- 『室の剣(1)』 作者:神坂ノベル / ミステリ リアル・現代
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全角41642.5文字
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原稿用紙約128.3枚
室士建は室士一刀流宗家の孫であり、北鎌倉の高校に通う十七歳である。建は五年前の惨劇で、両親と、事件当夜の記憶を失っていた。一方、忍壁桂介は、二十七年前に途絶えた忍壁流宗家の孫である。桂介は、忍壁流は室士一刀流に道場をだましとられたのだと聞かされて育った。北鎌倉の古武術道場を舞台に繰り広げられる長編ミステリー小説。(第一章「天狗の鼻」/第二章「上伝印可」)
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第一章 天狗の鼻
「仁志、あの日のことなんだけど……五年前の……」
建が言い終えるまえに、仁志が、さっと表情をこわばらせてきた。
「いや、いいんだ……でもね、これだけは言っておきたくて」
「………」
「僕は、怨んだりとかしてないから。仁志は、なにも悪くない……だから」
「すみません」
「え?」
「気をつかわせてしまって、すみません」
「あの……そんなんじゃなくて、僕がいいたいのは」
「もう、忘れませんか」
「………」
忘れていないのは、仁志のほうじゃないか……。
あの忌まわしい惨劇から五年の月日がたっていた。
事件当時、仁志は十五歳、建は十二歳だった。あの惨劇で、建は両親を、仁志は母親を失っている。そして、仁志自身も、背中に三十七針に及ぶ傷を負った。
室士建(むろしたける)は、北鎌倉駅近くの高校に通う十七歳、河勝仁志(かわかつひとし)は今年二十歳で、高校卒業後、大学には進学せず道場を中心とした生活をおくっている。
二人が住んでいる室士家は、屋敷の中に武道場を有し、室士一刀流の看板を掲げていた。
室士一刀流は、金沢を拠点とする古武道の流派である。二十七年前、宗家である室士弥隅(むろしやくま)が、関東の拠点をつくるべく、この鎌倉に道場をかまえた。
河勝仁志は、午前の稽古を終えたばかりだった。
ふだん、土曜日の午前稽古は午後までもつれこむことが多いのだが、今日は門弟が少なかったのだろう、はやくに稽古を切りあげ、道着姿のまま、建の部屋にきていた。来週おこなわれる師範研修の打合せをするためだ。
祖父の弥隅が、仁志に武術を教えはじめたのは、仁志が四歳の時である。生まれつき持ちあわせた素質と、稽古熱心なところを弥隅に見込まれ、いまでは稽古に顔をださなくなった弥隅に、流派の事務的な部分を一任されている。寡黙(かもく)であるところも弥隅好みだといえた。
仁志って、なにを考えているのか、さっぱりわからない……。
目を上げると、ガラス玉のような仁志の瞳とぶつかった。
「どうしました?」
「……なんでもない」
仁志は、建の従兄弟(いとこ)である。室士弥隅には、三人の子供がいた。一人は、金沢本部道場を任せている長男の國人。二人目は、仁志の母親である長女の彩子、そして、三人目は、生前、この屋敷に同居していた、建の母親である次女の美弥子である。つまり、弥隅は、五年前の惨劇で、同時に二人の娘を失ったことになる。
仁志の父親は、屋敷から歩いて十分ほどのところで、河勝クリニックという診療所を営んでいる。仁志は、弥隅のすすめと、本人の強い希望もあり、高校卒業後、この屋敷に移ってきた。
「暑くない? エアコン入れようか?」
梅雨の時期だった。
開け放した窓から、肌にまとわりつくような風が、土のにおいを連れ忍びこんでくる。
仁志は、窓の外を見ながら、「いえ、私は……」と言って、手に持った書類に視線を落とした。
建は、仁志の横顔を、ちらと見た。表情の乏しい端整な顔立ちをしていて、どこか静寂を好むふしがある。多くの門弟のなかにあって、仁志の醒めた面差しにあうと近寄りがたい印象さえうける。だが、そんな外見に反し、物言いは実にやわらかで、淡々と話し、上手く話しを聞く。この不均等なくみあわせが、仁志に、一種のカリスマ性をもたせていた。
仁志は、あの日、いったい、なにを見たんだろう……。
あの惨劇のことについて語りたがらないのは、仁志にかぎったことではない。祖父の弥隅をはじめ、祖母の滋子、仁志の父・河勝智司にしてもそうだ。建が得られた事件の情報といえば、新聞や週刊誌の類から入手したものがすべてといっていい。
建自身が、仁志のように傷を負ったわけではない。ただ、事件が起こった数十分間の記憶が欠落しているのだ。新聞や週刊誌に、建がその場にいたという記述は、どこにもなかった。
でも、僕は、あの場所にいたような気がする……。
横浜市内の大学病院から、北鎌倉の屋敷にむかうハイヤーの後部座席で、建は窓の外の景色をぼんやりと眺めていた。鎌倉は、戦火、地震、津波などの災害で、いくども壊滅に近い被害をこうむった土地である。倒壊と復興をくりかえしてきた古(いにしえ)の都に、絢爛(けんらん)とした面影はない。ハイヤーは円覚寺(えんがくじ)の脇を通り、閑雅な住宅地にはいった。しばらくして、黒塀の背後から、瓦屋根の屋敷が姿をあらわした。
弥隅が「そこだ」と、運転手に声をかける。
ハイヤーが、切妻の屋根をのせた古めかしい門の前で停まった。
「着いたぞ、建。一ヶ月ぶりの我が家だ」
建は、おぼつかない足取りで門をくぐった。
武家屋敷を思わせる、平屋造りの家屋。
沈丁花としゃくなげが彩を添える前庭。
楓の巨木と織部灯籠(おりべとうろう)……。
生暖かい風が髪を撫でた。
足もとで桜の花弁(はなびら)がきらめき、逢魔刻(おうまがどき)の藤色に似た陽ざしがおりてくる。
どこかで、季節はずれの風鈴が鳴っていた。
「………」
なんだろう、この、ふわふわした感じ……。
ひょっとして、自分はすでに死んでいて、浮遊霊となって屋敷に舞いもどってきたのではないだろうか……。
彷徨(さまよ)っていた視線が、前庭の奥へと吸いよせられた。
ふらり、と、歩きだす。
織部灯籠を左手に見て、千鳥(ちどり)がけに打たれた飛石をいく。
中門があり、そこからは石畳がつづいている。
右手に静まり返った道場、そして、奥門。
さらに奥へ……。
茫々と垂れさがった萩の奥に、古びた井戸が姿をあらわした。
「瑞之井(みずのい)……」
胸が激しく動悸(どうき)を打った。
思わず、胸に手をあてる。
突然、背後から肩をつかまれ、建は小さく叫び声をあげた。
「大丈夫か?」
振りかえると、弥隅の心配そうな顔があった。建は、大きく肩で息をすると、無理に笑ってみせた。
「それで、三橋(みつはし)さんに、任せようと思うんですが」
物思いにふけっていた建が、ぴくりとして顔をあげた。
「任せるって? ごめん、聞いてなかった」
「師範研修中の切紙(きりがみ)の指導です」
「いいよ。人選は、仁志にまかせる」
「これが、三橋さんに渡す稽古内容です。目を通しておいてください」
手渡されたプリント用紙を見ると、剣術の形名と、その形をつかう際に陥りやすい注意点、目付、足運びなどが、こと細かに書かれてあった。目を通せといわれても、実際のところ建は学生なので夜の稽古にしかでていない。宗家の孫ということで「若先生」などと呼ばれてはいるが、指導経験は皆無にひとしく、道場の名札が仁志の横にかかっていること自体、しごく迷惑な話だった。
「わかった。ところで、一堂先生はもうきてる?」
一堂数馬は、室士一刀流の皆伝師範(かいでんしはん)である。室士一刀流には、皆伝免許を許された高弟が三人いる。ここ、鎌倉道場の一堂数馬、伊豆道場の道場主・片桐清三、そして、弥隅の息子であり、金沢本部道場の道場主である、蔵木國人だ。
「一堂先生は、まだ、姿を見かけていませんが、奥伝(おくでん)の御三方が揃っていらしていますよ」
建が、「天災トリオが?」と、頓狂な声をあげた。書類を揃えていた仁志の手が、ぴたりととまる。建は、悪戯(いたずら)を露見された子供のような表情をしてみせた。
「忘れたころに現れるから、天災トリオ」
「……おもしろいですね」
仁志は無表情に言って腰をあげると、袴の形を手ばやくととのえ、部屋をでていった。
仁志の足音が消えるのを待って、建がおおきく溜息をついた。
「天災トリオが? ほんまですか?」
「うん、さっき、仁志がいってた」
「若年寄がいいはるんやったら、ほんまやわ。師範研修の一週間前に、三人揃うやなんて。これは、絶対、なにかあるわ」
建を相手に、流暢な関西弁で話している男は、三橋平八郎である。平八郎は、二十五歳。室士一刀流の初伝で、鎌倉駅近くに店舗を構える、老舗和菓子店の店員である。祖母の滋子は、月に一度、屋敷の茶室でお茶会をひらくのを趣味としており、平八郎の勤める和菓子店は、滋子のひいきの店でもあった。室士一刀流に入門したのは、五年前、あの惨劇の一ヶ月後である。
当時、マスコミでも大きく取りあげられ、門弟の減少が案じられたが、皮肉にも、あの惨劇後、入門希望者が急激に増えた。だが、弥隅は指導する門弟の数を制限しており、二十人以上の門弟はとらない。当時、入門可能な人数は六名だったが、もともとが興味本位で入門した人間がほとんどだったので、一年もすると半分に減っていた。二年後に、また一名去り、現在、残っているのは二名。平八郎は、数少ない居残り組の片割れなのだ。
でっぷりとした撫で肩で、どこか信楽焼の狸を連想させる平八郎は、建の、良き話し相手だった。
二人は、庭に面した道場の式台に腰をおろし、中をのぞきこんだ。仁志の姿はない。
「いない……ね」
「天災トリオに、お茶でも出してるんやろか?」
「大人だよね、仁志って。僕と三つしか離れてないなんて信じられないよ」
「わかるわ、それ。僕も、時々、若年寄が年上に見えてまうもん」
若年寄とは、仁志のことである。名付け親は平八郎で、奥伝師範三人をさして天災トリオと呼び始めたのも、他でもない平八郎だった。
「十五歳で中伝目録を手に入れたのは伊達じゃないと思うよ。僕のは、宗家の七光りだってこと、みんな知っているし……」
「また、そんな……。若先生、もっと自信もたなあかんわ」
室士一刀流は、一般的に使用されている段位をもうけていない。段位の代わりに目録があり、下から「切紙(きりがみ)」「初伝(しょでん)」「中伝(ちゅうでん)」「上伝(じょうでん)」「奥伝(おくでん)」「皆伝(かいでん)」「相伝(そうでん)」の七つにわかれていた。
幕末の剣術諸流派では、皆伝免許を得るまでに、早い者で七年から十年。普通は十七、八年の歳月がかかったといわれているが、明治九年の廃刀令以降、目録の印可(いんか)において、年齢が大きな要素を占めるようになっていった。技量そのものよりも、人間性が重要視されるようになったからである。
「一堂先生、さっき見たんだけど……。また、宗家につかまってるのかな」
「ほな、そろそろ行きまひょか」
二人は、同時に腰を上げ、式台にあがった。
「一堂先生いうたら、あのひと、ほんま稽古せえへんと思いません? 刀どころか、木刀振ってるところも見たことないし。しかもですよ、毎週、来てはっても言うことは、二言だけ! うん、いいね〜。 頑張るんだよ〜」
平八郎が、一堂の口調を真似て見せる。
建は、思わずふきだした。平八郎が言った。
「ほんま、この先生、なにしにきてはるんやろうって思うわ」
室士弥隅の部屋は、中庭が一番よく見える場所に位置していた。中庭に面した板間にあぐらをかき、弥隅は、まんじりともせずに庭の梅の木を眺めていた。時折、鹿(しし)おどしが、あの独特の音色を響かせ静寂をやぶっては、しばらくの空白のあと鈍い音をたて静まる。手にもった奈良団扇(ならうちわ)は止まったままである。道場から、竹刀を打ちあわせる音と、抜けるような気合が、かすかに流れてくる。
襖のむこうで声が響いた。
「宗家、入りますよ」
弥隅の返事を待たず、男は、飄々として部屋に入ってきた。ちょっと見、中肉中背であるが、よく見ると、肩から上腕にかけて隆々たる筋肉が、ワイシャツの上からも見てとれる。胸板も、横から見ると丸太のように厚い。
「今日は、汗を流せなんていうので、なにごとかと思いましたよ。ひさしぶりに道場荒らしでもきましたか」
「ご苦労だな。便利屋の仕事はどうだ。儲かっているか」
弥隅は、庭を眺めたまま、いっこうに振り返ろうとしない。男は、こんな弥隅の態度に慣れているようである、持っていた背広の上着を無造作におくと、その場にあぐらをかいた。
「弁理士ですよ」
男が、苦笑しながらネクタイをゆるめる。男は一堂数馬だった。四十代前半というのに、頭に白いものが目立つ。柔和な風貌をしており、いつも笑っているような細い目が、弥隅の言葉にいっそう細くなり、眉の下に弓なりに線をひいた感があった。
梅雨の湿った空気にまじり、ただよっているのは沈香(じんこう)だろうか。床の間に目をやると、古染付(こそめつ)けの香炉(こうろ)から、糸のように細い煙が一本、ゆるやかにたちのぼっていた。
「あの香炉、はじめて見ますね」
「骨董屋のおやじが、金はいつでもいいと置いていった」
「高いんでしょうね」
「値段はわしにつけろというから、遺言に書いておいてやるといったら、おやじめ、それじゃあ、自分が先に逝ったら、形見にくれてやるとぬかしおった」
一堂は、床脇に目を移した。みごとな沈金の花瓶が目に入る。その横には、弥隅の著書である武術関係の書籍が数冊、きれいに並べられてあった。視線を戻すと、弥隅が、着物の裾を、なにやらごそごそとやっている。一堂は、座卓の脇に置いてある煙草盆を手に、板間にむかった。弥隅が、さっそく手をのばし煙草を一本とりだした。
「数馬、おまえに頼みがある」
言うと、弥隅はゆっくりと一服吸った。
「宗家に、そう、あらたまって言われると、なにやら恐ろしい気がしますね」
