- 『凪の海』 作者:雪宮鉄馬 / 時代・歴史 リアル・現代
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全角30367.5文字
容量60735 bytes
原稿用紙約86.5枚
一九四四年十月。欠陥戦艦を与えられながらも、決死の思いでレイテの戦いに挑む、西村祥治中将の姿を、フィクションを交えて描く歴史小説です。
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【一】
遠く聞こえる砲雷の雄叫び。絶命の間際の悲痛な叫び。煙と炎、硝煙の匂いが人々を包み込んでいた。眼前には、無数の発砲煙が唸りを挙げ、頭上には鳥の群れを思わせるかのような、敵の航空機が飛び交う。頭から血を流す士官は、それでも「戦い続けよ」と声を上げる。両足を爆風に吹き飛ばされた学徒は両親の名を呼ぶ。もはやその場に、五体満足な人間などほとんどいなかった。
「総員退艦っ!!」
艦長からの最後の命令が下された。敵の艦からは、次から次へと砲弾と魚雷が浴びせかけられ、着弾する轟音と悲鳴が反響しあい、そして、遂には壁を突き破った海水が、巨大な魔物のように、貪欲にすべてを飲み込んでいった。あらゆるものの、死の姿として、もっとも惨たらしい瞬間。
やがて、どの艦も敵の攻撃にさらされて、火柱を上げ爆発し、海中へと没していく。その瞬間、千名以上の人の命が、故郷から遠く離れた南洋の海に消えてしまったと思うと、胸の奥が苦しくて仕方がない。
もしも、人の命が奪われていくことが「戦争」だと言えば、もはや返す言葉はない。半ば爆風とともに海上に投げ出されるように飛び出した小野寺は、水面に浮かびながら、ただ呆然とそんなことを思った……。
目を開くと、すぐにその悲惨な光景は消えうせる。ただ、そこには暗がりの部屋があるだけ。辺りに視線を配ると、目が慣れてきて、そこが小さな和室の一間と分かる。古びた押入れ、直筆の掛け軸、伴侶の仏壇、深夜一時を指す置時計。それらを確認して初めて、凄惨な光景が悪夢の中の出来事だと、認識できた。
小野寺は半身を起こした。どうやら悪夢にうなされていたらしい。寝巻きの胸から背中にかけて、水でも被ったように濡れていた。
「お爺ちゃん?」
部屋の開き戸から、自分を呼ぶ声がする。「大丈夫だ」と答える小野寺に、孫娘の千佳がそっと開き戸を開けて様子を伺った。
「なんか、すごい悲鳴が聞こえて。何かあったの?」
千佳は、祖父を心配して、わざわざ自室から駆けつけてくれたのであろう。小野寺は、そんな孫娘に笑顔を返した。
「良くない夢を見たんだ。千佳、すまないがそこのタンスから、替えの寝巻きとタオルを出してくれないか」
「うん。いいよ」
孫娘の小野寺の笑顔に少し安心したのか、胸を撫で下ろすと部屋の隅にあるタンスから、小野寺の寝巻きとタオルを取り出した。孫娘の千佳は高校一年生。忙しい千佳の両親に代わって、同居する半身不随の祖父の面倒も、嫌がらずに看てくれる。小野寺にとって、目に入れても痛くないほど可愛い孫だった。
「お爺ちゃん。大丈夫? お医者さんに相談してみる?」
千佳は小野寺の脱いだ、汗のしみこんだ寝巻きをたたみながら言った。
「いや、大丈夫だよ。分かってるんだ。なんで、良くない夢を見るのか」
小野寺は、そう言って壁にかけられたカレンダーに眼をやった。秋色の風景写真が飾られたその下、今日の日付は十月二十五日。
「何かあったの、十月二十五日に……」
小野寺の視線に気がついたのだろう、千佳が尋ねた。小野寺は俯くと、そのまま黙りこくってしまった。置時計の時間を刻む音だけが、聞こえてくる。
「ねえ、お爺ちゃん、聞かせて。わたし、お爺ちゃんのことが心配なの。脳卒中で倒れてから、ずっと元気がないままだし、ここ最近は良くない夢ばかり見てるよね」
「ああ、そうだな……」
千佳の言葉に偽りはないだろう。ここまで祖父想いの孫は、今の世の中あまりいない。深夜、悪夢にうなされる祖父を心配して、わざわざ起きてきた千佳に何も話さないわけには行かないかもしれない。だが、それは同時に、小野寺自身の罪の告白でもある。優しい孫娘に話したところで、それは懺悔にもならない、小野寺の後悔だ。
「わしも、そう永くはないのかもしれないな」
「そんなこと言わないで、お爺ちゃんっ」
小野寺の呟きを、千佳は聞き逃さなかった。心配する千佳の表情に、偽りや打算はなく、心の底から、大切な家族を気にかけている。小野寺は、そんな孫娘の顔を見て、あの日のことを語らずに、墓に入ることは出来ないことを悟った。
「本当に、千佳は利口でいい子だ……。千佳、寒いから何か羽織るものを着てきなさい。少しだけ、昔話をしてあげよう」
小野寺にそう言われた千佳は、急いで自室へ戻ると、薄いカーディガンを羽織った。千佳が戻ってくると、小野寺は不随の体を引き摺るように、戸棚に向かうと、その奥から古びた手帳を取り出した。
「楽しい昔話じゃない」と、小野寺は前置き、そして天井を見上げた。彼の視線に映るのは、板張りの天井ではない。遠い昔の南洋の海と空だった。
「わしは……罪を犯した。もう、ずいぶん昔の話だ。千佳も学校で習っているだろう? かつて、日本はアメリカと戦争をしたんだ。爺ちゃんはな、そのとき海軍さんの兵隊だった」
そう言って、小野寺は手帳を千佳に渡した。水を吸ったのか、頁は寄れてしまっていたが、手書きでなにやらびっしりと書き込まれているのは、はっきりと分かった。
「一九四四年、十月。日本は各地で負け、敗戦の色を濃くし始めていた。日本軍は決死の逆転を狙うべくアメリカ軍との決戦に挑んだ。その手帳は、当時わしがつけていた日記だ。わしは、海軍大尉として、山城という船に乗って、ブルネイへ向かった」
小野寺はゆっくりと、六十余年前に封印した記憶を辿り、千佳は静かに、祖父の語る昔話に耳を傾けた。
それは、一九四四年。まだこの国が果てしないと思えるほどの戦の中にあった時代……。
【ニ】
この国が風雲急を告げたのは、一九四一年の暮れであった。日本は中国との戦争、所謂「日中戦争」の泥沼化を抱えたまま、アメリカとの「太平洋戦争」に突入した。緒戦は日本軍の圧倒的有利により、戦線は瞬く間に拡大していった。遠く東南アジア諸島にまで、その火種が及んだ頃、日本軍はミッドウェー海戦を迎えた。
一九四二年六月、ミッドウェー上空は快晴であった。南雲忠一中将率いる第一航空戦隊の、航空母艦の位置を特定した、レイモンド・スプルーアンス少将は母艦からドーントレス爆撃機を発艦させた。日本軍の直掩機が低空に降りた隙を突き、ドーントレスは急降下爆撃を行った。爆弾は、日本軍の航空母艦「赤城」「加賀」「蒼龍」の飛行甲板に命中した。更に、反撃に出た航空母艦「飛龍」も薄暮を待って、敵爆撃機により轟沈させられた。これにより、日本軍は夜戦のため進軍を続けていたが、それを断念し、ミッドウェーからの撤退を決意した。
日本軍は、航空母艦四隻と重巡洋艦一隻を喪失。それに対してアメリカ軍は航空母艦一隻、駆逐艦一隻しか喪失せず、誰の目から見ても明らかな、日本の大敗であった。航空戦力の重要性を真珠湾攻撃で示した日本軍が、航空戦力によって潰される。皮肉とも思える事態は、ミッドウェーにおいても、戦訓会議が行われなかったことでも、伺えるだろう。そして、ミッドウェーの敗退は、日米間のミリタリーバランスを一変させてしまうこととなる。
これを機にアメリカ軍は、日本軍に奪われた南洋の島々を奪回するため、南太平洋での攻勢を強めた。ギルバート諸島、マキン環礁、トラック島、マーシャル諸島、パラオ、ニューギニアと進軍したアメリカ軍の次なる目標が、マリアナ海域であると判断した、日本軍はこれを迎え撃つべく「あ号作戦」を展開する。「あ」とは「アメリカ」を指している。しかし、この作戦の概要は、事前に作戦計画書を入手した「海軍乙事件」により、アメリカ軍に筒抜けであったといわれている。
一九四四年六月、航空戦を経て、小沢治三郎中将率いる日本機動艦隊は、マーク・ミッチャー中将率いるアメリカ艦隊と邂逅、日本軍機の航続距離を活かした「アウトレンジ戦法」を用いて、戦闘を開始するが、アメリカ軍はレーダーと砲撃をリンクさせたシステムにより、これを迎撃した。慌てふためき逃げ回る日本の戦闘機を七面鳥に喩え、「マリアナの七面撃ち」と嘲笑された。一方小沢艦隊は、航空母艦「大鵬」を失うなどの損失を受け、作戦中止の命令とともに戦闘から離脱した。これにより、日本軍は絶対国土防衛圏であるサイパン島を喪失し、完全に、戦局を覆すことも、講和を結ぶことも出来なくなってしまった。
マリアナ沖海戦の敗退を受け、いよいよ本土攻撃の危機に晒された日本軍は「決戦」のための作戦を計画した。これが海軍の全艦隊勢力、陸軍の全兵力を投じ決戦に挑む、「捷一号作戦」である。「捷」とは、「戦いに勝利する」という意味である。
一九四四年十月、ウィリアム・ハルゼー提督率いるアメリカ軍は、レイテ湾のスルアン島に上陸を開始した。レイテ湾は、フィリピン諸島南部、ミンダナオ島の東にあるレイテ島の沿岸である。時を同じくして、日本軍は「捷一号作戦」を発令した。作戦発令を受けた、艦隊司令長官である栗田健男中将は、進軍のためブルネイ泊地に入港し補給を行った。また、瀬戸内海からは小沢治三郎率いる第三艦隊が、中国・馬公からは志摩清英率いる第五艦隊が出航、ブルネイを経由せず、進軍した。
各艦隊は各々別々の航路から進軍する予定であった。そして、決戦の地「レイテ湾」で各艦隊は合流し、アメリカ機動艦隊を攻撃・撃破する。しかし、いずれの航路にもアメリカ軍の艦船、航空機、潜水艦が日本軍の来襲を待ち構えており、けして安易な道程とはいえなかった。
十月二十一日、補給に遅れが生じ作戦予定日を過ぎてしまう結果となったが、ついに決行日を明日に控えた艦隊の司令長官栗田は、第二艦隊の将官を旗艦「愛宕」に集めて、作戦の最終的な打ち合わせの後、健闘を祈って冷酒とスルメを振舞った。決戦に意気揚々とする者、不安を隠しきれない者、集まった将官たちの顔色は様々であったが、その中で一人だけ、微笑を見せ、一人一人に挨拶をする人物がいた。栗田率いる第二艦隊、第三部隊を指揮する、西村祥治中将である。
【三】
南洋の風は熱を纏っている。夜空に無数の星が、その神秘的な輝きを見せる時刻になっても、風は生暖かいままだった。「俺には南洋で生活できないな」と思う。寒い地方で生まれた小野寺にとって、この湿気を帯びた風は居心地が悪く、中々寝付けなかった。その度に、涼やかな夜風に当たろうと、むせ返る艦内から甲板に上がり、吹きぬける風の生暖かさにうんざりとするのだ。
「昨日までの台風の方が、まだマシだったかもな」
