- 『蒼い髪3』 作者:土塔 美和 / ファンタジー 未分類
-
全角44614文字
容量89228 bytes
原稿用紙約141.3枚
「生まれたようだな」
ここは皇帝陛下のプライベートルーム。この部屋まで入れる側近は数少ない。
皇帝はソファに深々と座りくつろぎながら。
「はい、男子にございます」
「それで」
「色白でとてもお美しい御子とか。髪は見事なほどに赤く、瞳は深い池を思わせるほどの濃い緑だそうです」
紅の髪に緑の瞳はネルガル人の中でも高貴な血を引くものに多く、ネルガルではとてももてはやされる色だ。
「ただ」と、侍従は言いかける。
「何だ」
「ただ胸に痣がありまして、色が白いだけにお目立ちになり痛々しいほどだと言うことです」
「痣?」
「はい。ですが命に別状はないとのことです」
「して、DNA鑑定は」
羊水で既に確認済みなのだが、赤子の血液検査をするついでにもう一度確認をとる。
「陛下の御子に間違いありせん」
そして今届いたばかりのデーターを赤子の写真とともにスクリーンに出した。
皇帝はそれを一瞥すると、
「そうか、他に変わったことは」
「いえ、それ以外のことは」
普通の赤子と何ら変わらなかった。
神の子か。確かに容姿はあの小娘が言ったとおりだが、紅の髪の子などいくらでも生まれる。まして俺の子なら。皇帝も紅い髪に緑の瞳だった。皇帝に生き写しといえば生き写しなのだが骨格は華奢だった。初産ということもあるのだろう、思ったより小さい。
しかしあのヨウカという女は何者なのだ。あの小娘、多重人格か。
「どうなさいました、陛下」
「いや」
下がってよいと手を振ると、皇帝はソファに深く座り目を閉じる。
赤子が生まれて十日が過ぎた頃、皇帝はナオミの前に現れた。
「陛下がお見えです」
侍女たちは慌てる。
正室や身分の高い妃であるなら赤子を見に陛下がお渡りになるということは時折あるが、身分の低いもの、まして平民の所へなど来るはずがなかった。
慌てて用意する侍女。
ナオミは涼やかな風の入る窓際で赤子に乳を与えていた。
外は夏の虫の音にまじり秋の虫の音が聞こえ始めていた。もうじき実りの秋がこようとしている。
でも今年は無理よ。エルシア様もまだ何もお口にできないのですから、丁度いいわね。来年はどうにか実をつける木もあるかもしれないわ。
「たーんとお飲み、私の気で足りるのなら」
カムイを助けるため、ヨウカに必要以上に気を吸われたエルシアは、ヨウカの言うように、毎日よく寝る赤子だった。
「これなら、手がかからんで楽じゃろー」
「ごめんなさいね、カムイのために」
乳を思うように含ませてやれず、ついミルクを使おうとしたナオミにヨウカは言う。
「まったくお前らは、食を何だと心得ておるのじゃ。食とは相手の気(命)を貰うことじゃ。わらわのように直接相手から気を吸えれば問題ないのじゃが、お前らは物(食物)を通してしか得られないのじゃから、できるだけ生がよいのじゃ。せいぜい料理しても焼くぐらいじゃ。あんなごてごてに拡散したものなど、気があってないがごとしじゃ」
「でも、消化はいいわよ」
「そりゃ、肉体の栄養になっても、魂の栄養にはならん」
「魂も、栄養が必要なの」
「そりゃ、そうじゃ。わらわは肉体を持っていなくとも、腹はすくからのー」
「そうなの」と、ナオミは納得しがたい生返事をし、肉体がないってことは胃袋もないのだから、お腹の虫ってどうやって鳴くのかしら。と言うより、どうやってお腹が空いたことを感じるのかしら。
「乳が出ぬようなら、ミルクではなく牛の乳首にでもくくりつけておけばよい。その方がよく育つ」
まあ、ひどい。と思いながらも、ヨウカのその言い方がおかしくて、赤子に乳を含みながら思い出し笑いをしていた。
「楽しそうだな」
ナオミは慌ててその声の方に視線を向けた。
目の前に皇帝が立っている。背後から侍女たちが慌てて部屋に入ってくる様子が見えた。
赤子はといえば、お乳が充分だったとみえすやすやと眠り始めていた。
ナオミは胸元を整えると赤子をベッドの上に寝かせる。
皇帝は侍女たちに下がるように命ずる。
「何が、そんなに楽しいのだ」
「ヨウカさんとの会話を思い出していたのです」
「ヨウカ?」
皇帝に聞き返され、ナオミは一瞬、しまったと思ったが、
「私の友達です」と言い逃れした。
「ほー、お前に瓜二つの女のことか」
「私に? 私にはぜんぜん似ていません。プロポーションはよく、肌は褐色で髪も赤く、背も私よりずっと高いですし」
「お前にはそう見えるのか、あの女は」
「陛下には違うのですか」
「俺にはお前そっくりに見えたが。もっともお前よりははるかに年上のような気はしたが」
ナオミはしばし考えた。
陛下はヨウカを知っている。なら、彼女の正体を話してもさしさわりはないだろうと。
ナオミが話そうとする前に、
「ヨウカとは何者だ」
皇帝の方から聞いてきた。
「彼女は一種の生命体です。というよりも、彼女の話によると、以前は私たちもああだったそうです。それが惑星上の一定の物質と結合し生命というものに形を変えたとか。変えなかったのがヨウカさんたちです。彼女、否、彼らというべきなのでしょうか、肉体を持たないのですから。たぶん性別もないと思うのですが、彼女の仲間は宇宙に漂い宇宙からエネルギーを得て、何万年という歳月を生き続けるそうです。そのエネルギーは微々たるものですから、仲間たちの大半は自分を意識することもないそうです。反対に、物質に結合した仲間は、つまり私たちのことですが、食という形をとり、瞬時に膨大なエネルギーを得ることが出来るようになり、意思を持つようになったということです。ヨウカさんはその中間的な存在で、物質に結合した仲間に憑依しそのエネルギーを貰って生きているということです」
「つまり、お前に憑いてか」
「いえ、この子に憑いているのです。だからヨウカさんは意思を持ち続けることができるそうです。われわれも死ぬと、肉体(物質)から離れることになりますので、その時はヨウカさんと同じ状態になるわけです。でも一度物質に結合する便利さを知った者たちは、すぐ新たな肉体(物質)に結合するということです」
「どういう意味だ」
「私にもよくわからないのです。でも以前、ヨウカさんが自分のことをそう説明してくれたことがあります」
エネルギーが凝縮すると物質になる。魂もその一つだと。
「ネルガル人の中にも彼女のようなものが憑いている人がいるそうです。でも大半は、憑いていることに気づいていないとか」
よほど能力のある者でなければそれを見ることはできないと。
「寄生虫みたいですね。気づかれると虫下しでも使われてしまうのかしら」と、ナオミは以前エルシアが、蛇に効く虫下しがあったら使いたい。と言っていたことを思い出し微笑んだ。
エルシアとヨウカ、仲が良いのか悪いのか。でも、ヨウカさんがエルシア様を好きなのは事実だ。これはナオミの女としての勘が反応する。
「つまり、死ねば俺もあのヨウカという女のよいになると」
「肉体がない状態になりますからヨウカさんと同じになります。ただ意識を待ち続けられるかどうかは保障できません。だって私たちは生まれ変わると前世の記憶はありませんもの」
皇帝は意外なことを言われ、考え込んだ。
輪廻転生。この考え方はネルガルにはない。ネルガルでは、死んだものは天国か地獄へ行くことになっている。
「それより、これでお気がすまれたでしょう。そろそろ村に返していただけませんか」
村からも、赤子が生まれると同時に、母子を返すようにとのメールが再三入って来ている。
皇帝はじっくり赤子を覗き込むと、
「何処が神の子なのだ。確かに容姿はお前の言うとおりだが、紅い髪に緑の瞳など、俺の子なら当然だろう」
既に王子の中には、同じような容姿をしているものも二、三人はいる。
ナオミはよく眠っている赤子の肌賭けをとり、胸元を開けた。
そこには痛々しいほどの青黒い痣。
皇帝も思はず息を飲んだ。
スクリーンの映像で見たより酷い。
「これは」
「これが神の証拠です。レーゼ様にもありました。その前の方にもあったそうです」
ナオミは産着を着せなおし、肌掛けをかけなおしてやる。
「何だ、この痣は」
「さあ、知りません。ヨウカさんなら知っていると思ったのですが、教えてはくれませんでした」
皇帝は考え込む。
「輪廻転生か。そういえばそんな考え方をした民族が過去にいたということを聞いたことがある。滅んでしまったがな。お前らはその残党か」
「いえ、私の村の者たちは輪廻転生など信じてはいません。ただ、神だけはそれができるのです。だから、神なのです」
皇帝はじっと赤子を見る。
転べば怪我もするし銃で撃てば死ぬ。ヨウカの言葉。
始末するなら早い方がよい。と宮内部の考え。得体の知れないものを生かしておくわけにはいかない。
「ところで、名は」
「まだつけてはおりません。本来なら長老会議で決めるのですが」
ナオミは名前をどうしようかと迷っていた。
村に連絡して長老会議を開いてもらい、決めてもらおうかと。
「では俺が付けてやろう」
ナオミは驚いて皇帝を見たが、視線を赤子に落とすと、
「さようで御座いますね、あなた様はこの子の父親なのですから」
