- 『スタイル』 作者:ゆうろう / リアル・現代 未分類
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全角19020.5文字
容量38041 bytes
原稿用紙約59.85枚
タケは選択を迫られていた。それと言うのもある晩、非合法な場で一人の男と出会う。彼の言動・行動に魅了されていくタケ。出会い、導かれ、静かにまわり出す運命の歯車…。そしてその時は訪れる。タケは悟る。彼をその手で打つという事の意味を…。
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※本作には一部下品な表現を用いております。本作の構成上欠かす事の出来ない表現では御座いますが、不快感を伴う恐れが御座います。許容頂ける方、拝読宜しく御願い致します※
「…………………。」
「…………………。」
とある密室に、長い沈黙が流れていた。見渡せば、壁一面に奇妙な形の工具がズラリと並べ掛けられていた。ある種の血生臭さがこの部屋にはある。その部屋のほぼ中央に、二つの人影が部屋に灯したロウソクの火に揺れていた。一方はどこか頼りなげな青年、名をタケと言った。もう一方はタケとは対象的に、豊かな白髪に豊富な口ヒゲ。肉体は、流石に歳には勝てなかったと見え、多少の贅肉が付いてはいるものの、その眼光はうかつな質問を挟ませない程に鋭さを帯びていた。口にくわえた煙草の煙が、少し短めの白髪とリンクし、独特の妖しさと魅力に溢れている。ハードボイルド…これほど似合う男はそう居るものではない。名を、夜行[ヨルユキ]と言った。長い沈黙が支配したこの状況を打破したのは、その夜行の程よくしわがれた声だった。
「タケ…。」
「は、はいっ。」
「今からわしが話すことをよく聞け。」
「はい…。」
「…………………。」
「は、はいっ!」
「鳥が何故自由だと言われているのか、その理由を知っているか?」
「い、いいえ。」
「理由は実にシンプルなものだ。雲一つ無い無限の大空を、その翼でもって舞う事が出来るからだ。」
「はい。」
「自由…。本当にそう思うか?」
「えっ? は、はい。」
夜行…彼は、自分だけの持論を幾つも持っている。中には世間一般の常識を備えた人間が聞けば、首を傾げるものも少なくはないだろうと、彼自身もそれは自覚している。彼は続けた。
「仮にだ、大空を飛び回った末疲れ果て、しかし羽根を休める為の木はおろか、枝の一つとしてこの大地に無かったとしたら…。あったとしても、誇り高い大鷲のように、自身が羽根を休めるに値する枝ではないと考え飛び続けているとしたら…。それでも空を飛び続ける彼等を自由などと、人間に言う事が出来るのか?」
「な、何が言いたいんです?」
「…………………。」
「夜行さん?」
夜行は、密閉された部屋からは見えるはずのない空へ視線を止め、指先で煙草を揉み消し、言った。
「錯覚だ…。」
と。
「さ、錯覚?」
「そう、全ては錯覚に過ぎん。【自由】などと、【平和】だなどと、【平等】、【人権】…。」
「夜行さん…。」
「人はな…、憧れ続ける生き物なんだ。理想を追い求め、幻想にしがみ付き、やがて誰も彼もが現実をその視界から消していく。いくら視界から消し去ったとしても、そこに存在するからこそ現実は現実と呼ばれているのにだ。何故そんなにも憧れ続けるのか? その理由もいたって単純だ。知っているのさ。皆、全てが錯覚に過ぎない事を。意識的にしろ無意識にしろ、深層心理の奥の奥で。」
「…………………。」
「わしが何故こんな話をしたと思う?」
「わか…りません。」
「おまえはおまえの現実を見失うな。それが言いたかったんだ、わしは。」
「夜行さん…。」
「タケ…。今そこにあるおまえの現実はなんだ?」
「…………………。」
「言えっ、タケ!」
「あ、あなたを…打つ…事です。」
「聞こえん!」
「あなたをこの手で打つ事です!」
「そうだ。遠慮は要らん。わしを打て!」
「…う…うぅ………。」
「どうしたタケっ! 早くわしを打つんだ!」
「で、出来ません。」
部屋に、沈黙の訪れは無かった。ただ、タケの悲痛なうめきだけが漏れていた。打てるわけがない。心から尊敬しているこの人を。父の様に慕っているこの人を。声無き声で、タケのうめきは確かにそう語っていた。この哀願にも似た彼の訴えが、夜行の心に届いたかは分からない。だが夜行はこう語った。
「誰にでも出来るものでない事は、わし自身が一番よく分かっている。特におまえにはな、タケ…。だがな、タケ…お前は優し過ぎる。相手の痛みを自分の事の様に考える事が出来る。確かにそれはとても大切な事だと誰もが認めている。だがしかし、所詮そんなものは他人事に過ぎん。他人の痛みが分かるなど、それこそ錯覚に過ぎんのだ。時としてそれは、この世で最も残酷な行為と成り得る。思いやりとはそういうものだ。非情になれ、タケ! 貴様ならわしを打てる! タケぃっ!!」
「で、出来ません! すいません…自分にはどうしてもあなたを打つ事は出来ません!」
「くっ…。」
夜行の顔に、失望の色がへばり付く。タケにとって、それを読み取ることは造作もなかったに違いない。しかしタケは、うめいているしかなかった。このまま時が流れ、今現在の状況が好転に向かってくれるものならどんなに良いだろう。無駄だと分かってはいてもそう考えずにはいられない。だが、時が解決するには現在の情勢は重過ぎる。ハードボイルドな男の、着衣にまで飛び散った赤い斑点が、眼の前の現実を誇示していた。
「どうしてもわしを打つ事は出来んのか?」
「…………………。」
「タケ…。」
「…………………。」
この部屋は一体どれだけの哀しみを産み落として来たのか? それでもまだ足りないというのか? タケの怒りは、今や現在自分が置かれて居る状況よりも、むしろこの部屋の存在意義にまで及んでいた。タケは思い返す。今自分を苦しめる要因を作った昨日と言う日の事を。
……前夜。
ワイワイガチャガチャ…。
「入ります。」
シャーーー…
「ベットプリーズ。」
カチャッ…
カチャッ…
カチャリ…
チーンッ…
「ベットそこまでっ。」
シャーー…カツンッ、カンカララ…
「赤! 27番!」
{ォオォォォ…}
都内某ホテルの地下三階で、欲望が渦巻いていた。ここは、俗に裏カジノと呼ばれている場所である。エレベーターの階数標示は地下二階で終わっている。特別な人間のみに立ち入る事が許された、まさに欲の牙城であった。また、特別の定義も曖昧だ。人から人へ、裏カジノの性質を鑑みれば派手な宣伝を打つ事は出来ない。口コミである。己の身近な人間に、その存在(裏カジノ)を知る者が居る。欲深い人間にとっては、それも一つの運の強さの証明とも言えた。タケもその選には漏れなかった。
(くっ、勝てない!)
