日。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
まだどう終わらせるのかも、曖昧にしか決まっていないのですが見切り発車してしまいました!
なるべくハッピーエンドにしたいと思っています。
三人称に挑戦しています。へたくそだと思いますがお付き合いいただければ嬉しいです。変なところがあったら教えてくださいね。
(下)で完結する予定です(あくまで予定)。
もっと面白いものを描けるようになりたいので、感想、アドバイスのほど、よろしくお願いします。

追記。11月26日。
(下)で終わらせる予定でしたが、とてもとてもそれでは終わらせることができない、ということが発覚しました。
なんで章立ての振りを(1)に変更しました。
(5)くらいで完結する予定です(あくまで予定)。
構成力のなさは天下一品でしたw

――――――
2009年11月5日 (1)を投稿
2009年11月26日 (2)を投稿&(1)を修正・加筆
この作品に対する感想 - 昇順
こんにちは! 羽堕です♪
 私もRPGをする時には、コマ目にセーブをする方なので太郎君の気持ちが分かる気がしました。読み進めて行くうちに近未来のゲームなのかなと、ちょっと思ったのですが、どちらかというと太郎君がゲームにのめり込んでいるんだなって感じました。
 大魔王との対峙からの展開は驚きながらも、これからどうなるんだろうって不安な気持ちになりました。それから大魔王の正体は? と疑問も出てきて良かったです。太郎君の年齢が小学生のような高校生のような、私には曖昧な感じがしました。
 細かいのですがロードの説明をしているのなら、セーブの説明をしてもいいかなと思います。
であ続きを楽しみにしています♪
2009/11/05(Thu)15:41:310点羽堕
初めまして、鋏屋【ハサミヤ】と申します。御作を読ませていただきました。
はじめは小説と言うより感想文のような印象を受けました。どこまでコレが続くのかと思っていたらあれっ?って感じでした。そうきたか……
このですます口調の文章が妙な空気を醸し出している気がします。はじめのゲームをしている場面ではそれがかえって気味悪く感じ、何だろう、「得体の知れなさ」みたいな物を演出していてちょっとぞわっとしましたよw
さて、この後がどうなるのか興味津々です。彼のセーブポイントは一体どんな場面なんだろう?
次回更新も期待しつつお待ちしております。
鋏屋でした。
2009/11/05(Thu)17:13:330点鋏屋
>羽堕さま

ご感想ありがとうございました。
僕もRPGが好きでよくするんです(ドラクエとか)。それかシュミレーションゲームですね。
僕なんか1ターンごとぐらいにセーブしちゃってます。そんなにしなくてもいいんですけど、なぜかやっちゃうんですよね、これが。
一応、舞台は現代を設定しているつもりです。太郎君がゲームにのめり込んでいるというところはこれから大事になってくると思うので、そこが表現できているようでホッとしました。
今後の展開もどんどんと動かしていくつもりです。
年齢については確かに曖昧でわかりにくいっすね。早めに高校生だとわかる描写を入れるべきでした。次に更新するときに合わせて修正できたらいいなと思います。助かります。
セーブの説明についても再考したいと思います。
有意義なアドバイスありがとうございました。今後も頑張りたいと思います!


>鋏屋さま

ご感想ありがとうございました。
おそらく【ハサミヤ】と読めていなかったです。ふりがなを教えていただいてよかったっす。どうもわざわざすみません。
文体についてはちょっと個性を出したいなと思って頑張りました。いやーしかし描きにくいです。今更後悔しても遅いんだけど……。三人称も苦手だし。大丈夫かな。
という不安だらけなんですけど、でも、まぁ今のところは、破綻することなく進められているので、このペースを維持したく思います。
ぞわっとしたとのこと。おお、嬉しいです。恐怖感みたいなものも出したかったので、ほんとによかったです。
はい。なんとか完成できるように頑張ります。ありがとうございました!
2009/11/06(Fri)02:17:450点やるぞー
こんばんは。やるぞーさん、作品拝読させて頂きました。
ですます調(どことなく、田中ロミオ先生風?)と、太郎君の行動に自分も完全に小学生と思っていました。すみませんですw しかし、ゲームにのめりこむ姿が自分自身もだぶってしまい苦笑いであります。自分もシミュレーションゲームなんてこまめにセーブ&ロードですもん。「あー、ステータスが思い通りに上がんなかったぜ!」とか言って開発者の思う壺でありますw
掴みとして、この得体の知れない感覚にばっちりOKだと自分は思います。今後の展開を楽しみにお待ちしておりますね〜 以上、もげきちでありましたー
2009/11/06(Fri)18:38:520点もげきち
>もげきちさま

あ〜小学生だと思いますよね。いえいえ、謝らないでください。ご指摘頂けて、ほんとに助かります。
やっぱり客観的に自分の作品を見るのは難しいですね。読んでもらって、感想を頂けることの素晴らしさを実感しています。気づかされることがいっぱいです。
高校生活を少し挿めば解消されるかなぁ。試行錯誤したいと思います。
セーブはしないと、もうほんとに冷や冷やしますよね。忘れちゃったときには、もうゲーム自体を楽しめなくなります。
掴みとしてはOKとのことなので、これから期待に沿えるように頑張りたいと思います。
それでは、ありがとうございました!
2009/11/07(Sat)10:35:290点やるぞー
作品を読ませていただきました。中二病的な主人公がいい雰囲気を出していますね。特に現実のシーンで妙に現実と乖離している感じがいいです。ところで主人公は幾つなのでしょう? 小学校の高学年ぐらいが一番しっくりする感じなのですが。作品自体は読みやすいのですが、私的にはもっと描写を入れて仮想世界も現実世界ももっとリアルに見せて欲しかったです。物語の進行を急ぎやや描写が疎かになっていた印象を受けました。では、次回更新を期待しています。
2009/11/08(Sun)13:22:140点甘木
>甘木さま

