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『泥酔中年』 作者:甘木 / 未分類 未分類
全角2425文字
容量4850 bytes
原稿用紙約7枚
「佐藤さん、手首に力が入りすぎです。そんなに力を入れたら手首が自由に動かないでしょう。もっと力点を尺骨の中央の方に意識して。久本さんは力を抜きすぎです。それじゃ揺れが大きくなってせっかく綺麗に入っているものがグチャグチャになっちゃうでしょう! そんなこともわからないんですか!」
 大きな声で注意された久本がビクッと体を震わせ、すまなそうに何度も頭を下げる。まだ五十前なのにスダレ頭で小柄の久本が頭を下げる姿が妙に卑屈で見るたびにイライラしてくる。
 山本は気持ちを落ち着けるために大きく息を吸う。
 いかん、生徒相手に感情的になりすぎている。こんなことじゃ教師失格だ。俺が教えているのは伝統芸能だ。伝統芸能の美とは瑣末な感情とは対極にあるべきだろう。落ち着け俺。
「みなさんもお疲れでしょうから休憩にしましょう。一時間後に教室に集まってください。あ、そうそう。佐藤さんと久本さんはウォーミングアップ不足ですね。この休憩時間にウォーミングアップしておいてください」
 生徒たちはあからさまな安堵の表情を浮かべて教室を出て行く。


 生徒たちがいなくなっても教室には生徒たちの残滓が立ちこめていた。それは汗と加齢臭。この学校の入学資格が四十歳以上だから仕方がないと言えば仕方がないが、もう三十年以上嗅ぎ続けている臭いだが好きにはなれない。山本は最近弱り気味の胃からこみ上げてくる不快感を押さえつけ換気するため窓を全開にする。
 眼下に闇に沈んだ歌舞伎町と呼ばれる街並みが広がっている。かつては日本一とも称された歓楽街だったが、政府の舵取りの失敗が引き起こした不況から何十年も抜け出せない現在では往時のような賑わいはない。さらに酒税の増加、人口の減少、平均所得の低下などが人々のアルコール離れを加速させ、歌舞伎町に幾百とあった飲み屋が次々と廃業に追いこまれた。
 山本は今年で八十二歳になるが、山本が若い頃はまだこの街にも活気があり、酔客の歌声や客引きの叫び声、娼婦の嬌声、喧嘩の怒声などが夜通し響き渡っていたのに、いま目の前にあるのは人通りもまばらな暗い街並みが続くだけ。何と寂しい光景だ……人々が憂さを払うさまはある種の活気があって楽しかった。酔いつぶれるサラリーマンの姿には悲哀がにじみ何と美しかったことか。いまではこのザマか……おっと、昔を懐かしんで愚痴を言うのは年寄りの悪い癖だな。
 それにしても昔の生徒たちは良かった。
 三十年前にこの教室に通っていた木元君なんか立ち姿の見事さに、この俺が見惚れたほどだった。赤坂君の見事な足捌きなどは教科書に載せたいほどだった。それに百年に一度の逸材と言われた浜崎君は着こなしにも気を使いしっかりとした美意識を持っていた。なのにここ十年の間に来た生徒たちの質はなんだ! 倍率何倍もの試験を通ってきたはずなのに、伝統的な技を学ぼうという気概が微塵も感じられない。
 いやいや、彼等だって学ぼうと思って来てくれているのだ。彼等は俺が彼等に教授しなければこの技も消えていってしまう。伝統芸能の火を消さないためにも彼等には頑張ってもらわなければ。


