- 『退屈しのぎ』 作者:コーヒーCUP / 未分類 未分類
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全角34193.5文字
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原稿用紙約97.8枚
親友である菅野夕菜の死からまだ立ち直れずにいる有坂沙耶が親友の死んだ場所に花を供えていると突然、見知らぬ少年が現れて菅野は本当に事故死だったのかという意味深な言葉を残して消えた。 夕菜は本当に事故死だったのか。疑う有坂は彼女の部屋である変化に気がつき、彼女が自殺だったんじゃないかと独自に調査をしだす。
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1
時なんていつだって一定の速度なのに、過ぎてみれば早かったとしか感じれない不思議なものだ。あれから一ヶ月が経ったという事実は受け止めているが、どこか疑ってしまう。本当に、そんなに経ってしまったのか。
私は今、横断歩道の下で花束を抱えている。さっきまで点滅していた青信号が、赤に変わり私の前の前を車という文明の利器が時速何十キロというスピードで走っていく。
信号機の下には真新しい花束がいくつか供えられていて、その前にしゃがみこみ、私も同じく花束を供えた。今日であの日から一ヶ月が経つ。やっぱり早かったとしか感じれない。
一ヶ月前の今日、菅野夕菜はここで死んだ。夕菜は中学の時からの友人で、一番大切な親友だった。彼女は高校からの帰り道、赤信号にも関わらず横断をしようとして車に轢かれてしまい、搬送された病院で静かに息を引き取った。
私が事故を知って病院に駆けつけた時にはもう遅くて、霊安室で彼女と再会するはめになった。彼女の死に顔を見た瞬間から、もう立っていられなくなってしまい、その場に泣き崩れた。うるさいのが嫌いな彼女の前であれだけ泣いたのに、彼女は怒ることも注意することもなく、ただ静かに横たわっていた。
あれから本当にもう一ヶ月が経つのか。
「奇跡でも起こして、生き返ったりしてみなさいよ……」
花束に向かって馬鹿みたいな台詞を吐いたら、やっぱり馬鹿らしくなった。そんなこと起こるわけない。
「生き返るたって、もう遺体は火葬しちゃいましたよ。彼女にどうやって生き返れって言うんですか」
背中から男の声がした。まだ声変わりもしてないような声。誰だよ、そして何だよと思いながら振り返ると小学生か中学生くらいの男の子が、私を見下ろすように立っていた。
黒のニット帽に黒のジャケット、そして黒いズボン。何かまるで死神のような服装をした彼の頬は口の中で飴でも転がしているのか、膨らんだりしぼんだりを繰り返している。
「あんた、誰よ」
「僕のことなんてどうでもいいじゃないですか。どうせ、言ったって信じちゃくれないでしょうし。それより、あなたにとって有益な情報があるんですけど、知りたいですか」
とうてい子供とは思えない口調で彼は話をすすめる。しかも何故だが知らないが、とても楽しそうな笑顔で。気に食わない。人が感傷に浸ってるときに、余計な茶々を入れてきただけでなく、年下のくせに慣れ慣れしく接してくるその態度、場の雰囲気にそぐわない笑顔……全てが気に食わない。
立ち上り即効、彼の胸倉を掴み、人をなめきったような笑顔に顔を近づけ睨みつけた。
「うるさいんだよ、黙りな」
「……菅野夕菜さんについてのことですよ。知りたくないんですか」
思わず掴んでいた手の力が抜けてしまった。なんでこいつが夕菜の名前と、私と彼女が知り合いだって知ってるんだ。いやいや、落ち着け。事故のことは新聞でもテレビでも報じられていたから、夕菜の名前は簡単に知れる。そして事故現場で花を供えている私が知り合いであると推測するのは困難じゃない。
「疑ってますね。とにかく質問に答えて下さない。知りたいですか、それともノーですか」
「……黙れって。私はあんたみたいなガキを相手にするほど暇じゃないんだよ」
「有坂沙耶さん、質問に答えてくださいって聞こえませんでしたか」
手を彼から放し、一歩だけ引いた。なんなんだ、こいつ……。なんで私の本名を、しかもフルネームで知ってるんだ。まさかあれか、ストーカーとか言うやつか。だとしたら危ない。たとえガキでも、何をしてくる分かったもんじゃない。
「ストーカーとかじゃありませんから、ご安心を」
「信用できる訳無いでしょう。何よ、あんた。マジでキモい。ちょっと待ってなさいよ、すぐに通報してやるんだから」
ポケットか携帯電話を取り出して110番にかけようとしたところで、彼が突然別の質問をしてきた。
「あなたの知ってる菅野さんは信号を無視するような人で、しかも迫りくる車にも気づかない程鈍い人だったんですか」
ボタンを押す指を止めて、飴を舌で転がしながらそっぽを向いてる彼を見た。その質問は、この一ヶ月、ずっと胸の奥にあった疑問と同じものだ。胸の中では不注意だったんだろうという答えで誤魔化したが、他人から質問されるとその答えではなくなる。
「違うわよ。夕菜は信号無視なんてしないし、まして車に気づかないほど馬鹿でもない」
ふふと笑い彼が私のほうを向いた。
「やっと質問に答えてくれましたね、有坂さん。よく分かっていらっしゃる。そうですよ。彼女はそんな愚者じゃありません」
携帯をポケットにしまい、目の前にいる得体の知れない少年を凝視した。全身黒ずくめの服装に、とても中性的な顔つき。たぶん男だと思ってるから彼とか少年と呼んでいるが、女だと言われてもさして驚きはしないだろう。
「親友に分かってもらえていると彼女が知ったら喜ぶでしょうね」
「もう御託はいらないわ。あんたは何者で、結局何が言いたいの。はっきり言いなさいよ」
怒鳴るように訊くと、彼はさっきまでの笑顔をくずしてたいそうつまらなそうな顔をした。まるで期待はずれだといわんばかりの表情で、少し腹が立ったが今はそんなことはどうでもよかった。
「どうやらこれ以上は僕の質問に答えてくれそうにも、話を落ち着いて聞いてくれそうにもない様ですね。仕方ないな、僕があなたの質問に答えます。まず僕が何者かであるかは、さっきも言いましたが、どうでもいいじゃないですか。次の質問、何が言いたいかでしたよね。つまるところ僕はこう言いたいんですよ。菅野さんは事故死だったのかと」
「……はぁ、訳分かんないだけど」
「二度は言いませんよ。とにかく、あなたは彼女についてちょっと調べた方がいいかもしれませんね。では、僕が言いたいのはこれだけですので、失礼さしていただきます」
言うだけ言うと彼はくるりと背を向けて歩き出した。ふざけるな。言いたい放題しておいて、詳しい説明をしないとは何事だ。あんたにはまだ訊きたいことがたくさんあるんだよ。
彼に向かって駆け出そうとしたとき、急に強い向かい風が吹いてきた。一瞬目を閉じてしまい、次にその目をあけたときにはもう視界には彼の影も形もなく、どういうことか分からないが、不気味な笑い声だけが聞こえてきた。
2
机の棚に教科ごとに綺麗に並べられていた教科書の中から、英語の教科書を取り出して適当にページを開いてみると、見た事もない英単語でできた長文が書かれていた。
よくこんなものを授業でやってるもんだと尊敬と呆れの念を抱きながら元に戻した。
夕菜の通っていた高校は超の付く進学校の女子高で、県内では女子の憧れの学校である。夕菜と一緒に受験した同じ中学の子は、全員おちた。しかし周りの期待通り、彼女だけは悠々とその高校の門をくぐる許可を勝ち取ったのだ。
私はというと、地元の公立高校になんとか合格するので精一杯であった。しかも夕菜の協力があってやっとだ。中三の夏休みは夕菜が私の家庭教師みたいな存在になり、受験に必要な教科を余す所なく教えてくれた。
自分の勉強もあったのに。私が何度、あんたの方がハードル高いところ受けるんだから、私なんかに構うなって言っても、いいもん余裕だからと笑っていた。
ノックの音がして部屋の扉が開いた。オレンジジュースをのせたお盆を手にした夕菜のおばさんが、差し入れよと言いながら入ってきた。
「ああ、どうもありがとう」
「いいえ、気にしないで。あなたはあの子の友達なんだから」
私は夕菜の生前も、そして今のように死後も、彼女の家を週に一度は訪れる。習慣なのだ。彼女が生きていた頃は、この部屋で勉強を教えてもらったり、テレビを見たり音楽を聴いたり、とにかく楽しく過ごしていた。
彼女の死後もその習慣を止めれずにいる。ここで止めたら、彼女との関係が全て終わってしまうような気がして怖い。死んでも、もうこの世にいなくても、私は彼女の友人でありたいと願う。
あの奇妙な少年に逃げられた後、そのままここに来た。今は夕菜の部屋でいつもどおり、特に何かするでもなく時間を潰していた。
「もう一ヶ月も経つのね。早いわ」
おばさんも私と同じ感想のようだが、私はそうですねとは頷けなかった。なぜなら彼女を見ると一ヶ月というのを切に感じてしまうから。夕菜が死んでから、おばさんは急に年老いていったようにみえる。白髪もしわ増えたようだ。
オレンジジュースを一口に飲む。私の好物がこれであることを知ってから、おばさんは私が来るたびに出してくれるようになった。
「ありがとね、おばさん。それに……ごめんね。用もないのに来ちゃって。なんかさぁ、止めるのが怖くって」
「いいのよ。あなたが来てくれたほうが、きっとあの子も喜ぶから」
そう言っておばさんは笑ってくれた。ここの親子には世話になりっぱなしだ。
「じゃあ、ゆっくりしていってね」
おばさんが出て行った後も何もしないで、ただこの部屋に存在し続けるだけのものとなった。ただ頭の中では、さっきの少年の言葉が繰り返されている。彼女の死についてちょっと調べた方がいいかもしれませんねという、あの言葉。
確かに夕菜の事故については腑に落ちないが、じゃああれがドラマや映画のように殺人だったかというと、それはありえない。あの場には夕菜しかいなかったと、彼女を轢いた運転手が供述している。そして近くの監視カメラにも、赤信号なのに横断をしようとしている彼女の姿がちゃんと撮られていた。間違いなく事故で、疑いの余地は無いはずだ。
あてもなく夕菜が生前に命の次に大切なものだと断言していた本棚に近寄った。私の背を越える高さのそれには、何百冊もの本が作家名順に並べられている。
