- 『夏野抄』 作者:森野遙一 / 時代・歴史 未分類
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原稿用紙約20.05枚
花開いた文明が地にあふれるまで未だ数歩を残した、自然と隣り合わせだったころ。すべてを失った童(わらべ)と、夢のため手を差し伸べた老爺(ろうや)。助けられた者と助けた者、喰われた者と喰った者。これは、人と人が、近く遠くに在った時代の小さなお話です。
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夏野──夏草の茂る野原。夏野原。夏の季語。
泥で肥えた濁流に呑まれた童がいた。里ごと山津波に喰われ、親も生家も一夜にして失ったのは蝉も静かな涼夏のことだ。終いかと思われた夜が明け、川辺で息を吹き返した童が目にしたのは泥と礫に埋もれた無辺の荒れ野ばかり。里に戻る道も、腹の足しになりそうな物も見当たらない。何もかも大水が一口に呑んでしまった後だった。
当てもなく濁り水をすすりながら彷徨い歩き、精も根も尽きかけたところへ行商の老爺が通りがかった。彼はぼろに身を包んだ血の気のない童を捨て置けず、まずは喉を潤わせようと荷から取り出した一本の瓶を差し伸べた。すると童は、
「いらない」
小さいがはっきりとした声で言って、老爺の手ごと振り払った。
我が身を見舞った災禍を嘆くでもなければ、生を手放そうというのでもない。あるがままに存えるだけ。驚いた老爺をそれきり見もしなかった。齢に不相応な達観に心を塗りつぶされ、頑なに手を伸ばそうとしない童に弱り果てた老爺は、一計を案じた。
「おぬしはそのまま朽ちてよいかもしれん。だがそのために変わる先があるぞ」
童の瞳に光が宿った。見紛いようもなく知性の光だ。舌が何を紡ごうとも、この賢しらな童には生への渇望が残っているのだと老爺は見立てた。
「なに、儂らの里におぬしが来れば、思い知らずにはおれまいて」
「こんな死にかけの小僧が行ってどうする」
「小僧でも来ればわかろう」
ややあって、童は言った。
「行ってやる」
「そうか。では飲め」
「……なんだこれ」
「炭酸水を知らんか。おぬしには御一新もそう遠いものではないようだが、近頃の町では皆が飲む。里の者も大いに喜んでおる。美味いぞ」
童は甘ったるく舌を刺すような水もどきをちっとも美味いと思わなかったが、澄んだものに口をつけるのは数日振りで、意に反して喉は盛んに音を立てた。
「どうだ美味かろう。またこの瓶というのがよい」
「いいって何が」
「秘めた手紙のごとく大切に守られておる。どこかしら安らかな感がある。感じぬか」
一息に飲み干した童は、次の瓶を受け取りつつ首を振った。
「わざわざこんなものに頼るなんて、まともにはできない事情でもありそうだ」
「そうかそうか。それもまた真直でよい」
老爺は呵々と笑った。
その里は間もなく夏の盛りだというのに枯れた野がぐるりと巡る、うら寂しいところだった。潅木と細れ石だらけの山間を分け入った行き当たり。突然現れたような広野から遠く見下ろせば、童の里も望めそうな眺めがある。老爺が月に一度町とを往き来する他に変化のない里だ。ただ一人の行商人として外と連絡を持つ老爺だけが、町で仕入れた品物や世情を里に卸す生業を何十年と続けているという。童が拾われたのはその帰り道でのことだった。
里人は百にも満たず、半ば老いた者だったが、老爺が口添えるまでもなく童を手厚く介抱した。父に連れられて様々な里を訪ねたことのある童も、こうまで余所者に親身な里を知らない。怪訝な思いは残ったがお陰で体は快復し、やがて半月を待たずに歩きまわれるようになると老爺が里の案内を買って出た。
「おぬしの里とは違うだろう」
「当たり前じゃないか」
健脚な老爺に引きまわされて膝に震えがきていた童は憎まれ口を続けようとして、ふと気づいた。
「それでか」
「はは、察しがよいの」