 休憩時間が終わって二時間が過ぎた頃、久本を先頭に五人がよろめきながら教室に入ってきた。
「へんへぇ〜遅くにゃってすみましぇん。一杯で止めるつもりだったけろぉ〜つい呑みすぎて」
 と、真っ赤な顔をした久本がろれつの回らない口調で弁明する。
「みなさん!」
 山本の大声にも久本たちはニコニコとしたままで緊張する様子もない。さっきまでは名前を呼ばれるだけで萎縮していたのに大きな違いだ。
「なんれすかぁ〜」
 佐藤が酒臭い息を吐きながらこたえる。
「私は感動しています。みなさんがやっと正しい酔っぱらいというものを理解してくれたことに。そうです酔っぱらいは時間なんか気にしちゃいけません。己の欲望のままに酒を飲み理性を飛ばすことが肝要なんです。みなさんはやっとそれに気付かれたんですね」
 山本は僅か数時間でこれだけ変わった生徒たちの姿に感動し瞳が潤んでいた。
「みなさん見てください中村さんの千鳥足ぶり。ああ、これこそ酔っぱらいの手本です。木原さんのスラックスから半分だけワイシャツが出ているのも酔って羞恥が無くなった姿を現していて良いです。久本さんの頭に巻いたネクタイはポイントが高いですよ。みなさん見事なウォーミングアップです。では練習を再開しましょう」
 フラフラとした生徒たちは「は〜い」「へい」「がってん」などと好き勝手な返事をする。
「ああ佐藤さんいいですよ。さっきと違って余計な力が入っていない。寿司の折り詰めをぶら下げた酔っぱらいそのものです。中の寿司が崩れない程度に揺らしながら歩く酔っぱらいそのものです」
 山本はこれでまた無形文化財「正しい酔っぱらい」が守られると感じ、こみ上げてくる熱い想いに体を震わせていた。




 二十一世紀に起こった世界同時不況に真正面から晒された日本は未曾有の不況に陥った。内需拡大を目論見幾多の政策を打ち出したが、国家としての老成期に入ってきていた日本には景気を拡大する力はなく、かえって増税や賃金・年金の抑制を招き負のスパイラルに突入した。
 政府は財源確保のため諸税を上げた。特に嗜好品であるアルコールは増税に次ぐ増税で五〇〇ミリリットルの缶ビールが二五〇〇円を超えた時点で日本の飲酒人口は激減した。ありふれた光景と思われていた酔っぱらいの姿が巷間から消えた。
 飲酒が減れば歳入が減る。これに慌てた日本政府は酔っぱらいが見せる酔態を無形文化財に指定すると発表したのは三十五年前。何の報償も出さない国家認定だから国家の懐は痛まない。それでも無形文化財だ。きっと欲しがるやつがいたくさんいるはず。そうなれば酒税がたくさん入って……などと浅墓で小手先な政策によって、歌舞伎町に国営の「酔っぱらい学校」をつくり伝統芸能を守ろうとしていた。
 