そんな実感がナオミにはない。おそらく皇帝にもないだろう。
「ルカというのはどうだ」
「ルカですか」
神に仕えるものという意味だ。
「この星の神は俺だ。この星で生きたければ俺に仕えるようによくしつけることだな」
侍従が一人、護衛のために付いていた。その侍従が笑う。
「さようですな、神の子が皇帝陛下に跪けば、天を支配したも同じ」
ナオミは侍従のその言葉に怒りを感じた。
エルシア様にあなたの前で跪けと。
だがそこをじっと押さえ、「わかりました」とだけ返事をする。
今はさからってもどうにもならない。だがこの子が大きくなれば。
皇帝は去って行く。
赤子は何も知らずにベッドの上ですやすやと寝ている。
「エルシア様」
ナオミはそっと赤子を抱きしめた。
「どう思う?」と、皇帝は侍従に問う。
「何の変哲もない赤子に見受けられましたが。ただ輪廻転生という思想が」
思想は国の礎だ。新しい思想が入りその思想の方がよいと平民が思うようになると、国のまとまりがつかなくなる。
「ご心配でしたら今のうちに始末なされては」
芽は早いうちに摘むに限る。
「お前は早く始末したいようだな」
「事が起きてからでは手遅れですから。それでなくともこの帝国は、内外に敵をはらんでおります」
「もう少し様子を見よう。もし人外の力を持ちそれが俺の意のままになるのなら、それに越したことはない」
「しかしそれは危険な賭けです」
「教育を徹底させろ。決して俺に逆らわないように。それと見張りだ」
「畏まりました」
「もし手に余るようなら、その時は」
侍従は無言で頭を下げた。
ナオミは赤子の世話を何から何まで自分の手でやった。本来、乳母がつくのを断ってまで。
ここの人たちとの価値観の違いが不安で、赤子を預ける気にはなれなかった。
でも教育はどうしよう。村ではこの子がある程度の年齢になれば、村の賢者たちがついて教育してくださるのだが。
勉強の方はナオミは教える自信がなかった。
こんなことならもっと勉強しておけばよかった。
「どうした、また悩み事か」
その声は、
赤子を抱えたまま振り向くと、そこにヨウカがいた。
「よう、出るようじゃのー、その乳は」
「ええ、Cカップになったのよ」
ナオミは胸が大きくなったことを自慢する。
「わらわはJカップじゃ」と言うが早いか、牛の姿になった。
「大きいからいいってものではないわ。いくらなんでも、それでは色気が」
「何を言う。ブラジャーをすれば」と、牛に変化したヨウカは、人間で言えばウエストに当るところに前足を当て、ゆっくり腰をくねらせると色っぽくポーズを決めた。
「どうじゃ、このちらちらがよいのじゃ。男はこれに弱いのじゃ」
ハートマークのピンクのブラジャーにフリル、ナオミは我慢ができず噴出してしまった。
「やっと笑ったのー。同じ乳でも、笑って飲ませるのと泣いて飲ませるのとでは、味が違うのじゃぞ」
「そうなの」と、思わずナオミは赤子の顔を見る。
「そうじゃ。それより、それだけ大きくなればカムイも喜ぶじゃろー、少し舐めさせてやればよい」
何を急に言い出すの、と、ナオミは思いながらヨウカを見る。
「あの、あずき粒のような乳じゃ、あまりにもかわいそうじゃ」
「余計なお世話です」と、ナオミは脹れた。
もう、ひとが気にしていることをずけずけと。
「そうじゃ、何をくよくよしているのか知らんが、こっちの方こそ気にした方がよいぞ。まだカムイは免疫がないからのー、あずき粒でも満足しただろうが、そのうち免疫ができると物足りないと言い出すぞ」
もう、とナオミは脹れながらもヨウカに負けてはいない。
「ヨウカさん、このバストを保つ方法を知ってますか」
「だから、その方法を悩めと言っておるのじゃ。こやつの将来のことなど悩んでおらずに」
「方法なら、悩まずとも知っております」
「ほー、知っちょったのか。わらわは知らぬ、教えてたもれ」
「そんなの簡単です。乳をやらなければよいのです」
はぁー。とヨウカはポカンとした顔をしたが、次の瞬間、
「それでは何のための乳じゃ」と、怒鳴りだす。
「乳をやるから私の乳がしぼんでしまうのです。やらなければ」
「それでは、わらわの餌がしぼんでしまうではないか。せっかく丸々と太っておいしそうなのに」
ヨウカは人の姿になるとナオミのところにねじりより、
「それだけは許さんからの、それならお前の乳がしぼんだ方がよっぽどましじゃ」
「もう、どうせヨウカさんは、この子を餌だとしか思っていないのでしょ」
その時だった、ヨウカがいきなり静かにと言うように口に一本指を立てた。
「どうしたの」
「子供が、助けを呼んじょる。溺れているようじゃ」
「どこで?」
「池じゃ。春じゃきに、氷が薄くなちょっるのを。助けに行かんと」
ヨウカはそう言うとナオミの前から姿を消した。
ナオミにも経験があった。春先、池の氷は薄くなりナオミの体重を支え切れなかった。
あの時、確か私もヨウカさんに助けてもらったんだわ。ヨウカとはあの時からの縁。
そうね、村は今頃春なんだわ。大丈夫かしら、間に合うかしら。
夕方になってヨウカは戻って来た。
「助かったの」
ナオミは心配そうに聞く。
「わらわが行ったのじゃ、大丈夫に決まっておる。元気になるまで様子をみておったから遅くなった」
「そうだったの、よかった」
ナオミはほっと一息つく。
「私も、助けてもらったのよね」
「そうじゃ、危ないというちょるのに、言うことを聞かん奴じゃったからのー」
もう。とまたナオミは脹れた。素直にありがとう。と言おうと思っていたのに。まったくヨウカさんたら。
「何か言うたか?」
「いえ、何にも。でも、ここに居ても村のことがわかるの」
「村のことはわからん。ただ池のことはわかるのじゃ、繋がっておるからのー」
「繋がっているって?」
「説明してもお前の頭じゃ、理解できんじゃろう」
もう。また腹が立つ。それは私は頭はいい方ではないから。
「たまに村に行くの?」
「池で何かあった時は、特にのー。さもないとこやつがうるさいきに」
ヨウカは赤子を見つめる。
エルシアが生まれたことを村に知らせたのもヨウカだった。
再三の催促により、村人たちがルカとの謁見を許されたのは、ルカが生まれて六ヶ月経ってのことだった。
村人が来るという知らせに、ナオミは朝から落ち着つかなかった。部屋の掃除を侍女たちと一緒にやる。
「奥方様、これは私どもの仕事ですので」
「奥方様はお召し替えなされて」
結局、邪魔だとばかりにその場を追いやられた。
「奥方様、殿下がお目覚めです」
あっ、すっかりルカのことを忘れていた。
でもこれでナオミにもやっとやることができた。
侍女から赤子を受け取るとテラスへと出て行く。
ナオミは池を眺めながら、
「私がうろうろするとかえって皆に迷惑かけるのよね、皆に任せて、わたしはここでじっとしていた方がいいみたい」と、ルカに話しかける。
ルカはその話を知ってか知らずか、ほんのりと微笑む。
近頃では周りのものに対し反応し始めて来ていた。特にナオミとヤンスが親しく話しをしている時など、その会話に加わろうと口をもごもごさせる。
「まあっ、殿下が何か仰せですよ」
あまり子供は好きではないというヤンスですら、ルカは特別のようだ。
「もうじき村の人たちに会えますよ、あなたの故郷の」
村人たちが着いたのは昼少し前だった。
奥方様は奥で控えているようにとセベルドに言われたが、居ても経ってもいられずエントランスまで迎えに出た。
車が止まり懐かしい顔が次々と出てくる。長老を始め男女あわせて十一名。そして最後に大きなトラックが一台。
「何、これ?」
「お前と御子様の一年分の食糧だよ。お前、食い意地がはっているから、倍持ってきてやったから」
そう言うのはテールだった。
後の者は緊張のあまり口も利けない。
「兄さん」
ナオミはテールに抱きついた。
「元気だったか、て、聞くまでもないか」
「ナオミ様、お久しぶりです」
長老を代表して中堅の者がやって来た。
「シジム様、お久しゅう御座います。庄屋様はお元気でおられるのでしょうか」
「実は、大変来たがっておられたのですが、歳が歳ですので、遠慮していただきました」
まっ。と言いながらも、ナオミはトラックの荷を見て、
「食べ物には不自由しておりません」
長老は辺りを見回すと、
「そのようですね。ですがこれは古からの決まりですので、我々の代で破るというわけにもまいりませんので」
それが長老会議で決まったことだった。
おそらく衣食住にはご不自由してはおられないだろう。しかし古より、御子と御子の母の生活は村全体でみることになっている。ここでその掟を破るわけにはいかないということになり、不要でも食糧だけは送り届けるということになった。出来れば年に二回、それが無理なら一回でも。
「そういう訳で受け取っていただけますか」
ナオミも仕方なく受け取ることにしたが、さてどこに置くかということになった。
幸い、空いている倉庫があるというのでそこに運び込むことにした。
村人たちが手伝おうとした時、
「我々でやっておきますよ」と、ハルガン。
何やら大きな荷が入ったというので、護衛兵をつれてやって来た。
「お願いできますか」
「力仕事ならまかせて下さい」と、ハルガンは軽々とトラックに乗り込み護衛兵たちと倉庫へとむかった。
