- 『Belong』 作者:雪宮鉄馬 / リアル・現代 未分類
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全角73031文字
容量146062 bytes
原稿用紙約208.7枚
交通事故で父を失った幼い姉と弟が、離れ離れで暮らす母を探して、長いたびに出る。やがて、優しい大人や厳しい現実に出逢いながら成長し、姉弟はあめ決断をする。ロードムービー的な小説です。
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雨が降るたび、いつも思い出す。
握り締められた手に力がこもって、痛い。ぼくは、急に不安になって顔を上げた。月は雨雲に覆われ、真っ黒な夜空から降る雨が、アスファルトを叩き、街灯に彩られた歩道を透明にぼやけさせる。お姉ちゃんは肩を雨にぬらしながら、泣いていた。
お姉ちゃんは絶対に泣かない人だった。気が強いと言うのか、どんなことがあっても絶対泣かない。泣き虫な弟のぼくより、ずっと強い人だと思っていた。それなのにお姉ちゃんは、泣いていた。頬を伝うのは雨なのか、それとも涙なのか良く分からなかったけど、震える肩も、時々しゃくりあげる声も、ぼくに「泣いている」と分からせるのには十分だった。
「ごめんね、拓海。ごめんね」
街路の真ん中で立ち止まり、お姉ちゃんはぼくに、本当のことを告げてから、何度も何度も「ごめんね」と繰り返しながら泣き続けた。でも、幼いぼくに何が出来るだろう?
お姉ちゃんの頬を伝う涙を拭うには身長が足りないし、お姉ちゃんを慰めるには言葉が足りなかった。ただ、ぼくは押し黙って、じっとお姉ちゃんの顔を見つめているしか出来なかった。あまりにも子どもで、あまりにも無力で、お姉ちゃんを元気付けることも、守ることも出来ない、ぼく自身がとても歯がゆかった。
雨は、無情にもぼくたちの肩を濡らしていく。ざあざあ、と音を立てながら。
それは、お姉ちゃんが10歳。ぼくが6歳の夏の日だった。
【第一話】
ぼくの家族は、お父さん、お姉ちゃん、ぼくの三人だった。お母さんは、ぼくが生まれてすぐ、お父さんと離婚した。どうして離婚したのか、子どものぼくには分からなかったけど、それは、「夫婦の問題」なんだってお姉ちゃんはぼくに言った。離婚するということがどういうことなのか、「夫婦の問題」けがどういうことなのか、ぼくには良く分からなかったけど、たしかに、お母さんは居なくても、優しいお父さんと、ときどき喧嘩するけど大好きなお姉ちゃんがいて、ぼくはちっとも寂しいとは思わなかった。
お父さんは、お母さんと離婚してから、ずっとぼくとお姉ちゃんを一人で育ててくれた。ある日、お母さんのお母さん、つまりお祖母ちゃんが、「春香たちを引き取ってもいい、男手一つで子どもを二人も育てるのは大変だし、あなたはまだ若いんだから、これからの人生もあるのだし」と言ったそうだけど、お父さんは頑として首を縦に振らなかったのだそうだ。
お父さんの、お父さんとお母さんは、ずっと昔交通事故で、死んでしまった。だから、親がいない生活がどれだけ辛かったか、お父さんはわかっていたんだと思う。だから、ちゃんとお休みの日には、遊びに連れて行ってくれたし、ぼくたちが悪いことをしたら、きちんと叱ってくれた。ぼくもお姉ちゃんもお父さんが大好きだった。
そんなぼくのお父さんは、学校で先生をしていた。ぼくよりもずっと年上の中学生のお兄さんやお姉さんを相手に「英語」という教科を教えている。一度だけ、お父さんに「教科書」を見せてもらったけど、何だか数字みたいな、変な文字がいっぱいで、一体それが何なのか、僕には分からなかった。すると、お父さんは、笑って「お前も中学生になったら分かるさ」と言った。
かく言うぼくは、そのときやっと小学校に入学したばかりだった。お姉ちゃんと同じ学校で、お姉ちゃんは四年生、ぼくは一年生だった。
時々お姉ちゃんと廊下ですれ違う。明るくてみんなと、すぐに仲良くなれるお姉ちゃんはいつも、友達と一緒だった。すれ違うとき、お姉ちゃんはわざとぼくを見ない様にして通り過ぎる。どうしてだろう? と思ってお姉ちゃんに聞いてみると「だって恥ずかしいもん。弟と同じ学校って」って言われた。でも、絶対すれ違った後で、お姉ちゃんの友達がお姉ちゃんに耳打ちする。
「あのコ、春香ちゃんの弟でしょ? 可愛いね」
そう言われて、お姉ちゃんがまんざらでもない、という顔をして照れているのをぼくは、知っていた。
お姉ちゃんは、気が強い。ときどき、おやつの取り合いや、テレビのチャンネル争いで、喧嘩をするけど、大抵お姉ちゃんが、ストレート勝ちする。喧嘩に負けてわんわん泣く僕をなだめながら、お父さんが「春香は、大人しくしていれば、お母さん似で可愛いのになあ」と苦笑しながら言ったことがある。
弟と言う立場上、贔屓目に見ても、お姉ちゃんは結構美人だと思う。だけど、保健室送りにした男子生徒は、10人以上という、あんまり嬉しくない噂まで持ってるくらいだ。でも、そんなお姉ちゃんに助けられたことも、一度や二度じゃない。
ぼくは、泣き虫で弱虫だった。近所の子にいじめられたり、クラスの子にいじめられたりするのはしょっちゅうだった。ぼくが泣いていると、いつもお姉ちゃんがクラスに現れて、ぼくを助けてくれる。その時は、お姉ちゃんが正義のヒーローに見える。
どんなに喧嘩したって、お姉ちゃんは弟想いで優しい。だから、ぼくはお姉ちゃんも大好きだった。
幸せと言うのは、どんな時でもぼくの傍にあって、ぼくを優しく包み込んでくれる。父子家庭だから、いいことばかりじゃなかったけど、ぼくは多分、世界中の誰よりも幸せだと思う。でも、誰が言ったんだろう? 幸せは長く続かないって。平穏に思える日常は、それほど頑丈じゃなくて、ガラスで出来たお城のように脆くて、触ると崩れていく。
暑い夏が始まりそうなある日、その日は昨日の夜から台風で、窓の外ではごうごうと、風が唸り声を上げていた。まるで、怪獣が暴れているみたい。学校もお休みで、ぼくはその日一日休みになったのが嬉しくて、テレビを見たり本を読んだりして過ごしていた。お姉ちゃんも一緒だった。お父さんは、勤め先の中学校へ出かけていって、家にはぼくたち二人だけだった。
嵐の音だけが聞こえる静かな部屋で、突然電話が悲鳴のように鳴り響いたのは、お昼過ぎだった。お姉ちゃんが慌てて、スリッパをパタパタさせながら受話器をとる。
「はい、遠野です。はい……はい、わたしが春香です。はい、弟もいます」
お姉ちゃんはいつも、電話に出ると大人びた口調になる。ぼくは電話に出ると緊張して、「遠野です」と名乗るのもままならない。
「え? お父さんが? はい……大丈夫です、すぐ行けます。はい、わかりました」
お姉ちゃんはそう言うと、受話器を静かに置いた。しばらく電話と睨めっこしていたが、やがてお姉ちゃんはぼくの方へ近付いてきた。ぼくは、ソファに腹這いで寝転がって、童話の本を読んでいた。
「拓海、大変なことが起きたの。いい? 良く聞いてね」
お姉ちゃんは、ひどく暗い顔をしてぼくに言った。それだけで、お姉ちゃんは良くないことを言うんだなって、ぼくにも分かった。
「あのね、お父さんが今日、学校へ行く途中で、交通事故にあったんだって。交差点で、居眠り運転していたダンプカーに轢かれそうだった人を助けて、お父さん大怪我負ったの。それで、今お医者さんから、電話があったんだけど、もう、ヨメイあまりないから、すぐ会いに来られるかって言われたの」
「ヨメイ?」
6歳の辞書には「余命」という言葉は記録されていなかった。お父さんが怪我をしたって言うことは分かったのだけど。
「もうすぐ死んじゃうかもしれない。そうしたら、もう二度とお父さんに会えなくなる。だから、お別れを言いに行くんだよ」
と、お姉ちゃんに言われても、バカなぼくはちっとも理解できなかった。
ぼくとお姉ちゃんは、身支度を整えると、病院の先生が呼んでくれたと言うタクシーに乗り込んだ。タクシーの運転手さんは、事情を知ってか知らずか、国道をぎりぎりのスピードで飛ばして、ぼくたちを病院へ運んでくれた。降りるとき「しっかりな、二人とも」とおじさんは、ぼくたちに言った。
お姉ちゃんに手を引かれて、病院に駆け込むと、見知らぬ小母さんがぼくたちを待っていた。その小母さんは、お父さんが助けた人のお母さんだった。お父さんが助けたのは、ぼくと同じ歳くらいの女の子だった。病院の受付の人と小母さんに案内されて、病室へ向かう
病室の前には、お父さんが助けた女の子がベンチに座って、泣いていた。傍らに座る髭面の小父さんは、多分女の子のお父さんだろう。
ぼくたちが病室に入ると、お父さんは真っ白なベッドの上に、包帯に包まっていた。ベッドの脇に立つお医者さんが、ぼくたちが来たのを見ると険しい顔を浮かべた。
「君たちが、遠野さんのご家族かい?」
先生の質問に、お姉ちゃんは「はい」と、しっかりした声で答えた。だけど、握られたお姉ちゃんの手にぎゅっと力が入るのが、ぼくにだけ伝わった。
「少し遅かった。手は尽くしたんだが、さっき息を引き取られたよ」
先生は肩を落として、ぼくたちに言った。息を引き取る、イコール死んでしまったということは、ぼくにだって分かった。
お父さんは、もう目を覚まさない。「おとうさん」って言っても「拓海」って笑いかけてくれない。そのちょっとタバコくさい手で、僕の頭を撫でてくれない。その包帯姿のまま、白いベッドから もう二度と。ぼくはめちゃくちゃ、悲しい気持ちになった。涙のストックは尽きることを知らず、ぼくの目からあふれ出した。人目も気にせず、わんわん泣いた。
「泣くな、拓海。男の子でしょっ」
お姉ちゃんは必死でぼくをなだめた。お姉ちゃんは泣いてなんかいなかった。やっぱりお姉ちゃんは、強い人だと思った。ぼくは、お姉ちゃんのように強くなれない。ぼくは弱虫で、泣き虫なんだ。
「泣いちゃダメだよ。お父さん安心して天国いけないよ」
お姉ちゃんは小さな手で、僕の頭を撫でてくれた。
窓の外では、風が緩やかに収まり、ざあざあと雨を降らせていた。僕の泣き声を隠すように。
お父さんのお葬式は、ぼくたちの家で行われた。台風はとっくの昔に何処かへ行ったのに、まだ雨は上がらず、空を灰色の雲が覆っていた。お坊さんが、むにゃむにゃと御経を唱える間も、お父さんを納めた棺が、運び出される間も、お父さんが小さな骨壷の中に入ってしまう間も、ぼくはずっと泣いていた。
人が死ぬ。単純な言葉だけど、とても難しいこと。息をしなくなって、動かなくなって、笑わなくなって、泣かなくなって、ぼく達の前から永遠に姿を消すこと。初めて体験する、人の死は、ぼくの心に大きな傷を残した。
それはお姉ちゃんも同じだと思う。でも、お姉ちゃんは一度も泣かなかった。本当は、お父さんが死んで悲しくないんじゃないかって思った。でも、ぼくの手を握るお姉ちゃんの手は、いつもより力がこもっていて、時々震えていた。
きっと、お姉ちゃんは泣かないって心に決めていたんだと思う。
お葬式が終わって、ぼくとお姉ちゃんは、お父さんの妹、つまりぼくたちの叔母さんに預けられることになった。昔、お父さんにぼくたちを引き取ると言った、お祖母ちゃんはもう、この世にはいなくて、ぼくたちの引き取り先は、叔母さんの家しかなかった。
家は追々に片付けて、将来大きくなったら、ぼくたちが住めばいい、とりあえず、必要なものだけもって叔母さんの家に引っ越した。
「今日からここがあなたたちの家よ。私のことはお母さん、叔父さんのことはお父さんだと思ってね」
叔母さんの家にやって来たぼくたちに、叔母さんはそう言った。
「よろしくお願いします」
お姉ちゃんは、叔母さんに深々と頭を下げた。
叔母さんの家には、ぼくより一つ年下の実夏ちゃんと、お姉ちゃんと同い年の俊哉君がいた。二人ともぼく達の従兄弟だけど、会うのはこれが初めてだった。おばさんの家はぼく達の家からそんなに離れてはいなかったけど、叔父さんとお父さんはとても仲が悪くて、ものすごく疎遠だった。お姉ちゃんは、俊哉君と同級生だったけど、あまり話したことがないらしい。
叔母さんの家は、ぼくたちの家より少しだけ大きい、白い一戸建てで、物置にしていた部屋をぼく達の部屋にしてくれた。家から持ってきた、ベッドは一つしか入らなくて、お姉ちゃんは「私が床で寝るから」と言ってくれた。だから、勉強机はお姉ちゃんに譲った。
「辛くない?」
お姉ちゃんはぼくに時々聞いた。ぼくはいつも首を左右に振った。すると、お姉ちゃんは少し笑って「そっか、そっか」と言って、僕の頭を撫でてくれる。
お姉ちゃんは辛いのだろうか? 叔父さんも叔母さんも優しい、でもどこかやっぱり「他所の子」と一線を引いていた。はれ物を触るように、ぼくたちに接することは少なくなかった。俊哉君と実夏ちゃんも同じだった。「おはよう」とか「おやすみ」以外に口を利いたことがない。でも、ぼくはそれを見なかったことにした。賢しいと思われるかもしれなかったけど、それが叔母さんの家で過ごすルールなら、それに従うしかないから。勿論、そう考えていたわけじゃなく、ぼくたちは自然とそういう態度を取っていた。お姉ちゃんも一緒だった。それが、ぼくたち姉弟の処世術だった。
転校もしなくて良いし、叔母さんも叔父さんも優しい。お父さんがいなくなったことは、部屋の隅の骨壷を見ればすぐ思い出して、涙が出てくるけど、それでも叔母さんの家に慣れるのにそんなに時間はかからなかった。
それから二週間が過ぎた。
ぼくは、学校が終わって、一人で叔母さんの家へ帰った。お姉ちゃんはまだ帰っていないようだったけど、俊哉君と実夏ちゃんの靴は、玄関ホールに無造作に脱ぎ捨てられていた。ぼくはちゃんと靴を揃えて脱いだ後、二人の靴もきちんと揃えて、それから部屋へ向かった。きちんと制服を着替えておかなきゃ、お姉ちゃんに叱られる。
階段を上がって、部屋の前まで来て、部屋の中からひそひそ場なしが聞こえてくるのに気が付いた。中に、俊哉君と実夏ちゃんがいるんだ。ぼくは、「だだいま」と言いながら、部屋のドアを開けた。
俊哉君と実夏ちゃんは、部屋の隅にいて何かをしていた。
「なんだ、帰ってきちゃったのか」
俊哉君が、つまらなさそうにぼくに言った。不意に、俊哉君と実夏ちゃんの間から、紫色の布と、乳白色の小さな壷が見えた。
「何してるの? 俊哉君、実夏ちゃん」
「何って、お前の親父見てるの。実夏が見たいって言ったんだ、いいだろ?」
俊哉君はニヤニヤしながらぼくに言った。良くみると、俊哉君たちが触っているのは、お父さんの骨壷だった。二人は、無造作に桐の箱を開けて、中に入ってるお父さんの骨壷から、お父さんの骨を取り出そうとしていた。
「ダメだよ、二人とも」
ぼくは慌てて二人を止めようとした。手を伸ばして、骨壷を開く実夏ちゃんから、それを奪い取ろうとしたのだけど、俊哉君がぼくの腕を掴んで止めた。
「いいじゃん、減るものでもないんだし。俺、人間の骨って見てみたかったんだ」
「ダメだよ、ダメっ。実夏ちゃんやめて。お姉ちゃんが言ってたんだ。お父さんはこの中で、眠ってるんだ。だから、開けちゃダメだって」
ぼくは必死に手を伸ばそうとしたけど、俊哉君の力はずっと強くて、ぼくじゃ全然相手にならなかった。実夏ちゃんは、ニコニコしながら、骨壷の中に手を突っ込んだ。そして、お父さんの白い骨を取り出すと、小首をかしげた。
「アメみたい」と、実夏ちゃんは言いながら、それを食べようとした。
ぼくは慌てて、俊哉君の腕を振り解き、実夏ちゃんの方へ駆け寄った。無理矢理実夏ちゃんの手から、お父さんの骨と骨壷を取り返した。
実夏ちゃんは突然、骨壷を取られて、ビックリしたのか泣き始めた。
「拓っくんが、とったぁ」
実夏ちゃんの甲高い鳴き声は耳にキンキンする。ぼくは必死で骨壷を抱きしめて、小さなお父さんの骨を中に納めた。
「何するんだよっ」
俊哉君が、ぼくに近付いてきて思いっきりぼくの頭にゲンコツを落とした。思わずぼくは、骨壷を落としてしまって、床中に、骨が散らばった。とても、惨めに思えた。
気が付いたら、ぼくは俊哉君の襟首に掴みかかって、俊哉君の顔にパンチをお見舞いしていた。ぼくのちっぽけな拳じゃ、俊哉君は全然痛くないみたいだったけど、真っ赤に顔を怒らせて、俊哉君は逆にぼくの胸座を掴んできた。
ぼくは必死に噛み付こうとしたけど、年上の俊哉君には腕の長さも、足の長さも、力も、歴然の差だった。ぼくは、すぐにいっぱい殴られて、泣き始めた。実夏ちゃんの鳴き声と、僕の泣き声が二重奏になって、部屋いっぱいに反響した。
「拓海、何やってるの?」
突然部屋の入り口で声がした。そこには、赤いランドセルを背負ったお姉ちゃんが立っていた。泣き叫ぶぼくと、実夏ちゃん、顔を真っ赤にして睨みつける俊哉君、散らばったお父さんの骨。
「お姉ちゃんっ」
ぼくはしゃくりあげながら、お姉ちゃんに駆け寄ってしがみついた。
「俊哉君、拓海に何したのっ!?」
ぼくを抱きとめると、キッと俊哉君を睨みつけて、お姉ちゃんが言った。いつも、ぼくを助けに来てくれるときのお姉ちゃんの顔だ。お姉ちゃんに睨まれると、大抵の男の子はそれだけですくむ。
「何って、拓海が実夏から、骨壷取ったから、止めさせようとしただけだよ」
「骨壷って、俊哉君骨壷開けたのっ!?」
「いいじゃん、骨くらい。ちょっと見てみたかっただけなんだよ。それなのに、拓海がダメだって無理矢理、実夏から骨壷取っちゃうから、実夏が泣き出して。拓海が悪いんだ」
「ふざけんなっ。お父さんは実夏ちゃんや俊哉君のオモチャじゃないんだからっ」
お姉ちゃんはぼくから離れると、つかつかと俊哉くんの前へ歩み出た。そして、少しバツが悪そうな顔をする俊哉君の頬を思いっきり引っぱたいた。
「痛てぇな。このっ」
俊哉君はまた顔を真っ赤にして、お姉ちゃんの前髪を引っ張った。女の子に殴られたということが、俊哉君のプライドに傷をつけたんだろう。でも、お姉ちゃんはもう一枚上手だった。俊哉君の顔面目掛けて、お姉ちゃんはパンチを食らわせた。俊哉君は鼻を押さえて、お姉ちゃんの前髪から手を離した。俊哉君の鼻から血がポタポタと落ちてきた。
「今度、拓海をいじめたり、お父さんに近付いたら、鼻血だけじゃ済まさないからねっ」
留めの一言に、俊哉君は負けを悟ったのか、鼻を押さえたまま、泣き叫ぶ実夏ちゃんを連れて部屋を出て行った。部屋を去り際、俊哉君は悪者の捨て台詞みたいに言った。
「拓海が散らかしたんだ。汚いからソレ、片付けとけよ」
指差すその先は、お父さんの骨を差していた。
ぼくは、俊哉君たちが出て行った後も、しばらく泣き続けていた。お姉ちゃんは、ぼくをそっと抱きしめてくれた。お姉ちゃんの暖かさが、ぼくを落ち着かせてくれた。
「女の子の前髪引っ張るなんて、最低だね、俊哉君」
泣き止んだぼくに、お姉ちゃんが苦笑しながら言った。
「ごめんなさい。ぼく、骨壷落っことしちゃって」
「謝んないで、拓海が悪いんじゃなくて、俊哉君が悪いんだから。ソレより、はやくお父さんを元に戻そう」
ぼくは、「うん」と頷いた。
制服も着替えずに、お父さんの骨をちゃんと元に戻し終えた頃、叔父さんと叔母さんが同時に家へ帰ってきた。兄妹は、すぐに両親に告げ口したのだろう。俊哉君と同じように、顔を真っ赤にした叔父さんがぼく達の部屋へ飛び込んできた。
叔父さんは何も言わずに、ぼくをゲンコツした。俊哉君のゲンコツより痛くて、折角泣きやんだぼくの涙腺がまた緩む。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
何に謝ってるのか、ぼく自身にも良く分からなかったけど、ただひたすら、叔父さんに謝った。慌ててお姉ちゃんが、ぼくと叔父さんの間に割って入った。叔父さんはお姉ちゃんにもゲンコツしようとした。でも、お姉ちゃんは「待って、叔父さん」と言って、振り下ろされる拳を止めた。
お姉ちゃんは、ぼくから聞いた事情を必死で叔父さんに話した。どうやら、兄妹が叔父さんに話した状況と、お姉ちゃんのはなす事情には食い違いがあるみたいだった。それでいて、お姉ちゃんの話には、兄妹の話にはない、真実味があった。
叔父さんは、お姉ちゃんの話が概ね真実だと悟り、また俊哉君と同じように、バツの悪そうに部屋から出て行った。入れ替わりに、叔母さんが入ってくる。
「ごめんなさいね、あの人、頭に血が上ると見境ないから。痛かったでしょう、拓海君」
叔父さんの代わりに謝った叔母さんは、「夕飯、食べるでしょ?」と尋ねた。
「後で、拓海が泣き止んだら、行きます。私達の分、残しておいてくれませんか?」
お姉ちゃんは、ゲンコツで殴られたぼくの頭を撫でながら言った。叔母さんは、「あら、そう」と、素っ気無く言ってから、部屋を出て行った。
ぼくの涙腺はなかなか締まらなくて、電気もつけない暗がりの部屋でベッドに包まって泣き続けた。お姉ちゃんは、ずっと何も言わず、ぼくの傍に座っていた。
いつのまにか、ぼくは眠っていて、夢を見ていた。
お父さんが笑っていて、お姉ちゃんが少し怒っていて、ぼくたちは車で何処かへ出かけていた。日差しの穏やかな季節だった。きっと、お父さんが言った冗談が、お姉ちゃんを怒らせてしまったんだ。
「お父さんは、デリカシーがないのっ!?」
「なんだ、春香、デリカシーなんて、ずいぶん難しい言葉知ってるじゃないか」
そういうやり取りがぼくは好きだった。やがて、車は目的地について、ぼくたちは車を降りる。緑の草がサラサラと揺れる野原。空は真っ青で、雲がところどころ羊のような形で浮いている。遠くには森が見え、森の手前には、ラベンダー畑が広がっていた。
目を凝らすと、ラベンダー畑の真ん中で、白いワンピースを着た女の人が、ぼくたちに手を振っていた。
あれは誰? ぼくがお父さんに尋ねると、お父さんは不思議そうに失笑した。
「拓海、何を言ってるんだ、お母さんじゃないか。今日は、お母さんに会いに行こうって、ここまで来たんだろ。ほら、春香、拓海、お母さんが待ってるぞ、行ってこい」
お母さん、あれが?
