- 『ラスト パートナー 3(後編)』 作者:暴走翻訳機 / アクション 未分類
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全角14573文字
容量29146 bytes
原稿用紙約44.45枚
前回まで。イェーチェの入院、陸上自衛隊基地の襲撃、誓子達を襲ったロシアン・マフィア。全ては偶然か必然か、戦火は無関係な者にまで飛び火してゆく。そして、彼らが正義を貫く時、ここに真実が明かされる。ちょっとハードボイルドなアクション小説第三弾開幕!
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三章・その名は部隊アルカナ
時は少し戻り、朝食には遅く、昼食には少し早い時間。
――グウゥゥゥゥ。
自然なほど当たり前のように腹の虫が騒いだ頃、ようやくチッチッと時を刻む秒針の音に気付いた。
赤い『手術中』のランプの明かりだけが、大きな観音扉の上で煌く。紅い光しか差し込まない薄暗い廊下に置かれたソファーに腰掛けながら、少年は思い出したように時計を見上げたのだ。
そう言えば、朝から何も口にしていない。こんな時でも、空腹を訴えるものなのだな。
などと、少年は時計を見上げながら思う。
痩躯というには肉付きが良く、中肉というには痩せた十七、八の少年。眼鏡をかけた顔は利発そうに見え、そしてどこか世界を達観しているような冷めた表情である。
少年の名は、水無月誠司。
片田舎の工学専門学校に通う一般的な少年だ。
そして、今、観音扉の向こうの手術室で手術を受けているのが誠司の兄に当る水無月良介だった。
昨日、正しくは今日の深夜、青天の霹靂とも言える急遽な病院からの呼び出しを受け、良介の勤める自衛隊基地付属の病院に駆けつけた。
そこで伝えられたのが、良介に起こった惨状。
本来なら、この時間には別の病院へ友であり塾の講師である少女のお見舞いに行く予定だったのだが、唐突な身内の不幸で反故にしてしまった。
まあ、事情が事情ゆえに一緒にお見舞いへ行くはずの友人達も許してはくれるだろう。
今日は、毎月購読している雑誌の発売日。急な呼び出しだったため、戸締りはちゃんとしてきただろうか。
自分でも不思議なのだが、身内の生死を前にして誠司は幾度となくそうした無駄なことを思い浮かべてしまう。両親がこの場に居ないのも、共働きでツアーコンダクターとして外国を飛び回っているからだ、と僅かの時間で納得している。
それらが、単なる現実からの逃避ならば良い。しかし、五時間以上に渡る手術の中で考えた悉くが、日常の他人にはどうでも良いことだった時はなんと言い訳するべきか。
言い訳などするまい。ここにいて、ここで考えている全てが、自分のありのままなのだから。大切な人の手術というのは実時間よりも長く感じると言うが、やはりそれも通常の時間と相変わらぬ感覚であった。
そんなことを考えていた所為か、『手術中』のランプが緑に変わったことに気付くのが少し遅れてしまう。
「……兄の容態は?」
手術室から出てきた血塗れの白衣を着た医師に、落ち着いた物腰で尋ねる。
「とりあえず手術の方は成功しました。しかし、今夜が山場でしょう……。あの状態で、命があるだけ奇跡ですよ」
医師は、呆れたというより感心した様子で答える。
医者がそんなことを言うぐらいには、兄の容態は悪かったのだろう。
「兄には、面会できますか?」
「……まあ、麻酔が切れれば目を覚ますでしょう。けれど、それほど長くは話せませんよ。何せ……言っておいた方が良いだろうか?」
医師が苦虫を噛み潰したような顔で言葉を濁す。
「ニュースは見ました。兄以外の隊員は全員手足がバラバラだったと。兄も五体満足ではないのですね」
「両手足が接合不可能なほどにはね……」
簡潔に告げられた答えにも、誠司は動揺しない。
当然の結果、もしくは予想の範疇といった表情で医師を眺めていたのだろう。だから、医師はそんな顔で言葉を続けたのかも知れない。
「実の兄なんだろ? お兄さんは嫌いなのかな?」
「いいえ、素晴しい兄だと思っています。うろたえても仕方がないと思っているからです。起こってしまったことなら、僕が驚いたところで兄の手足が元通りになるわけではありません」
それは決して偽りのない本心。
もちろん後悔や自責の念を負うこともあるだろうが、慌てふためいても改善しないのは決まりきったこと。理とでも言おうか。