一堂は、冗談めいた返事をしながらも、軽く居ずまいを正した。
「仁志と、乱取りをしてやってくれんか」
「さて……どうしますか」
「天狗(てんぐ)の鼻をつかえ。道場中のひき肌を、へし折ってもかまわん」
鹿おどしの音色が、異様な鋭さで一堂の耳を襲った。一堂は、喫驚(きっきょう)したきり言葉がだせないでいた。
一堂から見る限り、弥隅は、建同様、仁志も溺愛(できあい)している。仁志は、五年前の惨劇からようやく立ち直り、精神的にも肉体的にも、次期段階にさしかかろうとしている微妙な時期である。今、これまで培ってきた自信をくじくことが、どのような結果をもたらすか、わからない弥隅ではない。
「仁志を……潰(つぶ)せとおっしゃるんですか」
弥隅は肩を落とすと、何もいわず煙草を揉みけした。一堂は、溜息つき、部屋に足を踏み入れた。ふと見ると、付け書院に、書きかけの上伝印可状が広げられていた。
「天狗になっていますか、仁志は」
弥隅は、団扇で軽く胸元に風を送った。一堂は言った。
「あの無理心中から五年がたちました。仁志も、ようやく平常を取り戻しつつあるように、私には見受けられますが」
「わしには、ますます追い詰められているように見えるがな」
「……そうでしょうか」
「まだ、二十歳だぞ、仁志は。なのに、大学へもいかず、くる日もくる日も稽古に明け暮れ、屋敷から一歩もでようとしない。高校を卒業してから屋敷をでたのは、車の免許を取りにいった三ヶ月間だけだ。あれにしたところで、道場をやっていくうえで必要だからと、わしが無理にいかせた。……あれの背負った傷は、一生消えんのだ……」
「でしたら、なおさら……」
廊下から聞き覚えのある声が近づいてきて、一堂が、後の言葉をのみこんだ。
「奥伝の御三方のようですね。師範研修は、来週だと連絡したはずなんですが……」
「わしが呼んだ」
一堂は、何かいいかけたが、思いなおしたように背広の上着を手にすると、「支度をしてきます」と言って、部屋を出ていった。
一堂と入れ違いに、奥伝師範の三人が、口々に挨拶を述べ部屋に入ってきた。三人三様のいでたちと言ったらいいだろうか、一人は作務衣、一人はスーツ、一人はポロシャツにラインの入ったニットベスト、チェックのズボンだ。刀よりもゴルフクラブのほうが似合いそうである。
部屋がとたんに騒がしくなった。
板間に端居(はしい)していた弥隅が、重そうに腰をあげ、「今日は、ご苦労」と、言うと、三人は慌てて小膝をそろえた。
弥隅は、三人の前に正座すると、背筋をのばし膝に手をそえた。
「河勝仁志に、上伝免許をだそうと思っているのだが……、どうだ」
沈黙が流れた。しばらくして、一人が思い切ったように口を切った。
「しかしですね、宗家。河勝先生は、まだ二十歳。ちと、早すぎるのではありませんか」
すると、後の二人も黙っていない。勢い得て、次々と不満をならべだした。
「私もそう思います。江戸時代ならともかく、今どき、二十歳で上伝というのは、いかがなものかと……」
「中伝印可(ちゅうでんいんか)も早かったんですよ。たしか、河勝先生が十五歳の時でした」
「たった五年で、今度は上伝(じょうでん)ですからね」
「他流派との兼ね合いというものも、あります。二十歳の上伝師範など他流の先生は認めんでしょう。河勝先生も肩身がせまい思いをすることになるのでは、ありませんかな」
「他流に軽んじられてお困りになるのは、他でもない、宗家ご自身ですし……」
異口同音である。と、そこに、襖の向こうで「失礼しますよ」と声がかかった。
三人は、会話を止めると、かしこまった様子で、声の主を待った。
塗盆を手に入ってきたのは、鈍色(にびいろ)の大島に媚茶(こびちゃ)の帯という、いかにも品のよさそうな、初老の女性だった。切れ長の目と引き締まった口元、若い頃は、さぞかし美しい女性であっただろうことが容易に想像できる。弥隅の妻、滋子である。
「これは、滋子先生」
「ご無沙汰しております」
「先日のお茶会では、妻がお世話になりまして……」
三人が、口々に滋子への挨拶をのべる。
滋子は、それぞれに挨拶を返すと、慣れた手つきで急須から湯のみに茶をそそいだ。
「また、宗家がご無理をいっているんじゃないですか?」
返答に困っている三人に、弥隅は話しの続きを切りだした。
「上伝からは、奥伝以上を有する師範の推薦をもって印可の対象とする。そうだったな」
「おっしゃる通りです」
弥隅は、一呼吸おいて言った。
「次の稽古で、一堂先生に、河勝先生との乱取りをお願いした」
三人は、すばやく視線を交し合った。一堂は、室士一刀流の皆伝である。今でこそ四十代だが、皆伝になったのは三十八歳の時だった。三十代の若さで皆伝を許されたのは異例といっていい。島根本部道場をあずかる弥隅の長男・蔵木國人でさえ、皆伝を許されたのは、一年前、蔵木が四十六歳になってからだった。
年功序列式に免許を許される現代武道において、弥隅の実力主義は、武道本来の姿であるとはいえ、反発を生む要因になりかねない。事実、弥隅が、一堂の皆伝印可を押し切ったことによって、当時の奥伝師範が二名、各々が数名の門弟を引き連れ流派を去っている。ここにいる奥伝師範三人は、一堂の実力を知っていたので、渋々ながらも同意せざるえを得なかった。それほどに、一堂は強かった。
「今度は、一堂先生が、宗家の代わりを……ですか」
「あの乱取りは、すごかった」
「あの時の一堂先生、本物の天狗のようでしたな」
顔を見合わせ、三人は哄笑した。一堂に皆伝印可を出すとき、弥隅みずから一堂の相手をつとめた。弥隅がすすんで名乗りを上げたわけではない。一堂と互角に打ち合える門人が、宗家である弥隅をおいて、他にいなかったのだ。
弥隅は、ちらと、付け書院の上に置かれた、上伝印可状を見た。
「わしから推薦したのでは、何かと角がたつのでな。後は任せる」
「承知致しかねる場合は……」
「推薦しなければいい。任せるとは、そう言うことだ」
三人は、一様にうなずいた。
滋子は部屋の隅に端座し、複雑な面持ちで、その様子を眺めていた。
一堂が、道場の更衣室で着替えをすませて出てくると、建が、あらたまった様子で深々と頭をさげてきた。
「今日の稽古、よろしくお願いします」
一堂は、「よろしく」と言って微笑んだ。
宗家の孫となると、苦労も多いだろう……。
弥隅は礼儀に厳しい。建は、箸をつかうより早く礼儀を教えこまれた。武道の世界において、礼儀作法が、最も有効な交流手段であるということを、建は経験から知っているのだ。
平八郎が、建の肩越しから、ひょっこりと丸い顔をのぞかせた。
「一堂先生、それ、なんですか?」
「ん?」
「右手に持ってはる、それ」
一堂は、右手に下げた、ひき肌竹刀(しない)を見下ろした。
一堂が道場で、竹刀や刀などの獲物(えもの)を持っている姿を目にするのは、師範研修の時だけである。 建が幼い頃は一堂も同じ稽古で汗を流していたが、ここ十年ほどは稽古をしなくなった。噂によると、伊豆道場で稽古をしているそうだが真相は定かではない。一堂は、学生の頃、剣道も習っていて、全国大会三位までのぼりつめた経歴を持っている。
一堂が、ひき肌竹刀を持ち上げて言った。
「袋竹刀(ふくろじない)でしょ、これ」
「そうですけど、それで、なにしはるんですか?」
「ああ、これね。腰の運動」
建と平八郎は、納得した様子でうなずいた。
「あのね。ここ、笑うところでしょう」
ほどなくして、午後の稽古が始まった。
師範を除くと、門弟は十二人、通常通りの人数だった。
一同揃って神前礼をすませ、各自が帯刀しているところに、一堂が声をかけた。
「刀はいい、前半は見取稽古(みとりげいこ)だ! 各自座れ! ……河勝先生、竹刀を」
見取稽古はよくあることだった。全員が道場の壁を背に、左右に分かれて正座した。
仁志は言われるままに、壁の刀掛から、ひき肌竹刀をつかんだ。
ひき肌竹刀は、上泉伊勢守(かみいずみいせのかみ)が発案したとされており四百年以上の長い歴史を持つ。三十本から六十本ほどの割竹を、ひき肌皮の袋に入れてつくられており、単に袋竹刀ともいわれる。木刀とちがって、当たっても大怪我にいたることがない。防具をつけずに存分に打ち合えるので、拍子、間合の稽古に最適だと、弥隅が好んで稽古につかわせていた。
その時、白道着をつけた奥伝(おくでん)の三人が一礼して、道場へ入ってきた。
一堂と、仁志が左右に道をあける。
門弟がざわめいた。
室士一刀流は、目録と師範とは別の免許となっており、目録の高低にかかわらず、門弟は紺道着、師範は白道着と決められていた。奥伝の三人、一堂、仁志、建と、六人もの白道着が揃ったわけである。師範研修をのぞいて、ついぞ見かけない光景だった。
三人は、道場中央まで進み、横並びで神前礼をすませると、紺道着同様、道場の右側に膝を並べ正座した。
だれかが、呟くように言った。
「どうして、見所に座らないんだ?」
建は、固唾(かたず)をのんだ。
それは、まだ上がくるから……。
見所というのは神前に拵えられた、一段高くなった場所をさしていう。指導する者、あるいは稽古を見に訪れた客などが見所に座り、稽古を見るのである。
建の予想通り、続いて伊豆道場の片桐清三(かたぎりせいぞう)と、金沢本部道場の蔵木國人(くらきくにと)が道場に入ってきた。神前礼を済ませ、見所に上ると思われたが、片桐と蔵木も奥伝三人の横に正座した。
片桐清三と蔵木國人は、免許皆伝(めんきょかいでん)である。残る皆伝は一堂ひとり。次に道場に入ってくる人物が誰であるか、言わずと知れていた。
門弟たちが、目を正面に向けつつ、ひそひそと囁きあっている。
「すっげえ……」
「なんだよ、この豪華メンバー」
「金沢本部道場の蔵木先生って、古流専門誌で見たことあるよ……」
「それ見ました。室士宗家が昨年まで連載していた月刊誌ですよね」
「ねえ、これって、なんかの試験?」
建は、我知らず膝に置いた手で、袴を握りしめていた。
なにが、はじまるんだ……。
仁志を見ると、一見、いつもの無表情に見えるが、竹刀を掴んだ手に力が入っているのがわかる。
突然、道場が水を打ったように静まり返った。
白道着姿の弥隅が道場へ入ってきたのだ。
門弟たちが、申し合わせたように背筋を正す中、弥隅は道場中央までいき神前礼をすませると、ゆっくりとした所作で見所に上った。
正座して袴をととのえる。
門人の視線は、弥隅の一挙一動にそそがれている。
弥隅は門人一同を見渡すと、「お待たせして、すまない」と言った。
「一堂先生、始めて下さい。蔵木先生、立合をお願いします」
一堂は、片桐から蔵木へと視線を移し、最後に弥隅を見た。双方の視線が絡む。
皆伝が、三人。なるほど、そう言うことか……。
弥隅の部屋にあった書きかけの上伝印可状(じょうでんいんかじょう)は、おそらく仁志に宛てられたものだ。推薦状は一堂や蔵木、片桐といった皆伝からでも、もちろんだせる。問題は門下の感情なのである。蔵木は弥隅の息子、片桐は数十年来の弟子で身内同然、一堂にいたっては、皆伝印可の折、師範の造反まで出してしまっている。推薦状を出したところで、一堂の時の二の舞になるのは火を見るより明らかである。ここは、一歩ひいて奥伝の推薦状をもって上伝とすることが望ましい。ところが奥伝の三人は、一筋縄ではいかない。そこで、皆伝三人が見取る必要がでてくる。つまり、皆伝師範が、そろって河勝仁志の上伝印可の妥当性を認めれば、奥伝師範といえども異を唱えるのは難しいというわけだ。ちょっとしたパラドックスである。
仁志が道場中央にくるのを待って、一堂は仁志に耳打ちした。
「打ち抜いていいから」
仁志の、頬のあたりに緊張が走る。
奥伝の三人と片桐が立ち上がり、それぞれ道場の四隅に立った。激しい動きにそなえ、見落としのないよう立合の補佐をするのである。
蔵木が最後に、一堂と仁志の間に立った。
互いの礼がなされ、五間間合いに立つ。
ゆっくりと晴眼(せいがん)の構えがとられた。
「はじめ!」
蔵木の声を合図に、摺足で一足一刀の間合いまで歩み寄る。
双方の動きがぴたりと止まった。
誰かが生唾をのむ。
一堂が迅速な動きをみせた。
一堂は、そくざに上段に振りかぶり間境を越えてきた。仁志の面めがけて大きく竹刀を振り下ろす。とっさに擦り上げようとした仁志の手から、竹刀がはじけ飛んだ。すばやく目で追った仁志の後方に、竹刀は凄まじい勢いで叩きつけられていた。
一堂に視線をもどすと、一堂の竹刀の尖(さき)が喉もとにぴたりとついていた。
蔵木が頭上たかく腕を振りあげた。
「一本!」
仁志は、姿勢を正すと、「まいりました」といって、一堂に頭をさげた。
ころがった竹刀を、門弟が慌てて拾いにいった。竹刀を見下ろし、躊躇(ちゅうちょ)したように仁志を振りかえる。
「……折れています」
建が、ぐいと膝を乗りだした。
仁志は、大股に近づいていき竹刀を拾いあげた。瞬刻、双眸がひらかれる。言われたとおり竹刀は柄元三寸(つばもとさんずん)くらいのところで、見事に折られていた。
一堂は、刀掛にあるひき肌竹刀を掴むと、仁志に柄のほうを差しだした。仁志が無言で竹刀をうけとる。
建は、一堂の姿を目で追っていた。
仁志の竹刀を打ったときの確かさと疾(はや)さは尋常ではなかった。これほどの腕を持っていながら、これまで微塵も見せなかった一堂に、建はある種の不気味さを感じはじめていた。
蔵木は、一堂と仁志が位置につくのを見届けると、一呼吸置き「はじめ!」と、声を張り上げた。
一堂は、今度は動かなかった。
仁志が構えを晴眼にとったまま、じりじりと間合いをつめる。
すると、一堂は右足を引きながら八相の構えにもってきた。
仁志が眉のあたりに疑々とした表情を浮かばせた。
これまで、様々な流派の技を見てきたが、これほど隙だらけの構えは見たことがない。両脇を広くあけ体の重心も後方にかたよっている。どこに打ち込んでも、とれそうな気がしてくるのだ。
誘っているのか……?