夢はそこまでで覚めた。お母さんの顔は遠くで全然見えなかったけど、それはとても不思議な気がした。これまで、夢に一度でも、お母さんが出てきたことがなかったからだ。
「拓海、目が覚めた?」
お姉ちゃんはぼくの傍にずっといてくれた。ぼくは半身を起こして目をこすりながら。
「お姉ちゃん。お腹すいた」と、呟いた。
「うん、そうだね。叔母さんが夕飯残しておいてくれてるから、下へ降りよう」
お姉ちゃんは苦笑しながら言った。
ぼくはお姉ちゃんに手を引かれながら、階下に降りた。ぼくはずいぶん眠っていたみたいで、周りはとても静かだった。階段を降りきる頃、リビングにだけ明かりがともっていることに気が付いた。中から叔父さんと叔母さんの声がする。
「お姉ちゃん」
お姉ちゃんは「しぃ! 静かに」と、人差し指を口に当ててぼくに指示をした。ぼくは慌てて両手で口許を押さえた。
「だから、俺はあの子らを引き取るのは反対だったんだ」
叔父さんの声だ。ひどく怒っているみたいだった。
「そんなこと言ったって、春香ちゃんも拓海くんも小さいんだし、私たちが引き取るしかなかったじゃない」
今度は叔母さんの声。
「あの子らには、母親だっているだろ。消息なんて、探偵にでも調べさせれば良いじゃないか。それがダメなら、母親側の親戚に預ければ良かったんだ。大体、あの義兄さんの子だぞ」
「だけど、あの子らを引き取らなかったら、お兄さんの遺産はもらえないのよ。我慢しなくちゃ。俊哉だって、実夏だって、これから高校へ行って、大学へ行ってどれだけのお金がかかると思ってるの?」
「そりゃ、分かってるけどさ、だからってあいつらの世話は、真っ平ごめんだ。他所の子は他所の子。うちの子ほど可愛くもなけりゃ、ただのお荷物だ」
「そうよねぇ。なんで、お兄さん、あんなお荷物残して、死んじゃったのかしら。死んだ人を悪く言いたくないけど、はっきり言って迷惑よね」
扉を隔てて聞こえてくる声は、ぼくたちに少なからずショックを与えた。遺産とか、良く分からなかったけど、「お荷物」「迷惑」という言葉の意味くらい、ぼくたちにも良く分かった。
お姉ちゃんの手が、お父さんが死んだあの日と同じように、震えていた。ぼくは下からそっとお姉ちゃんの顔をのぞいた。
怒ってるの? 焦点の合わない瞳で、お姉ちゃんはリビングのドアを見つめていた。
「お姉ちゃん」
ぼくは小声で言った。お姉ちゃんは我に返ったみたいに、ぼくの方を見た。
「行こう、拓海」
お姉ちゃんはそう言うと、踵を返して、足音を立てないように慎重に二階の部屋へ戻った。ぼくもお姉ちゃんも、何を言ったらいいのか分からなくて、真っ暗な部屋の中で、ぼんやりとしていた。
お腹がすいているはずなのに、それさえ口に出すのが憚れるような、重い空気だった。
それから、たっぷり二時間は沈黙が部屋を支配した。ぼくはゲンコツでちょっと痛む頭をさすってみた。二度もゲンコツを食らったのだ。お父さんはどんなに怒っても、絶対に暴力を振るわなかった。
「悪いことをしたっていうことを、痛みで覚えさせるんじゃなくて、心で覚えて欲しいんだ」
お父さんは、いつもそう言っていた。だから、姉弟喧嘩したときだって、いつも公平にしかってくれた。どうして悪いのか、何が良くなかったのか、ぼくたちが納得するまで教えてくれる。それが、お父さんだった。
「ねえ、拓海」
突然お姉ちゃんがぼくに言った。さすっていた手を止めて、お姉ちゃんのほうを見ると、お姉ちゃんは暗がりの中で、とても厳しい顔つきをしていた。怒っているときのお父さんみたいだった。
「私、叔母さんの家を出ようと思うの。それで、お母さんを探そうと思うんだけど」
「お母さん?」
「うん。叔父さんたちは私たちがいると、とても迷惑なんだと思う。だから、お母さんのところへ行こうと思うの。拓海はどうする?」
ぼくはしばらく考えた。さっきみた夢が、頭の中に蘇る。夢の中でお父さんは言ってた。「ほら、春香、拓海、お母さんが待ってるぞ、行ってこい」って。
「ぼく、お姉ちゃんと一緒に行くよ」
僕がそう言うと、お姉ちゃんの顔に笑顔があふれた。
「でも、お母さん、何処にいるの?」
「それは、私も知らないけど、手がかりはあるんだ。吉村さんっていって、お母さんのお友達が、きっとお母さんの居所を知ってるはずなの。だから、まず、吉村さんに会いに行こう」
そういうと、お姉ちゃんはお出かけの時に使っている、肩掛けのポシェットから封筒を取り出してきた。
「お家を片付けてるときに見つけたんだ。吉村さんのお家の住所だよ」
と、言ってお姉ちゃんはぼくに封筒を見せた。
それから、ぼくたちは急いで荷物をまとめて、家出の準備を整えた。と言っても、たくさん荷物は持っていけないし、ぐずぐずしていると、叔母さんたちに見つかってしまうかもしれない。制服も着替えずに、持っているぼくとお姉ちゃんのお小遣いをお財布に仕舞って、ポシェット一つで、出て行くことにした。部屋を出る時、お姉ちゃんは桐の箱から、骨壷だけを取り出して、それも大事そうにポシェットへ仕舞った。
「お父さんも、一緒に行こう」
お姉ちゃんは、ぼくに言うではなく、骨壷に話しかけるみたいに言った。
忍び足で、階段を降りて玄関へ向かう。まだリビングからは、叔母さんたちの声が聞こえる。静かに靴を履くと、玄関のドアを開けた。夜風がふわりと、ぼくの頬に触れた。
「寒くない?」
お姉ちゃんがドアを閉めながら、ぼくに尋ねた。ぼくはめいっぱい、頭を左右に振った。
「そっか、じゃあ行こう、拓海」
お姉ちゃんはぼくの手を握ると、夜の街を歩き始めた。
こうして、ぼく達の旅が始まった……。
【第二話】
月の光は斜めにぼくたちを照らす。その青白い光りが、道標みたいにみえた。世界が全部透明に見えて、僕たちの行く先を示しているみたいだった。
お姉ちゃんと手をつないで、住宅街を抜ける。途中、ぼくたちが住んでいた家に立ち寄って、「行って来ます」をした。
春は庭で、お父さんと一緒に、花壇を作った。お姉ちゃんが植えた花が、一番綺麗だった。夏は、皆で花火をした。お父さんがロケット花火を上げて、隣の叔父さんに怒られた。秋は、ベランダで天体観測をした。お父さんにいくら星座の位置を教えてもらっても、ぼくは見つけられなくって、泣き出した。冬は、玄関口に雪だるまを飾った。一生懸命、近所でも一番大きなものを作ろうってがんばったのに、次の日には、溶けてしまった。
いつでも、家族三人で、笑ったり泣いたり。ずっとそれが永遠に続くと思っていた。ううん、きっと終わりが来るなんて想像もしなかったんだ。だけど、現実には、もうお父さんはいなくて、ぼくの家族は、お姉ちゃん一人になってしまった。
「お母さんのところへ行っても、いつかみんなで戻ってこようね。ここへ」
お姉ちゃんは、月を背にじっとたたずむ家に向かって言った。家は、ただじっとぼくたちを見守っているみたいだった。
「うん、行って来ます」
ぼくは、物言わぬぼく達の家に向かって言った。
家を後にして、ぼくたちは駅へ向かった。吉村さんの住んでいる場所は、この町から私鉄に乗って、終点まで行かなくちゃならない。そのくらい遠いんだって、お姉ちゃんは言った。駅前は、繁華街になっていて、ロータリーを中心に大勢の人がいた。お酒を飲んでほろ酔い気分の小父さん、ギターを爪弾いて声を枯らしながら歌うお兄さん、携帯電話片手に楽しそうにお話しする高校生。
「私、駅員さんに電車の時間、聞いてくるからね。拓海はここで待っててね」
お姉ちゃんは、駅の入り口でそう言うと、ぼくの手を離して駅の奥へ入っていってしまった。駅はとても大きくて、すぐにお姉ちゃんの姿は見えなくなった。
ぼくは入り口の太い柱に寄りかかって、少し心細く思いながら、お姉ちゃんを待つことにした。柱にはポスターが貼ってあったけど、まだ見たことがない難しい漢字ばかりでぼくには読めなかった。ただ、美人のお姉さんが、変なサングラスとマスクをつけた小父さんを叱り付けている絵が、何となくおかしかった。
「ねぇ、君何してるの?」
ロータリーで友達と楽しそうに話していた高校生のお姉さんが三人、ぼくに気がつき近付いてきた。ぼくは、ちょっと怖くなって身構えた。
「もう10時過ぎてるよ。お家へ帰らないの?」
「お父さんは、お母さんは?」
お姉さんたちは次々と質問してきた。ぼくは背中を柱、左右と前をお姉さんに囲まれて、少し怯えたみたいになった。
「あの、あの」
何か言わなきゃって、必死に言葉を探したけど、ぼくはすっかりすくんで、なかなか言い出せない。お姉さんたちは、別にぼくを脅そうとか、悪いことを考えてるようには見えなかったけど、ぼくよりうんと年上の人に、囲まれてしまってどうしたら言いか分からない。
「拓海っ」
高校生のお姉さんたちの後ろから、聴きなれた声がした。お姉ちゃんだ。お姉さんたちも声に気付いて振向いた。お姉ちゃんが高校生のお姉さんたちをかき分けて、ぼくの方へ駆け寄ってきた。ぼくは半ば、怖くって泣き出しそうだった。必死にお姉ちゃんにしがみついた。
「あなた、この子のお姉さん?」
高校生のお姉さんがお姉ちゃんに尋ねた。お姉ちゃんは少し睨みつけるような顔をした。
「そうです。うちの弟に何か用ですか?」
「用ってこともないんだけどさ、こんなちっちゃい子が一人でいるから、どうしたのかなって思っただけよ」
「私たち、親戚のお祖母ちゃん家へ行くんです。用がないんだったら、弟に話しかけないでっ」
お姉ちゃんは、語気を強めてそう言うと、ぼくの手を引っ張って高校生の輪から飛び出した。勿論、お祖母ちゃん家へ行くなんて、まるで嘘だ。高校生のお姉さんたちは、呆気に取られたようにしばらくぼくたちを見ていたけど、すぐに何もなかったように、また楽しそうなおしゃべりに戻っていった。
お姉ちゃんは、ぼくの手をぐいぐい引っ張って、改札口のほうへ向かっていく。
「痛い、手引っ張らないで、お姉ちゃん」
ぼくはもがいてお姉ちゃんの手を振り解こうとした。あんまり強く引っ張られるものだから、手が肩から引っこ抜けそうに思えた。
「ごめん」お姉ちゃんは慌てて、ぼくの手を離す。「ごめん。拓海を一人にしとくべきじゃなかった」
そう言われて、はじめてお姉ちゃんが少し怯えているのに気が付いた。そうだ、お姉ちゃんは10歳で、それよりも年上の高校生はとても大きい。少し怖かったのかもしれない、と。
「もうすぐ、最後の電車が出るんだって。駅員さんに、お祖母ちゃん家へ行くんですって言ったら、いろいろ事情を聞かれちゃって。嘘ついたけど、怪しまれずに済んだ」
お姉ちゃんはニッコリと微笑んだ。
ぼくたちが、切符を買って自動改札を抜けると、駅のホームにはもう、最終電車が止まっていた。黄色の車体に緑のラインが入った私鉄の電車。四両編成のその電車に乗り込むと、冷房の涼しい風がぼくの額を通り過ぎていく。ほっと、ひと心地つきながら手ごろな席に腰掛けて、車内を見渡すと、車内にはぼくたち以外にも結構沢山の人が乗っていた。
良く考えたら、お姉ちゃんと二人で電車に乗るのは初めてだった。
「当列車は間もなく、発車致します」
ちょっと鼻にかかったような声で、車掌さんのアナウンスが聞こえてきた。しばらくすると、空気の抜けるような音と一緒に扉が閉まって、電車は静かに動き始めた。
ガタン、ゴトン。一定のリズムを刻みながら、レールの上を走る。ぼくは窓から、夜の街を眺めた。街は、灯をともしている。ビルも、住宅街も。それらが地上に瞬く星のようでとても綺麗だった。
住み慣れた街が、後ろへと遠ざかっていく。電車が出発して間もなく、お姉ちゃんはすやすやと寝息を立て始めた。疲れていたのかな。どのみち、終点まで行くんだから、起こさない方がいいと思い、ぼくは、窓の外をずっと眺めていた。
やがて電車はぼくの見知らぬ街へと入っていく。ぼくたちの住む街よりもずっと大きな街で、小さいぼくからは、それはもう「都会」と言える様な場所だった。立ち並ぶビルに阻まれて、夜空はほとんど見えなかったけど、ビルの灯の向こうに、まだ働く人たちがいた。大通りにはたくさんの車が往来していて、赤いテールランプや、白いヘッドライトの帯が、光の川のように延びていた。
「都会」を離れた電車は、海岸沿いを走る。窓の隙間から潮の香りが、ほのかに香る。昼間はきっと青いだろう水面は、真っ暗だったけど、月の光がその表面に光を映し、とても幻想的だった。今にもその水面から、人魚姫がジャンプしそうだった。
海岸を後に、今度は湾岸の埋立地を走る。潮の香りよりも、煙のにおいがするのは、湾岸の製鉄所のあちこちから空へ向かって、そびえ立つ煙突のせいだった。煙突の先端には、赤や青のランプがついている。それは、飛行機などが煙突に衝突するのを避けるためのランプなのだけど、そのころぼくはまだそれを知らなくって、ただチカチカ点滅するそれが、クリスマスツリーみたいで面白かった。
埋立地を離れると、電車は進路を90度変えて、山の方へ入っていった。その頃にはもう、いっぱいいた乗客はみんな降りていて、車内はとても静かになっていた。
いつのまにか窓の外は、木々と点々とする民家だけになっていて、少し寂しい。
「本日はご利用ありがとうございました。間もなく、終点に到着いたします。お荷物などお忘れ物のないよう、下車してください」
また、あの鼻にかかったような車掌さんの声がする。ぼくは隣で眠るお姉ちゃんの肩をゆすって、起こした。
「お姉ちゃん。もうすぐ終点だよ、起きて」
お姉ちゃんは、まだ少し眠そうに目をこすりながら、目を覚ました。電車はスピードを徐々に落としていき、終点の駅に到着した。
ぼくとお姉ちゃんが、終点駅のホームに降り立つと、他には誰も降りてこなかった。ここへ来るまでのいくつもの駅で、全員降りてしまったのだろう。電車はぼくたちを駅に降ろすと、しばらくして来た道を反対に向かって帰っていった。
「田舎だね」
ぽつりとお姉ちゃんが呟く。お姉ちゃんの言うとおり駅舎は無人駅だった。周りはひどく田舎で、家もお店も見当たらない。誰もいない。ぼんやりとしていたら、駅の電灯が、バチッと音を立てて全部消えてしまった。多分、タイマーで切れるようになってるんだろう。だけど月の光のおかげで、電灯がなくてもホームは十分明るかった。
「今日は、あそこで寝よう。明日、吉村さんの家を探しに行こう」
お姉ちゃんは、ホームの待合室を指差した。暗い待合室の中には、汚れた時刻表と硬そうな木のベンチが二つ置いてあった。ぼくたちはそれぞれベンチに横たわった。想像通りベンチは硬くて、背中が痛い。
「おやすみ、拓海」
お姉ちゃんはそう言うと、すぐに寝息を立て始めたけど、ぼくは中々寝付けなかった。ここにきて、ようやく不安が頭をもたげたのだ。
本当にお母さんに会えるのだろうか?
会えたとしても、お母さんはぼくたちのことを喜んでくれるんだろうか。ぼくがお母さんの顔を知らないように、お母さんはぼくのこと「拓海」だって分かってくれるんだろうか。お母さんはどんな人だろう。それは、すこし楽しみだったけど半面、知るのが怖かった。
虫の鳴き声が聞こえる。
だんだんと瞼が重くなり、ぼくはゆっくりと眠りの世界に落ちて行った。
次の日の朝は、快晴だった。目を覚ますと、太陽が山の裾から少し顔を出し始めているころで、始発の電車がやってくる30分前だった。ベンチから起き上がると、背中がこったみたいに痛い。昨夜聞こえた虫の音の代わりに、小鳥のさえずりが聞こえてくる。
お姉ちゃんは? と思って隣のベンチを見ると、お姉ちゃんの姿は見当たらなかった。まさか、置いていかれたのかもしれない、と思ったぼくはベンチから飛び降りて、待合室を飛び出した。すると、お姉ちゃんはホームで「うーん」と伸びをしていた。
ほっとして、ぼくはお姉ちゃんに近付く。
「おはよう、お姉ちゃん」
「おはよう。背中が痛いね。拓海も顔を洗ってきなよ」
お姉ちゃんはニコニコしながら言った。指差す方向には、小さなトイレがある。トイレは、汲み取り式なのか、すこし厭な臭いがする。備え付けの手洗いはすこし黄ばんでいたけど、蛇口をひねると冷たい水が飛び出してきた。それで顔を洗うと、すぐに目が覚める。
顔を洗い終えると、しっかり蛇口を閉めてからトイレを出て、お姉ちゃんのところへ駆け寄った。
「拓海、寝癖がついてるじゃない」
お姉ちゃんはポシェットから小さなピンク色のクシを取り出すと、ぼくの寝癖を撫で付けた。さて、これからどうしようか、と思っていると、次第にホームには人が集まり始めていた。始発で仕事へ向かう会社員の人たちだ。
ぼくたちは駅を出て、吉村さんの家へ向かうことにした。住所の書いてある封筒はお姉ちゃんが持っていたし、ぼくにはまだ難しい漢字は読めなかったから、ぼくはお姉ちゃんに手を引かれて付いていくしかなかった。
両方を田んぼと畦道にかこまれた、田園の一本道を歩いていく。さわさわと、青い稲が風に揺れて、道の端に植えられた木からは、ミンミン蝉の鳴く声が響く。周囲は民家もなくて、ひどく閑散としていたけど、空気はとても澄んでいて、青空を見上げながら胸いっぱい吸い込むと、とても美味しい。
不意にお姉ちゃんが振向いて。
「お腹すいてない?」と尋ねてきた。
確かに、ぼくたちは昨日の夜から何も食べてない。それに喉も渇いていた。
「うん、お腹すいた」
「じゃあ、あそこで何か買っていこうよ。お金なら、お小遣いの貯金全部持ってきたから」
お姉ちゃんの視線の先に、コンビニが見えた。あたりには、ほかに建物らしきものもないのに、田んぼの真ん中にぽつんとコンビニが建っている。
コンビニに入ると、冷房の涼しい風と一緒に、やる気のないアルバイトのお兄さんが「いらっしゃいませ」と、面倒くさそうに言った。お兄さんは、入ってきた客が二人の子どもであることに気がついて、すこし目を丸くした。制服を着た小学生の姉弟が、早朝にコンビニで朝ごはんを買う、という光景は大人の目から見れば、とても奇異に見えたのかもしれない。
ぼくとお姉ちゃんは、パンとジュースを買うと、お兄さんはレジからおつりを出しながら、ぼくたちを頭のてっぺんからつま先まで、品定めをするようにジロジロと見ていた。
お姉ちゃんは、そんな視線全然気にする様子もなく、おつりを受け取ると「行くよ」とぼくに声をかけて、コンビニを出て行った。慌ててぼくも、お姉ちゃんの後を追って、コンビニを後にした。
外は少しずつ気温が上がって、夏らしい空気に変わっていた。
「吉村さん家まで、歩いていくの?」
コンビニを出て、また田んぼの真ん中の道を歩いていきながら、お姉ちゃんに尋ねた。アスファルトの二車線道路なのに、車の往来は全くない。お姉ちゃんは、コンビニの袋をカシャカシャ言わせながら。
「ううん、バスに乗っていくの」
と、ぼくに言った。しばらく歩くと、看板と青いベンチだけの小さなバス停にたどり着いた。お姉ちゃんが時刻表を確かめると、バスが来るまで少し時間があった。
ベンチに座って、コンビニの袋からパンを取り出す。ぼくのパンは甘いイチゴのジャムが入ったやつだ。お姉ちゃんは、クリームパンだった。
「拓海は、ジャムパン大好きだね」
「うん。ぼく甘いもの好き。でも、歯ブラシ持ってきてないね」
