- 『嗣子』 作者:結城星乃 / 異世界 ファンタジー
-
全角25628文字
容量51256 bytes
原稿用紙約85.65枚
麗国は魔妖の王を主と戴くことで、魔妖から身を守っている国。魔妖と唯一渡り 合えるのは、陰陽縛魔師と呼ばれる者達のみ。長の後継である香彩は、成人の儀を終えた。長の力を全て受け継ぐはずであったが彼はその力の全てを失っていた。 目覚めたばかりの雨神を迎えて讃え、今年の雨を雨神に約束させる『雨神の儀』。雨神の機嫌を損ねれば、凶作は免れない。力を失った彼は果たして、雨神の儀までに力を取り戻すことができるのだろうか。
-
篠を乱す。
大気はやがて降り逝くだろう、雨の匂いに染まり。
霧雨の淡くぼんやりとした単色の風景に、まろやかな光が差し、霧に取り込まれ、普段見慣れているそれが余りにも幻想的。
だが一時も経たない内に、雨は篠突(しのつ)く雨へと変わり。突き降ろすような激しい雨に風が加わり、まるで嵐でも顕れたかのような篠を乱すもの。
誘われる。
この雨に。
この雨に、打たれたなら、己れの持つ憂欝を、流せるか。
裸足のまま、青年は中庭に出る。
鎌鼬(かまいたち)でも現われそうな巻き付く風に、藤色の髪が靡く。それは腰の辺りで綺麗に揃えられていて、日の光の下ならばさらりと揺れていただろう。すっかり濡れてしまった髪を、骨張った長い指が掻き上げると、燐とした世の悪ごとに染まらぬ静かな炎の宿る瞳がある。古(いにしえ)の人形にも似た、美しく艶やかな面立ちに、意志の強そうな森色の瞳はよく似合っていた。
青年は、雨が染み込み重くなりはてた白衣(しらごろも)の袖を天へ翳す。手には紅筆で描かれた祀祗(しぎ)の札。雨に濡れず、紅筆(くれふで)の字も滲まぬそれを奇妙だと人は思うだろう。
空いているもう片方の手で、印を結び、言葉を紡ぐ。
「 」
祀祗(しぎ)の札は、何の反応も示さない。
今一度、”力”ある言葉を呟く。
「 」
反応はない。
不意に雨が目に入り、青年は蹲(うずくま)る。
札が手から離れ、強い風に攫われて空へ舞い上がった。
まるで自らの意志を持って、青年から遠ざかるかのように。
青年は嗤った。
失くしてしまったのだ。この社会で生きていく為に絶対に必要なものを。
青年は嗤いながら、拳を地面に叩きつける。
嗤うしか方法が無かった。自分を慰めてやる方法が、あざけ嗤うことしか出来ない。
愛しげに、悲しげに、切なく目を細めて空を仰ぐ。
青年は、救いを求める少年へと戻っていた。
当たり前のように差し伸べられた手を、当たり前のように掴んでいたそんな時代を、懐かしく恋しく思う。成年になれば振り解かれてしまうものだと分かっていても、裏切られた気分になるのは心が幼い証拠だ。
(……それでも自尊心を捨ててでも求めてしまうのは)
保護ではない。
救いではない。
では、何だ……?
自分はあの人に、何を求めている……?
耐え切れなくて、目を閉じる。
濡れてしまった頬から落ちる雨が、何とも苦い。
1.
雨は上がっていた。
空にはまだ雲が広がっていたが、日が差し、青空が少しずつ見え始めている。何処からともなく舞い降りた小鳥が、雫の付いた春花を啄ばんで、何かを探すかのように頭を動かしている。
その愛らしい姿に魅入られてしまって、つい筆を止めてしまう。
少し肌寒い風が吹いて、春花が舞った。
小鳥は風に追われる様にして何処かへ飛び去ってしまい、ふと我に返って再び書簡に目を落とすのは、二十半ば前の青年だ。
つまらない、とこぼす声は低くも美声。
見事な銀糸の髪と紫水晶の瞳は、この麗国唯一のもの。
城主にて、麗国の主。
名を、叶(かのと)という。
刃物のように研ぎ澄まされた美貌と冷淡な低い声、踵まで伸びた髪は高く結い上げ、まるで自分の身体を覆う様。先の尖った耳と異様に伸びた犬歯が、彼を人ではないことを物語っている。人ではない者の血を受け継いでいる、と言った方が正しいだろうか。
元来、この地は妖、魔妖(まよう)の跋扈する荒れた土地であった。だが天を追われ罪を背負い、堕天した闘鬼神阿修羅という名の天数の神が、この地に降り麗という名の国を造ると、魔妖は静かに身を潜めたのだ。何故なら彼は天にいる時から魔妖の神であり、人を魔妖から救う神でもあった。阿修羅は人を守るためにこの地に居着いたが、人は彼を国の主に祀り上げた。
だが、神とて妖。
麗国は妖を王にすることで、妖から身を守っている国なのだ。
叶は書簡から目を離し、再び景色を見ている。
書院造に似た部屋を、そのまま楼閣にしたような麗城中枢楼閣。主に 「大」の位を持つ司官達の私室及び、各部所の本部があり、全六階から成る。下より大司寇、大司馬、大司空、大司農、大司楽、そして最上階の大司徒と続くが、それ以外にも主君館・大僕参謀館・会議室・東西南側展望台が存在している。
叶がいるのは主君館と呼ばれる政務室。
濃淡に咲き乱れる春花でもなく、この季節に喜びを謳う春花を啄ばむ小鳥でもなく、雲の合間から差す日の光でもなく、彼はただひとりの人物を見ている。
成人の儀を迎えたばかりの青年だ。そしてこの度、晴れて大司徒の位を継承した若き大司官。
大司徒というのは国の安定と安寧を願い、祈祷や占術を行なう術者達の束ねであり、彼らは一般に陰陽縛魔師(おんみょうばくまし)と呼ばれている。
魔妖に対する最も効果的な力≠備えた彼らは、表向きには主君を国を守る為に存在するが、実際は丁の良い見張りだ。言い方を変えてしまえば、主君から国を守る為の部所。
「……ですが、この報告が事実であるなら、陰陽縛魔師の未来は、いささか不安」
青年が歩みを止めた。
陰陽服という陰陽縛魔師特有の白の布着に、紅紐で胸と長い袖部分に縫い取りの装飾を施してある、いわば正装で彼は誰かを待っているようだ。その表情こそ窺い知れなかったが、どこか彼には影のようなものがあった。
確かめる必要がありますね、と叶は呟く。
城内にひっそりと、まことしなやかに広まる噂がある。
大司徒香彩が術力を喪失した、と……。
朱門は麗城中枢楼閣の表の入口だ。
紅に染め上げた門柱には、黄金の煌びやかな装飾がなされ、清掃が行き届いているのか、くもりひとつ無い。高く、横幅も奥行もあるこの門内には、監査室や訪れる司官の為の茶屋がいくつか存在している。
朱門を出ると大通りが広がっていて、主にこの通りを中心に司官のほとんどが家を構えて暮らしていた。南に真直ぐに行くと大裏朱雀城門と呼ばれる城門に辿り着き、ここからが城外。朱門から城門までの移動におよそ半日を費やす。
青年は中の茶屋にも入らずに、門柱に身体を預けている。敷き詰められた石畳がうっすらと濡れていて、はらりと舞った春花の落ちる様を、ただ見つめていた。
付くのは、溜息ばかり。
道行く司官が、見て見ぬ振りを、盗み見るようにして彼の姿を確かめて通り過ぎて行く。その好奇な視線が余りにも不快で、人の集まる茶屋を避けたのだ。朱門を通るには監査が必要であり、通過出来る人間も限られている。門を通り過ぎてしまえば人の気は少ないが、皆無というわけではない。
「前までは……気にもならなかった」
呟く声は決して低すぎず、だが深みのある色声。
俯き加減でさらりと落ちる髪は、季節に合う藤色。
憂いに満ち、だがくもりのない切なげな瞳は森色。
若獅子にも似た、しなやかで優美かつ、経験の薄そうな若さ特有の動作が、元来から持つ美貌と重なって周りの視線を放さない。
「ため息ばかり付いていると、憂欝さが増しますよ。香彩(かさい)」
不意に呼ばれて、顔を上げる。
待人の物柔らかかつ、冷ややかな声色。
彼の姿に思わず視線を奪われる。
