- 『1/3の彼女【サイト連載⇒登竜門投稿】』 作者:ノリヤス / リアル・現代 未分類
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全角155864.5文字
容量311729 bytes
原稿用紙約474.6枚
記憶喪失の主人公藤乃紫苑は、どこか満たされない日常の中、同じく記憶喪失で不思議なチカラを持つ天然少女一条綾音と出会い、同じ境遇を持つ二人は互いに惹かれあっていくが、一年が経ったある日、紫苑の渡したプレゼントをきっかけに発ノエルと名乗る人格が綾音に発現、紫苑が首を絞められ、何が起こっているのか理解できないうちに、人を滅ぼすという意志だけを告げてすぐに消えてしまう。これが始まりで、紫苑のようやく掴んだ日常が崩れ始める。
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プロローグ〜 失われた淡い緑光の追憶 〜
心という形の無い物を例えるとすれば、それはパズルに似ていると思う。
誰しもがパズルを持っていて、普段は形を成しているが、ふとした事で壊れてしまう。
そして、また少しずつ形を組み上げていく。
そうして人は、変化に富んだ日常を生きているのだろう。
だが俺は、パズルを組み上げる途中でカケラを無くしてしまった。
日常にカケラはなく、ただ世界は何事もなく廻っている。
そんな時は、自分一人、世界から取り残されたような気分になる。
何かを無くしたのに、何を無くしたのか分からない。
夢の中で貰ったプレゼントを探すように。
果てもなく、いくら探したところで決して見つからない。
日常に我慢できないほど不満があるわけではない。
時折訪れる、やりきれない空虚さ。
身一つで碧海をたゆたうような、不安定な浮遊感。
体のどこかに穴が空いたような、漠然とした喪失感。
そんな時は、抽斗(ひきだし)から『それ』を取り出してみる。
簡素な紐の先にぶら下がった『それ』。
軽く、光にかざして見る。
淡い緑光を放つ、装飾品にしては飾り気のない歪な宝石。
この光を見つめている時間は、不思議と空虚さが満たされていた。
『それ』は俺にとってオアシスで、安らぎで、パズルのカケラを埋めてくれて。
ただそれは、その場しのぎ。単なる代用品であることはわかっている。
俺はきっと、足りない何かを『それ』の向こうに見つめているだけだ。
大切な思い出を、写真の中に見つけるのと同じように。
故人を想い、墓前で手を合わせるように。
俺は『それ』自体に安らぎを覚えるのでなく、その向こうの何かに惹かれている。
それが何なのか分かれば、きっと、俺はカケラを見つけられる。
けど、本当は見つかるはずないと思っている。
そして、きっと、それでいいんだと思っている。思い込んでいる。
偽りの生活の中で、これだけは俺の真実なのだから。
だけど。
欠けてしまった俺の心は、失われたカケラを求めていた。
第一章〜 約束から始まる思い出 〜
1
普段と変わらない退屈な下校時間。
青年はいつも通りのルートで、いつも通りの時間に、いつも通り歩いていた。
それは毎日繰り返されるもので、眼を瞑っていてもできるような気さえしている。退屈で、面白みに欠けた行動だった。
しかし、日常とはこういうものであって、映画のように劇的な展開などそうそう起こらない。日常はそこら中に散らばるありふれた路傍の石と同じだと、青年は理解している。なので、別段文句を言うつもりもなく、最初から諦めていた。
このままいつもの通り公園を通り、いつも通り家に帰る。適当に食事を済ませて、テレビを見て、だらけて、寝る。
ただそれだけだ。
そして今日も、予定通りに行くはずだった。
……のだが。
予定外の足止めを食うことになった。
いつも通りではない物が、道の真ん中に『大昔からここに住んでました』と言わんばかりに堂々と座り込んでいた。
「ふんふ〜ん、ふふふ〜ん♪」
それは少女の形をしていて、やたらと嬉しそうに鼻歌と呼んだら鼻歌に怒られそうな、音程とリズム感皆無のかろうじてメロディらしいものを口ずさんでいた。
生き交う人々は皆、少女の周りに結界でも張られているかのように、少女の半径三メートル以内に近づかず、迂回して少女を避けて行く。
そりゃそうだろう、と、青年も思った。道端に座り込む少女は「まぁかわいい。お譲ちゃんおいくつ?」なんて言われるにはちょっと体が大きすぎる。体は小柄で華奢ではあるが、身長は百四十センチくらいはありそうだ。俯き加減で顔はいまいち確認できないが、中学生以上であることはほぼ間違いない。
「ねぇ、お姉ちゃんなにやってるの〜」
「しっ、お姉ちゃん忙しいんだから、放っておいてあげなさい」
興味を持った幼稚園児らしい男の子を、母親らしい女性が腕を引っ張って連れて行った。まぁある意味、懸命な判断ではある。
普通、ごく一般的に、道の真ん中に座り込んで鼻歌を歌うそれなりに成長した少女のことを『かわいい』とは形容しない。むしろ『おかしい』と、大半の人間は言う。
「なんなんだよいったい……」
青年も大半側の人間だった。
が、どうせ家に帰ってもやることもないし、どういうわけか興味を覚えたので、退屈しのぎに少女を遠巻きに観察してみることにした。
しばらく鼻歌を口ずさんでいた少女は、次第にこっくりこっくりと船を漕ぎ始める。
そして、ついにはポテンと柔らかい擬音で前屈みに倒れこんだ。
「あっ」
一驚して、思わず青年は離れた位置なのに意味もなく手を伸ばしていた。
コロンと、毬のように一回転してまた元の位置に戻る。なんとなく庇護心を掻き立てる愛らしい仕草で、青年が一瞬少女に駆け寄りそうになったくらいだ。
が、それ以上に好奇心が勝る。意外性に溢れる彼女を、このまましばらく見守って行動を観察してみたくなった。
少女はコロンとまた転がって、今度は強めに額をぶつけた。
その衝撃で目を覚ましたらしい少女は、状況を確認するために辺りを見回す。
と、思ったのは青年で、少女は別の目的で辺りを見回していた。
「あっ!」
少女は手近に落ちていた木の枝を発見すると、まるでクリスマスにプレゼントを見つけた子供のように、嬉しそうに手に取った。
「まるかいてちょん、まるかいてちょん」
そう言って、某有名絵描き歌を。
「お化けに手が出てうげひばち〜」
原形を気持ち残した変わり果てた歌詞で歌いながら、地面にとてもあの猫型ロボットとは思えない、夜中にトイレで見かけたら大人でも泣き出しかねない異形を描いている。
ここまで間違っていると、逆に清々しくて本家猫型も許してくれそうだ。
「いっち、にっ、さんっ、しっ……」
それに飽きたらしい少女は、今度はせっせと働きアリを数え始める。
「たいへんだねぇ〜」
それから、そんな風にアリの頭(と思われる部分を)撫でながら呟いた。
おまえの頭もけっこう大変だねぇ。とか、青年は思っていた。
そうこうしている内に日は傾き、紅葉の赤を鮮やかな夕日が彩り始めていた。
すでに、人影も減ってまばらになってきている。
「いつまでああしているつもりなんだ……?」
青年が少女を観察し始めてからすでに一時間近く経過していたが、少女はそこから動く気配を全く見せない。いっそここに根を張ろうかという構えだ。
青年も、ベンチに座って自然に見つめているのも疲れてきていた。
ストーカーでもこんなに根気よく見続けられないだろうに、いったい俺は何をしているんだろう? 好奇心がそんな疑問に押し込められようとしていた。
もういい、帰ろう。他の人間たちがそうしていたように、青年は少女から距離をとってそのまま通り過ぎようとした。
なのに。
「まだかな〜」
そんな少女の声と溜め息に、後ろ髪を引かれた。
理由なんてまるでわからない。
ただ、踏み出そうとした右足が上がらず、一回転して向きを変えていた。
今青年の目の前で膝を抱える少女は、間違いなく変な奴だ。関わる色々と面倒なことになるぞ、と、警告に近い行動で自己主張している。
「……なぁ、おまえ、何を待ってるんだ?」
それを骨の髄まで重々理解しているはずなのに、青年は自分でもわけがわからないまま、少女に声を掛けていた。
どうしたんだ俺? と、自分に問いかけてみても答えてくれるはずもない。脊髄反射のように勝手に声が出ていたのだから。
ぴくりと少女の体が反応して震える。
それから、数泊の間を置いてから立ち上がると、青年に振り返り、
「ふぇ、私のことですか?」
ポカンとした表情で自分を指差し、首を傾げて舌っ足らずの声で言った。
ここでの正当な切り返しは「いやお前以外に誰がいるんだよ」というツッコミだろう。
しかし、青年は黙した状態で固まっている。
少女の水際立った秀麗さに、思わず見惚れて声が出なかった。
大きく見開かれたエメラルドグリーンの瞳は、薄らいだ陽光を乱反射させて星のような輝きを湛え、流れるような鼻梁は控えめな鼻に向かって美しい軌跡を描き、瑞々しい潤いを持った小さな唇が柔らかに結ばれている。
先ほどまで俯いていたせいでよく顔がわからなかったが、少女は百人に尋ねれば六割が『可愛い』三割が『愛らしい』一割が『ヤバい』と答えるであろう、幼さを残しながらも整った顔立ちをしていた。
いったいどこの国の出身なのだろう、と青年は思った。
顔立ちは完全に日本人なのだが、だとしたらあの翠(すい)玉(ぎょく)色(しょく)の瞳はいったい何なのか。ハーフやクォーターというのもどこか違う気がする。あんなに綺麗な瞳は見たことがない。
「あのぉ、もしもし? 私じゃないの?」
青年がハッとして我に返ると、少女は少し癖のある長い栗色の髪を指先で弄びながら、困った顔をしてくねくねと愛くるしい仕草で体をくねらせている。
その姿がまた可愛いので見ていたくもなるが、そんなことをしていると話が進まないので、青年は咳払いをすると話を続けた。
「いや、おまえで合ってる。ほら、さっき待ってるって言ってたよな。じゃあ、何を待っているんだ?」
「んー……えっと……そうですねぇ……。忘れちゃいました」
ペタンと、心の中で青年は少女に『天然』というラベルを張り付けた。
「あー、ちょっと待ってください。今思い出してみるから。えーっとねぇ……」
少女は敬語とそうじゃない言葉をごちゃまぜにすると、顎に手を当ててメトロノームのように左右に首をかしげながらうなり始めた。
二十秒経過。
少女はまだ唸っていた。
……さらに、二十秒経過。
このままリズムの取れない役立たずのメトロノームになるのかと思いきや、少女はおもむろにポンと手の平を叩いた。
「お腹が空いたので、ありさんがご飯を持って来てくれるのを待っていました」
「……」
青年は心の中で、『天然』というラベルの横に『電波』という焼印を刻み込んだ。
「おかしいねぇ、絵本とかだとありさんがよくケーキを運んでるのに、今日は虫さんとかよくわからない粒みたいなのを運んでたんだもん」
と、少女は本気で腑に落ちない様子だった。
青年は『天然』というラベルの下に、『記念物』というラベルを繋げて貼り付けた。
少女が自己主張していたとおり、しっかりと面倒な展開になってしまっている。
が、今更そんなことを言っても後の祭り。適切な質問で乗り切らなければ。
「ん?」
今まで少女の顔ばかりで服装まで気が回らなかったが、よくよく見てみると、少女は自分の通っている学校のセーラー服を着用していた。
が、青年は少女を見たことがない。少女ほど目立つ外見や行動をしていれば嫌でも耳に入ってくるはずだ。つまり、彼女は転校生。しかも、腹を空かせている。そして電波。
そこで、青年は一つ推測というか仮説を思いついた。
「なぁ、今から凄く失礼な憶測をいうけど、いいか?」
「いいよ、えんりょなく言ってみて」
と、少女は何故か自信満々に胸を張った「当てられるものなら当ててみろ」とでも思っているのか、それとも意味がわかっていないのか。おそらくは後者だろうが、ともかく青年は推測を語り始めた。
「お前は転校生で、今日付けだか明日付けだか知らないが、この近くの凛風(りんぷう)館(かん)高校に通うことになった。そして、「この公園を抜ければすぐ」というような説明を聞き、勇んで公園にやって来た。しかし、この公園は東京ドーム何十個分とかでとにかく広い。道に迷ってしまい、ここでその……蟻さんがご飯を持ってくるのを待っていた、どうだ?」
ちらっと、青年は少女に視線を向ける。
びっくりするくらい正直に「図星です」と少女の驚愕に満ちた顔に書かれていた。
「すご〜い! まったくその通りです! 私、明日からそこに通うんです。すごいね! もしかしてあなたはたんていさん? それともえすぱーさん!?」
少女は惜しげもなく感嘆の言葉を使いながら、青年の手を取ってぴょんぴょんと兎のように跳ねて体一杯で感情を表現している。
「わっ、わっ、コラ止めろ」
若干初心なところもある青年は赤面し、慌てて少女の手を振り払った。
そう言った感情に疎そうな少女はやっぱり「何で?」というオーラを滲ませて首を傾げていたので、青年は仕方なく「何ででも」と答えた。
そして、思う。
人に対してこんな風に興味を持ったのは、今の両親以外は久しぶりかも知れない、と。
「どうしたの? 暗い顔していますね」
いつの間にか、少女は青年を見上げるように上目遣いで見つめていた。
「ん、ああ、いや、何でもない」
顔に出したつもりは無かったが、ばっちり顔にでてしまっていたらしい。青年は化粧水をしみこませるように二、三度頬を掌で回すと、表情を元に戻した。
「まぁ、俺もその学校の生徒で、だいたい何となく言ってみただけだ。本当に当たるとは思ってなかったよ」
「へぇ、そうなんだぁ。だったらこれから同じがっこうに通うんだね。よろしく」
ぺこりという擬音でしか表現できない動きで、少女は深々と頭を下げた。
いつの間にか、敬語は遥か遠くに旅立ってしまっていた。まぁ、少なくとも年代は近いのだから別に構わないが。
「で、この先どうするんだ、これから学校に行くのか?」
「ん〜……ううん、家に帰る。だってお腹空いたし」
まぁそうだろうなと、青年は思う。少女にとっての優先順位なら絶対に食べ物を選ぶと確信していた。
「それで、自分の家がどこにあるのかはわかるのか?」
「大丈夫。私だってそんなにばかじゃないもん。ほら、あの山の真ん中あたりの家がいっぱいあるところ」
そう言って、少女はある方向を指差す。そこは数年前開発によって作られたベッドタウンで、期待していた割には入居者も出ず空きも多いと聞いていたので、おそらく新しくそこに引っ越してきたのだろう。
さすがに、自分の家がわからないほど馬鹿ではないらしく、青年はようやく少女が自分と同じように高校に通うことに実感が持てた。
……が。
「でも、あそこまでどうやって行けばいいのか、道のりはまるっきりわかんない」
少女は青年を落胆させることが特技になりつつあった。
「おかしいなぁ? 行き道はわかったのになぁ〜。さっき寝ちゃった時にわすれちゃったのかなぁ?」
「いや、俺に聞かれても……」
もう、なんだかすごく疲れる。宇宙人の通訳を任された方がまだ楽な気がした。
絶対、このまま警察にでも届けて帰った方が楽に済むはずだった。
なのに、少女の指差した場所は青年の家にも近かったわけで。少女は放っておくと危なっかしいわけで。倉本聰なわけで……。
頭の中の議員たちが○×の札を持っての審議の結果。青年が導き出した結論は。
「いいよ。俺もあの近く住んでるから、連れて行ってやる」
「いいの? ありがとう」
「ああ」
ぶっきらぼうに吐き捨てるように言うと、青年は少女に背を向けて歩き出した。
莞爾として笑う顔が眩しくて見ていられなかったなど、とても口に出せるはずがない。
「ああ、待ってよぉ」
少女は青年に置いて行かれないように走り出した。
飛び跳ねていた頃のウサギと対照すれば、今はカメ。
少女の歩みは、ひどく遅かった。
「あいたっ」
そして、何もない平坦な道で盛大に転んでみせた。天然は超絶的に運動神経が悪いという偏見も、あながち間違いではないのかも知れない。
「おいおい……」
やれやれと思いながら、青年は少女を助け起こす。
面倒なことが心地いいと思ったのは初めてだった。
「えへへ、ありがとう。え〜っと、……」
「紫苑(しおん)だ。藤乃紫苑」
女性のような名前だとよく言われるが、青年は特に気にしていない。むしろ、青年にとってその名前はとても重要なものだった。
その理由は、人にはあまり言わないし、言いたくもない。
「それでは改めて、ありがとう、紫苑」
おいおい、いきなり呼び捨てかよ、と紫苑は心の中で思った。
言葉に出さなかったのは、少女の笑顔が逆光の中でやけに眩しく見えたからだ。
少女はやはり、可愛い。
「私、一条(いちじょう)綾音(あやね)。綾音って呼んでね」
名前で呼ぶことに若干の気恥かしさがないと言えば嘘になるが、紫苑に別段断る理由もないし、追及するのもされるのも好きではない。
「そうか、綾音だな。転ぶなよ」
「はい。もうだいじょうぶ」
ぐっと立てられた綾音の親指は、土で汚れていてひどく頼りない。
「あっ」
と思ったら、お約束。踏み出した三歩目で盛大に転んだ。
ある程度紫苑には予測がついていたので、紫苑は綾音が転ぶ前に抱きとめた。
「どうやら、お前は地球と仲良くするのが好きらしいな」
「うんうん、ちきゅうは大切にしなきゃだよね」
綾音は干された布団のように紫苑の腕にぶら下がり、もっともらしいことを呟いてしきりに頷いている。言葉に含まれた皮肉など、『ひ』の字も感じ取っていない。
「はぁ……」
これくらいで嘆息をしているとキリがないのだろうが、ついやってしまうのは仕方のない事なんだろう。
「まぁいい。ほら、行くぞ」
今度は紫苑も綾音に合わせ歩調を緩める。綾音はその後ろに、散歩好きの犬のようによほど嬉しそうにシオンに続いた。尻尾があればさぞ元気に振っていることだろう。
「えへへ〜」
無邪気にふるまう姿は微笑ましいというより、かなりドキッとするほど可愛らしい。
腕を組まれなかったのは、紫苑にとって幸いだった。
2
結局、綾音を伴っての帰り道は、通常の2.5倍ほどの時間を要した。
世界を赤く染めていた夕日は半分ほど山に隠れていて、もうそろそろ辺りには夜の帳が下りようとしている。
「はぁ……」
自然と、溜息が零れる。
綾音はまるで風船のようで、放っておくとふらふらとどこかに行ってしまうため、紫苑は体力的にも精神的にもかなりの疲労を被ることになった。
まぁ、それももうすぐ終わるのだ。綾音が指差していた家にはもうすぐ辿り着く。
「あ、ここここ! 私のお家!」
綾音は終始ハイテンションで、何かを見つけるたびに世紀の大発見でもしたようにはしゃいでいるが、今度のそれは今までで最も大きなアクションだった。
「これでご飯が食べられる!」
綾音は危なっかしい足取りで玄関のドアへ駆けて行く。
どうやら、ようやく紫苑のお役目は終了らしい。
「それじゃあ、俺はこれで。達者でな」
「とっても助かっちゃった! ありがとうだよ〜!」
どこの方言でもない言葉をのたまいながら、綾音は能天気に手を振っている。
若干、寂しいような気がしているのは、彼女の容姿が素晴らしいからか、それとも、飼い犬に愛着がついてしまったようなものなのか。
いずれにしても、心残りは今のうちだけだ。うたかたのようなもので、時間が経てばすぐに無くなる。ここで別れれば、学校で話すこともなくなるだろう。
紫苑は手を振る綾音に背を向けて自宅への帰路に着いた。
「……あれ?」
が、背後から聞こえた不安を掻き立てられる呑気な声が、紫苑の足を引き留める。
さらに、断続的に響くガチャガチャとやかましい金属音。
おそらく、というか明日また太陽が昇るより確実に、面倒な事が起こる予感がした。
振り向いたら負けだ、と、紫苑は思ったが、すでに体は声の発生源に向き直っていた。
「あれ、あれれれ? 何で?」
案の定、綾音は泣きそうな声を漏らして、間抜けな空き巣のように回らないドアノブを必死に揺らしていた。
しばらくの間綾音はドアと悪戦苦闘していたが、ようやく無駄だと理解したのか突然力が抜け、へたんと玄関先に膝から崩れ落ちた。
「開かないよ〜」
無機質なドアノブへの無条件降伏だった。
綾音はくるりと首だけをこちら側に向け、
「しおん〜、おとーさん帰ってないみたい〜」
橋の下で雨露の寒さに凍える捨て犬のような眼をして、眼力(めぢから)で必死に懇願してくる。
「いや、俺に言われても……」
本日二回目の台詞を口にしながら、紫苑は狼狽えて一歩後ずさる。そんな目をされても、紫苑にピッキングの技術は無いし、ご近所さんに怪しい目で見られるのは御免だ。
「鍵とか持ってないのか?」
「無い〜」
「どこかに隠してあるとか?」
「……覚えてない〜」
綾音は依然と『なんとかして』オーラを全開にしながら、終いには瞳にウルウルと光る物を湛え始める。
(あー、くそっ…。俺はいつからこんなお人好しになったんだ……)
紫苑はセットなどろくにしたこともない髪を乱暴に掻き毟った。
「わかったよ。じゃあその親父さんとやらが帰ってくるまで俺の家にでも来いよ」
「いいの!?」
さっきまでのとろくさい反応とは一線を画した動きで、ざざざと超高速で綾音が紫苑に駆け寄ってくる。その動きは若干、物理法則を無視していた。が、紫苑はちょうど目を閉じて己の世話焼き心を呪っているところだったので見ていない。
「どうせここに居たって何もできないだろ? 家に来れば飯もなんかしら作ってやれるかもしれないし……」
「ごはん! ごはん食べさせてくれるの!?」
綾音がやたらと顔を近づけてくるので、紫苑は「あ、ああ、そうなんじゃないか」と言葉を斑かし、首を逸らしなんとか綾音から離れようとする。
「決めたよ! 紫苑を食べに行く!」
嬉しさのあまり、綾音の発言は端々が滅裂でとんでもないカミングアウトになってしまっているが、当の本人がそんな事に気付くはずもない。
「おい、その甚だしい問題発言を声高に言うな。ご近所さんに勘違いされる」
「何で?」
「それは、その……」
何でって言われると紫苑は説明に困る。本当に知らないのに一から説明するのは逆にこっちが恥ずかしくなる。
「まぁ、なんでもいい。行くぞ。俺ん家(ち)の電話番号教えとくから、心配掛けないようにメモをドアに挟むかポストに入れるかしとけ」
紫苑は綾音の肩を掴んでぐっと押して距離を取ると、はぐらかすために胸ポケットから紙とペンを取り出し、さらっと自分の家の電話番号を書いて綾音の手に押し付けた。
パッと見、女の子に連絡先を渡す軟派な男に見えなくもないが、やはり当人は気付かないものである。
メモを受取った綾音は『ここにいるよ あやね』と全てひらがなで書き、ドアの隙間に挟みこむと今時子供でもなかなかしないスキップで戻って来た。
「紫苑行こう! ごはんの所に!」
既に綾音の中の目的地は紫苑の家ではなく、その先にある食べ物しか見えていない。
「慌てるな、慌てるなよ。いいか、ゆっくり俺についてこい。野良猫に付いて行くな。足元をよく見て歩け。転ぶな。いいな」
「むぅ、それじゃあ私がそんなことばかりしてるみたいじゃない」
そう言って綾音はフグのように頬を膨らませる。
紫苑は両側からほっぺたを引っ張って「違うのか?」と言ってやろうと思ったが、どうせ疲れるだけなのでやめた。
「まぁ、何にしてもだ。すぐ近くだから、飯食べたかったらちゃんと付いて来るように」
「はーい♪」
『飯』という単語が出ただけで、綾音の表情はまた笑顔に戻った。ころころと表情が変わる。小さな子供のように表情が豊かだ。紫苑の全体的なイメージとしては、「なんとなく行動が犬っぽい」だが……。
「さぁ、早く行こーよ〜!」
犬が紐をぐいぐい引っ張る……ではなく綾音がぐいぐいと紫苑の腕を引っ張る。
「おい! わかったからくっつくな!」
「いいじゃない。さっ、早く行こ〜」
目的地もわからない癖にどんどん先に行こうとする綾音をなだめ、紫苑はまるっきり子守りだな。とか思いながら、内心腕にあたる胸の感触にどぎまぎしていたりする。
「わかったって、だから離れろ!」
「ご飯、ご飯、ご飯〜♪」
傍から見ても賑やかな二人は、住宅街を行く。
面倒だと思いながらも、紫苑はいつの間にか、この状況を楽しんでいる。
何故だか分からないが、紫苑は綾音に深い親しみを感じていた。
今度は先ほどに比べて移動距離も短く、すぐに(とは言ってもさっきと対比してだが)紫苑の家までたどり着いた。
紫苑は綾音を玄関先で待たせ、ゴミや洗濯物で埋め尽くされたリビングを掃除(といっても使っていない二階に放り込んだだけ)し、綾音を中に誘い入れた。
「おじゃましま〜す」
「ああ、いいよ。お袋達は今海外に行ってていないから」
言っていて、彼女を家に誘っていっちょ決めてやろうって感じの男の台詞っぽいと思ったが、とりあえず事実だし、別に下心があるわけではないから問題ないだろうと適当に自分に言い訳をしておいた。
それに、年頃の女の子なら「えっ?」と少し驚いて頬を赤らめる状況でも、目の前の天然記念物は「へぇ〜、大変なんだね」と呟いただけで不用心にずかずかとリビングまで歩いて行った。若さゆえの間違いは起こる気配もない。
それにしても、あんな可憐な容姿をしていて今まで悪い大人達に騙されなかったのか、父親ではないが心配になってくる。
「ホント、声をかけたのが俺でよかったな……」
「ん〜何か言った〜?」
玄関にいる紫苑に向かって、リビングのドア横からひょっこりと顔を出した綾音が不思議そうに首を傾げている。本当に、隙だらけだった。
まぁ、神に愛されでもしないと、今まで生きてこられないか。紫苑はそれで納得することにして、適当に靴を脱ぎ捨てると、リビングに隣接するキッチンに向かった。
すると、てっきり座っていると思っていた綾音が、リビングに飾られた数々の写真を感心した様子でしげしげと眺めていた。
「これ、おとーさんとおかーさん?」
真っ白な雪に覆われた山の頂を背景に並んで笑う男女の写真を見つめ、綾音が言う。
「ああ、お袋達は登山が好きで、一年中世界を飛び回って山を登ってるらしい。連絡つかないし、何を仕事にしてるか知らないが、金だけは送ってくる。たまに家に帰って来ても山登りの自慢話と写真を土産にとっととどっか行っちまうし、よくわからないな」
「ふーん……」
綾音はつま先立ちになって、高い位置にある写真を見つめている。
その横顔に、一瞬翳が落ちたような気がした。
「綾音……?」
「ん? なーに?」
だが、一瞬のことだったので、紫苑は気のせいだろうと思うことにした。
「ほら、一応客なんだから、椅子に座ってろ。何か作ってやるから」
「うん! よろしくお願いします」
そうして笑う綾音の姿に、先ほどみた翳は微塵も感じられず、光に満ちている。
やはり、気のせいなのだろう。そう確信した紫苑は綾音を席に座らせ、キッチンに入って調理を開始した。
「さて、んじゃ始めるかな。おーい、綾音、何か嫌いなものとかあるか?」
「え〜っと、ねぎと玉ねぎがダメ、だった気がするよ」
自分の事の癖に何故気がするなのかはよく分からなかったが、よくわからないのは今に始まったことではないので、紫苑はそれを参考にして調理を始める事にする。
が、冷蔵庫を開いたところで固まった。
別に冷気で凍結してしまったわけではない。あまりの食材無さに愕然となったのだ。
そして見事なことに、少女が嫌いといった葱と玉ねぎだけが、密度の薄い空間の中で悠然と屹立している。
(お前がエスパーじゃねぇか……)
ちらっとリビングに顔を向けると、綾音が丸い金魚鉢を介して出目金と見つめあい「最近太ったんじゃない?」と初対面な人(金魚だけど)とは思えない会話(のように見える)をしていた。
まぁ、無いものは仕方ない。食材がないのは最近買い物に行っていなかった紫苑が悪いのであって、綾音に罪はないのだから。
とにもかくにも、紫苑はバラエティに乏しい冷蔵庫の中身を物色し、なんとかそれっぽく見えるような体裁を考える。一人暮らしだけあって調味料類だけは豊富にある。賞味期限が微妙なものもあるが問題ないだろう。
冷蔵庫にはねぎと玉ねぎを除けば、卵が二つ、冷凍して保存してある白飯がほどほど。
卵かけご飯はさすがに味気なさすぎる。紫苑一人ならそれでも構わないが、変に律義な紫苑は成り行きとは言え客人に対しては一応それっぽいものを出しておきたい。
そういうわけで、紫苑の出した結論は。
「上海四川も驚き本格派(ほんかくは)我流卵(がりゅうたまご)炒飯(チャーハン)に決定。具材は卵と御飯のみという味に誤魔化しがないからできるこだわりの逸品だ」
「おお〜、なんか凄そう〜!」
リビングの綾音は思ったとおり、大層な言葉とうたい文句にころっと騙されて理解もできていないのに感嘆の声を上げていた。なんとも扱いやすくて助かる。
「では、調理開始」
家庭用コンロの弱火でゆっくり炒めあげる、パラパラとは程遠い炒飯の調理を始めた。
その間、会話に飽きたらしい綾音は金魚鉢の前で指先をくるくると回し、それに応じて出目金が水中を泳ぐ。その様は生き物で遊ぶ。というよりも、仲のいい友人と舞を踊るような、表所の無い出目金ですら嬉々して見える、そんな楽しげな雰囲気に見えた。
それは綾音の浮かべる笑みが本当に楽しそうで、優しさに満ちているからかもしれない。
不覚にも、紫苑は綾音に見惚れてしまっていた。
なので。
「「あっ」」
という間の惨事だった。
紫苑がいつもの感覚で炒飯の入ったフライパンを振るった時。
意識を綾音に集中していたせいで予想より高く中身が舞い、とてもじゃないがフライパンに着陸できない位置に逃避行を始めた。「もう焼かれるのは嫌だ! 君の真珠のような白い肌がそれ以上黒くなるのは我慢できない!」と、卵が言った訳は無いのだが、コマ送りのように見える炒飯を見つめて、紫苑は一種の現実逃避でそんな事を考えていた。
(ああ、さよなら俺と綾音の晩飯……)
紫苑はもう見ていられなくなって、両の眼(まなこ)を手で覆い顔を背けた。別に無理心中するカップルでもあるまいし。
炒飯は美しい放物線を描き、『べチャッ』という世にも情けない音を立て、埃っぽいフローリングの床にへばりついた……はずだった。
「……んあ?」
一向に情けない音が聞こえないので、紫苑は思わず呆けた声を漏らしていた。
目を覆っていた手をどけ、状況を曇りなき眼で確認するために見開く。
「な!」
短い声と吃驚(ほうきょう)符(ふ)が口から飛び出して、紫苑は眼を瞬(しばたた)かせた。
信じられない光景を目の当たりにして、紫苑は思わず自分の眼を疑った。
炒飯がまるでUFOのように、ふわふわと重力を無視して浮遊している。
「……」
明らかに常軌を逸した光景に、紫苑は言葉を失った。
「危なかったね〜。もうちょっとでべっちょりぐっちょりであ〜あだったよ」
そんな中で、相変わらず綾音は安閑とした声音でゆったりと言う。驚きとか動揺といった乱れは全く感じられない。
「おま、何でそんなに落ち着いて……」
ようやく若干の冷静さを取り戻した紫苑は、言い掛けて途中で口を噤んだ。
紫苑にじっと見詰められた綾音は、「どうしたの?」と呟いて首を傾げいる。
右腕を炒飯に向けてまっすぐに伸ばしたまま姿勢で。
「おい、それ……」
「な〜に?」
「もしかしてそれ、お前がやってるのか?」
ごくりと、紫苑は息を呑むが、
「うん、そーだよ」
綾音はまったく平常時のスタンスであっけらかんと言ってのけた。
「はっ……」
紫苑の口から零れたのは、声と空気を足して二で割ったような音声だった。
緊張と驚愕で鯉のように口をパクパクさせる紫苑に対して、綾音はまた鼻歌(と、かろうじてわかる)を口ずさみながら右腕を動かし、炒飯で曲芸でもするように宙で旋回させると、紫苑の手にしているフライパンに戻した。
「待ってるよ〜。がんばれ!」
綾音は真ん丸な目の上の垂れ気味の眉をキッと下げると、両の拳を胸の前でぐっと握り『気合い入れてこ!』という意味合いのジェスチャーをして椅子に座りなおした。
「……」
紫苑はしばらく声も出ず、動物園のカバみたいな顔で呆気に取られていたが、
(……このまま呆然としていても仕方ない。とりあえずとっとと飯作っちまって、それから話を聞こう……)
別に時間は無限、とまではいかないが有限というわけではない。とりあえず料理を作ってしまって、それからゆっくりと話を聞くことにする。
不思議と異端に対する恐怖や距離を置こうとする忌避心は湧かない。
綾音の人柄が柔和だからか、それとも……。
否。可能性を否定して、紫苑は首を振る。期待ばかりするな。綾音は単に人より親しみやすいだけだ。どうせ、満たされない。
紫苑はさらに首を振って、暗く陥りそうになる気分を振り払った。
塩コショウや醤油、にんにく等で我流の味付けを完成させ、均二つの皿に均等に盛り付けると、綾音の対面に座りスプーンを添えて差し出した。
「あいよ、我流卵炒飯」
「しゃんはいしせんもおどろきほんかくはたまごちゃーはんじゃなかったっけ?」
「気にするな、長いから省略しただけだから」
肝心なことはすぐ忘れるくせに、余計なことに関して綾音は無駄に覚えていた。
「なんでもいいか。冷めちゃうしね。それじゃ、いただきま〜す」
綾音は両手を合わせ渾身の笑みを浮かべると、スプーンを剣(つるぎ)のように頭上へ掲げると、半球上の炒飯に勢いよく突き立てた。
それから、ふーふーと口の手前で暑さを和らげ、大きく口を開けて放り込む。
「ん〜! ほいひ〜!」
それほど大した料理でもないのに、綾音は口いっぱいに頬張って満足気にしている。
「そりゃどうも。けど、口の中のもん飲み込んでから話せよな」
「わはっへふよ〜」
「わかってねぇ」
もぐもぐと美味そうに咀嚼する綾音を、紫苑は頬杖をついて見つめていた。
自然と、紫苑の頬は緩んでいた。
それから、自分も炒飯に手をつけようとして、
(んじゃ俺も……って、和んでいる場合か!)
