- 『ブレイク 前編』 作者:asano / リアル・現代 未分類
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全角11309文字
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原稿用紙約33.75枚
主人公雄一は、世界でも指折りのジュニアテニスプレーヤーだった。しかし父親との約束を守るために出場した、インターハイの決勝でアクシデントに合い選手生命を失ってしまう。その後雄一はさまざまな葛藤の末、普通に生きていこうとするのだが…。 一方約束をした父親は、自分のわがままのせいで息子の夢を奪ってしまったことに苦悩する。しかしその現実もまた自分が望んでいたものだったのではないかという、自責の念につぶされていく。
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「はぁ〜俺は何やってるんだろう」
なんだかもう口癖になってしまっている。雄一は真っ青な空を仰ぎ見るように学校の屋上で大の字を書いて寝転がっていた。
「あっ雄一、やっぱここにいた」
体中から力が抜けるこの間抜けな声、そしてその後に出てくる凛々しい顔、深井光洋、親友…かな?。
「また授業サボっちゃって、桜井ぶち切れてたよ」
桜井加寿雄、ねちっこい顔、出っ張った腹、必要以上の教師面――うざい
「あ〜マジで、そりゃやばいなあいつはそういうのうるさいんだっけ」
「うん多分呼び出されるんじゃない、ごしゅーしょうさま」
「くっそーいままで何しても文句なんていわれたことなかったのになぁ」
「まぁ〜ね、でもそこんとこはしょうがないじゃん」
「あ〜あマジでたまんないよ」
世の中からの強い侮蔑、それがやかましいほどに俺に対してもう俺はあちら側の人間じゃないんだってことをしめしていた。
重い雲が俺を押しつぶしていく、それは一筋の光も見えないどんよりとした曇り空の下、俺の青春が終わった瞬間、そのとき涙は出なかった。
西野雄一対葛西恭也 6―1 5―1(西野選手棄権により、葛西選手の不戦勝)
最後の公式試合。硬式テニス・シングルス、インターハイ決勝、その結果。楽勝のはずだった。あいつのラケットが俺の顔面を襲うまでは…。
残り二ポイントこれで終わる、アマとしての自分は今日で終わり、明日からはプロの世界が待っていた、そのはずだった。
『高校総体で優勝、それが条件だ』
あの父親からの意外な言葉ずっと長い間俺がプロになるのを反対し続けた人、あの日泣いてくれた人、今は後悔してくれてる人。
あの人の言葉、やっとプロになれると思ってた、あのラケットが襲ってくるまでは…。サーブ&ダシュ、ネットにつめる俺、しかし少しコースが甘かった、いや少しじゃなかったのかもしれない、まぁ今となってはどちらでもいいけれど、とにかく強烈なリターン(恭也…あれはまぐれじゃなかったのか?)
俺のラケットはボールを相手の絶好のスマッシュポイントへと運ぶ。『くっ』小さく声が出た、『くる!』そう思って身構えた、世界からはもう音はしなかった、目を開いて、くるはずのボールを見据えようとした、『戦う!』、世界からは色がなくなった。
ナニモナイセカイ、心地よくて好き、最高の集中、俺とボールだけの世界…のはずだった…。しかし…飛んできたもの、少し大きめのしゃもじ、目だけが働く、スローモーション、頭は理解しない、体がとまる、とたんに色が戻る、音が戻る、時間が戻る…意識がとんだ。
目が覚めたのは真っ白の四角い箱の中、この白は雲ではないんだ、人工的な無機質な白
生と死の境の色、俺には短い天国と長い地獄が待っていた。
「ここは?」
「病院だよ」
母だった、似合わない優しい声、気味が悪かった。
「試合は…負けた?」
「棄権負け、しょうがないんじゃない」