独特の流れるような動作と、仙猫を思わせるなめらかな体くばりが、彼の中で機能しているはずの関節や筋肉といった、体の器官の存在を忘れさせてしまう。ただ歩くだけで、周囲の人間に催眠効果のある舞踏を見ているような酩酊感を与えるのは、彼が並みならぬ美貌の持ち主だからだろうか。
「……さっきから絡み付く周りの視線は、貴方がいるからだったんですね。咲蘭(さくらん)様」
「人のことは言えないでしょう? それに……成人の儀の後ですし、本来なら出歩くのはどうかと」
「……可愛い冗談だったのに」
「敢えて無視して差し上げた私の苦労を分かりなさい。その手の冗談はあなたのお父上で充分です」
黒區(こくおう)の瞳で香彩を睨む。
麗国でも類を見ない咲蘭の漆黒の髪と黒區の瞳は、彼の艶美さを引立てるのに充分な材料だ。
咲蘭の言葉に、影響は受けてると思うよ、と香彩が笑う。その笑いの中に自虐と憂欝さが含まれていることに、気付かない咲蘭ではない。
陰陽縛魔師は『成人の儀』と呼ばれる契りを受けることにより、初めて一人前と術社会に認可される。儀式は血縁内の同性と行なわれる。同性の方が、身体を知り尽くしているからだ。血縁内で相手が選ばれるのは、儀式が終われば成人し、保護から外れることを判らせる為。術社会に出て自分の敵を寝台まで上らせる程信頼させ、翻弄出来るように、または翻弄されないように、自分の”力”を悪用させないように、知識の産物と現実は違うことを叩き込まれる。
「……会っていないのですか?」
「会えると、思う……?」
香彩が上目遣いで咲蘭を見やる。溜息を、咲蘭は付いた。
会える訳がない。成人の儀の契りの後なのだ。たとえ会ったとしてもどんな顔をすればいいのか、何を話せばいいのか、分からぬままここに在る。
「……何も変わらないって思ったんだ。何があったって自分は変わらない、そう思ってた。咲蘭様だったらもう……知っているよね?」
成人の儀を済ませてから、自分の中の術力の喪失を知った。それがあの日のことを混々と思い出させ、こんなにも影響を受けていたのだと嗤うしかない。
禊を行い、清めの香を焚いて術力を取り戻そうとした。だが精神的な過負荷をなくさないと駄目なのだと知った。
(……ただ、それだけなのに)
出来ない。
何も考えずに手段を請うような真似はしたくはない。
「今のあなたには酷なことかもしれませんが……香彩」
咲蘭の濁した言い方に、香彩は視線を逸らす。
「私はあなたに忠告をしに来たのですよ。原因が分かっているのなら、早々に術力を取り戻す努力をして下さい。出来ないのではなくて、成さねばならないことをお忘れなく。仮にも日は浅くとも大司徒が術力を喪失したとあらば、城の平定に関わること。他の陰陽縛魔師がどう思うか、判らないあなたではないでしょう? それに……この隙を付け込んで、あの方がどう動くか分かりませんよ。他人の不幸を火と喩えるなら、あの方は面白がって油や藁を投げ込む人です。今頃どこかでよからぬ事を考えているでしょうよ」
「……叶様、ですか……?」
「他に誰がいますか! 幾度とあった問題をことごとく厄介な方へ厄介な方へと運んで、私がどれほど……いえ、そうではなく純粋に」
自分にとって厄介な陰陽縛魔師を潰しに掛かる可能性。
否定は出来ない。
それが叶お抱えの大僕参謀官の言葉なら尚更。
「本当に……真実、何を考えているかは読み取れませんが」
一興と茶を飲んでいることには、相違ない。
2.
「……追い返せ」
官能的な低い声の冷ややかに言い放つそれが、皇宮母屋内(こうきゅうぼやない)大宰私室に響く。彼に仕えている司官が思わず身を竦めた。
「し、しかし紫雨(むらさめ)様。日は浅くとも彼君は”大”の位を持つ司官でして、門前払いは失礼に……し、しかも後で術師団体が何を言ってくるか……」
しどろもどろになる司官を見下し、彼は更に言い放つ。
「安心しろ。我を誰だと思っている? ……あいつに伝えておけ。引継ぎは既に終えているのだから、次の国行事まで会うことはない。力量を見させて貰うとな」
「……かしこまりまして」
一礼をして司官は去る。
それを確認してから、彼は大きく息を吐いた。
ここ、皇宮母屋は麗城中枢楼閣から大庭園を挟んで北に位置する、城主の私室のある場所だ。麗城中枢楼閣を高層の造りにし、朱門からは一切見えないように造られている。全三階から成り、全司官の頭、大宰私室は二階に存在した。
格子窓の桟に乗り掛かり、王者の眼で眼下を見下ろす。一筋の光の様な金糸の髪を掻き上げあらわれたそれは強い光のある眼だ。彫りが深く、荒削りな顔立ちとは裏腹に、憂いと慈愛に満ちる森色の瞳は、彼の感情が深みに出て、ゆらりと揺れていた。
その視線の先には……香彩の姿。
感付いてはいるだろうが、意地になってか振り返ろうともしない。そしてそれを見越した上で、紫雨は香彩を見る。
「おやおや。慣れないことをするから、後で後悔する羽目になるんですよ」
不意に室内に声がした。
反射的に振り返ってしまい、紫雨は舌打ちする。声と気配で誰なのか分かっていたというのに、だ。
「……それは何処から何処までのことを言っているんだ、叶」
「さぁ」
ご想像にお任せします、と口だけの笑みを見せる。
少し無愛想な抑揚のない物言いは叶独特のものだ。
相変わらず悪趣味だな、と紫雨は叶を睨む。本来ならば主従関係にある二人だが、幼なじみのくされ縁という間柄の為縦の関係云々は暗黙の了解と化していた。
「悪趣味ついでに今回の件について、企みでもあるんなら教えてもらいたいものだがな」
「身に覚えが無いですねぇ、まだ」
「ほぉう? 燃え盛る炎に油や藁を入れる張本人がよく言う。好都合だろう。大司徒の術力喪失は、国の安定と安寧を崩す。一見分からないが徐々に護守が消えていく……力≠ノ見張られているお前にとっては良い環境じゃないのか」
「国が乱れては何にもならないですからね。それに次の国行事が『雨神の儀(うじんのぎ)』ですから、もしもそれまでに術力が戻らず、雨神(あまがみ)の機嫌でも損ねたら凶作。大司農が黙ってはいませんよ」
「そういう問題ではない。それこそ国が傾く。何としても避けねばならん」
「会ってあげればよかったのに」
「……いま会ったところで、儀式の数日のちだ。余計に精神的負担がかかるだろう。しばらくは声すら香彩に聞かさない方がいい」
「確かにその通りですが……だからといって何もせずに放っておいて、術力が戻る可能性はどうなんです?」
「だから……何を企んでいるというのだ!」
声を荒げる紫雨に叶は、してやったりと笑う。
紫雨自身分かっていたのだ。そんな時間的余裕など無いことを。
六花が風花となって地に消え、ひとたびの颶風(ぐふう)が春霖(しゅんりん)の雲を呼び寄せると、まどろみのような気候とは裏腹に、肌寒く時折六花の混ざった長雨となる。
雪神(ゆきがみ)と雨神の交替の時期であり、雪神が眠りに落ちている雨神を起こしに行くのだとされている。そして目覚めたばかりの雨神を迎えて讃え、今年の雨を約束させるのだ。
雨神は寝起きが悪い上に、気分屋だ。一度機嫌を損ねると姿を顕(あらわ)さなくなるばかりか、極端な雨の降らし方をするようになる。そして雨神を宥める雪神が居続ける為、低気温が続き、作物の苗すら育たなくなる。
三つ年前、前大司徒が術力減少による力不足の為に雨神が召喚出来ず、怒りを買った。当時はまだ司徒の位にいた香彩によってことなきを得たが、その年の作物の出来はあまり良くなく、昨年の豊作でようやく差し引いて少々余るくらいの余力が出来てきたのだ。
雨神の儀まで日がない。兆しである春冬(しゅんとう)の長雨(ながさめ)は、雪神の意思も持って今朝降りたばかりだ。
古来より儀の吉日は春冬の長雨、覚醒の颶風(ぐふう)が吹いて七つ日後の早朝。会って術力が戻るのならいくらでも会おう。だが逆効果なのは目に見えている。
(では、どうすればいい……?)