「歯磨き嫌いなくせに」
と言って、お姉ちゃんは笑い出した。お姉ちゃんが声を立てて笑うのは、久しぶりに聞いた気がした。
ぼくは、歯磨きが大嫌いだった。面倒くさいし、歯磨き粉のミントが辛くて大嫌いだった。お父さんに甘い歯磨き粉を買って欲しいとねだったことがある。するとお父さんは笑って、「良薬口に苦し。ちゃんと歯を磨きたかったら、辛いのを我慢するんだ」と言われた。意味が全然分からなかった。お姉ちゃんに、どうしてお父さんはいつも辛いミントの歯磨き粉を使うのか、と尋ねると「あれはお父さんのこだわり。私だって甘い歯磨き粉買ってもらえなかったんだから、我慢しな」と言われてしまった。幼稚園のお泊り会で、ぼくだけ大人用の歯磨き粉を持ってきて、恥ずかしいような悔しいような想いがしたのを憶えている。
「お母さんのところへ行ったら、厭っていうくらい歯磨きしてやる」
と言いながら、お姉ちゃんはクリームパンを頬張った。ぼくは「歯磨き」の話題を出すんじゃなかったと、赤いジャムを見ながら、すこし後悔した。
ぼくたちが朝食を終える頃、遠く道が陽炎に霞むあたりから、バスがやってくる。それを見つけたお姉ちゃんは、手を上げてバスを止めた。フロントに「ワンマン」と書かれたバスは、ぼくたちのところまでやってくると、ブレーキ音をさせながら止まった。
バスの中には、腰の曲がったお婆ちゃんが一人乗っているだけで、ほかに乗客は誰もいなかった。運転手さんは、さっきのコンビニのお兄さんとは違い、ぼくたちを不思議そうに見ることもなく、無表情だった。ぼくたちが手ごろな席に腰掛けると、愛想のない声で「しゅっぱーつ」と言って、バスを走らせ始めた。
このバスは、乗客のお婆ちゃんくらい、お年寄りみたいで、走り始めるとエンジンの音が大きくて、がたがたと揺れるし、空調は壊れているのかとても暑かった。ぼくが、信号で止まったのを見計らって、窓を開けると、木々の匂いと一緒に車内へ風がそよそよと迷い込んできた。
バスは田園を駆け抜け、山へ入っていく。いつの間にか、お婆ちゃんと入れ替わりに、何人かの乗客が乗っていた。話し声をバックミュージックに、ぼくは車窓から外を眺めていた。蝉の鳴き声は、さっきよりもっと騒がしくなっていて、ときおり小鳥のさえずりと、小川の流れる音が聞こえてくる。
緑が青空に映える森を抜け、山を越えると、バスは人里へ入っていった。ぼくたちが住んでいた街よりも、高い建物はないし、田舎であることに変わりはなかったけど、家々の瓦(いらか)が夏の日差しにぎらぎらと光っていた。バスが目的のバス停に無事到着して、ぼくとお姉ちゃんはお金を払ってバスを降りた。
バスがぼくたちを降ろして、またうるさいエンジンの音を立てながら、走り去っていった。
街は、どの家も白い土壁の塀に囲まれていて、普通の民家よりも、古い大きな日本家屋が立ち並んでいた。ぼくたちは、土塀で造られた日陰を選びながら、吉村さんの家を目指した。
汗をかきながら歩くこと10分。お姉ちゃんが近所の人たちに尋ねながら、ぼくたちはようやく、吉村さんの家にたどり着いた。
吉村さんの家は、丁度街の中心にあって、辺りの家々と同じような、土塀の日本家屋だった。広い庭には盆栽やら松ノ木やらが植えられ、その奥に鶏小屋があって、鶏の忙しない鳴き声が時々聞こえてくる。
「おや、どちらさんかな?」
小さな石造りの門扉をくぐって、敷地に入ったところで、庭にいた小父さんに声をかけられた。盆威の手入れをするためしゃがんでいたから、気がつかなかった。
「あの、私、遠野春香っていいます。寛子さん、いらっしゃいますか?」
「ああ、妻なら居間にいると思うよ。妻に何の用だい?」
吉村の小父さんは、珍客に不思議そうな顔を向けながらも、優しい口調で言った。お姉ちゃんが、簡単に事情を説明すると、小父さんはぼくたちを家に上げてくれた。
家の中は広くて、ぼくの家とは比べ物にならなかった。吉村の小母さんは、年齢よりも若く見える美人で、突然やって来たぼくたちを温かく迎えてくれて、冷たい麦茶を出してくれた。小母さんにもお姉ちゃんが事情を説明すると、お姉ちゃんと小母さんは奥の部屋へと行ってしまい、居間にはぼくと小父さんが残された。
お母さんと友達だったのは、小母さんのほうで、高校生からの付き合いだと言う。お母さんは大学を出て、お父さんと知り合って結婚した。一方小母さんは、一度離婚を経験して、吉村さんと結婚したのだそうだ。小父さんと小母さんには子どもがいなかったけど、幼いぼくの目から見ても二人はとても仲良が良く見えた。
吉村の小父さんは、農家をやっていて、ごつごつした手をしていた。今に残されたぼくに小父さんはお代わりの麦茶を注いでくれながら。
「お姉さんと二人で、ずいぶん遠くから来たんだね。疲れただろう?」
と、ぼくに言った。
「ううん。疲れてないよ。お姉ちゃんと一緒だから」
「そうか。まあ、ゆっくりしていきなさい。幸い家には僕と寛子しかいないからね」
小父さんはそう言うと、ぼくの頭をくしゃくしゃと撫でた。小父さんは笑うと、タバコで黄色くなった歯がのぞく。
「拓海くんは何か好きなこととかあるのかい?」
「本を読むのが好き。お父さんが買ってくれた、童話の本。お姉ちゃんは『子どもっぽい』って言うけど、面白いんだよ。小父さんは何が好き?」
「僕かい? そうだな、色々と好きなものがあるな。盆栽も好きだし、鶏も好きだし、小母さんのことも大好きだ。あと、野球も好きだな。これでも、高校球児で甲子園に行ったことがあるんだ。初戦敗退だったけどね」
小父さんが、椅子に腰掛けたまま、バットを振る真似をする。
「甲子園。お父さんも行ったことあるって言ってた」
「ほお、それは奇遇だな。是非、お父さんと話がしたいものだ」
そう言って小父さんは、ぼくがしょんぼりしているのに気がついた。それから、はっとなる。お父さんが死んだことは、お姉ちゃんがさっき、小父さんにも説明していた。
「あっ、いや、すまん」
しどろもどろしながら、小父さんは何とか取り繕おうとしていた。
「天国って寂しいところかな?」
ぼくが突然言ったので、小父さんは驚いていた。
「どうしてそう思うんだ?」
「ずっと前、叔父さんが言ってたんだ。死んでしまえば、独りぼっちになるって」
「そうだなぁ」
叔父さんはすこし考え込むように腕組みをして「うーん」と唸った。それからおもむろに口を開いた。
「その叔父さんも生きているんだろう? だったら、叔父さんも天国なんて見たことないんだ。もちろん、僕も拓海くんも天国が、どんなところか知らない。そりゃもう一人ぼっちで何もなくて、ものすごく寂しいところかもしれない。でも、違うかもしれない。それは、僕たちには到底分からないんだ」
「じゃあ小父さん。もしも、小父さんが天国へ行ったら、お父さんのお友達になってくれる?」
「ああ。お父さんは、お酒が好きかい?」
「うん。あまり呑まないけど、お父さんお酒大好きだって言ってたよ」
「そうか、だったら。いつか僕が、天国へ行ったら、お父さんとお酒を呑みながら、高校野球でも語り合うことにするか」
小父さんは内心ほっと胸を撫で下ろしながらも、ぼくにニッと笑ってもう一度バットを振る仕草をした。ぼくはそれを見ながら少しだけ笑った。
それから小父さんは時計を見て「そろそろ仕事に行ってこなきゃならんな」と行って、席を立った。小父さんが田んぼへ出かけて、ぼくが一人で居間にいると、吉村の小母さんとお姉ちゃんが戻ってきた。お姉ちゃんが何だか沈んだ顔をしていることに気がつく。
「あら、拓海くん独り? 小父さんは?」
吉村の小母さんがぼくに尋ねた。
「仕事に行くって、田んぼへ行ったよ。お姉ちゃん、お母さんのいるところ分かった?」
ぼくは小母さんに答えてから、小母さんの後ろに隠れるように立っていたお姉ちゃんに聞いた。一瞬、お姉ちゃんと小母さんの顔が曇ったことに、ぼくは気がつかなかった。
「そ、それがね、拓海。小母さんも、お母さんがお父さんと離婚してからは、手紙のやり取りもしてなくって、お母さんの居場所分からないんだって」
お姉ちゃんが沈んでいたのはそういう訳か、と何となくぼくは納得してしまった。
小母さんは、お昼ご飯を食べていきなさい、と言ってくれた。でも、お姉ちゃんはそれを丁重に断って、吉村さんの家をお暇することにした。小母さんは心配して、ぼくたちをバス停まで送ってくれた。途中、小父さんの田んぼで小父さんに「さよなら」を言う。
「おう、気をつけてな、二人とも」
と、小父さんは手足を田んぼにつけたまま、ぼくたちに言った。
小母さんに連れられ、バス停に着くと、丁度バスがやってくるところだった。
「元気だしてね、二人とも。お父さん亡くなって、今は心細いかもしれないけど、姉弟手を取り合っていくのよ。叔母さん(、、、、)によろしくね」
バスに乗り込むぼくたちに、小母さんは優しい声で言った。小母さんは、ぼくたちがバスに乗り込んで、通りの曲がり角を曲がるまでずっと、見送ってくれた。
ぼくはこっそり、小母さんがお母さんだったら良かったのにと思った。
今度のバスは、朝のバスに比べて、幾分か綺麗で、エンジンもうるさくなかった。でも、ぼくらには、そんなことを気にしている余裕はなかった。
「お姉ちゃん、これからどうするの? お母さん探すのを止めるの? 叔母さんのところへ帰るの? ぼくヤだな。俊哉くん乱暴だし、叔父さん怖いし」
ぼくは、窓際に座り窓の外をぼんやりと眺めるお姉ちゃんに、矢継ぎ早に言った。お姉ちゃんはゆっくりぼくの方を向く。
「帰らない。叔母さんのところへなんか。吉村さんは、お母さんが何処にいるのか知らなかったけど、お母さんのもう一人の友達、小西さんって言う人なら、お母さんのいるところを知ってるかもしれない、って教えてくれたの。だから、今度は小西さんに会いに行くよ」
「遠いの?」
「うん、ちょっとね」
お姉ちゃんはすこし曖昧な言い方をする。
小西さんと言う人は、桜ヶ浜という場所で小さな会社を営んでいる人らしい。吉村さんとお母さん、それに小西さんはみんな高校時代のクラスメイトで、一番仲の良かった三人組だったらしい。吉村の小母さんは、お母さんとお父さんが離婚したころ、吉村の小父さんと知り合って、結婚しこの田んぼの街へ引っ越してきた。そのため、連絡のやり取りもなくなっていたけれど、もしかすると、小西さんなら何か知っているかもしれない、と言うことだった。
バスに乗ってぼくたちは、来た道を引き返し、朝の駅まで戻った。それから電車に再び乗り込むと、製鉄工場の煙突が立ち並ぶ湾岸の駅で降りる。桜ヶ浜へ行くには、ここでJRに乗り換えて、行かなければならない。
ところがお姉ちゃんは電車を降りると、駅を出てしまった。夏の日差しに熱気がムッとする駅前を少し歩いてからお姉ちゃんは、道路の端で立ち止まった。
「拓海ちょっと持っててね」
と言われて、ぼくが手を出すと、お姉ちゃんはポシェットからノートを一冊取り出した。いつの間にこんなものを入れておいたんだろう。ぼくがそんなことを思っていると、姉ちゃんは更にがさがさとポシェットを探り、その手には、黒いマジックが握られていた。
「どうするの?」と、ぼくが尋ねると、お姉ちゃんはニッと白い歯を見せて笑い、ぼくの手からノートを取って、それにマジックで何かを書き始めた。
ノートには、太い文字で「さくらが浜」と書かれていた。
「ヒッチハイクするの。お金だって沢山あるわけじゃないから」
「ヒッチハイク?」
ぼくが小首をかしげると、お姉ちゃんはくるりと踵をかえして、道路に向かって右腕を突き出し、親指を立てた。更に左手で、ノートを高く掲げる。
「テレビで見たことあるの。こうやって、同じところへ行きたい人の車に乗せてもらうんだよ」
お姉ちゃんの説明は良く分からなかったけど、ぼくもお姉ちゃんの真似をして、ヒッチハイクをすることにした。
ここは、湾岸のメイン通りらしく、車の往来が激しい。特に製鉄所へ用のある大型トラックが多く、騒音と排気ガスは相当なものだった。ぼくたちは必死に車を呼び止めようとしたけれど、誰もとまってくれる人がいないまま、一時間近くが過ぎた。
「止まってくれないね」
いい加減腕が疲れて、お姉ちゃんに言うと。お姉ちゃんは溜息混じりに。
「もうちょっと頑張ろう。きっと吉村の小母さんみたいないい人が、止まってくれるよ」
と言った。炎天下で熱射病にでもなるのではないか、と思い始めた頃、通りがかった一台の大型トラックが急ブレーキを立てて止まった。
そのトラックは、所謂「デコトラ」と呼ばれるものだった。
車体のあちこちに、赤や黄色のランプがピカピカしている。フロントには「風神号」と太い毛筆調の文字が書かれており、貨物室に、怖い顔をした鬼が描いてある。鬼は白い袋を持っていて、袋の口からはごうごうと、今にも唸り声が聞こえてきそうな風が吹き出していた。
予期せぬ車が停車してくれたことで、ぼくたちは完全に圧倒された。素直な感想を述べるなら、「怖い」だ。
「あんたたち、ヒッチハイクかい?」
運転席から顔を出したのは、タバコをくわえた、お姉さんだった。どことなく、トラックの絵に描かれた鬼のような、いかつい顔をしている。
「は、はい。桜ヶ浜まで行きたいんです。あの、乗せていってくれませんか?」
果敢にもお姉ちゃんは声をかけた。ぼくは、すっかり怯えてしまって、お姉ちゃんの後ろに隠れるようにして、制服の裾を引っ張った。
「桜ヶ浜って、また遠いな。いいだろう、乗りな二人とも」
お姉さんはくわえタバコのまま、顎でぼくたちに指図して、助手席のドアを開けてくれた。お姉ちゃんは、ぼくを引っ張ってトラックに近付く。
「あの、私たちあんまりお金持ってないんです。それでもいいですか?」
助手席に乗り込む前、お姉ちゃんは運転席を見上げるようにして言った。するとトラックのお姉さんは、がははっと、男の人みたいに笑った。
「ガキが、金のことなんか口にするんじゃないよ。ガキは、遠慮せず大人の好意に甘えればいいんだ。それに、桜ヶ浜なら通り道だ」
お姉さんは、「さっさと乗れ」とぼくたちに付け加えた。ぼくとお姉ちゃんはトラックの助手席に乗り込んだ。
車内はとても広くて、ぼくたち二人が乗り込んで足を伸ばしてもまだ余裕があった。ただ、ひどくタバコ臭かった。
トラックに乗るのは初めてで、車高の高いトラックの助手席から見る風景は、どこか不思議で面白かった。
「あたしは、鹿島千鳥。あんたたちは?」
車を走らせながら、お姉さんは名乗った。鬼のような顔から想像もつかないくらい、可愛い名前だった。
「私は、遠野春香。こっちは、弟の拓海です」
「あんたたち、歳はいくつだい?」
「10歳です。拓海は6歳」
お姉ちゃんが答えると、千鳥さんは「ほお」と感心したような声を上げた。
「しっかりしてるねぇ、お姉ちゃん。あたしがあんたくらいの時、あんなところで、ヒッチハイクしようなんて思わなかったよ。世の中、変なやつが多いからね。ああ、でも心配しなくていいよ。あたしは、その変なヤツじゃないからね」
トラックは十分変だと思うけど。
「それで、桜ヶ浜へは何をしに行くんだい?」
「それは……」
お姉ちゃんは答えに詰まった。昨日駅でついた嘘のように「お婆ちゃん家へ行くんです」と答えても、ヒッチハイクをして行くというのは、どう見ても怪しいだけだ。かといって、他の嘘は思いつかない。
しばらくの間、車内に沈黙が訪れた。ぼくも必死に嘘の理由を考えたけど、上手い言い訳が思いつかない。
「言いたくなければいいんだよ。旅って言うのは色々事情があるんだ。訳を無理矢理聞きだそうなんて、あたしは野暮じゃないからね」
「ごめんなさい」お姉ちゃんが元気なく言った。
「だから、言ったろ? ガキは遠慮なんかするなって。旅は道連れ世は情けってやつさ」
千鳥さんはがはは、と笑ってぼくたちに言った。
千鳥さんの運転するデコトラは、やがて高速道路へと登っていった。デコトラという外見とは別に、千鳥さんはとても安全運転だった。快適な車の中で、お姉ちゃんは千鳥さんと色々な話をしていた。
何でも、千鳥さんはこのデコトラで配達の仕事をしているらしい。衣類や生鮮食品などを他府県の市場へ届けるのが仕事なんだそうだ。千鳥さんは良く笑い良くしゃべる人だった。特に女性同士気が合うのか、お姉ちゃんとは楽しそうにおしゃべりをする。一方ぼくはヒッチハイクをして疲れてしまったのか、高速道路に入ってすぐに、急に上瞼と下瞼が仲良くなってしまい、そのまま眠ってしまった。
こうして、ぼくとお姉ちゃんは千鳥さんのデコトラに乗って、お母さんの友達、小西さんのいる桜ヶ浜を目指すことになったのだ。
【第三話】
ぼくたちを乗せたデコトラが、高速道路のサービスエリアに入る。お姉ちゃんに揺さぶり起こされたとき、もうあたりは陽が暮れていて、夕焼けが高速道路の向こうに沈みかけていた。千鳥さんは、車の少ない駐車場にデコトラを止めると「晩飯食べるよ」といって、ぼくたちを連れて、サービスエリアの中に入った。
やはり、サービスエリアの中も人が少なくて、静かだった。ぼくたちは食堂へと向かい、そこで夜ご飯を食べることにした。
「セルフサービスだけど、結構美味いんだ。お奨めは、うどんかカレーだな」
千鳥さんは食券機の前で、ぼくたちに説明した。このサービスエリアは千鳥さん行き着けの場所で、配達の途中に良く寄るのだそうだ。
「拓海は何にする? 私、カレーにするけど」
お姉ちゃんに言われて僕はしばらく悩む。食品サンプルはどれもおいしそうに見えて、どれにするべきかついつい悩んでしまうのだ。お父さんと三人で外食した時は、いつも「早く選べ」と急かすお姉ちゃんが、今日はずっと待ってくれた。ぼくは、悩んだ挙句お姉ちゃんと同じ、カレーライスにすることにした。
お姉ちゃんがお財布から、お金を取り出そうとすると、千鳥さんがそれを止めて、ぼくたちの分まで食券を買ってくれた。
食券を出して、カレーをもらい、席に着くとお姉ちゃんが深々と千鳥さんに頭を下げた。
「何から何まで、ありがとうございます」
お姉ちゃんが丁寧にお礼を言うと、千鳥さんは特有のがははっ、という笑い声を上げて。
「ほんっと、しっかりしてるね、春香。拓海は良いお姉ちゃん持ったね、姉ちゃんに感謝するんだよ」
と言った。お姉ちゃんはすこし照れくさそうに「えへへ」と笑った。
カレーはちょっぴり辛かったけど、千鳥さんが言った通りとても美味しかった。朝から何も食べてなかったお姉ちゃんもぼくも、あっという間に、全部食べ終わってしまって、千鳥さんは目を丸くした。そして、「よほど腹が減ってたんだね」と言った。
夜ご飯を食べ終わり、サービスエリアを出発する頃には、もう陽は沈んでいた。デコトラは再び高速道路を走っていく。
今度はお姉ちゃんが、お腹がいっぱいになって眠くなったらしい。気がつくとお姉ちゃんは、ぼくの隣ですやすやと寝息を立てていた。
「おやおや、寝ちゃったね」
千鳥さんはハンドルを握りながら、チラリとお姉ちゃんを見て目を細めた。お姉ちゃんが寝てしまって、車内にはぼくと千鳥さんだけみたいになってしまった。千鳥さんに何を話したら良いんだろう?
