- 『夏の死骸』 作者:SARA / リアル・現代 リアル・現代
-
全角13494.5文字
容量26989 bytes
原稿用紙約37.95枚
軒先へつるされた風鈴が、頭上で震える。一人残された僕は、サンダルを履いて庭へ降りた。数歩先に、仰向けになった蝉が転がっている。飛んだと思っていた蝉は、木に止まる力がなくなって、落ちてしまったのだろうか。六本の足は力なく空をもがいている。僕は、近づいて行きサンダルの先で蝉を軽く突いた。蝉は弱々しく「ジ」と鳴いて、そのまま動かなくなった。(本文より)
-
夏の死骸
ぱちん。
僕は電源の落ちたパソコンの前にあぐらを掻いて座っていた。自分の顔がまっ暗な画面へ反射して映っている。血行の悪そうな男と目を合わせたまま、僕は頭の中で紡がれる物語を指先で打ち続ける。カタカタ、カタカタ。
死んだままのキーボードを打つ事に関して、僕はさほど疑問には思わない。だから、ここは夢の中なのだろうか。そう考えると、さきほどから僕を支配していた何物かへ、不安を抱いたまま浸かることが出来そうだった。僕の意志は、僕の手を離れてどこか遠いところにある。それでいい。むしろ、その状態が僕にとって最善であるとさえ思った。カタカタ。
ぱちん。
先ほどから、背後で何かを切る音が聴こえる。振り向くと、誰かが椅子へ腰掛け足の爪を切っていた。両足を座席へ載せ、背中を小さく丸めている。椅子の背は、その後ろ姿をほとんど隠してしまう位に高い。僕の所からは、頭の頂上と指先が見えるだけだった。
声を掛けようにも、名前が分からない。けれど、僕は座っているのが誰なのか分かっていた。声を出そうとして、息が詰まる。手で喉元を探ると、喉仏が球体の金属のように硬く冷たくなっていた。
彼女は僕の存在に気が付いていないのか、見向きもせずに爪を切り続けている。指先へ銀色の金具があたり、伸びすぎた数ミリの爪が弧を描いて飛ぶ。ぱちん。
「おうい」
後ろから声を掛けられて振り向くと、見知らぬ男が机の上へ正座していた。いつの間にかパソコンは姿を消していて、その代りに塗りつぶされた原稿用紙が机の上へ重ねられている。僕は、男へ足をどける様に言いたかった。しかし、相変わらず声を発する事が出来ない。
「まだかい、まだかい」
半月をかぶせた形の目から、玉のような涙の粒が連なり、原稿の上へ落ちる。落ちた途端に涙はインクの滲んだ蝶になった。僕は、この男を待たせているのだろうか。どうしてこの男は僕を待っているのだろうか?
はじめは、話しかけるようだった男の声が次第に大きく、速くなる。もはや、男が何を言っているのか僕には分からない。声が大きくなればなる程、男の涙は滝のように溢れ出ては、次々と蝶に変わっていく。眼前にうごめく白があふれ、声の濁流の中で爪を切る音だけが耳に響いた。
ぱちん。
顔をあげ薄く目を開くとパソコンのディスプレイが無表情にスクリーンセーバーを映し出していた。まだ夢が続いているのかと思い、頬をつねる。朧な意識の中に、痛みを見つけ、僕はようやく朝が来た事を確認する。窓から射し込む光に目が眩む。昼近いのか、外は大分明るくなっている。マウスを動かし作業の画面へ切り替えると、原稿には小文字のAが連打されていた。瞼が腫れぼったく、何時に寝たのか全く覚えていない。
身体に熱が籠っている。再び眠気に襲われたが、朝餉(あさげ)の匂いが僕の鼻孔をくすぐる。すると、胃が間抜けな音を鳴らして空腹を訴えた。僕は食堂へ向かうため、電源を切り、立ち上がった。
二日前、鞄の中へパソコン、電池の切れた携帯電話、それから財布だけを入れて、とある県境の山荘へ小説の取材をしにやって来た。
「おはようございます、お兄さん。作品の方は順調ですか」
食堂では、この山荘の主であるタエさんが食器を片付けていた。タエさんは、所々色のかすれたエプロンを身につけ、白髪頭に、赤い手拭いを巻き付けていた。起きるのが遅かったからか、朝食をとっている人は見当たらない。ただ、使い終えられた食器が雑然と机の上に並べられていた。
「まあまあですかね。締め切りが近いもので」
僕は、あくびをかみ殺して、席についた。その前を「ちょっと失礼」と言って、タエさんはふきんで拭く。