(……どうしても術力を使わねばならない情況を、作るな)
俺であれば。
「……やはり、悪趣味だな。叶」
「精神的過負荷による術力の喪失。ならば別の要素を持った過負荷をぶつけてやれば良い。目には目を……とまでは言いませんが、例えば術力が使えなければ」
貴方が死ぬ、とか……?
楽しそうに笑いながら言う叶に、紫雨は頭を抱える。
「少なくとも、幼なじみに対して使う言葉ではないな?」
「愛しい息子の為だと思えば、ねぇ? 術師団体が何かと訝しんでいる様ですし……まあ、あの子の潜在能力のひとつやふたつ、見せ付けてやれば二度と何も言ってこないでしょうが」
「で? 何をすればいいんだ」
「……北東鬼門で跋扈していた病鬼を捕まえてあるんです。精神体で、さほど強くない鬼の一種ですが、今の貴方では自ら落すのは、困難でしょう?」
麗城中枢楼閣最上階、陰陽屏。
「……聞きましたか、例の噂を」
「おお、聞いた。聞いたとも」
「何でも、前大司徒のご子息、香彩様が御力を無くされたそうで……」
「では今度の雨神の儀は誰が?」
「大宰紫雨様しかおらんだろうが」
「だが彼君の力は雀の涙。病鬼すら消せまい。雨神様を降臨させることなどとてもとても……一昨年前から香彩様が務めていなさった理由もそれじゃろうて」
「兼ねてから大司徒には香彩様をと、思うておった。だがこの世界、成人の儀を終えねば認めてもらえぬ。晴れて大司徒と成られたはよいが……」
「力がないのなら意味がない」
「左様。皆が皆、同じ道を通ってきておる。力の無き者は即退位……だが雨神の儀を行なえる者は、ひとりしかおらん」
「困ったものだ……」
「雨神の儀もそうだが……先日、北東鬼門に病鬼が跋扈していたそうだ」
「なんと……。もう影響が出でいるというのか」
「ああ。幸いにもその場に城主がいらっしゃり、ことなきを得たが……」
「御主の御手を煩わせてしもうた、か」
しん、と静まり返る。
術師団体と呼ばれる、今はもう現役を離れた長老達が、陰陽屏に集まっていた。
香彩は彼らの会話を、盗み聞くようにして聞いていた。陰陽屏に用があったのだが、彼らが居たので中に入れず、外にいたら話が始まってしまった。
情けないと思う。本来なら、人の上に立つ立場の自分だ。そういうのは断じて自分に合わないのだと分かっていても、立場的には人の上に立たなければならない。大司徒、と彼らの前に姿を現せば問答無用恐悦至極とばかりに叩頭する。下げる頭の下の表情は、使えぬ奴よと嗤っているかもしれない。
(それに、今は……)
”力”がない。
日も浅い。彼らが自分に何を求めているのか分からないのだ。
腑甲斐ない。成人の儀の後で、周りの自分に対する接し方が変わったというのに、自分は何ひとつ変われないでいる。変わってしまうことが恐ろしいのか、戸惑いを感じているのか。
(……求められていることは、分かっているのに)
応えられない。変われない。どうすればいいのか分からない。
「して、この事は紫雨様はご存じか?」
紫雨、という名に、思わず身体が硬張る。
「……ああ。丁寧な詫びを言って来られたのだが……」
(……詫び……)
複雑な思いに捕われて、香彩は歯を喰い縛る。責任の問われる自分の行いに対して謝罪した、彼への憤りと申し訳無さに、屈辱に似た感情を覚えた。
「どうした?」
「いや……影が見えたようにも思えてな。いつものような生気がなかった……疲れておられたのか、しかし」
「影とは……厄介な物に憑かれなければよいが……」
(……影……!)
香彩は走っていた。皇宮母屋にある大宰私室へ。
階段がもどかしい。力があれば宙に浮かんで行けるものを。
(……会ってくれないのは分かってる。でも……)
詫びたのだと。
影があったのだと。
全て己れの腑甲斐なさの所為で。
皇宮母屋の門に差し掛かる。
暫らく走ったことがなかった所為か、息を整えるのに時間が掛かった。
(昔なら、これくらい走っても平気だっだのに)
背は伸び、体重は増えても、大人になったのは体格だけだ。仕事という物が与えられて、考え方が変わり、行動に責任が付いて廻っても、おのれの根本的なものは何も変化がないように感じるのだ。
荒い呼吸を耳にしながら、香彩はそんなことを思った。
陽は既に空の頂点より西にある。もう一刻もすれば、人を受け入れる東西南北の城門も、守護する四神の気高く高らかな咆哮と共に閉門を告げるだろう。
引継ぎは終えているのだから、次の国行事まで会うことはない。
大宰付きの司官に淡々と告げられ、門前払いされたのはつい先程のことだ。
(……どう思われているのだろう?)
成人の儀を終え、一人前と術社会に認可されて後、大司徒を継承したというのが香彩の表向きの肩書きだが、実際は一昨年に既に位のみを戴いている。術師団体からすれば、成人の儀を済ませて後の継承の方が筋だと思うだろうが、術力の減少の著しい大宰を兼ねた大司徒であった紫雨が、雨神を呼べず、城の平定を傾けた為、急遽香彩に位を引き継がせたのだ。
だが、大司徒が本来持つ式神の四神や、城を覆い尽くす程の甚大な護守の力は成人の儀の契りによって継承される為、香彩はこの春にして晴れて本当の大司徒となったと言えたのだ。
古来より受け継がれ、引き継がれてきた伝承法。ごく一般の、神官と呼ばれる術者達も、血縁者の術力を持って体内に巡り巡って、力が底上げされる。
(たかがあれしきのことで、力を喪失した自分を)
あの人は。
不意に香彩は顔を上げた。
「あ」
全身に力が入る。強ばっていたといった方が正しいか。季節に似合いの藤紫の薄様の官位衣と、流されたままの金糸の髪との色彩が、何とも瀟洒な印象を与えている。会えるとは思っていなかった。心の準備なんかは全くだ。
紫雨と視線が合う。香彩とは違い、深みのある森色の瞳は、ほんの一瞬だけだが、淡く揺れる。だがすぐに刃物の切っ先に似た鋭い眼に変わった。思わず香彩は息を詰める。
何も言えず、何も言わず。
紫雨が香彩の横を通り過ぎる。
(影が……)
弱くて感じ取れにくいが、別の気配が彼には存在していた。
(まさか、もう憑かれているのか……?)
「……む、紫雨っ!」
呼び止めてしまう。咄嗟に出てしまった言葉を止めることが出来ない。
「その気配……その影。病鬼だよね。どうして……」
「それを、お前が聞くのか?」
止まっていた時が動きだしたかのように、静かに紫雨が歩き出す。
「だ、誰かに……治してもらわないと……」
病鬼は徐々に身体を侵していく。妖気は呼吸器官を侵し、抵抗力を低下させ、別の病気を煩わせて、死に至らせる。病鬼と呼ばれる由縁だ。
長老辺りならば、まだ祓える者もいるはずだ。
術者の力は年年歳歳の酷使の経過、全体的に術力が衰退の一途を辿りつつある。力を持つ子供の現出が窮めて少なく、譬え力を備え持っていたとしても極微量で意味の無いものであったり、成人の儀の前に術力の源そのものを喪失してしまう者も少なくはないのだ。
紫雨が振り向く。
切なく痛い笑みを、香彩は見た。
「……そうだな。早く治してくれないと、身体が弱って死んでしまうな。俺が、長老連中に頭を下げてまで、治して貰うような性格だと思うか? こっちが命を懸けてるんだ。お前も命を懸けて俺を治してみたらどうだ」
3.
