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『小吉物語』 作者:手塚 広詩 / リアル・現代 未分類
全角63895文字
容量127790 bytes
原稿用紙約188.55枚
この作品で読者に伝えたいことは、背が高いとか低いとか、彼女がいるとかいないとか、そういったことで幸せかどうかをきめるべきことではないんではないか、ということです。誰にでも訪れるものであると私は信じてます。
                         1

おれの名前は滝沢吉。決して「小吉」なんかじゃない。そんな運に見放されたような名前、どこの親だって付けないに決まっている。ところが小学生の時に「小吉」は生まれ、三十になって就職している今でもこの名前は死んでないから、それがおれの名だと誤解している奴は結構いる。そうなってしまったのに深い理由はない。おれの背は、一四九しかない。
 「小吉」の誕生は、ある小さな出来事に由来する。小学二年生の時の身体測定で、前年同様、おれがクラスで一番低いことが明らかになった。人の外見を見てばかにして、喜んでいる奴って、いつの時代にもいる。平成だって、決して例外ではない。
 「お前背低いなあ」
 朝礼の時、最前列に並ぶ俺を、クラスの男子がはやしたてた。いかにも得意そうだ。彼は前から六列目に並んでいるのだから、低いことに変わりはない。それでも俺より一五はある。必要以上に大声を出しているのもまた、腹立たしかった。
 「だんとつだもんな。尊敬するよ」
 「うるさい。いつかお前なんか抜かしてやる」
 「いや、無理だろう。っていうかお前、吉っていうより『小吉』だよな」
 周りは一斉に笑いだした。その時、四方から『小吉』コールが沸き起こったのは今でも鮮明に覚えている。おれだけ一人、棒のように突っ立っていた。


 電車のつり革には十分に手を伸ばす必要がある。そうするとかえって疲れてしまい、手を引っ込めると今度は揺れに耐えなければならない。満員電車の時は特に大変で、電車のブレーキの揺れの際に、つり革を逃したおれの手が、同じ車両に乗り合わせた女性の胸に当たってしまったことがある。「すいません」と半分潰された顔で謝ると、女性は憎悪に満ちた目でおれを睨んだ後、おれに背を向け、次の駅で車両を降りた。それが目的の駅だったのか、車両を変えただけなのかは判らない。しかし背が低いということは、単に不便だというだけではない。そのことでおれが最も悩み苦しんだのは、おれ自身のプライドが傷ついた時だ。
集合写真は好きじゃない。特に学校で撮る記念写真では、隣人との凹凸が顕著で、目立たないことがない。もちろん、何度か周りに気づかれないようにかかとを上げ、背伸びをしてみたことはある。が、ほとんど効果がなく、写真に写る自分は相変わらず低い。だから写真を撮るとき、変に緊張してしまうようになり、どうしても笑顔が造れない。後でそれを見れば、いつもより老けた顔をしているもんだからたまらない。
 それだけじゃない。背が低いと、人の理不尽なところとも多く付き合わなくてはいけない気がする。中学の時、おれの背をいいことに、体育のバスケの授業でジャンプボールをやらされたことがある。相手は一八〇もあり、一緒に並ぶだけで不愉快なのに、そいつがジャンプをせずにボールを捕ると、観衆だけでなく、選手のなかでも腹を抱えて笑っているやつがいる。しかしチームのキャプテンだけは不機嫌で、『背低いと駄目だな』と吐き捨てたのを覚えている。だったら自分がやればいいのに。なんだか体育館から突き放された気持になった。この他にもいろいろなエピソードがあるが、きりがないからここで終わりにしておく。


 そんな俺が高校一年の時、やっぱり身体測定があった。
「一四九・五」
 保健の先生って、案外意地悪だ。賑やかな保健室いっぱいに聞こえるくらい、声がでかい。もうちょっと小さく言ってくれてもいいのに。おかげで周りはざわめき始めた。「小さい」というささやき声がおれの耳にしっかりと聞こえてくる。前年とほとんど変わらないのが判って、軽く溜息をついた後、平然とした顔で教室を出ていく。別に珍しいことじゃない。こんなのもう慣れた。
 「ま、あんまし気にするなよな」
 落合進の言葉が、励ましているのか、からかっているのか分からなかった。進とは小学校からの付き合いだ。おれのことを吉という、数少ない友人だ。高校に入学してたまたま同じクラスになり、今、二人で昼飯を食べている。けれど今の進の言葉が、おれには何のことか見当がつかなかった。
 「えっ、何が」
「背のことだよ。周りの奴のことなんて気にするな」
「あ、ああ、別に。前からのことだし。慣れたっていうか。気にしても……」
「おれは気にしてるけどな」
 おれが言いかけると、進は鋭く反応した。どうやら彼も、今日自分の背と向き合って、ショックを受けたらしい。おれよりも一三ほど高いが、男子の平均身長よりは明らかに低かった。
 「他の男子と並ぶと、なんか腹立つ」
 「へえ」
 「へえって、お前そう思わないのかよ。あいつらに見下ろされてるんだぞ」
 進の勢いのある声に、思わず笑ってしまった。昔あったドラマの再放送を見た気分がした。今の進の姿に、昔の自分が重なった。
 「まあ、おれは慣れてるっていうか、あんま気にしてもしょうがないし。自分じゃどうする事もできないだろう」
 「えらい」
 おれに指をさしてきっぱりと言った。
「いいな、おれもそう思いたい。この背だとさ、どうしてもネガティブ思考になっちゃうんだよね」
 「例えば?」
 「いろいろ。まだ彼女もできないし」
 「それは関係ないじゃん」
 「ばか言え。あるよ。大いにあるよ」
  進は自分で言って、うなづいている。おれはきょとんとした顔で見つめていると、
 「女は外見しかみてない」
 と無茶を言う。
 「それはないだろう」
おれは幼馴染の言葉に半ば失望した。もし世の女がそんなことだったら今頃大変なことになっているに決まっている。進はジンジャーエールを一気に飲み込むと、はあ、と息をついて力強く言った。
 「いや、でも大事だ。背が高くて、イケメンの奴のほうが明らかに得だろ」
 「そりゃそうだけど」
 「ああ、おれは結婚できないかもしれないし、このまま彼女もできないかもなあ」
 普段は太陽のように明るい進の顔が急に曇ったので驚いた。
 「まだ高一じゃん」
 「いや、おれほどもてない奴は珍しいぞ」
 「そんなことないだろ」
 「いや、実際このクラスで彼女つくったことないのは、おれとお前と、二,三人くらいだそ。ああ、彼女が欲しいな」
 悲嘆にくれた声をもらしながら顔を下に垂れ下げた。おれは軽い気持ちで、
 「きっとできるよ」
 というと、進は鋭い眼でおれを見た。蛙を捕らえた蛇のような顔をしている。おれは金縛りにあったように体が動かなかった。
「気安く言うな」
 えらいことをしたと思った。が、これといってできることもない。とりあえず謝ったほうが無難だと思い、
 「ごめん」
 と言ったが、進は黙って弁当をガツガツと食べ続けた。進より背が低い自分にとって、奇妙な心地がした。おれは残った冷たいご飯と、甘くない卵焼きを急いで食べた。


 兄さんに薬のことを告げられたのはそれから三日後のことだった。風呂に入って二階で歯磨きをしていると、静かに階段を上る音がする。四人家族で、静かに上るのは兄さんだけなので、すぐにその音の主が誰か判った。
 「吉」
 いつもの低い声がいっそう低くなっていたように感じた。なんだか背筋がぞっとして、返事をするのに少々間が空いた。後ろを見れば、白い顔でおれを睨んでいる。
 「何?」
 「そろそろ健康診断だろ」
 「この前あったよ」
 「身長はいくつだった」
 尋問するような言い方だった。兄の眼は、橙の奇妙な光沢を帯びていた。
 「一四九」
 思ったより声がか細くなってしまった。
 「前とほとんど変わんないな」
 「うん」
 「うんじゃない。それでいいのか」
 おれは道端で偶然会った人に、急に頬をぴしゃりと叩かれた気がした。兄さんは、なんだかおかしかった。身長のことを出し抜けに問うと、電光石火のごとくそれでいいのかと言う。そんなこと言われたって、これはどうしようものないことだ。おれが悪いわけでもないのに、なんだか怒られた気がした。
 「いいのかって言われても。こればっかしは……」
 「お前知らないのか」
 「何が?」
 「飲むと背伸びる薬、あるんだぞ」
 声が出なかった。世の中にそんな薬があるなんて。自分が空想の世界にいるような気持がした。
 「来な」
 そういうと、兄さんは自分の部屋に入っていった。おれは慌てながら緊張しながら、後についていった。普段は絶対に入るなと言われているから、もう何年も入っていない。部屋には高そうなジャケットやジーンズなどの衣類や、ネックレスやブレスレットなどのアクセサリーがクローゼットいっぱいにあった。最後に見た時とはけたたましく変わっている。
そういえば兄さんは、高一の時、急にかっこいい服を着るようになって、髪も染め、ワックスをかけ、耳にはピアスをするようになり、皆が驚いたのを思い出した。ここまで変わるのか、って、正直思った。確かにかっこよくなったが、なんだか妙な冷たさが前より増した気がして、一層近づき難くなった。
そんな兄さんは、親戚やおばあちゃんが来た時は、白い顔で静かに笑っているだけで、ほとんどものを言わない。まるで人形みたいだ。そうして客が帰れば、『もう来ないでほしい』とか、『まじ迷惑』とか、散々おれに愚痴をこぼすのだからたまらない。二つの顔を持っているようで、すごく怖かった。
窓際に位置しているベッドの隣の本棚には、男性ファッションやヘアスタイル関連の雑誌が無造作に並べられていて、入りきらないのか、机の上にも積み重なっている。兄さんが机の上の雑誌の中から一つを手に取り、おれに見せる。赤字で「身長アップ 確実に背が伸びる」「驚異の成功率九八パーセント」「三か月で一二センチアップ」など、大きい字が目に入ってくる。白昼夢を見ている心持がした。おれはすっかり釘づけにされてしまい、兄さんの手から雑誌を手にとって、食い入るように見た。
「ポセイン」という薬が、多くの男の背を高くしたらしい。申し込みの欄に小さく、値段が書いてあり、三か月で4万とのことだ。
 「やんないの?おれバイトしてるから、買ってやってもいいぞ。お前が大学生になったら返してもらうけど」
 おれは黙った。確かに、もう少し背があればなと思うときはある。けれど、薬を飲むまでして、金を払ってまでしてそれを望むかと聞かれると、疑問だ。こういう雑誌を真に受けて、行動に移すことって、なんだか気味が悪い。
 「どうしようかな」
 「悩むのか」
 眉間にしわを寄せてこっちを向いている。明らかに侮蔑の念が感じられた。
 「その背じゃあ、絶対幸せになれないだろう」
 「幸せ?」
 「まず彼女はできないと思いな。自覚したほうがいいよ」
 進との会話を思い出した。同じようなことを言いやがって。背が高ければ誰でも結婚できるのか。おれは苛立ちを感じながらも必死にこらえて、
 「背は関係ないよ」
 と苦笑いながら言った。兄さんは一回息を吸い、顔を軽く上げると一気に吐き出した。
 「お前分かってないな。今のお前、周りから見て何の魅力ねえよ。髪はださいし、肌も荒れてるし、清潔感がまるでない。真面目で正直ってだけじゃ、どうしようもないぞ。人はばかだから、第一印象で優劣つけちまうんだよ。だからこういうの買って勉強するの」
 決して大きな声ではないけれど、ものすごい迫力があった。兄さんはただおれを睨んでいる。おれは完全に浮足立った状態になった。何も言えず、呆然としていると、半ば呆れた様子で言った。
 「別に強制はしないけどさ。成長ホルモンは年をとると分泌量が減っていくからな。早いほうがいいぞ。分かったら出てって」


 今の高校生のほぼみんな、男子は格好いいし、女子はかわいい。男子は髪を染めて、ワックスをかけ、眉毛は剃り、上品な服や靴、アクセサリーを身につける。女子は朝、メイクするのに一時間以上かけるという話を聞いたことがある。目をぱっちり大きくして、口紅をつけ、休日になると足が痛くなってもヒールを履いて買い物に行く。なんでここまで外見にこだわるのか、自分にはよく分からない。大事なことって、きっと他にある。服なんて着られればそれで生活ができる。二万円のジーンズを買うよりも、旅行に行ったり映画を見たり、おいしいものを食べるほうがいいに決まってる。
そうして最も妙なのが、おれには、そういう若者が「ただ」飾れば満足しているようにみえることだ。みんな雑誌を見て、いいなと思う髪型にして、かっこいい服を着る。通勤の電車に乗ると、女子高生の姿にぎょっとしてしまう時がある。髪は金色でグロテスクとも形容できるくらいの厚い化粧をして、口と耳にピアスをし、スカートは膝の上一五センチくらいまでしかない。とても日本人には思えない。まるで汚れたフランス人形だ。美しさは感じられず、ただただ奇妙な物体を見ている気がして、不快だ。おしゃれにしようとしているのに、自分で自分の姿を見て、判断することがないようだ。これじゃあ、日本の夏に雪が降っているようなものだ。
今までそう思っていたから、髪を染めようとも思わないし、特に高い服を買おうともしなかった。だから今の兄さんの話を受け入れることはできなかったし、なりたいとも感じなかった。だけど。あの瞬間、背筋がぞっとしたのを覚えている。兄さんの無知蒙昧な意見が、おれをたまらなく不安にさせた。


高校に入ってまだ日は浅いが、クラスの男子と恋愛類の会話はもう何度もした。春の空気は優しく、人の心もそれに溶け込んで、温かい気持ちになる。この空気に触れて、人は恋をするのかもしれない。もちろん中学の時にも誰が付き合ってるとか、そんな話はあったが、高校になった今考えてみると、なんだかお遊戯のように感じてしまう。まだ何にも知らない自分には、真面目に語りだす目の前の男子を見ると照れ臭いし、クラスの仲間なのに別世界の生き物のように感じてしまう。特に、感覚の一番敏感なところに触れる、卑猥ともとれる官能的な話を、得意顔で語られると、おれの心にしこりができて、なんともいえない心地がする。そうして後に残ったそのしこりは、周りが自分から離れていく、孤立という恐怖そのものに変わっていく。おれは何か魔物のようなものが迫ってきて、しかしどうすることのできない心境に陥った。高校になって初めて彼女ができた人ももう何人か見るなかで、自分には彼女ができないという事実が、必要以上におれを焦らせていた。おれは恋愛の話をだんだん嫌いになり、いつの間にか避けるようになってしまった。
「やっぱり自分より背が低い人と付き合えないなあ」
 五月の学校の帰り、おれの体は汗でべたついている。昼間の太陽が強く照りつけてる中、安藤早紀が言った。小学校からの幼友達で、二人で帰る時もたまにあった。けれど、高校生になって、早紀も変わった。髪は茶色に染め、両耳に小さいピアスをしている。真面目な中学時代の姿からは、とても想像できない。
 「女子ってそういうものか」
 「別にみんながそういうわけじゃあないけど。でも私は気にするな」
 おれはニガウリを生で食べた心地がした。おれの前で平気な顔で言う。
 「背が高くて、かっこいい人がいいの?」
 「それで損はないでしょう」
早紀は笑った。おれは手で額の汗をぬぐった。太陽はより強く照っているように感じた。国道は多くの自動車が騒がしく走っている。二人の間にしばらくの沈黙があった。
「暑いね、まだ五月なのに」
「うん」
「五月が過ぎて、六月が過ぎると、蝉でここら辺はうるさくなるって、先輩が言ってた」
「な、なんだよ急に」
 早紀は黙った。なんで今急に蝉の話になるのか見当がつかなかった。顔を見ると、遠い目をしている。
「蝉は一週間しか生きられない」
今度はしっかりとおれのほうを向いて、はっきりと言った。
「おれは嫌だな、そんなの」
「なんで?」
「だって一週間じゃあ何にもできないじゃないか」
「そんなことないよ」
「じゃあ何ができる?」
「恋」
 その時の言い方が、あまりにもさらっとしていたから、おれは余計に黙った。体の中に電流が流されたみたく衝撃が走った。早紀は涼しい顔をしていて、けれどもそこから出た声に、自分が潰されてしまいそうなほどの強い圧力を感じた。おれが知ってる早紀じゃない。なんだか恥ずかしくなって、すっかり途方にくれてしまった。
「蝉は一週間で死ぬけど、恋はするよ。一週間のうちに、必死に鳴いて、恋をして、交尾をするの。その後すぐ死ぬ。一番幸福なことかもしれない」
「一番幸福?」
「そうだよ。恋をすることほど、幸せなことってないよ。人だって、恋をするために生まれてきたんだよ」


 もしかしたらおれは、人として失格なのかもしれない。誰とも恋をすることなく、子孫を残すことなく、一人で孤独に死ぬのかもしれない。きっとおれは、熟してない果実なんだ。いや、というよりも、実のならない果実なのかもしれない。彼女が欲しいって願ったこともなければ、誰からも好かれない。毎日仲間と楽しんで、勉強もそれなりにして、部活のサッカーはレギュラーを目指して精一杯の汗をかく。それだけじゃあ、不幸なのかもしれない。一体自分は何のために生きているのだろう。
 色々なことが、自分を混乱させていたのだろう。ふっと、兄さんが話してくれた薬のことが頭に浮かんだ。今のままじゃだめだ。薬だ。薬を試してみよう。もしかしたら変わるかもしれない。恋ができなかったのがこの背のためだとしたら、あれがあれば解決する。そう思うと、今まで悩んでいたことが、なんだか急にばからしくなってきた。その日の夜、兄さんに薬を買ってくるよう頼んだ。兄さんはいつものように無表情で、ただうんと頷いただけだった。


 まだクラスの名前を全員覚えていない、五月の初旬に、新入生歓迎球技大会がある。おれの高校ではサッカーをクラス対抗で戦うことになっていて、うちのクラスにはサッカー部はおれしかいない。おれは中学の時からサッカーはやっていたが、レギュラーを取れたことがない。それでもチームはおれがまとめなければならない。なんだか最初から気が進まなかった。他のクラスは朝、早く来て練習しているのに、おれのクラスにはそれがない。『練習やらない?』とクラスのみんなに聞いても、曖昧な返事しかしない。どうやらサッカー事態に興味がないらしい。おれも無理にやらせるわけにはいかないから、放っておいた。
 そんなうちのクラスは、端からばかにされていた。
「悪いな。お前のクラスには勝てるわ」
 大会二週間前、サッカー部の大柳が言った。球技大会の話し合いで、トーナメントで最初に戦うことが明らかになった日だった。部活が終わり、一年生は部室でみんなボール磨きをやっている。おれの磨いているボールは、なかなか溝についた土が取れない。手が雑巾で臭い。
「ま、しょうがないだろ」
 「部員がお前しかいないならどうしようもないよな」
 「せいぜい頑張れ」
 みんな笑ってる。なんだかおれは無性に腹が立った。うちのクラスだってやればできるに決まっている。次の日から、おれはクラスの皆を集めて朝練をさせることにした。朝一番に学校に来て、ビブスとコーンを用意して、必要なライン引きまでを一人でこなした。練習のメニューもおれが決める。おれは人の名前を覚ないが、皆をちゃんと指導するために懸命に覚えた。自分だってサッカーの基礎は分かっているつもりだ。パスのタイミング、シュートの打ち方、トラップをするときの注意点、できるだけ丁寧に教えた。
それが功を奏したのか、最初は受け身だった仲間も、徐々に意欲的にサッカーをやるようになってきた。たった二週間ほどだったが、ほとんど全員がちゃんと練習に参加するようになり、最初とは見違えるほど上達した。
 そうして遂に球技大会の日を迎えた。燦々と太陽がと照りつける中、グランドは熱気でさらに暑くなっていた。新入生歓迎球技大会とは名前だけで、実際に試合に勝つのはほとんど三年生だ。一年生は、どのクラスもほとんど二試合くらいしかできない。それでもあこがれの先輩がいるクラスの応援をしたりして、グランド内は選手の一つ一つのプレーに歓声や溜息、笑いさえも起きていた。
 サッカー部の中で輝きを見せないおれも、こういう大会では活躍できるものだ。特にクラスに部員が一人しかいないことも手伝って、この背で一生懸命ボールを追いかけるものだから、とりわけ目立つらしい。担任の先生や、先輩から励まされた。一年生のクラスが次々と先輩のクラスに負けていく中で、運よくおれのクラスは準決勝までいき、そこで敗れ、三位決定戦にまわった。相手は二年四組だ。
 試合の内容からすれば、明らかに負けていた。おれのクラスはほとんど攻めることなく、いつ得点されてもおかしくなかった。試合を見ている誰もが二年生の勝利を予期していただろう。
 〇対〇で前半の一五分を折り返した。後半の二分、おれのクラスのコーナーキックで、左サイドから来た球は、前を守備している相手ディフェンダーの肩にあたり、ゴール前に流れていった。背の低いトップはキーパーの前にいた。中学の時にサッカーをやっていれば、シュートのイメージはつくものだ。右足で軽く当てたら、ゆっくりと放物線を描くようにしてゴールに入っていった。観衆がどっと沸いた。クラスの仲間がおれのところに駆け寄り、『ナイッシュ!』と言ってくれた。富士山の頂上に登った心持だ。普段部活ではあまり練習に力が入らない自分でも、この時だけはサッカーをやっててよかったと思えた。二年生の応援側はただ静かだ。
 しかし最後の二分というところで、キーパーとディフェンスの判断ミスでオウンゴールになり、一点を失ってしまった。結局時間内では決着がつかず、その後のピーケー戦で、破れた。最後のうちのキッカーが外した瞬間、うちのクラスの応援席は皆、溜息をついていた。花が枯れていくのを目の当たりにした。それでもグラウンド内は拍手が鳴りやまなかった。二年生によく健闘したことが称えられたのだろう。
 「小吉お疲れ!」
 という声が遠くで聞こえてくる。にこって笑って、
 「ありがとう!」
 と手を振った。けれどまだ負けた悔しさは残っていたから、なんだか複雑な気持ちになった。
 最後の試合は、もう少しおれがサッカーが上手くて、みんなにもいろいろアドバイスができたなら、結果は変わっていたかもしれない。朝練も早くからやらせるべきだった。みんなも落ち込んでいるだろう。罪悪感と後悔の念が強い中、恐る恐る教室に入っていった。
しかしおれの予感は外れていた。教室に入っておれが見たのはさっきまでの枯れた花ではない。潤いのある、はつらつとした花である。そうしてドアを開けた瞬間、明るい声で、
 「お疲れ!」
 と皆が言うのだった。おれは口が開いたまま、しばらく突っ立っていた。嬉しいのに、顔は強張って、吐く息は震えた。何人かの男子がおれのほうに寄ってきて、
「ありがとう」
「お疲れ」
と言ってくる。その時の皆の顔が、忘れられない。笑っている仲間の顔は、太陽そのものに感じられた。やばい。泣きそうだ。この時おれはまだ酒を飲んだことはなかったが、酔うときっとこんな心地になるのだろうと感じた。
そうしておれの心に、ある強い感情が芽生えた。
 なんだ。なんだなんだ。小さくたって、彼女がいなくたって、いいことあるじゃん。おれの幸せってこれでいい。薬のことは、断ろう。