あのまま気を失ってしまったらしい、記憶はあいまいだった、いやな頭痛がする、
「じゃああの約束は…」
しりつぼみに力がなくなっていく
「お父さんがいいって、高校卒業したら、プロに転向しなさいって」
予想外、親父の伝言、生まれて初めてのうれし泣きが出そうになった、でもちゃんと自制はしたけれど。
「本当に?」
代わりにこの言葉が出た。
「本当よ、こんなこと嘘言いませんよ、だから安心して寝なさい、頭のほうは異常がなかったってお医者さんがいってたから、明日は目の検査があるらしいし」
ほとんど聞いてなかった、やっとスタートラインに立てる喜び、すべての雑音を消し去って心に興奮を沸きあがらせている。
そして大きな声が出た。
「やったぞ‼」
きっとこの声は病院中に響き渡った。
その日の夜はやっぱりウキウキしすぎてよく眠れなかった、まぁ頭が痛むのもあったのだけれど間違えなく興奮していた、人生で最高の眠れない夜、場所が場所だけに騒ぐことが出来なかったけど、代わりに心臓がバクバクいって踊っているみたいだった。
結局一睡も出来ないまま外が明るくなってきた、なんだかもうねむることもできそうにないので、のそっていう感じでベッドから起き上がると大きく背伸びをする、なんかひどく久しぶりに起き上がったみたいな感覚、たぶん頭が重いからだろう、ずきずきする。
そのままイヤホンを耳につけて、備え付けのテレビのスイッチを入れた、いつもと変わらないニュース番組がひどく懐かしい感覚、これも頭痛のせいだろうか…。
ニュース番組が終わるころ病室の扉が開いた、そこから出てきたのは母でなんだか疲れているみたいだった、心配してくれているんだろう。
「おはよう変わりなかった?」
「昨日の今日じゃん、なんかあったらテレビなんて見てないよ」
イヤフォンをはずしながら少しあきれ気味にそういった、
「ねぇそういえば面会時間とかじゃないんじゃないのまだ?」
「特別みたいだよ、このあと検査あるから、何にも無かったらそのまま退院て言うことだし」
そうなんだとなんとなく納得してもう一度イヤフォンをつける、今日の運勢を見なきゃ。『今日の最下位は蟹座のあなた、予想外のハプニングが起こってイライラ、知人に八つ当たりしそう、もっと周りの人に気を配って、ラッキーアイテムはファッション雑誌、それじゃまた明日〜』
何の意味があるかなんて考える必要も無かった。まぁ悪いものは知らない、見なかったことにした。いつも通りの自分の行動、悪いものは信じない、よいことは積極的に、俺は基本的にわがままなんだ。
そのあと九時を少し回ったくらい看護婦の人が病室に入ってきて、検査をするからこちらへというようなことを言った、俺は素直にそれに従う、母は俺の後ろからいてきた。
眼科の検査室へついた、眼科ていうところは何で診察室が暗室になっているんだろう、もともと不気味な病院の感覚をより引き立てる、医者の顔は俺たちの目の中をのぞくためのライトで不気味に浮かび上がっていて、なんだかより俺を病的にしてるような気がする。
ともかくなんかへんちくりんなレンズを持って、医者は俺の目を覗き込む、上をむいて次は右、こんなことが数分続いて
「ん〜、これは少し怪しいねぇちょっと瞳孔を開くからね、はい上むいて目薬差すよ」
なにがなんだかよくわからなかったが、人間は不安になればなった分だけ、人のいうことをよくきくようになるんだなと思った、今までに無く素直に医者のいうとおり上を向いた、昨日とは違うどきどきで心臓が震えているみたいだった。
数分して、再び診察室から呼び出されて、診察室へ入った、また薄暗い診察室、何人かいる医者が全員うすら笑っているみたいな感覚、うっすらと吐き気を覚えた。
目にはめられたレンズ、さっきの麻酔の目薬のせいで、痛くも痒くもない、ただ何か違和感みたいなものそれだけの感覚、また上を向いたり右を向いたり、言われるままの自分、それにも違和感を感じた。