早くも軍資金が底を尽きかけ、掌には汗が滲んでいた。彼の選択したゲームは、誰もが馴染みあるルーレット。ここで、ルーレットについての詳しいルール説明は省かせて貰うが、彼の賭け方は赤か黒か。36ある数字のピンポイントを狙うのではなく、赤と黒、交互に色分けされたポケット(玉の落ちる場所)の、そのどちらに落ちるかを予想する賭け方である。要約すると、勝敗はほぼ二分の一…のはずである。38分の一から考えれば、随分と現実的な数字ではある。しかし現実には…
シャーー…カツンッ、カンカララ…
「赤! 21番!」
(何故なんだ! 何故勝てないんだ!)
彼には決定的に欠けていた。経験、想像力、懐疑心、そして猜疑心。そのどれもが、ここ裏カジノでは自分を守る武器となる。熟練したディーラーにとって、狙ったポケットに玉を落とす事など、日本人がハシで御飯を食べるが如く、日常の範疇である可能性など、彼の思考の片隅にさえカスリもしない。まして、はなから複雑なルール(ここでは賭け方)の盲点を付く努力を放棄し、安易な二分の一に走る行為は例えるならカモがネギを背負い鍋まで持参してコンロの上で昼寝するに等しい…との考えは、彼の理解の遥か先だ。
(いや、所詮は二分の一。これだけ負けが込めば、いずれどこかで盛り返すはず。今は見[ルック]だ。)
その後、二度、三度ゲームを見送った彼は、ひそかにほくそ笑む。
(よし! また当たった。三度連続。今まで一度も勝てなかったのに。これなら…)
カチャッ。
赤に残り全財産の半分を賭けた。
チーンッ…
「ベットそこまでっ。………黒! 六番!」
(ァアァァァ…。)
平常心を惜しげもなく乱した彼には、今はもうルーレットの卓に座っているのは自分一人だという状況が、視界に入るはずもなかった。ディーラーとの一騎打ち。それはどんなゲームに置いても、回避すべき第一条件である。一般的にルーレットは運任せとの認識が強いが、確かにそういったケースもしばし有る。だが、その限りではない。そもそもギャンブルとは、相手との腹の探り合い、言い方を変えれば騙し合との見方も出来る。この場合、ディーラーは狙ったポケットに玉を投げ入れる事が可能であると仮定し、そこでようやくディーラーとの駆け引きが生まれるのである。つまり彼は、スタートラインに立つことが出来ぬまま、全財産150万の内、およそ三分の二を失ってしまっていた。仮にスタートラインに立ったとしても、相手はこの道で生計を立てているプロである。昨日、今日ギャンブルを始めたビギナーに、わずかでも幸福が訪れると考えるのは、少しばかり楽天に過ぎるだろう。そんな彼が、この日の敗因を知る術はおそらく、この先何十年生きたとしても知る事はないに違いない。
(もう嫌だっ! だ、誰かっ。誰でもいい。ぼ、僕を、助けて下さい!)
破滅寸前に追い込まれたギャンブラーの、誰もが辿り着く境地に彼もまた達した時、男は来た。
カラーンッ…
「ようこそお越し下さいました、夜行様。ささ、お手元のお荷物をこちらへ。」
入口の係員が、にこやかな会釈を向けるその男は、酷く印象的だった。上背は決して高くないはずのその男が、タケの眼にとても大柄な人間の様に写ったのは、現在負けが込んでいる自分への自己嫌悪か、はては入って来たばかりの真っさらな彼への一種憧れの様な感情に似た嫉妬によるものなのかは、タケ自信も明確な判断がつき兼ねていた。男は係員に何か耳打ちしている様子だが、タケの居る位置からその内容を知る事は出来なかった。
「君。」
「はい、何でしょうか?」
「この賭場で今一番負け込んでいるのは誰かね?」
「はぁ、でしたらあちらのルーレット卓にお座りの御若い方なのでは…。」
係員が不意にこちらを指し、タケはビクリと体を硬直させた。
「ふむ…。有り難う。」
「いえ、ごゆるりとお楽しみ下さいませ。(ちっ、ハイエナが!)」
男は真っ直ぐこちらを目指し歩いて来る。いくら鈍感なタケも、これにはさすがに身構えた。がしかし、男は黙ってタケと二つ離れた席に腰を下ろし、おもむろに現金を取り出した。手慣れた従業員が感謝の意を述べ、その現金をチップに交換した。
(ふう…。ルーレットの場所でも聞いていたのか? どちらにしろ関係ない。今はこの局面をどうにかしないと…。取り敢えずはまた二〜三ゲーム、見だ。)
実際にはそんな事はないのだが、タケはしばしの静寂が自分を包んでいくのを感じた。何も聞こえない…。他の客の耳障りな喧騒も、その他の雑音も、彼の集中力を乱すまでには至らなかった。
(……的中、……的中、……的中、……的中。)
「入ります。」
シャーーー…
「ベットプリーズ。」
カチャンッ…
見を四度決め込み、そのどれもを的中させた上で、五度目にタケが張ったのは、赤。チップは金額にしてジャスト十万。その時だった。タケと同じ様に見を決め込んでいた男の手が動いた。黒。チップはタケより少し少ない九万。
チーンッ…
「ベットそこまでっ。」
シャーーー…
(来る。大丈夫。間違いない。赤に入る。)
シャーー…カツンッ、カンカララ…
「黒! 16番!」
(…………………。)
「すぅ…ふぅぅ…。」
感情の高ぶりを抑える為、彼は誰にも悟られぬよう、一つ短く深呼吸した。
(問題無いんだ。読みは間違ってはいない。四度連続で的中しただけでも流れは明らかだ。五度目も続けて的中させられると考える方がどうかしてる。飽くまで確率二分の一。だが今、流れは僕だ。これだけは確かだ。)
「入ります。」
シャーーー…
「ベットプリーズ。」
(落ち着け。いや、落ち着いてる。僕は冷静だ。赤、黒、赤、赤、黒と来たんだ。二分の一ならここは黒だ。が、僕は今までそれで負けてる。短絡過ぎたんだ。ここはもう一度赤だ。…いや、待て。あのおじさんはどっちに張る積もりだ? それを見ておくのも参考になるのでは? いや、なる。おじさんが張るまで待とう。)