つい忘れていた重大な事を思い出し、一人心の中でツッコミを入れた。
「それより綾音、さっきのアレ、いったいどういうことなんだ?」
「ふぇ? ふぁっひふぉふぁふぇ?」
『ふぇ? さっきのあれ?』と綾音は言いたいのだが、口いっぱいの炒飯のせいで言葉になっていない。紫苑の注意などまるで聞いていなかったが、この際今はそんなことはどうでもよかった。
「そうだよ。とりあえず、お前がやったってのはそういう事なんだろう。それはいい。それより、いったいどうやったらあんな超能力じみたマネができるんだ?」
「ふぁあ、そうだねぇ……」
炒飯を飲み下した綾音はスプーンをくわえたまま首を傾げ、考えてますよという印に「う〜ん」と唸る。
二十秒経っても、まだ唸っていた。
さらに二十秒経っても、まだ唸り続けていた。
紫苑は内心焦れていたが、話し始めるまで待つことにした。きっと、綾音はめくるめく思考の世界をあっちこっちと右往左往しているに違いない。
「あ、そうだ」
それから更に一分後、綾音は得心行った様子で手を打った。
「こう手をぐっとすると、なんかぎゅんぎゅんしたのを感じて、そうすると体がなんかアイスクリームみたいに溶けて、そしたらふわふわするの!」
「……は?」
としか、紫苑は言えなかった。抽象的にもほどがある。某有名ミスタープロ野球だってもうちょっと的確な表現ができると思う。
しかし、追及したところでこれ以上の答えは返ってこないだろう。出会って数時間という短い期間で、紫苑は確信に近いものを覚えていた。
「わかった、お前がそういうんだからそういう事なんだろう。けど、そんな力使ったら普通驚かれるだろう? 俺だって驚いてる。実際、前住んでた所ではどうだったんだ?」
綾音は俯いて、沈黙した。
今まで絶やさなかった明るい表情が一転し、悲痛、憂い、哀感、さまざまな負の感情を複雑に混在された表情で、力なく項垂れている。
「え? おい、どうしたんだよ」
突然の変化に紫苑は狼狽し、自分が何か気に障ることを言ったのかと思ったが、さっきまで陽光のように輝いていた少女を、これほど深い沈鬱で塗り潰してしまう言葉を口にしたつもりはない。
「……わからない」
ぽつりと、蝋が滴るように静かに、綾音はわずかな言葉を紡いだ。
天真爛漫さなど微塵もなく、陽炎のように儚い振動はすぐに空気の中に溶けて消える。
紫苑は黙って、綾音が話し始めるのを待っていた。
どれほど時間が経ったのか、僅かな時間のはずだが、紫苑には十分とも一時間とも思える時間が経過して、綾音は何かを話そうとして口を開き、一瞬躊躇う。
それから数泊の時間を置き、意を決した綾音は重い口を開いた。
「私、何も覚えてないの。今から一か月くらい前かな。目覚めたら見たこともない真っ白い部屋で、ベッドの中にいて……。私、自分の名前もわからなくて、どうしていいのかもわからなくて、お父さんが優しくしてくれたけど、お父さんが本当にお父さんなのかもわからない。なにもかもわからなくて、凄く、怖かったの」
エメラルドグリーンの瞳から、石英のように玲瓏な光が零れる。
「私にはなんにも無いんだって、考えたら考えるだけ恐くなったから。私、考えるのはやめよう、って思ったんだけど、みんなにお母さんがいて、お父さんがいて、何で私だけこんななんだろうって、思ったの」
綾音の言葉は徐々に小さくなって、蛍光灯の発する微弱な音にすらかき消されそうになっていく。
「ごめんね。こんなこと言ったって、仕方ないのにね。ごめんね、私は私なんかじゃないの。思い出も何もないの。きっと、私はこのせかいにいたらダメなんだね。だって、胸のあたりに穴があいちゃったみたい。なんにもない。ごめんね、ごめ、ん、なさ、い」
話が最後に近付くに連れ、綾音の言葉は溢れる感情を抑えきれず嗚咽に変わっていく。
紫苑はただ黙って、その事実に驚愕していた。
「そうか……」
しかし、紫苑の心象は憐憫の念ではない。
一番近い者は同情。ただし、それは上から見て勝手に哀れに思うのではない。
(だから俺は、綾音に……)
紫苑はふっと、優しい笑みを浮かべた。
「だったら、俺と同じだな」
「……えっ?」
驚きのあまり涙すら止まった綾音は、ただでさえ大きな瞳をさらに限界まで見開き、星のような煌めきで紫苑をじっと見つめている。
「俺が重症を負って山で倒れていたところを、今のお袋達が見つけて拾ってくれたんだ。けど、俺には記憶がなかった。」
綾音は初めて自分の境遇を話したが、こんな反応をされるとは夢にも思わなかった。
病院で出会った人間は皆一様に、綾音を『可哀想な子』という目で見ていた。
だが、紫苑は違う。ただ優しげに眼を細めて、自分の事を包んでくれている。
「だから、俺にもわかるよ。全部とは言えないかも知れないけど、お前の苦しみが。思い出が無いっていう自分の存在の危うさ。名前なんかあったって、そんなの何の証明にもならないもんな」
「……うん」
コクリと、綾音は控えめに頷く。
「思い出がないから、自分が今まで生きて来たんだって証がなくて、けど、日常は何かが違っていて、だから、いつも足りない何かを探し続けていた。
「うん、うん……」
初めて人と間隔を共有することができる。いつも、心の底では自分は人と違うと思っていて、どれだけ距離が縮まったとしても絶対に溝を超えることはできないと、紫苑、そして綾音はずっと考えていた。
父親は自分のことを心配し、親身になってくれていたし、綾音は父親を信頼していた。しかし、時折訪れるどうしようもない寂しさと不安を埋めてはくれなかった。
紫苑も両親に感謝していたが、それでもどこか自分とは違う存在に思えていた。
初めて知る本当の共感は、陽だまりのように暖かな安心感で満ちていた。
それだけではない。久遠の苦しみだと諦めていた心の隙間、そして、満たされた日常の中の違和感充足していく心地よさ。
きっと、それらはただ同じ境遇であるだけではきっと無い。
それは感覚的なものだったが、失われた心のカケラに苦しんできた二人にとって、それは曖昧な記憶よりも絶対的な真実だった。
言葉は交わさなくても、見つめ合うだけで通じ合える。二人はそう信じて疑わず、事実としても間違いではなかった。
「一つだけ、約束をしないか?」
「やくそく?」
すでに光冴えた表情を取り戻した綾音が、目元に溜まった滴を拭って繰り返す。
「これから俺たちは、一緒に思い出を作っていく。それ以前の過去なんてどうでもいいんだって思えるような、とても輝いた思い出を」
普段言えないような気障な台詞まで、滑らかに紫苑の口によって紡がれていく。照れや羞恥心は微塵もない。心からの言葉を伝えるには、愚直なまでに正直なありのままの言葉だと思ったからだ。
「それじゃあ、ゆびきりげんまんだね!」
いつもの明るさを完全に取り戻して、綾音が声高に叫んでしなやかな小指を差し出す。
紫苑とは細い小指に、自分の長く太い指を絡める。
それは、二人の運命の糸が交わった瞬間でもあった。
「「ゆびきりげんまん嘘吐いたらはりせんぼんのーます」」
そこから先の台詞を、二人は態(わざ)と続けなかった。
離れてしまわないように。という意思の表れ。
それから二人は、なんだか急に真剣になっているのがおかしくなって、どちらともなく吹き出して最後には腹がよじれるほど笑い転げた。
奇跡という言葉があるとすれば、まさしくこの出会いこそが奇跡だと、二人は思った。
3
食事を終え、そろそろ紫苑が綾音を送りとどけようかと思った頃、綾音の父から電話があり、すぐに綾音を迎えにきた。
綾音の父は眼鏡をかけた三十代の中肉中背で、レンズの向こうで細められた瞳が優しげなのが印象的だった。綾音は父親を信用しているようで、楽しそうに手をつないで帰っていく。
手をひかれて歩く綾音は、顔だけを後ろに向けてずっと手を振っている。その姿に、紫苑はしばらく会えない祖父に手を振る孫という印象を抱いて「誰が祖父だよ」と冗談交じりに一人ノリツッコミしてから、自室に戻ってベッドに大の字に倒れこんだ。
波紋の無い水面のように、不思議なほど心がすっきりしていて、今まで抱いていたわだかまりが跡形もなく消えてしまっている。
緑光に負けない、強く優しい輝きをもつ少女。
彼女こそが自らのカケラだと、紫苑は確信していた。
そしてこれから、彼女とともに歩いて行く。
自分が傍にいて、綾音の笑顔を守り続ける。
義務でも強制でもなく、紫苑が欲してやり遂げることだ。
それが運命というものだと、紫苑は信じて疑わなかった。
(続くんだ、これから……)
輝くような意識のままで、紫苑は幸福なまどろみに誘われていく。
今は、ただ、その幸甚を噛み締めていた。
第二章〜 日常の終わりを告げる邂逅 〜
1
翌日、確実に迷子になる綾音を伴って、紫苑は学校に向かった。
生徒一同からの、綾音への注目度は凄まじいものがあった。
百四十センチ台の小柄で華奢な可愛らしい体つきに、それに不釣り合いなほどすらりと長い美脚と、均整の取れた肉感的な肢体。幼げながらアイドルと比べても何ら遜色無い顔立ちに、時折見せる天然のみに許された自然なドジっ子アピール。
しかも、紫苑と行動する綾音は挙動が人並みに見えるのだ。春先の危ない人のような挙動不審な動きがなければ、綾音が注目を集めないわけがなかった。
対比して、紫苑は男子達の怨讐の視線を感じていたが、鈍い綾音がそんな視線に気づくはずもない。紫苑はそれで怯むような細い神経でもないので、特に問題は無かった。
そして、まったくの偶然で同じクラスになり、二人の日常は始まった。
光陰矢のごとし。時間は駆けるように流れ、一年の時間が経った。月日が百台の過客だとしたら、観光もせずにとっとと走り去ってしまったらしい。
二人の関係は、出会った日から少しも変化していない。
傍から見れば完全に恋人同士なのだが、未だに手をつないだりする程度で恋人のような進展はまるでない。それは双方ともに恋愛関係に疎いのが原因である。
というより、綾音に至っては精神的にも未熟で、恋愛というものがまるっきりわかっていなかった。それでどうこうするなどまずあり得ない。
しかし、紫苑はそれでよかったし、気にしたこともなかった。
紫苑にとって、綾音は恋人という枠に収まるほど軽くは無い。初めて出会った時以来言葉にすることは無かったが、紫苑にとって綾音は、自分を拾ってくれた両親を置いて、何よりも大切な、陳腐な言葉で言えばかけがえのない存在なのだ。ただ傍にいて笑顔を見せてくれればそれ以上に望むことは何もない。だからこそ綾音に言い寄ってくる男達が多く、鬱陶しいのが紫苑の悩みでもあったが。
綾音も紫苑といる間はいつも表情明るく、眩しい笑顔にいつも溢れていた。
記憶が無いのは、今の二人にはなんら問題になることではなかった。ただ傍にいるだけでいい。自分の過去がないことは、もはや些細な事でしかなかった。
とにかく二人は幸せだった。たくさんの思い出ができた。
毎日が笑顔に満ちていて、日常の全てが輝いて見えた。
それだけで良かった。
なのに。
突然、歯車は狂い始めた。
2
平年より少しだけ早く訪れた、紅葉美しい実りの秋。
紫苑と綾音は、二人が初めて出会った公園を歩いている。
綾音は紫苑の数メートル前方を歩いていて、舞い落ちる色鮮やかな落葉に合わせて独楽のようにくるくると楽しげに回っていた。
「うわぁ〜、きれいだね〜」
こうしていると、落葉が綾音に合わせて踊っているように見える。と紫苑は明らかな贔屓目で思っていた。。
「綺麗なのはいいが、転ぶなよ」
「転ばないよ〜」
そう言う彼女の前科は数え切れないのだが。何故か本人は至って自信満々に言ってのけるから不思議だ。
しかし、どうせ言っても仕方がないとわかっているので、紫苑は「ふぅ」と慣れてしまった溜息を吹き出し、やれやれと首を振った。
(そう言えば、もう一年になるんだな……)
紫苑は紅葉に負けないほど綺麗に笑う綾音を見つめながら、足を止めて物思いに耽る。
綾音との出会いは本当に突然だった。満たされない日常に現れた救い。天上より降臨した天使。陰に差し込んだ暖かな陽光。
昔なら考えられなかった幸福な時間。それが今や日常となって確かに存在している。
「ねぇ〜、どうしたの?」
「……ん?」
いつの間にか、綾音は目の前にいて紫苑の顔を上目遣いで覗きこんでいた。
「ぼ〜っとしちゃってるよ?」
「いや、今日で一年になるんだなって思って」
「ふぅ〜ん」
そう言うと、綾音は一度う〜んと唸って、「いち、にぃ、さん、しぃ……」と指折り数え、六まで数えたところで顔を上げ、
「ねぇ、一年って何日?」
と、大真面目に首を傾げる。
「三百六十五だが……」
それを聞くと、綾音はまた指を折り始める。「しち、はち、きゅぅ、じゅう……」と、十まで行ったところで、何か凄い大発見でもしたように驚いた顔になった。
「たいへんだよ紫苑! これいじょう数えられない!」
目が真剣すぎてまるで笑えなかった。
わかっていても溜息が出てしまうのは、きっと仕方がないのだと紫苑は思う。だいたい、日数を数えたところでその日から何日経過したかを覚えていなければ意味がないことを、綾音はおそらく理解していないだろう。
「計算御苦労さん、でももういいよ。とにかく一年経っているんだ」
「そうなんだぁ。へぇ〜、早いね〜。私が紫苑に会ってから五百日? くらい経ってるんだぁ。そうだよねぇ、葉っぱが落ちるの見るのも二度目だしね」
綾音は腕を組むと、大人ぶるように感慨深げに何度も頷いた。彼女の頭の中で日付というものはおよそで済むらしい。この調子なら来年はきっと、八月頃に雪が降るだろう。
しかし、季節は巡る物であることは理解しているらしい。紫苑は成長した子供に感動した父親のような目になって、綾音と同じように感慨深く頷いた。
しばらくして、そうだ、と紫苑は閃いた。
「なぁ、今日は家で晩飯食って行かないか? 一周年のお祝い、みたいなもんだ。あの時見たいに、俺が飯作ってやるからさ」
「いいね! 今日はお父さんお仕事で空いたまで帰って来ないって言ってたから、ちょっと心細かったし。お祝い賛成! 私と紫苑の一周年のお祝い!」
綾音は欣喜雀躍で、このままどこかに飛んで行ってしまいそうだ。
「その一周年という言い方は微妙に誤解を招くが……まぁいいや。とにかく、今日は家に来られるんだな?」
「うん! お泊りしてもいいよ!」
綾音が問題発言を声高に叫んだので、周囲の人間から「やぁねぇ」とか「まぁ大胆」とか呟かれて白い目で見られた。
「お泊まりはしなくていい。食い終わったらちゃんと家に送ってやるから。それと、あまり声高にそう言うこと言うな」
「えぇ〜。だって、家で一人で寝るの寂しいじゃない!」
「だからそう言う発言を止めろっての。とにかくダメなものはダメだ。おじさんに申し訳ないし、誰かに勘違いされたらまた面倒なことになる」
「面倒なこと?」
綾音は相変わらずの鈍さを発揮して、きょとんと首を傾げる。ここまで鈍いと、『何がどうなってこうなるので勘違いされるから』とか大真面目に説明する方が恥ずかしい。
「なんでもなの」
「ぶーぶー。おーぼーだよ」
珍しく、難しい言葉の使い方が正しかった、がこの際どうでもいい。
「そんなこという奴は飯抜きだな」
紫苑は演技っぽく(ダイコンだが)顔を背け、綾音を置いて歩きはじめた。
「あ、待ってよ〜! 置いてかないでったら!」
綾音は紫苑を追いかけて、危なっかしい足取りで走り始めた。
当然、この後何が起こるのかは、一年も一緒にいれば良くわかる。
紫苑は足を止めて、左腕を真横に伸ばした。
「あっ」
予想通りの声がして、予想通り何もないところで、当人にしか見えない何かに躓いた綾音が伸ばした紫苑の左腕に、一年前と同じように干された布団状態で垂れ下がった。
「えへへ、さすがだね」
「さすがじゃねぇ。いい加減学習しろっての。俺の腕は物干し竿じゃねぇ」
「にゃはは、ごめんなさい」
綾音は微笑んで、細い柳眉がほんの少し、きまり悪そうに下がっている。
その表情はずるいと、紫苑は思う。何をしても許してしまいたくなるからだ。
「置いて行くわけないだろ。お前を放っておいたら俺が疲れる」
とかく、口調は厳しいが、紫苑は基本的に綾音に甘いのだった。
「それじゃ、手ぇ繋いで行こう! ほら、そしたら手も暖かいし、絶対転ばないよ?」
ぎゅうっと、綾音は小さく柔らかな手で紫苑の伸ばした左手を包み込む。
明後日の方向に視線を向け、紫苑は照れ隠しに頬を掻いた。
やがて、紫苑はその提案に返答すること無く、綾音の手を引いて歩きだす。
二人の柔らかで幸せそうな横顔を、夕日が鮮やかに照らし出していた。
3
紫苑が手を引いたおかげか、お祝いの力に吸い寄せられたのか、二人は日の沈む前に紫苑宅に辿り着くことができた。自己新記録樹立である。
「ふむ、これは進歩とみていいのか……」
「なにひとりごと言ってるの?」
「いや、なんでもない。寒いから早く入るぞ」
どうでもいい考えを消し去り、鍵を開けてリビングへ入った。
睡眠以外の時間のほとんどを過ごすリビングは相変わらず散らかっていたが、何度も訪れている綾音は気にする様子は無く、キッチンの前のテーブルの椅子に腰かけた。
「さて、今日作るもの、なにかわかるか?」
「あれでしょ? しゃんはいしせんもおどろきほんかくはたまごちゃーはん」
「おまえ、よく覚えてたな……」
「えへへ〜」
綾音は近頃発達著しい胸を張って、誇らしげに所得顔を作って見せた。
正直、紫苑本人ですら忘れていたというのに、綾音が覚えていたのは心底意外だった。
「まぁ、そういうことだ」
「よろしくおねがいしまーす♪」
ちょこんと頭を下げた。
紫苑は調理をしながら、時々綾音の様子を窺う。
綾音は一年前と全く変わらず、二代目出目金と会話し、戯れて、微笑んでいる。
この光景をそのまま絵にしたら、タイトルは「幸せ」となるに違いない。
と、紫苑は考えて、
「ん、なぁに?」
「いや、なんでもない!」
綾音と目が合った途端、心を読まれたような気がして、急に恥ずかしくなって顔を背ける。綾音は頭の上に『?』を大量に浮かべていたが、細かい事にこだわる性格ではないのですぐに出目金に向き直った。
綾音が当たり前のようにそこにいて、無邪気な笑顔を見せてくれている。
紫苑はなんだか頬がむず痒くなって、自然と微笑みを浮かべていた。
「あいよ! 炒飯お待ち!」
中華料理屋の店主気分で威勢よく声を上げると、紫苑は炒飯を差し出して綾音の対面に腰かけた。
「いただきま〜す♪」
綾音はそのエメラルドグリーンの瞳を輝かせ、元気よく声を上げてふぅふぅとスプーンの上の炒飯を冷ましてから口に含んだ。
「お味はいかがかな?」
紫苑が頬杖をついて尋ねる。
「うう、おいひーよ〜」
一年経った今も、相変わらず綾音は口に物が入ったままで話している。本当なら注意するべきなのだろうが、今日はもう小言をいう気にはならなかった。
周りに人がいる時はなんとか自分を取り繕っている紫苑だが、こんな風に二人きりでいる時はついボーっとしてしまう。それくらい綾音は可愛いし、理由なく抱きしめてしまいたい衝動に駆られることもある。
何より、紫苑はいつもこの笑顔に心満たされていた。
この笑顔を守るためだったら、自分はなんだって出来る。いつまでも笑って傍にいてくれるなら、ただそれだけで生きていける。今どきドラマや映画の中でも聞いたことのない言葉が、確かに紫苑の中に存在していた。
思い出の中でも、綾音は様々な表情を見せてくれていた。
「この一年、いろんな事があったよな」
紫苑はしみじみと呟く。
「そうだよねぇ……」
綾音もその翠玉色の瞳をここではないどこかに向け、しめやかに呟いた。
「冬にはスキー合宿に行ったよね。あの時は凄かったなぁ」
「ああ、お前ずっと雪だるまになってたもんな」
「んもう! そうじゃないってば」
綾音はフグのように頬を膨らませる。やはり、綾音はどんな顔をしていても可愛い、と紫苑は取り繕わず完全に惚気ていた。
「ほら、どこまでも真っ白で、冷たくて、でもやっぱり綺麗で冷たい感じしないの」
「ああ、俺もあんな綺麗なのは初めて見たよ」
「それに紫苑。すっごく上手かったんだよね! インストラクターの先生もびっくりしてたよ。「はじめてで私より上手い……」って、泣いてたもん」
「ん、まぁ適当にやっただけなんだけどな」
紫苑の言っていることは事実だった。むしろ手を抜いていたくらいだ。紫苑が本気でやればどんなスポーツでも超一流を通り越して化け物である。それは凄みを例える比喩表現ではなく、正真正銘人外の『化け物』として、である。
「それに体育大会もそう。サッカーなのに紫苑一人でやっちゃって。やっぱりその時もサッカー部の人たち泣いてたよ。「見せ場がない」って」
「おいおい、そんなこと言ったら、お前だって体育では数々の伝説残してるじゃないかよ。バレーの顔面レシーブ、サーブの空振りは当たり前として、砲丸投げで砲丸が持ち上げられない。跳び箱の一段が飛べない。バタ足で後ろに進むなどなど……。なんとも凄まじい記録の数々だな。思わず表彰してやりたくなるよ」
「やだな〜、そんなに褒めないでよ〜」
かのナポレオンの辞書にも本当は『不可能』という文字があったと言われているというのに、綾音の辞書に『皮肉』という文字は無いらしかった。
「あ、そうそう、それからさぁ……」
その後も、二人の思い出話は絶えることは無かった。
特別な話ではない。文化祭にクラスで共同制作をした話。テストの点数が悪くて紫苑は居残りだったのに、なぜか紫苑より点数の低い綾音が補習を免れた話。友人数人に誘われて海に泊まりで遊びに行った話。その時、綾音の風呂を覗こうとした友人を紫苑が半殺しにしたのは綾音には秘密。それから、春に桜並木を一緒に歩いた話。生徒会長が予算横領で退陣に迫られた話。語られたのはそんな他愛の無い話だったが、二人にとってはどんな物語よりも劇的で輝かしい思い出だった。
「本当に……いろんな事があったよね、すごく、楽しかったな」
この一年間の思い出は、綾音にとって今まで生きてきた全てのものに等しい。
生まれてから今までの大切な思い出だ。
綾音にとって、この一年の思い出は他のどんな人よりも重く、大切なものだろう。
「当り前だろ。約束したんだから、さ」
「うん、そうだよね」
そう言って綾音は、いつもの能天気とは違う、静かな微笑みを見せた。
綾音の笑顔は、日本の四季よりも多様に、紫苑に彩りを見せてくれていた。
「……って、いつの間にかもうこんな時間なんだな」
二人は飽きることなく延々と話し続け、気付けばすでに二時間が経過していた。
「ずーっと話してたらお腹空いちゃった。さ、食べよ」
綾音は手を合わせてもう一度「いただきます」をすると、勢いよく炒飯を食べ始めた。
紫苑もそれに続いてスプーンを進める。
料理はすでに冷めきっていたが、二人の心はとても暖かだった。
4
「あ〜おいしかった。ごちそうさま。とってもおいしかったよ」
綾音は胸の前で両手を合わせ、満足気に吐息を吐きだした。
「はいはい、お粗末さん」
返事は素っ気なかったが、内心紫苑は結構嬉しかったりする。
紫苑はちらっと時計に視線を向ける。
時刻は八時少し前、一人暮らしの男の家に女の子を居させるのはさすがに世間的にまずい時間になっている。
しかし、このまま帰してしまうのも、紫苑は何か納得できなかった。
せっかくの記念だというのにこのまま帰してしまうのは惜しい。もちろん、公園で言ったとおり紫苑には下心は微塵もない。否、全くないと言えば嘘になるが、少なくとも今日そんなことをするつもりはない。ただ、この節目を特別たらしめる証が欲しかった。
どうすれば、この日を特別なものに変えることができるのか。
(そうだ)
「なぁ綾音、ちょっとここで待ってろよ」
「え? うん、いいけど」
紫苑は皿を水に漬けると、階段を駆け上がって寝室に向かった。
暗く、ベッドと勉強机しかない簡素な部屋。
紫苑は迷うことなくほとんど者のない勉強机の前に立ち、静かに抽斗(ひきだし)を開いた。
がらんとした抽斗の中で、ぽつりと、翡翠のラリエットが廊下からの僅かな蛍光を受けて淡い緑光を放っていた。
紫苑が飾り気のない紐をつまみ上げて目の前に持ち上げると、翡翠は闇夜を飛び交う蛍のように、柔らかな光を放ってゆっくりと揺れた。
どうしようもない空虚さや喪失感を埋めてくれる、神秘的で不思議な輝き。
毎晩のように眺めていた翡翠も、綾音が現れてからの一年、一度も引き出しから取り出すことは無くなっていた。
これがあると、綾音を無くした時の逃げ道になってしまうような気がしていた。今の紫苑にもう代わりはいらない。否、もはや代わりにならないだろう。今の綾音を欠くことはもう紫苑は想像もできなかった。
しかし、紫苑にとって大切なものであることは間違いない。今まで紫苑を支えてきた翡翠を、無下に捨ててしまうようなことはできない。
だから、紫苑は最も大切な人間に渡そうと決意した。
(今まで、ありがとな)
紫苑は眼を閉じて祈りを捧げるように感謝すると、手の中ににすっぽり隠れるように握りしめて、綾音の元に戻った。
「あ〜遅いんだ〜。何しに行ってたのぉ?」
綾音はテーブルに背を向ける形で椅子に腰掛け、スリッパの踵でパタパタと退屈そうに皆無に等しいリズムを刻んでいた。
「いや、悪い、ちょっと……な」
「あー、言わないの? 気になるなぁ」
少し口を尖らせた綾音はかかとが刻むリズム(やっぱり不規則)の速度を上げ、不満を体で体現させる。
「そう不機嫌になるなって。ほら、プレゼント持って来てやったってのに」
「プレゼント!」
綾音は踵を蹴り、普段の運動神経からは考えられない俊敏さで立ちあがると、不満な表情を一挙に期待の眼差しに変換した。常々綾音は犬っぽいと思っている紫苑だが、もし尻尾が生えていたら残像が見えるくらい早く振っているに違いない。
「なになに? 紫苑! な〜に〜!?」
綾音は紫苑の腰に手をまわして、最速するようにぎゅうぎゅうと抱きしめた。なんとも言えない柔らかなふくらみが二つ、太ももに強く押し付けられる。
「わっ、こらっ、離れろ!」
こいつ、顔と性格は子供のままのくせに……、と、体ばかりが徐々に女らしさを増していく綾音に焦りながら、興奮する綾音をどうにか引き剥がした。
「ちょっとだけ、眼を瞑ってろ。すぐ済むから」
「こう?」
綾音は紫苑に顔を向けたまま、静かに瞳を閉じた。
改めて綾音の整った顔立ちをまじまじと見て、紫苑の鼓動が一度高く跳ねる。
それも無理は無い。普段は手のかかる子供のような綾音が、何かを待ち焦がれるような表情で静かに瞳を閉じて、無防備な美貌を紫苑に向けている。
これで何を待っているかと聞かされれば、誰もが絶対に勘違いするはずだ。いや、勘違いしない人間などいないと言っていい。
紫苑も一瞬、『このままいっちょやってしまえ』という悪魔の囁きに心を動かされかけたが、紫苑はその考えに漬物石で蓋をした。それは綾音が自分がどういう状況にあるかを自覚していないからと思っただけで、紫苑が根性無しというわけではない。
何より、本来の目的はそれではなかったのだから。
紫苑は握っていた拳を開くと、淡い輝きを放つラリエットを綾音の首元に提げた。
「よし、もういいぞ」
「……?」
綾音は最初自分にどんな変化が起こったのかわかっておらず、きょろきょろとあたりを見回していたが、やがて首元に触れる冷たい感触に気づき、細い指先で摘まんで目の前にかざした。
「……うわぁ……」
短い感嘆の言葉を上げて、綾音は陶然とした吐息を零した。
「すごく、すごく、きれい…」
綾音は言葉を区切り、自らの拙い語彙力で翡翠の美しさを表現しようとする。
淡い緑光を放つ翡翠が振り子のように揺れて回るたび、翠玉色の瞳が光を受け、目元に溜まった僅かな滴と相まって万華鏡のように煌びやかな変化を見せる。
今の綾音には幼い雰囲気よりも、人が陶酔境に達した時に見せる、実年齢よりも少し大人びた表情をしていた。
「紫苑、これ、どうしたの?」
綾音は翡翠に意識ごと吸い込まれているかのように、翡翠を見つめたまま一時も視線を違えさせる事無く、必要最低限の言葉で紫苑に質問を投げかけてくる。
「あ、ああ、何か気の利いたプレゼントでもって思ったんだけどな。突然だったし、何もなかったから、それ、お前にやろうと思って」
紫苑は見たこともない綾音の表情に戸惑いを覚え、視線を中空に泳がせながら精いっぱい照れを隠そうとしていた。
綾音はまるで意識だけ別世界に行ってしまったかのように、紫苑の言葉も聞こえていない様子で、翡翠を熟視したままの状態で何も答えない。
「その、気に入らなかったのか?」
どうにも沈黙に耐え切れなくなって、紫苑は跳ね上がる鼓動を必死に抑え、綾音をしっかりと見据えて口を開く。
紫苑の視線に気付き、ようやく別世界から帰還した綾音はフルフルと首を振った。
「ううん、そんなことない。紫苑からプレゼントってだけですごく嬉しいのに。こんな素敵なものならなおさら、嬉しくないわけないじゃない」
「そ、そうか……」
聞いている紫苑が恥ずかしくなるような台詞を、純粋な綾音はこともなげにさらりと言ってのける。嘘の吐けない彼女の正直さは、目を覆いたくなるほど眩しく見えた。
「そのラリエット、俺がおふくろ達に拾われる前からずっと持ってたらしいんだ。昔のことは名前しか覚えてないから、誰かから貰ったのか自分で買ったのかわかんねぇけど、今の俺にとってはその、二番目に大事なもんだから、お前に、持っていてほしいんだ」
綾音に触発されたのか、紫苑は普段口にしただけで顔から火が出そうな台詞を自然ということができた。こんなことは、ちょうど一年前のあの日以来だった。
だが、この遠まわしな表現は、綾音には不向きだった。
「二番目って、じゃあ一番って何?」
悪戯心のかけらもない綾音の純然たる疑問の眼差しに、紫苑は少しだけ後悔した。
「……えっ? それはだな……」
何と言っていいか返答に困る。さすがに「お前に、決まってるだろ」などという恥ずかしい科白を、そう何度も口にできるものではない。
紫苑は綾音から気まずそうに視線を逸らし、なにか効果的な言い訳は無いかと考え、
(そうだ、「来年のお楽しみ」とかってことにしておこう)
そんな問題を先送りにする己が身大事の官僚的な結論に思い当たり、顔を合わせて綾音に告げようとした。
その時。
ガタンと、静かな部屋に椅子の倒れる音がひときわ大きく響くと、綾音は重力に逆らわず、そのまま横向きに地面に倒れこんだ。
「綾音!?」
さすがの紫苑も反応が間に合わず、綾音は華奢な体を強かに床に打ちつけた。
「おい! しっかりしろ! おい! 綾音!」
紫苑はすぐさま綾音を抱き起し、平手で軽く頬を叩く。今回はいつもの鈍さからくる転倒とは深刻さが違うとすぐに理解できた。
「……し、おん…?」
意識こそあるものの、呼吸は肩でするほどに荒く、細く開かれた瞳も朦朧としていて焦点はどこにも合っておらず、とてもじゃないが安心できる状態ではない。
綾音は何事か呟いていたが、蚊の鳴くような声からは何も推し量ることができない。
紫苑は必死に平静さを保ち、これからどうするべきかを考える。
まず救急車を呼び、綾音を安静な状態で寝かせる。それから綾音の父から持病などの情報を聞き――育て親であるためあまり期待できないが――指示を仰ぐ。よし、これでいい。これで行こう。
紫苑がそう思い立ち、急いでダイヤルを回そうと立ち上がった瞬間。
全身が総毛立つ、凍りつくような、強烈な寒気を感じた。
「殺してやる」
空気も凍る冷淡な言葉がはっきりと聞こえた直後、紫苑の体は宇宙遊泳のように宙に浮き、見えざる手で首を締め上げられたように呼吸が困難になった。
「な……がっ……」
紫苑の目下では綾音が、今まで一度も見せたことのない、すべてを拒絶する酷薄な笑みを唇の端に浮かべている。
美しいエメラルドグリーンの瞳は、鮮血のような真紅に染められていた。
(なんだ、何が、起こ……って……)
目の前の真紅の瞳も、自分がどうなっているかも、何が起こったのかもわからず、断続的な苦痛が思考力を奪う。
「せいぜい苦しみなさい、卑しい下賤の者」
綾音は紫苑が苦しむさまをその真紅の瞳で無感動に見据え、怜悧で辛辣な言葉を形の言い唇で紡ぎだしていく。
「うっ……かっ……あうっ……」
紫苑は必死に声を絞り出そうとするが、空気が喉を通らず言葉にならない。
綾音は暗く冷たい表情のまま右腕をまっすぐに紫苑に伸ばし、その先の手は見えない何かを掴むように力が籠められ微かに震えている。
一年前、綾音が使った力。あれから二人で話し合って、もう二度と使わないようにしようと決めていた、その力。
綾音はその力を、紫苑に暴力として振るっていた。
「ぐっ……」
綾音の口からくぐもった声が漏れて、無感動だった表情が微かに苦悶で歪む。
すると、首を絞めつけていた万力のような力が緩んだ。
「あ……やっ、ね……」
紫苑は僅かに取り込んだ酸素を言葉と腕を伸ばす力に変え、綾音に向かって懸命に伸ばそうとするが、届かない。
綾音は突如、怒りに顔をしかめた。
「黙れ。私はノエル。臆病者とは違う」
「ノ…エル…?」
言っていることが何一つわからない。混濁する思考は迷走を極め、紫苑の意識は徐々に薄れて行く。
「お前がシオンの名を騙るな。今度はそうして私を利用するつもりか。醜く、卑しい人間。利己的で他者のことなど微塵も顧みない、愚かな人間。殺す、消してやる、すべて」
絶望、憤怒、愁嘆、それらの感情が混じり合って、圧倒的な負の気配が絶対零度の力を持って空間を支配する。
利用、する?
綾音、じゃない?
じゃあ、おまえは、誰なんだ?
どうしてそんなに、冷たい眼をしているんだ?
何一つ分からないまま、全身から力が抜け始めていた。
「ぐっ……」
紫苑にとっては僥倖か。紫苑の首にかかっていた力が緩むのとほぼ同時に、綾音は開いている左手で痛む頭を抑え、おぼつかなくなった足が一歩たたらを踏む。
「まだ、少し早かった…か? なら何故、私は目覚めた……? 何か、に。導かれ……」
徐々に真紅の瞳が色褪せ、綾音の体がぐらぐらと安定感を無くしていく。
「まぁいい、いずれ、また目覚める。その時こそ、終焉……を……」
紫苑が最後に見た綾音の姿は、頭を押さえて苦しんでいるように見えた。
視界が靄の中のように白くぼやけ、視界が狭まっていく。
薄れ行く意識の中で、紫苑は懸命に綾音に手を伸ばす。
しかし、その手は何に触れるでもなく、虚しく宙を掻いただけだった。
そして、紫苑の意識はそこで途切れた。
5
「ふふ、そうか、やはりここにいたんだね」
闇の中にぽっかりと、白い陽炎のように白髪が揺らいだ。
屋根の上に腰かけた男は、全身黒で統一されたスーツを着用していて、真珠の様に光沢のある白髪だけが闇の中の男の存在を証明している。
「もうすぐなんだね、ノエル。僕がきっと、君の望みを叶えてあげる」
ふふふと、妖しげな歌のような笑い声が、闇夜の中に僅かに生まれ、風に溶ける。
「感じるよ、君の絶望を、そうだ、僕にもっと君を見せてくれ。君の嘆きを、怒りを聞かせてくれ」
遠くで響くサイレンが、男の言葉をかき消した。
「僕の大切なノエル。君が目覚め、目的を成し遂げるためなら、僕はなんだってするよ。だから、あいつなんか見ないで、僕だけを見ていてくれ」
どこか儚げな旋律を思わせる口調で、男は静かに囁くように言葉を連ねて行く。
「今はまだ、だね。今度はちゃんと会おうね、偽物じゃなく、本物の君と」
男は立ち上がると、闇の中にまぎれて消えた。
「またね、僕のノエル」
平凡な日常が、少しずつ、音を立てて壊れて始める。
第三章 〜狂った歯車は止まることなく〜
1
ひどく夢見の悪い眠りだった。
どこまでも続くぬかるみの中に落ちていくような、絶望的な夢。
具体的なことは何一つ思い出せないのに、ひどく苦しく、悲しかったことだけは確実に覚えている。
それは、記憶のない過去の隙間に怯える感覚によく似ていた。
しかし、それはあくまで夢の中のこと。夢だとわかり安堵した紫苑の意識は、半覚醒の状態で水面を漂う浮標のようにゆらゆらと揺れていた。
「紫苑! 朝だよ! 朝なんだよ!」
(……なんなんだよ)
かしましい声とシャーという絹のずれる音が耳にうるさく、瞼の裏を真っ赤に染める明光が目を覚ませとくすぐる。
「紫苑! 朝なんだってば! 朝! 朝!」
聞き慣れた声が、しつけの悪い犬のように同じ単語を吠え続けている。
「朝! 朝なの! もう紫苑!」
うるさいな、もう……。
紫苑はなおも執拗に吠え続ける犬――もとい、聞きなれた声を引き離そうと、無意識に手を伸ばして目の前にある気配を押しのけようとして、
「ふにゃあ」
尻尾を踏まれたひ弱な猫のような声がして、ふにゃりとしか表現できない柔らかで心地よい感触が掌に広がる。紫苑にはあまりなじみのない感触だったが、なんだか心地いい感触だった。
ふにふにと柔らかさを堪能するように右手を軽く握ったり開いたりを繰り返してみる。
だが、どうもおかしい。本能的な忌避感が、早く手を放せと紫苑に語りかける。が、はっきりしない意識が動作を止めさせない。
「もう紫苑ってば! ふざけている場合じゃないんだよ〜!」
紫苑の胸のあたりを軽い心臓マッサージのように誰かが揺すっていた。
「遅れちゃうんだよ〜!?」
(……遅れる? 何に?)
と、手の中にある柔らかな感触や、聞きなれた存在のことはとりあえず置いて、紫苑は徐々にはっきりとし始めた意識の中で思考した。
遅れる、とは何か間に合わないということである。
そして今は朝。自分は学生。
紫苑は一つの結論にたどり着き、一気に意識を覚醒へと引き上げた。
「学校か!?」
紫苑が盛大な叫び声とともに両の眼をバッチリと見開いた。
紫苑の目の前では、いきなり大声を出した紫苑に驚いた表情の少女が、紫苑に跨る形で膝を折って座る、いわゆる『女の子座り』をしていた。
「綾音……か?」
だんだんと、夢の世界が遠ざかって現実が近くなる。
目の前で紫苑に跨っていたのは綾音だった。彼女は紫苑に跨り、胸に手を置いて必死に揺り起そうとしていた。
そして、紫苑は自分が綾音の柔らかく、『何』の二つあるうちの一つを鷲掴みにして不用意に手を動かしていたのを理解し、
「ぬおおお!」
驚きで勢いよく跳ね起き、綾音の額に強烈なヘッドバットを食らわせた。
「うひゃあ!」
「あぐっ!」
ゴン、という鈍い音が響き、したたかに額を打ちつけた二人は数十秒間額を押さえ、悶え苦しみ蹲った。
痛みが治まった紫苑は冷静さを取り戻す事無く、すぐさま痛めた地面を冷たいフローリングに押し付けた。別に痛み覚ましに冷やしているわけではない。
これは古来より伝わる日本の伝統的な謝罪方法だ。
「すみませんでしたぁ!」
紫苑は開口一番、敬語で謝罪の言葉を発した。
「いや、まるっきり俺が悪い。殴打してくれて構わないから、どうか許してくれ」
痛む額を何度も床に打ちつけ、紫苑はただひたすらに平謝り。
綾音は軽く額を押さえながら首を振った。
「いいよぉ、そんなに謝らなくても。紫苑だってすっごくいたかったでしょ?」
「いや、その、それのことじゃなくてだな。いや、それもあるんだが、そうじゃなくて」
紫苑は必死に説明をしようとするのだが、「何のことだかわかんないよ?」と誰が見てもわかるほどくっきり顔に書き、首をかしげている綾音を見ていると、普通の女の子がその行為を受けるとどんな反応をするかまで話さなければいけないような気がして、直接的な表現ができず、何と言っていいか分からなくなる。
しかし、当人が被害に気づいていないのに。加害者が一方的に謝るのは変だ。被害者が訴えなければ示談も裁判も行われないという話を聞いたことがある、ような。
「いや、なんでもない。忘れてくれ」
「うん、だって紫苑、謝るようなことしてないもんね」
そうやって綾音が子供のように純粋な目で見つめてくるので、紫苑は良心の呵責に額よりも胸が痛んだが、どうにかそれを押さえつけて冷静さを取り戻した。
「それよりお前、なんでここにいるんだ?」
思い出したように、紫苑は疑問を口にした。当たり前だが、ここは紫苑の家であって、本来こんな朝に綾音がいるべき場所ではない。
翠玉色の瞳が美しいポケポケ少女は、うーんと、綾音は視線を天井のシミ辺りに向け、大層に唸って見せる。
「うーんと、わかんないや」
が、彼女がこうやって考えこむ時の大概の答えはこれだった。紫苑にはもう慣れたことなので別段驚きは無い。
「えっとねぇ、紫苑といっしょにごはんを食べてぇ、紫苑からこれをプレゼントしてもらってすごく嬉しかったのはおぼえてるんだけどぉ……」
綾音は首から提げている翡翠を目の高さまで持ち上げ、値踏みするようにじっくりと観察するが、また首を振った。
「ダメ、やっぱりわかんないや。いいんじゃない? だって、私もよくあるもん。急に眠くなってその場で寝ちゃうんだよね。きっと紫苑もそうだよ」
「……いや、それはお前だけに許された技だよ」
「そうかなぁ? えへへ〜」
やっぱり皮肉には気づかず、綾音は破顔してはにかんだ。
いつも通りの綾音はともかく、自分まで何も覚えていないというのは奇妙に思えた。
その前までの記憶は鮮明なのに、まるで八ミリフィルムの途中を切り取って前後を繋げたかのように、綾音に翡翠を渡した時点から朝までが唐突に寸断されている
「ねぇ、それもたいへんなのかもしれないけどぉ、時間はもっとタイヘンかもだよぉ?」
高速で回転する思考に待ったを掛ける呑気な声が、綾音の口から発せられる。
「ちょっと今考え事を……って、時間?」
「そ、じ・か・ん」
ちょいちょいと、綾音は人差し指で時計を指差す。
時と同じ速さで進む針は、ちょうど八時を指していた。
「やばい! もうこんな時間か!」
学校へはどんなに全力で走っても十五分はかかる。無論、紫苑一人最短距離を走れば五分もあれば到着可能だが、紫苑の中で綾音を伴う事は既に前提条件になっている。
「私は準備終わってるよぉ」
えへんと綾音は胸を張り、奇跡的に宿題をやって来た生徒みたいな顔で得意げに鼻を鳴らした。紫苑は「何でお前がそんなに早いんだよ?」と尋ねたかったが、問いただす時間がないので脱兎のごとく駆けだした。
「とりあえず準備するから! 適当にトーストでも焼いといてくれ!」
紫苑は早口で言い残すと、洗面所に向かって駆け出した。
汚れの目立つ鏡台の前に立ち、使い古した歯ブラシで磨き始める。
「……おいおい、何じゃこりゃ」
鏡に映る姿を見て、紫苑は仰天した。
「本当に……昨日、何があったんだ?」
紫苑の首元には、首でも絞められたかのような痣が残っていた。
まさか俺はこんな趣味のプレイを……と、一瞬思い浮かんだが、すぐにその考えは捨てた。どちらかと言えば自分はサディスト……と、危うく脱線しそうになる思考を制し、紫苑は冷水を掌一杯に溜めて顔を張るように力いっぱい叩きつけた。
どちらにしても、今考えてすぐに答の出ることではない。とりあえず、学校では服の襟もとを上げて誤魔化す事にした。
紫苑は手早く身支度を整えると、服を着替えようとして、自分が制服のままであったことに気づき、綾音のいるリビングに戻った。
「綾音、トーストは」
と言い掛け、綾音がトーストを焼いているはずのキッチンを見つめて、絶句した。
綾音が台所に火を放とうとしている。紫苑にはそうとしか見えなかった。
「あ! 紫苑! どうしよ〜」
綾音は炎上する何か(恐らくトースト)を箸で持ったまま混乱して右往左往している。
最初から気づいておくべきだった。綾音にトーストを焼いておけと言えば、何も考えず文字通りの行動をするに決まっていたというのに。
「落ち着け! いいから流しに捨てて、全開で水を流せ!」
綾音はすぐさま箸ごと流しに放り込み、蛇口を全開に解放した。
トーストは『ジュ!』というトーストにあるまじき音を立て、本来の役割ではなく真っ黒な炭と煙となってその生涯を全うした。
「えへへ、びっくりしちゃったね」
綾音は謝るでも驚くでもなく、「しっぱいしっぱい」と呟いて、片目を軽くウインクして軽く舌を覗かせた。
「もういいよ、時間もないし、すぐ行くから玄関で待っててくれ」
綾音に甘い紫苑は、たったそれだけの追及で放火犯を許してしまう。確かに、許してやりたくなるかなりの可愛らしさではあるのだが、将来を考えれば叱るべきだろう。
(まぁ、綾音に料理をさせようとした責任は俺にもあるしな……)
と言い訳じみた考えで自分の甘さを一蹴して、腕時計を身に付けた。
時刻は六時三十三分。まだ学校へ行くのには時間が……
「ん??」
いやいや、そんなバカな。紫苑は眼を疑った。
さっきは確かに八時を指していたのだ。まさか時間が巻き戻るはずがない。
紫苑は眼をこすってもう一度時刻を確認した。
だがしかし、現実は変わることは無く、確かに時刻は六時三十三分である。
紫苑はちらっと、視線を壁にかかっている時計に向ける。
まったく動くこともなく、十二を指す長新はまっすぐに屹立している。
紫苑はとてつもなく嫌な予感を覚えながら、静かにリモコンのスイッチを入れた。
『時刻は六時三十四分。次は新聞斜め読みのコーナーです』
朝の顔、美人の女性アナウンサーが無情に時間を告げた。
「……」
「しおーん。早く行かないとちこくしちゃうよ〜!」
玄関から綾音の活気に満ちた声が響いている。
対して、紫苑は吹きだまりのように淀んだ空気を肺から吐き出した。
「……急ぐ必要ねぇぞ」
2
「まったく、何で時計が止まってるんだよ。急いで損したっての……」
と、紫苑が愚痴る。
そう、時計は昨日の夜から止まっていたのだった。
「まぁいいじゃない。一日が長くなったと思えば」
綾音が慰めだか何だか分からないことを言っている。
時計のせいでとんでもなく早い時間に準備ができてしまった紫苑達は、このまま家にいるのも何か癪なので、結局、公園を遠回りして時間をかけて学校に向かう事にした。
今二人はいつものルートとは違う、公園の外円にある車道沿いの歩道を歩いていた。
「そういえば今日、夢を見たよ」
何の前触れもなく、綾音が話を切り出した。
「へぇ? いったいどんな?」
黙っていても昨日のことばかり考えてしまいそうなので、紫苑はとりあえず話に乗っかっておくことにした。
「うんとね、シマもようをなくしてシマウマの世界から追い出されちゃったシマウマさんが、頑張ってシマもようを探すために旅に出るの。それで、辿り着いたアメリカの東京タワーで、エレベータの前の白ぱんだに、「肉うどんと皿うどんどっちが好き?」って聞かれたから「それならフェルマーの最終定理を使うといいよ」って、赤パンダがアドバイスをくれるんだけど、横からやって来た黒パンダが「いや、それはローレンツ変換の応用だよ」ってやって来て、怒っちゃって、それでケンカになっちゃうんだけど、そこにやってきた犬のおまわりさんが困ってしまって迷子の子猫ちゃんが泣いちゃうの」
「……あー、そうか」
話に乗っかってからすぐ、聞かなきゃ良かった、と紫苑は心から後悔した。
もはやツッコミどころが満載過ぎて、どこからツッコんでいいのかわからない。
きっと、彼女の頭の中には広大な宇宙が広がっているのだろう。
そこに人類が踏み込むのは時期尚早というものだ。
「もうひとつ、なんだかとっても怖い夢を見たの」
「怖い夢?」
綾音は少し眉をひそめて、こくりと小さく頷いて見せる。
「すごく怖かった、ていうのは覚えてるんだけど。何でかなぁ? 全然思い出せないの。例えるなら……そう、冷たい炎、みたいな」
思考の浅い綾音にしては意味深長な例え方だった。
(冷たい炎……)
実は、紫苑も今朝見た夢に同じような印象を覚えていた。紫苑の場合は、悲しい深紅。漠然としたイメージだが、綾音と似ていると言えば似ていないこともない。
「気にするなって、夢は夢だろ? あまり気にすることねーって」
しかし、紫苑は表面上それを顔に出さず、いつもの体で言ってのけた。
「そうだよね。夢だもんね」
綾音はいつもの笑顔を取り戻して言った。
そして、悪夢を振り払うかのように、その場から走り出していく。
実際のところ、紫苑もそこはかとない不安を覚えていた。
曖昧なくせに、やけに大きな存在感で紫苑を不安に駆りたてる。
「別に、ただの夢の話だ」
自分に言い聞かせるように、紫苑はわざと言葉に出した。
それでも、砂を手で掬うようなもので、一抹の不安までは拭い去ることはできない。
「しお〜ん、ちょっとこっち来て〜」
行楽地にやって来た子供のように、綾音が前方で手を振っていた。
そこにはいつもと変わらない笑顔が浮かんでいる。
そう、何も変わることは無い、そこには日常があって、これからもそれは続いて行く。
「おいおいなんだぁ?」
「いいから! 私に付いて来て!」
言うなり、綾音は低い柵で道路と隔たれている公園の藪の中に入って行ってしまった。
「やれやれだな……」
放っておいたら遭難してしまいそうなので、紫苑も慌てて藪の中に入って行った。
この不安は、限りなく続く日常がいつか杞憂に変えてくれる。
紫苑はそう信じていた。
この時は、まだ。
3
「ねぇ紫苑、この子……」
道路から数メートル離れた木の陰に、段ボール箱に包まる白い毛玉のような生き物。
「捨て猫か……」
汚れで少し煤けた白い子猫は小さく蹲り、少し前にここに置かれたのか、その上に赤く色付いたこの葉が積もっている。
紫苑は思わず舌打ちしていた。この猫を捨てた当人は相当に質が悪い。これだけ入り組んだ場所に捨てたということは、最初から人に拾われること前提にしていない。つまり、猫のことよりも、自分が猫を捨てる人間だと見られる方が嫌だという考えの表れ。自分本位で勝手な人間、という可能性が高い。
綾音は手で木の葉を軽く掃うと、汚れなど気にせず優しく胸に抱いた。
綾音の胸の中で、子猫が「なぁ」と高いを上げる。まだ衰弱している様子はないし、降り積もった落ち葉の遼からも見ても、何日も放置されていたわけではないようだ。
「よぉし、寒かったねぇ。偉いねぇ」
綾音が語りかけると、子猫はそれに合わせて嬉しそうに眼を細める。
言葉が理解できるはずなど無いとわかっているのだが、その様はどう見ても会話しているようにしか見えない。
「あったかい? そうなんだ〜、よかったねぇ〜」
綾音が軽く力を込めると、ぎゅっと胸に猫の顔が押し付けられて柔らかな弾力が包みこむ。その光景に、一瞬紫苑は嫉妬して、
(なに考えてんだ俺は、猫相手に……)
子供じみた自分を平手で叱咤した。
(に、しても……、こいつ、こんな顔もできるんだな)
いつも見せるあどけない表情とは違う。
生まれたての赤子に見せる母親の慈愛に満ちた表情。もちろん、本当の母親など覚えてはいないが、もし母親がいるとしたらきっとこんな顔なんだろうな、と紫苑は思う。そほれどに、いつもの綾音からはとても想像もできないほど大人びていた。
さっきは少し嫉妬してしまったが、綾音のこんな表情を見るのも悪くないなと、子猫には悪いと思いつつ、紫苑はそんなことを考えていた。
「ああもう、くすぐったいよ〜」
完全に綾音に懐いたらしい子猫は、犬には無いざらつきを持った小さな舌で綾音の頬を舐めまわしている。
微笑ましい光景に、紫苑は頬が緩んだ。
「ねぇ、紫苑」
「ん、なんだ?」
急に呼びかけられた紫苑は、頬の筋肉を一気に収縮させると、いつものクール(だと自分では思っている)な表情に戻して答えた。
「この子、飼っちゃダメかなぁ?」
(はいはい、やっぱりそう来たか)
仔猫を見つけた時点で九割九分間違いなく来るだろうと思っていた質問に、紫苑は用意していた答えで答えた。
「あのなぁ、お前ちゃんと世話できるのか? そりゃあ猫は犬に比べれば飼うのは楽だけど、飼い主にはそれなりに責任ってもんがあるんだぞ?」
「大丈夫! できるもん!」
ずいっと、綾音が紫苑に顔を近づける。いつもは頼りなさげな下がり気味の眉も、幾分か力が籠っているように見えた。
紫苑はふぅ、とため息をつき、
「そうはいっても、俺が決めることじゃないだろう。まずはおじさんに飼ってもいいかどうかを確認してからじゃないと困るだろう?」
「あぅ……」
綾音は一気に落胆した表情を見せ、
「でも、この子も一緒に住みたいって言ってるよ。ほらっ」
「いや、ほらって言われても……」
綾音は猫を押し付けてくるが、生憎紫苑は猫の言葉などこれっぽっちもわからない。
「むぅ〜、しおん〜」
猫を手に抱えたまま、綾音は徐々に紫苑との距離を詰めてくる。少し泣き出しそうな目で詰め寄られると、正直紫苑にとっては銃を持った強盗が近づいてくるより強烈だ。
「しおん〜」
上目遣いのまま、身長の低い綾音はつま先立ちになって紫苑に顔を近付けてくる。その距離、約三十センチ。「おっとごごめんよ」とか言って人にぶつかられたら漫画のような展開になること請け合いの距離だ。
額に冷たい銃身があてがわれているくらいに追い詰められた紫苑は、
「ああもうわかった! 学校から帰ったら俺も一緒に説得してやるし、飼えなかったら俺の家で飼ってやる。だから、雨の日陸橋の下で見かけた捨て犬みたいな目は止めろ」
結局綾音の主張に折れる他無かった。
「あは! いいんだ! わ〜い!」
「あ、こらバカ! 猫が潰れる!」
抱きついてこようとする綾音を、紫苑はどうにか制した。
「えへへ、紫苑ありがとう。やっぱり優しいよねぇ」
見ている方が幸せになりそうな笑顔で、綾音は決して運動神経の良くない体で精いっぱい飛び跳ね、喜びを全身で表現した。
「そりゃどうも」
当然、紫苑が自分に特別甘いということなど、綾音は理解していない。それはそれでいいと思っているのだが、紫苑は溜息を吐かずにいられなかった。
「ともかくだ、学校に連れてくわけにはいかない。仔猫はひとまず、ここに置いて行く。それでいいな?」
「う〜、うん」
綾音は納得していないようだったが、子猫を飼うためならと譲歩する事にしたらしい。
「はい決まり。それじゃあ、早く猫を箱に戻す。じゃないとお前、名残惜しんで離れられなくなりそうだからな」
「むぅ、それはそうかも。仕方ないね」
綾音は今生の別れのような雰囲気を漂わせて子猫を見つめる。が、子猫は何が何だかわからない様子でポカンとして(いるように見えて)いる。