ゆっくりと目が覚める。
見慣れた木目の天井に何故か安堵の息を付く。
開け放たれた戸から、皓々と嫦蛾(じょうが)の光が差し込んで、蝋燭の灯していない部屋に長い影が出来ていた。
冷気とも清気ともつかぬ、術者の感覚にて分かる神がかりな気が、部屋の中を占めている。
神儀薨香(しんぎじゃこう)と呼ばれる香だ。南は愚者の森に住むとされる白聖蛇(はくひじりじゃ)の抜け殻を香で燻(くゆ)らせ薫くことにより、欲と穢れを落とし、魔妖を追い払う効能がある。
政務のある時間以外は私室にて香を浴び続けて……七日。
本来ならば儀式の前日から薫く筈の香である。少しでも気が紛れればと、穢れが薄まればと思ったのだ。
月と夜空に染められた景色と空気が、何とも澄み渡った蒼色。
誘われるように、裸足のまま外へ……。
土と砂利と草の感触が心地良い。
(……まだ、こんな時間なのに)
目が覚めてしまった。
星がまだ瞬いている。
空を仰いで月を、見る。
夜明けまでは、まだ時間がある。鳥がまだ眠っているから、そう思えるだけだろうか。
(夜明けと同時に、始まる)
雨神の儀。
雨の神を呼び出して、今年の豊作を恵みをお願いし約束してもらう重要な国行事。代理が立つのならとうの昔に立てていただろう。だが現状、雨神を降臨させることのできる術力を持った陰陽縛魔師など知れている。力を取り戻せ、と他方から圧力を受けた。
香彩は正方形の布紙(ふし)を取り出すと、地に置いた。右手の人差し指と中指とで中心を押さえ、左手は胸の前。精神を集中させて"力"が布紙に集まるようにする。
ほのかにだが、指が光る。
見計らって。
震える唇から、紡がれゆく、言葉。
「……宿」
「動……」
「……翔」
「高天(こうてん)、陰陽五空(おんみょうごくう)、真竜御名(しんりゅうごめい)において、今ここに姿を見せよ」
光は……静かに、消え失せた。
式、式鬼を呼ぶ術だ。自分の影に控え、自分の思いのままに動かすことの出来る式。自我を持ち、陰陽縛魔師の下僕となった鬼の式鬼。どちらの反応も無かった。双方、主を選ぶ。今の主の力の無さに出ていく理由は無いとでも思ったのだろうか。
力が、戻らない。
それでも夜明けは、訪れる。
皇宮母屋、潔斎の場。
神木(しんぎ)と呼ばれる清水の気を浴びせ閉じこめた木から成るこの部屋は、全体が”場”の役目を果たしている。洗練された澱みのない空気は、入室した者に背筋を叩かれたかのような緊張感と圧迫感を与える。ここには”何かが”あるのだ。だが、それが”何”なのか、当てはまる言葉が見当らない。ただ、そこに”ある”ことしか分からない。
禊を終え、装飾の一切無い真っ白な陰陽服を重ね着する。竜の第二の魂とされる深い翠の竜珠を百八つ集め、首を一巡するように作られた守護守法数珠(しゅごしゅほうじゅず)を下げ、唇にうっすらと紅を引く。髪は榊をあしらえた緑玉の紐でひとつにまとめ、背にさらりと落ちている。
場へ、香彩は踏み出した。
周りから洩れる感嘆の息を無視して、中央の結界陣の前へ。
ゆっくりと振り返る。
まずは城主に一礼。そして術師団体に一礼。そして大宰に、大僕に、五人の大司官に、一礼。
表情は暗い。曇りのある顔には、不安と虚偽感が入り交じる。無理もない。自分ですら自分が信じられないのだ。それを他人に信じろというのが無理な話だ。
それに。
(皆、知っている……のか……?)
力が戻らなかったこと。
(……なのに、自分はここに立たなければならない。自分以外にここに立てる者がいないと分かっていても)
危惧はされているが、責めては来ない。
責め立てられた方がどんなにいいだろう。失敗は目に見えているのに何故。結果は知れているのに何故。
力は、戻らなかったのだ。
ふと何かに呼ばれる感じがして、香彩は視線を移す。
主君、叶。
その紫水晶の瞳は、森色の瞳を捕らえて放さない。
細められる目。
にぃ、と嗤うそれに何か意味はあるのか。
香彩は振り切るように、結界陣の方を向く。背後で”場”の門の閉じる音が聞こえた。
(始まる)
踏み出す。結界陣の中へ。
「……!」
止(とど)まる。何か嫌な感じが頭から離れない。
(……この感じは、何だ……?)
何だ。何かとんでもないものが。
いる。
香彩が振り向く。視線を紫雨に向けて。
紫雨は胸部の着衣の合わせ目を握り締めていたが、力の込め方が尋常でないことに気付く。周りの者も香彩の視線で初めて紫雨の異常を知る。
病鬼が憑いていることは知っていた。だが、病鬼は病気。それほど強い鬼ではない。
(違う。これはもっと別の……)
「紫雨殿。いかがなされた、紫雨殿!」
「……病鬼か。何故……おっしゃらなかった」
術師団体の長老のひとりが、紫雨に近付く。支える手と祓う手を力強く振り解いた途端に、紫雨は激しく咳き込んだ。
ぼとぼと、と床に広がるそれは紛れもなく。
「……むらさ……!」
駆け寄ろうとした、まさにその時だ。
閉じたはずの門が、勢い良く開いた。
ぞっとする程の空気が外から流れてくる。
そして……。
侵入してきた
もの。
厭魘艶嫣(えんえんえんえん)、怨瘟陰鴛(おんおんおんおん)、厭魘艶嫣(えんえんえんえん)、怨瘟陰鴛(おんおんおんおん)、厭魘艶嫣(えんえんえんえん)、怨瘟陰鴛(おんおんおんおん)。
神経を逆撫でするような鳴哮に悪寒がして、香彩は身を震わせた。背筋に冷たいものが通ったかのようなぞくりとした感覚は、何度か覚えのある己れの生命の危険を、大切な人の生命の危険を報せる合図。
厭魘艶嫣(えんえんえんえん)、怨瘟陰鴛(おんおんおんおん)、厭魘艶嫣(えんえんえんえん)、怨瘟陰鴛(おんおんおんおん)、厭魘艶嫣(えんえんえんえん)、怨瘟陰鴛(おんおんおんおん)。
潔斎の場の、開け放たれてしまった入口から侵入してきたそれは、人の二の腕から手の先にかけての影に似ていた。だが、二の腕の部分が異様に長く、無数に絡み合う蠢蠱を想像させた。
厭魘艶嫣(えんえんえんえん)、怨瘟陰鴛(おんおんおんおん)、厭魘艶嫣(えんえんえんえん)、怨瘟陰鴛(おんおんおんおん)、厭魘艶嫣(えんえんえんえん)、怨瘟陰鴛(おんおんおんおん)。
慌てふためき逃げ惑う人々を術師団体が諌め、固めさせる。的確な判断だと香彩は思った。それを識る者は決して接触してはならないことを知っている。
影招き、という。
何かに憑いて、周りに全ての災悪、禍災をおびき寄せ招き寄せ撒き散らす、最悪の妖だ。普段は川藻の姿をして川の流れに沿って漂っているが、呼ばれると川に投げ込まれた、もしくは向けられた様々な人の怨邪念を全て背負って空を漂い、呼ばれたもの憑くのだ。影招きに接触すると、絡みつく念に罪悪感が刺激され、忘却された苦痛の記憶が甦り、人の心を死に至らしめる。
ぽとりぽとりと落ちる水の音は、影招きの指先から滴るものだ。水滴は洗練された場の神木の床をどす黒く染め、空気を澱ませ、穢す。
腕がどこから始まっているのか、検討すらつかない。絡み擦れる度に、気味の悪い鳴声を上げるのだ。
厭魘艶嫣(えんえんえんえん)、怨瘟陰鴛(おんおんおんおん)、厭魘艶嫣(えんえんえんえん)、怨瘟陰鴛(おんおんおんおん)、厭魘艶嫣(えんえんえんえん)、怨瘟陰鴛(おんおんおんおん)。
その中に聞き覚えのある人の声を聞いた。
忘れたくとも忘れられない官能的な低い声。
「……どう、して……?」