「ん〜これはよくないなぁ、すぐに処置したほうがいいなぁ、君今日一人かい?」
何の宣告だこれは! 少し思考がとまっている、でも俺の脳は反射的に
「母がいます」
そういった、すると医者は看護婦に俺の母を連れてこさせた、そして別室へ、やけに明るかった、おいおい俺はがんの宣告でも受けるのか…。
「あのですねぇ、右目なんですが網膜がもう剥離しかかっています、もう少し詳しく調べないとわからないんですが視神経自体も損傷している可能性がある、早急に処置をしなくてはいけません、この同意書にサインをいただけますか」
医者はくそまじめな顔をしていた、初めてはっきりかおをみせた、俺には悪魔に見えた…。その悪魔は契約書を見せた。
「あの右目はどうなるんですか」
俺は悪魔に不安をぶちまけた。
「まだはっきりしたことはいえません、ただ今言えるのはこの網膜剥離はほって置けば失明します、ですがこの程度なら、手術をすればほぼ百パーセント直りますよ」
なんだか安心した、医者の言葉、悪魔が天使の言葉を吐いた、百パーセント、安心するに十分な数値、その後はあの契約書にサインをした、そしていくつか複雑な検査をした、すべてが終わったのは四日後くらいだった、そのあいだ何度か親だけ呼ばれることがあった、なにを話していたのか聞いたけど、お金のことだからと何か言い訳がましかった、俺の右目は眼帯で覆い隠されていた。
この一週間は不思議な感覚だった、うまく説明が出来ないただそれでも何か表現するなら自分がそこに存在しているのかどうかわからない、すごくあいまいな空間に自分が溶け始めているような、そんな感覚、う〜んちょっと違うか…。
ともかく久しぶりに診察室に呼ばれた、独特な丸いすに腰をかけて医者と対面している、両親が俺の後ろで立っていた。
「え〜っと今日は眼帯をはずします、経過も順調なのでまぁ大丈夫でしょう」
まぁという言葉が気になった。俺の右目は光を感じる、久しぶりの光。
『なんだ見えるのか』
包帯ガーゼが取り除かれ俺の顔から異物が無くなった、そして景色が見える、なんだかピントの合わないカメラのような違和感、なんだコリャ。
「どうだい? よく見えるかなぁ」
適当なしゃべり方殴りかかりたくなる。
「あのーなんか違和感があるんですけど」
気持ちとは正反対に素直な口調、俺は気持ち悪い。
「そうだねこのあと視力検査をしてもらいますねそれじゃあまたあとでね」
やっぱり殴ってみたい。だけど言われるがまま視力検査室へ、いすに腰掛けると例の黒い目を隠すやつを渡されて検査が始まった。
滞りなくおわる、違和感は一向に改善されない、心には不安だけが増幅している、だんだんいらいらしてきた。
「え〜とそれではこちらに来ていただけますか」
医者がそういう、俺たちは素直に従う。ついたのはあの宣告室だ今度はナンナンダよ、また契約書かよ。
部屋に着く全員が席に座った。
「率直に結果を言いますね、一応親御さんの了承も取ってありますので」
なんなんだよ俺は父と母の顔を見た、やっぱなんかあるのか…。
「えーとですねぇ西野さんの目なんですが、やはり視神経を傷めていました、どれほど視力が落ちるか見当がつかなかったので雄一君には説明しなかったけど、はっきり言いますね、君の今の右目の視力は0.02です、これはこれからいご少し改善したとしても0.05には行かないと思いますつまりですねぇ両目の視力にかなりの違いが出てしまうわけです、その障害によって日常生活が脅かされることはそう無いでしょうただ…」
「ただなんなんですか」
声が強くなった、両親は俺の横で顔を伏せている。
「テニスでプロを目指してられるとか…つまりそのそれは厳しいです」
「目が悪くなったんだったら眼鏡をつけたらいいんじゃないですか」
