- 『缶の中の幸せ』 作者:氷島 / リアル・現代 未分類
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全角11131文字
容量22262 bytes
原稿用紙約34枚
おじいちゃんはベッドの上に仰向けで寝かせられていた。布団のふくらみからどれほど痩せ細った体をしているかを想像するのは難しくなかった。顔はげっそりとして、頭髪はまばらで、両の目は落ち窪んでいた。そのせいか人工呼吸器と思しきマスクが異様に大きく不釣合いに見える。首の辺りやふとんの下から何本かチューブが伸びている。
小学校に上がったばかりの結衣には、その光景がひどく残酷で不気味なものに思えた。目の前に横たわり、機械によって生かされているだけのその人物が、かつて自分が大好きだったおじいちゃんであるなどとは到底認めることができなかった。これはおじちゃんの姿をした、おじいちゃんではない何かだと思いたかった。
病室には、おじいちゃんが機械によって呼吸させられているのだろうシューシューという音と、ベッドの脇の機器から規則的に響く電子音とが気味の悪い不協和音を奏でている。誰も何もしゃべらない。
結衣のお父さんとお母さんはそれぞれベッドの両脇に屈みこみ、片手ずつおじいちゃんの手を握っていた。お医者さんと看護婦さんは無言でそれを見守っていた。結衣もとても口を開く気にはなれず、お母さんの後ろに立ち尽くした。
シュー、シューと空気の抜けるような音に合わせて、おじいちゃんの胸が上下している。それを見つめているとたまらなく怖くなって、結衣は目を背けた。
しばらく震えながら下を向いて床を見つめていた結衣の耳に、ぶくぶくと奇妙な音が聞こえた。不思議に思った結衣は恐る恐る顔を上げる。おじいちゃんの口元、マスクの内側が泡立っていた。石鹸のような細かい泡ではなく、もうちょっと荒い泡がマスクの中に溜まっていた。泡は弾けては生まれている。
「ひっ……」
結衣は声にならない悲鳴を漏らした。目を逸らしたいのに、逸らすことができなかった。こんなおじいちゃんの姿なんて見たくないのに、視点は固定されてしまって結衣の意思では動かすこともかなわなかった。
生々しい映像が、結衣の脳裏に深く刻み込まれた。
規則的に打っていた電子音が、ひときわ長く鳴った。音はいつまでも止まらなかった。おじいちゃんはなおも泡を吐き出し続けているが、誰も何もしようとはしなかった。
得体の知れない恐怖が再度結衣を襲った。これ以上直視できなかった。お母さんのすすり泣く声が聞こえた。お父さんもしきりに鼻をすすっていた。結衣も胸が苦しくなって、涙が溢れた。
次の瞬間、結衣は耐え切れず病室を飛び出していた。
五年前の、静かな夜のことだった。
結衣は学校から帰宅するところだった。まだ中学生になって間もないが、すでに通いなれた道になりつつあった。
新しい制服に、新しいかばんも持って、翳り始めた春の薄日の中を胸を張って歩く。背は少し低くてまだ随分と子供っぽい印象だが、本人はまた一歩大人に近づいたという自信に満ち溢れているらしい。
新しい友達も出来たし、勉強も今のところ順調で、毎日が楽しい。ただひとつの不安と言えば、おじいちゃんが亡くなってすぐ、おばあちゃんが入院していることだ。
経過は良くないと、今日の朝お母さんが言っていた。お母さんは定期的に病室に様子を見にいっていた。今日もそうで、おばあちゃんが結衣の顔を見たがっているから一緒に行かないかと言っていたが、結衣は断った。どうしてもお見舞いに行く気になれないのだ。それがどうしてかと問われれば、おばあちゃんのことが嫌いというわけでは決してないのだが、なんだか病院のベッドの上のおばあちゃんは、結衣が知っているおばあちゃんとは別人のような気がするのだ。そう、結衣のおじいちゃんがかつてチューブと呼吸器によって生かされていた姿を思うと、もうあんな姿は二度と見たくないという気持ちでいっぱいになる。結衣は人間が、特に親しい人間が死を迎える姿を直視するのが恐ろしいのだった。だからそんなおばあちゃんの姿を見るのが嫌だった。なんとなく会うことすら躊躇われた。結局のところおばあちゃんが入院してから一度も顔を見せていないのだった。