周りの者が異形のそれに気を取られている中、香彩だけが紫雨を見ていた。紫雨は隣にいた大僕咲蘭と、術師団体の長老のふたりに支えられる形で蹲っている。城主を大宰を大僕を、五人の大司官を囲み護るようにして、他の術師団体が前に出た。
「大司徒香彩様、こちらへ! 結界を張ります故」
その中のひとりが声を張り上げる。
だが香彩の耳には届かない。
香彩は耳を澄ますような感覚で、精神と五感を研ぎ澄ました。視線は紫雨を外れることはない。広範囲に広げた敏感なそれは、影招きの穢れにあてられて目眩と頭痛を引き起こした。
音を拾う。
耳を塞ぎたくなるくらいに恐ろしく、気味の悪い鳴哮の暗闇の中を、まるで手探りで判別するかのように。
厭魘艶嫣(いとわれおにのあでやかにうつくしき)、怨瘟陰鴛(おんおんとうらまれやんだはおんみょうのとり)、厭魘艶嫣(いとわれおにのあでやかにうつくしき)……。
おんおんとうらみうらまれやんだはおんみょうのとり。
―蹲っていた紫雨が顔を上げた。
視線が合い、思わず香彩が竦む。
忌み声だ。言葉の呪韻を踏んだ怨詛が、魔妖の持つ気配……妖気となってじわりと染み渡っていく。
術師団体の長老のひとりが蒼褪めた顔をして、咲蘭に向かい何かを怒鳴っていたかと思うと、急に倒れて動かなくなった。事態に気付き紫雨から離れようとした咲蘭を、紫雨自身が首から抱き込み、身動きを不可能にする。
まさか、と全員が思った。
冷静になって考える余裕があったのなら、思考しなければならない事。
影招きは、どうしてこの場に顕れたのか。
(……呼ばれたんだ)
憑く対象となるものに。だが人は影招きを呼ぶということをまずしない。彼らを呼ぶという感覚は嫌な予感≠覚えるそれと酷似していて、人はそれを避けようとする本能がある。呼ぶ前の段階で人は防波線のようなものを張り、拒否してしまうのだ。
人がそれを、望みさえしなければ。
周り者がじりじりと紫雨から後退りを始めた。
結界を張ろうとしていた術師団体が彼に向き直る。
息を飲む者と、詰める者。
香彩の視線は外れない。
城主が嗤ったのを、一体何人の人が見ていただろうか。
厭(いと)われ魘鬼(おに)の艶(あで)やかに嫣美(うつく)しき、怨瘟(おんおん)と恨み怨まれ病んだは陰陽の雛子(とり)
尊び敬われそして、厭われた魘鬼(おに)は美しき美貌をもって艶やかに嘲け嗤う。
鵬雛(ほうすう)たる縛魔の子は、元鵬(げんすう)の怨恨の念に病み、魘鬼は氷様の様をただ嗤う。
影が、立ち上がった。
仰向けに寝転んでいる者が起き上がった動作にも似ていたが、明らかにそれは異形の存在だ。
紫雨の影は、彼を労わり慈しむかの様に彼を長い腕で包み込む。力の無くした手が下り、戒めを解かれた咲蘭の身体が床に落ちた。
影は裂けた口で、声を立てずに静かに嗤った。
ぞくりとした何かが、香彩を襲う。
羽を毟られ蟻どもの中に放り込まれた蜻蛉、足を全て毟られ放って置かれた百足、胸部のみを晒した蜘蛛、そして無数の蠢蠱。元の形を留めることが出来なくなり、餌食と化した姿に人々は奇妙な気分の悪さと、残虐感を覚える。
病鬼、と呼ばれるもの。
(……否)
彼を媒体にして彼の僅かな術力を利用した、精神体の鬼と呼ばれるもの。
厭魘艶嫣、怨瘟陰鴛、厭魘艶嫣、怨瘟陰鴛、厭魘艶嫣、怨瘟陰鴛。
厭魘艶嫣、怨瘟陰鴛、厭魘艶嫣、怨瘟陰鴛、厭魘艶嫣、怨瘟陰鴛。
厭魘艶嫣、怨瘟陰鴛、厭魘艶嫣、怨瘟陰鴛、厭魘艶嫣、怨瘟陰鴛。
だが、その声は。
紡がれゆく忌み声に、意図に、声を上げてしまいたい。
捕らえられ、外すことすら許されない視線。
もう、見ていたくないのに。
(……もう、聞いていたくない……のに)
影が腕を伸ばし、香彩を指差した。真似て、紫雨が香彩を指差す。
「……っ 」
詰まる息。思わず身体が引き攣ったのはそれが紫雨だから。
指先に集まりゆく、見間違うはずのない……。
「……逃げて……逃げて! 早くっ!」
術力。
視線を振り切って、香彩が叫ぶ。
周りにいて、事の状況を判断出来ずにいる大司官達に。
状況に、自分の中の常識が追い付かない術師団体達に。
「……早く!」
「……モウオソイゾ、カサイ」
先程とは違う、冷たいぞくりとした何かが香彩の中を通り過ぎる。
敏速に振り返ったその先に。
立ち上がった紫雨の姿。
「 ξ 」
声が力ある言葉≠ニなって潔斎の場に響き渡った。
香彩とよく似た種類の術力の波動の中に、ひどく穢れた怨詛が病鬼の妖気と混ざって、水面の波紋の様に潔斎の場に広がっていく。
状況を理解した術師団体のひとりが恐ろしさを声に隠せないまま、次々と出口に向かって走り出した。大司官達も訳が分からぬまま、後に続いた。
刹那。
宙を漂っていた影招きの動きが止まった。
香彩はこの微妙な人の動きのずれに、奥の歯をぎりりと噛み締めた。
意思を持たされた影招きは、動いているものに反応して襲い掛かった。苦悶か絶叫か発狂かを思い起こす人の引き攣った声は、見ている者を混乱させるのには充分な材料だ。
まさに阿鼻叫喚。
影招きに触れられ影に貫かれた人々が、頭を抱え目を覆い、涙と唾液を垂れ流して泣き声とも叫び声ともつかぬ声を上げている。
厭魘艶嫣、怨瘟陰鴛、厭魘艶嫣、怨瘟陰鴛、厭魘艶嫣、怨瘟陰鴛。
厭魘艶嫣、怨瘟陰鴛、厭魘艶嫣、怨瘟陰鴛、厭魘艶嫣、怨瘟陰鴛。
厭魘艶嫣、怨瘟陰鴛、厭魘艶嫣、怨瘟陰鴛、厭魘艶嫣、怨瘟陰鴛。
忌み声は止まない。
(どうして、なんだろう?)
(どうして、こんなにも)
怨まれている?
怨まれていた?
再び紫雨と視線を合わす。
紫雨はゆっくりと、だが確実に、一歩、一歩と香彩に歩み寄る。まとわりつく彼の影は、長い腕を更に伸ばして香彩の頬に触れた。感触が彼のそれと余りにもよく似ていた。影のくせにと心の中で毒突く反面、その感触に流されてみたい気分にもさせられて、泡立つ感情がやけに腹立だしく思えて仕方がない。
青白い光が影の手を撃った。
微量の術力を発動させたのだ。
驚いたのか、影は腕を初めの長さに戻し、香彩を威嚇する。
「……コバムノカ、オマエモ 」
その声が忘れられないのだ。
「 ξ 」
力ある言葉≠ノ反応して影招きが動き。
一斉に香彩に襲い掛かる。
香彩は胸元から祀祗の札を取り出した。雨神の儀に使う予定はずだった召喚の媒体品を指に挟み、もう片方の手で印を結ぶ。
「 ξ 」
ほのかに祀祗の札が彩りを見せた。
青白く洗練された光は術力の顕れだ。
「オンアボキャベイロシャナウ……マカボダラマニ ハンドマジンバラ ハラバリタヤウン……」
影招きと紫雨との周りに広がる寂静の波動。
(……このまま、どうか)
消えてくれるな。
「オンアボキャベイロシャナウ……マカボダラマニ ハンドマジンバラ ハラバリタヤウン!」
香彩は祀祗の札を影招きに向かって投げた。
札は術者の意思を持って真っすぐに突き進む。
だが。
目の前に迫る影招きの滅びの手。
(ひか……り、が……)
「あ」
痛みを伴わない心の痛みが香彩の中を走る。
胸の中を貫く災厄の影。
「い、や……だ、っ……!」
光は何かに遮られたかの様に静かに消えていったのだ。
叶は、ただ見ていた。
人々が逃げ惑うその姿を。
叶は、ただ聞いていた。
人々の狂気の絶叫を……香彩の叫ぶ声を。
所定の位置に座ったまま。
彼らが叶を襲うことはない。我らが神に、誰が好き好んで憎まれようか。
「……分かっていますよ」
天を仰いで呟く。
「あなたが目をかけているのは分かっていますよ。ですが……」
全ては我が手の内。
荒療治は必要でしょう?
