- 『蒼い髪6』 作者:土塔 美和 / ファンタジー 未分類
-
全角48650文字
容量97300 bytes
原稿用紙約160枚
ある村に、神と契りを結んだ娘(ナオミ)が最初に生む子は、神の生まれ変わりだという言い伝えがある。それに興味を持ったギルバの皇帝が、強制的にその娘(ナオミ)を王都に連れて行き、ひとりの王子(ルカ)を産ませる。平民の母(ナオミ)を持つルカは、貴族の間から蔑視されるが、本来、十歳の誕生日を迎えて皇帝からいただけるはずの軍旗(艦隊を動かすための馬印)を、六歳で貰うことになり、他の王子やその母親から妬みを買うようになる。そして、笑いものにするためにルカの館で開かれたサロンの会場で、
-
ルカの館では先日のサロンの後片付けも済み、やっといつもの生活に戻っていた。
そろそろ田植えの準備だ。代掻きもいつの間にか館総動員でやるようになっていた。別に強制ではないのだが、収穫のおこぼれに預かるには少し手伝っておいたほうが、貰いやすいという彼らの下心からだ。
田んぼの広さに比べ機械と人数が余っていては、仕事も早くかたづく。
「母上、思ったより早く終わりましたね」
額の汗を拭きながらルカは言う。
侍女や従者たちもおのおの好きな所で一息入れる。これも彼らたちの楽しみの一つだ。普段は持ち場持ち場であまり接触のない者たちも、畑仕事となると一箇所に集まって来る。そしてここには身分がない。何しろ奥方自らがドレスの裾をたくし上げて仕事をするぐらいだから、他の者がじっとしているわけにはいかない。貴族であろうと平民であろうと一緒になって同じ事をする。そして最後に同じテーブルで同じお茶と菓子で労をねぎらい会う。その誰の顔にも収穫を期待した万遍の笑みがある。彼ら彼女らの笑い声が庭中に響き渡る。
ルカはいつもの所で手や顔を洗うと、いつものように蹲の水を柄杓ですくって飲んだ。
大口でごくごくと飲んでいるうちに、唇が痺れ出しいきなり周囲が回り始めた。立っていられずに両手をつく。息苦しさを覚えた時には体が痙攣し始めていた。
しっ、しまった。と思いながらもハルガンに教わった通りに指を喉の奥に突っ込む。
吐くことは吐いたのだが、次第に意識が薄れていく。
「はっ、母上、 水 だめ」
そのまま前のめりに倒れる。
ルカの様子に気づいた従者が駆けつける。
護衛たちも駆けつけてきた。
その内の一人が、「毒だ」と叫ぶ。
あたりは騒然としてしまった。
「ルカ!」
ナオミの叫び声。
ここ王都では、王子や王女の毒殺は珍しいことではない。ギルバ帝国誕生以来、否、ネルガル誕生以来というべきなのだろうか、延々と繰り返されてきた。
警戒はしていたが、ある意味、油断もしていた。王位継承権のない王子だと思って。
「早く、医者を呼べ」
ルカはそのまま王室専属の病院へ運ばれた。
ナオミも付き添う。
リンネルも後をレイに任せ、一緒に病院へと向かう。毒だということは伏せるように指示して。
ルカは胃や腸を洗浄され、ナオミの待つ病室へと戻って来た。
酸素マスクが付けられ、体調を確認するための装置が取り付けられる。ディスプレーにはルカの現在の生命機能が表示される。心臓がかろうじて脈打っているのがわかる。
「毒は、クゼリが使われたようです」と言う医者の説明に、リンネルは沈痛な趣になる。
クゼリとは植物の名だ。その植物の根を乾燥させて粉末にしたもの。無味無臭の神経毒だ。耳かき一杯もあれば一トンもある動物ですら眠るように殺せる。ただ苦しまずに死ねるというのがこの毒の最大の特徴でありせめてもの救い。よって自殺などにもよく用いられる。ただし万が一助かれば悲惨だ。神経が侵されるため脳に重い後遺症が残り、廃人同様になる。
「今夜が峠でしょう」
リンネルは絶望の淵にたたずんだ。
もうこの方が、ご自身の意思で動くことはない。
うかつだった。悔やんでも悔やみきれない。
ナオミはルカの上に覆いかぶさるようにして、我が子の名を呼び続けている。それがいつしか、ルカではなくエルシア様と呼ぶようになっていた。
どうしたことだ、錯乱でもなされたのか。こんな気丈なお方でも。
リンネルは哀れになり、その場に居られず一時病室を離れた。
廊下では部下たちが待機していた。
「ご容態は?」
リンネルは軽く首を横に振る。
「毒は、クゼリだ」
「やはり」と、ハルガン。
「何か、見つかったか」
「おそらくカプセルだろう。時間が経てば溶け出す仕組みになっていたようだ。蹲をきれいにさらったが何も証拠らしきものは」
「そうか」
何の道、証拠があったところでどうにもならない。
ナンシーには侍女たちのことを頼んだ。あまり騒ぎ立てないように。ここで下手に動くと奥方様の立場が危うくなる。犯人の目星は付く。二日前のあのサロンだ。あの中の誰かだ。彼女たちは、ただ平民出の奥方様を笑いに来ただけではなかった。真の狙いは殿下にあったのかもしれない。しかし何故。殿下に王位継承が回ってくることはまずない。妬みか。生まれた時には王位継承が十一番でも、夫人の間に男子が生まれるたびにルカの順位は下がった。ルカより位の低い王子はいない。なぜなら平民に子を生ませることがないからだ。それは陛下が遊びで関係を持ったところで、腹の子は生まれる前に処理されてしまうからだ。ルカが生きられたのは、神の子という噂があったから。たまたま殿下が興味を持たれたから。しかしあの中の誰にしろ、皆箔付きだ。我々の様な者が手を出せる相手ではない。おそらくこの件は闇の中に葬り去られることになる。ならばせめて、奥方様の御身だけでも。
「くれぐれも頼む。侍女たちには殿下はご病気だということにするようにと。毒を盛られたなどとは、決して口外してはならない」
「畏まりました」
部下たちには水を中和するように指示した。
「魚が、池の縁に数匹浮いていました」
その時点で気づけばよかった。池をよくよく見ていればわかったことだ。
全てが遅い。
「レイ、閣下に知らせてくれ。もう病院の方から宮内部には連絡がいっているとは思うが」
クリンベルク将軍にだけは真実を知らせておきたい。
全ての指示を出すと、リンネルは大きく呼吸をし、病室へと戻った。
時間は既に夜半。ナオミは疲れきって椅子に腰掛けたままルカの横に伏している。
心拍の波形はさきほどより弱っていた。止まるのも時間の問題。
このまま亡くなられた方が、殿下にとっても奥方様にとってもお幸せなのかもしれない。
その時である。リンネルの戦場でつちかわれた勘が、部屋の奥の何かを捕らえた。
誰か居る。
病室とはいえ王族専用の個室だ。その部屋は高級ホテルの一室と同じ。日常生活には何ら支障のない調度品が揃っていた。
そのソファの一つに、暗闇でよく見えないが、男が一人、苦しげに頭を抱えながら座っている。
「誰だ!」
リンネルは思わず腰のプラスターに手をかける。
獣のうなり声。
「止めなさい」という男の声。
声に力はなかったが、その意思ははっきりしている。
虎だか獅子だかわからない巨大な黒い獣は、その男の声に従い男の足元へ伏した。
「貴様、誰だ。どうやってここへ」
その声にナオミが起きる。
ナオミは何事が起きたのかと室内を見回し男の存在に気づく。
「エルシア様」
「あまりの苦しさに出てしまいました」と、エルシアは苦しげに笑う。
ナオミはリンネルがプラスターを構えているのを見て、慌てて止める。
「彼は怪しいものではありません」
「お知り合いですか」
「彼は、ルカです」
リンネルはナオミのその言葉が理解できず、一瞬、言葉に窮したが、
「奥方様、お気を確かに」
「私は、正気です」と、ナオミはリンネルにはっきり言うと、エルシアの方に向き直り、
「大丈夫ですか」と、声をかける。
「大丈夫なはずないわ」
思いっきり否定する大声と同時に、巨大な白蛇が天井に現れた。
リンネルは慌ててプラスターを構えなおし、引き金を引こうとした時、ナオミが体を張ってそれを止める。
「ヨウカ、そんな姿では皆が脅えます」
「うるさい、貴様は黙っちょれ。ビャク、傍に付いていながら、何をしておったのじゃ」
「そういう貴様こそ、何をしていた」と、ビャクと呼ばれた黒い獣は白蛇を睨みつける。
「わらわは、こやつに頼まれて村の様子を見に行っておったのじゃ。またガキが溺れておって」
気の流れが変わった段階で早く戻りたかったのに、子供を助けるのに時間を費やしてしまった。
「この役立たずが」
白蛇が獣に襲いかかろうとした時、
「少し静かにしてくれ」
ヨウカは攻撃の態勢のまま、苦しそうなエルシアを見、
「何でこんな奴をよびだしてのじゃ」と、獣の方を顎でしゃくりながらエルシアに問う。
「彼の臭覚を借りるためだ。二度と同じ手に引っかからないために」
「なら、わらわの舌を貸す」
「お前はバカか。毒を口にしてからでは仕舞いだろう」と、獣は言う。
ヨウカはむっとして獣を睨み付ける。
また二人の間、否、二匹の間で喧嘩が始まろうとしている。
「ヨウカ、人の姿になれ。それでは彼が」と、エルシアは仲裁に入る。
リンネルはただただ呆然とこの様子を見ている。脅えることも忘れて。
「嫌じゃ。わらわはこの姿が好きなのじゃ。主様に似ているきに」
「彼女は、そんな姿はしていない。普通の人間だ」
ヨウカの目は、魂は見ることが出来ても魂の器である肉体を見ることは出来ない。
「それは、人に宿った時のことじゃろう。主様が何にも宿らない時は、膨大なエネルギーの塊で見ているだけでその美しさにうっとりするぐらいじゃ。なのに、何故人になど宿るのじゃ。醜い」と、ヨウカは吐き捨てるように言う。
「もともと私たちは人間だ。人間が人間に宿ってどこが悪い」
ヨウカは暫し黙っていたが、ルカの方を顎でしゃくるようにして、
「それよりどうするのじゃ、その肉体」
既に脈拍はかなり落ちてきていた。昏睡状態だ。
「捨てるのか」
「今死ぬわけにはいかない」
「なら、主様を呼べ」
「それはできない」
その言葉は今までの苦しげな声音ではなかった。エルシアのはっきりした意思。
「血圧が落ちちょるぞ」
「ヨウカ、助けてくれ」
「主様を呼べ」
「それは出来ないと言っているだろう」
「じゃ、死ね」
「ヨウカ」
暫しの沈黙が流れた。
「どうせ、また転生すればよかろう」
「それではルカがかわいそうだ」
「またルカを表に出せはよかろう」
「ナオミの記憶を持たせたら、自分が殺されたことを知る。人を恨むようになる」
「当然じゃ、殺されたのだからのー」
「ヨウカ、頼む、手を貸してくれ」
その時、ナオミのすがるような声が二人の会話に割って入った。
「ヨウカさん、お願い、ルカを助けて」
ナオミは神にでも祈りを捧げるような仕種でヨウカを見る。
ヨウカはナオミの目をじっと見ていたが、
「仕方ない、手を貸すか。じゃが、お前に頼まれたからではないぞ」と、エルシアを睨みつけ、
「ナオミに頼まれたからじゃ。ナオミはわらわの大事な友達じゃきに」
「ヨウカさん、ありがとう」
ナオミは目にいっぱいの涙を浮かべ、天井のヨウカを抱きかかえるかのように大きく両手を広げた。
「毒は回らないように止めてある。後は吐かせればよい」
「わかった。わらわの胃に集めるがよい」
ヨウカはそう言うとルカの体内に入っていく。
ヨウカが完全にルカの体内に入ると、いきなりルカがベッドの上に起き上がった。
「ナオミ、バケツじゃ」
ルカの口から出た声は、ルカには似ても似つかぬ女性の声。
ルカの澄んだ美しい声に対して、その声はガラガラのダミ声だった。
「はい」と、ナオミは涙を袖口で拭き取ると、深めのトレーをルカに差し出す。
ヨウカはその中に胃の中にあるものを全部吐いた。
ナオミはそれを見て驚く。
「どうして、胃や腸は洗浄したはずなのに」
ヨウカが吐き出したものは、先程までルカが口にしていたものだった。
ヨウカは苦しげな息で言う。
「あやつはヤブじゃ。胃など洗浄しておらん。ただ口をゆすいだだけじゃ」
「どういうことなの」
「わらわに訊いても知るか。あのヤブ医者に訊くがよかろう」
何度かあげるうちに、いよいよ吐くものがなくなり、胃液のようなものがあがってきた。
ヨウカは苦しそうにあえぐ。
「大丈夫、ヨウカさん」
ナオミはルカの背、いや今はヨウカの背中をさする。
ヨウカは苦しげに息をつぐと、エルシアをねめつけ、
「覚えちょれ。この貸しは万倍にして返してもらうからに」
そう言うと、ヨウカはまた苦しそうに吐く。
ナオミはそんなヨウカの背を懸命にさする。
リンネルはただただ呆然と、この光景を見ていた。
吐くだけ吐くとヨウカは、いやルカは落ち着いた。
「もう、大丈夫じゃろう」
ヨウカがルカの体内から抜けると同時に、ルカはゆっくりベッドへと倒れ込む。
だが血圧も脈拍も以前より悪くなっている。
これでは。と心配するナオミに、
「ルカの首筋に、大豆ぐらいの赤い黒子があるから、それを取って飲ませてくれませんか」とエルシア。
赤い黒子? そんなものあったかしらと思いながら、ナオミはルカの首筋を探る。
すると鎖骨の少し下ぐらいの所に、確かに大豆粒ぐらいの黒子がある。それも血のように赤い。
これかしら。と思いながら触れると簡単に取れた。
「何かしら、これ」
「竜血石じゃ。早く飲ましてやれ。喉の奥の方に入れるのじゃぞ」
竜血石? と思いながらもとにかく飲まさなければと思い、喉を開けるようにルカの頭を抱え込むと、喉の奥の方に指で押し込んだ。
「そうじゃ、それで安心じゃ。後は二、三日寝かしておけば、元気になる」
ヨウカがそう言い終るが早いか、ルカの血圧はあがり脈もしっかりしてきた。
「竜血石って、何なんですか」
「竜血石も知らんのか。まったくこれだからネルガル人は」と言いかけて、ヨウカは誇らしげに説明し始めた。
「竜血石とは読んで字のごとく、竜の血でできた石のことじゃ」
そんなこと、偉そうに説明されなくともわかる。竜とは?