歩いていると見慣れた垣根の横を通る。こぢんまりとした二階建ての家で、一台分の駐車場と、ちょっとした広さの庭がある。おじいちゃんとおばあちゃんが住んでいた家だ。今でも所有は変わりないが、おじいちゃんはもういないし、おばあちゃんは病院なので空っぽだ。
毎日ここを通るたびに、ふと何か不思議な感覚にとらわれる。それはもしかしたら懐かしさなのかもしれないな、と結衣は思う。ついつい足を止めて垣根の向こう側を覗き込んでみたり、二階の窓を見上げてみたりする。
そのとき結衣は無意識のうちにスカートのポケットに手を突っ込んでいたのだが、ある重大なことに気が付いた。
「ん……あれっ」
家の鍵がない。出かけにお母さんにもらって、ポケットに突っ込んでおいたはずの鍵がない。
「うそっ……でしょ!?」
懐旧の念など一瞬でふっとんでしまったのだった。
困惑する結衣の背中に声をかけるものがあった。
「どうかしましたか」
年のころは結衣とさほど変わらないと見える少年だった。落ち着いた物腰のせいか、結衣より年上に見えなくもない。
「あ、いえ。鍵を落としちゃったみたいで」
「そうですか。大変ですね」
言葉遣いと同様、穏やかそうな、というか呑気そうな風貌だ。
「もしかして、これですか」
少年は手のひらを差し出した。
「あっ、それです。助かりました。ありがとうございます。もうほんとにお礼したいくらいに」
結衣は鍵を受け取ると、深々と頭を下げて礼を言った。少年は頭をかきながら照れたように微笑んでいた。
「でも、どうして分かったんですか?」
「ああ、僕、光物を集めるのが趣味でして」
「はあ」
結衣は内心で思い切り首をかしげていた。
「ところで、実は僕も探しものがありまして。もしよろしければ、ちょっとの時間だけでも……」
「もちろん、手伝いますよ。どうせこの鍵がなかったら、うちに帰ってもどうしようもなかったですし」
「それはよかった」
「それで、何を探してるんですか?」
少年は少し困った顔になって応える。
「何かと聞かれると、僕には、はっきりとは分からないのですが……」
「分からないのに探してるんですか?」
「ええ、すごく大切なもののような気がするので。それに、場所はだいたい分かっているから大丈夫です」
「はあ」
結衣は内心でなく首を思い切りかしげた。
「こっちです」
少年はそんな結衣をよそに歩き始める。そして――。
「ちょ、ちょ、ちょっと待って!」
結衣は鍵がないことに気づいたとき以上に困惑した。少年は、門の取っ手に手をかけたまま、足を止めて振り返る。他ならぬ結衣のおじいちゃんとおばあちゃんの家の門に。
「なんでしょうか」
「そこって、うちのおば……じゃなくて、祖父母のうちなんですけどっ! 今はいないけど」
「でもこのあたりなんです」
と言って笑顔で庭のほうに視線を向ける少年。慌てまくる結衣に対して少年のほうは至って動じることもなくマイペースだ。
「ほんとにうちの庭なんかにあるんですか……勘違いか何かじゃないんですか……」
結衣は疑いの視線をぶつけるが、「間違いないです」と自信満々に断言されてしまった。
仕方なく門を開いて、敷地に足を踏み入れた二人。
孫だから不法侵入ではないはず、と結衣は自分に言い聞かせ不安をぬぐう。一方少年は悪びれる様子もない。
いったい彼が何を考えているんだか、想像もつかない結衣であった。
当然ながら家には人影はなく、久しく手入れの行き届いていない庭は木々が伸び放題で草もわらわら茂っていた。すでに面影はなくなりつつあるが、幼いころ結衣はよくこの庭でおじいちゃんとおばあちゃんと遊んだものだった。おばあちゃんはこの庭を花でいっぱいにするのが夢だと言っていた。おじいちゃんは集まってくる鳥にいつもえさをあげていた。