「あんたは静かな子だねぇ」
沈黙の中で困っていると、千鳥さんが言った。
「あの、あの、ぼく」
何とか話題を探そうとしたけど、お姉ちゃんのように上手く言葉が出てこない。おどおどしているのが、千鳥さんにも分かったのだろう。すこし口許に笑みが浮かんだ。
「あたしの子もあんたと良く似てる」
「千鳥さん、子どもがいるの?」
「ああ、愛する旦那は、何とかっていう病気になって、ぽっくり逝っちまった。あたしと、健太を残してね。健太っていうのは、あたしの愛息子」
そういうと、千鳥さんはダッシュボードを空けて一枚の写真を取り出した。写真には、千鳥さんと千鳥さんの旦那さん、それに健太くんが写っていた。動物園での記念写真であることは、背景のゾウが物語っていた。
「そこの賢そうなヤツがあたしの旦那様」
千鳥さんの隣でメガネの男の人が旦那さんだった。賢そうと言う形容詞がぴったりの顔つきをしている。
「そんで、あたしと旦那の間にいる、チビスケが健太」
千鳥さんのズボンの裾を必死に掴んで、少しふてくされたような顔をして、健太くんは写っていた。
「親ばかだから言うわけじゃないけど、いい子なんだよ、健太。あたしがこうして仕事に出かけてるときは、あたしの実家に預けてるんだけど、わがままも言わないし、あたしの母さんの手伝いもちゃんとやる。でもね」
「でも?」
「旦那が死んで、すぐあの子ほとんど喋らなくなったんだ。心の病気かな、って思って病院に連れて行ったけど、良くならなかった」
千鳥さんの声が少しずつ沈んでいく。
「だけど、あたしにとっては、命より大事な宝物なんだ。あたしが仕事から帰って、『ただいま』っていうと、いつもポツリと一言『お帰り』って言ってくれるのが、たまらなく嬉しい。旦那が死んだ時は、どうしてあたしたちを置いて行ったんだって、ひどく悔しくって悲しくて辛かった。病気で死んだんだ。あたしが悪いわけでも、誰が悪いわけでもなかったのに。でもね、今は違う。旦那がいなくなってしまったのは、辛いけれど、あの人はあたしに、大切な宝物を残してくれた。健太をね。だから、あたしが旦那のところへ行くまで、後何十年かかるか知らないけど、その時は、目いっぱいあの人に言おうと思ってる。『ありがとう』って。今、こうして仕事頑張れるのも、家に帰れば健太が待っててくれるからなんだ」
そこまで言って、千鳥さんはすこし涙ぐんだ瞳を拭いた。
「あんたには、退屈な話だったね」
涙を悟られまいと、千鳥さんは努めて明るい声でぼくに言う。
「ううん。全然。でもどうしてそんな話してくれたの?」
「そうだな、あんたがガキで、何のリスクもなく、あたしが聞いて欲しい話が出来るから。それと、あんたが健太と似ているからかな?」
写真で判断する限り、健太くんと僕は全然似てないと思った。健太くんのほうがずっと、ぼくよりしっかり者の顔をしてる。
「ぼく健太くんみたいにいい子じゃないよ。お姉ちゃんを困らせてばかりだし、弱虫だし、泣き虫だし。いっつもお姉ちゃんに言われるの。『男の子でしょ』って。だから、お父さんは死んじゃったのかもしれない」
「え?」
千鳥さんは、ぼくの突然の科白に驚いていた。ぼくは拙い言葉で、千鳥さんをヒッチハイクした理由を説明した。上手く説明できなくても、千鳥さんは真剣に僕の話を聞いてくれた。
「そうか……そんな事情があったのか」話を聞き終わって、千鳥さんは重い声を出した。
「あのね、全部話しちゃったこと、お姉ちゃんには内緒にしてね」
「ああ、いいよ。あたしと拓海の秘密だ」
ニカっと千鳥さんが笑う。僕は胸を撫で下ろした。
「拓海はお姉ちゃんが好きか?」唐突に千鳥さんがぼくに尋ねた。
「うん、大好きだよ。喧嘩したら時々ぼくのコト叩くけど、お姉ちゃん優しいもん。それに、絶対お姉ちゃんは泣いたりしない」
「あはは、そうかい。拓海」
すこし笑ってから、千鳥さんは急に声のトーンを下げた。
「もしも、何かあって姉ちゃんが泣くようなことがあったら、拓海、あんたがしっかり姉ちゃんを守ってやるんだよ」
その時、千鳥さんが言ったその言葉は、ぼくにとって何ら現実味のない言葉だった。どんな時でも、強くて絶対に泣いたりなんかしないお姉ちゃんが「泣く」ことなんて、ありえないと思っていた。
いつの間にかぼくも眠っていた。朝日がフロントガラスから差し込んで目を覚ますと、ぼくとお姉ちゃんそれぞれに、タオルケットが掛けられていた。千鳥さんが掛けてくれたんだ。まだデコトラは高速道路を走っていた。きっと一睡もしていない千鳥さんは、それでも全然眠そうな顔を見せず、朝日に目を細めていた。
ぼくは眠い目をこすりながら、タオルケットをのけた。
「おはよう、千鳥さん」
ぼくが欠伸混じりに言うと、千鳥さんはニコニコしながら「おはよう」と答えてくれた。ずっと座った姿勢のままで寝ていたから、足腰が痛い。二日連続で、朝起きると体が痛いという経験は初めてだ。
ぼくが伸びをしようと、座席でごそごそとしていると、隣で眠っていたお姉ちゃんも目を覚ました。
朝日が昇りきる頃、千鳥さんが「もうじき桜ヶ浜だよ」と言った。デコトラはインターチェンジをすべるように降りた。そこからしばらく街中を抜けていくと、ビルとビルの間から、眩しい光と一緒に、青い海が広がった。
桜ヶ浜だ。
市電の線路を渡ると、デコトラは海岸沿いの国道を走る。波間に陽の光がキラキラと光り、遠くに浮かぶ入道雲が空と海を隔てていた。沖にはヨット、浜には海水浴をする人がたくさんいる。開け放した車の窓から、時折潮の香りに乗って、カモメの鳴き声がぼくの耳に届いた。
「それで、何処で降ろせばいい?」
デコトラを走らせながら、千鳥さんがお姉ちゃんに問いかけた。お姉ちゃんはしばらく考えてから。
「電車の駅とかありますか? あれば、そこで降ろして下さい」と言った。
千鳥さんは「了解」とだけ言うと、駅へと向かった。市電の駅はそんなに遠くなかった。駅前は海水浴に来た人たちで溢れていて、千鳥さんはしばらく停車する場所を探してから、ぼくたちを降ろしてくれた。
「色々、ありがとうございました」
車を降りて、お姉ちゃんが頭を深々と下げて、千鳥さんにお礼を言った。千鳥さんは笑みを浮かべた。
「いい旅になるといいな。二人とも、道中気を付けるんだよ。また、何処かで会ったら、飯おごってやるからな。元気でな、春香、拓海」
千鳥さんはそう言うと、ぼくにウィンクした。お姉ちゃんもそれに気がついて、ぼくの方を見て不思議そうな顔をした。
お姉ちゃんが助手席のドアを閉めると、デコトラは発進する。すこし進んでから、千鳥さんは二回クラクションを鳴らした。ぼくたちは、千鳥さんのデコトラが見えなくなるまで、見送った。
「さて、小西さんを探そっか」
お姉ちゃんはぼくの手を引いて、歩き始めた。
「何処にいるの?」
と、ぼくが尋ねると、お姉ちゃんはぴたりと立ち止まった。ぼくは思わずきょとんとする。
「それが、良く分からないの。小西さんはこの桜ヶ浜のどこかで、お店を開いているんだけど」
「どんなお店なの? レストラン?」
「う、うん多分。お店の名前は、ラ・リシェールっていうんだって」
ぼくたちは、駅から真っ直ぐ歩いて、海浜沿いの道へ出た。太平洋に面した海辺は、やはり海水浴客で賑わっていた。今日は特に暑いから、どの海水浴場も芋の子を洗うみたいに人がごった返していた。
お姉ちゃんは、あちこちの海水浴場を周りに周って、海水浴客や交通整理のお兄さん、海の家の小父さんなどに、小西さんのお店の場所を聞いた。有名なお店なら、手がかりが得られるかもしれないと思ったのだ。しかし、返答は一様に「知らない」で、太陽が西の空に傾き始める頃、ぼくもお姉ちゃんもへとへとになっていた。
「ごめん、もっと詳しい場所聞いて来ればよかったね」
お姉ちゃんは、海岸の防波堤に座った。ぼくも倣って、お姉ちゃんの隣に腰掛ける。足が棒になって、もうこれ以上歩きたくないと思った。お姉ちゃんは、ポシェットから水の入ったペットボトルを取り出した。ペットボトルは、昨日の朝コンビニで買ったものを洗っておいたもので、水はサービスエリアの食堂で分けてもらった。
お姉ちゃんは、それをすこし呑むと「拓海も飲む? 」と言って、ペットボトルをぼくに渡してくれた。喉がカラカラで、お水が欲しくてたまらなかった。
ペットボトルを受け取って、水に口をつける。ぬるくて、美味しくなかったけど、渇いた喉を潤すのには十分だった。
「なんだか、すっごく疲れたね」
ぼんやりと海を眺めるお姉ちゃんの瞳に、沈み行く太陽が映りこむ。海はもう波が高くなりつつあり、海水浴に来た人たちも、ぞろぞろと引き上げ始めていた。
ぼくも海を眺めながら、堤防の上で足をぶらぶらさせていた。
「お姉ちゃん。あのね、お願い言ってもいい?」
「何?」
突然のことで、お姉ちゃんはすこし驚いていた。ぼくはニッと笑った。
「ついて来て、お姉ちゃん」
ぼくは堤防から飛び降りると、浜辺を波打ち際へ走っていった。足下の決め細やかな砂は、まるで綿を踏むように柔らかい。お姉ちゃんは慌ててぼくを追いかけてきた。
ぼくは波打ち際に座ると、辺りの砂をかき集め始めた。息を切らせながらやって来たお姉ちゃんは、弟が何をはじめたのか分からず当惑顔をした。ぼくはお姉ちゃんを見上げて言った。
「あのね。砂のお城作るの。手伝って」と。
ぼくは一生懸命小さな手で、一生懸命集めた砂を固めた。小高い山を積み上げて、ぽんぽんと手で押し固める。もう一度その上に砂を盛っていく。でも乾いた砂はどんなに積み上げても、すぐに崩れ落ちていく。お姉ちゃんはしばらく、ぼくの方を見て呆気に取られていたけど、突然クスっ、と笑った。
「拓海はバカだねぇ。それじゃ100年たっても、お城は出来上がらないよ」
お姉ちゃんはそう言うと、波打ち際へかけていき、両手いっぱいの湿った砂を集めてきた。
「湿った土を使うんだよ。そうしたら崩れにくくなるから」
お姉ちゃんはニコニコ笑って、湿った土を使って、あっという間にお城をつくる土台の山を造った。さすが、お姉ちゃんだ、なんて思う。
ぼくは辺りから、浜辺に流れ着いた貝殻を集めて、山肌をデコレートしていった。お姉ちゃんは更に土台の上にお城を作る。とんがり屋根のお城だ。
「下にトンネル掘ろうっ」
そう提案したのはお姉ちゃんの方だった。ぼくたちは両端からトンネルを掘ることにした。トンネル掘りは、砂のお城の真骨頂にして最大の難度を誇る作業なのだ。もしも、失敗すると、土台は崩れ、お城は倒壊して、ぼくたちの手は生き埋めになってしまう。
慎重に、慎重に掘り進めていくと、指先にこつん、と何かが触れる。それが、お姉ちゃんの指先だと分かるまでにそんなに時間がかからなかった。
「やった、繋がったよ」
お姉ちゃんが喜んで、手を引いた。かくして、お城の真下を通過するトンネルが完成した。ふと、顔を上げるともう夕陽は水平線にきえ、うっすらとオレンジの光を残しているに過ぎなかった。そらには、一番星である金星がキラキラと光っていた。
「もうだめ、私、疲れたよう」
お姉ちゃんは立ち上がると、手やスカートについた砂をはたき落としながら言った。でも、その顔はとても輝いていた。波打ち際に完成した砂のお城は、今まで誰が作ったお城よりもかっこよくて、綺麗だった。お姉ちゃんは、よほど疲れたのかフラフラしながら、浜辺に転がった。
「拓海も寝転がってみなよ」
お姉ちゃんが仰向けになって言った。ぼくは促されて、お姉ちゃんの隣に寝そべった。砂浜はベッドみたいに柔らかく、ほのかに昼間の太陽の熱が残っていた。
仰向けになって空を見上げると、雲ひとつないことに気がつく。晴れ渡る夜空には、すでに無数の星が瞬いていた。どの星がどんな星座を作るのかわからなかったけど、その天然のプラネタリウムにぼくの瞳は吸い込まれそうになったのだ。
「お星様、すごいね。流れ星、流れないかなあ」
ぼくが言ったその時、夜空を西から東に、キラリとひとすじの光が渡っていった。流れ星だ、お願いごとしなくちゃ、って思っているうちに、もう流れ星はぼくの視界から消えていた。
「お姉ちゃん、お願いできた?」
「無理だよ。あんなに速いんじゃ」お姉ちゃんが苦笑しながらぼくに言った。「もし、願い事が出来たら、何をお願いするつもりだったの?」
そう聞かれると、困ってしまう。願い事といわれても、簡単には思いつかない。流れ星にお願いする人の十中八九が、願い事が思いつかなくて、あれよあれよという間に、流れ星は消えているのだ。ぼくは、寝そべったまま腕組みをした。
「わかんない」
「それじゃ、流れ星が出ても、お願いできないじゃない」
お姉ちゃんが苦笑する。ぼくは少しだけムッとした。
「じゃあ、お姉ちゃんは何をお願い事するの?」
「私は……お母さんのところへ早く行けますように、かな」
と言って、お姉ちゃんはクスリと笑った。そうなのだ、ぼくたちの切実な問題としていうなら、それが一番の願い事だ。それが思いつかなかったのが、ぼくは無性に悔しかった。ぼんやりと、夜空を見上げて、もう一度流れ星が現れないかと、思っていたけれど、一向にその気配がない。
夜風が潮の香りと一緒に、心地よく吹き、切り取られたような星だけの空に、寄せては帰す潮騒の音が彩りを添えていた。ふと気がつくと、お姉ちゃんはいつの間にか、すやすやと寝息を立てていた。
「おやすみ」と、ぼくは囁くようにお姉ちゃんに言ってから、瞳を閉じた。
次の日、朝日が昇る浜辺で目を覚ましたぼくたちは、砂浜で眠ってしまったせいで、服のあちこちに砂がついていた。服の砂ははたけば、ぱらぱらと落ちたけど、髪の間に入り込んだ砂は上手く取れない。困っていると、お姉ちゃんが海の家へ走って言った。
海の家では、今日も営業のため、白髪のおじいさんが支度に追われていた。お姉ちゃんが「シャワーを貸して下さい」とお願いすると、おじいさんは怪訝そうにぼくたちを見た。だけど、おじいさんは仏頂面で「あっちだ、勝手に使え」と顎でシャワールームの方を差した。
四日ぶりのお風呂だった。シャワールームは、浜辺に建てられた簡易の更衣室の隅にあって、ぼくたちはそれぞれ更衣室に入ってシャワーを浴びた。水はとても冷たかったけど、久しぶりでとても気持ちが良かった。
シャワーを終えて、おじいさんにお礼を言うと、おじいさんは、また仏頂面で「ああ」とだけ答えてよこした。
ぼくとお姉ちゃんは、コンビニで朝ごはんを仕入れてから、それを片手に、小西さんのお店探しを再開した。
太陽はすっかり空の真上に昇り、今日もギラギラと真夏の日差しを、地上に降らせていた。暑くて汗が滴る。アブラ蝉の声が、こんなに煩いと思ったのは、生まれて初めてだった。
お昼近くになって、ぼくたちはクルーザーのハーバーにたどり着いていた。はしけが海に浮かび、道を作るハーバーには、真っ白な帆をかかげるヨットや、大きくてお金持ちのものと思われるクルーザーがたくさん停泊していた。ハーバーに入って、人を探していると、奥からオレンジ色のライフジャケットを着込んだ、大学生の人たちが二人やって来た。
すかさずお姉ちゃんは駆け寄ると、小西さんのお店を尋ねる。
「ラ・リシェール? なあ、聞いたことあるか?」
先頭を歩いてきたお兄さんが、隣にいた長髪のお兄さんに尋ねた。ぼくはぼんやりと辺りのヨットを眺めながら、また空振りなんだろうと、思っていた。すると、長髪のお兄さんの口から意外な答えが返ってきた。
「ああ、知ってるよ。昔、ヨット部の先輩に連れて行ってもらったことがある。フランス料理屋で、値段が安い割りに美味いんだ」
「あの、何処にあるか知ってますか?」
お姉ちゃんが聞くと、お兄さんは顎をさすりながら、記憶を辿った。
「二年前のことだからなあ。えっと、確か桜ヶ浜の団地の中にあったと思うよ。君たち、そこへご飯食べに行くの?」
「あ、いえそうじゃなくて、その」
お姉ちゃんが答えに窮していると、お兄さんはすこし笑ってから。
「いや、別にいいんだけどさ。何か書くもの持ってる? 道順書いてやるよ」と言った。
お姉ちゃんはポシェットからノートと鉛筆を取り出した。桜ヶ浜へ来るために、ヒッチハイクの時に使ったあのノートだ。
お兄さんは、ノートと鉛筆を受け取ると、すらすらと地図を書いた。
「はい、出来た。これから、歩いていくの? ちょっと遠いよ」
お兄さんはノートを返しながら、言った。お姉ちゃんはお礼を述べてノートを受け取ると、「大丈夫です」と言い切った。
お兄さんたちに見送られて、ハーバーを出ると、ぼくたちはお兄さんの書いてくれた地図を片手に「ラ・リシェール」を目指した。
お店があるのは、桜ヶ浜からすこし離れたところにある丘の、小さな団地だった。お兄さんが「ちょっと遠いよ」と言ったとおり、ぼくたちが団地に着いたときには、もう夕暮れ時になっていた。
丘を登りつめると、閑静な団地の隅に、眼下を見下ろせる小さな展望台があった。展望台に立つと、桜ヶ浜の全景が一望できる。桜ヶ浜は弓なりになった海岸で、浜一つ一つが、海水浴場として開いている。海のほうをみると、太平洋らしい島一つない大海原が広がっていて、遠く水平線が臨めた。
展望台で少し休憩を取ったぼくたちは、住宅街を抜けて目的の「ラ・リシェール」を目指した。地図によれば、お店は団地の丁度一番奥のところにある。
そして、ようやくの思いで、小西さんのお店にたどり着いたぼくたちは、予想もしなかった事態にしばらくうろたえて、身動きが取れなかった。
お店は、他の民家とあまり変わらない大きさで、白壁とレンガ造りの塀、赤い屋根が特徴的だった。おそらく、一階はお店で、二階は住居だと思う。一言で言えば、雑誌で良く見るような、洒落たレストランといった風合いだった。
ところが、まだ閉店時間には早いはずなのに、お店には電気が灯っておらず、レンガ塀の傍に植えられた、生垣はちっとも手入れされておらず、雑草が伸び放題だった。さらに、郵便受けには、たくさんの手紙や新聞が差し込まれていて、今にも全部吐き出してしまいそうになっていた。そして、ぼくたちがうろたえる決定打となったのは、お店に張られた一枚の紙だった。
「長い間ご愛顧いただきありがとうございました。当店は諸事情により、閉店いたしますことを、お詫びいたします」
とその紙には、店長「小西明」の名前で、記されていた。
事態が飲み込めなかったお姉ちゃんは、ぼくたちの後ろを通って行った、買い物帰りの小母さんを呼び止めて、事の次第を尋ねた。
小母さんは、まるで世間話でもするかのように、ぼくたちに色々と教えてくれた。
小西さんがお店を閉めたのは、半年ほど前だった。もともと脱サラして「ラ・リシェール」をはじめた小西さんは、商売の才能がなかったのかもしれない、と小母さんは言った。「ラ・リシェール」は団地の奥のほうにあって、この店のことを知っている人以外、立ち寄る人も少なかった。料理の味はそこそこだったけれど、わざわざここまで食べに来る必要のあるほどではなかったらしい。しかし、小西さんはお客が少ないからといって、お店の広告を出すといった、宣伝を一切行わなかった。閉店する一年前くらいから、店の経営は傾いてしまい、材料を調達するほどのお金もなかったらしい。そして、小西さんは怪しげな金融会社に融資を受けた。そういう会社から借りたお金は、雪だるま式にどんどん利子がかさんでいき、気がつくと借金は、当初借りた金額の何倍にも膨れ上がっていた。連日のように、取立てにくる乱暴な人たちに、ますます客足は遠のき、そして半年前、入り口に「閉店」の旨を知らせる紙を貼り付けて、小西さんは妻と娘をつれて夜逃げしたのだそうだ。
「だからね、あたしたちも小西さんが何処へ行ったのか分からないのよ。噂では、熱海で一家心中したとか、海外へ逃げたとか、何処から出てきたか分からないような話ばっかりでね」
笑いながら話す小母さんの話に、真実味はなかったけど、お店の光景を見れば、小母さんが嘘を言っているわけでないことくらい分かる。でも、それはぼくたちにとって大問題だった。お母さんの居場所を知っているかもしれない手がかりが、糸が切れてしまうように、ぶつりと途絶えてしまったのだから。
小母さんは、夕飯の支度があるからと言って、そそくさと家のほうへ帰っていった。ぼくたちは、取り残されたみたいに、ぼーっとお店の前に立って途方に暮れた。陽は沈み、夜の帳が街を覆う頃、お姉ちゃんが「とにかく、ここを離れよう」と言ったので、ぼくたちはとぼとぼと団地を後にすることにした。
住宅街、家と家に囲まれた坂道を下っていくと、どの家からもご飯の匂いがしてくる。おいしそうなカレーの匂い。すこし焦げ付いた焼き魚。別の家では、庭先で花火をしていた。色とりどりの光と家族の談笑が聞こえてくる。
ぼくとお姉ちゃんは、疲れきった足取りで、それでも早くこの住宅街を抜け出たかった。そうしないと、胸が痛くて仕方がなかった。
ほんの数週間前。お父さんはちゃんとぼくたちの傍にいてくれて、この住宅街のどの家ともそれほど変わらない、普通の暮らしをしていたのだ。でも、たった一瞬ですべてが壊れてしまった。もしもこのままお母さんが見つからなければ、叔母さんの家を逃げ出したぼくたちに、帰る場所はない。10歳と6歳に、おとなほどの経済力もなければ、生活力もない。吹けば飛ぶような、ちっぽけな子どもなんだ。生きていくには、誰かの助けなくしては、どうしようもなかった。
ぼくたちは、口を一文字に結び、一言も言葉を交わさないまま、団地を降りた。広い通りに出て、真っ直ぐ桜ヶ浜駅へとむかう。目的があったわけじゃない。むしろ、目指す場所を失ったぼくたちは、当面どうするべきかが思いつかず、駅へ向かっていたのだ。
やっぱり、団地から駅までは遠かった。加えて、足取りが重かったため、駅にたどり着いた時には、丁度市電の最終電車が駅を出発していた。駅の電気が消えて、駅前は静かになってしまう。昨日、千鳥さんとここで別れたときには、まだ希望があった。だけど、いまはぼくたちの目指す道が真っ暗で、何も見えない状態だった。
とにかく、寝床を確保しよう。と、駅の構内を歩いていると、待合室に並ぶ三列のプラスチック椅子が目に止まった。すでに、酔っ払って最終電車に乗り遅れた小父さんが、いびきをかいている。ぼくたちもそれに倣って、今日はここで眠ることにした。
ごつごつした椅子に寝そべると、小父さんのお酒の匂いがつんと、匂ってきた。
「明日のことは明日考えよう」
お姉ちゃんは元気なくそう言った。それだけ、ぼくたちの疲労感は重く全身にのしかかっていた。前日よりも、疲れていたぼくは、吸い込まれるように眠りについた。
その日から、ぼくは毎日「明日は今日よりいい日でありますように」と祈るようになった。誰のためでなく、ぼくとお姉ちゃんのために。
【第四話】
次の日、ぼくは「泣きっ面に蜂」と言う言葉を始めて実感した。
朝、お姉ちゃんに起こされた。まだ外は薄暗く、ぼくの頭は「もう少し寝たい」と言っていた。だけどお姉ちゃんは、ぼくの頭を二、三度叩いた。
「起きろ、拓海っ」
ぼやけた視界に入るお姉ちゃんの顔は、ぼくに二度寝を許さなかった。ぼくは無理矢理目をこじ開けた。駅の中はまだ静かで、始発が出発するまで、まだ時間があった。ふと、一列後ろの席に目をやると、昨日の酔っ払いさんはどこかへ消えていた。
「どうしたの、お姉ちゃん?」
お姉ちゃんの顔つきはただ事ではなかった。慌ててる、と言ったような表情だった。
「あのね、大変なの。お財布が盗まれちゃったの」
その一言で、眠かった頭が一気に冴えてしまった。
「眠ってる間に誰かが、ポシェットごと盗んだみたい。何処を探しても見当たらなくて」
そういうお姉ちゃんの肩に、かかっていたはずのポシェットが、今は何処にもなかった。ただ、お姉ちゃんの両手には紫色の袋に包まれた、乳白色の小瓶が載せられていた。お父さんの骨が入った骨壷だ。叔母さんの家を出る時、お姉ちゃんがポシェットに仕舞いこんだのだ。
「これだけは残ってたの」
お姉ちゃんは不幸中の幸いだ、と言った。犯人は、ポシェットの中をあら捜しして、見つけた骨壷を気味悪く思って、それだけ残していったのかもしれない。
でも、きっとお姉ちゃんの財布には、それほどお金は入っていなかったと思う。お姉ちゃんは、お小遣いを無駄にしない。きちんと計画的に貯めていた。それでも、ぼくたちは子どもで、財産と呼べるほどの財力は持ち合わせていない。だから、お姉ちゃんの財布にはそれほど多くの、お金は入っていなかったと思う。そもそも、吉村さんの家へ行くために買った切符は、結構高かったのだ。
「もしかして、あの酔っ払いの小父さんが、盗んだのかな?」
ぼくが言うと、お姉ちゃんは首を横に振って、「分からない」と答えた。
ぼくたちに必要なことは、犯人が誰かという、探偵さんの真似事なんかじゃなかった。お財布がなくなったことで、ぼくたちのこれからの「選択肢」が極端に狭められてしまったのだ。これから、お母さんを探す手立てを見つけられたとしても、どれくらいの日にちがかかるか分からない。お腹もすくし、喉も渇く。さらに、移動の手段だって安くはない。
結局、幼いぼくたちにとっても、お金の存在は重要だったのだ。ただ、だからと言って、迂闊だったと、お姉ちゃんを責める気にはなれなかった。
ぼくたちがするべきことは、真剣にこれからどうするのかを話し合うことだった。
お姉ちゃんは、ぼくの手を引っ張って、海岸沿いまで歩いた。水平線からは、少しずつ太陽が昇り始める時刻だけど、今日は灰色の雲に覆われて太陽が見えない。雨になるのだろうか、海岸の人通りはやたら少なかった。