シャーーー…
チーンッ…
「ベットそこまでっ。」
シャーー…カツンッ、カンカララ…
「赤! 一番!」
「くっ!?」
このゲーム、男の手が動く事はなかった。そしてタケは、勝ちを一つ見送った。
(何をしてるっ! 何を考えてるんだぼくはっ! 流れは僕なんだ。人の事なんか関係ないじゃないか。ましてやこれは運試し。他人の干渉する余地がどこにある? くそっ! 今のに全額張っとけば…。止すんだ。気持ちを切り換えよう。どちらにしろこのまま帰る事なんて出来ない。次だ! まだ四十万ある。十万ずつ賭けても四回張れる。つまり、三回はまだ負ける事が出来るんだ。)
彼に、この局面でまともな思考回路を求める事など最早不可能であった。負ける事を前提にプランを練る。精神の均衡を保つ為、彼の脳が導き出した解答は、『まだ負けても大丈夫』。破滅的な安心感であった。
「入ります。」
シャーーー…
「ベットプリーズ。」
(どっちだっ! 赤か黒か。…そうだった。どっちでも良かったんだ。だってまだ負けたわけじゃないんだから…。黒はなんか不吉だ。うん…。だって黒だよ? うん…赤にしよう。)
カチャッ…
カチャリ…
(おじさんは黒か…。ははっ、馬鹿だなぁ…。しかもまた九万。九って数字も不吉だ…。ははは…この人勝つ気あるのかなぁ…。)
チーンッ…
「ベットそこまでっ。」
シャーー…カツンッ、カンカララ…
「黒! 四番!」
ガタンッ
「キープ(休憩)。」
「はい、只今。」
トイレに向かうタケの足取りは、死刑台へと続く廊下を歩く死刑囚のそれだった。予感は確信に変わる。
(僕は助からない…)
トイレにはタケの他、誰も居なかった。
「…うっ、ぐぅ…うあぁぁぁぁぁ…。」
洋式の大便器にしがみつく彼の姿を前に、人間としての尊厳など紙切れ一枚程の価値も無い。ましてや喜びなど…。
「行こう…。何処へ…? 何処だって良い…。」
ガタタ…
崩れ落ちる様に再び座席に着いた彼に、この後、唯の一度でも幸福が訪れる事はなかった。
(おじさんは凄い…。一回も外さなかった…。)
理屈は至ってシンプルなものだった。ルーレット卓には、彼等二人の他ディーラーが居るだけだ。そしてディーラーとの一騎打ちを敢行し(もっともタケにそのつもりは無かったが)、この卓上で狙い撃たれているのはタケ唯一人。余程ディーラーの敵意を煽るか、プライドに踏み込む(毎回高額ベットで打つ)かしない限りは、自分にターゲッティングされる恐れは少ない。とすれば、狙い撃たれている者の反対側にただ静かに張り続けてさえいれば、言わずもがなである。しかし、ここでの注意点は必ずターゲットされている者よりも、自分のベットが少なくなるようにするという事。ディーラーも雇われの身である。最終的には店の利を取る。故に夜行は、タケよりも毎回一万少なくなるようにベットしていた。常連としての融通が強く働いた事も、今更言う程の事ではないだろう。タケの敗因の中でも大きなものの一つとして、ディーラーに懐具合を見透かされた事は無視出来るものではない。始めは高額ベットでゲームを進め、負けが込むと尻すぼみになる。これ以上は吐き出せないと、自ら吐露したようなものである。であれば、特にいい思いをさせて引き込む必要性はどこにも無い。短期で巻き上げ、次の客の為に席を空ける。そこにあるのはビジネス…。
それだけである。
(学費…家賃…生活費…貯金…。全部消えちゃった…。)
卓上に突っ伏したまま死んだ様に動かないタケに、係員が近付いて来る。もちろん心配しての事ではない。用済み…。それが理由だ。
「お客様、大変申し訳ないのですが他のお客様もおられますので御席の方を空けて頂けませんか?」
「…………………。」
「お客様…お客様?」
タケに返事は無い。係員は警備の者に目配せをし、
「おい、叩き起こしてでもいいからつまみ出せ。」
と言った。ここは、その存在自体が非合法、裏カジノである。例え怪我を負わされたとしても、訴え出る場所は何処にも無い。呼ばれた警備員が、タケの腕を掴み上げようとしたその時、夜行がそれを制止し、言った。
「良いっ。わしの連れだ。」
と。驚いたのはタケばかりではない。係員もその一人であった。
「お言葉ですが夜行様、それは考えにくう御ざいます。」
「聞こえなかったのか?」
「し、しかしっ!」
「小僧…オーナーを呼べ。」
決して声を荒げたわけではなかった。ただ眼光が飛んだ。狼が犬を威嚇する時、吠える必要は無い。目と目が合えば犬は勝手に尻尾を丸める。
「で、出過ぎた真似を致しました。どうかお許し下さい、夜行様。」
「良い。」
「お、おい。もういい。すぐ警備に戻れ。グスグズするなっ!」
「はっ!」
タタタタッ…
「………何故…です…?」
「…………………。」
「玉入ります。」
シャーーー…
「ベットプリーズ。」
…………ズズッ……
黒、四番に一点張り。チップはタケがスッた金額と同額、百五十万。タケは無言でチップを動かす夜行の手元に眼を見開き、ディーラーは眼を剥いた。
チーンッ…
「ベッ、ベットそこまでっ。」
(ば、馬鹿なっ! 38分の一に百五十万一点張り!? 有り得ない。しかも黒四番は今出たばかり。今更不吉だなんて言わないけど、連続で出るわけが…)
夜行が口を開いた。その鋭い眼光はディーラーの目を見据えたままだ。
「38分の一が二度続けて出る確率は1444分の一…。そう思っているのかね?」
「えっ!?」
「答えなさい。」
「は、はい。その通りで…い、いや、具体的な確率は分からないですけどかなり低いんじゃないかと…。」