だけどもう、おじちゃんは……。それに、おばあちゃんも……。
五年前のあの日のおじいちゃんの姿が結衣の頭をよぎった。脳裏に焼きついた生々しい死の映像は、忘れられはしなかった。白い病室に皓々と照らす蛍光灯。人工呼吸マスクから漏れるシューシューという音、電子音、すすり泣く声。そしてなにより、無数のチューブに繋がれたおじいちゃんの、変わり果てた姿――。あれが、人間の最後の姿――。
不意に肩を叩かれ結衣は五年前の記憶から呼び戻された。
「これ、どうぞ」
「え?」
少年は小さなスコップを差し出していた。きょとんとして結衣は固まってしまった。
「そこに置いてあったので。借りてもいいですよね」
少年は笑顔だ。
「え、ええ、もちろん。でもスコップなんて何に?」
「草がぼーぼーですから。これくらいあったほうがいいと思って」
二人はスコップを武器に草を掻き分けながら、正体不明の探し物を探した。
おじいちゃんとおばあちゃんの庭で勝手にこんなことやっていいのだろうかと躊躇いもしたが、人の手が入らなすぎるのもよくないと言い訳した。それに、かつてのような庭を取り戻したいという思いもあった。二人は思い思いの場所にしゃがみこんで、繁茂した雑草と格闘した。ふと思い出したように顔を上げると結衣が尋ねた。
「わたし、結衣っていうの。あなたは?」
少年も顔を上げて結衣の方を見た。
「アリス」
「ぷっ」
結衣は思わず吹き出した。
「何それ。外国人? というか、女の子の名前だよね?」
「僕は男、つまりオスですけど」
さも平然と返す少年。
「あなたって変……じゃなくて、面白いのね。ほんとの名前は?」
「ほんとの名前がアリスです」
「さすがにそれを信じろっていうのはね」
「名付け親が、そう付けたのだからアリスなんです」
「あはは、男の子に女の子の名前を付けるなんて、アリスの名付け親って、言っちゃ悪いけどかなりのオバカさんね」
「結衣さんがそういうなら、きっとそうなのでしょう」
「なんだかよく分からないけど、がんばろ、アリス」
「はい」
ふと気がつくと結衣は時間も忘れて、そして本来の目的も忘れて草むしりに精を出していた。三人が幸せなときを過ごした庭を、元通りに復活させられたらいい。草ぼーぼーの庭を、またお花と小鳥のさえずりでいっぱいにしたい。真新しかった制服に泥が付いても気にすることはなかった。黙々と雑草の園を開拓していった。
「ねえ、アリスの探し物って、大きいの? 小さいの?」
「そんなに大きくはないはずです。園児でも軽々持てるくらいですから」
「何色?」
「青でした」
真ん中のほうから隅に向かって開拓は続く。やがて一本の立ち木の根元で結衣のスコップがカチンと何かにぶつかった。スコップで周りを崩して取り出し、手で土を払うとそれはクッキーの缶だった。確かに青くて、軽々持てるものだ。
「あった! ほんとにあったよ! 実はちょっと疑ってたんだけどね」
結衣の声に応える声はなかった。
「おーい。あったよ? これでしょ? アリス?」
振り返ってみるとそこには誰の姿もなく、ただスコップがひとつぽつんと残されていた。結衣は誰もいない庭に向かって尋ねる。
「トイレにでも行ったの? 勝手に開けちゃうよ? 中身見ちゃうよ? さん、にー、いち、ぜろー」
ぱこーんと爽快な音が鳴って、缶が開いた。中を覗き込んだ結衣は、唖然とした。
写真と絵が入っていた。結衣は缶の中から一枚の写真を手に取った。
真ん中には満面の笑みではしゃぐ三つ編みの小さな女の子。彼女の左右には、暖かな微笑をたたえた老夫婦が写っていた。
◆
「結衣はとってもいい子ね」
「ああ、そうさ。優しいし、元気もあるし、かけっこも速い。それにもう絵本だって読める!」
結衣はそんなふうに褒められるのが嬉しくて嬉しくてたまらなかった。褒められたくて何事も一生懸命頑張った。