お姉ちゃんは、防波堤に腰掛けると溜息をついた。
お財布を盗まれたことを、お巡りさんに届けるべきか。届ければ、お財布は見つかるかもしれないけれど、お巡りさんにいろいろ聞かれるだろう。なんでそんな夜遅く、駅にいたのか。姉弟二人で、何をしていたのか。家は何処なのか。事情を一から順に説明して、理解してもらったとしても、叔母さんの家へ連れ戻されることくらい、子どものぼくたちにだって分かることだった。
じゃあ、ぼくたちだけで犯人を捜して、お財布を取り戻す。一番現実味のない提案だった。例え盗んだのが、あの酔っ払いの小父さんだったとしても、あの人が何処の誰だか分からない。探偵ごっこと違って、犯人を突き止めることはぼくたちには難しかった。
それなら、叔母さんの家へ帰る。帰ったとしてぼくたちを待っているのは、一体なんだろう? 叔父さんはぼくたちを家族とは認めてくれないだろう。ぼくたちを引き取ったのは、お父さんの遺産と保険金が目当てであって、ぼくたちはそれにおまけでついてきた、「お荷物」なんだ。更に、叔母さんの家へ帰るには、もう一つ問題点が残されている。ここ桜ヶ浜から、ぼくたちの住んでいた街へ帰るためには、電車やバスを使わなければ、どうやっても帰れない。ヒッチハイクをしようにも、ノートもマジックも全部取られてしまった。手元の骨壷だけではどうしようもない。それに、千鳥さんが言っていたように、変な大人だっていっぱいいる。ヒッチハイクをして、千鳥さんのような優しい人にめぐり合えるかどうか分からないのだ。
どう考えても、進退窮まったという感は強かった。
その時、ふとぼくの頭の中に名案が浮かんだ。
「お母さんって、お祖母ちゃんの娘なんだよね」
「当たり前じゃん」
お姉ちゃんが、何を言い出すんだ、と言う顔つきでぼくに言った。ぼくは気に止めず続ける。
「もしかすると、お祖母ちゃんのところへ行けば、お母さんの手がかりが見つかるかもしれないよ。お祖母ちゃんはもういないけど、志郎叔父さんがいるよね」
そうだ、そうなんだ。何で気がつかなかったんだろう。ぼくたちには吉村さんに尋ねるより、小西さんを訪ねるより、もっといい手がかりがあったんだ。
ここから、お祖母ちゃん家へ行くのにどれくらい距離があるのか、分からなかったけど、叔母さんの家へ戻って、叔父さんや叔母さんに気を使い、俊哉君や実夏ちゃんにいじめられて暮らすのは、真っ平ごめんだ、と言うのは、ぼくとお姉ちゃんの総意でもあった。
「行こうよ、志郎叔父さんに会いに」
「でも、どうやって行くの? もう電車もバスも使えないんだよ」
「じゃあ、歩いて行こうよ。ぼく、お姉ちゃんと一緒なら、何処へだって行けるよ」
ぼくはそういって防波堤から立ち上がると、ひょんぴょんはねて見せた。本当は、昨日までの疲れは全然取れていなくて、筋肉痛はするし、足全体が重かった。
「ね、大丈夫だよ」
ぼくがそう言うと、お姉ちゃんは、少しだけ微笑んでから、「うん」と頷いた。
新しい目的地が決まり、ぼくたちは桜ヶ浜を離れることにした。だけど、ぼくたちには一つだけ、大きな問題が残されていた。志郎叔父さんだった。
志郎叔父さんは、お母さんの弟に当たる人で、今年で30歳になる。もともと、お祖母ちゃんの家は、代々酒屋さんをやっていて、叔父さんは大学を出た後、その酒屋さんを継いだのだ。お祖父ちゃんとお祖母ちゃんが他界した後は、叔父さんと、叔父さんの妻である、若葉叔母さんと二人でお店をきりもりしているのだ、とお父さんに聞いた。
ただ、お父さんとお母さんが離婚してからは、疎遠になってしまい、お父さんのお葬式にも叔父さんは顔を出してくれなかった。ぼくたちは、志郎叔父さんに殆んどあったことがない。お姉ちゃんは、お父さんが離婚する前に何度か遊んでもらったことがある、と言っていたけれど、ぼくは顔さえ思い出せないのだ。
そんな叔父さんのところへ突然行って、叔父さんは快く迎えてくれるだろうか? ぼくたちに協力してくれるだろうか。心の中は不安だらけだった。
それでも、今はただ、志郎叔父さんの家を目指す以外に、何の方策も思いつかなかった。もしも、それでダメなら、何とかしてあの街へ帰ろう。お姉ちゃんは、桜ヶ浜を出る前に、ぼくに言った。
木陰で雨をしのいでいると、雨が地上をばたばたと叩きつける音と、木の葉がざわざわと擦れ合う音に紛れるように、カエルの大合唱が聞こえてくる。トノサマ蛙の甲高い声はソプラノ、ガマ蛙のしゃがれた声はテノール、ウシ蛙の低い声はバス、と言った具合に。それらすべての音が一体となって、ぼくの耳に不思議な交響曲を奏でてくれていた。
桜ヶ浜を離れてから、すでに二週間余りが過ぎていた。ここずっと曇り空こそあったけれど、雨が降ってくるのは久々だった。遠雷が鳴り響いたかと思うと、突然大粒の雨がぼくたちの真上から降ってきた。ぼくたちは、幸い水田地帯を歩いていて、道を少し入った場所に、樹齢数百年と思われる大きな木があった。その下へ潜り込めば、天然の屋根は風雨を抑えてくれる。
木陰に飛び込んで、しばらくすると、お姉ちゃんが突然
「食べ物を調達してくるから、拓海はここで待っててね。絶対動いちゃダメだよ」
と、言って、雨の中を駆け出していった。すぐに雨に紛れて、お姉ちゃんの後姿は見えなくなった。ぼくはお姉ちゃんが帰ってくるまで、木の幹に背中を預けたまま、ひと眠りすることにした。
あれから、ぼくたちは、海岸沿いを真っ直ぐ西へ向かった。叔父さんの家は西にある、と言うことと、街の名前が「矢和(やなぎ)」ということくらいしか分からない。
ぼくたちは、目的地も見えない道を、ただひたすら歩いた。子どもの足で、一日に歩ける距離なんてたかが知れている。だから、夜になると駅や公園など、寝床として使えそうな場所を探した。大人たちは、ぼくたちにとても無関心で、たとえ駅のホームで眠っていても、声をかけられたりしなかった。勿論、なるべく無人の駅を探してはいたのだけど。
後どのくらいで、志郎叔父さんの家へたどり着くのか全く分からなかった。足が痛くて、もう歩けないと言って、お姉ちゃんを困らせたりもした。大抵は、お姉ちゃんが怒ってそっぽを向いてしまう。すると、急に独りぼっちになったような気がして、ぼくが「ごめんなさい」をするのだ。
雨の中、ぼくはお姉ちゃんに言われたとおり、お姉ちゃんが帰ってくるまで、木陰で待っていた。お姉ちゃんはぼくが一眠りして、30分もすると、雨の中戻ってきた。黒い大人用の雨傘をさして。
「その傘、どうしたの?」
びっくりしたぼくは、お姉ちゃんに尋ねた。お姉ちゃんは笑って、傘を閉じると、それをぼくに見せた。骨はさび付いて、泥がついて、穴が開いてる。
「捨ててあったの。まだ使えるみたいだから、ゴミ捨て場からくすねてきちゃった」
そういうと、お姉ちゃんはぼくの隣に座った。少し汗のにおいがする。
「今日は農家の小父さんに、分けてもらったの」
そう言うと、ビニール袋からトマトやきゅうりといった野菜をお姉ちゃんは取り出した。ぼくは野菜が大嫌いだったけど、わがままは言えない。空腹に苦しむより、青臭いのを我慢する方がマシだ。
ぼくたちは、旅の路銀をすべて失ってしまったから、食べ物を集めるのは大変だった。こんな時は、人間は食事しなければ死んでしまうのが、ひどく恨めしい。
普段食べ物は、優しい人から分けてもらった。正直に事情を話したり、嘘をついたりしても、大抵の人がぼくたちに少しだけ食べ物を分けてくれた。勿論、相手にしてくれない人や、ぼくたちを警察に通報して保護してもらおうとする人もいて、食べ物が手に入らないことのほうが多かった。そんな時は、畑から食べ物を失敬した。天国にいるお父さんが聞いたら、顔を真っ赤にして叱るか、大泣きするかもしれない。「そんな風に育てた覚えはない」って。それでも、背に腹は代えられない、というのが現状だった。
ほんの少し前まで、お金さえ払えば、何だって食べられた。空腹に苦しまなくても、冷蔵庫を開ければ、何かしら食べ物が入っていた。そのことが、今は遠い昔のことようだった。
お姉ちゃんは、トマトを上着の裾でこすってから、がぶりと噛り付いた。
「美味しいよ。拓海もたべな」
そう言って、お姉ちゃんは、ぼくにトマトを手渡してくれた。赤く熟したトマトは、噛り付くと、ほのかに甘かった。
雨足は夕方になって、弱まり、雲の切れ間から夕陽が差し込んだ。夏の熱気を帯びていたはずの空気は、雨に洗われて、すっかり涼しくなっていた。ぼくとお姉ちゃんは木陰から出ると、田園を歩き始めた。
しばらく、アスファルトの水溜りを避けながら進んでいると、ヒグラシの声の隙間から、何処から不思議な音色が聞こえてくる。それは、太鼓と笛の音。それは、この先の林の方から聞こえてくる祭囃子だと気がついた。
「夏祭りみたいだね」
お姉ちゃんに言うと、お姉ちゃんは頷いた。楽しげな囃子と、人の声。雨上がりの涼しい風。薄く帳の引かれた空。わがままと知りながら、ぼくはお姉ちゃんに、「祭りへ行ってみたい」といってみた。
林の奥に建つ朱塗りの神社。古い鳥居から続く参道に赤いちょうちんがぶら下がり、その下にはたくさんの出店があった。浴衣を着た人、家族連れの人、たくさんの人で賑わいを見せる祭りに紛れ込むと、少しだけ楽しい気持ちになった。
去年の夏、お父さんと街の夏祭りに行った事を思い出した。お姉ちゃんは、丁度夏風邪を引いて、家でお留守番していて、ぼくとお父さんの二人で出かけたのだ。ぼくたちの住んでいた街には神社なんてなくて、地元の商店街が夜店を開くだけの、小規模なものだった。毎年夏祭りの時期はお父さんの仕事が忙しい。お父さんが顧問をしている部活の県大会があるのだ。だから、子どもたちだけで行かせるのは危ないと言われて、ぼくが夏祭りに行ったのはそれが始めてだった。
「坊主、金魚すくいをやってみないか」
金魚すくい屋さんの小父さんが、髭の生えた顔でぼくにそう言った。お父さんの顔を見上げると、お父さんは「難しいぞ」と笑って、小父さんにお金を払った。ルールは簡単で、和紙の張られた網で金魚をすくう。和紙が破れたら、ゲームオーバー。でも、実際やってみると難しい。金魚を一匹もすくうことが出来なかった。
「どれ、父さんがやってみよう」
今度はお父さんがチャレンジした。ひょいっと、赤い小さな金魚が、網の上に乗りそのまま、手元の皿へ入る。
「大将、上手いねぇ。昔取った杵柄ってやつかい?」
「まあ、そんなところですかね。たまには、息子にかっこいいところを見せたいですし」
目を丸くする金魚すくい屋の小父さんに、お父さんは笑顔で答えた。結局金魚は五匹取れた。
「親父さんに感謝しな、ほれ」
小父さんは、ビニールの袋に金魚を移すと、それをぼくにくれた。ぼくは、妙に嬉しくて何度も、お父さんに「ありがとう」と言った。
その金魚は、お父さんが死んじゃう、ほんの三週間前まで、小さな金魚鉢のなかで泳いでいた。
人ごみをお姉ちゃんに手を引かれて歩きながら、ぼくはそんなことを思い出していた。
「拓海、ぼーっとしすぎて、私の手を離したら迷子になっちゃうよ。迷子になったら置いていくからねっ」
お姉ちゃんは、人ごみを必死にかき分けながら、ぼくに言った。置いていかれたくない、と思うと、握る手に力が入る。
「ねぇ、お姉ちゃん」
お姉ちゃんの背中に呼びかけると、お姉ちゃんは振り返らずに「なぁに?」と言った。
「お姉ちゃんは、夏祭りに行った事あるの?」
「あるよ、勿論。まだ拓海が赤ちゃんだった時、志郎叔父さんと若葉叔母さんに連れて行ってもらったことがあるよ」
「ふうん。楽しかった?」
と、尋ねたぼくの言葉の裏側に、志郎叔父さんのことを尋ねているということを、知ってか知らずかお姉ちゃんは。
「叔父さんも叔母さんも優しくて、楽しかったよ。もうあんまり覚えてないけどね」
と言いながら、笑った。
参道をお社の方へ進む度に、人ごみは深くなり、あたりを大人という林立する壁に囲まれているみたいになってしまった。お姉ちゃんの手をしっかり握っていようと、力を込めたけど、人ごみに押されてしまい、ぼくは思わずその手を離してしまった。
するりと解けたお姉ちゃんの手は、人と人の間に吸い込まれるように、消えてしまい、お姉ちゃんの姿は何処にも見えなくなってしまった。
「お姉ちゃん、お姉ちゃんっ」
人ごみに押されながら、ぼくはお姉ちゃんを呼んでみた。だけど、お姉ちゃんの声は聞こえない。耳に届くのは、楽しそうに笑う人たちの話し声と、祭囃子だけだった。
「何処にいるの? お姉ちゃんっ」
焦りを覚えたぼくは、必死でお姉ちゃんを呼び、人ごみをかき分けようとしたけれど、なかなか前へ進めなかった。気がつくと、ぼくは人ごみから弾きだされていた。
そこは、出店の裏側。提灯の明かりがほんの少しだけ届く、薄暗い林の入り口だった。どうしよう、と思っていると、手に汗がにじむ。何とかして、人ごみに戻るのが正解か、それとも、この林沿いを歩いて、出店を迂回し、お社へ行ってお姉ちゃんを待つのが正解か。ぼくの頭で考え出せた選択肢はその二つだった。
「お姉ちゃん……」
背後の林の奥から今にも黒い手が伸びてきて、ぼくを連れ去ってしまうような気がして、ぼくは不安と焦燥を感じた。その時だった、かすかに林のほうから、泣き声のようなものが聞こえてきた。
怪談話で良くあるような泣き声で、ぼくは背筋に冷たいものを感じる。でも、その泣き声は空耳なんかじゃなくて、たしかに林のほうから聞こえるのだ。ぼくは、恐る恐る林に近付いた。
「だれかいるの?」
震える声でそう言うと、茂みがかすかにザワザワと音を立てる。ひっ、と息を呑むと、茂みの中から女の子がわんわん泣きながら出てきた。
金魚の絵柄をした白い浴衣を着た、女の子はぼくより少し年下、3、4歳くらいだった。
「どうしたの?」
ぼくが尋ねると、女の子は一際大きな声で泣いて、しゃくりあげると。
「パパとママがどこか行っちゃったぁ」
といって、わああんと耳が痛くなるような、金切り声で泣く。
「どうしよう、どうしよう。小夜、悪い子だから、パパもママもきらいになっちゃったんだぁ」
泣き叫ぶ小夜ちゃんを、どうなだめたものかと、困ってしまう。
「ぼくが、小夜ちゃんのパパとママを捜してあげる。一緒に行こう」
と、ぼくが言うと小夜ちゃんは鼻をすすって、「うん」とだけ言った。そして、涙で濡れた小さな手を伸ばしてぼくの手を掴んだ。
ぼくと小夜ちゃんは、人ごみへ戻ると、小夜ちゃんのお父さんとお母さんを探した。
「小夜ちゃんのお父さんとお母さんって、どんな人かな?」
「パパは背が高いの。ママはメガネかけてるよ」
すんすんと泣きながら、小夜ちゃんが教えてくれる。ぼくはそれらしき人を必死で探した。参道をお社のほうへ向かって。だけど、やはりお社の方へ行こうとすると、人が多くなって、油断するとまた人ごみから弾き出されそうになる。
これ以上無理したら、小夜ちゃんともはぐれてしまう、と思ったぼくは、出店の裏を迂回して、お社へ行って、そこで小夜ちゃんの両親を待つ方がいいと考えた。一路、出店の裏に抜けると、ぼくは小夜ちゃんの手を引っ張って、お社へ向かった。暗い林を左に、出店の裏を右に、しばらく進むと、お社の赤い柱が見えてくる。ぼくは、お社の石段の傍にある石垣に座った。
「ここで、お父さんたちが来るのを待とう」
と言うと、小夜ちゃんはコクリと頷いてぼくの隣に座った。ぼくは、参拝に石段を登ってくる大人をひとり一人見て、小夜ちゃんに確認をとった。
でも、なかなかそれらしき人は現れない。
「お兄ちゃんも、パパとママがいなくなったの?」
小夜ちゃんが、参拝客を見ながらぼくに言った。少し落ち着いたのか、小夜ちゃんはもう泣いてはいなかった。
「うん。でも、ぼくはお姉ちゃんとはぐれちゃったんだ」
「お兄ちゃんも悪い子なの?」
「悪い子?」
「うん。パパやママの言うことを聞かない子は悪い子で、そういう子からは、神様がパパとママを盗っちゃうの。幼稚園の先生が言ってたよ」
「悪い子かぁ」
ぼくは溜息を漏らした。ぼくは、どうなんだろう。悪い子? 良い子? 多分悪い子だ。わがままばかり言うし、算数嫌いだし、お姉ちゃんを困らせてばかりだし、泣き虫だし、弱虫だし。だから、神様がぼくから、お父さんとお姉ちゃんを奪ってしまったのだろうか? だったら、もうお姉ちゃんと会えないんだろうか。
「小夜、良い子にするよ。嫌いなニンジンちゃんと食べるよ。お片づけちゃんとするよ。パパとママ帰ってこないかなぁ」
小夜ちゃんは瞳を閉じて両手を合わせると、朱塗りのお社に向かって祈った。すると、突然参拝する人たちを掻き分けて、「小夜っ」と叫びながら、背の高い小父さんとメガネの叔母さんが現れた。
「パパ、ママっ」
小夜ちゃんの顔に満面の笑顔が浮かび、小夜ちゃんは石垣から立ち上がると、一目散にお父さんとお母さんのところへ駆け寄った。小父さんは小夜ちゃんを抱き上げると、目頭に涙を浮かべて。
「何処へ行っていたんだ。心配したんだぞ」と言った。
「ごめんね。小夜を一人にして。心細かったでしょう」
小母さんが、傍らから手を伸ばして小夜ちゃんの紙を撫でながら言った。
「ううん、独りじゃなかったよ。あのお兄ちゃんが、パパとママを捜してくれたの」
と、小夜ちゃんが言って、小父さんと小母さんは初めてぼくに気がついたみたいだった。
小父さんと小母さんは、ぼくに何度も何度もお礼を言った。誰かにこんなに感謝されるのは初めてのことで、ぼくはうれしいやら恥ずかしいやら。
小夜ちゃんはお父さんとお母さんに手を引かれて、帰っていった。後には、ぼく独り取り残されて、ぼくは小夜ちゃんたちの背中を見送ると、ぼんやりと夜空を見上げた。
月のない夜だった。星の輝きはいつもより鮮やかだ。ふと、桜ヶ浜で流れ星を見ながらお姉ちゃんが言ったのを思い出す。
「もし、願い事が出来たら、何をお願いするつもりだったの?」
いま、もしお願いが出来るなら、良い子になるから、お姉ちゃんに逢いたい。胸の奥で、お姉ちゃんに置いていかれたのかも知れない、という焦りが呼び戻されてくる。不安が、心に黒いシミを作って、じわじわとそれが広がり始める。
祭りが終わり、お客さんも出店の人たちもいなくなり、提灯の明かりが消えていく。あたりが真っ暗になって、怖いというよりも、もう二度とお姉ちゃんに会えないのではないか、という不安が、一番怖かった。
ぼく独りじゃ何も出来ない。ここまでこれたのも、お姉ちゃんがいたから。ヒッチハイクなんて出来ないし、上手い嘘もつけない、お金の計算だって出来ないし、お母さんの居場所だって聞いて周れない。なんてちっぽけなんだろう。
ぼくは膝を抱えて蹲った。
「拓海?」
不意に、何処かから声が聞こえた。顔を上げて、目を凝らして石垣の方を見ると、闇の中に誰かが立っていた。
「お姉ちゃん?」
ぼくは、恐る恐る立ち上がると、その人影に近付いた。はっきりと顔が見えて、お姉ちゃんに間違いないと分かると、ぼくはかけよってお姉ちゃんに抱きついた。
「お姉ちゃん、お姉ちゃんっ」
「もお、心配したんだよ。迷子預かり所に行ってもいないし」
そんなところがあるなんて知らなかった。
「ずいぶん探したんだよ」
「ごめんなさい。ごめんなさい。ぼくね、ぼくね、良い子になるよ。ちゃんとお姉ちゃんの言うこと聞くよ、算数頑張るよ。だから、だから何処にも行かないで」
ぼくは泣きながら、必死でお姉ちゃんに言った。お姉ちゃんはびっくりしながら「どうしたの?」とぼくに尋ねた。
「お姉ちゃんは、ぼくが悪い子だからいなくなってたんでしょ? だから、ぼく良い子になる。だから、ぼくを独りぼっちにしないでっ」
「拓海が」お姉ちゃんがぼくの頭をやさしく撫でた。「拓海がもしも悪い子でも、私はいなくなったりしないよ」
「だって、お姉ちゃん、ぼくを置いていくって言った」
「ごめん。でも、ホントだよ。拓海がどんなに悪い子でも、私にとっては、たった一人の家族だよ。他の誰でもなくて、拓海は私の大切な弟だもん、絶対いなくなったりしない。だから、泣くなっ」
お姉ちゃんはぼくの頭をこつんと軽く叩いた。
「そうだ」
お姉ちゃんはスカートのポケットを探って何かを取り出した。それは真っ赤なりんご飴だった。
「これ、どうしたの?」
「拓海を探してたとき、りんご飴屋のおじさんが、売れ残りを二つくれたの」
そう言うと、お姉ちゃんはもうひとつりんご飴を取り出した。
「泣き止んだら、これあげる」
ぼくは、上着の袖で涙を拭き取った。お姉ちゃんはうんうんと、頷いてりんご飴を一つぼくに手渡してくれた。
「拓海が、いい子になるって言うなら、泣くな。それだけで、私満足だから」
「うん」
ぼくとお姉ちゃんは、石垣に座ると、りんご飴を食べた。甘いお菓子を食べるのは久々だったけど、それにもまして、りんご飴は美味しかった。
「あのね、りんご飴屋のおじさんに聞いたんだけど、矢和っていう街、もう少しなんだって。もうちょっとで、志郎叔父さんの所へいけるよ。だから、頑張ろうね」
お姉ちゃんがりんご飴をなめながら言った。
ぼくは返事をして心の奥で思った。明日は今日よりいい日でありますように、と。
【第五話】
ずっと前、図書館で借りた本にこんな話があった。ぼくくらいの男の子が、生き別れになったお母さんを探して、旅をするのだ。道中色んな苦難が待ち受けていて、挫けそうになったりしながらも、三千里を越えてお母さんと再会する、と言うお話。
ぼくは本を読むのが大好きだった。難しい漢字が多い小説はまだ読めなかったし、算数の教科書は嫌いだったけど、児童向けの童話の本は特に大好きで、いつも図書館や学校の図書室で借りてはお家で読んでいた。
お姉ちゃんはマンガが好きだし、同い年のクラスメイトたちも、マンガ雑誌をよく読んでいたけど、ぼくだけはいつも活字を読んでいた。周りには、色々とはやし立てる人もいたけど、大人たちは「拓海くんは、ちゃんと本を読んでて、偉いね」と良く褒めてくれた。だから、図に乗って本を読んでいた、と言うわけじゃない。本当は、マンガも大好きだ。テレビではアニメだって見るし、ときどきお父さんにおねだりして、マンガも買ってもらっていた。
ぼくが本を好きな理由はもっと別で、本を読んでいると、ぼくもその主人公になったみたいな気がするからなのだ。
「海底二万里」を読めば、ぼくはネモ船長になる。潜望鏡をのぞいて海上を探るんだ。「ピーターパン」を読めば、ぼくはピーターパンになる。不思議なネバーランドの空をティンカーベルと一緒に飛び回る。「トムソーヤの冒険」を読めば、ぼくはトムソーヤになる。アメリカの広大な大地を好奇心いっぱいに駆け回る。
そうやって、いつも空想しながら、読むのがぼくは大好きだった。お姉ちゃんは、「妄想癖になるよ」と、ぼくを脅したけど、今のところそういう症状はみられない。だけど、例えネモ船長になっていても、ピーターパンになっていても、トムソーヤになっていても、本を一度パタリと閉じれば、ぼくは「遠野拓海」に戻るのだ。
遠野拓海は、背が低くて、弱虫で、泣き虫。いつもお姉ちゃんの後ろにくっついて、助けてもらってばかり。ネモ船長のように冷静でもないし、ピーターパンみたいに、勇敢でもない。どんな物語の主人公より、ちっぽけな存在なんだ。
だけど、遠野拓海の物語の主人公はぼくで、他の誰でもない。こうして、お姉ちゃんに手を引かれていることも、こうして、お母さんを探しあぐねていることも、すべて、ぼくが主人公の物語なんだ。
もしも、変えられるのなら、物語ではなくて、それは、ぼく自身しかなくて、そして、ぼく自身が変わることで、この物語は変わるのではないだろうか。
ただ、ぼくはぼく一人で生きられないほどの、だだの6歳の子どもなんだ。
矢和という街へはもう少し。と、思っていたのだけど、歩けど歩けど矢和という街へはたどり着けなかった。ようやく、道に立てられた青色の標識に「矢和」と言う文字が見えたのは、夏祭りの夜から、一週間後だった。それでも、「矢和」の文字の右にはまだ20キロの数字が書かれており、ぼくたちは落胆の溜息を漏らした。
りんご飴屋のおじさんも、ぼくたちがまさか歩いて矢和へ行くつもりだったとは、思ってなかったのだと思う。まして、子どもの足で歩きとなれば、想像以上に時間がかかることは明白だった。
いつの間にかあたりは、高い建物も増え、人と車の多い街の真ん中になっていた。商社ビルに出入りする、忙しそうなサラリーマン、学校帰りの高校生、楽しそうにデートするカップル。ぼくたちの前を沢山の人が通り過ぎていく。
「蝉の声、聞こえないね」
お姉ちゃんが街路樹を見上げて言った。街路樹の下に木で作られた小さなベンチがあって、ぼくとお姉ちゃんは、少し休憩を取るため、そこに腰掛けていた。
街の片隅にあった公園で汲んだ水道水は、とても生ぬるかったけれど、カラカラの喉を潤してくれる。
「こんな都会には、蝉は来ないのかな」
ぼくも、街路樹を見上げて言った。木の葉と木の葉の隙間から、夕暮れ時の金色の光が、少し眩しい。
「田舎じゃ、あんなに沢山泣いていたのにね。ここじゃ、蝉より人の声の方がうるさいし」
「うん。でも、ぼく、蝉嫌いだよ」
「どうして?」
「ぼくが近付くと、いつもおしっこかけて行くんだよ。ひどいよ」
と、ぼくが言うと、お姉ちゃんはあはは、と笑った。
「まあ、私は無視が苦手だし。そう言えば、お父さん、虫取り上手だったんだよ」
「そうなの?」
「うん。私が小一のとき、虫の研究っていうのが夏休みの宿題で出たの。でも、私、虫なんか捕まえたことないし、どうしたらいいか分からなくって、お父さんに聞いたら、じゃあ捕まえてやろうって。ほら中学校の裏山へ行ったことあるでしょ、覚えてない?」