夜行は煙草を一本取り出し口にくわえ、係員に向かって手招きし、火を付けさせた。彼の癖なのである。自身の意にそぐわない返答が返って来た時の、深くゆっくりと煙を吸い込み、煙草はくわえたまま鼻から煙を吹き出すのは。盤上で玉はまだ踊っている。
「そう考える人間は多い。二分の一を五回連続で当てる確率は32分の一だ、だとか…。愚かな…。ギャンブルとはすなわち【覚悟】。その場、その場の一発勝負。過去にどれが何度出たからなどと、そんなデータが今この勝負のどこで助けになるのかね? 目の前で規則正しく孤を描くこの白球が、一々そんなものを気にして回っているとでも思っているのかね?」
「あっ!?」
「あくまで38分の一のゲーム。それ以上に成り得る事などないのだよ。」
「で、でも、それでも38分の一なんですよ! 正気の沙汰とは思えない。」
シャーー…カツンッ、カンカララ…
「く、く、黒っ! 四番!」
{ォオォーッ! 店の払いは5250万だぞ!}
{5250万!? だ、大丈夫なのか、この店は?}
ザワザワッ…
ザワザワッ…
「う、嘘だっ!」
「…現実を直視できない者はただの愚か者だ。少年、君もその口かね?」
「ぼ、僕は…」
今度はディーラーに向けて夜行は言った。
「ディーラー。」
「はっ、な、何でしょう?」
「君もたった一度の勝負で店にこれだけの損害を出したんだ。何かと大変ではないのかね?」
「はっ、いやっ、はぁ…」
「そこでだ。君にチャンスをやろう。確かここのカジノはマキシマム(掛け金の上限)はなかったはずだが?」
「は、はい、おっしゃる通りですが…」
「うむ。ではわしは次の勝負に全額賭ける。もちろん一点張りでだ。」
「なっ!?」
{す、す、す、すげーっ! お、おいっ! おまえ等自分の置いてちょっとこっち来てみろ!}
{ば、馬鹿かこのおっさん! 5400万だぞっ!}
{く、狂ってる!}
モニタールームでルーレット卓のカメラを凝視していたオーナーが猛り狂った。
「や、止めさせろ! ディーラーこの勝負を受けるな!」
側近の男も慌てる。
「オ、オーナー、それではうちのカジノが潰れます! マキシマム無しの触れ込みでこれまでやってきたんですよ。それに、卓に座る前なら追い返す事も出来たかも知れませんが、今や店中の客の視線が集まる中、彼はもうすでにそこに座っているのです。どうやっても避けられません!」
「くっ! どうする事も出来んのかっ!」
「しかし、38分の一…つまりは、37個のポケットが我々の勝ちなんですよ。それに奴は負け犬にたかるしか能の無いハイエナ。心配には及びませんよ。」
「馬鹿野郎っ! 貴様等は知らんのだ! ハイエナだと? 馬鹿も休み休み言えっ!」
「っ!?」
「真っ白な髪に切れ長の目、あの眼光。少し頬こけた輪郭に鋭く尖った鼻、そして口髭。間違いない。常連だからまさかとは思っていたが…」
「オ、オーナー、奴は何者なんです!」
「…この街に、カジノが無くならないのは何故だと思う?」
「えっ?」
「お巡りに摘発されても、それはトカゲの尻尾に過ぎないからだ。賭場を開く毎にカモから巻き上げた金でブクブク太った本体は、その豊富な資金力で、今度は別の場所に二カ所、三カ所とまるでネズミ算式に尻尾を増やしていくからだ。」
「…………………。」
「奴はなぁ、この業界では夜行[やこう]と呼ばれている男だ。」
「や、やこう?」
「くそっ! この名前を見て何故気付かなかったんだ…。カジノを潰す一番効率のいい方法…それは、カジノ側に莫大な負債を背負わせ再起不能な状態にまで追い込むことだ。負債を背負わされたカジノは、その返済に躍起にならざるを得ない。バックレる事など出来ない。何故なら、客の支払いを滞らせたなんて噂を立てられたらこれまた再起は叶わないからだ。この場合、客の身柄をさらえばとか尻尾を増やせばだとかそう単純な話ではない。かといって、系列のカジノ中の金を集めたとしても返済は追い付かない。結局潰れるしかないんだ。カジノに渦巻く欲も、その場に居合わせた者の欲も、視線も、最後には根こそぎ搦[から]め捕り闇に消える姿を、夜の闇に百匹の妖怪を引き連れ歩く姿に例え、百鬼夜行。通称、やこうだ。そして奴は、裏カジノを憎んでいる。理由までは知らんが、奴は確かに裏カジノを憎んでいるそうだ。」
「うっ!?」
「全ては計算済くだったんだ。羊の皮を被り、ハイエナでひんしゅくを拾い集め、物言わぬ仕草で無害を装い、あの鷹の眼の奥でじっと見据えていたものは、金じゃなく、まして目の前のディーラーなんかでもなく、このカジノ、引いては俺の首だっ!」
「オーナーっ! 止めさせましょう! 今すぐにっ!」
「もう…遅い。」
「玉、入ります。」
シャーーー…
「あっ、ああっ!?」
シャーーー…
「ベット、プリーズ。」
意地である。この道数十年。血の滲む思いで研鑽を重ね、狙ったポケットに寸分の狂いなく落とし込む。目の前で崩れ落ちる客を見た。崩れ落ちたまま心臓発作で消えた命も見た。自分の指先は人を幸福にもするし、絶望も与える。生殺与奪。客にではない。この権限は自分にこそ有る。自分にこそ相応しい。そう、自惚れていた。目の前に座る、妖しく威圧的で、まるでこの世の地獄の全てが己の住み処だと言わんばかりの眼光を持つこの男に会うまでは。玉はすでに投げ入れた。狙った番号は赤、23番。特に意味は無い。意味を持たせる事は死を意味する。恐らく彼はあの眼の奥で私の心を見透かすに違いない。ならばどんな駆け引きもその意味を持たない。何の脈絡も無いこの番号こそが、私の生と与、そして彼の殺と奪。それがディーラー、彼の出した答えだった。
シャーーー…
透き通る、それでいて引き込まれるかの様な旋律だった。誰もが皆口を閉ざす。モニタールームの二人も、カメラに身を乗り出したまま息を呑む。