読書家だった彼女の影響で私も月に一冊は本を読む習慣が出来た。ただそれはいつも彼女が薦めてくれた本で、今後はその習慣はなくなるだろう。
ずらりと並べられている本を眺めていると、ある違和感を覚えた。どこかが以前見た時と違っているように思える。しかしそれがどこだかは分からない。けど確かに違うとだけは言える。どこだ……。
並べられてた本の背表紙に書かれていたタイトルを目で追っていくうちに、ある事に気がついた。そんな馬鹿なと思いながら、本棚全体を眺めるがやはりあの本がない。彼女は本はいつもここに置いていた。ここに無いということは、学校で読むために持っていったということだ。
けど、あの事故があった日の彼女の鞄の中にあの本が入ってたなんて聞いてない。例え入っていたとしても、おばさんがこの棚に戻すはずだ。
夕菜がまるで宝物の様に大切にしていた一冊の本が、どこにも見当たらない。
ある一つの嫌な予想が出来た。信じたくもないものだが、それがもし本当だったなら夕菜の事故死は、疑わなければいけない。彼女は自殺だったんじゃないかと。自らの意思で赤信号を横断し、そして意図的に交通事故にあったんじゃないかと。
お世話になっている人にこんな質問はしたくないが、どうしてもしなくちゃいけない。部屋を出て一階へ降り、台所で夕食の準備をしているおばさんのところへ向かった。
台所にはカレーのおいしそうな匂いが充満していた。
「あら、もう帰っちゃうの。よかったらカレー、ご馳走するわよ」
降りてきた私を見ると、お鍋の中のものをかぎ混ぜながらおばさんが残念そうな声を出した。
「ううん。まだ帰らないよ。ちょっと訊きたい事があるんだ」
「あら、最初に会ったときも言ったけど年齢は教えないわよ」
違うよと首を横に振る。そんなふざけている場合じゃないんだ。これは夕菜についてのとっても重要な事なんだ。
「あのね、おばさん……」
喉から声を絞り出すように私はその質問を彼女にぶつけた。
「夕菜さ、高校でいじめられてたんじゃないの」
本は誰かに隠されたんじゃ無いかと推測から生まれた疑問だった
彼女の手が止まった。返答はない。肯定するわけでも、否定するわけもない。普通はこんな質問されたら怒りそうなもんだが、そうもしないでただ黙っている。つまり、それが返事ということだろう。
「本当にそうなの」
すがるような気持ちで再度確認をとると、分からないわという答えが返ってきた。
「分からない。ただあの子が時々、元気をなくして学校から帰ってきたことがあった。死んでからあれはもしかして、いじめじゃないかって思って学校に確かめに行っても、そんなことあるはずがないって門前払い。証拠があるわけでもないから、私には何もできないの」
学校側なんかにいじめの確認したって無意味だ。あいつらが認めるわけないし、多分いじめがあったことさえ把握してない。生徒は隠れてするし、教師はたとえそれに気づいても我関せずと決め込んでるんだから。
予想が当たってしまった。いや、まだ分からない。こうなったら調べるしかない。
3
この三日目で五箱目。それの最後の一本をくわえて火をつけ、箱は握りつぶして道に捨てた。
そういえば一度、夕菜と遊んでいるときに彼女の前で空き缶をポイ捨てしたことがあった。その時はさんざん彼女に、マナーがなってないとしぼられたが、今はもうそうはしてくれない。私は平然とゴミを道端に捨て、そして誰もそれを止めない。なんて嫌な現実なんだろう。
一日に十本だったタバコの本数が、夕菜が死んでから倍になり、そして彼女がいじめにあっていたんじゃないかと疑い始めてからはまた倍になり、この三日は日に二箱のペースで消費している。
吸わないとやっていけない。いや、吸っていてもやってられない。タバコは確かにストレスを一時的に低下させることは出来るが、完全な消滅はできない。
この胸のうちに燃えてる炎を消すことはできない。
煙を吐いてまた商店街の中を歩き出す。ここの商店街は実に活気付いていて、魚屋もあれば八百屋もあるし、百円ショップも文房具店も書店もゲームセンターもある。
行き交う人々は多くは主婦だが、それに負けないくらい多いのが制服姿の学生だ。そしてその中には見覚えのある制服を着た奴らがいる。夕菜の通っていたエリート女子高の生徒たち。
見るだけで虫唾がする。全員ぶん殴ってやりたいが、そんな大騒ぎは起こせない。
また煙を吐きポケットから携帯灰皿を取り出して灰を中に捨てた。
「あなたの健康を損なうおそれがありますので、吸いすぎには注意しましょう……。タバコの箱に書かれている文ですよ。お読みになられていないんですか」
聞き覚えのある声がしたので、後ろを振り向いた。そこには以前と同じ服装で、以前と同じように飴を舐めている彼が私がさっき捨てた箱を片手に立っていた。
「……あんた、今度は何よ」
「有坂さんが僕の忠告を聞いてくれたこと、嬉しく思います。いきなり訳のわからない奴に、意味不明なことを言われたんですから無視するかなと思ってましたが、まさかちゃんと親友の死について調べるとは、素晴らしいですね」
私が一歩だけ彼に近づくと、彼は私と同じ位の歩幅で一歩退いた。それが二度続く。
「……なんで逃げるのよ」
「なんでって、そりゃあそうでしょう。有坂さん、あなた、自分の目が鋭く尖っているのに自覚がないわけじゃないでしょう。それに殺気がすごいですよ。この二点だけでも、逃げるには十分な理由だとは思いませんか」
くわえていたタバコを指にはさんで、彼に突きつけた。なんでも聞いたところによるとタバコの火は七百度あるそうだ。私は今、その七百度の凶器を名前も知らない少年に、するどい眼光とともに突きつけている。
「あんた、夕菜がいじめられてたこと知ってたんでしょ。あんたがどこのどいつだが知らないけど、知ってたのにあの子を放置したのは許せない。ちょっと痛い目にあわせてもらうわ」
また一歩近づいてみると、今度は彼は引き下がりはしなかった。観念したのかと思ったが、違ったらしい。彼は口元に笑みを浮かべこちらを見、手首を振って、違いますよと否定した。
「僕は彼女がいじめられていたという事実は、彼女の死後に知ったんですよ。だから放置していたわけじゃありません」
「信用されると思ってんなら大したもんよ、あんた」
「どうやら信じてもらえませんか。残念です。僕を信じないのはいいですが、あなたは今それどころじゃないでしょう。ほら、あそこの店をちゃんと見てください」
彼はそう言うと少し先の書店を指差した。一体何なんだと思いつつ店先を見てみると、見覚えのある顔がその店に入っていくのが確認できたので、私も急いで入店する。その間に彼は彼を見失ってしまったが、構わない。
私が追っている彼女は新書のコーナーでイヤホンをしたまま立ち読みをしている。名前は知らないが、一つ知ってることがあり、それは彼女が夕菜のクラスメイトの一人だということだ。
この三日間、私はこの商店街に張りこんで夕菜のクラスメイトを待ち構えている。ここはあのエリート女子高の生徒たちが帰宅時によく立ち寄るんだと、生前の彼女から聞いたことがあった。四日前の夕方におばさんにいじめの質問をした後、夕菜のクラス写真を借りた。そこには横に三列、担任の教師を中心に綺麗に並んだ生徒たちが微笑んでいた。
その顔を一人一人、頭の中に刻むように覚えた。こいつらが夕菜を殺したかもしれないんだ。絶対に許さない。必ず報いを受けてもらう。
そのためにはまず本当にいじめがあったかどうかを確認しないといけないし、あったとしたら誰が主犯なのかも特定しないといけない。そいつには生まれてきたことを後悔さす程の罰をうけてもらう。
調べるとなるとやはり聞きこみだ。調べる相手は夕菜のクラスメイト以外いない。この三日で二人、この商店街で捕まえて、人目につかないところで殴ったり蹴ったり、タバコやナイフで脅したりしながら調査をしたが、両方とも怯えるだけで何の収穫もなかった。
二人はいじめについて知らないと言っていたが、あったに決まっている。私が夕菜の名前を出した途端にうろたえ始めたし、目が完全に泳いでいた。どれだけ脅しても口を割らないので、今日のことを喋ったらこんなんじゃすまないからという脅迫をして解放したが、今日はそうならないように願いたい。
しばらく立ち読みしていた彼女がようやく動き、読んでいた新書をレジに持ってく。苗字が鞄に刺繍されていた。どうやら村山というらしい。下の名前まで知る必要はない。村山。もう、忘れはしない。
新書を買い、それを鞄に入れると彼女は店を出た。少し間をおいてから私もそうする。歩いていく方向からすると、どうやら駅に向かっているらしい。流石はエリート、寄り道はしない。書店でも買ったのは新書だけで、漫画コーナーなどには見向きもしなかった。とても同い年とは思えない。
さて今日はどこに連れ込もうか。
急に口が寂しくなってきたのでタバコでも吸おうとポケットに手を突っ込んだが、携帯灰皿の感触しかしない。そういえば、五箱目ももう無くなったんだっけ……。イライラする。さっきのあのガキめ、ちょっかいかけに来ただけならせめて飴の差し入れくらいしろよ。
ふいに村上が立ち止まったが、私も止まると流石に不自然なので歩くスピードを急激に落とした。彼女は数秒そうした後、何か意を決したようにある店に走って入っていった。
どういう風の吹き回しか。彼女が飛び込んでいった店は、この商店街で唯一のゲームセンター。彼女は何か探しているらしく、首を振り回しながら店内を見渡していて、その表情には焦りが見える。
ゲームセンターに入り出来るだけ彼女の近くに寄った。私の予想が当たっていれば、これは大チャンス。逃してはいけない。
村上はようやくトイレを見つけ、そこへ駆け込んでいく。予想的中。どうやら神様は私の味方のようだ。
トイレの扉を開けると村上が個室に入っていくところだった。大慌てで彼女のもとへ走り、その背を押して個室に押し込み、私も入って鍵を閉めた。強く押しすぎたせいで、彼女は壁に顔を打ち付けたようだったが、いい気味だとしか思えない。
「はじめまして。ちょっとあんた訊きたいことがあるんだよね」
片手で鼻を抑えながら彼女が青くなった顔を私に向けていた。
「……あ、あたし、お金なんて持ってませんから」
昨日の奴と同じリアクションときた。まったく、エリートって奴らは自分を襲ってくる奴は全員がカツアゲと思ってるのか。そういう思考しか出来ないなら、あんまり街は出歩かないほうがいい。ましてやゲームセンターなんて。