2009/11/01(Sun)23:48:11 公開 / 甘木
■この作品の著作権は甘木さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
「酩酊少女」に対抗して「酔い」系少女物を書こうとしましたが……無理でした。加齢臭漂うオヤジの話になってしまった。
ま、枯れ木も山の賑わいと言うことで。それにしてもこの祭は会期はいつまであるんだろう?
この作品に対する感想 - 昇順
どうも、鋏屋でございます。
わはははっ! 来た来た甘木殿の真骨頂。このどうよしようもなくリアルで滑稽でシュールな作品が私は大好きです。私は甘木殿の書いた少女シリーズではコレが一番好き。つーか少女で有る意味すら無いつー無駄さがナイスです♪
酔っぱらいは世界共通の文化だ。特に日本のサラリーマン酔っぱらいは確かに伝統芸能ですよw 私はこういう馬鹿馬鹿しさの中に光るリアルさに甘木殿のセンスがあると思います。実に甘木殿らしい素敵な作品だ。いや〜面白かった。祭りはこうでないと!
鋏屋でした。
2009/11/02(Mon)08:59:521鋏屋
こんにちは! 羽堕です♪
 この話、なんだか好きです!
 笑えるのに、どこかでそんな時代も来るかもと思えるバランスが、本当にいいんだと思います。それと伝統芸能を愛している山本の熱さが伝わって来るから、くだらないと思う反面で確かに大事だって思えてしまうんだろうな。面白かったです。
であ連載の続きも楽しみにしています♪
2009/11/02(Mon)17:23:211羽堕
ぶはっ!
拝読しました。水芭蕉猫です。にゃあ。
最初のぶはっは笑ったせいです。マジで。何かすげぇ。伝統芸能の熱さを感じさせつつその伝統芸能が何たるかが解ってしまうとマジ笑いがこみ上げてきます。なんじゃこりゃ。そして生徒の一人が私の本名と一緒だったので、何かどうしような気持ちで一杯です。マジ、どうしよう。
最初は中年ってどうよ? とか少し思ってたのですが、読んでしまえばなんてことはなかったです。正直に面白かった。
2009/11/02(Mon)22:48:161水芭蕉猫
読ませて頂きました。
このバカバカしさ、それを真剣にやってそうな日本政府の愚か者達。
私の敬愛する藤子先生の短編集にありそうなネタで面白かったです。酒よりも、その価格の殆どが税金という煙草……一箱五千円位にして――何て言う馬鹿話が私の中で膨らみました。←勿論書きません。
あと、本当は不透明少女の感想、書いていたんですが、私、あの少女、大嫌いでして……止めました、すみません。
登竜門に熱い一石を投じた甘木様、流石です。色々な方の少女シリーズを楽しんでいます。
では、また。
2009/11/03(Tue)00:51:520点ミノタウロス
 こんにちは。
 うーん、60年代の日本SFのにおいがして、こういう発想は好きなんですけど……。僕は笑えませんでした。驚きが無くて……どうしてだろう。なんかすみません。
 しかし、毛色の違う作品をどんどん投入なさる甘木さんにはびっくり。
2009/11/03(Tue)09:07:340点中村ケイタロウ
こんにちは、もげきちと申します。拝読させて頂きましたー
わあ、これは良い喜劇だ! 自分はこういう作品大好きです。ありそうで、ありそうな(え!
この世界いいなー。笑えないけど、笑える作品。面白かったです。
2009/11/03(Tue)13:28:161もげきち
酔っ払いが、無形文化財に……これはこれで切ないお話ですね。
そういえば、鳩山首相がたばこ税を大幅にアップするとかなんとかのニュースもありましたね。
もしかしたら本当に無形文化財になったりするのでしょうか?

注)私の拙い知識によると無形文化財でも補助金やらなんやら出すようです。あしからず。
2009/11/03(Tue)20:46:390点クーリエ
 >鋏屋さん、ありがとうございます。バカバカしさに笑っていただけたとしたら嬉しいです。少女祭における異端作でございます。と言うか、少女でネタが浮かばなかったんですよ。酔っぱらいって端から見るとなかなか芸術的な酔態を見せてくれますよね。そんなことを思って書いてみました。程良くバカバカしく書けたようでよかったです。

 >羽堕さん、ありがとうございます。増税はあるだろうけど、この作品の世界のような増税は嫌だなぁ。いや、今の日本なら人頭税ぐらいはじめるかも……私の作品世界より怖い世界になるな。下らないことは真剣やればやるほど笑いがとれるんですよ。ちなみに私は山本が好きですバカみたいで。こんな未来が来ないように適当に酒を飲んで羽目を外しましょうよ。

 >水芭蕉猫さん、ありがとうございます。笑ってもらえて嬉しいなぁ。私は他人に笑ってもらえるのが一番の望みですから。酔っぱらいは日本の美しい伝統芸能です。伝統芸能を守ろうとする熱き中年達の姿! 少女末の中にあって異色の加齢臭漂う作品ですぜ。ありゃ、生徒の中に芭蕉さんと同じ名字がありましたか。ならば、この作品は芭蕉さんに贈ろうかな。