「こやつの主様の血じゃ。竜の血は万能薬なのじゃ。こやつの身に何かあった時の用心に持たせてくれたのじゃ」
ヨウカはエルシアの方を顎でしゃくりながら説明する。
竜。エルシア様の主。一度だけお会いしたことがある。あれは竜宮で爆水の中からこちらをじっと見ていた。
そうこうしている間に、ルカの顔には紅まで差してきた。
「母上」
ルカのかすれた声。
「ルカ」
ナオミはルカの手を強く握った。
それに安心したのか、ルカは微かにほほ笑むと深い眠りに落ちた。
「もう、心配いらぬのー」
ヨウカのその言葉にエルシアも頷く。
竜血石が効いてきたのか、ルカはすやすやと眠りだした。
「二、三日も寝ていれば、元気になる」
毒が消えたのか、エルシアも楽そうだ。
「主様って、とてもお優しい方なのですね。あなた様の身を案じてご自分の血を持たせるなんて。あの時は少し怖い感じがしましたが」
「別に優しい訳じゃないわ。当然のことじゃろう。自分で自分の肉体を守るのは」
「当然のこと? 自分で自分の肉体を守る?」
「そうじゃ、それに怖いのもな。主様はネルガル人が嫌いじゃきに」
ナオミは唖然としてしまった。今まで自分たちが神として祀っていた方に、自分たちが好かれていないなんて。何か祀り方に手違いでもあったのかしら。
「ヨウカ」と、エルシアはヨウカの言動を止めようとしたが、ヨウカは話し出すと止まらない。
「こやつは、主様の欠片なのじゃ」
「かけら?」
「そうじゃ。こやつは主様が自分の五感の代わりに、自分の魂の一部を削って作ったものじゃ」
「少し、待って」
ナオミの理解は限界に達した。
リンネルにいたっては、だいたいエルシアと呼ばれる青年とこの二匹の獣の存在自体が理解できない。まして獣と蛇が人の言葉を喋り、その上に、自分の魂の欠片で人間を作った? 自分は一体今、どのような空間に存在しているのだ。確かここは宮内部お抱えの病院のはず。それも個室の集中治療室のはずだ。集中治療室とはいえ、さすがに王族の病院、医療装置はもとより調度品まで豪勢だ。だが、何かが違っている。
「あの、ヨウカさん。済みませんが、もう一度私がわかるように説明していただけませんか」
ナオミは申し訳なさそうに下を向く。
神の母だというのに、神のことは何も知らない。
ヨウカはどのように説明しょうかと考えているのか、しばし黙り込んでいたが、
「お前らのような脳みそのない生き物に、何度説明してもわかってもらえんようじゃが」
ヨウカは前世でも似たようなことを訊かれ、幾度となく説明している。だが一度として理解されたことはなかった。
「お前はわらわの大事な友達じゃきに、もう一度だけ説明してやる、よーく聞いておけ」
ヨウカは部屋の中をナオミの目を借りて見回すと、隅のテーブルの上にナオミの夜食用にと用意されたパイを見つけた。
「それがよい」と、ヨウカはパイの方に視線を向けた。
ナオミが、何が。と思っているうちに、パイが二つに裂けた。と言うより、パイがちぎれた。
「よいか、このパイが主様だとする。このパイは」と、ヨウカは獣の方に視線を向ける。
「このパイも主様だ」と、獣は答えた。
「まあ、同じものじゃきに。だがそれではややっこしいので、わらわは大きい方を主様、小さい方をこいつと呼ぶことにしたのじゃ」
つまりこいつとは、エルシアのことだ。
「どうじゃ、わかったか」
パイだけ見ればすごく解りやすいのだが、どうもわからない。ナオミは困惑したような顔をした。
「なんじゃ、その顔は」
「つまり、主様と言う方とエルシア様は同じと言うことですか」
「そうじゃ」と、ヨウカはもっともらしく頷いた。
「では何故、一つのパイを小さくちぎる必要があったのですか」
「だから、今言うたじゃろうが、お前は人の話を聞いとらんのか」
人の話なら聞く。だが蛇の話では。聞いてもさっぱりわからない。
「自分の五感を代行させるためじゃ」
「五感?」
「だから、目だの鼻だの口だののことじゃ。そんなことも知らんのか」
ヨウカは苛立つように言う。
「それは解ります」と、ナオミ。
苛立つヨウカの機嫌を取るようにして、また訊く。
「でも、どうして五感を」
代行させなければならないのか。
「主様の気は濃いのじゃ。吸っても吸っても枯れるということがない。まるで泉のようじゃ、こいつとちがっての。ある意味、主様は化け物じゃ」
普通人間は、いや、生きとし生けるものはその気(生体エネルギー)を吸い尽くされるとミイラのように干からびて死んでしまう。だが彼女の気は、ヨウカの腹の方が破裂してしまうほどの量だ。
ヨウカを以ってして化け物と言わせる人物、否、人ではないのかもしれない。
ナオミは少しおかしくなった。
「何が、おかしいのじゃ」
「いえ」と、ナオミは破顔しかけた顔をもとに戻す。
「生物とは、自分の体を気で覆っておるのじゃ。死んだもの(魂のぬけたもの)には、これがない。つまりじゃ、気が濃いということは、覆っているベールが厚いということじゃ」
ナオミはまたヨウカが言わんとする意味がわからなくなった。ぽかんとしていると、
「つまりじゃ!」
ヨウカの苛立ちも頂点に達している。
「軍手を五十枚もして、ドライアイスを掴むようなものじゃ。熱くも冷たくも感じないのじゃ。だいたい掴んでいることすら感じなかろう」
「はっ?」
解ったような解らないような。
「わかったか、このうすらトンカチ」
「つまり、その主様という人は、物に触れても何も感じないわけ」
「そうじゃ。感じないどころか、目も数十枚のベールを透して見ているようで、何も見えん。いや、薄ぼんやりとは見えるのかな。耳も鼻も全てがそうじゃ」
「それって、ヨウカさんと同じね。見えるのは魂だけとか?」
ヨウカはナオミと同じ世界を見たり感じたりする時は、誰かの五感を通してでしか見ることができない。おもにナオミの五感を利用しているようだが。
「そうじゃ。だから自分の魂を削って小さくした奴の五感を通して、外界を知るのじゃ」と、ヨウカはエルシアを指差す。
蛇に手はなかったと思うが、何故かヨウカの体からは女性のしなやかな腕が伸びていた。
「わかったか」
なんとなく、 わからない。
「それなのにこやつは、主様と喧嘩して帰れないのじゃ。その間、ずーとその任務を怠っておるのじゃ。主様はさぞご不自由じゃろーに」
「喧嘩?」
否事を聞くとナオミは思った。竜神様は喧嘩がお嫌いなはず。
「別に、喧嘩はしていない」
「では、何故帰らぬ」
エルシアは答えない。
「ほれ見ろ。お前が謝らぬから、帰れぬのじゃ」
「別に私は、悪いことはしていない」
「強情も、いい加減にせい!」
ヨウカは怒鳴った。
「ただ、ネルガル人を嫌わないで欲しいだけだ」
「そりゃ無理じゃ。主様は血を好む者は好かんきに」
ヨウカの言う血とは戦争のことだ。
「あの時、ネルガル人を星ごと消しておれば、この宇宙はもっと住み心地のよいところになっておったのじゃ」
エルシアはヨウカの言葉を遮り、
「お前は、ナオミが嫌いか」
「ナオミ?」
ヨウカはナオミをじっと見た。
ナオミに一番接しているのはヨウカだ。
王都で独り、塞ぎ込んでいるナオミの話し相手になっていたのもヨウカだ。エルシアはナオミの体内に宿った時から、ヨウカほど自由が利かなくなっていた。
「ナオミは好きじゃ。わらわの親友じゃきに」
「ナオミはネルガル人だ」
ヨウカは黙ってしまったが、反論の糸口を見つけたのか、
「ナオミの体内にはお前の血が流れておるがに」
「それ、どういうこと」と、ナオミ。
「なんじゃ、何も知らんのか。お前はこいつの子孫じゃ。あの村の大半はこやつの子孫じゃ」
「でも、私はあの村の者ではないわ」
「ああ、お前の親はな。だがお前の何十代か前の親は確かにあの村にいた」
ナオミは驚いた。
ナオミは何百年あるいは何千年か前にあの村を出た者の子孫だった。つまりナオミが村に来たということは、帰って来たということだ。
「お前の血が一滴でも流れていれは、ネルガル人じゃない」
「私の血が入っていてはだめか」
「当然じゃろう。現にわらわは、そやつは嫌いじゃ」と、リンネルの方に視線を移すと、
「そやつはネルガル人じゃきに」
「リンネルさんは、とてもいい人よ」と、ナオミがリンネルを庇う。
「じゃが、ネルガル人じゃ。ネルガル人は主様が嫌いじゃきに、わらわも嫌いじゃ」
明快な答えだった。
「それでは主様が嫌いなものは全部嫌いなの」
「そうじゃ、わらわは主様が好きじゃきに」
「それって、おかしくない」
「何がじゃ」
主体性がないような気がするが、ヨウカは別に気にしていないようだ。
「主様、人が来ます」と、獣。
「毒の臭いもします。同じ毒です」
既に獣はルカの鼻を使って臭いを嗅ぎ分けているようだ。
全員に緊張が走る。
「いくら竜血石を使ったからといえ、これ以上毒を盛られたら、もたんぞ」
「わかっている」と、エルシアは頷き。
「ナオミ悪いが、彼をルカの体に触れさせないでくれ。それとここは危険だから、早く館に戻れる手続きを」
「わかったわ」
エルシアはルカの体内へと戻る、獣も一緒に。ところがヨウカだけは残っていた。
「ヨウカ」と呼ぶ声。
「大事じゃ。わらわの姿は奴らには見えん」
ヨウカの体が透けるようになった。
ドアをノックする音。
装置の値がおかしい(あまりにも正常値に近い)ので様子を見に来たのだろう。万が一の時には止めを刺すために。
主治医が現れた。看護婦の手には点滴剤。
あれからどのぐらいの時間が経ったのだろうと、ナオミは部屋のクラッシクな時計を見る。
やはり、と思った。
彼らといる間、時間の感覚がない。経過したのはたかだか数分。十分と経っていない。おそらくルカが毒を吐いている時だけ、時間が進んだのだろう。
「いかがですか、ご容態の方は」
そろそろ息の根が止まっているのではないかと思っていたが、驚いたことに、取り付けた装置類は全て正常値に近い値を示していた。顔色を見れば、呼吸もしっかりして穏やかだ。
やはり、待機室の装置が狂っていたわけではない。一体これは、どうしたことか。
不審な顔をしている主治医に対し、
「いかがなさいました」と、ナオミ。
ヨウカは物凄い目つきで主治医を睨み付けている。
リンネルもいつでも行動を起こせるようにルカの近くによる。万が一の時は、ルカを抱えて走り出すつもりだ。
「あなた様のお陰で、随分楽になられたようです」と、ナオミは丁寧に主治医に頭を下げる。
死ななかったのか、ではこのまま昏睡状態か。だがそれにしては脈がしっかりしすぎている。
「では、脈を」と、主治医がルカに近づこうとした時、
「あちらの装置に表示されております」と、ナオミは主治医とルカの間に割ってはいると、
「クゼリの毒は助からないと聞いております。ここで寝かせるも館で寝かせるも同じ事。願わくは館に連れ帰したいと思います」
「さようですか、では点滴を一本」
ナオミは軽く首を振ると、
「このままそっとしておいてやりたいと思います」
遠巻きに治療を断る。
「さようですか、力が至りませんで、申し訳ございません」
主治医はそう言いながらも、装置の数値類はきちんとチェックしていた。
おかしい、そんなはずはない。
「車を呼びたいのですが」
「今夜は遅いので、明日にしては」
「明日まで息があるかどうか。息のある内に、この子の好きな花畑を見せてやりたいと思います」
もう既に昏睡状態なのだが。
ナオミの諦めきった表情に主治医も少しは罪悪を感じたのか、退院を許可した。
どうせ助からないのだ、どこにいても同じ。しかし其れにしては数値が。
「お車を、ご用意いたしましょうか」
「いえ、廊下に部下を待機させておりますから」と、リンネル。
「さようですか」
主治医と看護婦は深々と頭をさげて、部屋を後にした。
ヨウカは医者が出て行った扉をじっと睨み付けている。
ヨウカは何を思ったか、ルカの汚物に顔を突っ込むと何かをくわえだした。だが今のヨウカには、現世のものに触れることもできないはずだ。現世のものに触れるには、現世の肉体が必要。誰かの体内に入らなければ現世のものをくわえることなど出来ない。では今ヨウカがくわえているものは何?