「わたし、絵本大好き」
「そうかそうか。結衣はどの本が好きなんだい?」
「ぜんぶ。だけどいちばんは……不思議の国のアリス!」
「すごいね、結衣は」
おばあちゃんの暖かな手が、結衣の頭を撫でる。おじいちゃんは楽しそうにそれを見ている。結衣は二人が怒ったところを見たことがなかった。二人はいつも笑顔だった。
おばあちゃんは顔も体も細くて、よくおじいちゃんが「昔は美人だったんだ」と言っていた。そのたびにおばあちゃんは「あら、昔は、ってどういうことかしら」と言って笑う。実際おばあちゃんはシミやほくろもなくて、昔は綺麗だったのだろうと思う。意志の強そうな目や小さくて形のいい鼻なんかを見ると、その面影を感じる。
おじいちゃんはがっしりした体つきで、とても強そうだ。昔は体操をやっていたらしく、スポーツマンであったようだ。優しそうな細い目も、いつも抱きかかえてくれる大きな手も結衣は気に入っていた。
二人が大好きだった。お父さんとお母さんも大好きだが、おじいちゃんとおばあちゃんも同じくらい大好きだった。
おばあちゃんの趣味は庭に咲いているいろいろな花のお世話、おじいちゃんの趣味は庭に集まってくる小鳥にえさをやることだった。
二人とも庭が大好きだった。そんな二人にくっついて庭で遊びまわるのが、結衣は好きだった。
おばあちゃんにくっついて、木や花の名前を教えてもらった。一緒に種を蒔いて水をあげた。芽が出たときは一緒に喜んだ。一緒に成長を見守り、花が咲いたらまた一緒に喜んだ。
おじいちゃんにくっついて、一緒に小鳥にえさを撒いた。一緒に鳥かごを作って、そこにきた小鳥を一緒に観察した。
三人で庭で泥だらけになって遊んだ。ボールや雪や落ち葉でも遊んだ。
あるとき結衣が、傷ついて飛べなくなっている小鳥を持ち帰ってきた。おじいちゃんならなんとかしてくれると思ったからだ。
「大丈夫さ。少しすれば、元気に飛べるようになる」
かくして小鳥はおじいちゃんとおばあちゃんの家のお世話になることとなった。
「この子、名前はないのかしらね」
おばあちゃんが言った。
「だったら、わたしがつける!」
「ええ、そうしてあげるといいわ」
「えーっと、うーんと……」
しばらく考えて、このオスの小鳥は「アリス!」と命名された。
アリスがやってきて五日目、羽をばたつかせるくらいはできるまでに回復した。アリスの席は庭が良く見える窓のそばだった。結衣曰く、「お空が見えないと可愛そう」とのことだった。
結衣は毎日ここに遊びに来ていたわけではない。週に一度、多くても二度くらいだ。だがアリスがやってきてからは、様子が気になってか、頻繁に訪れていた。
「ねーねー、おじいちゃんおばあちゃん。わたし、タイムカプセル作りたい」
結衣はおじいちゃんの膝の上でそう提案した。
「あらあら、タイムカプセルなんて、よく知ってるわね」
「絵本で読んだの。大切なものを入れるんだって。それでずーーっと時間が経ったら開けるんだって」
「結衣は何を入れたいんだい?」
「うーんと……」
そんな三人のやりとりを、小鳥のアリスが羨ましそうに眺めている。
「わたし、おじいちゃんとおばあちゃんとアリスの絵にする。おじいちゃんとおばあちゃんは?」
「そうね。三人幸せに笑っている写真を入れようかしら」
「抜けてしまったアリスの羽も入れてやろう」
茶と白の羽をばたつかせて、空に戻る準備に余念がないアリスを見ながら、おじちゃんもそう言った。
結衣は幼稚園のかばんからクレヨンを出してきて、さっそく絵に取り掛かった。おじいちゃんとおばあちゃんは、タイムカプセルにする容器と、中に入れる写真を探していた。アリスは羽ばたきの練習をしながら、三人を見守っていた。
◆
――ずっとずっと、こんな幸せが続きますように。
結衣は写真を見つめたまま、しばらく立ち尽くしていた。もう十年も前のことを思い出していた。あたりは少し暗くなり始めていた。