これは不審物のチェックも兼ねていた。
ナオミの話が一通り済んだのを見計らって、侍女頭のルイーズが前に進み出た。
「二階に席を用意いたしましたので、どうぞ」と、村人たちを案内し始めた。
セベルドとフレイの姿はない。貴族の二人は平民と口を利くのも嫌なのだろう、皇帝が恥をかかない程度の段取りをすると部屋に引き上げてしまった。
フレイの方はまだしもセベルドは完全に田舎者の私を軽蔑している。
まあそれも無理はない。彼女が教える貴族の習慣を私がまじめに学ばないから。近頃ではなんやかんや理屈をつけては、果樹園に行くようになってしまった。二人には悪いと思っているのだが、どうも貴族の作法よりも土いじりの方が楽しい。果物が成ったら二人にも分けてやろう。そうすれば少しは許してくれるかも。などと考えつつ、まあいいわ、あの二人がいない方が私も楽。と開き直る。
館の中に入ると同時に感嘆の声。
「すごいわ、まるで宮殿みたい」
「宮殿じゃねぇーのか、ここは」
「これでも一番小さい方なのよ」
「これで!」
「第一夫人や第二夫人の館などは、ここの十倍はあるのよ」
「へぇー、でもこんだけありゃ、充分じゃん」
「私もそう思う」
「ナオミらしいや」
会話が田舎丸出しで始まると、次第に緊張もとけていった。
ナオミに会うまではどう話しかけようかと、誰もが悩んでいた。なんせ相手は昔の庄屋の下働きの娘ではない。今を轟かすギルバ帝国皇帝の何人目かの妃だかは知らないが、確かに妃ではある。粗相があってはと思っていたが、ナオミの態度は意外にも昔と何一つ変わってはいなかった。
後に謁見の間として使われることになる部屋は、女性らしく花で綺麗に装飾され、大きなテーブルが運び込まれ、その上には銀河の珍味が並べられていた。
「すっげー、お前、毎日こんなの食べているのか」
「こりゃ、太るぜ」
「まるで、お姫様ね」
男たちはテーブルの上の料理に感激し、女たちは周りの豪華な調度品を見て回りながら羨ましそうに言う。
「たいしたことないわ、竜宮に比べれば」
ナオミのその一言に皆が振り返る。
「あれは湖上にあるのよ、村を飲み込むほどの大きな滝があって、まるで蜃気楼のよう。料理もこんなものではなかった。もっともっと沢山だった」
ナオミはエルシアと戯れた日々を思い出して言う。
「あそこに比べればここの生活も色あせて見える」
村人たちが驚いた顔をしているのに気づき、ナオミは慌てて謝った。
「あっ、ごめんなさい。それよりよばれて。さっきからお腹の虫の音が聞こえてきているわよ、誰?」
「俺」と、若い男が手を上げる。
「だってよ、ここへ来れば美味いものが食えるって、皆が言うから、俺、朝飯、抜いてきたんだ」
「もしご馳走にありつけなかったら、どうする気だったの」
「俺、死んでた」
皆が笑い出す。そしてその場も和み、村人たちは自由に席に着いた。
「ルカは皆さんが来る前に乳を飲んで寝たところなの。起きたら連れてくるように言ってありますから。それまで食べながら待ってて」
ちょうど皆が食事をすました頃、
「お目覚めになられました」と、真っ白なシルクのベビードレスに包まったルカを、侍女が抱きかかえて入って来た。
「御子様だ」と言う歓声があがる。
六ヶ月ともなれば首も据わり随分しっかりしてきていた。ナオミの服をじっと握り締め、いつもと雰囲気の違う部屋の様子を眺めている。
「ルカ。あなたが愛してやまない村の人たちよ、わざわざ会いに来てくれたのよ」
ナオミはまず若い長老のところへルカを抱えていく。
「お綺麗な御子様だ」
さすがは父親が皇帝だけのことはある。豪華な服に身を包んでいた。
「村では、ここまでして差し上げられない」と、シジムは感嘆する。
「村とここでは、どちらがこの方には幸せなのか」
ナオミはぽつりと言う。だが気を取り直すと、
「せっかく来たのですから、抱いてやって下さい」と、長老に手渡す。
ルカは順繰りと村人の手の間を渡っていった。
「本当に、髪が紅いんだな」
「瞳はグリーンよ。綺麗な瞳」
だが村人たちにとってはそこがしっくり来ない。
やはり神と言えば紫の髪に黒の瞳。いくら紅い髪と緑の瞳が高貴な人の象徴だとは言え、所詮人は人、いくら高貴でも神には遥かにおよばない。
ふと、溜め息がもれる。
そんな中、テールが赤子を抱いたまま暫し固まったように動かなくなった。
(お久しぶりです)
テールは唖然として赤子を見下ろす。
六ヶ月の赤子が喋るはずはない。
(私です。お分かりになりませんか)
「レーゼ様」
赤子はじっとテールを見ていた。
「皆さんがここに見えられたということは、村は安泰なのですね」
「はい。今年も豊かに実りましたので、いろいろとお持ちいたしました」
「そうですか、ありがとう御座います。心配しました、あなたがあの兵器を使うのではないかと。あなたから見せていただいたデーターは、読み解くには時間がかかりませんでした。ただ、どこまであなたに教えるべきかと、それで随分と悩みました。結局、あなたを信じて全部教えてしまったのですが、やはり私の判断は間違っていなかったようですね」
「武器も持たずに立ち寄った者を攻撃することはできません」
「そうですね」と、レーゼは少し考え込むように間をおくと、
「あの兵器を使えば一時は勝利することができるでしょう。でもそれだけです。その後、その数千倍の軍隊と兵器を相手に戦うことになります。おそらく勝利しても村には何も残らなかったでしょう。戦いは勝っても負けても恨みを残すだけです。恨みは次の戦いの火種になります。人は相手にしたことは忘れてもやられたことは覚えているものです。七代祟るという言葉があります。八代目にしてやっとその恨みも薄らえるのでしょう。できればこれからも、あの兵器はあなたの心の中だけのものであって欲しいと思います」
「七代祟るか。だが、七代目になる頃には自分が何で戦っているのか、訳もわからずに相手を殺しているんだろうな。親が奴らを憎むから俺も。なんて言って」
七代どころではない。何千年も、その記憶を忘れずに持っている人がいる。
エルシアは深い溜め息をついた。
「テール、ナオミさんは出来るだけ早く村へ帰れるように努力してみます」
エルシアの言葉だったのか、レーゼの言葉だったのか。
テールは我に返った。ほんの数秒だったが、
「どうした?」と、仲間たちが心配そうに赤子を抱いて石のように固まっているテールを覗き込む。
「レーゼ様だ、レーゼ様が」
その後の言葉は飲み込んだ。あれは俺とレーゼ様だけの秘密。
「お前、レーゼ様に可愛がられていたからな」
「間違いなくこの子は、神の子だ」
痣を確認する必要もない。
「よくやった、ナオミ。これで村も安泰だ」
御子が村に戻ってくればだが。しかし誰もが近いうちに御子は帰してもらえると信じていた。だって王子は何人もいるのだから。
昼から始まった宴会はいつしか夕方になっていた。それでも村の話は尽きない。だがルカの方は疲れたらしくぐずり始めてきた。
「早く寝せてやれ。眠いんだろう」
その言葉でナオミはルカを抱え自分の寝室へと向かう。
ルカを寝せつけて戻って来た頃には会場もすっかり出来上がっていた。あちらこちらでテーブルの上に突っ伏して寝ている。
侍女たちがその者たちを起こし用意した寝室へと案内する。
最後に残ったのはテールとナオミ、シジムの三人だった。
「酔いでもさますか」とテラスに出ると、夜風が肌を刺すように冷たい。
「村とは気候が逆なんだな」
「最初は太陽の位置にも驚いたわ」
「随分、苦労しただろう」
初めて聞く兄の労いの言葉。
胸が熱くなるのを隠すために、
「兄さんらしくもない」とナオミは笑う。
「見てのとおりよ。私はわりとうまくやっている。ヨウカさんもいるし」
「ヨウカ?」
「白蛇様よ。ずーと私の傍にいてくれているの。だから一人じゃないのよ。それに今は、御子様もおられるし、心配いらないわ」
ナオミは持ち前の明るさで陰湿なこの世界を切り抜いてきた。
「そうか」とテールは少し安心したように、そして思い出したかのように、
「あっ、紹介するのをわすれた」
シジムの方に向き直ると、
「彼、来月、ヤヨイお嬢様と結婚するんだ」
「ヤヨイお嬢様と!」
ナオミは驚いたようにシジムを見る。
その報告がてら、彼が長老代表としてやってきたらしい。
確かに立派な人だ。ナオミの婿候補にも最後まで残っていた人。
シジムは照れたように頭に手を回すと、
「あの時は」
「いいえ、こちらこそお騒がせいたしました」
「言い訳になるかも知れませんが、私は最初からヤヨイ様のことが好きだったのです。でも両親が」
ヤヨイは一人娘なので婿をとらなければならない立場だった。すると彼の方の部族長がいなくなる。結局、弟に部族長の座を譲り自分は婿に入ることになった。随分両親を説得するのに苦労したようだが。
「そうでしたか」
ナオミは暫し黙り込むと、
「話はお聞きになりましたか」と、いきなり本題を切り出した。
「はい。ヤヨイ様から直接聞きました」
「そう」
ナオミは納得したように頷くと、
「では、私からは何も言うことはありません。大事にしてやってください。将来、その御子様があの村を救ってくれるそうですから。とにかく、おめでとう御座います。ヤヨイ様にも何かお祝いの品を送らなければ」