無論、感情が欠乏しているわけでもない。笑い、怒り、泣くことも出来る。ただ、物事の客観的に分析して機械的にまで脳信号による命令を肉体に降す。
冷めていると言われれば、そうなのかも知れないが。
「後一、二時間で麻酔が切れるから、軽く何か食べてきなさい。ずっとそこにいたんだろ? 詳しいことは、両親が到着してから話すよ」
「分かりました。どうも、ありがとうございます」
気遣いの言葉を残して立ち去る医師に一礼し、誠司も手術室の前を離れる。
病院の売店に寄り、コンビニよりは品揃えの悪い商品から適当に食べ物を選ぶ。一応は食堂もあったのだが、昼を前にした食堂は混んでいたので止めた。
ある意味、それが功を奏したというべきか。雑談する二人の人物を見かける。
自衛隊付属の病院なだけあり、入院患者はほとんどが自衛隊関係者だった。今回の兄に起こった事件について、彼らなりに談義していたらしい。
「聞いたか? 水無月一尉の部隊が演習中に事故を起こしたんだってよ。どうやら、機材の故障が原因らしいぜ」
「あぁ? そんな危ない機材を使ってたのか? 単なる演習だろ。銃だって、実弾じゃなくて着色弾を使ってたぐらいだ、事故で森林一つが丸焼けになるものか? 他の隊員だって手足がバラバラだったって話じゃないか」
「腑に落ちないのはそれだけじゃなくてよ、他の自衛隊基地でも似たような被害が出たんだってさ。最近多いテロリストの仕業だ、って話も囁かれてるみたいだ」
それは、被害者遺族でなくとも興味を引かれる会話だった。
確かに、機材の故障による事故云々は医師からも聞かされた。それでも、他の自衛隊基地でも事故が起こったという話は、ここのニュース以外は全く聞いていない。もし手術の間に聞き逃していたにしても、病院のロビーでは他愛もないタレントの結婚会見を流している。
単に、自衛隊基地での失態が報道規制されているだけなのか。しかし、一般のニュースでは、自衛隊基地の演習用林に何かがあった、という話をしただけで、事故による火災とまで知っている一般人はほとんど居ないだろう。
今にして思えば、こうした不可解な報道規制は幾度かあった。
その場にいなかったものの、深く関わった宗谷とアンリ、イェーチェから話を聞いた『海底ホテル強盗事件』。
一連の話を聞けば、確かに某IT会社の株主オッド=ワイルズマンの単独で起こした強盗事件だ。アンリの自律型アンドロイドのプログラムを奪い、外国に高飛びして特許を申請してしまえばプログラム自体の特許料だけで豪遊生活が出来ただろう。それが失敗して逃亡、行方を眩ます――実は死亡している――形となった。
二度目は、誠司や高屋、林檎さえも関わってしまった『セントラル・バベル爆破事件』。これもまた、犯人のアレキサンドロの存在は隠蔽され単なる事故という形で終止符を打った。
内容を考えれば、多少の報道規制も仕方のない話かも知れない。
ただ問題は、数日の間はニュースで流されていたが、僅か数日で事件そのものが社会的に消されたことだ。
「誰かが、不都合な情報を消した……」
購入した菓子パンを呑み込みながら、ボソリと呟く。
そして、自分で言っておいて頭を振る。
幾ら漫画やアニメが好きでも、流石に妄想が過ぎている。
妄想を振り払ったところで、菓子パンをコーヒー牛乳で流し込みロビーを後にした。集中治療室から個室に移された兄の容態が気になったから。
病室の前で、ちょうど病室から出て来た主治医である先刻の医師と鉢合わせする。
「やあ、呼びに行く手間が省けた。麻酔の効きが悪かったのかな、思ったより目を覚ますのが早い。君に会いたいと言っている」
医師に促され、自然と足が病室に踏み込む。
変わり果てた兄に会うことに恐れはない。今は少しでも、早く兄が快復に向かうことを祈るだけだった。
誠司は、両親が共働きだった所為か、昔から漫画やアニメを見て、テレビゲームなどをやって時間を潰すことが多かった。そのため、明朗快活ながらゲームクリエイターになろうと工学専門の学校でプログラミングの勉強を始めたのである。
夢のためならば度の過ぎた妄想も役に立つのだが、現実的な部分では余計。まあ、そうした妄想を語り合えるのが高屋と林檎だったわけだ。イェーチェも、誠司にとっては憧れの的と言えよう。
ただ、両親はあまり高屋との関係を快く思っていない。学校でも良く知られる素行ゆえに、息子に悪い影響が出ないか心配している。
高屋達とは幼馴染なので、幼い頃から二人の話を両親に聞かせていた。が、高屋の名が出てくるだけで露骨に嫌そうな顔をするため、いつしか両親の前で二人の話をしなくなった。