仁志は一堂の出方を見ようと、あいている左胴に見せ打ちをいれてみた。刹那、一堂の左足が後方にあざやかな円を描いた。仁志は一瞬の虚をつかれ、またもや八相から振り下ろされた一閃に、竹刀をしたたかに打ち落とされていた。鈍い音が空をつらぬく。
仁志は、かろうじて柄を握ってはいたが、こんどもやはり、測ったように柄元三寸のところで竹刀はもののみごとに折られていた。
俄かに周囲がさんざめく。
わずかに前傾姿勢になった仁志の鼻先に、またしても一堂の竹刀があった。
「それまで!」
蔵木の声が響くと、門弟たちがいっせいに息を吐きだした。
建は頬を紅潮させ、壁に背中をあずけた。
偶然じゃない。はじめから狙っているんだ……!
繰り打ち……でなきゃ、拍子打ち。どっちにしても、仁志じゃとてもかなわない。
一堂は、仁志の落ち着き方が気に入らなかった。一堂ですら、額にうっすらと汗をかいているというのに、仁志は悠揚として涼しげな顔を一堂に向けていた。
天狗の鼻は、むかし、道場荒らしを相手につかった、相手の自信や慢心をくじく手段だった。ここ数年は見かけなくなったが、以前は道場荒らしだと言わないまでも、体験入会と偽って乗り込んでくる腕自慢のやからが多かった。大抵の相手は、出鼻で竹刀を折られ戦意喪失するものだが、この仁志は違った。このままいけば、仁志はかならず天狗の鼻をかわしてくるだろう。
いや、すでに……。
仁志の醒めた双眸とあう。一堂はかすかに苦笑すると、弥隅を振り返った。弥隅が、はっとしたように眸をひらく。
仁志は、無言で刀掛までいき、竹刀に手を伸ばした。
と、その時、一堂が言った。
「木刀にしませんか?」
仁志の肩が大きく波打った。
「もちろん、打ち抜いてもらっても構いませんよ、河勝先生」
息をのむ気配が、道場に広がった。
仁志が肩越しに一堂を振り返る。
一堂は、仁志を見てはいなかった。くつろいだ様子で手に持ったひき肌竹刀の柄をなおしている。
「………」
仁志の手が、ひき肌竹刀の下段に掛かっていた木刀をすばやく掴んだ。
建の頬を汗が伝った。
一堂先生、仁志を挑発してどうする気なんだ……。
弥隅が建に武術を教えはじめたのは、建が三歳の時だった。それから十四年、決まった形で木刀を合わせることはあっても、木刀での乱取りの経験は一度もない。形稽古でさえ、ひとつ間違えると大怪我につながる。木刀や真剣でつかう形そのものが相手との信頼関係の上に成り立っているのだ。
乱取りと言っても木刀の場合、寸止めが原則だが、防具もつけずに打ち合うのだ、一堂が無傷で勝てる保障はない。だが、仁志の技量をはるかに凌ぐほどの実力差があれば、話は別である。
……だとしたら、すごい自信だ。
一堂と、仁志が位置につき、四隅に立っていた四人が、後方ぎりぎりまで下がった。
一堂は木刀を構えると、上目遣いに仁志を見た。仁志は、あいかわらず能面のような面差しをしていたが眼が違った。あきらかに怒りを含んでいる。
吉と出るか、凶と出るか……。
目の前の能面と、幼い頃の仁志の顔が重なった。
昔は、よく笑うやつだった。
「はじめ!」
一堂は、仁志の出方を待った。
仁志は、大胆(だいたん)な動作で片足引き、脇構えをとってきた。
一堂が、追って八相に構える。
仁志が一堂の小手(こて)に狙いを定める。
刹那、一堂の木刀が、ゆっくりと下段にさがった。
そのまま、双方とも動かなくなった。
一堂は仁志の構えをみて舌を巻いた。力の抜き具合、腰の落とし、斜(はす)になった体の角度、そして足幅……すでに、できあがっている。ただ、この場で脇構(わきがま)えをとってきたことに、一堂は一抹(いちまつ)の疑問を抱いていた。
建は仁志の構えに眉をひそめた。
あれじゃ、捨て身じゃないか……。
これまで、いくどとなく仁志の乱取りを見てきたが、脇構えからの攻めを見るのは今日がはじめてである。それにしても、それに対し下段の構えをとってくる一堂も並じゃない。仁志は、段でいえば四段ていどの実力がある。よほどの自信がない限り、木刀での乱取りに、とれる構えではなかった。
その時、仁志がすべるように動いた。右足を大きく踏み込むと同時に、木刀を頭上で斜(しゃ)にまわす。
一堂は、とっさに下段にあった木刀を抜き上げるようにして囲った。脇をすり抜けていこうとする仁志の面めがけて木刀を振り下ろす。瞬息の間、仁志の面に決まったと思われた一堂の木刀は、側面からきた仁志の一閃に、瞬時に打ち払われていた。仁志がそくざに正面をとる。
……これまでだ。
天狗の鼻は、もうつかえない。言うなれば相手の心理をつく邪剣(じゃけん)なのだ。仁志のように冷静に太刀筋(たちすじ)を読んでくる相手に、なんども通用する手ではなかった。
それから、激しい打ち合いが展開された。時折、一堂の木刀が決まったかのように見えるが、どれも浅い。
まただ!
一堂は、すばやく木刀を流した。仁志の喉もとを、まともに貫くかと思ったのだ。かわす自信があるのか、それとも突かれてもかまわないと思っているのか……。一堂は激しく木刀を繰り出しながら、先刻から妙な圧迫感にとらわれていた。そして、奇妙なそれは、木刀を合わすごとに強く心に根をおろし、はびこってくる。
こいつの剣には、守りがない。
表情は決まった形をやっているかのように平然としていると言うのに、切羽つまった、捨て身のようなきわどい攻撃をしかけてくる。技量では勝っていながら、心理的には確実に追い詰められている自分に、一堂は腹立たしさをおぼえ始めていた。
そろそろ限界か……。
誰もが身を乗り出し、一堂と仁志の激しい攻防に吸い寄せられるように魅入っていた。あざやかな足運び、絡み合う木刀……。
一堂の姿を目で追っていた建の視界に、入口にたたずむ滋子の姿が入った。
おばあちゃん……?
突如、胸を射抜くような気合があがった。
建があっとなって目を戻すのと、一堂の木刀が、しなるようにして打ち下ろされるのとが、同時だった。
凄まじい勢いで床に叩きつけられた木刀が、大きな孤を描いて道場の壁に飛んでいく。
そこに座っていた数名の門弟が、慌てて腰をあげ散らばった。
「一本!」
仁志が、片膝つき激しく肩を上下させている。
仁志の前に、さがりながら残心(ざんしん)をとる一堂の姿があった。
「暖簾(のれん)に腕押しですよ」
一堂は、疲れ果てたようすで弥隅の部屋にはいってくると、第一声を発した。
弥隅は傍にあった脇息をひきよせ膝にのせると、抱きこむようにして背を丸めた。
「策士、策に溺れる、か?」
一堂が情けない顔をつくる。弥隅は、口をすぼめて笑いを噛み殺した。
弥隅は、すでに着物に着替えていた。見ると、座敷の隅に脱いだままの道着が投げてある。一堂は、道着のところまでいき両膝つくと、慣れた手つきで袴をたたみだした。
「私は、今日、はじめて負けたと思いました」
「………」
「六歳の時から剣道を始めて、これまで、数え切れないほどの試合をしてきました。慢心かもしれませんが、木刀の乱取りなら、最悪の場合、勝てないまでも負けない試合をする自信があったんです。それが、さっきの乱取りで、きれいさっぱり吹っ飛んでしまいました」
言って、一堂は穏やかに笑った。
「最初は、ひき肌だから大胆な動きをしてくるんだろう、そう思ったんです。だから、木刀に変えた。普段から慣らしていない限り、木刀と言うだけで、腰が退けたり、必要以上に間合いをとってしまったりするものですからね、ふつうは」
「仁志のやつ、木刀に持ちかえたとたん、動きが大胆になったろう」
「ええ」
一堂の脳裏を、血のうすい仁志の面貌がかすめた。
「真剣勝負なら、十中八九、私は斬られていたでしょうね」
「なんのためらいもなく間境を越えてくる奴は、なんのためらいもなく死ねる奴、だ、そうだ」
「それは?」
「与一だ。忍壁与一が、そう言っていた。そんな奴は稽古なんぞ必要ない、ほうっておけと」
忍壁与一(おさかべよいち)は、この室士一刀流道場の前の所有者である。
ここは、もともと忍壁流の道場だったが、宗家の忍壁与一は二十七年前にこの世を去っており、事実上、忍壁流は与一の代で途絶えている。
一堂は、忍壁与一と面識はなかったが、与一は生前、弥隅との親交が厚かったのだと片桐からきいたことがある。
「なるほど。……で、ほうっておきますか?」
「数馬」
「はい」
「物(もの)の怪(け)を斬る技は、ないか」
一堂の口から笑いが漏れた。
「天狗の次は、物の怪ですか」
「仁志に憑いているのはな、母親の姿をした物の怪だ」
「………」
一堂は、道着を畳み終えると、「晴れてきましたね」と、呟いた。
弥隅は首を傾けて、庇(ひさし)越しに空を仰いだ。
暮れだした空たかく、ほんのりと赤味がかった、すじ雲が浮かんでいた。
「奥伝連中が、お前と仁志の乱取りを見て、えらく興奮していたぞ」
「そうですか」
どうやら、皆伝の出る幕は、なさそうである。
「私も、久しぶりに、いい稽古になりました」
稽古後、建は手早く着替えをすませると、滋子から差し入れられた葛餅(くずもち)を手に、仁志の部屋へとむかった。
建は、先刻の乱取りのことが気になっていた。
仁志は、その後の稽古も、普段と変わらない態度で出ていたが、門弟の見ている前で、ああも見事に打ち負かされては、傷つかないほうがおかしい。一堂も、どうかしていると、建は考えていた。
単に勝てばいいってもんじゃない。勝つ側にだって、勝つ側なりの礼儀があるはずだ。
部屋にはいると、仁志は膝をかかえ、茜色に染まる庭をぼんやりと眺めていた。
まだ、道着はつけたままである。
建は、葛餅と麦茶がのせてある盆を仁志の脇に置き、自分も腰をおろした。
「これ、おばあちゃんが」
仁志は、ちらと見て軽く頭をさげると、視線を庭にもどした。
建は、さっそく葛餅をひとつつまむと、口の中にほうりこんだ。
「でも、一堂先生には驚いたよ。あんなにつかえるなんてね」
「………」
「あの脇構えは、はじめから胴を狙ってたの?」
仁志が、こくりとうなずいた。
「出すと折られるので、体当たりするようにして間合いに入るしかないと思ったんです」
「もし、一堂先生が上段に構えていたら?」
「それでも、突っ込んでいったでしょうね。面をとられようと、袈裟(けさ)に入れられようと、あの時はかまわないと思っていましたから。とにかく、木刀を折られないように……、そればかり考えていました」
建は頬ばっていた葛餅を、ごくりと飲みこむと、日頃つれない同居人の横顔を、まじまじと見た。
あの惨劇後、仁志が建に対して、こんなにも素直に自分の心境を語ったのは始めてではないだろうか……。
いや、そうじゃない。一度だけ、あった。
仁志は、五年前の惨劇で三十七針におよぶ傷を負った。すでに、退院していた建は、仁志の退院を待って河勝宅をおとずれた。それぞれ、入院していた病院が違ったうえ、マスコミの目もあったので、仁志の入院中、建が見舞いに行くことを、弥隅は許可しなかった。
当時、仁志は父・河勝智司と同居しており、智司が経営する河勝クリニックの二階部分が居住スペースとなっていた。
あの時の会話は、今でも忘れられない。
「なにしにきたんだよ」
仁志の第一声だった。
当時、仁志は中学三年、建は小学校六年、まだ十二歳だった。
「傷、もう大丈夫なのかと思って……」
「大丈夫じゃないよ。帰れよ」
建は、所在なげにうつむくと、無言でドアに向かった。すると、背後で、仁志が「どうして」とつぶやいた。
「え?」
「どうして変わらないんだよ! どうして平気なんだよ! 本当は怨んでるくせに、平気な顔するなよ!」
「怨むなんて……、仁志のせいじゃない……。仁志はなにも悪くないって、おばあちゃんも言って……」
突然、仁志が甲高い笑い声をあげた。建は、仁志が、気が狂ってしまったのではないかと思った。仁志は、そのうち「痛っ……」と、言って肩口に手をやると、辛そうに顔をゆがめた。
「大丈夫?」
「帰れ」
「仁志……」
「見たくない、お前なんか。一生、見たくない……一生、許さない……」
そう言って両手で顔をおおうと、仁志は、息を殺して泣いた。
「………」
その日をさかいに、建の知っている河勝仁志は姿を消した。
仁志は、事件後も変わらず道場にかよってきたが、道場で交わすのは挨拶のみで、必要な会話があっても、徹頭徹尾、敬語をつらぬいた。あたかも、それは、建に対して目に見えない境界線を引いたかのようだった。今でも言葉遣いは変わらないが、仁志の変化に気づいたのは、高校卒業後、室士の屋敷に移ってきてからだ。いつのまにか、刺々しいほどの態度が、きれいに払拭されていたのだ。
仁志の中で、どのように折り合いがついたのか建にはわからない。だがいずれ、時間が解決してくれると、建は信じていた。
今も、こうして話してる。今は、これでいい……。