彼は六花(りつか)に似た綺麗な冷たさで、艶やかに氷様の様を嗤ったのだ。
4.
闇の中にいた。
闇の中で漂っていた。右も左も上も下もない、感触や感覚すらない空間の中を、漂いながら待っていた。極刑前の囚人のような気持ちは、ここへ来た時から思っていたもの。
活劇が始まるのだ。
そして自分はそれを強制的に見せ付けられる。
ホギャアアアア、ホギャアアアア、ホギャアアアア、ホギャアアアア。
どこからともなく聞こえてくるのは赤ん坊の泣き声。
聞いている者の顔を引き攣らせるような、尋常でなはいその。
声。
幕が開いた。
揺さ振られている。
身体。
鋭い痛みの中に、序々に生まれ逝く遠い記憶と快さ。
(……このまま、どうか)
何も思い出さずにいたらいいのに。
覆い被さわれた体勢が、過去をどうしても忘れさせてくれないから。
既視感。
あの狂気。
「……ければ……よかっ……」
耳元で囁かれた言葉は掠れていて。
だが聞こえてしまった。
オマエナンカウマレテコナケレバヨカッタ。
香彩は手に持っていた榊を強く握り締めた。枝と葉が乾いた音を立てて、折れた。着ていた筈の白衣は気付けば身体を敷く敷物と化し、榊とともに握られて皺を作った。
焦点の合わない視線は過去を見ている所為。
あの狂気。
香彩の手は白衣に負けない程、白く変色していった。
力の込められた拳は、揺さ振られる痛みに耐えているだけではなかった。
理不尽な怒りと、悲しみの嗚咽。
流れる涙の理由は、もうこれしかないというくらいに。
彼に対しての悲壮感で溢れていた。
自分の中で何かが弾けて、そして。
(……消えていった……)
彼の言葉は聞こえない。
自分の中のもうひとりの自分の声を聞くのに精一杯だった。
満ちる月の皓々とした光が、部屋の中に長い影を落としていた。小さな虫と夜鳥の声が清廉とした夜の気配の中に燐と存在していて、夜気の中に彩りの様なものを付けている。
まだ生まれて間もない赤ん坊が、広い部屋の中にぽつりと寝かされていた。
その横には、十を過ぎた頃の少年が赤ん坊を見守るかのように座っている。中途半端に伸び放題の髪は、金糸。その瞳は吸い込まれそうな深い森色で、慈愛と狂気を讃えていた。
(全て我の罪だ……)
どこからともなく聞こえてくるのは、幼きその子供のもの。
(罪だ……我の)
非道く儚く、そして悲しい声。
(我と結んだ契りは、貴女を黄泉への旅路へと導いた)
子供は赤ん坊の首を掴む。
序々に、だが確実に込められる力。
その泣き声は尋常ではない。生命力は訴えている。
痛い、苦しい、辛い、お願いだから、もう。
その。
凶器。
驚喜。
狂喜。
狂気。
くるってしまう。
あなたが僕の所為でくるってしまう。
くるいゆくあなたを、途切れそうな意識の中でずっと見ていた。
泣きながら。
(いらない。こんなものいらない。貴女さえいれば何もいらなかったのに。罪だ、これは。我の罪だ。お前さえいなければ、お前が男児でさえなければ )
罪には問われなかった。
泣き声は次第に弱まり。
聞こえることはない。
目を閉じても、耳を塞いでも香彩の中にある記憶は幾度なくと甦り、幾度となく見せ付けられた。いやだいやだいやだいやだと無意味に叫んで藻掻いて、
足掻いてもこの喪失地獄からは逃げ出せない。
解決して和解を果たした現在でも、事実は真実でもあるから。
(昔、あの人が、僕を殺そうとした)
術社会の最高峰。麗国は北部を長い間本拠地とし、現城主を受け入れず独自の社会を造り上げて来た血族……河南。
河南の血筋の者は、その特殊ともいえる環境の中を当然の常識として暮らしている。河南の強大かつ甚大な術力は、本来ならば女性のみに宿るもの。彼女達は巫女と呼ばれ、家≠フ血筋を守るため家≠ノ縛られている。巫女は女児を産むことを前提に生かされている。女児は巫女の力≠全て受け継ぎ、成長と共に元ある力≠底上げするのに対し、男児は雀の涙ほどの力≠オか受け継がないどころか力≠サのものを消滅させてしまう為、男児を産んだ巫女と通じた男は、罪として 家≠サのものに殺される。
香彩の母であった巫女は、河南の血族の中でも類を見ない程の甚大な術力の持ち主だった。本来なら力≠消滅させてしまうはずの男児は、巫女の力≠ニ父親の力≠吸い取るようにして
今ふたりが在るのは、妻であり母であった巫女が自らを犠牲にして、南の城主に助けを求めたからだ。
闇の中で何度も何度も何度も見せ付けられる。
覆い被され、見下げられた体勢。
その仕打ち。
耳に吹き込まれるあの言葉。
首にかけられた手の感触。
泣き叫ぶ赤ん坊の、思わず耳を塞ぎたくなるような引き攣った声。
弱まり、ついにそれが聞こえなくなった。
自分の中で何かが消えていった。
そう消えて。
無い。
無。
(……何が、消えた?)
(何が無くなった?)
力≠セ。
殺されるはずだった自分が生き永らえているのは、この力≠ェあったから。
存在価値。
生きているだけ、だなんて自分が許せない。
自分が無くなっていく、消えていく。
(……求めているものはなんだ?)
苦楽の暗闇は現実の世界とさほど変わりはない。
求めているものと。
求められているものと……壊れるのは誰?