                            2


 昼の太陽は心地よく、富川の周りにある木々から眩いほどの光を覗かせている。遠くに見える雲の動きが早く、時々太陽がそれに隠れ、辺りは一気に暗くなる。
 さっきから三時間、ずっとこの富川で、幅三十センチほどの石の上に座っている。ごつごつとした、冷たい石である。今、針先にイクラを付けた竿を遠くに放った。四・五メートルほどの竿に、一・五号の道糸を付け、ハリスは一七センチほどあるから、結構重い。蝶がひらひらとおれの頭をニ、三回まわると遠くに消えていった。
(さっきから釣れないな)
肌寒い一月、この広い河原にはおれ以外の誰の気配もなく、清澄な川が静かに流れる音が微かに聞こえるだけで、木々で風が囁くこともない。
 「この川で、この花を見ながらいろいろ考えると、心が落ち着くんだよな」
 十七年前、田中翔太が言ったことを思い出す。そう言った彼の瞳はこの川のように澄んでいて、遠くのほうを見ていた。二人はこの場所でよく釣りをした。それまで竿を握ったことのないおれに、翔太は丁寧に教えてくれた。
 その翔太とはもう何年も会っていない。


 二人が親密な関係になったのは中学二年の時だった。それより前に、おれは彼の名を聞いたことは何度となくあったし、見たこともあった。一年生の時はクラスが違ったが、遠くで見てもすぐに彼だと知れるのは、顔の鼻の周りに握り拳ほどの火傷の痕が痛々しく残っているからだ。当然、学年中に、いや学校中に彼の顔のことが評判になったのである。教室の中で、男子が翔太の顔を「キモい」と言ってるのを耳にすると、なんだか無性に腹が立ったのを覚えている。そして自分自身、それを黙って何もできなかったことにも絶望の念を抱いたのを覚えている。まだ全然話したことはないけれど、背が低い自分にとって、何となく自分に近い存在だと感じたのは確かだった。
 二年生の初日、入学式と始業式が終わると、教師と生徒は新しい教室に入っていく。おれは二年三組になった。黒板に、自分達が座る席が提示してある。やっぱり出席番号順だ。おれは二十番と示してある席に向かった。その時、おれの後ろには、背の高い男が座っていた。この男の顔に、火傷の痕がある。近くで見たのはその時が初めてだったが、一目見ただけで、こっちの心が痛んだ。紅色やどす黒いあざの模様が顔の中央のみではなく、首や耳の部分にもついていて、彼自身の存在そのものを、非現実なものにしていた。
 風体が良くなく、無口な翔太を、クラスの連中はゴキブリのように軽蔑し、嫌っていた。どうにかしなければならない、友達になって彼の見方になってあげたい。そう思いながらも、自分から話しだすことはできなかった。「嫌われ者の仲間になるな」そんな空気を、周りがそれとなく示しているように感じたからだ。おれは自分の気の弱さと身勝手さを恥じた。結局、自分の利己心に勝てなかったのだ。自分も結局、彼のことを罵る連中と変わらないではないか。


 木々がざわめき始めた。
冬の風はおれの体を貫通しているようで、思わず震えた。座っている石は余計に体温を下げているような気がした。
(寒くなったな、一体何時だろう)
ジーンズのポケットから携帯を取り出し、時間を見るともう四時を少し過ぎている。日は西に傾き、気が付けば夕日が辺りをオレンジ色に染めていた。先ほどの心地よさは消え、餌のイクラもいつの間にか無くなっていた。


翔太と初めて話したのは、三回目の体育の授業だった。バスケの授業で、一緒のチームになったのだ。翔太のパスはほとんど味方に届かず、ゴール前でもシュートを外してしまう。思った通り、運動は苦手と見えた。一四九のおれも、ほとんどゲームに参加することができず、うちのチームは五人のうちバスケ部の三人が戦力となっている。それでもその三人の活躍で、初戦を制することができた。試合が終わった後、コートから出て、体育館横にある水道場に行った。僅かな汗を袖で拭き取り、蛇口を逆さにして水を飲む。金属の味がした。すると後ろから静かな物音が聞こえてくる。振り返ると翔太がいた。彼もまた、少しの汗をかいていた。
「お疲れ。三人のおかげで勝てたな」
 思い切って言ってみた。彼の白い顔が、おれの中にある小さな勇気を持たせたのだろう。翔太はああ、というと、にこって笑った。いい顔だ。彼の笑顔を初めて見たけど、とっても無邪気だ。
「あの三人に任せるしかないよね」
「うん」
「ねえ、部活は何やってるの?」
「吹奏楽」
「へえ。楽器は?」
「トランペット」
「へえ。おれもピアノ習ってるんだよ」
「あっ、そう」
 ちょっと安心した。思ったとおり、口数は少なかったけど、少し照れくさいようで、でもいい顔だと思った。またねと言っておれは体育館に戻り、そこで会話は終わった。その日はもう喋らなかった。
 次の日、学校に来て席に座って、夏目漱石の「坊ちゃん」を読んでいた。まだ仲のいい友達が来てなかったからだ。後ろから肩を突かれて、風船が割れたようにはっとして、振り返ると、翔太だ。おれは思わず目を大きくした。まさか翔太のほうから話しかけてくるなんて。
「あ」
一瞬の沈黙があった後、
「おはよう」
と、とりあえず挨拶した。喉頭がしまったのか、弱弱しい声が出た。翔太はしばらく黙っておれの瞳を見て、やがてゆっくりと口を開けた。
 「今度の日曜日、豊川に釣りに行かない?」
一瞬耳を疑った。クラスの男子とほとんど喋らない翔太がおれを釣りに誘うなんて。おれは誕生日に、あまり親しくないクラスの仲間に、いきなり「おめでとう」と言われた心地がした。彼からの急な誘いは、おれを釣りに行く気にさせるのに十分だった。日曜日はたまたま部活もない。
「わかった、いいよ」
そうすると翔太は満足そうにして自分の席に戻った。その時の表情が、いつもの彼とは想像もつかないほど明るくて、ちょっと照れたその顔は、無邪気な少年そのものだった。おれは、自分が釣りをやったことがなくて、何も道具を持ってないことを言った。
「大丈夫。道具は僕が準備するし、教えてあげる」
 そう言われて嬉しかった。日曜日の十時に駅で待ち合わせすることにした。


 寒さで手がかじかんできた。都会に外れたこの川では、もうセーターとジャンパーでは堪えられないほどの寒さだ。おれは小さい体を一層丸めて、それでも竿は水中にある。
 (後一時間したら帰ろう)
 バケツの中の二匹のフナを見て決めた。小さいフナは窮屈そうにしてぐるぐると回っている。
明日は中学校の同窓会が相模原市民会館で行われる。八年間会っていない懐かしい友や先生に会えるのだが、おれは行く気になれなかった。それは翔太の存在のためだった。


 おれは待ち合わせの時間の十分前に駅に着いたが、翔太はなかなか来ない。待っている間、おれは漠然と不安になった。
 今日翔太と二人で釣りをしたことが誰かにバレたら、きっと学校中に広がるに違いない。そしたらおれはみんなから避けられるだろう。話もしてもらえないかもしれない。翔太をゴキブリ扱いする奴は、「翔太と仲のいい奴」もゴキブリ扱いするに決まってる。
(まいったな)
 心の中で呟いた。
 翔太に誘われた時、確かに嬉しかったし、きっと楽しめると思っていた。けれど今、汚らしい駅と、周りの殺風景な景色を見ると、この間までの勇気が一気にか弱くなった。考えてみれば翔太と話したことなんてほとんどないし、実際釣りをしたことがないから、楽しいか、つまらないかなんて知る由もなかった。
 十時八分を過ぎたころ、プラットフォームから翔太が現れた。右手には二つの竿と、左手にはバケツを持って、少し大きいリュックサックを背負っていた。翔太はそれでもゆっくりとした口調で
「ごめんね」
と言うと、
「川はこっちだよ」
と言って案内した。おれはたじろぎながらついていく。駅からは十分くらいで川に着く。森の中の狭い、舗装されていない道路が続いていく。辺りは木々で覆われていて、昼間なのに薄暗い。その木々が道路側に傾いているのだから、今にも崩れて落ちてきやしないかと不安になった。移動中はほとんど会話がなかった。そうしてようやく川に着くと、リュックサックからCDラジカセ程のボックスを取り出し、釣りの準備をした。おれは一層焦った。
「あ、あの、おれ、やり方わからないんだけど……」
そう言うと、翔太は
「あ、ちょっと待ってて」
と言って自分の竿をセットした。その作業はとても素早く、翔太からは想像できなかった。
迅速に自分のが終わると、今度はおれのをやってくれた。まず糸をサルカンの輪に通して、五、六回巻きつけた。次に端に輪をくぐらせ、さらに下にできた輪に通す。最後に強く絞めて余った糸を切ると、
「できたよ。それから餌はこれを使って」
と満足げに言った。箱の中からイクラを取り出した。食べたくなるほどきれいだと思った。
「ありがとう」
そう言って竿を受け取った。そうして少し興奮気味になったおれは、何も考えず、四メートルほど前に、翔太よりも先に釣り糸を川に放り込んだ。
 「結構遠くに飛ばしたほうがいいよ」
 翔太はそう言うと、右手を肩のほうから勢いよく川に向かって振った。おれも見様見真似でやってみた。そのまましばらく、二人は何もしゃべらず、ただ糸が震えるのを待っていた。
やがて翔太が話を切り出した。
「吉君のこと、前から知ってた」
「ああ、背が低いから目立ったでしょう」
「いやじゃないの」
翔太はまっすぐおれを見た。おれは冷静に答えた。
「しょうがないかな、って感じだな。うん、気にしてもしょうがないし」
「……」
「おれも翔太のこと、知ってたよ」
「この顔だもん。みんなの話のいいネタになってるでしょう」
「やじゃないの」
「気にしてもしょうがないよ。吉君と一緒」
「だよね。いちいち気にしてなんていられないよね、他人のいうことなんか」
おれは笑った。翔太は黙って頷いた。それから翔太は、彼の火傷にまつわるエピソードについて話し始めた。
「二歳の時、父さんが仕事で、母さんが一人だったんだって。母さんが転んだ拍子に薬缶のお湯を、寝ていた僕の顔に被せちゃったんだって。慌てて救急車に運んだらしいよ。」
「ふーん」
思わぬ事故、ということか。なんかもっと複雑な、ドラマのような過去があったのかと思っていたから、安心した。
「でも、母さんを恨んではないよ。もちろん働いてた父さんもね」
「そうなんだ」
「だって、ちゃんと耳は聞こえるし、目も見えるもん。ただ顔に痕があるだけじゃん」
「そうだよね、恨んでも自分が損するだけだよね」
「うん」
笑いながら答えた。おれもまた、父や母を恨むことはなかった。この背が伸びないのは、誰が悪いとかいう問題じゃない気がするのだ。
「外見だけで判断するような人間、嫌いだな」
急にそんなこと言ってきたから、驚いた。しかし翔太のその気持ちは、体が小さくて馬鹿にされてきた自分には痛いほど理解できるものだった。
「おれも」
「だから、外見だけで判断しないようにしようって、いつも思っている。」
おれははっとして翔太を見た。一瞬全ての音がかき消されたように感じた。
「自分が他人にされて嫌なことは言わないようにしようって思ってる」
きっと、こんな話を聞いてもらいたかったんだろうと、今思えてきた。彼には学校で、打ち解けて話し合える相手があまりいなかったのは、周知の事実だった。おれは眼を大きくして、ある種の感動を覚えた。二人が、名の知れてない歌手の名の知れていない曲の虜となっているような感覚を覚えた。
「えらいね、そう思えて」
「吉君もそうでしょ。人の悪口言わないし、馬鹿にしないもんね」
おれの顔は熱くなっていた。初めて釣りに行った日は、フナを一匹しか釣れなかったような気がする。まだ子供で、ヌルヌルとした触感に衝撃を受けたのを覚えている。四時を少し過ぎてから帰ることにした。それから、翔太は釣った魚をちゃんと川に返すのだった。
 「生き物だもの。無駄に殺しちゃいけない」
 おれもその言葉が最もだと思い、素直に返した。


今思うと、翔太がおれを釣りに誘ったのは、二人の精神的な共通点を、翔太がそれとなく感じたからかもしれない。今は枯れている岸辺にあるミズバショウと、静養タンポポを見て、そう思った。西日はいよいよ眩しくなってきた。


その日から、おれと翔太はよく行動を共にした。月に一、二回程度釣りには誘われ、学校の宿題も二人で図書室でやった。体育の二人一組のストレッチも毎回二人でペアを組んだ。学校でも音楽の話や釣りの話もするようになり、一緒にいる時間はとても楽しいものだった。
時折、翔太には他の人にはないようなものを持っていると感じたことがあった。
 彼は滅多におれ以外の奴と会話をせず、周囲から、都合のいいように扱われるか、勝手に怒られるかのどちらかだったような気がする。そんな時でも彼は黙って聞きいれる。自分が間違っていなくても、「ごめんね」ということができるのだった。
 翔太はまた、人の悪口を言わない。一度、火傷についてクラスの男子が絡んできたことがある。
 「そんな火傷じゃあ、これから友達もできないだろうし、当然彼女もできないだろうね」
「そうだね」
 横で見ていたおれは拳を強く握ってるとき、翔太は笑って答えた。彼には余裕があった。
 「不幸だね」
 最低だ。本人の前で堂々と、よくそんなこと言えるな。無性に腹がったのはおれのほうだった。
 「全くだよ」
 「手術したらどうだい」
 「手術する金がないんだ」
 一同は一斉に笑いだした。翔太は「笑えるよね」と言って、一緒に静かに笑うのだった。なんだかおれは拝みたくなった。おれは男子に憎悪を抱きながらも、黙ってその場を見物していた。彼は今の総理大臣より偉いに違いないと思うほどだった。
 「大丈夫?つらくなかったか、あんなこと言われて」
 四回目の富川に二人で行ったとき、おれはこう話を切り出した。翔太は涼しい顔をして言った。
 「大丈夫慣れているから。言ったところでどうにもならないっしょ」
そう言うのだった。おれは言葉を失った。おれはなんだか慌てて、仕方ないから話題を変えた。
「この川に、よく来るの?」
「うん。釣りは前から好きだし。それに―」
翔太は花に目を置いた。四回目に富川で釣りをしたときだった。
「この川で、この花を見ながらいろいろ考えると、心が落ち着くんだよな」
穏やかな表情だった。静かに流れる川を前にして、ミズバショウとタンポポが見えるこの場所で、一体何を考えてるんだろう。あの日も川の水は澄んでいて、静かに流れていた。四月の富川にはまだ寒さが残っていて、川を跨いだ反対側の岸辺には、ミズバショウの花がひっそりと咲いていた。その横に、セイヨウタンポポが咲いている。
「どっちが好き?」
コンビニで買った昼飯を河原で食べながら、前方に見える二つの花を眺めていたおれに、翔太が聞いてきた。
「ミズバショウだな」
笑いながら答えた。二つを比べれば、どうしたってミズバショウのほうが美しく思えた。
「みんな好きだよね、ミズバショウは。綺麗だもんね」
「やっぱりみんなの憧れだよ。あれは」
翔太も笑いながら言った。遠くで小さく見えるミズバショウは、確かに、白いクリスタルのような美しさがあった。
「でも、タンポポだって立派だよ。コンクリートの隙間でも図太く生きているからね」
「確かに」
 二人で笑った。すると翔太は顔色を変えて、
「僕はミズバショウにはなれないな」
 おれははっとした。最初、言葉の意味がよく飲み込めなかった。というより、何を言ってるのかすら分からなかった。しかし急に口に出した翔太の眼差しには、どこか力強いものがあった。それは、悪と闘いに行く勇者のような眼差しそのもので、瞳の部分には目前の川がはっきりと確認できた。おれはまた驚いた。さっきから翔太には驚かされてばかりだ。
 「ミズバショウのように、誰からも愛されるような人間にはなれない。でも」
 そこまで言うと、翔太は眼をミズバショウからおれのほうに移し、
 「タンポポにはなれる。タンポポのように、力強く、図太く生きていくことはできる」
 沈黙が起こった。ミズバショウとタンポポ。背筋をピンとの伸ばしたタンポポの力強い様は、ミズバショウの美しさと同じように魅力的なものなのかもしれない。岸辺に小さく見える二種類の花が、彼と、他の人間を表しているように思えた。
 「吉君もそうでしょう」
 おれは黙った。答えるのに躊躇した。確かにミズバショウにはなれない。でも、じゃあタンポポになれるだろうか。そんな力強さ、おれにあるだろうか。悩んだ挙句、とうとう応えを出すことができなかった。



当然おれと翔太の仲の良さは学校中に広まり、気が付くと、今まで仲良かった仲間も、自分を避けるようになっていた。クラスの仲間との会話は明らかに減っていたし、挨拶も素っ気なくなっているように思えた。進はそんなおれを引きとめようとした。
「お前さ、あいつと一緒になるの、やめろよ。お前の株が落ちるぞ」
学校の帰り道、夕日が眩しく二人の顔を照らしていた。今日はたまたま二人とも部活がないから、一緒に自転車で駅まで向かう。駅に向かう一本の道は、木々に囲まれ、左手にはデニーズやらガソリンスタンドやらがあって、右手には車やトラックが騒がしく走っていた。
「どうして」
答えはなんとなく判っていた。
「どうしてって、あいつは評判悪いじゃないか」
「いい奴だよ、すごく」
「そうかもしれないけど、あんな奴と仲が良いってだけで、周りからお前も避けられちゃってるぞ。どうみたって損だ。それに、お前と一緒にいるおれまでも嫌われそうだ。悪いことは言わない、やめとけ」
おれは進の目をじっと見て、ゆっくり言った。
「断る。あいつといる時間は、すごく楽しい。みんなに馬鹿にされているけれど、人の悪口言わないし、優しいし。」
「そうかもしれないけれど。じゃあいいのか、友達がいなくなっても」
おれは一瞬目を閉じた。川での翔太との会話を思い出す。ミズバショウにはなれないけれど、タンポポにはなれる。そうだ。嫌われたって、図太く生きてみせる。
「いいよ。別にどう思われたって」
翔太は眉間にしわを寄せた。深いため息をついた。
「みんな、顔だけみて翔太から離れているけれど、やっぱりそれっておかしいよ。まあ、そんなことで折れるあいつじゃないけどね」
進はためらった。目をきょろきょろさせている。道路の舗装工事をしている音が騒がしかった。眉間にしわを寄せて、
「好きにしろ」
そういうと、翔太は急にペダルを強くこぎ、もうおれと随分距離が離れてしまった。おれは進を追わなかった。それ以来、進のおれに対する態度はそっけなくなった。
今までだったら、翔太となんて一緒にいたいとは思わなかっただろう。きっと、周りから避けられてるってだけで、おれも避けていた。友を失うのが怖かった。けれども今回は違った。翔太の純粋な思いが、自分の心にまで染み込んできていた。そこには「でもタンポポにはなれる」と言った時の翔太のような、力強い信念と勇気があった。