そうだよ眼鏡があるじゃない、コンタクト片目だけにつけるとか
「あのですねぇ、めがねやコンタクトで矯正できるのは近視、または遠視なんです、あなたの場合は視神経に問題のあるいわゆる弱視というやつでして、めがねやコンタクトでは矯正が出来ないんです」
言ってる意味の理解には時間がかかった、俺の隣では母が泣いていた、俺が必死に医者に向かって抗議をするたびその勢いはひどくなった、俺は現実を知った。
もうだめなのか終わったのか、夢は続かないのか。
確認した俺はその日一言も口を開けなくなった、ただ呆然としていた。終わりをかみ締めていた、でもまだ涙は出なかった。
結局その日に俺は退院した『もう何泊かしていったほうがいいのでは?』といわれたが俺は断固拒否した、なんにしてももうこの場所にいることがいやだった、俺は混乱しすぎていた、早く家に帰りたかった、自分の部屋へ行きたかった、いつもの生活に戻りたかった、そしてゆっくり考えたかった。
あれから三日目の朝だ、部屋は薄暗い、締め切られた分厚いカーテンが光をさえぎっている、この三日間俺は便所以外ほとんどずっとベットの上にいた、ずっとベットの上で考えていた。俺が何をするべきなのか、何ができるのか、何もせずにそれだけを考えていた。
でも結局答えは出なかった、苦悩したわりにたいした収穫もなかった。そして頭の中は『後悔』がぐるぐる回っている、なぜあの時、なぜ俺は、なぜ? なぜ? くり返してとまらない。無駄な責任転嫁とか、そういったもの。もう四十時間繰り返している。ゆっくり『後悔』が頭に定着してきて、『なぜ』のリプレイがやんだころ、その代わりみたいに目からたくさん涙がこぼれていた。鈍感な俺の脳みそは三日たってやっと感情を思い出した。そう俺は悲しかった、悔しかった、苦しかった…涙は止まらなかった。同時に俺の内側から変な感情が湧き出てくる、『何もかも壊したい』、『何もかも終わりにしたい』俺は衝動をとめることができなかった、大きな悲鳴をあげながら、分厚いカーテンに向けて自分のこぶしを振り上げた、ガラスの割れる音がした、外から一陣の風が舞い込む、やけに心地のよい風だった。
「なにやってんだよ俺は」
そうつぶやいてベットに倒れこんだ、そしてそのまま大の字になり天井を見上げた、その見上げた真っ白い天井に、一枚ポスターが張ってある、カフェルニコフがサーブを打つシーン、その胸のあたりにこう大きく書いてある。
『いつか彼と同じ舞台に立つ!!』
本気でテニスを始めることを決意した日、なんだかはるか昔、通っていたテニスクラブに張ってあった一枚のポスター、それを盗んでそして今の思いを忘れないように、そう思って憧れの選手の胸に力いっぱいの思いを込めてあの言葉を書いた。絶対に達成できると、疑ってやまなかった、俺にとってあの思いは夢というよりむしろもっと身近なものだった。
「もうすこしで届いたのになぁ」
天井に向かって手を伸ばしながらそうつぶやいた。今の自分、過去の自分、照らし合わせて、あまりに惨めで…ポスターも天井から剥ぎ取った、そして大きくため息をした、カーテンを片方だけゆっくり開けた。光りが俺に向かって降り注ぐ、かなりまぶしくてまたカーテンを閉めてしまおうかと思った、けれどそうはしなかった。
そのとき部屋の外から音が聞こえてきた、誰かが階段を上る音、俺の部屋のドアが勢いよく開く、母が息を切らせながら入ってきた。
「今の音どうしたの!?」
俺を心配してくれている人の優しい声だった。
「ごめん…大丈夫だから、死んだりはしないよ」
答えになっていなかった、でもなぜかこう答えるのが一番いいと思った。
「そう、じゃあそれ片付けないと、掃除機持ってくるから」
割れた窓を見たのだろう、母はそういって部屋を出て行った、やけにそっけなく当たり前のような流れ、なんだかひどく心地よかった。