青い髪、悪魔の申し子。でもエルシアは村の救世主だと言っていた。
「ナオミ、竜木の苗木を持ってきたんだ。御子様が大きくなったら食べられるようにと思って。後で池の畔にでも植えておいてくれ」
「ありがとう、お兄さん」
ナオミは嬉しそうに礼を言う。
その笑顔をみてテールは心配になり念を押す。
「お前に持ってきたんじゃないぞ」
「わかってます。ちゃんとルカにやります」
「御子様が一口で、後全部お前だなどということがないようにな。御子様は小さいんだから、レーゼ様とは違うんだぞ」
「そのぐらい、わかってますとも」と、ナオミは脹れる。
まったく全然昔と変わらずで、これでよく王妃面していられるものだ。
姿を見ないうちはさぞいびられてやせ細っているのではないかと心配し、見れば見たで、こんな調子で大丈夫なのかと心配する。俺は小心者だ。せめてこの妹の半分でも心臓に毛が生えていれば、人生は大いに変わっていたかもしれない。少なくとも妹に振り回されることはなかった。
「何か、言った?」
「いや、なんでもない。それよりもう遅いから、寝るか」
明日は村へ帰らなければならない。もっと話したいことは山ほどあるのだが。
村人たちが帰るとさっそくナオミは竜木を池の畔に植えた。
苗木は三本。枯れたときの用心にと余計に用意してくれたようだ。苗木とともに種籾や種芋も入っていた。どうやらヨウカから聞いたらしい、私が欲しがっていることを。
「ありがたいわ、これで畑ができるわ」
後はこの穀物だが、さぞ豊作だったのだろう、ナオミとルカの一年分の食糧にしては多すぎる。
御子が生まれた年は特に豊作だというが、あれは本当だったのね。
「どうしようかしら」
そんな折だった事件が起きたのは。
やっと這えるようになったルカが、ナオミの足元へ来て服を引っ張る。
「どうしたの」
ナオミが抱きかかえた時だ。一瞬、時間が止まる。
「ナオミ、子供たちを助けて下さい。あの子たちは悪気があったわけではありません。ただ腹が空いていただけなのです」
「えっ! エルシア様?」
「裏庭です。早くいってやってくれませんか」
ナオミはルカを抱えたまま走った。
裏庭では寒空の中、五人の子供たちが下僕たちに殴られていた。
「何しているの!」
下僕はナオミの存在に気づくと慌てて態度を改め、
「こいつら、食い物を盗もうとしたのです」
「それで、棒で」
見れば冬だというのにろくな服もきていない。これでは寒かろうと思いつつ、
「相手はまだ年端も行かない子供ではありませんか」
「今のうちにきちんとしつけておかないと、ろくな大人にはなりません」
そこへ一人の下女が飛び出して来た。
「お許しください、奥方様」
下女は地面の上に座ると深々と頭を下げ謝る。
「姉ちゃん」
男の子が呼ぶ。
「弟なの?」
「二度とこのようなことはしないように、よく言い聞かせますので」
「ここではなんですから中に入りましょう」
「奥方様」
「さあ、あなたも立って」
ナオミは下僕のひとりに、
「コック長に、何か暖かいものを作くるように言ってきてくれませんか」
奥方様と言う下僕の声を無視してナオミは子供たちに話しかける。
「そこでは寒いから中にお入りなさい」
だが子供たちは恐怖のせいか動こうともしない。
下女に対し、
「あなた、名前は?」
「リサと申します」
「ではリサ。この子たちを食堂に案内してやりなさい」
食堂にはすでに暖かいスープとパンが用意されていた。
「残り物ですが」
「充分だわ」
新たに作るより今すぐ食べさせてやりたかった。それには残り物を暖める方が早い。
「どうぞ召し上がりなさい」
子供たちは互いに顔を見合わせていたが、背に腹は替えられない。いつしか警戒心を解きガツガツと食べ始めた。
「あちぃー」
「うまい」
だが誰もパンに手を付けようとはしない。
「パンは嫌いなの?」
「家で弟たちが待っているから」
「持ち帰ってやろうと思って」
子供たちはリサの後を付けてこの館に潜り込んだようだ。リサを通して食べ物を分けてもらおうとしたのだが、小さな館とはいえ子供たちには広すぎた。いつしか迷子になり、いい匂いのする料理場へ忍び込んだようだ。
「別に盗むきはなかったんだ。少し分けてもらおうとして」
「腹が、減っていたんだ」
十歳前後なのだろう。可愛そうにとナオミは思った。
「パンは食べていきなさい。弟たちの分は別に用意してあげるから」
「ほっんと」
子供たちの目が輝く。
「ところで、ご両親は?」
「いないよ、そんなもの」
戦争孤児だった。あるいは、自分たちの故郷が焼き討ちに合い命からがら逃げてきた子供たちだった。
「学校は?」
「行ってないよ」
「じゃ、字は?」
「そんなの、読めるはずないだろう」
食べるのもやっとなのにそれ以外のことが出来るはずがない。
「そうなの」
ナオミは驚いてしまった。
村ではこんなことはなかった。
村では子供たちは大事に育てられた、将来の担い手として。十歳にもなれば読み書きそろばんは当然だった。十五歳になるまでには一通りの知識はおそわる。それ以後は勉強が好きか嫌いによるが。ナオミなどは勉強が嫌いなのでもっぱら肉体労働に精を出した。だがテールはナオミと違い、よくレーゼのもとに通い、いろいろなことを教わっていたようだ。
この星の将来を担う子供たちが字も読めないなんて、こんな粗末に子供たちを育てたら、この星の将来はどうなってしまうの。村の大人たちは、村の将来、村の将来と事あるごとに言っていた。今、この王都からみれば村のことしか考えないちっぽけな考えだと思う。しかし、これこそが社会の根幹なのではないかとナオミは思うようになってきていた。村はもっと小単位の部落というものに分かれる。部落の長は自分の部落にどのような者がいるかはだいたい把握している。部落の者はその部落が責任を持ってやしなう。よって村では教育を受けていない子供や餓死などということはあり得ない。もし餓死があるとすれば、それは村全体がそうなるときだ。天変地異、池の水が枯れるような。
ナオミは考え込んでしまった。これがエルシア様が作り上げたシステムなのかしら。
それに村で教わったことはここでも通用する。少なくとも書物を読むのには不自由はしない。自分で学ぶ気ならいくらでも学べるだけの基礎知識は与えられている。
このままではいけない、どうにかしなくては。
その時、思い出したのが村から届けられた穀物だった。
そうだ、あれを分けてやれば空腹だけはしのげる。しかし教育は?
そんなナオミをルカが彼女の腕の中からじっと見詰めていた。
「そうね、エルシア様。これが言いたかったのでしょ」
ナオミは心の中でエルシアに話しかける。
「はい、そうです。あの穀物を毎日少しずつ分けてあげればよいと思います、母上」
「ちょっと待って、母上だなんて」
ナオミは照れる。
「そう呼ぶと約束いたしましたから」
「そう呼ぶのはルカだけで充分よ。あなたにまでそう呼ばわれたら」
なんだかくすぐったい。
ナオミはリユックに、はち切れんばかりにパンを詰めてやると、子供たちめいめいに背をわせた。
「明日もこの時間にいらっしゃい。パンを用意しておいてあげるから。その代わり、これは皆に分けるのよ。独り占めしたらもうやらないからね、わかった」
子供たちはナオミの言葉に頷いて帰って行った。
「奥方様、ありがとう御座います」
リサは何度も頭を下げる。
「礼には及びませんよ。あの子たちはこの星の将来の担い手なのですから。今の者が将来を育てるのは当然。私たちも前の人たちに育ててもらったのですから」
でも、あれだけの食糧では焼け石に水だ。とナオミは思った。
「例え水滴でも、かけないよりはましでしょう。かけ続ければいつかは石も冷えます」
「気の遠くなる話ね」
「少しでも希望が見えてくれば自分たちでどうにかしていきます。それが人間です。あの子たちを信じましょう」
ルカが一歳の誕生日を迎えたある日、ひとりの女性がナオミ母子の前に現れた。年は三十前後、やはりキャリヤ派のようだ。名前をナンシー・ブラッド・アルムージ。傍系貴族どころではない。列記とした上流貴族の一員だ。
「ナンシーとお呼びください。陛下より、殿下の教育を担当するように言い付かって参りました」
一見、人当たりは優しそうなのだが、何処となく崇高な感じがして近寄りがたい。
髪が紅いせいかしら。彼女の髪もルカの髪のように紅かった。
「どうして貴方の様な方が」と、デラが驚く。
「陛下のご命令ですので」
ナオミはおずおずと頭を下げた。皇帝の名前を出されては逆らうわけにはいかない。
一歳で家庭教師がつくのは上に兄弟でもいれば別だが、大概どの館でも三歳ぐらいまでは母親や乳母が面倒をみている。
皇帝は侍従に言った。
「鉄は熱いうちに打てと言う。三つ子の魂、百までとも言うからな。今のうちにきちんと躾て置け、私は神の子だなどと言い出さぬように」
「畏まりました」
侍従は膨大な資料の中からナンシーを選び出した。
彼女なら間違いあるまい。陛下が望むような王子にあの赤子を育てるだろう。
それから数日後のことだった彼女が宮内部に呼ばれたのは。
ルカ王子の教育者になるようにと。しかし王子はまだ一歳。早いのでは?