そう言えば三年前、買ったばかりの虫網とかごを持って、お父さんが勤める中学校の裏山へ行ったことがある。
ぼくたちよりお父さんの方が虫取りに夢中になっていた。お姉ちゃんがぼくの耳元で「ああいうのを、童心に帰るって言うんだよ」と、苦笑しながら囁いた。
「あの時、はじめて蝉は一週間しか生きられないって知って、私ものすごくかわいそうに思ったんだよね」
お姉ちゃんは感慨深げに、遠い目をして言った。ふわりと、夏風が街をすり抜けていく。さらさらと木の葉を揺らす風は、額の汗に当たって涼しい。
「さて、行くか。今日の寝床探そう。明日はきっと矢和にたどり着けるよ」
お姉ちゃんはそう言うと、すくっとベンチから立ち上がった。ぼくたちは、今夜の寝床を確保すべく適当な場所を捜し求めた。
街路樹の立ち並ぶこの道の突き当りには、JRの駅があったのだけど、ショッピングモールと隣接するほど大きな駅だったため、子どもが寝ていれば、当然誰かが声をかけてくるに違いない。補導されたり、警察の人に捕まったり、叔母さんの家へ帰されるのだけは、何としても避けたいので、駅に泊まるのは諦めることにした。
駅を反対に抜けると、そこはビル街だった。大手保険会社のビル、銀行のビル、何の会社か分からないけど、大きなビルが立ち並び、さながらビルの森だった。街路樹通りの方は、繁華街で騒がしかったけど、こちらはずいぶん静かな場所だった。
しばらくビル街をくねくねと、曲がる道を歩き続けると、やっとぼくたちは、適当な寝床を発見した。
公園だった。ビルとビルに囲まれて、少し薄暗いそこは、遊んでいる子どももいないし、遊具だって誰かが使っている風はなかった。ここなら、休めそうだと思い、ぼくたちは公園へ足を踏み入れたその時、後ろからしゃがれた声が飛んできた。
「おい、お前たち」
びっくりして振り返ると、いつの間にか、ぼくたちの後ろに知らない小父さんが立っていた。小父さんは髭もじゃで、白髪交じりの髪も伸び放題、ボロボロの服は汚れが目立つ。どこからどう見ても、みすぼらしい格好をしていた。
「お前たち、何処のガキだ?」
小父さんの問いに、お姉ちゃんは声を詰まらせてしまった。答えが思いつかない、というより、小父さんが怖かったのだ。それに気がついた小父さんは、口許に笑みを浮かべて。
「あ、いや怖がらせるつもりじゃねぇんだ。ただ、この公園に遊びに来るガキは少ねぇから、ちょっと不思議に思ったのさ」
小父さんの言葉に他意は感じ取られなかった。それでもお姉ちゃんは警戒の眼差しを向けている。
「私たち、ここへ遊びに来たんじゃないんです」
「何だと? ガキが公園へ遊びに来なくて、何をしに来るんだ? まさか、市の連中が送り込んだ交渉役ってわけでもないだろう?」
小父さんが何を言っているのか良く分からなかったけど、「コウショウヤク」なんてものじゃない。お姉ちゃんは、かいつまんで事情を説明した。小父さんは真剣な眼差しでお姉ちゃんの言葉を聞いて、それから髭を二度さすった。
「ほお、母ちゃんを捜して、ここまで来たのか。ここまで良く来れたな。だけど、ここは寝床にするにはちょっと、そぐわねぇなあ。蚊は多いし、それに……」
小父さんが神妙な面持ちになる。その時、通りからぞろぞろと、小父さんそっくりなみすぼらしい格好の人たちがやって来た。
「おう、シマさん。ご苦労さん。収穫はどうだった?」
小父さんが尋ねると、先頭を歩いてきた、痩せぎすな人が、ニカっと笑う。
「食いもんはあんまり見つからなかったがよ、賞味期限切れのタバコが5カートン手に入った。ほれ、クロにも一つやるよ」
シマさんという痩せた小父さんが、クロさんにタバコを一箱投げ渡した。弧を描いてたばこはクロさんの大きな手の中に、すっぽりと納まる。
「タバコか、久しぶりだな、ありがとよ」
クロさんが嬉しそうに答えると、シマさんはクロさんの傍らにいるぼくたちに気がついた。
「なんだ、その子らは。お前の息子と娘か?」
「バカ言え、息子は成人したよ」
クロさんが笑う。シマさんは「そうだったな」とだけ答えて、さほどぼくたちには興味を示さず、他の人たちと一緒に公園の中へ入っていった。
「と、いうわけだ。ここには俺みたいなホームレスが集まってる。別にとって食いやしないが、ガキだけでいる場所じゃねえ」
クロさんはタバコをポケットにしまうと、ぼくたちにそう言った。お姉ちゃんが肩をがっくりと落とすのがぼくにも分かった。他にいい寝床はあるだろうか?
「まあ、そうがっかりすんな。ガキだけでいるトコじゃないだけだ。蚊が多いのを我慢してくれれば、今日は俺の住処に泊めてやる」
クロさんは、ヤニだらけの歯を見せてぼくたちに言った。
ぼくとお姉ちゃんは、クロさんの好意に甘えることにした。田舎ほど都合のいい寝床が見つかる保障はないし、あまりウロウロしていたら、補導員に捕まっちゃう虞だってあった。
クロさんの住処は、公園の奥にある茂みの中にあった。ダンボールとブルーシートで作られた、家というよりはテントのような場所だった。テントは他にも沢山あって、この公園は、ホームレスの人たちが集まる場所になっていた。そのため、近くの子どもたちが遊びに来るわけもなく、この公園は静かだったのだ。
テントの中に入ると、以外にもクロさんは清潔好きなのか、きちんと片付けられていて、ぼくたちが寝るスペースも十分にあった。
とりあえず座ってから、自己紹介。クロさんの名前は、本当は黒田博史というのだそうだ。ただ、ここでは本名は名乗らない、愛称で呼び合うのが慣わしだ、とクロさんは言った。
外はすでに夕刻を過ぎ、ビルに明かりが灯る時間になっていた。
「そうだ、腹はすいてないか、二人とも?」
クロさんがぼくたちにそう尋ねた瞬間、ぼくのお腹がきゅーっと鳴った。クロさんはまたヤニだらけの歯を見せて笑うと、テントの端に置かれた、ダンボール製のタンスの中を探り始めた。
「あった、こいつは賞味期限が切れてねぇ。これでも食いな」
クロさんはぼくたちに、一つずつ菓子パンを放り投げてくれた。ぼくの好きなジャムパンだ。
「いいんですか?」
お姉ちゃんが、クロさんに問いかけると。
「困った時はお互い様ってやつよ。俺たちホームレスはそうやって生きてる。世捨て人をいきがっちゃいるが、腹はすくし、病にもなる。そういう時はお互い助け合うんだよ。ほれ、ガキは遠慮なんかするな」
といってくれた。その科白は、以前千鳥さんが言った時と同じ響きがした。ぼくとお姉ちゃんは、遠慮なくパンを食べた。
夜ご飯を食べ終わると、クロさんはタバコに火をつけた。焦げ臭い煙の匂いがテントの中に漂う。
「小父さんは、ここに住んでるの? どのくらい前から?」
タバコの煙をくゆらせるクロさんにぼくは尋ねた。
「そうだな。もうかれこれ8年近くこの公園に居座ってるな。はじめは、おれとシマさんとあと数人くらいだったんだがな。お前らには分からねぇかも知れないが、世の中ってのはひどく不親切でな、リストラだの何だのって、一生懸命頑張ったヤツまで、気に入らなきゃ平気でゴミ箱へポイ捨てさ。それで、気がつけば、かなり大勢がここへ住み着いてる。」
「どうして? みんな、お家追い出されちゃったの?」
と、聞くと、クロさんは大声を出して笑った。
「拓海は面白いことを言うなあ」
「そう言えば、クロさんは子どもがいるんですか? さっき、シマさんと話してたとき、息子が成人したとかって」
お姉ちゃんが、記憶を手繰り寄せて言う。クロさんはまた声を立ててケタケタと笑った。
「春香は、耳がいいな。その通りだ」と言って、タバコの煙をぷーっと吹き出す。
「これでも、昔はこの公園の裏にあるビルで、エリートビジネスマンってやつをやっていたんだ。給料も、下手な公務員より良かったし、何よりも人の尊敬を一身に集められた。結婚もして、ガキも授かった。全部順風満帆だったんだけどよ、ある日思ったんだ。俺は何をやっているんだろうってね。エリートになって、数多くのヤツを蹴落として、上司に気に入られるために頭を下げて。それで得られた、お金も尊敬も、全部ちっぽけなものじゃないのかって。どうしてそんな風に思ったのか良く分からなかったけどよ、ただ、地位を築くために必要悪と割り切って、汚いことも沢山して、これが現実だと言い聞かせて来たことにはじめて気がついた。一度そう思うと、バカらしくなっちまって、辞表出して仕事を止めたんだ。これからの将来は思いつきもしなかったけどよ、家族はちゃんと理解してくれると思った」
「分かってくれなかったの?」
と、ぼくが聞くと、クロさんはまるで自分をあざ笑うかのような顔つきをした。
「ああ。俺の嫁は、俺が好きだったんじゃなくて、俺の地位や名誉が好きだった。息子も俺を尊敬してたんじゃない。やっぱり地位や名誉を尊敬してた。息子に関しては、そう育てた俺にも問題があるんだけどな。ただ、俺は家族にひどく叱責され、とうとう家を追い出された。というより、俺が逃げた。それで、どうしたものかと街をブラブラしてた時に、シマさんに出会ったんだ。俺が事情を話すと、シマさんは納得してくれてな、どうせ当てがないなら、ここで俺たちの仲間になれって言ってくれたんだよ。家族にも理解できなかったことが、ホームレスで赤の他人の男に分かる。嬉しかったな、あん時は。それで、俺もここへ住み着くようになったわけだ」
「家族には、会ってないの?」
「ああ、今嫁が再婚してるのか、息子がどう成長してるのか、俺は知らない。知るべきじゃない。俺は家族も捨てて、世捨て人になると決めたんだからな」
「寂しくない?」
ぼくがクロさんの顔を覗き込むようにして尋ねると、クロさんは微笑んで、ぼくの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「そうさな、せめて息子の成人式は見たかったな。寂しいかと聞かれれば、寂しいとは思ってないな。この生活を選んだのは俺だし、毎日食料集めに奔走したり、日雇いでこき使われても、エリート生活に戻るより、今の方が幸せだ」
クロさんはそう言うと、タバコの吸殻をお酒の缶のなかに捨てた。底に残ったビールに、タバコがジュッという。
「さて、もう寝るぞ、灯代もバカにならないからな。日が沈めば床につき、日が昇れば床をはなれる」
そう言うと、ランプを開けて、クロさんは日を息で吹き消した。溶け込むようにテントの中が真っ暗になる。
「おやすみ」
横になったお姉ちゃんがぼくに言った。ぼくはいつものように「明日が今日よりいい日でありますように」と願って、瞳を閉じた。
鳥の声で次の朝、ぼくは目を覚ました。お姉ちゃんはぼくが起き上がる気配で、目を覚ましたのか、眠そうに目をこすっていた。テントの中には、クロさんはいなかった。その代わり、ダンボールで作った小さなテーブルの上に紙が置いてあった。新聞の裏紙。
「仕事に言ってくる」
と、無愛想な科白に似合わず、丁寧な字で書置きされていた。クロさんはぼくたちが目を覚ますよりも先に、目を覚まして日雇いの仕事へ出かけたのだ。書置きには、まだ続きがあった。
「朝飯食っていけ。それと矢和までの地図だ、もって行け」
書置きの傍に、パンと牛乳が置かれていた。どちらも賞味期限の切れていないものだった。さらにその下に置かれた紙切れに、矢和までの地図が書かれた紙が置いてあった。
ぼくたちは、朝食を食べて、それからクロさんの鉛筆を拝借して、書置きの隅に「ありがとうございました」と書き添えておいた。地図を手にすると、ぼくたちはテントから出た。朝日がビルの間から、まぶしく輝いている。まだ午前の日差しは緩く、とても涼しい。他のホームレスの人たちも出計らっていて、公園は静かだった。
お姉ちゃんはぼくの手を引くと、公園を後にして、矢和を目指して出発した。
会社員の人たちが右往左往し始めるビル街を抜け、川沿いの土手を歩く。子犬を散歩させていたおじいさんとすれ違う。土手を降りて、アーケードの商店街をすり抜けていく。お店を開けるシャッターの音が、ガラガラと響き渡る。アーケードを抜けると、大通りがあって、車が行き交う大通り沿いの街路をあるく。やがて大通りは海に続いていた。海を見るのは、桜ヶ浜以来、久しぶりだった。水平線の向こうには、もくもくと入道雲が見える。あの雲の下は今頃大雨だというけれど、あんなに大きくて綺麗な雲からは想像もつかなかった。
地図に従い、海岸沿いを矢和へと向かう。整備されたレンガの歩道がのびて、街路樹の代わりにやしの木が、風に揺れていた。レンガの道を進むと、やがて「矢和市」という標識が目に止まった。
「やったあ、着いたよ、矢和にっ!!」
お姉ちゃんが、両手を青空に向かって掲げ、喜ぶ。だけど、問題はこれからだ。矢和の街の何処に志郎叔父さんの家があるのか、全く分からないのだ。
ぼくたちは、とにかく今分かってる情報を頼りに、叔父さんの家を捜し歩いた。いろんな人に場所を尋ねる。怪しまれても素直に、「親戚の家なんです」といえばよかった。やがて、太陽が西の空へ沈みかける頃、ようやく目の前に一軒のお店が現れた。
そこは、他の商店が並ぶ、古い商店街の一角で、お味噌屋さん、呉服屋さんに肩を並べるようにして建っていた。表には古びた黒い木の看板に金色の文字で「桑名酒店」と書かれていた。桑名は、お母さんの旧姓で、志郎叔父さんの苗字だ。そう、そここそが志郎叔父さんの家だった。
ぼくたちは、心の中では飛び上がりたいほど嬉しかった。やっと、叔父さんの家へたどり着いたのだ。でも、その反面、叔父さんにどう切り出せばいいだろう。疎遠になってしまった叔父さんは、ぼくたちを快く思ってくれるだろうか? そういった不安が、今更頭にもたげて、なかなか叔父さんの家へ近づけず、通りでぼんやりと立ちつくしていた。
すると、お店の置くから、バケツと柄杓を持った女の人が、パタパタとスリッパを履いて現れた。打ち水をしようとしていたその女性は、お店の入り口まで来て、ぼくたちに気がついた。白いエプロンが似合う、女の人、その人は若葉叔母さんだった。
「あら、いらっしゃい」
若葉叔母さんがぼくたちに言った。お姉ちゃんは、何か言い出そうとしていたけど、どうしても言葉に詰まる。叔母さんは少し怪訝な顔をしながら、ぼくとお姉ちゃんの両方をちらちらと交互に見た。
「あ、あの、私っ、は、春香です」
やっとお姉ちゃんが口にした言葉はそれだった。若葉叔母さんは最初、きょとんとしていたが、急に目を丸くして。
「春香ちゃんっ? じゃああなた拓海くん?」とぼくに言った。
若葉叔母さんは、ぼくたちをお店の奥に上げてくれた。この酒屋は自宅兼お店として建てられており、即ちここはお母さんの実家でもあった。ぼくたちは畳の間に案内されて、卓袱台の前に座らされた。普段は居間として使われているのだろう、テレビが置いてあり、古い壁掛け時計の、時を刻む音が、コチコチと聞こえてくる。
志郎叔父さんは、町内会の寄り合いがあって出かけていた。お酒を呑んだりするから、遅くなるだろうと叔母さんは言った。
その叔母さんは、ぼくたちに冷たいお茶を出してくれた。お茶を飲んで、人心地ついたぼくたちに、叔母さんは。
「二週間前にね、小原さんから、あなたたちがこっちへ来ていないかって電話があったの」
小原さんと言うのは、お父さんの妹、つまりこの前までぼくたちがいたあの家の叔母さんの苗字だ。
「それで、何かあったのかって、事情を聞いたら、あなたたちが家出したって仰るから、心配してたのよ。今、小原さんのところへ電話するから、迎えに来てもらいましょう」
と若葉叔母さんは言って立ち上がろうとした。すると、お姉ちゃんが慌てて、若葉叔母さんを止めた。
「あの、待ってください。私たち、ただ家出するためにここへ来た訳じゃないんです」
真剣な眼差しで言うお姉ちゃんに、若葉叔母さんはもう一度座りなおした。お姉ちゃんは、事情を出来るだけ詳しく、細かく説明した。お父さんが死んで、小原の叔母さん家で何があったか、そして小原の叔母さんと叔父さんが、ぼくたちを引き取ったのは、お父さんが残した財産と保険金が目当てだと言うこと。そして、ぼくたちは家出を決意し、お母さんを捜すことにしたこと。吉村さんの家へ行って、小西さんを捜して、手がかりがなくなって、財布をなくして、それで志郎叔父さんなら何か知っているかもしれない、と考えてここまでやって来たこと。すべて話し終わるまで、若葉叔母さんは、じっと黙ってぼくたちの話に耳を傾けてくれた。
ようやくすべて話し終わると、部屋の中を沈黙が支配する。コチコチと時計の音だけが部屋でする唯一の音だった。おもむろにお姉ちゃんが口を開く。
「それで、あの、何か知っていたら教えてほしいんです。お母さんが何処にいるか……」
おずおずと尋ねると、叔母さんは瞳を伏せてからお姉ちゃんに返した言葉は、ぼくの想像とは全く別のものだった。
「お母さんか。……神様がいるなら、どうして私にこんな役目を回して来たんだろう。でも、話さなきゃダメよね」
ぼくは訳が分からず、きょとんとしていた。若葉叔母さんは、深く深く溜息をついてから、ゆっくりと口を開いた。その言葉に、ぼくの足下はぐらついて、目の前が真っ白になって、倒れそうになった。信じられない、というより、訳が分からなかったのだ。でも、叔母さんはけして嘘なんかついていなかった。
「二人とも、落ち着いて聞いてね。あなたたちのお母さんは、去年、病気で死んじゃったのよ。今は、あなたたちのお父さんと同じところにいるの」
叔母さんの声は心なしか震えていた。お姉ちゃんはぼくの隣で真っ青な顔をしていた。多分ぼくもそうだったのだと思う。
「信じられないかもしれないけど。本当はね、もっと早くにあなたたちや、あなたたちのお父さんにこのことを知らせるべきかも知れないと、思ってたんだけど、志郎さんが伝えなくてもいいって言うから、ついつい伝えそびれてたの。そのことはあやまるわ」
すべての時間も空気も止まったような空間で、叔母さんは続けた。
お母さんは、ずっと重い病気に罹っていたのだそうだ。ぼくたちが生まれる前から。それでも、結婚生活にも、子育てにも問題のないくらいだったのだけど、それはぼくが生まれてから一変した。ぼくはひどく難産だったという話は、お父さんからも聞いたことがある。だけど、問題は、難産で体力を大きく消耗したお母さんの体に潜んでいた病魔は一気に、活発になり、ぼくを生んだあと、ずっと家のベッドで寝たきりになってしまったのだ。
離婚しよう、と口にしたのは、お母さんの方からだった。お父さんは、お母さんのことが大好きだったし、お母さんはお父さんが大好きだった。だけど、お母さんは子育てと、自分の看病に悪戦苦闘するお父さんを、そのままにしておけなかった。何度も話し合って、喧嘩もして、お父さんとお母さんは離婚を決意した。
「だけど、何処で手違いがあったのか分からない。もしかしたら、あなたたちのお父さんをねたむ人が、悪意をもってしたのかもしれないし、ただの噂話に火がついたのかもしれない」
と、叔母さんは付け加えた。
離婚してお母さんは実家がある「矢和」へ帰り、しばらくたってからある日突然に、噂話が起きた。お父さんは、お母さんの看病に辟易して、そとに女の人、つまり「愛人」を作った。それがお母さんにばれて、離婚したんだと。お父さんが完全に悪者だった。どちらが悪者じゃない。ただ、お父さんもお母さんもぼくたちのこと、お互いのことを考えて、決断したことだったのに、興味本位が独走する世間は、それを理解してくれなかったのだ。
志郎叔父さんは、お母さんの弟で、その話を真に受けてしまった。信憑性にかけていても、ドラマで良くあるようなパターンの噂だけに、信じやすい噂だった。そのため、叔父さんはお父さんを毛嫌いしてしまい、疎遠になってしまった。
「お義姉さんは、何度も誤解を解こうとしたのよ。でも、ウチの人も頑固ものだから、聞く耳持たなくて」
そして、長い間この「桑名酒店」の二階で寝たきりの生活を送っていたのだけど、丁度去年の今頃、病魔に負けて、志郎叔父さんと若葉叔母さんに看取られて、息を引き取った。
若葉叔母さんは、すぐにぼくたちにお母さんが死んだことを伝えようとしたのだけど、噂を信じて止まない志郎叔父さんは、お母さんが死んだのはお父さんが見捨てた所為だ、と言って聞かなかった。
「ずっと、あなたたちに会いたがってた。病気が治ったら、すぐにでもあなたたちのところへ飛んで行きたいって」
叔母さんは最後にそう結んだ。時計の針は、ここへ着いてから二回も廻っていて、ぼくたちはぐったりと疲れていた。
「折角ここまできてくれたのに、こんなことを突然伝えなきゃならないなんて。本当にごめんなさいね。今日はもう遅いから、泊まっていきなさい。明日、ウチの人に小原さんのこところまで、送ってもらうように言っておくから。ね、そうして」
「でも。でも、ぼくたち小原の叔母さんのところへ帰りたくないの」
ぼくが小さく消え入りそうな声で言う。風がひと吹きすれば、何処かへ飛んでいきそうなくらい。若葉叔母さんは、そっとぼくに手を伸ばして、ぼくの頭を軽く撫でた。
「どんな事情にせよ、あなたたちはまだ子どもなのよ。大人なしでは生きていけない。小原さんたちが、あなたたちのお父さんの遺産を欲しがっているとしても、あなたたちの親権を手にしてしまった以上、責任があるわ」
若葉叔母さんの声も消え入りそうだった。ぼくたちを哀しい眼で見ながら、そう言うと、叔母さんは立ち上がった。
ずっと捜していたお母さんは、もうとっくの昔にぼくたちの手の届かない場所へ行ってしまって、ぼくたちは居もしない母親を捜し続けていた。すべてが振り出しに戻ったんだ。ぼくとお姉ちゃんに残された選択肢は、小原の叔母さんの家へ戻る、という道しかなかった。
若葉叔母さんは、居間にぼくたちを残すと、奥の部屋にある電話で、小原の叔母さんに電話をかけた。襖が邪魔で、小原の叔母さんと何を話しているのか、ぼくたちには分からなかったし、知る必要もなかった。
ぼくは項垂れて、黙っていた。
「拓海」
突然、お姉ちゃんがぼくを呼ぶ。ずっと口を閉ざしていたお姉ちゃんの瞳は焦点を得ていないように見えた。
「行こう」お姉ちゃんが立ち上がる。
「行くってどこへ? 小原の叔母さんのところ?」
ぼくが尋ねたのに、お姉ちゃんは、返事もせずにぼくの腕を乱暴に掴んだ。お姉ちゃんは無理矢理ぼくを引っ張って立ち上がらせると、早足で「桑名酒店」を飛び出した。若葉叔母さんは電話をしていて、ぼくたちに気がついていなかった。
外に出ると、夜空はどんよりとして、空気が生暖かい。暗い路地をお姉ちゃんに引っ張られて抜けていく。お姉ちゃんはお構いなしに、ぼくの腕を引くから痛くて、何度か「離して」と抗議したのだけど、お姉ちゃんの耳には入らなかった。
どれだけ歩いただろう。風景はすっかり変わり、人気のない街路に出ていた。二車線の道路の両端に、海へ続くレンガ敷きの歩道があり、街灯が道なりに点々としている。
ようやく、お姉ちゃんの歩みが遅くなり、ぼくたちはとぼとぼとレンガの歩道を歩いた。何処へ行けばいいのか、どうすればいいのか、ぼくは必死に幼い頭で考えたのだけど、一向に、妙案が浮かばない。
歩道には、ぼくたち以外に、ほかに車も歩行者も見当たらない。ふと顔を上げると、ぽつり、ぽつりと雨が降り始め、すぐに雨足は強くなった。
握り締められた手に力がこもって、痛い。ぼくは、急に不安になって顔を上げた。月は雨雲に覆われ、真っ黒な夜空から降る雨が、アスファルトを叩き、街灯に彩られた歩道を透明にぼやけさせる。お姉ちゃんは肩を雨にぬらしながら、泣いていた。
お姉ちゃんは絶対に泣かない人だった。気が強いと言うのか、どんなことがあっても絶対泣かない。泣き虫な弟のぼくより、ずっと強い人だと思っていた。それなのにお姉ちゃんは、泣いていた。頬を伝うのは雨なのか、それとも涙なのか良く分からなかったけど、震える肩も、時々しゃくりあげる声も、ぼくに「泣いている」と分からせるのには十分だった。
「ごめんね、拓海。ごめんね」
「どうして謝るの? お姉ちゃん、どうしたの?」
はじめて、お姉ちゃんの涙をみたぼくは、当惑しながら尋ねた。お姉ちゃんは、肩を震わせて、しゃくりあげながら言う。
「本当は、知ってたの。お母さんがもうこの世にいないってコト。吉村さんの小母さんに教えてもらってたの」
雨の音に掻き消されそうなほど弱々しい声だった。ぼくは、その時になってはじめて気がついた。吉村さんの家へ言ったあの日、小母さんと何やら話したお姉ちゃんは、真っ青な顔をしていたのは何故か、ぼくたちをバスまで見送った、吉村の小母さんが「叔母さんによろしくね」と言ったのは何故か。お姉ちゃんは、ずっと前にお母さんがもういないということを知っていて、ぼくにはずっとそれを黙っていた。
「拓海に話すべきか、迷ったんだよ。でもね、心のどこかで、お母さん死んじゃったことを本当だって信じたくなくて、お母さんが私たちを残して居なくなるなんて信じられなくて、ちゃんと確かめようって思って、だから、だから。もしかしたら、志郎叔父さんの家のまで来れば、お母さんに会えるかもしれないって、思ったんだ。でも、本当はお母さん、もう何処にもいないのにね」
「お姉ちゃん……」
「ひどいよね、私。ダメなお姉ちゃんだよね。お姉ちゃん失格だよね。ごめんね」
街路の真ん中で立ち止まり、お姉ちゃんはぼくに、何度も何度も「ごめんね」と繰り返しながら泣き続けた。でも、幼いぼくに何が出来るだろう?