部屋ではカーテンが風になびいている、割れたガラス越しにどんより重そうな曇が見える、右手は少し痛かった、でも俺はきっとほんの少しだけ事実に向き合うことができた、ただそんな気がした。
私には何ができるのだろう、そんなことに答えがないことなどもうわかりきったことだった。私に息子がプロになりたいと話したのはいつのことだったか。もうかれこれ二年ほど前になるだろう、彼はまっすぐ私の目を見て、
「俺はプロになる、だめか親父」
そう言い放った、純粋だった、とても否定しきれなさそうだった。でも私にはその純粋さがあまりにも危うかった。だからこそ私は理不尽なほどに反対した、きっと彼はここで止めてもいつか行く日が来るだろう、と、そう感じていた、だからこそ今は理不尽なほどに反対をした。
きっと高校くらい卒業してもらいたかったのだろう、もしくは息子の能力を信じ切れなかったのだろうか、ともかく私は理不尽なほどに反対をした。
でもそのときは確実に近づいていた、もう反対しきれなくなっていた。彼は何度もジュニアの大会で優勝を繰り返し、スポンサーも手に入れて、いつでもプロでやっていけるだけの力と環境を整えていた。
私は反対する理由を失った、もうあまりに理不尽すぎて反対するすべを私は持たなかった。だからこそ最後に条件を出した、いってしまえば最後の悪あがきだった、きっと私はなんだかんだと奇麗事を言って、結局息子を手放したくなかっただけなのだろう、そんな傲慢さからくる最後の悪あがきだった。
彼は自分に必要ない大会だからといって総体や選抜といった大会には一切出ていなかった、結局そこしか私にはとるあげあしもみつけられないほど、彼はプレイヤーとして完成されていた。だから私は精一杯の父親面で
「今度の総体で優勝しろ、プロを目指すならそれくらいできるだろう。そうしたらもう好きにしたらいい、それが条件だ」
そういった。でもそれは一人の親として恥ずかしいくらいの、我侭で傲慢な言葉だった。
しかしながらその傲慢さが息子の持ち続けていた絶対的な夢を壊してしまう結果を生んでしまった。そうあの時医者に宣告を受けたときはどうしたらいいのかと…、呆然とし、何の感情もなく病院のロビーまでとぼとぼと歩きそしてふと、妻のほうへ目をやった、うっすらと妻の目に浮かぶ涙を見た瞬間だった、腰が砕け、両膝が床につき、頭を抱えた。うちから何か熱いものが目に集中し、そして流れ落ちた。自分のすべてを後悔した。
そしてこうつぶやいた。
「私に何ができるのだろうか」
後悔に満ちた、嘆きか何かであった。そんな私を妻はなにもいわず軽く抱きしめてくれた、それは私にとってあまりにも優しかった、こんな私にとって受けてはいけないほどのやすらぎであった。
後悔の日からそのちょうど三日後、私は親としての、彼の夢を摘んだその人間としての最低限の責任を医者に転嫁した、逃げてしまった、もう逃げられない息子を一人ぼっちにして、あまりにも卑怯なことは十分わかっていた、でも言えるはずなかった、だから先生に宣告をお願いした、私はあきらかに最低だった…。
宣告がすんだ、息子は少しきょとんとしていたがすぐにお医者様に向かって攻め立てた、何か術はないのか、どうしてないのか。私はその姿が見ていられなかった、ここから出て行きたかった、でもできなかった、それをしたらもう私は二度とこの子の親などと口に出せなくなってしまうと思った。隣では妻が泣き崩れていた、私は前に妻がしてくれたように優しく妻を抱き寄せた、私にできることはそれくらいだった。いやむしろそれもここから逃げてしまわないように妻にしがみついていただけだったのかもしれない。とにかく私は息子が力なく座席に着くまで、妻の傍らで、妻にしがみついていた。
『私はもうすでにこの子の父親として、すべての力を失っている』
ふとそんなきがした。