小野寺は溜息をついて、軍服のポケットを探った。こつりと、指先が何かにぶつかる。取り出したそれは、洋物の缶であった。二年ほど前に、戦地で拾ったものだった。元々何が入っていたのかも良く分からない。色彩豊かな絵柄と異国の文字に引かれ、それ以来煙草入れとして、愛用している私物だ。
「なんだ、残りニ本しかないじゃないか」
肩を落としながらぼやくと、そのうち一本を取り出して火をつけた。マッチの香りとタバコの煙が混じり合い、鼻腔をくすぐる。小野寺は舷側のロープに捕まりながら、夜のブルネイ泊地を一望した。泊地には、各地より集結した軍艦が列を成し、艦内灯が光の帯を連ねていた。そのどれもが、ある種の緊迫した空気と熱気に包まれているように、小野寺の瞳には映った。それは、小野寺の乗るこの艦も同じだろう。
その名を古い日本の地名から取って「戦艦・山城」という。その仰々しい名前の通り、三十六・五センチ、四十五口径の主砲塔を六基、十二門も備えており、天を貫くかのような艦橋は、城郭をおもわせるほど高く聳え立っていた。一九一七年、二十年以上も前に就航したこの艦は、当時各国の海軍が大型戦艦の建造し、その競争に出遅れた日本軍が急造した切り札であった。
しかし、近距離での海戦能力を重視するあまり、その艦上の重量が嵩み、速力低下を招き、更にこれを解消するべく舷外装甲を削った結果、速力・防御に乏しい戦艦となってしまった。そのため、戦争が始まって以降も内地に留まり、「欠陥戦艦」と揶揄される始末であった。ところが、逼迫した戦況は、そんな「欠陥戦艦」に出撃の命令を下した。戦闘艦である「山城」にとって、此度の海戦は、待ち望んだ日なのだ。
「俺もお前も、南洋で果てるか、それともアメリカに一矢報いるか。どうだろうなあ?」
小野寺は、物言わぬ鉄の船に向かって呟いた。勿論、返答が帰ってくるわけもない、そう思っていると、
「遠い南洋で果てるが何れか、それは御仏のみぞ知る」
と、どこかから声が飛んできた。驚いた小野寺は、慌てて煙草を海へ投げ捨てようとした。別に休憩がてら煙草を吹かしていても、それを咎めるものはいない。特に今は、出撃前の静かなひと時なのだ。それでも、小野寺が煙草を捨てようとしたのは、声の主が誰であるか直ぐに分かったからだ。
「いやいや、そのまま。どうせ、俺しかいないんだ、堅苦しい敬礼は抜きだ」
声の主はそう言って、小野寺に歩み寄ってきた。軍服には金糸のモール、胸には勲章が飾られており、それだけで相手の位がどれほどかを伺わせるには十分であった。
「に、西村司令っ」
小野寺は声の主の名を呼んだ。海軍中将・西村祥治。それが彼の名前であった。人々から「海の侍」と呼ばれる厳格な軍人だが、そんな異名に不釣合いなほど、とても穏やかな笑みを湛えていた。それが、西村という人間であった。
「小野寺少尉……いや、今は少佐だったな。皆の前では気軽に話すことも出来なかったが、久しぶりだな」
西村は、かしこまる小野寺の前で歩みを止めると、親しげにそう言った。
「はっ。しかし、司令の前では、自分はいつまで経ってもヒヨッコの少尉のままであります。配属のご挨拶も出来ず、失礼しました。」
「なに、そんなに固くなるな。あの頃より成長した君と、こうしてまた同じ戦地へ向かえるのが、俺は嬉しく思ってるんだ」
「わ、私の方こそ司令と共に戦えることを光栄に思っております」
直立不動の構えで答える小野寺に、西村は少しだけ笑うと、小野寺と同じように舷側のロープに寄りかかった。
「小野寺君、俺にも一本煙草をくれないか?」
と言われて、小野寺は慌ててポケットから煙草入れを取り出した。缶の蓋を開けて、残りが一本しかないことに気がついたが、迷わずそれを差し出した。
「ずいぶんと、洒落た煙草入れだな」
「はっ。以前、戦地の浜辺で拾ったものです。敵国のものかもしれないと思いつつ、気に入ってしまい、内緒で煙草入れに使っています」
「ふむ。いい趣味だ」
そう言って、西村は煙草を吹かした。白い煙が、生暖かな微風にさらわれていく。
「明日は出撃です。お休みになられなくてもよろしいのですか?」
「なあに、夜風に当たろうと思ったんだが、どうにも熱くてやれんので、そこらを散歩していたところだ。……早いもので、もう十月か。秋田はそろそろ、冷え込んでくる時分だな」
西村はなにやら感慨深げに言った。小野寺も懐かしい郷里の名を言われて、夜空を見上げた。
秋田は、小野寺と西村共通の故郷であった。戦争が始まって、帰郷したのは数えるほどしかない。ふと目を閉じれば、ふるさとの父母の顔が思い浮かぶ。戦地へ向かう前、父母は嫁を取れと言ってくれたが、もしも、敵の凶弾で自分が死んでも、兄が家業は継いでくれる。それよりも、妙な里心がつくのを嫌って、小野寺は一人身のまま戦争へ赴いた。もう、三年以上も前の話だ。
「近頃、妙に秋田の山河の美しさを思い出す」
西村が呟くように言った。小野寺と同じように、西村もまた郷里を思い出していたようだ。
「パリックパパンの頃、同郷のよしみで、司令にずいぶん目をかけて頂いたこと、今でも嬉しく思っています」
「そうさなあ、それさえも遠い昔のように思うよ」
「あの頃は、今よりも右も左も分からないままで、仲間たちが必死だったのに、私だけが、あたふたとして。まったくお恥ずかしい限りです」
小野寺は苦笑いをしながら、タバコの煙を虚空へ吐き出した。その煙の向うに、その日の戦いが甦るような気がした。
まだ小野寺が、海軍士官になりたてだった頃、日米の戦端が開かれた、西村の率いる第四水雷戦隊に配属された。大学出の新米士官は、緊迫の初陣は開戦の翌月、インドネシア・パリックパパン沖での海戦で初陣を迎えた。米国潜水艦の奇襲攻撃。立ち上る水柱と火柱。激しい轟音とともに沈没していく僚艦。第四水雷戦隊は、どうにか敵軍を押し返すことが出来たが、その損害は甚大であり、西村の顔にも悔しさがにじみ出ていた。
目を閉じれば、あの日の光景がいやでも浮かんでくる。戦闘のイロハは士官学校で叩き込まれていたはずなのに、喧騒と怒号が飛び交う戦場で、小野寺は身動き一つ取れなかった。話に聞くと見るでは、何もかもが違う。そして、自らが如何に役に立たない海兵であるかを思い知らされた戦いだった。
「あの戦は、俺にとっても忘れられん。辛酸とはこういうことかと、思い知らされたよ」
西村は声に出して笑いながらも、小野寺に向ける視線は笑っていなかった。
「ですが……、軍令部の体質はあの頃と何一つ変わってはいません。現に、司令ともあろうお方に、『山城』のような欠陥戦艦を与えるなど。我らは、この戦争に勝てるのでしょうか?」
懐かしさに、口をついて出た言葉を小野寺は隠すことが出来なかった。これでは、日本軍のあり様に対して、一介の士官ごときが問責しているようなものだと分かっていながらも、訊いてみたかった。
漠然とした不安は、ミッドウェーで黒煙に包まれた空を目の当たりにした日から、ずっと抱えていた。小野寺の乗っていた巡洋艦は難を逃れはしたものの、その日から日本軍は小規模な勝利を除いて、連戦連敗だ。状況が自分達にとって向かい風であることは、前線を肌で感じる軍人の自分が一番良く分かっている。
それにも関わらず、西村は「欠陥戦艦」を与えられながらも、その任務を拝命した。西村には、自分に見えていない何かが見えているのではないか。そう思い、軍の陰口のような質問を口にした。西村はそれを咎めることはなかった。
「『山城』はいい艦だ。足は遅いし、打たれ弱いが、堅牢な威風は海軍を象徴しているようじゃないか」
西村はそう言うと、ロープを背もたれにして「山城」の艦橋を見上げた。
「それにな、小野寺君。人にはそれぞれ役目がある。自らが選んだ役目は他の誰にも変わってもらえないと言う責任があると、俺は思っている」
「役目、ですか。では、軍人たる我々の役目とは何なのでしょう?」
「言ってみれば、俺たちは将棋の駒だ。将の駒も歩の駒も、指し手の思惑に動かされてはじめて力を発揮できる。だから、与えられた武器が何であれ、俺たちはそれで善処し、粛々と勝利を目指す」
「お言葉ですが、それでは日本は列強に勝てるとは到底思えません……」
「勝つか負けるかではない。祖国を守る意思が、俺たちにあるかどうかだ。戦争などと言う非生産的なことしか出来ない、俺たちに与えられた役目は、国を、人々を守ることだ。言い換えれば、それが出来るのは軍人の他にいないということだ」
それならば、戦争などそもそも起こさなければ良いのではないか。小野寺は脳裡に過ぎった言葉を飲み込んだ。
「この戦が正しいものか否か。俺たち日本人が進んできた道は正しかったのか、それとも誤りだったのか。だが、その是非を問うのは、軍人の役目じゃあない。政治家や歴史家の仕事だ」
「では軍人は、正しかったと信じ、その障壁たる敵を討てばよいと?」
「いや、正直言うと、考えてしまう。自分がこうして戦争をしていることに、正義があるのか。特に、多くの守るべき命を失ったときはな。だがもしも、俺たちに迷いがあれば、その一瞬にいくつかの守るべき命が失われる。」
「守るべき命……」
「ああ、そうだ。俺は迷いを捨てて役目を全うしたい。海軍の制服にこの腕を通したときから、ずっとそう思っている。まあ、考えることを放棄した様に聞こえてしまうかも知れんがな」
空笑いのような笑顔と共に、西村は強い言葉を連ね、小野寺に投げかけた。「寡黙な人」と呼ばれる西村が妙に饒舌であった。軍人は軍人であるべき。そして、祖国を守る強い意思を持つ。それこそが、西村を「海の侍」たらしめるものであり、彼の思いを初めて聞いたことに、小野寺は胸を熱くした。
その時だった、頬を撫でる生温い風が止み、二人が吐き出したタバコの煙がその場で滞留した。凪だ……、二人はほぼ同時に思った。波立つ海面が静かになり、まるで鏡面の如く夜空を映しこむ。
「こんな夜遅く、凪が訪れるとは……何かの前触れなのでしょうか?」
小野寺は、視界に凪の海を捉えながら、西村に尋ねた。西村はしばらく空を仰ぎ見た。
「憶えているか? パリックパパンに投錨した夜も、風が凪いだ」
その問いに、小野寺は記憶を手繰ったが、良く覚えてはいない。ただ、アメリカ軍の砲火が止んだ時、確かに耳が痛いほどの静寂があったことは、定かでない記憶の隅にあった。
「昔、兵学校の先輩に不思議な人がいた……」
唐突な西村の言葉は、小野寺に向けられていると言うより、昔を回顧しているようだった。
「詩歌を好む人で、その言動は夢の中に現れる人のようで捉えどころがない。同期からも後輩からも、気味悪がられて一線を置かれた人だった。俺も、その人のことはどこか苦手だったんだが、ある休日、兵学校の庭で居眠りをしていたら、その先輩に声をかけられた」
君は、凪の海に咲く花をみたことはあるか?