竿に振動が走った。あまりに急だったので一瞬動揺を見せたが、すぐ冷静になって竿を握りなおした。最初はちょっと竿を左右に動かし、徐々に自分のほうに近づけていく。
(いけ!)
全身を激しくくねらせながら、糸に引かれた魚が水面から現れた。手にとってみると、小さい一匹の鯉だった。おれは首を左右に振って、ため息をついた。
(違う、おれが求めていたのと違う)
ため息は白く現れて上に上がったと思うと、すばやく消えた。鯉から針を取り、バケツの中に鯉を入れる。バケツの中の魚はより窮屈に泳ぎだした。


ミズバショウの話をした日の午後も、二人は釣りを続けた。あの日も人は二人以外いなくて、静かな時間を過ごしていた。
四時くらいだっただろうか、何匹かのトンボがおれの目の前に現れ始めたとき、おれの竿に、突然重さを感じた。あまりにも重かったので、川に吸い込まれていきそうだった。
「翔太、翔太!」
おれは叫んだ。翔太は自分の竿を引き上げてからおれのほうに来て、一緒に竿を持った。
「うわ、すごい重さだ。これは大きいぞ」
彼も竿の重さ驚いたようだった。
「落ち着いて。川の中でしばらく遊ばせて。そのうち疲れてくるから」
そういって竿を左右に動かす。やがて、
「いくよ!」
翔太の太い声が響く。せーの、と号令をかけると、一気に引き上げた。鯉だ。太陽に照らされて金色に見えた。口には立派な髭が生えていた。
「ヒゴイだ」
「奇麗な色だね」
「本当だね」
二人で、きらきらと光る宝石のように眺めていた。確かに美しかった。二人で釣り上げたあの瞬間、マラソンをした後で冷えたジンジャーエールを飲んだときのような心地がした。あの大きい鯉を持ったときの感覚は、今でも忘れられない。
「これだから、釣りはやめられないんだ」
得意げに見せた翔太の表情が、夕日に照らされて眩しかった。


けれど、そんな楽しかった日々は、長くは続かなかった。二学期を迎えて、十月の中間テストの時期だった。翔太と勉強するようになってから、成績は明らかに伸びていった。授業で分からないところを二人で討論することによって、理解を深めることができたのだとおれは思っている。するとなんだか授業自体も面白くなって、前より集中できるようになったのだ。そして、今回、数学と英語で学年の最高点を取ることができ、みんなの前で報告されたりして、おれは上機嫌だった。
事件は英語の授業の時に起きた。テストが返され、先生からおれが学年トップの九十八点だと告げられた時、歓声が起こった。ちょっといい気になっていたちょうどその時、悪魔の囁きが聞こえてきた。
「いや、お前すごいよ」
隣の席の川島亮介だ。おれは正直こいつが好きじゃない。いつも人の弱みを握っては、それを人前で平気で罵るのだった。その川島がおれを褒めた。なんとなく不吉な予感はしていた。おれは少し震えた声で、
「ありがとう」
と言った。
「いや、本当にすごいよ、勉強は。勉強だけね」
その「勉強だけね」という声が、いかにも嫌みたらしく聞こえたから、おれの気持ちは一気に沈んだ。山の頂上から谷底に落ちた気分だった。おれも、曇った気分を隠し通すことはできなかった。棘のある言い方をしてしまった。
「そりゃあ悪かったね」
「すぐ怒るかよ、全く」
おれは黙っていた。疲れるな、こういう奴を相手にするのは。
「だめだなそんなんじゃあ。頭が良くても人としてだめだ」
おれは目をでかくして奴を見た。あいつに人間性を否定される覚えはない。余計にむしゃくしゃしてきた。
「意味判んないし」
「すぐキレルなって」
「別に、そんなんじゃない」
「いや、怒ってるから」
もう、始末に終えない。なんと反応すれば良いか分からない。しょうがないから、無視してやった。川島はまだ絡んでくる。
「でも良いよな、頭いい奴は」
皮肉にしか聞こえない。拳をギッと握りながらも、必死に堪えた。
「小吉の家族はみんな頭いいの?」
「そうでもないよ」
「父さんは何やってるの?」
「国会議員」
「政治家か。最悪だな、それ」
「は?」
川島の言葉には、何か魔物のようなものでも取り付いてるのかもしれない。無視することができなかったけれど、できるだけ感情を抑えて言ったつもりだった。
「政治家なんて最悪じゃん。横領とか、年金のこととか、いい事しない人達じゃん。」
おれははっと、ため息をついた。こんな奴には何を言っても無駄だ。聞き流すしかない。
「うん、あいつら、いないほうが良いよ」
その一言で、完全に自分を失った。おれのことを悪く言っても構わない。でも、家族のことはなんだか許せなかった。まるで悪魔に心を奪われたようだった。机を投げ倒して、川島の胸倉を掴んだ。
「いい加減にしろよ!」
教室中に響いた。一瞬の静寂が起こった。川島はおれの肩を思いっきり殴った。スポーツマンだけあって、おれの体に激痛が走った。英語の先生が止めにかかって、そこで騒ぎは収まったが、それでもおれの心は荒波のごとく激しく動いていた。その時ちょうどチャイムが鳴り、おれは一人で寝たふりをしていた。そこに翔太が来た。
「大丈夫?」
おれは体を起こし、翔太の目を一瞬見たが、やがてすぐ目をそらした。
「大丈夫?」
また聞いてきた。
「もういいよ」
「あんまり気にするなよ」
「だからもういいって」
「だけど……」
翔太の親切な言葉さえ、だるく、しつこく感じた。
「うるせえよ!お前は火傷のことでも心配してろ!」
思いがけず無意識に言葉が出た。おれは口に出した後すぐ後悔した。そんなこと言うつもりはなかったのに。翔太の哀願を見て、もうどうにも堪えきれなくなった。
「あ……」
言葉が出ない。翔太の凍りつくような目が、おれの口からものを言わせなかった。
「分かった」
静かに言うと、席に戻っていった。
言ってはいけないことを言ってしまった。おれはその罪悪感を、今日まで引きずって生きてきた。「ごめんね」と言えば、そんなことにはならなかった。一言謝ればそれで済む問題だ。けれども自己の羞恥心と、もう口も利いてくれないのではないかという恐怖心のために、なかなか言い出せなかったのだ。その日は顔も見れなかったし、事件が起きてから、一週間全く口を利かなかった。そうして謝ろうと決意した次の週の月曜日、翔太はなかなか学校に来ない。ついに担任の先生が来た。五十代位の女の先生で、いつも穏やかな表情をしている人だった。その先生が、寂しそうな顔をして言った。
「翔太君はお父さんの仕事の都合で、海外に行くことになりました。急なことで本当に申し訳ないとのことです。いずれクラスのみんなに手紙を書くとのことです。」
おれは頭が真っ白になった。口元がぴくぴく震え、しばらく硬直していた。
人の悪口を言って、傷ついたのは自分だった。大切な友を失って、いいことなんてなにもなかった。


翔太が去ってから、おれはここに来ることはなかった。富川の近くに翔太の実家があって、思い出すのを恐れていたのだ。それなのに今ここにいるのは、母が昨日、ミズバショウの苗を買ってきたためだった。富川のあの岸辺にあるミズバショウは、どこにあるそれよりも格別美しく思えたのだ。もう何年も見ていない、あのミズバショウが恋しい。ふと、もう一回見てみようと思ったのだ。
今翔太はまた日本に帰ってきて、コンピューター会社に勤めている。何年か前、たまたま友達から聞いていた。きっとここの実家にいるだろう。明日の同窓会には来るのだろうか。
夕日がいよいよ山に近づき、遠くに見える山が赤く染まっていた。
(そろそろ帰ろう)
そう思った矢先のことだった。竿に振動が伝わったのだ。でかいぞ。なかなかうまくコントロールできない竿を懸命に握りながら感じた。糸はぴんと張っていて、切れはしないかと内心怯えていた。それでもあの時翔太が言ったように、竿を左右に動かして遊ばせ、慎重に自分のところへ近づけていった。
(いけ!)
思い切って糸を引っ張った。大きな魚が水面から現れ、おれは反動で転んでしまった。
(いててて……)
尻に激痛が走った。自分の太もものところに魚が乗っかった。
「あ!」
思わず声に出した。金色の、奇麗なヒゴイだ。あの時と同じくらいの大きさで、髭も立派にはやしている。けれども、翔太と一緒にいる時の、あの感動とは程遠いものだった。おれは感動しつつも、なんだか物足りなくて、どこか寂しさを感じたのだ。
そうか。金色に光ったヒゴイを見て思った。さっきの寂しさが分かった気がした。
この釣りを、もう一回二人でできたら、今の瞬間をどんなに楽しめただろう。
そして、おれには新たな決意が生まれた。
明日同窓会に行こう。そこで翔太にしっかり謝ろう。
結局、二匹のフナと、先程のヒゴイを川に返して、帰ることにした。帰る支度が終わり、振り返った時、草が生い茂っているところに、白い花があった。ミズバショウだ。行く時には気付かなかったが、新しく生え始めたミズバショウが、小さく出ていた。


                           3


ピアノは小学校五年生の時から習い始め、中学三年生の時にやめはしたものの、三十になった今でもずっと弾いている。
けれども最初から好きだという訳ではなかった。おれがピアノを習うことになった理由は、むしろ消極的なものだった。小学校五年生になる頃の春、神奈川県相模原市の野富士町に引っ越して、何日も経たないという時期に、母が提案したのだ。三人で夕食を食べている時だった。まだ日が山に隠れて間もなく、辺りは明るかった。
「ねえ、達郎、私の友達にピアノの先生がいるんだけど、習ってみない?安藤先生って言うんだけど」
達郎とはおれの兄さんだ。彼は幼稚園のいた時からピアノを習っていて、遠くに引っ越すことになったので、それまで習っていたピアノ教室を諦めざるを得なかったのだ。
「こんな田舎で遠くまで習いにいくのはやだよ」
お茶をすすりながら、ぼそっと言った。白い肌をオレンジ色の蛍光灯が照らしていた。
「来てくれるってよ。ここら辺でもたまたま一人習っているから」
「ああ、来てくれるんだったらいいや。いい先生だといいけど」
「またぁ、そんなこと言って」
母はあきれた顔をした。兄さんが何かを頼む時、注文が煩いのはいつものことだった。
「だって重要だよ、そこは」
「はいはい。吉はどうする?」
「おれ?」
急に振られて、食べていた好物の海老の天ぷらを落とした。何でおれが。心の中で呟いた。一体何を考えてるんだ。
「いいよ、別にやる気ないし。」
「やってみればいいじゃん」
突っ込んできたのは兄さんだった。にやりと笑った表情が怖かった。不意打ちを喰らった気分だ。
「そうよ。あんた、人生なんて何でも経験よ、経験」
母も笑いながら言った。おれに音楽って。一昨年のことを思い出した。小学校三年生になると、リコーダーを授業で扱うことになった。おれは学校のクラスの発表会で、全く吹けなかったのだ。練習の時もリコーダーから出たのは音よりもむしろ唾だった。
「音楽なんて無理だよ、おれには」
「大丈夫、おれが教えるよ」
さっぱりとした表情で兄さんが言った。最悪な場面が頭に浮かんだ。
兄さんは不思議と、昔からよくおれの面倒を見てくれた。テスト前になれば勉強を、家族でスキーしに行けばスキーを、運動会では徒競走を、なんでも教えてくれた。それらを教えている時の兄さんの口調は厳しく、よく泣かされたのが頭を過ぎったのだった。ピアノを習えば、きっとまた泣かされる。
「そうよ、教えてもらえばいいよ。そうすれば女の子にモテルよ」
母が冷やかした。ふざけやがって。おれにそんなことがあるものか。言葉の返しようが泣く、暫く黙っていると、
「じゃああ、二人とも言っておくね」
「まじかよ!」
「いいじゃない。やだったらすぐ辞めればいいんだし。七月にコンクールがあるんだって。それまでやってみない?」
「コンクール?」
目を見開いた。始まって何ヶ月もない自分が出るコンクールって、どんなものか。
「町内のコンクールだってよ。大丈夫、先生の生徒さんは少ないみたいだから」
「やだよ、みんなの前で恥かくだけじゃん」
なおさら嫌になった。リコーダーがまともに吹けない奴が、兄さんのようにあんな流暢に指が動くわけない。
「心配要らないわよ。大丈夫。誰も期待してないわよ。一人ずつ個室で予選をやって、みんなの前でやるのは勝ち残った人だけよ」
「ちっつ。本当かよ」
母は「そうよ」と言って頷いた。まあ、どうせすぐ辞めるんだったらいいかと思って、
「わかった、じゃあそのコンクール終わったらすぐ辞めるよ」
と思い切って言った。
「約束する。それまでやってみて」
「分かった」
渋々了解した。食べた食器をキッチンに運ぶ足取りが重かった。
初めてのレッスンは月曜日の夕方に行われた。六時頃、安藤先生の車が見えて、家の庭に止めた。玄関まで続く砂利の音が軽快に響いている。おれは緊張して部屋のテーブルに並べられた椅子で硬くなっていた。兄さんは平然としていた。
「今晩は」
明るく通った声が玄関から聞こえた。母が迎えに行くと、友人同士の会話が短く行われた。ピアノが置いてあるリビングルームのドアを母が開けて、安藤先生が現れた。ジーンズに紺色のセーターを着ている。顔は整っていて、小柄で可愛らしかった。
最初兄さんがレッスンを受けることになった。一番最後の発表会で弾いた、モーツァルトの「幻想曲 ニ短調」を演奏した。まじまじと聴く兄さんのピアノの音は本当に奇麗で、ほとんどミスなく弾いていたと思った。先生も感心したようだった。
「さすが、小さい頃からやってるだけあって、上手いねえ。ありがとうございました」
先生の目がきらきらと輝いていたのを覚えている。兄さんはちょっと恥ずかしそうに照れていて、
「ありがとうございます」
と笑顔で言った。それから今まで習ってきた曲を披露した。それらが終わると、これからは練習曲としてハノンと、ソナチネと、中学の部のコンクールの課題曲の「子犬のワルツ」を練習するように言って終わった。
次はいよいよおれの番だ。右も左も分からない状況で、とりあえず椅子に座って、
「よろしくお願いします」
と弱弱しく言った。はあいと笑顔で言った。
「とりあえずこれを見てみて」
先生は楽譜をピアノの淵に置いた。「バイエル練習曲」と書いてあって、その一ページ目を開いた。互選が真ん中に大きくあって、でかいお玉じゃくしがその上を泳いでいた。
「これ、弾けるかな。ゆっくりでいいから、ちょっとやってみて」
優しい口調で先生が言った。緊張しながら、そろそろと右手で鍵盤を押していった。一応、楽譜は読めていたし、兄さんが習っていたのを見たことがあるからドの音がどこにあるかは分かっていた。
「オッケー。楽譜はとりあえず読めるんだね」
笑いながら喋った。先生はすぐ表情を変えて次のページを捲った。
「じゃあこれはどうかな?」
こんな感じが、十五分程度続いた。「終わりです。お疲れ様でした」と言われると、緊張が一気に解れた気がした。先生が「弾いてみて」と言った部分は一応できて、こんなものだったら何とかできるだろうと思えた。
「えっと、今のページのところ、もう一回やるから、練習してきてね。それと、この音楽ノート」
先生は黒いバッグからノートを取り出した。
「五線が書いてあるノートなんだけど。これに宿題出しておくから、やっといてね」
「はい」
「後、コンクールの曲なんだけど……]
先生はまたバッグからプリントを取り出した。楽譜が印刷されているものだった。
「小学生の部は、『星に願いを』なんだ。習ったばっかりでちょっと難しいと思うんだけど……」
おれはプリントを見た。一目見ただけで、これは無理だと思った。奇麗な印刷用紙に書かれていたのは、先ほどの大きい五線と大きい音符じゃない。小さく、たくさん書かれた音符が、長く続いていたのだった。
「いや、こんなの無理です。弾ける訳ないです!」
「大丈夫よ。挑戦してみて」
「こんな難しそうな曲、大丈夫ですか?」
「それはあなた次第よ。でも大丈夫よ。確かにすごく大変かもしれないけど」
先生は丸い瞳でおれを見ると、
「誰だってやらなきゃできないの。努力すれば必ず成功するから」
先生はにこっとおれに笑顔を見せた。右上にある照明に照らされた先生の顔が美しく見えた。十歳のおれには、なぜかその時、信じてみようと思えたのだった。


兄さんは七月に入る前にピアノを辞めた。
「あの先生はだめだ。良くない」
おれの前でぼそっと言った。夕焼けに染まった兄さんの顔は、どこか寂しげだった。
「つまんないんだよ、あいつに教わったって。ピアノは、自分が楽しくなくちゃしょうがない」
肩をだらっとたらして、二階に上っていった。おれにはよく意味が分からなかった。
その時おれはコンクールの練習で忙しかった。本番までには、楽譜を見ない状態で弾かなくてはならない。発表まで二週間しかないのに、おれはまだ完全に覚えられていなかった。
「下手すぎるな。そんなんだったらコンクールに出ないほうがいいぞ」
夕方おれがピアノを弾いてると、二階から降りてきた。白い雲が日をぼんやりとさせていた。七月の相模原市の北部にあるおれの家は湿度が高く、全身にべっとりとした汗がついていた。
「しょうがないよ、ピアノ触って何ヶ月も経ってないんだよ」
頭をかいた。初めての発表にしては荷が重過ぎる。先生に赤ペンでぎっしりと書かれた楽譜を見ながら言った。
「いいのか、それで」
「だって……」
「だってじゃない。会場にはたくさんの人が来るの。恥ずかしい思いをするのはお前だぞ」
「分かってるよ」
「じゃあ努力しな」
「やってるよ」
「一時間で足りると思ってるのか、お前が」
おれは口を閉ざした。
兄さんはいつもおれを馬鹿にする。というより彼は時々、なんでも分かったような口調で批判する時があった。ピアニストのデビューコンサートを聴きに相模原市民会館まで行ったことがあった。皆は「良かったね」とか、「いい演奏だった」とか、口々にそのピアニストを褒めていたのに、兄さんだけとても不機嫌になって会場を出たのをはっきり覚えている。「新人はやっぱり下手だな。がっかりした」とか、「あれでチケット2千円は高いだろ」とか、しばらくずっと言っていた。自分のほうが下手なくせに。
実際当の本人は完璧主義だった。発表会の前とか、中学の卒業式の伴奏も、何週間か前から四、五時間は絶対に弾いていたし、一日中弾いてた時もあった。そしてその発表会やら行事の後に、必ず先生から褒められて、笑顔を見せるのだった。
「教えようか」
眉間に皺がよっていた。いつものパターンが始まった。おれは一瞬戸惑った。が、
「お願いします」
か細く返事をした。それは発表会当日のことを考えて言った訳ではなかった。今、兄さんの機嫌を損ねることが恐ろしくなったからだ。
その日から兄さんの特訓が始まった。毎日三、四時間、時には五時間にも及ぶことがあった。兄さんが帰っていないときは、学校から帰ると友達とも遊ばず、すぐピアノに向かい、帰ってくる頃まで弾き続ける。帰宅がおれのほうが遅い場合も、おれが玄関を開けると兄さんは二階からリビングに降りてきて、やるぞと一言言ってすぐ始まる。
兄さんの特訓は非常に厳しいもので、おれは学校から帰る時になるといつも憂鬱な気分になった。ピアノの先生よりもおれの出す音に敏感で、おれが何度弾いても彼が納得できない場合は、
「よく聴け」
と言って自分で見本をみせた。ピアノの音に一喜一憂し、自分の習得してきたこと全てをおれに吸収させようとしていた。
正直ピアノを見るのも辛かったし、楽譜を見る度やる気が失せた。終われば全身からどっと疲れがたまった様な気さえしたが、兄さんもまた、終わった時にぼうっとしていることが多く、体力を消耗していたように思えた。なぜそんなにまでして教えてくれたのか最近まで分からなかった。
けれども不思議なものだ。練習はとても辛く、ピアノも兄さんの顔も見たくないと思うのに、兄さんがいない時は、今度はなんとなくピアノを触ってみたくなり、実際弾けば前より断然上手くなっているものだからおもしろい。彼の、厳しく的確なアドバイスは、ピアノの技術と音に対する感受性を豊かにした。おれ自身「星に願いを」という曲が頭から離れなくなり、ついには学校の授業中にもメロディが浮かんでくるのだった。知らぬ間に、音楽を好きになっていくのだった。今三十歳のおれが、理学療法士として働いて忙しいのに関わらず、毎日ピアノを弾いているのも、それが原点だったように思える。
一週間前になると、兄さんの特訓は無くなった。今まで罵声をあびせていたけど、その日はおれが一回兄さんの前で演奏すると、
「後はお前の好きなように弾きな」
と言って、それからはただひたすらおれのピアノを聴くだけで、何も言わない。不思議だと思いながら練習する日々が続いた。
そしてコンクールの前夜に、ぼそっと言ったんだ。
「上手くなったな」
初めて褒められた。久しぶりに兄さんの笑った顔を見た気がした。
「まあ、おれ程じゃあないけど」
おれも笑った。今まで散々下手だ下手だと言っていた兄さんに言われて、有頂天になった。なんだか賞を貰ったような心地さえした。そして明日は絶対頑張ろうと思った。


