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『愛の籠児』 作者:西序 / リアル・現代 サスペンス
全角8392.5文字
容量16785 bytes
原稿用紙約23.8枚
人間の限界が切れたときを描いた小説です。


 日が西の地平線へと沈んでいく中、僕はリビングでソファに腰掛け小説を読んでいた。夏の暑さに居心地の悪さを覚えながら、一行ごと目を通していく。小説は衝撃のどんでん返しを迎え、エピローグ部分に入っていた。
 次のページに進むため紙をめくろうとした時、人の気配に気がついた。僕は組んでいた足を入れかえてから、ゆっくり顔を上げる。買い物袋を両手いっぱいにぶら下げ、三村靖恵がリビングに入ってくるところだった。靖恵の細い体は上下し、うしろに束ねられた髪は乱れ、小さな目を瞬かせていた。今年で三十三になる靖恵は、重労働に軽く息を切らしている。
「おかえり、母さん」
 習慣により身についた言葉が、自然と口から洩れた。しかし、僕はこの人を母さんだと思っていないし、事実、本当の母親ではない。また、小さいころから育ててもらった恩も、あまり感じていない。僕は靖恵に向けた視線を、再び本の方へもどした。
「ただいま」
 靖恵は小さく答えると、買い物袋を持ったまま台所に入っていった。冷蔵庫をあけ、何かを出し入れするような音が耳に入る。
これから晩御飯を作るのだろう。壁に掛けられたアナログ時計を見ると、七時ちょうどを指していた。靖恵と向かい合って食事をすることを考えて、少し嫌な気持ちになってくる。母親でもない人と、さも母親と思っているかのように接さなければならないからだ。
 僕が靖恵を母親と思わないのは、血がつながっていないからという単純な理由だけではない。理由は分からないが、僕を縛りつけているからだ。
 十五歳という年齢でありながら、僕は学校というものに行ったことがない。靖恵たちの手によって、行かせてもらうことができないのだ。
 それどころか、家から一歩たりとも出ることが許されない。この家の全ての窓は、レースのカーテンがずっと閉まりきりになっていて、外から中がはっきり見えないようになっている。すなわち隔離されているというわけだ。そんな僕が学校という存在を知ることができたのは、テレビのおかげであった。
 テレビはいろいろなものを教えてくれた。外に出なくとも、ある程度の一般常識は得ることができる。自分の状況が異常だということも知ることができた。だから、僕はテレビが好きだし、テレビの世界に憧れのようなものも抱いている。最近は、不倫なんていう言葉も、ドラマを見て覚えた。
 とはいえ、テレビを見て理解できないこともある。世界とはなんだろうか。僕のいるこの家も世界に属するのだろうが、ここだけは歪んでいるような気がする。犯罪は悪だろうか? 我慢できないことを爆発させることがそんなに悪いのか。おかしいのは周りで、僕だけは正しいという観念が僕の中にはある。なぜ刑事ドラマは、最後に犯人が捕まえられなければならないのか。死ぬことって、そんなにつらいのか。
 ちなみに、学校に行っていないといっても、勉強をしていないわけではない。毎日、靖恵や、彼女の夫の弘道が勉強を教えてくれている。そして、いろいろな本を買ってもらえる。
 とはいえ、外に出てみたいという気持ちは抑えられなくなってきた。僕を育ててくれた靖恵や弘道が本当の両親ではないと分かってからは、特に。なぜだか外に恐怖のようなものを感じるけれど、テレビに映るような、あこがれの世界がそこにあると僕は信じている。
 本当の両親でないと僕が気づいていることを、二人は知らない。心の中では、「靖恵」、「弘道」と名前を呼び捨てにしていることもだ。
 本当の両親ではないということを知ったのは、今から三年前、僕が十歳の時だ。テレビ番組で、血液型占いを見たのがきっかけだった。血液型、という言葉は、ほかのテレビ番組や靖恵たちとの会話で聞いたことがあったようには思えなかったが、どういうものなのか僕はちゃんと知っていた。僕はA型だ、ということもすっと頭に浮かんだ。
 そのとき隣にいた靖恵に僕は尋ねた。お母さんは何型? と。少し考えてから靖恵はあわてた素振りを見せ、質問をはぐらかし教えてくれなかった。僕は靖恵のその態度を不思議に思ったが、テレビを見る靖恵の目の動きで、何型か見当がついていた。翌日、家の中で見つけた身分証で、やはり彼女はO型だと確信した。
靖恵の夫の弘道もその場にいたのだが、彼はB型の運勢が一番だったことを無邪気に喜んでいたから、血液型を察することは非常に容易だった。
 このときはさして不審には思わなかったが、数ヵ月後にある本で血液型の遺伝について知り、気付いてしまった。B型とO型の間にはA型の子供は産まれない。つまり、
――僕はこの家の子供ではない
 非常に衝撃的で、頭の中がぐわんぐわんと揺れた。大切なものを傷つけられた心地がし、心の底から「母さん」「父さん」と呼んでいた記憶は、あっという間に遠くへと追いやられた。大粒の涙がこぼれた。十二歳の子供が耐えられるようなことではなかったのだ。
 すると、涙にかぶさるように、いつか起きたはずだがこれまで忘れていた記憶のようなものが、波のような抑揚をつけて、脳内に飛来した。
 それは無数の声。混乱する頭に追い打ちをかけるように、何かが、ぶつぶつと呟かれた。声は重なり、衝突した。奇妙な響きが次々と舞い起きた。
 やがて、無数の声はうなりとなる。うなりは僕を強く揺さぶり、何かの感情を激しくかき立てた。あまりの高揚感により、頭皮から足もとまで、汗でびっしょりになった。
そんな中、ふっと、ささやかれるような、はっきりとした声があった。
(いいか。お前は――) 
ささやきは、重く、暗いものだった。この意味不明な言葉は、なぜか僕の胸をぎゅっと掴み、ひねりあげるような苦しみを与えてきた。うなりはより強いものとなり、ガンガンとした鋭い痛みのため、頭を抱えてうずくまらざるをえなくなった。
この状態が長く続いていたら、きっと僕は狂ってしまっていただろう。だが、雲間から差し込まれる一筋の光のように、すっと生まれた別の小さなささやきが、僕の中の暗闇を静かに照らしだしてくれた。それはどこか温かく、優しそうな声だった。
(私たちは――よ。)
 瞬間、頭のうねりは止まった。全身を柔らかく包み込まれている感じがしたのだ。救いの手をそっと差し伸べられ、もう、これで大丈夫とあやされているような。涙もいつの間にか止まっていた。
 この日以来、週に一度くらいのペースで、うねりとささやきが起こるようになった。内容はいつも同じ。さんざん苦しんだあと、二つ目のささやきによって救われるのだ。
 ささやきの後に続く言葉を、僕はまだ、思い出せずにいる。でも、二つのささやきは、いつの日か、どこかで聞いた言葉だということを、僕は確かに知っているような気がするのだ。