「疲れているみたいだから、無理はなさらないようにね。お身体を壊しますよ」
僕の顔を覗き込んで、タエさんは微笑んだ。すると目尻に何本も皺(しわ)が入った。僕は「ありがとうございます」と言い、軽く頭を下げた。
「今お茶を用意しますから、少し待っていてくださいね」と言い残すと、タエさんは台所へ行ってしまった。
食堂を見渡すと、壁へ数枚の白黒写真が飾ってあった。その中の一枚が目にとまる。成人式の写真か何かだろうか。髪を後ろでひっつめにした女の人が、鮮やかな百合の花をあしらった振袖姿で微笑んでいる写真だった。
「あれは、タエさんの娘さんよ」
後ろから声がして、振り返ると、ひろ子さんが立っていた。
「おはようございます、ひろ子さん」
「おはよう、お兄さん。はい、お茶。冷たいのでよかった?」
ひろ子さんは、この山荘のお手伝いさんだ。この山荘を経営していたタエさんが、年をとって力仕事が困難になったために、雇ったのだという。おかげで、彼女の腕は、キーボードを打つだけの僕の腕よりも、筋肉がついてしっかりとしていた。
僕は礼を言ってコップを受け取ると、中の氷をカランと言わせながら、一気に飲み干した。冷たさが頭のてっぺんを貫いた。美味しいお茶だった。
「私もあれ位肌が白かったら、もう少しいい貰い手がついたのに」
ひろ子さんはそう言うと、自分の腕を人差し指で擦ってみせた。ひろ子さんの肌は陽に焼け、チョコレート色をしていた。でも、きめが細かくて良い肌をしていると僕が言うと、ひろ子さんは「お上手ね」と言い、白い前歯を出して笑った。
朝食を済ませ、僕は散歩へ出かけた。昨日の晩に雨が降ったせいか、道はぬかるみ、所々に深い水たまりを作っている。歩き始めると、靴の先は泥に染まり、僕のジーンズには斑模様が作られた。体にまとわりついた眠気を拭うため、思い切り伸びをする。組みあわせた指の間から見上げた空は曇っていて、僕よりもはるかに高い所へ広がっていた。
僕は道端へしゃがみ込んだ。ひび割れた地面の間から生えた雑草の朝露を中指の平の先へと掬う。顔を近づけて舌を伸ばすと水滴は唾へすぐに馴染んでしまった。先ほどタエさんからお茶を貰ったばかりなのに、酷く喉が渇いていた。
歩いて行くと、右手に鬱蒼(うっそう)とした林が続くようになる。緑の間を、一匹の白い蝶が音もなく飛んでいた。僕は、足を止めてその姿を眺めた。木の葉が茂る暗がりを彷徨(さまよ)う影は、光が舞っているように見えた。
「なにしてるの」
突然、背後から声をかけられた。振り返るとそこには、学生帽を深く被った、十二歳位の少年が僕のことをいぶかしげに見ていた。
少年は皺のないシャツを着て、黒い半ズボンを履いている。ズボンからは、脂肪のついていない足が伸びていた。この近所に住んでいるのだろうか。しかしその割に、肌は白魚のように透き通っている。少年には男とも、女ともとれないような中性的な雰囲気が漂っていた。
「いや、きれいな蝶だなと思ってね、ほら、そこの」
僕が指を指すと「違う、あれは蛾だよ」と少年は言った。深くかぶった帽子が少年の目元を隠していて、表情を読み取ることが出来ない。
「この辺りには、よくいるやつだよ」
「そうなのか、知らなかった」
「君は、この近くに住んでいる子なの」
少年は頷いた。
「僕は、タエさんの山荘へ滞在しているものだよ。ここへ小説の取材をしに来たんだ」
少年は、タエさんの名前を聞いて警戒をといたのか、「タエさん」と言って微笑んだ。
「タエさんとは、知り合いなのかい」
少年は再び頷いた。そして、僕の来た道と反対方向へ駆けて行ってしまった。
ふと視線を林へ戻すと、すでに蛾は居なくなっていた。
「明日はね、お祭りがあるのよ」と、タエさんが冷やし中華の麺をすすってから、言った。
昼下がり、僕とタエさんは縁側へ腰掛けて、二人で昼食を食べた。冷やし中華には、薄黄色をした麺の上に、キュウリ、トマト、卵焼き、ハムがまるく並べられ、真中に蛍光色のサクランボがのっている。僕は真ん中のサクランボを口に含んで、種だけをティッシュへくるみ、皿の横へ置いた。熟しすぎもせず、酸っぱすぎもせず、ただ甘いだけの実は、僕の口内に塗料を残し、喉へ落ちた。