建は、麦茶をひとくち飲むと、先刻の光景を思いだし失笑した。
「天災トリオなんかね、最後のほう、鳩が豆鉄砲くらったような顔してたよ。審判なんてちっとも……」
建は、後の言葉をのみこむと、うつむいている仁志の白面に見入った。
仁志は、自分の手の甲に落ちたものに、はじめて気づいたようだった。こぼれ落ちる涙を胴衣でぬぐうと、そのまま立てた膝に顔をうずめた。
それきり、仁志は顔をあげようとしなかった。
建は、静かに腰をあげると、仁志の部屋を後にした。
渡り廊下にさしかかり、つと足をとめる。
建は大きくのびをしながら空を見上げた。
見事な夕映えだった。
わたる風が、くちなしの甘い香りをはこんでくる。
苔(こけ)むした灯籠(とうろう)も、池の水も、朱一色にぬりかえられ……。
人をやさしくさせる瞬間とは、こんなときなのかも知れないと、建は思っていた。
第二章 上伝印可
千代田線「代々木上原駅」の改札から出てきた長身の男は、手に重そうな紙袋をさげ、黒のスーツを着ていた。
帰宅を急ぐサラリーマンが、早足に脇をとおりすぎていく。
男は足をとめ、暮れはじめた梅雨空をあおいだ。
いまにも泣きだしそうな空の奥で、雷が音もなく光っている。
男は腕時計に目をやると、大股に歩きだした。
駅からまっすぐの上原銀座を左におれると、閑静な住宅街になっている。男は、ほそい路地をいくつもまがり、「神坂」という表札がある家のまえで足を止めた。
男は、忍壁桂介(おさかべけいすけ)、赤坂の芸能プロダクションに勤めている。
桂介がインターホンを鳴らそうとすると、「あいてますよ」と、頭上から声がかかった。 見ると、二階のベランダから顔をのぞかせている若い男がいる。桂介は、そのまま家にはいると、声もかけずに二階へとあがった。
「周一郎、入るぞ」
桂介が返事をまたずにドアをあけると、周一郎と呼ばれた若い男は、椅子に腰掛け、デザイン雑誌をめくっていた。
周一郎の部屋は、十畳のスペースに、本棚、机、ベッド、サイドテーブルがバランスよく配置されており、ドアをはさんで左右に、クローゼットと大きな本棚がある。本棚には、デザイン関係のマニュアルや洋書類がずらりとならび、ベランダ側の窓を背におかれた重厚な机のうえには、パソコンとファックス、プリンターなどが、ところせましと置かれていた。
周一郎は、机の上に雑誌をおくと、桂介がさげている紙袋に目をやった。
「遅かったですね」
「理玖のプロモ撮影に、ちょっと顔を出してきた」
言うと、桂介は手にさげていた紙袋を床に置いた。フローリングの床が、紙袋の重さに鈍い音をたてる。
「桂介さん、高原美砂子の担当でしょう?」
「担当のディレクターが知り合いだったんだ」
神坂周一郎(かみさかしゅういちろう)は、DTPデザインの仕事をしている。仕事は、広告関係が中心で、取引先の広告代理店から委託され、ポスターや店内POP、新聞の折込広告などを手がけている。時折あるクライアントとの打ち合わせ以外は、ここ、代々木上原にある自宅で仕事をしていた。
「おばさんは、仕事か?」
「ええ。今日は、新しくきた講師の歓迎会があるとかで、遅くなるみたいですよ」
周一郎は両親と同居している。七歳上の姉がいるが、周一郎が高校の時に結婚して、現在は横浜に住んでいる。周一郎の母親は、近くのカルチャースクールで、フラワーアレンジメントの講師をしていた。周一郎が学生の頃は、パーティ会場や結婚式場など、現場を飛びまわり多忙な日々を送っていたが、五年ほど前からスクールの講師に落ち着いていた。
周一郎が立ちあがり、紙袋の中をのぞきこむ。大学ノートが三十冊ほど入っていた。桂介は、スーツの上着をぬぎベッドに投げると、自分もベッドに腰をおろした。煩わしげに、ネクタイをゆるめる。
「期待するな」
周一郎は、無言で紙袋から数冊の大学ノートをとりだすと、椅子に腰掛けノートをめくりだした。
一冊目を手にとり、流すように最初から最後までめくる。二冊目も同様に確かめる。三冊目にかかり、途中で手をとめた周一郎が、ちらと桂介を見た。
「これ、道場日誌ですよね」
「みたいだな」
「これで、なにがわかるんです」
「稽古に参加した弟子、師範、稽古内容……」
「桂介さん」
「だから、期待するなと言っただろう」
「どういう触れ込みで、室士一刀流の金沢道場にいったんです」
「新しく古流の雑誌をつくるから、取材させてくれ……とか、なんとか」
「とかなんとかって、桂介さんが頼んだでしょう? その、雑誌記者に」
「餅は餅屋っていうだろう。俺よりむこうのほうが、上手く言うと思ったんだ」
「まいったな……、で、いくら払ったんです」
桂介は、口をへの字にすると、両手を開いてみせた。
「十万?」
周一郎は、長息してかぶりをふると、サイドテーブルの上にあったポットをとりに立ちがあった。戻ってきて机の上にあった空のマグカップにいきおいよくそそぐと、桂介に向かってポットを持ちあげてみせる。
「いや、いい。スタジオで、いやってほど飲んできた」
周一郎は、珈琲をひとくちのむと、机のひきだしをあけ「港興信所」と印刷されたA4サイズの茶封筒をとりだした。中から書類をつかみだす。
「また、興信所に依頼したほうが良かったんじゃないですか」
「ばか言うな。北鎌倉の調査だけで、いくら払ったと思ってるんだ」
「十万、ドブに捨てるよりマシでしょう?」
「………」
桂介は、舌打ちすると、紙袋からノートを数冊とり、頁をめくりはじめた。
周一郎の祖父にあたる神坂英世(かみさかひでよ)は、桂介の祖父である忍壁流宗家・忍壁与一(おさかべよいち)の弟子であり、忍壁流相伝印可を許された、ただひとりの高弟である。忍壁与一は、桂介が六歳の時に他界しており、忍壁流は事実上、二十七年前にとだえている。
与一には、桂介の父親である一人息子の勝也がいたが、勝也は流派相続を嫌い、東京の大学へ進学した。それ以降、勝也が鎌倉に戻ることはなかった。
勝也の流派継承をあきらめた与一は、高弟である神坂英世に相伝印可状を残し、この世を去った。流派の根絶を忍びないと考えた神坂英世は、与一の孫である桂介に、忍壁流を継がせようと考え、勝也を説得した。勝也は、父親に対する謝罪の気持ちもあったのだろう、中学生になったばかりの桂介を、英世のもとに通わせることを約束した。
英世は勝也の了解を得ると、住んでいた鎌倉の家をひきはらい、ここ、東京の代々木上原に家を購入した。その後、息子夫婦の家族を呼び、同居することにしたのである。周一郎がこの家に越してきたのは、八歳の時だった。
稽古は、週に一度、近くの公共施設をかりて行われた。
忍壁流はもともと柔術の流派だが、英世は刀の稽古もつけた。桂介と周一郎は、それが、何流なのか知らなかったが、別に知ろうとも思わなかった。二人だけの稽古において、流派自体、あまり意味をもたなかったのだ。
稽古をはじめたころ、周一郎は、あまり身が入らないようだったが、桂介の性格にはあっていた。もともと、空手を習っていたこともあり、天性の素質もあったのだろう。上達が早く、英世を大いに喜ばせた。
その英世も、半年前、急性肺炎でこの世を去った。
正月もあけきらぬ一月五日、桂介は、その日、懇意にしている制作プロダクションの新年パーティーに参加していて、英世危篤の連絡を受けた。
パーティを抜けだし病院に駆けつけると、周一郎を含む親族が数人、英世のベッドを囲んでいた。
「桂介さん、どうぞこちらへ」
周一郎が、道をあける。
桂介は親族に軽く会釈して、英世の傍らに立った。
「……神坂先生、わかりますか? 桂介です」
すると、英世は待っていたかのように桂介に手をさしのべた。
桂介がその手をにぎると、英世はかすかにうなずいたようだった。
英世が、なにか言いたげに口を動かしている。医師が酸素マスクをはずした。
英世が荒い呼吸の中で、すがるような視線を桂介にむけてきた。桂介は、英世の口元に耳をちかづけた。
「桂介さん、鎌倉へ……、室士弥隅に……」
それが、上坂英世の最後のことばだった。
神坂先生の臨終の席で、室士弥隅の名を聞くことになるとは……。
桂介はもの心ついた時から、父親である勝也に、忍壁流の道場と屋敷は、室士弥隅にだましとられたのだと聞かされて育った。いつだったか、それは勝也の一方的な言い分でしかない、実際はどうだったんだと訊ねたことがある。すると、勝也はこう言った。
「葬式の後、室士弥隅がたずねてきたんだ。やつが言うには、忍壁宗家のたつての頼みで、土地と道場は、室士一刀流があずかることになったって……」
「あずかる? それは、いつか返すってことなのか?」
「返すわけないだろう。口からでまかせだ」
「どうして、つっこんで聞かなかったんだよ。で、権利書なんかは?」
「もちろん確かめたさ」
「で?」
「しっかり、室士の名前になってた。病気で弱ってたじいさんに、うまく取り入ったんだろうが……。金持ちっていうのは汚いやつが多いからな」
「………」
桂介は、英世にも、さりげなく訊ねたことがあったが、そのとき英世は、「時がくればお話します」とだけ言った。結局、話をきく機会を永遠に逸してしまったが、英世がなんらかの事情を知っていたことは確かだ。
おやじの言うことにも一理あるが……。
与一が所有していた北鎌倉の土地は、当時でもかなりの値がついただろう。とはいえ、室士家は代々金沢に広大な土地を所有してきた、地元でも有数の資産家だ。北鎌倉に固執するような、なんらかの理由があったのだろうか……。当時すでに、室士弥隅は、室士一刀流十六代宗家襲名をおこなっており家督も継いでいた。拠点である金沢の本部道場を他人にまかせてまで北鎌倉に道場を開いたというところが、どうにも腑に落ちない。
金持ちの気まぐれだと言うのなら、納得できる。
与一の遺言に従い室士弥隅に会いにいくことは厭わない。だが、その前に二十七年前の真相を自分なりに知っておきたかった。そのために興信所をつかって室士弥隅の周辺を調べさせたのだが……。
見ると、周一郎は頬杖つき、長年つかっている赤皮のシステム手帳に、なにやら書き込んでいる。なにごとにも冷めた反応しか示さない周一郎が、今回、まれにみる「ご執心ぶり」である。
「ねえ、桂介さん。調書によると、五年前の事件、河勝彩子が室士建吾を道連れに無理心中をはかったとなっていましたよね」
「ああ」
「当時の新聞も調べたんですが、確かに内容は同じでした」
周一郎は、システム手帳に目を落としながら言った。
「室士建吾は凶器の脇差でめった突き、室士美弥子は井戸に落とされ溺死、河勝彩子は脇差で自分の腹部を刺し自殺……、妙だと思いませんか」
「なにが」
「普通に考えて、無理心中をはかった人間が、最後、井戸に身を投げたってほうが、しっくりくるじゃないですか」
「普通のやつは、無理心中なんてしないだろう」
周一郎は、ふたたびシステム手帳にペンを走らせながら言った。
「ゆいいつの目撃者は、当時、十五歳だった、彩子の息子である河勝仁志……。現在、室士の家に同居となっていますね。仁志の母親の彩子は弥隅の前妻である貞江の子、彩子に殺された美弥子は、後妻である滋子の子、同じく殺された建吾は美弥子の夫で婿養子……。そして、現在、室士建は、仇の子供である河勝仁志と同じ屋根のしたで暮らしている。……複雑だな」
「ちょっといいか」
「ねえ、桂介さん。弥隅の長男である蔵木國人、どうして、蔵木家の婿養子にはいったんでしょうね? 弥隅に金沢の本部道場を任されていたとはいえ、蔵木家は、自分の父親の弟子にあたる家でしょう? いずれ、國人が道場主になるのはわかっていたわけですから、室士性を名乗ったほうが都合がよかったはずじゃないですか」
「周一郎」
「もうひとつ気になることがあるんですよ。五年前の事件当日、室士弥隅は食道がんの手術を受けているんです。これって、事件となんらかの関わりが……」
桂介はいきおいよく立ち上がると、周一郎の手からシステム手帳をとりあげた。
周一郎が、とたんに白鼻む。
「おまえ、いつから刑事になったんだ。いいか。俺は、他人のお家騒動に首をつっこむほど物好きでもなければ、ひま人でもない。俺が知りたいのは二十七年前の真相だけだ」
「屋敷と道場を、だましとられたんですよね、室士弥隅に」
「だから、それが本当かどうかを調べているんだろう」
「かりに、本当だったら? 桂介さん、どうするんです?」
言いながら、周一郎はベッドになげてあった桂介の上着を手にすると、椅子の背もたれに掛けなおした。
「どうするって……。まさか、室士弥隅に復讐しましょう、なんて言うんじゃないだろうな」
「僕のおじいちゃん、あの道場に通っていたんですよ。そして、桂介さんに忍壁流を伝授するためだけに、鎌倉の家と土地を売っぱらって慣れない土地に越してきた……かわいそうじゃないですか、このままじゃ」