お姉ちゃんの頬を伝う涙を拭うには身長が足りないし、お姉ちゃんを慰めるには言葉が足りなかった。ただ、ぼくは押し黙って、じっとお姉ちゃんの顔を見つめているしか出来なかった。あまりにも子どもで、あまりにも無力で、お姉ちゃんを元気付けることも、守ることも出来ない、ぼく自身がとても歯がゆかった。
雨は、無情にもぼくたちの肩を濡らしていく。ざあざあ、と音を立てながら。まるで、お姉ちゃんの泣き声をかき消そうとするみたいに。
どうして、お父さんもお母さんもぼくたちを置いてどこかへ行ってしまったのだろう。
ぼくたちはこれからどうすればいいのだろう?
【最終話】
「これと、これと、これ。今日はこれだけしか売れ残らなかったから」
カホちゃんが、半透明のビニール袋に、パンやおにぎりの売れ残りをつめてくれた。どれも賞味期限ぎりぎりの商品ばかりだったけど、ぼくには宝の山のように見えた。
「こんなにもらっていいの?」
ぼくが聞くと、カホちゃんはニコニコと微笑んで「いいよ、どうせ廃棄するんだし」と言った。コンビニの裏路地は、青いポリバケツが並び、薄暗く狭い。となりの中華料理屋さんの換気扇から、油の匂いが漂ってくる。時折、猫が喧嘩する声が、突然してきて驚くことが少なくない。
「カホちゃん。店長さんに叱られない?」
「店長っていっても、私のお父さんよ。叱られたら、そっぽをむいてやる」
カホちゃんは、長いストレートの髪を揺らして、笑った。それから、ポケットの中を探って、飴玉を取り出した。白い包み紙に包まった、イチゴのキャンディだ。
「これもあげる」
そう言うと、カホちゃんはぼくの手のひらに、飴玉をのせた。
「ありがとう」
「また今度、お客さんの居ない時に、掃除してね。よろしくっ」
カホちゃんはそう言うと、ぼくにウインクをして見せた。ぼくは、カホちゃんに頭を下げてもう一度お礼を言うと、カホちゃんに手を振ってコンビニの裏路地を後にした。カホちゃんは、しばらくぼくに手を振っていた。
表通りは、午後の熱気で蒸し暑い。燦々と照りつける太陽、アスファルトに反射する熱、ビルに遮られて風が通らないから、余計に暑く感じるのだ。太陽に手を翳していると、何処かからクラクションが聞こえる。ぼくは右往左往する人ごみをすり抜けながら、駅のほうへ歩いていった。
夏はもう終わりに近付いていた。街を少し離れれば、ツクツクボウシの声が耳につく。ぼくは、騒々しい繁華街を抜けて、駅の構内を走って抜ける。以前、駅員さんに呼び止められそうになってからは、いつも駅員さんを警戒しながら、駅を抜けるようになった。さながら敵の基地に忍び込んだ、スパイみたいだと、いつも思う。
駅を抜けると、そこは背の高いビルが立ち並ぶ、オフィス街だ。反対側の繁華街より静かで、落ち着いた雰囲気がある。ぼくは、肩で息をしながら、走る速度を緩めた。
オフィス街の道は迷路状になっている。くねくねと曲がる道を、覚えたとおりに進んでいけば、ビルとビルに囲まれた、薄暗い公園が見えてきた。ぼくはその公園に足を踏み入れた。一見、オフィス街の真ん中にぽつんとある、普通の公園だが、良く見ると遊具は使われた跡が乏しく、奥の茂みの方を見ると、あちこちにブルーシートで出来たテントの屋根が、ちらほらする。そう、ここは、クロさんのテントがある公園だった。
あの日、お姉ちゃんは雨の中で泣き止まなかった。ぼくは、お母さんがもうこの世に居ないということもショックだったけど、ずっと強い人だと思っていたお姉ちゃんが、まるでぼくみたいにわんわんと泣く姿は、より一層ショックだった。
旅の目的はここに来て、終わってしまった。ぼくたちは、小原の叔母さんのところへ帰るしか、行く場所もなかった。でも、どんな顔をして叔母さんに合えばいいのだろう。叔母さんたちの真意を知ってしまった以上、素直に叔母さんの好意に甘えられない。だからと言って、帰らずにお姉ちゃんとぼくだけで生きていくには、それほど世の中が甘くないことくらい知っていた。
ぼくは、泣き続けるお姉ちゃんの手を引いて、とぼとぼと歩いているうちに、雨は止み、日が昇り、そしてこの街へ戻って来ていたのだ。繁華街の歩道にある、街路樹の下のベンチに座って、ぼくは行きかう人を眺めていた。お姉ちゃんはぼくの隣で項垂れて地面ばかり見つめていた。それでも、情けないことに、ぼくにはお姉ちゃんを元気付けるだけの言葉が思い当たらなかった。
やがて、お昼過ぎになって、通りを見たことのある人が通っていった。相変わらず、ボロボロの服を着たクロさんだった。クロさんは一瞬行き過ぎて、ぼくたちの方を驚いた顔をして振向いた。何も語らないお姉ちゃんの代わりに、ぼくは必死でクロさんに事情を説明した。すると、クロさんは。
「何処にも行くところがないなら、俺のところへ来ればいい、どうせあそこには、そういう奴らが集まってるんだから」
と言ってくれた。ぼくは、クロさんに甘えることにした。行き場がなかったぼくらにとって、蚊の多い公園でも、十分な居場所になった。
クロさんのテントに厄介になることを決めてから、ぼくはクロさんたちがやっている食料集めに協力することにした。クロさんたちは、子どもに出来ない、と言っていたけど、ぼくは頑として譲らなかった。
そして、カホちゃんと出会った。
カホちゃんの本名は、長野果歩。ぼくより11歳年上の、高校二年生だった。両親が経営するコンビニエンス・ストアでアルバイトしている。長い髪がサラサラで、良く笑う素敵な人だ。本当は、果歩さんと呼ぶべきなのだけど、カホちゃんは、そんなハバくさい呼びかたは止めて、と言ったので、ぼくはカホちゃんと呼ぶことにした。
カホちゃんに会ったのは、コンビニの裏路地だった。はじめて、食料集めに出てから、何日もちゃんとした食料なんて見つからなかった。大体、見つけ方も知らなかった。たまに、料理屋さんのボリバケツを漁ると、まだ食べられそうなものが出てくるけど、そんなもの微々たるもので、ぼくはほとほと困り果てて、裏路地へたどり着いた。すぐにコンビニの隣にある中華料理屋さんの、ポリバケツが目に入って、中を探っていると、休憩に現れたカホちゃんに出くわした。
カホちゃんは、はじめぼくに気がつかなくて、ポケットからタバコを取り出すと、それに火をつけた。やがて、ゴミを漁るぼくに気が付いたカホちゃんは、ぎょっとした目つきでぼくを見てから、恐る恐るぼくに「何をしてるの?」と尋ねた。ぼくは逃げ出すべきか迷った。すると、カホちゃんの方が。
「キミ、私が煙草吸ってること内緒にしてっ」と、言ってきた。
ぼくは、カホちゃんの慌てぶりが妙に可笑しくて、つい逃げ出すことを忘れていた。それから、カホちゃんとは何となくウマが合って、しばしばカホちゃんのところへ足を運ぶようになった。カホちゃんは平日の夕方、高校が終わってからバイトに入る。
何度か顔をあわせるうち、ぼくはカホちゃんにこれまでの経緯を話した。カホちゃんは、涙ぐんで聞いてくれた。
「もしも、拓海が私の代わりに、コンビニの掃除手伝ってくれるなら、売れ残りの商品をあげてもいいよ」
と、提案したのはカホちゃんの方だった。渡りに船っていうのはこのことだと思った。ぼくはカホちゃんの提案に乗り、お客さんが居ない時を見計らって、コンビニの掃除を手伝った。勿論報酬は、賞味期限ぎりぎりで売れ残った商品をもらうことだった。
クロさんのテントに戻り、ブルーシートをはぐる。クロさんは日雇いの仕事に出かけて、まだ帰っていなかった。相変わらず、綺麗に片付けられたテントの中に入る。ぼくはもらってきた食料を、床に置くと、そっとお姉ちゃんに近付いた。
あの日からお姉ちゃんは、何もしなくなった。食べることも、外へ出ることも、泣くことも笑うことさえも。ただ焦点の合わない瞳で、ぼんやりとして、テントの隅で寝転がっているだけ。ぼくに笑いかけることも、何かを言ってくれることもない。
お母さんに会えなかったことは、お姉ちゃんにとって、ぼく以上にショックだったのかもしれない。それでも、魂が抜けたようなお姉ちゃんを見るのは痛ましかった。
「あのね、今日もカホちゃんがいっぱい食べ物くれたよ」
ぼくは、ビニール袋の中を広げてお姉ちゃんに見せた。でも、お姉ちゃんは何も言わない。分かってはいるけど、胸が痛い。
「おにぎりでしょ、ジャムパンに、クリームパン。憶えてる? 吉村さんの家へ行く前に、コンビニで買ったやつ。あれと同じやつだよ」
やっぱり、お姉ちゃんは口を閉ざしたままだ。
「それからね、これもくれたの」
ポケットから、白い包みのキャンディを取り出した。ぼくは、包みを取ると、キャンディをお姉ちゃんの口のなかに入れた。ところが、カランと音を立てて、飴はおねえちゃんの口から飛び出して、床を転がっていった。
あれからお姉ちゃんは、何も食べていない。すべての気力が抜け落ちたように、まるでお人形さんのようになってしまった。腕も足も痩せ細り、顔色も良くなかった。クロさんも、お姉ちゃんのためにお粥を作ってくれたり、シマさんたち他のホームレスの人たちも、お姉ちゃんを心配してくれたのに、お姉ちゃんは一向に、元気にならなかった。
「ねえ、お姉ちゃん。何か食べてよ。元気になれないよ」
ぼくはお姉ちゃんの傍に座った。お姉ちゃんの涙をみてから、ぼくは二度と泣かないようにしよう、少しでもお姉ちゃんを元気付けようと思っていたのだけど、そのお姉ちゃんを見るたび目頭が熱くなってしまう。
「お姉ちゃん。お願いだよ、このままじゃ、栄養が足りなくなって死んじゃうって、クロさん言ってたよ。何か食べてよっ、お姉ちゃんっ」
ぼくは、お姉ちゃんの両肩をもって、ゆすった。でも、お姉ちゃんは何も言わない。
ここへ来て何度も、同じことを言った。でも、お姉ちゃんはちっとも答えてくれない。
分かっているのに……。
「お父さん、お母さん、何でぼくたちを置いていったの? ぼくどうしたらいいの?」
小さな声で言ってみても、もう誰にも伝わらない。ぼくはお姉ちゃんに泣いているところを見せたくなくて、膝を抱えて顔を伏せた。
日が沈むころ、テントにクロさんが戻ってきた。
「どうだ、姉ちゃんは?」
クロさんがぼくに尋ねる。ぼくは、体育座りの格好をしたまま、クロさんに頭を振って答えた。クロさんは、ぼくに外へ出るように、顎をしゃくって合図した。
ぼくがテントから出ると、クロさんはライターで書未期限切れのタバコに火をつけていた。
「やっぱり何も食わねぇのか?」
「飴玉も食べてくれない」
「そうか」
クロさんはそう返事をすると、タバコを吸った。白い煙がふわりと空中に舞う。
「お姉ちゃん、どうしてあんな風になっちゃったんだろう?」
ぼくはクロさんの隣に腰掛けて、尋ねた。クロさんはすこし難しい顔をしてから。
「姉ちゃんは、頑張りすぎたんだよ。お前連れて、ガキが二人で、何週間もかけて、母親を捜してみれば、母親はとっくの昔に他界してる。それで、緊張の糸が全部切れたんだ。もっとも、こいつは、俺の勝手な解釈だ。人の心なんて、誰にもわかりゃしねえ」
と、答えた。「俺は、生来、他人に期待させるようなことが言えるような人間じゃない。ただ、拓海が元気なけれりゃ、姉ちゃんだって元気になれないってのは、確かだな。」
「お姉ちゃん、死んじゃったりしないよね?」
「さあな。さっきも言っただろ、俺は他人が期待するようなこといえないって」
クロさんはぼくの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「もうすぐ、夏も終わる。お前たちの冬服を調達しないとな。ここにはストーブもヒーターもない。雪の日なんか、凍えて死んでしまう」
そう言って、クロさんは空を見上げた。ビルに切り取られた四角い夕闇の空は、藍色に染まっていた。
次の日、朝から食料調達に出かけて、夕方にはいつもどおり、カホちゃんのところへ行った。お客さんの居ない間に、手際よく掃除を終えると、カホちゃんとぼくは、裏路地で休憩を取ることにした。
「拓海は、このままこんな生活を続けるの?」
カホちゃんが、タバコを吹かしながら、ぽつりとぼくに言った。
「分かんない」ぼくは頭を左右に振りながら答えた。
「その、小原の叔母さんって人のところには帰らないの? 嫌な人でもさ、一応はキミの叔母さんなんでしょ?」
「うん。でも、帰らない。保険金とか、遺産とかぼくには良く分からないけど、叔母さんはぼくたちが嫌いだってことは分かってる。だから、帰れない」
ぼくが言うと、カホちゃんは「ふうん」とだけ返事を返してきた。構わずに続ける。
「あのね、クロさんが言ってたんだけど」
「クロさんって、ホームレスの人?」
「そう。それでね、クロさんがね、ぼくが15歳になるまで、ぼくとお姉ちゃんの面倒を見てくれるって言うんだ。15歳になったら、ぼく働けるようになるからって」
「拓海が15歳って言ったら、あと9年もあるよっ!? その間学校も行かないの?」
カホちゃんが目を丸くした。更に「行かない」とぼくが断言したように言うと、カホちゃんはさらに驚いた顔をした。
「あのさ、拓海。煙草吸ってる不良なやつが言うような科白じゃないけど、そんなのダメだよ。ホームレスの人に育ててもらうなんて、途方もなく無理なことだよ。教育上良くない」
「教育上? クロさんたち良い人だよ。カホちゃん、大人の人みたいなこと言うんだね」
と言うと、カホちゃんは急にしゃがんでぼくと視線を合わせた。
「私はまだガキだけど、拓海よりは大人だよ。クロって人が、どんな良い人だって、ホームレスなんだよ。私のお父さんが言ってた。あいつらはみんな、世間の落伍者なんだって」
「ラクゴシャ?」
「おちこぼれってこと。どんなに、アウトロー気取りだろうが、あの人たちにキミたちを育てることは出来ない。あの人たちの居場所は、拓海と拓海のお姉ちゃんの居場所なんかじゃないんだよ」
カホちゃんの眼は真剣そのものだった。いつもニコニコしてるカホちゃんらしくない顔つきだった。
「じゃあ、カホちゃんは叔母さんのところへ帰れって言うの?」
クロさんの事を「おちこぼれ」といわれて、腹が立ったのかもしれない。ぼくはひどく語気が荒々しくなっていることに気が付いた。
「私は、その方が良いと思う。もしも、叔母さんの家がいやなら、叔母さんと良く話し合って、施設へ入ることだって出来る」
大人の顔をするカホちゃんからぼくは視線をずらした。
「ね、そうして。私のお父さんに話してみるから、お姉ちゃんと一緒に、ホームレスの所を出た方が良いよ」
「何でそんなこと言うのっ!?」
「だから、私は拓海と拓海のお姉ちゃんのこと心配してるんだよ。お姉ちゃん元気ないんでしょ? でも、あんなところ居たらもっと元気がなくなるよ」
カホちゃんがぼくの両肩に手を置いた。でも、ぼくは無意識のうちにカホちゃんの手を振り解いていた。たぶん、ぼくはひどく顔を高潮させていたと思う。肩も震えて、今にも泣き出しそうな顔をして。
「変だよ、カホちゃん。ぼくの話を始めて聞いてくれたときは、カホちゃんそんなこと言わなかったよ」と、怒鳴っていた。
「変なのは拓海だよ。あの時は、私もどうしたらいか分からなかっただけ。6歳の男の子が、毎日、食べ物探して、ゴミ箱漁ったりするのは、変だよ」
「変じゃないっ」
「ねえ、拓海はお姉ちゃん死んじゃっても良いの?」
「やだっ」
「じゃあ、お願い。私の言うこと聞いて」
「やだっ」
「それは、拓海のわがままだよ。拓海が、叔母さんのところへ帰りたくないから、クロさんのところに居たいから、わがまま言ってるだけだよっ」
「やだっ、いやだっ。カホちゃんなんか、大嫌いだっ」
ぼくは、金切り声を上げるみたいに叫んで、カホちゃんのところから逃げ出した。必死で走って、表通りに出て振向いたけど、カホちゃんは追いかけて来なかった。
ぼくは、後ろめたい気持ちをもやもやと胸の中に抱えて、表通りの歩道を歩いた。
カホちゃんなんか、大嫌い、なんて嘘だ。カホちゃんの言うことは、自分でも良く分かっていた。ホームレスのクロさんと一緒にいても、お姉ちゃんは元気になれないだろう。手に入る食べ物だって多くないし、環境だって悪い。クロさんもそれを分かっているから、昨日「さあね」なんて答え方をしたんだ。でも、ぼくにとってクロさんの所は、大変だったけど、居心地は良かった。誰かに邪見にされることはないし、皆優しかった。
ぼくは、叔母さんの家に帰りたくないから、わがままを言っているのだろうか? いや、叔母さんのところへ帰りたくないのは、ぼくだけじゃない、お姉ちゃんだって同じなんだ、とぼくは思いたかった。
公園に帰るまでの間に、ぼくの頭はすっかり冷えていた。あんなに、カッとなったのが嘘みたいに。明日、カホちゃんに会ったら、ちゃんと謝ろう。ぼくはそう考えながら、公園に入った。すると、ぼくの姿を見つけたクロさんが、青い顔をして、走ってくる。
「大変だ、拓海っ」
クロさんの慌てぶりは、尋常じゃなかった。すぐにピンときた。お姉ちゃんに何かあったんだ。
「どうしたの?」
と、ぼくが尋ねると、クロさんは困ったような顔をしながら。
「春香が、ヒドイ熱を出したんだ。さっきテントに帰ってみたら、春香が全然うごかねぇから」
と言った。だけど、ぼくはクロさんの科白の半分以上が聞こえなかった。ついさっき、カホちゃんに言われたばかりだ。「お姉ちゃん死んじゃっても良いの?」って。
地面が崩れていくような感覚に襲われて、ぼくはフラフラした。どうして良いか分からない。呆然としていると、シマさんがぼくの後ろから走ってきた。もう50歳を過ぎている思われるシマさんは、肩で息をしながら。
「中嶋先生と、話をつけてきたぜ。すぐに連れて来いって」と言った。
「分かった。拓海、来い。手伝えっ」
クロさんは、ぼくを急かすとテントへ戻った。テントの隅に寝かされているお姉ちゃんは、額に脂汗を浮かべ、苦しそうに唸っていた。クロさんは、汚れたタオルで軽くお姉ちゃんの汗を拭うと、お姉ちゃんを勢い良く背負った。
そして、テントから飛び出すと、わき目も振らず、大股で走っていく。ぼくは必死でクロさんを追いかけた。
「お姉ちゃんを、何処へ連れて行くの?」
走りながら、ぼくが尋ねるとクロさんは振向きもせず。
「病院だ。中嶋先生っていうやつがやってる、病院だ」と、言った。
「でも、ぼくたち保険証とか、お金とか持ってないよ」
「大丈夫だ。中嶋先生は俺たちホームレスを、ボランティアで診てくれている。金もいらねえし、保険証も必要ねえ」
クロさんは、ぶっきらぼうな口調で言った。公園を出て、オフィス街をさらに奥へ進むと、住宅街へ出た。普段ぼくは、食料集めのために繁華街の方へは行くのだけど、オフィス街をはさんで繁華街の反対にあたる、この住宅街へ来たのは初めてだった。
こんなところに病院があるのだろうか? あったとしても小さな町医者だろう、と思っていたら、住宅街の外れに、少し大きめの白いビルが見えてきた。赤い十字のマークと、その下に書かれた「なかじま病院」と言う看板で、そこが病院だとすぐに分かった。
「ここだ」
と言うと、クロさんはそのまま病院の中へ入っていった。広いロビーは、夕方だから人もまばらだった。ロビーには、メガネをかけた若い男のお医者さんが待っていた。
「中嶋先生っ」
クロさんはロビーに駆け込むと、そのお医者さんを呼んだ。中嶋先生は、ぼくたちの方にやってきて、しげしげとぼくとお姉ちゃんを見た。
「クロさん。その子ですか?」
「ああ。急に熱を出して。診てやってくれねえか?」
「勿論。診察室へ」
ぼくたちは、中嶋先生に案内されて診察室へ入った。先生は、手際よく診察していく。ぼくとクロさんは、不安な面持ちでそれを見守るしか出来なかった。
やがて、診察は終わった。中嶋先生の診断に寄れば、栄養失調で体調を崩したとのことだった。何日か入院して、栄養をつければ、元気になるだろうと、先生は言った。
