- 『列車』 作者:kanare / リアル・現代 ショート*2
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列車は定刻どおり到着した。
強い南風の吹くホームから、特急列車の三号車に乗り込む。
後ろから数えて二番目の、二人掛けの席に座ると、恭しく列車は走り出した。
いよいよ、この時が来た。幼い頃より憧れていた、紀伊半島の先、那智勝浦町へと向かうのだ。
電車は、平坦な住宅街の間を抜けていく。景色は後ろへ、後ろへ駆け抜けていき、旅立ったあの駅は遥か彼方に消えてしまった。
しかし、自分でも驚くべきことだが、発車してから五分もすると、あれほど心躍っていた気持ちもみるみる萎んでいくではないか。
どんなに待ち望んだことでも、その時が来てしまえばなんということもないのかもしれない。僕は、軽い幻滅を覚えながら、窓枠に肘をつき、頭をもたげた。そうするうちに、うつらうつらとしてきた。朝が早かったせいだろう。とくにすべきこともなかったので、そのまま寝入ることにした。
幾ばくかの時間が経ち、気がつくと、特急列車は駅へと到着していた。その駅では、数人の客が乗り込んできた。僕は眠たげな瞼を持ち上げて、後方の入り口のドアーを眺めていた。すると、一人の大男が僕の座っている座席の前で突っ立っている。僕は、不審げにその男の顔を見た。
「もし、お宅、この席は予約済みですよ」
男はぶっきらぼうな口調で言った。
「……ああ、そうでしたか。これは失礼」
寝ぼけていたのもあり、僕はそそくさと右手に自前の大きな革トランクを持って、前の方の座席に移動した。黒と白の横縞模様のシャツを着た男は、悠々と、僕のもといた席に座った。
しかし、後になって気がついた。どうもおかしい。あそこは、僕の予約席のはずなのに。すると、車両の前方のドアーが開いて、浅葱色の四角い帽子を被った車掌がやってきた。車掌は、訝しげに僕に尋ねた。
「お客さん、特急券はお持ちで?」
「ええ、もちろん、ここに」
僕は、慌ててコートのポケットから切符を取り出した。車掌は、僕の切符を手にとってまじまじと眺めた。
「……お客さん、あなたのお席は、向こうで、ございます」
「しかし、車掌さん、私の座るべき席には、今、あそこにああして座っている横縞の男が座っているのです」
「……そうでしたか。それはお気の毒様です。世間では、往々にこのようなことが起こるものですね。」
白目を剥き出しにした車掌は、それだけ言うと何事もなかったように行ってしまった。結局、僕がこのままこの座席に座っていてもよいのかは、わからなかった。
列車は、一駅、また一駅と南下していく。いつの間にやら急峻な山に差し掛かったり、そうかと思えば平野部の、田園と田園、家と家の間を走ったりする。
僕が、ぼーとしている間に、また駅についた。今度はどこ着いたのだろうか。熊野だろうか。
二列に並んでいる木造の駅舎を、同じく木造のアーチが繋いでいる。下り方面の駅舎の階段を降りて、誰かがホームにやって来る。若い婦人だ。年の功は、まだ二十になるか、ならないかと言ったところだろうか。彼女は、三号車に乗り込んだ。そして、向かいに並んでいる、僕の目の前の座席に腰掛けた。
彼女は、実に爽やかな、三月の匂いを運んできた。僕は、彼女のことを横目で見ていた。彼女は軽装で、荷物は小さなハンドバッグだけだった。
「もしもし、あなたも、旅ですか?」
婦人は、僕の顔を見て、言った。
「ええ、そうです。旅はいいものですね」
彼女は、切れ長の、黒目がちな瞳を細めて、にこりと微笑んだ。なんて美しいんだろう。僕は、思わず彼女を見つめた。しかし、どうしたことだろう。僕は、どうにもこの人を見たことがある気がする。今、偶然に向かい合っただけなのに。どこかで、会ったことがあるのだろうか。
「……あの、つかぬことをお聞きします。あなたとは、どこかでお会いしましたでしょうか?」
しかし、彼女は何も答えなかった。ただただ、うふふと微笑むだけだった。開け放していた車窓から、びゅうびゅうと風が入り込んできた。彼女の真っ白な帽子が、足元に、ひらりと落ちる。彼女は、スローモーションのようにゆっくりと、前かがみになって、帽子を拾おうとした。
その時、屈んだ彼女の、ブラウスの隙間から、零れそうな乳房のやわらかな影が、はっきりと見えた。
僕は、その光景に釘付けになってしまった。同時に、今まで感じたことのないような、性的な興奮を覚えた。
そこで、僕はようやく思い出したのだ。君はカヨちゃんではないか。幼馴染のカヨちゃん。僕の恋人だったカヨちゃん。赤ん坊を孕んで、自殺未遂をしたカヨちゃん。