「ちょっとまて、話をすりかえるな」
「すりかえてませんよ。まあ、忍壁宗家のために残りの人生をささげた、なんて美談、この時代じゃ、リアリティに欠けますけど。……でもね、始めて会ったとき、桂介さん、十三歳のガキだったんですよ? なのに、おじいちゃん、そのガキに敬語を使ったんです。なんとなく、流派継承にかける意気込みというか想いというか……僕にも伝わってきましたよ。きっと、北鎌倉の道場で、桂介さんに稽古をつけたかったでしょうね」
「……もういい」
桂介は、システム手帳を机に投げおくと、ベッドに寝転がった。
なにもかも面倒くさくなってきた。
かすかに、雨音が忍び込んでくる。外はすっかり暗くなっていた。ベランダのすぐわきに外灯があり、小夜時雨がいくすじもの銀糸をたらしている。周一郎は、「降りだしましたね」と呟いた。
「で?」
「はい?」
「おまえは、どうしたいんだ」
「そうだな。室士一刀流の道場にのりこんでいって、僕が室士弥隅をたたっ斬ってきましょうか」
話にならない。桂介は天井を睨みながら、かぶりをふった。
「稽古中の事故は、たとえ相手が死んでも罪にはならないそうですよ。過失で通せば……の話ですけど」
「お前より、室士弥隅のほうが、腕が上だったらどうするんだ」
「本漆(うるし)でできた鞘の模擬刀(かたな)なんていくらでもある。抜くまで本身とわからなければ、たとえ弥隅が剣の達人だったとしても打つ手はないと思いますよ。相手が、宮本武蔵や上泉伊勢守なら、話は別ですけどね」
周一郎が悪戯っぽい笑みをうかべ、桂介の表情をさぐるように見てきた。
まったく、こいつは……。
この周一郎は温雅な顔貌をしているうえ、体つきもほっそりとした優形だ。おおよそ武術家には見えないところにもってきて、いつも整った身なりをしているので順良で育ちがよさそうな印象を相手にあたえる。本人もその効果を熟知していて第一印象をくずすような失態(ドジ)はけっしてしない。ようするに「喰えない男」なのだ。
童顔のくせして、言うこともやることも、きわどい。
おそらく周一郎の両親や、亡くなった祖父の英世でさえ、周一郎の素顔を知らない。それほどに、この男は自分というものを出さない。いや、出せなかったといったほうが、いいかも知れない。
周一郎の両親は、周一郎が幼い頃からずっと共働きをしており、祖父の英世は、稽古と駅近くの碁会所にいく以外は、ほとんどの時間を一階の自分の部屋ですごしていた。七歳年上の姉がいたが、周一郎が高校二年の時に結婚している。姉の優美が結婚して横浜にいってからというもの、周一郎は平然と女を部屋にいれるようになった。
いつだったか、ベッドで女と抱き合っているところに、桂介がドアをあけ入ってしまったことがある。それまでにも何度か女を連れ込んでいるところを見かけていたのだが、そのたびに相手が違う。さすがに桂介が見かねて、「どうなっているんだ」と、面詰したことがある。すると、周一郎は眉ひとつ動かさずに、「くる者は拒まない主義なんですよ」と、答えてきた。
それから数日後のことである。周一郎の母親が、桂介に、結婚相手は決まっているのかとたずねてきたので、「僕は、周一郎くんほど、もてませんよ」と、こたえると、傍らで聞いていた周一郎が、はにかんだように顔をほころばせた。
「女の子なんて、まだ興味ないですよ」
万事においてそうなのだ。周一郎は桂介以外の人間のまえでは、まったく別の人間を演じてみせる。
それとも、俺の前にいる、この周一郎が別人なのか……。
「なんです?」
「おまえ、ちかごろ、めっきり女遊びをしなくなったな、どうしてだ」
「飽きたんですよ。桂介さんはどうなんです」
「俺?」
「もう三十三でしょう? そろそろ身をかためたほうがいいんじゃないですか。もっとも、相手がいなきゃ始まりませんがね」
「おおきなお世話だ」
「ところで、これ、どうするんです?」
周一郎が、ちらと視線を投げる。
桂介は、古びたノートの山を見て、さらにうんざりした。
「返却不要だ。今はパソコンでデータベース化されているらしい」
ようするに、ゴミの束を十万で買ったわけだ……。
周一郎は、空になった紙袋に、ノートを戻そうとして手をとめた。
底のほうに何かある……。
取り出してみると、手のこんだ和紙でつくられた封筒だった。そうとうに古いものらしく、ふちが茶褐色に変色しており、ところどころ虫の喰った痕がある。宛名は達筆な文字で「蔵木長政様」と書かれてある。
「どうした?」
「手紙です、蔵木長政宛の。金沢道場の前の道場主、つまり、國人の義理の父にあてて書かれたものですね」
「差出人は?」
「室士滋子、今の弥隅の妻ですよ」
桂介は、さして興味がないようである。「そうか」と、生返事をして目をとじた。
封筒の中には、四つ折りになった便箋が入っていた。周一郎が、便箋をとりだすと、手からすり抜けていったものがある。手紙に同封されていたのだろう。拾い上げて確かめる。
「戸籍抄本……?」
父・河勝智司
母・彩子
子・仁志
なんの変哲もない戸籍だ。これが、なんだっていうんだ……。
手紙を開いてみる。便箋、二枚にわたり書かれていた。
お変わりございませんか
先日は、無理なお願いをお聞きとどけいただきまして誠にありがとうございました
ご希望の戸籍抄本を同封いたしましたので、どうぞご覧ください
尚、先だってお申込みのございました貴社への融資に関しましては室士が滞りなく準備をすすめておりますので、今しばらくご猶予くださいませ
また、國人も婿養子として蔵木家に入ること承知いたしました
不肖の息子でございます
蔵木先生によきご指導をいただければと存じます
本来なら、すぐにでも室士が参上し、ご挨拶しなければならないところ書状で失礼いたします
来月あらためまして、室士が國人ともども、ご挨拶に参上させていただきますので何卒よろしくお願い申し上げます
末筆ながら、仁志の件に関しましては将来のこともございますので、どうか他言無用のほど伏して願い上げます
昭和六十ニ年 葉月
周一郎は、長い間、手紙と戸籍を交互に見ていたが、そのうち、眸を大きくひらいたかと思うと、口辺に笑みを浮かべた。
桂介をみると、いつのまにか寝入ってしまっている。
周一郎は手紙を封筒にもどすと、机の上に投げられた赤いシステム手帳にはさんだ。
一堂と仁志の、上伝印可をめぐる乱取りから六日がたっていた。明日は、かねてより予定されていた師範研修の日だった。
夜の七時をまわったところである。弥隅は、自室の座卓にむかい筆をつかっていた。香にも似た、芳しい墨のかおりが漂っている。さきほどまで激しく降っていた雨もいつしかやみ、中庭からは鹿おどしにまじり、くぐもった虫の声が遠く近く聞こえてくる。
だれかが廊下を歩いてくる。弥隅が硯に筆をおくと、襖のむこうで声がした。
「室士先生、片桐です」
「どうぞ、お入り下さい」
片桐が部屋にはいってくると、弥隅は腰をあげ軽く会釈した。片桐が座るのをまって、弥隅もゆっくりと腰をおろした。
「二週もつづけて伊豆からお越しいただき、申し訳なく思っております」
「いやいや、呼んでいただけるだけ、ありがたいですよ。教壇をおりて、かれこれ十七年になりますか……、伊豆に移ってからは、訪ねてくる教え子もおりません。なんとも寂しいものです」
片桐は、鎌倉で長く教職についていたが、定年後、妻に先立たれたのを機に、伊豆の息子夫婦と同居した。室士一刀流の伊豆道場を開いたのは、今から十年前のことである。
片桐は、座卓の上にある印可状に視線を落とした。河勝仁志殿とある。片桐は言った。
「今回は、また、急がれましたね」
弥隅は、気まずそうに耳の裏を掻き、次には左胸のあたりに手を当てた。
「じつは再発しましてな」
片桐は双眸をひらくと、次には、かすかに肯いた。
「いつ、おわかりに?」
「十日前です」
「河勝先生のことで、電話をいただいた日ですね」
弥隅は苦笑すると、「はい」と、答えた。
「室士先生は、おいくつになられましたか」
「今年で七十四になります」
「まだ、お若い」
「片桐先生は」
「七十七です」
「あまり、変わらんじゃないですか」
言うと、どちらからともなく笑いが漏れた。
しばらくして、片桐が口を開いた。
「河勝先生に、お決めになったんですね。若先生は……よろしいのですか?」
弥隅が、年老いた顔に寂しげな笑みを浮かべた。
「建は……、あれは、まっすぐにのびる杉の木とおなじです。いつまでも地に這いつくばった景色に満足していられる性分ではない。あれは、昔の私とよく似ている。私と同じ苦労をさせるのは忍びない。だが、仁志は違う。あれは、生まれながらに武門の宗家となる資質を持って生まれてきた人間です」
弥隅は、つと膝をすすめると、大きく身を乗りだした。
「片桐先生、再発したからといって死ぬと決まったわけではない。ないがしかし、一年後が見えんのです。忍壁宗家との約束を、ようやく果たそうというこの時に、室士一刀流が揺らいでいては、まとまる話もまとまらなくなる。早急に一門の了承を得ようなどとは夢にも思うておりませんが、せめて、跡目だけでも決め、穏やかな心中で神坂先生をお迎えしたい。片桐先生……」
弥隅が、同意を求めるように片桐を見る。 片桐は、心もち背筋をのばした。
「私でよければ、生きている限りは、お役にたちますよ。室士先生が、先代のためになさった事にくらべれば、ほんの微々たるものですが……。それに、おわかりになってらっしゃるはずですよ、室士先生。入門してこのかた、先代の意思だけではない、私自信が望んで、この室士一刀流にとどまったということを。蔵木先生同様、河勝先生もまた、私にとって、とても大切な方なのです」
片桐は、諭すように言うと、穏やかな面ざしに慈眼をたたえた。
弥隅は、長息して硬く目を瞑ると、深々と頭をさげた。
「室士先生、どうか、頭をあげてください」
「いや、なに……」
言うと、弥隅は、うつむいたまま、右手の指で目頭をおさえた。
「河勝先生には、お話になったんですか」
「いえ、まだ……。頃合をみて話そうと思っております」
「河勝先生は、いい男だ。立派な宗家になられることでしょう」
片桐が部屋を出て行った後、弥隅は、板間に端居して、庭の梅の木を眺めていた。
「宗家、入りますよ」
滋子だった。襖をあけ中をうかがう。弥隅一人だとわかると、滋子は畳に投げてあった団扇をひろい板間まで出てきた。弥隅の傍らに正座すると、団扇でゆっくりと弥隅に風をおくる。
「片桐先生は、仁志の隣部屋に、泊まっていただきますね」
「………」
「夕飯の支度がととのいましたけれど、片桐先生の姿が見えませんの。お出かけになるようなこと、おっしゃってました?」
弥隅は、「いや」と言うと、滋子に向き直った。
「滋子、話がある」
「おやまあ、めずらしいこと」
団扇を動かしながら、滋子が、笑いを含んだ声でいった。
「仁志に、室士を継がせる」
団扇がぴたりと止まった。
「癌が再発した。すぐに、どうこうと言うわけではないが、跡目を決めておきたい。さきほど、片桐先生にも、仁志の後ろ盾をお願いした」
「それは、室士一刀流の宗家としての言葉ですか。それとも室士家の当主としての」
「どちらもだ」
長い沈黙が流れた。
滋子が、音もなく立ちあがる。
すだく虫の声が、ふつりと途切れた。
雨夜の月が、雲のすきまから、わずかに蒼い顔をのぞかせている。
弥隅は、滋子を見上げたが、部屋からの明かりを背にした滋子の表情は、闇に溶けこみ、はっきりと読みとることができなかった。
「彩子のいったとおりに、なさいますのね」
「それはちがう。わしからみて、仁志がもっとも宗家に相応しいと思った。だから決めた。そもそも、仁志にはなんの罪もない。おまえも、そう言っていたはずだ」
「逃げだした國人はしかたありませんよ。でも、建は」
「あいつは宗家には向いておらん」
「あら、あの子はあなたに、そっくりですよ」
「だから、だ」
「……治療は、……入院なさいますの」
気性の強い滋子には似つかわしくない、ひどく頼りなげな声だった。
「これから医師と相談して決める。おそらく、当分は通いで治療を受けることになるだろう」
「……そうですか」
滋子は、それきり押し黙ると、踵を返し部屋を出ていった。襖が閉まると同時に、たちさわぐ葉ずれの音が部屋を満たしだした。弥隅は悄然として空を見上げた。雲足がはやい。一度、顔をのぞかせた月が、見るまに雲の陰にかくれた。
「ああ、おばさん、桂介です。ご無沙汰しています」
言うと、桂介は、手に持った受話器を肩と首で器用にはさんだ。デスクの上には書類が山積し、空いた両手で、中からなにやら探している様子だ。手あたり次第にひっかきまわしては、ますます混乱をひどくする。
(あら、桂介さん、お元気?)