けど彼女の場合、ゲームセンターに危ない奴らがいるという常識くらいは備わっていた。店に入るときも躊躇してたし、今こういう状況でも怯えてはいるものの、焦ってはいない。
けどそれが生意気でちょっとムカツク。
「金なんていらないわよ。聞いてなかったのかしら。私はあんたに質問があるのよ。それに答えてちょうだい」
言い終えると同時に彼女のお腹に膝蹴りをいれてやる。何か吐き出しそうな彼女の小さな呻き声。トイレの個室が狭いと時々感じることがあったが、こういう場合だと相手をいたぶりやすくて便利だ。こんな所に利便性があったとは驚きの発見。
苦しそうな彼女の襟首をがっち掴んで、顔を引き寄せる。
「あんたさ、菅野夕菜のクラスメイトでしょ。あいつについてちょっと知りたいことがあんだよね」
夕菜の名前を聞いた瞬間に村上の青かった顔色が更に青くなる。ビンゴだ。
「なんか知ってることあんでしょ。言いなさいよ」
今度は頬を思いっきり叩いてやった。肌を打つ乾いた音が個室の中に響くが、邪魔は入らないだろう。厄介事には巻き込まれたくないと思うのは人間の性だ。ゲームセンターのトイレの個室の中から、不吉な物音が聞こえた場合、これは確実に厄介事だと察知する。そうなると用を済ますと物音を立てずに出て行くか、或いはもうトイレさえ利用しないかのどちらかだろう。
「……菅野さんがどうかしたの。あたし、あんまり付き合いなかったから、分かん――」
言い終わる前に再び膝蹴りをしてやる。しかもさっきより強めに。あまりの痛みに彼女はお腹を抑えて、体を曲げようとするが襟首を掴まれているうえに、この狭い場所じゃそれは出来ない。
「頭いいんだったらさ、ちゃんと状況を理解してよね。嘘が通じると思ってるわけ」
そう威迫すると彼女は今にも泣きそうに目を細めたが、容赦などはしてやらない。
「痛いのとか怖いのが嫌ならさ、さっさと全部話したほうが身のためだよ。別に難しい問題じゃないでしょ。あんたは夕菜について話したらいいだけよ。日頃やってる小難しいテストとかより、よっぽど簡単でしょうに」
「知らないの……ホントに知らないんだって」
目を潤ませて涙声で訴えかけてくる。そのわざとらしさが鬱陶しく、いい加減に我慢できなくなってきた。
「さっさと言えよ、このブスッ」
怒鳴りながら今度は平手じゃなくて拳で殴り、直後に三度目の膝蹴りをいれてやった。このまま素直になるまで殴り続けてやろうかとも思うが、あんまり大きな怪我をされても困る。今のことは誰にも知られちゃいけない。彼女にも最終的には黙っておけと口封じはするが、その前に目立った傷などつけてしまっては意味がなくなってしまう。
「あんたらは夕菜をいじめてたんでしょう。それを認めたらいいの。その後、誰が主犯か言いな。この二つに答えたらもう殴りも蹴りもしないわよ。あんたにはもう手を出さない」
自分で言いながらも説得力の欠片もないなと呆れてしまう。しかし、どんなにその言葉が疑わしくても追い詰められた奴にとっては、それはもう信じるしか出来ない言葉となる。事実、今の言葉も彼女にとってはそうなったらしい。
目元に浮かべていた涙を袖で拭きながら、分かったと蚊の鳴くような声で言った。
「分かった。話すから、話すから……」
ようやく交渉が成立したらしい。苦労した甲斐があった。これで私の三日間の努力は報われる。あとはいじめた連中に報いを受けさせるだけだ。
やっと目標に一歩踏み出せた。
「ありがとう。じゃあ、詳しく話してね」
安心して隙が出来てしまったのだろう。村上がいきなり抵抗し始めて、彼女の襟首を掴んでいた私の手を振り解いた。一瞬だけだが何が起きたか理解できず、反応が遅れてしまったが、何とかすぐに彼女へと手を伸ばす。
それを見た彼女がポケットからすばやく黒いスプレー缶を取り出して、噴射させてきた。圧縮されていた空気が噴射される音がすると同時に、目に激痛がはしる。
あのスプレー缶には見覚えがある。学校で友達が持っていた。痴漢撃退用の護身スプレーだ。
とんでもない痛みのせいで目を瞑り手で目元を覆う。目から涙が流れ始め、止まらなくなってきた。私が苦しんでいる間に村上は私を押しのけて、扉の鍵を開けて走って逃げていったようだ。トイレに響いた足音と扉の閉まる音でそれが確認できた。
自分がどうかなりそうなくらいに悔しいが、今はそれどころではない。壁にもたれかかり、顔を天井の方に向けたまましばらくじっとしていた。痛みが徐々に治まっていくのと同時に、さっきの悔しさが増してくる。
まだ痛み残っていたが、増してきた悔しさはそれに勝ったようで、背を壁に任せたまま拳を振り下ろすように壁を全力で殴りつけた。しかも何度も。拳が砕けるかも知れないほどに。それでもかまわないと思えた。
しばらくそうしているとやっと目を開けれるようになってきた。
「大丈夫ですか」
目を開けると、いつの間にか私の目の前に立っていた薄ら笑いを浮かべた黒ずくめの少年が視界に入った。
「……ここは女子トイレよ。確認しなかったの」
笑われていることに、いやそれどころか彼の存在にさえ苛立っていた私だが、口から出た言葉は罵倒するものではなかった。
「知ってますよ。ただ僕、女性にも見えるでしょう」
その言葉は否定出来ない。とても中性的な顔立ち。女子トイレにいてもおかしくない。
「僕の性別なんてどうでもいいんです。興味ないでしょう。それより、場所を移動しませんか。お話したいことがあります」
私の返事など聞かずに彼は話を進めた。近くの喫茶店にしましょう、サンドイッチがおいしいんですなどと話していた。目が痛いのでどうも私らしさが出せない。こんな痛みさえなければすぐにでも殴り飛ばすのに。
「勝手に話を進めないでよ。まだ行くとも行かないと言ってないわ」
「ああそうそう、僕が話すことについてですけど……」
私の言葉を無視して彼はまた薄ら笑いを浮かべた。しかし目が笑っていない。眼差しだけは真剣だ。
「信じがたいものになると思います。ご了承下さい」
4
彼に案内されて入った喫茶店の奥のテーブルで私たちは向かい合うように座っていた。ようやく目の痛みが無くなり自分らしさが取り戻せてきたようで、さっきから私など見えないようにサンドイッチを頬張る彼がただただ腹立たしく感じられる。
私はとりあえず注文したオレンジジュースをストローを用いてちびちびと飲んでいたが、たとえ好物といえども味など堪能してはいなかった。
「話があるっていうから来たんだけど。別にあんたの食事に付き合う気は微塵もないよ」
「でしょうね。機嫌も悪いようですし、どうやら目の痛みもなくなったようですね。僕としてはいつ飛び掛ってくるかとハラハラ、そしてドキドキしながら食事していて、とても味など堪能していれません」
そう言うとサンドイッチと一緒に注文したコーヒーを一口すすった。
「堪能できないという点においては、同じですね」
にっこりと笑い同意を求めてくる。何か、心を見透かされてるような感じがして非常に不快になる。その笑顔がとても不気味で少し遠ざけたい。
彼はコーヒーカップを音をたてずにテーブルに置くと、小さく息を吐いた。そして小声で、やはりここはいいなと感想をもらした後、ごちそうさまと丁寧に合掌した。
「まずあなたが一番気になってる僕と夕菜さんの関係から説明させてもらえます。……いや、その前にいくつか約束させてもらえるとありがたいんですが、よろしいでしょうか」
私も持っていたコップをテーブルに置いて、ようやく話すのかと言う少し安心した思いで頷いておいた。嫌だと拒んだら話してくれないかもしれないから。
「ありがとうございます。まず一つ目、とりあえず黙って聞いてください。二つ目、これが重要なんですが多分無理でしょうね。とにかく信じてください。この二つを守ってください」
引っかかる言い方をしてくれる。けど何か少しでも情報が手に入るならいい。とにかく黙って信じればいいだけだ。さすがにそれくらいは出来る。難しい話じゃない。
「まず僕と彼女の関係ですね。はっきり申し上げますと、生前の彼女と面識はありません」
思わず声をあげそうになったが約束の一つ目を思い出し何とか口を閉じた。そんな私を彼はまるで、よく出来ましたというような腹のたつ穏やかな顔で見ていた。
「驚かれるのは仕方ありませんね。僕は彼女とあなたの名前を知っていたし、それにまるで彼女のことを知ってるように振舞ってきましたから。けど本当に知らないんです」
納得できない。本当は嘘つくんじゃないわよと怒鳴ってやりたいのだが、約束がある以上はそれはできない。
もし彼が夕菜を知っていないというならなぜ彼は私の名前を知っていて、そして彼女が事故死じゃない可能性を示唆できたんだ。あの忠告があったからいじめがあったであろうことまで突き止めて、自殺の可能性を考慮できている。
「いじめがあったかどうか調べてるんですよね。良い判断です。僕は是非ともあなたにそうして欲しかったんですよ、有坂さん。お察しの通り、彼女はいじめにあっていました」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
思わず声を出してしまい、あっと思ったときにはもう遅かった。彼が怒るかと思ったが、意外にも彼は表情を変えてはいなかった。
「まあ、そもそも無理な約束ですよね、親友の死にまつわる大事な話を黙って聞けなんて。約束の件はもういいです」
「喋っていいなら聞かせて。あんたは夕菜を知らないって言ったわ。なのにどうしてあいつがいじめにあってたって断言できるのよ。あんたまさか、夕菜じゃなくていじめてた奴を知ってるのっ」
思わず声が大きくなってしまったが気にしてられなかった。もしこいつがそいつを知ってるなら、例えどんなことをしてでも喋らせないといけない。じゃないと私は、あの子の親友だなんて名乗れない。
私の詰問にも動じず彼はゆっくりと首を横に振り、違いますよと否定してみせた。
「あなたは僕の話を聞いてたんですか。僕は、彼女と面識はないと言っただけで知らないとは言ってません」
「いつまでも訳わかんないこと言わないでよ。面識は無いのに知ってたの。じゃあやっぱりあんた、ストーカーじゃない」
「……ある意味、そういえるのかもしれませんね」
彼の返答にさっきまで口から溢れ出していた言葉が止まり、場が静まり返った。こいつは今、自分がストーカーであることを認めたのか。
「違いますよ。ストーカーじゃありません。ある意味ではそういえると言ったんです」
