- 『サプライズ』 作者:van / リアル・現代 恋愛小説
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全角11025.5文字
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原稿用紙約32.15枚
中学三年生の女の子、由希の復讐劇。林間学校で恥をかかされた男の子に対して、彼女が考えた仕返しとは――
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これまでの過去が全て、懐かしく思い出せる美しいものであったならどんなにか素晴らしいことだろう。
そう考えるのは子どもである。思い出すたびに変わらぬ苦味を伴って現れる、悪夢のような過去。そのような過去と共存することができてこそ大人であると言える。辛い過去から教訓を学び、現在そして未来へと活《い》かす。それが大人である。
由希《ゆき》にもそれは十分に分かっていた。過去にいつまでも足を囚われて前に進めない愚は、子どものそれである。十四歳という年齢になり、いつまでも子どものままではいられない彼女としても、大人への精神的成長のために、過去を脚下に踏みしだき大またで力強い一歩を踏み出したい気持ちはやまやまである。が――
どうしても乗り越えられない過去がある。
中学三年生の工藤由希にとってのそれは、半年前のことだった。中学二年生の行事の一つ林間学校。その中のイベントの一つである肝試し。男女がペアになって暗い林道を抜けて帰ってくるというものである。幸運なことに、由希がペアになったのは、ちょっと気になっていた男子であった。闇という危機的状況を協力して乗り切れば、見事カップルが誕生するかもしれないという淡い期待。
その期待は散散に打ち砕かれた。揺れた草むらから現れたお化けにまともに驚いてしまったのである。お化けは本物ではなく、いたずら好きな男子がアドリブでしたことであった。気の利かない彼女は、ペアの男子の胸に可憐に飛び込めばよいのに、その代わりに可愛くない悲鳴を上げて思い切り腰を抜かしてしまった。腰を抜かすだけならそこまで問題は無かったのだが、しゃがみこんだ場所が悪かった。前日の雨でできたぬかるみだったのである。
これほど惨めな気持ちになったのは、幼少時に母親に駄々をこねてデパートの床にひっくり返ってそれでも欲しかったものを買ってもらえなかったとき以来だった。ジャージ地の運動服のパンツに思い切り泥が跳ねる。シューズにソックスはもちろん、下着のことは言いたくもない。髪や顔にも少し汚れた土がついた。助け起こしてくれもせずただ呆然としている男子を置いて、由希はふらふらと立ち上がるとスタート地点まで戻った。そこで待っていた敬遠の眼差しと憐れみ混じりの失笑が、彼女を更に落ち込ませた。
同情してくれた友人の付き添いのもとでバンガローへと帰り、顔を洗い着替えた彼女は、もう涼やかな秋だったにもかかわらず、寝苦しい夜を過ごした。翌朝、目覚めた由希の耳に聞こえてきたのは、全身泥まみれになった哀れな少女の物語である。そのヒロインになってしまった彼女は、初めは悲劇の女主人公よろしく悲嘆に暮れていたのだが、そのうちに徐々に別の感情が現れるようになった。憎しみである。由希は、仕返しを決意した。
憎しみを維持するために、古代中国の王は、薪の上で寝たり、苦い胆をなめたりしたようである。しかし、そういう必要は由希にはなかった。何しろ、幽霊を演じた彼――井本拓海《タクミ》――と三年生になって同じクラスになったのだから。毎日顔を見て、毎日思い出す。半年経った今でも、その時に芽生えた復讐心は変わらずに彼女の中にあった。由希は機会を伺っていた。彼を、今度は由希が驚かせて恥をかかせるのである。しかし、これはなかなかに困難な仕事だった。すらりとした細身の体つきで繊細な印象さえ与えるくせに、ずぶといというか無神経というか鈍感というか、彼は驚くということをしない。教室に蜂が入って来たときも、火災の非常ベルが誤作動を起こしたときも、話によると、去年の冬、教室の石油ストーブから油が漏れ、その油に引火したときでさえ平然としていたそうである。そういう男を驚かせるためには周到な準備が必要である。そして、チャンスはおそらく一回しかない。こちらの意図を読まれたらそれで終わり、二度目はない。