「いい加減におし! 自分を痛め付けて何が楽しいかえ」
闇の中に一筋の光が差したかと思うと、まるでその黒さを払うかのように、
煌煌とした鮮明なる白が辺り一帯を塗り替えた。胸の奥に感じるようになった鈍い痛みは、内に在る影招きが苦しみ藻掻いている為に生じるもの。
香彩は暫らくの間、目を開けれずにいた。何が起こったのか判別すらつかずに、眩んで痛む目ばかりに気を取られている。
「情けなや。ほんに、情けなや。影招き如きの毒に犯られ、病鬼も消せぬとは……ほんに愛しゅうて手も出したくなるわな、雪の!」
「水の。お前は助けに来たのか、それとも陥れに来たのか、どちらだ?」
「分かり切ったことを聞くでないよ、雪の」
聞き覚えのある声に信じられなくなって、目を開けた。
光に慣れない目は、視界を朧気だが見せてくれる。
ふたつの巨大な御身の影。広げる翼は蝙蝠の様。
真竜、と呼ばれ謳われるもの。
「……陥れに来たのか?」
「雪の。もう黙っとりゃ!」
ようやく目が慣れる。感覚もだんだんと戻ってきて香彩は、今自分がぺたんと座り込んでいることに気付いた。おとがいを上げて上目遣いで彼らのやり取りを見ていた香彩は、思わず笑ってしまっていた。
彼らは人に近い姿をしているが、影まではその本性を隠せない。
雪神と水神。
漆黒の髪に瞳、黒づくめの着衣を着ているのは雪竜。
対のような銀の髪に瞳、白づくめの着衣を着ているのは水竜。
「笑っておる場合かえ! 情けなや。真実を知っておるくせに、何故見ずに自らを貶めておるのだえ」
「……ち、ちょっと待って下さい。どうして御二方が……」
「これだ。これが覚醒の颶風に乗って我らのところに来た」
雪神が差し出したのは祀祗の札。
「お前の強い念が込められていた。我々はこの札を媒体にお前の中へとやって来れたという訳だ」
香彩は祀祗の札を受け取った。
本来ならば段取りを踏んだ上で、召喚されるべき尊い存在だというのに。
あの雨の日のことが蘇る。
「……実のところ、傍観を決め込むつもりでいた」
淡く微笑む雪神の複雑な心境を、なんとなくだが香彩は分かっていた。
「あの方の描かれた台本を汚すことに成り兼ねないと、思っていたのだが……
お前がお前でなくなれば、我々もお前を通じて人に干渉が出来なくなる。それだけはなんとしても避けたかった」
「そう難しいことを並べるなえ、雪の! 要は香彩が心配だったのだろうが」
「……」
「あの方は何も言って来ないよ。この子がいなくなって一番困るのはあの方え」
水神はそっと香彩の額に触れる。
「影招きの毒に随分やられてるだなえ。暗闇の中にもう一度帰りゃ。真実を知っているのなら逸らさずに見ることだえ。繰り返される悪夢の中は、自分が知らない人の思いも隠されているからえ」
冷気が香彩の中に入り込む。耳の奥で囁くのは様々な水の音。
「忘れるでないよ、この音を。お前を護るものだえ」
香彩は瞳を閉じる。
再び訪れる暗闇が感覚を全て奪っていった。
幾幾度度に繰り返され、見せ付けられている記憶は、自分の中の影招きが焦りを見せているのだろうか。見せるだけではなく感覚を蘇らせ、まるで体験しているような錯覚を引き起こした。
「……ければ……よかっ……」
官能的な低い声が、掠れている。直接耳に吹き込まれる吐息と言葉に、ぞくりとした何かが香彩の中を通り過ぎた。泡立つ感情は既に終わりを告げて、全神経は下肢にある。揺さ振られる身体は鋭い痛みと快い記憶を生み、やがて逝く。何も考えられなかったのだ、先程までは。
「お前なんか、生まれて来なければ良かった……」
香彩は目を見開く。
焦点の合わない目は、紫雨を通り越して遥か遠くを見ている。
その狂気。
(忘れるでないよ、この音を)
それはお前を護るもの。
力を込め過ぎて白くなった香彩の拳の上に、重なるのは紫雨の手だ。
「生まれて来なければ、お前は辛い人生を歩まずに済んだ。だが、俺はお前がいてくれて良かったと思っている。お前が生きがいだ。俺はお前をずっと見続ける。これは俺の我侭だ。お前が生きていてくれたことが、生きていることが俺の何よりの幸せだ」
自分に捕われて聞こえなかった思いが、何物にも邪魔されずに伝わる。
「だがお前は……俺の過去に振り回されて、心身を俺に偽り続けてきた。お前の幸せを、考えてやる余裕が、俺にはなかった」
香彩は首を横に振る。
そんなことはなかったのだと。
幸せだと。
伝えたい。
香彩の胸の中で今まで無くしていた温かいものが、埋められていく。
そんな気がしたのだ。
確実に込められていく力は、元々意思など持っていなかった。愛しさと憎しみは反転して彼を襲ってしまった。取り返しのつかない裏返し。
(いらない。こんなものいらない。貴女さえいれば何もいらなかったのに。罪だ、これは。我の罪だ。お前さえいなければ、お前が男児でさえなければ罪には問われなかった )
首にかかる手の感触は、何年経っても忘れることはない。
狂喜。
狂気。
香彩という存在が、幼い紫雨を狂わせる。代価は余りにも重い物だった。罪は罪を呼び、償うどころか侵すばかりだ。
赤ん坊が悲しみに満ちた声で、泣き叫んでいる。
やがてその声は掠れ。
消えていった。
澄み渡った夜空に冴えた月の皓々たる光が、ぐったりとした赤ん坊と、息も絶え絶えに荒く吐いた少年の姿をうつしていた。夜さりつ方も深更。誰も部屋を訪れる者はない。
(忘れるでないよ、この音を)
これはお前を護るもの。
震える手が、恐る恐る赤ん坊の首を放す。両手を眺めて握り締める。
泣かない赤ん坊。
この両手。
交合にそれらを見やって彼は。
「あははははははははははははははははははははははははははははははははは」
嗤う。
己れの愚かさに。
己れの腑甲斐なさに。
何故こんなことをしなければならなかったのか。
だが香彩にとってそんなことはどうでも良かったのだ。
彼はどうすることも出来ぬまま、嗤っていた。やがてそれが涙交じりの声になり、ついには慟哭に似た悲鳴を上げた。
「……何故泣いているの? 君が望んで行なった行為なんでしょう?」
気付けば彼の目の前に赤ん坊を挟んで幼い鬼子がいた。彼は驚いた顔をしていたが、すぐに俯くと首を横に振った。
鬼子は赤子の額に触れる。
ほのかにその一点が明るみを見せ、消えた。
するとどうだろう。赤子は火の付いたように泣きだした。
反射的に彼は鬼子から赤子を奪い、抱いた。
強く、胸の内に。
「……この子は覚えているよ、きっと。忘れていく記憶の中でも、何かのきっかけで違和感を残したまま、ずっと」
鬼子の言葉を彼は黙って聞いていた。
罪は増えた。
「!」
今までけたたましいくらいの声で泣き叫んでいた赤子が急に泣くのを止めた。
何があったのかと彼が赤子と顔を合わせる。
その短い腕を、伸ばして。
その小さい手を、広げて。
けたけたと、赤子は彼に向かって笑ったのだ。
彼は再び視界が緩むのを、静かにやり過ごす。
唯一彼女から残された者だから。
将来、怨まれても詰られても構わない。
「……一緒に……居たい……」
香彩は伝えたかった。
今も一緒にいるよと。ここにいるよと、伝えたかった。
胸の中の空白が埋められていく、そんな感じがしていた。
暗闇が音を立てて硝子細工のように割れた。
足元に散らばる暗闇の欠片を踏みしめて、香彩は探す。
光輝く自分自身を、その存在価値を。
その空間をどれだけ歩いただろう。
探し物は、どうして今まで気が付かなかったのか不思議なくらい、目立つ場所にあって、月のような冴え冴えとした洗練された青白い煌りを放っていた。
手を伸ばして抱き締める。
ゆっくりと胸におさまった。
刹那。
空間を恐ろしいまでの神々しいひかりが包み込んだ。
それは今まで香彩の中で眠っていた甚大なる術力の顕現の証だったのだ……。
5.