 日が暮れ、ちょうど晩御飯を食べようというときに、弘道が家に帰ってきた。陽気な弘道がいれば、食事中にあまり気を回さなくても場を取り繕うことは容易くなる。だから、僕は少し安堵していた。
 背の高い弘道は、背広を脱ぎ、ネクタイをほどくと、「おお、透。今日も元気にしてたか?」と気安く声をかけてきた。それに対し、僕は「うん」と答えた。先月に三十四になった彼のそういう親しみやすいところは嫌いではないし、むしろ好きと言っても過言ではない。細かい悩みなど、彼と話している間は大したことではないように思える。だが、閉じ込められているなどの理由により、恨みも抱いている。
 そして食事中は、案の定、弘道は軽い冗談を次々と言い放ち、場の空気を和らげてくれた。僕がこれまで、本当の両親でない二人とほとんど何事もなく過ごせてこられたのは、彼が僕の気分を紛らわせてくれたおかげだろう。そんな彼が、食べ物を口に運びながらこんなことを言い出した。
「俺、明日から出張することになったんだ」
 斜向かいに座り、自分の短髪を左手で掻いている弘道を見つめながら、またか、と僕は思った。最近彼は出張が多い。彼がいない間、僕は気分を和ませることができないので、決して嬉しい知らせではない。
「そう」
 靖恵はそっけなく答えた。彼女には覇気というものが欠落していると僕は思う。だから、靖恵は好きになれないのだ。
「出張ってどこに行くの?」
 特に理由もなく、僕はそう訊いた。だが、弘道はこの質問に、少し戸惑いの表情を見せた。
「あ、ああ。香港、だよ」
 表情をいつもの陽気さに戻してから彼は言った。ちょっとだけ違和感を覚えたが、別に気にするほどでもないと僕は判断した。そんなことよりも、いつか僕の中にある負の感情が爆発するかもしれないことの方が不安だった。
 弘道は、茶碗の中のごはんをきれいに食べ終えると、食器を流しに置いた。そして「風呂に入ってくる」と言って、リビングを出て左手にある洗面所へ行く。
 ちなみに、靖恵はというとまだ半分も食べきっておらず、のろのろと口を動かしていた。食事は必ず靖恵と二人(弘道がいるときは三人)で食べるのだが、彼女が僕より早く食べ終わったためしがない。
「ごちそうさま」
 僕はそう言って立ち上がった。食器を片づけると、ソファにどっと腰をおろし読みかけの小説を開いた。あと数ページしか残っていなかったので、さっさと全部読み切ってしまいたかったのだ。
 残りページがあとわずかとなると、どうしてもゆっくりじっくりと文章を読みたくなる。また、解説にも目を通したから、僕はこの小説を読み終えるのに二十分ほど時間をかけてしまった。その頃には、靖恵は晩御飯を食べ終え食器を洗い、弘道は風呂から出てリビングの床に座りテレビを見ていた。それに気づいて、僕は、風呂に入ろうかなと思いリビングを出て洗面所に入った。
 テレビに映し出される一般家庭の住まいの多くがそうであるように、洗面所の中には、ドアと壁で密閉された風呂場がある。僕は歯を磨いてから、服を脱ぎそこへ入った。
 湯船につかり、天井を見上げた。僕は風呂に入る時、なんだか不思議な気持ちになる。安心できて、居心地がいいのに、そう思うことに対して抵抗感があるのだ。安心感のどこかに、不安が隠れている。居心地の良さのなかに、悪さを感じる。僕が抱く正の感情は、負の感情と見えないところでつながっていることを、風呂の入っている間、気付かされるのだ。
 僕は体を洗ったあと、風呂場から出た。洗面所に置いてあるタオルで体をふき、下着類を身につける。そしてパジャマを身にまとうと、なんとなく床に座り込んだ。
 そのとき、携帯電話を見つけた。洗面所には、タオルやパジャマを収納するためのきわめて小さなタンスが二つばかりあるのだが、その間に小さな隙間が存在する。携帯電話を見つけたのは、まさしくそこであった。
 気になった僕は、発見した携帯電話を手にとってよく見た。色や形から判断して、携帯電話は弘道のものであるようだった。洗面所から出た時、そのまま置いてきてしまったのか。
 きっと、何もしないで元の場所に戻すか、弘道に渡すかするのが道徳的判断だろう。しかし、僕は中身をのぞくことにした。なぜなら、僕を閉じ込める理由が分かるかもしれないという淡い期待を抱いたからだ。
 洗面所のドアが閉まっていることを確認してから、折りたたみ式のそれを開き、電源を入れた。いつもどおり、マナーモードに設定してあるようで操作音などが起こることはなかった。僕は携帯電話を持っていないが、弘道や靖恵が操作するのをよく見ていたから、使い方はだいたい分かる。そして迷わず、受信メールボックスを開いた。
 表示された瞬間、ドキッとした。知らない名前がいろいろ表示されたためである。なかでも「エリ」という名前が一番多かった。僕はボタンを押して、その人のメールの中身を見た。
 背筋が凍った。そのメールでは、愛の言葉としか考えられない文章が書かれていた。まさか、そんなはずはないと思い、他のメールを見てみたが、結果はほとんど同じだった。
 送信メールボックスを開く。「エリ」という人あてのメールをのぞいてみた。だがやはり、恋人同士としか思えない文章が書かれているのだ。体が震える。
 さらに、画像フォルダを開いてみる。そして、見つけてしまった。弘道がきれいな女の人にキスされて頬を緩ませている画像を。また、同じ女の人と写っている画像はそれだけでなく、多数存在していた。
 間違いない。弘道は、不倫をしている――。
 これは裏切りだ。そう思った。弘道は、気軽く僕に話しかけながら、外では悠々と不倫をしていたのだ。
 僕は、本当の息子ではないし、弘道は不倫をし、靖恵と二人で僕を閉じ込めている。なんてことはない。彼らにとって僕はそういう存在なのだ。
 ゆらりと僕は立ち上がった。そしてふらふらとした足取りで、濡れた髪のまま洗面所から出た。