そして彼女は、ふとある噂を思い出した。
神の手のついた女が奥に入った。しかも神の子を生んだという噂。
人の口に戸は立てられないとはまさにこのことだ。内密の話も、いつしか誰もが知るところになっていた。
「陛下におかれましては、あの噂をお気にかけられて」
「陛下にかぎってそのようなこと、あろうはずがない」
侍従は一息の元に否定した。
「王子も十四人ともなると」
ルカは十四番目の王子だった。
「内部の権力争いが激しくなる」
くだらぬ者がそれぞれに王子を担ぐようになるからだ。
「現に正室の第一王子と側室の第三王子など」
母親が先々代の血筋にあたるとなるとその権力は馬鹿にならない。
「何かにつけぶつかることが多くなっている。そこにまた王子誕生だ。血統のない母親の子などいくら王子であろうと、王位継承権は無いに等しい。そう思うように今のうちから躾ておいて欲しい。後々もめるのはご免だからな。しっかり血統と身分ということを叩き込んでおいてくれ」
これが本音だとばかりに侍従は言う。
ネルガルは血筋を重んじる。血筋の無い者は相手にされない。
「それに母親が田舎者では、貴族としての立ち振る舞いもままならんだろうから、そこらへも、他の星の者から見られてネルガルの王子として恥ずかしくないように」
いつかは捨石として他の星へ婿に行く身である。
「畏まりました」
侍従の言うことはあながち間違ってはいなかったと、ナンシーはこの館に来て思った。ここには身分というものがない。奥方も殿下も侍女も同列だ。それがナオミの方針だった。
最初の頃は侍女たちもナオミにはべっていたものの、いつの間にか友達のような関係になっていた。
デラが付いていながらこの様はとは。
ナンシーは歯がゆく思いながらも、まず、身分をはっきりさせなくては。
ナンシーは侍女たちが軽い口調で王子に話しかけるのをやめさせた。
ナオミは寂しい顔をした。
あの子には友達がいない。せめて侍女たちとでも遊べればと思っていたのだが。
ルカは身分をしっかりと叩き込まれた。
自分より身分の高い者には自分の方から挨拶をすること、道を譲ること、口答えをしないこと。
まだ二歳にもならないのに。自分に身分がないためにかわいそうにとナオミは思った。
三歳になる頃にはしっかりその躾は行き届いていた。館の中の秩序も改善されていた。
それと同時にピヤノやバイオリン。これらの師はナンシーが王宮から連れて来た。それと勉学。
だが笛だけはナオミは譲らなかった。笛はルカが生まれた時からおしゃぶり代わりに預けている。
他の楽器はいい。だがこの笛だけは吹けるようになってもらわなければ困る。
それも一曲、竜の子守唄。この曲だけでいい、他の曲は吹けなくとも。
村に天変地異が起きた時、唯一それを鎮めることができるのが神が奏でるこの笛とこの曲。村の言い伝え。
「奥方様」
「お願いです、この笛だけは。私が吹いても駄目なのです。この子でなければ」
ナンシーは大きな溜め息をついた。
「ただの笛でしょ。それがどうして」
笛の材質は既に鑑定済みだ。竜木という木の枝で作られている。昔はどこにでもあった木のようだが今では絶滅品種に数えられている木だ。
「お願いです。村の言い伝えなのですから。きちんとこの子に伝えないと私が村の人たちに怒られます」
ナオミのあまりの熱意にナンシーもこれだけは折れざるを得なかった。
ナオミは暇を見つけると自らの手で笛だけはルカに教えた。
ナンシーは思った。
根が素直な子だから躾やすい。教えることはスポンジが水を吸うがごとくに吸収していく。賢い子だ。
ルカが三歳になった頃、そろそろ武術の方もと思うのだが、教育者の方には心当たりのあるナンシーも、武術の方となるとこれといって知る人物がいなかった。
宮内部に相談に行くと、近いうちに適任者を向けさせようとのことだ。
だがあまり期待は出来ない。王位継承権のはっきりしている王子の侍従武官なら、名乗りを上げる者はあまたといるだろうが、将来、和平交渉の人質として他の星に送り込まれるような王子の侍従武官では、下手をすればその王子と一緒に命を落としかねない。
まあ、金と名声目当ての三流でも仕方ないか。
少なくとも、ナンシーが今までルカに付けた教育者は全て一流だった。ナンシー自身が、一流の者たちしか相手にしなかったから、自ずと知り合いは一流の者たちになってしまっていた。
残念ね、ナンシーは思う。この王子を二年間見てきて利発な子だと思った。捨石にするにはもったいないと。
もう少し母親が、せめて傍流でもいいから貴族であったら。
それでナオミに提案した。
今のうちに権威ある貴族の所に挨拶に行き、それなりの後ろ盾になってもらうようにと。そうすれば捨石にされる確率は減る。
ナオミは館の片隅に作った小さな農園で苗木に手を当てていた。ナンシーの忠告のうち、もう一つ譲れなかったのがこれだった。
畑仕事をしていると心が落ち着く。やはり私は田舎者、貴族にはなれない。
傍らでルカが手伝う。そのルカの声が、
「ナオミ」
はっとしてナオミは傍らに居る我が子を見る。
「エルシア様」
「魂が肉体に根付くと、こうして表に出る時間も少なくなります」
肉体の記憶に支配されるようになる。ちょうどナオミたちが前世の記憶を思い出せないように。
エルシアが表に出る時、ルカの人格は消える。エルシアは時々、こうやって表に出てくることがあった。ルカが大きくなるにつれその回数は減ってはきているが。
「後どのぐらい、こうして出られるだろうか」
それがあったから、ナオミはここでの生活がしのげた。
「ところでどうしたのですか、近頃、浮かない顔をしている。あなたに元気がないと私も寂しい」
ナオミはうつむき、ナンシーに言われたことを言う。
「その必要はありません」と、エルシアはきっぱり断った。
「あなたは私を生んでくれただけで充分です。これ以上、私のために穢れる必要はありません」
「えっ?」と、ナオミはエルシアの予想外の言葉に驚く。
なぜ、穢れるの?
エルシアはにっこりすると、
「私を生むためにあなたの体を穢してしまったことは申し訳ないと思っております、特にカムイさんには。でも魂まで穢すことはありません。くだらない事でくだらない者たちにへつらうことはありません。今までどおり、あなたはあなたらしく生きてくれれば私は嬉しいです」
「しかし」と、ナオミは考えた。
ルカには血統がなさすぎる。
「私は、私の技量でこれらのことを乗り越えていきます。それとも私には出来ないと、あなたはお考えですか」
「いっ、いいえ」そんな、滅相もない。
ナオミは慌てて首を横に振る。
「私を信じてください。あなたは私が母と呼ぶにふさわしい女性でいてくれればよいのです。誰にもへつらわず、凛とした態度でいてくれれば」
人が来る気配にエルシアは黙った。
「こちらでしたか」と、侍女。
「ナンシー様がお呼びです。今日は三時からお客様が」
「あら、いけない。すっかり忘れていたわ」
ナオミは手を洗うとルカの手を取って車に飛び乗る。
今では果樹園までの距離は自分で運転していた。わざわざ警護の者たちの手を煩わすのも気の毒だから。彼らには彼らの仕事がある。
ナンシーはイライラしながら待っていた。
今日のお客様は、ルカ王子の一生の片腕になるかもしれない方なのに。
第一印象が大事だというのに、知らないにも程がある。
その頃、控えの間では、
「すみません、もう暫くお待ちください」と、侍女。
「いえ、こちらが約束の時間より、少し早めに来てしまいましたもので」
これから自分の主になる人物が、どのような方なのか見るために。
「きっと、農園にいるのだと思います。お着替えになられたら直ぐにこちらに来られると思いますので」
故意に待たせているのではないことを解ってもらおうと、侍女は必死で弁解する。
「なにしろ、のんびりされたお方なので奥方様は」
「農園ですか」と、リンネル。
リンネル・カスパロフ・ラバ。彼は下流貴族のそのまた傍流の出だった。ここまでくれば平民と大差ない。貴族とは名ばかりでその日の暮らしにも事欠く有様だ。
私には武術しか取り柄がない。せめてこれだけは誰にも負けたくないと思う気持ちが功を奏したのか、クリンベルク大将の目に留まり、彼の元で武術の腕を磨くとともに指揮官としての講義を受けるまでになっていた。そして数年。艦隊を指揮して出陣すれば、必ず勝利を収め、今では大佐と呼ばれるまでになっている。
だがこれまでだろう。自分のような身分ではこれが限界だ。この上は本物の貴族でなければ望めない。将軍の自宅の出入りも許され、ご子息とも親しくつき合わせていただき、リンネルはこれ以上申し分ないと思っていた。そんな折だった、この話が舞い込んで来たのは。
事の発端は将軍が侍従長から相談を受けたことに始まる。
「身分は低くても良い。否、低い方がよい」
下手に高いものなど宛がって後々の揉め事の種を作る必要はない。
「腕が立ち、頭の切れる者だ。見張りも兼ねてもらうからな。時々報告してもらいたい」
「見張りですか」
「そうだ」
「陛下におかれましては、まだあの母子を」
ヤンス少尉からはこれと言って特別変わった報告は入ってこない。やはりあの噂は眉唾物か。ナオミ妃は田舎娘らしく、館の片隅に農園を作りそこで殿下と一日過ごすことが多いということだ。強いて言えば年に二回、春と秋に故郷の村から農産物が届くということぐらいだ。だがこれは既に宮内部の許可を取っている。