「どんなお祭りなんですか」
「そうねえ、外から人が来る程、そんなに大規模なものではないのだけれど……」
タエさんは、四つ切りになったトマトを箸で摘み、口へ放り込み咀嚼(そしゃく)した。そして、「うーん」と唸った。外はむっとした暑さだ。時折、吹いてくる風が心地よい。タエさんはおもむろに箸を置き、思いついた様に手を打った。
「そうだ、お兄さんは面掛行列をご存じですか?」
「ああ、話を聞いたことあります。確か、秋に鎌倉で行われるお祭りですよね。お面を被った行者達が、神社や町を歩くっていう、一風変わったものだと聞きました」
「さすが小説家さんね。よく知っているわ」
タエさんは空になった僕のコップへと、お茶を注いだ。
「この街のお祭りは、それに少し似ているものなの。町の人みんなが、お面をつけて参加するのよ」
「それは凄い光景が見られそうですね。その仮面に、何か意味はあるのですか?」
タエさんは先程よりも低い声で唸った。そして、音を立てて自分のお茶を飲み干した。
「まあ、時期が時期だからね」
そう言うと、ゆっくりと後ろを振り向いた。開け放たれた障子の向こう側には、八畳間の和室が広がっている。その部屋の壁に、八月の日めくりカレンダーが下がっていた。めくり忘れたのか、日にちは昨日のままだ。
「みんな、会いたくなるのよね。此世の人も、彼世の人も」
僕はそう言うタエさんの横顔を盗み見た。顔に刻まれた皺の一本一本が、超えてきた時間の重さを語っているように僕には見えた。この人は、今までどういう人生を送ってきたのだろうか。微笑みの下に何が隠されているのだろうか。追求したくなる気持ちを抑えて、冷やし中華に目を落とすと汁の中に種だけが浮いていた。
タエさんは箸を置き、手を合わせて「ごちそうさまでした」と言った。僕もそれに習った。庭先に植えられた松の木から、蝉が飛ぶ。しかし、ジジッ、という耳障りな羽音を残して、すぐに地面へ落ちた。
「まあ、お兄さんも時間があれば来てみたらどうですか。面白いものが見られると思いますよ」と、タエさんは言い残し食器を片づけに行ってしまった。
軒先につるされた風鈴が、頭上で震える。一人残された僕は、サンダルを履いて庭へ降りた。数歩先に、仰向けになった蝉が転がっている。飛んだと思っていたけれど、木に止まる力がなくなり落ちてしまったのだろうか。六本の足は力なく空をもがいている。近づいて行きサンダルの先で軽く突いた。蝉は弱々しく「ジ」と鳴いて、そのまま動かなくなった。
お祭りの準備で、夕方から下の階が騒がしくなった。
僕は原稿を書くために、昼食を食べた後から、六畳間の自室に籠りパソコンで仕事を始めた。明かりも付けずに作業していたせいか、気がつくと部屋は闇に包まれていた。
窓へかけた網戸の向こう側、夜闇で乳色に暈(ぼか)かされた雲が足早に駆けていく。ふと、雲の列が途切れる。すると、濃紺の池に生卵をひとつ落としたような月が浮かんでいた。
僕はパソコンの電源を切って、伸びをした。寝転がり、天井を見上げる。電池が切れたままの携帯電話を手に取り、掲げる。闇の中で、黒い機体は浮き上がって見えた。床へ置き、腕を頭の下へ敷いて、横になった。目をつむると、闇の中でタエさんの言葉がよみがえる。「みんな、会いたくなるのよね」と言った彼女の横顔が、少しばかり曇っていたのを思い出す。
思考を遮るようにして、僕の耳元を蚊が舞った。耳障りな羽音を鬱陶しく思い、手で振り払う。しかし、またすぐに飛んできた。僕は下の階へ蚊取り線香を取りに行こうと体を起こした。貧血持ちの体に、短時間の睡眠は酷だ。頭の中で、鐘が鳴り響いている。それでも、気を奮って立ち上がると、目の前に幾筋もの光が瞬いた。
壁に手をつきながら部屋を出て、数歩歩いた途端、目まいへ襲われた。膝に力が入らない。とっさに手をつくことが出来ず、僕は板張りの床に、全身を強く打った。頭では、「貧血かな」と考えていたけれど、身動き一つとることが出来ない。床は冷たく、視界へ埃や髪の毛が映る。すぐ先には、下へ降りる階段が続いている。階段を降りる途中で倒れなかった分、救いようがあった。もし何十段も上から転がり落ちていたならば、痛いだけでは済まないだろう。