雰囲気作りには力を入れたのでそこを評価してくださって嬉しいです。ありがとうございます。
やはり年齢が曖昧ですね。多くの方からここはご指摘いただいているので、直さないといけないなって思います。
今のままだと小学生ぐらいが確かにしっくりするのですが、この後の展開で過去に遡ったりする予定なので高校生ぐらいが、僕的にはベストなんです。こりゃあどうにかしなければ……!
描写が足りていないというご指摘にハッとさせられました。確かにそうですね。ちょっと物語を進めるのに急ぎ過ぎていたかもしれません。
次に書くときは描写バランスに気をつけて、よりリアルに見せられるように頑張りたいと思います。
いろいろと勉強になりました。ありがとうございました!
2009/11/09(Mon)20:05:350点やるぞー
こんにちは! 羽堕です♪
 なんだか間違ったリーダーシップと指導をする体育教師に、振りまわされて太郎君はもちろん、野崎君を始め他の生徒たちも散々だなって感じました。それに、どこか現実離れした夢との間のような感じが怖さを感じさせます。教室内の他の先生などの反応も上手く入っていて、良かったです。
 そしてバスケの試合での緊張感などもあり、その試合とゲームを重ねる様な所があって、そして失敗してしまい、そこから更に野崎君を怒らせる結果になった事で……やり直したいと思ったら、という流れも分かりやすかったです。そして思った様な結果を得る事でクリアとなって幕が閉じる。この後に、どう続いて行くのか分からなくて期待しています。
であ続きを楽しみにしています♪
2009/11/27(Fri)14:25:230点羽堕
>羽堕さま

感想ありがとうございます!
そうですね、この体育教師は散々ですねw自分でも描いていてこんな教師は嫌だなぁと思いました。でも、良いところもあるんですよ、たぶんw
バスケの試合のシーンは描くのが大変でした。臨場感を出そうといろいろと試行錯誤したのですが、なかなかうまくいきませんっす。でも、ちょっとは緊張感が出ていたようでよかったです。
はい。なるべくわかりやすいストーリー構成にしたいと思っています。
次は太郎君の初恋の予感がしています。あくまで予感ですが……さてどうなってしまうのやらw
それでは今後ともよろしくお願いします!
2009/11/27(Fri)17:20:300点やるぞー
はじめまして、三文物書きの木沢井と申します。
 どのような物語なのかと今朝から拝読し、今しがた読了しました。読解力が足りないためか、所々で引っかかりを覚えたこともありましたが、それも『現実』を超越しているからなのかなと思って読み返すと納得できました。
 太郎君が試合中にボールをゴールに投げ入れる瞬間は緊張感があり、入らなかったのだと分かると読んでいる自分までが落胆するというか、残念に思うというか、とにかく印象的でした。太郎君以外の登場人物としては体育教師がずば抜けて印象に残りました。こう、良くも悪くも突き抜けていまして。
 二番煎じではありますが、この先太郎君とその周囲がどうなっていくのかが楽しみです。

以上、FFよりはDQ派の木沢井でした。
2009/11/28(Sat)14:38:390点木沢井
>木沢井さま

文章やらストーリー展開やら、まだまだ拙い部分ばかりなので、読むだけでも一苦労だったと思います。なのにその上、感想も頂けて、本当に恐縮であります。ありがとうございます!
いえいえ、読解力が足りないなんてトンデモナイですよ。ひとえに僕の力量のなさが原因なのです。もっと頑張らなくちゃ、ですね。
シュートシーンと先生のハチャメチャぶりが、どうやら印象に残ってくれたようで嬉しいです。
これからどうなっていくのか、楽しみと言って頂けているので、なんとかその期待を裏切らないように、これからも頑張りたいと思います。
以上、同じく、FFよりはDQ派のやるぞーでした。それではー!
2009/11/29(Sun)01:10:060点やるぞー
続きを読ませていただきました。体育の先生ってどこの地域でもこんな感じなのかなぁ。さすがにここまでオーバーなのはいないだろうけど、高校時代の体育の熱血バカ教師を思い出しました。本気で脳味噌まで筋肉じゃないのかと思わせぶりは自分の過去を観ている気分でした。さすがに太郎みたいな目には遭ったことはないけど。ただ体育教師の印象が強すぎて太郎が食われてしまった印象を受けました。ややキャラのバランスが悪かったと思います。太郎がやり直したいという気持ちを発揮させるのは納得いきましたが。では、次回更新を期待しています。
2009/11/29(Sun)23:57:140点甘木
>甘木さま

感想ありがとうございます!
そうですよね、体育の先生にはそんな感じの人がよくいますよねーって、ええ!? 甘木さんも先生か何かだったんでしょうか。僕は貧弱な体をしていますので羨ましいっす。ランニングでもしようかなぁ……でもめんどくさいしなぁ……w
うん確かに、キャラのバランスって大事ですね。欠けていた視点でした。太郎君、主人公なのに全然目立ってないですからね。そういったところも次に更新するときには気をつけたいと思います。
すごく参考になりました。ありがとうございました。それではー!
2009/12/02(Wed)22:26:340点やるぞー
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