時間は何も乗せなくてもどんどん過ぎて行く。桜井和夫に小言を言われながらそんなことを思った。
「いいかまったくお前は、もう昔とは違うんだぞ」
にやりと笑った、様に見えた。ひどく嫌悪感しか残さない笑顔、ある意味才能だと思った。
「はいわかりました、以後気をつけます。それでは失礼します」
自分でもやけにすんなりそんな言葉が出てきた。『俺は現実の理解の早いほうなんだ』そう自分に向かって必死に言い聞かせていた。
職員室を後にして、すぐに屋上へ戻った。この学校での俺の唯一の居場所へ。
「やけに早かったね、あと一時間ぐらいかかると思ったのに」
間抜けな声が聞こえる、光洋がポッキーをかじりながらそういった。
「あぁ、お前にいわれた通りにしたからな」
「へぇ〜めずらしい、雄一も多少大人になったって感じ?」
「現実の理解の早いほうなんだよ俺は」
「なるほどね、まぁそういうことでもいいか。ところでポッキー食べる?」
残り二本になったポッキーの箱を俺に向けながらやけに凛々しい顔でそういった。
「なんだよその凛々しい顔は」
「あっごめん普通にしてたら凛々しくっちゃうんだ」
「絶句だよ」
そういって俺はポッキーを一本、箱から取り出して口に放り込んだ。ビターチョコの苦味が少しうっとうしかったけど、深くは聞かないこいつはそうでもないなといらない比較をしてみたりした。
「遊びに行こうよ、雄一あんまし高校生らしい遊びしたことないでしょ。なんとちょうど女の子たちとカラオケ行く約束あったりして」
「可愛いのか?」
「さあ俺面食いじゃないからねー」
「まっ、いってもいいかな」
「んじゃこなくてもいいよ」
「そういうこというなって」
「んじゃいこうよ」
「ああ」
そうだ俺はまだ高校生だった。天才高校生から普通の高校生へ、いままで置き去りにしてきたいろんな楽しみ味わってみるのもありかな、普通を味わってみよう、俺に合うか合わないかなんてやってみなきゃわかんないし。またそう言い聞かせていた。
どうしようもなく退屈だった、俺にはやっぱあわない。時間の浪費みたいで居心地がひどく悪かった。次から次へ新曲が歌われていくボックスの中で俺はそんなことを思っていた。
「ねぇ雄一君歌わないの」
いきなりしたの名前で呼ばれるのは抵抗がある。
「あぁ聞いてるほうがすきなんだ」
ありきたりな言い訳でかわそうとするけど
「えーカラオケで歌わなきゃ損だよ、どーせワリカン何だしじゃあいっしょに歌わない?」
相手のほうが上手だ。
「あ〜みかちゃん浮気だぁ、いっしょに歌うのは俺でしょー」
光洋の助け舟、マジに助かった。
「光ちゃんはさっきいっしょに歌ったじゃん、私は雄一君と歌いたいの」
なんつーかはっきり物言う子だなこの子は。
「ねぇ歌う歌わない、どっち」
俺はこれは抵抗できないと思って
「わかった歌うけど俺最近の日本のポップスはほとんどわかんねぇよ」
「だいじょぶだいじょぶ、どういうの聞くの?」
「んーラップとかそういう系、ハードなやつ」
「エミネムとか?」
「んーそういうのも聞くけど」
「そっか〜それは歌うのきついよね〜、昔のスマップとかは?」
「ライオンハートくらいならわかるかな」
「それいいじゃん、それじゃあ入れるね」
そういうと美香はリモコンを手馴れた感じで操作した。
「おいあのこ何者?」
「ああいう子なんだよ、強引な感じ」
「いっつもあーユー感じ」
「いやいつもはあんまいっしょに遊ばないんだけど、雄一くるって言ったらね…まぁきみ狙いなわけですよつまりは」
「もててるわけだ」
「そーだよ、てゆーかびびってる?」
「馬鹿か、なれないだけだよ」
なれないていっても、もてるのになれないわけじゃない。今までだって結構もててたほうだし顔だって人並み以上な自信はある。でもやっぱり変な感じだ、テニスという絶対的な自信を失って俺は少し気持ちが小さくなっているのかもしれない。
弱気? おれが?