「まったく、意味の分からぬことをいう人だと思ったが、俺は思わず『凪の海に咲く花とはなんですか?』と尋ねてしまった。すると、先輩は笑ってこういったんだ」
魂の輝きだよ。海が凪いだとき、無念のうちに失われた魂が、天へ召されるための道が開く。現世をさまよう魂は、その道を昇っていく。それを凪の海に咲く花と言うんだ。船乗りだけが見ることの出来る、美しい花だよ。
「彼がなぜそんなことを俺に言ったのか、今となっては分からない。先輩はその後、兵学校を卒業する前に姿を消した。まるで、最初からそこには誰も居なかったかのようにな」
「不思議な話ですね……」
小野寺が呟くと、西村は小さく笑った。
「だが、この話には続きがある。先輩の話も忘れかけた頃、俺は見たんだ。凪の海に咲く花を。それが、パリックパパンの時だ。他の誰もまったく見えていないのに、俺だけが沈み行く僚艦から天に昇る魂を見たんだ。幻か神秘か、それは筆舌しがたいほどだった」
そう言って、西村は煙草の吸殻を海に放り投げた。吸殻は暗闇に吸い込まれるように、舷側を掠めて消えた。軍帽を目深に被りなおした西村の横顔に一瞬陰りが差した様に見える。
「いつか、俺も凪の海から天へ昇る日が来るだろう……その時、俺の凪の花を見るのは、小野寺君、君かもしれんな」
「司令?」
小野寺は、西村の陰りに不安めいたものを感じずにはいられなかった。しかし、小野寺の不安を他所に、またすぐに西村の顔に穏やかな笑みが戻ってきた。
「なあに、冗談だ。さて、そろそろ部屋に戻るか」
西村は踵を返した。小野寺はそんな西村の背中に、不穏なものを感じずにはいられなかった。しかし、それを問う勇気はない。
「小野寺君、俺の家は貧乏だ。君が死んでも、君の遺族まで面倒見れんからな。死ぬなよ」
振り返った西村は小野寺に言うと、敬礼した。慌てて、小野寺も敬礼を返した。
【四】
翌日の朝から、ブルネイ泊地は騒がしくなった。時計の針が八時を指す頃、晴天のブルネイ泊地を、栗田長官率いる第一部隊が出発した。先頭を行くのは、栗田長官の座上する艦船で、旗艦でもある重巡洋艦愛宕。要塞のごとき堅牢な艦橋を持つ船だ。それに続き、宇垣纏中将率いる大和・武蔵・長門といった、海軍が誇る巨大戦艦が出航する。その数はざっと十九隻にも及ぶ。それは、威風堂々と決戦に挑む架のような佇まい。しかし、艦列のどこにも航空母艦の姿はなく、所謂戦闘艦のみの布陣となっていた。
一方、遅れてブルネイを出発することとなっている、西村艦隊の乗組員達は総出で、栗田艦隊の健闘を祈って帽を振った。
「この威容なら、敵軍も恐れを成すでしょうね」
甲板の上。軍帽を振りながら小野寺は、江崎寿人主計長に言った。江崎は大きな口を開き、豪快に笑う。江崎は髭の良く似合いそうな、豪胆な人物だった。小野寺は、もっとも西村と対極の性格で、それでいてもっとも西村に似た軍人だと思っている。
「でしょうな。しかしまあ、米国とて負けてはおらんでしょう。敵主力艦隊の底力は、マリアナでイヤと言うほど見せ付けられました」
「では、江崎さんは、勝機がないと仰るので? 誰ぞ聞き耳を立てているやも知れませんよ」
「いやいや、そうではなくて、油断はできないと言うことですよ。少なくとも、米軍よりも士気はこちらが上。後は、我々の健闘次第といったところでしょう。ほら、トラック泊地で燻っていた大和も、揚々たる船出じゃないですか」
「江崎さんは、いつも剛毅ですね。いや、その方がいいのかも。いけませんね、どうも心配性で。昨晩も西村長官に叱咤していただいたと言うのに」
小野寺が頭をかきながら言うと、江崎は遠のいていく艦列を眺めながら、
「あの方は、厳格な栗田長官と違い、いつも穏やかだ。時化など何処知らぬような顔で、どんな難局も乗り越えられる。俺もあのような海軍軍人でありたいと思うのですが、いや、どうにも性格というのは、改められぬものですな、お互い」
と、半ば自嘲気味に言った。しかし、小野寺は江崎の豪胆さを羨ましく思う。パリックパパン以来、ソロモンをはじめとする海戦に出撃し、大尉と言う階級にまで昇進したにもかかわらず、先に不安を禁じえない自分とは違う姿。彼や西村のような人間こそ、軍人と呼ぶに相応しいような気さえしてくる。そんなことを思うのは、いつにない決戦と言う舞台にたっているからなのか、それともそれが一人の人間としての小野寺なのかは、よく分からない。
「さて、我々も出撃準備の仕上げに取り掛からないといけませんな」
江崎は軍帽を被りなおしてから言った。
「いつまでぼんやりしているか、貴様ら! さっさと持ち場に着かんかっ!!」
立ち去り際、江崎の怒号が浴びせかけられる。無論、小野寺にではなく、いつまでも栗田艦隊の航跡を見送る学徒兵に、である。学徒たちは、慌てて江崎に敬礼すると、雲の子を散らすように各々の持ち場へと走っていった。
学徒動員。深刻化する戦線の、喪失した兵力を補完するために徴兵された、高等教育機関文系学科の学生達である。集められた彼らは、陸海軍の下士官などに充てられ、戦地へと送り出された。しかし、今後の日本の礎となる若者たちまで、戦争という苛烈な世界へ引っ張り出す、日本にはたして勝機はあるのか。それは、小野寺がまだ新米であった、パリックパパンの時にはまったく抱かなかった思いだ。だが、戦闘経験が次第に彼の心に、不安の二文字を芽生えさせた。それは、日増しに強くなっていく。
勝つか負けるかではない。祖国を守る意思が、俺たちにあるかどうかだ。戦争などと言う非生産的なことしか出来ない、俺たちに与えられた役目は、国を、人々を守ることだ。言い換えれば、それが出来るのは軍人の他にいないということだ。
脳裡に西村の言葉が甦る。それは、いかな理由あろうとも、自らが海軍軍人であることの意味。軍人の覚悟だ。不安は拭えずとも、迷うべきではない。そう教えられたばかりではないか。小野寺は邪念を払うように、頭を振った。
「勝つも負けるも俺たち次第か。江崎さんの言うとおりだ、いつまでもぼんやりとしていられないな」
小野寺は江崎と学徒の後姿を見ながら呟くと、自らも軍帽を被り直し、持ち場へと向かった。
西村艦隊が出撃するのは、午後三時である。本作戦は、四つの艦隊で、別々のルートを進軍しレイテで合流し、その全精力をもって、アメリカ主力艦隊を撃沈せしむことが最終的な目標である。ブルネイを出発した栗田艦隊はサンベルナルジノ海峡を抜けてレイテへ。西村艦隊は、スリガオ海峡を抜けてレイテへと進出する。
この進軍ルートの分割には、二つの意味があった。一つは、敵戦力の分散である。いずれの海域にも
アメリカ軍は兵力を配置しており、危険であることに変わりはないが、決戦の地であるレイテ湾へ進出するに当たって、その被害は極力抑えなければならない。特に、両艦隊ともに航空戦力による援護はなく、戦略から言っても、同じルートを進むのは有効な判断にはならないだろう。
同時に、西村率いる第二艦隊は、欠陥戦艦「山城」「扶桑」を抱えている。速力が遅いこの戦艦は、大和級や高速戦艦金剛級に比べ、速力が大きく欠けていた。そこで、概算距離が圧倒的に短いスリガオを抜けるルートが割り当てられた。それと同時に、バナイ島を出発した志摩艦隊とスリガオでの合流も控えていた。そのために、時間的な誤差も含め、西村艦隊は十月二十三日の午後三時の出発となったのである。
出撃の刻限が迫るまで、西村艦隊の各艦は粛々と準備を整えた。この戦いが、激烈な戦闘になることは、誰の目にも明らかであった。決戦。その二文字は思う以上に重い。もしも、フィリピン諸島を失えば、アメリカ軍が新開発した高々度爆撃機「B−29 スーパーフォートレス」は日本本土への航続距離を得たことになる。それは、本土空襲への第一の足がかりが整ったことを意味していた。
アメリカ軍がどのような手段をとってきたとしても、本土に住む民間人を巻き込むわけには行かない。それが、レイテへ出撃する兵士たちの共通の観念だった。
【五】
「スリガオ海峡に向け、進路合わせ。山城、両舷前進微速っ。出航!」
篠田勝清艦長の声を合図に、山城の船体が僅かに軋み、ゆっくりと前進し始める。小野寺は腕時計を見た。時計は午後三時を示していた。予定刻限の出航。
ブルネイを出発した、西村率いる第三部隊は、戦艦「山城」「扶桑」に続き、重巡洋艦「最上」、駆逐艦「山雲」「満潮」「朝雲」「時雨」の七艦である。数に少ない西村艦隊は、スリガオ海峡にて志摩清英中将率いる「南西方面艦隊・第二遊撃部隊」こと通称、志摩艦隊の十艦と合流する予定であった。
「レイテまで八百十五海里……、二十ノットしか出せない本艦にとって、この旅程は長い。敵はすでに、スリガオに潜水艦を配備しているだろう。常に警戒を厳にせよ」