そんなことを考えていると、誰かが一段、一段、確認するように階段を上る足音がした。倒れる音を聞きつけたのだろうか。僕は咄嗟(とっさ)に立ち上がろうとした。けれど体が思う通りに動きそうにない。
頭の上で木が軋む。視界に、陶器のような足が映った。首をもたげると、女の人が僕を見下ろしている。見覚えのある顔だ。紅の塗られた唇は三日月型に微笑んでいる。ああ、この人はタエさんの娘さんだ、と気が付いた所でスイッチが切られたように僕は意識を失った。
目を覚ますと蛍光灯が目にまぶしかった。頭の下に枕があり、首から下には、身体へ布団がかぶせられている。しばらくぼんやりと天井を眺めながら、頭の中で出来事を整理していった。僕は確か仕事をしていて、蚊取り線香を取りに行こうとして、目まいで倒れ……それから、そうだタエさんの娘さんが来たのだ。その後、どのようにしてここへ運ばれたのか全く思い出せなかった。記憶を引き出そうとすると、熱湯の湯船から出た後のような目まいが、頭へ鈍く響いた。
ふと人の気配を感じ、顔を横にずらすと着物の膝が目に入った。
「良かった。目が覚めたのね」
声の主はひろ子さんだった。ひろ子さんは、黒地の着物姿で俯いて、その場に正座していた。半身だけ起き上がると同時に、額からタオル布団の上へと落ちた。
「すいません、迷惑をかけてしまって」
僕はタオルを手にとって言った。ひろ子さんは「いいのよ」と答えた。外では、まだ祭りの準備が続いているのだろうか、人々のざわめきが漏れて聞こえてきた。頭の芯がやすりで削られている様に、痛んだ。
「一日中、目が覚めなかったのよ」
「僕は、そんなに眠っていたのですか。信じられない」
言われてみると、確かにいつもよりも体がだるく、重い気がした。ひろ子さんは、手で口元をおおって、笑った。
「突然、上で何かが倒れる音がして、来てみたらお兄さん一人で倒れているのだもの。驚いちゃった」
「一人? 倒れた時、女の人をみました。確か、タエさんの娘さんでしたよ」
窓の外で、子供たちの歓声があがった。無邪気な笑い声は、夜によく響く。朝、出会った少年もあの中にいるのだろうか。僕は、あの細く白い肌が、夜闇に浮かぶ姿を想像した。それは、今朝見た蛾と木の影のように美しいイメージだった。
僕は、ひろ子さんの格好を横目で見た。全身を黒い着物に包んだその姿は、少なくとも、今日は彼女にとっての「誰か」が亡くなった日だということは、容易に想像できた。そして、彼女の顔からは、先ほどとはうって変って、笑みが消えていた。
子供たちの声が遠ざかり、部屋には静寂が訪れた。その空気を割る様にして、外ではひぐらしが囁くように、鳴き始めた。
「ひろ子さん?」
すると、腕をすっと伸ばして、ひろ子さんが顔に触れた。表情から、彼女の感情は何も分からない。ただ、二つの目が僕を映していた。手のひらは、僕に倒れた時の床の冷たさを思い出させた。そして、五本の指の先に付いた爪が、きれいな桜色をしているのに気が付いた。浅黒い肌の上では、それはあまり目立たなかったが、気が付けばそこばかりに目がいくだろうと、僕は思った。
指先が震えるのを、頬に感じた。
「こんな日に、お祭りなんて嫌になっちゃうわ。本当に」
そう言うと、彼女は顔をそむけ、手を僕の頬からゆっくりと放した。
「タエさんの娘さんは、数年前に亡くなったばかりよ。階段から落ちてね」
では、僕が見たのは何だったのだろうか。ただの見間違いなのだろうか。それとも、霊的な何かなのだろうか。様々な想像が、頭を駆け巡る。
「みんな、あいたくなるのよ。あの子も、私もね」と、ひろ子さんは立ち上がった。
僕はタエさんの微笑みの下に隠された重みを想像する。悲鳴とともに、階段を大きなものが転がる音。冷たくなった自分の娘に、タエさんは何を思ったのだろうか。
「それから、きっとあなたも」
そう言い残して、ひろ子さんは部屋を出て行った。黒い後ろ姿は一枚の影絵のようだった。
すれ違う人皆がお面をつけているというのは、異様な光景だ。
地域特有の祭りは作品に使えるのではないだろうか、という期待もあり、僕はタエさんから渡された面を被って外へ出た。それは目尻がつり上がり、頭上へ二本の角の生えた「般若」の面だった。