「はい。あの、周一郎くん、携帯が通じないんですが、今日は、どちらかにお出かけですか?」
話しながら、せわしなく動かしていた手が、一枚のA4用紙をつかんだ。メモ用紙に「高原自宅にFAX」と殴り書きして、用紙ごと近くいいた事務(デスク)に渡す。
(どうかしら。でも、仕事じゃないと思うわよ。いつもの鞄、持っていなかったから。なにか、急ぎの用かしら?)
「いえ、でしたら……。ところで、おばさん、ここ数日の間で、ノートをまとめてゴミに出した覚えはありませんか」
桂介は、受話器をにぎりなおすと、山のようになった書類をみて、とたんに渋面をつくった。
(ノート?)
「ええ、普通の大学ノートなんですが」
(いいえ、私は見ていないわよ)
「そうですか……。いえ、いいんです。失礼しました」
受話器をおくと、桂介は一呼吸おいて書類を乱暴に掻き集めた。ようやく、そろったところで脇に置き、冷めた珈琲を一口飲む。
まいったな……。周一郎のやつ、捨ててなきゃいいが。
と、いうのも、つい先刻、知り合いの雑誌記者から連絡があったのだ。蔵木國人に関わる情報を依頼した記者である。聞くと、道場日誌の件で、室士一刀流・金沢本部道場から連絡があり、貸した道場日誌を返却して欲しいと言ってきたという。一時は返却不要といったが、やはり気が変わったようだ。すまないが、送り返して欲しいという暢気な言い草だった。慌てたのは桂介のほうである。周一郎のところに持っていってから、すでに一週間近くたっている。あの整頓マニアの周一郎が、一週間近くもゴミの山を自室に置いているとは到底考えられなかった。
桂介は、再度、周一郎の携帯にかけてみた。 やはり、不通状態のままだ。
また、女か……。
桂介は、舌打ちして受話器を戻した。
建が、塾から帰ってくると、平八郎を含む数人の門弟が、茶菓子などを手に、走り回っている最中だった。まだ稽古が続いているのか、道場から、抜けるような気合が響いてくる。
玄関の土間で靴をぬいでいる建を、平八郎が目ざとく見つけたようだ。建が、式台に上がると、平八郎の巨体につりあった大きな塗盆をかかえ持ち、ゆっくりと近づいてきた。見ると、湯飲茶碗がそびえるように積み重ねてある。気を抜いたら最後、崩れおちて残骸の山を築きそうだ。
「おかえりなさい、若先生」
歩くごとに湯飲が音をたてる。ふれあう茶碗の賑々しさに、建は思わず距離をとった。
「ただいま。一般の稽古、まだやってるの?」
「ついいましがた終りました。道場に残ってはるのは師範の先生方だけで、門弟は残れる人だけ残ってもらって、宴会の手伝いに、まわってもらってます」
今日は、師範研修の日だった。
研修は、朝十時に始まり、昼食をはさんで午後四時まで続けられる。その後は、一般の門弟の稽古がはいるのだが、建は塾があったので、研修が終った時点で、一度、稽古を抜けた。時間があわず、一教科しか受けられないのだが、宗家の孫である建や仁志は、なにかと好奇の目にさらされる。少し、稽古からはなれていたいというのが正直なところだった。この後、夜の八時から目録印可が執り行われる予定だ。
年に一度のことでもあり、この日だけは日頃あまり稽古に顔を出さない中伝以上の師範や、地方の支部道場の師範も顔をそろえる。目録印可のあとはきまって宴が催されるのだが、常日頃、偉そうにしている連中が、十五畳の広間に酔いつぶれ、まぐろのように横たわっている姿は、じつに滑稽である。
「若先生、目録印可まで休んではったら? まだ、二時間ほどありますよ」
「ううん、手伝うよ。休んじゃうと、いやになっちゃいそうだから」
どうせ、夜は芸者させられるし……。
宴が始まると、建と仁志はきまって酌をやらされる。近くに住む師範は帰宅を理由に場を抜けられるが、建と仁志は屋敷に住んでいるため、結局、最後までつきあわされてしまう。大抵の場合、「おひらき」になるのは深夜の一時ごろだが、過去には朝の五時という馬鹿げた記録もあった。
会話をしている間にも、建と平八郎の脇を、数人の門弟が忙しげに行き交う。
建は、教材の入ったショルダーバックを抱えなおすと、「それじゃ、あとで」といって、奥へと向かった。
室士の屋敷は、玄関をはいると正面に道場の入口があり、右側に応接室、左側に十五畳の和室がある。この和室は、普段、休憩室として使用され、今夜の宴も、ここで催される。玄関を入って右側にすすみ、道場と平行するようにしてある長い廊下をいくと、各人の私室があるプライベート・エリアになっている。各部屋は、中庭を取り囲むようにして配置されており、玄関側からみて左側手前に滋子の部屋、奥に弥隅の部屋、そして、一番奥に四畳半の茶室があった。また、玄関側から見て右側には、仁志の部屋、正面に、建の部屋があるが、建の部屋へいくには、池の上にかかった渡り廊下をすすまなければならない。部屋はすべて和室で、襖、あるいは板襖で仕切られている。もとは忍壁家の所有であったこの屋敷は、築百年をこしており、幾度もの改築がおこなわれたが、寺院などによく見られる書院造りの面影を、今も色濃く残していた。
現在、この屋敷に住んでいるのは、建、仁志、弥隅、滋子の四人で、あとは、通いの家政婦が一人いるだけである。
建が、仁志の部屋の前を通りかかったところで襖が開いた。出てきたのは滋子である。
「おばあちゃん、ただいま」
滋子は、一瞬、目をしばたいたが、すぐと笑顔をつくった。
「おかえり、建。そうそう、三橋さん、残っていたかしらね。次のお茶会の御菓子をたのみたいのだけれど」
「今ね、宴会の支度をしてるよ」
いって、建は、滋子の肩越しに、部屋の中をのぞきみた。滋子の背後にいた仁志と目が合う。建は、はっと息をつめて、視線をそらした。
滋子は、後手に襖を閉めると、足早に道場のほうへとむかった。
建は滋子が去った後も、しばらく仁志の部屋の襖を見つめていた。
建が、部屋で道着に着替え、浮かない顔で玄関までくると、土間から声をかけてきた男がいた。
「道場は、そちらでよろしいんでしょうか」
「あの、どのようなご用件でしょうか」
「見学がしたいんです」
見るからに育ちのよさそうな若い男で、この場にいること自体、しごく場違いにおもわれた。建と目があうと、男は屈託のない笑顔をかえしてきた。建が、思わずつられて微笑む。
「今日は、もう稽古は終ってしまって……。でも、まだ残っている門弟もいますが」
「道場だけでも、拝見できますか」
建は、「どうぞ、そちらです」と、道場を指差すと、軽く会釈して休憩室へとむかった。
土間には足の踏み場もないほどに靴があふれかえっている。男は器用にそれらをよけながら、杉の一枚板をつかった式台にあがった。奥に立派な神前が見えてきた。
その時、上着のポケットの中で携帯電話がふるえた。男は、すばやく携帯電話を開いた。
(おまえ、どこにいるんだ)
桂介の声だ。
「なんですか、いきなり」
男は、周一郎だった。
(携帯ぐらいとれ。なんのための携帯だ)
「用件はなんです? いま手が離せないんです」
言って、周一郎は道場の入口に視線を移した。
引き戸は開けはなたれていた。五十畳の広さはあるだろうか、十人ほどの門人が稽古をしている。木刀の打ち合う音が、耳にここちよかった。
(ヤットウの仕事か?)
しまった!
周一郎は、慌てて土間まで引き返すと、口のあたりを手で覆った。
「ちがいますよ」
(まさかとは思うが、室士一刀流の道場じゃないだろうな)
桂介は感が鋭い。周一郎は、このまま切ってしまおうかと考えたが、それでは認めたも同然だ。それこそ、次に会った時、なにを言われるかわかったものではない。
「……ちがいます」
(いや、そんなことは後だ。おまえ、あの道場日誌、どうした?)