ごくりっ…
そこかしこで喉を鳴らす音がよく響く。永い…。永遠とも感じる無音の空間。誰もが皆限界に来ていた。夜行が動く。
ズズズズズズッ…
黒、四番。だが誰も何もしゃべらない。覚悟…。それは、何者にも揺るがす事の出来ない意志の力。支配していた。夜行、彼はすでにゲームを、観客を、このカジノを。
チーンッ…
「ベット…そこまでです。」
歓喜が体に満ちていた。快感が脳を刺激した。明日は今日より優しくなれるに違いない。奪われた誇りを取り戻し、祝福された栄光が降りてくる。目の前に座る闇はかりそめの彼方へ。勝ったのだ。私はこの男に勝ったのだ。震えそうになる体を必死で支えた。ディーラー…、後に彼は振り返る。地獄はあの世にあるのではない。悪魔はあの世のものではない。この世にあってこの世に居るのだと。
シャーー…カツンッ、カツンッ、カンカララ…
「あ、あ、あ、有り得ない…。」
黒、四番…。隣のポケット赤23が笑っていた。
「有り得ない…こ、こんな…、私は、私は確かに」
「ディーラー。」
(…はっ!?)
「それ以上は言わない方がいい。」
「うっ、くっ黒…四番…」
ワアァァーッ!!
{勝った! プレイヤーが勝ったぞ!}
{か、感動した! すげー!}
{いくらだっ!? 一体カジノ側の支払いはいくらになるんだ!}
{待てっ! え、えー…っと、じゅ、19億4400万だ!?}
{19億だとっ!? そ、そんな大金払えるのか?}
ザワザワ…
ザワザワ…
「黙れ。」
夜行であった。
シーーーン…
「ディーラー。」
「は、はい…」
「ワンモアだ。」
「………へ?」
「もう一度だと言ったんだ。」
「あ、う、あっ…」
バンッ!
壊れたのではないかと思われる程、勢いよくモニタールームのドアが開いた。中から小肥りの男が叫びながらこっちへ向かってくる。
「待ったぁ! い、いえ、お待ち下さい、お客様。」
オーナー、その人である。
「お、お客様、どうか、どうかこちらへお越し下さい。」
夜行は新たに煙草を取り出し口にくわえた。慌ててオーナー自身がその煙草に、丁重な手つきで火を付けた。
「こちらに一席設けさせて頂きました。ささやかでは御座いますが、どうかお受け下さいま」
「断る。」
「………………そっ、そこをなんとかお願い致します。どうか、どうか〜」
「くどい。」
「うっ、くっ。」
夜行はスーツの内ポケットから手帳を取り出し、何事かを書き込んだ上でそれを、まだ土下座の姿勢で阿呆の様に口を開け夜行を見上げる小肥りの男に、眼もくれず投げ落とした。
「口座だ。」
「へ? あの…」
「明日中に振り込め。出来なければこのカジノは潰れる事になる。もっとも…、いや、良い。」
ガタンッ。
「少年、着いて来い。」
「えっ!? ぼ、僕?」
「二度は言わん。」
「は、はいっ。」
カラーン…バタンッ…
ガジノ中の人間の視線が、夜行とタケ、二人の姿が闇に消えた後も、出口に釘付けられていた。下界はもう夜の戸張が降りていた。
「名は?」
「えっ?」
「…………………。」
「あっ、タ、タケと言います。」
「タケ、いくら負けた?」
「…………………。」
「言いたくないか? それもよかろう。だがな、タケ。無駄死にだ。」
「む、無駄死にっ!? ど、どういう意味ですか!」
夜行のその言葉には流石にタケもムッとした。
「言葉通りだ。この世にはな、負けても良い勝負などというものは存在せん。次がある。その次がある。たわけた事を…。ボジティブなどと言う言葉は所詮負け犬の遠吠えに過ぎん。想像力の欠如。全ての甘えはそこから始まるのだ。」
「でも、前向きに物事を捉えるのは良い事だと僕は思いますが…。」
「ならば今夜のおまえの現実も前向きに捉える事が出来るな?」
「うっ! それは…」
「そうやって失敗する事を恐れず、何事も経験と考え、人は取り返しのつかない失敗を繰り返す。想像を放棄しているのだ。そして疑う事を失念しておるのだ。疑う事を悪と決め付け、信じる事を美徳とする。何と浅はかな…。他人を簡単に信用し、言われた事を頭から鵜呑みにする。上辺だけを見て、物事の本質を見極めようとしない。それはすなわち無関心。最も恥ずべき行為だ。疑う事とはつまり、知ろうとする行為。真理の探求だ。そこから想像は生まれるのだ。」
(か、勝てない…。勝てるわけがない。この人は何も信じていない。自分だけをただ純粋に信じ抜き、自ら孤独に身を置いている。ぼ、僕には出来ない…。)
「タケ…。おまえにならそれが出来る。」
「なっ!? 僕にっ? む、無理ですっ! 僕にはとても」
「いや出来る。おまえは今日、絶望の意味を知ったはずだ。あの金が、おまえにとってどんなものだったのかはわしには分からんし、聞こうとも思わん。だが、この世で最も尊い物は金だ。」
「なっ!」
「聞けい! 人が人である為には金が不可欠なのだ。愛だとか命の尊さだとかは、金があって、食す物があって初めて成立するものだ。それでもまだ愛だの情だのと言えるのは、この国が世界経済のバランスから考えても不均衡に豊か過ぎるからだ。この国に生まれたからこそ言える事なのだ。世界に目を向けてみろ。一体どれ程の国の人間が飢えに苦しんでいると思っている。そんな人々に尊厳だの愛だの平等だの、肥え太ったその口で言うつもりかね?」
「…………………。」
「タケ…。人はな、己を取り巻く環境、状況次第で無限に考え方を変える事が出来るのだ。この空が、同じ日の光で無限に彩る様にな。タケ…、自らを縛り付ける必要はないのだ。解き放て。無限に広がる思考を手に入れろ。タケぃ!」
「…う、ぅうっ…うおぉぉぉぉ!!」