「ある意味って、どんな……」
彼は深々とため息を吐くと仕方ありませんね、と落胆した。
「あなたが知りたがってる僕の正体を教えます。実は僕には特定の名前はありません。国や地域によって僕は名前はおろか、存在理由や人数までも変わってしまうんです」
「何言ってんのよ、あんた」
「僕はこの国、日本では、神と呼ばれる者です」
私の頭の中の漢字検索システムが彼の言葉を聞いた後、神という漢字にたどり着くまでに数秒を要した。それまでのわずかな間に、紙や髪、上という字まででてきたが日本語として一番自然なのは神であろう。
私はしばらく何も喋らなかった。そしてそれは自らを神と名乗った少年も。お互い無言で見つめあいを続けたが、先に口を開いたのは彼だった。
「最初から信じてもらえると思っていませんよ。だから信じがたいものになるとか、信じてくださいとか言ったんです」
極めて冷静に言っているが、彼の声に少しだけ落胆が混じっているのが感じ取れた。信じてもらえないのが残念なのか。しかし、信じろというのが無理な話。それは彼だって言っている。
けれど彼の言葉を完全に否定することはできないでいた。普通の子供とは思えない態度に、本当に何でも知ってそうな口ぶり、そして私の前に現れたり消えたりする神出鬼没さ。神出鬼没。この言葉の中に神がある。だから何だと言えば終わりだが、一瞬で姿を消すという芸当はそう簡単にできるものじゃない、ましてや彼は普通の道や商店街で消えている。どこかに仕掛けがあったとは考えにくい。
それでもだ。
「はは。面白い冗談だとは思うわ。けどごめんなさいね、僕。お姉さんは子供の遊びに付き合ってる暇はないんだ」
もうこれ以上彼に関わるのはやめておこう。ろくなことがなさそうだ。彼のことは忘れて、明日からまた調査をし直せばいい。大丈夫、私一人で十分だ。
席を立とうとしたところで私はある異変に気がついた。体が動かない。まるで金縛りにあってるかのように体が一切、指先や口まで動かない。その瞬間、私の頭は理解できないことを急に恐怖しだしたがどうする事もできず、ただ目の前の少年を見ることしかできなかった。
「信じてもらえないとは残念です。けど、少しは信じる気になりましたか。怖がらないでください。すぐに終わります。結局、僕が言いたかったことはこれだけなんですよ」
私を動けなくしているのはやはり彼だ。これは悪い夢かなにかだろうと信じたいが、胸の激しい鼓動はとても夢のものとは思えなかった。一体自分がこれからどうされるのか。そんな底なしの恐怖の渦中にいるというのに、私は声さえあげることができずにいる。
彼がテーブルの上に一枚の顔写真を出した。移っていたのは茶色のセミロングの髪に、整った顔立ちの少女で、着ている服は夕菜の高校のものだ。
「夕菜さんのいじめの主犯です。彼女を問い詰めればすぐに白状するでしょう。以上、今日はこれにて退散させて頂きます。申し訳ありませんが、サンドイッチ代はおごってくださいね」
目を瞑ったわけでもないのに急に視界が黒に覆われ、何も見えなくなった。恐怖が最高潮に達し、鼓動の激しさが体を揺らす。額やこめかみから汗が流れてるのを感じた。
どうにかなりそうと思ったときに視界が元に戻り、自分がとても荒い呼吸をしていることに気がついた、試すような気持ちで手を動かしみると、さきほどまでの状態がまるで嘘のように自由に動いた。指先も口も何の支障もなく動く。
流れていた汗をぬぐい、しばらく呆然として席に座っていた。人間の頭に容量というものがあるなら、私は既にオーバーヒートして機能停止しているだろう。幸か不幸か、そうはならない。
テーブルの上にはさっきの顔写真がまだ残っていた。それを手にとって、じっくりとそこに写る彼女を見つめる。本当は今すぐにでも探しだして殺してやりたいが、驚いたことに私の恐怖はここ最近ずっと心に根を張っていた復讐心まで取り込んでいるようだ。
写真をポケットに入れて、少し落ち着いたところで伝票を持ち席を立った。レジに行くとウエイトレスが親しみやすい声で話し掛けてきた。
「ここのサンドイッチおいしいでしょう」
私と同じ年くらいで相手もそれを分かってとても店員とは思えない口調で話し掛けてきたんだろう。私はサンドイッチは食べていないので返答に困っていると、彼女はおかしいなと首を傾げた。
「好きじゃなかったの。ここに一人で来るのも珍しいけど、サンドイッチを気に食わないというのもまた珍しいわね」
料金を支払い、おつりだけもらうとあとは何も言わず何も聞かないようにして、早足でその店を出た。彼女が挙動不審な私を不思議そうな目でみていたがもう気にしてはいられなかった。
5
真っ青な顔で訪れた私を見ておばさんは目を見開いて驚いて、どうしたのかと質問攻めにしてきたが私が上手く答えることができず口ごもっていると、とにかく中に入りなさいとすぐに家に入れてくれた。
リビングの椅子に座らされて、手のひらで額を覆い熱があるかどうかまで確かめてくれた。照れくさかったが悪い気はしない。そんなおばさんの優しさで徐々に平常心を取り戻していけた。
もう大丈夫だからと何とかおばさんを説得し、少し話があるんだと切り出した。私の目で真剣な話だと察したのだろう。おばさんも真剣な眼差しになり、私と向き合うように椅子に腰掛けた。
ポケットからさっきの写真を取り出してテーブルの上に置くと、即座におばさんがその写真を覗き込むように目を細くしてじっと見つめた。
「こいつが夕菜をいじめてたんじゃないかって情報を掴んだの。ねえ、名前とか分かるかな」
おばさんはまじまじと写真を見たあと、一度だけ頷いた。
「この子なら一度、家に来たことがあるわ。下の名前までは思い出せないけど苗字は確か片岡だったと思う」
片岡……。その名前と顔をセットにして脳に刻み込む。
彼女と夕菜は仲がよかったのだろうか。夕菜が家に連れ込むくらいだから、相当親しかったと見て間違い。
「ねえ、この片岡って奴が家にきたのはいつくらいか覚えてないかな」
「それは覚えてるわ。三ヶ月前よ」
三ヶ月前ということは夕菜が死ぬ二ヶ月前ってことになる。
「ねえ、本当にこの子が夕菜をいじめてたの。そもそも本当にいじめはあったの。だってこの片岡って子、あの子と仲良さそうだったわよ」
「私もそれは思うけど……いじめなんてすぐに起きても不思議じゃないからね」
そうだ。いじめなんて数日あれば加害者と被害者と傍観者という立ち位置はほぼ決まる。ましてや二ヶ月もあれば少し不自然だとはいえ、十分な時間だろう。
「夕菜がいじめられてたとしたら、あの子が何をしたっていうのかしら」
「違う、違うわよ、おばさん。いじめなんて被害者に落ち度はないの。あんなの、あんなの加害者の一方的な攻撃なのよ。だから夕菜は悪くないっ」
そうだ。あいつは悪くない。まだどうしていじめなんて状況になったかまで知らないけど、どうせこの片岡とかいう奴が嫌いだとか、気にくわないとかってくだらない理由であいつを糾弾したんだ。それに周りが便乗してしまって……。
いじめなんていつもそうだ。私たちはもう高校生になるというのに、小学生と同じ理由でいじめという人を傷つける行為をする。しかもそれがまるで正当であるかのように振る舞い、身に付けたくだらない知恵で誤魔化すことを覚え、いじめをさらに助長させる。
「……私もね、人のことを言えなんだ、本当は。小学生のときだけどひどいいじめしたことあるの」
どうしてかこの秘密を黙っていれなくなった。実はこの数日ずっと、私はこの過去に苦しめられていた。いじめをしたやつに制裁を与えるという使命を胸に抱きながらも、自分が過去に犯した過ちが度々、お前にそんなことをする権利はあるのかと責めてきた。
なんとか復讐心でそんな声には負けずにいじめの調査をしてきたが、一度しぼんでしまった復讐心ではこの秘密に勝つことは出来ないようだ。
誰でもいいから罪を告白して、それで少しでも楽になりたかった。
「クラスであんまり好きじゃない子が一人いたんだよね。それで友達に、ちょっとからからかってやろうって言って、最初は鉛筆を隠してやったわ。授業中に焦るその子の姿を見て、皆でクスクス笑った。それが始まり……」
その後、私は暗い口調で自分の罪をおばさんに告白していった。おばさんは何も言わず、時折頷くだけ。私にはそれがありがたくて楽だったから、長々とそのときのいじめについて話した。愛娘をいじめで亡くしたかもしれない彼女は聞くのも嫌だったろう。
小学生の私はとにかく無茶苦茶した。鉛筆の次は上靴を隠して、次は体操服を隠して、最後にはランドセルも隠してやった。それらの行動に飽きると今度は遠まわしに悪口を言ったり、皮肉ったりして彼女を精神的にいじめだし、最後には直接殴ったり蹴ったりした。よくドラマとかで見るトイレの個室に閉じ込めて水をかけるというのもやってしまったことがある。
結果、彼女はどこかに引っ越していった。もちろん私は親や教師から散々説教をくらわされたが反省など一切しなかった記憶がある。あいつが悪いんだよね。怒られたあと、一緒になっていじめをした友達とそう愚痴ったりもした。
しかし子供は成長すると罪悪感というものが付く。そのいじめから一年以上経ったある日から、私は急にその件について申し訳なく思い始めた。もう手遅れなのは分かっていたがとにかく申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
そして何とかその気持ちを殺そうとして、私は全て忘れることにした。なんとか忘れようと、全部なかったことにしようと勤めた。
しかし夕菜にいじめの可能性が出たとき、ふいに全て思い出してしまった。
「反省したって何もならない。やったことの取り返しはつかないの。私だって夕菜をいじめたやつと変わらない……」
気がつくと目に涙がたまっていた。それを手の甲で拭い取る。この件に関して他人に話すのは初めてだ。一生、封印するつもりだった。
「おばさん、だから夕菜はきっと悪くないよ。悪いのはこいつ」
私はそういうとテーブルに置かれていた写真を手にとり一気に二枚に切り裂いてやった。そこに写ってるのは片岡という夕菜の仇で、過去の私。写真などなくてももう覚えてるので破いても何の問題もないし、どちらかというともうこれ以上、その写真は見たくなかった。
幾重にも切り裂いた写真をテーブルの上に置くと、頬に冷たさを感じた。こんなことをしても何にもなりはしない。無駄な抵抗とはこういうことをいうんだろう。