「ありますよ」
(捨ててないんだな)
「ええ。あれが、どうしたんです」
(返却してくれと連絡があったんだ。悪いが、おまえ、金沢道場のほうに送ってくれるか)
「わかりました。それじゃ」
(ちょっとまて)
「忙しいんです。お話は後ほど」
周一郎は、すばやく携帯電話を閉じた。
道場に目を戻すと、いままでいた門人たちが、道場から出てくるところだった。どうやら、稽古は終わったらしい。周一郎は、道場の入口までいくと、一礼して足を踏み入れた。
道場には誰もいなかった。周一郎は、ふたたび、神前礼をすませると、道場の中ごろまで歩いていった。
正面に神床があり、天照皇大神宮を中央に、鹿島大明神、香取大明神の三柱の神名を書いた掛け軸がかかっている。足元を見下ろし、軽く足を踏んでみる。床板だが適度に弾力がある。これならば、受身をとっても怪我をすることはないだろう。道場は隅々まで掃き清められ、庭に面した入口と、その脇にある武者窓からは、初夏の夜風と、濃厚な土の香りが流れこんできていた。祖父の英世に、「青春のすべてだ」と、いわしめた忍壁道場にいて、周一郎は、我にもなく懐古主義にとらわれていた。
ふと見ると、見所に刀の手入道具が、ぽつりとおかれてある。その横には刀が一振り。
無用心だな……。
周一郎は、近寄ると、刀を見下ろした。
本漆(うるし)の鞘が、時代を経て飴色になっている。鍔(つば)も時代ものだろう、簡素だが小ぶりで品がいい。柄(つか)は立鼓(りゅうご)がかかっている。いわゆる「天正拵(てんしょうごしらえ)」、もしくは「天正差(てんしょうざ)し」といわれる刀だ。周一郎の好みの刀だった。だが、この半面桃色の下緒(さげお)は、めずらしい。持ち主は女性だろうか。男なら、黒か茶、あるいは、緑、紺といったところだ。その横には、手入れ道具の入った、黒地に蜻蛉(とんぼ)柄をあしらった印伝袋(いんでんぶくろ)がおいてあった。
これは、どこかで……。
印伝袋から、三分の二ほどはみだしている印籠(いんろう)に見覚えがあった。手にとってみる。手にあまる大きさだ。角をかたどった木製の根付に、黒い緒締。天然木をくりぬいた、いかにも手作り風の無骨なつくりの印籠で、すかしの蓋がついている。中に、なにか入っているようだ、軽くふると、カタカタと音がした。
「なにか、御用でしょうか」
周一郎が、ぴくりとして声のほうをふりかえると、二十歳そこそこの白道着をつけた男が立っていた。細面で端整な顔立ちをしているが、それを冷やかにみせている無表情な眼。興信所が調書に添えてきた写真通りだ。
河勝仁志……。
周一郎は、印籠を元にもどしながら言った。
「これは、先生の?」
仁志は、すこし間をおいて、「はい。そうですが」と、答えてきた。あきらかに猜疑のようすが見てとれる。
「すみません、めずらしい印籠だったもので……」
「それは、母からもらったものです」
「お母様……ですか?」
「なにか?」
「いえ、女性がつかうには、あまりにも男性的なつくりですよね?」
周一郎は、手入道具の横に置いてある刀を手にすると、神床を背に、見所に腰掛けるようにして座った。
「あの、ご用件はなんでしょうか」
「いい刀ですね、時代ものでしょう?」
「………」
「拝見しても、よろしいですか?」
「……どうぞ」
ゆっくりと鞘をはらう。長さは二尺五寸ほどある。刃紋は丁子(ちょうじ)、腰反りだ。姿のいい刀だった。物打のせまい範囲にできた「ひけ」が、持ち主の腕のたしかさを物語っていた。
「お父様は、お元気ですか?」
いきなり質問し、周一郎が微笑む。仁志の表情がいくぶん和らいだ。
「父を、ご存知ですか?」
「ええ」
「診療所は、ここから歩いてすぐですが、お連れしましょうか」
「近くに住んでらっしゃる?」
「……ええ」
「おかしいな……。お父様は、金沢にいらっしゃるんでしょう? 蔵木國人さん。ちがいますか?」
仁志が、見る間に顔色を失った。危うくよろけそうになるのを、辛うじて耐える。周一郎は、わずかに目を細めた。
ビンゴだ……!
「あの……、人違いじゃないですか……私の父は、河勝智司といって、近くで診療所をやっている医者です……蔵木國人さんは、金沢本部道場の先生で……私の伯父にあたる人です」
「この刀は、室士宗家から?」
「……祖母から……もらいうけました」
滋子は、武術をやっていたのか。
刀を鞘におさめ、静かに床におく。鍔がことりと音をたてた。周一郎は、ゆっくりと立ち上がると、仁志のほうへと歩きだした。
「やはり、初孫はかわいいんでしょうね。初孫で、しかも、長男の國人さんの……」
言い終えるまえに、仁志が周一郎の胸倉につかみかかってきた。
「違うと言っているでしょう!」
「それは、失礼しました。僕の勘違いだったようだ。ところで……いいですか?」
言うと、周一郎は仁志の両手首を矢庭につかんだ。仁志が予想外の反撃に、おもわず腰をひく。
「腰が高すぎますよ、先生」
周一郎が、つと腰を沈め、おどろくほどの疾さで仁志の懐にとびこんできた。気がつくと、体が宙に舞っている。その時、更衣室の引き戸がひらく音を聞いた気がした。
肘をやられる!
右肘をかばったために態勢が崩れた。受身がまにあわず、したたかに腰を打ったようだ。上体を起こそうとして、突き抜ける激痛に、仁志は低い呻(うめ)き声をあげた。
「室士一刀流には、柔術の稽古もあると、うかがったんですが。これも、僕の勘違いかな……」
「勘違いじゃありませんよ」
周一郎が、一拍おいて肩越しに振り返ると、白道着をつけた男が、早足に近づいてきた。
どこからでてきた?
見ると、男の背後の引き戸が、開いていた。更衣室のようだ。奥に畳表が見える。
「室士一刀流には柔術はありませんが、室士一刀流のほかに忍壁流柔術を教えています」
周一郎が双眸をひらく。
忍壁流を……?
男は仁志の横に両膝つくと、痛めた腰のあたりに手をそえた。歳は四十代半ばといったところか、肩から二の腕にかけての隆々たる筋肉が、周一郎の二倍はあろうかと思われた。
「どのあたりを打った?」
「……右腰です」
「すぐに、お父さんに診てもらったほうがいい」
「………」
「仁志!」
道場の入口に、先刻、話しかけた若い門弟が立っていた。
そうか、あいつが、室士建……。
建が、駆け寄ってきた。仁志の肩に手をかけ必死に気遣っている様子だ。とうてい、親の仇に対する接し方には見えない。
建は、仁志を怨んではいないのか……。
男が、周一郎を見上げてきた。その表情からは感情を読みとることができない。無表情というよりは、事務的と表現したほうが近い。
「君は、どこの流派をやってるの?」
「祖父から習いました。流派はありません」
「ほう……おじいさんから。強いね」
「………」
「しかけたのは、この河勝だ、君が気にすることはないよ」
こいつ、すべて聞いていたのか……。
道場の入口には、数名の門人が顔をのぞかせ、なにごとかと窺っている。建が、この状況を把握できず、複雑な表情を周一郎に向けてきた。周一郎は、乱れた上着を手早くなおすと、前髪をかきあげた。
まずいな……。
このまま、逃げることもできた。だが、それでは、今後、二度と室士一刀流に出入りすることができなくなる。興信所の調書では、外郭しか見えてこない。周一郎が欲しいのは、室士家の地中深く埋まっている、未だ日の目をみない情報なのだ。
かといって、いまさら、お友達になりましょうとも言えないな……。
「ところで、君は、ここにはなにしにきたの? 入門希望?」
仁志に肩をかしながら、男がたずねてきた。
「ああ、挨拶がまだだった。私はここの師範で一堂というんだ。よろしくね」
一堂……。どういうつもりだ、この男。
周一郎は、口辺に笑みを浮かべると、つとめて明るい声をだした。
「わたしは、フリーで広告デザインをやっておりまして、こちらは、室士グループ会長、室士弥隅氏の運営される道場ですよね?」
「営業?」
「はい。そうだ、名刺を」
名刺を取り出そうとして、周一郎の手がとまった。ここは、もと忍壁流の道場である。神坂の名を、知っている門弟がいないとも限らない。
「どうしたの?」
「今日は、道場を拝見するつもりだけでしたので、あいにく忘れてしまったようで……」
「若先生」
それまで、二人の会話に聞きいっていた建が、「は……はい!」と、頓狂な声をあげた。
「悪いけど、僕の携帯電話、持ってきてくれる? 休憩室の、僕の上着の内ポケットに入っているから」
建が、小走りでとりにいく。一堂は、周一郎に微笑みかけると、肩をかしている仁志に、「ちょっと、待ってて」と、声をかけた。周一郎が眉間のあたりに、じわりと警戒心をにじませる。
なにを考えてる……?
建が戻ってきて携帯電話を受け取ると、一堂は、周一郎に、「携帯持ってるよね?」と、たずねてきた。
「は?」
「今からいう番号にかけてくれる?」
「あの……」
「営業でしょう? 君、気に入ったから、宗家にとりついであげるよ」
「………」
「どうしたの?」
こいつ……!
とんだくわせものだった。一堂が欲しいのは周一郎の情報だ。一堂が、室士弥隅の側近だとして、先刻の仁志との会話をすべて聞いていたとしたら、どうだ。事は、室士一刀流という武道の一流派だけの問題ではない、室士グループ全体のスキャンダルにもつながる大事として考えてもおかしくはない。しかしそれは、一堂が、河勝仁志の出生の秘密を知っていればの話だ。
「先生は、もう、ずいぶんと長く、室士一刀流をやってらっしゃるんでしょうね」
「そうだね。この北鎌倉に、看板をかかげた時からだからね」
二十七年前から……。ようするに、室士弥隅の子飼いってわけだ。
周一郎は、喉の奥で笑うと、上着のポケットから携帯電話を取りだした。
「どうぞ、番号をおっしゃってください」
ひろい道場の両脇に門弟がずらりと正座してならんでいる。弥隅が神前礼をすませ、見所の中央に正座すると、門弟からいっせいに座礼がなされた。
目録印可は、その日、印可される一番上の目録から順に出されることになっており、今日の印可は仁志の上伝からはじまる。
弥隅が巻物にされた印可状を手にしている。
「河勝仁志、上伝印可に致し上げる。前へ」
全員の視線が、仁志にそそがれた。仁志はだが、顔面を蒼白にしたまま、いっこうに動こうとしない。門弟が顔を見合す。上座から上伝の三人が乗りだすようにして仁志をのぞきこんだ。
仁志……?
建は、弥隅の顔をちらと見ると、横にいる仁志の袴を二、三度、かるく引っ張った。すると、仁志が、その場ですばやく弥隅に膝をむけた。
「承知……致しかねます」
道場に息を呑むけはいがただよった。印可をことわるなど前代未聞である。奥伝や上伝の連中でさえ、事の成り行きをみまもって固唾(かたず)をのんでいる。ひとり、弥隅だけが印可状を手に黙然と座っていた。弥隅は聞こえていなかったかのように、おなじ言葉をくりかえした。
「河勝仁志、上伝印可に致し上げる。前へ」
仁志は顔に深い焦燥をただよわせ立ちあがったが、弥隅と二間もの距離をおき正座した。
弥隅が、もう一度「前へ……」と、言い、立ちあがる。
建が、ぴくりとして腰を浮かせた。
見所からおりてきた弥隅が、大股に仁志の前まで歩みよっていった。仁志がさっと面(おもて)をあげたと同時に、弥隅の掌(てのひら)が、容赦なく仁志の左頬をうっていた。
だれかが、小さく声をあげる。
「なんど、わしに、同じことを言わすか!」
弥隅の怒声が道場にひびきわたった。姿勢をくずして床に両手をついたまま、仁志は微動だにしない。建は、思わず片膝ついて中腰の姿勢をとっていた。いまにも仁志に走りよろうと立ちかけたとき、弥隅の鋭い一喝が飛んできた。
「だれが立てといった! おのれ、それでも目録か!」
建が歯をくいしばり弥隅を見返す。弥隅は建を一瞥すると、見所にもどり座りなおした。建が、ふと視線をそらすと、正面に座っている一堂の諭(さと)すような視線とぶつかった。一堂が、止めておけといったふうに首を横にしてくる。建は渋々、腰をおろした。
弥隅は居ずまいを正すと、厳然たる態度で正面を見据えた。
「河勝仁志。上伝印可に致し上げる。前へ!」
仁志、頼むから……。
建は汗ばむ手で袴をにぎりしめた。一週間前の一堂との乱取り、そして、今日の目録印可辞退……。輪郭のない暗澹(あんたん)とした翳(かげ)が胸中をおおっていた。今日のことはどうであれ、乱取りの一件は、弥隅が仕組んだことに違いないのだ。弥隅のもくろみなど考えもおよばないが、どうころがっても仁志の立場は悪くなる一方である。ここに至って、追い込まれた仁志が、武術をやめてしまうのではないかと、建は煩悶(はんもん)さながらの苛立ちをおぼえていた。
息づまるような瞬間(とき)が、遅々としてながれた。
遠くで雷鳴が鳴り、降りだした大粒の雨が地面をたたきだす。
左右に一列にならんだ、いくつもの顔は、流れつたう汗で、まるで濡れているかのように見えた。
仁志は、それらの視線を背にゆっくりと体をおこすと、見所のまえまで膝行(しっこう)していき、緩慢(かんまん)な手つきで袴をととのえた。そろえた両手が、すべるように膝前におちる。一呼吸おき深々と頭がさがりはじめ、そして、とまった。
「……つつしんで、お受けいたします」
すでに、目録印可の後の宴が始まっていた。 弥隅は、三十人ほど集まった師範、ひとりひとりに、ねぎらいの言葉をかけると、早々に自室に引きこんでしまった。一堂は、先刻の周一郎との成り行きを話すため、後を追うようにして弥隅の部屋をおとずれた。
「巻き込み技?」
弥隅が脇息(きょうそく)にあずけていた体を、ゆっくりとおこしてきた。