篠田艦長の隣に立ち、穏やかなブルネイの湾を見渡す西村が言った。塔の様に聳え立つ山城の艦橋からみる海は、見晴らしも眺めも素晴らしかった。ここが、戦地でなければ、誰もが美しい南洋の海の午後を満喫したいだろう。
「はっ。各員、警戒を厳にせよっ!」
篠田の地鳴りのような声が艦橋に響く。この人もまた、欠陥戦艦の片割れである山城を与えられ、どのような心境なのだろう。小野寺はチラリと篠田の横顔を見た。厳しい目つきで、その向うに臨むレイテを睨む篠田の顔に、余計な思慮は持ち合わせていないと書いてあるようだった。
「西村司令、海軍本部からは出来る限り戦力を温存して、レイテへ入るようとの命が降りています」
と、篠田が言う。
「うむ。適宜、航路は変更しながら進むべきだな。敵潜の目をどこまで欺けるかは分からんが、志摩艦隊と合流するまでは、こちらは寡兵だからな」
「わかりました。航海長に、スリガオの航路を分析させます。航海長っ!!」
篠田に呼ばれた航海長はすぐさま、テーブルに近海海域の地図を拡げた。小野寺たち将官士官は、一堂テーブルに集まる。細かく記された航路図。ブルネイからスリガオへ、そしてレイテ湾への進路。その上に航海長は定規を当てる。
「予測されうる、敵の位置は、昨日の軍議にて示されたとおりです。この中から、我々を待ち受けるのにもっとも相応しいと思われる場所は……」
そう言って、地図の上にペンを走らせる。
「こことここ、それからここになります。漠然とした地域のみですが、これらの海域を迂回して行くべきです」
「だが、それでは三日後の二十五日、栗田艦隊と合流するのに遅れはしないか?」
篠田は腕を組んで眉をひそめる。
「突出も遅延も、作戦の成否に関わる問題だ」
ブルネイで行われた栗田艦隊との軍議では、二十ニ日に出航した両艦隊は、三日後の二十五日にレイテへ同時突入を果たすこととなっていた。もしも、突出・遅延は志摩艦隊との合流にも支障を来たし、同時に七隻の艦艇では敵軍との交戦は難しい。とくに鈍足の西村艦隊にとって、遅延は憂慮すべき事態であった。
「では、偵察機を出してはいかがでしょうか? 」
と言ったのは小野寺であった。
「最上から偵察機を飛ばして、様子を伺いつつ進軍するのがよろしいかと思います」
「うむ、小野寺少佐の言うとおりだ。敵潜伏予想地域へ偵察機を飛ばす。最上に打電せよ」
小野寺の進言を入れた西村は、直ちに最上へ偵察機を飛ばす旨を伝えた。最上のカタパルトから水偵が発進した頃には、ブルネイの島影はすでに見えなくなっていた。
出航からしばらく、偵察と警戒、航路の微調整によって西村艦隊が敵軍の攻撃に晒されることはなかった。安定した航海が続く中、翌二十四日の夜、スリガオ海峡に向けて粛々と航路を進む山城の艦橋に、一通の電文がもたらされた。
「発、第一部隊栗田健男中将。宛、第三部隊西村祥治中将。我が艦隊、敵潜の攻撃に遭い被弾。六時三十二分、旗艦愛宕轟沈。同五十三分、重巡高雄大破。七時八分重巡麻耶轟沈」
伝令の読み上げる電文に、艦橋の誰もがざわついた。連合艦隊主力に大打撃が与えられたのである。
「なんとっ、三艦も戦闘不能に!?」
篠田艦長が青ざめた表情を浮かべ唸った。
「それで、栗田司令長官は無事なのか!?」
「は、栗田司令長官殿は愛宕から脱出され、大和に移りました。旗艦は、これより大和に委譲するということであります。なお、大破した高雄は水雷艇に護衛されるかたちで、ブルネイに後退するとのことです」
伝令は敬礼のまま、主力艦隊の現状を伝えた。
二十四日の一時、パラワン水道を航行中であった、栗田艦隊を発見したのはアメリカ軍の潜水艦「ダーダー」であった。ダーダーは、司令であるキンケイド中将にこれを報告すると同時に、旗艦愛宕に対して、攻撃を仕掛けた。発射された魚雷は六本。魚雷の白い航跡は、見事に愛宕を捕らえ、四本が命中した。また、ダーダーは次いで重巡洋艦高雄も攻撃した。両艦は尚も戦闘を継続したが、愛宕は夜を前に沈没した。更に、ダーダーの応援に駆けつけた、潜水艦デイスはすかさず重巡洋艦麻耶を攻撃した。すでに混乱状態にあったため、デイスの発射した魚雷は麻耶の船体を見事に貫いた。一方、愛宕に座乗していた栗田健男艦隊司令長官は、被雷した愛宕を降りて、予備旗艦に指定していた戦艦「大和」に移乗した。
「いかがなされます、西村司令?」
篠田が尋ねると、西村はしばらく瞳を伏せた。
「栗田艦隊は、大和を旗艦にそのまま進軍を続けている。我々もそれに続くほかあるまい。躊躇していては、ことも進まん」
「は、分かりました。栗田艦隊へ打電。我が艦隊引き続き、レイテへ進軍する」
篠田に命じられた伝令は、敬礼をすると足早に打電室へと走って行った。すでに、アメリカ軍は艦隊の進軍を知っている。小野寺は息を飲んだ。
【六】
アメリカ主力艦隊は、栗田艦隊との交戦で、こちら側が進軍を開始したことを知った。もっとも、キンケイド中将は、この艦隊移動の真意を連合艦隊の東京集結と勘違いしていたが、小野寺たち日本軍にとっては、敵の攻勢が激しくなることを意味していた。
栗田艦隊が米軍と交戦し、明けて二十四日。ネグロス島の南を航行する西村艦隊は、本作戦初めての、交戦を行った。それは、時計の針が、午前九時半を廻った頃、伝声管からの報告が飛び込んで来て始まった。
「電探感ありっ!! 北方より米軍航空機二十機あまり、接近中っ!!」
「とうとう、来たか……、全艦に通達!! 機関最大戦速! 対空戦闘用意っ!!」
西村の指示が飛ぶ。あっと言う間に艦橋は慌しくなった。小野寺は伝声管に駆け寄り、金色の蓋を開け、各部への命令を下知する
「敵機来襲!! 機関最大戦速! 対空戦闘用ー意っ!!」
小野寺の声を合図にするかのように、西村艦隊の各艦船から敵機来襲を知らせるサイレンが鳴り響いた。緊張感が走る。艦橋にいる将官士官は、そろって辺りを見回した。すると、ネグロス島の小高い丘の向うに、鳶の群れを思わせる影が現れた。数えられるだけでもその機影は二十七機。アメリカ軍の艦載機部隊であることは明白だった。
「高角砲射撃用意っ!! 仰角三十度、方位十五度っ!!」
艦の左舷に取り付けられた高角砲が旋回し、敵機を捕らえる。編隊を組んだアメリカ軍航空機隊は、帯が折れ曲がるように、こちらに向かって降下を開始した。
「指揮所、ひきつけろっ!! まだ撃たせるなっ!!」
小野寺は伝声管に向かって叫んだ。静まり返る周囲に、レシプロ戦闘機特有のプロペラ音が聞こえてくる。
「敵機、射程圏内ですっ!!」
伝声管からの声。しかし、小野寺は迫り来る米軍機を睨みつけながら、まただと指示を送る。やがて降下してきた米軍機の先頭を飛ぶ一機から、機関銃の火線が伸びてくる。空気を引き裂くような銃声。海面を叩いた銃弾は、水面に柱を立てながら、山城を狙う。
「今だっ!! 高角砲、撃ち方はじめっ!!」
小野寺は伝声管に向かって怒鳴った。次の瞬間、左舷高角砲が火を吹く。発砲煙とともに真っ赤な砲弾が敵機に向かって飛来する。一瞬の間をおいて、砲弾は先頭の機体に命中した。激しく炎を上げて四散する敵機。しかし、続く二機目の戦闘機はまるで木の葉を返すかのようにひらりと、砲撃をかわした。後には、火薬の煤煙だけが残る。
「怯むなっ!! 対空迎撃、撃てっ!!」
乱れ飛ぶ機銃弾の中、各艦の対空機銃座が米軍機に向かって、射撃を開始した。雷鳴のような射撃音が響き渡った。もはやどれが、どちらの弾丸かも分からぬほどの火線が飛び交う。しかし、米軍の航空機攻撃に対して、対空装備を施しているとは言え、三連装機関銃や高角砲では飛び回る蝿に砂粒をぶつけるようなものだ。それが当たる見込みはそれほど高くはない。
「最上、時雨、被弾っ!!」
別の伝声管からの報告が飛び込んでくる。すぐさま艦橋外側のデッキに飛び出した士官が、後続の最上を確認する。双眼鏡から見て取れる範囲では、最上の前部甲板から煙が上がっているが、絶え間なく攻撃を繰り返しているところを見れば、まだ最上は健在のようだった。
「最上、損傷軽微の模様っ」
報告を受けながら、小野寺は艦上に舞う敵機を見上げた。窓の外では、まるで米軍機が羽虫のようにクルクルと忙しなく飛び回っている。
「攻撃の手を緩めるなっ!!」
と、小野寺が命じたその時、機銃座の弾丸が米軍機の尻を捉えた。回避に手間取った瞬間の出来事だったのだろう。火の粉と煙を上げながら墜落する戦闘機の風防が開け放たれ、白いパラシュートが開いた。
「よし、二機撃墜っ」
艦橋に居る、誰かが言った。しかし、敵はまだ二十機以上健在だ。小野寺は薄暗い青色の戦闘機を睨みつけた。