そんな話を聞いてくれたのが、兄だ。
今では元気な兄の面影もなく、虚ろな瞳でこちらを見つめる兄だけが、学校や塾での愉快な話を聞いてくれた。
「誠司……か? 良かった、最後に生きてお前に出会えた。神様も、願いを叶えてくれるんだな……」
木乃伊を思わせる包帯の衣服に身を包み、酸素マスクを白く濁らせながら苦笑を浮かべてか細く声を漏らす。蚊の鳴くような小さな声だったが、ちゃんと聞こえている。
焦点の合わない目でも、確かに誠司を捉えていた。
「……なんだか、しばらく会えない内に大きくなったな。学校では楽しくやっているか?」
「お盆に帰ってきてからまだ二月程度じゃないか。楽しくやってるよ。高屋も林檎も元気だよ」
なぜか、そんな他愛もない話をしてしまう。
演習中に何があったのか聞きたくても、今の良介には不快な思いをさせるだけだろう。だから、今は久しぶりに会えた兄に近況報告を聞かせてやる。
「相変わらずだな。普段は笑いもしないのに、友達の話をする時はちゃんと笑える。怒る時も、友達が馬鹿なことをやった時だ。最近は見てないけど、小さい頃は高屋君と喧嘩の後の仲直りを取り持ったっけ? 泣きながら頼んでくるお前が可笑しくて、笑いを堪えるのが大変だった」
どうして、そこまで昔の話をするのか。
恥ずかしくて苦笑しか返すことが出来ない。
その上、まるで今までの人生を懐かしむようにも聞こえてしまうのは何故だろう。
いや、言われてみれば肯くしかない。ここ最近、友人の話をする時ぐらいにしか感情を露にしていない。
不思議なほど、世界を冷めた目で見ている自分が、唯一感情を表す対象が友人達だ。イェーチェも含め、今ではそれだけ大切な人達なのだろう。
「なあ、イェーチェ、ワイルズマン、テンパランス……って分かるか?」
改めて大切な友人達の存在を認識していると、唐突に良介が尋ねてくる。
「イェーチェ先生がどうしたの? ワイルズマンは、先生のファミリーネームだよ。養父のだけど」
兄の口からそんな質問が出てきたことに驚いたが、とりあえず分かる範囲で答える。テンパランスという単語に関しては、良く知らない。
すると、良介が驚愕に顔を歪めた。
「! ……お前の先生だったのかッ? 俺のことは後で良い! 急がないと、あいつらがッ……う、ぐぅ」
怒鳴るようにして言いかけたところで、唐突に呻き始める良介。
傷口が開いたのだろう、全身を包む包帯が赤く染まりだす。
誠司も、いきなりのことで良介の意図を読み取れない。
「お兄さん、傷が開くから静かにしてッ」
「俺のことは心配しなくて良い! 俺をこんな姿にした奴らが、お前の先生のところに……痛ッ。ぐ、ゴホッ! ガハッ!」
「だ、誰かッ! いったい、誰が何のために先生のところへ?」
良介の切迫した言葉に、イェーチェの身に何かが起こったことを察する。もしくは起ころうとしているのか。
「どうかしましたかッ? み、水無月さん、それ以上動かないで! ドクター!」
良介と誠司の声に気付いた看護婦が駆けつけ、状況を察して医師を呼びに出て行く。
良介は、直ぐに戻ってきた数人の看護婦と医師に押さえつけられる。
誠司もまた、看護婦によって外へと連れ出されてしまう。
「水無月さん、落ち着いてください!」
「誠司! 早く行け! お前が守るべきものは、死に損ないの俺なんかじゃないッ!」
医師達に囲まれた良介が最後に発した言葉だけが、鼓膜の奥へと静かに吸い込まれてゆく。
そこから脳を電気信号として伝わり、脳幹から脊髄反射的に手足の筋肉へと命令が伝わるのにコンマ数秒と掛からなかった。
体が何をすれば良いのか分かっているように、病院であることさえ忘れ駆け出させる。
高校の世界記録でも狙えるほどの速度で、危うく患者や看護婦達にぶつかりそうになりながらも病院の外へと向かう。
生まれて初めて、誠司はそれを知る。
焦りという、理論的には御せぬ心情。自我を無視した肉体の暴走。
ここからでは、どんなに急いだところで二時間弱は掛かる。それが徒歩ならば一体どれほどの時間を要するか。走ってたどり着けるような位置関係ではないと知りながら、体は立ち止まることを許さない。
これまで何事にも冷めていた自分が、早鐘を打つ心臓の動悸さえ無視して走り続ける。
たった一人の少女を助けるために。
掛け替えのない親友を助けるために、考えることを止めて全力で足を動かした。
それが幸いしたのか、はたまた暴挙というべきか。目の前に停まっていた一台の原付――原動付自転車――を見つけて、それに跨る。