ずっと黙って座っていたおばさんが立ち上がり、私の横にきた。そして優しく私の頭を胸に押し付けて、暖かく抱いてくれた。
「最初、夕菜があなたを家に連れてきたときは驚いたわ。なにせあなたは見た目じゃ不良そのものだったもの。けど、すぐに夕菜を誉めたくなった。さすが私の娘、友達を見る目があるってね」
初めてこの家に来た日のことは私も鮮明に覚えている。確かにおばさんは私を見て驚いていた。私としてはそう反応されるのは慣れていたので気にはしなかったが。
「沙耶、あなたはいい子よ。この三日、ずっと過去に苦しめられてたのよね。辛かったでしょう。夕菜のためにそんなことまでしてくれるなんて、本当に感謝してるわ。ありがとう」
いつから涙を流すことを情けない行為だと思うようになったんだろう。けど今は情けなくてもいいから泣く。決壊した涙腺の復旧工事にはまだまだ時間がかかりそうだ。
「あなたがしたことは間違ってるし、悪いことだわ。きっと相手は許してくれないでしょうね。けど今のあなたは昔とは違う。クラスメイトをいじめるどころか、夕菜のことを必死になって、それこそとても辛い藤と戦って、調べてくれてる。あなたのその行為がきっと償いになる。あなたはいじめが間違ってるってことを知ってる。だから教えてあげて、片岡って子に、あなたがしたことは間違ってるわって」
おばさんの慰めの言葉に耐え切れず、ついには嗚咽まで漏らしてしまう。涙を流しながら、何度も何度も頷いた。
しばらくして泣き止んだ私におばさんはオレンジジュースを出してくれた。お礼を言いながら受け取ってのどに流し込む。さっきのとは違い十分に味を堪能できた。やはりここで飲むオレンジジュースが一番おいしい。
「いい沙耶、おばさんと約束して。危ないことはしないって」
おばさんが真剣な顔つきで私を見る。私が何をしようとしてるか分かってるんだろう。
「うん。わかったわ」
さっきまで片岡って奴に明日会いに行って、それ相応の制裁を受けてもらおうと思っていたのだが、おばさんの言葉でその気は薄れてしまった。今はとにかく片岡を見つけ出して、奴の不当性を暴力じゃなくて言葉で訴えてやろうと思ってる。
どのみち明日だ。明日、おそらく何らかの形で決着がつく。
帰るとき、おばさんは私を玄関まで見送りにきて、私がドアノブに手をかけて回したところで声をかけてきた。
「気をつけてね」
振り向いてなるだけ安心させるように笑顔で家を出た。
6
腕時計を見ると午後二時を過ぎたところだった。さすがに早く着すぎたかと思ったが、何が起こるかわからないでこれでいいだろう。
近くにあった自動販売機に背中を預けてポケットからタバコを取り出す。昨日までは苛立ちをおさえるための道具だったが、今日ははやる気持ちを落ち着かせるためのものになっている。一本をくわえてライターで火を点けようとしたが、油切れのようで火は点かない。
ムカツクなぁと思いながらライターをしまったところで、くわえていたタバコの先端に急に火が点いた。驚きのせいで思わず、おおっと声をあげてしまう。
赤く燃えるタバコにまるで指差されるように、少し離れた位置に彼が立っていた。相変わらずの黒ずくめの服装に、飴で膨らんだ頬。もう彼の登場に驚きを無くしてしまった自分の感受性の衰えに嫌気がさす。
「素晴らしい行動力ですね。昨日までは商店街でクラスメイトを襲撃し、白状させようとして、今日はついに高校の近くまできて片岡を待ち伏せですか」
「……さすがは神って名乗るだけはあるわね。私の目的、分かってんだ」
「これしきのこと普通の人間も容易く想像できると思いますよ」
彼が少し早い足取りで私のほうに近づいてきた。もう彼に畏怖することもないので、私は彼が傍によってくるのを何もせず待った。
「僕が神だって信じてもらえましたか」
私と同じように自動販売機にもたれかかった彼はそう質問してきた。タバコを一度口から外して、煙を吐く。
「あんな目にあわせておいてよく言うわね。けどまだ半信半疑ってとこ。片岡って奴が本当に夕菜の仇だったら信じてやるわよ」
「まあ信じてもらえなくても一向に構わないんです。僕はあなたが行動すれば、それでいいんですよ」
実をいうともうほとんど信じかけているのだが、認めるのがどこか癪なので半信半疑などという言葉で誤魔化したにすぎない。彼とてしても私が信じるか信じないは、本当にどうでもいいらしいし。
それにしても私が行動さえすればいいとはどういうことだろうか。
「片岡と話ができたらどうするつもりですか」
「……さあね。分かんないわ。昨日までは殺してやろうって意気込んでたんだけど、あんたのせいでもう滅茶苦茶」
「最近の女子高生は恐ろしいことをさらっと言いますね」
もたれかかっていた自動販売機から背を離すと彼は私の前に立った。そしてポケットから数個の飴を取り出して差し出し、これをどうぞと言ってきたが、私は受け取らずに彼を見つめる。
「こんな私でもね、知らない人から物をもらっちゃいけないって遠い昔に言われたこと覚えてるの」
「僕は人じゃありませんよ。ついでに言うなら、タバコは二十歳からというのも言われた覚えはありませんか」
図星を突かれてばつが悪くなったので、くわえていたタバコを地面に吐き捨てた。
「これで文句無いでしょ。ていうか火を点けたのはあんたじゃない」
「少しは味あわせてあげようという僕なりの優しさです。そしてあなたの喫煙を止めるのもまた優しさですし、口が寂しくなるあなたのために飴をプレゼントするのも優しさです。どうですか、泣けてくるでしょう」
なんと嫌みったらしい神なんだろうか。胸糞悪い。それでも彼の言う三つ目の優しさだけは頂戴しておくことにした。タバコほどじゃないにしても飴だって少しは役に立つだろう。この気持ちを抑えるものだったら、百害あって一利なしと呼ばれる有毒な物質の塊でも、乙女の宿敵といえる糖分の塊でも、どっちだっていい。
飴を渡し終えた彼は背中を向けて歩き出したが、数歩進んだところで振り向いた。
「幸運を祈ります」
その言葉だけ残し、彼は一陣の風を巻き起こして姿を消した。もう少し静かに消えることはできないのかな。今度会うことがあったら言ってやろう。
「……あんたが本当に神なら、幸運を祈るより何より、与えてくれないかしら」
贅沢は言っちゃだめなのか。まあ神が幸運を祈ってるだけでも、ありがたい話なのかもしれない。
夕菜の通っていた高校の授業が終わるのは四時半。それまで後二時間もある。
あそこの生徒の多くは帰り道にこの道を使う。ここで待ち伏せていれば恐らく片岡とも接触できるだろう。昨日までは個人行動をする奴を狙って商店街に根を張ってたけど、もうターゲットは決まったし影でコソコソする必要もない。真正面からぶつかればいい。
何か問題になるのは予想できてる。もしかしたら大事になるかもしれない。その時は私も通ってる高校を退学させられるかもしれない。まあ、この数日ずっと無断欠席してるんだから停学は避けられないだろうけど。
どうなっても構わない。覚悟はできてる。
早速、もらったばかりの飴を口に放り込んだ。きつい甘味が舌を覆っていく。あいつはいつもこんな物を舐めてるのか。それでいてあの体型とは、少し見直したほうがいいかも知れない。
「あのすいません」
若い男の声がしたので声のしたほうを振り向くと、マスクをして、サングラスをかけた、いかにも怪しい風貌の男が立っていた。
「なんか――」
なんか用と返答しようとしたが無理だった。わき腹に鋭い痛みを感じで、そこを抑えて地面に倒れていく。遠のく意識の中、サングラスの向こうの男の目が細くなったのと、彼が手に持っていたスタンガンが目に入った。
7
「あんたがムカツクからいけないんだよ」
ランドセルを背負った少女は目の前の少女を指差して、鋭くそう言ってのけた。言った方の少女の周りには同じようにランドセルを背負った少女たちがいて、責められている少女の周りには誰もいない。
「私、何もしてない……」
責められてる少女はさっき勇気を振り絞って尋ねた。どうして私をいじめるのかと。そして返ってきた答えがあれだ。当然納得できるはずがない。
「ほらほら、そういうところがムカツクの、嫌いなの。皆そうだよね」
責めている方が周りの少女たちに同意を求めると、彼女たちは待ってましたといわんばかりに、その顔から笑みを消すことなく何度も何度も執拗に頷いた。その光景を目の当たりにした少女は、ひどいと言って涙を流し始める。
「ああっ、うるさい。泣かないでよね。私たちが悪いみたいじゃんか。あんたが悪いんじゃん。弱虫」
最後の弱虫という言葉を皮切りに周りの少女たちからも次々に罵声が飛んでくる。泣き虫、ブス、のろま、カス、グズ、ずぼら、バカ……。悪口は減ることなく、一つ一つが泣いている少女の胸へと深々と突き刺さる。
そしてついには全員が手を叩きながら大声で、死ねと騒ぎ出した。少女は泣き声を大きくし、もう片方の少女はその光景を見てこれ以上ないといえるほどの笑顔をしている。そして地面に落ちていた小石を拾い、それを少女へと投げつけた。
けたたましい笑い声が起きるがそれもすぐにおさまり、また死ねという合唱がはじめる。周りの少女たちは口を止めることなく手拍子はやめて、地面に落ちていた小石を拾い出してそれを少女へと投げつける。
彼女は口を大きく開けて泣きながら、背を向けて走り出す。その光景にまた少女たちが笑う。
「面白いねぇ」
責めていた少女が周りの友達にそう喋りかけると、そうだねという返事がきた。
「明日もまたやってやろうね、沙耶ちゃん」
うんという元気な返事をして私は頷いた。
嫌な夢を見たなと思いながら、重たい瞼をゆっくりと開けていく。最初に視界に入ったのは汚れた床と、いすに座らされている自分の下半身。両足と腰はガムテープで幾重にも巻きつかれていて固定されてる。両足は揺れるだけで立ち上がることもできない。どうやら両手も同じようにされているらしい。
随分とマニアックで古風なことをするやつがいるんだな。
「無様な姿ね」
頭上から女の声がしたので顔をあげると、すぐ近くに高校の制服に身に纏った見覚えのある女がいた。
「あんた、片岡ね」
「へえ名前まで調べ上げたんだ。しつこい女はもてないでしょ」
ここは一体どこだろうか。部屋を見渡してもあるのは窓くらいで、それも今は黒のカーテンで閉められている。広い部屋だ。教室くらいの広さはある。それにしても汚い。床だけじゃなく壁も汚れてるし、空気も悪い。まともな所じゃないな。