コンクール当日、予選前、おれの身体は今までにないくらいガジガジになっていた。みんなはどんな演奏をするのか、下らないミスをしないだろうか、途中で手が止まらないだろうか、不安で軽い痙攣を起こしていた。小学生の部には十八人がコンクールに参加していた。
予選は十時から始まった。
「努力すれば、必ず成功するから」
自分の前の人が演奏している時、今はとにかくあの先生の言葉を信じようと思った。「星に願いを」の楽譜が渡された日の、先生の言葉だった。おれは目の前にある予選に怯えながらも、やるべきことはやったんだ、これで負けてもしょうがないと自分に言い聞かせ、でもせっかくなら本選で弾きたいと願っていた。
「滝沢吉君、どうぞ」
女性の柔らかい声がした。ドアのノブを握り、ゆっくりと扉を開けた。女声審査員が二人いて、その横にはアップライトのピアノがある。床や壁が白い中でピアノだけ黒く、居座るかの如くそこに置いてあった。おれは審査員に礼をして、
「よろしくお願いします」
と言った。唇が震えていた。
「どうぞ」
中年の、お腹のでている女性が言った。ピンクのシャツに長いスカートを着ていて、穏やかな様子で笑顔をこちらに見せていた。もう一人は若くて、二十代位だろうか、無表情で何かの紙を眺めていた。その女性はおれを見ることがなかった。
演奏が始まった。一音を弾く前は、心臓が破裂するかのようだった。一回目を瞑って、弾き始めた。一音を聞くと、心が落ち着いた。
演奏はあっという間だった。先生と兄さんに習ってきたこと全てをだそうと思った。常にメロディを頭で口ずさんでた。後はただ指が勝手に動いてくれた。
そんなに間違いがなく弾けたことに安心すると、ゆっくりと椅子から立ち上がって一礼をして、
「ありがとうございました」
と言った。
「はい、ありがとう」
と、ピンクのシャツのおばさんが笑顔で返した。部屋を出たとき、おれは大きく伸びをして、近くにある椅子に力が抜けたように座った。
予選から本選に進めるのはたったの三人だ。十二時に発表されることになっていて、結果までの二時間は落ち着かなかった。市民会館内をぐるぐる回って、別に何かをしたわけでもなかった。ただひたすら本選にいけることを願っていた。同時に心の中にしこりができていて、それが時にはあざのようになんともなく思えるほど小さかったり、また時にはブラックホールのように、自分まで飲みこんでしまうのではないかと思えるほど大きかったりした。
発表は突然だった。休憩室で飯を食べようと思った時、三人の女性がそれぞれ片手にわら半紙をもってドアから現れ、急ぎ足でボードに向かうと、
「予選通過者の発表です。五〇音順で並べています」
そういって貼り付けていった。小学生の部が張り出され、上から二番目に滝沢吉と書いてあった。
「すごい!良かったね!」
母は大きい声を出して拍手した。その振り方がとても素早いので、興奮しているのがすぐに分かった。
「良かったな」
父も珍しく笑顔を見せていた。いつもの細い目が大きくなっていて、きらきらと輝く真珠のように奇麗だった。
「まだ本選があるぞ。ここまできたら最優秀賞取ってきな」
兄さんの言葉に皆笑った。でも確かにその通りだ。まだおれにはやるべきことがあった。けれどもこれで多少自信がついた。この勢いで本選に望もうと思った。クーラーの風がちょうど自分の足先に当たって心地よかった。
本選も、やっぱり緊張した。いつもの通り弾け、いつものようにと、発表前に何度も心で呟いた。
「努力すれば、きっと報われるから」
その言葉をとにかく信じていた。ここまできたら、賞状がほしい。人より上手いって、いや一番上手いって認められたい。きっと、この三人の中で一番努力した。ずっとそんなことを考えてた。待機室で待ってる間、相手のピアノをしっかりと聞くことができなかった。
舞台に立つと眩しいばかりの照明がおれを照らしていた。一礼すると、闇から拍手が聞こえてきて、おれはその空気に吸い込まれそうになった。一音を出す前の手と足はひどく震えていた。
演奏は、成功したと思った。予選の時より上手く弾けたとも思うし、ミスもほとんどしなかった。そして何より終わった後のあの拍手が、自分にはたまらなかった。
「良かったよ」
客席に戻ったおれに母が言った。父もうなずいていた。
「そう?」
おれの顔に笑みがこぼれた。
「昨日のほうが良かったな」
兄さんがぼそっと言ったが、その顔にも笑顔があった。
幼稚園の部から始まって、小学生低学年の部、高学年の部とやって、中学生の部、高校生の部までやるもんだから、おれの演奏が終わってからは他の人の演奏を穏やかな気持ちで聞くことができた。中学生の部の課題曲は「子犬のワルツ」で、ショパンの軽快な音楽を、予選を通り越した三人は見事に弾いていて、焦がれずにはいられなかった。高校生の部はシューマンの「飛翔」が課題曲で、シューマンの力強さとテンポの速さにおれは圧倒された。おれもいつかこんなに上手くなれるだろうかと、闇の先にある照明に照らされた小さく見える高校生を見て思った。
そうこうしているうちに、いよいよ結果発表の時がきた。アナウンスに呼び出され、おれは舞台裏に移動した。心が波を打ってるみたいだった。おれの全身は振るえ、姿勢も知らぬ間にぴんと張っている。けれども相手の二人は平然としているように見えるので、おれは自分が恥ずかしくなったし、おれの身長がいつもより低く感じた。
「小学生高学年の部、発表致します。三人は前に出てください」
アナウンスが流れた。二人に続いて前に出た。舞台の照明の光で観客が見えない。目の前にある光が眩しく、その先にある闇を一層深く濃いものにしていた。
「まずは優秀賞から発表します。優秀賞は……」
息をのむ。お願い、おれに下さい。
「多和田朋子さんです!おめでとうございます!」
歓声が起こった。多和田という女は一瞬目と眉の間を狭くさせたが、賞状を貰うとにこりと笑い礼をした。
「おめでとうございます。さて、最優秀賞の発表です。最優秀賞は……」
まさか、まさか。まさかまさか。
「内田綾香さんです!おめでとうございます!」
内田と言われた女は顔を手で覆い隠し、泣きながら賞状を受け取った。おれは血の気がサアッと引いてくのが分かった。身体が石のように動かなくなっていた。
「滝沢君には三位の記念の音楽ノートがプレゼントされまーす。残念でした。」
のそのそと受け取ると、力なく礼をして、うつむいて舞台を後にした。その後すぐトイレに行ったが、涙はそこまで我慢できなかった。涙の粒は大きいらしく、先が見えない。おれは今まで、人が泣く時には鼻水は出ないだろう、ドラマで鼻を拭くシーンは嘘だろうと思っていたが、鼻水が二つの穴から出てきて止まらなかった。すすってもすすっても出てくる。
「努力すれば、必ず成功するから」
あれだけやったのに。あの言葉は嘘なのか。でもきっと、他の二人のほうが努力してたんだな。おれが悪いんだ。全ておれが悪いんだ。ちくしょう、もっとやっとけば良かった。
頭が痛くなって、家族がいる座席に戻ると、すぐ家に帰ろうと言った。全員に渡される記念品のマグカップは母が受け取りにいった。その後は夕飯も取らず、ずっと自分の部屋に一人で閉じこもった。
「入っていいか」
八時頃、兄さんの声がした。いつもよりまるい声だった。返事を待たずにドアを開けると、
「あのさ、一言いいか」
と出し抜けに言った。紅茶とカレーライスをお盆に入れて持ってきてくれた。おれを哀れみの目で見つめていた。
「努力すれば報われるなんて思うなよ。今回で身をもって分かっただろう」
思考が停止した。何だって。
「これ、夕飯だよ。今日は早く寝な」
そういって、ゆっくりドアを閉めた。頭痛が一層激しくなった気がした。しばらく低い息をして、目に見える全ての映像はぼやけていた。やがて腹の煮えくり返るような怒りがおれを襲った。
違う、違うよ兄さん。嘘なもんか。今回は、おれの努力が足りなかっただけだよ。唇をきゅっとかみ締めて、頭を抱えた。それから夕飯を食べ寝支度をしてすぐ寝ようとしたがやはり眠れなかった。


それから二年が経ち、中学一年生の秋になった。おれが通っている地元の中学校は、毎年十一月に合唱祭がある。うちの中学の場合、合唱祭は体育祭以上の盛り上がりで、卒業生や離任された先生も足を運んで生徒たちの歌声を聴きに来るのが恒例となっている。
二学期が始まってすぐの音楽の授業中で、指揮者、伴奏者、各パートリーダーを決めた。伴奏者を決める時、おれの手が挙がった。おれは今まで伴奏をやったことがない。もちろん不安もある。けれど、何百人も見る前で伴奏をしたら、どんなにいい気分だろうと思ったのだ。教室中ざわめいた。中にはくすくすと笑いだしている奴もいたが、気にしなかった。伴奏者と指揮者は、各学年ごとに決められた課題曲、クラスで決める自由曲と二人必要で、伴奏をしたい人はちょうど二人しかいなかったから、文句なしに決まった。それと、アルトとテナーのパートリーダーもやることになったが、これは他にやる人がいないという理由だった。
「楽譜に何が書かれていて、どうゆうふうに演奏したいのかイメージしろ。自分の音を良く聴いて、思ったことどんどん楽譜に書き込みな」
初めてのコンクールの時に、兄さんがおれに言った言葉だった。発表会のときや、コンクールの時、毎回そうすることにしていた。今回おれは自由曲の「遠い日の歌」の伴奏をやることになった。
「あんまし自分が上手いと思うなよ。伴奏は絶対に目立っちゃあならないから、一音もミスしちゃだめだぞ」
そう兄さんに一喝あびて、おれは先生に貰ったテープを何度も繰り返し聴いた。それと楽譜を照らし合わせて、最善の伴奏はなにか、パートリーダーとしてどこをどのように教えてあげればいいのか、作曲者が一番伝えたいことはなんだろうか、勉強することはたくさんある。おれは楽譜が配られたその日から、伴奏の練習だけで二時間はしたし、ソプラノ、アルト、テナー、バスの四部のパートを暗譜で歌えるようにした。それからフォルテ、ピアノなどの大事な音楽符号に印をつけ、自分が歌うのであればどのように歌うかをそこに書き込んだ。
そうして聴いているうちに、目をつぶって世界をイメージすることができるようになった。「遠い日の歌」の魅力に自分が吸いつけられていくのを感じた。体力の要る仕事だけど、おれの心は弾み、時が過ぎるのを忘れて合唱際に取組むことができた。みんなに、おれが培ってきた音楽の技術と精神をできるだけ教えてあげよう。おれは合唱の授業が待ち遠しくなって、最初の授業の前日はなかなか眠れなかった。


課題曲、「君をのせて」は、先生がメロディーと歌い方を教えてくれた。最初、クラスの背の高い男子たちは、なかなか楽譜を見ようともしなくて、喋るためだけに口を動かしていたが、先生の指導力により何とかみんなを誘導させることができた。
「他のパートも教えなくちゃいけないから、吉君頼むね」
そう言うと先生は女子のほうに言った。残されたのはキーボードと騒がしい空気だけだ。おれは先生の言葉にこっくりと頷いて、キーボードの前の椅子に堂々と座った。そして赤ペンで書き込まれた楽譜を台に置いた。
大丈夫。ちゃんとこの曲も勉強した。
腕をまくって、大きい声を出した。
「じゃあやろう。もう一回ちゃんとテナーとバスに分かれて」
手を叩きながらの誘導だった。けれどもどうも遠くのほうには聞こえなかったようだ。五、六人の集団が話に夢中になっていた。
「歌うからしっかり並んで」
さっきより、手を叩きと声をでかくした。
「歌うからしっかり並んで」
おれの真似をした。中島透だった。頑張って笑ったが、思わず眉間に皺を寄せてしまった。
「お願い。ちゃんとやろうよ」
「ちゃんとやろうよ」
また真似された。気にしてもしょうがない。いいや。始めよう。
「じゃあ最初から歌うよー」
近くの楽譜を持った男子に目を置いた。せーの、と言おうとした時だった。
「おい、みんな歌う姿勢に入ってないのに始めていいのかよ!」
怒鳴り声が聞こえた。また中島だ。こいつはさっきまで五、六人の集団で話していた中心人物だった。お前がしっかりやればいいのに。けれどもみんなの機嫌を損ねてはいけない。音楽は、誰かが怒ったりした後では成り立たないものだというのが、おれのポリシーだった。
「じゃあ話するのやめてよ」
柔らかく言った。
「おれは今からちゃんとやろうとしたよ!他の奴に言えよ!」
中島は鋭い目でおれを睨みつけた。相当怒っていると見える。おれは唖然とした。目を大きくして、しばらく状況を飲み込めなかった。怒りたいのはこっちのほうだ。お前だって話してたじゃないか。中島はおれに背を向けると、大きい声を出した。
「先生!吉がしっかりと仕事してません!おれこいつにパートリーダーやってもらいたくない!」
教室中に響いた。歌声の響かない音楽室は怖いほど静かで、皆がおれのほうに目をやった。なんだか急におれが悪いことをした気になった。
「すいません」
とか細く言った。全身が一気に重くなった気がした。
練習はおれの想像を絶するものだった。話を聞かないで喋ってるやつ、口を動かさないやつ、キーボードで遊ぶやつ。毎日毎日が敵との戦いだった。皆に歌を覚えさせようとおれは必死だった。けれどもおれの合唱にかける努力と、今までの音楽にかける努力が尽く反射される日々だった。音楽の先生と、担任の先生がいる時だけしっかりやって、おれが一人でやるときは、彼らの天国だった。当然歌はなかなか進まない。
そんなおれが憤慨したのは、初めての練習から一週間経った日だった。その日を境に、みんなのおれに対する目線もより冷たいものになった。
「真剣にやろうよ!せっかくなんだから!」
キーボードで遊ぶクラスメイトの手を取って、吐き出すような声で言った。自分でも驚きほどでかくなっていた。そしてその言葉に、一番に反応したのはやはり中島だった。
「お前の教え方が良けりゃあ皆ついてくるよ!」
何だって。耳を疑った。
「お前ってホント教え方下手だよな。感心するよ」
一瞬何も見えなかった。おれと同じくらいの睨みつけた視線をおれに返していた。周りはただ笑っている。その視線を、冷たい目で見つめた。
「なんだよ」
まだきつい目で睨んでいる。我慢できなかった。ここでしっかり言うべきだ。
「少なくともおれはお前よりちゃんと勉強してきたんだよ!ピアノも習ってるし、教え方だってそんな悪くないはずだよ」
「いや、悪いよ、全然悪いよ。大体その背で教えるの本当にキモイからやめてほしいです!」
言葉に詰まった。呆れ返ってものも言えないとはこういうことを言うのだろう。おれはこの二年間、必死になって音楽を勉強した。兄さんには毎日泣かされてきたし、一日中弾いていた時もあった。そして、音楽を心から好きになれた。今回の曲だって一生懸命努力した。兄さんがおれに教えたとおりにみんなに教えてきたつもりだ。楽譜も読めないような奴に下手だと言われる筋合いはない。それに背が低いことは関係ないじゃないか。糸の緊張がプツンと切れたように、おれの怒りは消え、残ったのは気だるさと頭痛だった。
中島にそう言われて、おれは完全にやる気を無くした。もう、誰とも言葉をかわすことが嫌になっていた。誰かが、親切な言葉をかけてくれたことは覚えていたが、ほとんど耳に入ってこなかった。しょうがないから、しばらく何もせずにただキーボードの椅子に座っていると、チャイムが鳴った。力なく楽譜をたたんで教室を出ようとしたとき、中島の声がした。
「お前って友達いないよな」
軽べつの眼差しだった。一体何を言ってるんだ、こいつは。
「ありがとう」
嫌味ったらしく返してやった。
「だから友達ができないんだよ!人間として最悪だよな!」
不思議と、その時は怒りはなかった。手とかを痛んでいる時に痛みを加えても感じないのと同じように、傷ついた心に傷をつけても何も感じないものなのかもしれない。音楽室を出て、ホームルームを終え、学校から出ると、どうしようもない怒りと悲しみが、自分の心を満たすようだった。壁を蹴ってみて足が痛み、髪を何度も激しくかいた。しばらくすると動悸と息切れがおこった。心臓がつねられたように痛かった。
「努力すれば、必ず成功するから」
ふとその言葉が蘇った。そうして舌打ちをした。
ホントかよ、先生。
民家の犬が騒がしく吼えていた。帰り道に通る家の飼っている犬の糞尿のにおいがいつもより強く感じた。コンクリートの道は寒さを増しているようで、もうセーターが必要だと感じた。縮こまった身体を後から夕日が照らしていた。遠くの山はいつもより黒々と見えた。


その三日後の一時間目は、担任の先生が進路の話をした。
「まだ早いと思う人がいるかもしれませんが、三年間はあっという間です。どんな職業に尽きたいか、とか、なにを勉強したいかとかを用紙に書いて下さい。みなさんの大事な進路なので、慎重に考えてください」
配布されたプリントをみつめた。その前日に理学療法士のドキュメンタリーの番組を見ていた。最初、理学療法士が何をする仕事なのか分からなかったし、聞いたこともなかった。番組は、患者さんのリハビリを支える理学療法士を映し出していて、おれはその姿に、どういうわけか興味をそそられたのだった。おれは小学生の頃に障害を抱えた友と出会っていたので、もともと医療福祉には興味を持っていた。その番組は野球選手が奇跡的に再びバットを握れる場面を捉えていて、おれは大いに感動したのを覚えている。それで、この用紙には理学療法士と書き込んだ。
「馬鹿だな、お前は」
夕飯の時、家族四人でチャーハンを食べていた時、おれがそのことを言うと、兄さんが口出した。
「言っただろう、努力すれば報われるなんて嘘だって」
「そんなことないよ、きっと。人に感謝される、いい仕事だよ。昨日のテレビだって、ありがとうって何度もいってたもの」
「感謝?ありがとうなんてめったに言われないだろう?ほとんどないと思うよ。百人いて一人いればいいんじゃない?」
「そんなこと……」
「いや、そういうもんだって、人なんて。結局自分本位なんだよ」
「そんなことないよ。絶対。……たぶん」
声がだんだん小さくなっていった。今置かれている自分の現状が、自分の持っていた確信をきゃしゃなものにしていたのだ。兄さんはくすりと笑って、おれから目を離した。それから別の話題に入っていった。


季節は十月を迎えていて、吹く風は冷たくなり、衣替えの季節となっていた。自由曲が決まり歌の練習の開始から五週が過ぎていた。この頃になると、朝と放課後の練習時間が与えられ、うちのクラスの男子は『部活が遅くなる』と言って不満を漏らしていた。
「男子やる気なさすぎだろ」
「まじしっかりやってほしいし」
伴奏の大野仁美と女声のパートリーダーを務める田中裕子が、不平を言い出した。放課後の練習の後、指揮者、伴奏者とパートリーダーが教室に残って話し合うことになった。その前日に、一年生全員で合唱を披露しあったのだ。誰の耳にも、うちのクラスの歌声がもっともつまらなく聞こえただろうとおれが感じるほどだった。女子の愚痴って、始まったら結構長い。延々と動く口におれは目をぱちぱちさせるようだった。我が子を叱られた親の心情が理解できたような気がした。
「吉君聞いてる?男子にちゃんと声を出すように言ってよ」
「そうだよ。威張らないのはえらいと思うけど、はっきり言ったほうがいいよ」
みんな頷いている。冷たい視線を浴びて、おれは居場所がひどく窮屈に感じた。
「頑張って注意しているんだけど……」
言葉と共に出たのはため息だった。その言葉におれは一種の脱力感を覚えた。瞬きが早く多くなった。
「弱い、弱い!そんなんじゃ女子だって奪えないよ!」
裕子が一喝を入れて一同が笑った。またそんな事言ってえ、と仁美が苦笑した。
「全く、いいのなんて佳代子の指揮ぐらいだよね」
「ほんと!まじかっこいいし。佳代子めっちゃ上手いよね」
「ありがとう」
富田佳代子が万遍の笑みを返した。おれは小さくため息をした。
富田佳代子の指揮は、クラスで絶賛されていた。細い体で堂々と指揮棒を振り、愛敬のある顔立ちにきびきびとした姿は美しく、皆から好かれていた。ピアノも以前にやっていたとのこともあり、その信頼は厚かった。
しかし、その指揮を、おれはどうしても上手いと思えなかった。そして、嫌いだった。
佳代子の堂々と振る指揮は、おれには人間に着けるピアスのような、アクセサリーとしか思えなかった。
指揮者の本来の仕事は『指揮』をすることだ。クラスから出る音を正しく聞き分け、指摘し注意する。そして自分の創りだした音楽を皆に誘導するのがその仕事だ。佳代子は皆の前で手を振るだけで具体的な指示をしない。こういうふうに歌ってもらいたいという要望もない。その意味で、佳代子は良き指揮者であると認めがたかったのだ。
おれはプロの合唱団の歌やオーケストラを聴きに言ったことがあるが、そこで出会う指揮者は、決して格好のいいものではなく、むしろ、気でも狂ったのではないかと疑われるようなものだった。彼女の指揮は、格好にこだわりすぎているように思えてならない。
だからクラスの仲間にも、佳代子にも、そのことに気付かない代表者にも失望したのだった。
「吉君もそう思うでしょう」
皆まじましとおれの顔を伺った。一瞬硬直したが、
「う、うん。すごいよね」
と笑顔で言っておいた。きっと顔が引きつっていたのだと思う。おれは汚れた机をしばらくみつめた。教室はしばらく彼女の指揮のことで盛り上がっていた。夕日の眩しいばかりの光がおれの顔をちょうど照らしていた。