「毒じゃ、いや、毒を孕んだ気じゃ」
「気?」
気であるヨウカは同じ気ならくわえることが出来る。もっともそれは本来は、ナオミが見ることは叶わないはずのものなのだが。
だから何かヨウカの口の中で蠢いているように見えるのか。
「それをどうするの」
「決まっとるじゃろ、奴に返してやるのじゃ」
「ヨウカさん」
ナオミは慌てて止めた。
「駄目よ、エルシア様は、人を殺すことは好まない。そんなことしたら、ヨウカさんがエルシア様に嫌われてしまう」
「わかっちょる。死なない程度に返すのじゃ。借りは返さなくちゃのー」
言うが早いか、ヨウカの姿は部屋から消えた。
リンネルは大きく息を吐いた。やっと呼吸をすることを思い出したかのように、今度は大きく息を吸う。体中、汗でびっしょりだった。
我に返ったリンネルがまず最初にしたことは、廊下で待機している部下に、車を用意するように指示した。
「殿下のご容態は」
「眠っておられる」
「やはり」
待機していた者たち全員に絶望の色。
このまま永久に眠り続けるか、あるいはこのまま衰弱していくかだ。
「助かる」
「えっ!」
「ただし、ここに居ては危険だ。館に戻る」
この病院は某夫人の息がかかっていた。
「助かるって?」
「詳しいことは後で話す。早く車を用意しろ」
リンネルは指示を出すだけ出すと、部屋に戻って来た。そしてルカの手を握り締めている奥方に、恐る恐る訊いてみた。
「奥方様は、あの者たちをご存知だったのですか」
ナオミはリンネルの方に振り向くと、
「エルシア様は最初から知っておりました。しかしあの黒い獣は初めてです。ヨウカさんは、普通は人の姿で現れるのです。その人が一番好む女性の姿でね」と、ナオミは最初にヨウカに出会ったときのことを思い出したのか、少し微笑む。
リンネルはそんな奥方の様子を見て、
「奥方様は、あの者たちを怖くはないのですか」
「怖くないと言えば嘘になります。でも、エルシア様は私たちの村の守り神ですし、ヨウカさんはああ見えて、とても優しいのですよ」
「彼らは何者なのですか」
「人間だそうです」
「人間?」
リンネルには到底理解できない。
「正確には、人間の体内にいるものだそうです」
もっともヨウカは違う、彼女は憑依しているのだから。でもあの獣は、ルカの人格の一つ。
生き物とは、幾つもの魂をより集めて一体として生まれてくる。
これはエルシア様が私に教えて下さったこと。生きるために必要なあらゆる人格を一つの体内に。そこには知的な人間もいれば獣もいると。
私は、最初は自分とは一人だと思っていたのだが、もし一つの人格だけなら、葛藤ということは起こり得ない。
「私たちの中にも、ああいうものたちが居るそうですが、それを自由に体外に出せるか出せないかは個人差だそうです」
リンネルには訳がわからない。
一生懸命理解しようとしているリンネルに、ナオミはかつての自分を見た。未だに理解している訳ではない。だがしばしば会っている内に慣れてしまった。慣れとは恐ろしい。今ではヨウカを不思議な存在とは思わなくなっている。それどころか私の親友の一人だ。
「そうですね、丁度短距離ランナーの足の速さのようなものです。早い人もいれば遅い人もいる。もっとも遅い人はいくら努力したところで、早い人のようにはなれませんが」
能力も同じ。強い人もいれば弱い人もいる。弱い人がいくら努力しても、それなりにはなるが強い人にはかなわない。
エルシア様は神。ならばあのぐらい出来てもおかしくない。
「それはどなたからお聞きになられたのですか」
「エルシア様から直に」
そう言うとナオミはタオルでルカの額の汗を拭いてやる。随分楽になられた。
「でも、ここのお医者様までが仲間だったなんて、思いも寄りませんでした。今後、この子が病気になったら、誰に診てもらえばよいのでしょう」
そこへヨウカが戻って来た。それも妖艶な女性の姿で。しかも毒を吐かせたルカの体内から抜け出した時より、はるかに輝いている。
今度は何が現れたのかとリンネルは驚く。
「早かったのですね、ヨウカさん」
ヨウカ? リンネルは我が目を疑いながらも、ここは成り行きにまかせた。この非現実的な世界をどう理解したらよいのか、とにかく、現状を把握できない以上、リンネルとしては成り行きにまかせるしかなかった。
「これで、あのヤブ医者も少しはおとなしくなるじゃろう」
「何をしたの。まさか殺したり」
「アホじゃのー。殺すはずないじゃろ。こう見えてもわらわは、エルシアの嫌うことはしないのじゃ」
「では、何を」
「すこーしのー、毒気のある気を入れて体調を良くしてやったのじゃ」
つまり病気にしたらしい。原因不明の高熱が出て、しばらくは悪夢にうなされる。
「ざまーみろじゃ。エルシアに害を成すからじゃ」
「本当に死なないのでしょうね」と、ナオミは念を押す。
「死なん」と、ヨウカは強く保証した。
「しかしここは好い所じゃ。精気の有り余っている奴が一杯いるきに。味さえ我慢すれば一杯吸える」
それで女性の姿をしているのか。とナオミは納得する。
「あやつは、家までもたんかった」
つまりヨウカの話では、一緒にいた看護婦に乗り移ったところ、途端に主治医は獣の本性を剥き出しにし、車の中で。
「運転手も慣れていたようじゃが、あれではさぞ運転しずらかかったじゃろーに。よう事故らんものじゃ」
ナオミは、まぁっ。という顔をする。
「まあ、わらわにかかればあんなものじゃ、落ちぬ者はおらぬ。主様ですら」
「少し待って、主様って、女性ではないの?」
確かエルシア様は彼女と言っていたはず。
「なんじゃお前、わらわを女だと思っておったのか」
どう見ても女性だ。それも悔しいが敵わないほど魅力的な。
リンネルなど目のやり場に困っている。
「女性ではないのですか」
「こやつが男の姿をしておるからに、わらわは女の姿をしておるだけじゃ。こやつの相手をする時、便利じゃろ」と言って、ヨウカは言葉を切った。
何かを思い出したように、
「落ちぬ奴が一人おったわ」
いきなり大声で怒鳴る。
「えっ」と、ナオミは興味津々。
「こいつじゃ」と、ヨウカはルカの方へ顎をしゃくる。
「エルシア様」
「そうじゃ。こいつは人があれだけ気を吸って、意識がなくなる一歩手前まで持っていってやっちょるのに、落ちんどころか寝やがるのじゃ。まったく何を考えているのかわからん」
ナオミはふと気になることがあったのでヨウカに訊いてみた。
「ねっ、ヨウカさんは、もともと主様の体内にいたのでしょ」
「そうじゃ、それがどうした」
「どうして小さい方のパイへ。大きい方のパイなら、食べ放題でしょ」
「だからつまらんのじゃ。だが小さい方は、もう勘弁してくれと言うから、おもしろい」と、ヨウカは笑う。
「どうしてエルシア様はあなたに気を吸われるままになっているの」
「それは、約束だからじゃ。わらわにものを頼むときは、代わりに気を吸わせるという。こやつは臆病で何もできんけんのー、わらわが代わりにやってやるのじゃ」
「臆病って、エルシア様が?」
「そうじゃ、臆病じゃ。何事もぐだらぐだら考えるだけで行動しない者は、臆病者じゃ。じゃがいったん口にしたことは守るのじゃ。まあそれがこやつの唯一の取り柄かのー」
それでカロルとも一日中付き合っている。
「そうなの」
「うん、そうじゃ。それに」
「それに?」
「主様の気を吸うなら、体内にいて吸うより外から吸った方が美味いのじゃ。それにはこやつの肉体が必要なのじゃ。他の肉体ではもたぬ」
「もたないって?」
「主様の意識がある時は、主様が手加減してくれるからよいのじゃが、落ちた時はのー、あのエネルギーがいっきに流れ込んで来るのじゃ。あれをまともに受けたら普通の肉体じゃ破裂してしまう。主様と同じエネルギー(魂)を持つこの肉体でなければ、駄目なのじゃ」
つまり主様の気を吸いたいがために、エルシアに憑いているらしい。
「竜の気は美味しいのじゃぞ」と、ヨウカは舌なめずりする。
「ヨウカさんは、主様のもとへ帰りたい?」
「あたりまえじゃ、それなのにこやつが」と、ヨウカはすやすやと眠っているルカを睨める。
「喧嘩の原因は?」
「こやつが悪いのじゃ」と、ルカの方を顎でしゃくりながら、
「こやつが主様にいろいろ言うから。わらわも主様も、現世は見えんのじゃ。それを。村の奴らが雨が欲しいというから、雨を降らせてやるのじゃ、それなのに」
旱魃の時、竜神様に頼めば雨が降るという言い伝えが村にはある。だがその言い伝えには続きがあった。
「一生懸命降らせてやれば、今度は村が水で押し流されたと文句を言う」
そう、頼むのはよいが、村が水没することもある。だから安易に頼んではいけないとも言われていた。出来るだけ努力して、それでも駄目だったら最終手段として雨乞いをする。
「でも、村が押し流されたら雨を降らせてもらった意味がないわね」
「主様は、現世が見えないのじゃ。誰かがもうよい。と言ってくれなければ、どのぐらい降らせたのかわからん。それにそもそも主様は水が好きなのじゃ。竜宮で自由に泳ぎまわれば、それが地上の雨になるのじゃ。わらわはその姿を見ているのが好きなのじゃ。あの時ほど、主様が美しく輝く時はないからのー」
竜宮。エルシア様に連れて行ってもらったことがある。この世とは思えないほど美しい所。全てが光に包まれているような。そしてあの海とも思われるほどの池。あの池で白銀に輝く巨大な竜が泳ぐ姿は、想像しただけでも、その美しさは言葉にはできない。
そうなんだ。とナオミは納得した。
竜宮での行為がそのまま地上に影響してくる。でも竜宮と地上の時間は違う。おそらく水神様がこのぐらいでよいと思われたことが、地上では大変なことになっているのだ。
「あやつが、ちゃんと止めんからじゃ」
「エルシア様が」
「そうじゃ、それがあやつの役目なのじゃ」
「もしかして、この笛」
「そうじゃ」
人と神を結ぶ存在。
ナオミは全てを納得した。現世の見えない水神様に、この笛を使って現世を知らせているのか。
だが待て、何かおかしい。エルシア様はお優しい方だ。今のヨウカさんの話では、目の見えない人にこの色は何色だと訊いて、何色かもわからないのか。と言っているようなものではないか。エルシア様がそんなことで文句を言うだろうか。喧嘩の原因は別なところにある。
「それって、喧嘩の原因ではないでしょ」
ナオミの言葉に、ヨウカはきょとんとした顔をした。
「それは村を水没させてしまえば文句の一つぐらいは仰せになられるでしょうけど、水神様が現世を見られないということはご存知のはずですから、喧嘩にはならないでしょ。本当の原因は何?」
ヨウカは黙り込む。
「もしかして、主様がネルガル人を嫌うところに」
その時である。誰がヨウカに話しかけたのだろう。
ヨウカはいきなり、「煩い」と、怒鳴った。
そしてまた沈黙。
「わらわにかまうな」
横柄な態度。どうやらエルシア様と話をしているようだ。
だが最後にヨウカはにっこりすると、
「だから、バカじゃというのじゃ」と言いつつ、ヨウカの体は見る見る小さな白い蛇になり、ルカの上げた、いや、ルカが上げたように見える片腕に絡みついた。その手はそのまま下がり、実際のルカの手とかさなる。
ヨウカの姿も消えた。
今のは何だったのだろうと思うリンネルの脳裏に、現実の声が聞こえて来る。
「大佐、お車の用意が」
一方、クリンベルクの館では、リンネルの使者が詳しい経緯を説明していた。その部屋は人払いがされ、居るのは将軍とその長子のマーヒル。
そして使者が去った後、
「クゼリか」
「助かりませんね」
辛うじて命を取り留めても、廃人。もうあの鮮明な言葉は聞くことは出来ない。
「さすがに我々よりご夫人方の方が、危険分子にお気づきになるのが早いと見える」
二人はそれっきり黙りこんだ。
欲しい人物を亡くした。ご成人すれば、 否、これでギルバ帝国は寿命を延ばせたのかも知れない。
「せめて、あのまま亡くなられて下さればよいですね。あの方の廃人になられたお姿だけは見たくありません」
「そうだな」
「カロルには、どうします」
「息があるうちに会わせておいてやるか」
それでカロルは明け方、父に呼ばれた。
眠い目を擦りながら、だがそれは一瞬にしてすっとんだ。
「毒を盛られた!」
「そうだ。毒はクゼリだ」
カロルは言葉を失った。
その毒は、貴族の間では知らない者はいない。
助からない。カロルの脳裏に絶望がよぎった。
そんな。体の力が抜け、思わず立っていられずにふらつく。
カロルは試合に負けてから今まで、ふてくされて学校もさぼっていた。
俺のせいだ。俺がこんなに怠けていたから、罪もないあいつにとばっちりが行ったんだ。
ああ、アパラの神よ、もし本当にいるなら、奴を助けてくれ。もう学校をさぼったりしないから。
カロルは心の中で叫んだ。
「カロル。もう、息もないかもしれないが、会って来るか」
夜が明けてからでは人目につく。事が事だけに余り係わりたくない。特にクリンベルク将軍としての立場からは。しかしこの子の心を思うと。
「顔だけ見たら、直ぐに戻って来い。それと毒ということは公表されていない。おそらくリンネルが奥方様の立場を気遣われてのことだ。あまり騒ぐな」
カロルは軽く頷いた。だが心は既にここにはなかった。
カロルは車の中で何度も呟く。
「どうして、どうしてだ。奴は、玉座など狙ってはいない」
涙が頬を伝わってくる。
「着きました」
袖で涙を拭う。
カロルは車から降りると走り出した。
「病室は」と言いかけた従者の言葉を後に。
とにかく中に入れば、リンネルの部下が居るはずだ。
後は彼らに案内してもらえばよい。
だが、誰もいなかった。
ナースステイションで尋ねると、
「退院した!」
「はい。ここに居ても病状は同じだと仰せになられまして」
一方、ハルメンスの館でも、
「毒を盛られただと!」
ハルメンスには似つかわしくない大声だった。
毒の種類は聞くに及ばず、王宮で毒といえば、あれしかない。
「助からんな」
ハルメンスは読んでいた書物をテーブルの上へ投げ出すと、椅子に深深と腰掛けなおした。
「いつだ」
「おそらくあのパーティーの席上で仕掛けられたものかと」
「護衛たちは、何をしていたのだ」
今更言ったところで詮無いが。
おそらく油断していたのだろう。王位継承権を持たないも同じ、王子だから。
ハルメンスは大きな溜め息を付いた。
やっと見つけた人材だった。後にも先にも彼ほど全てを取り揃えている人物は、まずお目にかかれまい。
「ナオミ様にお頼みして、もう一度陛下との間にお子を儲けていただきますか」
「それは無理だろう」
あの二人の間に愛はない。あるのは陛下の好奇心のみ。神と契りを交わした娘が最初に産む子。これが重要であって、二人目の子にカリスマを持たせることはできない。
ハルメンスのあまりの落胆振りを見て、クロードは言葉を失った。
クロードは視線を暫し宙に漂わせていたが、テーブルの上の本に止める。
「お読みになられていたのですか」
「ああ、感想を聞きたかったのだが、それももう叶わないな。マルドック人に頼んで、苦労して手に入れたというのに」
彼らに関する資料は少ない。彼らは我々ネルガル人のように、物を大量に作ろうとはしない。おそらくこの本も、破れるまでいろいろな人の手に渡り読み継がれてきたのだろう。破れて初めて新しい物を作る。本一冊ですら、無駄に作ろうとはしない。
クロードはハルメンスの前に座ると、古ぼけたその本を手にしパラパラとページをめくる。
「子供だましですね」
よくある神の物語。
「だが伝説だ。何かを元に書かれたのだろう」
「何をですか」
「戦争だ。ある国とある国の、そして竜は秘密兵器」
クロードはまさか。という顔をした。
「アルシオ様の、お考えすぎだと思いますが」
ハルメンスは苦笑する。
「だが、そう思って読むと、なかなかおもしろい」
「ある国とは、ネルガルとイシュタルのことですか」
青い髪の悪魔の住む魔の星とは、イシュタル星のことだ。
だが戦いで、イシュタル人はネルガル人に負けた。第一彼らには、武器らしい武器がない。
「だから、物語の上だけでも勝ちたいと、このような話を」
「まあ、そうとも取れる。だが訓令とも取れる。既にあの時彼らは、惑星を破壊できるほどの兵器を持っていた。だが使うとこのようになるという」
「まさか、だから使わずに負けたと」
ハルメンスはまた苦笑した。背に腹は代えられない。勝つためならどのような手段も厭わないネルガル人には考えられないことだ。これを使えば勝てるとわかっている兵器があるのに。
「アルシオ様の考えすぎです」
クロードは、今度ははっきりと言った。
ハルメンスは腕を組み、深く考え込む。
彼が亡くなっては、代りの者を探さなければ。
ルカの館は静まり返っていた。
誰の心にも、助からないという言葉が過ぎる。
リサと数人の侍女たちは池の辺で、池の中ほどにある祠に祈る。
「神様、奥方様が信じておられる神様。どうか殿下をお助けください」
ネルガルの国神であるアパラは、もう彼女たちは信じなかった。今ここにリサを中心に集まっている平民たちは、区画の中でも一番貧しい区画の出身。アパラ神のもと、戦争を繰り返し、家族も友人も亡くした者たちだった。
「お願いです、どうか殿下を」
リサはどのぐらいそこで跪いていたのだろう、既に日は落ち、あたりは暗くなり、夜気が冷え冷えと彼女の体を包んだ。まだ春先、夜ともなれば温度がかなり下がる。吐く息は白くなり寒さで指先の感覚がなくなる。それでもリサは祈り続けた。
「お願いです」
寒さで意識がもうろうとしてきた時、リサの前に一人の少女が現れた。
青い髪。
一瞬、リサはぞっとしたが、
もしかして、彼女が神?