『いみわかんねーよ!!』
心の叫び、さながらムンク的な。
そんな葛藤を繰り返しているといきなりライオンハートのイントロが流れてきた。
確か前には5〜6曲くらい入ってたはずだが。
「わりこんじゃった、さ〜歌お」
美香は笑顔だ、くったくがない、素直とも言うがわがままとも言うだろうなこの性格は。
何事もなく終わる、曲なんて聴きゃしても歌うもんじゃないなって本気で思った。俺に歌の才能はないらしいよまったく。
「雄一君才能ないね、けっこうはずしてたし、でもうけるからありじゃない」
まっある意味フォローなのか…なさけねぇ
「フォローどうも、とりあえず癒せないライオンハートだな」
「はははー、それうける」
俺はうけれないけどね、ナ〜んて卑屈になってみたりして。
苦痛な時間は長い、二時間しかいなかったのにもう十時間は拘束されたみたいな気分だ。つまりやっと時間が来てボックスから出る、これからどうするみたいな話になってる。
『帰る』とも言い出せずただぼーと行き先決まるまで空を見上げてようと思ったら急に右腕に重さを感じる。
「ねぇ二人でどっかいかない?」
美香、腕にしがみつきながらあの笑顔でいう。
「俺と二人はつまんねぇよ」
やんわりと断る。
「私は楽しいよ、問題なしでしょ」
やんわりは効かないな。
「二人はちょっとな、苦手なんだよそういうの」
結構はっきり言ったつもり。
「私がいやってこと?」
どれだけはっきり聞くのかな、この子は。
「美香がいやなんじゃなくて、女とふたりってのが苦手なんだよ」
フォロー、完全に焦っているね。
「んじゃ克服しようよ、いいからいっしょに来て」
腕をつかまれたまま連行される、犯罪者か俺は。
「光ちゃん、道子、私たち二人で遊び行くからここで〜」
「ラジャー」
軽い敬礼みたいなポーズ、裏切りやがったな光洋。
「まぁガンバってぇ」
耳打ち、てめぇ…はぁ〜。
「俺といて何が楽しいの?」
「全部」
「全部?」
「そう全部、私雄一君のこと好きなんだよ」
「みもふたもねぇな、いきなり告白?」
「そうだよ、いろいろ言ってもしょうがないし、もうわかってることでしょ」
星がみたいとかドラマみたいなこといきなり言い出したと思ったら、コンビニで食料、飲み物買い込んでビルの屋上に連れ込まれた、そこで終わりかけの夕焼け、始まったばかりの星空をだらだらいろんな話をしながら見た。そして最後に聞いた言葉そこから告白された、流れがもうめちゃくちゃ。何だ今日は。
「あぁ聞いてたよ光洋に、だけどさぁ…」
「だけど何?」
「何がいいんだよ?」
自分に自信のないやつのせりふ、今のおれが言った台詞。自信のないおれがはっきり見えた台詞。
「だから、全部」
「わっかんねぇよ、馬鹿にしてんの?」
少し声を荒げた、いらいらしてるなこれは。
「おっきなこえだすとこも、下手な歌歌うことも、日焼けのあとも、匂いも…」
「全部好きなのよ、全部なの。怒らないでよ…私もわかんないんだよ」
「怒ってないよ、ただいらいらしてんだ、多分おれ今自信ないんだわ。ごめん」
尻つぼみ、声が下がっていった。
「謝らなくてもいいよ、私もわかんない。ずっと好きだった気もする、でも違うんだよ最近なんだよこんなにすきだって言えるのは。だって前はすごすぎて声もかけれなくて、ただ見てるだけでそういう存在で…」
「どういう意味だよ、俺がもうダメになったから今ならどうにかなるって思ったってことか! ふざけるんじゃねぇよ。俺は、俺は…」
『俺は何だ? 俺は誰だ? ダメだわかんねぇ。あっ俺はもう…俺じゃないのか』
なんか泣いてた、今日はじめてあった女を抱きしめながら、怒鳴りながら。
たいして見えない星空、汚いものを照らすのが仕事のライト、ビルの排気口。ムードなんてないそんな背景の中で、俺はキスをする、唐突な適当なもう滅茶苦茶な、あるいは必然的でもある。そうシナリオどうりだ多分アイツの…。
息子とは話が出来ていない。以前も確かに会話は多いほうではなかった、私の仕事が忙しかったこともある。息子の練習も過酷であったしすれ違うことが多かった…。
ただ…いまは確実に逃げ回っている。攻め立てたい気持ちを抑えているのだろうか、息子は家にいるときは話をしない。大体いつも部屋にこもっているか外に遊びに行ってしまう。最近では帰りが遅くなっている、何をしているのか気になる、でも聞けるはずがない。私は加害者でえらそうなことを言える立場ではない。すでに私たちは親子ではないのかもしれない、いや違う親子の機能を停止しているのだ、ただ停止を…そうなのだ。
『私はせめて強くならなくてはいけない』
停止された機能を動かすために、向き合わなければならない、普通の息子を、普通に…。分が望んだのかもしれない結果に…。
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2008/12/14(Sun)17:56:43 公開 / asano
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■作者からのメッセージ
後編がまだうまくまとまらないので、モチベーション維持のため前編のみ投稿させていただきました。
初投稿ですがよろしくおねがいします