幸いキーを付けっぱなしで持ち主は原付を離れていた。
原付は一度も運転したことなどないが、スクータータイプの物ならばその術を知っている。友人の一人である不良少年が乗り回していた時に、少し仕組みを観察しただけではあるが。
エンジンをかけるまでの一連の動作を終え、エンジンの振動を感じながらハンドルについたアクセルを軽く捻る。最初は車体が安定するまで足で支えながら走り出し、速度に乗ったところで足をステップに上げる。
冷静な時ならば犯すことのない過ちではあったが、今の誠司に道徳を諭す余地などありはしない。窃盗に、言うまでもなく無免許運転。
「――ッ!」
背後で持ち主らしき人物の怒鳴り声が聞こえてきたが、誠司はそれを意図的に無視した。
きっと、このことを両親が知れば卒倒するだろう。
そんな愚にもつかないことを考えながら、アクセルを強く捻る。徐々に速度を上げながらまた、暴走運転も罪状に加わるな、と思った。
進むも地獄、戻るも地獄。ならば、このままイェーチェの下へ急いだ方が得策だろう。
最高時速でも六十キロ程度しか出ないスクーターを限界まで酷使して、初めてとは思えない華麗なハンドル捌きで前方の渋滞をすり抜けていく。
時には信号待ちで苛立ち、燃費の悪さ故に何度かガソリンスタンドに立ち寄らなくてはならなかった。
そして要すること三時間少々で、ようやく目的の病院にたどり着く。
県内ではそれなりに有数の病院だが、やはり自衛隊基地付属の病院には劣る。それに、建て増しによる増築で新古が交じり合った外観だ。
まあ、そんなことを気にしても始まらないので、受付でイェーチェの病室を聞いて向かう。ただ、看護婦や外来の患者が居る分は慌ただしいものの、特別に何かが起こったという雰囲気ではない。
「面会は四時までなので、ご注意くださいね」
時刻は三時を少し過ぎたぐらい。
高屋と林檎はまだ居るだろうか。
「今日の塾は三時からか。居るわけがないな……せめて、桂木さんかアンリさんぐらい残っていれば良いのですが」
病院に着くまでにどうにか冷静さを取り戻したおかげで、今度は慌てて病室に向かわずに済んだ。個室ではなく大部屋だということも安心できた一つの要因と言える。
しかし、病院という空間では人目もある分、人の目を盗んで危害を加える手段も少なくはない。
階段を上りきり、教えられた病室の前まで歩む。すると、ドアノブに手を掛けようとしたところで背後から声をかけられる。
「どなたかのお見舞いかな?」
「ッ?」
咄嗟に振り返ったところに、足を骨折したのであろうギブスと松葉杖をついた初老の男が佇んでいた。
「とは言っても、この部屋は私と女の子だけだからねぇ。あの娘のお友達かな? 少し前にも何人か来ていたようだけど、診察で追い出されてたねぇ」
緩慢な口調で男が言う。
その言葉に、背筋に言い知れぬ何かが走る。
「おっと、私はもう少し外していたほうがいいかな?」
男はそれだけ言うと、こちらが答えるより早くどこかへ歩き去ってしまう。
呼び止めておきたかったが、今は男を追っている時間はない。杞憂であればよい。けれど、男が言う限り病室に残っているのはイェーチェと診察に来た医者だけだ。
焦りと緊張に掌は汗ばみ、長距離走を終えた後よりも動悸が激しくなる。
それでもゆっくりとドアノブを開いて、中に居る誰かを刺激しないように病室を覗き込む。
「……なのか?」
「静かに」
確かに、誰かが話し合っているような声は聞こえてくる。聞き覚えのない声が、誠司の気配を察して会話を制止する。
「イェーチェ先生……居ますか?」
いきなり飛び込んだところで何かが出来るわけでもなく、面会を装って様子を見る。
「……その声は誠司か? どうしてお前が? 身内の不幸で出かけていたはずじゃ?」
ベッドを囲む白いカーテンの向こうから、イェーチェの声が返ってくる。
拍子抜けするぐらいに平凡な返事だが、とりあえずまだ何も起こっていない。
「あ、いえ、早く片付いたので様子を……。調子はどうですか?」
さりげなさを装って、ベッドへ近づく。
「今のところ落ち着いてるよ。君は、ワイルズマンさんの生徒さんだね」
白いカーテンを開けると、イェーチェに代わって女医が答えた。
十分に美女と呼べる色白の肌と、整った顔立ちの三十前半と思しき女性。少し鳶色の入った髪を後頭部で団子状にした年甲斐もなく愛らしい格好だが、日本人とは思えないライトブルーの瞳が静かに誠司を見据えている。
「はい、水無月といいます。顔色も良いみたいですから、近いうちに退院できそうですね」