リサは勇気を出して話しかける。
「あなた様は、神なのですか」
「わらわは、神ではない。だが、お前の願い、叶えてやらんこともない」
例え能力が弱くとも、一心不乱に訴え続ければ、その想いは通じる。少女は数億の想いの中から、その想いに耳を傾けた。その声は小さく、少女が余程しっかり意識を集中させなければ、直ぐ他の想いに掻き消されてしまう。それでも少女は、その想いの美しさに誘われ、必死にその想いをたどる。
こんな時、あやつが居れば、こんな苦労はしないものを。何処をほっつき歩いているのだ、あのバカ者は。
リサの想いが、一人の少女を呼び出した。
この際、悪魔でもいい。殿下が助かるのなら。
「どうしたら、叶えてもらえるのですか」
「お前の命と引き換えじゃ」
リサは一瞬、答えに窮した。
どうせ人間、一度は死ぬのよ。この命、殿下のお役に立てるのなら。そもそも奥方様から頂いたようなもの。奥方様に助けていただかなければ、私を始めあの区画に住んでいた者たちは皆、病気と飢えで死んでいた。
リサは覚悟を決める。
「いいわ、私の命と引き換えに殿下を、以前と何ら変わらないお姿に」
少女は笑う。
「嘘じゃ。お前の命などいらぬ。だが奴は、助けよう」
そう言うと、リサの前から消えた。
「どうしたのリサ、ぼっとして」
いつの間にか、侍女たちが自分を取り囲んでいた。
そこへ急使、「殿下がお戻りになる」と。
誰の脳裏にも、息絶えたルカ王子の姿がよぎる。
「死んだの?」
「いえ、まだ息はあります」
「では、何故?」
病院ではもう打つ手がないということか。だが、ここには医者がいない。
クリンベルク将軍のもとへ行き、軍医をお借りしてくるか。
ハルガンは考えた。
そこへリサ。
「殿下がお戻りになられるのですって。神様が願いをお聞き届けくださったのですわ」
「神が?」
「ええ、先程、助けて下さると」
護衛たちはきょとんとした顔をし、リサの後ろにいる侍女たちを見る。
侍女たちも、リサのあまりのはしゃぎぶりに、訳がわからないという顔をしている。
「先程から、殿下は助かると。神が約束してくれたと」
リサはそれしか言わない。
「あまり祈りすぎて、頭がおかしくなったか」
「助かります。神が約束して下さったのですから」
だがハルガンはリサを見て別なことを考えていた。
町医。そうだ、リサの所には奥方様が面倒をみている町医者がいたではないか。町医者でも医者は医者だ。居ないよりましだ。
「殿下を、町医者の所へお連れしよう」
「町医者の所へ」
誰もが黙り込んだ。殿下の脈を町医ごときに。
だが一人が、
「御殿医のようにはいかないが、居ないよりましだろう」
「いや、下手をすると御殿医より腕がいいかも。何しろいろいろな病気を診ているからな」
「違いない。あそこは病気の吹き溜まりのような所だからな」
低所得者の集まるところ、病気と犯罪も集まる。
「そんな所へ殿下をお連れして、大丈夫なのか」
「その医者に、ここへ来てもらうわけにも行くまい」
「リサ、お前先に行って、殿下を迎え入れる用意をしてくれないか」
リサは唖然としてしまった。
診療所、以前より随分設備は整ったとはいえ、殿下をお泊めするようなベッドは。
「難しく考えることはない。大部屋の片隅でいい。殿下のことだ。物がないことで文句は言うまい」
無いにも程があると、リサは思った。
「今殿下に必要なのは、医者だ。ベッドではない」
「わかりました」と承諾はしたものの、安く診てもらえる診療所は病人であふれ返っている。ベッドを一つ空けるにしても。
リサは護衛の車で診療所へ向かった。
診療所は区画の中心にある広場の一画に設けられている。炊き出しも学校も就職訓練も、この広場で行われている。言わばこの広場は、ナオミ行政の拠点。広場の周りは、廃材で作ったバラックが連なっている。だがそこには活気があった。以前のような陰湿さはない。
「先生、グラント先生、居られますか」
リサは車から飛び降りるや、そのまま診療所の中に駆け込む。
「どうした、急患か」
奥から、今夜の当直の医師が駆け出してきた。
「グラント先生は、グラント先生は、お留守ですか」
定期的に、診療所に来られない患者を往診している。だが今は夜。よほど重症の患者が居ない限りは、ここに居るはずなのに。
リサが早くと気をもんでいると、奥から、寝癖そのままで大きなあくびをしながら、グラント医師が現れた。歳は三十前後、野戦病院を中心活躍してきたせいか、歳のわりには知識が豊富だ。
「何だね、こんな夜中に、またお母さんの具合でも急変したかね」と、頭をボリボリかきながら尋ねてくる。
腕はいいのだが、不潔極まりない。
「いいえ、母は、お蔭様で元気になりました」
「では何だ。こんな夜更けに、そんな大声を出して走り回られたら、患者さんたちが皆起きてしまうよ」
リサの大声は、診療所の患者全員を起こすのに充分だった。
もっとも診療所はベニヤ板一枚で仕切られているだけだ、下手をすれば外まで聞こえる。
患者たちは何事かとリサを見ている。
リサは慌てて先生の腕を引くと、先生たちの休憩所に向かった。
「どうしたのだ」
リサの慌てぶりにグラントもいぶかしがって訊く。
「殿下が、ここへ入院したいそうです」
「殿下?」
そこには他にもグラントを手伝っている医師や医師の卵が二、三人いた。
「殿下って、もしかして君が仕えている館の」
「はい」
「はいって、随分推挙な王子様だな」
そこに居た医師たちは笑う。
「笑い事ではありません」
リサはむきになって、
「毒を盛られたのです」
笑いは一瞬にして消えた。
「毒?」
まだ、公表されていないこと。いや、永久に公表されないことなのに。
リサは言ってしまってから慌てて口を手で押さえたが、後の祭りだった。
「どうして?」
リサはそれには答えず、
「クゼリだそうです」
それを聞いたとたん、医師たちの間から沈痛な息が漏れた。
リサはクゼリの恐ろしさを知らない。
「でも、息はあるのです」
「そうか」
死ぬのも時間の問題。
ナオミ様には誰もが恩義を感じていた。この診療所も、いやこの区画は奥方様の支援で成り立っているのだから。この区画に住んでいる者で、ナオミの名前を知らない者はいない。
今、その方の御子が。
出来ることなら、どうにかお力になりたい。しかし、
「宮内部直属の病院があるだろう、あちらの方が」
こんな所より遥かに設備がいい。ここは設備どころの話ではない。その前の段階のものが不足しているのだから。
「それが、退院なされるそうで。それでとりあえず」
医師たちは顔を見合わせた。どういうことなのかと。
一人の医師が言う。
「リサ、ここは無理だ。見ての通り」
ベッドだってそこら辺の廃材を寄せ集めて作ったものだし、布団にいたってはボロ布を集めて縫い合わせたものだ。
「わかっております、護衛たちにもそのことは話をしたのですが、ここが一番いいと」
医師たちは首を傾げた。
毒を盛られた。ここが一番いいとは、安全だと言う意味か。
しかし万が一、ここで殿下が死ぬようなことになれば、責任は免れまい。下手をすれば、毒を盛ったのは、我々だということにも成りかねない。
「駄目だリサ、きちんとした病院に行くように言ってくれ」
「どうして、ここの人たちは皆、奥方様の世話になっているのよ。奥方様が困った時ぐらい、助けて差し上げなければ」
「リサ、出来ることならそうして差し上げたい。でも我々には」
「ハンク」と、グラントは彼の言葉をさえぎった。
奥方様のためなら冤罪などかまわない。ただ彼らが恐れたのはここの診療所の閉鎖だった。ここがなくなれば、ここに入院している患者たちは、いやそれだけではない。ここは貧しい者たちの病院だ。ここを頼りにしている者たちは、これから何処へ行けば。治療費が払えないような者たちを診てくれる場所など何処にもない。しかし奥方様の出資で運営されているのも事実だ。
暫しの沈黙の後、
「私が全責任を取ろう」
「先生!」
「お前たちは顔を出すな。一切、知らなかったことにするのだ。もしここが閉鎖されるようなことになったら、別な場所に、このような施設を、お前たちの手で」
「先生」
「頼む」
「どういうことなの」
リサは医師たちの言っていることがわからない。
「そういうことだ」と、一人の医師がリサの肩を叩く。
「誰も、ルカ王子を受け入れたくない訳ではない。だが、ここの患者たちも大切なのだ」
「殿下が王子でなければな」
王子でなければ、殿下などと呼ばない。
腹が決まれば彼らの行動は早かった。
「私の部屋を病室に使おう」
「では、先生は私たちと一緒に」
「いや、廊下でよい」
君たちの部屋で寝起きしたら憲兵でなくとも君たちとの関係を疑問に思う。
「君たちも共犯になってしまう。これはあくまで私個人がしたこと。なら君たちに知られぬように何処かで寝起きをしていたというのが自然だろう」
医師たちは頷いた。どうせそう長い時間ではない。あの毒を舐めたのならともかく、飲んでしまったのでは。直ぐに処置したところで、おそらくここへ来るまで息があるかどうか。
ハルガンは使者と共に、宮内部お抱えの病院へ向かった。
「奥方様、お車が到着いたしました」
廊下で控えていた護衛の一人が言う。
ナオミはルカを毛布で包むと、抱えあげた。
それを見てリンネルが手を差し出す。
「私が、お連れいたしましょう」
ナオミは暫しためらったが、
「お願いいたします」と、リンネルの腕にルカを渡す。
ナオミたちは逃げるように病院を後にした。
車の中、ハルガンは心配そうにナオミの膝を枕にして寝入っているルカを見る。
「心配ありません、助かります」
毒はクゼリだ。と、ハルガンは心の中で思う。
「この子は神の生まれ変わりなのですよ、信じてやってください」
そんなこと、信じられるかと思いつつ、ハルガンはリンネルを見る。
ところがリンネルも頷いた。
馬鹿な、お前までどうしたんだ。リンネルを見るハルガンの目はそう語っていた。
車は下町の狭い路地へ入る。これから先は、スピードを落とすというような話ではない。歩った方が早いぐらいだ。
クラクションを鳴らしながら前へ進む。
バカヤロー、何様だと思っているんだ。という声が飛び交う。
「あの奴ら、後で覚えていろ」
「ハルガンさん、この車でここへ入るのが間違いなのです」
そう言いながらも、ナオミはしっかりルカを抱きかかえている。
広場に近づくにつれ、人々が道をあけてくれるようになった。
「ナオミ様のお車だ、通してやってくれ」
ナオミと言う言葉を聞いて、罵声がやむ。
人々が車の後ろへと集まって来る。人目でいいからナオミ様を拝もうと。
車が診療所の前に止まった時には人だかりの山になっていた。
ナオミはルカを毛布ですっかり覆い隠すと、リサの案内で診療所の中へと入って行く。
「誰か、急患なのか」
その言葉がさざ波のようにたった。
人々が興味津々と取り囲んでいるのを見て、一人の医師が出て来る。
「館で、使用人の子供が怪我をしたそうだ。それでナオミ様の侍女が連れて来ただけだ。怪我は骨折のようだ。たいした事はない」
なんだ。とばかりに人々は散って行った。
「さすがはナオミ様だ。使用人の子供でも、あんな車で送り迎えしてくださるのか」
人々が去った後、ハルガンはその医師に近づく。
「嘘が、うまいな」
「とっさに出た方便ですよ」
「これ」と言って、ハルガンはその医師に一つの封書を手渡す。
彼はその封書を開け、中を確認してから、
「カルテですか」
ケリンが病院のコンピューターから引き抜いたものだ。それも一般秘密文書ではなく、ある医師の個人的データーから。
奥方様が病院を移ると言い出したのも、それを見れば一目瞭然。
「信じるか信じないかは、そちらの自由だと、これを俺に渡した者が言った」
その医師はざっと見ただけなので、その意味がわかっていないようだったが。
ルカは狭い個室へと通された。宮廷の病院とは段違い。だがナオミはほっとした。せめてもの心遣いなのだろう。シーツも布団カバーも洗濯されたものに交換されていた。
「狭苦しいところですが」
「いいえ、これで充分です」
ナオミはルカの体勢を整えてやると、改めて医師に向かって頭を下げた。
「二、三日、お世話になります」
医師とは館で一度会っている。確か名前は。
「グラントと申します。脈を取らせていただいても」
「よろしくお願いします」と、ナオミはグラントと場所を入れ替わった。
グラントはルカの白くか細い腕を取り、脈を診た。
えっ! 思いつつ、
「失礼いたします」と言いながら、ルカの胸元を開けた。
透けるような白い肌に青黒い痣。リサから聞いてはいたが、実際にそれを見ると痛々しい。だが今はそれどころではない。
聴診器を当て、心臓と肺の音を聞く。
グラントはルカの襟元をきちんと整える、ゆっくりナオミの方を見た。
「寝ているだけです」
確かに。とグラントは頷くしかなかった。
「毒を盛られたとお聞きいたしましたが」
「はい」
一体、これは。
「この子は、神の生まれ変わりなのです」
それもリサから聞いていた。しかし、信じられない。
その時、廊下の方から、
「先生、少し」と、声がかかった。
「急患のようなので、失礼いたします。何かご不自由な点がありましたら、リサをこちらによこしますので、何なりと申しつけください」
「ありがとう御座います」
ナオミは丁寧に頭を下げた。
廊下ではハンクが先程のカルテを持っていた。じっくり目を通したらしく、
「ルカ王子様のご容態は」
「それが」と、グラントは首を傾げる。
「こちらも少しお話が」
二人は揃ってハンクの部屋へ向かった。
誰も居ないことを確認してドアを閉める。
「話とは」
ハンクはカルテをおもむろに取り出すと、見てほしいと促す。
グラントは軽く目を通し、
「順番が逆なのでは」
最初に正常値、それから毒を盛られた後の値。
だがカルテの上の時間の記載は。
「そんな、馬鹿な」
しかもこのカルテには治療をした後がない。胃も腸も、洗浄されていない。つまりルカ王子はあの病院でそのまま放置されていただけだ。
なのに、完治している。
「どういうことだ」
「ご容態は」
「それが、脈の乱れもなければ呼吸の乱れもない。ただ寝ているだけだ」
「血液を採取してみますか」
「させていただけるかな」
二人の医師が人の気配に気づき振り返ると、そこにハルガンが立っていた。
「君、どうやってここへ」
二人の医師は焦る。
「いやね、二人でこそこそとここへ入って行くのを見かけたものだからな」と、ハルガンはニタリとする。
「どう思う、そのカルテ」
「信じられない」
「そうか。だがどう引き抜いても、それしか出てこないらしい。もっともここに、もう二つカルテがある。これは極秘の公文書に載せるものだが。そしてもう一つは公文書に載せるものだ」
そう言ってハルガンは二枚のカルテを出す。一つのカルテは胃や腸を洗浄したことになっている。そしてもう一つのカルテは、心臓発作。