由希は千載一遇の機をひそやかに待っていた。
千年待つ必要はなかった。しかも、機は向こうからやって来た。
ある初夏の日の昼休み。井本拓海は、常に似合わぬ思い詰めた顔で由希のもとにやってきた。由希に用があったわけではない。由希と話していた彼女の友だちに用があったのである。
「昨日、一緒にいた子のことを教えてくれ」
あいさつもそこそこに拓海は友人に訊いていた。うさんくさい顔をする友人に、拓海は懇々と説いた。話によると、昨日、友人と一緒に歩いていた少女に一目惚れしたということなのである。それで、是非紹介して欲しい。どういう知り合いなのか、カレシはいるのか、どこの中学校なのか、というか高校生なのか。矢継ぎ早に質問をする拓海に友人は圧倒された顔で、
「昨日一緒に歩いてたって、誰のことを言ってるの?」
何とか訊くと、拓海が午後の一時ごろ、駅前の広場で見たことを告げる。由希の頭に閃くものがある。
「もしかして、その子ってさ、紺色のチュニック着てた? セミロングの髪にファーのシュシュ」
「知ってるのか?」
由希の瞳に光が現れる。希望の光である。
「ええ、よく知ってるわ。ていうか、親友よ」
「本当か?」
顔を明るくする拓海に、由希は彼女を紹介することを約束した。後光でも見えるかのような目で由希を見た拓海が自分の席に帰って行くと、友人が疑わしげな目をしていた。
「どういうつもり、由希?」
「何が?」
友人は声を潜めると、
「昨日、あたしが一緒に歩いたのは一人しかいない。あんたよ」
言った。
だからこそ、好都合なのだった。
由希は計画を説明した。
「林華子です」
「……あ、どうも、井本拓海です」
拓海は眩しそうな目で、目の前の少女を見つめた。この世界には美しいものがいろいろあるが、間違いなく彼女はその一つだった。可愛い子には胸がときめくが、彼女には胸を打たれるものがある。美しい詩、絵、音楽などと同じ種類の感動がある。拓海は、クラスメートの工藤由希に感謝した。彼女が骨を折ってくれたおかげで、頼んでから一週間後のデートということになったのだった。
「こんなに突然会ってもらえるなんて思ってなかった」
待ち合わせた公園の噴水前から、歩き出しながら拓海が言う。
「由希がとてもいい人だから会ってみたらって」
「工藤が?」
「ええ」
柔らかい微笑が少女の花顔を彩っている。ますます工藤由希には感謝しなければいけない。しかし、実はそんな必要は全くなかった。由希は華子とのデートをセッティングするのに何の苦労もしていない。
なにしろ、由希が華子自身なのだから。いつもつけている眼鏡をコンタクトに替え、三つ編みをほどき、制服を私服にすれば、華子の出来上がりである。林華子というのは母方の祖母の名である。由希は祖母の若い頃によく似ているらしい。
これが由希の復讐劇だった。拓海は、華子と由希が同一人物だということに気がついていない。しかも、あろうことか、好意を抱いているという。今日一日付き合ったあとに、正体を明かし、彼を驚かせる。それで復讐の完了である。
それにしても――
横から照れたような表情で何やかやと話しかけてくる拓海に応えながら、由希は込み上げてくる笑いを必死にこらえていた。拓海が全く気がついていないのが可笑しいのである。装身具と髪型をちょこっと変えただけで、これほど分からないものなのだろうか。彼が鈍感なのか、それとも普段の自分がいかにも野暮ったいのか知らないが、面白い見せものである。