カルテを挟んだボードに病院の人員であることを示す名札は、一目で彼女がこの病院の女医であることを証明していた。
「そうね、二、三日中には退院できるわ。まあ、ちゃんと安静にしていれば、の話だけどね」
しかし、誠司は何気ない動作で手近にあった来客用のパイプ椅子に手を伸ばす。彼女もまた、ボールペンを仕舞おうと白衣の下に手を引っ込めた。
そこで、不可解な沈黙が訪れる。
当事者の三人でなければ、たぶんその沈黙と硬直の理由を知ることはないだろう。イェーチェは何も知らぬと言った風――一見、誠司の面会を喜ぶよう――に柔和な笑みを浮かべてはいるが、内心は別のところにあった。
女医が白衣の下で何かを掴み、誠司はパイプ椅子を両手に掴んだ状態で睨み合う。この距離ならば、女医が懐のものを引き抜くより早くパイプ椅子が振るえる。それを承知で目の前の女が行動を取るかどうかは、正直なところ五分五分だ。
「武術の心得がある上に、喧嘩もそこそこ強いらしいね。いや、心得があるから喧嘩も強いのかな?」
唐突に女医が口を開く。
沈黙が破られたことに誠司は数瞬戸惑いを見せるが、すぐに平静を持って女医を睨み返す。
すると、女医は手を懐から抜き顔の前で手の平を広げて、何も持っていないことをアピールする。
「油断させる算段とかじゃないよ。ここで、君と事を構えるのは得策とは思えないからね。ただ、君の先生のお遊びに付き合っただけだよ」
苦笑を浮かべつつ弁解らしきものを口にする女医。
フッとイェーチェに目を向ければ、前屈のような形で小刻みに体を震えさせる姿がある。ミニテーブルの上に置かれたイェーチェのパソコンと、彼女の態度を見て一つの推測が立つ。
「……まさか」
「そう、そのまさか、だ。私はイェーチェさんの味方で――正しくは今先ほど、彼女のボディーガードをすることになった。そして、君をからかうために敵のフリをしたのさ」
溜息をつきながら女医がネタをばらしてしまう。
イェーチェはまだ笑いをこらえるのに必死でうずくまったままである。
「なるほど……。高屋達と演劇ごっこをするだけじゃ物足りませんでしたか? いえ、今はそんなことどうでも良いのです――」
ネタを知って呆れ顔だった表情を止め、真っ直ぐに女医を見据える。
「――あなた達がいったい何者で、今何が起こっているのか、教えていただけますか?」
誠司が問いただそうとすると、女医も目を細めてイェーチェに視線を投げかける。笑っていたイェーチェも顔を上げて、神妙な表情で逡巡を見せる。
「……教えても良いものだろうか?」
「毒蛇と知らずに出遭うより、毒蛇と知っていて出遭った方が対処のしようがある。それに、もうこいつらを巻き込ませるつもりはない」
「毒蛇? やっぱり、普通ではない何かが起こってるんですね。どうして、それにイェーチェ先生が……?」
「口で話すよりも、こっちを見てもらったほうが早いかな。君が来る前にしていた、私とイェーチェさんの筆談だ」
そう言って、女医が場所を空けてイェーチェのパソコンが覗けるように誠司を促す。
パソコンのモニターにはワープロソフトが起動してあり、先刻の誠司をからかった作戦の内容が書かれている。彼女らが見せたいのは、最初にスクロールバーを戻したところだろう。
そこには、数十行に渡るイェーチェと女医の筆談らしきものがあった。
女医の簡単な自己紹介から始まり、彼女がオードリッチ=ナイチンゲール――有名な某ナイチンゲールとは別人――であることを知る。
ただ、もっとも驚くべきは彼女の正体などの真実だろう。
「……馬鹿なッ。まさか、本当にこんなことが?」
筆談の内容を読むうちに、自然と驚愕の声が病室を木霊した。
――PM4:37:29 某県某市内の工業専門塾付近。
夕刻も迫ったそのころ、たぶん着々と進みつつある出来事を彼らは知らないであろう。
『ヒョットコ屋』と銘打った看板の下で、十畳ほどの店を営む四、五十の男と二人の女性。
店と言っても、レジスターが置かれたカウンターから少し離れたところに、六枚ほど――一枚が等間隔に四列八行の穴が落ち窪んだ――鉄板が並べてあるだけだ。カウンターと鉄板の前は屋台のように開け、調理用の台所を除けば壁などほとんど無いに等しい薄いベニヤ板とトタン板で囲まれた店。
焼きたてを食べられるようにレジャー用の椅子と机が数脚用意されて入るが、大方の客は持ち帰ってしまう。
そんなみすぼらしい店でも、店長である男の父親がここまで大きくした蛸焼き屋である。