「陛下は関係ない。これは私の一存だ。これ以上の権力争いを避けるためだ。王子が十四人ともなると頭が痛い。否、また生まれるそうだ」
侍従長は頭を抱え込む。
クリンベルクは暫し腕を組み考えていたが、
「一人、心当たりが」
「心当たりが」と、侍従長は嬉しそうな顔をする。
「それは、誰かね」
「先日、武道大会で陛下の前で優勝したものです」
確かに腕は立つ。最悪の場合、その者に王子の処分を依頼することになるかもしれない。
「して、身分は」
「門名をカスパロフ、家名をラバと申します」
「あまり聞いたことがないな」
「その程度の身分です」
「して、頭の方は」
「艦隊を指揮させれば、今のところ十本の指には入ります」
侍従長は腕を組み、ううーん、と頷く。
「その者にしてみるか」
クリンベルク将軍の推薦なら間違いなかろう。
「しかし彼が受けるかどうか」
将来のことを思えば彼の実力ならよくよくは連合艦隊の幕僚ぐらいにはなれる。
「君の命令で必ず受けさせてくれ」
そう言うと、侍従長は去った。
クリンベルクは腕を組んだまま暫し考え込んでいた。
後々は三男の幕僚にでもなってもらおうと思っていた人物だ。
海のものとも山のものともつかない王子の下で働かせるには、欲しい男だ。と言って、他に適任者はいない。
やはりあの男に頼むしかないか。
そして数日後、リンネルはクリンベルク将軍の前に呼ばれた。
「ルカ王子の侍従武官になってくれないか」と。
「王子の侍従武官ですか」
武官の職としては最高位だ。本来なら門閥貴族しかなれない職だ。こんな私が。だがそれは王子の母方の血筋によった。
「おそらく捨石だろう。その時は別の者をあてがえ、君は呼び戻そう」
将軍としては後々有望な人物をそのようなことで失いたくはなかった。
リンネルは将軍に借りがあった。今、我が家族が人並みに生活できるのは全て将軍のお陰だ。
リンネルは深々と頭を下げそれを受けた。
部屋を退出すると心配そうにこちらを見ている子供がいる。
「リンネル、どこかへ行ってしまうのか」
声を掛けてきたのは将軍のご子息、十歳になられるカロル様だった。
「これは坊ちゃま。王子様に使えることになりました」
「王子様に! それは凄いことではないか」
カロルはリンネルの出世を自分のことのように喜ぶ。
リンネルは苦笑しながらも、「はい」と答える。
「ところで、捨石とはなんだ」
リンネルは一瞬、びくっとしたが、悪いことをした子を叱るように、
「坊ちゃま、立ち聞きなされていたのですか」
カロルはばつ悪そうに俯くと、
「だって、リンネルの姿が見えたから」
リンネルの背後で咳払いがした。将軍がやれやれという顔をして立っている。
戦場では泣く子も黙るというほど敵から恐れられている将軍も、何故か末息子のカロルには甘かった。
「あれほど注意しているのに、まだ立ち聞きする癖はなおらないのか」
カロルは父親の小言など何処吹く風で、
「捨石って、何、お父さん」
将軍はますます困ったという顔をして、諭すように話し始めた。
「人にはそれぞれ使命というものがある。お前は立派になって私の後を継ぐ事。これが使命だ。王子には王子としての使命がある。星と星が平和になるように和平が結ばれると相手の星へ行くことだ」
あえて人質という言葉は避けた。
「もし、和平が壊れたら」
現に和平条約を結びながらそれを破棄する星もある。実際は破棄させるようにネルガルが仕向けるのだが、幼いカロルにはまだそこまでの経緯はわからない。
「その時は殺されることもある。ネルガル星のため自分の命を使うことが、王子の使命だ。だから彼らが、今贅沢な暮らしをしていることを誰も咎めたりしない」
「そっ、そうなんだ」
カロルは初めて知った。王子たちがわがままで贅沢な暮らしが出来る訳を。
「そうなのですよ、坊ちゃま。王子様たちの暮らしは、坊ちゃまの想像を遥かに超えています。この世にあるものでしたら欲しがれば何でも手に入るのですから」
そう言って、リンネルはその場を辞した。そう思うことで彼らの贅沢な暮らしを認めるしかない。かたや食うか食わずに死んでいく者がいる中で。戦争はいろいろなところで貧困を作っていく。リンネルの家族も祖父の代はある町にそれなりの財を持っていたが戦争が全てを奪った。
ナンシーはリンネルの略歴を見て溜め息をついた。
「どうした、不服か」と、侍従。
「もう少し身分のある方を、付けてはいただけませんでしょうか」
「身分とな」
「はい。あの子は利発です。捨石にするには欲しいような気がいたします。かと言って、いつまでも王子の身分にして置くわけにもまいりませんので、それなりの貴族に降下させてはと、後々陛下のお役に立てるのではないか存じます」
「ほー」と、侍従は感心したようにナンシーを見ると、
「お前の目をもってそう言わせるか。一つで神童、十五で才子、二十を過ぎれば只の人。と言う事もあるぞ」
「それはそうかも知れませんが」
だがナンシーにはそうは思えなかった。
リンネルはやっと謁見の間に通された。
控え室もそうだが、謁見の間も他の貴族に比べれば遥かに質素だ。
これでは将軍の館の方が遥かに豪勢だ。
リンネルは王子の前に立った。
段の椅子の上、小さな男の子がいる。
坊ちゃんより三歳年下か。線の細い綺麗な子だと思った。
リンネルはゆっくりと跪く。
将軍は呼び戻してくれると言っていたがリンネルには戻る気はなかった。家督は弟に継がせる。これからはこの方が私の主だ。後はこの方が仕えるに相応しい方であることを願うばかりだ。
「リンネル・カスパロフ・ラバと申します」
リンネルは誓約を述べた。
三歳の王子にはまだ理解できないようだ。
ナンシーがわかりやすく砕いて言う。
「この方があなたに、これから軍人としての心得を教えてくださる方です。それとあなたの身辺の護衛にもあたります」
「そうですか、それではこれからよろしくお願いいたします」と、王子は壇上から降りて頭を下げた。
これにはリンネルは驚く。
ナンシーが慌てたように、
「そういうことはなさらなくとも」と、王子を壇上に戻すと、
「この場で、よろしくとだけ仰せになればよろしいのです」
「でも」とたじろぐ王子に、侍女たちのくすくすと笑う声。
謁見はそれで終わった。
まったく田舎者なのだからと言うナンシーの声が聞こえたような。
リンネルとその配下の者は館の一角に部屋を与えられた。
「どういうお方でした」
「まだ三歳だからな、お小さいとしか言いようがない。それよりヤンス少尉のところへ交替の挨拶に行かなければな」
「ヤンス少尉でしたら、まだしばらくこの館に居るそうですよ」
部下のその言葉にリンネルが不思議そうな顔をする。リンネルが王子の侍従武官として入った以上、ヤンス少尉の任務は完了するはずなのだが。
「なにしろ彼女の部下が部下ですから、会えばお解かりになると思いますが、我々とうまく馴染むかどうか」
リンネルはクリンベルク将軍から、ヤンス少尉の部下をそのまま引き継ぐように指示されていた。
「まあとにかくヤンス少尉に会おう。この館のことも詳しく知りたいからな」
この館に関するデーターはある程度彼女からの報告書で確認はしてある。だがやはり本人に直接聞いた方が正確だ。
リンネルは自らヤンスの部下がいるところへと出向いて行った。本来リンネルの方が階級が上なのだから呼びつければよいものを、リンネルもマメな男だった。
「ヤンス少尉はおられるかな」
その言葉に振り向いたのはハルガンだった。
ハルガン・キングス・グラント。ここの所鳴りを潜めているからどこに左遷されたかと思っていたら、こんな所にいたのか。ハルガンは血筋から言えばリンネルより遥かに上、作戦を立てさせてもなかなのものがある。本来なら血筋からも実力からもそれ相応の官職に付けるものを。
「彼はどうも男性の下で働くのは苦手なようだ」とは将軍の言葉だった。
上官の女や妻を寝取るとして有名だ。彼にはその気はないのだろうが、上官のサロンに招かれついつい声をかけるとそういう結果になってしまうらしい。
「それで女性の下で働いてもらうことにした。そもそも彼は人の下で働くタイプではないからな、上官が女性なら少しは手加減してくれるかと思って」
それがヤンス少尉だったのか。果たして私に彼が使いこなせるだろうか。だが顔ぶれはハルガンだけではなかった。ケリン・ゲリジオ、元情報部の一員だ。彼に盗み出せない情報はないとまで言われた男だが、彼の悪癖は、敵の情報システムだけではなく味方の情報システムにまで潜り込み情報を吸い上げるということだ。しかもゲーム感覚で。そしてレスター・ビゴット・リメル。一見、無口でおとなしい男なのだがキレやすい。狙った獲物は必ず仕留める、スナイパーとして仲間からは恐れられている。
リンネルは頭を抱えたくなった。彼らを使いこなせればこれほど心強い味方はいない。だが大概は彼らによって軍の規律は乱されその軍は崩壊してしまうことになる。組織の癌とも言われている者たちだ、それが三人も。結局のところ彼らはクリンベルク将軍のところに呼び戻され、ここのところ冷や飯ぐらいという状態になっていた。
「やっ、これはリンネル大佐、久しぶりだな」
声を掛けてきたのはハルガンの方からだった。
「武術大会では優勝したらしいな、おめでとう」
心にもない世辞を言う。