「わからいでか。おれの里の知恵を使おうっていうんだろう」
「この里の者は知らん。というより夢にも思わんな。おぬしも知っての通りの心根だ。だが儂は外を見る。外を聞く。おぬしの里の噂もおぬしがそこの生まれであることもな、知っておったよ。なれば欲が首をもたげても不思議はなかろうて。この枯れ野を夏野に変えられるものならばと、一夜の夢を咲かさずにおれなかったというわけだ」
童は里で見聞きしたものを思い返した。水辺こそ遠くはないが石ころだらけで、満足な耕田も実の生るろくな木さえない。それに人手もない。どこを取っても里の息は長からず思えた。老いた牛馬のごとく逃げることすらかなわず、いずれその息も絶えるだろう。
何もしなければ、やがて自然に喰われるだけだ。
「助けた恩に報いろなどとは言わん。ただ思ったまま感じたままを言ってはくれんか」
変わる先、とはこのことか。
童は意を決した。
「あんたらの里は見た。今度はおれの里を話す番だ」
口を開けてじっと見返す老爺に、童は初めて声を立てて笑った。
「そんな顔で聞かれちゃ困る。これからここをおれの里みたいにするんだからな」
亡き故郷に伝わる農法や潅漑の知識で耕地を拓き、広げ、里を豊かにする。水脈を探り井戸を掘り、枯れ野に緑の草花を咲かそう。
童の話をほうけたように聞いていた里人たちに強く期待はできなかった。しかし明くる日には里の大半が腰を上げていた。老爺の説得があったのか別の理由があるのか知らないが、既に童の心はこれからに注がれていた。
作業が始まると、童は土地の話を乞うては己れの里の教えと照らすことを何遍も繰り返した。老爺が夢見た夏野には、わずかずつ近づければいい。併せて天変への備えは怠らない。特に人も家も一呑みにする暴れ水には故郷の二の舞にならぬよう、心を尽くした。水路と堤を築き、溜め池を作ってやる。童は里の誰よりも立ち働いた。気がつくと童のそばにはたくさんの里人たちが集まるようになっていた。
「こんな里でも夏が見られるんかなあ」
親子ほども離れた男が不安げに顔を曇らせれば、
「ああ、見られるとも。春だって来るぞ」
胸を張って請け合うと、今度は男が連れた童よりも小さな児が、
「ほんとう? あたしたちも草っぱらを走りまわれるの?」
「ああ、できるとも。だから今はおれの使いでひとっ走りしてくれ」
肩を落としたり目を輝かせたりと忙しい里人たちの一言一言に童は答えた。口先ではない。確信があった。手が入っていなかっただけで土そのものは悪くない。誤りなく水を引き入れて見張れば遠からず夏らしく萌ゆるさまが見られるだろう。夏草の茂る野。老爺と、そして今では皆の夢になったその光景は数年を待たず見られるかと思えた。
万事は順調だったが、童が来た次の夏、烈しい風を連れた長雨が里を襲った。
「みんな言った通りにするんだ!」
童の号令一下、里人たちはよく動いた。いくらか家は持って行かれたが、人死にはなかった。里を守ったばかりか、今度は天の惨い仕打ちに負けなかったという誇らしさが童の胸を一杯にした。そこへ、歓声に似た騒ぎが聞こえてきた。
「嵐だ、嵐だったなあ」
「あんなに凄かったのはいつ以来じゃろう」
「先の年ですよ。あのときも枯れ野が吹き飛ぶかと思いましたから」
何を言ってるんだ。
童は困惑し、泥濘んだ野で土を蹴り散らして遊ぶ里人たちに言った。
「みんな何を言う。里が死ぬところだったじゃないか」
「いや、大変は大変だったさ。だけどなあ……」
「そうね。この里しか知らないあたしらにすれば、一世一代の大事だわね」
それは悲劇を目の当たりにした者の声音ではなかった。
「何を言う。そんな、なぜ、出迎えるようなことが言える?」
わけがわからずにいると、愉快に踊る別の里人からこんな声が聞こえた。
「しかしなあ、前の年はさすがに危うかったなあ」
「わざわざ谷向こうに出張ってみんなで山ほども木を伐ったもんな」
「あのときばかりはなあ。どの家も失くなっちまいそうだった」
木を。
山ほどの?