最初は縁日で見られる小さな露店から始まり、三十年近く守り続けてきた『ヒョットコ屋』の看板の逸話は、アルバイトの二人も耳にタコができるほど聞いてきた。
「今じゃよ、何人も常連さんがついて繁盛してるさ。けどねぇ、おとっちゃんが生きてる時からと言えば、数えるほどもいないんだぜ。ほら、どこやらの先生さんも小さいころからご贔屓にして貰ってるだろ」
などと、昔話を常連の客に聞かせる始末。持ち帰りが多いのは、この話を聞かないようにするためである。
そろそろウンザリしたところで、一人の客がカウンターの前に立つ。
皺ひとつ無い栗色のスーツに身を包んだ営業マンと言った容姿の男。ハリネズミの背を彷彿させるワックスで固めた無造作ヘアーの所為か、厳つ目の顔に似合わず三十過ぎにも見えて二十後半とも思える。
「悪いね。さっきの人で焼けてたのは最後だから、十分ばかり待ってもらえるかな。そういや、この辺じゃ見ないけど、どこから来たんだい?」
店長が、臆面もなく見慣れない客と世間話を始める。
「いや、ちょっと私用で立ち寄っただけですよ。小腹も空いたので、ここで食べて行くからひとつお願いするよ」
アルバイトの二人は店長の言うほど客の顔までは覚えていないが、持ち帰らないところを見れば初見だと直ぐにわかる。
「あ〜ぁ、また店長の昔話の餌食になっちゃうね」
犬の耳と尻尾をつければさぞ従順であろう女性――天っちこと大狗 天音(おおいぬ あまね)が、苦笑を浮かべて言う。
「人の不幸を笑うのは酷というものだ、天(あま)っち」
細目の女性も同僚と店長に呆れつつ口を開く。
「童子(どうこ)ちゃんは笑うじゃ済まないもんね……。あれは、一種の陵辱だよ? 私でもあんなプレイは御免だよぉ」
「小学校の時の、0点だったプリントというのはさぞ恥ずかしいだろうな」
「うぅ……どこであんなもの手に入れたのぉ……?」
「そこに私が酒呑(さかの)童子と、親に変な名前をつけられた由縁があるのだろ。しかし、でも、というのは私の嗜好を気に入ってもらえたということかな?」
「ち、違うよッ。言葉のアヤというのか、その……もう、童子ちゃんの意地悪ッ」
「ほれ、乳繰り合ってないでひっくり返せよぉ」
仲の良い二人が戯れあっていると、見かねた店長が激を飛ばしてくる。
二人はお喋りを止めて再び鉄板に向き合った。
単なるアルバイトとは言え、勤め始めてから二年近くになる二人の手際は見事なものだった。少し余所見をしていようとも、鉄板の穴にはまり込んでいた半球形の液体の表面が固まると同時に、手首のスナップを利かせて円形にひっくり返す。
踊るかの如く既知の形になるタコ焼きに、製作の過程を知らぬ者は見惚れることも少なくはない。
屋台の中には二つ折りになった鉄板を反転させるだけで円形ができるものもあるが、『ヒョットコ屋』の歴史を鑑みている店長はこの焼き方に料理人としての魂があると信じて止まなかった。
ともあれ、大方焼き色がついたところで二人は最後の仕上げにかかる。
タコ焼きの上に大量の食用油を掛け、揚げるようにして表面にカリカリ感をつけてゆく。これが、常連である近所の塾の教師が信じる『カリフモ』の食感を作り出す仕上げだ。
「お客さん、焼けましたよ」
市販のお好み焼きソースに少量のウースターソースと、ニンニクを摩り下ろして軽く煮詰めて作る、特製のソースを掛けて先刻の男を呼ぶ。
その男は少し離れて携帯電話で話し込んでいる所為か、こちらの声が届いていない様子だった。
「あぁ、手段は問わない。多少の損害はこちらでどうにかしよう。ただし、RPGだけは止めておけ、誤魔化しきれないからな。出来るだけ……の方が良い」
しばらく話をした後、客は電話を切って戻ってくる。
そこですかさず、童子が男の電話の内容に食いつく。
「ゲーム会社の人ですか? RPGとか、最近マンネリ気味ですもんね。新しく出るゲームの内容なんて、教えてもらえませんよね?」
「駄目だよぉ、勝手にお客さんの話を盗み聞いちゃ……。すみません、この子凄くゲームマニアで」
男は、食いついてきた童子をポカンと見つめていたが、二人の顔を見て苦笑を浮かべていたのを、
「いや、構わないよ。ただ……いや、うん、ゲームみたいなものではあるかも知れないね。残念だけど、新作についてはもう少し待って欲しい。きっと、君達に驚きを与えることができるだろうね」
と、屈託のない笑みに変えて答えた。
その後は、童子が――天音に連れられて――店の奥に消えて夕時の静けさが戻ってくる。
銃声に似た何かが、どこからか響いてくるまでは。