「あの、華子さん?」
拓海が物問いたげな視線を向けているのに気がついて、由希は笑みを乗せたまま応えた。
「拓海くん、わたしのことは華子って呼んでね」
まだよく知らない女の子を呼び捨てにするのがためらわれるのか、拓海は「華子ちゃん」で妥協した。照れた様子で、華子ちゃんと口ずさむ拓海を見て、思わず吹き出しそうになる由希。今日の一日が終わるときに、拓海の驚愕の表情が見られるだろうと考えると、愉快でたまらない。実に半年越しの思いが今日実るのである。最高の一日になるだろう。そうして、今日の記憶によって、古い記憶は消され、胸のつかえはおり、明日から新しく生きていくことができる。
由希は拓海に連れられ、スポーツセンターとゲームセンターが一緒になっているようなアミューズメント施設に来ていた。この辺りのデートスポットである。無難な選択である。この手のことには奥手そうに見えて、もしかして女の子と付き合ったことがあるのだろうか。由希が冗談ぽく訊いてみると、
「いや、違うよ。ここは友だちとよく来るから。オレ、まだ付き合ったことないし」
慌てて手を振ってきた。他に付き合ったことがあったら由希に対する裏切り行為ででもあるかのような口調である。
「でも、拓海くんてカッコいいから女の子にモテるんじゃないの?」
もう少し突っ込んでみると、
「全然」
と断言した。
「じゃあ、わたし、初めてのカノジョになれるかもしれないんだ」
由希がひとり言のように目を伏せて言う。ちらりと目を上げると、拓海が驚きで硬直していた。恥ずかしそうな振りを作る少女。由希も男の子と付き合った経験はない。こういう男の子の心をとらえるような仕種やセリフは悪友に習った。この日のために、一週間、みっちりと厳しい訓練を受けていたのである。
由希は今すぐにでも真実を告げたい気持ちを必死に抑えた。今日の終わりに、おそらく拓海が次の約束をしようとするだろう。その時に正体を明かす。見も知らぬ女の子が、クラスメートに変身する様を見たら、どれほど驚くだろう。
「この服、もしかしておかしいかな」
拓海が自分の服装を見ながら、おそるおそる調子で訊いてきた。由希の笑みが誤解を生んだらしい。由希は首を横に振って、
「全然そんなことないよ。すごくよく似合ってる」
淀みなく褒めた。拓海がほっとしたように息をつく。いけない、いけない。由希は華子に成り切ることに決めた。いちいち自分の想像で笑っていたら、さすがに怪しまれるだろう。疑いがある分だけ、驚きが減る。
由希は、バッティングマシーンからホームランを打った拓海に大仰に拍手し、ユーフォーキャッチャーで取ってくれた携帯用ストララップを一生大事にすることを誓い、バドミントンで負けたことにむきになった振りをして可愛さをアピールした。
「本当に工藤には感謝したいよ」
センターを出て、駅前のファースト・フード店で午後の軽食を楽しみながら、会話に間ができたときに、それを埋めるようにして拓海がいった。由希が、どうして、と先を促すと、
「華子ちゃんに会わせてくれたから」
と少し視線を逸らしながら答える。フィナーレがだんだんと近づいてくるのを感じながら、自分の中に別の感情が萌《きざ》すのに彼女は気づいていた。屈託の無い顔を向けてくる拓海に対する罪悪感である。正体を知らせるということは、拓海の恋を破るということになる。このデートが、由希の復讐劇のために仕組まれたものだと拓海が知ったら、確かに驚くかもしれない。しかし、その驚いた顔を見て、自分が満足できるかというと、ちょっと怪しくなってきた。由希は、にこやかな顔を拓海に向けながらも、軽く手の平に爪を食い込ませるようにして拳を作った。正気を保つためである。これはチャンスなのだと心の中で何度も唱える。彼に復讐しなければ、例の記憶は消えず、この先も由希を苦しめることになるだろう。由希は少しずつ膨らみつつある罪悪感を抑えこんだ。