この夜に、この空に、全てを解き放った。この人は正しい…。例えこの国が、世界が、彼を否定したとしても、僕は彼を肯定する。今夜の出来事は確かにこの目で見た。だが信じられない。だからこそ彼を肯定しよう…。そう心に誓った。
「タケ、今夜帰る場所はあるのか?」
「はい、あり…」
『はい、あります』。そう言いかけてタケは口をつぐんだ。
(違う。そうじゃない。あれはもう僕の住む処じゃない。この人…。夜行さんがいる場所が今日から僕の居る場所だ。)
「いいえ。ありません。」
「ふっ。」
笑った…。夜行が確かに笑った。少なくともタケにはそう見えた。
(受け入れてくれた。)
溢れた。とめどなく涙が溢れ、タケは男泣きに泣いた。
「タケぃ!」
「ふっ、ぐぅ……はいっ!」
「貴様には素質がある。わしになれぃ!」
「はいぃっ!!」
夜行に今夜の宿泊先として指定されたグランドホテルは、この先一生働いたとしても自分には縁がなかっただろうと、タケはあらためて夜行の力に戦慄した。身体の芯から沸き上がる衝動に身を任せ、わけも分からず夜に吠え、夜行の計らいで場違いなホテルに居る自分をスイートの鏡に写し、彼は思った。
(悪くない。)
と。
気分は五月晴れの蒼天の様に澄み渡っていた。
彼に両親は居ない。正確には一年程前の結婚記念日の夜、外食後の帰り道、事故に合い他界した。その日両親に気を遣って独り、家でインスタントを食べていたタケは、深夜の電話にさほどの疑問も持たず受話器を耳に当て、その悲報を受け取った。
受話器を起き、何事も無かったかの様に冷めきったインスタントを啜[すす]り、バラエティー番組に腹を抱える彼の姿は、本来、人間のあるべき姿からは程遠いものであった。
その後の彼の生活は、それまでの日常と何ら変わりないものであり、もし変わった点があるとすれば、多額の保険金が手元に転がり込み、生活水準が向上した事を除けば、見事なまでに他には無い。彼にとって両親とは、その程度の存在であった。親愛の対象としては力不足であり、憎悪の対象としては印象に薄い。仲が良いと言う程ではなく、悪いと言う程のものでもない。絶妙のバランスで両親との距離を保っていた彼は、その死を脳が認識した途端、直ぐさま傾きかけた精神の天秤を両親と変わるモノで修復した。金…。翌日の朝には保険会社にその足で赴き、詳細な保険金額の内訳を提示させ、後日弁護士を雇い入れ、改めてその契約書の不備を指摘した上で保険金額を吊り上げた。
唯一の彼の長所は、その卓越したバランス感覚、これに尽きた。両親の死とそれに釣り合いをとる為に必要な金額。彼の中の天秤は、寸分の誤差なく極めて迅速にこれを弾き出し、彼をバランスの名の下に駆り立てた。即断即決。彼は自身の長所、バランス感覚が働いている間は、微塵の迷いも無く己の行動に自信が持てた。
そんな彼ではあったが、自身の短所に程なく気付かされる事となる。金銭感覚。全く計画性の無い散財は、日に日に少しづつ上がる生活水準に伴い、加速度的に彼の首を締めた。その頃には、彼の長所であった天秤の秤りの一方は、『金銭の消費による快感』にすり代わっていた。そう、彼の天秤の役割は、自己の保存にのみ最大限の能力を発揮する。
そんな彼であったから、今夜カジノでスッた自己保存の要とも言えるあの金は、彼の命そのものであった。そして彼は、夜行との出会いにどこか運命めいたものをハッキリと感じ取った。ここでもやはり、バランスである。自己の崩壊が始まる寸前、あの男は現れた。それはまさに、暗雲立ち込める空に射す一筋の光り。神の啓示として以外に、彼が受け取ることは皆無であった。と同時に、彼の中で夜行は神そのものとなったのである。
神は言った。「自らを縛り付ける必要は無いのだ」と。
(着いて行こう。あの人とならもっとすごい世界がきっと見られる。)
再度、心に誓うタケだった。
一夜空け、かつてない清々しい目覚めと共に体を起こしたタケは、自分を取り巻く環境が激変した事を再認識し、声高らかに笑った。夜行は今夜、一階ロビーに迎えに来ると言う。それまでは好きに過ごしていいと、ポケットマネーからおよそ50万円前後を渡されていた。
(まるでメシ代でもくれてやるかのように50万…。僕とは格が違い過ぎる。)
タケは考える。
(この50万は言わば試練。この金をどう遣うかで、僕は試されている。ならば答えは一つ。増やして返す。これ以外に無い。)
人間そう容易には変われない事を証明でもするかのような足取りでチェックアウトを済ませた彼の足は、至極当然でもあるかのように、昨夜の悪夢と救いが混在する場へと向かっていた。
エレベーターに乗り、行き先パネルの下部にある鍵穴にキーを差し込み扉を閉める。欲の牙城がよだれを垂らして口を開けている…はずだった。しかし、入口を潜った彼は、一目その光景を見て絶叫した。
「よ、夜行さんっ!?」
夜行を取り囲む複数の男達。そしてその中央に、縄で縛られた夜行。夜行の目の前にはオーナー…、その右手にはやたらと存在感を持った漆黒の物体。
「き、来てはならん! タケッ!」
言われるまでも無くタケの足は、地面と縫い合わされたかのように一歩たりとも動かない。
「よ、夜行…さん…。」
「まだだ! まだ貴様には伝えねばならん事が山ほどある。心配するな、わしはこんな所で果てはせん。」
昨日、今日と付き合いこそ浅かったが、タケには夜行が何事においても取り乱す事など有り得ない男だと思っていた。その夜行が必死に何かを叫んでいる。聞こえない距離では無い。ただ耳に入らないだけだ。突発的に与えられた情報が、理解のキャパシティを超えていた。そんなタケに夜行がまた叫ぶ。
「タケ、ホテルへ戻るんだ!」
すんでの所で聞き取った。
(ホテルへ戻れ? …何故? 夜行さんを置いて?)