麗国大裏蒼龍城門。
今朝の太陽は少し顔を見せただけで、すぐに龍王雲の中に隠れてしまった。
後に降りだした雨の、無数の細かな水滴が、辺りをぼんやりとした単色な風景に変えてしまう。まとわり付くそれと、蒸せる様な雨の匂いに、普段なら嫌気が差すだろう。
だが、今朝の雨は違うのだと、東の城門を守る刑官は誇らしげにそう思った。
降らせているのは雨神と呼ばれ謳われるもの。
かの神が、場に顕れ出でる為に降る、神聖な雨。時折六花が混ざるのは、雪神と呼ばれ謳われるものが、まだこの地に降りているからだ。
刑官は寒さに身を震わせながら、ふと城門を見上げる。
ひっ、と悲鳴とも似つかない息を詰めた声を、彼は発した。
この城門を含めた計四つの門は、麗国麗城の要だ。北は玄武、南は朱雀、西は白虎、そして東には蒼龍と呼ばれる大司徒の式が門に宿り、強固な結界を造り上げて城を護っているのだと聞く。
刑官の仕事は、人の監査と門を守ることだ。
だが。
目が合った。
謳われる強大かつ巨大たる勇姿。
優美な曲線を描くその蒼き龍身。
門に彫られたものを自分は幾日と見てきたというのに。
まるで重さを感じさせない動作で、門上に蒼龍は在った。
首を空へと上げ、何かに応えるかのように吠える様を見て、刑官は思わずその場に平伏した。
驚愕と感嘆と畏怖、そのような感情が彼を支配していた。
同刻。
大裏玄武城門、大裏朱雀城門、大裏白虎城門にて、それぞれの式が門上に顕れ、空に向かって鳴啼する姿が見られた。その様子はお互いに褒め称える様であり、何かに応答するようであったという。人々は東の刑官と同様、その姿に畏れと親しみを感じ、彼らが消え行くまで平伏した。
水面の波紋の様に広がった黒燿の穢れが、無音の最中に霧散する。はじけて消えて生まれ行くものは、洗練された青白いひかりだ。
叶は無意識の内に拳を強く握り締めていた。
そんな自身に気が付いたのは、手の甲に重ねてくれる優しい手があったが為。紫闇(しあん)の血が床にぽとりと落ち、穢れを作ったがそれは、清々しいまでの洗われたひかりの中に掻き消えた。
「……苦しいのでは、ないですか……?」
囁くように彼は言う。
鋭利な物に刺されて尚、抜き差しを繰り返されているかの様な胸の痛みは、しばらく治まりはしないだろう。だがこの心地良さと背中合わせな苦しさを隠すことぐらいは出来る。表情に表すことなど、民の不安を煽るだけだ。
(そう、所詮は)
所詮は妖の身。
笑顔を、叶は見せた。
「……大丈夫、ですよ。咲蘭」
名残惜しそうに、手が離れる。
さらり、と咲蘭の黒區の髪が揺れた。叶の顔を覗き込む様にして見る、彼がいる。その黒區の瞳に映し出される、虚偽に汚染された王の笑む姿。
「つくりわらいは、大司徒(あの子)でもう充分ですよ」
咲蘭は低く呟いた。
「あの子の一番辛い時に、一番辛い圧力を掛けさせた貴方に少々怒りを覚えましたが、本当に怒りを覚えたのは、そんな圧力を掛けられてると知りながら、泣かず喚かずに私に嘘笑を見せた……」
香彩にです。
咲蘭は振り返る動作を見せた。その視線の先には、ゆっくりと立ち上がろうとしている香彩の姿がある。
この潔斎の場に広がる不変無き神々しいまでのひかりは、全て香彩の内から生じる術力と呼ばれるものだ。成人の儀を経て、底上げされた力は歴代の大司徒の中でも類を見ない程大きいと思われる。
現に先程まで穢れていた空気も既に無く、宙を漂っていた筈の影招きは、香彩の術力顕現と同時に影を薄くし、消えていった。国の護守が働いた為だ。
象徴たる四門の式達の誇りに満ちた高らかな咆哮が、今にも聞こえてくるかのようだと叶は思った。
嬉しくも、何とも忌ま忌ましい。
だがその思いは咲蘭には見破られていたらしく、叶は「……済まない」と彼に謝罪した。
咲蘭は小さく息を吐き、
「貴方に謝られる程、誠意の無いものは無いんですよ? 貴方は一つの出来事に対して得られる効果を読んでいる。貴方に決定権はないですが、最終的に決めるのは貴方自身」
そのまま香彩に向かって歩む。
つ、と立ち止まり、
「……私は、貴方が恐ろしいですよ」
肩越しにそう言い、今度こそ振り返らずに香彩の方へと歩いて行った。
叶はそんな咲蘭の背中を見送り、小さく呟くのだ。
「わたしには、あなたの方が恐ろしいですよ」
最愛たる忠臣に無関心になられる程、この世に怖い物は存在しない。力や権力だけでは人を手に入れるどころか、強く押せばどちらにでも倒れる薄い壁の様な、欺瞞だらけの信頼しか残らない。
「そして……それらは稀に刃と化して、己れに突き刺さる。……力のある、あなたには耐えられるでしょうか? 香彩」
天地(あめつち)たる詞(ことば)がある。
水は昼も夜もとどまるところがなく、高きを流れ雨露となり、低きを流れて河川となり、至高の善をなす。
川逍遥(かわしょうよう)に浸り、人の生き様を譬え、瑠璃の中の流れ落ちる冥(うみ)の海神(わたつみ)に祈りを捧げる。
雨気(あめのけ)漂う雲中(うんちゅう)に真竜の姿を思い、霧は謳われるものの吐く気吹の狭霧。
耳の奥で聞こえるのは、姿を変える様々な水の音。
香彩はゆっくりと、森色の眠る瞳を開けた。
潔斎の場だ、と認識が出来たことに香彩は安堵の息を吐く。辺りを見渡せば床を染めようとしていた黒燿の穢れが浄化され、無数の蠱のように絡み合っていた影招きが消えていた。
消したのだ、力≠ェ。
「……っ!」
香彩は両の手の平の見る。ひかりは術力の顕れ。溢れ出る自分の力に思わず手を握り締めた。自分の力を隠すかの様に。
影招きは川に投げ込まれた人の邪怨念を蓄積して成長し、呼ばれなければ出てくることはない為、大量の念を背追い込んでいることが多い。人の念は魔妖のそれ以上に厄介なもので、段取りを踏んだ上で儀を終えなければ消えることはないのだ。その上、影招きとなれば全ての災悪、禍災を誘き寄せ撒き散らす性質も持っている為、尚更儀が必要となる。
(……それが、ただ力≠取り戻しただけで、消してしまった)
恐ろしい。
香彩は不意に何かを探す様な動作を見せた。周りには術師団体の十数人が、点々とした場所で気を失っている。大司官も何人かは逃げ出せた様だが、ほとんどの者が動かずのまま気を失っていた。
冷えた思いがした。もしかするとこの中には心の色を失った者がいるかもしれない。
術力を失ったのも、選択を謝ったのも、この自分なのだ。
「見事に力≠取り戻しましたね、香彩」
悠然とした落ち着いた声色が響く。
「流石は期待の大司徒、と言ったところでしょうか?」
「……咲蘭様!」
香彩は頭を振る。
「もう、何も……落ち度は全て香彩にあります故」
「ええ。あなたの落ち度は力を失った時点で明白です。引き起こした事柄全てと言えるでしょう。あなた自身の行なったことですから、あなたが一番よく分かっている筈です。香彩……あなたの口からそんな愚かな言葉が出るとは思いもしませんでした」
戸惑いを香彩は見せた。だが咲蘭は表情を変えず淡々と話す。
「全てが終わる前に吐く言葉ではないと何故分からないのです? 何よりあなたは皆を……いえ、我が城主を危険に晒したのですよ? まずはするべきことがあるのではないですか?」
「…………」
言葉を紡げずにいる香彩を咲蘭は、ひたむきに見つめていた。
周りでは気を失っていた者達が目覚め、まだ意識を取り戻していない者を介抱する動きがあちらこちらで見られるようになっている。そんな中、咲蘭の芯のある凛とした口調は、視線を集めるのには充分すぎる材料だ。
「……そう、急くな。咲蘭」
官能的な低い声。
それが頭の上から降ってきたとあって、咲蘭が敏速に振り返る。香彩は視線を合わすことをせず、彼の胸の辺りで止めた。
「紫雨……あなた、身体は 」
「多少気分は悪いが……妖気抜きをせんとな」
「……病鬼はどうしたんです 」
「あれは消えた。元々はさほど強くもない精神体の鬼だ。影招きが消える程の力の中で、あれが存在出来る筈もあるまい」
くつくつと紫雨は笑う。
だがまだ本調子でないことが、顔色の悪さから見て取れた。
「……そう、香彩ばかりを責めるな。城主を危険に晒したと非難するのなら、城主を前に護りを取らず我先にと逃げ出した術師団体の大半と、一口乗った俺と、情況を悪い方へ導いた城主も非難せねばならんだろうが」
「…………」
一瞬、咲蘭はきょとんとした表情を見せたが、
「……一興と、茶を啜っているだけでは物足りなかったのですか、貴方は 」
ほぼ全てを察した顔で、叶の方へと戻っていった。
面白そうだと言いだげに、紫雨の視線が後に続く。
あ、と香彩は小さく呟いた。
深い経緯は分からないが、大筋が自分の術力を取り戻すためのものだと分かってしまったのだ。
香彩の小さな声に紫雨が振り向く。
視線が、合った。
紫雨が無言で、香彩の肩に手を置く。
勇気付けるように。
そして。
「聞かれよ、皆の衆! 見られたか、この術力を。病鬼を消し、あの影招きまでも消し去り、穢れを浄化した、
この力強さを! 身贔屓だと思われても構わない。だが謳われるものは決して彼を見捨てはしないだろう。
ここに願う! 彼こそは大司徒に相応しいと思う者は、拍手を!
ここに願う! 拍手を!」
官能的な声は、周りの喧騒を一掃する。
静寂が続いた。
痛い静けさだと、香彩は思った。
やがて……。
その小さな喝采の知らせは。
門を護る四神の式の鳴啼とともに。
潔斎の場に割れんばかりの拍手喝采へと変わった……。
終
-
-
■作者からのメッセージ
どうぞよろしくお願い致します。