「運がよかっただけです」
現に間一髪という場面は幾度もあった。
「そう謙遜するな、お前の悪い癖だぞ。もっと優勝したことを自慢しろ」
リンネルは苦笑する。私にはハルガンのような生き方はできない。
「今度はルカ殿下の侍従武官だって、偉い出世だな」
「お蔭様で」と、リンネルはハルガンに礼を言う。後はあなた方が私の下で真面目に働いてくれることを祈るだけです。とは言わなかった。
「まあ、そこに立っているのもなんだから、こっちへ来て一緒に茶でも飲まないか」
休憩中なのだろう、休憩といっても仕事中なのでさすがにアルコールは入っていないようだ。
リンネルはハルガンに誘われるままテーブルに着いた。
ハルガンはリンネルに自ら茶を入れながら、
「ここはいい所だぜ。身分というものが無いからな。唯一、それを強調しているのがナンシー嬢だが、奥方は一向に気にしていないようだ」
「彼女はまだ独り者だからな、彼氏でもできればもう少し性格が丸くなるだろうよ」
「性格が丸くないから彼氏ができないのではないか」
「どうだいハルガン、その神の指とかで、彼女を」とケリンが言いかけた時、リンネルは咳払いをした。これ以上、話が進展するのを避けるため。
同じく神の指の持ち主と言われているケリンの指は、キーボードの上のことだ。
「おいおい、よしてくれよケリン。俺にだって選ぶ権利があるさ」
「あれお前、女なら誰でもよかったのではないのか」
「俺にだって、好きなタイプというものがあるぜ。あんな痩せギスより、丸ぽちゃの方がいいな」
「例えば?」
「そうだなー」と、ハルガンは顎に手をあて天井を見詰めながら考え込むと、
「奥方とか」と、いきなり言い出した。
それを聞いて、茶を口に含んでいた者が噴出す。
「まじかよ」
「おい、冗談にもそんなこと言ってみろ、やばいんじゃないか」
そこへ透き通るような子供の声。
「ハルガンさんは、ヤンス少尉が好きなのかと思っていましたが」
護衛兵たちは一斉に声のする方を見た。
今度はハルガンが口に含んでいた茶を噴く番だった。
「バカなことを言うな、誰があんなおとこ女」
ハルガンはえらい剣幕で否定した。
「違うのですか」
ルカは楽しそうに聞き返す。
「当然だろう。殿下、冗談にも程というものがあるのですよ」
ハルガンは恋の意味などわかっていないであろう子供を諭すように言う。
ルカはハルガンの前へ来てテーブルに着くと、
「本当に、違うのですか」
「くどい」と、ハルガンは怒ったような素振りを作り顔を横にそむける。
「僕の勘違いでしたか、でも、母上は無理ですよ。母上には好きな人がおりますから」
「立ち聞きしていたのか」
「大きな声でしたから、自然に聞こえてきました」
むっとハルガンは口を結ぶと、
「まあいい。確か、カムイとか言っていたな」
「ご存知だったのですか」
「あの方は隠し事をしない方だからな。殿下は俺に彼女が落とせないとでも」
幼児相手にする会話ではない。だがこの幼児も話にはついてきた。
「はい、絶対に落とせません。賭けてもいいですよ」
「たいした自信だな」と言いつつ、ハルガンはにやりとする。
ハルガンのこの笑いは曲者だ。
「おもしろい、その賭け、乗ろう。ところで何を賭けるんだ」
「母上です」
「それは、ちとおかしかろう。賭けとは自分のものを賭けるのであって、人のものは賭けられない」
ルカが怪訝な顔をする。
「奥方は奥方であってお前のものではないだろう。自分のものを賭けるというのは、例えば俺なら」と、ハルガンは下顎を片手でさすりながら暫し考え込むと、
「落とせなかったら、その日から俺はお前の奴隷になってやろう、何なりと命令すればいい。そのかわり落とせたら」
これからがルカの方の条件だ。ハルガンはまた顎に手をやり少し考える素振りをみせてから、不意に手を広げると、
「俺は、両利きなんだ、知っていたか」
「両利き?」
「つまりだな」
ハルガンは立ちだすとルカの背後にまわり、そっとルカの腰に手をまわした。
ルカは慌てて椅子から飛びのく。
ハルガンはニタリと笑うと、
「落とせたら、お前も俺に付き合うんだ。その透けるような白い肌には前から興味があってな」
ルカは唖然とした。自分がからかうつもりで話かけたのに、逆にからかわれている。
「どうした、返事は」
ルカは暫し黙り込んでいたが、
「僕の負けです」と、あっさり負けを認めた。
「以後、あなたと口を利く時は心して掛かります」
それだけ言うと、護衛たちの待機部屋からさっさと出て行った。
ハルガンは笑う。
「面白いじゃないかあのガキ。おとなしい顔して、この俺様に挑戦状を叩き付けて行きやがった」
「ハルガン、相手は子供だぜ」
「ませた、早熟のな」
「やっぱり、大人だけの世界で育っているからでしょうか」と、一人の護衛が心配そうに言う。
「しかし、面白いガキだ」
ハルガンは下顎を片手で撫でながらニタつく。
「プライドが高いくせに負けをあっさり認める奴は食わせ者だ。敗因をよく分析するからな。同じ手は二度と使えない。坊ちゃんのように負けを人の性にする奴の方が扱いやすい」
ハルガンが参謀までのし上がったのもここら辺が味噌のようだ。
ハルガンには例え勝てても安心できない。二度は勝たせてもらえないからな。
これはハルガンと模擬戦をした将校たちの感想。
上手くいけばまた使いたがるのが人の常。
そこへナオミがヤンスと一緒にやって来た。護衛兵の待機部屋に立ち寄るつもりはなかったのだが、待機部屋の方から来るルカにすれ違い、様子がかおしいのでやって来た。
「何か、あの子が失礼なことでも」
「いや、別に」と、ハルガン。
「声をかけたのに、黙って通り過ぎたもので」
「いえ、別に何もありませんよ」
「それならよいのですが」とナオミは心配そうに言う。
「それより、奥方様こそ何か御用ですか」
「いえ、別に。ただ気になったもので」
近頃ルカは自分の考えを主張するようになってきた。幼児期の反抗期の始まりなのだろうか。時折それが相手を挑発するようなこともある。
「レーゼ様は、それはたいへん穏やかな方でいらしたのに、やはり私とあの皇帝の血では、そういう訳にはいかないのでしょうか」
皇帝の激しさは誰もが知るところだ。逆らえばただでは済まない。
現世の言動は現世の肉体に左右される。とエルシアは言っていた。
「ご存知ですか、私は村ではおとこ女と言われていたのです」
皆が一斉にハルガンを見た。
ハルガンは納得したように頷く。どうりでヤンスと奥方は気が合うはずだ。
「お淑やかにみえますが」と、ハルガンはいけしゃあしゃあと答える。
トラクターを乗り回す時点で淑やかなはずはないのだが、この場はこう言うしかない。
「兄にはよく言われたのです。産道が狭かったため、肝心なものを落として来たのではないかと」
「肝心なもの?」とヤンスが聞く。
「玉です」
「玉?」とヤンスが聞き返すと、ハルガンは、
そこまで聞くかアホ。少しは察しろと言いたげな顔をしてヤンスを睨んだ。
「金色の」とナオミが何の恥じらいもなく答えたので、皆は笑い出す。
ヤンスは顔を赤くして俯いた。
「私に似ても陛下に似ても、おとなしいはずがないのですよね、困りました。おそらくあの子は王宮に上がっても友達ができるということはないでしょう。せめてあなた方だけでも、あの子の味方になっていただければと思っていましたが」
無理かと溜め息を付いた時。
「俺、ああいうガキ、嫌いじゃありませんよ」とハルガン。
その言葉使いにヤンスが怒鳴る。だがナオミはそれを制して嬉しそうな顔をした。
「いくらでも力になりますよ、私に出来ることでしたら。ただし、彼が土下座して頼めばの話ですが」
「ハルガン!」
いよいよ我慢ならずにヤンスが怒鳴った。
ナオミはヤンスを片手で制すると、
「いいのですよ、ミルキー。ハルガンさんの言うことは間違っていません」
「しかしですよ、奥方様」
ヤンスが言いかけたのを又もやナオミは制すると、
「人にものを頼むのに身分の上下はありません。頭を下げるのが当然です。あの子にもよく言っておきましょう。もしそのような時には力になってやって下さい」
ナオミは丁寧に頭を下げた。子供を思う母心ゆえ。
そう言われてはさすがのハルガンも返す言葉がない。ただ素直に返礼した。
「これで少しは安心しました、ここでの味方ができて。でもあの子の居場所はここではありません、村なのです。長老を始め皆があの子の帰りを待っています。王子は何人もいます。でも村には、あの子しかいないのです」
ナオミは困ったように溜め息を付くと、その場を去った。
ヤンスは残り、いまいましげにハルガンを睨んだ。
「そう、怖い顔するなよ。お前より奥方の方がよっぽど話がわかる」
「どうせ私は」
「そう脹れるな。あの奥方にしてあの子ありと言うところかな。なかなか面白いぜあの親子」
「実は、俺も興味があるんだ」とケリン。
「へぇ、お前、アンドロイドにしか興味がねぇーのかと思っていたが」
ケリンはハルガンの言葉など聞こえなかったのかまるで無視して話を続ける。
「実は先日」
近頃ルカとケリンはよくルカの部屋にこもっては二人で何やらやっている。ルカの部屋にあるコンピューターのバージョンアップだとは言っていたが、どうやらそれだけではないようだ。なぜならそんなことなら、ケリンの手に掛かれば数分で出来ることなのだから。なのに、
「軍事機密をハッキングしたんだ」
えっ!