綾音はしぶしぶ子猫を箱に戻した。
「ほい、それじゃあ行くぞ。目を閉じろ」
紫苑は綾音の後ろに回って耳を塞ぎ、子猫の鳴き声で足を止めさせないようにすると、そのままの形で藪から出て行った。正直、傍から見るとかなり怪しい二人組みなのだが、やっぱり当人は気付かないものなのである。
「後でまた来るからね〜」
綾音は明後日の方向に向かって何度も手を振っていた。
仔猫から十分離れるまで誰にも見つからなかったのは、幸運としか言えなかった。
いつもと違う時間帯に出かければ、それなりに違うものと出会うものだ。
たとえば電車なんかは混み具合も違うし、年齢層にも様々な違いがある。
公園はいつもの時間帯に比べ、早朝はまだ通学通勤をする人間はほとんど見えず、老人や犬連れの人が多く見られ、普段より小鳥たちの声もひそやかである。朝の空気は肌に染みたが、寒さよりもその空気の清浄さが勝っていた。
その中においてひときわ異彩な集団が、近所迷惑など考えずやかましい声をあげ、前方を我が物顔で闊歩していた。
集団のほとんどが派手なワイシャツやアロハシャツ、または趣味の悪いスーツを着用していて、馬鹿みたいな髪の毛の色をしている。色彩の悪いサラダのようで気味が悪い。
つまるところ、
(チンピラ集団の酔っ払いか……)
紫苑の見立てでほぼ間違いなさそうだった。繁華街から離れた公園に何故いるのか、などということは些細な疑問である。酔っぱらいは行動が予想できないから酔っ払いであって、それ故にひどく傍迷惑な存在なのである。
「うぉ〜いまらほうひっへんいくを〜!」
集団の一部は呂律が回っておらず、意味不明な叫び声を公園にこだまさせている。
「外人さんかな?」
興味津々といった様子で、綾音が大真面目に紫苑に問いかける。
「ああ、ある意味独特の文化と言語、行動理念を持った異種族であると思っても決して間違いではない……」
紫苑は半ば諦め気味につぶやいて、面倒なことになる前にとっととこの場から立ち去ろうとしたのだが。
棚から腐った牡丹餅とでも言おうか。
厄介事は面白そうなもの(紫苑たち)を発見して近寄ってきた。
「おいお前ら、こんな時間になにやってる?」
背後で発せられる下品な笑い声をBGMに、比較的酔いが薄そうな金髪の男が恐ろしいまでのハイテンションで紫苑に語りかけてくる。
「そりゃあこっちの台詞だろ……」
紫苑は心底あきれ顔で呟いたが、男達はがはがはと下品に笑うだけだった。
「一丁前に朝帰りってか? ったく、ガキの癖に調子のりやがってよ〜!」
後ろの男達が悪ノリで「そうだそうだ」と合いの手を入れる。
ピクンと、紫苑の額に青筋が走った。酔っぱらいに絡まれているだけでも鬱陶しいというのに、酔っ払いの分際で当たらずとも遠からずの発言をしてきたことが癪に障った。
(あんたらこそ朝の公園にチンピラは似合わねえよ。この正常な空気が汚れるのがわかんねぇのかこの歩く公害ヘドロ野郎ども。てめぇらは早起きの隠居老人か。その頭の悪い顔忘れず持って帰ってドブ川でも流れてろドチンピラ)
とか、言ってやりたいのは山々というか喉が枯れるまで叫んでやりたかったのだが、今は綾音がいるために強く言い放つことができない。
何と言っても、綾音は全く状況が理解できておらず、朝の眠気も手伝って「道でも尋ねられてるのかな〜?」とか考えているほどだ。
男達は酒による高揚と集団心理によって増長していき、口々に好き勝手なことを話していたが、紫苑は決して強くは無い堪忍袋の緒を必死につなぎとめていた。
「おお?」
男の中の一人が、隣で船を漕いでいた綾音に興味を示した。
「おぉ、この女、まだガキ臭いところもあるが、なかなかいい女じゃねぇか」
堪忍袋の緒に、ミシリと罅が生まれ始める。
「おいおい、こんな男と一緒にいねえで、俺たちと一緒に来いよ?」
(……3)
「ふぇ? 私ですか?」
眠りに付きかけていた綾音は、何のことか分からず首を傾げている。
男の一人が下卑た笑いを浮かべた。
「楽しいことでもしようぜ〜?」
今どき誰が使うんだよ、と思わずツッコミを入れたくなるような古臭い言い回し。
(……2)
「楽しいこと?」
当然理解できない綾音は反対側に首を傾げる。
「もちろん、おまえは許してくれるよな?」
相手を自分より下だと判断した男は、紫苑の胸倉を掴んで脅しにかかる。
(……1)
「いいから、俺たちと一緒に来いよ」
男の一人の腕が綾音の手に伸びて、
(……0)
紫苑が切れた。
「綾音に触るな、ゴミ以下」
紫苑は綾音に触れようとした男の手を、万力のような握力で締め上げた。
「うぎっ!」
あまりの激痛に男は呻き声をあげて、数歩後ずさり後ろに倒れこんだ。
「綾音」
「ふぇ、なぁに?」
未だにペースを保っている綾音は、眠たげな眼をこすって頭をふらふらさせている。
「これ、百五十円やるから、好きな飲み物勝って来ていいぞ。さすがに公園で迷子にならないよな?」
「いいの!? やった! ちょっと行ってくるね!」
綾音は紫苑の右手から二枚の硬貨を受取ると、絶滅寸前のスキップで駆けて行った。
「で、お前ら」
紫苑はさっきまでの大人しい高校生の仮面を捨て去り、完全に愚者を見る目で男たちを睥睨すると、
「この産業廃棄物以下のクズ野郎ども。地球環境が悪化するから今すぐに消えろ。心臓を動かすな息をするな。酸素が減る。エネルギー保存の法則で宇宙のエネルギーの総量は決まってるんだ。土に帰るなり魚に啄ばまれるなりして地球に貢献しろこのゴミ。それとも足りない脳みそでボランティアでも考えるか? 無理だろうなそのヘドロ脳じゃ。となると今お前らにできるもっとも簡単なことは家に帰って寝ることだ。騒音公害風評被害etc……。お前らは様々な罪状で世界に多大な迷惑をかけている。とっとと家に帰るか、それともここで夜空の星のひとつになるかどっちか選べ」
威圧するように指の関節を鳴らし、態度を一変させて一気にまくし立てた。
男達は一瞬何が起こったのか理解できず、ぽかんと口を開けたまま呆然として虚空に視線を漂わせている。
「んのクソガキが!」
束の間の沈黙の後、戦闘にいた金髪の男が激昂し、いきり立って襲いかかって来た。
男の繰り出した拳を、紫苑は体を半身ずらすだけであっさりとかわすと、交差法気味に膝をみぞおちに叩きこんだ。
男は悲鳴を上げる間もなく、即座に気絶して地面に倒れ伏した。
「……」
先ほどまでとは違う。恐怖を色濃く反映した異質な沈黙がその場を席巻する。
さてと、と呟くと、パンパンと紫苑は軽く手を叩き、
「時間がないから、大人しく寝てろ」
三分後、紫苑の周りには無数の屍が転がっていた。
とは言え、別に死んでいるわけではない。ただ単に白目をむいて気絶しているだけだ。
男たちに外傷はない。それもそのはずだ。紫苑はわざと見えない急所を的確に狙っていたのだから。
「どうにか片付いたな……。久しぶりだとこんなもんか」
紫苑は無傷で、悠然と立ち、首を二、三度捻って鳴らした。
実のところ、紫苑がこんな喧嘩をしたのは初めてのことではない。
綾音がやってくる前の紫苑は荒れていて、周りで言うところの不良少年というくくりに入る存在だった。しかし、単なる不良がやるように騒ぐのではなく、授業をたまにサボる程度のもので、爆音を鳴らしてバイクを乗り回したり、髪を染めて反抗的な態度をとったりするわけではない。ただ、いつも一人でいて、近寄りがたい雰囲気を持っているだけで、それだけなら不良とくくられるほどの問題児でもなかった。
ただ、紫苑は圧倒的に強かった。
紫苑の一匹狼のように不遜な態度を気に入らないという輩は多く、紫苑は異様に喧嘩を吹っ掛けられることが多かったせいでよくからまれていたが、何十人で来られたとしても、紫苑はすべて返り討ちにしている。
以前の紫苑は時折満たされない虚しさからいろいろと不安定だったが、綾音に出会ってからはそれもなくなっていた。最後に紫苑が喧嘩をしたのは一年前のことだ。
すべての人を魅了する容姿と甘い声に、紫苑のおかげでちょうどいい具合にドジっ子に見えることも相まって、転校早々綾音は男子生徒から絶大な人気を得た。熱狂的な混乱はなおも膨れ上がり、いつもそばにいる紫苑が鼻もちならないと多数の男子生徒が綾音から離れろと紫苑を脅し、切れた紫苑が数十人を半殺しにしたのが最近の記憶である。
余談だが、その時の紫苑の鬼神の動きは伝説的となり、一部では『黙黒の破壊神』の名がひそかに広まっていることを紫苑は知らない。
「にしても俺、昔なにやってたんだろうな。暗殺者にでも師事したってのか?」
紫苑は苦笑交じりに、つまらない冗談を呟く。
昔は口にすることさえ嫌だった疑問が、今は冗談交じりに言える。
それは綾音と交わした約束が守られている確かな証拠だった。
そう思うと、胸の奥で澱んでいた不安が少しだけ晴れたような気がした。
それから間もなく、缶を持って満面の笑みを浮かべた綾音が走り寄ってきた。
「お待たせ……あれ?」
「お、もう買ってきたのか。お前にしてはずいぶん早いな」
「うん、ここの道はちゃんと覚えてるからね。それよりどうしたの? 外国のひと」
綾音は倒れ伏すチンピラを指差し、不思議そうに小首を傾げている。
「ああ、これはほら、そう、話し合いをしてたら、なんだか急に眠くなったとか言い出して寝ちまった」
紫苑の口から出たのは子供にも「なめとんのかわれコラ?」と胸倉をつかまれそうなほど完成度が低かった。こんな嘘を信じるのは地球上を探しても一人いないだろう。
「へぇ、そうなんだぁ」
六十億分の一がここにいた。
それは綾音が靴紐を結んでいる間に寝てしまうという中国雑技団もビックリの曲芸を天然でこなしてしまからこそ奇跡的に通じた嘘だった。
「あれ、紫苑、服が汚れてるよ?」
「ああ、それはそれは壮絶な話し合いだったんだ」
「へぇ、大変なんだねぇ」
もはや喧嘩していたと言っているようなものだが、紫苑が聞かれたくない悟ったのか、単に思慮が浅いだけなのか。綾音は経済問題でも考えるように真剣な顔で頷いた。
「カゼひかないようにしてね」
綾音は心底本気の顔でそう言って、手近に転がっていたパンチパーマを撫でた。
「ああそう! それより紫苑これ!」
綾音はガバッと立ち上がり、黄門(正しくは助格のどちらか)が紋所を示すように、缶ジュースを紫苑に突きつけた。
「珍しいんだよ! グリーンココア・プリンシェイク風味」
「そ、それは美味いのか……」
缶のラベルには抹茶の上にコーンスープがコーヒーのミルクのように渦を巻く絵がおどろおどろしく描かれている、と紫苑は感じた。おそらくはそのグリーンココアとやらとプリンシェイクを表しているのだろうが、紫苑にはとても美味そうに見えない。
「とってもおいしいよ。それで、紫苑にも飲んでもらおうと」
いや、勘弁してくれ、と紫苑が言おうとすると、綾音は急にしゅんとした表情になり、
「思ったんだけど、さっき転んだ時にぜんぶこぼしちゃった」
缶を逆さまにして中身がないことを示し、嘆息した。
「そっか、そりゃあ残念。また今度な」
紫苑は綾音を慰めるように、軽く肩を叩くと、学校に向けて進路を取る。若干どんよりとした空気を背負っていた綾音も、「勿体ないけど仕方ないよね」と口に出して気を取り直し、紫苑に続いた。内心、紫苑が安堵していたことは言うまでもない。
「今度はいっしょに飲もうね」
「はっはっは……」と紫苑は笑いながら、絶対に御免だと思った。
ちなみに、紫苑はチンピラから迷惑料という名目でちゃっかり金銭を拝借していた。
4
結局、なんだかんだうろうろしているうちに、登校時間はギリギリになっていた。
「ああ、お前が途中寄ったトイレで居眠りしてくれたおかげでちょうどいい時間だな。こりゃ俺がトイレの前で寒空の下一時間も待った甲斐があったってもんだな」
「えへへ、そんなに褒めないでよ〜」
と、綾音はやはりその皮肉を額面通りに受け取ったので、紫苑は嘆息の代わりにくしゅんと顔に似合わない控えめなくしゃみをした。秋の朝の寒さはさすがに堪える。紫苑は廊下を歩く心持ち歩く速度を上げ(とはいっても綾音が一緒なので対して早くは無い)、暖かい教室の扉を開けた。
「……うおっ」
紫苑は驚いて、一歩のけぞった。
扉を開いた瞬間、クラス中の視線が紫苑と綾音の一点に集まったのだ。
いつも男達の怨嗟の視線は受け慣れているが、女子生徒からの好奇に満ちた視線はあまり経験がない。
「どうしたの? 入らないの?」
隣で綾音が不思議そうな眼で紫苑の顔を覗き込んでいる。彼女は天性の鈍さからか、普段自分が男衆からどんな目で見られているのかも気づいていない。今日も例外なく、級友の視線などまるで感じていなかった。
立ち止まっていても仕方ないので、紫苑は疑問に思いつつも、教室の最後尾に綾音と並んで座った。
余談だが、どんな奇跡が起こるのか、この一年席替えのくじ引きでは綾音と紫苑は一度たりとも離れていない。その点も紫苑に向けられる怨嗟の視線に添加されているのだが、そもそも不正など無いのだから紫苑に追い目は一切ない。
紫苑が机の中を整理(するフリ)していると、不意に机の上に影が落ちた。
紫苑が見上げると、見知った顔が敢然と腕を組んでいた。
「……品田」
品田克幸。成績は中の下といったところで、紫苑の次に運動ができるスポーツマン。紫苑の数少ない友人にして、紫苑がいながら綾音に近づこうとする稀有な存在である。
「……」
引きしまった体にそれなりに整った顔立ちは、黙しているとそれなりに迫力があった。
「何か、用か?」
あまり例を見ない状況に驚きながらも、紫苑は努めて冷静に尋ねる。
「昨日、お前の家に綾音ちゃん泊まっただろ?」
ドクンと、克幸は心臓が二倍に膨れ上がったような衝撃を受けた。
どうやってかは知らないが、品田は昨日綾音が紫苑の家に泊まった情報を手に入れているらしい。
紫苑は困却した。別に疾しいことは無かったのだが、事実を肯定すればあれやこれや良からぬ噂が立つのは良くない。かといって、下手に否定してしまっても同じ。何か疾しい事があるのかと勘繰られる。どちらに転んでも部が悪い。
自分が近くにいる時なら問題ないが、一人にすれば綾音など冗談抜きで逆上した暴漢に襲われかねない。大袈裟かと思えるかもしれないが、それほどまでに綾音人気は凄まじい。どう考えても紫苑にべったりなのだが、綾音が恋愛的な感覚に疎すぎることが男衆に淡い希望を持たせてしまっている。
ともかく、何としても誤魔化さなければならない。
結局、紫苑の出した結論は、
「さぁ、何の事だ?」
とぼけた。そのまま太平洋を横断できるほど目を泳がせながら。
「とぼけるなよ。昨日お前の家に綾音ちゃんが入ってくのを見てたんだからな」
バレバレだ。
「あの、ほらあれだ。そのあと帰ったんだよ」
ついでにインド洋も渡れるほど目を泳がせて、紫苑は言う。
「嘘吐け!」
ダン! 克幸は机を拳で思い切り叩いた。
「途中で警察に補導されたけど、十二時まではお前んちの前で見張ってたんだからな!」
さらに、克幸は追及する時代劇で有名な町奉行のように、ビシッと肩を突き出す。
そんな彼に向けられたは罪人の怯えた瞳ではなく、綾音を除いた圧倒的多数の女子からの侮蔑の籠った冷たい視線だった。
結構な優良物件の克幸だが、このような変態的な発言と行動もあって女子からの人気はそれほど高くは無い、というか低い。
「どうなんだよ!? さぁ、はっきり聞かせてもらおうじゃないか!」
克幸はそんな女子の視線など意にも介さず、紫苑に詰め寄ってくる。いちいち人の眼を気にしていたらこんな性格で生きていけない。ちなみに、夏休みに旅行に行った際半殺しにされたのも彼である。
無意味な勢いのせいで女子生徒たちも徐々に好奇の視線を取り戻しつつある。紫苑にとって劣勢であることに変わりは無かった。
一転して訪れた沈黙が、紫苑の思考をさらに追い詰める。
(どうしたもんかな……、何か方法、何か方法、何か方法……、何かほ)
「うん、私昨日、紫苑のうちに泊まったよ」
我らが綾音さんが神の鉄槌のごとき言葉を振るい、沈黙を跡形もなく吹き飛ばした。
女子生徒達が一斉に悲鳴じみた黄色い歓声を上げ、半数以上の男子生徒たちは巨人の太鼓のような怒号を発している。
目の前の克幸に至っては怒りで拳を震わせ、
「てめえ! 他人には風呂すら覗かせなかったくせに! 自分はそんなことまで!」
「いや、だから誤解だと言って……というか、どさくさに紛れてとんでもなく犯罪すれすれな発言してなかったか?」
「そんなことはどうでもいいんだよっ! このケダモノが!」
克幸の怒りは止まらず、上昇していく教室内の温度が、狂気を孕んだ風を生み、混乱の螺旋をひたすら登って行く。
「はいはいみんな、ちょい待ち。そしてあんた、ちょっと落ち着きなさい」
そんな中、冷静な声が響いた。
凄まじい熱気に差し込まれた冷たい水は、熱気の中に蒸発することなく浸透し、熱くなって声を荒らげていた生徒たちを冷却した。
堂々とひとりの女生徒が歩み寄ってきて、紫苑と克幸の間に立つと品田を押して紫苑から距離を取らせた。
「あ、真由美ちゃんだ。おはよー」
綾音が空気などまるで読まず(むしろ読めずが正しい)、気軽に女生徒に声をかけた。
彼女の名は石田真由美。これまた数少ない紫苑の友人であり、綾音の友人でもある。夏休みに旅行に行こうと紫苑達を誘ったのは彼女だった。
「おはよ。それじゃあ綾音ちゃん、昨日何をしてたか話してくれる?」
小さな子にでも話しかけるように、真由美は背の低い綾音の目線に合わせて腰をかがめて問い掛ける。
「ん〜とね、昨日は紫苑と一緒にご飯を食べたんだけど、そのあといつの間にか寝ちゃっててよく覚えてないの」
「ほら見ろ! やっぱりこいつが変な薬でも使ってむがむが」
「はーいあんたは黙ってなさ〜い」
真由美はどこからかガムテープを取り出し、笑顔で品田の口にペタンと貼り付けると、ざわついた生徒たちに振り返り、
「あのねぇ皆、綾音ちゃんがいつの間にか寝ちゃうのなんか日常茶飯事なんだから。いちいち真に受けないの。それに、ここにいる変態と違って藤乃くんは紳士なの。奥手だし。見た目は怖いし近寄りがたい感じだけどおばあちゃんに席譲ったりするし」
余計な言葉も付いてるな……と、紫苑は思ったが、せっかく助け船を出してくれているのだからおとなしく相乗りさせてもらう。
「それに、綾音ちゃんがそう言うこと知ってると思う?」
真由美が生徒たちの顔を順番に覗き込むと、「確かに」「綾音ちゃんだもんねぇ」などといった言葉が口々に上がった。
当の綾音は自分の名前が何故上がっているのかも理解できず、見ていると明日には世界平和が実現するんじゃないかと思えるような呑気な顔をしている。
女子生徒が静まりを見せ始めると、男子生徒も吊られて沈静化していく。男子だけで騒いで紫苑に目をつけられたらひとたまりもないと、悲しきかな自覚していた。
「おいちょっと待てお前ら! おまえらはこの変態の横暴を許しもがもが……」
「はいは〜い、変態はおまえだろ♪」
ようやくガムテープを外した克幸だったが、今度も笑顔のままの真由美が問答無用で塞ぎ、さらにそのまま椅子にぐるぐる巻きで縛りつけた。
折よくチャイムが鳴り響き、事実関係は皆無と判断した生徒たちは気落ちした様子で自らの席に戻って行った。
「サンキュ、助かったよ、石田」
「べったりなのは知ってるけどさ。もうちょっと気を使ってよね。綾音ちゃんは人気者なんだから」
真由美は何故か少しだけ不貞腐れたようにそっぽを向く。
「なんだよ、お前も疑ってるのか?」
「そんなことないわよ。藤乃くんは綾音ちゃんが大切だもんね」
そう言い残すと、真由美は自分の席に戻って行った。
「おい、石……」
真由美を呼び止めようとしたのだが、ちょうどいいタイミングで担任が教室に現れ、紫苑は理由を聞きそびれてしまった。
(まぁいいか、どうせ大したことじゃないだろう)
基本的に、紫苑は綾音以外のことに関心が薄かった。
担任教師は開いている机の数で出席を確認し――縛られている克幸は完全にスルーだった――今日の予定を説明し始める。
「ねぇ、紫苑」
そんな中、綾音が口に手を当てて控え目に紫苑に話しかけた。
「何でみんなあんなに楽しそうだったの? なんか楽しいことあった?」
綾音は蒲魚(かまとと)でもなければ冗談をいうタイプでもない。いつだって大真面目だ。
紫苑はどう答えるべきか少しだけ迷った後、大きくため息をつき、
「さぁ、何でだろうな」
口から力なく言葉を零した。
この日授業は無く、雨で延期になっていたスポーツテストが実地された。
そんな事など一切忘れていた紫苑は体操服を持ってきておらず、制服でテストを受けたが、50メートル走5.03秒。ハンドボール投げ70m。握力103キロという人間かどうかを疑いたくなるような、世界新に届く記録を数々打ち立てた。しかも、普段大したトレーニングなどしておらず、手加減までした上の記録なだけに、驚異的を通り越して悪魔的である。
一方、他の生徒から体操着を借りた綾音も、50メートル走28.54秒。ハンドボール投げマイナス30p(振りかぶった途中で後ろに落ちた。しかも3回中3回)握力3キロ。という、おそらく学校の歴史に残るであろう数々の記録を打ち立てた。こちらも、紫苑とは違う意味で驚愕の記録ではある。
ちなみに。
「に、人間の記録じゃないな……」
という、自分を棚に上げた紫苑のコメントに対して、綾音は、
「えへへ〜、でしょでしょ。だって、みんなすっごくおどろいてたもん!」
と、胸を張って答えていた。
5
太陽がちょうど真上に差し掛かったお昼時。生徒たちは思い思いの場所で昼食の時間を楽しんでいる。
紫苑と綾音は校舎の裏手、普段は人の来ない位置に設定されたベンチにならんで腰かけ、購買部で(チンピラから貰った『慰謝料』で)買った惣菜パンを食べていた。
校舎をかなり迂回しなければならないうえ、普段は太陽が当たらないので敬遠されがちだが、時間によっては日当たりも良く過ごしやすいことを、紫苑は学校をさぼりがちだった時に知っていたため、人混みが嫌いな紫苑は時折ここを利用していた。
「おいしいな♪」
綾音はメロンパンを口いっぱいに頬張り、『このために生きてます!』と主張しているような満足気な笑顔を浮かべている。綾音が何かを食べるとそれがどんなものであっても美味しそうに見える、と思うのは紫苑だが、おそらく誰が見てもそう思うであろう。綾音の笑顔には気どりや嘘がないため、アイドルや俳優の営業スマイルとは一線を画した輝きがあるからだ。
「卵炒飯といい、お前って本当に安上がりだな」
「ふぇふ? ふぁふぃふぁふぃっふぁ?」
「いや、なんでもないよ」
歯の抜けた老人のような言葉だったが、もはやツーカーの仲となった紫苑は理解するのも容易かった。
「あ、そうだ。ねぇ紫苑」
メロンパンを食べ終えた綾音の声が、大口を開けて焼きそばパンを頬張ろうとしていた紫苑の手を止めた。
「ユキちゃんを飼おうとしたら、いろいろと必要なものがあるよねぇ?」
「……ユキちゃん?」
「公園のにゃんこたんのお名前! 真っ白で雪みたいだから!」
いつの間にか、捨て猫には立派な名前が付けられていた。どうやら、今から飼うのが楽しみで仕方がないらしい。
「そうだな。まぁ、俺はあまり詳しくないけど、確かに色々と物入りだろう」
ネーミングセンス事態はそれほど悪くは無いので、その点について紫苑は特に異論を唱えなかった。
「だよねだよね! それでさぁ、明日はおやすみだし、それで、あぶっ……」
「お〜っと、ちょっと待った。少しの間ここで黙って座ってろよ」
紫苑は綾音の口をふさいで黙らせると、生け垣に顔と腕を突っ込み、
「何やってんだ?」
何(・)故(・)か(・)そこにいた克幸の首根っこを掴んで引き寄せた。
克幸は頬をひくつかせて冷や汗を流した。
「や、やぁ、紫苑くん。これはこれは、まさかこんなところで会えるなんてね。いやぁ、偶然だなぁ、すごい偶然。運命を感じるよなぁ。はっはっははは……」
「俺はその運命を全面否定したいが」
「わーぉ紫苑くん眼が怖い怖い。泣いちゃうぞ?」
紫苑はにっこりと笑顔を作り、
「そうだなぁ、俺も平和を愛する一人だ。できれば平和的な解決をしたい。が、もしお前が三十秒以内に俺の半径50mから立ち去らなければ、仕方ないなぁ、話し合いで終わらせたかったんだが、ちょっとした制裁を加えなければならないなぁ。具体的には、お前の顔を拳で真っ平らに整地するとか」
怖いくらい優しい笑顔と口調で囁くと、ぐっと握った右拳に血管を浮き上がらせた。
「わかった。わかったよ。俺が悪かったから勘弁してくれ」
「なら、今すぐ消えろ」
紫苑がいきなり表情と声色を変えて凄むと、克幸は持前の紫苑に次ぐ高い運動能力を駆使し、脱兎の如く走り去って行った。
(ったく、ストーキングも大概にしろよな……)
ついつい零れそうになる愚痴を飲み込んで、紫苑はベンチに戻った。
「ねぇ、誰と話してたの?」
「ああ、妖精とお話をしてたんだ」
「ええ! いいなぁ〜。私も会いたかったよぉ。妖精さん〜」
と、綾音はまったく疑う様子を見せない。紫苑の言い訳よりも、むしろそれを信じる綾音の方がメルヘンだった。それは綾音の可愛いところであり、心配なところでもある。
「で、何を言おうとしたんだ?」
「そう、それでね!」
と、意気込んだ所で、綾音は時間が止まったように固まった。
三十秒後。まだ固まっていた。
一分後。まだまだ固まっていた。
二分後。そろそろ石像になる決心でも付いたのかと紫苑が思い始めたころ。
「そう! 明日おやすみだから、デパートで一緒にユキちゃんに必要な物を買いに行こうよ。ほら、お父さんペットショップで働いてるからいろいろ聞けると思って!」
ようやく思い出したらしい綾音が、生命を与えられて喜ぶマリオネットのように、不必要にぴょんぴょんと跳ねた。
「そうだな、いいんじゃないか?」
綾音にしてはまともな提案だったので、紫苑は快くそれを快諾した。臨時収入が入っていたので、財布の中も暖かい。
「じゃあお出かけだね! 楽しみにしててね!」
「楽しみに?」
紫苑が首を傾げると、綾音は思いっきり「しまった!」という顔で口を両手で覆った。
「う、ううん! な、なんでもないよ!? 本当だよ!」
当社比百倍くらいの怪しさで、綾音はぶんぶんと首を振る。つくづく嘘の吐けない正直者だった。
「そうか、なんでもないのか」
「うん! そうなの! なんでもないの!」
綾音はわかりやすくホッとした表情になって、胸に手を当てて大きく息を吐いた。
もちろん、さすがの紫苑も綾音の嘘が見抜けないわけではない。ただ、綾音が話したくないのなら聞くつもりは無かった。綾音が誰のために苦手な嘘を吐こうといているのかは、よくわかっているつもりだ。
「えへへ、楽しみだね」
綾音は微笑んで、二個目のメロンパンを口に銜える。
その笑顔の先にあるのは、いつも幸せばかりだから。
「食べるのは結構だが、時間がないからそのメロンパンは教室に帰りながら食ってくれ」
言ってから、紫苑は焼きそばパンを嚥下すると、立ちあがって歩き出した。
綾音は慌てて立ちあがり、メロンパンを口に銜えたまま紫苑を追いかける。
「転ぶなよ」
「大丈夫!」
と、綾音が言うと、メロンパンはヘタンという虚しい音を立てて蟻の餌候補になった。
「うぅ〜……」
綾音は泣きそうな顔になって、地面のメロンパンを翠玉色の瞳で見つめている。
「……後で俺のやるから、とりあえず蟻にくれてやれ」
そう言い残すと、紫苑は背を向けて歩き出した。
「うん!」
綾音は一気に喜色満面になって、紫苑の後ろを駆けて行った。
6
「う、ぐう……」
同時刻、紫苑に叩き伏せられた男達が目を覚まし始めていた。もともと人通りの多い個所でもなく、通りかかる人たちも彼らの風貌を見ても誰も近寄らず、警察に通報されることもなかったため、ここに放置されていたのだ。
「ぐっ……、あの野郎」
金髪の男は立ち上がったが、ふらふらと足もとがぐらついていた。
足元が覚束ないのは酔いが残っているわけではない。紫苑にやられた衝撃がまだ残っているからだ。
「ただじゃおかねぇ……」
綾音に頭を撫でられていたパンチパーマが憎々しげにつぶやく。こちらも足がふらついていて安定感がない。紫苑の攻撃は脳からは程遠い地点を狙ってはいたが、大砲のように強烈な衝撃は相当量の衝撃を与え、脳震盪を起こさせていたためだ。
「だがどうする? あいつ、ガキだがただものじゃないぜ?」
体の細い茶髪の男が言うと、男達は押し黙って歯噛みした。
さきほどの喧嘩で、男達は人数の利があったのにも関わらず、紫苑に拳一つ見舞うこともできず、わずか数分のうちに気絶させられていた。それだけではない。ここまで圧倒的な力の差がありながら、骨の一本も折れていないのは、偏に紫苑が戦闘において男達より圧倒的巧者だったことに他ならない。
しかし、男達も引き下がるわけにはいかなかった。下っ端とはいえ、男達はやくざ者の一員であり、かたぎの者にやられたことは許されることではない。何より、このまま黙っていたのでは怒りが収まらない。
いかなる手を使ってでも、紫苑の顔を苦悶に歪ませ、蹂躙しなければ気が済まない。
「くそっ!」
しかし、今の男達にその手段は無い。ただ苛立ちを募らせ、近くにあったゴミ箱を蹴り飛ばした。ガシャンという高い金属音が響き、続いて空き缶がカラカラとどこか寂しげな音を立てて転がる。
カツンと、空き缶は何者かの爪先に当たって止まった。
「君達、復讐をしたいのかい?」
男達は突然の声に驚愕し、一葉に背後を振り返った。
そこには漆黒のスーツを身に纏った一人の青年が立っていた。
「……!」
男達は驚愕した。
男達の気のせいではなく、確かに、先ほどまではそこに誰もいなかった。
だが今は、長身痩躯の青年が屹立していた。真珠のように白い髪を風に靡かせ、中性的で端正な顔に妖艶な笑みを浮かべている
「なんだ……おまえ、いつの間……に?」
「君たちにはどうでもいいことだろう。それより、復讐をしたいんじゃないのかい?」
男達はそれ以上青年を問いただそうとはしなかった。本能的に、この男に深く関わると危険だと、酔いから醒めた男達にはひしひしと感じられていたからだ。
「あいつの弱点は一緒にいた女だよ。あいつは自分より女が傷つくのをひどく嫌う。だからそこを巧妙に使って、反撃ができないように仕向ける」
青年の提案に、男達は顔を見合わせた。
「そりゃあ、それができれば一番いいだろうよ。だが、あいつが一緒にいる限りそれほど簡単なことじゃあないだろう?」
男達としては、上の人間に知られないうちに早くことを済ませなければならない。しかし、紫苑がいる限り綾音に近づくのはほとんど不可能に近いだろう。そうなると一人の時を狙うわけだが、それでは誘拐などの大掛かりな手段にならざるを得ず、それだと確実に上の人間に伝わってしまう。そうなれば、小指の一本では済まない。
「心配ない。事は君たちが考えている以上に単純だ。何も彼女を直接拘束してしまう必要は無い。要はいつでも彼女を傷つけられる状況を君たちが作り出せばいいんだ。精神的であれ、肉体的であれ、ね」
青年は口の端を吊り上げ、唇を三日月を思わせる形に歪め、
「僕に良い考えがある」
嗜虐的な笑みを浮かべて、笑い声に似た冷厳な空気を漏らした。
7
場所は学校へと戻る。
午後の授業も問題無く終わり、ようやく帰れると思い、紫苑が鞄の整理をしていると、「よーし、それでは先日のテストを返すぞ」
……問題はまだ残っていた。
特別点数を気にしているわけではないが、留年は避けておきたい。
紫苑の周りでは勝った負けた上がった下がったととにかくやかましい。
「藤乃ー」
さて、気になる点数は……。
「42点……」
微妙だったが、紫苑にしては悪い点数ではない。これくらいの点数を取っておけばとりあえず留年は無いので一安心だった。
「ねぇねぇ紫苑、すごいよ! この点数」
紫苑がテストとにらめっこしていると、いきなり綾音が嬉しそうに飛んできた。
普段は多少、否、多々ネジが足りない綾音だが、何を隠そう、勉強に関しては。
「17点!」
よくできるはずがなかった。
「これ、私の出席番号と同じなの! すごいでしょ!」
紫苑は頭の痛くなる思いだった。
「ああ凄いよ。本当にすごい。お前のポジティブな考え方は」
「えへへ〜」
褒められたとでも思っているのか、綾音はまた照れて笑った。
「うわ〜、なにかいいことあるかも」
この時点で悪い事が起こっていると考えないのがまたすごい。
彼女のいつもこれくらいの点数だったが、不思議と単位を落としたことは一度もない。
諸説には『先生にもファンがいて点数を改竄している説』や『男子生徒職員襲撃説』から始まって、果ては『発するオーラが成績を上げる(?)説』など多数の説がまことしやかに囁かれているが、本当のところは定かではない。紫苑の予想は、綾音の身の上を理解している学校側の配慮であろうと考えている。
「えー、本日はこれまで。それじゃあ、気を付けて帰るように」
挨拶もそこそこに、担任は教室を後にした。
「紫苑、帰ろうよ」
「ん? ああ、そうだな」
紫苑は残っていた荷物を鞄の中に適当に放り込むと、綾音と並んで教室を後にした。
廊下に出て少ししたところで、綾音はふと足を止めて首を傾げた。
「そう言えばなんで品田君、私が紫苑の家に泊まったって知ってたんだろう?」
いや、今さらかよ、と紫苑は思ったが、どうせ居眠りでもしていたのだろうと思い、義理は無いが面子を保てるように適当な言い訳をしてやろうとして、
「ああ、それがな……」
後ろに気配を感じた紫苑はすぐさま胸ポケットに手を突っ込み、予備のボタンを取り出すと、振り向きざま弾丸のような速度でボタンを投げ放った。
「ふがっ!」
カキーン!という金属バットのような気持ちのいい音と間抜けな声が廊下に響くと、それから一瞬遅れて人が倒れるような音が聞こえた。
「ふっ、人がせっかくフォローを入れてやろうと思ったのを……」
後ろに倒れていたのは克幸だった。
「あれぇ? どうしたの品田君?」
綾音は品田の傍にしゃがみ込むと(一応、スカートのすそを織り込んではいる)、ぺちぺちと平手で軽く頬を叩く。
品田の額にはどこぞの漫画の主人公のように『学』という文字を――向きは左右逆だが――くっきりと刻まれている。
「ああ、どうせスポーツテストで疲れちまったんだろう。寝かしていてやれよ」
紫苑は適当にそんなことを言っておいた。
「むぅ、それなら仕方ないね。寒いから、風邪引かないでね」
綾音は公園で男にしたように頭を撫でると、立ちあがって紫苑の後に続いた。
本日、克幸はストーキングを断念せざるを得なかった。
「うぅ……」
克幸が目を開けると、真っ白い天井と黒いシミが目に入った。
克幸は体を起こし、ここがどこかを確認する。
「保健室…?」
「あっ、起きたんだ。早かったのね」
ベッドの脇でパイプ椅子に腰かけていたのは真由美だった。
真由美は手に持った女性向け雑誌を置き、「う〜ん」と背伸びをすると、椅子の向きを変えて克幸に向き直った。
「あの、何で俺こんなとこにいんの? それに、なんか額が痛いんだけど……」
克幸が目を細めて額をさすると、真由美は呆れたように嘆息した。
「あんたねぇ、覚えてないの? 藤乃くんにボタン投げられて気絶してたのよ?」
「ん……そうか、俺は何分ぐらい気絶してた?」
「十分くらい。ホント、こっちはいい迷惑よ。保健室の先生が様子でいなくなるから、「あなた品田君と仲いいでしょ?」なんて言って私に任せてどっか行っちゃうし」
ホント最低、と真由美はさらに大きくため息を吐き出した。
「あんたも残念ね。綾音ちゃんは藤乃くんと帰っちゃったわよ」
「何ぃ!? くっそ、しまったあいつら最近やたらと仲が良くなってるからな。俺の綾音ちゃんが紫苑の毒牙に掛からないために見張っていたというのに!」
がばっと、克幸は芝居ががった動作でベッドの上に立ちあがり、両の拳を握りしめて天を仰いだ。
「しかもあんた、気絶してる間綾音ちゃんに頭撫でられたのも知らないでしょ?」
「何ぃ!? くおおぉ! 品田克幸一生の不覚ううう!!」
克幸がベッドの上で転げまわったので、真由美は「はいはいうるさいわよ」とベッドのシーツでくるんで無理矢理おとなしくさせた。
克幸は涙目になりながら、「ぐすん、綾音ちゃん……」と、幼児のように鼻をすすった。
ふぅ、と、したくもないため息がまた、真由美の肺からこぼれ出た。
「あんたさぁ、何でそんなに綾音ちゃんにこだわるの?」
「ん〜」
少し唸った後、克幸はゴロンと寝返りを打って背を受けた。
「だって可愛いじゃん。俺、あの子が初めて学校に来た時、天使が来たんだって、思った。あんなに綺麗に笑う子、今まで見た事無かったよ」
「あんた、よくそんな恥ずかしい台詞が言えるわね」
「俺はロマンチストなんだよ」
「はいはい、そう言うことにしといたげるわ」
真由美はどうでもいい風に言うと、鞄からチョコの付いた棒状のスナック菓子を取り出すと、煙草のように口にくわえた。
茶化しはしたが、真由美も綾音に対しては似たような印象を抱いていた。
綾音の笑顔には人を幸せにする何かがある。それは顔立ちが整っているとかそう言ったことではなく、見ているだけで胸が温かくなるような不思議な感覚だった。
「それにしても、あんたもよく諦めないわねぇ。どう見たって綾音ちゃんは藤乃くんにべったりじゃない」
「……うるせぇなぁ。お前に言われたかねぇよ」
克幸の言葉に、真由美は意表を突かれたように大きく目を開いて喫驚した。
木枯らしが窓から吹き込んで、カーテンがはためき、二人の沈黙の間を埋める。
先に口を開いたのは真由美だった。
「へぇ、なんだ、案外鋭いところもあるじゃない」
真由美はいつもの口調を装っていたが、強がっているのがよくわかる。一瞬だけ声の裏返るところがあったからだ。
ふぅ、と、今度は克幸がため息を吐く。
「あのさぁ、だったら何で紫苑を綾音ちゃんとくっつけようとするわけ? おまえにしてみれば、綾音ちゃんは恋敵ってやつだろ?」
気を遣い、克幸はわざと背中を向けたままで問いかける。
「ばーか、あんたには言いたくないわよ。」
真由美は口調こそいつもと変わらなくなっているが、その代わりに表情は暗く、膝の上に置かれた拳は固く閉じられている。
元気のない真由美の姿というのはあまり見たくないし、おそらく彼女も見られることを望んでいないだろう。いつも軽薄に見える克幸だが、根底のところでは思いやりのある思慮深い人間だった。
「それより、感謝しなさいよね。こうやってちゃんと看てて上げるんだから」
真由美は必要以上に怒ったふりをしてそっぽを向き、話題を逸らした。
「だったら、俺から熱いチューをプレゼントしようか?」
克幸はそれに乗っかり、起き上がって真由美の肩を掴むと、タコのように唇を突き出してくる。整った顔立ちがまるっきり台無しだった。
「バカ。駅前に新しくできた喫茶店、ケーキセット千二百円で許したげる」
真由美は羽虫でも払うように、ぞんざいに克幸の手を払いのけた。
「ちぇ〜、小遣いピンチなんだけどなぁ。ま、いいだろう! 俺にまかしておきな!」
そう言って、克幸はにっこりと笑う。
そうしていると、克幸はなかなかどうしていい男だった。
「あんたさぁ、顔だけはいい男なんだからさぁ、態度を改めたらモテるんじゃない?」
「顔だけは余計だ。俺は身も心もいい男だぜ? ……ひょいっと」
軽口を叩き、克幸はベッドの上で体を逸らせると、そのまま反動を利用して華麗にリノリウムの床に降り立った。
「お前だって、せっかくいい女なんだから。もうちょっとお淑やかにしてみたら?」
「あんたに言われたって嬉しくないわよ」
「可愛くねーのー。綾音ちゃんとは大違い」
「あんたこそ、少しは藤乃くんみたいにクールになりなさいよ」
二人は互いに毒突きながら保健室を出て行く。
しかし、そこに険悪な雰囲気はなく、むしろ楽しんでいるようにさえ見えた。
8
「それにしても、私と同じように外で寝ちゃうひとっていっぱいいるんだねぇ」
綾音は少しだけ嬉しそうに、身軽に(不安定ともいう)歩を進める。
跳ねるような足取りは、ただでさえ危なっかしい綾音の足取りをさらに危なっかしくさせていた。いつ転んでもいいように紫苑が傍らにいるので問題は無いが。
「もしかしたら世界中にいっぱいいるんじゃないかな?」
「いや、それは無いだろ」
紫苑は即座に否定に走る。
「でもでも、こんな近くにたくさんいるんだから、もっといるんだよ。一億人くらい」
期待に目を輝かせ、とんでもないことを熱っぽく言う。
綾音はもしかすると熊の檻の中でも寝てしまうような人間だ。
もしそうだったら、世界はどんなに平和だろうか。
しかし、あれもこれも自分がやったからだとは紫苑も言えず、
「ま、もしかしたらってこともあるだろうな」
心にも無いことを言っておいた。
それから綾音は延々と猫のことを話し続けた。
「一緒にお風呂に入っても大丈夫かなぁ?」
「ご飯いっぱい食べてくれるのかなぁ?」
「にくきゅう触ると気持ちいいんだって!」
「冬は一緒にこたつで丸くなるんだ!」
それらはどれも他愛のない話だったが、綾音は世界で一番幸せな事のように嬉々として語るので、紫苑にはそれがとても素晴らしいことのように思えた。
彼女はいい意味で幸せに対して貪欲だ。自分だけではなく、他の存在に対しても常に幸せであってほしいと願っている。幼い綾音はそれを口に出したりすることは決してなかったが、ずっと近くにいた紫苑にはよくわかっていた。
それが綾音の過去に関係することなのかはわからない。だが、紫苑はこのままの変わらない綾音でいてほしいと願う。そうすれば周りの人間、そして紫苑自身が、幸せでいられると思うから。
「ねえってば〜、紫苑聞いてる〜?」
「ん、ああ、悪い。聞いてなかった」
また、いつの間にか綾音が膨れ顔で前に立っていた。考え事をすると上の空になってしまうのは紫苑の悪い癖だ。
ポンと紫苑が頭に手を置いて軽く撫でると、綾音は嬉しそうに眼を細める。綾音は犬より猫派(犬も嫌いではない)だが、やはり紫苑は犬っぽいと思う。何をするにもまるっきり犬の仕草だ。
「お熱いところ、すまねぇな」
聞き覚えのある男の声が響き、紫苑は緩んでいた頬を引き締めた。
「よぉ、久しぶり……ってか?」
綾音の頭越しに見える視線の向こうに、朝痛めつけた金髪の男が立っていた。
「おまえ……何しにきた?」
紫苑が睨みつけて凄むと、男は一瞬うろたえたが、すぐに余裕の表情に戻った。
「そう睨むなよ。俺たちはさっきのお礼に誘いに来たのさ。付いて来てもらえるか?」
「……おれい? ねぇ紫苑、外国のひとに何かしてあげたの?」
綾音が問いかけているが、紫苑はそれに答えずに黙考した。
男達の目的は十中八九報復だろう。それはほぼ間違いない。紫苑一人なら返り討ちにできるが、今は綾音がいる。人数に差がある以上一人で綾音を逃がすのは危険だ。このまま逃げるにしても、綾音を連れてでは追いつかれるのが関の山だろう。だとすれば、紫苑のできる選択は男の誘いに乗り、綾音に注意しながら男たちを退けることだ。簡単ではないが、紫苑が全力を出せば決して不可能ではない。綾音にはあまり乱暴な姿を見せたくはないが、背に腹は代えられなかった。
「いいぜ。どんなおもてなしがあるのか、楽しみじゃねぇか」
「こっちだ」
紫苑の不遜な態度が気に入らなかったのか、男は唾を吐き捨てて歩き出した。
「綾音、この先俺から離れんな」
「ふぇ……あっ、はい…」
綾音は見たことがない紫苑の顔に驚き、びくりと体を震わせる。
普段は無愛想な紫苑も、綾音の前では比較的軟らかい表情をしていることが多いのだが、今は眉根が寄せられ、眼光は獣のように鋭く、表情が険しい。
綾音には何が起こっているか理解できなかったが、漠然とした不安を感じた。今の紫苑は頼もしくもあるが、わずかに恐怖も感じている。
(怖い。なんだろう……? 胸が苦しい……)
不安で苦しくなる胸を押さえ、綾音は紫苑の腰に抱きつくように腕を絡めた。紫苑の大きな腕が優しく包んでくれているが、不安は消えず、蛇のように蠢いてまとわりつく。
(それに、頭の中が、なんだか、ざわざわする……)
綾音の翠玉色の瞳に、ほんの一瞬、血のような真紅が混じって揺れた。
紫苑達が誘導されたのは、公園の一角にある林の奥だった。紅葉で色付いた木々が密集し、歩道からはかなり離れた位置にある。
半径三メートルほどは木が立っておらず、ちょっとした広場の様になっていた。
人目に付くこともなく、しかも、声を張り上げても木々のざわめきと風が打ち消してしまう。つまり、人を嬲るには打ってつけの場所ということだ。
「ほぅ、来たのか」
すると、紫苑達を取り囲むようにして、樹の蔭から男達が現れた。
綾音は男達の形相に怯え、紫苑の背中に顔を埋める。普段は鈍い綾音だが、悲しみや狂気、純粋な怒りと言った感情には、本能的に恐怖を感じるのか敏感だった。
紫苑はぐっと拳を握り、全方位に対応できるよう構えを取った。
「さぁ、どうした? かかってこいよ」
紫苑は人差し指を立てて指し招き、相手からしかけてくるよう挑発する。怒りにまかせて突っ込んで来たところを、カウンターで仕留める。あわよくば骨の数本を折って、悶え苦しむ姿を見せて戦意を削ぐ。それが紫苑の立てた最も効率的な作戦だった。
だが、男達は向って来ない。その場で腕を組んだまま、吐き気がするほど嫌悪感を覚える微笑を浮かべている。
「そう焦るなよ。特別ゲストを用意してある」
「……?」
金髪の男はおもむろにしゃがみ込んで積もった落ち葉を払うと、その下から小さな段ボール箱が現れた。
強烈に嫌な予感がして、紫苑の額に冷汗が一筋走った。
紫苑の変化を感じ取った男はさも愉快と言った様子で紫苑に笑みを向けると、箱の中の物を右手でつまみ上げた。
「じゃーん、本日のゲストです。拍手」
男はおどけた口調で、一匹の猫を取り出した。
綾音が見つけた白い子猫――ユキだ。
首元を乱暴に摘み上げられたユキは、みゃぁ、と弱弱しく痛がるような声を上げた。
紫苑の背に顔を埋めた綾音はハッとして、声の発生源に視線を向け、
「ユキちゃん!?」
驚きに目を見張り、糸の切れた人形のように地面にへたり込んだ。
「なるほどな、あいつの言っていたのはこういうことだったのか!」
それを合図にしたように、男達は高らかに笑い声をあげた。まるで地に伏した綾音を嘲笑うように、狂ったような笑い声を秋の高い空に響かせる。
「てめぇ!」
紫苑は激昂し、ユキを手にした男に飛びかかろうとするが、
「おっと、動くなよ。動けばこのクソ猫がどうなっても知らないぞ?」
男がポケットからナイフを取り出してユキの首に押し当てると、やむなく紫苑は停止を余儀なくされた。
「まさか、本当にこんなもんで効果があるとはな。最高だよ、おまえ」
「……ちっ…!」
紫苑は舌打ちし、自らの軽薄な行動を後悔した。まさか、ここまで男達が知能的に紫苑を責めるとは思ってもみなかった。男達は綾音が紫苑の弱点であることを的確に把握し、その上で自分たちに最も有利な状況を作り出している。
ユキが俘囚となっている以上、迂闊に手が出せない。万一ユキに何かあれば、綾音の心に深い傷を負わせることになる。それだけは絶対に避けなければならなかった。
「あ、あ、あう……」
綾音は動くこともできず、茫然自失でユキを見つめている。その唇は強烈な寒気に襲われているかのように震えていた。
「おい、お前はとりあえず両手を後ろに組んで、そこの木に背中を付けろ」
(……くそっ)
紫苑は内心歯がゆさを感じながらも、男に逆らわず言われたとおり後ろ手で組み、背中を木の幹に密着させる。
「絶対に動くなよ。おまえら、やれ」
金髪の男は塞がった両手の代わりに首を振って合図をすると、パンチパーマの男が指の関節を鳴らして紫苑に歩み寄った。
そしてそのまま、拳を紫苑の腹部に叩きこんだ。
「がっ…!」
背中を密着させた状態では力の逃げ場は無く、金属バットで殴られたような痛みが腹部を襲ってそのまま背中に突き抜ける。
「この程度で終わると思ってんじゃねぇぞ!」
また一人、別の男の拳打が紫苑の顔面にめり込む。
口内が切れ、紫苑の唇の端から鮮血が流れた。
「まだ終わらねぇぞ。お前ら、やれ」
それから男達は順番に腹、腕、足、頭と、紫苑の全身あらゆる所に打擲の嵐を浴びせ、休むことなく殴打した。そこに一切の慈悲や手加減は無く、紫苑はもはやサンドバッグのように扱われていた。
「けっ、意外としぶといじゃねぇか、まだ立っていられるとはな」
「へっ、ざけんな、お前らヘドロ野郎の一撃なんざ効くかっての」
それでも、紫苑は高圧的に言い放つと、口内に溜まった鮮血を吐き出した。
しかし、口調ほど怪我が浅くないのは明らかだった。顔中が痣と傷だらけになり、もはや足は立っているのが限界だった。体の感覚ももはやほとんどない。
だが、それでも目の鋭さを衰えさせない紫苑が、男達は気に入らなかった。
「そうか、まだ殴られ足りないってか!?」
男の一人が拳を振り上げる。
「止めて!」
今まで呆然としていた綾音が、はっきりと言い放った。
思わず男は腕を下げ、綾音を振りかえる。
「どうして!? どうしてこんなに酷いことするの!? 酷いよ! 酷いよぉ!!」
綾音は宝石のような涙をぼろぼろと流しながら、何度も首を横に振って必死に訴えかける。大好きな紫苑がボロボロになっていく姿を見ているのは、自分が殴られるよりもずっと胸が苦しかった。
「……だったら、お前が代わりにやられてみるか?」
「……えっ?」
自分の意志とは関係なく、綾音は男に顎を持たれて上を向かされた。
息がかかるほど近い距離に、パンチパーマの下卑た顔が見える。
「お前がそこにいる彼氏の代わりに、俺たちを楽しませてくれんのか?」
「てめぇ! 綾音には手を…うぐっ…!」
叫ぼうとした紫苑の下腹部につま先がめり込み、紫苑は前屈みに地面に倒れた。
「お前は動くなっつったろ?」
金髪の男がナイフを持った手で紫苑の髪を掴み上げると、石を蹴るように紫苑の顔面を蹴り飛ばして地面に転がした。
「それで、どうするんだ? お嬢さん?」
男達はじりじりと距離を詰めてくる。
綾音は本能的に恐怖を感じた。
「やだっ!」
綾音は顎を持っていたパンチパーマの手を払いのけて逃れようとするが、腰が抜けて立ち上がることができず、そのままの姿勢で後ずさる。
しかし、その程度のことで男達と距離を取ることはできない。
「止めろ! おまえら、綾音に触れれば殺す!」
紫苑は必死に駆け寄ろうとするのだが、体が思うように動かない。明らかにダメージが大きすぎていた。もはや、男達への抑止力には成りえない。
「俺はなぁ、嫌がる女に無理やりってのにそそられるんだよ……」
次第に距離を詰める男達に、綾音は言いしれぬ恐怖を感じた。確か以前も、これと似たようなことがあった気がする。男達に追い詰められて、それから……。
恐怖する綾音の腕を、男の一人が掴んだ。
「いやぁ!!」
綾音は拒絶するが、彼女の繊弱な力では男の手を振り払うことは叶わない。
「いっつ……」
すると、綾音の声に反応したユキが金髪の男の指を噛んで逃れると、小さな体を走らせ、腕を掴んだ男の前に立ちふさがった。
ユキはその小さな体で、懸命に男を追い払おうと牙をむき、毛を逆立たせ、低く唸って威嚇する。ほんの短い間でも、優しくしてくれた母親を守ろうとするかのように。
「ユキちゃん……」
小さなユキの背中が、以前と映像と重なる。
そう、あの時も自分は誰かに庇われていた。とても怖くて、辛くて、けど、よく知っている人が、自分を庇ってくれていた。真っ白な毛。それから……。
「こいつ……くそ猫の分際で」
「あっ」
と、綾音が声を上げる間もなかった。
金髪の男の踵がユキにめり込むと、そのまま無残に振り下ろされ、ギロチンのようにユキを頭と体に両断した。
ゴロリと、現実感の無い音を立てて、ユキの首が落ち葉の上を転がり、おびただしい量の血が轍を残していく。
「あっ……あっ…」
綾音は口をあけ、嗚咽を零した。
重なっていく。
両断された白い猫。
庇ってくれた背中。
襲ってくる男達。
いつか見た、過去の光景。
下腹部から逆さに落下する瀑布のようなどす黒い奔流。
絶望。憤怒。悲哀。
それらは抑えきれず、溢れ出した。
「消えろ」
瞬き。
綾音がまっすぐに手を伸ばすと、目の前にいた男の上半身が跡形もなく吹き飛び、噴水のように血が立ち上った。
「……へっ?」
男達は何が起こったのか理解できず、ただ立ち尽くして血に塗れていく。
綾音は重力を無視して立ち上がると、今度はユキを殺した金髪の男に右手を向けた。
「死ね」
綾音が呟くのと、金髪の男が肉片になって飛び散るのは同時だった。
鮮やかな真紅の瞳は、飛沫となって飛び散る男の姿を無感動に見つめている。
「あ……や……ね?」
紫苑は綾音の変化に戸惑い、驚愕していた。
真紅の瞳に、翠玉色の輝きがないように、綾音の顔には人を幸せにするような柔らかな笑顔は無く、すべてを拒絶する圧倒的な負の感情だけが溢れていた。
「どこまでも醜い、人、皆、消えればいい」
綾音は絶対的な威圧感を真紅の瞳に宿し、男達を見据えた。
「ひっ、ひあっ、ひあああ……」
超絶的な存在感に、男達は指一本動かせず、激甚の恐怖に戦慄した。
彼女の周りでは、殺意が渦を巻いて竜巻のように荒れ狂う。
「消えなさい」
綾音は両腕を伸ばし、その延長線上で男達を捕えるように放射状に広げると、、ぐっと開いていた掌を閉じた。
刹那。
音一つなく、男達は無数の小肉片となって辺りに飛散し、男達の存在を示すものはおびただしい量の鮮血のみになった。
季節に色付いた木々を、鮮血が赤く染める。
「人なんて、人なんて、人なんて……」
無感慨だった真紅の瞳に、血とは違う透明な滴が湛えられている。
「全て、消えればいい。人なんて、全部、なくなるといい……」
圧倒的な存在感を持っているにも関わらず、紫苑には触れれば壊れてしないそうなほど儚げに見える。不思議と、矛盾しているとは思えなかった。
(あれが……綾音…?)