合唱祭まで一週間前となった十月の最後の週に、クラスの前で指揮をやることになった。その日はたまたま指揮者が風邪をひいて休んでしまったので、おれが自らやりたいと先生に申し出たのだった。そうすればクラスの音を聞くことができて、おれがアドバイスすれば、きっと良くなると思ったからだ。
おれは皆の前にある指揮台に立つ。クラス中ざわめいていた。教室の空気が淀んでいるのを感じた。おれは周りをぐるっと一周見渡す。笑い声もどこからか聞こえた。おれは両手を胸の辺りまで挙げ、首を軽く頷くように振り、『いくよ』と口だけ動かした。全身に湧き出るような力を感じた。
やってやるよ。おれの実力、見せてやる。
柔らかく、滑らかに右手を前に授けると、曲が始まった。今までおれが身につけた全てを出そうと思った。
おれの手が、歌の舵をとっていた。全身から表現するおれの指揮は、周りからすれば、決して見栄えのいいものではなかっただろう。けれども演奏中、そんなのなんとも思わなかった。おれはただただ皆から出る音に耳を傾けては、正しいと思う指示をしていった。音楽が好きだということと、それまで努力してきた自分に、確信を持てていたのが堂々とできた理由だった。
驚愕、歓喜、軽蔑、嫉妬。曲が終わると、それらのもの全てが教室の空気を満たしているように感じた。
一人、笑って腹を抱えている奴がいた。中島だ。
「お前指揮やるなよ。笑って歌えないよ!」
よく言うよ。いつも真面目に歌ってないくせに。一瞬冷たい視線を向けたが、すぐに態度を一変させた。本当に申し訳ないという表情で中島をみつめて謝った。今の中島には、何を言っても無駄だろう。
「ごめんね。今日だけだから」
「やめろよ!」
中島は怒りを露にしていた。全身が震えて、おれの全てを憎んでいるように思えた。
「まじやめろよ!クラスのためにやめろよ!上手ければいいけど、お前は下手だからさ」
はは。
笑いを堪えるのに必死だった。こんなやつ、むしろ怒れない。全く呆れる。
結局その後、音楽の先生が指揮をやることになって、おれは指揮台を降りた。
授業が終わり、がっくりと肩をおろしてのそのそと音楽室を出て行くと、後から声がした。
「滝沢君!」
振り向くと、音楽の小林先生だ。目のくりっとした小柄の先生で、まだ若い。いつもはきはきとした声で皆をまとめていて、生徒から評判が良かった。
「指揮上手ね!どうしてそんなに上手いの?」
おれは目を見開いた。そうして曖昧な返事をした。急に言われたから、先生の言ったことがよく飲み込めなかったのだ。
「すごく的確に振れていたし、各パートに丁寧でいい指示をだせていたよ」
「ああ、ありがとうございます」
「びっくりしたわ。久しぶりに見た、ああいう活きた指揮」
「下手って言われてしまいました」
ああ、と言って先生は苦笑いした。眼鏡の奥の瞳が黒々として奇麗だと思った。
「気にしちゃだめよ。みんな、あなたの高いレベルについていけないのよ。全然気にすることないわ。」
「でも……」
そういっておれはうつむいた。先生の言葉を聞いて、自分が惨めに思えてきたのだ。先生はおれの肩に手を置いた。少し、寂しそうな顔をしていた。
「素直だから、気にしちゃうのよね。いつも吉君のパートーリーダーの仕事ぶりを見ているけど、すごく真面目で謙虚なのよね。だから周りから変に取られちゃって……。でも、大丈夫よ。きっと報われるから」
おれの顔が強張った。自分の心の中のありとあらゆる感情が、一気に出そうで、でも何とか我慢した。『失礼します』と言って逃げるように学校を出た。
校門にたどり着くと、取り留めのない感情が一気にあふれた。辺りは雲で覆われていて、針葉樹の木々が寒そうにゆらゆらと揺れていた。体は震え、息は口元から白く現れると素早く上がりすぐ消えた。大粒の涙が頬を伝わり、その流れはいつまでも続くように思われた。体中の筋の働きが一気に機能しなくなったように、全身から力が抜けて、歩調が乱れている。涙で前もしっかり見えない。
「努力すればきっと成功する」
そんなの嘘だったんだ。努力しても、報われない人だっているんだ。どんなに人に尽くしたって、判ってもらえない人だっているんだ。今のクラスは、おれがどんなに頑張っても報われなし、誰も認めてくれない。むしろ反感をくらうだけじゃないか。今まであんなに努力して、おれは何をやってきたんだろう。
息が荒くなってきた。やがてむせるようにして、咳もでてきた。頭が刺すように痛い。そしてまた、先生の言葉が脳裏を過ぎった。
「すごく真面目で謙虚なのよね」
おれの心に闇ができたようだった。自分を深く恥じた。
違う、違うんだよ先生。おれは真面目にやってなんてないんだ。練習だって、途中から、『どうせみんなやる気ないから手を抜いて大丈夫だ』と思ったし、今はもう、練習に参加していない人も見て見ぬふりをして、注意すらしなくなったんだ。
謙虚だって?それも違う。周りには気付かれないようにしているだけで、本当はおれ、自分が一番音楽を解っている、おれ程できるやつはいないって、そう思ってたんだよ。今日だって、一番指揮が上手いのは佳代子じゃなく自分だから、それを証明したいという気持ちがあったから、皆の前でやったんだよ。おれは真面目でもないし、謙虚でもないんだよ。
「はあ、はあ」
息づかいが荒くなった。寒い。頭が痛い。力が出ない。雲は低い位置まで押し寄せ、行く先々を見えなくさせた。おれは立ち止まって、大きく息を吸って、吐いた。涙を拭くと、目に力が入ったように、急に目元がはっきりした。
もう来年は、パートリーダーなんてやらないし、伴奏も、指揮もやらない。他のやつが勝手にやればいい。そのほうがきっと皆のためなんだ。おれがやったって、また今日のような惨めな気持ちになるだけだ。これじゃああんまりだ。
おれは灰色の空の下、一人ゆっくりと歩いていった。自分でも驚くほどの冷たい感情が芽生え、さっきまでぐらついていた足元にも急に力が入った。バッタが一匹、道路の真ん中で止まっていたが、おれが近づくとすぐ飛び跳ねて草むらに隠れた。
家に帰って自分の部屋に行くと、すぐ鞄を下ろした。回転椅子に力が抜けたようにどさっと座り込むと、スタンドの下に一枚の紙がある。理学療法士のことについて書かれたもので、何日か前にインターネットで調べたものを印刷したものだった。
「こんなもの……」
唇をかみ締めて、思いっきり破いた。何度も何度も破いて、指先ほどの大きさになるまで破いた。机に散乱した破片を冷たい目でしばらく見つめた。
おれが理学療法士になったって、幸せになんかなれない。
やがてその小さい破片をゴミ箱に入れた。どこかすっきりとした心地よさがあった。
次の日から、おれは『パート練は止めにして、合同練をしよう』と代表者に提案した。そのほうが自分が男子に係わらなくて済むからである。とにかく、もうこれ以上辛い目に遭いたくなかった。自分の心がこれ以上傷つくのを恐れたのだ。周りも、もう本番が近いからそうしようと、賛同してくれた。おれはそれ以来課題曲を歌い、自由曲ではピアノを弾いて、皆を指導することがなかった。ピアノ習ってから、音楽がつまらないと始めて感じた。


それでも、自分がクラスの代表者として、少しの期待はしていた。ちょうど、末期癌の患者を最後まで見守る家族の心境に近いものがあった。複雑な思いで、おれは音楽祭当日を迎えた。けれどもぞろぞろと客が体育館に集まってくると、不思議と少しの希望の念が生まれ、緊張もしてきた。
教頭先生が始めの言葉を言うと、吹奏楽部の演奏が始まった。おれは完全に満足はできなかったものの、初めて聴く吹奏楽の音は体育館の空気を盛り上げ、活力を与えられた気がした。皆と一緒に楽しむことができた。
ついに一年生の発表が始まった。おれのクラスの二組は、最後に演奏することになっていた。他のクラスの演奏をどきどきしながら聴いていた。そうして、欠点を見つけ出し、『自分のクラスのほうが良い』と思い込んだ。
本番前、みんなで円陣を組んだ。三十五人全員が活気に満ち溢れ、口々に「集中しろ!」とか、「絶対優秀賞とるぞ!」と皆を震え上がらせた。あの中島も皆に「声出せよ!」と渇を入れていた。普段練習に意欲的に参加していない奴も、直前だけはやる気を見せるものだなと、苦笑した。腹立たしくもあり、ちょっと嬉しくもあった。
本番は早かった。おれのピアノも特に失敗したところがなく、内心落ち着いた。これで、全てが終わったんだ。そう思うと、おれの心は開放感に満ちていた。もうこれで、辛かった日々から抜けられる。学校の中間テストや期末テストの、最終日の最後のテストが終わった時の、あの気持ち。その後の二年生の歌声も、三年生の歌声も、素直に聞き入れることができた。三年生の声量には驚かされるところがあり、『三年生になったら、こういう演奏ができればいいけれど』と心の中で呟いた。
昼飯の時は、教室に緊張感が漂っていた。いつもより静かで、おれもその空気に飲み込まれていくようだった。今日朝起きた時には、期待なんてほとんどしなかったけど、やっぱり勝ちたかった。みんなが喜ぶ姿を、この目で見たかった。
一時頃、生徒と先生は体育館に集まった。ざわざわとしたものが、体育館全体を包み込んでいた。しばらくふざけて走り回っている奴もいた。寒い体育館の中おれの体は震え、座っている椅子が冷たく感じた。やがて小林先生が前に出て、ゆっくりと喋った。
「みなさんお疲れ様でした。吹奏楽部の素晴らしい演奏から始まって、みなさんの歌声も体育館いっぱいに響き渡っていました。どのクラスも練習の成果をちゃんと出しきっていたと思います。それでは結果発表と講評を行いたいと思います。まずは一年生……」
ごくっと唾を飲み込んだ。心臓が痛くなり、真っ直ぐ先生を見た。
「優秀賞は……」
時が止まった感じがした。すっと息を吸った。
「三組です!」
後から割れんばかりの歓声が聞こえた。同じ列を見てみれば、皆下を向いている。男子はただ苦い表情を浮かばせ、女子の中にはハンカチで目を覆っているものもいた。
やっぱり、だめだったか。
ため息を吐くと全身から一気に力が抜けたように感じた。そうしておれが思ったのは非情にも、悔しさとか悲しみではなかった。それよりももっとずっと冷酷なものだった。全身に冷たい血が流れているのを感じた。
泣くほど努力したのだろうか。
自分の冷たさに、鳥肌が立った。クラスのみんなとあまりに気持ちが遠くにいっているように感じた。
その後各クラスに評価を語ってくれたが、ほとんどおれの耳には入ってこなかった。完全に上の空だった。クラスの仲間もおれになにか話しかけたが、『ああ』とか、『そうだね』とか、曖昧な返事しかできなかった。
教室に入ると、淀んだ空気が充満していた。苛立つ者、負け惜しみを言う者、すすり泣く者、呆然としている者、表情は様々だったが、その時まじまじと彼らを見て、さっきまでの冷たい感情がなくなった。そうして、今の今までそういった感情を持っていたことに恥じた。自分にどうしようもない苛立ちがした。
おれが悪かったのだろうか。
でも、それだったら真剣にやらなかったあいつらが悪いんだ。
おれが最後まで本気になって、みんがおれの言うことを聞いてくれたら、賞状を取れていたのだろうか。
そんなことが、何度も頭を過ぎった。だけど誰にも打ち明けることのできないもので、もどかしかった。暫くすると担任の先生が来た。『今までで一番良かった』とか、『おれはこのクラスの歌声が最高だと思った』とか励まして、みんなは笑っていた。生徒の心の傷を癒そうと、先生なりに考えたことだったのだろう。けれどもおれには表面的なものに聞こえた。それから指揮者と伴奏者と、各パートリーダーが前に出て、一言ずつ喋った。言葉にならない女子、強がる男子、色々喋っていた。いよいよおれの番になる。
「自分なりに一生懸命やりましたが、賞には届きませんでした。悔しいけど、うちのクラスの歌声には満足しています。ありがとうございました」
拍手が鳴った。言葉が勝手にでた感じだった。あるいは嘘だったのかも知れなかった。けれど、今は周りから変な反応をされるのが嫌だったから、とりあえず出た言葉だった。どんよりとした空気のまま解散した。
ただ虚無感を持ったまま、重い足取りで家に向かった。きっと山々が夕日で赤く染まって奇麗だったと思うけど、下ばかり見ていたおれには気付くわけもなかった。家に帰ると、すぐ自分の部屋に行った。極度の疲労が出たのか、うな垂れる様にして、そのまま眠った。


随分と眠った。時計を見ると九時を少し過ぎていた。携帯を開くとメールが三件来ていた。うちのクラスの、サッカー部からのメールだった。
「合唱祭お疲れ。色々大変だったろうけど、ありがとな。お前がいなくちゃ、どうしようもなかったと思うよ。結果は残念だったけど、お前のせいじゃないよ。来年も頑張れ!」
「お疲れ。伴奏やっぱり上手かったな。頑張っている姿、かっこよかったよ!まあ、おれ程じゃないけど(笑) 一緒のクラスになったら、来年もやってくれよな」
「パートリーダーと伴奏お疲れ。みんな結構お前のこと酷く言ってたけど、あんなの気にすんな。お前がクラスのために色々やってくれて、まじ感謝してる。来年はきっともっと皆がお前のこと聞いてくれるよ。しょげるな★」
携帯を持つ手が震えた。心がぱあっと明るくなった気がした。胸の底からこみ上げてくるものがあった。目を大きく見開いて、何度も何度も見返した。なんだか恥ずかしくなってきた。
馬鹿だな、おれって奴は。ちゃんと、自分を信じてくれる仲間がいたじゃないか。ずっと一人で戦っていたと思ってたなんて。ごめんね、みんな。本当にありがとう。
気付くと涙が出ていた。けれどもそれは、コンクールで賞を逃した時の涙とも、指揮をやった日に流した涙とも違っていた。野に咲く奇麗な花のような、ひっそりとしたものだった。


 二年後の三年生の時、また音楽祭で伴奏とパートリーダーをやった。うちのクラスは最優秀賞を取れた。人生で最高の一日だと、今でも思っている。一人の吹奏楽部の女子に、泣きながら、
「ありがとう。本当にありがとう」
と言われたことは生涯忘れないだろう。そうして思ったんだ。
努力すれば必ず成功するなんて嘘かもしれないけど、努力すれば成功する時もあるから、その時ために頑張ろう、って。
自分が一生懸命尽くした人の笑顔と涙を見れる理学療法士の仕事って、どんなに素晴らしいんだろうって。


                            4(5月9日訂正)


春の日差しが暖かく、穏やかな風が相模原駅に吹いていた。高校に続く桜並木の一本道には、新入生を歓迎するかのように桜が満開に咲いていた。
でも体育館の中は寒かった。まだ新入生が体育館に入場してない間、おれは身を縮めながら、並べられた椅子に座っていた。大きいストーブが体育館の入り口と出口に二台あっても、おれには全くその存在が感じられない。手先がすっかり冷たくなっていた。おれは、三百程並べられた椅子の、ちょうど中央の席に座っていたんだ。
ようやく教頭が前に出て開式の言葉を言うと、吹奏楽部の盛大な演奏と共に新入生が現れる。新しい制服に身を包み、大勢の拍手で迎えられたその姿は確かに清々しい。問題はその後だ。校歌が流れ、校長の話になると、さっきまでの温かい気持ちが一気に奪われたような気がした。校長がそんな退屈な話をしていたら、しばらくおれの隣に座っている席の女子はあくびを一回した。さっきまで伸びていた背筋もいつの間にか曲がっている。見るからにつまらなそうだ。おれはこの女子が寝てしまって、自分が起こすはめになったらどうしようなどと心配をした。今思えば変なことを心配していた。
 おれが朝学校に来ると、創賢(ソウケン)高校の大勢の学生が校門付近に集まっている。掲示板に新しいクラスの名簿が貼ってあるからだ。一緒のクラスだね、とか、嫌な担任の先生になって最悪だ、とか、生徒の表情は色々だった。おれは二年生の名簿を一組から順に見ていった。二年二組二十九番に滝沢吉と書いてある。一年の時一緒のクラスだった仲間やサッカー部の仲間も何人かいて安心した。おれはサッカー部の同じクラスの奴を見つけて、一緒に教室で待機することにした。おれが教室に入った時は二、三しか人がいなかったけど、だんだん教室が賑やかになっていって、八時四十分頃、担任の先生が現れた時には全ての席は埋められていた。眼鏡をかけた大柄な男で、眉毛はりりしく目は小さい。年は五十位だろうか、猿のような顔をしている。入ってくるなり黒板に『今井 翔太 二七歳 既婚 子二人』と丁寧に書いて、
「よろしくな!」
と豪快に言った。教室の空気は冷えこんだ。一体何が言いたいんだ、このおじさんは。それから式に参加するために、廊下に出席番号順に並んで体育館に行く。今おれの隣にいる女子は友達と盛んに話しをしていて、何度か今井先生に注意をされていた。
茶髪を肩まで垂らしていて、薄い眉は髪で半分隠れている。口と鼻は小さく、目のふちに薄く化粧をしているからパッチリとしている。耳に銀色の、銀杏の形をしたピアスをしていて、校章も取れている。上履きはかかとを踏みスリッパのように扱っていて、スカートの丈は膝の十五センチ位上にある。不潔だ。こんな女は将来不幸になるに違いないと、一目見て勝手に決めつけてしまった。
それにしても、校長の話は確かにつまらない。まず声が単調なのがいけない。校長の話は百歩譲って許すとしても、恒例の『来賓の方々』の話になるといよいよ疲れてくる。こいつらは入学式や卒業式だけではなく、体育祭や音楽祭まで前に出てきて得意そうに話をするものだからたまらない。そんな気持ちのこもってない挨拶ほどつまらないものはないと、いつも思っていた。そうしておれ自身も緊張感が無くなってきた時、いつの間にか先ほどの隣の女子は本当に寝てしまった。口をだらしなく半分ほど開け、それも首がおれのほうに傾いているから、おれはすっかり落ち着いていられなくなってしまった。女子は校長の話の終わりにも礼をせず、続く来賓の方々の挨拶の時も、一年生代表の言葉を読んでいる間にも、ずっと眠っている。とうとう閉式の言葉に至ってしまった。「一同、起立」の合図で、全員立つ。迷ったあげく、おれは恐る恐る女子の肩を二回軽く叩いて、
「あのう」
 と小さい声で言った。この女子とあまり係りたくなかったから、おれにとって結構勇気のいることだった。すると女子ははっと起き上がり、みんなと遅れて礼をした。その動作があまりに唐突だったから、おれはすっかり気を取られてしまい、結局二人で遅れて礼をすることになった。なんだか損をした気分になった。
式が終わると、体育館は一気に騒がしくなった。おれはほっとため息をつき、混みあった体育館の出口でしばらく突っ立っていた。三百人が一斉に教室に向かうわけだから、出口が渋滞していたんだ。後ろから「おい」と言って叩いてきた。落合進だ。
「一緒のクラスだな」
二人は笑った。
小学校からの幼馴染みの二人は、性格は対照的なのに、不思議と気が合う。親に煩く言われたのもあって、小学生の頃から遅刻もせず、人並に勉強していたおれは先生に気に入られていた。進はよく遅刻、早退をしたりして怒られて、高校一年の時も単位がぎりぎりだったと聞いているから、先生によく怒られていた。だから二人の関係を知る人は驚かずにはいられない。
「それにしても校長の話はつまらねえなあ。『一年生の皆さんは、期待と不安で胸がいっぱいでしょう』だって。期待するようなことも、不安になるようなことも、何も起こってねえだろ。だいたいあいつは去年も……」
勢いよくでる進の罵声におれは笑った。進はよく、人前で何もためらうことなく先生の愚痴をこぼす。自分にはとてもできない、進のそういう大胆なところをおれは気に入っている。まあ、校長の話がつまらないというのにはおれも同意するけど。
「お前だってそう思わないか」
「まあね」
「そうだろ!」
 おれはまた笑った。こんな話を二、三した後、後ろから誰かがおれの肩をつついた。始業式の時の女子だ。笑った時の歯が白く綺麗だった。
「さっきはありがとう」
「ああ、いや……」
 突然のことだったから、おれはしっかりとした返事をできなかった。女子は足早に教室に向かった。
「彼女か」
 進は意地の悪い顔をした。声もいつもより甘ったるい。おれは顔色を変えない。
「まさか。あいつ、始業式の間俺の隣でずっと寝てたんだぞ。しょうがないから、おれが起こしてあげたんだよ」
「へえ。けっこうかわいいじゃないか」
おれは黙った。おれはあの女子と、進にカメムシを食わせてやりたかった。確かに彼女のスタイルと顔は見ていて悪い気はしなかった。でもあの、茶髪に短いスカートを履いて、靴をスリッパのように扱っている姿を、おれはできればもう彼女とは会いたくないと思ったんだ。自分でもよく分からないけど、彼女を見た時、キッチンを這うゴキブリを見たような心地がした。