里に手近な茂林はない。あったとしても遠すぎるか、それとも──
「どうしたよ。おぬしのお陰で皆も浮かれておるのだぞ」
肩を叩いた老爺を、童はじっと見返した。そして長く里人たちを見回し、「辺りを見てくる」とだけ言い置いて里を出た。
明くる朝、一向に戻らない童を心配した老爺と若い者たちが探しに出ると、枯れ野が終わる岨から山谷を眺め渡す背を見つけた。心ここにあらずだったが、里のためにまた新たな策を考えてくれているのだろうと思い、里人たちは改めて感謝を深くし、小さな恩人をねぎらいつつ連れ帰った。童が見ていた先にかつて一つの里があったことは、老爺も知らなかった。
その夜、寝静まった里を抜け出す童の姿があった。しばらくは夜の雲は脚を速めたままで月の隠りはまだ続く。人目を忍ぶには格好の夜だった。行き先は里の周りで枯れ草が最も密に繁る草地だった。緑の野が広がりつつあるとは言ってもまだ狭く、そこにはまだ濡れたすすきのような萎れた草しか見当たらない。
どれほど経ったか。やがて暗がりに童の表情がぼう、と浮かび上がった。酷くやつれた顔の中、炯々とした眸が手に掲げた松明へと向く。
「放れば、すぐだ」
空ろな声が枯れ野に響く。
「人も家も何もかも失くなってしまえ」
握り締めた手に、炎が揺れる。
「こいつらが滅ぼしたおれの里のように、なればいい」
童の里は谷合いにあった。そこへ山肌が突然滑り、濁った津波が押し寄せ一呑みにした。ずっと不思議でならなかった。あれだけ豊かな知恵があり、他の里に伝授さえした郷里が、なぜあの大水だけを予見できなかったのか。
答えは思いがけない形で伝えられた。悩んだところでわかるはずがなかったのだ。あの災いだけは天の計らいではなかったのだから。
木を伐った。
この里の連中が無考えに上流の木を伐りすぎたがために、山は楔を失い、柔くなった表面が谷底へ転げ落ちた。それだけのことだったのだ。
「だからこうしてやる」
自分が今まで何をしてきたかを思うと、憎悪に胸が焦がされ、どれほど吐いても許されず、胃が蠢くに任せてありったけを出してもまだ足りず、気がつけば炎を手に野を歩いていた。そうして燃え盛る炎を凝視するうち、唯一その考えだけが胸の奥に灯っていた。
そうだ。そうすべきだ。
どうせ嵐の意味もわからず、喜んでいたじゃないか。
莫迦げている。こんな莫迦げた里があってたまるものか。
「二人とも夏草が大好きだった。あの綺麗な緑の野が好きでならなかった。それなのにあいつらだけがずっと夏草を見られるなんて、許せるもんかよ」
放たれた松明は弧を描き、枯れ野の懐に飛び込んでいく。
さあ、さあ──
呑み込んでみせろ!
童の目が狂熱をはらむ。
赤い炎が爆ぜようとした、そのときだ。
ざあ、と──
刹那にして、濛々と立ち込める跳ね返りで枯れ野は包まれた。
すべてを奪い去った雨どもが、今また童の前に降り落ちてきたのだ。
「火はどこ行っちまったんだ」
時ならぬ白雨につぶされ、童が運んだ火種はその在処も定かではない。
「誰がこんなのを望んだ。こんなことが!」
届くはずのない問いでしかなかった。
だが、ふと聞こえた。
──夏草にはな、あれにはあれの願いがあるもんさ。
雨音に乱れ打たれた耳に、懐かしい声が甦る。
あの日から一度も思い返されることのなかった、それは父の言葉だ。
「よいか」
我が子が問いかけるどんなことも、父は丁寧に説いてくれる人だった。
「短くとも今を謳歌しようとする夏草にしてみれば、烈しい陽射しも厄介な驟雨だって歓呼を唱えるべき慈恵の顕れなのだ。我らには傍迷惑とは知る由もない」
そんなの嫌だ。皆が困ってる。それはいけないことだ。
膨れっ面で言いつのる童に、父は優しく続けた。
「責めてはいけないよ。誰だって誰のことをも知るわけではないんだ。我らもまた、誰かにとっては迷惑者であるかもしれない。人もまた、そうなのだ。天より生まれた人がその理を違えて生きられるはずもないのだ。生あるかぎりこればかりは変えようもなく、また変えようなんてしてはいけないことではないかな」
童はなおも言った。父も母も変えようとしている。枯れた野に草花を、荒れた田畑に実りを生らせようとしているではないか。
「変えるなどと大仰なこと、かなうはずもない。我らが為すは、ただ己れらの都合が良いようにこの目とこの手が届くところを少しだけ動かしてやるばかり。それは山を動かすでもない。その上に生えている木をいくらか伐って見せるほどのことだ。だが木はまた茂る。そうでなければきっと幹に刃を立てることは出来ずにいたろうな」
それって皆が皆、ってこと?