「ここは数年前に廃墟になったマンションよ。人目のつかない所であんたとじっくり話したから、知り合いに協力してもらったの」
「その知り合いにちゃんと言っといて。人に話し掛けるときはマスクをとれって」
彼女が手を振り上げる。反射的に目を瞑ると、頬に鋭い痛みがはしった。
「ちゃんと状況理解してよねってあんた昨日、私の友達に言ったらしいじゃない。あんたの方がしてよね。それとも何、状況理解できるほど頭がよくないのかしら」
彼女が唇の先を尖らせて笑い出す。自分がどれほど危険な状況にいるかは理解してるつもりであるが、まだ自分の体を固定しているガムテープや彼女の悪意が見えてるだけ安心できる。昨日みたいに何にもない状態で金縛りにあうより数倍ましだ。まさかあれが耐性になるとは思わなかった。
「有坂沙耶。財布に原付の免許が入ってから生年月日まで分かっちゃったわよ」
床をよく見てみると私の財布と携帯電話が無造作に置かれていた。
「初対面の人の財布や携帯を覗くなんて最低よ」
「最低なのはどっちかしら……。それより私に何か話があるんでしょう。私のことを探し回ってるってムーちゃんが言ってたわ」
一瞬誰のことを言ってるのか分からなかったが、すぐにそれが昨日襲った村上だと分かった。村上だからムーちゃん。そのネーミングセンスはないだろう。
「その忠告を聞いて知り合いの男どもに学校の周りを見張らせれば、すぐにあんたが引っかかったってわけ」
「そう。素早い対応に感服しちゃうわ。じゃあ私の質問にも素早く答えてね。あんたは夕菜を、菅野夕菜をいじめてたの」
「ええ」
まさか本当に素早く返事をしてくるなんて思ってたかったので、逆にこっちが驚いて黙ってしまう。そんな私の姿を見て片岡はいやらしい笑みをうかべた。完全に勝ち誇った顔。すぐにでも殴り飛ばしてやりたい。夕菜のいじめの主犯はこいつだ。そしてこいつは反省していない。
「言っておくけどあいつが悪いのよ。私さ、売春してんだよね。それがあの子にばれちゃったの。わざわざ家に呼ばれて説教してくれたわよ、あいつ。うざいったらなかったわ。その次の日からいじめを始めてやった。まさか自殺するとは思わなかったけど」
「……ウリして、それがあいつばれて注意されたからいじめたっていうのっ」
最後のほうはまるで吠えるように彼女に言い放ったが、当の本人はまったく気にしてないようだ。ええそうよと、さも当然のように返事をしてくる。
ふざけてる。夕菜はきっとこいつにウリなんてしてほしくなかったから説教をしたんだ。それはあの子の優しさじゃないか。なんでそれをうざいと感じれるのか。どうしていじめまで発展させてしまうのか。
話し合いをしようと思っていたけど無理だ。私はこいつを殺す。殺さなきゃ気がすまない。
「自殺したのはあいつの意思よ。いじめられても耐えて生きれば良かったんだわ」
「いじめた方が何言ってんのよっ。苦しさもしらないくせにっ」
突然、彼女が力強く胸倉を掴んできて視線を合わせてくる。彼女と私の顔の間にはもう十センチも距離は無いだろう。彼女がとても鋭い目で私を睨んでくるので、私も睨み返す。その目の奥にとてつもない怒りを感じた。
「知ってるわよ、いじめられる辛さくらい。有坂沙耶、あんたが教えてくれたもんね」
そう言われて急に不安になった。そんな言葉を言われる相手は私は一人しか知らない。
「……はぁ、何言ってんのよ」
強がって言い返してみるが声が震えてしまっているのが自分でもよく分かる。
「やっぱり最低なのはあんたの方ね。そりゃあ親が離婚したせいで苗字も変わったし、イメチェンとかして容姿も変わったかもしんないよ。それでも声とかで分かんないかな。自分がいじめてたやつのことくらいさ」
彼女にそこまで言われてようやく思い出した。目覚めるまで見ていたあの夢。私が小学生のときにしていたいじめの風景。どうしてこんなときに見てしまうんだろうって思っていたが、どうやら運命だったらしい。
すぐ近くにある彼女の顔をじっと見つめる。殺していた記憶が徐々に蘇ってきた。そうだ、彼女だ。私がいじめていたのは。目の前の彼女の顔が少しずつ小学生のころに戻っていくように見えた。そしてそれは確信へと繋がっていく。
どうやら私が昨日あの写真を切り裂いたのは本能的な行動だったらしい。夕菜の仇と、過去の自分だと思っていたが、それだけではなかったようだ。
「……因果な、運命ね」
8
彼女の往復びんたが何度も何度も私の頬を行き交うが私には抵抗する方法も無かったし、力と気も出なかった。ただひたすら繰り返される自分へ暴力を受け止めることしかできずにいた。
「あんたは昔、私をこうして殴ったことがあるわ。あんたは忘れてるでしょうけど、私は忘れてない」
ひどい話になるけど私は彼女にどんな暴力を振るったかまでは覚えてない。記憶を消そうと意識したせいもあるが、きっとこれは普通に日々を過ごしていても忘れていただろう。加害者はすぐに忘れ、被害者は一生覚えている。いじめっていうのはそういうものだ。
「無様ね、有坂。昔は何人も友達引き連れて私をいじめたくせに、今はその私にいじめられて、抵抗もできずにいる。いい気味だわ」
そうだ。昔の私は卑怯にも大人数で彼女をいじめていた。それはあまりにひどい仕打ちだったに違いない。きっと彼女は自分がある程度満足したら、友人や男たちを呼ぶだろう。夕菜の死の真相を調べるために村上と二人の生徒を襲った。あの三人もまた私に復讐する動機がある。
そして片岡の知り合いの男たち。あのサングラスとマスクの男といい、おそらくは彼女が売春で得た知り合いだろう。そんな飢えた連中を呼ばれたら何をされるか分からない。
なるほどこれがいじめというものの恐怖か。いくつもの敵意が自分を渦巻き、どうしようもない不安に陥り、そして何も抵抗もできない。目の前に広がるのは目を瞑りたくなるような辛い現実。でもそこから逃げることも出来ない。
これは苦しい。あまりに辛い。助けてほしいし、止めてほしい。しかしそう懇願したところで相手は手を止めないだろうし、余計に力を入れてくるかもしれない。
「痛いでしょ、痛いでしょ。止めてほしいわよね。けど絶対に止めないわよっ」
そんなこと言われなくても分かってる。別に恨みもない相手に対しても徹底的に痛みつけるのがいじめというやつだ。そこに明確な恨みや動機が入ったら、手加減をすることもやめることもないだろう。
私の場合は当然の報いだが小学生のときの彼女にはそんなひどいことをされる覚えはなかっただろう。当たり前だ、あるわけない。ないんだから。
「いい加減なんか言いなさいよねっ」
彼女は往復びんたを止めると強力な蹴りを何のガードも無い私のお腹にいれてきた。勢いのまま椅子ごと倒れてしまうと、椅子の後方で固定されていた両手に自分の体重で乗りかかってしまうことになり、すさまじい痛みが両手を襲ってきて、うめき声をあげてしまう。
私のその声と同時に片岡の大きな笑い声が起こり、二つの歪な声が室内で交じり合う。
「今の痛いわよね。両手、折れちゃったかも。けど心配ないわよ。どうせそれだけじゃ済まないんだから」
倒れて苦しんでいる私のお腹に次々と彼女の蹴りが炸裂する。彼女の息が荒い。興奮してるのか、それとも全力でいじめて疲れているのか。
わざとか事故かしらないが彼女の蹴りはお腹だけじゃなく、首や顔にも当たる。顔に二発目をくらったところで鼻に生暖かい感じがしてすぐに床に赤い液体が落ちた。鼻血だ。
そんなのお構い無しに攻撃は続く。
「あんたさ、夕菜と友達だったんでしょう。それで友達がいじめで死んだかもしれないって疑って調べてたんだよね。調べて何するつもりだったの。復讐ってやつかしら……ふざけんじゃないわよっ」
蹴りの威力が一気に増した。そんなものが何発もお腹や首、顔などに当たる。その度に小さくうめき声をあげてしまう。
「別に被害者でもないあんたに何を復讐する権利があるわけ。あんたなんてあいつと友達ってだけで、ほとんど無関係者じゃない。そんなやつに復讐する権利があるなら、当然被害者の私にはもっとすごい権利が与えられるわよね」
少し考えた後、彼女は蹴りを止めて今度は思いっきり力を込めてお腹を踏んできた。
「例えば……あんたを殺す権利、とか」
彼女は足をお腹の上からどかすことなく、徐々に体重をかけていく。あまり苦痛に顔を歪めるが、その足をどかす術は私にはない。
「いいわ。本当に殺してやる。いっぱい痛めつけて、私と同じだけ苦しめた後、無茶苦茶に殺してやるっ。どぉせあんたみたいなクズが死んでも誰も悲しんだりしないわよ」
そうかもしれない。いや、きっとそうだ。私はこの十七年、結局良いことなんて何もしなかった。人に恨まれるようなことばっかりして、結果が今の状況だ。因果応報ってやつ。
死んだら夕菜に何と謝ればいいだろう。ごめん、私何もできなかったって素直に言ったらあの子はなんて言ってくれるだろう。許してくれるだろうか。いや違うな。あの子がいるのはきっと天国だ。そして私が行くのは地獄だ。会うことさえ出来ない。
「そんなわけないじゃない」
私でも片岡でもない声が室内に響いた。あまりに突然なことで驚いてしまい、私も息が止まりそうになったし、片岡も体重をかけるのをやめた。そこまで驚いたのは突然という理由だけではない。
その声に聞き覚えがあったから。けれど二度と聞くことはないと思っていたから。
「沙耶が死んだら私は泣くわ。沙耶が私が死んだときにそうしてくれた様に、涙が枯れるまで泣き叫ぶわよ」
片岡が恐る恐るという感じに振り向くと、そこには自分と同じ制服を着た見覚えのある顔があった。
菅野夕菜がそこに立っていた。
9
次に室内に響いたのは片岡の大絶叫だった。口元を両手で抑えて、壁に亀裂でも入るんじゃないかと思うような叫び声をあげる。さっきまで私を痛めつけていた足は震えていて、そのまま床に膝をついたがすぐに何とか立ち上がる。
「いや……いやっ」
口から出る言葉はそれだけ。後は声にもなっていない。
立ち上がった彼女は死に物狂いで走り出す。しかし震えた足では上手く走れるわけもなく、部屋から出て行くまでに何度か転んだ。そんな彼女の姿を夕菜はただ冷たい目で見ているだけで言葉をかけることさえしない。
ようやく部屋から出て行ってもまだ叫んでいるようで、室内にいた私たちにも彼女の逃げ去る足音と声が聞こえた。
「……あれじゃ不審者ね」
夕菜は扉のほうを見ながら冷めたふうに言った後、走って私の所に寄ってきた。