 始業式の日に大掃除があるのは厄介だ。まだ名前もわからないクラスの仲間と共に掃除をするのはなんとも言えない心地がする。出席番号順に五人ずつに分けられてそれぞれの場所に移動することになっていた。おれは五班に含まれていて、家庭科室を掃除することになっていた。
殺風景な教室で、この教室には日が当たってなかった。おれが箒を取って教室の隅を気だるく掃いていると、
「ねえ、うちのクラスって、男子多いよね」
始業式の女が話しかけてくる。そうか、出席番号がおれが二九番で、彼女が二八番だから、この掃除も一緒なんだと思った。それにしても妙なことを聞く女子だと思った。この高校では二年から、クラスを文理別で分けていて、おれのクラスは理系だから、男子が多いというのは当然といえば当然だ。
「理系クラスだからね」
「どうして理系クラスは男子が多いの?」
おれは思わず眉をひそめた。
なんだこいつは。
そんなの前から決まっていて、自然の摂理のようなものだ。大体クラスでも成績で一番や二番を取るやつは男のほうが圧倒的に多いじゃないか。
「女子のほうが数学を嫌いな人が多いからじゃない?」
「違うでしょう?私数学好きだよ。物理とか化学も。歴史と違って覚えるのが少なくてすむから楽じゃん。私暗記もの嫌いなの。大体歴史なんて覚えてどうすんの」
おれは黙った。この人はほっとけば自分のことを全部言ってしまうのではないかとおれは思った。でもまあおれも数学や化学は好きだから、女子からそんな言葉が出てきた時は内心嬉しかった。数学や科学って、文系の人には、特にピアスを付けてスカートの丈も極端に短いやつには、ゴキブリのように嫌われている。いつもまるで悪者のように罵られ、テストが返却される時にでもなれば、数学の愚痴を言い放題言ってるもんだから気の毒だ。数学に罪はない。
「女子でそういうのを聞くの、珍しいな」
「そう? なんか数学は何時間やっても飽きないってかんじ」
「じゃあ数学者にでもなればいい」
「やだよ。自動車会社に、企業に勤めたいの」
「へえ」
「あっ、えっと、私は島田優。名前は?」
「滝沢吉」
「皆から『小吉』って言われてるよね?あれどうして?」
面倒な奴だ。人の気も知らないで。一瞬説明するのをためらったけど、結局ありのままを言った。おれこんな時、上手い嘘がつけないんだ。それで面倒なことになるのを避けたんだ。
「小学校二年生の時に、背が小さいからつけられたの。思い出すと今でも腹が立つ」
優は威勢よく笑った。おれは言ったことをすぐに後悔した。
「そんなにおかしいか?」
「うん、めっちゃウケる! 小吉はなんになりたいの?」
「理学療法士か、音楽の先生とかもいいと思っている」
「へえ。すごーい! 医療系だ。家の兄ちゃんも理学療法士だよ」
丸い目が光っていた。おれはしまったと思った。家の段差で躓いて、皿を割ってしまった、あの感じ。
おれが音楽療法士になることも考えていることは、二、三人の友人と、身内とピアノの先生しか知らない、秘密にしていることなのだ。優の歯車に乗せられたことが悔しかった。
「すごいね。じゃあ今ピアノとか習っているの?」
「うん、中学で辞めたんだけど、今度の町のコンクールに出ないかって、前まで習っていた先生に言われたんだ。今だけ習っている」
「へえ。小さい頃私も習っていたんだよ。すぐ辞めちゃったけど」
「習ってたのか。そりゃあ意外だ。似合わないね」
「何それ。酷い!」
 優の笑い声は教室中に響き渡っていた。おれもなんだかおかしくなって笑った。
「おーい、島田。この机運ぶの手伝ってくれ」
 家庭科の先生が言った。優は、今行きますと返事をし、「またね」と言って先生と机を運びに行った。おれはさっさと塵取りでごみを集めて、それをごみ袋に入れて掃除を終わらせた。家庭科室にはいつの間にか日が入っていて眩しかった。
 教室に戻って担任から何点か連絡を受けると、それで学校は終わった。桜並木の道は車が朝より激しく行き交っていて、温かい風と共に二、三桜がゆっくりと落ちていくのを見ながら一人駅に向かった。自転車に乗った学欄姿の三人が、楽しそうにはしゃぎながらおれを追い越して行った。
 ぼんやりと今日一日を振り返った。入学式のこと、寝ていた隣の女子を起こしたこと、退屈な掃除をしたこと……。
一体あの優とは何なのか。考えれば考えるほど、おれの頭の中は乱れていった。迷路だ。まるで巨大な迷路で迷った感じだ。その時のおれにとって女は、同じ人間とは思えないほど不可解なものだったんだ。
周りの男子が彼女ができていく中で、一六のおれは、デートしたことも、手をつないだこともなかった。兄さんに薬の話を持ちかけられた時は確かにへこんだけれど、今となればそんなこと、ずっと昔のことのように思っていた。独り身で、呑気に生きてきた。友人に彼女ができたと聞けば、その時だけ寂しく感じるだけで、ものの三十分もすればほとんど気に掛けない性だった。その時のおれにとって『彼女』とは、必要ないというか、強いて求めようとも思わなかったし、独身で暮したって構わないって思ってたんだ。特別に感じる女の人が現れてこなければ。
けれども優は、そんな女子達と、何か違うと、会って何時間もしないうちに感じたんだ。初対面の女子と話が盛り上がる。今までなかったことに、ただ身を操られていた。
気がつけば駅の前の広い道にでていた。昼の相模原は春とは思えないほど蒸している。お腹も空いていた。車がいつもより荒々しく動いていた。


おれのお婆ちゃんが市内で入院することになったのは、それから三日後のことだった。四時ごろ、おれが家に着くと五人の客がリビングに集まっていた。親戚の人達がテーブルを囲むようにしてお菓子を食べていた。
お婆ちゃんは五ヶ月前、痰がよく出るようになり、腹痛を感じるようになった。最初風邪だろうと皆は思ってたのだけど、それにしてはどうも様子がおかしい。それに結構長く続いたので、病院で精密検査を受けることになったのである。検査結果はなかなか出なかった。検査から一週間して医者は、膵臓に癌を患っていると告げた。
発見された時には、すでに末期だった。
「もって後三ヶ月でしょう」
 誰もが医師からの言葉を、冷たく重く感じていた。入院をすれば、点滴を打つことになるが、それは癌の細胞を強くしてしまう。治療法もないから、病院に置くことはできないと、皆の前で告げた。
 母はそのことを怒っていた。周りには親族の人達がたくさんいて、私達に相談すべきではなかったのかと、歯を食いしばっていた。なぜ本人の目の前で、それも平然とした顔で言えるのか。あれでは見放されたみたいだと、おれによく愚痴をこぼしていた。その時おれは学校にいたから、その医者がどんな顔で、どんな言い方で言ったのかは分からないけど、母親の表情を見れば大体そいつの想像ができた。そいつはきっと頭の中に医学の知識しか入ってないんだろう。
 その時から、お婆ちゃんとお爺ちゃんはおれの家で生活することになった。おれの家なら、万一のことが起こっても病院に近く、実家よりも便利な場所であるのは確かだからだ。
「お帰り」
 そう言われておれは皆に挨拶した。二階の自分の部屋に鞄を置き、制服を着替えて席に座ると、
「吉、あんたピアノ弾いてよ」
 母が言う。まじかよ。弾いてよと言われても、今のおれには弾ける曲はない。七月のコンクールで、ベートーベンのソナタ「悲愴」のを練習してるけど、全然だめ。
「おっ、聴きたいな」
「聴かせてよ」
こういう時だけ期待されるんだからたまらない。周りから声が上がれば、弾かないわけにはいかないじゃないか。おれは重い腰を上げて、
「じゃあやります」
と言って一礼すると、のそのそとピアノに向かって歩き、ゆっくりと座った。
乱れたテンポ、弾けば弾くほど転がる指、濁った装飾音。自分で気持ち悪いくらい雑な演奏だ。だめだ。だめだだめだ。心がそう叫んでいる。
最後の和音を力強く鍵盤を叩くと、大きな拍手が起こった。
「すごいね!」
「迫力あるね!」
 親戚のその言葉が、純粋に喜んでいるその顔が、おれには辛かった。詐欺だ。おれは聴衆を騙している。
「ありがとう。元気が出たよ」
 お婆ちゃんのかすれた声が聞こえた。一瞬、おれに笑顔を見せた。お婆ちゃんの笑顔を久ぶりに見た気がした。お婆ちゃんは病気になっていから、滅多に笑わなかった。今までの明るい気性が、嘘のように誰に対しても冷たく接するようになって、特にお爺ちゃんには毎日のように怒っていた。
 その後会話はしばらく続いたけれど、おれはなんだか落ち着かなかった。テーブルを囲んで楽しそうに話をしている間、おれは体ごと何か雲のようなふわふわとしたものの中に包まれているような気がした。五時になると皆が帰り、一先ず家は落ち着いた。疲れたのか、夕飯までの間お婆ちゃんは眠っていた。何回か淡が喉に詰まったらしく、ティッシュに向かって痰を吐きだでぃては、それをゴミ箱に投げつけるように捨てていった。本当に苦しそうだった。夕飯はやっぱり少ししか食べないで、小さいおにぎりを一個食べると薬を飲んでまた眠ってしまった。
お婆ちゃんが咳き込んだのは八時頃だった。熱を計ると三九度あって、急いで救急車で病院に行くと、肺炎にかかったことが判った。二週間ばかり入院するように医者から告げられた。医者が説明するところによると、もう体がだいぶ弱くなっていて、いつ何がおこるかわからないらしい。話し合いの結果、母と父、おじさん、おばさんが一日ずつ交代で夜を病院で過ごすことになった。次の日おれが学校が終わって病院に行くと、変わり果てたお婆ちゃんの姿があった。頭や鼻の下やそのほか色々なところに穴を通され、点滴をうち、顔や手足はむくんでいる。一目見て、おれは病気の怖さを目にした気がした。テレビで癌の患者を見たことはあったけど、この目で直に見るのは、しかもこんなに身近な人が癌という病に侵されている光景を見るのは初めてだった。お婆ちゃんが人喰い虫のようなものにどんどん喰われていくような気がした。目は閉じていて、おれや母が呼びかけると、たまに小さく開いては、うん、うんと小さく頷いていた。見舞いに来た親戚は皆、お婆ちゃんの笑顔や頷いた時にとても喜んでいた。ちょうど、流れ星を見つけた時のような表情を浮かばせて。けれどもおれは、今あるお婆ちゃんの姿にただ寂しさを覚えて、だから力なく笑う姿を見ると、それがかえって悲しかった。これが今まで一緒に過ごしてきたお婆ちゃんか。
時々サイレンが鳴る。心拍数の低下を知らせるもので、おれはそれを聞く度に自分の寿命が縮む思いがした。みんなで十分ほど手のむくみをとり、マッサージをすると、速やかに病院を出た。
 一週間後、お婆ちゃんは息を引き取った。初めて見たのは通夜の時だったけど、すっかり痩せ細った体は、今まで生きていた人間には思えないほどのものだった。顔は白くて美しかった。
「お婆ちゃん、すごく吉に感謝していると思うよ。肩もみしてくれてありがとうね」
 泣きながら、母はおれに言った。おれの目にも涙が流れた。本当は何にもできなかったと、悔いる気持ちでいっぱいだった。


お婆ちゃんの通夜と葬式が終わると、おれはようやく学校生活に戻ることができた。新しい教科書は好ましい香りがして、中身を見るのも気持ちのいいものだ。この頃になると、おれは決まって勉強を熱心にやろうという気がおこるんだ。実際最初は授業も緊張感を持って受けるし、時間があれば予習、復習も欠かさない。これはきっと春だからだ。新しい季節は、心まで初々しくさせる。
久しぶりに学校に登校した日の、一時間目は化学の授業だった。化学室で実験が行うことになっていた。無機化合物の金属元素の性質について、金や銀、カルシウムなどを塩酸やアンモニア水に浸したりする実験だった。これも出席番号順で決められたらしい。当然優と同じ班になる。またか。こいつとはどうやら腐れ縁ってやつらしいな。心の中でせせら笑った。
「ねえ、受験に化学使う?」
「ああ、まだわかんない。一応理系でセンター試験受けるから、多分使うと思う」
「どこ目指しているの?」
「理学療法学科のある大学かな」
「理学療法士?それってリハビリやるんだよね?すごいじゃん!」
「別にすごくはないよ」
ちょっと顔がにやけた。久しく女子に褒められた気がした。
「お前は?」
「使うと思うけど、苦手なんだよな」
「そっか。企業に勤めるんだったら大変だよな。物理もできなくちゃいけないし」
「そうだよね!今日やる金属イオンは特に、覚えることが多くてやだな」
 二人の声は、知らないうちにどんどん大きくなっていた。その声は当然、実験の操作をしている先生にも聞こえていた。
「おーい、そこ、いいかい。説明聞けよ」
二人とも謝った。おれは顔を真っ赤にして、しばらくの間そわそわしていた。どうしたらいいか分からなかったんだ。なんだか二人の仲を皆に見せてしまったような感じがして悔しかった。それもこんな形で、男友達と話していたのなら、まあ今まで無かったこともないけど、女子とは初めてだったと思うと、今こうして注意されたことが本当に不思議でしょうがなかった。けれど優は、そんなこと何でもないというふうな澄ました顔をしているから、なんだか余計に自分が情けなくなった。
「頼むぜ。気持ちは分かるけど」
「は? 何言ってんだよ。違うよ」
三人班の一人が、おれの耳元で囁いた。おれの顔を見て静かに笑うと、すぐ実験の道具を取りに先生のところに行った。おれは背筋が凍りつくようだった。
『覚えるだけだからつまらない』といっていた優も、あの実験は退屈じゃなかったみたいだった。金属イオンを次々と塩酸や硝酸水溶液にいれて、色の変化や沈殿物を見るのは、あまり化学を好きな人じゃなくても楽しめるものだった。
実験の中で最も印象に残ったのは、硫酸銅にアンモニア水を加えた時だった。空色の奇麗な硫酸銅に少量のアンモニアを加え、試験管を振ると、淡い透き通った海の色になった。
「奇麗だね」
おれのちょうど真向かいの席の優が言った。試験管をいたずらに左右に軽く振りながら、涼しそうに眺めていた。試験管はその先を青一色の世界にしていた。
その時おれは一瞬、試験管の先にある、優の顔を見た。目線が、ちょうど優と合っていたんだ。優の丸い大きな瞳が、ただおれだけを見ているような錯覚にとらわれた。試験管の淡い青色の光沢がそこには映っていて、体が吸い込まれていくような感覚を覚えた。おれは慌てて試験管から目を離した。
速い。速くなってる。
顔から火が出るように熱くなっているのを感じた。優はただ試験管に見とれているみたいだった。
「これにもう一回アンモニア水を加えるんだよ」
訳も分からず慌てて、声が震えた。スポイトで一滴程のアンモニア水をとって試験管に落とした。一瞬煙が出たように濁って、やがて深い青色になった。さっきまでの透明性はなくなっていた。
「へえ、こんなふうに変わるんだね。暗記はつまんないって思ってたけど、この実験は面白いね」
「実験の操作も簡単だしね」
「こんな実験だったら毎回やってもいいよ!」
「へえ」
苦笑と共に溜息が出た。無邪気に喜んでいる優の姿をしばらく眺めていた。
授業が終わって教室を出ようとしたときだった。レポートを提出しようと名前の欄を見てみたら、もう書いてあったんだ。
「私が書いておいたよ」
えっ、何だって。
おれは信じられなかった。もう一度プリントを見ると、確かに小さい字で、『滝沢吉』と優が書いてある。一瞬思考が止まった。『滝沢吉』という字から、甘い匂いがしたのを感じたんだ。おれはその時遠い過去を――幼稚園の時に、女の子と一緒にブランコに乗って楽しく遊んでいた頃を――思い出していた。甘く懐かしい、ちょっと酸っぱい匂い。本当なら、いつまでも見ていたかった。でもできなかった。目の前の、無邪気な女子の優しさが、怖かったんだ。


「早紀、こいつ恋をしているぞ。クラスの女子に」
「えっ、そうなの小吉?」
「お前何言ってんだよ。してないよ」
「おれには分かるぞ。優だろ?」
「はあ?」
日差しが強くて顔が汗ばんでいた。進の奴め、変なことを言いやがって。そんなことあるわけないだろ。けれど、おれの全身が震えている。なんでこんなに焦ってるんだ、おれは。
実験の日から一週間経った火曜日。どこの部活も休みになっていて、珍しく、進と安藤早紀とおれの三人で学校の帰りを歩いていた。もう桜はほとんど散ってしまって、落ちた花びらを踏みながら駅に向かっていた。日がちょうどおれの顔に差し込んでいて眩しかった。
「違うよ」
「いや、好きなんだろう。分かりやすいな」
「まじで! 私応援するよ!」
「馬鹿。こんな奴のこと信じんなよ。出鱈目だよ」
「ほら見ろ。焦ってる、焦ってる」
二人とも憎らしいほど笑顔を見せた。顔が熱くなって焦げるようだった。
「だから違うってば」
「お前の態度を見りゃあおれにははっきり分かるぜ。優と話している時の表情、すっごく楽しそうだもん」
おれは言葉を失った。まさか。ありえない。おれの顔とか体は、嘘をついているのか。いや、そうでもない。きっと進は出鱈目を言ってるんだ。全く。
「でも珍しくない?小吉が恋するのって?」
「おれが知る限りでは二度目かな」
「ちょっと待てよ! 何勝手に推理してんだよ」
「へえ、そうなんだ」
「だからー」
 おれは呆れ顔で二人を見る。
「顔が歪んでるぞ」
「歪んでない!」
「焦ってる、焦ってる!」
頬がつりあがった。その瞬間に、おれは自分の敗北を感じた。たまらなく悔しかった。
違う、好きなんかじゃないない。耳にピアスをしていて、授業中ほとんど先生の話を聞かずに寝ている優。掃除もほとんどさぼるような女子だ。あいつは不良になるに違いない。おれとは全く性が合わないんだ。授業が終わればたまに話しかけてくるけれど、そんなの面倒臭いと思っているんだ。おれは優のことなんか好きじゃない。ただ少し優が気になるだけだ。気になるっていうのは、そういうことじゃなくて、優という奇妙な人に対して抱いているものなんだ。
こんなことが一遍におれの頭に浮かんで、言葉が出てこなかった。道路とか人ごみとか、色々なものが一変に視界に入ってきた。
 「まあ、あいつは頭も顔もいいから、彼女にできたら最高だな。きっといい大学に行くぜ」
 「だから好きじゃないってば」
 本当に進のいい加減さには呆れる。そんなことあるわけないだろ。おれは進を睨んでやった。
 「本当は好きなんだろ?」
 「好きじゃない」
 「だったらなんであんなに仲いいんだよ、お前ら。いつも一緒にいんじゃねえかよ。めっちゃいちゃいちゃしてさ」
 「へー、そうなんだ!」
 「いちゃいちゃしてないし、いつもじゃない! 出席番号が近いから、たまたま一緒になるのが多いだけだよ」
 「へえ。そうですか」
 「そうですか」
 だめだ。二人とも全然信じてない。こうなると、もうどうしようもない。そこへ優が口出ししてきた。
「でも、頭いいんなら良かったじゃん」
「好きじゃない。それに、そんなことどうでもいい」
「だけどちょっとは気にするだろう。お前だって」
「大事なのは結局中味だよ」
「じゃ、お前は、好きな子の親がホストでも、殺人犯でも、ヤクザでも付き合えるか?」
「本人に罪はないじゃないか。どうしてそんなことこだわるんだ」
「へえ。大した奴だな、お前は。おれはごめんだな」
 進はあきれた顔でおれを見ていた。
おれは、学力とか、顔立ちとか、その子の親が何をしているとか、そんなことを気にしていないつもりだった。まだ何も知らなかった時分には、彼女の外見とか、彼女の周りにある環境が、恋愛にとってほとんど無関係であるものであると信じていた。
 「ま、頑張れよな、じゃあな、二人とも」
 「違うってば」
 「バイバーイ」
 早紀は明るい声で進に手を振った。進は駅の通りを右に周って見えなくなった。おれと
早紀は二人で同じ電車で帰る。
 「へえ、恋かあ、いいなあ」
 「お前あいつの言ったこと信じてるのかよ」
 「うん、頑張ってね」
 早紀は無邪気に笑っている。一瞬息が詰まりそうになった。おれはその顔を見て辛くなった。
 「好きなんかじゃないって。それに……」
 「それに?」
 おれは下唇を噛んだ。次の言葉が出てこなかった。
お互い思い出したくない、中学三年の時のあの出来事が、ふとおれの頭にうかんだんだ。
「何でもない」
訳が分からない、といった表情でおれを見て、それからもうその話はしなかった。
 