僕は、「般若」になって雑踏を歩いた。異形のもののフリをした人間が、あちらに、こちらにせめぎ合っている。屋台の中から出る灯りと、その軒先につるされた赤い提灯だけで照らされた道に立っていると、甚だ自分が小説の中の一登場人物のようにさえ思えてきた。
焼きそばを売る「ひょっとこ」の男は「にいさん、寄っていきなよ!」と僕の腕を引っ張った。アニメのキャラクターになりきった少女が、「鬼」の面を被った老人に手を引かれて歩いている。そうかと思えば、自作の紙製の面を被った幼稚園児位の男の子が、ヨーヨーを片手にはしゃぐ。女の人は、色とりどりの浴衣を着て、顔にはやはり面を被っていた。中には、お面屋なるものもあり、店先には面を品定めする人だかりが出来ていた。
歩いて行くと、露店の終わった道の先に、「おかめ」の面を被った女が一人立っていた。女は、何やら腹を撫でている。僕はその腹が、膨らんでいるのに気が付いた。
妊婦の女は、雑踏の中で一人立ちつくしていた。「おかめ」の面は、つるりとした白塗りに、微笑んだ女の顔が墨で描かれている。唇だけが、赤く塗られていた。その姿に、僕は写真の中の女の人を思い返す。ふと僕は、仮面の意味を考えた。
怒っていても、悲しんでいても、面をつけていれば微笑みは絶えることがない。感情を殺さず、覆い隠すだけにつけられる仮面。本人は、いや、この街の人たちは、何を思って面を被るのだろうか。
僕は走り出した。一瞬、目まいが僕を再び襲った。しかし、それを振り払うようにして、足を前へ進め続けた。「おかめ」に近づく。女は仮面の下から、自分の方にむかって走ってくる男の姿を見ているに違いない。露店の途切れた先の道は、灯りがないのか暗闇に包まれている。闇に飛び込むようにして女とすれ違った。
振り返るのが、ただ怖かった。
息を整え整え、歩いていると横道に小さな神社を見つけた。
そこだけ静寂を保ち続けているような、神聖な雰囲気が漂っていた。人一人では、抱える事は出来ないであろう太い幹の周りを、ぐるりと太い綱が張ってある。石畳を歩いて行くと、先には社が見えた。僕は、歩いて行き、賽銭箱の前の石段に腰をかけ面を外す。そして、軽く汗を拭い瞼を閉じた。すると、タエさんの娘さんの顔や「おかめ」の顔が何度も現れて、頭の中を回った。倒れた後で、走ったのがいけなかったのだろうか、再び視界がぼやけてきた。
すると、静寂を打ち破る様に、乾いた木の音が境内に響き渡った。顔を上げると、狐のお面を被った子供が、下駄を履いてやって来ていた。
「おにいさん、こんな所で何しているの」
その声には、聞きおぼえがあった。朝、出会った少年だった。
「君か。お祭りはいいのかい」
少年は、からん、と下駄の音を響かせながら、僕に向かって歩いてきた。そして数歩手前で立ち止まった。
「もう、充分に遊んだから、僕はいいの」
少年は青い甚平を着て、白塗りに赤と黒の墨で顔が描かれた、狐の面を被っている。
僕は「般若」の面で煽いで、風をおこした。そして、少年へ向けてとりとめのないことを話し始めた。何分、話しただろうか。それとも、何時間話しただろうか。夜の闇が、深まって来た気がしたなあとふと思った。すると、僕の舌はそこでぴたりと止まった。僕は、それでも言葉を紡ごうと、何事か言った。しかし、それは次の話に、つながらないような些細なことだった。
「お兄さん、どうしてこの山荘に来たの」
突然、歓声がわき起こった。それに合わせて、太鼓や笛の拍子が始まる。
その音につられるように、蚊が耳元を舞った。汗の匂いを嗅ぎつけたのだろう。途切れ途切れに聴こえてくる耳障りな羽音に、手を振って追い払う。音が遠ざかったと思っていると、蚊はいつの間にか、僕の右腕へ止まっていた。
鈍い明かりの中、蚊が止まったままの腕を眺めた。血を吸う蚊は、全て雌であることを思い出す。この虫にとって、僕は血が通った肉片でしかないのだ。細かな毛の生えた黒い腹に、血が溜まっていく。右手でそっと蚊が止まったままの腕をおさえた。手のひらと腕の間で、柔らかな感触が押しつぶされていく。
水を打ったように、何かの地面へ落ちる乾いた音が、境内へ響いた。