「タケ、言う通りにするんだ!」
「で、でもっ!」
「タケぃっ!」
「っ!?」
夜行の大喝が飛んだ。同時にタケの足の封印が解けた。しかし、今度は自分の意志で動かない。
「で、出来ませんっ! あなたは、あなたは」
「タケっ!」
「よ、夜行さんっ!」
夜行の目が慈愛に満ちた。そして優しくこう言った。
「タケ…わしは約束を守る男だ。今夜必ずあのホテルへおまえを迎えに行く。わしを信じてはくれんか?」
「…………………。」
「タケ…。」
「人を簡単に信用するな…あなたが教えてくれた事です。」
「その通りだ。だがタケ、わしもその『人』に当たるのか?」
「…………………。」
「タケ?」
「くっ、…分かりました…。ホテル一階ロビーで待ちます。」
「うむ、必ず行く。」
「…………………。」
のそりとした足取りで外へ出た。夜行を取り囲んでいた男達は追って来ない。それどころか夜行との会話にも割り込んでは来なかった。ある疑念が脳裏に浮かんでくるのを、タケは必死で黙殺した。考えてはならない。あってはならない事なのだと。空にはどす黒い雲が浮かんでいた。時折吹く風が、寒さと共に、先程目の当たりにした光景を運んでくる。タケは頭をちぎれそうな程横に振り、ホテルまでの道のりを急いだ。彼を待とう…。結論に達した。
「すみません、チェックインし直したいんですけど。」
「かしこまりました。どちらの部屋になされますか?」
「スイー…いえ、シングルで。」
「承りました。こちらがキーとなっております。明朝11時までのチェックアウトでお願い致します。」
「はい。」
「有り難うございます。ごゆるりとおくつろぎ下さいませ。」
部屋に着き、洗面台で顔を洗った。だが思考は止まらない。オーナーが手にしていたものが頭から離れない。ブラウン管ごしに見るのとではわけが違う。異様な存在感…。ポケットの札束がごわごわとシャクに触り、床に叩き付けベッドに潜り込んだ。
(寝よう…。)
極度の緊張で精神が疲れていたのか、今日二度目の睡眠は、意外な程アッサリと脳の許可が下りた。谷底へ転がり落ちるように眠りについたタケが目を覚ました時には、すでに小さな月が空に浮かんでいた。
(そろそろ時間だ…。下に下りて彼を待とう。)
「チェックアウト。」
開けたロビーのソファーに座り込み、天井に垂れ下がったシャンデリアの光を数える。どこまで数えたかを忘れ、また始めから数え直す。何も考えたくない…。脳へのささやかな反抗だった。
キャアァァァーッ!!
耳をつんざく悲鳴にタケは跳び上がった。何事だ? そう思うが早いか、彼は視線を入口に走らせた。
(っ!?)
呼吸の酷く乱れ、変わり果てた姿の夜行がそこに居た。彼は約束を守った。身体の至る所に飛び散った紅い斑点。手にはオーナーが握りしめていた漆黒。事態の深刻さを物語るには、十分過ぎるほどであった。この日、ロビーに居た人間全ての視線が夜行に集中した。そんな中を、タケは独り歩を進めた。そして夜行の前に立ち、言った。
「あなたは…、あなたは死に場所を探している侍のような人です、夜行さん。」
「はぁ、はぁ、くっ、はぁ」
「自ら好んで孤独に身を置き、誰からの理解も必要とせず、ただ信念のままに行動する。尊敬しています。」
「タ、タケッ…、時間が無い…、わしと来い。」
「…はい。」
ホテルを出た道を真っ直ぐ歩く。夜行、彼の足取りに迷いなど一欠けらも無く、その強靭な精神力は乱れた呼吸さえも整え、その後ろ姿は、何かを伝えようとする思いで溢れていた。
(こういう人なのだ…うぅ、この人はこういう人だ。)
やがて大道路にぶつかり、その脇でタクシーを呼ぶ為に手を上げる。
「夜行さん…、それは自分が…。」
「良い。」
だが夜行の意とは裏腹に、タクシーは止まらない。一台、また一台と夜行の脇をすり抜けていく。
「たわけが。」
そう吐き捨てる夜行の前を、また一台タクシーがすり抜けようとした時、夜行はその前に飛び出した。
「夜行さんっ!?」
キキーーーッ!