家に着くとすぐにピアノに向かった。あの時おれは、七月のコンクールに向けて、時間があればとにかくピアノを弾いていた。おれは部活が終わって家に帰ると、すぐにピアノに向かい、最低でも三時間は練習する。土日になると七、八時間同じ弾き続けた。
「先生、僕は、僕は、ピアニストになれますか?」
中学一年の時だった。レッスンが終わって、恐る恐る聞いてみた。外はもう完全に闇に包まれていて、オレンジ色の蛍光灯がぼんやりと二人を照らしていた。
町内のコンクールで最優秀賞を取れるようになって、本気でピア二ストになりたいと考えていた時があった。それ位ピアノに熱中していた。理学療法士を知る前のことだった。家にはおれと先生しかいない。親に言えば反対されるに決まっている。おれはまさしく二人になる時を狙っていたんだ。先生は眼をぱっちりと大きくして、軽く溜息をついた。
「今からじゃあね。ちょっと難しいと思うよ。もう、寝ても覚めてもピアノのこと考えて、色々なものを犠牲にしなくちゃいけないわ。趣味のレベルでも十分楽しめると思うよ」
「やっぱり大変ですよね」
「うん。それに、本当にピアノでご飯を食べるって、ピアニストでもごく一部なの。確かに技術はある程度誰にでもできるようになるけどね。それだけじゃあだめなのよ。プロになるのに必要なのは、技術だけじゃなくて、いい耳を持ってなくちゃならないの。自分のピアノから出る音が、どんな音か分からなくちゃいけないの。つまりね、自分のピアノの長所と短所を、聴いて分かるような耳を持ってなくちゃいけないってこと。好い音が出てるかどうか判断するって、すごく難しいのよ。それには小さい時から耳を鍛えてなくちゃいけないの。吉君の場合、小学生の高学年から始めたわけだから、相当厳しいと思うよ。」
「絶対音階ってやつですか」
「そう。全然変な、こんな和音でもすぐ何の音かも解っちゃうのよ、あれには驚いた!」
先生は右手で適当にピアノに触れて、濁った音が出た。聞いてるだけでは全くどの音が出ているのか解らなかった。
「それに、同じ人間でも、特別な能力を持ってる人と、そうでない人がいるってことも事実よ。怖いほどの天性的な能力と言うか、才能みたいなものが必要なのよ」
天性、才能。やっぱり人は平等ではないと、今更ながら気分が沈んだ。先生は全く持って善意で言ってくれたに違いない。けれどもおれにはやっぱりショックだった。
「じゃあ、音楽の先生はどうですか? それも難しいですか」
そうなんだ。小学生の頃から、得意な算数をクラスの仲間に教えることはよくあったし、音楽の先生にも憧れてたんだ。
「うーん。先生になるのには、音大に受からなくちゃいけないの。それもやっぱり難しいわよ。無理とは言わないけれど……」
「やっぱり、そうですか」
「でも、可能性はあるわ。音大を目指して頑張ってみて」
「わかりました、頑張ってみます」
理学療法士の仕事が見つかってからは、音楽の先生になることはほとんど考えなくなっていた。高校になると勉強も部活も忙しくなると家族に脅されて、ピアノを辞めた。おれの中でも、ピアニストになることも、先生になることも、すっかり諦めていたのだ。
高校一年の冬だった。突然先生から電話がきたんだ。
「来年の六月のコンクール、出てみない?」
急に言われたから迷った。今からコンクールまで「悲愴」を完成できるかどうか、疑問に思ったけど、挑戦してみようと思ったんだ。
「分かりました。やります」
久しぶりのレッスンは懐かしかった。前と変わらず、安藤先生は丁寧に教えてくれた。あっという間に時間が過ぎていった。
「吉君は、音楽の先生になりたかったんだよね?」
レッスンが終わってから先生が言った。一瞬動揺した。もうほとんど諦めかけていたから、返事に窮した。ああ、と苦笑いしていると、
「今度の発表会、音大コースの男の子が吉君の相手になるの」
「マジですか!」
おれは耳を疑った。
「マジよ。その子に勝てば望みあるかもよ」
先生は笑顔で言った。そして、何かの運だとも感じた。おれはその話を聞いてから、音楽の先生になれるよう、その子に勝てるよう、必死で頑張ってみようと思ったんだ。
あれからもう三ケ月も過ぎた。
「何だその弾き方は?」
兄さんが二階から音を立ててリビングに来ると、罵声を浴びせた。
「変だぞ。なんでそんなつまんない弾き方になった」
「楽譜通りに弾いてるだけだよ」
「それが駄目なんだよ!」
兄さんの細い目は怒ると一層細くなる。妙な迫力があった。
「お前のピアノ、楽譜をなぞってるだけじゃん。それに、綺麗な音を出そうとして、曲が平行線になってる」
「でも先生にも今みたいに弾けって言われてるんだ。じゃないと賞を取るのは難しいって」
「賞だって? そんなの目指してるのか」
呆れたような顔でおれを睨んだ。
「楽譜に縛られる演奏は辞めろって前に言ったはずだろ。お前が自分で思ったことをピアノにぶつけるんだ」
「おれにはよく分かんないんだよ。上手くなれば問題ないじゃん」
「おれもお前の言ってること、全然分からない!」
ドアを思いっきり強く締めるとまた二階に上がっていった。それから兄さんはおれのピアノについて何も言わなくなった。


いつものようにおれは部活と遊びでゴールデンウィークを終えた。勉強はほとんどしてない。優はゴールデンウィークが終わってすぐに入院してしまった。肺炎を起こしたらしい。
最初、おれはかなり迷った。一人でお見舞いに行って、クラスの女子にでも遭遇して、噂になったらどうしようかとか、おれが一人できて、優が嫌な目つきをしたらどうしようかとか、色々考えた。けれども結局行くことにした。部活をやっている時間に行けば、誰にも学校の人には会わないだろうと考えたんだ。
進と早紀と帰ってから、おれは優のことを今までより意識するようになった。優の一言一言に、一つ一つの仕草に、いちいち敏感になっていたんだ。授業が終わると優がこっちを振り向いて、おれに何か話しかけてくる。別に大した話はしない。黒板を写してないから見せてくれとか、授業中の先生の癖がおかしいとか、何ともない話だった。そんな会話を、面倒くさいと思いながらも、授業が終わる度に、こっちを向いてくれないかと内心思ってたんだ。化学の実験とか、掃除の時、話しているだけで、心がふわふと浮いてるようで、自分の心が全て喜びで満たされているみたいだった。
朝学校で優に『おはよう』と言われなければ気が沈んだ。それが一日ずっと頭から離れない時もあるほどだった。特に他の男子と話している場面に出くわした時は、その男子を今すぐにでも優と引き離してやりたい衝動に襲われた。
でもその時のおれには、それが淡い恋だって分からなかった。ただ何もかもが初めてで、ぐるぐると目まぐるしく変わっていく何かに、必死にしがみついていくのが精一杯だったんだ。
『お前が好きだから、付き合って』。その一言がおれにはとてもでなかった。優のことを確かに好きだったのに、目をつぶっていたんだ。おれは怖かったんだ。恋人になれば、いや優が自分の告白を拒絶したとしても、二人の間には『友情』というものが失われる。おれはそれが怖かったんだ。ただただ、いつまでも二人の会話を楽しんでいたい、いつまでも優の傍にいて、笑っていたい。けれど恋人になれば、そんなことはできなくなる。二人で映画を見て、その後食事をして、夜は一つのベットで寝る。そんなことを優に望んじゃいなかったし、それを望むことが怖かった。
運よく高校の仲間に会わずに病院まで行けた。優の部屋は五階だった。病室はベットが四つあって、優のベットは入って左の奥にあった。病室で見る優は肌がいつもより白く、前より痩せた感じもした。
「あ、小吉、来てくれたんだ」
優の顔は明るかった。それから、何も悪びれなしに聞いてきた。
「一人?」
「そうだよ。クラスの奴を誘おうと思ったんだけど、男子はこの時間行けないみたいだから」
「部活は?」
「自主練やってすぐ終わったんだ」
ふーん、と怪しい目でこちらを見て、何かドキッとするものがあった。
「あ、化学の実験とかもやってなくて、色々ごめんね」
「大丈夫、お前がいなくてもちゃんとやってるよ。寧ろそっちのほうが良かったのかも」
「なにそれー。酷ーい」
二人で笑った。そうだこういう会話だ。優とはこういう平凡な会話を望んでいたことに気付いて、ちょっと恥ずかしくなった。
狭い空間の中、今は病室には二人しかいない。沈黙が続くと、平静な心を持つことができなくなっていた。言いたいことはたくさんあるのに、それが一度に頭を過ぎっては消えていく感じがした。口だけがぱくぱくと動いていて、まるで餌を求めている魚だ。
「これ、近くで買ってきたクッキー。食べて。じゃあそろそろ帰るね」
沈黙を耐えきれなくなったおれは渡すものを渡して帰ろうと思った。もっとそこにいたかったけど、クラスの仲間が来ることが怖かったんだ。
「無理しないでいいよ。中間テストもあるし、それに……」
「それに?」
「ピアノもやらなくちゃいけないんでしょ?七月にコンクールあるんだよね」
「おっ。よく覚えてたな」
「ねえ」
帰り支度をしているおれの手をぎゅっと手に取ると、目が合った。
そこには化学の実験室の時の空気があった。おれはあの時のように、その瞳に吸い込まれていく思いがした。茶色い目が優しく、一直線におれの目に向けられていた。息が止まるのかと思った。
「観にいっていい?」
嬉しさよりは驚きだった。一瞬時が止まったように感じた。
「ああ、いいよ。また今度ね」
きっと、ものすごい表情だったと思う。皮肉なことに、こういう時おれの顔はひきつってしまうのだ。あの場面を周りから見ればきっと、おれが怒っているように見えただろう。そういって病室を出ると、感動が滲むように出てきた。歩調が速くなっていった。さっきの『観にいっていい?』と優が言った言葉が後から何度も頭を過ぎった。
もしかして。
今までにないことが、おれの身に起こっているのかもしれない。おれの体はしばらく震えが止まらなかった。
病院を出るまでに色々な患者が見えて、身内の方や、看護婦が優しく介護をしていた。エレベーターでは自分が『開』のボタンをずっと押し続け、全員が出て行くのを見守った。『ありがとう』と言ったおばさんの笑顔が素敵だった。玄関では事務の方が穏やかに挨拶してくれた。
バスに向かう途中で、一人の男が病院に向かっていった。金髪で、耳と鼻にピアスをしていてる。ズボンもかなり下げているからパンツが見えていて、この男には清潔なものが一切感じられなかった。家に帰ると久しぶりに母がカレーの好ましい香りがした。


「おい、知っているか」
次の日の一時間目が終わると、進が出し抜けにおれの机のところにやってきた。なにか急いでいるような感じにも見えたし、けれどもいつもより静かな口調だった。おれは黒板をまだ写し終えてなかったが、その口調のために思わず手を止めた。
「何が」
「優のことだよ」
「優がどうしたんだ」
一瞬おれはひやっとした。おれの頭には、昨日のことが思い起こされたんだ。おれが一人で優の病室に入ったことがもうばれているのじゃないかと思ったからだ。
「数人の男達と学校の裏で煙草吸ってたらしいぞ。たまたま通りかかった野球部の先輩が言ってたんだけど、その男には尾崎も含まれてたんだって」
「尾崎?尾崎ってあの……」
尾崎徹の名はこの学校中に知れ渡っていた。親が暴力団関係者で、学校も手を出せない状態になっているのだった。尾崎はたまにしか学校に来ないで、来ても屋上や、自分が除属しているテニス部の部室にいるのが常だった。
「いつの話?」
「二か月前の話だよ。長い黒髪で美人で、背も高いっていうんだから、あいつなんじゃないの」
「でもそれだけじゃあまだ……」
「だけど先輩が、最近バスケ部の練習をたまたま見ていたら、どうも二年生のキャプテンじゃないのかって、言ってたんだよな」
「そんな」
優はバスケ部のキャプテンをやっていた。身体能力が高いことはクラスのほとんどの奴が知っていた。
「あいつ煙草吸ってたってよ。目があって、すごい目で睨まれたらしいぞ」
おれは黙ってしまった。尾崎達と一緒に煙草を吸っている優。想像するだけで悪夢だった。優はバスケ部の二年生のキャプテンだということは、二人で話している時に聞いたことがあった。
「お前もいろいろ大変だな。病院には行ったのか?」
「行ってない」
「あっそう」
吐き捨てるように進が言った。もう、嘘をついていることが分かっているようだった。
「何かの間違いだよ、きっと。おれトイレ行くから先体育館行ってて」
「早くしろよ」
トイレに向かう足取りが重かった。おれはそこで何をするでもなかった。ただただ進から逃げたい一心だった。優と不良、優と不良……。何度も何度も心で呟いた。そして、ある男が頭に浮かんだ。病院を後にしたおれと出会った人だ。
一瞬、背中に氷水を掛けられたような思いがした。一体あいつは体誰なんだろう。もしかしたら、優と関係のある人なのだろうか。おれは唾をのんだ。


いろいろ考えたけど、おれは三日後、もう一回病院に行ってみることにした。バスは予定時刻をニ十分ほど遅れてバス停にきて、中も老人達で混んでいた。なんだかすごく緊張していた。空は雲っていて風もなく、蒸し暑かった。汗が体にべっとりとついてじれったかった。
優は遠くの山を眺めているようだった。おれが入ってくるのが分かると、目が泳いでいた。
「また来たよ。調子良くなった?お菓子持ってきたよ」
優は何とも言わない。おれのほうも見ずに、ただ黙っていた。
「どうしたの?気分悪いの?」
おれは体のことなんか心配していなかった。前に行った時よりも顔色が良くなっていたのは十分に分かってたからだ。優はおれをじっと見つめていた。その眼が、いつになく寂しそうだった。
「この間病院帰った時、金髪の男に逢わなかった?」
頭に稲妻が落ちてきた思いがした。おれが今一番聞きたくない言葉だった。
「あ、会ったけど……」
「あれ、私の兄ちゃんだよ」
「ああ、そ、そうなんだ」
顔が一気にこわばった。当然言葉もでない。まるで人形だ。一瞬にして、まっ白な用紙に墨が全体にこぼれたようだった。顔を表に上げることすらできなかった。
「今日は他に用があるから、もう帰るね」
お菓子をテーブルの上に置いて、ようやく出た言葉が確かそんなふうだった。よく覚えていないけど、ほとんど聞こえなかったかもしれなかった。おれは必死に笑顔を造った。それでも自分では精一杯演技したつもりだった。優も自分のことを察していたらしかった。何回か小さく、頷くと、彼女は言葉を出さなかった。
おれは本当はもう少し、優と一緒にいたかったんだ。本当はもっと優と二人で話したかったし、遊びたかったんだ。だけどその事実を知って、とにかく落ち着いていられなくなったんだ。
「また来てね」
病室を出ようとした間際に、優が言った。おれは振り向くことができなかった。ただ小さく、
「うん」
とか細く言った。ドアを閉めると重い足取りで病院を出た。鳥や虫の鳴き声、自動車の音、全てが騒がしく、おれを不愉快にさせた。放心状態で家まで帰って行った。もうよく覚えてないけど、帰りの電車で乗り換えるところを間違えた気がする。
とにかくショックだった。おれの中で優は、不良の兄さんを持ってはいけなかった。だらしないのは服装だけで、心の綺麗な人でなくちゃいけなかった。もちろん、優の兄さんに問題があるだけで、本人はそんな人じゃないかもしれない。でも、前に進の言ったことが妙に真実味を帯びてきて、途端に分からなくなったんだ。一瞬にして、熱が冷めてしまったんだ。
一体、人を好きになるって何なんだ。
おれは化学の実験の時に見た、硫酸銅水溶液を思い出した。透き通った淡いブルー。でも、アンモニア水をちょっと落としただけで透明じゃなくなる。恋も、そんなようなものなのかもしれない。
この心が、本当に一瞬にして激しく移り変わったことが、ただ空しくて、悲しかった。


優が学校に来たのは、前期テストの一週間前で、それはちょうどおれの発表会の三週間前だった。その朝、優の周りには群れができていた。「久しぶり!」とか、「もう良くなったの?」とか、教室は歓喜の声で一杯だった。おれはその群れの、一番外のほうにいた。その群れに加わりながらも、自分のほうを見てほしくはなかった。おれは優と目線を合わせないように、顔は優のほうに向きながらも、目をきょろきょろさせていた。
「次は化学だよね?」
群れから声が聞こえた。おれは優とやった実験を思い出していた。栗色の目が脳裏を過った。おれだけを見ているように思えた、綺麗な目。淡い青色の試験管とともに思い起こされたんだ。その時、もう一度だけその瞳を見たいって思っちゃったんだ。一瞬だけ、優の瞳を見たのだ。その時だった。優は目線をおれのほうに向けたのだ。
それはあの実験室の時の目じゃなかった。どこか寂しそうな目をおれに向けると、不安げに左右に動かした。おれは深い谷に落ちていく心地がした。
「私の机どこだっけ?」
ちょっとだけ甘えた声を出して、誰かが優しく優の机に指をさした。
外からは、優の姿は前と少しも変りなかった。でもおれに対する態度だけは明らかに変わっていた。おれに対して口数が少なくなったのだ。他の男子と話している姿が多くなった気もした。当然おれは落ち着かない。おれは優のことを、卑しい奴だ、あんな奴もう好きじゃないんだと思いながらも、一方では嫌いになれなかったんだ。話したくないのに、他の男子と喋っているのを見るのは辛かったり、いざ話をすれば楽しかったり。そんな矛盾した思いが錯誤して、おれを混乱させた。
優の劇的な変化と、自分の屈折した感情とが入り混じって、だんだんとおれは学校に行くのも嫌になった。授業も優の姿を見るのが不快に感じるだけで、テストの勉強も手がつかない。あれほど掃除の時間や、化学実験の時間を楽しく感じてたのに、今はただ早く時が過ぎてくれないかと願うばかりだった。
中間テストの出来栄えはやっぱり悪くて、おれはますます落ち込んだ。一年の時と比べれば順位が五十番も落ちていた。親と兄さんはおれの成績には敏感で、きつく怒られた。どうしようもない苛立ちと不満が、募りに募っていた。
それはピアノにも影響してしまった。いくらやろうとしても、練習に身が入らない。その時の自分には、音楽の先生になんかならなくたっていいとさえ思うようになった。弾いてても楽しく感じられないのが一番の苦痛だった。
「先生、おれ、コンクールを辞退します」
レッスンがある前日に電話で告げた。コンクール二週間前のことだ。
「え、何で?」
「もういいんです。音楽の先生になる夢は諦めました」
「そうなの? 本当にいいの?」
「はい……」
「何かあったの?」
安藤先生は生徒一人一人の心を大事にしていた。心が健やかで弾くピアノが一番だと、よくおれに言っていた。だから先生の生徒は皆ピアノを楽しんでいたし、先生のレッスンは人気があった。おれもよく、悩んだ時や、辛い時は先生によく相談していた。
だから今回も先生には全てを正直に話した。そうして、今はピアノを弾いても楽しくないし、何もやる気がしないと言ったんだ。
「もうこんな気持ちじゃ戦えません。今のままじゃ中途半端に演奏してしまうだけです。」
「そっか……。ねえ、知ってる? この『悲愴』を作曲したベートーベンは、目は見えなくなっちゃったし、耳も聞こえなくなってしまったのよ」
「えっ」
そうだった。彼の晩年は過酷なものだったと、クラシックが大好きな父がよくおれに言っていた。
「それでも彼は作曲し続けた。死ぬ寸前までね。生きることの苦しみ、悲しみ、喜び、そういうのを全部音楽で表現しようとした」
「…………」
「誰にでも悲しいことってあるのよ。辛い時もあるの。でもいつかそこから抜け出さなければいけないわ。前に進めないもの。今のその気持ちを、『悲愴』にぶつけてみたらどう?」
「…………」
「あなたが辞めたいって言うなら、それでもいいわ。まだ予定変えられるから。でも、もったいないと思うよ」
「…………」
言葉が出なかった。先生の一言一言が、いちいち心に染みるようだった。
「しばらくピアノは弾かなくていいわ。というより、弾かないほうがいいわ。でも、何日かしたら、もう一回『悲愴』弾いてみて。それでもコンクールに出たくないっていうのなら、もう何も言わないから」
「……はい」
そう言って受話器を切ると、小さく溜息をついた。安藤先生が言った一言一言を、頭の中で繰り返していた。
先生にベートーベンのことを言われて、二日で彼の伝記を読んだ。
読み終えるとしばらく頭がぼうっとして、それから涙がしばらく止まらなかった。図書館で探した人物事典に、彼の過酷な生涯が静かに書かれていた。母親に早く死なれ、父も酒癖が悪く貧しかったこと。十六歳の時に二人の弟の面倒を見なければならず、妹の死にも直面したこと。二十九歳で難聴の症状が現れ、自殺を考えるほど思い詰めたこと。度重なる失恋で十六年ものスランプがあったこと。どれも想像するだけで心が痛んだ。
音楽家にとって音のない世界って、どれほど寂しくて、悲しくて、辛いことだろう。それでも彼は懸命に生きた。彼の生きてきた一瞬一瞬が、曲の一音一音に漏れることなく刻まれているようだった。そしてそれが、現在の人に伝えられ、これから先も何千年と残るほどの名曲となっているのだと感じた。おれは背筋がぞっとした。もしおれの身に同じようなことが起こったら、彼のように生きていけただろうか。
読み終わると、おれはゆっくりとピアノに向かって「悲愴」を弾いた。二日前と比べると多少のミスはあったけど、ひしひしと、彼の悲しみや苦悩が伝わってきた。
それが自分と重なった。優がいた病院の匂い。テレビなんかよりずっと鮮明に、お婆ちゃんの姿。全身に刺すような痛み。涙の味。五感全てから感じるものがあった。けれども音が、それらを全て跳ね返しているように思えた。それは今まで味わったことのない快感だった。全身に流れる血の量がいつもより多く、早くなっているのを感じた。はあはあと息を少し荒くなっていて、手足が震えていた。
自分の全てを、この一曲にぶつけてやろうじゃないか。コンクールに出よう。
リビングの橙色のぼんやりとした明かりの中で、おれは受話器を手に取り先生に電話した。
「先生、やっぱりおれ、コンクールに出ます。だから、練習もお願いします」