医師は唖然としてハルガンを見た。
「一応、殿下の脈を取ってもらう以上、ありのままを知ってもらったほうがいいかと思って」
これが王宮の内情。
「もっとも、ここだけの話だがな」
そう言ってハルガンは二枚のカルテを二人の医師の前で燃やした。残るは真実のカルテのみ。
「王子様の、血液を調べたいのだが」
「ああ、やってくれ。そのカルテが真実なのかどうか知りたい。特に後半部分が」
医師たちも頷く。
「俺から奥方様には話そう」
「そうしてくれるとあり難い」
ハルガンは何度かこの診療所にも顔を出したことがある。もっともあの時は、こんな護衛用の服装ではなかったが。
「もしや君は、ハルガンさんかね」
以前、チンピラと喧嘩したと治療を受けに来たことのある青年。それ以来の腐れ縁。金に不自由していないようだから不思議に思っていたが、奥方様の従者なら全ての謎が解ける。
ハルガンはニタリとする。
そしてナオミの許可が下り、ルカの血液を採取した。
結果は、信じられないことだがカルテの後半部分も真実だった。
「何の異常も見つからない。ルカ王子様は、ただ寝ておられるだけだ。いつ目が覚めてもおかしくない」
「そうか」
ハルガンはほっと安心すると同時に、何か得体の知れないものを感じた。
あいつは、人間ではないのか。
リンネルは待合室の椅子に腰掛け、頭を抱えていた。その姿が噂を呼ぶ。
いつの間にか噂は、リンネルの息子が肋骨を折って絶対安静ということになっていた。
リンネルはそれを否定しない。
「グラント先生は腕がいいから、息子さんは大丈夫ですよ」
周囲の者から同情を買う。
そこへハルガン、
「大佐、少し」と、ハルガンはリンネルを人気のない場所へ誘う。
「血液検査の結果は正常値だそうだ。よって殿下は、寝ているだけ」
「そうか」
暫くの沈黙のうち、
「何があったんだ」と、ハルガン。
リンネルは苦笑してから、
「話したところで、信じてはもらえまい」
真実を言ったところで、信じてもらえないのなら言わないのと同じ。以前殿下が、ジェラルド王子を前にそのようなことを言っていた。
「信じるか信じないかは俺が決める。とにかく話してみろ」
またもやリンネルは苦笑したが、意を決したのか、
「白蛇はいる。それもかなり巨大なものが」
「はぁっ?」
ハルガンはどう反応してよいか解らなかった。
「そういう事なのだよハルガン。白蛇が殿下の体内の毒を全て吸い取ってしまった。しかも私はその白蛇に怒られた。お前らが付いておって何をしておったのかと」
ハルガンは口を開いたまま、何も答えられなかった。
「信じる信じないはお前の好きにしてくれ。俺は真実を語った。白蛇の言うことには、殿下は三日も寝れば元気になると。それと二度とこのようなことがあったら、ただではおかないと」
これが、リンネルが頭を抱えている真の理由。
二人は黙ってしまった。
暫くして、
「奥方様は、このことは」
「以前から知っておられたようだ。ただ、殿下は白蛇の正体を知らない」
「正体とは?」
「白蛇は神の使いだ」
「大佐、あなたも毒にやられたのか」
リンネルはまたもや苦笑すると、
「信じてくれとは言わない。俺自身が信じられないのだから」
エルシアのことはあえて口にはしなかった。ここへ神の話など持ち出した時には、頭を疑われること間違いない。
あれから三日間、ルカは飲まず食わずで眠り続けた。
「点滴で栄養を補給しますか」という医師の言葉に、
「このまま、何もしなくとも大丈夫です」と、ナオミは答え、傍にずっと付き添っている。
三日目の朝、ナオミは何かが腕に触れるものを感じ、目を覚ました。
「母上」
ルカがナオミの腕をさすっていた。
「ルカ!」
ナオミは思わずルカに飛びつく。
「気がつかれたのね」
ナオミの目に涙。
いくらヨウカに太鼓判を押されても、意識が戻るまでは心配だった。
ナオミは思いっきりルカを抱きしめる。
「母上、苦しいです」
ルカはナオミの腕の中でもがく。
「あら、ご免なさい」
「生きて、いたのですね」
ルカは改めて自分の生を感じた。
「あれからどのぐらい?」
ナオミは目じりの涙を拭きながら、
「三日、いえ、あの日を入れると四日かしら」
少しナオミがやつれて見える。
「母上、ご心配かけました」
ナオミは無言で首を横に振る。
意識が戻った知らせを受け、リンネルたちが駆け付けて来た。
狭い病室に、リンネル、ハルガン、医師のグラント、それにリサが入っては、もう身動きが取れない。
意識は戻っても、まともなのか。
誰しもの思いだった。
ルカは皆の顔を見回すと、ここは何処? と訊くよりも、
「みなさん、おそろいで」と言った。
ハルガンの痛烈な一言。
「最初に目が覚めて、言う台詞がそれか」
ルカは皆に心配かけたことを知り、改めて礼を言おうと起き上がろうとした。
その肩を、医師のグラントが、まだ早い。と言う感じに軽く押さえる。
ルカは皆の顔を見直した。誰の顔にも疲れが色濃く残っている。
「ご心配かけました」
ベッドの中で軽く頭を下げる。
皆の顔に安堵の色。
「私、館に知らせて来ます。ついでに着替えも」と、リサはベッドの下に置いてある洗濯物を取り出す。
ルカの様子をじっと見詰めていたハルガンが、
「いや、俺が行こう」と、リサからその荷物を取り上げる。
リサは困った顔をした。
「ここは、俺よりお前の方が役に立つ」
ハルガンは荷物を下げて診療所の外へ出た。
下町だ。軍服姿の護衛もそうは置いておけない。ハルガンは私服に着替えさせた護衛を数人、診療所の周りに配置させていた。
診療所を出るなり、一人の男が近づいて来る。
「ご容態は?」
「意識が戻った。しかも、今のところ正常だ」
男は驚いた顔をする。すっかり諦めていた。後は息を引き取るのを待つだけだったのが。
「ああ、まともだ。嘘だと思うなら、自分の目で確かめて来ればいい」
男は診療所の中に飛び込んで行った。
リンネルが病室の入り口にいた。
「大佐」
「ああ」と、リンネルは男に頷き、
「今、先生に診てもらっている。受け応えもしっかりしている」
男はカーテンの隙間から中を窺った。
ルカが奥方や医師と楽しそうに話をしている姿が見て取れる。
いつの間にか数人の護衛が集まって来ていた。
そこへリサ。
目が覚めた途端に、お腹が空いた。というルカの言葉で、重湯を用意して来たところだった。
「あら、皆さん、おそろいで」
服装こそ違うが、見慣れた顔ぶれ。
「なんだ、それ」
「重湯よ、お腹が空かれたそうです」
護衛たちは笑った。今までの心配は何だったのかと。
「殿下、お食事をお持ちしました」
リサはそう言いながら部屋の中に入り、ルカの目の前に置く。
ルカはそれを見て、
「僕は、ご飯が食べたかった」
病室のドアは開いていた。
廊下から笑い声。
「殿下、腹も身のうちですよ」
「三日も何も食べていないのだから」
「そうですね、彼らの言う通りです。まずはこれで、胃を慣らしましょう」と医師。
ルカは仕方ないと、諦め顔でそれを口に運んだ。
護衛たちはそれを見届けてから持ち場へと戻って行った。誰の顔にも今までのような喪失感はない。
「飯を催促するぐらいじゃ」
「大丈夫だな」
ハルガンは館へ戻ると、さっそく侍女たちに着替えを用意させ、ルカの意識が戻ったことを伝える。
館の中はいっきに蜂の巣を突いた騒ぎとなった。
護衛たちが駆け寄って来る。
クリスの背後にはカロルの姿もあった。
カロルはルカが退院したことを知り、急いでここへ来たのだが、結局ここで待機することにした。一度だけケリンと彼の寝顔を見に行ったが邪魔になるだけ。よって彼の容態を、病室に取り付けられた小型カメラによって逐次報告されるようにしてきた。
ケリンの案だ。この際、プライバシーなどと言うものは考えられていない。
「飯の催促したらしいぜ」と、ケリン。
プライバシーを考え、音声は入れていないのだが、ケリンは唇の動きで相手が何を話しているかわかるらしい。
ハルガンのもたらす情報より早い。
やはり情報に関しては、こいつに敵わないか。
「めし?」
「ああ、重湯じゃ駄目だとよ」
周りにいた者たちがどっと笑う。
カロルも、何故か知らないが涙を流して笑った。
「ケリン、一緒に来てくれ」
「ああ」
「他の奴等は、池の掃除と蹲の整理だ。殿下が戻られるまでに」
「おお」と、皆の明るい掛け声。
「俺も、一緒に行ってもいいかな」と、カロルは遠慮がちに言う。
「坊ちゃまが顔を出してくれれば、喜びますよ」
ルカは食事の後、三人の客人に会っていた。その中の一人はショウ、リサの弟だ。ルカの意識がない時も、この三人はちょくちょく顔を出していた、ナオミを気遣って。
「また、お見舞いに来てくれたの」
「うん。意識が戻ったって聞いたから」
暫しルカは無言でナオミと三人の少年の話を聞いていた。
「母上は、この人たちをご存知なのですか」
「彼はリサの弟のショウ君。それにショウ君の友達のニール君とドルトン君」
三人は初めましてと挨拶をしたと同時に、体に緊張が走った。
「俺、じゃなくて、私」
いざ話し出すと、敬語など使ったことのないショウは、舌を噛むはめになった。
「痛っつー」
代わりにドルトンが話すことになった。
「私たちは殿下とお会いするのは今日が初めてではないのです。殿下はご記憶にないと思いますが、私たちは殿下が奥方様のお乳を飲んでいる時から、知っているのです」
えっ! と驚くルカに、
なっ。と顔を見合わせる三人。
「時々、館にも遊びに伺ったのですが」
「なにしろ、怖いおばさんが居て、殿下には会わせてもらえなかったのです」と、ニール。
ルカは直ぐに思い当たった。
「ああ、あの、こういうおばさんですね」と、ルカはナンシーがいつもやるように、右手でメガネを上げる振りをした。
コンタクトを入れればよいものをわざわざメガネをかけ、それをステータスシンボルにしている人だ。
その仕種があまりにも似ているので、三人はどっと笑う。
一度笑えば緊張はほごれる。
「そうそう、そのババアだよ」
ついにショウが本性を出す。
だがルカは言葉が汚いのにはこだわらず、話を続けた。
「実は僕も、あの方は苦手です」と、誰にも聞かれないように声をおとして言う。
子供たちの会話がうまくいっているのを見届け、ナオミはショウに言う。
「少し、この子の相手をしてくれません。退屈しているようなので。私は先生たちを手伝って来ますので」
退屈しているのはナオミの方なのかもしれない。
しかしここは、貧しいが故に多くの患者がいた。
ナオミは、猫の手も借りたいような忙しさの中、自分の子供のために時間を割いてくれた、いや、部屋まで用意してくれた先生方に、少しはお礼がしたいという気持ちもあった。
「ええ、いいけど」と、ショウは少し困り顔。
万が一、奥方様の居ない時に殿下の病状が悪化するようなことになったら。
ナオミもショウの気持ちを知ってか、
「もう、この子は大丈夫ですから」と、ナオミは腕まくりして部屋を出る。
その後姿に、
「何かあったら、呼びますから、直ぐ来てくださいよ」
「ええ、わかりました」
引き受けたものの、少年たちは困った。
「じっとしているのが嫌いなのですよ、母上は」
「そうらしいな」と言いながら、めいめいに椅子を引きずりルカの近くに腰掛けた。
館で、遠目には何度か見ている。綺麗な人だと思っていた。だがこうやって間近に見ると、肌の白さがいっそう目立つ。病み上がりのせいか。でもそれにしても美しすぎる。俺たちのような浅黒いのとは訳が違う。きっと仕事などしたことがないのだろうな。でも待てよ、畑仕事を手伝っていると姉から聞いている。
ナンシーの悪口から世間話へと、話は流れ行く。
ショウたちが王子の生活を知りたがるのと同じぐらい、ルカはショウたちのここでの生活を知りたがった。そうこう情報の交換をしている内にドアをノックする音。
「どうぞ」と言うショウの声で、ドアが開いた。
入って来たのは、あれ、ハルガンじゃないか。
ハルガンにしては珍しい。ドアを開ける前にノックをするとは。とルカは思った。それに服装。ハルガンはいつの間にか私服に着替えていた。
「何でお前がここに」と、ショウの驚きの声。
「見舞いに来たんだ」
「知り合いか」と、ショウはルカとハルガンを交互に見た。
どう見ても王子様と町のチンピラ。知り合うはずがない。
「あれ、以前話さなかったか。お前に五つぐらい輪をかけたひねくれ者が、俺の友達にいると」
そう言われれば、そんなことを聞いたことがある。
「それって、彼のこと」と、ショウは親指を返すようにしてルカを指す。
ああ。とハルガンはあっけらかんと返事してから、ルカに、
「すっころんで、肋骨、折ったんだって」
「違うよ、肺炎をこじらせたんだよ」と、ショウ。
どうやらそう言う事になっているらしいと、ルカは内心思った。
「あれ、だって巷じゃ」
骨折ということになっていた。
「彼らがかってに噂しているだけだよ」
「そうか」と、ハルガンはルカに近づく。
「目覚めると同時に飯の催促したんだって。何考えてんだ、お前は」と、ハルガンはルカの頭を軽く叩く。
ショウたちは唖然とする。
「痛いですよ」と、ルカは頭を抱えながら。
「末梢神経は正常か」
「どう言うことですか」
ルカは叩かれた頭を撫でながら。
「確かめてみただけだ」
「そんな、確かめなくとも訊いてくれれば答えますよ」
「お前のことだ、ボケて大丈夫だと答えかねないからな」
ボケてではなく、こちらを気遣ってのことだろうとケリンは思ったが、正確なデーターを得られない点では同じだから、まあ、これが一番手っ取り早い方法かとハルガンのやり方に納得した。
「ブスくれた反応も、いつもと変わりないし、後は」
下半身の反応と思い、ルカの足の上に座ろうとすると、ルカはすばやく足を引っ込めた。
よってハルガンはただの布団の上に座ることになった。
それを見かねたショウが、ハルガンの腕を引っ張り廊下の方へ引きずり出す。
「ハルガン。お前、あの子が誰だか知っているのか」
「ああ、知っているぜ。俺のダチだ」
「だから、そうじゃなくって」
廊下のもめ事をよそに、中ではカロルがじっとルカを見詰めていた。涙が込みあがってくるのをじっと堪えながら。
「お前らも、少し外へ出ててくれないか」と、ケリンは二人に連れ添って自分も廊下へ出る。
扉を閉めた。
「誰なのですか、あの方」
豪華な服を着ていた。貴族であることは間違いない。それもかなり上流の。
「クリンベルク将軍のご子息だ」
「えっ!」と、三人。
クリンベルク将軍は国民的英雄だ。特に子供の間では人気が高い。
「やっぱり王子様なんだな。すげー人物が見舞いに来る」
倅でこれでは、本物の将軍が来た時には、こいつら腰を抜かすな。
ハルガンは中の様子をどうにか伺おうとしている三人の子供をよそ目に、ケリンを顎でしゃくる。