綾音が振るったのは確かにあの力だ。だが、彼女の力はあれほど強力なものではない。せいぜい物を動かしたりする程度のはずだ。
だが現実に、目の前で男達がバラバラに消し飛んだ。
もう、なにもかもが良く分からない。
紫苑が呆けている間に、真紅の瞳は徐々に色を無くし、元のエメラルドグリーンの輝きを取り戻しかけている。
「シオン……私は……」
か細い呟きとともに、綾音の体から力が抜けた。
「綾音!」
紫苑は咄嗟に体を反応させ、倒れそうになる綾音を支えようと駆け出す。
だが、綾音を支えたのは、紫苑の腕ではなかった。
何の前触れもなく、その場所に現れた、長身痩躯で、真珠のような白髪の青年。
「そうか……やっぱり、君はそれを望んでいるんだね。ノエル……」
青年は赤子を抱きかかえるように、優しげな笑みを浮かべて綾音を支えていた。
「ふふふ、辛い思いをして来たんだね。大丈夫。僕がいるから、一緒に成し遂げよう」
青年はそうひとりごち、綾音の頬をそっと撫でる。
(こいつ……誰だ…?)
頭の中で問いかけつつ、紫苑は男の姿を眺めた。
白い髪。確かに印象的ではある。だが、それ以上に紫苑の視線を引きつけたのは男の顔立ちだった。
(俺に、似ている……)
毎日鏡で見ているのだから、自分の顔はよくわかっているつもりだ。朝、顔を洗う時に映る光景と今の景色は容易く重なる。
「ああ、いたのかい? シオン」
紫苑が理解できずに呆然としていると、男は今になって紫苑の存在に気が付いたように言って見せた。
紫苑は立ち上がり、朦朧とする意識の中で懸命に思考する。
(落ち着け、焦るな……)
順番に、優先順位を考え、思考する。
まず、この男が綾音にとって危険な存在であるかどうか。
「安心しなよ。僕は彼女に危害を加えたりしない」
紫苑の思考を先読みしたかのように、白髪の青年が先を繋げた。
「なっ……お前なんで……!」
「今は何を考えても無駄だよ。君は何も知らない赤子同然なんだ。シオン」
(なんだ、こいつはいったい……)
「僕の名はゾーン。覚えていなくても無理は無い。何も知らない愚かなシオン」
「ゾーン……?」
「そう、でも今は、ノエルのためだけに存在する名もなき白き(ホワイト)騎士(・ナイト)。今の僕はそれで構わないさ。それがノエルのためになるなら」
ゾーンと名乗った青年は紫苑に近寄ると、腕の中の綾音を紫苑に預けた。
「お前が、お前が綾音に何かしたのか?」
「別に、僕は何もしちゃいない。ノエルが望んだから、僕はその手助けをしただけだよ」
質問の返答はあるのに、録画された映像と話をしているようで、とても話をしている気にはならない。求めている答えはまるで得られない。
それより綾音は……と、腕の中の綾音に視線を転じたところで、
「大丈夫、ノエルはまだ眠いそうだから、君に返しておくよ。僕が会いたいのはノエルだけだ。けど、言っておくよ。次に会う時、ノエルは完全に目覚めるんだ」
ゾーンはそう言って、赤く汚れた綾音の手の甲に軽く口付けをした。
「それまでおやすみ。僕のノエル……」
そして、耳元でそう優しく囁くと、いつの間にか振りだした雨を避けるように、生い茂った木々の合間に消えて行った。
ゾーンの姿が見えなくなると、紫苑はハッとなって、綾音の頬を軽く叩いて意識の有無を確かめた。
「おい、綾音、しっかりしろよ、綾音、綾音」
何度も呼びかけるが、綾音は静かに目を閉じたまま動かず、小さな呼吸を繰り返すだけで何の反応も見せない。
降り出した雨はさらに強くなり、木々に降り注いで轟々と音を立てる。
雨は、紫苑と気を失っている綾音を労わるように体を濡らしていく。
周囲では、夥しい量の血が雨に混じって地を流れて行く。
「は、はは……。夢……夢、だよな?」
できれば、こんな光景は雨とともに流れてしまえばいいと思った。
しかし、力なく漏らした笑いを、木枯らしが嘲笑って吹き飛ばし、確かに感じる寒さが否応なく現実を突き付ける。
(なんだよ、なんなんだよ? 何が起こったんだよ……)
血まみれの綾音。豪雨の中でも衰えない血液の強烈な鉄の臭い。
認めたくない現実は、仁王立ちで紫苑の眼前に立ち塞がっていた。
「なんだってんだよおおおおおおおおおおお!!」
振り絞った紫苑の叫びは誰に届くこともなく、雨の中に飲まれて消えた。
9
刺すような冷たさの秋雨が、紫苑の体を濡らしていく。
だが、紫苑には痛みも苦しみも感じられなかった。
否、雨の冷たさに身を焦がれる余裕すらなかった。
紫苑は今、未だに目を覚まさない彩音を背負って彼女の家へ向かっている。
あれからしばらく時間が建ち、雨が頭を冷やしてくれた性もあってか、紫苑は幾分か冷静さを取り戻していたが、頭の中では先ほどのことばかり考えていた。
すべてを拒絶する真紅の瞳。あれは明らかに普段の綾音とは違う異質な存在だった。激烈な感情に突き動かされ、すべてを破壊する異端の力。それは紫苑が初めて感じた圧倒的な恐怖の顕現だった。いったい綾音の変化の原因は何なのか、紫苑には検討もつかないが、もしかすると、綾音の過去に関係しているのかもしれない。
しかし、いくら考えても、答えが見つかることは決してない。力の理由も、過去も、綾音のことを知っているつもりで、実のところ紫苑はほとんど何も知らない。
ただひとつ、すべてが不可解なこの状況の中で確かなことは、紫苑にとって綾音という存在が他のどんな物よりも大切だということだ。
どんな形であれ、綾音を失うことなどありえなかった。
紫苑は混濁した意識を統一させ、これからの出来事を客観的に予想した。
万が一死体が発見されたとしても、あの藪の中なら警察が発見するにしても時間が掛かるだろう。そして死体は肉片すら残していないのだから、身元の確認は困難を極めるだろう。これ以上雨が長引けば、DNA鑑定すらできなくなる可能性もある。
何にしても、あの場には綾音が殺したという痕跡や証拠は一切残っていない。自分はともかく、綾音の名が容疑者としてあげられることはないだろう。紫苑はそう判断した。わけのわからないまま理不尽に綾音と離れることなど絶対に考えられない。とにかく今は、一刻も早く綾音を介抱し、意識を取り戻すのを待つ。それだけを考えて、家に帰るのを急ぐしかない。
満身創痍な体では、綾音の家に到着するまでにかなりの時間を要したが、幸いにも人と接触することはなかった。
「おじさん! 俺だ! 綾音が大変なんだ!」
紫苑は叫びながらチャイムを連打し、ドアを拳で何度も叩いたが、中からは返答どころか物音一つしない。
「くそっ……」
紫苑はやむなく引き返した。鍵の場所なら知っている。悪いとは思ったが、今はそんなことを気にしていられる状況では無い。玄関脇にある植木鉢の下から鍵を取り出し、開けようと試みるが、焦りと悴んだ手のせいで鍵穴に上手くはまらない。
「開けってんだよ!」
ままならない苛立ちが、余計に紫苑の手元を狂わせる。
ようやく鍵を開けた紫苑は扉を蹴破るように力任せに足で開けると、紫苑は靴を脱ぎ散らかして脱衣場に走った。
体を濡らしたままで放っておくと風邪を引きかねない。そう考えた紫苑は、なるべく体を見ないようにして服を脱がし、バスタオルを巻きつけると、目一杯張った湯船に沈めて体を温める。
温まったところで綾音を引き上げ、体を拭く。こればかりは直接するしかなく、紫苑は眼を閉じて慎重に慎重をきし、丁寧に滴を拭う。それからパジャマを着せると、綾音の絹のような栗色の髪を梳かしながらドライヤーでしっかり乾かした。
病人の介護をしているみたいだ、と紫苑は漠然と考え、縁起でもないことを考えるなと頬を拳で打って叱責する。男達によって腫れ上がっていた頬はかなり痛んだが、意識を覚醒させる意味ではそれくらいの痛みでちょうど良かった。
紫苑は綾音をひざの裏と背中で支える――所謂(いわゆる)お姫様抱っこで持ち上げた。さっきまではあまり感じなかったが、こうして改めて綾音を持ち上げてみると、同じ人とは思えないほど、綾音の体は羽根のように軽い。一度座り込んで休憩したことで急激に体がだるくなっていた紫苑だが、そのおかげで、難なく綾音の部屋に運ぶことができた。
綾音をベッドに寝かせて布団をかぶせると、一気に脱力し、ベッドを背もたれにしてフローリングの床に座り込んだ。
「ふぅ……」
大きく、溜息をひとつ。
ここへきてドッと疲れが出たようだ。今まで動いていたのが不思議なほど体が重い。
首を安定させることもできずに、紫苑はただ天井を見つめていた。
すると、さっきまでの光景が脳裏を過ぎった。
風船のようにあっけなく破裂した男達。
まっすぐに腕を伸ばす、真紅の瞳の綾音。
思い出しただけで、紫苑の全身に寒気が走る。
あれほど冷たい表情を、紫苑は見たことがなかった。絶望と憤怒に塗り潰された瞳。なのに、無表情のはずの顔は悲しみに溢れていて、ガラス細工のように儚い。
普段の弾ける様な笑顔の綾音とは似て非なるものだった。
(あれは……綾音なんだろうか…?)
綾音は蔑み、嫌悪を露わにして躊躇いなく人を屠った。
この世に存在すら残さない、文字通りの惨殺で。
あれは本当に、普段の天衣無縫な綾音と同一人物なのだろうか。
「う、う〜ん……」
背後で綾音は軽く呻いて、ころりと寝返りを打った。
紫苑はベッドに肘をついて膝を立て、綾音の顔覗き込み、安堵した。
見たところ、綾音に格別の異常は見られない。
すやすやと安らかな寝息を立て、天使のように愛くるしい横顔を紫苑に向けていた。
「ったく、呑気に寝やがって……」
紫苑は苦笑しながら、寝返りのせいで乱れた蒲団をかけ直してやった。
それだけで、紫苑の心は一挙に軽くなった。
(これが、綾音なんだ……)
真紅の瞳に映し出される絶望。
思い出すと、紫苑の胸ははち切れそうなほど苦しくなる。
綾音にはいつまでも、幸せな笑顔のままで生きていてほしい。
それは綾音と約束したあの日、自らに課した使命でもあった。
綾音が笑顔のまま幸せに生きていけるなら、自分は如何なることもやってみせる。ぽっかりと穴のあいた空虚な心を、世界を満たしてくれた綾音には、感謝してもしきれない。否、感謝の心など無くても、もうすでに、紫苑は綾音の幸せこそが自らの幸せになっていたのだった。
今の綾音は、とても安らかな表情をしている。
無邪気で、幼稚で、何より傍にいるだけで人を幸せにする不思議な表情。
これこそが綾音なのだ。
真紅の瞳がもたらすのが絶望と悲しみなら、そんなものはどうでもいい。綾音はここにこうして存在している。それだけで良いんだ。
「そうだよ、そうじゃないか……」
綾音の暮らす日常は続く。続かせてみせる。
俺が守りきればいい。たとえ何があっても。
そうして、紫苑は自分の心に言い聞かせると、一抹の不安を残しながら、紫苑は自分を納得させることができた。
すると、安心したのか、紫苑の瞼は急激に重力への抵抗を弱めていった。
(大丈夫……これからも、ずっと……このまま……)
自らの腕に顔を埋めるようにして、紫苑は眠りの世界へと落ちて行った。
10
「ふぅ……、ようやく終わった……」
綾音の養父――一条(いちじょう)功刀(くぬぎ)は最後のケージの掃除を終えると、額に溜まった汗を拭った。
彼は自宅から徒歩とバスで十五分ほどの大規模商業施設『ラ・フェスタ』のペットショップ店員として働いている。印象に残りづらい中肉中背の体型で、顔にもこれと言った特徴は無い。どこにでもいる凡庸な父親と言う風体をそのまま表していた。
「おー、ご苦労さん。そろそろ閉店だから、盗難防止用のネット張ったら家に帰っていいぞ。娘さんが待ってるだろうからなー」
店主の声が聞こえ、功刀はやれやれとエプロンを外し、帰り支度を始めようとすると。
「……おや?」
不意に、目の前に白髪が印象的な長身痩躯の青年が現れた。
「ああ、いらっしゃいませ。ペットをお探しですか?」
功刀は営業用の笑顔で対応したが、青年は否定の意味で横に何度か首を振った。
「それでは、餌やおもちゃをお買い求めでしょうか?」
「いいえ、僕はあなたに用が会って来たんだよ。タカノリ・ライリー」
青年の言葉に、功刀はほんの一瞬わからない程度に目を鋭くさせたが、すぐに、隙だらけのショップ店員の顔に戻り、
「やだなぁ、私の名前は一条功刀ですよ。ほら、名札にも書いてあるでしょ?」
冗談か勘違いであると笑い飛ばしたが、青年はそれを嘲るような微笑を口の端に浮かべていた。
「ああ、今はそうだよね。上から最重要人物の監視を言い渡された、偽りの名前」
ピシリと音が聞こえそうなほど、引かれ合う糸のように空気が張りつめた。
「……どこまで、知っているんです?」
功刀の口調も表情も、先ほどまでと何ら変わりは無かったが、ただ、眼の奥には剣呑な光を宿らせている。
「さぁ、それはあなたには関係のない事だ。そして僕も、あなたの素情を知っているからといってどうこうするつもりは無い。僕はただ、あなたに必要な情報を持って来ただけなんだよ。だから、そんなに警戒しなくていい」
青年はそれに動じることなく、常に微笑をたたえている。
傍目には、店員と客が笑顔で向かっているようにしか見えなかったが、二人の間には険悪な雰囲気が漂っている。
「それで、その情報とは?」
あくまで笑顔のままで功刀は問いかけるが、すでに口調には感情が籠っていない。
青年はそれを気にした様子もなく、切り出した。
「今日、ノエルの発現があって、この近辺の暴力団の末端が六人殺された。ノエルは力と記憶を取り戻しつつある」
ついに、男の笑顔の仮面は砕け散り、驚愕の表情が露わになる。
「何だって……」
男は驚きのあまり、口が開いたまま塞がらなかった。
それに気分を良くしたのか、青年は満足気に鼻を鳴らした。
「情報の裏付けを取るのは簡単だろう? あとは、信じるかどうかはあなた次第だ。それじゃあ、僕はこれで失礼するよ」
「おい、待て……」
功刀は青年を呼び止めようとしたが、青年は足を止めず、そのまま歩き去って行った。
青年が立ち去ってからしばらくの間、功刀は顎に手を当てて思案していたが、おもむろにポケットから携帯電話を取り出し、電話帳ではなく直接番号をダイヤルした。
「……コードR。至急調べてほしい事がある。……ああ、まずは……」
いくつかの要件を告げると、功刀は通話を切り、発信番号の履歴を消去し、ポケットにしまった。
それから、もう一度、顎に手を当てて思案する。
「最終判断は俺が下す。もし本当なら、確かめなければ……」
「お〜い、お客さん帰ったのか〜?」
店の奥からの店主の声が掛かる。
「あ、はい。閉店準備終わらせちゃいますね」
功刀は完璧な笑顔の仮面を貼り付け、溌剌とした声で返答した。
11
朦朧とした意識の中に、いかにも家庭的な音が聞こえた。
トントンと、俎板をリズミカルに叩く心地のいい音が耳に心地いい。
「ん……?」
と、紫苑が思っていたのは最初のうちだけで、聞いているうちに、どうもそれが不規則で綱渡り的な危うさを孕んだものであることに気が付いた。
紫苑が目を開けると、部屋はいつの間にか暗くなっていた。
(あれ……俺……寝てたのか……)
腫れあがった顔に手を当て、眼を覚ますために何度か振る。
首が痛む。どうやら変な体勢で寝てしまったために寝違えてしまったようだ。
「ふんふんふ〜ん♪」
隣り合わせの台所から、蛍光灯の光とともに歌だが文字の羅列だかわからない、かろうじてメロディらしい物が漏れてくる。
「あ、紫苑起きたんだぁ。今ね、おかゆ作ってるんだよぉ」
続いて、メロディが途切れて綾音の能天気な声が聞こえた。
「ん……ああ、そうか」
意識のはっきりしない紫苑は、適当に返事を返した。
出来損ないの銅像のようになってしまった首を、無理矢理動かして元に戻す。
(ん……お粥? 綾音が……料理を?)
紫苑が台所に視線を向けると、思ったとおり、そこには綾音が立っていた。
「おい、大丈夫か? 俺が代わりに作ろうか?」
「紫苑疲れてるんでしょ? 休んでいいよ。私ならだいじょうぶ。任せてよ。作ったことは無いけどね」
どこからそんな自信が出てくるのか、綾音は振り返ってVサインを見せた。
綾音は健康な男子諸氏の憧れを具現化したような形であり、同時にどこか危険な香りが漂う、制服にエプロンという装いだった。
ちなみに、紫苑は『なんか新婚さんみたいだな……』と起きぬけの頭で考えていた。
見たところ台所は奇跡的に非常事態には陥ってないようなので、とりあえず、紫苑は綾音の言葉に甘えて一服することにし、ゆっくりと瞳を閉じた。
のだが、すぐに休息は打ち止めとなった。
「なんか、臭うな……」
部屋の中に漂い始めた、明らかな異臭。
(まさか……、いや!)
直感が、否、長年の経験が、出所は台所だと訴えていた。
紫苑は時限爆弾に気付いたハリウッド俳優のような顔で愕然とした。
ガスコンロの回しは全開。
だがなんと、というよりむしろ案の定、火は点いていなかった。
異臭の正体は言わずもがな、毒性こそ少ないものの可燃性抜群の都市ガス。
そして今まさに、綾音は導火線とも等しい換気扇の紐に手を伸ばそうとしていた。
「ぬおおおおお!」
そこから紫苑は超反応を見せた。
右手で地面を弾いて立ちあがると、韋駄天のごとき速度でフローリングを駆けると、ガスを元栓から完全シャットアウトし、火花が出ないように窓をぶつかる寸前ギリギリまで開けると、綾音の腕を押さえてそのまま地面に引き倒す。後頭部をしたたかに打ちつけた紫苑の瞼には火花が散ったが、どうにか現実での発火は避けられた。
この間わずか二秒。紫苑の人間離れした活躍によって朝刊の一面を飾る事態は免れた。
「ねぇ紫苑どうしたの? ひなんくんれん?」
紫苑に圧し掛かるような体勢になっているせいで、綾音の声は耳元で囁くような状態になっている。
「いいから、しばらくそのままでいろ」
天然ガスはほぼ安全だが、毒性が皆無というわけではない。ガスが薄れるまでは姿勢を低くしておいた方がいい、と紫苑は判断した。断じて、胸にあたる柔らかい感触を逃したくなかったからではない。
数分後。ガスの臭いを感じなくなった頃、紫苑は何事もなかったように立ち上がると、頭に大量の疑問を浮かべた綾音を助け起こした。
「……よし、お前はよくやったよ。だから、後は俺に任せろ」
試合に負けて落ち込む後輩を慰めるキャプテンのように、綾音の肩に手を置いた。
「えぇ〜。でもでも、もうちょっとおかゆができるんだよぉ〜」
綾音は不満気に頬を膨らませ、二人分にしては明らかに大きすぎる大鍋を指差す。
作りかけの鍋の中は黒いようでいて黄色いような奇妙な液体で満たされ、米の形をした物体が沈殿し、鱗すら取られずに放り込まれた魚が恨めしげな眼を向けている。
ちょっとした地獄絵図だった。
「いいから任せろ。お前に料理を任せていたら、心臓に悪くてゆっくりしていられない」
それどころか、これが完成して食べることになったら命すら危ない。
なんとか自分でやりたいと主張する綾音を抑え、もはや生物兵器に近いお粥(?)を処理すると、新しくお粥を作り始めた。
綾音は隣の自室でテーブル――椅子では無く座布団に腰かけ――に頬杖を突き、六時のニュースに相槌を打っていた。
(どうやら……いつもの綾音のようだな)
普段と同じ綾音の姿に、紫苑は内心で深く安堵した。
こうして見ていると、何もなかったようにさえ思える。
正直、紫苑にとって男達が死んだことなどどうでもよかった。確かに絶命する瞬間は衝撃的だったが、今は単純に綾音がいつも通りであることが嬉しかった。
(綾音は何故か平気でいるが……さっきの出来事は覚えていないのか? だが、迂闊に確かめて思い出させるのも……)
紫苑がどうしたものかと思考を巡らせていると、やけにタイミングよく綾音が振り向いて、ぱっくりと口を開けて驚いた。
「どうしたのそのケガ!? すごく痣だらけだよ!?」
「いや、今さら気付いたのかよ……」
さっきから散々顔を突き合わせてるのに……と、紫苑は嘆息したが、これで綾音が真紅の瞳に変わっていた時の記憶がないことはわかった。
(じゃあ、その間の記憶はどうなってるんだ……?)
紫苑は疑問に思い、綾音に問いかけた。
「なぁ、学校から帰って来る時、どうなったか覚えてるか?」
「ん〜……えっとね〜……」
深い思考の世界へと、綾音は旅立っていく。
一分後、ようやく帰還した綾音だったが、思案顔のままで首を傾げている。どうやら有効な発見は無かったようだ。
「覚えてないけど、多分また私が寝ちゃったんだよね? ごめんね。まためいわくかけちゃった。それからありがとう。雨で濡れたから着替えさせてくれたんだよね?」
「ん、あ、ああ……」
紫苑の返答は歯切れが悪い。冷静になって思い返してみると、なんだか自分がひどく後ろめたいことをしてしまったような気がした。
「大丈夫? もしかして、私が寝ちゃったせいで顔怪我しちゃった?」
綾音は急にしゅんとした顔になってバツが悪そうに視線を落とした。
どうやら下校時の記憶は完全に無くなっているらしい。
「いや、違う違う。これは帰り道に派手にスッ転んだからで、お前のせいじゃないよ」
自分でも不自然とわかるほど表情を緩ませ、紫苑は綾音と、そして自分に嘘を吐いた。
真実を告げて、もし綾音とこの日常が壊れてしまったら、それを思うと、恐くて口には出せなかった。
「でも、私を背負ってたからだよね? 普段だったら紫苑が顔にけがしたりするわけないもん。ごめんね」
「だから、いいって。大したことないから」
それは事実だった。確かに試合直後のボクサー状態になってはいたが、見た目ほど傷自体はひどくない。
「紫苑、ちょっとこっち来て。治してあげるから」
「……治す?」
「いいから、こっちきて座って〜」
綾音が招き猫のように手をちょいちょいと振るので、紫苑は鍋の火を止め、仕方なく綾音の目線に合わせて腰を下ろした。
「はい、ちょっと見せてくださいね〜」
綾音は『お医者さんごっこ』する子供のような口調で言うと、両手を紫苑の両頬にそれぞれ宛てがった。
綾音の暖かな手の温度が紫苑に伝わり、傷の中に沁み入っていく。
温泉に浸かっているような、或いは陽だまりの下で日光浴しているような、柔らかな温かさが至極心地よかった。
「はい、もういいよ〜」
綾音の手がそっと離れると、紫苑は心地よさに無意識に閉じていた目を見開いた。
「どう、痛くないでしょ?」
「え、ああ、うん」
不覚にも緩みきった表情を見せてしまった紫苑は、恥ずかしさで慌てて視線を逸らす。
「……えっ?」
数瞬遅れて、自らの身に起こった変化に駭然とした。
「……嘘だろ?」
痣の痛みが無くなっている。紫苑は自分の顔を撫でるようにして傷の有無を確かめたが、傷らしい感触も痛みも感じられなかった。
「やったぁ。よかったね、紫苑♪」
綾音は今にも踊りだしそうなほど喜んで、莞然とした顔を左右に揺らしている。
あまりに驚きの少ない能天気な姿につられて、紫苑の驚きもすぐに冷却された。
「おい、今のどう……いや、なんでもない」
問いかけようとして、紫苑は言葉を飲み込んだ。
以前は物を動かす程度のことしかできなかったのが、傷を癒す力や、男達を消し去った異端の力を使えるようになっている。紫苑には超常の力の原理など推し量りようもないが、綾音の力は間違いなく強くなっていた。しかし、綾音自身に自覚は無い。
原因はおそらく、真紅の瞳が関係しているだろう。だとすれば今の綾音に理由を問いただしたとしても知るはずもない。それに、綾音の鈍さならそうそう勘付かれはしないだろうが、万が一紫苑や自らに対し違和感を抱かれると、紫苑の望む日常が壊れてしまう可能性がある。今の紫苑に原因を聞くことの利益は一つもなかった。
「ねぇ紫苑、服も雨でベトベトだよ? 今日はお父さんの着替え使っていいから、シャワー浴びてきなよ。ほら、明日はお買い物に行くんだし……?」
話の途中、綾音は自分の言っていることに疑問を抱いて首を傾げた。
「あれ? なんで私、買い物に行くの?」
「……あ、ああほら、臨時収入があったから、冬物買ってやるって言ってたろ?」
マズイ、と思った紫苑は、適当に言い訳をしておいた。レベルとしては高くないが、これも綾音が追及する性格ではないと把握してのことだ。
「そうだったね!」
予想通り、綾音は柏手を打って納得した様子を見せた。
「そう、そうだよ。そう言う事だ。んじゃ、ちょっとシャワー借りるぞ。あ、火は点けてあるから鍋には触るなよ。わかったな」
話が面倒な方向に行かないように、紫苑はそれだけ言い残して部屋を後にした。。
12
風呂から上がった後、紫苑は綾音と共にお粥で軽めの夕食をとった。嬉しそうに箸を進める綾音とは違い、鉛でも放り込まれたように紫苑の胃は食べ物を拒絶していたが、綾音に心配をかけさせまいと無理をして流し込んだ。
「今日はちょっと疲れたから、もうそろそろ帰るわ」
机でテレビを適当に聞き流す、フリをしつつ予断なくニュースをチェックしながら、明日の予定を決めたところで紫苑はそう切り出した。
「そうだね。今日は紫苑本当にお疲れ様だよぉ」
ペコりと頭を下げると、まるで計算されたように綾音の額が机を打った。
「痛い……」と呟いた瞳に微かに涙が溜まっている。
ふぅ、と呆れを多分に含んだ長大息(ちょうたいそく)が紫苑の肺から漏れ出した。
「別に構わねぇよ。お前の世話するのもいつもの事だし」
「えへへ、お世話になります」
そう言って、綾音はまた机に額を打ち付けた。その動きに躊躇いは無い。これで狙ってやっているのだとしたらとんでもない演技力だが、彼女に限ってそれは無い。
吐く息もなくなった紫苑は、それに突っ込むこともなく無言で立ちあがった。
「あ、待って。玄関まで送るよ」
「ん? いいよ、お前も今日スポーツテストだったし、疲れてるだろ?」
紫苑は提案に遠慮を示したが、綾音はふるふると首を振った。
「いいの。私が紫苑と少しでも長く居たいから」
綾音の発言に、紫苑は思わず頬を赤らめた。
毎度のことだが、綾音の屈託のない発言にはドキリとさせられる。彼女には日本人的な本音と建前と言う物がなく、ただ正直に言葉を口にするので始末に負えない。
面(おも)映(はや)しさに、紫苑は何も言えないまま、堪らず背を向けて歩き出す。
「あ、待ってよ〜」
その後ろを、慌ててスリッパを履いた綾音が足取りと効果音をパタパタさせて追い掛けて行った。
紫苑が靴を履き終え、綾音がスリッパを脱ごうと悪戦苦闘しているのをジト目で眺めていると、鍵をかけていたはずの玄関の扉が開いた。
「あ、おとーさんおかえり〜」
「ただいま、綾音。女の子なんだから、そんなに足を開いて靴を履かないようにね」
鍵を開けて入って来た男――綾音の養父である功刀――は、眼鏡の奥で優しく目を細め、少しも口調を荒らげることなく優しく綾音を窘めた。
「あ、どうも」
功刀と目が合い、紫苑が少し気まずく頭を下げる。
功刀はにこやかな笑顔のまま軽く会釈を返した。
「やぁ紫苑くん、いらっしゃい。もう帰りかい? 綾音は迷惑掛けなかった?」
「いつも通りです」
「そう、それはご苦労だったね」
そう言って功刀は困ったように苦笑を返した。仮にも自分の娘の事だ、どれほど人に迷惑を掛ける人間かは十分理解しているのだろう。
「いえ、別に俺は迷惑だとは思っていませんので」
功刀に対して、紫苑は教師にすら使わない敬語を使っている。
紫苑は功刀と言う人間を尊敬していた、身寄りのない子供を、しかも記憶喪失という厄介な症状を抱えた子供を引き取るということは相当に覚悟のいることだ。それも綾音を苦しめることもなく、自分のために利用するでもなく、不自由なく育てている。それは誰にでも簡単にできることではない。紫苑は単純に立派だと思っていた。
「あのねぇ、明日は紫苑といっしょにお買い物に行くんだよ!」
綾音は嬉々とした表情で、幼稚園での出来事を母親に話す幼児のように言った。
「買い物って、もしかしてラ・フェスタに来るのかい?」
綾音ではなく、功刀は紫苑に問いかけた。
まさか聞かれると思っていなかった紫苑は、咎められているのかと動揺した。
「ええ、まぁそのつもりでしたけど……。都合が悪いなら別の場所にしますけど?」
功刀がラ・フェスタのペットショップで働いていることは紫苑も知っていた。娘が店に来るのは何かと気まずいかもしれないとは考えたが、この近辺で買い物ができる場所は限られている。それでも嫌がられるなら、紫苑は別の場所にしようと思っていたが、功刀から帰って来た答えは意外なものだった。
「いや、ちょうど良かったよ。二人には用があったから、明日僕の所に来てくれるかい?」
「うん、いーよ〜」
紫苑が何かを尋ねる間もなく、綾音が即答で返事をしていた。
「それじゃあ紫苑くん、明日また会おうか」
紫苑は些か訝るように眼を細めたが、功刀の優しげな顔を見ているとそれの気にならなくなった。きっと何か理由あってのことだろう。
「ええ、失礼します」
「あ、だから待ってったら〜」
功刀に注意されたことなどすっかり忘れ、足を豪快に上げ靴を押し込むと、綾音は紫苑の後を追いかけた。功刀の言い方が甘すぎるわけではない。彼女はいつもそうだった。
もとより先に行くつもりの無かった紫苑は、ふと立ち止まって夜空を見上げた。
先ほどまで地を振らしていた雲の姿は消えかかっている。この分なら、明日は好天に恵まれるかもしれない。
と、紫苑が思っていると、靴を焦って履くのと扉から門までの五メートルほどを走るのとで息を切らした綾音が、背後で大きく肩を上下させていた。
「あのなぁ、もうちょっと体力付けろよ」
紫苑がそう言いたくなるのも無理はない。歩いている分には問題ないのだが、去年のマラソン大会では綾音に付きあったために、半分以上残して時間切れで棄権にさせられたほどだ。「ちょっと」はかなり控え目な部類に入る。
「えへへ、がんばる」
綾音は肩を上下させながらも、ぐっと親指を立てて見えた。
「まぁ、期待しないで待ってるさ」
そう言いつつ、彼女が決して諦めなかったことは紫苑も認めている。
失敗ばかりだが、綾音は何をするにもいつも手を抜かず、ひたむきに一生懸命だった。
「それじゃあ、俺は帰るから。朝起きれなかったらゆっくり寝ててもいい。時間はたっぷりあるからな」
「うん、ありがとう。また明日、ね」
そう言って、彼女は笑う。
ドジで、体力がなくて、迷惑ばかり掛けるけど、笑った顔を見ると全て許してしまう。
それは紫苑が知っているいつもの綾音だった。
「ああ、また明日」
それを愛おしいと思うから、紫苑は日常を守っていきたい。
布団に入って眠りにつくまで、紫苑はその誓いを胸の中で繰り返していた。
そうしていれば、それが本当に叶うと思っているように。
さまざまな場所で、さまざまな人間の思惑が錯綜して。
秒読みは、すでに最終段階に入っていた。
第四章 〜崩壊する現在(いま)と、紊乱(びんらん)した過去と、暗澹たる未来と 〜
1
目覚めの気分は、とてもではないが爽快とは言えなかった。
瞼こそしっかりと開いている物の、寝起き特有の倦怠感は凄まじい。
「暗いな……」
紫苑は寝ぐせの髪を乱暴に掻き毟り、窓の切り取った闇を認めて呻いた。
首を振って軽い頭痛を紛らわせると、目覚ましを手にとって時間を確かめる。
暗いはずだ。時刻は午前六時。紫苑の平常時休日起床時間から考えれば四時間も早い。
かといって、とても二度寝ができる気分でもない。
「……とりあえず、シャワーでも浴びるか」
時間を持て余した紫苑は、浴室へ向かうべく階段を下りて行った。
昨日の今日で疲れているせいか、足取りは重い。
脱衣所に着き、紫苑は不快な寝汗に濡れたTシャツとジーパンを脱ぎ散らかす。と、それが借り物であった事を思い出し、拾い上げて洗濯機の中に放り込んだ。
ついでに下着と適当な量の洗剤を洗濯機に放り込んで回すと、ひんやりとして氷のようなタイルの上に乗り、加減もせずに蛇口をまわした。
タイルとは比較にならない温度の冷水が、頭上から紫苑へ打ち付けられる。
「……」
しかし、昨日の雨よりも遥かに温度の低い冷水を全身に浴びても、水行に励む修行僧のように、紫苑は身じろぎ一つしない。
否、冷たさが気にならない。と言ったほうが正しかった。
上昇する水温とともに、紫苑の意識もはっきりした物に変わっていく。
気分の優れない最たる原因は、湧水のように生じる不安だった。
第一に、またあのゾーンと名乗る青年の存在。
彼との接触は危険だと、紫苑はあの時直感的に感じていた。それと同時に、奇妙な親近感も覚えていた。自分や綾音と同じように世界から逸脱した何かを感じさせるのだ。
綾音の力はもとより、紫苑の驚異的な運動能力や動体視力、反射神経は人間の能力とは一線を画した神憑(かみがか)り的なものだ。綾音はどう思っているのか知らないが、紫苑にはその自覚がある。
以前は自分の過去などどうでもいいと思っていた紫苑だが、今は逆に自分や綾音の過去を知ることが恐ろしい。もし自分たちの過去を知り能力の根源が理解できたとしても、そのあと日常が壊れてしまうような気がするからだ。
何にしても、ゾーンとの接触は避けなければならない。
第二に、綾音がまた真紅の瞳に変化しないかということ。
これは紫苑が気をつけていてもどうしようもない。完全に綾音――もしくは他のそれを引き起こす存在のさじ加減である。
昨日男たちが死んだことは別段気にしていない。それが人間としてどうなのという疑問はあったが、紫苑にとって下種な輩が死んだところで特に問題はないのだから。
ただ、今日といういつもと変わらない日常を、綾音と共に無事に過ごせるか、その疑問が紫苑を苦悩させ、口の中に真綿を放り込まれたような息苦しさを覚えさせていた。
(何があっても、俺がしっかりしなきゃならないんだ……)
緑光の逃げ場所はもうない。綾音を失うわけにはいかないのだ。
己の意識と意志が確固たるもになったことを確認すると、紫苑は浴室を出て、濡れたままの体で鏡を見つめた。
無精して切らずにいた前髪がカーテンのように垂れ下がり、その奥に胡乱な半目が覗いている。顔は表情に欠け、生気が感じられず、実際よりも頬が痩けて見える。
これでは亡者のようだ、と紫苑はそこはかとなく思った。
(こんなんじゃ……綾音を楽しませてやることなんかできない)
普段は鈍感な綾音も、悲しみや怒りといった負の感情には極端に敏感だ。紫苑が暗い表情をしていれば簡単に見抜かれてしまうだろう。
紫苑は瞳を閉じて、綾音の顔を思い浮かべる。
いつだって、彼女は笑っていた。不安な顔など片手で数えられるほどしか見たことがない。眩しくはじけるような笑顔。それこそが、彼女のあるべき姿だ。
「……おっしゃ」
紫苑は両頬を指でつまみ、無理やり引っ張り上げて強引に笑みを作り上げると、勢いよく指を放し、瞬時に両頬を平手でたたいた。
目を開くと、頬を赤くした不審な男が不気味な笑みを浮かべたまま固まっている。
普段はクールを演じていることが多い分、その落差はかなりシュールだった。
「っというか、別に普段通りにすればいいんじゃねえか」
そもそも紫苑は笑っていること自体が少ないのだから、満面の笑みで一日中いることの方が逆に不自然なのだ。
「普段通り、普段通り……」
紫苑が自分に言い聞かせるように呟くと、鏡の中のもう一人が同じように口を動かす。
二人の自分に戒められた気がして、存外気が引き締まった。
それと同時に、今まで活動を自粛していた腹の虫が盛大に演奏を始めた。
「気ぃ抜くなよ。馬鹿野郎」
なかなか演奏をやめない虫たちを打ち止めにすべく、紫苑はよれよれのジャージに袖を通し、台所に足を向けた。
朝食に何か、と思った紫苑だったが、冷蔵庫の中身は見事なまでに空だった。綾音と炒飯を食べてから買い物に行っていないのだから当然と言えば当然である。
コンビニにでも買い出しに行けば良かったのだが、いちいち外に買い物に行くのも面倒なので、適当に水を流し込んでリビングのソファーに横になると、テレビの電源を入れてニュース番組を適当に聞き流す事にした。
幸いなことに、ニュースでは男達が死んだことは報じられていなかった。まだ完全に安心できるわけではないが、昨日の雨なら証拠など一つも残らないだろう。まして見つかったとしても、そこから綾音に辿り着くことは不可能に近い。
「……」
あれは本当に綾音がやったことなのか、今思えば全て夢の出来事のようにも思える。
いっそ、夢になって消えてしまえばいいと、紫苑は願った。
しかし、消えてほしい出来事は消えず、本当に知りたいことは知れない。
「……やめだ、忘れろ、んなことは……」
思い出してもいいことなど何もない。紫苑は暗い考えを、頭を振って追いだした。
今日は綾音と買い物をするのだ。楽しく過ごさなければならないのだ。
紫苑はそう言い聞かせ、金輪際思い出さないよう厳重に蓋をし、昨日の出来事に対する思考を放棄することで今日に眼リを集中させた。
その後は、若手芸人の告げる耳寄り情報やランチのおいしい情報を左の耳から右の耳に通過させながら、何をするでもなくソファーに寝転んで怠惰な時間を過ごしていた。
「暇だな……」
綾音といると色々と世話を焼かなければならない分、いない時は時間を持て余してしまう。なるほど、よく考えてみれば、世話を焼いている時は煩わしさより奇妙な心地よさの方が大きいのはそのせいか、と紫苑は思う。
なんとなく、今の紫苑の気持ちは子が独り立ちした親の心境に似ていた。
ピンポーン。
「ん?」
紫苑が起床してから長針が短針を四度追い越した、ちょうど紫苑の平常時起床時間である午前十時。オーソドックスなチャイムが鳴り引いた。
「誰だ…?」
両親が一年の大半家を空けるため、この家に来客はおろか、郵便や新聞勧誘ですら滅多に訪れない。むしろチャイムが鳴らされたのも恐ろしく久方ぶりだ。
応対するのも億劫なので居留守を決め込もうとしたが、何度も連打されるのが鬱陶しく、紫苑を止むを得ず玄関へ足を運んだ。
「はいは〜い、どちらさ〜ん」
紫苑が気だるく間の抜けた声でドアを開くと、
「おはよ〜だよ〜。紫苑」
さらに間の抜けた声で、真っ赤なマフラーに顎まで顔を埋めた綾音が返答した。
チャイムが連打されたわけである。住人がいることを知っていたのだから。
「おう、おはよう。今日はまた随分早いな。いつもならまだ寝ている時間だろ?」
「うん、今日はね、朝から『今日のニャンコ』のそうしゅうへんだったの」
「ああ、なるほどな」
今日のニャンコとは、朝のニュース番組で毎日一匹ずつ猫を紹介するコーナーである。無類の猫好きである綾音はこのコーナーを毎日楽しみにしているのだが、大概は寝過ごして見逃すことが多い。
「すっごくかわいかったの!」
綾音はほくほく顔になって、嬉しさを体全体で表現する。やはり犬っぽい仕草なのだが、何故か猫を溺愛しているのだ。
ふと、紫苑は燥(はしゃ)ぐ綾音の胸元で翡翠が小刻みに揺れていることに気が付いた。
「それ、ちゃんと持っていてくれてるんだな」
「これ?」
綾音が翡翠を掌に乗せ、可愛らしく小首を傾げる。
「あたりまえだよ。だって、紫苑がくれたプレゼントだもん。昨日だって制服の下に隠してたけど、ちゃんと首から提げてたんだよ」
えっへんと効果音が付きそうな動作で、綾音は奇跡的に宿題をやって来た生徒のような顔で最近頓に発達している胸を張った。
「そうか……」
自分にとって大切なものは、今は綾音にとって大切な物でもある。その事実が、紫苑には無性に嬉しかった。
「それより紫苑、早くいこうよ〜。せっかく私も早起きしたんだもん。いまから行けばたくさん楽しめるよ!」
「わかった、わかったからくっつくなって。今準備してくるからちょっと待ってろ」
紫苑は適当に着替えを済ませ、財布をポケットに突っ込むと、五分ほどで玄関まで舞い戻って来た。
「んじゃ、行くか」
「うん!」
綾音は嬉々として紫苑の腕に自分の腕を絡ませてくる。
まぁ、これくらいならいいかな、と、紫苑はそのまま綾音を連れだって家を後にした。
2
時間はそれよりも少し遡(さかのぼ)る。
ブーン。
勉強机の上の携帯電話が、耳障りな音を立てる。
マナーモードの名を冠しつつ、その実態は掟破りの騒音である。
「んもう……朝っぱらから何なのよぉ……」
真由美は腫れぼったい瞼をこすり、起き上がろうとしたが、
「うわっ、寒ぅ……」
予想以上の寒さに断念せざるを得ず、腕だけを布団の腕から出して電話を手に取ると、誰からの電話かも確認せず通話ボタンを押し、耳にあてた。
「もしもしぃ……」
『おはよう真由美! ラ・フェスタに行くぞ!』
スピーカーから響いた想定外の騒音に、真由美は思わず飛び起きて携帯を突き放した。
『おいお〜い真由美ちゃんよぉ、元気がないぞ? おはようはどうしたおはようは?』
声の主は克幸だった。早朝から問答無用のハイテンションで、受話器を離してもなお明瞭に響くその声は真由美を苛立させる。
真由美は意味もなく受話器を睨みつけ、
「あのねぇ、朝っぱらからうるさいのよあんたは。いつの間に私を名前で呼ぶようになったわけ!? だいたいいきなり脈絡もなく意味不明なこと言ってんじゃないわよ!」
実はこの時の真由美の声量は克幸を遥かに上回っていたが、何度も言ったように、本人には分からないものなのである。
『おーおう、朝から元気がいいなぁ。うんうん、それでいい』
克幸は隠居した老人のような台詞を呟いた。電話の向こうから鷹揚に頷く克幸が目に浮かぶようだ。
「ふぅ……、もういいわ。それで、どういうことなのよ?」
真由美がいくら言っても暖簾に腕押し。なんだか怒るのも馬鹿らしくなってきたので、真由美は肩を落として力を抜いた。
『ああ、それなんだけどな、実は今日紫苑と綾音ちゃんがラ・フェスタに買い物にいくらしいのよ。だから、紫苑の毒牙が綾音ちゃんに及ばないように蔭からこっそり見守ろうっていうわけだ』
「……つまり、休日を楽しむ二人を出歯亀よろしく覗き見するってわけね。直接出て行ってちょっかい出したら藤乃くんに殺されるから」
真由美は受話器に向けて渾身の侮蔑を込めて言った。
『おいおい、そうネガティブになるなよ。あくまでポジティブ思考だぜ?』
が、電波ではニュアンスが伝わらなかったのか、克幸がそんな言葉を気にも留めない人間なのか。おそらく後者だろうが、克幸は愉快に笑って見せた。
「ってゆーか、なんであんたが二人の予定を知ってるのよ?」
『細かいことは気にすんな。んで、どうすんだぁ?』
「怪しいわねぇ……」
訝りながら、真由美は今日のスケジュールを思い浮かべていた。
確かに今日は家にいるつもりだったし、別段やっておかなければならないこともない。いうなれば、完全なるヒマ人だった。
(そう言えば、ラ・フェスタって言えばあれがあるわよね……。だとしたら綾音ちゃん、そこで実行するつもりかしら……?)
『おーい、行くんだろぉ?』
「うるさいわね、ちょっと待ちなさい!」
『へいへーい、ヒステリーは恐ろしいね〜』
克幸の軽口は華麗に無視して、真由美は思案する。
(どうせ暇だし、いっか。尾行って言ったら聞こえが悪いけど、克幸が言ったとおり二人を見守るっていう意味なら全然オッケーじゃない?)