敵機はそのまま南へと艦隊をすり抜けると、編隊を組みなおす。体勢を立て直し、再度攻撃を仕掛けるつもりだと、小野寺は思った。
「敵が引き返してくるぞっ、右舷対空射撃用意っ!!」
小野寺はすぐさま右舷砲撃指揮所に命令を下す。すると、小野寺の背後で声が聞こえた。それは、篠田艦長の低くくぐもった声であった。
「妙だ。敵は魚雷を一発も落としていかなかった。よもや、機銃だけで沈められると思っているわけではあるまいに……」
「反転後、魚雷投下するつもりでは?」
と、言ったのは江崎であった。江崎はちらりと米軍機が飛んで行った方向を見る。しかし、敵機の姿はそのまま、雲の向うへと遠ざかっていくばかりであった。
「おそらく、彼らの目標は本隊だ」
静かに西村が言った。小野寺はふと、そんな西村の横顔を見た。穏やかな表情、敵機来襲などなかったかのように落ち着いている。言い換えれば、豪胆にも毅然としている。騒然とする艦内で、これほど静かな顔をしている者は、他にいないだろうと、小野寺は思った。
「各所、損害状況知らせっ!! 敵の攻撃に備えろっ!」
西村の隣で、篠田艦長の怒声が飛ぶ。直ぐに士官の一人が艦橋を飛び出し、それと入れ替わるように、伝令が艦橋に現れて他艦の損害状況を知らせた。
「最上、時雨、両艦とも損害は軽微。航行に何ら支障はないとの報告であります。なお、僚艦が敵機一機をしたとのことです」
「そうか。伝令、栗田艦隊に打電せよ」
報告を受けた西村が命じる。
発、第三部隊司令西村祥治中将。宛、艦隊司令長官栗田健男中将。○九四五。ワレ、敵機撃退。撃墜三、至近弾数発ウケシモ被害軽少、戦闘力ニ支障ナシ。
西村の発した伝文はすぐに、栗田の下に伝わった。そのころ、栗田艦隊はシブヤン海を航行し、スールー海に到達しようとしていた。アメリカ軍第三十八任務部隊に発見された栗田艦隊は、同日の十時ごろから、激しい攻撃に見舞われた。
特に戦艦「武蔵」は次々と迫り来る米軍機から、二十本近い魚雷と爆弾を浴びせかけられ、ついに沈没。また、巡洋艦妙高が脱落し、旗艦大和、戦艦長戸、巡洋艦利根も被弾した。このため、栗田艦隊は一路空襲圏外へと反転した。反転の旨はすぐさま、西村艦隊にも通達した。しかし、その伝文には西村艦隊への行動の指示がなかった。
一方、栗田艦隊を攻撃していたアメリカ軍は、北側からレイテへ進軍していた小沢艦隊を発見する。すぐさま、栗田艦隊の動向を探らせていた偵察機を撤収させ、小沢艦隊へ攻撃開始する準備を整えていた。
栗田艦隊の反転を知りながらも、指示を仰げない西村艦隊は、そのまま進軍を続けた。やがて、夕闇が迫る時刻になって、栗田艦隊は栗田の意向に従い、敵が居ないことを確認して再び進軍を再開する。この時、栗田は再進軍を悟られないために、進軍の打電をしなかった。そのため、連合艦隊司令部は艦隊の現在を知ることが出来ず、七時になって各艦隊に「天佑を確信して、全軍突撃せよ!」との命令を下した。
この命令を受け取った時点で、西村は栗田艦隊の再進軍を知らなかった。艦橋に集まる将官士官が、不穏に思ったのも無理からぬことだった。
「栗田長官は、先ほどの豊田副武総司令の命令に従って、再び進軍を開始しているはずです」
とは、小野寺の意見だった。しかし、この懸案は難しく、誰にもそうだとは言い切れなかった。西村艦隊は栗田艦隊へ何度も、現状報告を打電した。しかし、それについて栗田艦隊からの応答はない。困惑に誰もが囚われていた。
「確証はありませんが、小野寺少佐の言うとおりです。いずれにしても、栗田艦隊からの指示を待っているわけには行きません」
江崎が航路図を睨みつけて言う。
「栗田長官たちが反転しままであれば、我々の方が先にレイテへ到着してしまう。志摩艦隊と合流したとしても突出すれば、われらだけで米主力艦隊と対峙できるか?」
別の将校が眉間にシワを寄せた。艦橋には、引き続き進軍することに賛同するものと、難色を示すものがいた。
「今更、必勝の信念で敵弾は避けられないぞ」
将校がそう付け加えた。すると、西村が深く溜息をついた。表情は相変わらず穏やかだったが、その眉目には言い知れぬ迫力を感じずにはいられなかった。
「例え、栗田艦隊が進軍を再会していたとしても、反転した時点で我々が突出してしまうだろう。どうやっても、我が艦隊は本隊と合流できまい。我々は、このまま進軍を続ける。明朝四時、ドラグ沖へ突入する旨を、栗田艦隊へ打電しろ」
西村が静かに指示を下す。
「ええっ!? それでは、レイテ湾突入時刻を繰り上げることになりますっ!」
小野寺はたまらず驚きを言葉にしてしまった。
「夜襲をしかける。この寡兵で勝利を得るには、夜陰に紛れ込むほかあるまい」
そう言う、西村の言葉は覚悟に近かった。ここに来て、作戦に微妙な齟齬が生じ始めている。連絡網が不備であるためなのか、それとも米軍の本隊への苛烈な攻撃の所為なのか。西村は、そのいずれとしても、ここで歩みを止めるわけに行かないことを分かっていた。
戦闘艦として期待されていない、欠陥戦艦「山城」「扶桑」を抱える西村艦隊の役目は、牽制である。その役目を果たすためには、躊躇は許されない。腹をくくった西村の決断は、先行してレイテ湾へと突入するというものであった。
【七】
「二五日、○四○○、西村艦隊ハドラグ沖ニ突入ノ予定」
伝文を送った後、一時間半ほどして、栗田艦隊小柳富次参謀長の名前で、返信が戻ってきた。
「栗田艦隊ハ、二五日、一一○○、レイテ湾突入ノ予定。貴隊ハ予定通リ突入シ、○九○○、スルアン島レイテ湾入口、タクロバンヨリ六〇海里ノ地点ニ於テ、本隊ニ合同スベシ」
それは、栗田艦隊からの、事実上の突出許可であった。この時、小柳参謀長は、西村艦隊の生還を期待してはいなかった。この伝文に対し、西村は何の応答も返さなかった。
南洋の夜空が最も美しい筈の時刻、それまで晴れ渡っていた空から星がいっせいに消える。それは、雨雲の到来を知らせていた。やがて、艦隊を激しい雨粒が叩いた。
「南国の天気は変わりやすいと言うが……これほど激しいスコールは初めてだ」
小野寺は霧がかかったような、窓ガラスの向こうを眺めながらひとりごちた。不思議と気分は落ち着いていた。この先の航路は、決死を覚悟する「死出の旅路」のようなものである。いや、首尾よくアメリカ艦隊を撃滅できたとしても、無傷ではいられない。その時、果たして自分や、西村たちは生きているかどうかも分からない。それなのに心はそれほど悲観していない。むしろ、晴れ晴れとした気分さえ感じてしまう。
「これで、先の戦闘の煤を洗い流すことが出来ますな。小野寺少佐は雨がお嫌いか?」
不意に隣で声がした。江崎主計長だ。彼は小野寺の独り言を聞いていたのだろうか。そんな彼にも、決死への悲観さは見受けられなかった。
「いえ、雨は嫌いではありません。少なくとも、この淀んだ空気が涼しくなるでしょう」
「なるほど、確かに南洋の蒸し暑さには、ほとほと困り果ててましたからな。しかし、このスコールでレイテの海が荒れなければいいのですか」
江崎の言葉に耳を傾けながら、小野寺はふと西村との会話を思い出していた。凪の海。それは、戦の海から死した魂が天へと帰る予兆。ならば、海が荒れ凪の海が訪れなければ、誰も死ぬことはないのではないか? そう考えてから、小野寺はすぐに頭(かぶり)を振った。海が荒れればなおさら作戦は、困難を極めるだろう。そうなれば、兵士の生死など、誰にも分かりはしないのだから。
「生き死には、そんなに簡単なことではないな……」
小野寺の呟きは雨音にかき消された。
「はい? 何か言いましたか、小野寺少佐」
「いえ、独り言ですよ……。しかし、何故でしょう。出航前は、ひどく不安を感じて止みませんでした。作戦も、この艦も、すべてが無謀なことのように思えてならなかったのです」
「小野寺さんらしいですな。いや、失敬悪い意味ではない」
江崎が笑いながら言う。
「思慮深く、余計なことを考えすぎる。昔、親父によく言われました。親父は、歯牙ない農家で、米を育てることだけが生きがいみたいな人でした。そのくせ、喧嘩っ早くて雷のように怒る」
「お父上のこと嫌いだったのですか?」
「いや、そんなことはありません。父に褒められたくて、どうすればいいのか、それを考えるうちに、何事にも悩みあぐねるようになった。思慮深いとは言いようで、実のところ、ただ悩んでいるだけなのですよ。しかし、今は晴れ晴れとした気持ちです。これから死地へと向かうにもかかわらず、何故このような気持ちになれるのか。死ぬことが怖いと思ったことは、幾度もある。その度、生き残ったことに感謝してきたと言うのに、悩みも不安もない」