三人の子供をその場において二人は廊下を歩き始める。
「大佐から、話は聞いたか」
ああ。とケリンは頷く。
「どう思う?」
「どうと言われてもな」
ハルガンが案内したのは医師たちの休憩室だった。休憩室はあるものの、ほとんどの医師は休んでいる暇もない。休みが取れるのは食事をする時だ。その食事ですら、まともに取れないこともある。それで今やそこの一画がグラント医師の部屋になっていた。
「失礼するぜ」と、ハルガンはドアを開ける。
グラントは丁度少し遅い朝ごはんを取っているところだった。
「食事中悪いが、少し話がしたい」
グラントはテーブルの上のカルテを片付け、向かい側の椅子をすすめた。
食事をしながらも患者のカルテを見ていたのか。
グラントは少しとばかりに片手で合図し、食事を早々に切り上げると、
「来ると思いましたよ」と言いつつ、茶碗を持って簡易キッチンの方へ立ちだす。
代わりにお茶の道具を持ってくると、二人にお茶をそそぐ。
「奥方様のおかげで、少し贅沢が出来るようになました」
今までは食うか食わずの生活だった。
お茶はお茶でも三流品だ。でもこれでも彼らにとっては贅沢品。ハルガンの口には到底あうものではなかった。
ハルガンはじっとグラント見詰めると、
「はっきり訊きたい。彼は人間か?」
無論彼とは、ルカのことだ。
この質問にケリンは驚く。
だがグラントは予期していたのだろう。片付けたカルテの中から二枚のカルテを取り出すと、
「彼は本当に、毒を口にされたのでしょうか」と、今度はグラントが訊いてきた。
「そのカルテが間違っていると?」
ハルガンはケリンを見る。
「つまり、俺の腕を疑うわけか」
「別に、そういう訳じゃないが」と、ハルガンは視線をカルテに戻した。
グラントはおもむろにカルテを指し示し、
「こちらの人物は即死だ。これだけクゼリの反応が出ていては、助からない」
「だろうな、まともに水を飲んだから。普通の人間なら助かるはずがない」
グラントもハルガンのその言葉に頷きながら、
「たがこちらの人物は、毒を飲んでいない。もし少しでもあの毒を口にしているなら、何らかの免疫反応があってもよいはずなのに、ここには何の反応も出ていない」
「つまり、何がいいたい」
「死んだのは、影武者」
ハルガンもケリンも顔を見合わせたまま黙ってしまった。
王子に影武者はいない。影武者を付けるのは皇帝になってからだ。王位継承権争奪戦に勝ち残った者が皇帝になる。これがギルバ帝国の伝承。最も個人的に影武者を雇っている館もあるが。
「悪いが、彼に影武者はいない」
今度はグラントの方が驚くしかなかった。
ではこのカルテの説明がつかない。これが同一人物のものならば完治していることになる。しかも何の痕跡も残さず。刃物で切った傷口ですら、暫くの間はうっすらとその後を残すというのに。
「彼のことは聞いているか?」
「神の生まれ変わりだと、リサから聞いたことがあります」
「それに関しては、どう思う」
「肉体的には、我々となんら変わるとろはありませんね」
「そうか」と、ハルガンは頷いた。
どこで調べても結果は同じ。彼は陛下とナオミの子。神の子などではない。
「ハルガン、ティルーナ王朝って、聞いたことがあるか」
ケリンはいきなり話題を変えた。
「ティルーナ王朝?」
ハルガンは首を傾げる。
「幻の王朝ですね。数千年前、この地上にあったと言う楽園。かなり高度な文明を持ち、青い髪の悪魔の呪いによって一夜のうちに砂漠に変えられたとか」
グラントは知っていた。読書の好きな子供なら一度は読む童話だ。
ティルーナ王朝の王妃の美しさを青い髪の悪魔が妬み、国全体を砂の下に沈めてしまった。という話なのだが、今でも考古学者の中には、どこかの砂漠にその王朝が眠っているのではないかと調査を続けている者もいる。
「もしかして、奥方様の村のことではないかと」
ハルガンとグラントはケリンを見詰めた。
ケリンは証拠がないのに物事を口にするような人物ではない。
「気になって、いろいろ調べてみたのだ。しかし、資料が少なすぎて」
あの砂漠の中に村があったというのは、近年になってわかったことだ。ついこの間までは、ただの砂漠として地図には描かれていた。
「つまり彼は、ティルーナ王朝の末裔」
「かもなって、思っただけだ。神というのは、丁度陛下がアパラ神と同一視されるのと同じように、彼もまた人間だが、神と同一視されているのではないか」
「毒の件は?」
「それはまだ、調べてみないとわからない。かなり高度な文明を持っていたというから、もしかするとよい薬があったのかもしれない」
「だが、そんな薬があったら、奥方様のことだ、独り占めはしないと思うが」
そこなんだよなー。とケリンは腕を組み替え考え込む。
だがこれが一番まともな線だろう。大佐の話は飛躍しすぎている。
ハルガンは思った。奴が人間であろうと化け物であろうと、まあそんなことはどうでもよい。ようは、俺が奴を好きか嫌いかだ。
それはケリンも同じようだった。
ハルガンは腹をくくり立ち上がる。もう迷うことはない。例え化け物でも俺は奴が気に入っている。
「休憩中なのに、邪魔した。この事はあまり他言しないでくれ」
グラントは頷く。
カロルは最初こそ、感激のあまり涙ぐんでいたが、後半は自分のペースで喋り捲っていた。ルカは聞き役。だが最後に携帯時計を見ると、
「そろそろ帰らないと、約束があるんだ」
「約束? 彼女でもできたのか」
カロルが来たのでは、一日中つき合わされると覚悟していたのだが。
カロルはルカの言葉に一瞬ほうけてしまったが、急に腹が立ち、
「どうして、彼女なんだよ」と、大声を出す。
おそらく外へも聞こえたのではないかと思う。
「だって、ハルガンはいつもそう言って出かける」
「俺と、あんな女たらしを一緒にするな」
声はますます大きくなった。
ルカは内心、似たような性格だと思いながらも、それは口にせず、
「じゃ」と、片手を上げた。
「ああ。また明日の夕方にでも来る。何かいるものがあれば持って来るが」
「本」と言いかけて、ルカはやめた。
あの本は既に読み終わった。最初のうちは辞書を引きながらだったが、読んでいるうちに次第に辞書がいらなくなった。僕は、この言葉を知っている。そしてこの物語も、懐かしい。何故そう思うのだろう。
「本か?」
「いや、いいです。ここにも沢山ありますから」
見れば医学書がところ狭しと並んでいる。
「これ、読んでわかるのか」
「少し」
わかると言われなかっただけましか。
「じゃ」と、カロルは彼にしてはあっさり部屋を出た。
ルカは怪訝に思う。夕方までは居ついていると思っていただけに。
廊下には、先程の少年たちがまだいた。
カロルは自分より少し年上の少年たちを見上げると、父親の口調を真似し彼らに言う。
「兵士を雇いたい」
「兵士?」
「彼の護衛だ。無論、報酬は払う。やってもらえないかな。ただし空いている時間だけでよい、学校があるだろうからな」
ここの区画は貧しくて学校へ行くどころではない。ということをカロルは知らない。もっともそれはついこの間までの話だが。
三人は二つ返事で引き受けた。憧れのクリンベルク将軍の兵士、正確にはクリンベルク将軍の息子だが。まあそれでも、あまり違いはないだろう。
実際はかなり違うのだが。
「では、報酬を先に払っておく。手を出せ」
カロルは三人の掌の上に、コインを置いた。
「では、頼むぞ」
そう言ってカロルは軍隊風の敬礼をした。
三人の少年もそれに倣う。
カロルが退出してからまた三人が入って来た。
「すげーな、クリンベルク将軍の倅と知り合いだなんて」と、ショウは素直に感嘆した。
「それ、逆だろう」と、ニール。
あっ? と一瞬考えるショウ。
あっ、そうか。クリンベルク将軍より王子の方が上か。
でもこいつ、本当に王子なのか。威厳というものがない。
それに比べてさっきの少年の方が、着ている物も豪華だったし威厳もあった。
「俺たち、親衛隊になったんだ」と、ニールが言う。
ショウは言おうと思っていたことをニールに先に言われたので悔しがる。
「臨時ですが」と、ドルトンが付け足す。
「親衛隊?」
「そうだ、お前のだぜ」
ショウは先程もらったコインを出すと、
「彼に直々に任命されたんだ。見てくれよ、これ」と、ショウは自慢げにコインを見せる。
いつの間にかショウにかかっては、王子もお前呼ばわりだ。
「知っているか、このコイン。これはクリンベルク将軍が」と、コインの説明をし始めた。
将軍が功労のあった者に対し直々に下されるもので、表に陛下、裏に将軍の似顔絵が彫られていた。
「すげーだろう」と、ショウはコインを高々と掲げて見せる。
何か話が逆なような。とショウの友達は思った。
そもそもこのコインの発行を許可したのは陛下。つまり彼の父親なのだから、彼の前で自慢するのは。
だがルカ王子は、
「それは凄いですね」と、一緒になって喜ぶ。
よって二人の友人は成り行きに任せることにした。
おそらくショウに言っても、ショウにとっては目の前のひ弱そうな王子より、クリンベルク将軍の方が上なのだろう。
「へぇー、親衛隊か。じゃ、俺たちは用無しだな」
いつからそこにいたのか、ハルガンが言う。
ハルガン! とショウは一瞬驚く。
どうも奴とは、いまいち馬が合わない。だが自慢したついでだ、こいつにも。
「いいだろう、クリンベルク将軍のコインだぜ」
ハルガンはニタリとすると、
「ああ、それなら俺も持っている、お守りがわりだ」
ハルガンはポケットからキーホルダーにしたコインを見せた。
どうやらこちらはクリンベルク将軍から直に貰ったようだ。かなり古く磨り減っている。
「なっ、なんでぃ」と、ショウはつまらなそうに。
「ところであいつは、もう帰ったのか」
「約束があるそうです」
ケリンは時計を見ながら、
「午後の授業に出るつもりか」
「授業?」
「ああ、約束したらしいぜ、アパラ神に。殿下を助けてくれたら、以後、授業は一切さぼらないと」
「とんだところで、怪我の功名だな」と、ハルガンは笑う。
「そんな誓いを立ててくれていたなんて、知りませんでした。僕は悪いことを言ってしまった」
「何、言ったんだ」
ハルガンは興味津々に訊く。
「彼女と約束しているのかと」
ハルガンは噴出す。あいつにかぎって、間違ってもそんなことはないと。
「そんな、彼だって」
「あいつは、女より剣の方が好きなんだ」
「そうですね、あなたと一緒にしないでくれ」と、言われました。
今度はケリンが噴出す番だった。
「俺、将来軍人になろうと思っている」と、ショウは室内灯の光に透かしたコインを見詰めながら言う。
ルカはその言葉を聞いて、一瞬嫌な顔をした。
「クリンベルク将軍のような軍人に」
クリンベルク将軍。一度お会いしただけだが、その印象は悪くはなかった。さすがに国民的な英雄だけのことはある。人の深さを感じさせる人だった。
「リサは、花屋をやりたいと言ってました。手伝って差し上げたらいかがです」
「はっ」と、ショウは素っ頓狂な顔をし、
「どうして、俺が」と、食ってかかるような勢いだ。
花屋なんて、女々しい。
「町が花で一杯になれば、皆が喜びます」
「花で一杯になっても、腹は満たされない」と、ニールがぼそりと言う。
ルカは驚いたように彼を見た。
「ご免、別に悪気があって言った訳ではない」
彼の弟は栄養失調で死んでいる。花など買う金があればパンを買いたい。
「そうですね」と、ルカ。
あまりにも自分がここの区画を知らなすぎたことを反省する。
空気がいっきに重くなったのを感じ、ドルトンが明るく話しかけた。
「私は、医者になろうと思っています」
「医者」
「はい。グラント先生のような。このコインは、大学の資金に使わせてもらうつもりです。彼には悪いのですが」
「つっ、使っちゃうのか」と、ショウはもったいなさそうに言う。
「その方が、彼も喜ぶと思います」
そしてルカは先程の少年に目を向けた。
「俺はまだ、決めていない」と、ニールは気まずそうに言う。
「そうですか」
「殿下は?」と、ショウが訊き返した。
ルカは軽く苦笑すると、
「僕にも、カロルさんにも、職業選択の自由はありませんから」
「あっ、そうか」
ショウは悪いことを訊いてしまったと気をやむ。
「でも、もし自由がきくなら、機械工学とバイオ科学を勉強したいと思っています」
「なっ、なんだそりゃ」
ショウは訊かなければよかったと思った。何のことやらわからない。理解したのはドルトンぐらいだ。
「私の友人で、手足のない人がいます」
ケリンのことだ。
「もし義手や義足が、時間をかけてでもいいですから、自分のたんぱく質と置き換わっていければ、すばらしいことだと思いませんか」
「機械がたんぱく質に変わるのか?」
よくわからないが、それが出来ればすげぇーと思った。
どんな性能のいい義手より、自分の手の方がいいものなー。
だがドルトンはあまり賛成しなかった。
「かえって肉体を粗末にすることになりませんか、また蜥蜴の尻尾のようにはえてくると思うと」
ルカは驚いて今度はドルトンの顔を見た。
それからおもむろに視線を手の中にある医学書に移すと、
「そういう考え方もあるのですね」と、ひとり納得する。
再生できないから大事にする、命のように。
「殿下は、戦争は嫌いですか」
貴族は皆、戦争が好きなのかと思っていた。
「花屋だって医者だって、皆を喜ばせます。でも戦争は誰も喜ばせません。だから軍人を職業選択の一つにすることは、僕は反対です。人殺しは、人間のする仕事ではありません」
ルカがはっきり言い切ったのを聞き、三人の少年は驚く。
「食べるために止むを得ず選んだのでしたらしかたありません。それにカロルさんのように選択の自由がない方に、このようなことを言っても酷です。でも僕は、軍人は嫌いです」
ルカはハルガンやケリンの居る前ではっきり言った。だが、ハルガンたちを見て言い直す。
「いや、嫌いなのは、軍人という職業です」
人殺しを職業にするものではない。
ショウは暫し黙っていたが、一歩前に進みだすと、
「殿下、それは違うと思う。母国を守る仕事を、そんなふうに言うのはおかしい」
「そうなのでしょうか」
「えっ?」
「戦争とは、母国を守るためにしているのでしょうか」
ルカには、戦争とは、一部の利害者の私腹を肥やすための道具にしか思えない。
「じゃ、なんだい。違うというのか」
ルかは答えない。
暫しの重苦しい沈黙。
そこへリサ。
「お昼を、お持ちいたしました」
二人分の雑炊を持って来た。
リサは場の雰囲気から何かあったのかと思ったが、持ち前の明るさで、
「あら、カロルさんは?」と、訊く。
「帰りました」
「やだ、いつも来ると長いのに」
リサも、てっきり夕方まで居ついているのだと思っていたらしい。もしそのようなことになれば、さっさと追い出そう。殿下はまだ病み上がりなのだから。疲れることは体に一番よくない。