「工藤とは小学校からの友だちなの?」
拓海が訊いていた。生まれたときからよ、と由希が正直に答えると、拓海は、共通の話題が見つかって間が持つとでも思ったのか、どういう関係なのかを詳しく訊きだした。
「拓海くんは由希のことどう思う?」
由希は話題を軌道修正した。このまま華子と由希の関係を訊かれ続けてボロが出るようなことになるまえに、拓海と由希の関係を聞く側に回って安全を確保する。
「工藤はいいやつだと思うよ。今日のデートのこととか」
それはもう分かった。
「あんまり由希のことには興味ない?」
「いや、そんなことないよ。工藤は真面目だし、優しいし」
「わたしの友だちだからって、無理しなくていいよ」
「無理とかじゃないよ」
「そお? じゃあ、どういうところが真面目で優しいの?」
拓海は、由希が教室の掃除を真面目にやっていることや、気分の悪い友達の代わりに委員会の仕事をやってあげたことなど、細かなことをあれこれと話し始めた。
鈍感だと思っていた拓海に意外に繊細な神経があることに驚くとともに、抑えこんだはずの罪悪感が復讐心という縄を引きちぎろうとしていた。そういう風に自分の行為に好意を持ってくれる男の子を騙そうとしているのである。よっぽど、正体を明かして、許しを請おうと思った由希だったが、
「そういえば、工藤に謝らなきゃいけないことがあるんだ」
という拓海のセリフで思い止まった。興味深そうな顔を作り、先を促す由希に、
「実はオレ、一年前の林間学校のときに工藤に酷いことしちゃってさ」
と肝試しの頼まれざる幽霊役になって由希を驚かせた上、服を汚させたことを告白した。由希の高ぶっていた気持ちはすっと冷めた。そのときの屈辱が、また蘇ってきたのである。
「謝ろうと思ってるうちに半年過ぎちゃって」
拓海の言葉は遁辞に過ぎない。
「そうして一年、二年と過ぎていって、井本君は忘れていくんでしょうね。でも、された方は決して忘れない、一生」
答えた由希の声の冷たさに、拓海ははっとした顔を作った。正体がバレてしまうかもしれないことも忘れて、由希は華子の顔を脱ぎ捨てていた。
「そのときの気持ち分からないでしょうね、あなたには。泥でべたべたの服を着て、みんなに笑われる中、バンガローに入って、翌日みんなにウワサされる惨めな気持ち。楽しいはずの思い出を台無しにされた空しさなんて」
由希の強い声に打たれたように、拓海は肩を落とした。
「工藤に聞いたんだな」
由希と華子が同一人物だということにはまだ気がつかれなかったらしい。誤解をしている拓海に、由希がうなずく。少年はしばらく視線をテーブルに落としていたが、やがて、目を上げると、
「オレ、謝るよ、工藤に。電話番号、教えて」
決意の色を声音に表して、由希に迫った。
「……え?」
「華子ちゃんに言われて……っていうのも情けない話だけど。今すぐ謝りたい。工藤の番号知ってたら、教えてくれないかな」
由希は、突然の展開に戸惑いながらも、教えないわけにもいかず、自分の番号を教えた。店内での携帯使用は禁止されているため、店を出よう、と言う拓海のあとに続く由希。拓海が電話をかけてきた場合にどう対応するべきか心が決まらないうちに、店外に出た拓海は、さっさと自分の携帯を取り出して、番号をプッシュした。マナーモードにしていた由希の携帯が光で着信を告げる。
由希は拓海に断ってから、その場を離れ、電話を受けた。
「もしもし……」
由希が応答すると、当然ではあるが先ほどまで話していた少年の声が聞こえてきた。
拓海は自分の姓名を告げると、開口一番、一年前の肝試しの件を告げたあとに、
「本当にごめん。今さら謝ってもどうしようもないし、そもそも謝ったからってどうっていう話でもないんだけど。悪かったよ、オレがふざけた所為で林間学校を台無しにして」
真剣な口調で謝ってきた。