小野寺の瞳は、遠く雨粒で見えないはずの海を眺めていた。江崎はそんな小野寺の横顔を見ながら、
「それが、覚悟と言うものではないですか?」
と言った。覚悟。それがどのようなものなのか、小野寺は今まで考えたこともないことに気付いた。ただ、パリックパパンでの失態を繰り返さぬため、あちこちの戦場でがむしゃらに戦い、出世した。そんな自分が「覚悟」をしていたのかさえ分からない。ただ、江崎の言うように、死に直面して尚、晴れ晴れとした気持ちであることが「覚悟」というのなら、それは、小野寺にとって笑い種でしかなかった。
「覚悟……今更私に覚悟など、なお更不思議としか言いようがありません」
そう言って、小野寺は自嘲気味に笑い、江崎の怪訝な表情を誘った。ふと腕時計を見ると、日付は変わり十月二十五日を迎えようとしていた。
小野寺の思惑を他所に、スコールは一時間と経たぬうちに上がった。それからほどなくして、西村艦隊はスリガオ海峡に入った。西村は栗田艦隊へ「○一三○、スリガオ海峡ヲ通過シ、レイテ湾ニ突入セリ。スコールアルモ、天候はオオムネ回復シツツアリ」との打電を送った。
この時すでに、アメリカ第七艦隊は西村艦隊のスリガオ海峡北上を察知していた。司令官、キンケイド中将は直ちに、オルデンドルフ少将の艦隊を差し向けた。戦艦六隻、巡洋艦八隻、駆逐艦二十六隻、魚雷艇三十九隻を抱える、オルデンドルフ艦隊は、西村艦隊の航路上にて、待ち伏せすることにした。すでにそのことを、西村艦隊も察知していた。そんな西村艦隊が敵軍と最初に衝突したのは、スリガオ海峡をレイテ湾目指して北上して間もなくであった。
「敵、魚雷艇、魚雷発射っ!! 感四っ!! 真っ直ぐこちらに向かってきますっ!!」
索敵を行っていた将校が叫ぶ。すぐさま各艦は戦闘配備に付く。敵船から放たれた魚雷は白い航跡を残しながら、直線的に迫ってきた。その狙いは、先頭を進む山城である。
「回避っ!!」
艦長の怒号とともに、山城の舵は左に切られた。あわやと言うところで、魚雷は艦の右舷を通り過ぎやや後方にて水柱を上げた。その振動が艦橋にまで伝わってくるような気がする。
すぐさま、山城は舵を戻す。それと同時に、駆逐艦山雲から二本の魚雷が投射された。魚雷は山城の傍を通り過ぎると、真っ直ぐに敵魚雷艇に狙いを定めた。
月夜の海上に爆発音と閃光が瞬いた。山城の艦橋に、「おおっ、やったぞ」と歓声が上がる。
「まだだ、敵駆逐艦の姿が見えん」
西村が静かに歓声を収めた。三十九隻の魚雷艇は、さながら餌に群がる小魚のようだった。敵魚雷艇からは、次々と魚雷が発射される。尚も駆逐艦はそれを迎撃しつつ、北上を続けた。アメリカ軍の魚雷艇は追跡可能な限り、西村艦隊を追尾・攻撃を繰り返した。
時刻は午前三時を迎える頃、唐突に島影から光が見えた。
「時雨より打電っ!! 左舷前方、ティナガット島方面、敵駆逐艦隊っ!!」
艦橋に走り込んできた伝令が叫んだ。その瞬間、島影に先行が走り、山城の左舷付近に水柱が上がる。敵艦からの砲撃である。幸い、敵弾は艦に着弾しなかった。
「機関最大戦速っ!! 対艦戦闘用意っ!!」
篠田艦長の命令が下る。小野寺はすぐさま、主砲指揮所の伝声管の蓋を開けた。山城の主砲塔であれば、敵駆逐艦の射程範囲外から砲撃を浴びせかけることが出来る。しかし、ここに至って問題があった。山城の電探は、昨日の空襲で半壊しその機能を失っているも同然であった。これでは、敵艦に対して、正確な砲撃を射掛けることが出来ない。
小野寺が伝声管を睨みつけながら思案をめぐらせていると、彼の背中に西村が声をかけた。
「照射砲撃だ、少佐。危険は大きいが、他に手はない。敵艦を一発でしとめろ」
「はっ、了解しました。一番、二番主砲、方位百二十度、仰角十度、目標に照射砲撃用意っ!!」
小野寺の合図と共に、左舷の探照灯が眩い光を点けた。月光よりも激しい光は、島の傍をこちらに向かって走る駆逐艦隊を捉えた。
「一番、撃てっ!!」
どんっ、と腹に響くような轟音。二つの砲身から、真っ赤な光が飛び出す。目にも止まらぬ速度で、敵目掛けて弧を描いた砲弾は、敵艦の回避の暇を許さず着弾した。
「二番、撃てっ!!」
すかさず、小野寺は指揮所に命じる。立て続けに、二番主砲の砲門が火を吹く。一番主砲と同じ軌道を描く弾丸は、やや左にそれた。小野寺が歯噛みする。予想通り、回避を始めた敵艦の右舷で水柱が上がる。
「まずいっ!! 反撃が来るぞ、探照灯を消せっ!!」
夜戦における照射射撃は灯によって敵の位置を特定するため、反対に敵艦側からも自艦の位置を特定されてしまう。一瞬の油断は、敵艦隊に絶好の機会を与えるだけだ。しかし、探照灯が消える直前、敵艦から発砲光ではなく白煙が上がる。何事かと、艦橋は騒然となった。
「煙幕か! 逃げるつもりなのか!?」
将官の誰かが言った。艦隊を覆い隠すほどの白煙は、灯を消した暗闇でもはっきりと分かるほどだった。小野寺は、その意味を理解していた。
「ちがう、あれはっ!!」
叫び声をあげようとした瞬間、漆黒の海面に扇状に広がる無数の白い帯が見えた。白煙は煙幕などではなく、敵駆逐艦が幾重にも魚雷を発射した発射煙だった。猛烈な速度で襲い掛かる魚雷群。
「魚雷防御ーっ!!」
回避が間に合わないと悟った篠田艦長が怒声を上げた。小野寺達は手早く近くの物にしがみついた。ややあって、足下から激しい振動が伝わってくる。バランスを崩した小野寺は、床に転んだ。軍服のポケットから、煙草入れの缶がこぼれ落ちた。すると、カラカラと床を滑る缶は、西村の足下で止まった。
「少佐、落し物だ」
西村はそれを拾い上げると、小野寺に差し出した。その顔はやはり穏やかであった。この状況にあっても、うろたえない。毅然とする指揮官の姿、それが「海の侍」の覚悟なのか。
「は、申し訳ありません」
そう言いながら立ち上がり、西村から缶を受け取った。申し訳ありません、と言っておきながら的を外したことを謝ったのか、缶を拾ってもらったお礼を言ったのか、自分でもよく分からなかった。
「被害状況報せっ!! 戦列を立て直せっ」
篠田艦長が猛然と叫ぶ。この時、山城には一発の魚雷が命中していた。直ぐに水密区画を閉鎖し、被害を食い止めたのだが、魚雷は意思を持ったかのごとく、西村艦隊を捕らえていた。放たれた魚雷のうち四本は、姉妹艦である扶桑に連発して命中していた。
それはあっという間の出来事だった。魚雷を受けた扶桑は弾薬庫に引火して、火柱を上げた。そして、艦の中央で真っ二つに割れたのである。艦長の退艦命令も空しく、扶桑は地獄の炎に包まれたまま、乗員の命を道連れに海底へと没していった。防御に欠点を抱えた「欠陥戦艦」故の末路であった。
「扶桑轟沈っ!! 満潮、朝雲被雷っ!!」
次々と駆け込む伝令が、被害のすさまじさを伝えた。たった一度の魚雷攻撃で、七隻のうち半数以上が被害を被った。忌忌しき事態である。
「満潮、朝雲は航行できるか?」
伝令に西村が問いかけると、伝令の青年は静かに首を横に振った。頼みの駆逐艦が失われたことに、艦橋が嘆息に包まれた。西村はしばらく瞳を伏せた。
「止むを得ないな、満潮、朝雲両艦は、ここに捨て置く。残った三艦だけで、レイテへ北上するぞ」
非情な命令であった。しかし、山城とて魚雷を受ければ、いつ扶桑と同じ最期を遂げるかわからない。それでは、西村艦隊が単独突出した意味がない。ただ、死するためにここにきたわけではない、そう西村の眼が語っていた。
山城、最上、時雨の三隻となった艦隊は、敵駆逐艦を振り切るように、全速力で海を走った。魚雷艇、駆逐艦に囲まれ逃げ場など残されてはいない。西村は、各艦に命令を送った。
「ワレ、魚雷攻撃ヲ受ク。各艦ハ、ワレヲ顧ミズ前進シ、敵ヲ攻撃スベシ」
しかし、最上、時雨両艦は、山城にぴったりと寄り添った。被雷し速力を落とした山城を気遣ってのことなのか、それとも二隻では突入もままならないと悟ったのか、迫りくる敵駆逐艦を果敢に迎撃した。
「一番、二番、撃てっ!!」
小野寺は、声を枯らしながら、敵艦に攻撃を挑んだ。命中した弾もあれば、外れる弾もある。いくつの敵艦を沈め、いくつの敵に追われているのかも定かではない。しかし、それでも何とか艦隊は、スリガオ海峡の出口付近にまで迫った。
誰も口にしないこと。駆逐艦と魚雷艇の攻撃は、西村艦隊に迫る攻撃の一手に過ぎない。その先に待ち受けるものが何であるか、皆分かっていた。
「山城正面、敵艦隊発見っ!!」
視界正面、月光に照らされて黒い影が現れる。オルデンドルフ艦隊の戦艦「ウェストバージニア」と巡洋艦である。