写真から、幼いころの結衣が描いた絵に目を移す。それはクレヨンで鮮やかな色使いで描かれた三人と一羽の絵だ。結衣が思わず微笑をもらしたのは、その絵が現在の結衣からしたらあまりに下手だったから気恥ずかしさを覚えた、というだけではないだろう。下手なりにも自分がどれほどこの絵に思いをこめていたかということが、ありありと思い出されて懐かしさを覚えたのだ。
結衣は再び缶の中を覗き込む。そこには薄茶色と白の混ざった鳥の羽が、幾本かあった。
「アリスの羽もちゃんと入れたんだった」
結衣は一本を取り出して、くるくると回しながら眺める。
「ん。アリス……? アリスって……。あれ、なんだろこれ」
缶の底に白い便箋を見つけて、結衣は思考を中断した。結衣が思い出した記憶の中では、写真、絵、羽……それがこのタイムカプセルの中に入れた全てのはずだった。
見ると表には『未来の結衣ちゃんへ おじいちゃんとおばあちゃんより』とある。『おじいちゃん』のところだけカクカクした変てこなバランスの文字で、あとは全部丸みのある流麗な文字だ。ご丁寧に切手も貼ってある。
「あっ……」
結衣は思いかけず宝物を見つけた気分だった。胸が高鳴った。便箋を開き、中の手紙を取り出す。かつての面影が薄れた荒れ放題の庭の真ん中で、立ったまま目を通す。おばあちゃんが筆を執ったらしい柔らかな文字が並んでいた。
こんにちは、結衣。
よくタイムカプセルのことを覚えていましたね。
絵本の言葉もすごい速さで覚えていく賢い結衣のことですから、きっとそうであると思っています。
いま、あなたはいくつになっているのでしょうか。
やりたいことは見つかりましたか?
夢は見つかりましたか?
それともすでに新しい幸せを見つけて、あなたらしく人生を歩んでいるのでしょうか。
もしそうならば、こんなに嬉しいことはありません。
あなたは不思議の国のアリスの絵本が大好きだったわね。
夢の世界へ迷いこんだアリスのように、困難や障害に苦しめられることもあるでしょう。
そんなときアリスは、どうしたでしょうか。
もしアリスが、そこで立ち止まってしまうような子だったら、結衣の大好きなこのお話は、あんなに面白くはならなかったでしょうね。
わたしは、あなたもアリスと同じであってほしいと、そう考えています。
あなたの人生が、絵本よりももっと不思議にみちあふれた、楽しい世界になりますよう、願っています。
短いけれど、これくらいにしておきましょう。
はやくはやくと、あなたがせかすものですからね。
読み終わると結衣は、大きく息を吐き出した。短い文章で、時間にして数分と経っていないはずであったが、長い長い小説を読み終えたときのような、すがすがしさがあった。体の緊張が一気にとけたような感覚だった。
結衣は手紙を丁寧に二つ折りにし、便箋にしまった。そして再び写真を見た。
三人が幸せそうに笑っている。背景の赤や黄や白の花々も、どこか楽しそうだ。
「おじいちゃん、ごめんね。わたし、最後までおじいちゃんのこと見ていられなかった」
結衣は写真の中の二人に語りかける。
「怖かった。見たくなかった。聞きたくなかった。でも、あそこにいたのが、やっぱりわたしの好きなおじいちゃんなんだよね? わたしはそれを認めて……現実を、すべてを認めて……受け入れなくちゃだめだったんだよね……?」
その声に応えるかのように、草木の香りをはらんだ風が、結衣の髪を揺らす。優しく、暖かく、頬を撫でる。
「おばあちゃん、わたし、会いに行くから。今度、お母さんと一緒に、顔見せに行くからね」
夕暮れが近づいていた。
携帯電話の着信音が静寂を破ったのは、直後のことだった。
スーツ姿の父親が運転する車の助手席で、結衣はまだかまだかと信号が青に変わるのを待っていた。父親はハンドルの縁を指でしきりにとんとん叩いており、落ち着きがないように見える。
「ちょっと混んでるな。向こうの道から行ったほうが早かったか」
なかなか目的の病院に近づかないもどかしさでいっぱいなのだろう。結衣も多少の不安はあったが、出来ることがない以上、仕方のないことだ。