これが、拓海との付き合いが全くない場合だとしたら、きっと思う存分罵っていたことだろう。あちらから素直に謝られた場合に、いいのよ、と快く許して可愛い子を演じられるだけの世慣れた所は由希にはない。冷ややかな皮肉を十二分に浴びせたのち、こちらから電話を切るくらいのことはしたに違いない。しかし、今や事情は違ってしまったのである。拓海を騙しているという負い目が由希にはあるのである。無論、そもそも騙すつもりでやってきたことであり、うまく騙すことこそが由希の勝利を意味していたはずであった。が、恋を囮にした復讐を完遂するために必要な酷薄さが彼女には足りなかったようであり、しかも、拓海の謝罪は、悪いことに彼女の良心に力を与えていた。
「工藤?」
携帯電話から控えめな声が聞こえてくる。由希の無言を怒りのためか何かと勘違いしたのだろう。由希は、少し離れた所で電話をかけている少年の姿を見やりながら、自身の敗北を認めた。拓海の声が耳で鳴った。
「あの、これからちょっと会えないかな。直接会って謝りたいんだ」
「今、デート中でしょ。華子ちゃんはどうするの?」
「事情を話して、今日のデートは中止してもらうよ」
「いいの?」
「この気持ちのまま華子ちゃんと付き合ったら失礼だし」
一瞬、由希の頭に閃いたのは、このままの流れで拓海と別れ、華子の変身を解いた上で彼と会う、という筋書きだった。由希は首を軽く横に振って正気を取り戻した。そんなことをしてもどうにもならない。それで、今日の所はうまく収まったとしても、今度拓海が華子に会いたいと思ったときにどうすればいいのか。何より、良心の復活を許してしまった現在の由希にとって、恋する少年をこれ以上騙すのは忍びなかった。
「今から時間ある、工藤?」
「あるわ」
「今、どこ?」
「……すぐ近く」
「え? 駅前にいるの?」
「ええ、そっちから見える位置にいる」
驚いたようにきょろきょろと辺りを見回し始めた拓海に、由希はゆっくりと近づいていった。緊張に心臓の音が聞こえるような気さえする。本来ならば歓喜の瞬間になるはずだったその一瞬に、由希は何の喜びも感じなかった。
肩を軽く叩かれた拓海が振り向くと、デート相手の少女が携帯電話を耳に当てた状態でこちらを見ていた。
「井本くん、わたしも一つ謝りたいことがあるの」
携帯電話から聞こえてきた声に、拓海は眉を顰《ひそ》めた。内容もそうだが、それよりも、携帯の言葉と同じ内容のセリフを目前の少女の口が発していたからである。
由希はショルダーバッグから取り出した眼鏡をかけた。レンズ越しにしっかりと拓海を見据えて、
「ごめんなさい。華子ちゃんなんてどこにもいないの。わたしが華子ちゃんなの」
と告げて、頭を大きく下げた。
しばらくそのままにしていると――
地面に何かがぶつかって乾いた音を立てた。
由希は地に横たわった拓海の携帯電話を拾い上げて埃を払うと、放心したような顔をして立ち尽くしている少年に向かって携帯を差し出した。差し出された携帯は拓海の目には映っていないようだった。じっと顔を見つめられている中で、由希は、今日の計画のことをつらつらと説明した。改めて言葉にすると、いかに自分が酷いことをしようといていたのかということが分かって胸が悪くなる。
「ごめん」
今度は頭を下げる代わりに、拓海の目を見つめた。それで正気を取り戻して欲しかったのである。
それから少ししてようやく現実に戻ってきた拓海は自分の携帯電話を受け取ると、大きく息をついた。
「ああ、びっくりした」
その声音がからりとしたものだったことに、ちょっとほっとした自分の心持ちを由希は引き締めた。今は彼のターンなのである。こちらは神妙にして、彼の次の言葉を待たなければならない。その由希の耳に聞こえてきたのは、信じられない言葉だった。
「華子ちゃん……じゃない、工藤、許してくれる、林間学校のこと」
自分を非難する言葉を待っていた由希は呆気に取られた。