「沙耶、今ほどいてあげるから待っててね」
ポケットからカッターナイフを取り出し、それでまず足のガムテープを切り裂いていく。彼女がそうしてくれてる間に私はようやく口を開くことが出来た。
「本当に夕菜なの……」
彼女は一旦手を止めると顔を私の顔のすぐ傍まで寄せてきた。
「どうかしら。菅野夕菜以外に見えないでしょ」
「そうだけど……じゃあ、どうして」
「あのオチビさんに感謝した方がいいわよ。私が今こうしていられるのは、彼のおかげだから」
オチビさん……。一瞬誰のことを言ってるのか全く分からなかったが、頭の中をあの黒ずくめの少年の姿がよぎった。変な口調でおかしな雰囲気の、私にヒントや飴をくれ、自分を神だと名乗った彼。
「私は死んだ。けど今このときだけはこうしてる事を許されてるの。このカッターナイフも彼が渡してくれたのよ」
死人を蘇らすとは。どうやら本当に神だったらしい。もう疑いの余地がないのがやはりどこか癪だ。
夕菜は私の体を固定していたガムテープを次々に切り裂いていき、五分ほどで私ははれて自由の身となった。全身に痛みは残るものの、何とか夕菜と向き合うように座っている。久々に見る彼女の姿に泣きそうになるが何とか堪えて見せた。
夕菜は私の血だらけの顔を見て、ひどいわと呟きながら今度はハンカチで血を拭いてくれた。これも彼からの贈り物らしい。最近の神のプレゼントはカッターナイフにハンカチという似合わない物のセット。サンタクロースを見習った方がいいんじゃないか。
ようやく落ち着いた頃、私は自分がすべきことを考え付いた。そうだ、これだけはしなくちゃいけない。
「ねえ夕菜」
真っ直ぐ私と向き合った夕菜は、何でしょうと言わんばかりに首を傾げてみせた。私は右手が思うように動かないので、仕方ないので左手ですることにした。
「歯食いしばって」
左手を斜め左上に振り上げて、今出せるだけの精一杯の力で彼女の頬を叩いた。肌と肌がぶつかり合う乾いた音がしたが、音の大きさからしてそこまで痛くはなかったと思う。しかし夕菜は打たれた頬を右手で抑えて、痛いと呟いた。
そんな彼女の胸倉をやはり左手で掴む。しかし顔を引き寄せるだけの力は出ないので、ただそうするだけだ。
「ふざけんなっ」
一発叩くことと、こう言ってやること。それが今私がすべきことだ。
「何で何にも相談しなかったのよ。ちょっとくらい、そうしてくれたっていいじゃん。私なりに力になったわよ。どうして何も言わずに自殺なんかしたのよっ」
頬を抑えたまま彼女は俯いた。彼女が意気消沈してるのを見るのはいつ以来だろう。少なくともこの一ヶ月は見てないが、生きていた頃の彼女がそうする姿もあまり見たことが無い。唯一記憶してるのが中学のときに彼女のお弁当に入っていた好物の卵焼きを、私が取ったとき。あのときは落ち込まれて焦ったし、その後すぐに夕菜とは思えない声の大きさで怒られて慌てた。
「……ごめん」
しばらくして夕菜が本当に申し訳なさそうに謝った。
「ごめんなさい」
謝罪を繰り返されると何故だかこっちが悪いような気がしてくるのは何故だろうか。
「いいわよ。反省してくれてるなら、それでいい。二度とそんなことしないで」
私の最後の言葉に意表を突かれたのか、彼女は俯けていた顔を上げて驚いた目で私を見た。なんとなく照れくさくなったので、視線を逸らすと彼女が笑った。
「けど沙耶、ちょっと違うの。あのね……私は自殺してない。あれは本当に事故なのよ」
「えっ……」
「本が無くなってたのに気づいたでしょう。あれは本当に私の不注意だったの。どっかに置き忘れたみたい。あの時はいじめられたのより何より、あいつが売春をしてることにまだショックが残ってたからね、混乱してた。その混乱に大事なものをなくしてしまったショックが重なってね。結果が事故よ。私がもう少し気をつけてたら、こんなことにはならなかったわ」
それでも、それでもやはり原因は片岡か。恨みたいけど、私には恨む権利はない。
「ねえ沙耶」
こう呼びかけられたので、私は瞬時に覚悟した。
「歯食いしばってね」
私は利き手じゃない左手で、しかも本気じゃないのに、彼女は右手でしかも思いっきり私の頬を叩いた。
「私も悪かったけど、あなたもよ。一人で危ないことしまくったんだから、反省して」
「……ごめんなさい」
「うん。よろしい」
夕菜が笑い、つられて私も笑う。なんて幸せな時間なんだろうか。一ヶ月前までは当たり前に存在してこの時間が、ここまで幸せなものとは知らなかった。
拍手の音が聞こえたのはその時だった。私たちが同時に扉のほうを見ると、黒ずくめの彼がたたずんでいた。部屋が薄暗いので同化しそうになっている。神は神でもやはり死神じゃないか、こいつ。
「菅野さん、有坂さんを救出できたんですね。おめでとうございます。そして有坂さん、大丈夫ですか」
こんな時だと言うのに彼の顔から笑顔が消えない。文句を言ってやりたいが夕菜とこうして再会させてくれた恩がある以上、そうはできない。
「さあ、お二人とも、選択の時間ですよ」
彼が両手を広げて本当に楽しそうに言った。意味が分からないので私たちは首を傾げる。
「さきほど出て行った片岡。彼女はこの後、事故にあう設定にしました。まだ設定しただけですから、変更可能です。今更僕が神ってことは疑わないでしょう。どうしますか。止めろというなら、設定変更して彼女を助けます。勿論そんな気はなく、彼女の死を望むならそれでもかまいません。僕は何もしません。ただ運命が彼女を殺すだけです。さあ、どうしますか」
あまりに突然すぎる問題に私は戸惑ってしまう。片岡の生きるか死ぬかを決める権利が、私たちに委ねられてしまった。しかも夕菜と同じように事故で死ぬという。とても冗談だとは思えない。
確かに片岡は憎い。事故であれ何であれ、夕菜が死んだ原因には片岡の存在があった。それは許せない。けれど私があいつにしたこともまた許されない。罪人が罪人を裁くなど出来ない。
私は黙っていたが、夕菜は違った。はっきりと彼に返事をしたのだ。
「いいわよ、殺して……私は沙耶をこんな目にあわせたあいつを許せない」
彼は彼女の返答を聞き、ふふんと鼻で笑った。
「けど有坂さんは自業自得とも言えます。小学生の頃、彼女が片岡をいじめたのは事実です」
「そんなこと知らないわ。私が知ってるのは中学生のときからの沙耶だけ。それでその沙耶は生きてた頃の私とよく遊んで喋った友達で、私が死んだ時に泣いて悲しんでくれた親友で、死んだ後も私のために色々してくれてる大親友よ。それ以外、何者でもないわ」
力強い彼女の言葉を彼は、なるほどという一言で片付けた。つまり夕菜の意見は通ったということだ。そしてこのまま私が何も言わないと、片岡は死ぬ。
夕菜の言葉は嬉しい。けど、けどやっぱり……。
「ごめん、夕菜。私、無理だ。やめて……」
片岡には恨みがある。けど私に彼女の生死を決める権利はない。しかし今実際にそれが私の掌中にあるなら、それをせめてもの償いに使わせてほしい。
夕菜はしばらく黙っていたが、程なくして優しく私の頬を撫でた。
「良かったわ。もし沙耶が私と同じこと言ってたら、またぶたなきゃいけないって思ってたから」
何発ぶたれるとしても私は夕菜と同じ答えにすべきだったのかもしれない。けれど神というは素早いもので私が夕菜にごめんねと謝ってる間に、じゃあ僕はこれでという言葉だけ残して消えていった。飴をくれても時間はくれない。
片岡を生かしたことを今以上に後悔する日がくるかもしれない。生きた彼女がまた私に復讐をしてくるかもしれない。そのときこそ、ちゃんと向き合おう。
夕菜の体が半透明になってることに気づいたのはしばらくしてからだった。私は慌てるが当の本には極めて落ち着いていて、時間がきたみたいだと、まるでシンデレラのように言う。
右手が動かせないのが憎い。なんとか左手で彼女の腕を掴むと、体温を感じた。
「沙耶、ありがとね。私のために必死になってくれて」
「夕菜……いやよっ、だってせっかく――」
「私は死んだの。今こうしていられただけでも特別なの。それ以上は望めないわ」
それは分かっている。けど後少し、五分でも一分でもいいから共にいてほしい。何でそれが許されない。どうしてそんな意地悪をするんだ、あいつは。
「夕菜、ごめんねっ。あんな選択しかできなくて。私は、最低の友人だ……」
せめて最後まで謝っておこう。夕菜が片岡を殺したいという気持ちに恐らく嘘はなかった。けど彼女は私の選択を尊重してくれたんだ。間接的にとはいえ、自分を殺した人間が生きているというのは我慢ならないだろう。
「バカ。二度とそんなこと私の前で言わないでっ。あんたは私の大親友よ、最低なわけない」
「……ありがとう」
「こちらこそ、ありがとう、沙耶。ありがとう、友達でいてくれて」
ありがとう。そしてさよなら、私の親友。
私たちが同音異口でそう言った直後、目の前から夕菜は消えて、さっきまで彼女を掴んでいた左手は空中を彷徨っていた。そこにもう彼女の体温は感じれない。
流すのを我慢していた涙が両目から次々と溢れ出す。この部屋には誰もいない。しばらく泣き叫ぼう。
彼女の、私の自慢の親友の死を悼んで。
10
片岡春香は自分がいつの間にか知らない路地に迷い込んでることに気がついた。ここまで全力疾走してきたので、とても息が荒い。近くの電信柱に背を預けて息を整えながら辺りを見渡すが誰一人としていない。
ここに来るまでに車に轢かれそうになったりして大変だったが、どうしてもあそこから離れたかった。
あんなの幻だ。最近寝不足だったから、死んだあいつの姿が見えてしまっただけだ。言葉も聞こえたけれど、きっとあれは幻聴だ。そうに決まってる。菅野夕菜は死んだんだ。何度も心の中でそう唱え、自分に言い聞かせる。
それにしても情けない姿を有坂に晒してしまった。なんという屈辱だろう。けど、まあいい。あそこならきっと助けはこない。今日一日は放っておこう。それで明日、腐った食べ物でも持って行っててやる。空腹のあいつはきっと泣いて喜びながら食うだろう。
想像しただけで笑えてくる滑稽な姿だ。
「いやいや、彼女はもうすぐ助かります。僕が警察を呼んどきましたから」
声のした方を急いで見ると飴を口の中で転がしている全身を黒の服で纏った少年が立っていた。
「人間って不思議ですね。反省をする気も無い人間にも救いの手を差し伸べる。理解できません。まあとにかくあなたは、あの二人に感謝すべきですね」
「誰よ、あんた」
「僕のこと何てどうでもいいじゃないですか。それよりあなたですよ」