知らず知らずのうちに、真由美も克幸に感化されていた。
「いいわ、行ってあげる。ただし、お昼とおやつのドーナッツ、奢りよ」
『またですかぁ? 今月ピンチなのになぁ……。まぁいいや。んじゃ、もうちょっとしたら迎えに行く。十五分くらいで着くと思うから、出かける準備して待ってろよー』
それだけ言うと、ブツリと一方的に電話が切られた。
「あ! ちょっとあんた待ちなさい! 女の子はいろいろと準備が……って、切れてるじゃない!」
真由美が言おうとしたことももはや手遅れで、真由美は携帯をクッションに投げつけると、大きな姿見の前に立った。
ボサボサの髪。服はダボダボのスウェットのまま。寝ぼけ眼を除けば顔は整っているので化粧など必要なさそうだが、女のプライドがそれを許さない。
「あのバカ! ちょっとは考えなさいよね!」
真由美は勢いよくドアを開け放つと、浴室に向かって階段を駆け降りた。
石田家の休日は、騒々しい朝から始まった。
3
大規模商業施設『ラ・フェスタ』は、娯楽施設の少ないこの地方においては唯一のものと言ってもいいため、平日でも多数の人間が訪れる。
しかも、それが休日ともなればその数は倍増する。相当数用意された駐車場のほとんどが埋まり、人口密度は首都のそれを大きく凌駕するほどだ。
「うわぁ〜、やっぱりすごい人だね〜」
驚きで目を瞬かせながら、綾音は上京したての田舎者のようにきょろきょろとせわしなく首を動かしていた。
それに対して、到着してすぐながら早くも疲れ気味だった。
「すげぇ人……」
どこを見渡しても、人、人、人。
全てを文字に例えて描けば画用紙は人の文字だけで埋まりそうだ。
はっきり言って人ゴミが嫌いな紫苑にとって、これはかなりの苦痛だった。
「すごいね紫苑! ひとがいっぱいだよ。ひとがいっぱい! ほらこんなに!」
興奮しているのか、綾音は見ればわかることを何度ものたまいながらそこら中にいる人を指差してぴょんぴょんと飛び跳ねている。
「わかってるから、ちっとばかりおとなしくせい」
この人ゴミの中でも、綾音は一際注目を集めていた。
もちろんこの奇異な行動が原因の一つに間違いはないが、それだけではない。綾音のちょっと見ない容姿は通りかかる男達の大半を振り向かせていた。実際、綾音に見惚れて立ち止まった男の頭を彼女らしき女が叩いて怒るという状況が何組か見受けられる。
紫苑としては、綾音が下手に注目を集めてまた面倒な男達に絡まれて武力行使することは避けたかった。
「今日は別に人を見にきたわけじゃないだろ?」
「はう、そうでした」
綾音は拳で軽く自らの頭を小突き、ウインクしながら悪戯っぽく舌を出して笑う。反省の形として古くから漫画などで見る絵だが、それを実際にやって様になるのは綾音ぐらいだろうと、若干惚気気味に紫苑は考えていた。
「それで、まずは何がしたいんだ」
「はい! ペットショップで動物がみたい!」
宣誓するネイティブアメリカンのようにビシッと手を上げ、綾音は高らかに宣言した。
「声が大きい!」
幸い、綾音の声は雑踏に紛れて遠くまでは届かなかったようで、足を止めたのは周りにいた数人だけだった。その数人も、紫苑が困った顔で頭を下げると何事もなかったように人波の中に溶けて行った。
コホン、と紫苑は咳払いをして体裁を整える。
「んじゃ、決まりだな。なんだか知らないがおじさんにも呼ばれてるし、四階のペットショップに行くか」
「うん」
出だしから早速前途多難の様相を見せながら、紫苑達は上を目指すべく歩き出した。
喜びからか、綾音の歩調がいつもより心なし早い。とはいっても、周りの人の半分ほどのペースではあるが。
しかも、そんな状態は長く続かなかった。
エスカレーターを目前にしたところで急に立ち止まり、何故か真剣な眼差しで無限ループする階段を見つめている。
「……何やってんだ?」
紫苑の質問はこの状況に対して至極真っ当なものだったが、
「しっ! 静かにして!」
綾音の返答は意外なものだった。人差し指を口に当てて制される。
「コレはね……」
綾音はいつになく緊張した面持ちだ。
「コレは…?」
雰囲気につられて、紫苑は思わず息をのむ。
「コレはね……」
そして、衝撃の真実を突き付ける様に、綾音は間を溜めて、言った。
「……乗るタイミングが難しいの」
「………………………」
(あぁ、なるほどそう言うことか。そりゃそうだよな。やっぱりエスカレーターに乗れるか乗れないかで人生左右されるもんなぁ)
などと紫苑がくだらないことを考えている間も、綾音はいくつも段差を見送っていた。
「どうしよ〜、乗れないよ〜」
だんだんと綾音に顔に焦りの色が広がり始める。
後ろに並んでいる人たちも、何事かとひそひそ話を始める。
(まずいな……)
と紫苑が困り入っているうちに、さらに事態は悪い方向へと展開していく。
「あっ」
という間の出来事だった。
前屈みの姿勢でエスカレーターとにらめっこしていた綾音が転んだのだ。
それだけならいい。いつものことだ。
見落とせないのは、綾音のマフラーがエスカレーターに巻き取られていることだ。
「ぬお!」
紫苑はすぐさま反応し、全身の筋肉をフル活動させ、綾音を丸太のように一回転させてマフラーをはぎ取ると、脇にある緊急停止ボタンを押し、自らは後ろに倒れこんだ。
かくして、綾音は窒息死を免れた。
荒く息を吐く紫苑の胸にもたれかかるような体制で、綾音は、
「うわぁ〜……びっくりしたよぅ」
能天気に呟く。
そんな綾音を抱え上げて、紫苑はざわめいた人ゴミを掻きわけて駆けだした。騒ぎが大きくなって面倒な事になる前に、一刻も早くこの場から離れなければならない。
「ねぇ紫苑、何で走ってるの?」
「やかましい! 寿命が五年縮んだわ!」
走りながら、紫苑は叫び返したが、当の綾音は「何言ってるのかわからないよ?」というオーラ全開でただ首を傾げるだけだった。
結局スタッフに捕まった紫苑達は、てっきり叱責されるものだと思い込んでいたが、どういうわけか迷惑料という形で多額の現金を渡され、深々と頭を下げられた。
紫苑は人目を避けるために選んだ非常階段を登りながら、
「やっぱりイメージって大事なんだな……」
しみじみ呟いた。
「マフラー無くなっちゃった。帰り寒そうだな〜」
と、呑気に呟いたのは誰かというと、それは言うまでもないだろう。
4
当初の予想より大幅に時間が経っていたが、何はともあれ無事に(それが当り前なのだが)ペットショップに辿り着くことができた。
しかし、店内に功刀の姿が見当たらなかったので、動物を見ながら待っていようということなった。というか、綾音がそうしたいと言ったので紫苑はそうさせた。
「わぁ〜かわいい〜」
ガラスケースに顔をぴったりくっつけた綾音に、餌を文字通り頬張っていたハムスターが驚いて隠れた。
目を輝かせて食い入るようにケースを見つめる綾音の姿はとても微笑ましく、その年相応より幼い表情は見ているだけで癒される気がする。
「こっちもかわいい〜」
そう言って綾音が見ているのは爬虫類コーナー。
四十pはありそうな蜥蜴が舌をちらつかせながら綾音を見つめ返している。
「いや、それはちょっとどうかと思うぞ」
紫苑は小声で呟いた。
女の子が蜥蜴の前でそんなことを言っているのは、はっきり言って奇妙で不気味だ。
「次はいよいよお待ちかね〜♪」
自作の歌(らしきもの)を歌いながら、軽やか(だと本人は思っている)足取りで、綾音は犬猫のコーナーへと向かう。
「わぁ〜かわいい〜」
さっきまでと大して変わらない台詞だが、そのテンションは明らかにハムスターを見ていた時とは一線を画するものだった。さっきまでの状況を食い入るようにと表現するのなら、今の状況は喰らいつくように、と表現するのが最も妥当だろう。
「やっぱりかわいいな〜」
綾音はもうそれしか言わない。
そんな愛らしい生き物たちの中でも、彼女の眼を最も引きつけたのは猫だ。
もしかしたら、綾音の失われた記憶に中に何か強い想い出があるのかも知れない。
紫苑にそう思わせるほど、綾音の猫好きは凄まじいものがあった。
そうして紫苑と綾音が並んで動物たちを眺めていると、犬猫のゲージとは明らかに違う方向からみゃあみゃあと猫の鳴き声が聞こえた。
声に気付いた綾音はすぐさま鳴き声のする方へと導かれるように向かっていく。
「あ、おとーさん」
「ああ、もう来ていたのかい?」
その先には功刀が立っていて、猫の入ったケージを抱えていた。
どうやら、今しがたこの猫を外から運んで来たらしい。
紫苑が軽く会釈すると、功刀も微笑んで会釈を返した。
「おとーさんどこに行ってたの?」
「ちょっと新たに入荷したんでね、この子を受取りに行ってたんだよ」
言いながら、功刀はケージの蓋を開き、中から一匹の子猫を取り出した。
瞬間、紫苑は胸に衝撃を感じた。
その猫は雪のように真っ白な子猫。
公園で死んだはずのユキにそっくりな美しい子猫だった。
細かく見れば違うのだろうが、紫苑には同じにしか見えなかった。
綾音は黙って、功刀の腕の中の子猫を見つめている。
先ほどまでのように騒ぐのではなく、静かに、そして穏やかに見つめている。
「少し、抱いて見るかい?」
功刀の提案に、綾音は猫を見つめたままの状態で、何も言わずに頷いた。
仔猫をそっと受取り、包み込むような眼差しを子猫に向けている。
「……よかったね」
唐突に綾音は呟いて、優しく目を細める。
その時だった。
滴が一滴、また一滴と床に零れ落ちて行く。
「あ、あれ?」
それが綾音の眼から零れた涙であることに、綾音自身も気づいていなかった。
「どう…し……て、わたし、泣いて……るの?」
震える声で、彼女は鳴くように言う。
自分でも溢れる涙の理由が分からず、どうしようもないと言った様子だ。
「おか……しい、な。こんな…に、かわいいのに……」
そう言いながらも、綾音は流れ落ちる涙を止めることができない。
紫苑も功刀も、何も言うことができず、黙視する他なかった。
(まさか、ユキのことを思い出しているのか? あの時のことは何も覚えていなかったはずなのに……)
やはり、あの時のことを、綾音は完全に忘れ去ってしまったわけではないらしい。
綾音のどこかに残滓が内在していて、それが今、形となって溢れているようだ。
「わたし、どうかしちゃったのかなぁ? ねぇ、紫苑…」
眉を潜ませ、潤んだ瞳に控えめな光を湛え、綾音は紫苑に問いかける。
「……行こう、少し落ち着くんだ。おじさん、ちょっと失礼します」
紫苑は綾音の手から子猫を取り上げてケージの中に戻すと、震える肩を抱きよせ、そのままゆっくりとペットショップを後にした。
去り際に、綾音は一度だけ振り返り、
「今度は……幸せになってね」
なんとか紫苑に聞こえる程度のか細い声で、静かに囁いた。
その時の綾音が、紫苑には別人のように見えた。
功刀は黙って、去っていく綾音と紫苑の後姿を見つめていた。
その瞳にいつもの優しさの面影は無く、眦(まなじり)が怜悧に吊りあがっている。
綾音たちの姿が完全に見えなくなると、功刀は携帯電話を取り出し番号を押した。
「コードR。対象の発現兆候を確認。ヒトハチマルサンにて作戦を決行する」
功刀はただ無感慨に告げると、電話を切って仕事に戻った。
「店長すいません。急用ができたので失礼させてもらいます。代わりのものは手配してあるので心配なく」
ただし、それはペットショップの店員にではない。
「慎重に臨まなければならないな……」
既に、功刀の笑顔の仮面は跡形も無く砕けていた。
5
綾音が落ち着きを取り戻したのは、それから三十分ほど後のことだった。
今紫苑達はセルフサービスのフードコーナーの一角に座っている。昼時は過ぎているので、ピーク時よりも比較的客の姿は少ない。
泣き崩れる綾音を慰める紫苑の姿は、周囲からは別れ話をしているカップルという目で見られていたが、今の紫苑にそんなことを気にしている余裕はない。
「どうだ、もう落ち着いたか?」
紫苑が問いかけると、綾音は肯定の意味で小さく頷く。
「ごめんね、心配かけちゃったかな?」
目の周りを真っ赤に腫らしてはいたが、綾音の口調は随分落ち着いていて、表情はいつもの柔らさを取り戻している。
「もう、大丈夫だから。ごめんね、私のせいで迷惑掛けちゃって」
そう言って、綾音は少し申し訳なさそうに眉をひそめる。
どうして泣いていたのか、とは決して口には出さない。
考えてもどうしようもない事があると、二人にはよくわかっているからだ。
記憶がの無いことがどうしようもないのと同じように。
「謝るなよ。別に、俺は気にしてないし」
紫苑はぶっきらぼうに言うが、言葉の響き自体は労わるような優しさがある。
彼女には、暗い表情をしてほしくなかった。
「ありがとう。紫苑、やっぱり優しいね」
にこりと、彼女が笑うだけで、空気や自分の体重すら軽くなったような気がする。
その上こんな言葉を囁かれれば、どんな男も落ちるに違いない。本人に自覚は無いが、ある意味魔性の笑みとも言えた。
「お、俺、なんか買ってくるから」
あまりの恥ずかしさに居た堪れなくなった紫苑はそそくさと席を立つと、近くにあるファーストフードコーナーに走った。
「いらっしゃいませ。ご注文お伺いします」
「あ、ソフトクリームとコーヒー、以上で」
「ありがとうございます」
愛想のいい店員が丁寧に一礼して奥へ向かうのを見送ってから、紫苑は綾音のいる席に視線を転じた。
綾音は机に頬杖をついて、先ほどと変わらない笑みを浮かべている。どうやら、大丈夫というのは安心させるために吐いた嘘ではないようだ。
(まぁ、もともと嘘は得意じゃなさそうだしな……)
「お待たせしました」
よほど手際が良かったのか、思いのほか早く店員が商品を持っていた。
「あ、どーも」
紫苑は代金を支払い店員からトレイを受取り、席に戻ろうとして、
「ん?」
不意に背後から視線を感じ、振り返った。
多数の人が行き交っているので断言はできないが、少なくとも自分を見ている人間はいない、と紫苑は推定した。
(なんだ? ちょっと神経過敏なのかもな……)
紫苑は納得が行かずに一度首を傾げたが、結局そのまま綾音のいる席に戻った。
「ほらよ」
「わ〜い、ありがとぅ♪」
綾音は喜色満面でソフトクリームを受取ると、実年齢を遥かに下回る幼い表情で一心不乱にソフトクリームにかぶりつく。
「別に逃げやしないんだから、落ち着いて食え」
落としたら別だがな、とは口に出さず、紫苑は飲み慣れないブラックを口に含む。確かに苦いが、甘すぎるカフェオレよりは飲みやすかった。
「おいしいかった〜。ごちそうさま〜」
よほど美味かったのか、綾音はものの数分でソフトクリームを平らげた。その顔に大量のクリームと満足という文字がべったりと張り付いている。
「そう言えば、もう飯時も過ぎてんだな。もし腹減ってるなら、少し何か食ってくか?」
紫苑は過保護の親のように甲斐甲斐しく口元を拭ってやっている。ちなみに、無意識でほとんど条件反射的な対応だった。
腹部に手を当て、綾音はひとしきり胃と相談してから、
「空いてないことも無いけど、今のでけっこうお腹いっぱいになったから、いいかな」
「そうか、それならそろそろ行くか」
すっと立ち上がり、紫苑はそのまま颯爽と立ち去って行く。
はずだったのだが。
ぐぅ〜。
何処(いずこ)からか、そんな気の抜ける音が聞こえて、紫苑は足を止めた。
具体的に言えば、紫苑の下腹部の辺りから。
「いや、あの、これはだな……」
紫苑は慌てて言いわけを考えるが、募るのは冷や汗と焦りばかりでこの状況を覆せるような逆転の発想は浮かぶ気配もない。
そんな紫苑を、綾音はじっと見つめ、
「やっぱり、何か食べてからにしようね」
毒気の無い笑みで言うので、紫苑は頷くしかなかった。
ぐうの音も出ないってこういうことなんだな、と紫苑は妙に上手いことを考えていた。
「さっきは危なかったけど、どうやら気づかれなかったようだな」
黒のニット帽にグラサンマスクという、どう見ても『私を捕まえてください』と激しく自己主張しているようにしか見えない男が、マスクの間からストローを口に含んだ。
「そーねー。藤乃くんって凄く感が鋭いから気をつけないと……。ねぇ、どうでもいいけどその格好どうにかならないの?」
対面に座って退屈そうにストローを回す女――真由美は呆れと軽蔑と憐憫を込めた半眼で男を見据えていた。
「おいおい、何を言ってるんだい真由美さん、世間では尾行する時はこのスタイルがスタンダードなんだぜ?」
やれやれ、と怪しい男――言うまでもなく克幸だが――は過剰に肩を竦めて見せる。
ふぅ、と真由美は諦観したような吐息を肺から絞り出した。
「もう、ツッコミも疲れるわよ。いいから早くそれ取りなさい。あんただけが捕まるならザッツオーライだけど一緒にいたら関係ありませんじゃすまないんだから、私が」
「ちぇっ、しゃーねーなー」
不承不承ながら、克幸は八十年代的犯罪者セットを脱着した。
「……っと、冗談はこれくらいにして、だ。真由美はさっきのアレをどう見る?」
「アレって、さっき綾音ちゃんがペットショップで泣き出しちゃったやつ?」
真由美が聞き返すと、克幸は真剣な面持ちで頷く。
そう、この二人、ペットショップにいる辺りから紫苑達を尾行していたのだった。
「こりゃあ終に破局かな?……とも思ったんだが、どうもそれは違うっぽいし」
「あの二人がそんな簡単にケンカ別れとかするわけないでしょ? それこそ爺さん婆さんになっても縁側で仲良くお茶飲んでそうよ」
「そーだよなぁ」
落胆したように語気を下げ、克幸は頭の後ろで腕を組んで天を仰ぐ。
真由美は克幸の行動には興味を示さず、十数メートル前方の紫苑達を見つめていた。
紫苑が甲斐甲斐しく綾音を世話していると、胸が痛む。
それで綾音が幸せそうに微笑むと、こちらにまで幸せが伝染してくる。
正直言って、かなり複雑な心境だった。
しばらくの間天井を見つめていた克幸だったが、真由美の微妙な表情に気づいて視線をテーブルに落とした。
ストローを笛のように加え、所在なさげに頬を掻きながら、
「まぁ、アレだな。わからないことはとりあえず置いといて、俺たちにできるのは紫苑の毒牙が綾音ちゃんに及ばないように見守るこった」
おどけるような口調で言うと、真由美は紫苑達から克幸に意識を戻した。
「俺達って、一緒にしないでほしいわね。あんたと違って、私は崇高な理念の下に生きているのよ。わかった?」
真由美は気分を紛らわすように、わざと冗談めかせて語調を強くした。
「わかりましたよー」
すると、真由美は鷹揚に頷いて、
「よろしい。そうと決まれば、そこでナポリタンとオレンジジュース。それからダブルチーズバーガーセット。後はあんたの好きな物買ってきなさい。藤乃くんたちもお昼みたいだから、私たちも食べましょう」
げっ、と克幸が呻いた。
「確かに奢るとは言ったが……おまえ、本当によく食うなぁ。太るぞ?」
「うるさいわね、黙って買って来なさいよ」
「はいはい」
「はいは一回で良いの」
「ほんともぉ、紫苑がいないとこうなんだからなぁ」
克幸はまたアメリカ人並の過剰(オーバー)動作(アクション)で嘆息しながら、渋々財布を持って立ちあがった。
「あーあ……」
アンニュイな溜息を吐いて、真由美はひんやりとした机に頬を当てつつ、視界の端で紫苑を捉えていた。
(私……なんでこんなことしてるのかなぁ……)
胸でひとりごちた問いに、答えたのは複雑な感情だったが、その中から一つの答えを絞り出すのはどうも難しいようだった。
6
「う〜ん、これもいいなぁ〜。あ! こっちもいいなぁ〜。どうしようかなぁ〜」
綾音がハンガーに掛かった大量の洋服を見て、唸り、悩んでいる。
騒ぎ始めた腹の虫達をたこ焼きや焼きそばなどの戦略兵器で鎮圧した後、綾音の希望で洋服を見ることになったのだが、「一着くらいなら買ってやってもいいかな」という軽はずみな発言を紫苑がしたところ、こんな状況になってしまっている。
こんな時、彼女は驚きの優柔不断っぷりを発揮する。
「うぅ〜、どうしようかなぁ〜」
綾音はさっきから似たような台詞を二十回以上繰り返している。
十八回目までは紫苑も数えていたのだが、さすがに馬鹿らしくなって途中でやめた。
「ねぇ紫苑、どっちがいいかなぁ?」
そう言って、綾音は二つのロングコートを差し出した。マフラーがなくなったので帰りの防寒対策を考えてのことだろう。抜けているわりに妙なところで頭が回る。
「いや、どっちって言われてもな……」
差し出されたのは赤と白の色違いのロングコートだったが、基本的に洋服に無頓着の紫苑にはどちらがいいかなどわかるはずもない。それに、綾音ならどちらを選んだとしてもそれなりに着こなしてしまう気がする。
「綾音の好きな方にすればいいんじゃないのか?」
「だーめ。紫苑に選んでほしいの」
綾音は断固として譲らない。
困り果てた紫苑はとりあえず、綾音のイメージに合いそうな白を選択した。
赤は、本能的に忌避したい気持ちが大きかった。
「こっちの方がいいんじゃないか?」
「本当? じゃあ一度着てみるね!」
そう言い残して、綾音は試着室の中に消えて行った。
コートなら羽織るだけなんだから入らなくてもいいんじゃ……と、紫苑は思ったが、すでに中に入って行ったのでわざわざ止めるのも面倒だった。
「お待たせ〜」
数分して、試着室の中から綾音の声が聞こえた。コートを羽織るのになぜそんなに時間がかかったのか、別に覗いていたわけではないが、付き合いの長い紫苑にとっては想像に難くなかった。
大方、途中で居眠りしたとか、ボタンを何度もかけ違えたとかそんなところだろう。
「じゃじゃ〜ん!」
自らの口で盛大な演出をしながら、綾音はバンとカーテンを開いた。
「……」
それは普通の、ごく一般的なロングコートだ。それ以上でも以下でもない。
だが、紫苑にはそれが何か神聖な法衣のように見えた。
「どうかな、どうかなぁ?」
綾音がくるりと体を回すと、動きに合わせて長い裾が翻る。まるでそれが天使のように見えて、紫苑には綾音の周りに白い羽が舞っているような錯覚を覚えていた。
「……いや、うん、似合ってる。いいんじゃないか」
とはいえ、そんなことをさらっと口に出して言えるほど気障な男ではない。当たり障りのない褒め言葉を並べておいた。
「かわいい? かわいい?」
単語を覚えたての野性児のように、綾音は何度も繰り返しながら紫苑に詰め寄る。
「か、かわいいんじゃないか?」
「ホント!?」
「あ、ああ、かわいいよ」
紫苑は周りに人がいないことを確認しながら、小さくぼそりと囁いた。
(ホント、周りに人がいなくて助かった……)
喜び跳ねる綾音を見ながら、紫苑は深々と安堵した。
しかし、それを陰からのぞく人影が二つ。
言うまでもなく、克幸と真由美である。
「うわ〜、あんな紫苑初めてみたよ。これだけでも今日来た甲斐があったかもな」
克幸は興奮していて、ピッチャーがマウンドでするように訳もなく右肩を回している。
真由美も見たいとは思っているはずなのだが、何故かあまり乗り気ではなく、克幸と背中合わせで正反対の方向を向いている。
「お、動いた! おい真由美! 追っかけるぞ!」
「わっ、ちょ、ちょっと! 引っ張らないでよ!」
「見失うだろ? ほら、早く来るの」
真由美の声は無視して、克幸は真由美の腕を引いて走り出した。
その後も、二人は紫苑と綾音を追いかけ続けたが、未だに楽しげにしている克幸をよそに、真奈美は変化の無い状況に飽きを覚えていた。
「デートって言うか、なんか親子の休日みたいなのよね……」
確かに、綾音の言うことは一理ある。骨董品展で綾音が倒した壺を紫苑が受け止めたり、迷子になった綾音を必死に探していたら、マッサージチェアで眠りこけていてそれを叱ったり、など。紫苑の役割は完全に保護者としての物だった。
「ん、まぁなぁ。だが、だからと言って安心している場合ではないぞ。いつ奴がオオカミの牙をむき出しにするかわかったもんじゃないからな」
物影の克幸は鼻息も荒く、視線も綾音と紫苑に釘づけである。こちらも恋敵というよりは娘によってくる悪い虫を監視する父親のような感じだ。
「はいはい、そうですかそうですか」
真由美は投げ遣りに返事をして、右手をひらひらと振った。
(やっぱり、綾音ちゃん私の言ったことする気はないのかしら……)
本音で言うと、自分で提案しておきながら、自分の提案が決行されなければいいと思っている。同時に、決行されたとき二人がどんな表情を見せるか見たい自分がいる。
苦い二律背反が胸の奥で閊えて、妙に脱力したい気持ちになった。
「おっ、また動いた。おい真由美、行くぞ」
「はいはーい、今行くわよ」
どうせ乗り掛かった船である。今日一日くらいはこの変態に付き合ってやろう、と真由美は最後まで見届ける覚悟を決めた。
「む、どうやら上に向かうらしいな……。しかも人気のない階段。これは怪しい……」
「上…?」
真由美はハッとして、思い立ったように腕時計に目をやる。
時刻は五時半。ちょうど今は一番夕日が映える時間帯である。
(じゃあ、綾音ちゃん本当に……)
「おい真由美、どうした…?」
克幸は突然雰囲気の変わった真由美に怪訝にな顔を向けるが、突然むんずと腕を掴まれ一驚して身を震わせた。
「行くわよ! さぁ、早くしないと見失っちゃう!」
「えっ、おいちょっと! 何急にやる気出してええええええ!!」
克幸が意見を言う暇もなく、真由美は叫号する克幸を引きずって走り出した。
7
「早く! 早くしないと間に合わないの!」
真由美と似たような台詞を口にしたのは綾音だった。
「なっ、おいちょっとなんなんだよ!?」
克幸と似たような声を上げたのも紫苑である。
紫苑はいつもとは反対の立場、つまり、綾音に誘(いざな)われる形で階段を駆け上がっている。
綾音は紫苑の腕を掴み、息も絶え絶えに右足と左足を交互に繰り出す。彼女にしては奇跡的に、その足取りは見ていても安心できる整ったものだった。
あまりにも楽しい時間だったので忘れそうになっていた。と、いうよりついさっきまで忘れていたのだが、彼女には当初から目的があったのだ。
早くしないと間に合わない。綾音は焦燥に駆られて、鼓動が跳ね上がるのも構わず、飛ぶようにして階段を駆け上がっていく。紫苑が付いて行くのに問題はないが、速度は普段の彩音とは雲泥の差だ。
紫苑は何が何だかわからないまま、ただ転ばないように足を動かす。
一分ほどそうしていただろうか、
「はぁ…ここだよ!」
上りの階段が途切れたところで、綾音は苦しげな呼吸の合間に叫んだ。
「目、つむって、こっち、来て」
「ん、あ、ああ」
訝り半分疑問半分といった心境だったが、いつになく綾音の目が真剣だったので、紫苑は黙ってそれに従った。
瞼を下ろし、視界が暗闇に閉ざされたまま、綾音の腕が導くままに歩く。
数歩足を進めると、暗闇だった瞼の裏にぽっかりと、山吹色の光が満ちていく。
「はい、ここだよ。目、あけて」
目を閉じても感じる光に躊躇いを感じている瞼を、紫苑はゆっくりと開いていった。
視界の先には、目にも鮮やかな光彩が溢れんばかりに広がっていた。
「すげぇ……」
紫苑が口にできたのは、簡潔な感嘆符だけだった。
それほどまでに、その光景は壮麗だった。
雛壇のように構成された山と町並みを、燃えるような夕日が赤く染め上げている。血のような赤とは違い、温かみを帯びた柔婉な朱色が世界を包み込んでいる。
「えへへ、すごいでしょ」
隣から照れたような声が聞こえて、紫苑は景色に奪われていた目を綾音に向けた。
「ここの展望フロアはね、もともとはレストランにするつもりだったらしいんだけど、お金がなくて建造できなかったんだって。エレベータが繋がってないからあまり人がこないの。だから、ここは隠れためいしょなんだ、っておとーさんに連れてきてもらったの。今は有名になっちゃったから、けっこう人が多いんだけど」
言われて、紫苑は周りを見渡した。
なるほど、まばらではあるが確かに人が見受けられる。買い物する場所からは離れた場所にあるし、エレベータやエスカレーターもつながっていないためだろう。元から予算がぎりぎりだった折に不況が重なり、やむなくこの形で開業したのだろう。
一瞬、視界の端に見覚えのある顔が見えた気がしたが、すぐに物陰に消えたので、他人のそら似だろうと紫苑は綾音に視線を戻した。
「今度はこれを、紫苑に見せてあげたいなって、思って」
そう言って、綾音は恥ずかしげに紫苑から地面に視点を変えた。夕日に照らされているせいか、紫苑には赤みを帯びた頬がいつもよりさらに赤く見えた。
「そっか、ありがとな……」
感謝の意を込め、紫苑が優しく撫でると綾音は擽(くすぐ)ったそうに眼を細めて顔を綻ばせた。
それから、二人は並んで、弧を描いた大きな窓が切り取った世界を眺める。
次第に町に明かりが灯り、夕闇に包まれ始めると、百万ドルとはいかないまでも、なかなかに華美な夜景が眼下に広がった。
「それでね、紫苑」
綾音が話し始めたので、紫苑は再び綾音に目を向ける。明かりがないので、夜景を楽しむことはできるが、綾音の顔は輪郭こそ見てとれるもののいま一つはっきりしない。翠玉色の瞳だけが、暗闇の中で静かな光を放っている。
「紫苑にはふだんからお世話になってるし、この前もプレゼントをもらったから、その、私からもプレゼントあげようと思って、考えたりしました」
「別にいいのに。今日もこんな綺麗なとこ案内してもらったし」
「だーめーなーのー。もう決めちゃった。もう一回だけ目瞑って。ちょっとしゃがんで」
まぁ、せっかく綾音がなにかをくれるというんだし、と紫苑は無下に断るわけにもいかず、あの時自分がしたようにプレゼントを渡すのだろうと思い、綾音と目線が合う程度まで腰を屈めて瞳を閉じた。
ごくりと、綾音が息を呑む音が聞こえてから、数泊の間をおいて。
唐突に、今まで感じたことのない柔らかな感触が唇に触れた。
「……!」
驚いて紫苑が目を開けると、月明かりのもと艶やかに映し出された綾音の、ぞっとするほど綺麗な顔が目の前にあり、薄くしめやかな唇が自分に押し付けられている。
紫苑はあまりの衝撃に総毛立ち、行き場のない両手を虚空にわななかせる。意識していないのに、全神経が唇に集中していく。驚くほど暖かで、やわらかく、心地よい。なのに、心臓は落ち着くどころか奮起して盛大に血液を送り出している。
何が起こったのか、紫苑は理解できているようで理解できていない。頭がパンクしそうになり、顔は火が出るのではないかと思えるほど熱くなった。
数秒後、ゆっくりと綾音の顔が離れ、永遠にも思える長い時間は終わった。
紫苑はただ、呆けたようにあんぐりと口を開けて月下の美貌を見つめている。
対して綾音は、いつもと変わらない笑みを浮かべて、悪戯っぽく首を傾げた。
「どう、紫苑、嬉しかった?」
おそらく、それは紫苑の生涯で聞かれたくない質問の十指に名を連ねる内容だろう。
「いや、どうっておまえ、その……」
そんな無邪気な顔で微笑まれても、なんと答えればいいのか、それにしても何故突然そんなことをしたのか、考えが脳内で渦巻いて紫苑は困惑する。
「実はね、紫苑に何をプレゼントしたらいいか真由美ちゃんに聞いたの。そしたらね、こうしたら男の子は皆喜ぶっていうから、やってみたんだけど、なんだかちょっと緊張しちゃったな」
えへへ、と僅かに頬を染めて綾音が微笑む。
「石田が、どうりでいきなりこんな……」
思わず唇に向かいそうになる視線を抑え、紫苑は夜景に視線を転じた。
相変わらず、綾音が紫苑の返答を待って期待の眼差しを横顔に降り注がせている。
紫苑はその無垢な顔を直視できず、明後日の方角に視線を泳がして頬を掻き、
「その……ありが、とう。嬉しかった」
言ってしまってから、何を言ってるんだと激しく自己嫌悪した。まさしく穴があったら入りたいという心境だ。
「えへへ、どういたしまして」
何をしていても、紫苑は綾音の行動力には敵わないのだった。
(本当に……しちゃった)
真由美は壁に背を預け、不規則な鼓動を確かめる様に胸に手をあてた。
『そしたら、藤乃くん、すごく喜んでくれると思うわよ?』
確かに、真由美はそう言った。自らの意思で、自らの口から、笑顔で言った。
あの時の言葉は間違いではなかった。今でもそう断言できる。
なのに、何故なのだろう、この息苦しさは。
足に力が入らなくなり、真由美はその場にうずくまって膝を抱えた。
嬉しいのに、悲しい。幸せなのに、辛い。それぞれ相対する感情がせめぎ合って、まるで自分の中に二人の人間がいる様な気分にさせる。
「どうして、なんだろう……」
誰に問いかけたわけではない。ただ、虚空の中に質問を投げ出しただけだ。
「……ま、本当はわかってた事なんだよな。お前も、な」
しかし、誰かがそれを拾い、答えに変えて真由美に投げ返した。
真由美はふっと、泣き出しそうな視線を上方に伸ばす。
ようやく暗闇に慣れた目が克幸を捉える。彼は笑って、だがいつもの軽薄さは微塵もない真剣な横顔を真由美に向けていた。
「お隣り失礼。よっこらせ……っと」
口調にはいつもの色を残しつつ、克幸は真由美の隣、かろうじて肩が触れない程度の距離に腰を降ろした。人差し指と中指を口にあて、煙草を吸うようにゆっくりと息を吐き出す動作を繰り返すだけで、克幸はなにも言おうとしない。
「……なんか、意外ね」
「ん〜、何が?」
克幸の態度は飄々としているが、雰囲気はいつになく落ち着いて哀愁すら感じさせる。
真由美は不思議に思いながら、
「いや、なんか怒り狂って藤乃くんに飛びかかるのかな?……とか思って」
「ん〜……まぁ、確かに普段の俺ならそうするべきなんだろうけど。さすがに今の空気に水を差すほど俺も無粋じゃないよ」
「そう、そうなんだ」
克幸は慌てて飛びかかるどころかむしろ冷静を保っていて、真由美は拍子抜けして気のない言葉を返してしまった。
それからは互いに声を出さず、沈黙する。
広い展望フロアには小さな囁き声が僅かに聞こえるだけで、耳朶に静寂の音がはっきりと聞き取れるほどに静かだ。少し距離のある位置にいる紫苑達の声は、耳を澄ませても聞こえそうにない。
「お前は優しんだよ」
そんな中、真由美に聞こえたのは克幸の言葉だった。
「私が……優しい?」
小さく、克幸が頷く。
「人なんて、それが合理的でないとわかっていても、自分の欲にはなかなか逆らえないもんだ。特に、恋愛ってのはそれでよく泥沼の関係になる。お前にも、その気になれば綾音ちゃんと紫苑の仲を邪魔して困らせることはできた。特に綾音ちゃんは素直すぎるくらい素直だから、近しいお前なら簡単にできたはずだ。それをせずに二人の幸せを考えて行動したってのは、お前が優しいってことだよ」
克幸の言葉は暖かな包容力を持っていて、その言葉一つ一つで真由美は胸のわだかまりが溶けて行くような気がした。
「違うわ。私は単に、綾音ちゃんには幸せになってほしいって思っただけ。だって、すごくきれいに笑うから、見ているだけで幸せになるもの。それに、綾音ちゃんと藤乃くんの仲は絶対に切り離せないって、親しくなれば誰にだってわかるわ。それは単に諦めているだけで、私が優しいってことじゃない」
克幸は首を振る。
「優しさなんて誰でも持ってる。多かれ少なかれな。人はそれに気付かずに暮らしている。そして優しい人間ほど自分の優しさに対して無自覚だ。他人にかける優しさが当人には当然のものだから。例えば、今のお前がそう。俺から見れば二人のために自分の気持ちを押し殺して立派に行動しているのに、お前は何か理由をつけて自分の優しさを否定する。真に優しい人ってのは、優しさがわからなくなるものさ」
「そんなことは……むぐっ」
言葉を繋げようとする真由美の口を、克幸が右の掌で塞いだ。
「おまえだって、今俺が言っていることを本当はわかってたんだよ。紫苑は口が悪いわりに優しい奴だからな。まぁ、表現の仕方が不器用だし、綾音ちゃんのことになると他が見えなくなるきらいがあるけどな。綾音ちゃんは見た目同様、天使みたいな優しさだ。ちょっとポケポケだけどな。そうでなきゃ、あんな人を幸せにする笑顔はできないし、誰からも愛されて、あんなに甘やかされるわけないだろ? けど、この二人がそれを自覚しているかどうか、そばにいるお前にはわかるんじゃないか?」
すべてを言い切り、真由美に反論する意思がないことを見て取ると、克幸は右手を放して真由美を解放した。
「ま、俺も綾音ちゃんが好きだってのは本当だけど、実のところ紫苑の邪魔するのは楽しいからやってるだけだ。俺はお前ほど優しいわけじゃないからな。けど、綾音ちゃんがどんな時に一番綺麗に笑うのかはわかってるつもりだよ」
「…………………」
(……そっか、そういうことなんだ)
克幸に言われて、真由美はようやくもどかしさを払拭することができた。
自分がどうして綾音を助けるのか。どうして綾音と紫苑を応援するのか。
しかし、それがわかったからと言って、すぐ全てに区切りを付けられるわけではない。
「ま、納得できないなら仕方ない。もうちっとよく考えてみろよ。それでも揺らぎが断ち切れないときは、この色男を頼ればいいさ」
克幸は真由美の心境を読み取ったように言葉を続けると、暗闇に白い歯を光らせてぐっと親指を立てた。
「ぷっ、ふふっ……」
おどけた克幸の姿に、真由美は吹き出さずにいられなかった。
(……案外、それも悪くないかもね)
本心は口には出さず、
「あんたって、本当にロマンチストだったのね」
揶揄するような口調で言いながら、眦には温厚さを滲ませて細めた。
「前にも言ったろ? 身も心もいい男だって」
「はいはい、言ってなさいよ」
紫苑達に気付かれないように、二人は声を抑えて必死に笑いを堪えていた。
そんな時。
展望フロアに、携帯電話の着信音が鳴り響いた。
「え、おとーさん?……うん。……うん。……わかった。今から行くね」
短い通話を終え、綾音は功刀から持たされている携帯電話をポケットに収めた。
「なんかね、おとーさんが、ひとでが足りなくて、手伝ってほしいことがあるんだって」
「……ん、そうか、それなら行くか」
もう少し二人で夜景を眺めていたいという気持ちはあったが、紫苑も綾音との時間は十分に楽しんだ。それに、綾音が即答してしまった今、遅れたり断わりの電話を入れたりすれば明らかに不審に思われる。
紫苑達は階段を降り、展望フロアを後にした。
その後ろには、至当の如く二つの人影が続いていた。
8
「ここ……だけど、本当に入っていいんだよな?」
『物資搬入口 関係者以外立ち入り禁止』と書かれた小さな鉄扉(てっぴ)の前で立ち止まる。
「大丈夫だよ。おとーさんがここだって言ってたんだから」
躊躇する紫苑をよそに、彩音はなんらためらいなく鉄扉を開けると堂々とした足取り(のつもりであろう不安定な足取り)で踏み入った。
綾音の行動力に感心しつつ、紫苑は綾音の後に続きながら、しかしもう少し落着きを持ってほしいと一瞬思い、即座にそれは無理だろうと否定して嘆息した。
搬入口は店内とは比べて装飾は少なく、長い廊下に申し訳程度に明かりが設けられおり、あとは等間隔に並べられた扉と段ボールや荷台があるだけの簡素のものだった。
それも当たり前だろう。ここは最初から客が訪れるように設計されていない。
「……」
紫苑は先を行く綾音に追随しつつ、違和感を覚えて訝しげに眉を顰めた。
(なぜ、誰ともすれ違わない…?)
確かに、入口に入ってからもう十分近く歩き続けているが、従業員の一人たりとも出会っていない。店内に比べて人が少ないのはまだ納得できるが、一人たりとも出会さないというのは明らかな異常だった。
違和感を増幅させるにつれ、ついさっきまで瑣末だった疑問が比例して膨れ上がる。
普通、いくら人手が足りないからと言って、身内とはいえ部外者をここに入れるだろうか。それなら他の従業員を呼べば済むことであるし、もとより、人手が足りないという状況自体が通常はありえない。
そして、従業員に出くわさないこの状況。これではまるで部外者である紫苑達を通すために人為的に人払いが施されているようではないか。
人を疑うことをどこかに置き忘れてきた綾音はなんら疑問をもたず迷いのない足取りで先を急ぐが、歩を進めるうちに、紫苑には何かあるようにしか思えなくなっていた。
だが、呼び出したのは間違いなく功刀だ。綾音が養父の声を聞き間違えるはずがない。
(だとしたら、何故俺たちをここへ呼び出した……?)