それを合図にして、僕はそっと手を持ち上げた。擦れた黒色が、皮膚にこびり付いている。手のひらを見れば、転々と赤が付いていて、それは夜闇へ消える花火のように見えた。
「お兄さん、僕の名前を教えてよ」
顔を上げると、少年の足下に狐の面が転がっていた。白い光に照らされた少年の顔。僕は、彼の持つ目を知っていた。知りすぎる位に、この目を持った女を知っていたのだ。見ていられなくなって、腕に目線を戻す。そこには、見るも無惨な死骸がこびり付いていた。
吐息の様な風が、僕と少年の間を駆け抜けた。仮面が、かたかたと乾いた音をたてる。
僕は記憶を辿るように、山荘に来る前のことを思い出し始めた。
僕は、この山奥の山荘に来る前、東京に住んでいた。
都内の大学へ通うために、十八歳で僕は上京した。
上京してからまず初めに、ここは空が狭いなと思った。僕の住んでいた所は、山と森に囲われた寂れた町だった。すれ違う人は、大抵が見知っている人で、日が暮れると辺りは真っ暗になった。しかしここは、昼の間、人々は皆つまらなそうな顔をして、僕の横を路面電車みたいに通過していった。そして夜になると、星の代わりに、色とりどりの光が街全体に灯され、そこへ蛾の様に人が群がった。
初めは、そんな無表情な人々や安っぽい光を嫌悪した。しかし、人や光はつねにすぐ傍で、その楽しさや明るさで僕を誘った。そして、気が付くと僕は、カラフルな照明の下で踊り、慣れない酒を飲み、女の上で腰を振っていた。つまり、簡単に手に入り、そして何よりも楽しいものを僕は東京で見つけてしまったのだ。
そして次第に、地元から持ってきた本には埃が被り、ノートは部屋の隅で黴が生えていった。たまにぼんやりと、何のためにここへ来たのか、そもそもどうして自分がここへいるのかを考えることがあった。しかし目の前の快楽の前に、それらの疑問は泡のようにはじけ、消えて行った。
そんな中、彼女に出会った。僕は、一目で彼女に惚れたわけではなかった。しかし、どうしたことだろう、彼女の目が僕を真正面から見ていた。それは、彼女が横でどこか遠くを見ながら話すときでも、正面から見られているという感じがあった。僕は、その視線を受けるたびに、ひどく混乱した。そして、「なぜこの女に、これほどまでに乱されているのだろうか」と考えた。見られている、という感覚が僕を敏感にしたのかもしれない。もしかしたら、ただ顔が自分の好みに一致していただけかもしれない。しかし、僕はこの感情に、世の中の人が声高に叫ぶ「恋愛」という名称をつけ、彼女に執着した。
僕が就職して、間もなく、僕達は結婚した。
腹が膨れて来る前、僕と彼女は、子供の名前を考えるのに精一杯になっていた。男、女どちらがいいと言う事を話し、沢山の名前の候補をあげた。そして、日夜考えた名前を紙へ大きく書いて、壁に貼ったのだ。
しかし、子供が出来た途端、僕は一切の魅力を感じなくなった。なぜなら、彼女の目線は、すでに僕を見ていなかったからだ。彼女は自分の下腹に溜まった羊水に浮かぶ子供を、始終見つめていた。その時、僕は悟った。僕が好きだったのは、この女じゃない。この女の持つ目線なのだ、と。
それに気がついた瞬間、僕はおなかにいる子供に対して、強烈な嫉妬を覚えた。彼女の視線を奪った、「肉塊」に対する嫌悪感は日に日に増していった。生まれて、産声を聞くのが怖くなった。自分の血の半分が入っている「何か」が生まれることに対して、僕は情けない事に次第に恐ろしくなったのだ。果たして、僕は自分の子供を愛せるだろうか。
自分がこんな風に考えてしまうのを、恥じて何度も変えようとつとめた。しかし、一度抱いた感情は、どうしても処理しきれなかった。
何日も、僕は洗い物をする彼女の後姿を眺めながら、彼女に堕ろす事を提案するのを想像する。しかし、喉まで出かけた言葉を口にする事はなかった。日が経つにつれて、彼女の腹は膨れていき「順調だよ」と幸せそうに言う彼女に反して、僕は自分の心が彼女から離れていくことを感じていた。