少年は笑顔でこっちに寄ってくる。気味が悪いと思いながらもさっき彼が言った警察を呼んだ、二人に感謝しろという二つの言葉が気になって無視はできない。
「ガキ、あんた何か知ってんの」
「何かっていうか全部ですけどね。この世の全部知ってますよ。この国では僕のことを全知全能とも言うんでしょう。あの言葉は僕のことを見事に言い当ててます。素晴らしい」
ただでさえ頭にくることが続いているというのに、この人を苛つかせる口調。片岡は耐えれず、彼の肩を掴み、爪を食いませる。
「何なのよ、あんた。私をからかっての」
彼女は力いっぱい爪を食い込ませるが、少年は表情を歪めたりはしなかった。ただ笑顔を消し真顔になっただけで、痛いとさえ言わないでいる。
「片岡さん、有坂さんは罪悪感をある日突然抱いたそうです。あなたも体験してみましょうか」
有坂という名前が出た瞬間、彼女の中で血が騒いだ。さらに手に力をくわえて、なんとしてでも少年と有坂の関係を言わせようとしたが、それはかなわなかった。
片岡の頭の中に、急に今まで自分がしてきた過ちが渦巻いた。中学の時に万引きした記憶、高校に入って売春をした記憶、そして菅野夕菜をいじめた記憶に、さっき有坂を暴行した記憶。それらの記憶がまるで走馬灯のように頭の中を駆け巡る。
過ちだと思ったことは今のままで無かったのに、今になって急に、それが過ちだと感じれるようになった。
自分のした行為の恐ろしさに全身が震え出す。少年の肩を掴んでいた手も放して、両手で自分の頭を抑える。なんてひどいことをしてしまったんだろう。自分は今までにこんなにも罪を犯してきたのかと、自分で自分を信じられなくなる。
「ごめんなさいっ、ごめんなさいっ、ごめんなさいっ」
自分が被害を加えた人間がそこにいないと分かっていてもそう言わずには入れなかった。膝を地面につかしてしまい、更に強く頭を抑える。記憶が内部から頭を割るんじゃないかと思えてきた。
どうしてこんなことをしてしまったのか、何で今まで反省してないのか不思議でならなかった。
「どうですか片岡さん、罪悪感のお味は。おしいしいですか。あなたの心に少し植え込んでみたんですが、どうやらお気に召したようで」
少年の声が頭の上からするが返答はできない。しかし言われて初めて、これが罪悪感という物なんだと知った。
自分の犯した過ちが自分を蝕んでいくのを感じながら、彼女は何度もごめんなさいっと叫んだ。そうとしかできない。特に彼女を苦しめているのは菅野夕菜のことだった。渦巻く記憶の中、一際彼女の記憶だけが目立っていた。
「……ごめんなさい」
ついに地面に顔までつけて謝りだしたが、罪も罪悪感も消えない。
知らず知らずのうちに涙まで出だしたが拭き取る気にもなれなかった。
「愚か過ぎて、笑う気も失せちゃいました」
冷めた少年の声。彼が遠ざかっていく足音が聞こえた。小さくなっていく足音を聞こえている間も彼女はひたすら謝り続けていた。
11
神というのはメロンのカットまで上手にできるらしい。
私は病院のベッドの上に座りながら、お皿の上の黄緑色の綺麗なメロンにスプーンをさした。一口食べただけで幸せになれる味。メロンとは何と偉大なんだ。
「お見舞いにきた人にメロンをカットさせるなんて、何て人使いの荒い」
ベッドの横の椅子に座った彼がぶつぶつと愚痴る。
「僕は人じゃありませんって自分で言ったのよ。忘れたの」
「おお、そうでしたね。迂闊です、忘れてました」
この適当な神め。心の中で罵るが、きっと彼には聞こえたはずだ。
あの後、私は警察に保護されてここの病院まで運ばれた。やはり右手は折れていたし、他にも負傷した所が多々あったので一週間の入院を余儀なくされた。警察は暴行事件として調べるらしいが、被害者の私が何も覚えてないと言ってる以上、まともに捜査はできないだろう。
入院してる間にニュースで知ったのだが、夕菜のいじめを学校側が認めた。というかそうするしかなかったみたいだ。何でもマスコミ各社に匿名で夕菜は自殺で、原因はいじめだという告発文書が届いたらしい。それで火が点いたマスコミがクラスメイトたちを問い詰めていくと、あっさりと白状した。
ニュースでは学校はいじめの主犯だったK少女を退学にしたとも報じられていた。
そのニュースが全国で話題になっている最中におばさんが私をお見舞いにきた。彼女は私がどうしてこんな目にあったのか何となく察しはついていただろうが、何を訊くわけでもなく、ありがとうとお礼を言ってくれて、このメロンまでお見舞いの品としてくれた。
夕菜の死は自殺ということになった。今更事故だと言っても、どうしようもならないだろう。ただおばさんは事故でも自殺でも、あの子は帰ってこないと落ち込んでいた。何も言ってやれなかった自分が情けない。
「あなたには悪いことをしたと思ってます。僕の退屈しのぎにつき合わせてしまって」
入院五日目の今日になって彼が姿を見せた。お見舞いの品はなんと飴十個。彼曰く、大奮発だそうだ。勿論それだけじゃ物足りない私は彼にメロンのカット命じた。
「神なんて本当に暇なんですよ。ですから毎日、世界のどこかをうろついてるんです。ある日、夕菜さんの事故現場の近くを歩いていたら幽霊になって彷徨っている彼女を見つけました。何で成仏しないかと訊くと、友人が心配だと答えました」
「それは片岡のことね」
「はい。そこで私はこれは面白そうと思い、片岡のことを色々と知りました。知ろうと思えば何でも知れるんですよ、僕。そして彼女の記憶の中に、夕菜さんの親友であるあなたを見つけた。そこであなたと片岡を接触させるため色々と画策しました。あなた方二人が会ったら、きっと面白いことになると確信してました」
「それで事故なのを知ってるのにまるで事件だと私に思わせるようなことを言った」
こくりと一度だけ彼は頷く。つまり私は彼の手の平の上で踊らされていただけだった。
「あんたのことは許せないけど、私もあんたを責めれない。……私も退屈しのぎだったのよ、片岡をいじめた最大の原因はね。確かにムカツクっていうのもあったけど、多分それは言い訳よ。いじめなんてほとんどが退屈しのぎだと思うわ。毎日毎日閉塞感の宝庫みたいな学校にいて、何もすることがなくなると、そうなっちゃうのよ。勿論、それはいけないことよ」
おそらく片岡もそうじゃないだろうか。売春を黙らせるためと言っていたが、黙らせたいなら相手を刺激するような真似は控えるだろう。暇だったんだろうな。だからこそ売春なんかもしてたんだ。
「これはせめてものお詫びの品です」
彼はそう言うと私に一冊の本を差し出してきた。驚きのせいでメロンをすくっていたスプーンをとめてしまう。それは夕菜が無くしたと言っていた、あの本だった。
「まあ仮にも神ですし、本を探すくらいは容易ですよ。これ、大切なものなんでしょう」
うんうんと何度も首を縦に振る。いけないと思いつつもメロンの果汁で汚れた手をベッドで拭き、本を受け取った。今度、そっと夕菜の部屋の本棚に戻しておこう。きっとあいつは喜ぶだろう。
「それでは、僕はこれで」
「ああ、ちょっと待ってよ。メロンをもう一皿、用意して。ほら私、手がこれだから」
そう言って、ギブスを当てられ、包帯で巻かれた右腕を見せたると、彼はため息をつきながらも、さっきカットしたメロンを冷蔵から取り出してお皿の上にのせた。気の利くことにスプーンまで用意してくれた。
「後でお客さんでも来るんですか」
「ええ、大切な人がくるの」
きっと彼なら誰が来るかくらい知っていたのだろうが、お互いに口には出さなかった。
「では今度こそ、失礼させてもらいます。お大事に」
頭を一度下げて病室から出ようとする彼の背中を見ながら、私も頭を下げた。
「ありがとう。あんたのおかげで夕菜とまた会えて、過去とも向き合える。感謝してるわ」
小声で言ったのだが彼にはちゃんと聞こえていたようだ。神のくせに地獄耳なのか。病室のドアノブに手をかけたまま彼はしばらく動かなかったが、ふふと笑い声を上げた。
「運命が許すなら、またいつかお会いしましょう」
それが彼の別れの言葉だった。それだけ言うと病室を出て行き、遠ざかっていく足音だけを残していったがそれもすぐに聞こえなくなった。
しかしすぐに近づいてくる足音が聞こえた。どうやらお客が来たらしい。
昨日の晩に携帯に電話があった。どうやって番号を調べたのかは知らないが、電話口で彼女はとにかく会って話がしたいと言った。断るなんて選択肢ははなから頭の中に無かったので、今日病院に来てと承諾した。
マスコミ各社に告発文を送ったのは彼女だろう。何が彼女に起きたのかは知らないが、それが彼女なりの償いだったに違いない。彼女はちゃんと過ちと向き合ったんだ。
足音が大きくなっていく。
私もちゃんと向き合わないといけない。自分が犯した過ちと。私たちはお互いに罪人だ。罪人が罪人を裁くことはできない。しかし、罪人と罪人は分かりえるのではないだろうか。お互いが犯した罪を。そしてそれは上手くいけば反省へと繋がっていく。
足音が病室の前で止まり、数秒経ってノックがされた。
「どうぞ」
私はお客を招き入れる。
ちゃんと話をしよう。お互いの罪について。大丈夫、時間はある。今までは時間があったらいじめなんかに使って退屈しのぎをしたけど、今度はもっとちゃんと時間を使おう。話すことはいっぱいあるでしょう。さあ話をしよう。メロンでも食べながら。
病室の扉が開き、花束を持った彼女が入ってきた。
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2009/09/26(Sat)20:08:00 公開 / コーヒーCUP
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■作者からのメッセージ
お久しぶりです。あるいは初めまして。
久々に投稿させていただきました。お世話になっているサイトに1年間、ろくに作品を投稿しないというのはどこか後ろめたかったので。
今回の作品、最初はミステリにしようと考えて書いていたんですが面白いことに、作中に出てくる「黒い少年」が好き勝手してくれるせいでミステリでなくなりました。けど当初自分が考えていたのよりずっと良いストーリーになったのではないかと思っています。
今回の主題は「いじめ」。ある意味、学生の宿命ともいえるやつです。
感想、アドバイス、苦情などなどよろしくお願いします。