 弘道と靖恵が寝静まった頃、僕は二人の寝室に忍び込んでいた。二人は、ダブルベッドでお互い背を向けながら、規則正しい寝息を立てていた。それ以外の音は何も起きていない。
 僕は、自由になる決意をしていた。二人の束縛から離れ、外に出るのだ。包丁を一本、利き手である右手に携えていた。 二人を、殺す。これは異常な行為なのかもしれないが、今の僕には当然しなければならないようなことに思えてならない。僕はテレビドラマの登場人物のように、悲劇を味わっているのだ。
 僕の頭の中では、一週間に一度起こる例の無数の声が響いていた。小さいものだが、しきりに何かを訴えている。すこし意識が揺らいだ。
 それでも僕は、二人の眠るベッドに近づいていく。暗闇に目が慣れた今、包丁が妖しく光るのを感じた。現実感があろうとも、僕は止まらない。異常を正常に戻すためだと自分に言い聞かせた。
 最初に、弘道を殺すことにした。安らかそうな寝顔を見つめながら、憎悪を煮え切らせた。それに流されるまま、包丁を構えると、胸を一突きにした。音がしたかどうかは分からない。ただ、つき刺さる感触がして、本当に殺したのだということを理性なるものが教えてくれるだけだった。
 瞬間、頭の中の声は、うねりとなった。抑えつけるような痛みが、頭の中を走った。だが、まだ小さいものだったので歩けないほどではなかった。僕は包丁を抜いてから、よろよろと靖恵のそばへ向かう。その間、隠されていた記憶の片鱗が、ちらちらと見え隠れしている気がした。すでに過去の記憶を封印する壁は、薄い紙っぺらのようなものになっていた。
 僕は、包丁を振り上げる。頭の中のうねりが、一気に激しいものになっていく。頭の中で何かが破裂し、それと同時に僕は包丁を振り下ろしていた。
 殺しが終わると、うなりは激しく波紋を広げた。異様に強いうねりは僕をひざまずかせ、苦しみを与えてくる。頭の中で何かが回る。やがていつものように、ささやきが聞こえた。
(いいか。お前は――)
 だが、今度は、ささやきがここで止まることはなかった。記憶をほじくりかえし、頬を水滴がなでるようなひやりとした感触を、胸の内を強い力でノックされているかのような緊張感を覚えながら、頭に、言葉がはっきりと刻みつけられる。
(お前は――家族じゃない)
 そして思い出す。昔の記憶。僕の本当の両親の記憶。
 それはつらい思い出。本当の両親に虐待されていた日々――
 毎日どれくらい殴られ蹴られしたのかまでは思い出せない。だが、痛みと苦しみの連続であったことは確か。僕にとって愛するべき人は、僕を愛してくれなかった。決して望んでいない暴力や敵意を与えてきた。過去を忘れていた最近でも、僕がずっと恐れ、苦しんできたもの。その象徴こそがいつか放たれたこの言葉なのだ。
 ――いいか。お前は家族じゃない