ウェストバージニアは太平洋戦争の緒戦「真珠湾攻撃」にて、日本軍の航空機によって大破させられている。その後、浮揚し修理が行われ、再び戦場に姿を現した。闇の海に浮かぶその威容は、仇である日本軍艦に復讐の念を燃え上がらせているようだった。
「敵艦、砲撃っ!!」
伝声管からの報告よりも早く、ウェストバージニアの艦首か閃光を発した。アメリカ軍のレーダーリンク射撃は正確無比である。まるで、山城の前に水のヴェールを作るかのごとく、いくつもの水柱が上がった。接近すれば、山城は砲撃の的になるだろう。
「指揮所っ! 敵艦の発砲光を狙えっ!! 一番、二番主砲、発射っ!!」
小野寺の指示に従って、一番、二番主砲塔が旋回し、ウェストバージニアを射程に入れる。主砲が唸りを上げたのは、ウェストバージニアに再び砲撃の光が閃くのと同時であった。互いの砲弾はすれ違いながらも、弧を描いて飛翔する。
「敵弾、着弾ーっ!!」
悲鳴とも報告ともわからない叫び声とともに、艦橋が激しく揺さぶられた。まるで視界をさえぎるかのような、炎。飛び散る破片。それらが小野寺の視界に迫った。小さく見える甲板を蠢く負傷兵。聞こえるはずもない阿鼻叫喚の絶叫。火薬の詰まった巨大な鉄の塊を前にすれば、人間の体などひとたまりもない。後に残るは、焼け焦げた遺体と血溜まりのみだ。
「砲撃の手を休めるなっ!! 敵艦を駆逐し、活路を開けっ」
小野寺は指揮所に怒鳴った。次々と浴びせかけられる、大小口径の弾丸。その時、艦の後方で砲撃の光が瞬いた。最上からの射撃である。しかし、その砲弾は敵艦の方角ではない方向へと飛んで行った。
「最上は何をしているっ!? 敵艦は前方だっ!」
士官が毒づいた。山城の直接被弾で混乱した最上の電探は島影を敵艦と誤認していたことを、山城の乗員は知らなかった。的外れな砲撃は、敵に更なる好機を与えた。オルデンドルフ艦隊は、艦砲射撃を繰り返しながら、T字陣形に展開を開始した。たった三隻の敵を完全に囲い込み、追い込む。
「全艦、回頭っ!!」
T字陣形が完成する前に、この危機を脱さなくてはならない。篠田艦長の命令にあわせ、操舵が舵を切る。艦は急速に反転を開始した。しかし、それは敵に船の腹を見せることとなる。ウェストバージニアは、その隙をけして逃さなかった。
敵艦隊が無数の閃光を走らせた。それらは瞬く間に山城、最上の横腹を貫いた。幾重にも重なり合う爆音に小野寺は耳が遠くなるような気分になった。
「くっ、手も足も出ないか……」
小野寺は歯噛みしながら、ウェストバージニアの艦影を睨み付けた。悠然と迫りくる敵艦がこれほどまでに憎々しく思ったのは初めてだった。応射する一番、二番主砲の弾丸は悉く狙いをそれていく。小野寺は苛立ちを覚えた。
「最上炎上っ!!」
伝令が声を上げた。重巡洋艦最上は、砲撃をまともに食らった。火達磨と化した最上は停止し、艦のあちこちから生存者が海へ飛び降りる姿が見えた。
その瞬間、小野寺の視界が上下にぐらついた。流弾に当たったのか? いや体のどこにも、痛みも熱もない。そう確認する小野寺の正面。左舷の窓の外に何かが降ってきた。あれは……と思ったのもつかの間、激しい水しぶきが艦橋の窓ガラスを叩いた。
「上部艦橋崩壊っ!! 敵、尚も進軍中っ!!」
怯えるように、下士官が叫ぶ。塔のように聳え立つ、山城の艦橋が崩れ去るのは、アメリカ軍も確認していた。しかし、それでも、攻撃の手を緩めはしなかった。完膚なきまで叩き伏せる。それが、オルデンドルフ少将からの命令であった。
篠田艦長は直ちに反転を取りやめた。すぐさま舵は元に戻され、主砲による砲撃を再開した。満身創痍、再び敵に向かう山城の姿はその一言だった。
「艦後方、敵駆逐艦。雷跡八っ!!」
山城を追尾する駆逐艦が放った魚雷が、山城の後方より迫った。魚雷は山城の回避を阻止するため、扇状に広がる。防御も回避も間に合わない。
「まだだ……!! 四番、五番俯角マイナス二度!!」
小野寺の命令に戸惑う余裕もなく、山城艦尾の主砲塔が、海面に砲口を合わせた。
「雷跡の先端を撃てっ!」
アメリカ軍の魚雷は二酸化炭素の白い航跡を描く。その先端こそが魚雷である。狙いを絞り、主砲が海面を貫いた。魚雷が撃ち抜かれ、一際高い水柱が二つ上がる。しかし、砲弾を潜り抜けた魚雷を止める術はなく、四発の魚雷が山城に炸裂した。
「栗田艦隊に報告せよっ! われレイテ湾に向け突撃、玉砕せんとす!」
かすかに、爆発の隙間から西村の声が聞こえた。しかし、電撃のような炸裂音がそれを飲み込んでいいくのを聞きながら、小野寺の視界は暗転した。
何が起こったのかわからないほどだった。扶桑の時と同じように、一瞬のうちに、弾薬庫から炎と熱風が吹き上がった。そして、爆音が響き渡ると、山城を中心に海上に巨大な波紋を広げた
【八】
気付けば、小野寺は床に転がり天井を見上げていた。後頭部に痛みが走る。どうやら、爆発の振動で頭を強くぶつけたらしい。気を失ってどのくらいの時間が過ぎたのか。小野寺は、フラフラとしながら、立ち上がった。あたりを見渡すと、艦橋の窓ガラスは四散して、火の粉が舞い込んでくる。すぐ近くにいた士官は、顔を血に染めて斃れていた。煙の中、小野寺は生存者を探した。
「小野寺少佐、ご無事ですかっ!?」
煙の中から江崎が姿を現した。顔中煤と汗に塗れてはいたが、怪我はしていない様子だった。
「ええ、大したことはありません。それよりも……」
他に生存者はいるのかと、尋ねかけて小野寺は口をつぐんだ。煤煙が風に煽られると、艦橋には多くの者が横たわっていた。血飛沫と思しき壁の染み、窓から流れ込む人の焼ける匂い。恐ろしいまでに、そこは地獄であった。
「潮時ですな、西村指令……」
機器につかまり立ちをする篠田艦長が言った。西村は悠然と、燃え盛る炎を見据え頷いた。
「総員退艦っ!! 生き残ったものはすべて海へ飛び込めっ!」
それは、篠田艦長からの最後の命令であった。生き残った多くの者が海に飛び込んでいく。しかし、小野寺は艦橋を降りなかった。
「司令はいかがなさるおつもりですか!?」
西村に歩み寄り、問いかけた。すると、西村は穏やかな顔をして、
「小野寺君、あの煙草入れを貰えないか? なあに、冥土の土産にしたいんだ」
と言った。
「そんな! 司令も退艦すべきです。あなたのような軍人がいなければ、海軍は勝利を掴むことなどできませんっ!! どうか、艦を降りてくださいっ!」
「買いかぶりすぎだ、小野寺君。君にとって、この西村と言う男が模範であったとしても、今のこうしている現実がが俺の限界と言うことだ。それにな、これからの海軍に、いや日本に必要なのは、戦争しか知らないロートルの俺たちじゃなく、君のように正悪を悩みあぐね、そして戦う者だ……」
「西村指令の仰るとおりだ。小野寺少佐、江崎主計長、直ちに退艦したまえ。艦長命令だ」
西村の横で篠田艦長が小野寺を諭した。小野寺は西村の瞳に、揺ぎ無い意思を感じた。死して尚、武将であらんとする姿。愚直にもそれが、「海の侍」と呼ばれた男の生き様とでも言いたげであった。
小野寺はポケットから、煙草入れの缶を取り出し、西村に手渡した。
「生きろ、小野寺。生きて我らのことを伝えてほしい」
缶を受け取りながら、西村はそう言うと、軽く小野寺の肩を叩いた。
「それは、司令のご命令ですか?」
「そうだ、小野寺、江崎両名に告ぐ、司令官としての最後の命令だ。いいな!?」
「拝命しましたっ!!」
西村の言葉を聞いた小野寺は、敬礼を取った。西村も合わせて敬礼する。
やがて、艦のあちこちから鉄を引き裂くような音が聞こえてきた。もう幾ばくも船はもたないと、悲鳴を上げているかのようだった。
小野寺と江崎は、艦橋から飛び出した。ラッタルを滑り降り、甲板に出たところで、二人は連鎖する爆発に身を投げ出された。あっという間に、全身を海面に叩きつけられた。腕も胸も腹も痛みが走り抜けていった。
泳ぎは得意ではない。しかし、溺れ死ぬわけには行かない。海面に浮かび上がった小野寺は必死に浮遊物を探した。手近なところに弾薬の木箱が浮かんでいるのを見つけると、小野寺は必死でしがみついた。
その刹那、山城の船体が真っ二つに別れた。そして、巨大な炎の柱が天に舞い上がった。それなのに、あたりが静まり返る。耳が痛くなるほどの静けさ。反転後退を始めた駆逐艦時雨に対する敵の艦砲射撃も聞こえない。人の叫び声も、炎の音も聞こえなかった。
「凪の海だ……」
小野寺は呟いた。闇色と静寂の海。鏡のような水面。映りこむ黄色い月。真っ赤に燃え上がる炎。半身を沈めた骸のごとき船。ちらり、炎の根元で何かが煌いた。
君は、凪の海に咲く花をみたことはあるか?