「おばあちゃん、そんなに良くなかったの?」
「ああ、そうらしい。朝もお母さんが言ってたろう?」
信号が青に変わり、車が流れ出した。すでに日は暮れて、窓の外にはネオンや街灯、信号の明かりがきらきらしていた。
「予想ではもうちょい大丈夫だったはずなんだがな……」
「そうなんだ……」
結衣の瞳に映る、暗闇に浮かび上がる七色の光たちは、どこか現実離れした鮮やかさを帯びていた。夜の闇を背景にして輝くそれらは、鮮烈過ぎて、明瞭過ぎて、現実を通り越して幻にさえ見える。それでいて黒い水面に映った光が波に揺れるように、ときどき歪む。ひどく現実感が薄く、離れたところから客観的に、どこか人事のように自分を眺めている気分だった。
一時間かかってようやく病院に着いた。エレベータでおばあちゃんの病室のある階まで上がった。父親のあとについて黙って歩く。二人分のリスッパの音が静かな廊下に木霊している。
やがて目的の扉の前にたどり着く。結衣はおばあちゃんの名前が書かれたプレートを見て、身構える。長らく遠ざかっていた場所に、遠ざけていた場所に、ついに結衣は来てしまった。覚悟はすでに決めたはずだったが、体が強張っていた。
父親はそんな結衣を待ってはくれない。彼はプレートを一瞥して確かめ、扉を開けて結衣を促した。
結衣は一度大きく息を吸うと、足を踏み入れる。続いて父親が扉を閉め、入ってくる。
入り口付近にはクリーム色のカーテンで仕切りがされており、中の様子は見えない。ただ規則的な電子音がピッ、ピッと鳴っている。奥へと進むとお医者さんと看護婦さんの背中が見え、ベッドのそばに寄り添う母親が見え、そしておばあちゃんの姿が目に入った。
結衣は息を呑んだ。おじいちゃんのときと全く同じ光景があった。五年ぶりに見た人工呼吸マスクの奥の顔は、やつれ骨ばり、深くしわが刻まれていた。目は閉じ、チューブを通して供給されるわずかばかりの薬品で生かされているだけで、意思も感情も存在しないように見えた。
目を逸らしたくなった。やつれてしまった顔も、枯れ木のようになってしまった腕も、見たくなかった。それは結衣が五年間、避け続け逃げ続けてきたものに他ならなかった。
こんなおばあちゃんの姿は知りたくなかった……。一生幸せの中にいた三人の記憶だけあれば、それでよかったはずなのに……。
結衣の視界が、ぐらりと歪んだ。平衡感覚を失ったかのように、視野が暗くなって傾いだ。
五年前は現実を拒否して逃げた。そして今、再び望まぬ現実がやってきた。逃げれば、今までと何も変わらない。すべてを見届けて、受け入れて帰らなければ……何のためにここにやってきたというのか。そして何より大好きだった人に、自分を愛してくれた人に、氷霜の寂慮を抱えさせたままで逝かせることなどあっていいものか――。
「おばあ……ちゃん……」
震える喉からかろうじて搾り出した声は、果たして届いたかどうか分からない。
「ごめんね、おばあちゃん……わたし、会いに来たよ……」
だが結衣は目を逸らすことも、瞑ることもなかった。真っ直ぐにおばあちゃんを見据え、近づいていくと、両手で包み込むようにして片手を取った。
「結衣、やっと来てくれたのね」
母親が少しほっとした表情を見せた。何かとうやむやにして面会を避けてきた結衣だから、まさか今回も来てくれないのではないかと心配していたのだろう。
お医者さんの話だと、明朝まで持たないだろうとのことだった。
父親もベッドに歩み寄って、お袋……お袋……と何度も呟いていた。
だがおばあちゃんは誰の呼びかけにも応えることなく、時間が過ぎていった。
ベッド脇の機器から規則正しく鳴っていた電子音が、長い音に変わった。看護婦さんがベッド脇の機器を操作すると一旦は音が止まったが、少ししたら再びピーと鳴った。ばあちゃんは本当の最期を迎えようとしているのだと、結衣にもなんとなく分かった。すると胸の奥から熱いものがこみ上げてきて、鼻筋まで駆け上って、涙になって頬を伝った。