一回開き直ると、人は強くなれるものだ。その日から、おれは時間がある限りピアノを弾いた。今年になってから一番というほどの練習量をしていた。レッスンも増やして下さいと頼んで、先生が心配するほどだった。
でもそれは、ただ音大生に勝ちたいという思いだけではなかった。もちろん、音楽の先生を目指したいというのはあった。でもそれ以上に、自分の今まで経験してきた悲しみや苦労を、音で表したかったんだ。観客の喜んでいる姿を見たいと思うようになったんだ。あの日以来おれはピアノを弾くと、匂いとか、色彩だとか、痛みだとかを感じるようになって、それがもうたまらなくなっていたんだ。焦りや不安ももちろんあったけど、一音一音が心に沁みるんだ。何より、自分の世界を創造する時間が幸せだった。
優のことはもうほとんど気にならなかった。コンクールに向けての情熱が、彼女のことを忘れさせた。あれだけ悩んでいた自分が不思議だった。
コンクール当日、目覚まし時計の音に敏感に反応すると、さっと身を上げ一回伸びをした。雨戸を開けると、雲ひとつない青空がどこまでも続いているように思えた。
 ついに今日が来たな。
 そう思うとじわじわと筋肉が硬くなっていくのを感じた。おれは顔を洗って一階に降りると、母がベーコンを焼いているいい香りがした。でもおれはいつもより食が進まなかった。おれは牛乳一杯と食パンとベーコンを食べると『もういらない』と言ってキッチンに食器を運んだ。
「もういいの?」
母は驚いていた。こういう時って、おれはなんだか食べれないんだ。きっと胃が縮んでいたんだと思う。それからスーツに着替えると、またピアノを一時間ほど弾いた。もう不安なものはほとんどなかった。指も滑らかに動いていたし、仕上がりは順調だった。
 車で『芸術家の小部屋』に向かった。兄さんもその日は休みで、お爺ちゃんも行くことになって五人で会場まで行った。それは大きなホールになっていて、中で食事もできるし、映画を見たりピアノ発表会が行われるコンサート会場もあるものだから、結構おれの地元の間では人気だ。田舎の狭い道をぐらぐらと揺れながら走る車の中で、ちょっとだけ気持ち悪くなったけど、『芸術家の小部屋』に着くと緊張が本物になったように感じた。二〇代位の受付係の女性からプログラムを貰うと、今すぐ引き返したい、もうコンクールなんてどうでもいいという思いが湧き上がっていたけど、今引き返せば皆に迷惑がかかると思って言い出せなかった。
 予選は特に問題なかった。小学校の時と同じように、三畳ほどの部屋にアップライトのピアノを審査員三人の前で弾いた。あの空間はいい気分はしないけど、演奏が始まればもう全く気にしなくなっていて、寧ろ快感だった。多少の緊張とミスタッチがあったけど、最後まで崩れることなくやり終えることができて、堂々と審査員の前で礼ができた。おれが部屋を出ると、長身の男がおれと入れ替わって部屋に入って行った。一目見て、こいつは例の音大生に違いないと思った。服の着こなし、髪型からおれはそういうのを見抜くことができるんだ。不思議なことだけど。この男は東京の、しかも都心で暮らしていそうな雰囲気が体全体から滲み出ているようだった。今回の一般の部は出場者が五人程いて、皆の前で弾けるのは予選で勝ち残った三人のみ。もしかしたらという不安はあったけど、午後の結果発表で、予選通過者の名におれの名前があった時は安心した。
 一般の部は二時頃に本選が始まっていた。ちょっと探したけど、優は来ていないみたいだった。おれはそれでいいと思った。彼女はいい判断をしたと思った。
 「続いては高校二年生の、滝沢吉君です」
スタンウェイのピアノが明るく照らされている。ゆっくりとピアノの前に立つと、一回礼をした。久しぶりの拍手は穏やかな波のように心地よかった。
静かに椅子に腰を降ろし、一瞬目を瞑ると、両手から音楽が流れた。ピアノからでる一音一音を噛みしめながら、それでも意識は目の前の白と黒の鍵盤にある。
演奏中、色々なことが頭に浮かんできた。お婆ちゃんが亡くなったこと、優と楽しかった日々が終わったこと、試験の出来が悪かったこと、コンクールを辞退しようとしたこと、ベートーベンの伝記を読んでもう一度コンクール出ようと思ったこと。目を瞑るとそれらの一つ一つが鮮明に映像として蘇っていた。
そうか、要するに、こういうことだったんだ。
ベートーベンのこの曲が、お婆ちゃんを笑顔にさせた理由が、その時分かった。
世界中で自分が一番不幸だと感じてしまう、言葉で言い表せない悲しみ。でも、きっとみんなにもあるものなんだ。この曲は、一生のうちにある悲しみを、ただ嘆いているだけじゃなくて、それでも生き抜く人間の強さを音にしたものなんだ。
最後の一音を威勢よく終わらせると、割れんばかりの拍手が起こった。
温かい。
自分が柔らかいものに包まれたようだった。おれの全身は震えていて、客席までちゃんと戻れるのかと不安になるくらい足にも力が入らなかった。ちょうど中学三年の時に合唱祭で最優秀賞を取れた時の、『ありがとう』と言われた時と同じような感じがした。
結局おれは音大生には勝てなかった。彼の演奏は聴くものを放心状態にさせていた。滑らかな旋律の上に、彼の激しい感情が身体からにじみ出ているようだった。おれにはない、天性的なものを持っているようだった。すごく悔しくて、表彰台では涙を堪えることがやっとだった。でも、舞台裏では涙を抑えることができなかった。兄さんが待合室のドアの前で待っていて、
「よくやった、あれでいい。ああいうピアノを聞きたかった。お前のピアノは、お前にしか弾けないよ。お前のピアノ、おれは好きだ。良かったよ」
って言われたから。


このコンクールで音楽の先生になることをさっぱりと諦めることができた。今は理学療法士として働いて、後悔はしていない。あれからもう十三年も経つけれど、三十になった今でも『悲愴』は弾ける。辛い時、悲しい時、自分が嫌になった時、その曲を奏でていると、昔のことを鮮明に思い出すんだ。
どんなこんな困難に直面しても、力強く生きようじゃないかと、ピアノを前にして思うんだ。



















2009/05/09(Sat)20:46:52 公開 / 手塚 広詩
■この作品の著作権は手塚 広詩さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
小吉物語のテーマは幸せです。思ったこと、感じたことを表現してみました。批評、感想、なんでも構いません。正直なコメント待ってます。
この作品に対する感想 - 昇順
読みました。
小吉物語面白かったです。
どこか小吉の語りが古風だと感じました。(喩えにニガウリが出てきたり)
学生がこんな語りをするのか?とか思ったり。
けれど、現代を舞台にしているということで、その差が面白くもあり。
全体的に小吉は時代に――というか流行にのっていない気がしました。
こんな生き方もあるんだよ――と教えられた気がしました。
うん、面白い。
構成も文章の流れもいいと思います。
もうチョイ話を膨らましてみてもいいかも知れないと感じました。
それにしても小吉は真っ直ぐで頑張りやだ。
こういう主人公いいですね!

次の作品にも期待しております。では!
2009/02/17(Tue)22:25:531やるぞー
こんにちは!読ませて頂きました♪
吉が背の低さを決してコンプレックスだけだと思っていない所などが前向きでよかったです。自分が少しでも得意な部分では、クラスを引っ張ろうとする吉なら、きっといい恋愛もできるだろうなって思えました。あと早紀のセミの話は「おぉ、そうかも!」って思ってしまいました。
では次回作も期待しています♪
2009/02/18(Wed)10:21:500点羽堕
 昇順さん、やるぞーさん、お読みいただきありがとうございます。二人から前向きなメッセージを貰い、「もっと頑張らなくちゃ」と思うようになりました。

「小吉物語」を読んで、少しでも何かを感じていただき、心の支えになってもらえれば、作者としてそれほどうれしいものはありません。

これからもこの物語を書き続けます。人の心を揺さぶるような作家になれるよう、精一杯がんばるので、これからも感想、批評をお願いします。
2009/02/20(Fri)22:33:230点手塚 広詩
はじめまして、頼家と申します
作品読ませていただきました^^非常に面白い作品だと思います。コンプレックスは人それぞれですが、それを何らかの形で昇華できれば、人は前向きに活きれるといった所でしょうか。小吉の内心での葛藤や周囲のキャラの言動で、より作品が現実味のある良いものになっているなぁ……と感心するとともに、勉強させていただきました^^ありがとうございました。次回作もお待ちしております!
頼家
2009/02/21(Sat)04:59:150点有馬 頼家
 頼家さん、読んでいただきありがとうございます。同じ小説を書く仲間に「勉強になった」と書いてもらい、非情に光栄です。

私もまた、色々な作品を読み、共に勉強していきたいので、これからもよろしくお願いします。
2009/02/21(Sat)17:22:300点手塚 広詩
作品を読ませていただきました。難しい題材を綺麗に昇華させ、希望を持たせた形で降着させた作りは非常に良かったです。微細な感情が読んでいて行間から伝わってくるようでした。ただ誤字や特異な日本語表現が散見されたため、せっかくの物語の雰囲気を損なっていました。投稿される際は一度再読して推敲してから投稿された方がいいですよ。せっかくの綺麗な物語が瑣末なところで損なわれては勿体ないですからね。では、次回作品を期待しています。
2009/02/22(Sun)11:33:000点甘木
甘木さん、読んでいただきありがとうございます。

一生懸命推敲したつもりでしたが、それでも誤字や脱字があったのを自分でも発見し、読者の皆さんには本当に申し訳なく思っております。また、特異な表現も、私の描写力の乏しさからきているものなので、それらを真摯に受け止め、これからも上達していきたいと思います。ご指摘ありがとうございました。

次回もコメントよろしくお願いします。
2009/02/22(Sun)13:01:470点手塚 広詩
こんにちは!続き読ませて頂きました♪
お兄さんは最初、良いお兄さんを演じようとしているだけなのかなと思ってましたが、そうじゃなくてお兄さんなりの弟への愛情だったんじゃないかなと思いました。そして合唱コンクールでの辛い経験と一人ではないと気づけた吉は、また少し成長したように感じれて良かったです。そして三年時のエピソードが最後に書かれており良かったなと思いました。
では続きも期待しています♪
2009/02/27(Fri)17:10:480点羽堕
こんにちは、羽堕さん。お読みいただきありがとうございます。この物語の小吉が経験した出来事と、小吉の心の葛藤からくる内面の変化を読み取っていただき、「いい話だな」と思えてもらい嬉しいです。読者の皆さんに、「自分もこういうものの捉え方、見方をしてみようかな」と感じてもらうことが作者の私の狙いです。

いっそう頑張って活きたいと思うので、お互い頑張りましょう!次回もコメントよろしくお願いします。
2009/03/02(Mon)13:56:540点手塚 広詩
はじめまして、感想書かせてもらいます。
とても物語へ入りやすい文体だと思います。特に物語合唱コンクールの練習での中島達の態度は本当に苛ついてしまいました。後、読んでいて気になったのですが、進は合唱の練習の時はどうしていたのでしょうか? 最初の彼との会話は結構気に入っており、クラスも同じと書いてあったので出番を楽しみにしてましたが出てこなくて残念です。
最後に、駄文な感想ですいません。
それでは次回の更新を楽しみに待っています。
2009/03/02(Mon)21:44:500点クロスケ
続きを読ませていただきました。今回は個人的に切迫感を持って読ませていただきました。小吉じゃないけど、私も音楽で苦しんでるんですよ。私は趣味でヴァイオリンを弾いているんだけど5月には演奏会がある。アンサンブルの第2ヴァイオリン担当で8曲弾くんだけど、まだマスカーニのカヴァレリアを覚えてない。焦る。4月にはゲネプロだし……でもヴァイオリンの私にヴィオラパートをヴァイオリンで弾かせるって無理があるだろう。ヴィオラ譜を読むのは苦手なのに……泣。
お兄さんのキャラは面白いなぁ。愛情と弟が自分を超えるかもしれないという怖れが混ざったような感情が感じられて凄く等身大に思える。
変な感想かもしれないけど、クラスメイトのいい加減さが好きだった。リアルというか、私もその場にいれば同じ態度だったと思う。楽器は好きだけど合唱には興味ないから。だから勝手に熱くなっている小吉のようなヤツがいたら殴っていたと思う。協働と押しつけの違いが分かっていないヤツが多いからね。作者の意図とは違うだろうけど色々な意味で心を動かされました。
では、次回更新を期待しています。
2009/03/02(Mon)23:29:290点甘木
クロスケさん、お読みいただきありがとうございます。
中島のような人間は少なからずいて、そういった人物に怒りを感じるのは当然のことだと思います。小吉に共感していただき嬉しいです。
落合進のことはどうしようか迷いましたが、今回は必要ないと判断したため、彼の登場を控えさせていただきました。また今度出番があります。楽しみにしていてください!駄文な感想なんてとんでもないです。
甘木さん、コメントありがとうございます。
三作目までで小吉の人間性がちょっとずつ分かっていただけたと思いますが、彼は器用な生き方ができません。それで周りから反感をくらったり、「変なやつ」と思われてしまうことがあるのだと思います。
でも、小吉は自分なりに一生懸命努力して、ひたむきに生きています。そんな彼の生き様を、温かい目でこれからも見ていただければと思います。次回もよろしくお願いします!
2009/03/03(Tue)20:23:240点手塚 広詩
こんにちは! 続き読ませて頂きました♪
 お婆ちゃんとの話は、それだけで一つの話として、流すような感じではなく長くしっかりと書かれてあっても良かったなと思いました。音楽、それも孫の弾くピアノなら癒しになっただろうなって思います。
 開けっ広げな優と、少し消極的にも見える吉との間が、縮まっていく感じが良かったです。でもその後に優へのイメージを勝手に作って、そのイメージとズレがあるからって、冷めてしまうような吉には、しょうがない部分があったとしても、もっとしっかりと優を見て欲しかったです。そして諦めてほしくなかったな。
 コンクールで自分の力を出し切り、それぞれの想いを自分なりに受け止めて吹っ切れたようで、吉にとっては良かったのかな? と思いました。
 何か所か名前が間違ってるような所が‘翔太は意地の悪い顔をした’とありますがココは進かな、‘島田優’と自己紹介した後に 「おーい、中村。」と呼ばれて優が返事をしてました。あと、‘そこへ優が口出ししてきた。’とあるのですが、この場面には吉、進、早紀の三人しかいなかった気がします。
では続きも期待しています♪
2009/05/08(Fri)16:28:060点羽堕
羽堕さん、コメントありがとうございます。
容姿、職業、収入、学歴など、恋愛には関係ないと頭で分かっていながらも、心が拒絶してしまうことは現実にあると思います。今回小吉の恋が成就しなかったのは彼の失敗でしたが、恋をして「心の儚さ」を理解することができた、彼の成長した場面を描いたつもりです。
名前のミスは本当に申し訳ございません。これから一層気をつけていきたいので、またコメントよろしくお願いします。
2009/05/09(Sat)20:54:340点手塚 広詩
拝読しました。全体的にあっさりと流す書き方をなさっているようなので、個人的にはもう少し描写を深くしてネットリとした空気感なんかがあるともっと良いなと思いました。登場人物に関しては、小吉という人物は酷く堅物なのだなぁという印象です。恋愛に容姿も収入も学歴も、個人を構成する部分に関する所は確かに重要ですし、頭では関係ないと否定する部分も解りますが、それならば一体何に恋をするのだろうなと。恋に恋しているだけではなかろうか? と思いました。潔癖過ぎるほど潔癖で、真面目だけど実は歪んでいる(ように見える)小吉が今後どのように歩んでいくのかひそやかに期待しております。
2009/05/11(Mon)22:05:260点水芭蕉猫
水芭蕉猫さん、コメントありがとうございます。

私自身は、小吉の気持ちをわかりやすくしたつもりでしたが、描写をあっさりと流すように感じたのは、作者の表現力の問題だと思います。これからも磨いていきたいと思います。

小吉のとって、恋とは他の何よりも難問なのかもしれません。恋は、一人ひとり全く違うものだし、それに対する思いも人それぞれでしょう。でも、そこに恋の本当の魅力があるものだとも思っています。不器用な小吉がひたむきに頑張っていく姿をこれからも温かい目で見ていただければなと思います。またコメントお願いします。
2009/05/14(Thu)22:21:270点手塚 広詩
続きを読ませていただきました。文章量はあるのにすーっと読ませてしまう書き方は巧くて感心しています。ただ、全体的に感情が淡かった印象を受けました。事象の変化に感情が追いついていない感じで、もっと小吉の心の中を見てみたかったなぁと言う気持ちが残りました。逆に音楽に対する想いが変に重く感じました。好きでやっていても壁にぶつかったり技法が追いつかず嫌になることはあると思うけど、しょせん「音」を「楽しむ」ものでしょう。初めにあった好きという感情がなかなか発露せずその過程が重く感じられました。では、次回更新を期待しています。
2009/05/16(Sat)09:34:550点甘木
甘木さん、毎回コメントありがとうございます。
小吉の内面をできるだけ鮮明に描こうといつも努力しているのですが、まだまだ未熟です。これからも勉強していきたいと思います。
恋に挫折した小吉が、音楽に触れることの喜びを知った瞬間は、丁寧に書く必要があると思いました。彼にとって、今でも「悲愴」が心の支えになっているのです。
「どんな辛いことがあっても、乗り越えられないことはない」ということを伝えたくて、4作目を作りました。けれどもそうするにはもっと劇的な展開を作り上げたほうが良かったのかな、と後になって考えるようになりました。小吉をもっとどうしようもない不幸に陥れる必要があったのかも知れません。これからもコメントよろしくお願いします。
2009/05/16(Sat)21:06:520点手塚 広詩
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