魂の輝きだよ。海が凪いだとき、無念のうちに失われた魂が、天へ召されるための道が開く。現世をさまよう魂は、その道を昇っていく。それを凪の海に咲く花と言うんだ。船乗りだけが見ることの出来る、美しい花だよ。
火柱の周りを蛍のような淡い光が舞う。それらは、クルクルと艦の真上を飛び回りながら、天空へと消えていった。その様は凪の海に咲いた、一輪の花のようだった。西村たちの魂は、天へ召したと言うのか、それは無念の光なのか。ならば、何故この海はこれほどまでに静かなのか。
小野寺は叫んだ。憎しみか怒りか、それとも嘆きなのか、小野寺にもわからなかった。ただひたすらに、凪の海を舞い上がる魂の光に向かって叫んだ。届くはずもない声を……。
火柱が収まると同時に、辺りに風が戻ってきた。その瞬間、山城は最期の唸り声を上げながら、激しい水しぶきを上げ、漆黒の海を裂くように海底へと沈んでいった。そして、海に爆発の衝撃波と、高波が押し寄せた。小野寺の体は掴まる木箱ごと、宙に投げ出され、そして再び体を強く海面に叩きつけられた。
遠のく意識の中、何かが近づいてきて、何事か言って、手を伸ばしてきたような気がしたが、小野寺には、それが現実であったのか夢であったのかわからなかった。
西村艦隊と合流予定であった志摩艦隊は、西村艦隊に遅れること二時間の後に、スリガオ海峡へ突入した。この時、すでに西村艦隊の最上は炎上していた。艦隊の危機を悟った志摩艦隊は、すぐさま反転をし、撤退した。
山城を撃破したアメリカ軍のオルデンドルフ少将は、午前四時十分、攻撃中止を命じ、駆逐艦に救助活動を指示した。戦闘が終われば、海に漂流する者は、敵味方関係なく遭難者である。しかし、日本兵たちは、敵に命を救われることを善しとはしなかった。多くは自決し、アメリカ軍の救助を受けなかった。
また、江崎主計長など泳ぎの達者なもの達は、遠泳に挑みフィリピンの島まで泳ぎ着いた。その中には血の匂いによってきた、鮫に食われた者もいる。また、フィリピンまでたどり着いても、現地民によって射殺された者も少なくはなかった。これは、アメリカ軍がフィリピン人に武器を持たせ、対日抵抗軍のようなものを組織させていた所為である。幸い江崎主計長は、現地の老婆に救われ一命をとりとめた。
【九】
「目を覚ますと、そこはアメリカ軍の駆逐艦の船室だった。薄れ行く意識の中で伸びた手は、アメリカ兵の手だったんだな。さっきまで命を奪い合った相手に、助けられたとは、皮肉な話だと思ったよ。聞くところによれば、生き残ったのはわしを除いて十名足らずだったそうだ……」
実に西村艦隊の死者は四千名近くに上った。レイテに参戦した、他の三艦隊の被害を凌いでいる。
その後、日本軍は劣勢を極めた。レイテの戦いはアメリカ軍の圧勝に終わり、フィリピン諸島を手に入れたアメリカ空軍は、日本本土への絨毯爆撃による空襲を開始した。ナパーム弾という、可燃性の油が詰め込まれた焼夷弾が最初に落とされたのは、翌年、一九四五年三月十日、東京であった。燃え盛る炎の中、多くの市民が焼き殺された。これを皮切りに全国的に都市に対する空襲が日夜行われた。四月には、アメリカ軍は沖縄に上陸した。この折に、海軍は最後の頼みであった、戦艦大和を失っている。そして……。
八月六日の朝、よく晴れた広島の上空に、一条の閃光が瞬いた。世界で初めての核爆弾「原子爆弾」による攻撃である。死者は三十万人以上と言われている。次いで八月九日、長崎の空にも原子爆弾が光った。
中立条約を結んでいた筈のソビエトの侵攻もあって、ついに日本は追い詰められたことを確信するに至った。八月十五日。日本政府は連合国の示す「ポツダム宣言」を受け入れ、無条件降伏をした。
長きに渡る太平洋戦争が終結し、生き残った兵士たちは、それぞれの故郷を目指して日本へ復員した。
「終戦は、捕虜施設で聞かされた。敗戦したことは、聞くまでもなかった。それから、わしが、日本へ帰れたのは、戦争が終わって一年余り経ったころだった」
小野寺が孫娘の千佳に昔話を語り終えた。静かに息を吐き出す。冷たく曇った息だった。千佳は祖父から手渡された手帳を握り締めながら、静かに話に耳を傾けた。
「それから、故郷へは帰らなかった。望郷の念はあったが、生きて帰ってきて本当によかったのか、わしには分からなかった」
小野寺の言葉に、千佳は驚きを隠せなかった。
「そんな、どうして……?」
「戦後のわしを生かしたのは、西村司令の最後の命令だ。しかし、敗戦を立ち直ろうとするこの国を、人々を見ていて、初めてわしは罪を背負ったことに気付いた。英霊の元へ召す日まで、永遠に消えることのない烙印だ」
祖父がそう語る罪とは何なのか、千佳にはわからなかった。戦争をしたことが罪だというのなら、今この世界で戦争の名の下に、殺し合い、憎しみあっている人々はすべて罪人だ。千佳がそう言うと、小野寺は静かに首を振った。
「いや、そうではない。西村司令はわしに言った。『悩み戦う者こそ、生き残るべきだ』と。生き残ったわしに与えられたものはなんだったのか。多くの仲間たちが屍をさらし、南洋の海で帰らぬ人となったのに、わしは日本のために何の役割も果たせぬまま、のうのうと生き続ける」
「生きることは罪なんかじゃないよ、おじいちゃん」
「ああ、そうだな。しかしな、本当にあの戦争で生き残るべきだったのは、わしではなかったのではないか。わしの隣で息絶えた下士官だったかもしれない。そう考えるたび、戦後の日本にわしはなんの役割も果たせなかった」
いつの間にか、小野寺の頬を涙が伝っていた。
「昔のことを聞きたがるものなど居ない。若い者は振り返るべきではないなどと、決め付けてはいたが、その実わし自身が、あの凄惨な戦いを思い出したくなかった。その『覚悟』がなかったんだ」
伴侶にも、子どもにも誰にも戦争の話をしたことはない。昔の事を聞かれればそれとなくかわしてきた。それは、否応なしにあの凪の海に咲いた、光の花を思い出さなければならないからだ。戦地から帰った江崎主計長は、西村艦隊の戦いを後世に伝えた。しかし、小野寺は口を閉ざしたまま、今日の今まで、誰にも語り聞かせなかった。それが、小野寺にとっての罪であった。
「戦争が愚かか否か、わしには分からん。しかし、戦争で死んでいった名もなき人々の魂を本当の意味で救えるのは自分であったと言うのに……わしは、悩んでばかりの弱い人間だ」
小野寺はまるで自分を嘲笑うかのように言った。
「おじいちゃん……」
千佳にとって、祖父がそのように思い続けていたことなど知る由もなかった。そっと、祖父の日記を開いた。日記には、細かな文字でびっしりと書き添えられていた。それは、小野寺がアメリカ軍に助けられ、捕虜になっていた当時に書いたものだった。日記、と言うよりは回顧録で、小野寺は日本へ帰るまでの間、無我夢中でレイテの戦いを文字に連ねた。
平和な現代を生きる千佳には、戦争も死も、覚悟も到底理解できるものではない。ただ、祖父が戦後に抱え続けた呪縛のような思い、即ち怒りや悲しみ、悔しさ、ジレンマは、その文字に込められているような気がした。
「凪の海に……」
千佳は日記を閉じると、祖父の顔を見据えて言った。
「凪の海に咲いた花は、空へ昇っていったんでしょう? きっと、その先は天国だと思う。戦争が正しいのか間違いなのか、それはわたしにはよく分からないけれど、でもおじいちゃんと一緒に戦った人たちは、きっと一生懸命生きたと思う」
だから、命の輝きは淡い光となって、小野寺の瞳に映ったのだと、千佳は言う。
「もしも、おじいちゃんが弱い人間でも、日本のために何の役割も果たせていなかったとしても、絶対確かなことがひとつだけあるよ」
千佳の言葉は力強かった。あの日、最後の命令を小野寺に下した、西村の言葉とよく似ている。
「わたしは、おじいちゃんが生きて帰ってきてくれて嬉しい。わたしだけじゃないよ、お父さんもお母さんも、それに天国のおばあちゃんも同じ気持ちだよ」
そう言うと、千佳は小野寺に微笑みかけた。やさしい微笑みは、偽りのないものだった。
「そうか……そうか、千佳」
その時、小野寺は胸が温かくなるのを感じた。
罪は癒えなくとも、自分たちはこの笑顔を守った。それだけで、生き残った意味はあるのだ。今となっては確かめる術もないが、西村はこのことを伝えたかったのかもしれない。
「ありがとう」
小野寺は微笑んで、孫娘に言った。
(おわり)
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2009/07/22(Wed)18:09:42 公開 / 雪宮鉄馬
■この作品の著作権は雪宮鉄馬さんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
拙い物語を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。まずはじめに、歴史や軍事にはそれほど詳しくはないことを、深くお詫びいたします。ツッコミどころは満載かと思いますが、歴史的・軍事的な専門知識によるツッコミは、堪忍していただきたく存じます。
ご存知かとは思いますが、西村祥治中将は実在の人物です。太平洋戦争にあって、もっとも「武人」であった姿に感銘を受け、いつか西村中将をモデルに物語を書きたいと考えていたところ、本日に至ってようやく形にすることが出来ました。
しかし、リアリティと史実を優先して書いたのでは、他にもっといい著書がこの世にはあるので、ここは自分らしいフィクションを織り交ぜた「物語」にしようと考えました。歴史小説としては反則かとも思いますが、いかがだったでしょうか?
まだまだ精進至らぬ部分があるかとも存じます。皆様方からの感想、ご指導ご鞭撻をいただき、今後の糧としたく思っております。何卒、よろしくお願いいたします。