綾音のこともあり、疑心暗鬼になっている紫苑は不安に足を止めた。
前を歩いていた綾音も、紫苑の足音が途絶えていることに気づき、振り返って不思議そうに首をかしげた。
「どうしたの? おとーさん待ってるよ?」
「ん、ああ……」
もしかしたら、考えすぎかもしれない。綾音に心配をかけるのも得策ではないし、紫苑は不安で険しくなっていた表情を無理矢理緩めた。
「そうだな、早く帰れれば一緒に晩飯とか行けるかも知れないし」
「それいいね! 後でおとーさんに言ってみよ!」
綾音は嬉しそうに手を羽ばたくようにして動かすと、バレーのように軸足を据えてくるりと回転(バランスを崩しつつもなんとか成功)し、兵隊の行進のように大きく手と足を動かして歩きだした。
(気のせいだ。どうせ、何もない……)
功刀が何か奸計を企てるとはとても思えない。何か考えがあるのだろう、と、漠然とした不安を押し殺し、紫苑は綾音の後に続いた。
9
綾音の足に合わせて数分ほど歩き続けると、大量の在庫が置かれた倉庫に出た。
敷地のかなりの面積が割り振られており、天井は見上げるほど高く、堆く積まれた荷物よりもさらに高い。一見しただけで、桁違いに広大な空間であることがうかがえる。
通常、アウトレットのような大規模商業施設ではここまで巨大なバックヤードを設けないが、店舗の集合体ではなくほとんどの店舗を一つの資本で運営しているため、効率を上げるために大規模仕入れを行い一括管理している。
そのため、平常なら人で溢れているはずなのだ。
だが、ここも通路と同様に、人の姿は影も形もない。
(やはり、何かがおかしい……)
不安はもはや漠然としたものではなく、はっきりと輪郭を示して胸中を埋め尽くす。
「おとーさ〜ん。来たよ〜!」
紫苑の不安をよそに、綾音は手をメガホンのようにして口に当て、目一杯溜めた空気を声に変えて一気に吐き出した。
だだっ広い空間に綾音の声が反響し、木霊する。
「やぁ、待っていたよ」
それに答えたのは優しげな功刀の声だった。
「少し来るのが遅かったみたいだね」
功刀は勤め先のペットショップのエプロンを身に付け、柔和な笑みを浮かべて積まれた商品の蔭からひょっこりと姿を現した。
「ごめんね、ちょっとここからは遠くにいたの」
「ああ、構わないよ。それより手伝いに来てくれてありがとう。綾音、紫苑くん……?」
紫苑に目を向けたところで、功刀は剣呑な紫苑の眼に気づき首をかしげた。
「おや、どうしたんだい?」
功刀はあくまで温厚な表情を見せていたが、紫苑はもはやそれを信用することができなかった。
「……どういうつもりですか」
ぴくりと、一瞬功刀の額が引き攣ったが、「どういうつもりって……どういうことだい?」と、声音はやわらかなままで自然に答える。
「とぼけないでください」
その全ての動作が、紫苑には不審に思えて仕方なかった。
「ちょ、ちょっと、どうしちゃったの?」
紫苑の急激な変化に戸惑い、綾音はあたふたと意味もなく手足を彷徨わせた。
「そうだよ紫苑くん、呼び出したことを怒っているなら謝るから。綾音も怖がっている」
功刀は綾音と同じように動揺していた、ように見せているとしか紫苑には思えない。
そのわざとらしさが、紫苑はもう我慢ならなかった。
「いい加減にしてください。これはなんですか? どうして俺たちをここに呼び出したんですか? それに、何故人が一人もいないんですか? ここに来るまで、俺たちは誰とも出会わなかった。ここに来ても、普段なら多くの人間が働いているはずなのに、おじさん以外誰もいない。毎日ここに仕事で来ているあなたなら、それが異常な事であることがわかるだろ」
功刀は何も答えず、まだ慌てるフリを続けている。
紫苑はさらに声を荒らげてまくし立てた。
「それにおじさんの務めるペットショップはこの施設で唯一例外的に店長が出資して独立営業しているはずだ。あの店はいつも業者が直接店に納品している。なのにあんたは何故ここにいて! 従業員でもない俺たちを関係者以外立ち入り禁止のここに連れてきている!? いい加減に何が目的か言ってくれよ! 俺はあんたを信用していたい! けどなんだこれは!? 何で俺たちが来るまで気配を消して隠れていたんだ!?」
「し……おん…?」
綾音に驚きに目を見開いて、荒く息を付きながら功刀を睨めあげる紫苑を見つめて硬直している。
「ふふっ、ふふふふふ……」
倉庫内に響いた不気味な笑い声に、紫苑の頭から怒りが消え、綾音は驚きを超えて呆然として、声の発生源に視線を合わせた。
声の発生源――功刀は笑顔の仮面の下に歪んだ顔容を覗かせ、寒気すら覚える奇怪な笑い声に肩を震わせている。
「おとー……さん…なの?」
理解もできずに目紛るしく変化する状況に当惑し、瞬きすらできないままエメラルドグリーンの瞳を埃っぽい空気にさらしている。
「まったく、君のことを過小評価していたようだ」
誰に向けての言葉なのか、推し量る間もなく、功刀は動きだしていた。
「くそっ…!」
紫苑が反応するよりも早く、功刀は熟練された動きで綾音の首に手をまわして引きよせると、頭部に黒光りする金属の先端を突き付けた。
「学校での成績は良くないと聞いていたが……どうしたものか、なかなか鋭い洞察力じゃないか。しかし、あと少しのところで詰めが甘いな」
紫苑は功刀を取り押さえるべく、一歩目を踏み出そうとしたが、
「おっと、動くなよ」
それを制するために、功刀は綾音に押し当てた金属――拳銃を一際強く押し付けた。
綾音の肩がびくりと跳ね、唇が極寒の地にいるようにせわしなく震える。
「ちなみに気付いているか? 君の背後に一人。左右に二人ずつ。荷物の上に一人――」
聞きながら、紫苑は首の動きは最小限にとどめ、眼球だけで周囲の状況を把握する。男の言ったとおり、そこには人影があった。作業服やスーツ。姿は各々違っていたが、皆一様に紫苑に銃口を向けていた。
(最悪の状況かよ……)
歯噛みして拳を震わせる紫苑に、功刀は愉快そうに口の端を歪めて見せた。
「その通り。一瞬で判断できる観察力と取り乱さない精神力は立派だが、君ではこの状況を覆すことはできない。君はしばらく、そこでおとなしくしていろ」
功刀はそう吐き捨てると、綾音を乱暴に引き倒して地面に転がした。
「きゃあっ!」
体をしたたかに打ちつけ、綾音が甲高い悲鳴を上げる。紫苑は反射的に駆け寄ろうとしたが、足元の床に突き刺さった弾丸に行動を抑止された。
「動くなと言っただろ?」
功刀は紫苑に背中を向けたままそう言うと、倒れたままの綾音に銃口を向けた。
「さぁ、もう芝居は止めろ。記憶は取り戻しているんだろう? ノエル」
「…おとー…さん…?」
綾音はぶつけた際に痛めた肩を抱え、信じられないと言った目で養父を見つめている。
「今さら白を切ろうとしても無駄だ。力を取り戻したことはすでに調べがついている。そして記憶も先ほどの件ですでに確認済みだ」
「何の……こと? わかんないよ。おとーさん……」
理不尽な状況に涙し、認めたくない現実を振り払うように、綾音が大きく頭をふる。
その様子に、功刀は苛立ったように眉をひそめ、人差し指に力を込めた。
パンと、かんしゃく玉のようにやけにあっさりとした破裂音が響き、
「いつまで下手な芝居を続けるつもりだ? さぁ、早く決めろ。以前のように従って働くのか。友人共々ここで死ぬかだ」
綾音の脹(ふくら)脛(はぎ)から鮮血の華が咲き、白のコートを赤く染めた。
「ああっぁぁぁ……!」
掠れたような悲鳴を上げ、激痛が苛む脹脛を抱え綾音は小さな体を縮めて蹲った。
一瞬、紫苑は視界が全て赤く染まったような錯覚を覚えた。
数秒後、紫苑は爪が食い込むほど強く拳を握りしめ、激昂した。
「なんでだ、なんでだよ……。あんたは綾音の親じゃないのかよ!? 俺は身寄りのない綾音を引き取ったあんたを尊敬していたのに、何でこんなことするんだよ!? あんなに優しくしていたじゃないか!? なんで急にこんな事するんだよっ!?」
「……おとなしくしろと言っただろ」
功刀は舌打ちすると綾音に向けていた銃口を紫苑に向け、躊躇いなく脛(すね)を打ち抜いた。
「俺がこいつの親だって?」
激痛にくずおれた紫苑を睥睨し、功刀は嘲るように笑った。
「誰がこんな化け物を。こいつは組織のための道具だよ。絶対的な力を持った殺人鬼だ。今までも両手では数え切れない人間を殺してきた。お前だって見ただろう。こいつの絶対的な力を。俺は上からの命令でこいつを監視してきただけだ。記憶が戻らずに力だけを取り戻した時扱いやすいように優しい父親面をしてきただけの話。しかし、それも単なる徒労に終わったがな」
「てめぇ……!」
「まぁ、貴様が綾音にとって重要な存在になったのは予定外の収穫だった。これで、こいつを脅迫するのが容易になった」
腹の底からどす黒い殺意が湧きあがり、紫苑の全身を支配していく。
しかし、それとは対照的に、脳内では的確に状況を判断していた。今動けば紫苑も綾音も危険になるだけだ。今動くのは無謀でしかない。
紫苑は絶えず男達の行動を注視しつつ、視界の端で綾音を覗き見た。
あまりに悲愴な光景に、紫苑は怒りも忘れて目を覆いたくなった。
「おとー…さん……。うそ、だよね…? うそ、だよね…?」
翠玉色の瞳から血涙を滂沱し、願いのような問いを何度も繰り返して、綾音は養父にすがるような視線を送り続けていた。祈るように両手を合わせ、ただ、ひたすらに。
しかし、その願いも、冷たい言葉と鉛玉の前にあっけなく踏み躙られた。
「黙れ化け物。俺は道具が暴発しないか観察していただけにすぎない」
言いながら、功刀はまた綾音の脹脛を銃弾で穿った。
「……ぁ…ぅ……」
綾音は声にならない悲鳴を漏らし、そのまま地面に倒れ伏した。
貫かれた足よりも、内側から破裂しそうな胸の痛みが激しく疼く。
すべてを踏みにじられた、絶望。
「さぁ選べ。ここで二人死ぬのか。それとも、組織に従ってまた殺人鬼になるか」
鼓動が一際強く跳ねあがる。全身の血液が沸騰するような、圧倒的な怒りを感じる。
綾音は足の痛みなど気にせず、ゆらりと立ちあがり、柳のように揺れた。
そうだ、こうして自分は大切なものを奪われていった。
「交渉決裂か? なら、仕方がないな」
功刀が軽く手を上げると、男達は紫苑に向けて一斉に発砲した。
紫苑の体から全てを奪い去るために、銃弾が穴を穿つ。
そうだ、あの時もこうして、自分の大切な人間を殺された。
私の全てを、蹂躙して壊していった。
許さない。
どこまでも醜く、汚らわしい、人。
そうだ、すべて消えてしまえばいい。
怒りと絶望の混合物が、凄まじい濁流となって綾音を押し流していく。
「無駄な一年だった。消えろ、化け物」
功刀が綾音を殺すべく、引き金を引いた。
直後。
透き通るような翠玉色の瞳が淀み、白のコートを染め上げている赤よりも鮮やかな真紅が、綾音の瞳を支配した。
「そう、消えればいい、人なんて」
「……なに…?」
確実に綾音の脳天を貫いたはずの弾丸は、目標の数センチ手前で滞空していた。
「くそっ…殺せ!」
功刀が叫び、銃撃を再開すると、他の男達も綾音に向けて一斉射撃を行った。
しかし、男達の放った弾丸は見えない網に絡めとられるように、綾音の目前で静止して一発も届くことは無かった。
綾音はただ立ち尽くし、冷厳に男達を見据え、圧倒的な存在感で男達を戦慄させた。
「ば、化け物……」
男の中の一人が恐怖に戦き、銃を取り落とした。
(くっ……、まさかこれほどまでとは……)
功刀――タカノリ・ライリーも綾音の力のことは人づてに聞いたことはあった。
『あいつは化け物だ。死にたくなければ、あいつの怒りは買わない事だ。あれはもう、人がどうにかできるような存在じゃない』
綾音の『仕事』に同行したことのある同僚が、いつかこんな話をしていた。あの時ライリーは大袈裟だと鼻で笑って歯牙にも掛けなかった。
しかし、今ならばわかる。目の前にいるのが、正真正銘の化け物であることが。
「そんなにこの鉛の玉が好き?」
首を傾げる。ただそれだけの動作で、男達の背筋に強烈な悪寒が走った。
「なら、存分に味わうといい」
綾音が天に向けてまっすぐに手を伸ばすと、数十の銃弾全てがふわりと揺れ、そして。
弾丸は光速に迫る速さで嵐の如く乱れ飛び、一つの弾丸に付き十回以上男達を貫いて、悲鳴を上げる暇もなく男達を単なる小肉片へと変えると、摩擦に耐えられず消滅した。
ライリーが振り返ると、そこに味方の姿は無く、すべてを赤に変えた景色だけが現実として広がっていた。
「……そんな、馬鹿な……」
ライリーは愕然とした。
そして判断した。ここにいれば確実に殺される。
「うああああああああ!!」
早く逃げろという本能に逆らわず、ライリーは悲鳴を上げて駆けだした。
「逃げられるとでも思っている?」
綾音が右手を前に伸ばすと、貨物が壮絶な音を立てて崩れライリーの行く手を塞いだ。
ライリーはすぐさま振り返り、逃げ道を探すが、すでに袋の鼠だった。
「消えればいい。人なんて、すべて」
綾音は凄絶な冷笑を浮かべ、ゆっくりと、一歩ずつライリーに近づいてくる。
「来るな……くるなあああああ!!」
ライリーは恐怖に錯乱し、狂気に突き動かされてひたすらに引き金を引いた。
しかし、それらは一発も綾音に触れることなく、カチンという虚しい金属音を立てて地面に落下して沈黙する。
「愚かな生き物。醜悪で、どうしようもないほど汚い」
自分より遥かに背が低い綾音の作り出す絶対的な恐怖に、すでに弾が切れているのにも気づかず、ライリーは夢中で人差し指を引き絞った。
一歩ずつ、泰然とした足取りで、綾音はライリーとの距離を詰める。
数秒立たずして、綾音とライリーは肉薄した。
真紅の悪魔が、ゆっくりとした所作で手を伸ばす。
「まずはひとつ」
綾音の手が恐怖で震えるライリーの右肩に触れると、いとも簡単にライリーの右腕が弾け飛ぶ。
「これでふたつ」
ライリーが叫ぶ間もなく、綾音は残った左腕も同じ要領で吹き飛ばした。
「こんな風に、人は私の大切なものを奪って行った。あの時も……」
綾音は身長差のあるライリーを見上げ、その瞳を真紅の瞳で縫いとめて釘づけにする。
ライリーは声すら上げられなかった。
真紅の瞳の奥に映る壮絶な怒りと絶望。
それらは瞬く間にライリーを飲み込んで、腕の吹き飛んだ痛みすら感じられなかった。
しばらくライリーの瞳を覗き込んでいた綾音は、不意に体を放し、彼に背を向けた。
「さあ、そろそろ終わりを始めましょうか、同士が、来てくれるはず」
綾音は両腕を大きく広げ、空を呼ぶように天を仰ぐ。
「さよなら」
抑揚の無い声で一言、呟いた。
薄れ行く意識とぼやけた視界の中で、紫苑はその光景を確かに見ていた。
血にまみれた綾音を中心にして、眩い光が放射上に広がっていく。
何が起こっているのか理解できず、ただ世界が白くなっていく。
そしてそこから、何も分からなくなった。
10
灰色を多分に含んだ白煙が、視界を覆い尽くして巻き上がる。
仰向けに倒れた紫苑は、白濁とした意識の中で濛々と渦巻く粉塵を見つめていた。
(生きて……いるのか?)
虚ろな視界に右手をかざすと、白の世界にぽっかりと赤く汚れた五指が震えている。
(俺は……撃たれた……よな…?)
おぼろげな記憶を、泳ぐように手探りで辿っていく。
間違いなく、紫苑は全身を銃で貫かれたはずだった。体を動かせば血がべちゃべちゃと気味の悪い音を立てるし、血液を失ったからであろう、体が上手く動かない。
しかし、痛みはまるで感じなかった。
失血のせいで体が麻痺しているのとは明らかに違う。たどたどしい手つきで体をなぞってみても、洋服に穴が開いているだけ。大量の血が流れているというのに、肝心の銃創が一つも見当たらないのだ。
(そうだ、綾音は……)
幸いなことに体は動く。考えるのは後回しにして、紫苑は立ち上がる。
大量の出血のせいで視界も足も覚束ないが、とにかく紫苑は綾音を求めて歩き出した。
辺りには大量の鉄骨や瓦礫が積み重なっていて、一見しただけで凄まじい惨状であることが窺えたが、今の紫苑にとってそれは単なる道を塞ぐ障害物でしかない。
「くそっ……どこにいる…」
平時ならなんてことのない悪路だが、体のままならない紫苑にはかなり堪える。
数分かけて一つの山を乗り越えると、白くぼやけた景色の先に、静かに空を見上げて立ち尽くす綾音の姿があった。
「綾音……」
買ったばかりの白いロングコートは赤に染まり、顔も瞳と同じ真紅に染められている。
綾音の周囲三メートルほどには瓦礫の一つすら無く、真っ平らな地形がちょうど新円を描いている。中心に立つ綾音は、まるで世界から隔絶されているように見えた。
(……無事、なのか…)
しかし、何よりも綾音が無事であることに、紫苑は深く安堵を覚えた。
不意に、空を見上げていた綾音の真紅の瞳が紫苑に向けられた。
「し……ぉ…ん?」
遠くで怒る悲鳴や煩雑な音に紛れて良く聞き取れなかったが、紫苑は自分の名前が呼ばれたような気がした。
「……し、お、ん…?」
綾音の瞳が揺れ、真紅の中に翠玉色がうっすらと浮かび上がった。
しかし、それは真紅を征服することは無く、閉じた瞼によって光を遮られる。
それと同時に綾音の体は重力に従い力なく後方に倒れた。
「綾音…!」
紫苑は反射的に、綾音を受け止めるべく駆けだしていた。
だが、綾音を受け止めたのは紫苑ではなく、前触れなく現れた別の存在だった。
「ようやく目覚めたんだね、僕のノエル。迎えに来たよ」
その場に現れた青年―ゾーンは綾音を抱きとめると、意識の無い綾音に微笑みかけた。
「ゾーン……」
紫苑が憎々しげに名を呟くと、ゾーンは嘲るような笑みを紫苑に向けた。
「やぁ、これはシオン、ご機嫌いかがかな?」
「……答えろ。これは全部お前がやったことなのか?」
紫苑がそう切り出すと、ゾーンは呆れたように首を振った。
「やれやれ、挨拶すらまともにできないのかい?」
「答えろって言ってんだよ! 全部お前が仕組んだ事なのかっ!?」
激昂する紫苑に対し、ゾーンは笑みを消して鋭く瞳を細めた。
「そうだよ。白猫の手配。愚かな男達の扇動。そしてタカノリ・ライリーへの教唆……。あの出来事に酷似した現象を再現するのは本当に苦労した。だが、すべてがうまくいった。あの時の出来事がほとんど如実に再現された。これで、ノエルの願いが叶えられる」
「あの時の出来事…? ノエルの、願い……?」
ゾーンの言葉どれをとっても、紫苑には推し量ることすらできなかった。ただ唖然と眼を見開き、乾いた唇を震わせる。
「何も知らないシオン、本当に滑稽だね」
ゾーンの細めた眼から威圧が消え、逆に見下したような憐憫が表出した。
「ノエルの願いはこの世から全ての人を消し去ることさ。どうしようもなく愚かで醜悪な生き物をね。僕はノエルの願いを叶えるために行動してきた。そして、僕が協力すればノエルの願いは叶えられると、星の記憶は教えてくれた。預言者たる僕が、裁定者を『終焉の鍵』へと導く……」
紫苑は何も言わなかった。何も答えられなかった。
ただ黙って、ゾーンの言葉を聞いているしかなかった。
「紫苑、君にノエルの苦しみがわかるのかい? 全てを忘れて、綾音と名乗る偽物との偽りの時間を甘受し、ノエルの過去を知ることもしない。呆れるね。僕は君とは違う。ノエルのことだけを考えて、ノエルのためだけを思ってここまでやって来た」
「俺は……」
(俺は、綾音の何かを知ろうとしたか…? 何も知らず、ただ綾音を利用して、綾音を幸せにするって理由をつけて、自分の幸せな時間が欲しかっただけじゃないのか…?)
言い返す言葉すら無く、紫苑は力なく項垂れる。
完全に呆れかえった様子で、ゾーンは鼻で笑うと紫苑から視線を外した。
「ノエルは数日後に目覚める。その時が人の終わりだ。最後の日まで、せいぜい努力して生きるといい。それがかつての友人からのせめてもの手向けだよ」
紫苑に背を向け、ゾーンは綾音を抱いたまま白煙の向こうへ溶ける様に消えて行った。
ゾーンの去った後、彼の立っていた位置に、小さな石が僅かな光を放っていた。
「綾音……」
残された紫苑は、亡者のように手をだらりと下げ、交互に足を投げ出して前へと進む。
光る石の前までやってくると、ばたりと膝から崩れおち、神にひれ伏すような形で頭を地面に当てると、光る石――綾音にプレゼントした翡翠のラリエットを握りしめた。
「綾音ぇ……」
紫苑が名前を呼んでも、それに答えてくれる笑顔はもういない。
一粒。一粒。涙が溢れ、乾いた頬を伝って地面に落ち、しみになって消える。
何もわからないまま奪われ、絶望に打ちひしがれ、紫苑は地に伏して泣き崩れた。
慟哭は誰に届くこともなく、やがて消えて行く意識とともに白煙の中に消えた。
11
「ごめんね、もうここにはいられないの」
悲しげに翠玉色の瞳を滲ませて、綾音が言う。
(待てよ。どういうことなんだ?)
声を掛けようとしても、近づけようと足を動かしても、体は反応を示さない。
「愚かな人間は、すべて消さなければならない」
翠玉色が真紅に呑みこまれる。
(どうしてだよ? なんでこんなことになったんだよ?)
「さようなら」
背を向けて歩く綾音の姿が、どんどん小さく遠くなっていく。
(待ってくれ! 待ってくれよ!)
深淵の闇へと、綾音の姿が同化していく。
(行かないでくれ! 行かないでくれ! 行かないでくれ!)
喉を振り絞っても掠れ声一つ出ない。
闇に消える寸前、綾音は振り返って言った。
「ごめんね、紫苑」
最後に見えた綾音は、翠玉色の瞳一杯に涙を湛えていた。
「綾音ぇぇぇぇぇぇ!」
飛び起きた視線の先で、看護婦が驚いたように眼を円くして花瓶を抱えていた。
「あ、え……?」
紫苑は状況が理解できず、物音を聞いた犬のように眼をきょろきょろと彷徨わせた。
白衣の天使。真っ白なシーツ、壁紙、天井。鼻につく薬品の臭い。
「……病院?」
では、今までのことは夢だったのか。
夢だとすれば、どこからが夢だったのか。
「院長! 藤乃さんが、藤乃さんが意識を取り戻しました!」
緩慢な思考を続ける紫苑をよそに、看護婦は花瓶が倒れたことも厭わずに、ナースコールに向かって必死に呼びかけていた。
紫苑はそちらには意識を向けず、雨の降り続く窓の外を見つめていた。
ほどなくしてやって来た医師の診察を受けている間も、問診に適当に相槌を打ちながら、紫苑は振り続ける雨を見つめていた。
健康状態に問題は無いと判断したのか、医師は席を立ち、看護婦もそれに続いて紫苑の病室を後にした。
「そうか、俺は……」
医師の話を聞いた紫苑は空覚えながら、自分がどうなったのかを思い出す事が出来た。
自分の怪我のことはどうでもいい。
ただ、紫苑に重くのしかかったのは、綾音がいなくなってしまったという事実だった。
紫苑の精神的な支柱だった綾音。
突然現れた男に奪われ、紫苑はまた、綾音に会う前と同じ空虚な場所に投げ出された。
蚊帳の外に置かれ、何一つわからないまま、紫苑は拠り所を失ってしまった。
あの笑顔に心癒されることは二度とない。
「ちょっと、困ります! 意識が回復したばかりなんですよ!? もう少し後に…」
「はいはい、別に拷問するわけじゃないんですから。少し話を聞くだけですよ」
扉の向こうからそんな声が聞こえていたが、今の紫苑にはどうでもいいことだった。
看護婦を押しのけて中に入って来た男は、スーツの上にくたびれたコートを着た四十台ほどの中年の男だった。
「やぁ、元気かい? 藤乃紫苑くん」
男は紫苑に許可を取ることなく、無遠慮に脇にあったパイプ椅子に陣取った。
紫苑は答えない。答える気もない。
男は胸元に手を入れ、ここが禁煙であったことを思い出したのか、何も取らずに手を抜いた。代わりに、対して長くもない足を組む。
「実はね、三日前倉庫で起こった爆発事故について、君に聞きたいことがあるんだよ」
「話すことは無い。帰ってくれ」
にべもなく、紫苑は男の言葉を叩き落とした。
しかし、男は引き下がらない。
「単刀直入に言いましてね、私はあれが事故なんかでは無いと思っているんですよ。倉庫の中には可燃物こそあっても爆発物はリストに載っていませんでした。瞬間的に爆発する要素はほとんど無いんですよ。そして、明らかに銃殺された従業員と思しき死体がいくつか、倉庫の瓦礫の下で見つかっている」
それはおそらく、功刀達が自分達を倉庫に通すためにやったことだろうと紫苑は思うが、そんなことを話してやる義理などまるでない。
「知らない。帰ってくれ」
「しかもですねぇ、それとは別に、惨殺された死体が発見されましてね? 機関銃でも乱射されたんでしょうか? 体がミンチのようにバラバラになっていました」
紫苑の脳裏に、嵐のように飛び交う銃弾の光景が過る。
そして、それを振るうのは真紅の瞳。
「もしかして、あなた何か知っているんじゃ……」
「知らないって言ってんだろうが。出てけよ。話なんて何もない。早く出て行け」
紫苑が拳で壁を叩きつけると、強烈な音を立てて壁に僅かに罅が走った。
「やれやれ、わかりました。また後日来させていただくとしましょう」
「二度と来るな。話すことは何もない」
男は臆した様子は見せなかったが、これ以上問い詰めても仕方がないと判断したのか、人がよさそうに見せる胸糞悪い笑顔で会釈し、そのまま病室を後にした。
「どうせ、俺もお前も、もうすぐ消えるんだ」
誰にも聞こえないような小さな声で、紫苑は静かに呟いた。
綾音のいなくなった世界に、紫苑はもう未練など無かった。
ゾーンの言ったとおり、綾音が本当にノエルという存在で、そのノエルが人の消滅を願うというのなら、それでもいい。人間などくだらない生き物の集まりだ。自分勝手で、人がどうなろうと知ったことではない。あの時のチンピラも、綾音を騙してきた功刀も。
(そして、俺自身も……)
結局、自分は幸せが欲しいだけだった。綾音のことだけを考えているつもりで、本当は自分のことばかりを考えていた。
最低だ、と、紫苑は胸中で吐き捨てた。
「もう、全て消えてしまえばいい……」
何もしたくない、無気力に襲われて、紫苑は呟いた。
ちょうどその時、コンコンと扉がノックされ、紫苑は反射的に扉に振り返った。
「あぁ、よかった。目、覚めたのね」
普段と変わらない溌剌とした様子で現れたのは真由美だった。
「ここ、座ってもいい?」
真由美は問いかけたが、憔悴した紫苑は何も答えない。真由美はそれを承諾と解釈したのか、備え付けのパイプ椅子に腰を降ろした。
「藤乃くんのご両親連絡つかないから、私が代わりに付き添わせてもらったの。もう、心配したんだよ? 三日も意識が戻らなかったんだから」
「……別に。俺の命なんてどうでもいいんだ」
紫苑は呟き、内心で『どうせもうすぐ人は消えてなくなるんだから』と考えていた。
「そんなこと言わないの。あの爆発の中で生きていたなんて奇跡的よ? それに、そんなこと言ったら綾音ちゃんが悲しむわ」
真由美は少し怒ったように眉を顰める。
紫苑は何かを悟ったような遠い目つきで、ゆっくりと首を振った。
「違うさ。綾音はそんなこと望んじゃいない。俺たちがみんな消えればいいんだよ。俺も、お前も、この世界の人がみんな……」
言ってから、紫苑は窓の外に視線を移す。
真由美はその様子を見て、大きく嘆息した。
「実はね、私もあの日ラ・フェスタにいたんだよ」
その発言に、紫苑は少なからず驚いたが、すく窓の外に視線を戻した。
「それで、悪いと思ったんだけど、藤乃くんたちの後を尾けてた。だから、見たの。あの倉庫での事も……」
バツが悪くなったのか、悲しくなったのか、真由美は顔を伏せて言葉を途切れさせた。
互いに言葉を発さず、雨音だけが部屋の空気を振動させる。
先に口を開いたのは紫苑だった。
「なら、石田も聞いただろう? 綾音の言葉を、決意を。俺は、もうどうでもいい。綾音が望むのなら、人は全部消えればいい。どうせ俺の空虚な気持ちは、誰も埋めてくれないんだからな。それなら、俺は綾音が望むように消えてしまいたい……」
そしてまた、長い沈黙。
「ねぇ」
今度口を開いたのは真由美だった。
「ちょっと外に出ない。病院の中庭の所に、屋根のあるところがあるの。少しはそとの空気も吸ってもらいたいし」
紫苑は断る気力もなく、真由美が持ってきた上着を肩にかけると、真由美に従って病室を後にした。
「雨、止まないね」
ベンチに腰かけた真由美は、降りしきる雨を眺めながら呟いた。
隣に座った紫苑は答えず、無言で項垂れている。真由美から見える横顔は、三日間何も食べていないのと憔悴とでかなりやつれて見えた。
「紅葉も、これで全部散っちゃうのかな?」
真由美はまた問いかけたが、紫苑は何も答えない。
ふと、真由美は思いついたように、だが限りなくいつもと同じ口調で言った。
「私、藤乃くんのこと好きだったんだ」
「……なっ…!」
それまで反応の一つも見せなかった紫苑が、驚いたように顔を上げた。
「あはは、やっと反応してくれたね」
それが取るに足らないことであるように、真由美は笑う。肩をベンチに投げ出して、四角錐型の屋根の中心部分を見上げた。
「ホントはね、言うつもりなんてなかったんだ。でも綾音ちゃんがやってくるずっと、ずーっと前から、藤乃くんのことが好きだった」
紫苑は何と言っていいのか分からず、真由美の横顔を見つめている。
「中学生の頃かな。私おせっかいだから、クラスでいじめられている子を助けたりしてたのね。正義感とかじゃないの。ただ、黙って見ていられなかっただけ」
相槌すら待たず、独白するように、真由美は語り続ける。
「そしたら、いつの間にか私がいじめられるようになってた。おかしいよね、自分が助けたと思った子が、今度は私をいじめてるの。おかしいよね」
学校などのいじめではよくあることだ、自分が標的になりたくないから、心の奥で加担したくないと思っていては混ざらないわけにはいかない。その中で、真由美は孤立していったのだろう。
「すごく怖くて、苦しくて、私、死んじゃおうかなとか、本気で考えたりしてた」
真由美はふと顔を上げた。
「けどね、覚えてるかな? あの日、ちょうど藤乃くんが転校してきた日。私、人気のない所に連れて行かれて、男子達に襲われそうになった。藤乃くんがみんなやっつけて助けてくれたのよ」
真由美は普段は見せない女の顔で紫苑を見つめるが、紫苑にとってその頃の時間は空虚なもので、朧げにしか記憶にないが、確かにそんなことがあったような気もする。
「あの時、『あ、この人かっこいいなぁ』って心から思った。見た目だけじゃなくって、なんていうのかな? よくわからないけど、私のこと助けてくれたのに、「別に。単なる気まぐれだ」とかいって、他人なんてどうでもいいって感じなのに、本当はすごく優しい、って、私はそう思った、今でも、それは変わってない」
「違う」
今まで口を開かなかった紫苑が小さく呟き、
「違うんだ……」
掠れるような声で囁いた。
「あの時の俺は訳の分からない苛立ちでやっただけだ。今だって、俺は綾音を利用して自分が幸せになりたかっただけなんだ。人のことを考えてなんかいない。優しくもない」
と、紫苑は自分に言い聞かせるように言った。
真由美は呆れたように溜息をついて、ピシッと人差し指を立てた。
「これは誰かさんの受け売りなんだけどね」
一拍置いて、
「『優しさなんて誰でも持ってる。多かれ少なかれな。人はそれに気付かずに暮らしている。そして優しい人間ほど自分の優しさに無自覚だ。それは他人にかける優しさが当人には当然のものだから。真に優しい人間ってのは優しさが分からなくなるもんだ』てね」
言われて、紫苑は初めて気が付いた。
電車に乗れば、自分だって体力がないくせに、綾音は老人がいればどんなに荷物が多くても席を譲る。あの時だって、何故ユキを拾ったのかと尋ねれば自分が飼いたかったからだと答えるだろうが、他人から見ればそれは優しさに他ならない。
他にも、綾音は確かに優しかったが、いつもそれを自覚していなかった。それは綾音にとってそれが当り前の事だからだ。
「あの時から、私はずっと優しい藤乃くんのことが好きだった。だから本当は、綾音ちゃんが藤乃くんと一緒にいるのが凄く羨ましかった。あの隣が私だったらいいのにって、何度も思った。でもね、私は今の今まで好きだって言うつもりは無かった。ううん、それどころか、綾音ちゃんの応援までしてた。何でだと思う?」
紫苑は真由美の言っていることが分からず、首を傾げる真由美を見つめていたが、突然、真由美がにこりと笑った。
「それはね、綾音ちゃんと一緒にいるとき、紫苑くんがとても幸せそうだからだよ」
言われて、紫苑は驚き、妙に気恥かしい気持ちになった。
「昔の藤乃くんは優しかったけど、誰も寄せ付けない一匹狼の感じだったのに、綾音ちゃんが来た途端に凄く雰囲気が柔らかくなって、私や克幸と話をするようになったよね」
そう言えば、紫苑はいつの間にか人と馴染むようになっていた。確かに、綾音に出会う前の自分は満たされない空虚な世界にいて、漠然とした日常を過ごしていた。綾音が介在することによって生まれた現実感は非常に嬉しかったのを覚えている。
「それだけじゃないよ? あと一つ、何だと思う?」
真由美はまるで紫苑が答えられないのを知っているように、答えを言いたくて仕方がないと言った様子で、答えを告げた。
「それはね、紫苑くんと一緒にいる時に、一番綾音ちゃんが綺麗に笑うからよ」
そう言って、真由美は曇り空では打ち消せないほど眩しい笑顔を浮かべた。
「おっちょこちょいだし、ちょっと鈍いけど、私は綾音ちゃんが大好き。だって、綾音ちゃんの笑顔を見てたら凄く幸せになるんだもん。それはきっと藤乃くんが一番感じていることだと思うけどね」
紫苑は綾音の笑顔を思い浮かべた。転んで起き上がる時。食事するとき。大好きな猫と戯れるとき。綾音はいつも笑っていて、それを見つめている紫苑も確かに幸せだった。
「藤乃くんが最高の顔をしている時は、綾音ちゃんが最高の笑顔になる。綾音ちゃんが最高の笑顔なら、藤乃くんは一番いい表情をする。だから私は、『ああ、この二人幸せになってほしいな』って思えたから、今まで自分の気持ちを我慢できたんだ。克幸だって、心の奥ではそれがわかってるのよ。だから、綾音ちゃんがいなくなったのを問い詰めたりせず、藤乃くんがどうするかを待ってる……」
そうか、そうだったんだ。
紫苑は理解した。
世界はこんなに優しさに溢れている。人の一面は汚いばかりではない。人は自分でも気付かないうちに、人の幸せをこんなに願っている。人の幸せを自分の幸せのように喜ぶことができる。それを優しさと呼ばずして、何と呼ぶというのだろう。
確かに、人の全てを肯定することはできない。人は生物である以上自分勝手な一面もある。しかし、それを人間の全てだと考えるのは早計だ。綾音のことを幸せにしたいと思ったのが例え自分のためだったとしても、それは綾音にとってすれば間違いなく優しさなのだから。
「私には、昨日何が起こったとか、綾音ちゃんや紫苑くんがどうしてきたのかとか、何もわからないけど」
真由美の眼尻に、滴が滲む。
「藤乃くんは、綾音ちゃんを悲しそうな顔のまま放っておいていいの? いつもの幸せそうな笑顔じゃなくて、あんなに辛そうな顔させたままでいいの? 私、そんなの耐えられない。あんな悲しそうな綾音ちゃんも、今の苦しそうな紫苑くんも、見たくないよ」
ギュッと、悲しみに耐えるように、真由美はジーンズのすそを握り締めた。
(いいはずがない。そうだ、いいはずがないじゃないか)
たとえ綾音が本心から人の根絶を望んでいたとしても、願いを語る綾音が悲しい顔をするなら、笑顔が失われているのなら、紫苑には納得できない。何があったとしても、綾音には笑顔でいてほしい。否、いなければならない。
最初に会ったとき決めたのだ、綾音の笑顔を守り続けると。
「藤乃くんが綾音ちゃんじゃないとダメなように、綾音ちゃんは藤乃くんじゃなきゃダメなのよ。私が言いたいのは、そう言うこと」
真由美は立ち上がって、涙が溢れるのを隠すように、降り注ぐ雨の下に歩み出た。
そして、紫苑に振り返り、
「それじゃあね、藤乃くん。好きだってこと、言えて良かった。後は、藤乃くんが決めるのよ。後悔だけは、しないでね」
最後に一言そう告げると、真由美は雨の中を駆けだして行った。
真由美の姿が見えなくなるまで、紫苑はその背中を見送り続けていた。
世界を灰色に染める雨。
「ほら、入りんしゃい」
克幸はいつも見せない柔和な笑みで、ずぶ濡れの真由美に傘を差し出して雨を遮った。
真由美は歩を緩めず、そのまま背の高い克幸の胸に顔を埋めた。
「私、頑張った……よね?」
「はいはい、頑張ったよ。御苦労さん。後は紫苑と、綾音ちゃんを信じようや、な?」
克幸が軽く背中を撫でると、ケホッと、真由美が可愛らしく咳をした。
そして、傘を持っていない腕で、真由美を抱き寄せる。
「おやおや、傘さしてんのに、胸の辺りは大荒れの様相です」
「……ばか」
普段通りのおどけた口調で克幸が言うと、真由美も克幸の背中に手を回し、こつんと軽く小突いた。
「……けど、あんたの軽薄なとこ、今はなんだか素敵に見えるから不思議だわ」
「これはこれは光栄にございます。お姫様」
傘の下。二つの影。
克幸は真由美を優しく抱きしめた。
紫苑は一人、項垂れていてた。
世界はこんなに優しさに溢れているのに。綾音を思ってくれる人がいるのに。
伝えたいことがあるのに、伝えるべきひとはここにはいない。
「どうすれば、どうすればいいんだ……」
もしかしたら、その言葉は綾音に届かないかも知れない。
それでも、伝えなければ絶対に後悔する。
綾音の過去を知りたい。そうでなければ、きっと自分の思いは届かない。
綾音の全てを理解して、その上で気持ちを伝えなければ、言葉に重みは生まれない。
(だが、どうすればいい……?)
もどかしく、ただ項垂れる。
今の紫苑には、綾音の過去を知るどころか、現在の居場所すら知ることができない。
(どうすることもできないのか…? 俺には何にもできないのか……?)
空虚さと沸き起こる焦慮が双蛇のように絡み合い、紫苑の胸を締め付ける。
「あ……や……ね…」
息の詰まる苦しさに、紫苑は胸を押さえた。
胸元には看護婦が掛けてくれたのか、翡翠のラリエットが下げられている。
藁にもすがる思いで、紫苑は翡翠を手にとって眼前に掲げていた。
緑の燐光を伴って揺れる、武骨な形状の翡翠。
いつも安らぎを与えてくれた、淡い緑光。
ただ今は、いくら翡翠を見つめても、心の空虚さを満たすことは無い。
もはや、翡翠は失われたカケラの代用品にはならなかった。
「綾音……」
見つめていても、脳裏に綾音の笑顔がスライドのように映し出されるだけ。
『知りたいのなら、教えましょう。預言者のあなたに』
唐突に、頭の中に声が響いた。
それに伴い、翡翠の纏っていた燐光が小恒星のように激しく輝き始める。
「何だ……?」
『裁定者の力の残滓が、あなたの存在の可能性を星の記憶へ昇華させる』
膨張する光に包まれ、紫苑の意識は『存在』に邂逅した。
12
いつの間にか、紫苑は見知らぬ空間に立っていた。
足が地面に触れる感触は無いが、不思議と体は安定して直立の姿勢を保っている。
「ようこそ預言者。星の記憶へ」
上下左右、見渡せる限りの空間が虹色に染まる視界の中。数メートル先に、少女の姿がぽっかりと浮かび上がっていた。
「ここは、どこ……」
問いかけようとして、紫苑は口を噤んだ。
(俺は、ここを知っている……)
既視感。デジャヴ。見覚えはないと思っていたが、確かに紫苑はここを知っていた。
「そう、あなたはここを知っている。以前にここを訪れている」
少女は端正な唇を僅かに動かし、静かだが確実に言葉を紡いだ。
「お前は……何者なんだ? ここはいったい何なんだ? どうして俺はここにいる?」
「その問い、確かに受け入れ、答えましょう」
少女は右足を一歩動かし、紫苑との距離を詰めた。
「私は何者でもない。ただ、星の記憶を司り、預言者に知恵を与える存在。この姿も、この声も言語も、あなたの認識と理解を容易くするための体裁に過ぎない」
また一歩、少女は距離を詰める。
「ここは星の記憶。星が産み落とされてからの全ての歴史が刻まれた場所。生物の記憶のような虚構ではなく、主観が入る余地の無い客観的な真実を語る場所」
さらに一歩。紫苑が手を伸ばせば触れられるほどの距離に少女が近づく。
「あなたは裁定者の力の残滓によって精神体を昇華され、この星の記憶へ辿り着いた」
少女の説明はどれも端的で、紫苑の問いに対して明確な答えを返していたが、紫苑はその言葉のどこを切り取っても推し量ることすらできなかった。否、頭の端では理解しつつあるのだが、数々の疑問によって真実を覆い隠されている。
「今、あなたは膨大な疑問に囚われて正常な思考が出来なくなっている」
少女の言葉は推測ではなく、紫苑の心境を明らかに透察していた。
「その疑問の全てに、星の記憶が答えを与えましょう。そして、多くの預言者がそうしてきたように、あなたが結論を導く」
少女はゆっくりと右手をのばし、紫苑の右手に触れる。
不思議と、紫苑は拒もうとも訝ろうとも思わなかった。
その先に明確な答えがあることは、根拠もなく直感的に理解できていたから。
そして、無量の情報が、一瞬のうちに紫苑に流れ込んだ。
『遥か古の時代。星に人と呼ばれる高度な知能を持った生命体が誕生する。星は人の行く末を憂慮した。今まで星に生まれた生物は星の法則に従って生きてきたためある程度の予測が可能だったが、人はその法則を外れ自らで思考する高度な知能を有し、善悪と言った他の生物にはない概念を有していたからだ。しかし、星には人のように善悪を判断する力は無く、人の未来に何をすべきか判断できなかった』
「う……あ……」
情報が爆発的に流入し、疑問を強制的に融解させていく。
『そこで星は人に近い存在『預言者』と『裁定者』を生みだし、それに人にとっての善悪を判断させより良い方向に人を導こうとした。名称についてはこの時代の言語に置き換えて便宜的に付けられたものである。。
預言者は人の男性を元にして作られた存在。生態は人間に酷似しているため人間との生殖は可能だが、遺伝子の如何に関わらず生まれるのは必ず男児となる。他者を自分とは違う存在であると認識できるまで成長すると預言者の力が発現し、親元の預言者は力を失うシステムになっている。自らの身を守るために常人とは一線を画した運動能力を有する。
裁定者は人の女性を元にして作られた存在。生態、システム共に預言者と同様。自らの身を守るために、生物非生物に関わらず自らの意識下に置き、その存在の持つ可能性を自由に制御することが可能。これは裁定者としての力の副産物でもある。
裁定者は預言者の導きに従い精神体を星の記憶に昇華させ、そこで過去で起きたことを知ることが可能となる。それらの情報を用い、人の感覚で良い方向を判断し導くことが預言者と裁定者の役割であった……そ……あ……』
「ぐあああっ! うぐっ……!」
不意に、流入していた情報にノイズが混じり、激痛が走った紫苑は頭を抱えて蹲った。
「やはり、純粋な預言者ではないあなたにイメージの直接投射は負荷が大きすぎる。少し時間がかかりますが、ここからは記憶媒介の一つ……言葉を用いてあなたの理解を促しましょう。時間軸は肉体と同じなので手早く進めます。翡翠に籠められていた力は僅かなものなので、時期に精神体に限界が来ます」
少女は何の感慨も見せない瞳で紫苑を見下ろしながら、感情の見せない言葉で呟いたが、頭部を抉るような激痛に耐えるのと頭に入った圧倒的な情報を整理するのとで、紫苑は少女の言葉を聞いている余裕など微塵もなかった。
しかし、悟った。今知ったことは全て真実であると、根拠など無くてもそれが理解できる。どんなに信じられなくとも、どんなに与太話のようであっても、それは疑いようのない真実であると。
紫苑はしばらくの間――紫苑の感覚では数分間――頭を抱えて蹲っていたが、痛みが和らぎ我慢できる程度に回復したので、紫苑は膝に手を添えてゆっくりと立ち上がった。
「続けましょう」
少女は起き上がった紫苑をちらりと一瞥すると、心配することもなく話を始めた。
「預言者と裁定者は代を重ねても人を導き続けた。しかし、ある時、一度も交わることの無かった預言者と裁定者が恋に落ちた。代を重ねることでより人間に近づいていた彼らはその感情に抗うことができず、彼らにとって重く辛いものだった使命を放棄し、二人で平穏な暮らしを求めて逃げ出した」
「それほど過酷なものなのか…?」
紫苑の問いに、少女は頷いて見せた。
「星の予測を大きく超え、爆発的に増殖して生息地を広げて行った人間全てを導くことは既に不可能になっていた。彼らが人の思う良い方向に導こうとしても、事態は彼らの思い通りに動かない。星の記憶は過去を網羅するが、未来は星であっても予知すらできない。そんな苦悩を抱えながら、さらに、彼らは彼らに頼りきりだった人々に非難、中傷された。もともと彼らは特殊な能力を持っているだけで人間とほとんど差は無かったので、精神的苦痛は彼らを相当苛んでいた」
直接送り込まれた情報と違い、言葉を介した伝達では全てを正確に知ることはできないが、紫苑にも彼らの苦痛はなんとなく理解できた。
「使命を放棄した彼らは山中でひっそりと暮らし始めた。彼らの子には預言者の力は残らず、裁定者の力だけが受け継がれ、いつしか彼らは自らの使命を忘れていった。これが、預言者と裁定者の歴史の要点」
少女の語った作り話のような物語が事実であることを、紫苑は確信し理解していた。今しがた知った真実と、現在の状況を符号させれば、話は一本の線になり、疑問は絞り込まれる。
「あなたが思っている通り、綾音は裁定者の末裔であり、ゾーンとあなたは預言者」
紫苑の思考を読み取り、少女は淡々と言葉を繋げて行く。
「あなたの疑問の全ては、星の記憶に触れることで解決するでしょう。しかし、それはあなたを苛むかもしれない。純粋な預言者ではないあなたでは、直接投射の負荷に耐えきれない場合もあり得る」
それでも、と少女は真意を確認するようにわざと言葉を区切り、
「あなたは全てを知る覚悟がある?」
思考を読もうとせず、紫苑に言葉を促した。
少女は静かな湖面のように無感慨な瞳の奥に真摯な光を宿らせ、紫苑に向けている。
状況下で、紫苑はふっと笑みを浮かべた。
そう、答えは最初から決まっている。
「当然だ」
紫苑にとっての綾音は、自分の命を差し出してでも守りたい大切なものだ。
どんな事があっても、紫苑は綾音を、綾音の笑顔を守っていくと決めた。
その危険がもし綾音のために必要なことなら、甘んじてそれを受けよう。
「あなたの問い、確かに受け入れ、答えましょう」
少女は鷹揚に頷くと、紫苑の頬に手を触れた。
「あなたの問いの答えは、彼女の過去に……」
13
真っ白な羽根のような粉雪が降り注ぎ、夜気に包まれ神聖さすら漂わせる静謐な森林の奥地。白銀の羽衣を纏ったような針葉樹を、煉瓦造りの家から漏れる暖炉と蝋燭の明かりが美しく照らし出していた。
「うわぁ〜、すごいすごい!」
家の中にいる少女は翠玉色の瞳を景色に負けないくらいきらきらと輝かせ、窓の外の絶景を食い入るように見つめている。
体こそ小さいが、顔立ちは現在とほとんど変わらない。その幼さを残した美貌は、間違いなく綾音のものであった。胸元には、生まれたときに母親から譲り受けた翡翠のラリエットが綾音の動きに合わせて踊っている。
(これが……、綾音の過去……)
紫苑は幼い綾音を、面影を探しつつどこか感慨深げに見つめていた。
今の紫苑は空気であり、針葉樹の一本一本であり、降り注ぐ粉雪でもある。
紫苑は全てを把握できる星という位置に立ち、綾音の生きた過去を追想していた。
彼女たちの意志まで手に取るようにわかるのは、少し申し訳ない気持ちだったが、この場合では仕方がないと紫苑は自分を納得させた。
「もうすぐご飯できるから、おとなしく椅子に座って待っているのよ。お父さんももうすぐ帰ってくると思うから」
綾音の母――名を可憐という――はスープの味見皿を口に含みながら、優しく綾音に微笑みかけた。綾音を大人っぽく成長させればそうなるであろう、翠玉色の瞳をもつ美しい女性だった。
「……は〜い」
綾音は少しだけ口を尖らしても不満を見せたが、おとなしく椅子に座った。
ここは異端の力を持つ彼女らが、人との関わりを極力排して生活していた場所。当時の綾音は十二歳で、現在から五年ほど前になる。
確かに一部の人間から迫害を受けていたのは事実のようだが、それでも彼女は幸せそうにしている。瞳にはあの時のように絶望の色は見出せない。
『今は、まだ』
少女の声が聞こえてすぐ、事態は螺旋を転がるように加速度的に変化していった。
コンコンと、軽くドアをノックする音が響く。
「お父さん帰って来た!」
外にいる父はさぞ寒かろうと思い、綾音は椅子を倒すような勢いで立ち上るとドアに駆けだして行く。
「止めなさい!」
暖かな空間の中に、可憐の険しい叱咤が響き渡った。
突如呼び止められた綾音は叱られた子犬のようにびくりと体を震わせ、
「えっ…?」
振り返り、母親の変化に少なからず戸惑いを覚えた。可憐から優しげな表情が消え、怯えとも怒りともつかない感情で目元が吊りあがっている。
「下がってなさい」
可憐は綾音を自らの後ろに下がらせると、来客を確認するためにドアに付いた小窓から外を窺い見た。
「……ふぅ」
彼女は険しかった表情を緩め、思わず安堵のため息を漏らした。
普段なら夫はノックなどせずに入ってくる上、人里離れた山奥であるここには滅多に来客がないため警戒していたのだが、窓の向こうに見えたのは間違いなく夫だった。結露で曇っていてはっきりとは見えなかったが、最愛の夫を見間違えるはずがない。
胸に手を当ててもう一度深く息をついた可憐は、ゆっくりとドアを開いて微笑みかけ、
「おかえりなさい、あな……」
最後の一言が口から放たれる寸前、外気の凍てつくような寒さに凍りついたように、彼女は驚愕の表情を浮かべたまま動かなくなった。
夫の額には円形の穴が穿たれ、そこから夥しい量の血があふれだして顔を汚している。
そしてその背後、全身黒づくめの男が動物を扱うように夫の襟首を掴んでいた。
「緑色の瞳、栗色の髪の女。特徴と一致したため目標と断定。これから捕獲に移る」
男は口元を覆ってインカムに音を拾わせると、左手を振って合図を送った。
「あなたたちはいったい……きゃぁ!」
すると、ドアがいきなり蹴破られ、目の前にいた可憐は衝撃でそのまま数メートルほど突き飛ばされた。後ろにいた綾音も巻き込まれて机の下に転がる。
呆然とする間もなく、先頭の男達と同様の黒づくめの男が流水のように雪崩込み、部屋の調度品を打ち壊しながら可憐を包囲していく。
「あなた……嘘でしょう…? そんな……こんな事が……」
しかし、可憐は男達等まるでいないかのように、最愛の夫を抱きしめて泣き崩れていた。体温はすでに失われており、氷のような冷たさが微かな希望を打ち砕く。安息をくれた優しい息遣いも心臓の音も無くなり、夫のこの世との関わりが断ち切られた事実を否応なく突き付けるのだった。
「油断はするなよ。万一の装備はしているが、できれば無傷で捕らえたい」
男達はその姿に何ら感慨を持たず、機械的な動作で陣形を固めつつあったが、可憐の視線が夫から離されることがは無かった。
(何…? 何が起こってるの…?)