途端に、名状しがたい罪悪感に襲われて、僕は頭を抱えた。烈しい偏頭痛のときのように、両目がパチパチとして落ち着かず、吐き気にも襲われた。列車は、古く煤けた煉瓦造りのトンネルを潜っていく。僕も暗がりに隠れてしまいたかった。
トンネルを抜けた後、特急列車は、青々した蜜柑畑の間を通り抜けていった。その間、僕はずっと外を見ていた。彼女は、黙ったままだった。これでいい。これで十分なのだ。
いつの間にか、次の駅に来ていた。
彼女は、何も言わず、すっと立ち上がって出て行った。
駅のアナウンスが、やけに甲高い音を立てる。
「大阪、大阪。」
ああ、なんてことだ。僕は、とんだ思い違いをしていたのだ。
三号車の乗客は、皆足並みを揃えたようにホームへと散っていった。
閑散とした車両の中に、僕だけが取り残されていた。先頭車両の方から、ドアーをくぐって車掌がやってきた。僕は、慌てて彼に話しかけた。
「車掌さん、大阪といいましたか?」
「ええ、そうですとも」
「……車掌さん、僕は、紀伊半島に行きたいのです」
「お客さん、お客さん、何を言っているのですか。ここは、紀伊半島ですよ」
そうだったか。僕は、妙に納得した。そして、もう一度、座席に深く腰掛けた。
よくよく考えてみれば、そう急ぐ旅でもないのだ。少しくらい暇を持て余したって、誰にも文句を言われない。皆、人生の暇を持て余しているのだから。
ジリリリと、けたたましい発射音とともに、再び、列車が発車する。
列車は、凄まじい速さで進行した。きっと、時速三百キロメートルは出ているだろう。急な勾配を下り、ヘアピンカーブを曲がる。そして途端に、視界が開けた。寂れた漁村の合間を縫うように、燦々と光る、見事な太平洋が見える。あちこちに浮かぶ小島。海に突き出すようにそびえる崖。
海だ。やっと海が見えた。僕はこのときを待っていたのだ。
「おうーい、おうーい」僕は叫んだ。興奮を抑えきれず、上下に開く車窓を思い切り開けて、身を乗り出した。
電車は、最後の駅へと到着した。
先頭車両から車掌がやってきた。今度は、浅葱色の制服ではなく、鶯色の制服を着ていた。
「終点でございます」
車掌は、葬式の参列者のような顔をして、そう告げた。
僕は、右手にカバンを、左手にコートを抱えて、急いで駅へと降りた。鄙びた白ペンキ塗りの駅。錆びた看板が、強い海風を浴びて、ぎいぎいと音を立てていた。
僕は、古く苔むした石段を駆け下りた。すぐに、蒼々とした海が見えてきた。白い砂浜には、捨てられた漁船が寂しそうな顔で佇んでいる。僕は、どうしてここまで来てしまったのだろう。
ふと見ると、向こうの浜辺で誰かが炭火焼をしている。僕は、あてもなくその煙の立つところへ近づいた。
「どうですか、お一つ」
老婆が、貝を焼いている。
老婆は座ったままの姿勢で、こちらに貝を差し出した。うまそうな貝だ。このような鄙びた場所で施しを受けられるなんて、僕は運がいいのかもしれない。両手で貝を持って、そのままむしゃぶりついた。なんだか、随分と懐かしい味がする。
ここにきて、僕はようやく気がついた。貝を焼いていた老婆は、僕の母親だった。
「あなた、僕のお母さん、お母さんではありませんか」
小さく座り込んだ老婆には片腕がない。そうだ、お母さんは、数年前、交通事故で死んだのだ。
すると、ここは、僕の故郷か。
悪戯な南風が、びゅうびゅうと僕の髪を揺らした。
実に簡単なことだった。何も悩むことなどなかったのだ。僕は愕然と腰を抜かして、よろよろと座り込んだ。
浜辺に寄せては消えるそぞろな波が、空しい音を立てた。もうすぐ夜になる。黒い雲が来て、嵐になる。やがて朝が来る。ただ、それだけのことなのだ。
僕が再び駅に立つと、ちょうど列車が到着していた。
「……この列車は、どちらに向かいますか?」
僕は、改札の駅員に尋ねた。
「あなたをお待ちしておりました」
「そうでしたか」
僕は、躊躇なく橙色の特急列車に乗り込んだ。列車は、轟音と共に、止め処もなく走り出して、やがて見えなくなった。列車は、二度とこの地を訪れなかった。
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2009/02/26(Thu)13:14:10 公開 /
kanare
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■作者からのメッセージ
読んでいただき、本当にありがとうございます。
解釈は人によって違うと思います。
実をいうと、自分の見た夢をもとに再構築した話なのです。ですから、ところどころ了解不明な部分もありますが、そういう作品と思っていただければ幸いです。しかし、まだ当方も未熟・拙筆ですので、厳しく批評していただければ作者冥利に尽きるところであります。