四時を前にして、夕焼けの朱が地平線の彼方に消える。
まだ薄ボンヤリと人の姿がシルエットで確認できる程だが、少し離れたところで睨み合う黒衣の男達を認識するのは難しい。
ただ、彼らが何かを話しているのが微かに聞こえてくる。
「……?」
相変わらずのロシア語で問いかけるようなニュアンスが、一つだけ真実を伝えてくれた。
考えてみれば、一介のロシアン・マフィア如きが外交官ナンバーの車を得られるわけがない。裏で糸を引いている奴がいる。
生憎、誓子はロシア語を聞き取ることはできない。日本語と英語、それから東南アジア系諸国の言葉がわかるぐらいだ。
仕方なく、語学に関しては天才的な才能を持ち合わせる狐に聞く。
「あいつら、何を話してるの?」
「…………」
誓子の問いに、狐は苦い顔をしながら僅かの逡巡を置く。
聞き取れなかったわけでも、会話の内容を理解できなかったというわけでもないらしい。
「理由までは分からない。けれど、あいつらの裏で手薬煉を引いている奴の正体が少しだけ分かったわ。大きな声では言えないけど、あいつら電話口でオウジョウって言った」
躊躇いのある口調でボソボソと喋る狐。
それだけで、日本の地にシベリアン・ハスキーを呼び込んだ黒幕の正体に行き着く。まだ名前だけでは憶測の域を出ないが、名前と外交官ナンバーから思い当たるのはただ一人。
「王城外務省長官……」
誰にも聞こえないほどの小声でその存在を口にし、講師用控え室の入り口近くにいる青年の姿を一瞥する。
「ふぅ」
呆れたと言わんばかりに誓子は溜息を吐く。
こんな時に限って、敵の黒幕が教え子の父親などと卑怯にも程があった。冷酷に徹することの出来ない誓子では、いくら絶縁状態でも教え子の父親を追い詰める気概は持ち得ない。
シベリアン・ハスキーが突入してきたところで、接近戦を得意とする自分と狐で蹴散らすつもりでいたのだが、
「やっぱり、あんたをここから逃がすのが上策ってことみたいね」
肩を竦めて作戦の変更を告げる。
その折だ。まるで機を図ったかのように武器庫に置いていた無線機に通信が入った。
『こちら『隠者“ハーミット”』。『死神』か『力』、応答願います』
林檎よりも幼い声で通信してくるのは、
「ケーシィ……」
と呼ぶ少女。
無線機を取り上げ、こちらが無事であることを伝える。
『その声は『死神』ね。今、そっちまで救援に向かってるわ。まさか、殲滅部隊隊長の貴女が遅れを取ってる、なんてことはないわよね?』
「当たり前でしょ。まあ、ちょっと悩みあぐねちゃいるけど」
『OK。じゃ、『フォックス』をバイパスに逃がしたらこちらで拾うわ。貴女達は、生徒さん達の安全を最優先に確保して。目印は警察野郎のセダンの前を走る黒いバンよ』
「了解。ところで、これはあいつらの計略?」
『たぶん。警察がこっちの件に関われないよう厳戒態勢を取っている今、あいつらが手引きしているとしか思えないわ』
「そう……。何を考えてるのか分からないけど、また何かやらかすのは目に見えてるわ。まあ、狐のことはこっちでどうにかするから、後のことは頼んだわよ」
『任せておきなさい。こうした工作は私の十八番だからね。それじゃ、無事を祈るわ』
そこで通信を終了する。
自分達の組織では最年少でも、自信たっぷりに言い切ったケーシィを信じて机の引き出しから一つの鍵を取り出す。
「今の話、ちゃんと聞こえたわね? 裏の駐輪場に私のバイクがあるわ。特別にチューンしたゼファーだから」
「塾の講師に、バイクね……多趣味のようだけど、貴女って何者なの? フォックスは私のことだろうけど、どうして私がここにいるのが分かったのかしら? それに、そのケーシィって娘も何者なの?」
おどけたつもりで言ったのだが、狐に呆れながら真面目に返されてしまう。
「私が説明してる暇はないわ。そのことについてはあの娘が説明してくれるはずだから、今は逃げることに専念して」
「分かったわ。ごめんね、林檎ちゃん。後は先生達に守ってもらってね」
上手くはぐらかせたらしく、狐は恋人にウィンクと別れの言葉を残して表玄関から出る隙を窺う。
「裏から出たほうが手薄です。中に引き込んで、屋上の雨掃け用のパイプ伝いに逃げれば簡単にいくでしょう」
竜司のアドバイスに、狐は階段を上って屋上に向かった。
誓子は、表の守りを竜司に任せて裏口へ囮役を務めにいく。別に相談したわけでもないのに、アイコンタクトのみでそうした作戦を確認できるのは、並大抵の組織ではないことを示唆していた。
裏口に着くと、壁際に身を屈めてドアノブに手を伸ばす。