目まぐるしく展開する状況の中、綾音は机の下で呆然と、むせび泣く母の背中を見つめていた。状況がまるで理解できない。何故母は泣いているのか、何故父は額から血を流し、微動だにせず床に横たわっているのか。
死が理解できないほど幼いわけではない。綾音は認めたくなかった。父の命が失われたことも、いつもあるはずだった平穏を壊した男達の事も、何一つ認めたくなかった。
男の一人が可憐のこめかみに小銃の先端を押し当てた。
「動くな。おとなしく我々とともに来てもらおう」
「……何故ですか」
可憐は銃口に臆した様子を見せず、ぐっと奥歯を噛みしめて正面にいたリーダー格と思しき男をキッと睨め上げた。
「なぜ私たちがこんな目に遭わなければならないのですか!? 私たちは何もしていない! どうして私たちを苦しめるのですか!?」
可憐は大粒の涙を流しながら、男に悲痛な叫びを投げかけた。理不尽への憤りを。不条理に対する嘆きを。
しかし、男は表情一つ変えず、冷たい視線を向けるだけだった。
「化け物に人権など無い。我々に従え。貴様の異端な力も、使い方によっては役に立つ」
「それだけの理由で夫を殺したというのですかっ!?」
可憐は義憤に声を荒らげ、怒りの溢れるまま拳で力強く地面を叩いた。
「……あっ…」
そしてそれは、現実から目を背けていた綾音を引き戻すのに十分な言葉だった。
いつも優しく、大好きだった父は死んだ。殺された。
(嫌だ……嫌だ……嫌だよ……)
綾音は頭を抱え、何度もその言葉を繰り返した。そうしていればこの現実が単なる悪夢に変わると信じているかのように。
だが、現実はどこまでも残酷に横たわり、嗜虐的な顔を覗かせる。
この現実を、他の誰かの物にしたかった。自分ではなく、他の誰かの。
「所詮おまえらは化け物だ。少しでも人の役に立ちたいと思うなら、実験に協力して立派な人間兵器にでもなれ」
「くっ……この!」
可憐は猛然と立ち上がり、男の胸倉に掴みかかったが、体格も力も熟練度も男がはるかに勝っており、可憐は瞬く間に組み伏せられた。
すると、男は勝ち誇るでもなく、怪訝そうに眉をひそめた。
「どうした? ここまで追い詰められて何故力を使わない?」
可憐は苦痛に呻き声を洩らしながら、心までは屈服せずに唇の端で笑って見せた。
「生憎ですが、私の力は随分前に失われました。もう何もすることはできません。今の私は、ただの人でしかありません。残念でしたね」
「……なに?」
怒り、というよりは難渋したように顔をしかめ、男はインカムで支持を仰いでいた。
しばらく男はイヤホンからの声に耳を傾けていたが、「了解」と返答して通信を切ると、可憐に視線を戻した。
「なら、貴様に用は無い」
「……えっ? なにをし」
可憐が返答を遮るように引かれた引き金は、可憐の脳内に銃弾を貫通させ、眼を見開いたまま一瞬にして絶命させた。
一度床にあたって跳ね返った頭が、現実感無くぐらぐらと揺れる。
赤い水溜りが円形に広がり、薄い唇にもルージュのように鮮血が伝った。
綾音は瞳を逸らしたいと願ったが、大きく見開いたままの眼は可憐を映し出したまま動かない。痛いほどに目が乾いても、瞼が下りることは無かった。
「うあっ、うあああぁぁあ……」
綾音は声とも空気とも似つかない呻き声をあげた。
嘘だと思いたかった。
しかし、いくら願っても届かない。瞳の痛さが無くなることはないし、開け放たれたドアから入り込む外気は凍えるほどに寒い。そう、すべて現実のことだ。
嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ。
何故私から奪うのだろう。何故私が失わなければならないのだろう。
違う。私じゃない。私じゃない。私じゃない。何度も繰り返す。
(そう、そう、そうなんだ。私じゃないんだ)
綾音の翠玉色の瞳が揺らいで、ぽつりと、血のような真紅が黒点のように浮かぶ。
(これは夢の中の誰かで、私のことなんかじゃ絶対ない)
真紅は徐々に瞳を飲み込み、綾音を侵食していく。
(そうだ、私はお父さんとお母さんと一緒に、仲良くご飯を食べている。私じゃない。そうだあの子だ、あの子なんだ)
そして、綾音の瞳が完全に真紅に染まり、
(私は……関係ない!)
綾音の意識は殻に閉じこもり、『あの子』と呼ばれた存在が表出した。
「うあああああああああああ!!」
獣の咆哮のような叫び声をあげた。頭上にあったテーブルを跡形もなく破砕し、周囲にいた男達を凄絶な空気の振動で壁に吹き飛ばした。
「くっ……これは……」
可憐を撃った男は烈風の煽りを受けてたたらを踏んだが、他の男より力の発生点より離れていたために吹き飛ばされずに済んだ。
「力の発現……。そうか、消えたのでは無く子に受け継がれていたか」
荒れ狂う暴風が室内を席巻する中、男はあくまで平静を崩さず、顔面に飛来する調度品の破片を腕で防ぎながら麻酔銃を構えて発砲した。
しかし、綾音の目前で暴風に絡めとられ、壁に激突した男の一人に命中し昏倒させた。
ちっ、と男は軽く舌打ちし、
「捕えろ」
間髪入れず、部下に指示を出して綾音を捉えに掛からせた。
「うああああああああああああ!!」
直後、綾音が絶叫を上げた。
パン、というやけにあっさりとした、風船が割れるような音が部屋に響く。
玉響のうちに、綾音に飛びかかった男達は小肉片に分解され、そのまま部屋の色をそっくり赤に模様替えした。
「はぁ……はぁ……」
力を使い果たしたのか、嵐のような空気の奔流は徐々に勢力を弱め、綾音が荒い息を吐いて地面に手を吐くと、完全に力の気配が消えた。
「まさか、ここまでのものとは……」
ほとんど表情が揺らがなかった男の顔に、明らかな驚愕が浮かんでいた。
目の前にいる少女は単なる少女ではない。圧倒的な力を秘めた、真紅の瞳の化生だ。
しばらく、綾音は顔を上げ、射殺すような憤りの眼差しを男に向けていたが、真紅の瞳がろになり始めると終には力付き、血の海と化した床にべっとりと顔を埋めた。
男は慎重に綾音に近づき、完全に意識を失っている事を確認すると脇に抱えた。
「目標を確保した。死傷者は七名。うち部隊所属者は五名。詳しい報告は後ほど。これより帰還する。事後処理は本部に一任した」
男は元の無表情を取り繕うと、鉄の臭いに溢れた室内から外に出る。
しばらくの間、男の足跡は白銀の雪に真っ赤な痕跡を残し続けていた。
『こうして、彼女は両親を失った。彼女の力は人間的な感情の強さが大きく関係している。この場合は……』
(怒り……)
星の記憶を介して綾音に触れていた紫苑には、綾音の心の苦しみが痛いほどにわかる。目の前で両親を理不尽に奪われた怒り。そして絶望。
(こんな、こんな悪が許されるのか……)
『私はその問いに答えられない。何が善で何が悪であるかは理解できない。これを見て何を思うかは、あなたたち人間次第』
少女の言葉はどこまでも平坦で、感情の起伏は一切なかった。
『あなたの疑問はこれで終わりではないでしょう。物語はまだ続く』
* * *
綾音が拉致されたのは、ある種の研究施設のような場所だった。
国の公認施設であるが、公開された施設ではなく、人の立ちよらない山中で秘密裏に運営され、日夜非人道的な研究が行われている。もちろん、一般にその存在が知られることは無く、右派の政府高官の一部のみがその存在を知っており、また施設内の人間に対しては厳しい秘匿義務が課せられていた。
施設では主に、行動力と思考に長け単独制圧及び潜入行動を容易とする生物兵器、つまり、人間兵器についての研究が、コスト面を無視して行われていた。このような人が聞けば馬鹿げた妄想だと笑われるような研究が何故組織的に行われるようになったのかというと、経緯は四つ。この国では遥か昔から異端の力を記した文献や伝承が残され、現代に至ってもそれを確認できる有力な証拠が取れたこと。研究に一部資産家と右派高官が興味を示したこと。研究初期段階において明らかな手ごたえがあったこと。最たる理由は、研究が成功すれば先進各国に対して戦略的に圧倒的優位に立てることだった。
施設に運ばれてすぐ、血液検査から始まり様々なデータを取るための実験や検査が数日間に渡って行われたが、その間綾音の意識が回復することは無く、検査を終えた綾音は他の実験対象者たちと同じように、収容施設に入れられることになった。
* * *
「……あ、動いたぞ」
嬉しげな声が聞こえて、瞼の向こうに見える光が暗い影に遮られて隠れた。
「当り前だろ。人なんだから」
次に聞こえた声は冷めていて、くだらない事に騒ぐ前者に呆れているようだった。
「なんだよつれないな。女の子だぞ? 僕たちとは違うかも知れないじゃん」
「そりゃあそうだろうけど、動いた位でそんなに喜ぶことか?」
「かぁ、つまらない奴だねぇ、お前はまったく……」
深々と吐き出した嘆息が、少女の頬をくすぐる。
(なんだろう……)
少女は周りにいる存在が気になり、重く閉じたまま固まってしまったような瞼を、ゆっくりと押し広げて行った。
「あ、眼が開いた! すっげー、めちゃくちゃ綺麗な翠色だぞ!」
少女が目を開けると、やかましい声が眼前の人影から響き、少女は思わず耳を塞いだ。逆光で顔はよく確認できないが、どうやら自分と比較的年の近い少年らしい。
「おい、驚いてるだろう? どいてやれよ」
「あ、ごめんごめん。そっか、そうだよな。はははは」
少年は軽快に笑いながら、綾音を覗き込んでいた顔をどけた。
久方ぶりの光が瞳孔に差し込み、あまりの眩しさに少女は眼をしばたたかせる。
徐々に光に慣れ始めると、硬くなった筋肉をほぐすように軽く体をよじる。微妙にぎこちない感触を残していたが、動かすのにはさほど問題ないようだった。
少女は最後にぐっと拳を握って動くことを確かめると、上半身を起こし、体を回転させて足をベットの横に降ろし立ちあがった。
「あ、起きた起きた! すごいな! 女の子だよ! 本で読んだ通りだ!」
「だからうるさいって」
ベッドの脇には二人の少年が立っていた。
ひとりは白髪のよく目立つ、壮気に溢れた活発な印象の少年。もう一人はどこにでもいる黒髪の、どこか冷めた目をした少年。パッと見た時の印象は対照的だったが、顔立ちは非常によく似ていた。
「ごめんごめん。本物の女の子なんて初めて見たからちょっと興奮しちゃって。あのさ、君の名前は? どこから来たの!?」
白髪の少年は興奮した様子で、訳もなく肩を上下させながら、爛々と輝かせた眼を少女に向けている。
「私は……」
少女は答えようとして、答えるべき言葉がないことに気づき、口を閉ざした。
確かに、自分には名前があったのだと思う。綾音、と言ったと思う。しかし、違う。それは私ではなく、臆病な違う人間の名前だ。私は綾音ではない。なら誰だろう? 今の私には名前がない。
「名前、無い」
少女は単語だけを並べ、端的な回答を示した。
「そっかー、やっぱりそうなんだ。ここにいる人達は皆自分の名前知らないんだよな。僕たちもそうだったし。気付いたらここにいたんだ」
白髪の少年が目で同意を求めると、黒髪の少年は肯定の意味で頷いた。
「そう……」
少年たちも少女と同じ。どこから来たのか。正確にはわからない。ただ、一人だ。
少女も一人だった。両親は死んだのだ。両親がどんな存在だったのか、どんな日々を過ごしてきたのかは覚えていない。ただ、大切だという感覚だけを覚えている。
大切な人達は死んだのだ。その事実は重く少女に圧し掛かったが、一人なのは自分だけではないと思うと、無様に取り乱して泣きわめいたりはできなかった。
(それに……)
少女は首元に手を当てる。
そこにはちゃんと、翡翠のラリエットの感触があった。母が自分にくれたもの。ここにこれがあれば、自分が母から生まれた自分という存在であることが確認できる。そう、自分は確固たる自分であると。名前はその後に付けられたものに過ぎないのだから。
「そうだ、それなら名前を作るいい方法がある。ほら、腕にナンバータグがあるだろ?」
「……これ?」
言われて、少女は白髪の少年に右手を差し出した。手首にチェーンが巻かれ、そこに数字の書かれたタグが付いている。
「そうこれ、実は逆にすると結構な確率で名前になるんだ。ほら僕なんか『NO.02』だから、こうやってひっくり返すと「ZOON」。ゾーンって名前になるんだよ」
白髪の少年――ゾーンが大手柄のように得意げに胸を張ったが、「無理矢理だけどな」と黒髪の少年が水をさしてがっくりと肩を落とさせた。
「俺は「NO.35」だから、このやり方で言うと「SEON」。だから、今はシオンという名前を使ってる」
「まぁそういうこと。だから、ちょっと君のも見せてみて」
水を吸った乾燥ひじき並に素早く復活したゾーンは、少女の右手首を掴んでナンバータグを覗き込んだ。
「えっと、「NO.37」だから……L…E…O…N……レオン、かな?」
「ダメだろ。それじゃあ男の名前だ。女の子には相応しくない」
「そうだよなぁ……」
う〜ん、とゾーンとシオンがまったく同じ所作で腕を組み、首を傾げる。
思い立ったように、ゾーンが柏手を叩いた。
「あ、そうだ! だったらこうしよう! LEONを逆さから呼んでNOEL。ノエルっていうのはどうだ!? これならぴったりだろ?」
「ああ、おまえにしてはなかなかの妙案だな」
ゾーンは「だろだろ!?」と意味もなく騒いで飛び跳ねるが、紫苑はあくまでそれを鬱陶しそうに見つめていた。
「……ノエル、いいかも知れない」
少女は口の中で何度か繰り返す。その言葉の響きが気に入った。
ノエル。ラテン語で誕生を意味するnatalisを語源とするフランス語。図らずも少女の新たな始まりを冠する名前となった。
「うっしゃ! これからよろしく! ノエル」
ゾーンはノエルの腕をがっしりと握り、両手で小さな掌を包み込んだ。
「うわぁ、柔らかいな! これが女の子か〜」
「あのなぁ、いちいちうるさい」
シオンはやはり呆れたように嘆息している。
すると、ふたりはにらみ合って口論を始めた。
「ふふっ、ふふふふ……」
ノエルはなんだか、無性にほっとしていた。
自分はひとりぼっちではない。悲しいけど、ひとりではないんだ。
そう思うと、不思議と胸の奥が陽だまりのような温かい安堵に包まれた。
「よろしくね。シオン、ゾーン」
ぎゃあぎゃあとやかましく口論する二人に、ノエルは天使の微笑みを投げかけた。
二人は綾音の笑顔が目に入ると、完熟したトマトのように両頬赤らめ、取っ組み合いの姿勢のまま石像のように固まった。
* * *
その後、ノエルは二人の少年と打ち解け、共に時間を過ごしていくようになった。
施設にはゾーンとシオンの他にも人間はいたのだが、ノエルの他には女性がおらず、残った男性の誰もが感情という概念に希薄で、まともにコミュニケーションを取ることはできなかった。
それというのも、彼らが預言者クローン体のかろうじての成功体だったからだ。
研究所を開設してすぐ、彼らは某所に保管されていた預言者の衣服から毛髪を接種しクローンを作成した。かなりの年月が経っていたため細胞核の摘出は不可能と思われていたが、奇跡的に実験は成功し、数体のクローンが作成された。しかし、彼らの寿命は短く、一年と経たない内に成功例と呼ばれたクローン体も死亡していった。
実験が失敗に終わり追い詰められた研究者達は、次の実験には問題と見られる遺伝子部分を別のDNAと交換するという極めて無謀な実験を決行した。
実験は成功を収めた。千体用意されたクローンの内三十六が死亡する事無く成長。その全てが常人を遥かに凌駕する身体能力を有していた。その中で最も能力が高く生物兵器としてのスペックが高いと判断されたのがNO.02とNO.35、つまり、ゾーンとシオンだった。強い自我を持っているため扱いは難しかったが、その能力は群を抜いていた。
『少しずつわかって来たのでしょう? あなたの疑問が』
紫苑の頭――とはいっても体は無いので感覚的なものだが――に少女の声が響く。
(…………)
紫苑はそれに答えない。
わかっている。二人の少年の容姿、それが何を示すのか。
綾音の過去とともに、紫苑は自らの過去を取り戻しつつあった。
ノエルの中の不安や悲しみが翳をひそめるほど、そこでの生活は欣快なものだった。
遊ぶものがなくても、三人は自らで遊びを生みだした。難しい文字ばかりが並ぶ本も、三人でページを捲れば喜劇に姿を変えた。味気のない食事も、三人で囲めばフルコースにも負けなかった。ゾーンがふざけて、シオンがそれを怒って、ノエルがそれを見て笑って。毎日が単調な日常だったが、毎日が充実していて、決して飽きることが無かった。
その中で、ノエルはシオンに惹かれて行った。いつも態度には示さないが、シオンはノエルにいつも優しかった。決定的だったのは、ある日の夜、皆が寝静まった後不意に悲しくなって一人で泣いていた時、何も言わずに優しく抱きしめてくれた事だ。
それ以来、ノエルはシオンをゾーンとは違う感情で意識するようになった。
ゾーンはそれに気づき、態度には示さなかったが、疎外感を覚え始めていた。
その一方で、施設の実験は完全に行き詰っていた。
預言者の身体能力だけでは局地制圧の兵器としてはまだ足りない。裁定者の力が文献や報告にあった物通りなのだとすれば絶大な戦力になる。人間兵器として完成させるためには、裁定者の力が不可欠だった。
だが、綾音の体細胞からクローン体を何度生みだしても失敗。預言者と同じ方法を試してみたが、今度はいくら培養槽で成長させても力の発現する傾向すら見られることは無かった。しかも、どれも短命でまともに生きることすらできない。
母親から受け継いだという報告があったため、本体(オリジナル)が生存しているうちはクローンにも力が受け継がれないという仮説はあったが、本体を殺してもし力が発現しなければ生きた研究サンプルを永久に失うことになる。それだけは避けねばならなかった。
四年の月日が流れ、上からの資金打ち切りも後一歩に迫った瀬戸際。
研究者達は奇跡的に、裁定者の力の源と見られる物質を発見した。
生物学的にほぼ同位と解釈していいクローン体からは検出されなかった、本体の体成分中のみに内在するホルモンに似た成分。これが彼女の力を司っていると高確率でこの成分であると判断された。
そして、施設存続を賭けた計画を始動した。
* * *
その日、施設の様子は普段とは明らかに違っていた。
同じ場所に住んでいた仲間達が、一人ずつ呼ばれ、一度も開けられたことのないドアの向こうに消えて行く。
そして誰一人、この場所に戻ってこなかった。
四十人近くいた仲間達は五人になり、ノエルは言いようのない恐怖に襲われていた。
「次、26番、来い」
どこか寂然な駆動音を立てて開いた自動ドアから、白衣の男が顔出して呼びかけると、部屋にいた少年の一人は無感動な顔を上げ歩き出す。
そしてまた一人、ドアは仲間を飲み込んだ。
「怖い……何が起こってるの…?」
ノエルはベッドの上で膝を抱えて震えていた。
もとよりここは安住の地などではない。四年という月日は綾音を精神的にも肉体的も成長させていたが、絶対的な恐怖を拭い去ることはできなかった。
「大丈夫だよノエル、心配ないよ。きっとみんな外に出られるんだ」
ノエルの右隣、シオンと二人でノエルを挟んで座っていたゾーンが、笑顔で語りかけた。しかし、不安は抑えきれないのか、その表情にはどこか無理がある。
左隣、シオンは何も言わず、じっとドアの方に視線を向けている。
ゾーンにもシオンにも、あのドアの向こうが幸福な世界でないことは十分に理解している。幼いころから数々の投薬や実験に耐えてきた経緯がある二人には、研究員の姿を見ていい思いをしたことなど一度もない。あるのはただ、痛みと苦しみと、仲間たちと自らの阿鼻叫喚だ。
「18番。来い」
また一人、未開の闇へ飲まれて消えて行く。
部屋に残ったは三人だけになった。
だだっ広い空間の隅、ベッドの上で肩を寄せ合う。いつもならたくさんの仲間達がいるはずの部屋に今はたった三人。無機質な白い壁がさらに無機質に、静かな空間はさらに静かに感じられる。
唯一外との繋がりを感じさせる空調だけが、茫漠な空間を微かに共震させるだけの、音の無いがらんどうの死んだような部屋。
何かが終わる前の静寂。ノエルにはそう思えてならなかった。
静寂を打ち破ったのは、またしても機械的な駆動音だった。
「35番。来い」
そして終に、シオンのナンバーが読み上げられた。
シオンはゾーンと顔を見合わせた後、
「……はい」
釈然としない返事を返して、ドアの方へと歩き出そうとしたシオンの袖を、ノエルが無言で掴んだ。俯いた顔は今にも不安に押し潰されそうで、翠玉色の瞳には零れる寸前まで涙が溜まっている。
「行っちゃ……いや」
この先に起こることなど、ノエルには分からない。
しかし、強い不安感を抱いて、ノエルはシオンの袖がしわになるほど強く握り締めた。
「安心しろ。ちゃんと戻ってくるから」
ノエルは袖を離さず、ふるふると首を左右に振る。放したくはない。この手を放せばきっとシオンは遠くに行ってしまう。そう思えて、ノエルは手を放せずにいた。
「早くしろ。35番」
白衣の男が苛立ったような声を上げる。実際苛立っているのだろう。実験(モル)材料(モット)が自分の言うことを素直に聞かないことに。
「心配するな。俺は必ず戻ってくる。安心して待ってろ。お前に悲しい顔は似合わない」
シオンがそっとノエルの頬に手を寄せると、ノエルはゆっくりと顔を上げた。人差し指をノエルの眼もとに当てて、瞳に湛えた滴を拭う。
「うん……」
綾音はまた腑に落ちない様子だったが、不承不承腕を降ろした。
そして今度こそ、シオンが歩き出そうとして、
「待って!」
今度は声で紫苑を呼び止めた。
ノエルはベッドから飛び降りてシオンに駆け寄ると、首から翡翠のラリエット外し、紫苑の手に握らせた。
「これ、私が母に貰った大切なものなの。だから……だから、必ずここに戻って、私にそれを返しに来て。必ず、必ずだからね……」
堪えきれずに流れた涙がノエルの手の甲に落ち、手の中に吸い込まれて消える。
「……約束する。必ずここへ戻ってくるから」
その時シオンは、初めてノエルに笑顔を見せた。
「おい、早くしろ」
「わかりました。すぐ行きます」
シオンは綾音に背を向け、研究員とともにドアの向こうに消えて行く。
無機質な音を立ててシオンとノエルが隔絶されると、ノエルは電池が切れたようにその場に脱力し、子供のように泣き叫んだ。
「大丈夫、大丈夫だから」
ゾーンは瘧のように震えるノエルの肩を抱きながら慰めていた。
「大丈夫だよね? 絶対に帰ってくるよね…?」
問いかけを何度も繰り返すノエルの瞳からは、未だに涙が流れ続けている。
「心配いらない。きっと帰ってくる。帰ってくるから……」
ノエルの泣き顔に、ゾーンは深い悲しみを覚えていた。
そして、それと同量の、親友に対しての嫉妬を覚えていた。
預言者クローンとして生み出されたゾーンは、イレギュラーであるがために本来の預言者すら持ち得なかった能力を得ていた。
ゾーンは近くにいる人間の感情を読み取ることでき、触れれば相手の記憶や思考している言葉すら情報として知覚することができた。
今、ノエルの中はシオンで埋め尽くされている。ゾーンの存在も確かにあったが、シオンに比べれば小さいものだ。
これほど綾音を大事にしているのに、誰よりもノエルの事をわかってあげられるのに、何故自分ではなくシオンなのか。自分はシオンよりもノエルのことを考えている。ノエルが望むなら命すら差し出す覚悟がある。なのに、何故自分ではなくシオンなのか。
ノエルには悲しい顔をしないでほしい。だが、自分がもしシオンの立場になったのなら、ノエルには悲しんでほしい。ゾーンは二律背反に当惑する。
「シオン……帰って来てよ。寂しいよ。……あなたがいなかったら、私は……」
ノエルは目の前にいるゾーンではなく、ここにはいない親友の名前を呼ぶ。
(何で……僕の名前を呼ばないんだ? 今目の前にいるのは僕だ。君を慰めているのは僕だ。君に触れているのは僕だ。なのに、何故あいつの名前ばかり呼ぶ? 何故、何故君の心はシオンばかりを思う? 僕はシオンよりも、ノエルの事を考えているのに……)
燻っていた嫉妬は、いつしか黒い怒りの灼熱へと変わり始める。
それに対する警告のように、けたたましいサイレンの音が鳴り響いた。
「緊急(エマージェ)事態(ンシー)。緊急事態。実験体が逃走。発見次第射殺せよ。繰り返す、実験体が逃走…」
突然の騒音に、ノエルは泣くのをやめて辺りをおろおろと見渡していた。
しかし、外部の状況が把握できる物はこの部屋に存在しない。
「ぐわあぁああぁあああ!!」
その時だった。
扉の向こうから凄まじい咆哮が響き渡ったのは。
それはこの世のものとは思えない、化け物じみたおぞましい叫びだった。
「なんだ、何が起こったんだ…?」
ゾーンはノエルを庇うように抱きかかえて、周囲の気配を感じ取る。
その間にも、確実に『何か』の足音が扉へと近づいてきていた。
「なんだ? …とても人間のものとは思えない…」
『何か』の足音は、ヌチャという泥濘を歩くような奇怪な音を立てて近づいてくる。
そして、その『何か』がドアの前で止まった。
「何……? 何なの……? 助けてよ……」
その『何か』は扉に何度も体を打ち付ける。
明確な意思を持って、『何か』はこちらを目指していた。
一撃ごとに、扉に亀裂が走る。そう長くは持ち堪えられそうもない。
「大丈夫、ノエルは僕が守る。僕は君の事が……」
ゾーンがノエルを抱きしめ、宣言と自分の思いを伝えようとし、
「……シオン…」
ノエルがここにはいない愛慕する男の名前を呟いた時。
その二つの声を掻き消すように、轟音を立ててドアが破壊された。
そこから現れたのは、まさしく異形の存在だった。
形こそ人の形をしているが、全身の皮膚は剥げ爛れ、そこかしこから血が滲み、通り過ぎた跡には轍のような血と剥がれた肉が転がっていた。
「あっ……、あっ……」
ノエルは悲鳴を上げることもできず、異形に射竦められて硬直している。
異形はゆっくりと、不完全な体を左右に揺らしなが距離を詰めて行く。
「くっ……、ノエルに近寄るな! 化け物めっ!」
ゾーンはベッドの足をへし折ると、その切っ先を異形に向けたが、異形は怯むことなく距離を詰めてくる。
「近寄るなああああ!」
綾音を守るため、ゾーンは叫号上げて異形に立ち向かった。
常人を遥かに上回る運動能力、彼は一足で数メートルの距離を詰めると、人間の眼なら残像すら残さない速さで、尖った木の先端を脳天に向けて振り下ろした。
しかし、興奮したせいで僅かに軌道がそれ、木の足は異形の肩、剥き出しの筋肉に深々と突き刺さった。
「ごああぇぐあああ……」
獣の口から、くぐもった悲鳴とともに血と肉の混ざった吐瀉物が吐き出され、清浄な空間内に異臭が広まる。
「ちっ……」
大量の飛沫を浴びながら、ゾーンはそれを一切気にせず、二撃目を与えるべく引き抜こうとするが、一撃目が深く刺さりすぎたせいで簡単には抜けない。
一度距離を取ろうと手を離したゾーンの横腹に、異形の横薙ぎの一撃が炸裂した。
「……っ!」
丸太で殴られたような衝撃が腹部を突き抜け、ゾーンは錐もみして宙を舞い、そのまま床に叩きつけられた。
「がっふ……ふぅ…あぅ……」
防御する暇もなく完璧にとらえられたため、立つことはおろか呼吸すらままならない。
異形はそれ以上追撃せず、肩にベッドの足が突き刺さったままの状態でノエルへの距離を縮めて行く。
異形が後一メートルというところまで来ると、綾音のほうに向かって手を差し出した。
「来ないで…来ないで!」
ノエルは無茶苦茶に手を振り回した。
しかし、異形はそれに怯むことなく、手を差し出してくる。
「いやぁ…いやぁぁぁ!!」
やられる…! そう思った。
しかし予想に反して、化け物の腕は綾音の顔の前で止まった。
「…うぉ……え…る…」
「……えっ…?」
ノエル、聞き取りづらかったが、異形は確かに言った。
そしてゆっくりと、差し出した手の平が開からる。
そこにはシオンに渡したはずの翡翠が、血に塗れてもまだ淡い光を灯し続けていた。
「の……え……る……」
今度はよりはっきりと、異形がノエルの名前を呼んだ。
「もしかして……シオン…?」
怯えながら、ノエルは異形に問い掛ける。
「あ……う……」
微かだが、異形は頷くような動きを見せた。
「やっぱり、シオンなんだ。どうして、どうしてこんなことに…?」
そして、しばらく二人は見つめ合う。
「そう、私のせいでこんなになったのに。私のために来てくれたんだね」
言葉は無くても、二人は通じ合っていた。それはこの四年で培われた絆か、またはノエルの力によるものなのか、いずれにしても、二人は無言で繋がっていた。
裁定者の力は存在の可能性を制御する力。その制御を損なえば、肉体はその可能性が許容する限り無軌道に変化してしまう。シオンの変化も、実験の失敗によって体細胞が変化してしまったためだった。
「あ…うぅ……」
ノエルは自分が汚れてしまうのも厭わず、優しく、それでいて力強く、異形と化したシオンを抱きしめる。
シオンの外観は異形だったが、瞳には優しい光が宿っていた。
「ありがとう」
ノエルが呟くと、触れた掌から柔らかな光が広がり、紫苑と綾音を包んだ。
光は優しく暖かな翡翠のような光は二人を抱きとめる。時間が止まったような感覚を覚えるほど、転寝(うたたね)のような充足した安息に満ちていた。
「目標発見。射殺する」
時間を動かしたのは、断続的に続く銃声だった。
そこから先、ノエルにはコマ送りの映像のようにゆっくりと、鮮明に見えていた。
黒光りする銃身から離れた感情の無い鉄片が、空気中に螺旋の後を残し、シオンの体を次々と穿っていく。横殴りの雨のように容赦なく、次々と剥き出しの肉を抉る。
「え、あ、あぁぁぁ……」
栗色の髪を染める、夥しい量の赤い液体。
四年前、あの日の記憶は微かであっても、この臭いは確かに覚えている。
自らに降りかかる帯びたたしい量の血液。
ノエルの、両親を亡くしてから彼女の、最も大切な存在だった彼の命を保つ物。
ぐらりと、視界の中のシオンが消える。
次の瞬間には、シオンはぐったりと地面に倒れ伏していた。
「処理完了。次の指示を要請する」
全身を防護服で包んだ男のくぐもった声が部屋の中に反響する。
ノエルは聞いていなかった。聞こえていなかった。
ただ呆然と、蜂の巣となった大切な存在を見つめていた。
「……了解。サンプルを射殺したのち研究所を破棄する」
男達の銃口がノエルに向けられる。
「ノエルに、ノエルに手を出すなああああああ!!」
絶叫を上げ、痛む肺と体に鞭を打ってゾーンは男達の前に立ち塞がる。
男達は機械的に、ゾーンを射殺していった。そこに感情による迷いは無い。
四年という月日をともに過ごしてきた親友の背中と、真っ白な髪が赤く染めあげられていくのを、ノエルはただ見つめていることしかできなかった。
「うぁあ、うあぁあぁあ、……」
また奪われていく。自分の大切なものが理不尽な人によって奪われていく。
そしていま、男達は自分の命も奪うべく魂の無い鉄の塊を向けている。
怒りが、絶望が、溶岩のように沸き起こり、血液に代わって全身を駆け巡る。
「……許さ、ない」
瞳が真紅に染まる。
「消えればいいんだあああああああああああああ!!」
絶叫が響き、玉響の静寂。
ノエルを中心に圧倒的な光華が膨張し、瞬く間に研究所を飲み込んだ。
途方もない瓦礫に囲まれ、ノエルはゆらりと足を踏み出した。その瞳には翠玉色の輝きはなく、血のような真紅が空虚に世界を映し出している。ノエルは歩を進めた。覚束ない足取りで、何度も瓦礫に躓き、転び、それでも止まることなくひたすら前へと進む。
どこだっていい。どこでも行けばいい。
どうせもう、私には世界にいるべき理由など無いのだから。
大切なものは、すべて奪われてしまったのだから。
生気のない虚ろな顔で、ノエルは深閑とした山の中に消えて行った。
がたりと瓦礫が動き、隙間で血塗られた白髪が揺れる。
「そうか、そう言うことだったのか……」
優に百キロ超はある瓦礫を難なく押しのけると、ゾーンは迷うことなく歩き出した。
銃創や傷はすでに消えている。今彼にあるのは、ノエルを探すという思いだけだ。
無意識のうちに行われたノエルの治癒を受けた彼は、有り余る裁定者の力の発現を受けて星の記憶に邂逅し、ノエルの過去と、預言者と裁定者の存在と意味を知った。
だが、正直に言うと自分の素性や力などどうでもい。重要なのは、自分にはノエルを支える力があり、ノエルの中でシオンが死亡したことになっていることだ。
「シオンは死んだんだよ、ノエル。だが僕は違う。君が望むなら何でもしよう」
血液が足りない体は蛇行を繰り返したが、ゾーンは足を止めない。
「そうだ、いつか読んだ本にこんな言葉があった……」
ゾーンは虚空に視線を彷徨わせ、ここにはいないノエルの顔を見ながら呟いた。
「『命をかけてきみのものになる』」
ノエルを追って進む。過去を見てきたが、ノエルの進む未来はわからない。何があってもノエルを見つけ出して、そして彼女の願いを叶えてみせる。
「だから、僕だけを見てくれ、ノエル……」
そして、彼もまた、森閑とした山の中に消えて行った。
それから数時間後、研究所後からまた一人、瓦礫の下から這い出してきた。
彼は自分が何故ここにいるのか、そもそも自分が誰であるかすら覚えていなかった。
そう言えば、シオンという名前があったような気がする。紫苑かもしれないし、詩音やしおんかも知れない。いまいち頭がはっきりとしない。
(ああ、そうだ……)
掌の中に大切なものがある。なんだかよくわかないが、とにかく大切なものだった。
少年は首に翡翠を下げると、行くあてもなく歩き出した。
また一人、闇と化した山の中に消えて行った。
* * *
『これが彼女と、もう一人の預言者と、あなたの過去。偶然が積み重なり、起こるべくして起こった必然』
やはり、紫苑は何も答えなかった。
回帰していく中で、紫苑は全ての記憶を取り戻していた。自分の生い立ちも。翡翠に抱いていた感情も。初対面の綾音に対する親近感の原因も。すべてはこの時の記憶に帰結していた。
ただ、まだだ。まだ終わってはいない。
綾音――ノエルは人に対して絶望しているが、まだ人を抹消するという考えには至っていない。これから先、さらにノエルを追い詰める出来事があるはずだ。ならば、それを知らなければならない。
大好きだったノエルのことを。
今でも大切な綾音のことを。
綾音の、ノエルという人格を含めた全てを。
『このまま行けば、あなたは直接投射に耐えられる。彼女があなたに出会うまでの間どのように生きて来たか。それを知れば、あなたの疑問は解決するでしょう』
もうすぐ、すべてを知ることができる。確かに痛みは感じるが、これくらいの痛みを我慢できなければ綾音を守る資格など無い。
『ただし、星の記憶が伝えるのは確定した過去の情報だけ。これを見て何を思い、何をするのかはあなた次第。現在を動かし、未来に変えるのはあなたの役目』
相変わらず少女の声音に感情は無かったが、紫苑にはそれが励ましのように聞こえた。
* * *
都内某所にある、とあるマンションの一室。
その部屋は端的に言えば黒い部屋だった。壁紙は黒。冷蔵庫も黒。壁際のソファーは黒。唯一の光源は壁にかけられた薄型テレビのみで、窓の無い部屋は独房を思わせる。
備え付けの浴室の扉が開き、中からバスローブ姿のノエルが顔を出した。
艶(つや)やかに濡れた髪をそのままに、冷蔵庫を開けてワインを瓶のまま一口含んですぐに戻し、疲れたように溜息をついてソファーに体を投げ出した。
身長も伸び、女性的な膨らみはバスローブの上からでも十分判るほどに成長していた。少し癖のある栗色の髪も、腰に届こうかという長さになっている。
「ふぅ……」
さらに深く、ノエルは体に溜まった疲労を絞り出すように大きく嘆息する。
しかし、表情には疲労が色濃く残されたままだった。
大きく愛らしいはずの瞳は薄く虚ろに開かれ、どこを見るわけでもなく、時折テレビの明かりを受けて明滅する天井に向けられている。
ノエルがこの部屋に住み始めてから、二年の月日が経とうとしていた。
研究所を出たノエルは足の向くまま放浪を続けていたが、二ヶ月が経った時、政府直属の諜報機関に身柄を拘束され、軟禁された。
彼女がこのマンションから出ることを許されるのは作戦行動を行う時のみ。すなわち、政府要人や各国首脳及びその親族の暗殺、誘拐、脅迫など、時に隣国の反政府勢力の単独殲滅に駆り出されることもあった。
異端の力を最大限に発揮すればほとんど証拠を残すことなく秘密裏に遂行できるために、ノエルは極限まで酷使され疲労はすでにピークに達していた。
体が鉛のように重く、瞼を開けているのも辛い。
迫りくる睡魔に耐え切れず、彼女が瞳を閉じようとしたとき。
チリンと軽快な鈴の音が耳朶に届き、ノエルは虚ろだった瞳を見開いた。
「……白雪、おいで」
ノエルが名前を呼ぶと、ソファーの裏から白い子猫がひょっこりと姿を現し、身軽に飛んでノエルの胸の上に飛び乗り、その場で蹲った。
みゃあみゃあと語りかける様に白雪が鳴く。
「私? ううん、大丈夫。ちょっと疲れているだけだから。心配いらないよ」
言葉を理解しているわけではないだろうが、ノエルは子猫に返答した。
ノエルの真紅の瞳から冷たい印象が消え、暖かな眼差しに変わる。
温和で暖かな表情からは、彼女が心から安息を覚えていることが窺えた。
「お前がいてくれたら、私は元気でいられるから」
大切な人間を亡くし、途方に暮れていたノエルが今日まで生きることを止めなかったのは、偏(ひとえ)に白雪の存在が大きかった。
初めてノエルが白雪に会った時、白雪は路地裏でレストランのゴミを漁っていた。
真っ白な毛を汚し、何度店員に退けられようとも、諦めずにゴミを漁る。生きるために、ただ生きるために、がむしゃらに。
生きることに興味を無くしたノエルにとって、それは衝撃的な光景だった。
これから先に輝かしい未来があるわけではないのに、たった一人で生きている。生に執着し、懸命に餌を求める姿。自分と同じように一人の境遇であるにも関わらず、生きることを諦めないひたむきな白雪に、彼女は深い共感を覚えた。
その猫の名を、ノエルは毛色と人とは違う無垢で純粋な心を雪に例えて白雪と名付け、それからノエルと白雪は連れて行動するようになった。白雪がいたからこそ、彼女は今日までの時間を生きてきた。
だからこそ、白雪はノエルの足枷になってしまっていた。
「ごめんね。必ず私がなんとかするから……」
白雪の首には鈍(にび)色(いろ)に光る武骨な首輪が取り付けられている。これは組織によって取り付けられたもので、遠隔操作によって急速に収縮し、簡単に首を引きちぎる。
力で取り外してやろうとも思ったが、もし失敗した際に誤作動させたり余波で白雪に傷をつけたりしてしまっては目も当てられないと、ノエルは仕方なく従うしかなく、毒よりも遥かに効率的に拘束手段だった。
「お前は雪みたいなのに、あったかいね……」
暖かな感触を胸に抱き、ノエルはしばしの間まどろみに揺られていたが、
「開けろ。俺だ」
いかつい声とともにインターホンが押され、ノエルの意識は現実に引き戻された。
「……開いているわ。入れば」
ノエルが冷たく言い放つと、ドアは音も無く開いて二人の男が上がり込んできた。それと同時に、白雪が怯えて男と入れ違いに外へ走って行った。
一人は作業服姿の大柄な男。小柄な綾音と比べるとほとんどガリバー旅行記のようだ。もう一人はスーツを着崩した一見ホスト風の軽そうな男だ。
ただし、これは日常を送る上での仮の姿であって、二人とも諜報機関の末端である。
「何か用?」
ノエルはソファーに座り直して足を組み、男達を睥睨する。
横柄な態度にスーツの男が軽く舌打ちしたが、ノエルは意に介さなかった。
「最近任務時によく集中を欠いているな。いったいどういうつもりだ」
作業服の男は静かな声音で、だが凄みを込めて言う。
「別に、ただ疲れていただけだけど?」
ノエルはまったく怯えず、むしろからかうような口調で答えてみせる。
しかも、疲れている様子は微塵も見せず、見事に隠し切っていた。スーツ姿の男がムッとした表情になったが、構わない。男達に弱さを見せる気は無かった。
「我々の行動は極秘裏に行われている。決して公になってはならない。常に細心の注意を怠ってもらっては困るな」
「いいじゃない、別に。いっそ秘密が漏洩して糾弾されて解体されればいいわ」
反省する素振りなど微塵も見せず、ノエルは小馬鹿にするように笑みを漏らした。
スーツの男は堪えきれなくなったのか、いきり立ってノエルの胸倉を掴み上げた。
「おまえ、自分の立場が分かってんのか? あん?」
唾がかかるほどに顔を近づけ、怒鳴りつける。
それでもノエルは眉一つ動かさず、逆に、
「汚い顔を近づけないで。鬱陶しい。死にたくなければ早くその手を離しなさい」
汚穢を見るような眼で男を見据え、愚弄の言葉を投げかけた。
「ぐっ……このっ……」
激昂した男はノエルに殴りかかろうと拳を振り上げたが、大柄な男が掴んで制した。
「止めておけ。相手を考えろ」
「ちっ、だけどよお……」
スーツの男は怒りが収まらない様子だったが、作業服の男に瞳に諌められて不本意ながらもノエルから手を離した。
「まぁいい。あのクソ猫の命はこっちが握ってるんだからな。そんな態度は取れても組織には逆らえねぇよ」
普段はどこにでもいる若者として過ごしているため、男の言葉はかなり俗っぽく、大柄な男に比べて迫力にも掛けた。
「俺がダイヤル一発で首と胴体は永久の別れって奴だ。あーあ、あまりに怒りすぎてついボタンを押しちまいたくなるぜ」
右の人差し指にストラップをぶら下げ、得意げ振ってみせる。
命知らずの男に、ノエルは呆れたように嘲笑を漏らした。
「そう、あなた見ない顔だと思ったら、最近配属されたのかしら? 私のこと、あまりよくわかってないみたいね」
「あ? 何の事だ? いい加減その態度止めないと押すぞ?」
「やってみなさい」
ノエルが右腕を伸ばす。それだけで、携帯電話は音を立ててひしゃげ粉々になった。
「うわっ…!」
情けない驚きの声をあげ、スーツの男が無様に床に尻もちをつく。
ノエルはそれを見て笑うでもなく、一様に見下した視線を投げかけ、
「殺されたくなければ下手な挑発はしないことね。あまり怒らせると、ついうっかり血液を気化させてみたり、周りの空気を圧縮させたりしたくなるかもしれないから」
唇の端だけを歪め、自信の作り笑いを浮かべてみせた。
スーツの男は未だに何が起こったのか理解できず、驚愕の表情を浮かべたまま地面にへたり込んでいる。
「いい加減にしろ。それ以上組織に反するのならこちらも考えねばならん。それに、お前もお前だ。我らは組織に忠実に動けばいい。それ以外考える必要はない」
「……ちっ…」
男は叱責されて苛立つような仕種を見せた。元々、男に組織への忠誠心などない。守秘義務その他は鬱陶しいが、金払いがよく、しかもホストという役割のおかげで女にも困らないから働いているだけの事だ。たまたま身体能力と、ある程度の頭脳と容姿を買われて入っただけの、普通とは少し変わった会社。男にとってはその程度の物だった。
だが、男は何か閃いたのか、嗜虐的な笑みを浮かべてゆっくりと立ち上がった。
「しかしさぁ、ここまでされたら、何らかの制裁が必要なんじゃねえかなぁ? こいつは組織に反感を持ってる。ちょっとしたおしおきしておけば、任務で集中力を欠くようなこともなくなるんじゃねえのか?」
言いながら、男は舐めまわすようにノエルの全身を視線で追って行く。
「一条、綾音か……」
スーツの男がその名前を呟くと、ノエルが厳しい目で睨みつけた。
「その名前で呼ぶのは止めて。私はノエル、臆病者とは違う」
「おっと、そんなに怒るなよ。ちょっと口から出ただけだ」
スーツの男は適当にはぐらかすと、またノエルの体を眼で見定めて行く。
相当な上玉だ、と男は思った。人形のように整った顔立ち。小柄ながらも均整のとれた肢体。どれをとっても、今まで相手にしてきたどんな女よりも上だ。
「おい、今から制裁加えるから、逆らうような態度見せたらお前すぐにダイヤルしろ」
「は? いや、しかし……」
唐突に言われ、作業服の男が戸惑う。
「おいおい、俺たちは今日従順にさせるためにここへ来たんだろ? それ果たさないと、俺たちが忠誠心疑われるんじゃねーの?」
スーツの男が畳みかけるように続け、さらに彼は当惑した。冷静な判断力があれば止めることもできただろうが、ただでさえ突然の問いに、忠誠心を疑われるという言葉を聞けば、愚直なまでに組織に忠実な彼はどうしたものかと悩んでしまった。
「いいから、よろしく頼むわ。俺が責任とるからさ」
「……わかった」
結局、スーツの男に言いくるめられる形で、作業服の男は提案を承諾した。こちらには質があるのだから問題ない、と彼にしては思慮の浅い考えだった。
「さてと、そう言う事だ。お仕置きタイムだ、ノエル」
「……どういうつもり?」
嗜虐的な笑みを浮かべたまま距離を詰めるスーツの男に、ノエルは怪訝に眉を顰める。しかし、表情は決して余裕を崩さない。
「いいな、その顔……」
その自信に満ちた顔を歪ませ、喘がせてやりたい。
近づきながら、スーツの男の中では凌虐的な願望が頭を擡げていた。
スーツの男の指先が、形のいいノエルの顎を撫でる。
「……薄汚い手で触らないで。本当に殺すわよ」
「やってみろよ。その時お前の大切なクソ猫は俺と一緒にあの世行きだ」
ノエルは反論できず、内心で舌打ちする。癪だが男の言う通りだ。白雪を引き合いに出されればノエルは手も足も出せない。彼女がここにいるのは白雪の命を守るために他ならないのだから。
「そうだ、そうやっておとなしくしてりゃいいんだよ」
下卑た笑いを浮かべ、男の手がバスローブ越しの腰に触れる。
「ん……!」
ノエルの全身が厭わしさに怖気立ち、鳥肌を立てる。人間、とりわけ自分の最も毛嫌いする系統の人間に触れられて感じるのは嫌悪以外の何物でもなかった。
さらに男は指先を滑らせ胸元の曲線をなぞり、バスローブの隙間に指を潜り込ませる。
「……くっ…!」
ノエルは男を射殺すように見返したが、瞳には弱さが見え隠れしており、男の加虐心を煽りたてる効果しか無さなかった。
男の指が滑やかな肌を嬲るたび、まるで蛇が這っているかのように、布越しとは比べ物にならない嫌悪感が寒気となってノエルを突き抜ける。
「おや? いい顔になってきたじゃねえか。じゃ、こういうのはどうだ?」
男の指が徐々に下がり、そして、下腹部へ――。
吐き出しそうな耐え難い嫌悪感に、ノエルの我慢は限界を超えた。
「いやっ…!」
振り払いたい。ただそれだけのつもりで、ノエルはスーツの男の右肘を平手で打つ。
刹那。水風船が弾けるような微小な破砕音とともに、スーツの男の肘が爆ぜてそこから先が地面を転がった。
「……へっ…?」
突如指先の感覚が消え失せ、男は間抜けな声を上げた。
それから、瞳と同じ色に体を染め、驚愕に目を見開いている綾音を認める。
そして、感覚を亡くした腕と地面に転がったかつて自分に付属した物を認め、
「うぎゃあああああああああ!!」
爆発的な悲鳴を上げ、血の吹き出す腕を押さえて無様に床を転げまわった。生まれてから一度も感じたこともないような激痛が、迸る鮮血とともに湧き上がる。
「てめええええ!! 何しやがるううう!!」
「ち、違っ、私は……」
ただ振り払おうとしただけ。本当にそれだけのはずだったのに、力の使い過ぎでコントロールができなかったのか、それともなりふり構わず吹き飛ばしてしまったのか、理由は定かではないが、ノエルは動揺していた。