室士一刀流は、剣術の流派だが、この北鎌倉に道場を構えた折、師範免許を習得した門弟にのみ、忍壁流柔術の稽古を取り入れた。仁志においては例外で、中学校に上がった時から、弥隅直々に柔術を仕込まれており、奥伝の三人よりはるかに筋がよく、技も切れる。いまはまだ未完成だが、理論的に追求し、反復練習をいとわない仁志のことである。十年もすれば、宗家である自分をもしのぐほどに成長するだろうと、弥隅は読んでいた。
「あの仁志が、受けそこねた?」
「はい。ただ、私も投げる瞬間を見ていたわけではないので……、受身の態勢からして、そうではないかと……。右腰を痛めたようです」
「たんなる巻き込みでか」
「肘関節を攻める連絡変化技とおもわれます」
「怪我は……、腰もそうだが、肘のほうはどうなんだ」
「おそらく、ですが、相手の男、途中で技をやめています」
「やめた?」
「はなから効かす気がなかったんじゃないでしょうか。腰のほうも、まともに技を喰らっていたら、あの程度の打ち身ではすまなかったはずです」
「引き手をいれたか」
「はい。ただ、タイミングが少し遅れたようですが」
にわかに強風がおこり、風鈴が乱れた音色をひびかせた。
「事のおこりは、なんだ」
言って、弥隅は、座卓にある煙草盆をひきよせた。煙草を一本とりだす。
「それが……、仁志のほうから……」
弥隅の手がとまった。
「仁志が? 仁志のほうから、しかけたのか?」
「……はい」
「理由は」
「私もよくは……。たんに、相手の男が、仁志のことを、金沢の國人さんの息子だと勘違いしただけなんですが」
弥隅の指から、煙草がぽろりと落ちた。
「なに……?」
「男が、おとうさんは、金沢にいる蔵木國人さんでしょう、と」
弥隅が、にわかに挙措を失った。双眸は大きくひらかれ、視線が宙を泳いだ。
「宗家……?」
「数馬、片桐先生だ。片桐先生を呼んでくれ」
一堂が、弥隅の部屋に片桐をつれてくると、弥隅はわずかに眉をよせ、一堂に言った。
「すまんが、数馬、席をはずしてくれんか」
「はい……」
「いや、まて。その男、名前を名乗ったのか?」
「白木といっていました。念のため、携帯電話の番号を聞いておきましたが」
「目的は、なにか言っていたか?」
「営業です。なんでも、フリーのデザイナーだとかで、ここは、室士グループ会長の運営する道場でしょう、と」
それまで、だまって聞いていた片桐が、口をひらいた。
「一堂先生から、なりゆきは少しうかがいましたが……。室士先生、先日の興信所の一件と、なにか関わりがあるんじゃないですか」
「興信所?」
一堂は、片桐と弥隅の顔を交互にみた。弥隅は言った。
「一週間ほど前のことだ。骨董屋が、店に出入りしている土地の極道が、室士の屋敷のまわりを嗅ぎまわっているやつを見たと言っていた。どうも、興信所の人間じゃないかと」
「だれか、依頼した人間が、いるということですね」
弥隅が腕をくみ押し黙る。片桐も、一堂も、つぎの言葉を待つふうである。
「数馬……すまんが……」
一堂は、心得たように肯くと、片桐に会釈して部屋を出ていった。片桐が、つと身を乗りだし声をひそめた。
「白木という男は、河勝先生の出生のことを知っていたそうですね」
「はい。だが、一番の問題は……」
「河勝先生、ご自身が、そのことを知っていた」
弥隅が、ゆっくりと肯いた。
「あのことを知っているのは、私と、片桐先生、滋子、そして、亡くなった金沢道場の蔵木長政だけです。もちろん、五年前に死んだ、彩子も美弥子もですが……、とうてい、仁志に話していたとは考えられません」
「あとは、当人である國人先生ですね」
「はい。仁志の父親である智司さえも知らんのです。ましてや、興信所が嗅ぎまわったところで、わかろうはずがない」
「……室士先生、ここはひとつ、虎穴(こけつ)を掘ってみませんか」
「虎穴?」
桂介が乃木坂のマンションに帰ってくると、三階にある自分の部屋から明かりがもれていた。
周一郎のやつ、鎌倉にいったな。
周一郎とのつきあいは、かれこれ二十年にもなる。その間には、実に様々なことがあった。当の周一郎が気づいているかどうかは知らないが、周一郎は、桂介にうしろめたいことがあると、きまって部屋にきて掃除をしたり、料理を作ったりして桂介の帰りをまっているのだ。幼い頃から、両親が共働きをしていたせいか、家事をすることになんら抵抗を感じないようで、苦にならないのだと周一郎はいう。この、マメさがないとプレイボーイはつとまらないのだろうが、桂介にしてみれば、これみよがしな周一郎の行動が、かえって憎めなかったりもする。それとは別に、部屋にきてCDを聴いたり、ぼんやりと窓の景色を眺めていることもあるようで、桂介の、あまり他人のことを、とやかくいわない性格が、周一郎に居心地のよい環境をつくりだしているのだろう。
周一郎が、いつの頃から桂介の帰りを待つようになったのかはおぼえていないが、部屋の合鍵を渡したのは、いまから九年前のことである。
当時、周一郎は大学の一年生で、とかく女の出入りがはげしく桂介も眉をしかめたほどだ。夏も終わりの頃だった。その日は仕事が早くかたづいたので、稽古の時間まで周一郎の部屋で涼んでおこうと神坂の家までくると、周一郎が自室のベランダに両肘つき口を尖(とが)らせている。「どうしたんだ」と訊ねると、お手上げといったしぐさで首をすくめてみせた。嫌な予感がして二階まであがっていくと、母親の信子が、周一郎の部屋のドアノブに手をかけたまま目を丸くしている。
「おばさん、どうかしたんですか?」
「あら、桂介さん。それが……仕事から帰ってきたら、泣き声が聞こえてきたものだから上がってきたんだけど……」
中をのぞくと、高校生くらいの女の子が、ベッドに突っ伏して泣いている。
周一郎のやつ、またか!
桂介は、「おばさん、ちょっと」と、言って、一階までおりた。
「あの子、なにか言っていましたか?」
「いいえ……、私も、いま、帰ってきたところだから……」
「あの子、僕の知り合いなんです。相談事があるというので……、今日は稽古日だから、ここの住所をおしえておいたんですが……。すみません、ご迷惑をかけてしまって」
ひどい取りつくろいようだったが、信子は納得したようだった。この幸せな母親は、自分の息子が札付きのプレイボーイなどとは夢にもおもっていない。
桂介は、いそぎ二階に引きかえすと、周一郎を廊下につれだした。周一郎は、なんの弁明もせず、ただひとこと言っただけだった。
「処女(バージン)だって知っていたら、手を出しませんでしたよ」
それから数日後、桂介は、自分の部屋の合鍵を周一郎にわたした。
「俺の部屋をつかっていい。これからは、神坂の家に女をつれこむのはよせ」
桂介が勤めているのは芸能プロダクションだ。地方の興業があると、長いときには一ヶ月ほど部屋を空けることもある。
「来たついでに空気を入れかえて、気がむいたら、たまった郵便物を、そこらへんにそろえておいてくれればいい」
しかし、桂介の知る限り、周一郎が桂介の部屋に女をつれこんだようすはなかった。
部屋に入ると、珈琲の香りが、玄関にまでただよってきていた。きちんとそろえて置かれた周一郎の靴が目にはいる。
ルーバー調のシューズボックスが置かれている玄関をはいり、リビングのドアをあけると、冷えた空気が流れでてきた。リビングにはボリュームのあるソファーベッドが置かれており、周一郎は、そのソファーに胡坐をかき、分厚い書類をめくっていた。
「女をつれこんでいいとは言ったが、仕事を持ち込んでいいとは言わなかったぞ」
周一郎は、ひとつ溜息をつくと、テーブルの上に乱雑にひろげてあった書類やマニュアルを片づけだした。
「これでも、気をつかっているんですけどね。それに、ここで濡れ場なんか見られた日には、一生、桂介さんに頭があがらなくなるでしょう? 考えただけで、鳥肌がたちますよ」
「本音がでたな」
「まあ、ここは、塵外(じんがい)でね。濁世(じょくせ)に嫌気がさしてくると、つい足がむいてしまうんです」
「なんだ、ようするに駆け込み寺じゃないか。人の城をなんだとおもっているんだ」
桂介は、背広の上着をソファーに投げおくと、キッチンとリビングを仕切ってあるカウンターの脇をとおり冷蔵庫へとむかった。中から缶ビールをとりだし、その場であけて一口飲む。周一郎が、投げてある桂介の上着から煙草とライターをとりだしテーブルの上においた。
よく気がつく……。
両親が留守勝ちなので自然と身についた習性なのだろう。日頃、小生意気(こなまいき)におもう周一郎だが、嫌なやつだと、つっぱねてしまえない理由がここにある。
「それで?」
「はい?」
「室士一刀流はどうだったんだ」
周一郎は、横目で桂介の顔色をうかがうと、テーブルの書類をそろえだした。
「写真どおりでしたよ、河勝仁志。あの顔はもてるだろうな、僕も負けそうだ」
「………」
周一郎がだれかを褒めるときは、いつのときも隠蔽工作(いんぺいこうさく)の手段に他ならない。周一郎のとぼけた顔を見るにつけ、なにかやらかしてきたことは聞くまでもなかった。
「まさかとは思うが、その河勝ってガキを投げ飛ばしてきた、なんてことはないな?」
周一郎は、辛うじて無表情をよそおった。
「ありませんよ。桂介さんといっしょにしないでほしいな」
「馬鹿をいえ。おれは自分から手を出したことはないぞ」
「僕の記憶では、いこうとする相手まで引き止めたとおもったな」
「とどまるのは相手の勝手だろうが。殴りつけて引き止めたわけじゃないんだ」
「たしかに。でも、手を出さざるをえない状況に持っていくのも、桂介さんのほうでしたよ」
「わかっていて乗ってくるんだ。お前が、誘われたふりして女に乗るのとは、わけがちがう」
周一郎が頬のあたりをふくらませた。どういうわけか、桂介は周一郎の行動を読むのがうまい。五歳年上とはいえ、周一郎を、ここまで子供あつかいするのは桂介だけである。だが、不思議と腹はたたない。桂介の高慢な態度には、どこか有無をいわせず相手を従わせてしまう効力のようなものがあって、武術の稽古をしているときにあっては最悪である。桂介は武術を習い始めたころ、英世の目を盗んでは、むつかしい技をかけ、周一郎をいくども危険な目にあわせている。この技は、まだうまく受身をとれないからと断るが、がんとして聞き入れない。
「仕方がないだろう。相手はおまえしかいないんだ。あきらめろ」
習い始めた三年間は、生きた心地がしなかったな。
先刻の仁志の白面が脳裏をよぎった。周一郎にしてみれば、ほんの悪戯のつもりで、いつになく手加減をしたつもりだった。
あれほど効くとは思わなかった……。
「どうした?」
「いえ……」
その時、テーブルの上に置かれた周一郎の携帯電話が鳴りだした。
「はい、もしもし」
(室士一刀流の一堂です。先ほどは、どうも)
周一郎は、ぎくりとして思わず桂介を見た。訝しげな桂介の瞳とぶつかる。
「どうも、先ほどは……」
桂介が、缶ビールを手に近づいてくる。周一郎は、つとめて和やかな表情を作ってみせた。
「早々に、ご連絡をいただけるとは思っていませんでしたよ」
(ええ、私も、これほど気に入った営業ははじめてですよ)
「それは、どうも」
(ところで、あなたの話をしたら、宗家が是非に会いたいといいましてね)
「は?」
(近々、お会いできませんか?)
一瞬、周一郎の顔に緊張が浮かんだ。桂介が、小声で「誰からだ」と耳打ちしてくる。周一郎は、前髪をかきあげ軽く首を横にすると、口辺をほころばせた。
「本当ですか? もちろん、願ってもないことです。そちらのご都合に合わせますよ、いつがよろしいですか」
周一郎は、桂介から離れると、テーブルの上にあった書類に、日付と時間を乱暴に書いた。
携帯電話を閉じたあとも、桂介のまとわりつくような視線がきえない。周一郎は、軽く睨んでみせた。
「なんです?」
「客か?」
「女からの電話に聞こえました?」
「果たし状を受けとったような顔をしていたぞ」
「……一本、もらいますよ」
言って、周一郎は、テーブルの上にあった煙草に手をのばした。
一服して、喉の奥で笑いはじめる。
「室士一刀流のことを言っているんですか? まさか本気で、僕が室士弥隅をたたっ斬るとでも?」
「相手のいることだ。稽古中、はずみで怪我をさせてしまうことがあるようにな。そして、その逆もありうる」
桂介は、周一郎がやさしげな外見とは裏腹に、気性が激しく攻撃性の強い男だということを知っていた。
こいつは、本能的に相手を敵と味方にふりわける癖がある。そして、相手が敵だとわかった時には容赦しない……。
「そんなドラマチックな展開は望めないとおもいますよ。ただ……、かりに、盗られたのであれば盗りかえせばいい、と、僕はおもっています。……見事な屋敷でしたよ」
「………」
周一郎が帰ったあと、サイフォンに残った珈琲をあたためながら、桂介は心に重くのしかかってくる不安を払えずにいた。
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■作者からのメッセージ
「室の剣」は推理小説をうたっていますが、武道小説でもあります。前半の第一章は、イントロダクションとして舞台となる道場の人間関係をメインに描かれていますので、従来の推理小説になれているかたには、かなり読みずらいかも知れませんが、どうぞ、よろしくお願いします。
※先日、第一章のみをUPしたのですが、誤って削除してしまいました。管理者様、ご感想いただいた方々、本当にごめんなさい。