もし、提案したら。彼女は、あたり前のように拒否するに違いない。もしかしたら、振り返り、包丁を僕に向けて突き付けるかもしれない。肉を斬る用途が包丁の本来の使い道ならば、別に切られても使い方は間違ってはいないのだろう。実際の所彼女は、僕の家に侵入してきた強盗で、僕に金目のものをよこせと要求しているだけなのではないだろうか。しかし、彼女が僕に要求してくるものは金目のものよりも、はるかに重いものなのだから、僕にとって彼女は連続殺人犯兼強盗の人間よりも、ずっとに恐ろしいのだ。
そこまで想像した所で、洗い物を終えた彼女が振り返った。腹のふくらみはこれから日に日に増していくだろう。気がつくと、僕は近づいてきた彼女の腹を両手で力強く突き飛ばしていた。彼女が呻いて、床に崩れる。僕はわき目も振らず、部屋を飛び出した。
車に乗ろうと思い、鍵を探そうとして、鞄を探ったがなかなか出てこない。あれは、どこかの県のマスコットキャラクターのストラップのついたものだ。僕がよく物をなくすから、彼女につけてもらったんだ。ああ、そうだ、僕はさっき彼女の家に着いた時、背の低い冷蔵庫の上へ置いた気がする。僕はその事に気がついて、駆け足で戻ろうとした。しかし、足に力が入らず、その場へ座り込んでしまった。アパートの階段を、また登るのが嫌だった。そうだ、だってこのまま上ったら、大家さんに何事か起ったのかと勘付かれてしまうじゃないか。そう思い、部屋へ戻るのをやめて、再び鍵を差し込もうとしたが、手に持っているのが家の鍵であることに気がつき、途方に暮れて空を見上げた。
僕は目を瞑って、故郷の真っ暗な空を思い浮かべる。黒い山、風が吹き、枝がぶつかりあって、木々がざわめく。瞼の裏へ広がる闇の真ん中に突っ立って、僕は自分の手が血に濡れた事を察した。温かい感触が、手の内側にまだ残っていた。そうだ、僕が触れた瞬間、確かに「動いた」のだ。腹の中で、その命は脈動していた。その事に気がつくと、吐き気が襲ってきた。腹を抑えてうずくまる。
ふと、ジーンズのポケットの中に、何か固いものがあたったのに気がついた。それは、車の鍵だった。混乱していて、どうやら自分でも、アパートを出るとき、鍵をポケットへしまったことさえ忘れてしまったらしい。
僕はあてもなく、車に乗って走りだした。それは、八月のある暑い日のことだった。
「狐のお面、拾わなくていいのか」
少年は、首を横に振り、「もう、これは必要ないものだから」と言った。僕は、「そうか」と答えて、少年の言葉を反芻した。すると、大学時代、一本の小説を仕上げようと、無我夢中になって書いた夏を思い出した。その小説の中に、狐が出て来る場面があった。
狐は、春先に子供を産む。そして、生後三か月経った夏に、「子別れの儀式」を行う習性がある。親が、子供を一匹の狐としてライバル意識を持ち、巣穴から追い出すのだ。時には吠えたて、本気で犬歯を立てて。儀式が終わっても数週間は、母親の元に戻ったりするのだが、秋になれば、ほとんどが一匹の狐として生きて行くことになる。
つまり夏を越えた狐は、一頭の獣になるのだ。
僕は、書いた小説がどのような内容で、自分が何を書きたかったのかを、すっかり忘れてしまっていた。ただ、狐が出てきた、という場面しか思い描けなかった。
「僕は、君の名前が思い出せそうにない」
僕は、そう少年に告げた。少年は黙っていた。
「どうしてだと思う。こうやって、色々な事を、僕は忘れて行くのだろうか。大事な事も、そうでない事も、全てどうでもよくなってしまうのだろうか」
彼女を突き飛ばした事も、少年を殺した事も、小説の内容も、全て僕の中で失われていくのだろうか。そして、事実から逃げ続けて、何も見ようとしなくなるのではないだろうか。
僕は大学三年から、所謂「小説」というものを自分の手で作ることに興味を持ち始めた。もともと、地元では本を読んでいるだけで、作品を書こうという気にはなれなかった。しかし、いざ書いてみると創作は僕を強く引きつけて、手放さなかった。それからというものの、僕は大学生活を、小説の投稿にほとんどを費やした。周りが就職活動を始める時期に、僕は自信作を書いては賞へ投稿していた。
だが、ある時から僕は悟った。これじゃあ、生きていけないのだと。そうして、僕は小説を書くことをやめ、一般企業へ就職した。ペンを折り、ネクタイを締めた。それでも、愛着のあった原稿はまだ引き出しの奥にしまってあった。それが、僕が仕事で山荘へ小説を書きに来たのだという幻想を抱かせた。