「な、何考えてんだ! し、死に…たい…の…か…。」
「ふう…。こんないたいけな中年を捕まえて乗車拒否とは感心せんよ。」
「あっ、う…」
「さっさとドアを開けろ。」
「救急…いや警察…」
「聞こえんのか?」
「は、はいっ!」
ガチャッ……バタン。
タクシーに乗り込み行き先を告げる夜行。運転手は諦めた。面倒事に巻き込まれる前にさっさと目的地で下ろしてしまおう。そう答えを出し、全速力で車を飛ばした。無人の野を行くが如く突き進むタクシーの中、誰も口を開こうとはしない。運転手は諦め、タケは覚悟を決め、夜行はただ黙って前を見据えた。やがて目的地に着き、釣りはいらんと運転手に万札を渡すと、タクシーは逃げるように二人の前から姿を消した。着いた場所には、荒れ果てた野原の中、唯一棟古ぼけたマンションだけが建っていた。辺りにこのマンションを除いて、建造物はおろか人っ子一人見当たらない。ここがこの世の最果てか?タケは恐怖に心臓をわし掴まれそうになるのを、やっとの思いで堪えた。
「タケ、入るぞ。」
「ここは…?」
「来ればわかる。わしはもう長くは持たん。さあ、来い。」
「はい…。」
マンション最上階の一室に着くなり、夜行はその手に持っていた漆黒を、タケの足元へ放り出した。
ガシャーーー…コツンッ。
つま先に当たったものを恐る恐る拾い上げ、タケは沸き上がる疑問を口にした。
「な、何故…自分なのですか?」
「…………………。」
「あのカジノで人生を棒に振ったのは僕だけではなかったはず…。それなのに何故自分を…。」
「…………………。」
「…………………。」
「タケ…。」
「は、はいっ。」
「今からわしが話すことをよく聞け。」
「はい…。」
「…………………。」
「は、はいっ!」
「鳥が何故自由だと言われているのか、その理由を知っているか?」
「い、いいえ。」
「理由は実にシンプルなものだ。雲一つ無い無限の大空を、その翼でもって舞う事が出来るからだ。」
「はい。」
「自由…。本当にそう思うか?」
「えっ? は、はい。」
「仮にだ、大空を飛び回った末疲れ果て、しかし羽根を休める為の木はおろか、
枝の一つとしてこの大地に無かったとしたら…。あったとしても、誇り高い大鷲のように、自身が羽根を休めるに値する枝ではないと考え飛び続けているとしたら…。それでも空を飛び続ける彼等を自由などと、人間に言う事が出来るのか?」
「な、何が言いたいんです?」
「…………………。」
「夜行さん?」
「錯覚だ…。」
「さ、錯覚?」
「そう、全ては錯覚に過ぎん。【自由】などと、【平和】だなどと、【平等】、【人権】…。」
「夜行さん…。」
「人はな…、憧れ続ける生き物なんだ。理想を追い求め、幻想にしがみ付き、やがて誰も彼もが現実をその視界から消していく。いくら視界から消し去ったとしても、そこに存在するからこそ現実は現実と呼ばれているのにだ。何故そんなにも憧れ続けるのか? その理由もいたって単純だ。知っているのさ。皆、全てが錯覚に過ぎない事を。意識的にしろ無意識にしろ、深層心理の奥の奥で。」
「…………………。」
「わしが何故こんな話をしたと思う?」
「わか…りません。」
「おまえはおまえの現実を見失うな。それが言いたかったんだ、わしは。」
「夜行さん…。」
「タケ…。今そこにあるおまえの現実はなんだ?」
「…………………。」
「言えっ、タケ!」
「あ、あなたを…打つ…事です。」
「聞こえん!」
「あなたをこの手で打つ事です!」
「そうだ。遠慮は要らん。わしを打て!」
「…う…うぅ………。」
「どうしたタケっ! 早くわしを打つんだ!」
「で、出来ません。」
「誰にでも出来るものでない事は、わし自身が一番よく分かっている。特におまえにはな、タケ…。だがな、タケ…お前は優し過ぎる。相手の痛みを自分の事の様に考える事が出来る。確かにそれはとても大切な事だと誰もが認めている。だがしかし、所詮そんなものは他人事に過ぎん。他人の痛みが分かるなど、それこそ錯覚に過ぎんのだ。時としてそれは、この世で最も残酷な行為と成り得る。思いやりとはそういうものだ。非情になれ、タケ! 貴様ならわしを打てる! タケぃっ!!」
「で、出来ません! すいません…自分にはどうしてもあなたを打つ事は出来ません!」
「くっ…。」
(む、無理だ…。)
「頼むタケ…。わしを楽にしてくれ…うぅっ…」
(うっ!?)
夜行が泣いた。その時、タケが覚悟を決めた。そして悟る。僕の神は死んだ…、と。タケはその手に持った漆黒のムチを、Tバック姿の夜行のケツに振り下ろした。その衝撃で、溶けて紅い斑点となっていたロウがパリパリと床に飛散した。更に力を込めてケツを打つ。
バシンっ!
「ブッヒ〜!」
ハードボイルド…。まさにハードボイルドであった。調教室に響き渡った夜行の叫びは、この世の幸福に満ち溢れていた。自由…平和…平等…人権…。確かな理想郷…。ここ聖地(ホーリーランド)にあって、幸福に欠けたものなど唯の一つとして存在しない。染みの着いたブリーフの隙間から見えた夜行の目は、至福の笑みを讃えていた。歓喜が体に満ちていた。快感が脳を刺激した。明日は今日より優しくなれるに違いない。縛られた身体を振り乱し、祝福された快感が降りてくる。目の前の君は永遠の女王様。やめられん。やめられるわけが無い。夜行…。彼は裏カジノをこよなく愛していた。そこには未来の女王様で溢れている。ほんの少し指導、否! 御指導させて頂ければ誰もが皆眠れる森の女王様。摘発などさせてなるものかっ! 女王様のお城はわしが守る。この名(夜=ナイト)に賭けて! 普段の彼は、その気概が迫力の裏付けとなり、何者も寄せ付けぬ程のオーラを身にまとってはいたが、それは決して他人(女王様)に向けられたものでない事は、今更補足する程の事ではないだろう。
タケは、昨夜の夜行の言葉を思い出していた。
(「貴様には素質がある。わしになれぃ!」)
「そういう事かっ! この豚野郎!」
「ブゥッヒ〜〜」
「こいつめ! こいつめっ!」
「アッハ〜ン」
「これでもかっ!」
「と、飛んでる〜! 私飛んでる〜」
「死んじまえー!」
「果てる、果てちゃう〜ん…」
ドサッ……
タクシー乗りの間で、こんな口伝がある。
暗雲立ち込める満月の夜…奴は現れる。染みの着いたブリーフを深々と頭に被り、手には漆黒のムチ、足にはレースの付いた網タイツ。体中に飛び散る無数の赤い責め苦の跡〔あと〕。Tバックはサイズがあってないのか、その股間からはおいなり様がこぼれ、その背は人間の持つあらゆる闇を背負っている。故に百鬼夜行…。通称『背徳の夜行』。
これは、男の『生き様』を描いた物語である。
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2009/07/08(Wed)08:17:05 公開 / ゆうろう
■この作品の著作権はゆうろうさんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
拙いストーリー構成、文法力では御座いますが、ほんの一欠けら程でも楽しんで頂ければ至上の幸いです。