 口の中が急速にかわいてきた。忘れていた。忘れていたが、実際にあったこと。僕はそれが怖くて仕方がない。
 だが、隠された記憶はこれだけではなかった。放たれた思い出は、ルーレットのように回り続けている。やがてたどり着いた、また別の記憶。靖恵と弘道に出会った日のこと。それが僕の脳内で再生された。
 その日、五歳くらいの僕は、虐待から逃れるため家から逃げ出した。必死に走り終わった後の僕は、暗闇に包まれているような虚無感に支配される中、人通りの少ない場所で、呆然と突っ立っていたのだ。泣いてはいなかった。どうしようもなく、朦朧としていただけだった。
 すると、靖恵と弘道の二人が、ひょっと、どこからかやってきた。なぜか二人は僕のことを知っていて、優しく声をかけてきたのだ。
(透くん、だね)
 第一声を発したのは弘道だった。ストレスをため込んでいた僕は、状況をしっかり把握できないままうなずいた。その間、靖恵は少しオドオドしていた。
(“兄さん”。どうするの?)
 靖恵は弘道にそう尋ねた。弘道は、きっとどうするか考えていなかっただろう。ただ、僕を救おうとしているだけだった。僕を見つめる弘道の目は、すごくまっすぐだった。
(君はね、今、行方不明ということになっているんだ。君の両親が何か警察に働きかけたのか、その割に捜査がしっかりされてないけどね)
 言っている意味が、当時の僕には理解できなかった。僕はただ、生まれてからずっと、自分の居場所を探していたにすぎない。家から逃げ出し、一人になって、やがて声をかけてきた優しそうな二人の大人。僕は彼らにこんなことを訊いたのだ。

(お父さん?)

 きっと理性はほとんど働いていなかったに違いない。ただ本能にまかせて、口を動かしていた。
 子供には、翼が必要だ。親の一人が右の翼、もう一人が左の翼になり、上空へ引き上げなければ社会を生きることはできない。ぼろぼろの翼をまとっていた僕は、その翼の存在を忘れていた。とりあえず、自分自身の精神を守るため、彼らにすがったのだ。
 そして、視線を靖恵の方へ向けた。

(お母さん?)