すぐにお姉ちゃんは、個室のベッドへ寝かされた。白いシーツと白い布団に包まれて、点滴をれるお姉ちゃんは、まるで息をしなくなったあの日のお父さんみたいだった。中嶋先生への事情の説明はクロさんがしてくれた。中嶋先生は、「あまり、深いことは言及しませんが。もう少し遅かったらどうなっていたか、私にも分かりませんよ」と、厳しい口調でクロさんを叱った。
その日は、ぼくもクロさんもお姉ちゃんの個室で眠った。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、ぼくの顔をじりじりと照らして、ぼくは眼を覚ました。薬が効いてお姉ちゃんの熱は、すっかり下がって、お姉ちゃんは小さな寝息を立てていた。お姉ちゃんが助かったことが分かったクロさんは、まるで自分のことのように喜んでくれた。
それからお姉ちゃんが眼を覚ましたのは、お昼になってからだった。丁度、中嶋先生が回診に来てくれたときだった。
「容態も落ち着いているし、二、三日したら退院できるでしょう」
と、先生はぼくに言った。ぼくは、そっと胸を撫で下ろした。昨日クロさんが、慌てていた時には、もしかしたらお姉ちゃんはこのまま死んでしまうのかもしれない、と思っていただけに、とても嬉しかった。
クロさんは何度も「良かったな、良かったな」とぼくに言った。
ところが、先生が次の回診に出て行ってから間もなく、病室にシマさんが飛び込んできた。シマさんの顔は、昨日のクロさんのように、ひどく慌てて落ち着きがなかった。
「一大事だ、クロっ」
「どうした? 何があったんだ」
シマさんは、唾を飲み込むと、クロさんに「落ち着いて聞けよ」と前置きをしてから。
「市の役人どもが、とうとう行政処分に踏み切りやがった。あいつら、地元の住人と束になって、ホームレスを一掃するとか言いはじめて。ワカや、ケンが何とか抑えてるんだが、役人どもとうとう重機を持ってきやがって」と、言った。
見る見るうちにクロさんの表情が変わる。
「分かった、すぐ行く。拓海は、お姉ちゃんを看ててやれ。すぐに帰ってくるからなっ」
クロさんは怖い顔をしてそう言うと、シマさんと一緒に病室を出て行った。ぼくたちが、クロさんのところへ住むようになる少し前から、その話題はあった。あの公園から、ホームレスの人たちを追い出そうと言う計画だ。本来は、子どもたちが楽しく遊ぶために作られた公園なのに、いつの間にかクロさんたちが住み着いてしまった。そのため、近所の人たちは、危なくて子どもを遊ばせられない、と何度となく抗議していたのだそうだ。そして、とうとう、街は強制的にクロさんを追い出す決意をしたる
クロさんたちが出て行って、ぼくとお姉ちゃんは病室に取り残された。昨日は気がつかなかったけれど、やっぱり病院は、どこか薬くさいな、と思ってぼくは部屋の窓を開けた。
晩夏の風が、ふわりと部屋の中に入ってくる。ぼくは、お姉ちゃんのそばに腰掛けた。お姉ちゃんの手を軽く握る。もともと細い指が、もっとやせ細って、あまりじっと見てはいられなかった。
「拓海、ごめんね」
不意に、声がした。ボーっとしていたら、風に攫われてしまいそうな小さな声だった。ぼくが顔を上げると、お姉ちゃんがぼんやりとぼくを見ていた。
「ごめんね、ダメなお姉ちゃんで」
もう一度お姉ちゃんが言った。
「謝らないで、お姉ちゃん。ぼくお姉ちゃんのことダメだなんて思ってないよ。ぼく、お姉ちゃんのこと大好きだよ。お父さんが大好きなのと同じくらい」
と、ぼくが言うと、お姉ちゃんは微かに笑みを浮かべた。お姉ちゃんが表情を浮かべるのは、本当に久しぶりのことだった。
「早く元気になって」
ぼくはそう言って、微笑み返した。お姉ちゃんは、再び瞳を閉じると、眠りに入っていった。
その日、ずっと待っていたのだけど、クロさんは戻ってこなかった。
翌朝、ベッドの脇に敷いた布団の中で眼を覚ましても、クロさんの姿はなかった。お姉ちゃんは、点滴を受けながら静かに眠っていた。あまりごそごそとして、お姉ちゃんを起こさないように、ぼくは病室を出た。
病院の外には、広々とした庭があって。緑の芝生のあちこちに植えられた、広葉樹の下には、小さなベンチが置いてあった。ぼくは、めいっぱい背伸びをするとベンチに腰掛けた。色々と、考えるべきことはあった。これからどうするのか。
クロさんが帰ってこないということは、公園で何かあったに違いない。もしかすると、もうあの公園には戻れないだろう。
ぼくたちは、ひどく子どもで、誰か大人の助けなしでは生きていくことが出来ない。このままじゃお姉ちゃんの笑顔はまた消えてしまうだろう。そうならない方法は、一つしかない。
「あれ? 拓海じゃないか」
うーん、うーんと、あれこれ考えていると、突然目の前で声をかけられて、びっくりした。
「千鳥さんっ」
目の前に立っているのは、あのデコトラ運転手の千鳥さんだった。駐車場の方に眼をやると、あの派手なデコトラが止まっている。
「何やってるんだ、こんなところで? 春香は?」
千鳥さんは目を丸くしながら言った。ぼくは、千鳥さんに、千鳥さんと別れてからの経緯を話した。クロさんやカホちゃんに話して、これで三度目だ。
千鳥さんは、ぼくの隣に腰掛けて話しを聞いてくれた。話し終わって千鳥さんは、
「そうか、そうだったのか」と、腕組をして頷いた。
「千鳥さんは何をしにここへ来たの?」
ぼくが尋ねる。
「あたしは、母さん、つまり健太の祖母ちゃんの見舞い。このまえ夏風邪をひどくこじらせて、入院してしまってね。もうじき退院なんだけど」
「千鳥さんの実家ってこの辺なの?」
「あれ、言ってなかったか」
ベンチを風がすり抜けていく。芝生と木の葉がさわさわと揺れる。青空に浮かぶ羊雲が、風に煽られて流れていく様を、眺めながらぼくは、口を開いた。
「あのね。千鳥さん。ぼく、小原の叔母さんのところへ帰ろうと思うんだ。本当はものすごく厭だけど。でも、お姉ちゃんをこのままにしておけない。クロさんだって、クロさんの生活があるし、ぼくたちにはぼくたちの生活があると思うんだ。ちゃんと学校へ行かなくちゃダメだし、ちゃんと大人にならなきゃダメだと思う」
「そうだな」
「それでね。千鳥さんに送って行って欲しいの。他にお願いできる人なんかいないし、とても遠いけど」
ぼくは立ち上がって「お願いします」って、千鳥さんに頭を下げた。千鳥さんは、しばらく腕組みをしたまま考えた。
「本当にそれでいいのか?」
千鳥さんが深く重たい声でぼくに言う。
「うん。それが多分一番正しいと思う」
「そうか、よく言った。あたしに出来るのはそのくらいしかないけど、あんたたちを叔母さんの家まで送っていってやるよ」
と言って、千鳥さんはニッコリと笑った。
千鳥さんに携帯電話を借りて、叔母さんに電話を入れた。これから帰ること、沢山心配させただろうことを謝るつもりだった。ところが、電話を掛けるとすぐに留守番電話につながった。
「ただ今、旅行に出ております。金曜日には戻りますので、御用のある方はメッセージをどうぞ」という、楽しげな叔母さんの声が聞こえてくる。
とことんヒドイ人だ。でも、もうぼくたちに帰る場所は叔母さんの家しかなかった。
千鳥さんは、ぼくから携帯電話を受け取ると、お母さんのお見舞いへ向かった。後で、春香の病室にも寄るから、とぼくに言った。
ぼくは、そのままその足で、カホちゃんのコンビニへ向かった。そろそろカホちゃんがコンビニでアルバイトを始める時間になっていた。ぼくは路地裏に座って、カホちゃんを待っていた。
白い猫がぼくの前を、「にゃあ」と一声鳴いて歩いていく。やがて、休憩時間になって、カホちゃんはいつもどおり、裏口から路地へ出てきた。
「拓海っ」
カホちゃんは驚いて、ぼくの名前を呼んだ。
「心配してたんだよ。クロさんたちが警察に捕まったって、新聞に載っていたから。拓海たちにも何かあったんじゃないかって」
カホちゃんはぼくの前で膝を折ると、そっと抱きしめてくれた。少し言葉が震えていて、カホちゃんが本当に心配していたんだって、ぼくにも分かった。
「クロさん。逮捕されちゃったの?」
「うん。知らないの? あの公園、ホームレスの溜まり場になってたから、取り壊すことになっちゃって、それでクロさん抗議のために、市の担当の人と話し合いをしようとしたんだけど、その時クロさんの仲間の何人かが、暴れだしちゃって。それで、ホームレス全員、捕まったの」
それで、クロさんは戻ってこなかったのか。
「あのね。私、拓海に無理を言い過ぎたかもしれない。拓海たちの気持ちなんか気にしないで、私の言い分ばっかり押し付けて。あれから、ずっと拓海に謝りたくて」
カホちゃんは、ぼくを抱き止めたまま言った。ぼくは頭を左右に振る。
「ううん。カホちゃんは悪くないよ。カホちゃんが言うことは間違ってないもん。あれから、テントへ帰ったらね、お姉ちゃん熱を出して。もうこのまま死んでしまうんじゃないかって思った。でも心配しないで、ちゃんと病院へ行って、熱は下がったの」
ぼくはそこで一息ついてから続ける。
「昨日お姉ちゃんがぼくに笑ってくれたんだ。それで、はっきりと分かったよ。ぼくたちはまだまだ子どもで、大人の人がいてくれないと、生きていけないって。だから、ぼく、小原の叔母さんところへ帰ることにしたんだ」
「そっか」
「だから、ちゃんと謝って、ちゃんとさよならを言いたかった。大嫌いだなんていって、ごめんなさい」
ぼくが言うと、カホちゃんは一層強く抱きしめて、少し泣いていた。
カホちゃんは、最後に「私はさよならなんて言わないよ。またどこかで会えるかもしれないし」と言って、いつもどおりの笑顔を見せてくれた。ぼくは嬉しかった。出会って間もないのに、こんなに他人のこと心配してくれて。もうひとりお姉ちゃんが出来たみたいで嬉しかった。
ぼくはカホちゃんと別れると、急いで病院へ戻った。病室へ入ると、千鳥さんがベッドの脇に座っていて、お姉ちゃんと何かを話していた。
「拓海、何処へ行ってたんだ?」
千鳥さんが不思議そうに尋ねて来たけど、ぼくは少し笑って「ちょっとね」と返した。千鳥さんは、少し怪訝な顔をしたけれど、すぐに笑顔になった。
「さっき、中嶋先生が来て、明日には退院してもいいって」
千鳥さんがニコニコしながらぼくに言う。
「ホントに?」
「ホントだよ。あたしが嘘をついてどうする? それで、春香にもきちんとお前が、叔母さんのところへ帰るって決めたことを、きちんと話した」
千鳥さんの話を聞いていた、お姉ちゃんがぼくを手招きする。ぼくはお姉ちゃんの傍に座った。
「お姉ちゃん、ホントにいい? 叔母さんのところへ帰っても」
と、ぼくが聞くと、お姉ちゃんはコクリと頷いた。
「拓海が、はじめて独りで決めたんだもん。私は反対しないよ。本当はもっと早く、私がそうするべきだったのかもしれないけどね」
お姉ちゃんは小さな声で言った。心なしか、安心したように聞こえた。
次の日になって、お姉ちゃんは無事退院することになった。まだ、お姉ちゃんの足取りはフラフラとしていたけど、ぼくがしっかりと、お姉ちゃんの手を引いてデコトラまで、連れて行くことにした。
中嶋先生はデコトラまでわざわざ見送りに来てくれた。
「クロさんには、後で私の方から伝えておきます。拓海くん、春香さん、元気で」
微笑む中嶋先生に「ありがとうございました」と頭を下げて、ぼくは助手席の扉を閉めた。
「それじゃ出発するぞ」
千鳥さんはそう言うと、アクセルを踏んだ。
良く晴れた日で、青空が一面に広がっていた。デコトラは、住宅街を抜けて、オフィス街へ入った。あの公園の周りには沢山の重機が止まっていて、公園を取り壊している最中だった。公園を横目に、繁華街へ入るカホちゃんのコンビニの前を通りすぎる。まだ午前中だから、カホちゃんの姿はなかった。
デコトラは、ぼくたちを乗せて、真っ直ぐ住み慣れたあの街へと進路を取った。旅に出て、もうすぐ二ヶ月が過ぎようとしていた。デコトラは、あれほど時間がかかったぼくたちの旅路をあっという間に通り過ぎていく。
やがて、お日様が夕陽に変わり始めたころ、辺りの風景は見慣れたものに変わってきた。ぼくたちは、街に帰って来たんだ。
ぼくは、千鳥さんにお願いして、駅前で降ろしてもらうことにした。そこから叔母さんの家まではそれほど距離はない。今頃は、叔母さんたちも旅行から帰ってきていることだろう。それに、ぼくは寄り道したいところがあった。
「本当にここでいいのか?」
駅前にデコトラを止めて、千鳥さんが言った。お姉ちゃんを先に降ろしてから、ぼくはデコトラから降りると、千鳥さんに頭を下げた。
「はい。色々ありがとうございました。千鳥さんとか、クロさんとか、カホちゃんとか、沢山の人たちに助けてもらって、ありがとうだけじゃいけない気もするけど」
「拓海……」
千鳥さんが急にニヤニヤと笑う。ぼくがきょとんとしていると。
「変わったな、拓海。なんか、強くなった。ちょっと前まで、春香の後ろにくっついて、おどおどしてたのに、急に男らしくなりやがって」
と、言った。それから、千鳥さんはダッシュボードの中を探って、小さな紙切れと、ボールペンを取り出した。ハンドルを下敷きに千鳥さんは何事か書いて、その紙をぼくにくれた。
「それ、あたしの家の住所。それと、電話番号。いつでも電話しな。困ったことがあったら、力になるよ」
そう言うと、千鳥さんはグーで親指を立てると「グッドラック」と言って、助手席の扉を閉めた。そして、再びロータリーでクラクションを二階鳴らすと、千鳥さんは去って行った。
「お姉ちゃん、歩ける?」
ぼくがお姉ちゃんに聞くと、「うん。大丈夫だよ」という返事が返ってきた。ぼくはお姉ちゃんの手を引いて、歩き始めた。見慣れた街の道順は良く分かっている。駅を後にぼくは、住宅街へ入り、叔母さんの家とは反対の方にむかった。
そこは、かつて、ぼくたちとお父さん、お母さんが暮らしていた家の場所だ。レンガ色の空のした、家はあの日と変わりがなかった。ただじっとそこに佇んでいる。
「ただいま」
ぼくはそっと家に向かって告げた。ここがぼくたちの旅の出発点だった。お母さんに会えたら、皆でここへ帰ってこようと、お姉ちゃんは言っていた。でも、お母さんは見つからなくて、ぼくたちだけが帰ってきた。それでも、家は相変わらずぼくたちを見守るように、そこに建っていた。
お姉ちゃんはスカートのポケットから、小さな乳白色の小瓶を取り出した。お父さんの骨壷だ。鞄が盗まれたあの日、たった一つだけ手元に残ったのは、この骨壷だけだった。
「お父さんも、お母さんも、私たちを置いて、何処かへ行ってしまったけど、私にはまだ拓海がいる」
お姉ちゃんは骨壷に向かって言った。
「ただいま」
そう言ったお姉ちゃんは、ぽろぽろと涙を流し始めた。いつの間にか、涙もろくなってしまったんじゃなくて、お姉ちゃんはずっと泣くのを我慢していたのかもしれない。
「ぼくにも、お姉ちゃんがいるよ。帰ろう、叔母さんの家へ」
「うん」
ぼくは、お姉ちゃんの手を引っ張った。お姉ちゃんは、手で涙を拭うと、ゆっくり歩き始めた。
こうして、ぼくたちの旅は終わった……。
叔母さんの家へ帰ると、叔母さんと叔父さんはぼくたちを叱った。留守番電話のメッセージから、ぼくは、叔母さんたちが旅行に行っていた、と思っていたのだけど、本当はぼくたちを探すため、矢和にある、志郎叔父さんの家に行っていたのだ。結局、志郎叔父さんの家でぼくたちを見つけられなかった叔母さんたちは、落胆して家へ戻った。すると、玄関先で叔母さんたちの帰りを待つぼくたちに出くわしたのだ。
叔母さんと叔父さんは、ひとしきりぼくたちを叱り飛ばしてから、少し声のトーンを落として、ぼくとお姉ちゃんに謝った。お父さんの遺産が目当てだったこと、ぼくたちを邪魔者に思っていたこと、そういうことを謝ってくれた。そして、これからはきちんと、俊哉君、実夏ちゃんと同じ家族として、育ててくれることを約束してくれた。
ぼくたちは、正式に叔父さんと叔母さんの子どもになることになった。叔父さんたちの稼ぎとお父さんの遺産を合わせれば、ぼくたち二人を養うことは十分に可能だった。
それから、俊哉君にいじめられることは少なくなかった。でも、ぼくはお姉ちゃん直伝の顔面パンチで、俊哉君を何度となく退けた。泣き叫ぶ俊哉君が、叔父さんに嘘を吹き込んでも、叔父さんはきちんとぼくと俊哉君の両方を叱ってくれた。そんな俊哉君とも、中学生になる頃には、いつの間にか兄弟みたいになって、笑いあうことが出来るようになった。
お姉ちゃんは、叔母さんの家に戻ってから少しずつ元気になった。昔みたいに、気の強いことは言わなくなったし、良く泣くことが多くなった。そんなお姉ちゃんをいつも慰めるのは、叔母さんと、実夏ちゃんだった。ぼくは、一度もお姉ちゃんを慰められなかったのに、二人はいとも簡単にそれをやってのけたのだ。すごいと思う。はじめて、実夏ちゃんがお姉ちゃんのことを、「ハルちゃん」ではなく「お姉ちゃん」と呼んでいたのを見て、ぼくはやっとぼくたちが家族の一員になれたことを心から喜んだ。
千鳥さんのところへは、夏休みと冬休みには必ず顔を見せた。千鳥さんは嫌がるどころか、喜んでくれて、ぼくたちをデコトラに乗せてくれた。健太くんは、話に聞いていたよりずっと明るくて、ぼくと健太くんはすぐに友達になれた。千鳥さんとの交流は今でも続いている。
中学に上がってから、一度だけクロさんから手紙が来た。警察を釈放されたクロさんは、どこか遠い国の荒海で、マグロを片手に笑っているらしい。今も、ぼくたちと過ごした日々を思い出す、と書き添えられた手紙は、大事にしまってある。
それから、カホちゃんにも再会した。コンビニは、不況の煽りで閉店してしまったため、ずっとカホちゃんには会えないままでいた。そのカホちゃんにばったりと出逢ったのは、つい最近のことだった。高校を出て就職したカホちゃんは、そこで素敵な旦那様を見つけて、結婚した。カホちゃんの腕には、小さな赤ちゃんが抱っこされていた。
お父さんのお墓は、お母さんのお墓の隣に作った。志郎叔父さんは猛反対したのだけど、ぼくと若葉叔母さんの二人で、叔父さんを説得した。海が見える小高い丘の、一番見晴らしがいい場所。今でも、お父さんとお母さんはそこで寄り添っている。
ぼくは、中学生になり、やがて高校生になった。お姉ちゃんと俊哉君は、それぞれ大学へ進み、今年卒業する。流石に大人になったお姉ちゃんは、ちっとも泣かなくなった。それでも時々気弱なことを言うことがある。ぼくが、旅のことを覚えているか、と尋ねると、お姉ちゃんは歳を取るごとにあまり多く語らなくなっていった。すこしずつ、あの旅の日々は、ただの思い出に変わっていく。それはぼくも同じだった。だけど、雨が降るたびに、ぼくは思い出す。あの日初めてお姉ちゃんが見せた涙を。
でも、それはそっと胸にしまっておこう。いつかぼくが忘れてしまうまで……。
〈終わり〉
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2009/05/19(Tue)23:44:18 公開 / 雪宮鉄馬
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■作者からのメッセージ
はじめまして、雪宮鉄馬といいます。
最後まで読んでくださった方々、大変ありがとうございました。
元々は、数年前山口県下関に旅行に行った時、車窓から眺めた風景から、ふと思いついた物語です。本編に、下関市の風景はまったく反映していませんが……。
非常に拙くて、平凡な物語かとは思いますが、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。