「本当は、ずっと書いていたかった」
「うん」
「それだけでは駄目だって、分かってはいたんだ。それでも、いつだって僕はいつか小説家になるんだと、夢見ていたんだ」
「うん」
「けれど、ある日、大切な人に酷い事をしてしまった」
三か月なの、と言った彼女の腹を、両手で突き飛ばしたこと、短い悲鳴を上げた直後、彼女が苦しそうに僕の名前と、それから腹に浮かぶ子供の名前を呼んだ事。突き飛ばした腕が、どうして彼女を掴もうとしなかったのか。全てが映画のフィルムを早送りするように思い出される。
一瞬、「おかめ」の面の微笑みが脳裏をよぎった。膨れた腹をさするその手が、面掛行列の本当の意味を語る。面掛行列は、安産を願うものだ。だから、行列で「おかめ」のうしろには大抵「産婆」が位置づけられることになっている。この祭りで、僕は産婆を見なかった。
そして、僕は、「どうしてここに辿りついたのだろうか」と、自問した。死んでしまったはずの写真の女、生まれて来ていないはずの子供、過去と未来が混在したこの場所に、僕は何の用事があって来たのだろうか。少なくとも、僕が来るにはうってつけの場所だということは分かっていた。
一匹の蛾が僕達の間を舞った。弱っているのか、飛び方はどこかたどたどしい。僕は、地につく位低く飛ぶその白を、目で追った。
もう落ちるのではないかと思った瞬間、蛾は、少年の身長位まで力強く羽ばたいた。ぐん、と高度を上げて蛾は飛んだ。しかしすぐに、少年の頭の天辺を過ぎた所で、動きを止めた。そして、羽ばたきは停止し、足は空をもがく事もなく、地に落ちた。
僕と少年は、目を合わせた。白い羽の描く軌跡が、夜闇に光って見えた。
「僕はどうしてここにたどり着いたんだろうか」
僕は、疑問を声に出した。少年は、うっすらと微笑んだ。
「その答えはお兄さんの中で出ているんじゃないですか?」
タエさんと、ひろ子さんの顔が頭を横切る。自分よりも、先に亡くなった娘を持つタエさん。喪服姿で俯くひろ子さん。微笑みと、快活さの下に隠された背負うものの重み。そして、顔を隠して行列する特殊な祭りが催される山荘。
僕は、隠そうとしていたのではなかった。ただ、目をそむけていただけなんだ。
「僕の名前が書かれた紙を焼いて、灰にして空へ飛ばして下さい」
そう言うと、少年の輪郭がぼやけ始めた。
風が吹き、少年の足は金色の光となって夜空へ舞いあがる。僕は、それを見ていた。今日は、雲もない天気だったせいか、濃紺の空に月がはっきりとした輪郭を保ち、光っていた。
僕は山荘から、車で家へ帰った。携帯の電源を入れると、何件も彼女の名前が連なっていた。僕は、生まれるはずだった子供の名前の書かれた紙を、壁から剥がして、山荘での出来事は、果たして本当だったのだろうかと、ふと考える。
名前の書かれた紙が、灰になり、風と共に遠くへ飛んでゆく。
「ねえ、不思議な夢を見たんだ。聞いてくれるかい?」
僕はそう言って、彼女を見た。しかし、彼女は無言で遠くの煙突を見ていた。その横顔が、私の目は二度とあなたを映す事はない、と語っているように見えた。
少年は、彼女の視線全部を攫って、行ってしまったのだ。僕は、飛んできた灰に手を伸ばす。灰は、指先にかすりもせず、海へ向かって、音もなく舞った。
了
-
-
■作者からのメッセージ
あとがきもまた書いてみる。
最近、新宿に一カ月ぶり位に先輩のライブを観に行ってきた。オリジナルで本気のバンドばかりが終結したもので、素人の私でも分かるくらい全体のレベルが高い。ああいう空間に居て思うのは、(以前日記にも書いたけれど)音楽は他人に伝わる速度が、速いということ。
文学は人が求めないと作用しない。だから、聴きながら時々音楽に嫉妬してしまう。そのことを、音楽やっている人間に言うと、音楽は文学を越えられないという。同感だ。
けれど、辛そうにしている友人を元気づけるのは、口先で紡ぐハミングだけで十分なんだな。悔しいな。やっぱり。
10月23日…二稿アップ。
11月29日…三稿アップ。
12月15日…四稿および完成稿アップ。
無様だ。負けた。完璧に負けた。