 優しそうな彼らに、僕の翼になってほしかった。それが生きるために必要だったから。
 これらの言葉を、二人はどう思ったのだろうか。生気の感じられない目で、すがるように訊かれて。二人はとりあえず肯定するしかなかったのではないか。
(う、うん、そうだよ)
 弘道は歯切れ悪くそう言った。僕の顔をのぞく弘道の瞳は、憐れみを含んだ色をしていた。
すると、靖恵は何を思ったのか、僕に近づき、僕の頭をそっと撫でた。優しく、温かい手だった。そのとき放たれた言葉が、頭の中の二つ目のささやきと重なった。
(私たちは――家族よ)
 靖恵は勇気を振り絞ったのだろう。彼女もまた、僕を守ろうと必死になっていた。
 僕はこの優しさが恋しくなり、彼らと家族になることを心の底から望んだ。都合の悪い現実を捨て、そんな理想に強い想いを寄せた。そして、本当の両親のことを忘れ、二人を両親として接するようになったのだ。
 靖恵と弘道は、こうして、一時の嘘をずっとつき続けなければならなくなったのではないか。本当のことを伝えれば、僕が壊れてしまうかもしれないから。僕を家の中に閉じ込めたのも、そのためだろう。
 二人は僕の望むように家族を形成した。兄妹であり夫婦ではないのに、そのフリをした。すなわち、弘道は不倫していたのではなく、純粋な恋をしていたのだ。そして、靖恵ではなく僕にそのことを隠していたのだ。
 また、僕のなかに潜んでいた憎悪。これは本当の両親に対する恨みだったのではないか。両親がすり替わってしまったことで、それは誤って弘道と靖恵に向けられてしまったのではないか。

 現実に意識が戻った僕は、目の前の状況に絶望した。僕は、大切な人を殺してしまったのだ。
 治りかけの精神が、ぼろぼろに歪んでいく。得たはずの翼が徐徐にしおれていった。
 僕は弱い。何かが崩れていくのを感じて、本能的に自分の身を守ることを考えた。すなわち、また記憶を消してしまう――
 涙が流れた。目からこぼれるにつれ、記憶は薄れていく。精神は壊れるのをやめ、徐々に回復しだした。
 僕は寝室を出て、玄関に向かう。一刻も早く、家から立ち去りたかった。
 玄関にたどり着いた僕はドアノブを握る。そして外に出ようとする。だが、動かない。手も足も首も腕も、張り付いたように静止している。
 頭の中では、何度も、動け、動けと命令を下す。それでも動かない。動いてくれない。リビングから、時計の秒針がカチカチと音を立てているのが聞こえる。
 翼を思いやるように、僕は背中に意識を置いた。痛みはない。だが、何もない。
 パジャマで血まみれの僕は、一歩たりとも足を前に踏み出すことができない。逃げることのできた五歳の頃の僕とは違い、袋小路に挟まれているのだった。
2009/07/09(Thu)01:41:35 公開 / 西序
■この作品の著作権は西序さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
初めまして
文章が拙いですが、感想をいただけたらとてもうれしいです。
少しは、楽しめましたでしょうか?
この作品に対する感想 - 昇順
拝読しました。虚無型ドロドロ劇場は私の大好物のひとつでありますが、いかんせん描写が足りないように思えます。何故彼は過去の事を深く思い出したのか、もっとくわしく書けてれば、あるいは両親のように接してくれた兄弟は、何故そこまでして透を守り通そうとしたのか。そして最後の殺してしまったあとの透の深い絶望も、もっと感情が深く書き込まれていればよかったかなぁと思います。しかし、話しの流れは非常に面白かったです。
2009/07/09(Thu)22:42:170点水芭蕉猫
水芭蕉猫様、読了および感想、大感謝です。

>いかんせん描写が足りないように思えます。

そのとおりですね。細かな設定というものが大の苦手なのですが、克服すべきでしょうね。ご指摘、参考になります

では、ありがとうございました
2009/07/09(Thu)23:11:580点西序
作品を読ませていただきました。悔悟が主題なら透の描写が弱かったと思います。自己を含めた存在の全否定ならラストは感情が強すぎる。全体を通して起承転結のうち承転が弱かったと思います。冒頭とラストのインパクトが強いだけに、それに耐えうる描写が欲しかったです。では、次回作品を期待しています。
2009/07/21(Tue)23:42:290点甘木
甘木様、感想ありがとうございます。
>悔悟が主題
>自己を含めた存在の全否定
残念ながら両方とも違うのですが、それを読者にくみ取らすことができなかった僕の力量不足です。
では、ありがとうございました
2009/07/22(Wed)14:12:110点西序
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