「そうだ、そうだぞ。皆が皆なのだ。隣の者が天に為した何かでお前が困ったからといって、それを責め立ててはいかん。それらはいつか夏草にとっての慈雨になるかもしれないのだからな」
「夏草は大好きよ。あなたもそうでしょう?」
母が優しく髪を撫でてくれた。くすぐったくて身をよじりながら、童は言った。
「うん、好きに決まってる。だから──」
わかった。
そんなことするもんか。
絶対に、するもんか。
「さすが俺たちの子だ。賢いなあ」
ようやく素直に頷いた童と、それをやはり素直に喜ぶ父とを、母は温かく見守ってくれていた──
「なんで……」
震えた手が枯れ野の草をつかんだ。腰も膝も言うことを聞かず、立っていられなかった。草を握り締めて何度も野を殴りつけた。喉よつぶれろとばかりの絶叫を雨音がかき消し、涙を覆い隠そうとでもするように後から後から頬を伝う滴が顎を垂れた。どうしてこんなことが。なぜ今になって。よりにもよってこの里に助けられてしまったのか。答えのない疑問が降って湧いては心を浸していく。
「するもんか」
あれは父と母と交わした最後の約束であったはずなのに。
「絶対にするもんかって」
約束した。それなのに忘れた。
忘れて、火を放とうとした。
指が土を掻き、石に肌を裂かれても何も感じなかった。ただやり場のない激情の波を留めてはおけず、身の震えるまま掻き立てた。
そのとき、枯れ草とは違う手触りが不意に伝わった。何が。まさかと思い引っぱると、
「あ、ああ」
枯れ野の中から出てきたものに童の声が震えた。まだ小さな芽ほどだが間違いない。
その目映いほどに緑の草は、夏がくれた命だった。
後に、その地はあふれんばかりの夏草が茂る、夏野の里と呼ばれた。
しかし緑をもたらした知恵者は姿を消し、ついに里に帰ることはなかった。
里人たちは嘆き悲しみ、その功績と大いなる感謝の念を忘れぬためにも童の伝えたものを守り続けようと、美事な夏草が茂る野原に誓いを立てた。教えを皆で文字にすると、膨大な書を夏野抄と名付け、これに編纂者をつけて後代に伝えることとしたのだ。それでも五年、十年と月日が流れれば次第に色褪せ、誤りも混じる。そして記憶が欠けると同じく、夏野原にも枯れ野の虫食いが蔓延るようになった。
そんなころ、月に一度の行商を担う一人の老爺に不思議な話が囁かれるようになった。
里の者たちが困り果てると老爺が現れては問いを請け負い、翌月にはその数だけ瓶を寄越す。瓶には書簡が封じられており、中には里の誰もたどり着けなかった答えがしたためられていた。書の筆記者は里人よりも里に通じ、返答は一度として外れなかった。そのため一時は朽ちかけた野も、死の床から救われたかのように息を吹き返した。
どれだけ乞うても老爺は筆記者の名を明かそうとはせず、またその者も決して自ら姿を現そうとはしなかった。老爺が当の知恵者ではないかと問う者もいたが、これに老爺はゆるりと首を振ってこう答えた。
「あの子は儂らに感謝しておる。ゆえに儂らもまた夏野を守り続けるのだよ」
誇らしげでもあり寂しげな老爺はそれきり黙り、里人たちも重ねて問おうとしなかった。
やがて老爺が老いて歩けなくなるとその子が、さらにその子がと代替わりを続けてこの風変わりな役目を果たした。子らは初代の言いつけをきつく守り、人は変わっても謎は揺るがなかった。伝える者だけでなく、答える者もまた老いて次の者に継いだのか、あるいはその卓抜した識見で長命を保っているのか。それすらもわからぬままだった。
けれど瓶に問いがあるかぎり、次の月の瓶もまた、空になることはなかったという。
────夏野抄・余の段〈名もなき翁の覚書〉より
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2009/09/13(Sun)10:33:36 公開 /
森野遙一
■この作品の著作権は
森野遙一さんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
はじめまして。初めての投稿です。
夏の日の雨を眺めていて、胸の奥から響くように生まれた作品です。
長く密になりがちな文章を抑え、短くも深い物語が描ければと筆を尽くしました。
お気づきの点ありましたら、ご意見、ご感想をお願いします。
これからも様々な世界、時代を活写した短編を載せられればと思います。
お読みいただきありがとうございました。