敵にこちらが隠れていることを悟られぬようにゆっくりと扉を開け、敵が近づいてくるのを待つ。
「……ッ!」
「……?」
四人分の足音と、幾度か言葉を交わす声。
敵の一人が構えた銃が扉の敷居を潜ると同時に、愛用のステアーをお得意の使い道で敵の銃を跳ね上げ、武器を振り回す遠心力を利用して後ろ蹴りを腹部に叩き込む。
「ガッ!」
吹き飛ばされた一人が、後衛の一人を下敷きにして昏倒する。
壁際に隠れていた二人目が狼狽している間に、ステアーを壁に叩きつけるようにして顔面をサングラスごと叩き割った。強面ながらそれなりにハンサムな男だったが、壁とステアーにサンドイッチされて見る影もない。
「ご愁傷様」
軽口に世辞を述べ、そのまま続けて下敷きになっていた三人目の顔にパンプスの爪先をめり込ませてやる。
四人目が、一人では適わぬと悟ったのか車に助けを呼びに逃げる。
「させるかッ!」
遠距離こそ得意ではないが、ステアーに込めたゴム弾を背中に雨霰の如くお見舞いしてやった。
もちろん、脊髄に当たらないように注意を払って。
たぶん誰も死んでない、はず。
「さて、後は正面にたむろしている不良君どもを始末しなくちゃね」
駐輪場から走り去るバイクのエンジン音を聞きながら、軽く呼吸を整える誓子。
その時、最初に蹴りを食らった男が意識を取り戻しているなどとは知らず、戦闘体勢を解いたところに銃口を突き付けられて数瞬怯んでしまった。
殺し合いの場での油断と、一瞬の隙さえ命取りだと幾度となく教えられながら、心の中で後悔する。
「死ねぇ――ッ」
男が声を張り上げて怒鳴る。
しかし、こちらに分かるよう、こちらの言葉を選んだ一瞬が運の尽きだ。
「うぉッ……?」
引き金を引くよりも早く、男の頭に一本のモップが直撃する。続けて、その背中に何かがぶつかってきたため、男は前のめりに倒れこむ。
銃弾はアスファルトに弾かれて虚空に跳ね上がり、ここぞとばかりに誓子はステアーを振り上げる。倒れる力と打ち上げられるステアーが、ちょうど両者の速度が最高に達する点でぶつかり合い、思わぬインパクトを実現した。
ゴキッという心地よい音を顎の辺りで立てながら、男は静かにアスファルトに接吻する。
「しばらく飯は食えそうにないな。母国に帰って、美味しい流動食でも食ってろ」
男の背中にタックルを食らわせた高屋が、誓子に代わって決め台詞を言い残す。
モップを投げつけた林檎は、肝を冷やしたとばかりに冷や汗を拭って佇んでいる。
「ありがとう、助かったわ。でも、こんなところまで出てきちゃ駄目じゃない」
命を助けられたとは言え、危ないことをしたことに関して言い含めなければいけない。そんな保護者意識に駆られていると、高屋と林檎にキッと睨みつけられる。
ただ睨み付けられただけなら、十七、八の青年に対して怖気づいたりはしない。だが、その眼は高屋が荒れていた時にさえ見せたことがない、深々と何かを訴える眼差しだった。
「説教はごめんだぜ。イェーチェにも、狐にしても、さんざんおかしなことに巻き込まれたんだ。そろそろ、何が起こってるのか話してくれよ。知ってるんだろ、一部ぐらいは」
「表の奴らは狐さんを追って行っちゃいました。先生達は、いったい何者なんですか?」
そう二人に問われ、誓子は気まずそうに目を逸らしてしまう。本当に、この真実を話してしまってよいのか、守秘義務や存在意義とは別のところで良心を苛む。
彼らといる以上はいつまでも隠し続けられることではない。いつかは、彼らを直接的に戦いへ巻き込んでしまうのではないかと懸念していた。だからこそ、こうしてヒタ隠しにして敵のターゲットとならないようにしたかったのだ。
だが、もう隠し切れないだろう。
「……分かったわ。敵の正体をしらなきゃ、身の守りようもないからね」
良心の呵責と罪悪感が、誓子に口を開かせる。
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2009/04/26(Sun)19:22:12 公開 / 暴走翻訳機
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■作者からのメッセージ
はい、どうも暴走翻訳機です。
どうしたものかと悩みつつ、どうにか後編まで投稿することが出来ました。あまり二回区切りにする必要はないのですが、20081130に沈んでしまったがためにこちらに復帰させていただきます。
それでは、暴走翻訳機の織り成す正義なき世界を特とご覧あれ!