例え相手がクリンベルクの息子だろうと、殿下のためなら容赦しない。とリサは覚悟を決めて来ていた。
「リサさんには、声をかけて行かれなかったのですか」
リサがこの貧民街出身だとは、おそらくカロルは知らない。
それほどまでにリサは教養が高かった。
「なんでぃ、姉貴、彼を知っていたのか」
「ええ、よく館に遊びに来てくださるもの」
来ると何時までも帰らないけど。とは言わなかった。
「なんで、俺に教えてくれなかった?」
「どうしてあなたに教える必要があるの?」
逆に訊き返された。
「それは」と、ショウも後の言葉が続かなかった。焼けになって、
「じゃ、それ、俺が食ってやるよ」
「あなた方は足があるのですから、自分で持って来なさい」
「僕も足がありますから、自分で持って来ます」と、ルカが起き出そうとしたら、
「殿下は、寝ていなさい」と、強い口調で言う。
「まだ、先生の許可が下りていないのですよ」
「でも、退屈で」
リサはルカに最後まで言わせなかった。
テーブルを用意するとその上に雑炊を置き、ルカが読んでいる本を取り上げた。
「いいですか、食べ終わったら少し横になって休んで下さい。午前中はいろいろな方がお見えになって、お疲れでしょうから。わかりましたか」
「でも、僕は、三日も寝ていたから」
眠くないと言いたかったのだが。
リサは怖い顔をしてルカを睨み付けると、
「わかりましたね、殿下」
有無をも言わせずに承諾を取りに来た。
ルカは頷くしかなかった、わかりましたと。
「さぁ、皆さんも外に出て」
「食べ終わるまで、傍にいてもいいだろ」
リサは少し迷っていたようだが、
「そうね、では、殿下が食べ終わったらその食器、炊事場まで持ってきてくれる。それと、殿下をきちんと寝かしつけるのよ、わかったショウ」
最後には弟に命令するような口調だった。
「返事は」
「わっ、わかったよ」と、ショウは少しふてくされたように答える。
「長居は駄目よ、病人には疲れが一番よくないのだから」
「僕は」と、ルカが言いかけると、
「病人です」と、リサがはっきり宣言した。
リサが部屋を去ると、
「リサさんって、あんなに気性の強い人でしたか」と、ケリンが驚いたようにショウに訊く。
「ありゃ、強いなんてもんじゃない。逆らえば殴り倒されるよ」
「確かに」と、ニールも同意する。
「でも、優しい方ですよね」と、ルカは雑炊をすすりながら。
「どこが優しい。姉貴には、その言葉だけは存在しない」
後悔先に立たず、後の悲劇もかえりみず、ショウは胸を叩いて太鼓判を押した。姉貴より怖い女は、この銀河に存在しないと。
だがハルガンは知っていた。クリンベルク将軍ですらてこずるカロルを、平手一つで服従させることのできる女がいることを。
少年たちが部屋を出るのを確認して、ルカはハルガンとケリンに謝った。
「別に、謝る必要はないですよ、それが殿下のお考えなら、それはそれで」
「ただ僕は、あの子たちが戦場へ行くのを見たくないだけです」
ルカらしからぬ言い訳をする。
「俺たちに気を使うことはない。俺も口減らしの口だったのだから」
今でこそケリンの家族は、平民の中でも上流の者たちが住む区画に住んでいる。だが、ケリンが軍人になる前は、ここほどではないがここと大差ない生活をしていた。
「少し、休むといい」
ハルガンは強引にルカを横にすると、毛布をかける。
彼らが退出してからルカはゆっくり目を閉じた。やはり疲れたのだろう、眠りは直ぐにやってきた。
夢を見た。とても強いが優しい姉の。髪は青。
夢うつつにルカは目を覚ました。
笛が枕元にある。
この笛を吹くと現れる青い髪の少女。もしかして彼女は私の姉? どうしてあんなに悲しい顔をしているのだろう。
ルカは笛を取ろうと手を伸ばした。
ナオミはルカが笛を握るのを見て、その上からルカの手を握った。
ルカは、はっと夢うつつから目覚めた。
「母上」
いつから、ここに。と言いたげなルカの顔に。
「楽しそうでしたから」
ナオミは今までじっとルカの寝顔を眺めていた。
寝顔を眺めるなんて、この子と寝室を別にしてから久しくなかった。
「夢を見ておりました、姉上の」
「姉上?」
「はい。僕もリサさんのような姉が欲しかった。カロルさんにも、優しいお姉さんがいるのですよ」
ナオミは先日のサロンで一度会っている。
「そうですね、とてもお美しい方でした」
ルカは頷く。
「僕も、欲しいな」
「まぁ、妹はできても、姉は無理ですよ」
二人は笑う。
それから暫くの間、様子を診るためにルカは診療所にいた。王都に戻ってもあそこは針のむしろ。もう暫く静養させましょうということで。でもやはり、ルカも子供。元気になればじっとしていなかった。
最初は自室から出てきてじっとナオミの仕事振りを見ていた。
別け隔てなく誰にも親切に看病する母親。
「あなたのお母さんは、すばらしい人ですね」
頭上からの声。
見上げるとそこにグラント医師がいた。
ルカは彼の言葉に今まで張り詰めていた体の力が抜ける思いがした。思わず涙ぐみそうになって礼を言う。
他人から、自分の母を認めてもらったのははじめてだった。
王都では母を侮辱する者はいても、母のよさを認めてくれる者はいなかった。
ルカは嬉しさのあまり、
「僕も何かお手伝いしたいのですが」と、申し出る。
この申し出にはグラントも困り果てた。
仕方なしにショウたちにルカ王子の子守を頼んだのが間違いの始まりだった。
「勘弁してくれよ」
「へばった」
診療所の前でだらしなく伸びている二人の護衛。
バラック地帯。鬼ごっこやかくれんぼなどされては、護衛のしようがない。
「ご苦労様」と、ナオミは二人にお茶を出す。
「こっ、これは奥方様」
二人は慌てて姿勢を正す。そして言う。
「いいのですか、このままで」
ルカはすっかり浮浪児たちと仲良くなり、王子では決して使わないような言葉まで覚え始めた。
「環境がよくないな」
「ナンシーがこんな殿下の姿を見たら、ショックで気絶するぜ」
ナオミは考え込んだ。
「そうね、いつまでもここにご迷惑をかけるわけにもいきませんし」
ナオミのその言葉で、早々に館に戻ることになった。
無論ルカは、ここが気に入り帰りたがらなかったが、護衛たちの懸命な説得により、やっとの思いで診療所を後にした。
ルカは車の中からバラックの町並みを見詰めていた。
診療所での思い出がよみがえる。
ルカは元気になってからは自分のベッドを母に譲り、自分は母が仮眠を取っていた小さなソファに寝ようとしたのだが、母の言葉で狭いベッドに二人で寝ることになった。
ルカはこのベッドに二人で寝るのは無理だと言い張ったのだが、ナオミは、
「私はそんなに寝相は悪くありません。後は、あなたが暴れなければこのベッドでも充分に寝られます」
「僕も寝相はわるくありません」
では。と言うことになった。
寝返りが打てないほどきつい。でも、母は暖かかった。
ナオミも久しぶりに我が子と添い寝できたのが嬉しい。
「怪我の功名ですね」
みすぼらしい町だ。でもこの町は、母の腕の中のように暖かい。
ルカは目を閉じる。
大昔は、大自然の驚異により不作になり飢饉が起きた。今は食糧があっても、お金がないために飢饉が起きている。どちらも大量の餓死者を出すのは同じ。なら、どちらの方がましなのだろうか。
「殿下、何をお考えなのですか」
傍らでいつも優しく自分を見守る母親とは違う目。
今回は彼にも、随分心配をかけた。
「いや、別に。僕を世話してくれた町ですから、覚えておこうと思いまして」
「行ってしまいましたね」
「もう、二度と来ることはないだろう」
「不思議な方ですね。六歳とは思えません」
「王都では、母を守るために背伸びをしているのでしょう」
「お可愛そうに。それで大人びた口の利き方をするのですか」
「まあ、それもあるが、リサに言わせると、彼は数千年の記憶を持っているそうだ」
「数千年!」
ドルトンは驚く。
「数千年と言うと、ギルバ帝国が始まる以前の記憶もあるということですか」
「そういうことになるな」
グラントはカルテを見ながら自問する。
人間か? だがそう言い切るには、もし彼が毒を盛られたとしたら、このカルテは異常だ。人間ではあり得ない結果だ。いや、この惑星の生物ではと言うべきだろう。
「どうなさいました」
「いや」と、グラントは首を横に振りカルテをしまう。
医者の卵であるドルトンにもグラントが言わんとすることはわかっていた。
医学を志すものが真っ先に教わるのは、異物が体内に入った時の免疫反応。どんなに医学が進んでも、所詮医学は、自分の体が自分を治そうとする力を手助けするにすぎない。既にその肉体がその力を失っていれば、どんな治療をほどこしても助けることはできない。その力が働いたとき肉体は、また同じ異物が入り込んだ時のためにその記憶残す。そしてその異物が肉体に与える影響が大きければ大きいほど、その記憶も確かなものになるはずなのに、彼の肉体にはその痕跡が一つもなかった。まるでそんなことは無かったかのように。
本当に彼は、神なのだろうか。
館では、ルカの帰りを今か今かと待ち構えていた。
エントランスには、館中の使用人が集まっていた。
無事だとは聞いている。だがこの目で確かめないことには安心できないという者ばかりだ。
車が入ってくるや、彼らは我先にと車を取り囲んだ。これでは降りることも出来ない。
護衛たちが彼らを押しのけて車のドアを開ける。
ルカが降りるや、使用人たちは護衛の制するのを押し切り、ルカに手を伸ばしてきた。中には涙ぐみながら抱きかかえる者までいた。
「殿下、ご無事で」
誰の目も涙で潤んでいる。
ルカは圧倒され、どう対応してよいかわからなかった。
腕力では自信のある護衛たちも彼らに押されぎみ。
「一体、どうなっているのだ、これは」
「きちんと整列して出迎えるのならということでしたが」
それならエントランスに集まることを許可した。だが現実は。
「静かにしろ、殿下は病み上がりなのだ」
リンネルの怒声。
場は静まった。
ルカはすっかりもみくちゃにそれていた。
「道を、あけろ」
それで使用人たちは下がった。
「まったくお前らは、何を考えているんだ」と、ハルガンが先導し、ルカはリンネルに支えられて館に入った。
だがホールでくるりと使用人たちの方を振り向くと、
「ご心配かけました」と、深々と頭を下げる。
一瞬、場は静まり返ったが、
「殿下、お帰りなさい」と言う誰かの声で、拍手が沸いた。
ルカはもう一度頭を下げると自室へ向かった。
「こんなに皆に心配かけていたとは、思いもよりませんでした」
「そりゃ、当然だろう。お前はここの当主なんだからな。お前にもしものことがあれば、奴等は仕事を失う」
「そっ、それだけのことだったのですか、今の歓迎は」
リンネルはハルガンを目で制した。
それだけでないことはわかりきっていた。
「みんな、あなた様が無事に戻られたことを喜んでいるのです。ハルガンは口が悪いから」
「皆、寝ずに心配していたんだ」と、ハルガン。
だが一番心配していたのは、何と言ってもリンネルだろう。館に戻って安心したのか、どっと疲れが出たようだ。いつもより一回り小さく見える。
ルカはリンネルに向き直ると、
「心配かけました」
「いいえ、こちらこそ護衛が行き届きませんで」
館の中が落ち着きを取り戻した頃、ルカは庭に出た。
例の水のみ場。
リンネルとレイが供をしている。
レイはリンネルが診療所につめている間、彼に代わり館の指揮を執っていた。
「壊してしまったのですか」
そこは水道が引かれ、綺麗に地ならしされていた。
ルカが入院している間、館の方も忙しかったようだ。
「大変申し訳ありませんが、水はやはり蛇口から」
お飲みになるようにとのことだった。
あんなことがあった後だ、ルカも素直に従うしかなかった。
それから池の辺を歩く。いつもなら小鳥や魚が寄ってくるはずなのに、その気配がない。
ルカは生れた時から小動物に好かれた。奥方様に言わせれば、ルカの前世であるレーゼ様もそうだったと言う。これは神であることの証。
「池には魚は、もう一匹もいないのでしょうか」
レイはしまったという顔をした。
やはり魚や野鳥を購入しておくべきだった。池の掃除をしながら、その話もなくはなかったのだが、殿下は魚や鳥に名前をつけていたぐらいだから、購入したことは直ぐにわかってしまうだろう。それにこの池に放したところで生きられるか。毒は中和したとは言え、まだときおり弱った魚が浮いてくるこの池で。
ルカはふと足を止めた。そこに、一羽の小鳥の死骸。よく見れば、その水辺に魚の死骸も数匹。
掃除したのではないのかと、リンネルの非難の目がレイに向けられた。
死骸は全て取り去った。だが弱りながらも生き続けたものが、ここのところ死骸として上がってくる。
やはり完全に水を抜き、底までさらうべきだったか。
ルカはしゃがみ込み、その小鳥を両手ですくう。
「殿下、毒が」
ルカは泣いていた。
自分の不注意が、これほどまでの生命を奪うことになってしまったことに。
「もう、この池は死んでいます」
「明日にも、新しい魚を」
ルカは首を横に振る。
ルカはその小鳥を大切そうに胸に押し戴き、池の中へと入って行く。
「殿下!」
リンネルが慌てて後を追おうとした時、水面が波打った。
何かいる。それもかなり大きな。
リンネルは腰のプラスターに手をかけた。その瞬間、
(その必要はない)と、女の声。
どこかで聞いたことがあるような。
(あやつがあまり悲しんでおるから、主様がお見えになられたのじゃ)
リンネルがためらっているのを見て、レイが助けに行こうとした。
そのレイをリンネルが止める。
「しかし」と、レイは心配そうにルカの方を見る。
「その必要はありません」と、背後からの声。
二人が振り向くとそこにナオミが立っていた。
「奥方様」
「水神様がお見えです。ここで暫く様子を見ておりましょう」
「水神様?」
ナオミにははっきりと見えていた。エルシアと契りを交わしたとき、あの爆流の中に居た白い竜。
「竜よ、白い大きな竜。あの軍旗みたい」と、リサが走って来た。
「ねっ、見て見て。凄い爪。三本あるみたい」
リサにも何かが見えているようだ。しきりと水面を指して言う。
水面の波打ちは次第に激しくなっていた。その得体の知れない生き物は、水中をかなりの速さで泳いでいる。
ルカことエルシアは小鳥を水面に浮かすと、おもむろに笛を取り出し吹き始めた。
竜の子守唄。
この館にいる者にはもう馴染みの曲になっていた。
水面は次第に静かになる。
エルシアは笛を吹きながら心の中で言う。
(ネルガルにも、美しい魂を持った者はおります。早くお生まれになってください。今生こそ)
水面がすっかり静まり返ると、ルカは笛を唇から離した。
護衛や使用人たちも、久々のルカの笛につられて池の周りへと集まって来た。