「さっきは電話越しだったから、今度は直接ってことで」
「もう気にしてないよ」
「ほんと?」
本心だった。拓海の謝辞を受けて、過去の嫌な思い出があった位置に、新たな思い出が現れた。しかし、その新しい記憶に今度は悔恨という暗い色が塗られている。
「それより、わたしのことは? わたしのことは許してくれる?」
後悔の色を少しでも拭いたい由希が緊張した声で訊くと、拓海は安心させるような微笑を浮かべ、もちろん、とうなずいた。
「本当?」
「ああ」
「ひどいことしたわ」
「いや、もともとオレが先だったわけだしさ」
そう言った少年の顔にふと寂しげな陰影が現れた。どうしたの、と心配した由希に、
「……華子ちゃんにまた会いたかったな、と思ってさ」
静かな、静か過ぎる声。よく考えもせず、反射的に、
「じゃあ、お詫びに付き合うよ、これから」
言ってしまった由希に、拓海ははっきりと首を横に振った。
「そんな謝罪の気持ちで付き合ってもらいたくないし、それにさ、オレの思い描いてた華子ちゃんは消えちゃったわけだからさ」
今こそ、自分が何をしたかということが正確に由希には理解できた。一人の男の子の、一人の女の子への想いをもてあそび、彼から彼女を取り上げてしまったのだった。それは大げさな話かもしれない。何と言ってもまだ半日の付き合いにすぎないのである。しかし、そういう言い訳で自分を納得させるには由希の気持ちには純粋なものがあり過ぎたようである。
霞む視界を通して、拓海の驚く顔が見えた。
「こんなことしなければ良かったわ」
拓海はポケットからハンカチを取り出すと、ぎこちなく差し出した。
由希はハンカチを受け取ると、眼鏡を外して涙を拭いた。そうすることによって同情を引いているようで、泣いている自分に対してもまた泣きたい気分だった。
「本当に気にしてないからさ」
拓海は優しい声を出したあと、
「ここで泣かれてると、何かオレが泣かしてるみたいだろ」
とおどけた口調で言った。その言葉通り、二人の横を通り過ぎる通行人の何人かが、物見高い視線を投げていた。中学生カップルの喧嘩だとでも思ったのだろう。好奇の目を意識した由希は、どうにか涙を止めて、ハンカチは洗って返すから、と持ち主に告げた。
「別にいいよ」
これ以上はほんの少しでも拓海に負い目を持ちたくない由希は、強硬に、キレイにしてから返却することを主張した。ハンカチくらいのことで女の子とやり合うつもりのない拓海は承諾すると、
「……じゃあ、これで」
と別れる素振りを見せた。由希にはそれを止めることはできなかった。拓海の立場に立てばデート相手が消えたのだから、デートを続けることはできず、とすれば帰るしかないのであり、それを止める資格は当然由希にはありようもなかったのである。
立ち去る拓海の後姿を見ながら、由希の中から復讐心は去り、変わって悔恨の苦味が残っていた。拓海は許してくれたが、だからと言って自分を許せるかということとは別問題である。ただ、それだけではない。驚いたことに、拓海に対する好意を感じている自分がいた。由希への謝罪から始まって、三文芝居を寛大に許してくれたこと、涙を見せる少女への思いやり。それらの全てに共通する誠実さが、心地よく由希の胸に沁《し》みていた。しかし、その好意が結実することは無いのである。拓海は由希のことを好きになったわけでは無いし、由希としてはこんなことをしておいてどんな顔で好意を示せば良いのかということになる。
遠ざかる少年の姿を目で追いながら、鈍い痛みが胸を打っていた。この痛みを伴って今度は、今日という日が消せない過去、消したい過去になってしまうのだろうか。
由希の足が地を蹴った。そんな負の連鎖はうんざりだった。このまま過去に囚われてしまうなら、一体、今回の件は何だったのか。こんな辛い思いをして、辛い思いをさせて、何も学ぶものがないような子どもではいたくない。