 >ミノタウロスさん、ありがとうございます。バカバカしさこそこの作品のキモ。難しく考えずに読んで、読み終わった後に「バカみたい」と言ってもらえれば最高の褒め言葉。皆さん格調の高い作品をお書きになられますから一人ぐらいはバカバカしい作品をね。シャレで投稿したのがここまで発展するとは驚きですよ。みんな書くことが好きなんですね。嬉しいな。

 >中村ケイタロウさん、ありがとうございます。しょうがないですよ。誰にでも合わない作品というのはありますから。読んでいただいた上に感想まで書いてもらえただけでも幸せです。60年代というと「NULL」とか「星塵」あたりの作品ですかねぇ。「NULL」も「星塵」も現物は見たことないんですよねぇ……50年代の「アメージング」の復刻本なら見たことあるけど。

 >もげきちさん、ありがとうございます。バカバカしい噺を一席。って、感じでバカげたことを真面目に書いてみました。楽しんでいただけたなら凄く嬉しいです。私もこういう作品は好きなんです。誰かに笑ってもらえたらと思って書いてみましたが、書いた甲斐がありました。こんな世界が来たら嫌だけど、絶対に来ないと言えないのが怖いですよね。

 >クーリエっさん、ありがとうございます。私が死んだ後ならどんな世界になろうが知ったこちゃありませんが、生きている間にこんな世界だけは来て欲しくないですよ。無形文化財には補助金が出ると思いますよ。でも、この作品の中の無形文化財「酔っぱらい」には出ないでしょうね。名誉称号でしょう。戦国武将が功績のあった部下に自分の名前の一文字を与えるようなものですよ。

読んで下さった皆様、わざわざ感想を書いて下さった皆様、本当にありがとうございます。
2009/11/04(Wed)23:53:290点甘木
 そんな高っけー酒飲めるってことは、それなりの地位にいるおっさんか。酔い方も知らずぐでんぐでんになっても(正しいのか?)、誰も助けないどころか褒められている。伝統芸能に目覚めたおっさんたちは、今日も伝統芸能を絶やさないために酒を呑む。おれは、高い酒じゃあおちおち酔えんわ。
2009/11/05(Thu)04:50:170点模造の冠を被ったお犬さま
いや、そんなのもちろん僕も見たことないです……。特にSFファンでもないし。
60年代と言っても、SF御三家の、今でも文庫で読めるようなSSのイメージです。(二度レス御免)
2009/11/05(Thu)06:13:300点中村ケイタロウ
 こんばんは、甘木様。上野文です。
 御作を読みました。
 思わず笑ってしまいました。で、笑えない現実を思い出して欝にorz
 小技がきいているというか、ネタをささえるぴりりとした文章展開が巧みで引き込まれました。面白かったです! 次回作を楽しみにしています。
2009/11/05(Thu)23:15:440点上野文
 >模造の冠を被ったお犬さま、ありがとうございます。おおかた政府の補助金が下りているか学校内は免税なんのかもしれません。ハッキリ言ってそこまで考えていないッス。高い酒なんて一杯目だけでいいんですよ、酔っちゃえば安かろうがメチルだろうが関係ないですって。伝統芸能を守ることがいかに大変かが伝わればいいのですよ(笑

 >中村ケイタロウさん、ありがとうございます。二度レスでも三度レスでもかまいませんよ。ただし議論でなければ。60年代の御三家……ブライアン・オールデイズやジョン・キャンベル? それとも香山茂とか今日泊亜蘭とかですか? あんまり馴染みがないのですが。

 >上野文さん、ありがとうございます。この作品は、かの明治の作家・末広鉄腸ばりの未来予測小説なのですよ……ウソです。あながちないとは言い切れない未来に少しばかり笑いと毒を入れてみました。どんな形にしろ、楽しんでいただけたとしたら嬉しいです。

 読んで下さった皆様、わざわざ感想を書いて下さった皆様、ありがとうございます。

2009/11/08(Sun)13:54:330点甘木
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