男の安否など、ノエルにとってはどうでもいい、いつもの暗殺と同じで汚らわしい人間が一人消えるだけのことだ。だが、今は状況が違う。今は白雪の命が懸かっている。
ノエルは急いで作業服の男に視線を転じた。
幸いなことに、男はまだダイヤルを押してはいなかった。突然のことに判断しかねているのか、それとも押すには値しないと判断しているのか、男の表情からは判断できなかったが、今すぐにボタンが押される可能性は低そうだ。
「なぜ押さねえええ!? こいつは俺の、俺の腕を吹き飛ばしやがったんだぞおお!?」
男の叫びが滔々と流れる血液の臭いとともに部屋いっぱいに充満する。
「だが、しかし……」
それでも作業服の男は押す事を躊躇い、冷や汗を流して喚き散らす男を見据えていた。
ノエルは僅かながらも安心して、軽く息を吐いた。
「どうやら、質の意味がちゃんとわかっているみたいね。傷口を塞いで腕を繋げてあげるから、はやく立って……」
「うるせえ! 化け物がっ!」
ノエルの声を遮るようにがなり声をあげると、男は片手を失っているにも関わらず俊敏な動きで立ちあがり、立ち尽くしている作業服の男から携帯電話をひったくった。
「上等だこの化け物っ! そんなに壊して欲しいのならぶっ壊してやるよ! てめぇみたいな化け物野郎が人間臭いことしてんじゃねぇ!」
「おい、おまえ自分が何をしているのかわかって」
「うるせえ! 俺に指図するんじゃないっ!」
作業服の男の言葉にもまるで応じず、スーツの男は狂ったように叫ぶ。激甚の痛みと怒りで、彼はほとんど錯乱状態に陥っていた。
「思い知れ化け物! これが俺の腕を吹っ飛ばした代償だっ!」
「止めてえええ!」
声の限りに叫び、ノエルは懸命に男の凶行を阻止しようとしたが……遅かった。
ノエルが携帯電話を破壊した時には、もう男の指はボタンに触れていた。
「は、ははっ、どうだ、どうだ? やった、やってやったぞ……」
顔面蒼白で呆然とするノエルに、男は乾いた笑い声を洩らしながら表情を引き攣らせていた。満足気に笑いたいのだろうが、まともとは言い難い精神では不可能だ。
「……白雪…!」
ノエルは男二人を軽々と押しのけ、ドアを蹴破り木っ端微塵に粉砕すると、人目やここが何階であるかなど気にする余裕もなく手すりを超えて一目散に飛び降りた。
「はは、見たか? あいつの顔? あの見下したような面が血相変えて……」
スーツの男の壊れた高揚感は、隣に立つ男の表情を見て一気に凍結した。
作業服の男は厳めしい顔を蒼白にして、その巨躯を小刻みに慄かせていた。
「……殺される」
「へっ…?」
怯えた瞳に見えるのは、圧倒的な恐怖。
「殺される。殺されるぞ。頸(くび)木(き)の取り払われた奴は正真正銘の化け物だ。誰もあいつを止められない。抗う術は、皆無だ……」
「おい……なんだよ……何、言ってんだよ」
「腕が吹き飛ばされた? 馬鹿馬鹿しい。その程度で済んだのなら儲けものだ。あいつは武装したレジスタンス数百人を無傷で殺したんだぞ」
「……」
男は完全に沈黙した。
今になって、自分がどんな猛獣の鎖を解き放ってしまったのか理解した。
「殺されるぞ……」
すすり泣くようにか細い巨漢の声が、スーツの男を慄然とさせた。
着地の寸前、ノエルは周囲の空気を調節してスピードを中和し、音も無く降り立った。
そして休むことなく、駆け出して行く。
力を使わないノエルは一般の少女と変わらない。それどころか体力的にはかなり劣る。
もつれそうな足を懸命に動かし、息も絶え絶えに白雪を求めて走る。
マンションの裏手に辿り着いた彼女は、信じがたい――信じたくない――光景を目の当たりにし、足を止めた。
「し、ら……ゆき?」
暗い夜。街灯の下。アスファルトの地面に、真っ赤に鮮血の華が咲いている。
その中心には、白い毛皮を赤く染めた白雪が、頭と胴体を寸断された無残な状態で横たわっていた。
「あっ、うぐっ、ううううう……」
全身から力が抜け、ノエルは愕然と真っ赤な血だまりに膝をついて嗚咽を漏らした。
あんなに必死に生きようとしていたのに。
たった一人でも、あんなに健気に生きようとしていたのに。
いとも簡単に、白雪の命は奪われた。
「しらゆきぃ……。しらゆきぃ……!」
何度名前を呼んでも答えてくれない。愛らしい茶色い眼は虚空を彷徨っている。
傷を癒すことはできても、生命を取り戻すことはノエルにもできない。
無力感に襲われ、ノエルは涙を流した。
また奪われた。あっさりと。弄ぶように。
大切なものは、ことごとく人によって奪われていく。
「どうして、どうして……」
無力感がじわじわと熱せられ、ふつふつと怒りに変わって全身を駆け巡る。
「殺してやる。殺してやる……」
コロシテヤル。
ゼッタイニユルサナイ。
ノエルはタンと地面を蹴ると、カタパルトのような急加速で飛翔する。そして、自室のちょうど真裏に到達すると、すっと右腕を前に伸ばした。
それだけで、厚さ数十センチのコンクリート造りの壁は、まるで粘土の様にやすやすと円形に割れ、さらに彼女が拳を握ると塵も残さず空気の中に霧散した。
新円に切り取られた部屋の中では、諜報機関の男達があまりの光景に目を瞠っている。
だが、男達がどんな顔をしていようと、ノエルには関係ない。
ゆっくりと、男達に歩み寄った。
「……死ね」
ノエルがパッと水平に手を振るうと、男達の首がごろりと床に転がった。
「消えろ」
そして、その手を縦に振りおろすと、男達の姿は血肉となって散らばり、真っ黒な部屋にノエルだけが残った。
砂嵐を流すテレビの僅かな光が、血に塗れた彼女の姿をぽっかりと映し出す。
真紅の瞳は涙に濡れ、まるで自らの自らの血涙で染め上げられたかのよう。
「人間、なんて……」
ノエルは嘆き、絶望した。
どこまでも利己的で、他者を平気で傷つけ、我が物顔で奪い去っていく。
ノエルが見たのはそんな人間ばかりだった。大義名分を掲げてテロ行為を繰り返すレジスタンス。自らの権益のためなら犠牲を厭わない官僚たち。生物を生物と扱わない科学者たち。皆一様に醜悪で、自己利益のためなら平気で全てを壊していく。
「人……なんて、汚い。すべて、消えればいい……」
そうだ、すべて消えればいい。
違う。私が消してやろう。どうしようもなく愚かな人。
「わた、し、が、かな……ら、ず……」
どんな事をしても、必ず、私がこの力を以って。
「全て、消し、て……」
限界を超えて力を酷使し続けたノエルは、その場で意識を失った。
堅牢無比な誓いを胸に。
* * *
その後、ノエルは後から来た諜報機関の人間によって回収され、前代未聞の殺人事件は情報操作と隠蔽工作によって日の目を見る事無く闇に葬られた。
機関はノエルの処置をどうするかで揉めたが、目覚めたノエルが記憶と力を取り戻していないことがわかり、一条綾音として日常を送らせ様子を見ることになった。
現在から一年前。運命のいたずらか、あるいは定められた必然であったのか、綾音と紫苑は再会した。
ノエルは疲弊した精神力を癒すために眠りにつき、その過程で新たに三つ目の人格が形成された。
一年後、ゾーンによって憎悪と絶望と憤怒を喚起させられ、感情を揺さぶられたノエルは遂に現在の綾音を押しのけて表出した。
そして彼女は、人の根絶を成し遂げるために動き出した。
14
気が付けば、紫苑は元いた場所――星の記憶に戻っていた。
『彼女はもう一人の預言者とともに、終焉の鍵に向かっている』
眼前に立つ少女が、相変わらずの無表情で語りだした。
『預言者の導きによって裁定者の辿りつける、精神世界の最果ての場所。人は生きるべきではないと判断を下した時、すべての人を意識下に置くことができる最終手段。彼女はそこで、すべての人を消すでしょう』
淡々と、まるで無関心に、少女は語った。
そこに一切の感情は無く、ただ単に事実を告げているだけだ。
判断するのは彼女ではない。他でもない、紫苑だ。
考えるまでもない。最初から決まっていた事だ。
「俺は……ノエルを、綾音を止める」
綾音の、ノエルを含めた全ての人格で答えを出してもらう。それでも綾音が人の根絶を望むのならそれも仕方がない。だが、優しさも知らないうちに、人の全てを悪だと決めつけて滅ぼすことはノエルにとっても不幸な事だ。
誰よりも優しいからこそ、誰よりも耐えて、誰よりも深く傷ついた。紫苑にできることは、ノエルに知ってもらうことだけだ。綾音という人が辿って来た全てを。どれだけ優しさに包まれて生きてきたのかを。
「ノエルが生まれる前、最初の綾音に会いに行きたい。どうすればいい?」
目的地を示してくれなくても、目的地を告げれば、星の記憶は道を教えてくれる。
『彼女の思いが込められた翡翠。まだ僅かだけど力の残滓を感じる。預言者のあなたが願えば、最初の彼女の精神世界まで到達できるでしょう』
「……そうか。後、最後に一つ。ノエルの記憶は今どうなっている? なにか……少し違和感を覚えるんだ」
『彼女の記憶は自己防衛のために断片化して一部薄れている。人の記憶は言葉、シンボル、イメージの三つでほぼ構成されている。彼女が悲しい場面を強く思い出してしまうシンボル、つまり翡翠に関連する記憶は封じられている。だから彼女は死んだ両親の名前も、友人だったゾーンの名も覚えていない。ただし紫苑、あなたの名前だけが、拭いきれずに深い悲しみとして残っている。それほどあなたは、彼女にとって大切な人だったのでしょう』
最後、星の記憶が断定系で返答しないのは、ノエルの感情であり不確定な要素が強いからであろう。なのに、紫苑には何故か自分の後押しをしてくれているように思えた。
そう、彼女の言葉を借りるなら『星の記憶が伝えるのは確定した過去の情報だけ』。本来はそのはずなのだから。
「わかった、ありがとうな」
『私はただ、使命に従って預言者に情報を与えただけ』
「……そうか、そうだったな」
紫苑が苦笑すると、少女は理解できないといった様子で首をかしげた。
「それじゃあ、行くよ」
『向かいなさい。預言者としてではなく、あなた自身として未来を目指すために』
紫苑は胸元の翡翠を握りしめ、静かに瞳を閉じる。
そして願った。
最初の、殻に閉じこもった綾音の世界へ。
翡翠が淡い光を放ち、紫苑の意識は星の記憶から消えた。
15
一面を壁に覆われた部屋の中。気付けば紫苑はそこに立っていた。
部屋の中には窓やドアと言った外界を感じるものは存在せず、立方体に切り取られた空間には何もない。部屋というよりは大きな箱の中のようだった。
その部屋の中心で、一人の女の子が膝を抱えていた。
長い栗色の髪を床に広げ、幼い小さな体を丸め、視線を床に落としている。
否、床にある小さな画面のようなものを凝視していた。
わずかに毀れる光は、少女の輪郭をおぼろげに映し出す。
「綾音……なんだな」
紫苑の言葉に、目の前にいる少女は振り返らず、ただ肯定の意味で頷いた。
「はじめてね、ここに誰か来るのは」
ぽつりと、少女――最初の綾音が呟く。
「あなたも一緒に見る?」
綾音はそう言うと、身体半分を右にずらし、掌で床を叩く。どうやら、紫苑にそこに座るよう促しているようだった。
紫苑はその質問に返事を返さず、黙って隣に腰かけることで答えとした。
「ほら、見て、私のお母さん」
綾音は微笑んで、人差し指で画面を指差す。
そこには優しげな表情を浮かべた女性がいた。
紫苑にも見覚えがある。星の記憶で見た綾音の母、可憐だ。
可憐は幼い綾音を膝の上に寝かせ、子守唄を口遊みながら優しく髪を撫でている。
「すごく優しくて、暖かいんだ。おひさまに触れているみたいに」
言いながら、綾音は画面に触れる。
映像が切り替わり、今度は男性が映し出される。
確か、綾音の父親だ。名はなんと言ったか、思い出そうとしたが、星の記憶が紫苑の負荷を減らすのに情報を絞ったため、名前までは思い出す事が出来なかった。
「お父さんはね、私が何をしても怒鳴ったりしないの。笑って、それから少しだけ悲しそうな顔をして。怒鳴られるよりも、私は嫌だったな。だから、私はにいい子になった。そしたら、お父さんは笑っていてくれるから。とても優しい顔をしてくれるから」
そう言って、綾音は本当に幸せそうに微笑んだ。
綾音の両親との幸せな日々、延々と繰り返される無限の連環。
そこには確かに、一つの幸せの形がある。
「でもね」
小さく息を吐き、綾音が画面に触れると、砂嵐が映像をかき消した。
「本当はわかってるんだ。こんな日々はもう訪れないって、お父さんとお母さんは二度と笑い掛けてくれないって、私のせいであの子が苦しんで、悲しんでいるって……」
悲しげに眉をひそめ、抱えた膝に顔を埋める。
「でも、怖いの。お母さん達がいない世界も。それを受け入れることも……。私はここから出たくない。自分勝手なのはわかってる。だけど、ここから出たくないよ。辛いのは、やっぱり嫌だよ……!」
はっきりとしていた口調も小さくかすれ、最後は不明瞭なすすり泣きになっていた。
抱きしめれば壊れてしまいそうなほど細く小さな背中は震え、堪えきれない嗚咽が毀れ落ちる。不安、恐怖、それらが小さな体に渦巻いている。
だから閉じこもった。傷つくのが怖いから。悲しい思いをしたくないから。
(だけど、それじゃあいけないんだ)
今のままでは、心のカケラは埋められない。この綾音も、ノエルも、今を生きていた綾音も、すべてが一つにならなければ、パズルのカケラは揃わない。そうでなければ、綾音の心はずっと未完成のままだ。
(壊れていてもいい。また組み直せばいいんだ。けど、形を成すためのカケラを無くしていたらダメなんだ。そうじゃないと、綾音という存在はずっと救われない)
紫苑は小さな肩に手を回し、そっと抱き寄せた。
「わかるよ。誰だって苦しいのは嫌だし、悲しむのも嫌だ。けど、逃げたらダメなんだ。確かにお前は辛い境遇に居たかも知れない。だけど、それをノエル……あの子一人に押し付けたらダメだ。分け合うんだ。苦しかった事をあの子から。楽しかったことはお前から。そうやって共有しなきゃならないんだ。お前と、それからあの子の為にも」
顔を上げた綾音に、紫苑は真摯な眼差しを向け、静かに諭すように言った。
「私の……ため?」
綾音は翠玉色に輝く綺羅の瞳を涙で煌めかせる。
紫苑は頷き、
「大丈夫だ。確かに、全てを受け入れるのは辛いだろう、悲しいだろう。だけど、これからお前が生きる時間の全て、幸せにすると俺が保証する。お前の周りには、お前のことを思ってくれて、優しさをくれる人間がいるんだ。約束する。どんなに悲しく辛いことがあっても、必ず俺が救いだしてやる。だから、俺と一緒に来てくれ」
可憐がしていたのと同じように、紫苑は綾音の髪を撫でてやった。
「お母さんみたいに、とっても暖かい……。あなたは、いったい誰なの?」
「俺はシオン……。お前も、あの子も、そして今現実を生きている三番目の綾音も、全てを含めて好きな、単なる一人の男だよ」
「そっか……」
抱えていた膝を解き、綾音は紫苑の正面に回ると、胸にしなだれかかり顔を埋めた。
「わかるよ。あの子も、私と同じ名前の三番目のあの子も、あなたのことが大好きなんだね。私も、多分おんなじ気持ち……」
顔を上げた綾音の表情に、すでに恐怖は無くなっていた。相変わらず瞳は涙で充満しているが、それは笑顔にも似た幸せな泣き顔だった。
「前に進もう。あの子は今全てを壊そうとしている。それを止めなきゃならない。俺が導くから、俺をあの子のいるところまで連れて行ってくれ」
綾音は小さく頷くと、ぎゅっと紫苑の体を抱きしめた。
止まっていた彼女の時計が、ゆっくりと動き出す。
「……うん」
綾音は紫苑から離れて立ち上がると、瞳の中に強さを宿し、紫苑に手を差し伸べた。
「わかった。私があなたを連れて行く。だから私を導いて、あの子のいるところまで」
もう、綾音に迷いはない。紫苑は華奢な掌を、力強く握り返した。
「行こう、あの子のいる場所へ……」
緑光が包み込み、二人の存在の可能性を押し上げて行く。
精神世界の最奥(さいおう)。人の終わりを掌(つかさど)る場所。
ノエルとゾーンが待つ、終焉の鍵へと。
16
常闇が粛々と静かに漂う、途方も無く広大な場所。光の届かない深海で、足場のない場所に立っているような、不思議な印象を紫苑は受けた。
視界の先、光の無いはずのその場所で、紫苑は確かに、ふたつの人影を捉えていた。
「ノエル……ゾーン……」
名前を呼んだわけではなく、知らず知らずのうちに紫苑が口にしていた言葉だったが、その声は眼前の二人にも届いていた。
真っ白な髪を翻す、どこか憂いを帯びた表情の青年。
圧倒的な負の感情を孕んだ紅蓮の炎を内に宿す、冷徹な真紅の瞳の少女。
「臆病者が、どうしてここに……?」
振り返ったノエルは少し驚いた様子で、軽く目を見開いていた。しかし、それも一瞬のことで、驚きはすぐに綾音に対する侮蔑にとって代わった。
恐ろしいまでに暗く冷たい真紅の瞳、見つめられただけで綾音の体が恐怖で震え、意識せず本能的に紫苑の後ろに隠れた。
「ノエル、かまう必要はない。君は自らの目的を果たせばいいんだよ」
「……わかっているわ」
ノエルは鼻から嘲笑うように息を漏らすと、綾音に背を向けて歩き出した。
ノエルの行く先には終焉の鍵がある。鍵、との名称は便宜的に付けられたもので、実際には直径六十センチほどの、水晶のように透き通った球体が浮遊していた。
「私は、人を消す。どこまでも愚かで、醜い人を……」
呟くノエルの言葉は、宣言というよりは、決心を自分に言い聞かせている。紫苑にはそんな風に思えた。
止める。なんとしても、ノエルを止めてみせる。
「……待てよ」
先ほどと同じ、ぼそりと呟くような紫苑の声。しかし、今度は明確な意思を持って呼びかけた言葉に、ノエルは振り向いて紫苑を見据えた。
「お前は本当にそれでいいのか?」
「……当然よ」
「ノエル、君は早く終焉の…」
制止しようとするゾーンを手で制し、ノエルは終焉の鍵から離れて紫苑に歩み寄った。
「人なんて、根本からどうしようもない生き物なのよ。自分の欲望のためなら平気で他のものを壊す、奪う、蹂躙する。存在自体が悪そのものじゃない。だから、私は人を滅ぼす。今の私にはそれができる」
決意を秘めた真紅の瞳に射竦められ、紫苑は言葉に詰まる。
だが、引き下がるわけにはいかない。伝えたいことはまだ少しも伝えられていない。
「確かに、人は知恵を使って力を作り出した分、欲望を貫こうとしたときその被害は他の生物よりも大きいし、悲劇を招くこともある。けどな、他者を思いやり、無償で尽くす優しさを持っているのは人間だけだ。人間の全てが悪だと決めつけるのは、少し極端すぎるとは思わないか」
「……優しさ? 思いやり?」
その言葉を、ノエルは吐き捨てるように言った。
「偽物が、私を利用する為にそんな美辞麗句を並べる様になった? 冗談じゃない。人は自分の為なら他の全てを踏みにじる。今度もまた私を利用するつもりなんでしょう?」
「違う、俺は」
「言い訳は聞きたくない。私はずっと人に踏みにじられてきた。人間なんて、汚い」
「その通りだよ、ノエル」
今まで口を挟まなかったゾーンが、ノエルの言葉の先を続けた。
「僕は人の感情が読めるからこそ、人がいかに汚いかを誰よりも証明できる。蓋を開ければ他者への悪口雑言でばかりで、他者を蹴落とし自分が優位になることばかりしか考えていない。それが悪ではなくてなんだというんだい?」
「違うな。じゃあお前は、その人達が心に思っていることを口に出したり実行したりする人間が何人いた? 多分、ほとんどいなかったはずだ。それは人が悪を判断してそれをしてはいけないと自制する心を持っているからじゃないのか? 俺はそれが優しさや思いやりなんだと思う。共感して、自分だったら辛いだろうと思う事ができるから」
「……そうだよ」
紫苑の言葉を聞き、恐くて後ろに隠れていた綾音も、覚悟を決めて前に踏み出した。
「人は時にひどいことをすることもあるけど、それが全てだと決めつけてしまうのは間違ってると思う。辛いことがあって深く傷つけば、その出来事は深く印象に残る。けどね、人は優しさを持ってる。優しさはとても些細なことで、報われないことも少なくないから気付かないこともあるかも知れないけど、時間をかければ優しさが傷を癒すこともある。そんな優しさを持っているからこそ人は素晴らしいんだって、私は思うの。歴史の教科書だってそう、歴史で起きた残虐な事を忘れないようにって、人はそれを記して残す。けどね、優しさって言うのは、よほど偉大と言われる出来事しか残されない。それはね、人が当たり前に優しさを持ってるからだと思うんだ。だから人は、悪を悪だと認めることができる。それって、本当は人が善を知っているからじゃないかな?」
幼い風貌に似合わず、この中では最古参である綾音の言葉には静かな響きの中に強固な説得力が含まれていた。
「違う……違う!」
ゾーンは若干声を荒らげた。
「僕は全てを見てきた。人間は醜い生き物だ。どうしようもなく利己的で、他者や他の生物がどうなろうと知ったことではない。残虐で蒙昧な愚物なんだよ」
精一杯訴えかけようとしていたが、綾音への反論にしては説得力に欠け、ただ単に自分の感情を叫んでいるだけの様になっていた。
そこへ、さらに紫苑が続けた。
「お前もそうなのか? ゾーン」
「ああ、そうだよ」
「なら、何故お前はノエルに協力しているんだ?」
「ノエルが望みを叶えることこそが、僕の望みだからだ」
「それは、ノエルに対するお前の優しさなんじゃないのか?」
「……ぐっ」
ゾーンは言葉に詰まった。
否定できる材料が見当たらない。ノエルに協力しても見返りは無い。それでも無償でノエルに協力しているとなれば、自分、つまり人は利己的でないと認めたことになる。
「教えてくれた人がいたんだ。優しい人ほど自分の優しさがわからないって、それが本人にとって当り前のことだから。他人にとってそれは、間違いなく優しさなのにな」
「僕は……」
本当にノエルの望みを叶えるためなら、ゾーンは紫苑の意見を否定しなければならなかった。何らかの理由でノエルを利用しているという嘘を吐くことなら、頭の回るゾーンならすぐにできる。しかし、それができないのは、ゾーンにとってノエルが全てだからだ。ノエルに敵対することなど絶対にできない。
何も言えず、ただ立ち尽くすゾーン。
綾音はそれを一瞥した後、翠玉色の瞳でノエルを見据えた。
「ノエル、あなたは人より辛い道を歩いてきたかもしれない。けどね、だからといって全てを消してしまおうとするのは、気に入らないからって積み木の城を崩す子供とおんなじ、単なる我儘な短絡思考なんだよ」
敢えて辛辣で厳しい言葉を浴びせる綾音を、ノエルが睨み返す。しかし、綾音はたじろぐことなく言葉を続けた。
「善とか悪とか、一人で決めることはできないんだよ。善悪は人によって概念も感覚も違う。ただ、善を善(い)いと思い、悪を悪(わる)いと思える人を、私はやっぱり善だと思う」
「黙れっ!」
怒りを抑えて冷静さを保っていた糸が切れ、ノエルは激昂した。
「苦しいことは全て私に押し付けて、自分は幸せな世界に閉じこもった臆病者のくせに!! 辛いことなど何も知らず、一人幸福を独占するだけのお前が、口先だけでわかったようなことを言うな!! 私の世界に善は無かった。ただ人が人を貶め、奪い、踏みにじる。そればかりだった。お前にそれがわかるの? ただ苦しみだけが溢れる世界が。お前は幸せな世界にいたからそれを信じていたいだけじゃない!」
そう、紫苑が恐れていたのはこういう事態だ。
所詮、他人である紫苑にはノエルの苦しみを全て察することなどできない。いくら道理の通った説得をしようとも、それは生簀の中の魚を救えと漁師を訴えるのと同じ、当事者の状況もわからないまま正論を振りかざしているだけに過ぎないからだ。
だからこそ、紫苑は綾音を呼んだ。
「確かに、私は辛い現実から逃げた。耐え切れない現実から逃げたいと思った。でも、それはあなたも同じ。本当はわかっているんでしょ? あなたは自分がこれ以上傷つきたくないから、失いたくないから、人と言うしがらみを作る物をすべて壊す。すごく単純明快。けど、結局は逃げているだけ。私と同じように」
そう言って、綾音は紫苑に向き直ってにっこりと微笑むと、翠玉色の瞳に決意を宿らせてノエルに向き直った。
「だから私は、もう逃げたりしないよ」
「えっ……?」
ノエルは動揺して、一歩後ずさった。
さらに、綾音はノエルに近づいて行く
「私の幸せな記憶をあなたにあげる。だから、あなたの辛い記憶を私にもちょうだい?そうすれば、あなたがどれだけ人の優しさに触れていたのかわかるから」
距離を詰める綾音に動揺し、後退しながら、
「主人格だからと言って、私の意識を消去しようとしても不可能よ。もはやこの精神世界において、お前の力は私に一切及ばない。もちろん、ここにはいないあいつはなおさら。私の意識を飲み込むことはできやしない!」
ノエルは強く言い放ったが、綾音は歩みを止めない。穏やかな表情からは奸計や策略があるようには到底思えない。決意に裏打ちされた迫力に気押され、ノエルはさらに後ずさるが、綾音と距離をはなすことはできなかった。
「違うよ。私とあなたは記憶を共有するだけ。きっと私はあなたの中に溶けてなくなる。でも、悲しくない。私は全てを受け入れる。逃げない。怖くは無いよ。私が消えてしまうわけじゃないから」
ふっと、ノエルに綾音の手が触れる。
「逃げないで。私は前に進むって決めたんだから」
優しい緑光が二人を包み込む。
綾音の意識はノエルの中に溶け、二つの人格は統合を果たした。
立ち尽くしたノエルは、呆けたように口を開いたまま動こうとしない。
「ノエル……大丈夫か?」
紫苑の声で正気を取り戻したノエルは次の瞬間には荒い息を吐いて地面に膝を付くが、
「問題なんて、ないわ……」
弱さを見せたくないのか、すぐにふらつく足取りで立ち上がる。
紫苑は一度大きく深呼吸すると、
「もう一度聞く、本当にお前はそれでいいのか? 本当にそれがお前の望みなんだな?」
細めた眼でノエルを見つめ、静かに問い掛けた。
余計な言葉はいらない。百の言葉よりも大きな事を、綾音が勇気を持って教えてくれたはずだ。それでもノエルの想いが変わらないのなら、紫苑はその選択を受け入れる。
「私は……」
ノエルが言い淀む。強い決意が秘められていた真紅の瞳も揺らぎが見え隠れしていた。
「私は、人を滅ぼす。その意志に、変化はない……」
言葉に力はなく、絞り出した小さな声には迷いが多分に感じられる。
それでもノエルは、まだ覚束ない足取りで必死に歩を進め、終焉の鍵に触れた。
そして、力を行使しようとした彼女の顔に、明らかな戸惑いが生まれた。
「なぜ……? なぜ何も起こらないの…?」
終焉の鍵は何ら反応を示すこともなく、波に揺れる木の葉のように僅かに動くだけ。
劇的な変化は訪れない。
「力の源泉、憎悪や絶望が薄れている……」
放心したように呟いたゾーンは、そのまま力なく地面に両腕を付いた。
裁定者の力の源泉は、その可能性を引き出そうとする意志や感情の力。本人に成し遂げることに対して意志が薄らいでいれば、力は自然と脆弱なものになる。
「どうして……? 私は人を滅ぼしたいのに。どうして、どうして反応しないの……」
溢れ出る様々な感情を堪えきれず、ノエルは落涙した。
綾音がもたらした記憶は、ノエルの絶望や怒りを悉(ことごと)く消し去っていた。それだけではない。幸せな記憶は今まで負の面ばかりを見てきたノエルの視点を変えた。 シオンとゾーンと暮らしてきた時間、白雪と共に暮らしてきた時間。悲しさを押し込めるために今まで故意に忘れてきた記憶が蘇る。
そして気付いてしまった。自分にも幸せな時間があったことを。
人の全てが悪ばかりではない。納得したくないのに、感情は既に認めている。
「ちが、う。私は人を滅ぼす。私から全てを奪った、どこまでも醜悪な生き物を……」
「ノエル……」
ゾーンの呟きも、ノエルには届いていない。
ノエルは困惑していた。絶望と憎悪で作られた堅牢な鉄の柱が、堆く積まれた石のように、脆く、ひどく曖昧なものに感じられる。
「ううん、きっと、みんなが悪いんじゃないって、わかったんだよね、ノエル」
その時、ここにいるはずのない、もう一つの声が、優しく空間に響いた。
少しゆったりとした口調で、能天気な響きを消しきれない、紫苑が最もよく知る存在。
光の粒子がゆっくりと舞い下り、徐々に姿を形作っていく。
「綾音……」
そして、今に最も近い三番目の人格。綾音が終焉の鍵に姿を現した。
「どうして、あなたがここに……?」
ノエルが問いかけると、綾音は少しだけ申し訳なさそうに目を伏せた。
「ごめんね、私、本当はあなた達のこと知っていたの。新しく生まれた私に『部屋』は無かったから。深層意識では今までの過去も全部知ってた。けど、今の日常を壊したくなかったから、表層には上げないで記憶はずっと奥に封じ込めて見ないフリしてきた。けどね、それじゃあいけないんだって、やっとわかったの。最初の私も、二番目のあなたも苦しんでいるのに、私だけ幸せじゃダメなんだってわかったの。二人と、紫苑の声が聞こえたから、だから私はそれを頼りにここまで来たの」
「馬鹿な。預言者の導きもなくここに辿りつけるわけが……」
「できるよ。だって、ここには私のカケラが二人と、大好きな紫苑がいるんだもん。私がここに到達できないわけないじゃない、こういうことわざがあるでしょ? 『ムヒが凍ればかゆみも引っ込む』」
驚愕するゾーンの科白を遮って、綾音は自信満々に胸を張った。
少し呆けている感じも、間違いなく三番目の綾音の物であった。
しばし綾音は呆然とする三人を満足気に眺め、それからノエルに歩み寄った。
「ノエル、もう止めよ? もうわかったはずだよ。あなたの中にも、人の温かさが残ってるから、世界が辛いことだけじゃないって、わかってるんでしょ?」
「私は……」
「私は知ってるよ。寂しかったんだよね。どうして自分だけこんな目に遭うんだって、辛かったんだよね」
綾音は泣き崩れるノエルの前にしゃがみ込み、迷子の子供をあやすように、ノエルの真紅の瞳を首をかしげて覗き込んだ。
「もう大丈夫だから。あなたが眠っている間、私が過ごした一年間。このおっきな幸せ。あなたにもあげる。それに、これからも楽しいことがたくさんあるよ。私もあなたも大好きな人が、ずっと傍にいてくれて、誰よりもあなたに優しさをくれるはずだから」
いつもの能天気で、なのにとても暖かで、深刻さなど最初から無かったような、周りの人間全てを柔らかにする雰囲気を全体から滲ませて、大切な親友を慰めるように、綾音はそっと自らのカケラを抱きしめた。
「いっしょに幸せになろうね。私たち、三人で一人なんだから」
瞬間、眩い光が二人を包み込んで、常闇を打ち消して広大な白に塗り替えた。
そしてノエルは、生まれてから全ての記憶を取り戻した。
光が消えて姿を現したノエルは、天を仰いで涙していた。
しかし、絶望の涙ではない。ノエルが生まれてから一度も経験した事のない、感涙という名の涙だった。
「そうか、私は――綾音は、幸せだったんだ……」
ノエルの瞳にすでに怒りや憎悪は無く、宝石のような翠玉色の瞳が滴に揺れていた。
綾音の過ごした一年間には、眩いばかりに輝く、宝石のような輝きに満ちていた。そんな気障で陳腐な言い方が、本当に似合う素敵な思い出。
それは今まで生きてきた幸せの中にも、たくさん点在していた。角度を変えて見てみれば、自分の生きてきた道はこんなにも綺麗に輝いている。自分は世界を疎んじて光を閉ざしていただけで、自ら光を見出せば、人は、世界は、こんなにも輝きで溢れている。
もう、記憶を封じ込めたりしなくてもいい。辛いこと全てをひっくるめても足りないほどの幸せと、優しさを手に入れたから。
だからわかる。ノエルを含めて、すべての綾音のためにこの場所まで来てくれた、大切な母の形見をずっと持っていてくれた、亡くしたと思っていた一番大好きな人が。
「シオン……本当にあの時のシオンなんだ。わかるよ。あなたの優しさ、声、全部あの時のシオンなんだ」
ゆらゆらと定まらない足取りで近寄り、シオンの胸に顔を埋める。
「来てくれたんだ。辛い事もあったかもしれないのに、全部受け止めて来てくれたんだ」
「ああ……」
泣きじゃくるノエルを、紫苑はぎゅっと抱き寄せた。
張りつめた緊張が解け、心を許したノエルの体は華奢でとても小さく思えた。
「そんな、ノエル、どうして……?」
ゾーンは悲愴に嘆き、打ちひしがれて地面にひれ伏した。
ノエルの心情から、みるみるうちに自分の場所が消えて、代わりにシオンがその場所を埋め尽くしていく。
「どうして、僕はダメなんだい? 僕はノエルさえいてくれたらいいのに。ノエルのためだったら、何だってできるのに……、なんで、なんで僕じゃなくシオンなんだ!」
あまり感情を表に出す事のないゾーンも、心のよりどころが離れて行くのを感じ、堪えきれない痛みに悲嘆した。
ノエルは紫苑から離れ、気まずそうに眉を潜め、ゾーンに向き直った。
「ごめんね、ゾーンには感謝しているの。私……ノエルのために何でもしてくれるっていう、その気持ちにも感謝してる、とても大切な人」
でもね、と言葉を区切り、ノエルは顔を伏せて、
「あなたはノエルだけを見て、私の全てを見てくれなかった。あなたが欲したのはノエルだけで、綾音という存在を受け入れてくれなかった。そして、綾音を傷つけた」
「そんな……」
それだけじゃないの、と、ノエルは悲しげに首を振る。
「私、わかったの。あなた、本当はノエルを独占したかった。だからシオンが生きていたこと、わかってたのに言わなかったのね」
「それは……」
ゾーンは言葉に詰まる。心底ではそれが自分の本心であるとわかっていたからだ。
「だけど私はゾーンには感謝してる。ノエルを思う気持ちは本当だったから。それでもね、紫苑は特別なの。殻に閉じこもっていた最初の私に辛さを知る勇気をくれた。絶望の淵にいたノエルに希望をくれた。ドジで危なっかしい綾音と、ずっと一緒にいてくれた。紫苑は、私の全てを受け入れてくれたの。だから私の中の皆、紫苑のことが好き」
ゾーンの口から乾いた笑いが漏れる。
「はは、はは、ははははは……」
それは、ゾーンの支えが全て失われた瞬間だった。
「ごめんね、ゾーン。ノエルはもういないの。ううん、いなくなったわけじゃないけど、私はもう、ノエルを含めて綾音なんだよ」
真実を告げる綾音の姿が、紫苑には本当に悲しそうに見えた。
「……すべてを受け入れる、か。だから僕は、ノエルにも見て貰えなかったんだね。そんな僕がノエルを独占しようなんて、所詮愚かで浅ましい考えに過ぎなかったんだ」
はははと、力ない笑いが空間に木霊する。
掛ける言葉も見当たらず、紫苑と綾音はただ静観することしかできなかった。
「……」
ふっと、笑い声が鎮まると、ゾーンは何かを悟ったような澄んだ眼になっていた。
「シオン、僕はずっと嫉妬していたんだ。消えてからもなおノエルの心に残る君に」
紫苑は何も答えず、ゾーンの次の言葉を待っている。
少し間を置いてから、ゾーンは力強く前に向き直った。
「僕は少し、旅に出るよ。世界を回って、人を見てくる。ノエルの判断が正しかったかどうか、僕自身が判断するために。それこそが、ノエルに固執してきた僕が独り立ちすることだと思うから」
そう言って笑うゾーンには、研究所にいる頃に見せた自然の笑顔が浮かんでいた。
「また、会えるよね?」
少し泣き出しそうな綾音が、涙をこらえて尋ねる。
「うん」と、ゾーンが頷くと、綾音はパッと顔を輝かせた。
そして、今度はシオンに向き直り、
「ノエル……いや、綾音を頼んだよ。三人の女の子に選ばれたんだ。責任重大だぞ?」
と、ゾーンはわざと茶化して言った。紫苑はこの場所に来て初めて笑い、
「ああ、大丈夫。お前がノエルを思う気持ちくらい、俺は綾音の全てが好きだ」
「フッ、言ってくれるじゃないか」
張り詰めた空気が緩み、一気に場が和やかに変わった。
「それじゃあ、二人とも、お元気で」
二人が返事を返す前に、ゾーンは終焉の鍵、及び精神世界から姿を消した。
「……綾音、俺たちも帰ろう」
紫苑が言うと、綾音は少し(と言っても綾音にしてはだが)うーんと、うなった後。
「少しだけ待ってて」
そう言って、綾音は終焉の鍵に歩み寄ると、両手でその表面に触れる。
「おい」と、紫苑が止める前に、綾音は終焉の鍵に触れて、何かを行っていた。
鍵は一度甲高い金属音を響かせただけで何ら変化せず、綾音は何故か喜色満面で紫苑の元に走り寄って来た。
「何をしたんだ?」と言う問いに、
「世界の人たちに優しさの種をまきました」と、綾音はいつもの笑顔で答えた。
紫苑は意味がわからず首を傾げたが、綾音はそれをさほど気にする様子も見せずに、
「さぁ、帰ろう。私、元の場所に戻ったら、してほしいことがあるから」
そう言って、絶対に離さないという風に、シオンの手をギュっと握った。
紫苑にゾーンのような力は無く、綾音が何を考えているかなどわかるはずもない。
だが、紫苑は不敵に笑って言った。
「奇遇だな。俺も、戻って綾音にしてやりたいことがある」
不思議なことにシオンも同じように思っていた。
「私、二回目に紫苑と出会った公園で待ってるから。必ず、必ず来てね」
二人は見つめあったまま微笑みあう。
そして、二人の意識は精神世界から現実へと戻って行った。
17
ノエルが終焉の鍵でしたこと。それは世界中の人々が自分にとって悪い事や良い事をするとき、その人にとって最も大切な人や物、思い出が脳裏をよぎるというものだった。
人によって善悪の感覚は違う。だが、誰だって善や悪という感覚を持っている。だからこそ、ノエルはその人一人一人が最初から持っている優しさを引き出せればいいと考えて、その強い思いを以って見事に可能性を引き出して見せた。
余談だが、ノエルの蒔いた種は世界の人に漏れなく広がり、後々に世界の犯罪件数と紛争は半分になり、孤児院などの慈善事業への寄付が飛躍的に増えたという。
幾多の預言者や裁定者が考えつくことすらできなかったことを、綾音は最後の裁定者として見事にやってのけた。
しかし、彼女にとって裁定者の役割など関係ない。
彼女の優しさが、誰しもが持っている優しさの手助けをしただけ。
それはただ、人の負の面と正の面を誰よりもよく知っている、綾音という人としての純粋な願いだった。
終章〜 日常の始まりを告げる再会 〜
紫苑は駆けていた。
久しぶりに動かした足は思い通りにはいかず、何度も転びそうになったが、それでも紫苑は速度を緩めようとはしなかった。
雨に濡れた体にまとわりつく衣服も気にならないほど一心不乱に。
自分の大事な人が待つあの場所へ。
もう二度と離したりはしない。全てを受け入れて、二人で前へと進むために。
あの時と同じ場所で、あの時と同じように、綾音は座り込んで鼻歌を口ずさんでいた。
おそらく紫苑の到着するかなり前からこの場所でそうしていたのだろう、もう既に雨は止んで蒼穹が顔を覗かせていたが、癖のある長い髪はしんなりと濡れてストレートになっていた。
彼女はしばらくの間地面に小枝で奇怪な紋様を描き続けていたが、不意に顔を上げ、紫苑の存在を認めると、残った曇り空を吹き飛ばせそうなほど表情を輝かせた。
「紫苑だ!」
プルプルと犬が水を払うように髪を震わせてあらかたの水分を吹き飛ばすと、綾音は危なっかしい足捌きで紫苑めがけて走りだす。
この時、紫苑はすでに動き出していた。
次にどうなるのかは、火を見るよりも明らかだからだ。
「ああっ!」
案の定、バランスを崩して転びかけた綾音を、紫苑は絶妙なタイミングで抱き止めた。
「ったく、気を付けろよな……」
本当にいつもと変わらない綾音に苦笑しながらも、紫苑の横顔には間違いなく喜びの色が滲み出ていた。
「本当に紫苑だ! 紫苑! 紫苑! 紫苑! しおんしおんしおん!」
覚えたての言葉を使いたくてしょうがない幼児のように、綾音は何度もその名を何度も繰り返す。その名前はノエルが求めていた人で、最初の綾音に暖かい優しさと希望をくれた人で、今の綾音には無くすことができない最も大切な人。
「わかった、わかったって、紫苑だよ、綾音」
感動の再会とはいかないもんだな……と、ぴょんぴょんと兎のように跳ねまわる頭に紫苑が軽く手を置くと、綾音はピタッとその動きを止めた。
「私、頑張ったから、撫でて撫でて! それから、ギュっとして!」
「それがお前のしてほしかったことか?」
「うん!」
よほど嬉しそうに、綾音が微笑む。
珍しい事に、それを見つめる紫苑にも負けないくらい嬉しそうに微笑んでいた。
自分と同じことを考えてくれていた。綾音と深くつながっているような気がして、柄にもなく本気で嬉しくなってしまったのだ。
「よくやった。偉いぞ」
紫苑は綾音の頭を少し乱暴に撫でてやる。湿ってはいたが、絹のように滑らかな感触で、髪は引っかかることなく指の間を通り抜けて行く。
「えへへ〜」
嬉しそうに眼を細める綾音は犬っぽくて、可愛らしくて、何より愛おしく、もう少し撫でてやろうと思った紫苑も、抱きしめたくなる衝動を抑えられなくなった。
「ふわっ」
自分から頼んだ事とはいえ、突然抱きしめられた綾音は一驚する。
しかし、驚いたのは最初だけですぐに綾音も紫苑の腰に手をまわした。
「なんだか、ちょっとだけべちょっとしてるね。私も紫苑も」
なんとも言えず、苦い顔で紫苑が押し黙る。
「けど、とっても暖かい。これが人の温かさなんだよね」
ふふふ、と控えめな笑い声を洩らして、綾音は紫苑の胸に額を擦りつける。
その笑い声の響きは、ノエルのそれによく似ていた。
離れていたのはほんの少しの時間。
だが、絶望的な距離にいたはずの温かさが、今自分の胸の中にいるのだと思うと、紫苑は不覚にも泣きそうになった。
もう、絶対に離したくない。
「……く、くるしいよ〜。紫苑ってば〜」
知らず知らずのうちに力が入っていたらしく、綾音が少し苦しげに呻いていた。
「あ、……ああ、悪い」
紫苑が腕の力を抜くと、綾音は軽く咳き込んで、
「ねぇ、紫苑」
それから、急に真剣な表情になって紫苑を見据えた。
まるでふざけた雰囲気の無い眼差し。ある種の決意を秘めた、それでいてどこか後ろめたそうな、微妙な色合いを見せるエメラルドグリーンの瞳。
紫苑がじっとその瞳を見つめ返すと、綾音は意を決したように頷いて、「最後まで、ちゃんと聞いてね」と念を押して語り始めた。
「知ってると思うけど、私は今までたくさんの人の命を奪ってきた。それはもう、本当に両手では数え切れないくらい。それはノエルだけのせいじゃない。私たちみんなに責任があることなの。私はね、とてもとても、重い罪を背負っている」
悲愴に語る綾音に、紫苑は思わず目を逸らしそうになる。
だが、逸らすわけにはいかない。もう逃げないと、受け止めて生きると、決めた。
「けどね、死んで償おうなんて思ってないよ。それじゃあ死んじゃった人達に対しても失礼だし、何より皆を悲しませたくない。紫苑も、真由美ちゃんも品田君も、みんな私のことを考えていてくれるから。だから、皆のために私は幸せになるし、皆を幸せにしてあげたいと思う。でもね、それだけじゃ足りない」
綾音はそっと瞳を閉じ、自らの胸に手を当てた。
「私はね、皆のためにこの力を使おうと思うんだ。学校がある時じゃなくて、大きな休みがある時は、よそを回って病気を治したり、私にできること、誰かの幸せになることをしてあげたい。学校を出て、それから先も。感謝してもらおうとは思わない。特別なことじゃないと思うんだ。私一人で世界を救うとか、そう言うことじゃない。ただ、ほんの少しだけ、私が幸せを分けて上げられるなら、私はそれに応えたい」
綾音の言葉は淀みなく、いつになくはきはきとした口調はそれが確固たる意志であると容易に納得させられる。本来綾音は誰よりも優しい人だから、全てを知った今その罪の意識は並大抵のものではないのだろう。
「だから、我儘(わがまま)を言わせてほしいの。私が何をしている時も、どこに行こうとしても、紫苑には一緒にいてほしい。私は紫苑の傍から離れたくない。少しだけなら我慢できるけど……ずっと紫苑と離れるなんて考えられない。もしかしたら、また誰かが私をさらおうとするかもしれないけど、凄く紫苑にとって負担になるかも知れないけど、私は紫苑と一緒がいいの」
静かに目を開いた綾音は、小さな両手でひとまわりほど大きい紫苑の掌を包み込んだ。
「お願い。そんなにいっぱいじゃなくていいの。年に何週間とか、それくらいでもいい。私の我儘を許してほしい……」
紫苑の掌を握る手に力を込めて、綾音は真摯に懇願した。
震える肩。小さな背中。俯いた顔。
記憶の統合によって、綾音は大好きな人と引き離される辛さを知った。今の彼女は、自分の我儘で大切な人が離れて行く事を恐れている。
しかしそれは、紫苑にとっても同じことだった。
「当り前だろ、バカ」
軽い調子で言って見せると、紫苑は拳を作ってコツンと綾音の頭を叩いた。
「……えっ?……あれっ?」
予想外に軽い返事が返ってきたために、綾音は動転して目を泳がせている。
紫苑はふっと優しく微笑み、
「お前がどこへ行こうが、俺はどこだって付いて行く。例えお前が俺を置いて一人で言ったとしても、絶対に、地の果てまで追いかけてやるっての」
「紫苑……」
やっと、無くしていたカケラを見つけることができた。二度と手放したりしない。紫苑にとって綾音は、もはや自分の一部なのだから。絶対に何があろうとも、幾久しく、共にいると決めた。
「だからお前は、自分のやりたいようにすればいい。お前が嫌だって言っても、俺はずっとお前の傍にいるって決めたんだからな」
自分で言いながら歯の浮くような科白だと思ったが、不思議と自然に口が動いていた。
それはきっと、これが心の底からの言葉だからだと、紫苑は思う。
「うん……うん、そうだよね。紫苑、ありがとう……」
「別に、俺が勝手にすることだ。礼はいらねぇよ」
泣き出しそうな綾音を、紫苑は片腕で抱き寄せて包んだ。
(いつか自分の罪が許せるまで、贖罪を続ければいい。結局、自分の罪を許せるのは自分だけなんだから。お前の気が済むまで、俺はそれに付き合ってやる……)
言葉に出さず、紫苑は胸の中で呟いた。
(そうやって、またカケラを組み上げていけばいい……)
紫苑は腕に力を込め、さらに強く抱きしめた。少しだけ綾音が苦しげだが、関係ない。絶対に離さないという、これは紫苑なりの意思表示だ。
「けどまぁ、休みはまだまだ先だしな。石田と品田にも……機会があれば、お前のことを話してやろう。あいつらなら、多分真剣に聞いてくれるだろ」
「たぶん、じゃないよ。真由美ちゃんも品田君も、私の大切なお友達だもん」
そう言って、綾音は天真爛漫な笑顔を浮かべた。
閉ざされていた日常の扉が、ゆっくりと開かれていく音が聞こえる。
「そんじゃ、帰るか……って、俺病院抜け出して来たんだった。けど……ま、いいか。よっしゃ、また俺が手作り料理を御馳走してやる」
「しゃんはいしせんもおどろきほんかくはたまごちゃーはんだね! いこいこ!」
綾音は子供の様にはしゃぎながら、紫苑の手を引っ張って急かす。
「わかったよ。そんなに引っ張るなって」
紫苑は綾音が転ばないように注意しながら、手を取って走り出した。
人とは違う綾音と紫苑には、この先に苦難が待っているのかも知れない。
それでも、二人は生きて行く。
光り輝く幸せと暖かな優しさに満ちた日常を。
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■作者からのメッセージ
はじめまして。読んでくださってありがとうございます。誤字脱字を一応チェックしているつもりですが、たぶんまだ残っていると思うのでここで謝っておきます。自分としては星の意思というところにつなげたのは無理やりなような気が少しするような……そのあたりのところも指摘してくださると幸いです。