「拓海くん!」
息せき切って追いかけてきた由希を訝しげに振り返った拓海に、由希は次の日曜日にデートしてくれるどうか訊いた。拓海はほんの少しだけ探るような目をした。その目には同情を拒むような色があった。由希は、
「華子ちゃんじゃないよ。工藤由希がデートしてほしいの」
とはっきりと告げた。
拓海は、うーん、と少し考える素振りを見せ、由希の鼓動を速めたあとに、
「いいよ。ちょうど暇だったんだ」
そう言って申し出を受け入れた。
由希は安堵の吐息を漏らした。もしかしたら拓海に気を遣わせたかもしれないが、そこまではもうどうしようもない話だった。そうでないことを願うことしか由希にはできない。
「家まで送ってもらってもいい?」
おそるおそる依頼した由希に、拓海は快いうなずきを与えたあとに、
「そうだ。一つ頼んでも?」
軽快な声で尋ねた。何でも言って、と勢い込んで訊き返す由希に、返ってちょっと気後れしたような顔を作った拓海は、
「工藤の家につくまでさ、華子ちゃんでいてくれるかな?」
と控えめな声を出した。ちょっと照れたように視線を逸らす少年の前で、由希は眼鏡を外した。
少女の白い手が眼鏡をショルダーバッグの中に入れたあとに、自分に向かって差し出されているのを見て、拓海は戸惑った。
「華子ちゃんはね、積極的なの」
由希はそう言ってにこりと微笑むと、拓海の手を取った。手をつないだことによって、間近に華子の明眸が見られることになり、返って拓海は彼女に目が向けられなくなった。
「これは反則だろ」
歩き出しながらぼそりとこぼす拓海。その内心を読み取れた由希が、
「そうかな。ルールの内じゃない?」
いたずらっぽい顔をした。
「だったらオレは完敗だな」
拓海は相好を崩すと、自棄になったような口調で、あーあ、と大きなため息をついて、
「やっぱ華子ちゃんは可愛い」
誰にともなく宣言した。
「未練がある?」
「当たり前だろ。初恋だったんだぞ」
由希の頬が染まるのを目ざとく見た拓海が、
「工藤じゃなくて、華子ちゃんだぞ」
と、釘を刺した。
「同じじゃないかな。どっちもわたしだし」
「全然違う。華子ちゃんの方が百倍くらい可愛い」
ひどい、とショックを受けた振りをした由希の胸に、清風が吹く。自分を捕らえようとした過去の鎖を引きちぎる形で、拓海にデートを申し込んでから、すっきりと穏やかな心持ちになっていた。もちろん、それは由希の自己満足であって、拓海の心中には穏やかならぬものがあるかもしれない。けれど、それはまた別の話である。拓海の傷心については、これから償っていくしかないし、そうすることしかできない。そういう風に覚悟を据えることができるということ自体も、由希の気持ちが落ち着いていることを表していた。
由希は隣を歩く少年に感謝した。彼のおかげで一つ精神的な成長を遂げることができた。しかも、軽く胸をときめかす気持ちのおまけつきだった。今日は、一方的に驚かせる側に立てる一日であったはずが、気がついてみると驚かされることも多かった。ただし、その驚きがいつかのようなものではなく、嬉しい驚きであることが救いだった。
「どうかしたの?」
横から拓海が尋ねてきた。やたらとにこにこしている少女を怪しんだのである。
「拓海くん」
「なに?」
「腕組んでもいい?」
手をつないでからいくらも経っていない。いくら何でも速すぎる展開にうろたえる拓海に構わずに、少女は少年の腕に自分の腕をからませた。
傾きかけてきた夕日が、仲良く腕を取りながら歩く中学生二人の影を、しばらくの間、街路に映していた。
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2009/03/23(Mon)00:52:31 公開 / van
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