人工呼吸マスクとチューブ、そして命の終わりを告げる機械。無機質な部屋の中、蛍光灯の皓々たる光に包まれて、今、ひとりの人間が息を引き取ろうとしている。
それはひどく残酷な現実として結衣の心を蝕む。拒絶し、否定し、突き放して逃げ出したい思いを湧き上がらせる。
だが結衣はただひたすら耐えた。おばあちゃんの手のぬくもりを一生懸命感じようとした。頬を伝う涙は、まるで逃げ出したいと思う心の弱い部分を体の外へと吐き出しているようでもあった。
「わたしの勝手で、顔、見せられなくて……お話、できなくって……ほんとに、ごめんね……」
わたし、全部受け入れるよ、逃げないよ――結衣は心の中でそう呟く。幸せな記憶の中のおばあちゃんも、こうして今、最期のときを迎えようとしているおばあちゃんも、どっちも結衣の大好きなおばあちゃんなんだもの――。
結衣は、すがるような思いで握っていたおばあちゃんの手が、わずかに、本当にわずかだが握り返してくれたような気がした。それは単なる錯覚かもしれなかったが、結衣にとっては何よりの応えだった。大粒の涙が落ちた。
「……うくっ……、ごめんね、ほんとに……っ……ごめっ、ん……」
涙で視野がぼやけていた。だけど結衣は最後までおばあちゃんの顔から目を離さなかった。睫毛の一本一本から、しわの一つ一つまでを目に焼きつけた。そして取り合った手に感じるわずかな体温を通じて、何かをひとつでもたくさん受け取ろうとしていた。
おばあちゃんは息を引き取った。
お医者さんが、死亡を確認し、時刻を告げた。
午後十一時八分のことだった。
◆
春から夏への季節の変わり目、結衣はおじいちゃんとおばあちゃんの思い出が詰まった庭にいた。ジャージ姿で軍手、片手にスコップという格好で、生い茂った雑草と格闘中であった。
「ふう……まだ半分、ってとこかぁ」
一度立ち上がって見渡し、またすぐにしゃがみこんで雑草退治に戻る。だいぶ夏らしい暑さになってきたせいか、顔にはいっぱいの汗が浮かぶ。
両親はどうやらこの家を手放すことに決めたらしい。それはつまりこの庭もじきに結衣が勝手に入っていいような庭ではなくなってしまうということだ。
この庭は確かに思い出がたくさん詰まっている大切な場所だ。だが維持や管理の負担を考えれば、両親の判断は妥当なものだと結衣にも思えた。住む人間がいないのだから仕方がない。主を失った家というものは、驚くほどの速さで荒廃の一途を辿る。事実すでに庭がこの有様だ。
結衣は滴る汗を気にすることなく、作業を続ける。三人が幸せに過ごした庭を、あるべき姿に戻すために。次にこの家に住む人たちが、この庭で幸せな思い出を作れるように。
「にしても、暑すぎ……」
結衣が顔を上げると、青空に一羽の小鳥が飛び立った。結衣の苦労など知るよしもなく、大空を気持ちよさそうに旋回し、飛び去っていった。
すると心地よい風がそよぎ、結衣の頬を涼しげに撫でる。
「ありがとう……」
再びやる気を出した結衣は、草むしりに没頭するのであった。
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2009/06/19(Fri)16:38:42 公開 / 氷島
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■作者からのメッセージ
はじめまして。氷島というものです。簡易感想つけてただけの臆病者ですが、どうも投稿したくなってしまったので投稿してみます。
アドバイスや意見はもちろん、簡易感想だけでも結構ですので、どうかよろしくお願いします。
余談かもしれませんが、特にキャラ作りが苦手というか、どうも人物が薄っぺらくなってしまいがちなので、そのへんの表現が量的質的に適切かどうか、伝わったかどうかなど、コメントいただけるととてもありがたいです。