だがそこで彼らが見たものは、
「見ろよ、池が光っている」
水面が淡く発光している。
「なっ、なんだ。これは」
よくよく見ると、水の中にたたずむ殿下の姿。
あの事件以来、水泳は禁止にすることになっていたのだが、それに泳ぐにはまだ寒い。
誰もが凝視している中、ルカはいきなり何かに引きずり込まれるように水中に潜った。
一瞬の沈黙。
「えっ!」
「何やってんだ、あのバカ」
「せっかく助かった命を」
思いはそれぞれだった。口に出して怒鳴る者もいれば心の中で叫んだ者もいた。だが行動は一つだった。池の辺にいた者たちは一斉に池に飛び込んだ。反対側からも飛び込んだ音が聞こえる。誰もが幼き我が主を助けようと必死だった。
最初に泳ぎ着いたものがルカの体を抱え込むと、岸に向かって泳ぎ始める。その周りを飛び込んだものたちが囲む。皆びしゃびしゃになって池の辺に上がる。リサまでが池の中に走り込んでいた。
「タオルだ、タオル」
護衛のひとりが、池に飛び込む前に脱ぎ捨てた上着を持って来て、地面に広げる。
その上にルカを寝かせると水を吐かせた。水はさほど飲んでいなかったらしく、息は直ぐ吹き返した。
「何やってんだ」と、ハルガンの怒声。
ルカは重い頭を上げながら、
「蛇が、白い蛇が、足に絡み付いて」
「やはり、毒にやられたか」と、護衛のひとり。
「いや、これこそ殿下でしょう」
護衛たちは笑った。
「ふざけんな」と、ハルガン。
「僕は、ふざけていません。本当に」
その時、リサと目が合う。
リサは半べそをかいていた。
「もう、もう殿下のことなど、知りませんから」
そう言うと駆け出して行ってしまった。
バスタオルを持って来た侍女たちとぶつかる。
「どうしたの、リサ」
「何でもありません」と、リサはそのまま走り去る。
侍女たちは腕一杯抱え込んできたタオルを皆に配りながら、
「リサ、泣いていたけど、何かあったの?」
「こいつが、泣かしたんだ」と、ハルガンはルカを顎でしゃくりながら。
ルカはばつ悪げに下を向く。
「まあ、その歳で女の子を泣かすなんて、これはハルガンさん以上になるわね」と、侍女たちは笑う。
「ハルガンさんも、まごまごしていると追い越されるわよ」
今度は護衛たちが笑った。
「なっ、なんでそういう話になるんだ」
「おっ、手ごわいライバルが出来たな」と、ケリンまでもがハルガンを肘で小突きながら。
ルカはただただリサに謝りたくて下を向いていた。
夕方、気温は低い。また風邪をひくかと、この場にいた者全員が思っていたのだが、池の水は丁度人肌ぐらい。水からあがっても寒い感じがしない。それどころか、体の中から力がみなぎって来るのを感じた。一体この水は何なのだ。まるで生命を司る羊水のようだ。
その夜ナオミは、淡く輝く池を見ていた。
幽玄の世界。
「綺麗ですね」
背後にエルシアの気配を感じ、ナオミは言う。
そこにはルカが立っていた。だが姿はルカでも、
ルカはナオミと並び立ち、池を見詰める。
「今回は、いろいろとご心配をお掛けいたしました」と、丁寧に礼を言う。
「いいえ、こちらこそもう少し配慮していれば」
エルシアは悲しげな顔をして首を横に振る。
「どんなに注意しても、人の悪意にはかないません。これが人の世の常です」
エルシアは大きな溜め息をつく。そして気持ちを変えるかのように、
「エネルギーなのです彼女の、あの光」
ナオミは急に話題を変えられたもので、えっ! と言う感じでルカを見た。
ルカ、ことエルシアは、にっこりすると、
「この池が死滅してしまったもので蘇らせてくれたのです。明日になれば、よわっていた魚たちは元気になるでしょう」
「竜神様が来て下さったのですね」
「いいえ、彼女はこの星には来ません」
ナオミは、はっ。と思った。
そう言えばヨウカさんが言っていた。
「ネルガル人が嫌いだから?」
エルシアは何も答えない。その代わりに、お願いがあると言う。
「何でしょう」
「リサさんに言っておいてもらいたいのですが、私のためにご自身の命を投げ出してくださったことには、とても感謝しておりますと」
ナオミは驚く。
「リサがそんなことを」
エルシアは頷く。
「でも、今後、彼女と命をかけた取引はしないで下さいと。彼女を悪魔にしたくないのです。彼女には悪気はありません。ただ、友達が欲しいだけなのです。ですから、命をくれると言われると、本気にして竜宮へ連れて行ってしまいます。ましてリサさんのような美しい魂ではなおのこと。でもそれは、こちらから見ればリサさんの死を意味します。リサさんが竜宮に飽きて帰りたいと言えば、彼女はいくらでも返してくれます。でも、もうその時は、地上では何百年もの月日が流れているのです」
そこら辺の時間の感覚は、ナオミにもわかるような気がした。
こうしてエルシア様とお会いしているとき、時間は無いに等しい。でもそれは、彼がこちらの時間を気にしてくださっているから。もし時間を気にしなければ、こうして永遠に話を続け、数百年の時間が経ってしまうのかもしれない。楽しい時間は、実際に経過している時間よりも短く感じられる。いつまでもこうしていたいと思い、気づいた時には数百年の月日が経っている。
結局その時代に戻ってこなかったリサは殺されたことになり、青い髪の少女は悪魔ということになってしまう。
「わかりました。よく言い聞かせましょう」
「有難う御座います。それと、今回の件では、ご心配をおかけいたしましたと」
ナオミは頷く。
ルカは我に返った。
「あれ、水面が輝いている」
淡い光は、昼より夜の方が目立つ。
「綺麗ですね」
「そうですね」
その夜、池は朝まで淡い光を放っていた。
次の朝、体の異変に真っ先に気づいたのはケリンだった。彼には拷問による傷跡が無数ある。それが薄くなってする。ハルガンの腕の傷も小さくなっていた。あの時池に飛び込んだ者たちの体には、大なり小なり異変が起きていた。
そしてリサの体にも。リサは火炎放射の餌食になる弟を寸前のところで救った。そして弟の代わりに全身火傷をおってしまった。あんな弟でも、今でもリサの体には負い目を感じている。姉貴が本気で花屋をやりたいのなら、手伝ってやってもいいか。と思うほどに。その火傷の後が、今消えようとしていた。
「先生」
リサは慌てて診療所へ飛び込んだ。
池に入って三日後、リサの体をおおっていたケロイドはすっかりなくなっていた。代わりに新しい皮膚。
「一体全体、これは?」
「それは、私の方が訊きたいのです」
そして館でも、
「見てくれ、俺の刺し傷」
跡形もなく消えていた。
「それより俺の赤痣だよ」と、その男は腹を出す。
生まれ付きわき腹に大きな赤痣があったのだが、今はすっかり薄くなってわからなくなっていた。
その痣を見て護衛たちは顔を見合わせる。考えていたことは同じだった。
「もしかして」
「俺も、そう思う」
彼らはルカの部屋へと急ぐ。
「殿下、殿下」
ドアをノックする。
「あいてます」と、中からルカの声。
「お邪魔します」
五人の護衛は一斉になだれ込んだ。
「何か、あったのですか」
ルカはコンピューターを操作し、目はスクリーンに向けたまま訊く。
「ちょっと、こっちへ来てくれませんか。時間はとらせませんので」
ルカはそれで初めて顔を上げた。
「こっちこっち」と、手を振る護衛の方へ、
「何か?」と、ルカがやってくる。
今だ。とばかりに五人は一斉にルカに飛び掛り、ルカをソファの上にねじ伏せる。
「なっ、何をするのですか」
「ちょっと、失礼」
言うが早いか、ルカのシャツのバタンに手をかけた。
その時、思い切った音が五回、部屋中に轟く。分厚い辞書のようなもので頭を殴られた。
「何やってんだ、この馬鹿どもが。相手はまだ子供じゃねぇーか」
痛っつー。と思いながら頭を抱えて振り向くと、そこにはハルガンが立っていた、分厚い本を持って。
やはり凶器は本か、この部屋では当然だろう。
「ごっ、誤解ですよ、曹長」
「何が、誤解だ」
ハルガンはもう一度その本で殴ろうと本を振りが座した。
「ちょっと、これ見てください」と、男が腹を出す。
「何だ、そのぶよぶよした腹は」
四人が笑いを堪える。
「腹じゃなくて、痣ですよ痣。俺にはここに」と、男はわき腹を指しながら、
「俺には生まれつき、ここに大きな赤痣があったのです。それを見られるのが嫌で、水着がはけなかった」
「痣ではなく、その腹ではないのか。その腹、どうにかならないのか」
四人はとうとう笑い出してしまった。
「曹長、ちゃんと聞いてくださいよ。痣が消えているのですよ。だから、もしかして」
「それが、この強姦の理由か」
「ちょっと、強姦だなんて」
「やってみたかったけど」
その時、また大きな音が五回、部屋中に鳴り響いた。
「痛ってー、お前が余計なこと言うから」
「痣ですか」と、ルカは自分でシャツのボタンをはずした。
だがそこには、痛々しいほどの青黒い痣。大きさどころか色も以前と何ら変わっていない。
「どっ、どうして。俺たちの痣や傷は消えたというのに」
ハルガンの腕の深手もすっかり完治していた。
ルカはシャツのボタンをかけながら、
「これは、僕が僕である証ですから。もしこの痣が消えてしまったら、村の人たちが困るでしょう」
確かにそうだ。その痣は、あの村にとっては神の証を意味する。
「でも、不思議ですね。あの時池に飛び込んだ人たちは、皆傷が治っているのですか」
「みたいだな」
「少し、見せてもらえませんか」
ルカは逆に男のわき腹を観察する。
「本当に、ここに痣があったのですか」
言われれば、うっすらと皮膚の色が違うような。おそらく新しい皮膚でまだ日焼けしていないから。
「あなたもですか」
「ああ、俺はここに、鉄パイプが刺さった痕が」と言って、男はズボンを捲り上げた。
「ハルガン、あなたは?」
ハルガンの腕に傷があることをルカは知っていた。
ハルガンは腕をまくって見せる。
傷は綺麗に消えていた。
「曹長も」と、皆が驚く。
「曹長だけには、ご利益ないと思っていたのになー」
もう一発。
ルカは考え込む。
「どういうことなのでしょう」
「それは、こっちが訊きたい」と、護衛たちはルカに迫った。
池が輝いた次の日から、池には魚が戻ってきた。そして野鳥も。館の生活は毒を撒かれる前と何ら変わらなくなった。生活が落ち着くと心の中に余計な考えが浮かぶ。そして今まで思っていたことを口にする。
「殿下に毒を盛ったのは誰だ」
使用人たちは集まればその話で持ちきりになった。無論、護衛たちも今後ルカの身辺を護衛するために、そこらへんをはっきりしておきたかった。
ナオミとルカは館のこの雰囲気を嫌った。
ナオミは使用人たちを集めて言う。
「真犯人を上げることはできません。誰かがその身代わりになるだけです。だから、もうその話は止めましょう」と。
だが噂はなかなか止まない。そしてある夫人に攻撃が集中した時、
「誰も、彼女がやっているところを見たわけではないのでしょう」と、ナオミの一言。
この世にはそんなに悪い人はいません。ただ、弱いだけです。だから自分に負けて悪いことをしてしまうのです。今回のこともそうです。妬みは、突き詰めれば自分が弱いから生まれてくる感情、自分が負けたと思ってしまう。本当は負けてなどいないのに。錯覚を起こしてしまうのです。起こさせたこちら側にも責任の一端はあります。そこらへんをわかってあげましょう。自分たちもいつそういう想いになるかわからないのですから。
リンネルはクリンベルク将軍の館に居た。今まで報告をレイに任せていたが、事件もあらまし片付いたもので、自ら報告に出向いて来た。
「どうなされたの、そのお姿!」
待ち構えていたように現れたのは将軍の一人娘シモンだ。
「これはシモンお嬢様、ご無沙汰しておりました」
リンネルは紳士的な礼を取る。
「先程から父が、待ちかねております」
リンネルはシモンに案内され、居間へと通された。
そこには将軍と長子のマーヒルが居た。
挨拶もそこそこに、
「カロルは学校でな」と、将軍は嬉しそう。
近頃、学校も鍛錬もさぼらなくなった。剣の修行はルカが提案したとおりにやっている。
「どういう風の吹き回しなのか、呆れなければよいのだが」
「そうとうショックだったのね、自分より小さな王子様に負けたことが」と、シモンはお茶を注ぎながら言う。
そして話は本題に入った。
リンネルは、あの病室で起こったことをありのままに話した。最もエルシアのことは避けた。白い巨大な大蛇の話だけで充分。これ以上何か言ったら、相手にされなくなるのではないかと言う不安から。
案の定、三人の反応は。
「大佐、失礼ですが、あなたも」
クゼリの毒に当てられたのではないか。と、三人がみな同じ顔をしていた。
リンネルは苦笑するしかなかった。
自分でこの目で見たのに信じられないのだ。それを話したところで信じてもらえるはずがない。
「で、それをルカ王子にも話されたのかね」
「はい、一通りは」
ハルガンやケリンにも言ったが相手にされなかった。
「で、王子は何と」
「深々と頭を下げられまして、心配かけたと」
三人は頷く。
「ご両親は健在かとお尋ねになられたもので、はい。と答えたところ、人は疲れると立ったままでも眠れるそうです。と仰せになりまして、十日ほどの暇をだしますので親孝行をされてはいかがですかと」
暫しの沈黙の後、三人は顔を見合わせて笑った。
「そっ、それで、そのお姿」と、シモン。
「はい」と、リンネルは両手を軽く広げるようにして、今の自分の姿を見せた。
リンネルの軍服姿しか見たことのないシモンにとって、彼の私服姿は一種の新鮮味を呼んだ。まるで別人のような。
「それが一番無難な考えだな」と、将軍もルカの意見に賛同した。
リンネルはますます苦笑するしかなくなった。
リンネルはそうそうに三人に別れを告げ、重い足取りでクリンベルクの館を後にする。
「ゆっくりしてきてください。後のことはカロルによく言っておきますので」と、シモン。
それが一番問題のような気がする。
「あの様子では、三日とルカ王子のもとを離れてはいられませんね」
「そうだな」
知らせは、ハルメンスの元にも届いた。
ルカが死ななかったこと。そしてリンネルが一時里帰りをすること。
「死ななかったのか」と、ほっとしているハルメンスに、
「丁度よい機会だと思います。鬼の居ぬ間に」
「そうだな、見舞いを口実に会いに行ってみますか」
-
2009/03/24(Tue)23:39:04 公開 / 土塔 美和
■この作品の著作権は土塔 美和さんにあります。無断転載は禁止です。
-
■作者からのメッセージ
長くなってしまいました。ここまでお付き合いいただき、心より感謝しております。今回は途中から読んでくださる方のために、場外ホームラン級のかっ飛ばしたあらすじを付けてみました。おわかりいただけたでしょうか。では次回も引き続きお付き合いいただければ、幸いです。