「ここだけの話だけどよ、やったのは俺じゃない。俺はちょっとやり方を教えただけなんだが、見事なものだったよ。奥方の兄貴がコンピューター技師だというのは、まんざら嘘でもなさそうだ」
現にナオミもコンピューターを使いこなす。おそらくその脇で、ルカも自然に使い方を覚えていったのだろう。
「よく、銀のスプーンをくわえて生まれてくると言うが、あいつはキーボードを抱えて生まれて来たようだ。このままいけば俺より優れたハッカーになれる」
ケリンは太鼓判を押した。
「おいおい四歳にもならないうちからスパイ活動かよ」
「じゃいっその事俺も、射撃でも教えてやるかな」
「射撃より、ギャンブルだろう」と、ケリンがちゃちゃを入れる。
ヤンスが怒鳴った。
「もう休憩は終わりだ。さっさと持ち場に着け」
「おお、怖わ」と護衛たちは亀のように首を引っ込めて待機部屋を出て行った。
「まったく人が黙って聞いていれば、何を言い出すかわかったものではない」
ヤンスは大きな溜め息をついてから、テーブルの端の方にいるリンネルに視線を移し挨拶をした。
リンネルも軽く会釈をする。
「まったくとんだ所をお見せいたしました」
「いや、この屋敷の雰囲気がよくわかりました。しかしハルガンたちがここに居たとは思いもよりませんでした」
「閣下からは何も」
「ただヤンス少尉の部下をそのまま引き継ぐようにとしか」
「閣下にうまくやられましたね。私も、ハルガンとは何度か組んだことがあるのですが、ケリンやレスターまで居るとは思いもよりませんでした」
「しかし、うまくやっているようではないか」
「いえ、私というよりも奥方様が」
何故か彼らはナオミの言うことならよく聞く。
ケリンは茶を入れなおすとリンネルに差し出し、リンネルとテーブルを挟み向かい合わせに座った。
今後の打ち合わせをするために。
しかし文の方はさすがにナンシーが付いているだけのことはある、一流ぞろいだ。だが武の方もある意味において一流がそろっていた。
侍従武官とはいえ相手は三歳になったばかりの幼児。木刀を持たせたところで振り回すのが関の山。結局最後はリンネルの部下たちと鬼ごっこをして終わるありさまだ。
「これでは稽古どころではないな、やれやれ」とリンネルは溜め息をつく。
しかしこの館の奥方と王子の気安さ。他の館に仕えたことのないリンネルには、他の館がどういうものか知るすべはないが、クリンベルク将軍の館ですら家族と従者の間にはそれなりの壁がある。最も約一名その壁のはずれている者がいるが。しかしここはその壁がなさすぎる。このままで良いものなのだろうかとは心に思う。最初に会った時ハルガンが、ここには身分というものがない。と言っていたがまさにその通り。奥方から下女、護衛兵まで巻き込んで皆で畑仕事をしている。しかしハルガンたちにはよほど居心地がよいとみえる。彼らが率先して人のために働くことはないのに、ここでは違っていた。まるで人が変わったように畑仕事を手伝っている。
リンネルは月に一回、クリンベルク将軍の所に報告に行くことになっていた。
「どうだね、ルカ王子のご様子は」
クリンベルクは居間のソファにゆったりと腰掛けて聞いてきた。
「元気なお子様です。剣術どころではありません」と、リンネルが困った感じに答えると、「まあ、最初は好かれるところから始めることだ。相手はまだ幼いのだから」
難しいことを言ってもわかるまい。
「そのように致します」
歩き方から敬礼の仕方、剣の持ち方からと、リンネルは細々と丁寧に教えた。素直な子だと思う。覚えが早い。
だが夕方になると必ず笛の練習を始めた。
「村人はだれでもこの笛が吹けるのです」
「しかし殿下は村人ではありません」とナンシー。
列記としたギルバ帝国の皇帝の御子なのです。
「でも村の血を引いております。笛が吹けなければ村人たちに笑われます」
ナオミの指導の甲斐あってか三歳も過ぎたころには、いくらかづつまともな音がでるようになってきていた。
ルカが五歳にもなると、リンネルの努力も実り始め軍人としての立ち振る舞いが板に付いてきた。後は文の方は帝王学、武の方は用兵学を学べばよいのだが、まずはチェスや碁から入るか。難しいことを言うよりゲーム感覚で学んだ方がよかろう、ケリンやハルガンも居ることだし。
そしてその暮れ、王宮よりルカの館に新年の挨拶に出席するようにとの使者が来た。その折、陛下よりルカ王子に馬印が渡されると。
「軍旗が」とリンネル。
「早すぎませんか、殿下はまだ五歳です」とナンシー。
慣例なら十歳がその年齢だ。これがあれば軍が動かせる。陸軍にしろ艦隊にしろ、一人前の司令官なのだ。最も自分の軍隊と完全な指揮権が与えられるのは十五歳、それまでは軍は皇帝陛下の借り物、指揮は王子付きの侍従武官が王子に代わって取ることになる。
「陛下は何をお考えなのでしょう」
そうナンシーに聞かれてもリンネルは答えようが無い。
二人の心配をよそに、リンネルの部下たちは喜んだ。これで胸に所属の軍旗が入る。軍機がないのは傭兵のようで恰好が付かない。人前で威張ったところで、どの軍に所属しているのだと言われれば答えようが無い。
部下たちはどんなマークがよいか相談し始めた。だが相談したところでそのマークになる訳でもないのに。馬印は皇帝が決めて下の者に下すものだ。
それでも部下たちは、
「鷲は駄目だな、陛下の馬印だから」
ギルバ帝国の印でもある。
「鷹も、陛下のご兄弟が使われている」
「では、次に強そうなのは?」
などと皆は考え込みルカに振った。
「殿下は、どんな鳥がいいと思います?」
ネルガルの軍旗は鳥と決まっていた。皇帝の大鷲を筆頭にそれに匹敵するような猛禽類を象徴化したもの。
「僕は、雀がよいかと思います」
「雀!」
皆が一斉に声を張り上げた。
「殿下、ちょっと待って下さいよ」
「隼とは言わない、せめてトンビでも、雀よりましだろう」
池の周りで大騒ぎをしている部下たちのところにリンネルが現れた。
「何を騒いでいるのだ」
「大佐、聞いて下さいよ、これが騒がない訳にはいかないでしょう」
「馬印ですけど、殿下は雀がよいと」
そう言った当の王子は庭先を眺めていた。その視線の先には雀が数羽、しきりと地面を突いている。ルカには不思議と小動物が懐く、これといって餌付けをしているわけでもないのに。
リンネルの視線に気づいたのか、ルカは視線をリンネルの方に移すと、
「雀ではおかしいですか」
リンネルには答えようが無いから、その動機を尋ねてみた。
「どうして雀がよいのですか」と。
「だって雀は、いつも皆の近くに居ます。誰も雀を怖がったり嫌がったりしません。王とはそうあるべきだと僕は思うのです。皆の傍に居て皆が頑張っているのをじっと見て応援してやるのです」
「殿下は、そうお考えなのですか」
「いけませんか」
リンネルはその考えも一つだと思った。だがその考えではこのネルガルでは生きていけない。まず王位継承権を得るために水面下でどれだけの血生臭い争いがあることか。それはその子が生まれる前から始まっている。特に系統のよい妃の赤子は男子の場合、毒を盛られる確立が高い。幸いルカ王子は母親が平民だったため、今まで誰にも注目されなかっただけだ。ただ一人を除いては。だだその方だけが、何故かこの方を危険視している。
リンネルはルカに祝賀の挨拶の仕方を教えた。それと軍旗の授与の仕方。その後の陛下を交え兄弟姉妹との会食の仕方はナンシーにまかせた。
部下たちを陛下に見立てて何度も練習した後に、
「おわかりになりましたか」
五歳の子には難しいのではないかと思いつつ、
「軍旗は重たいので私が受け取ります。殿下は剣のみお受け取り下さい。ただし、お礼の言葉はしっかりと仰って下さい」
そして、新春。
「母上は、一緒ではないのですか」
本来、十歳未満の王子や王女には母親が同席できた。しかしルカの母親にはその資格がない。王宮には貴族以外の者は入れない。代わりに侍従武官のリンネルが付き合う。リンネルですらやっと入れる身分だ。
「その代わり、これを」と、ナオミは笛を差し出す。
「これを母と思って」
ルカの手にしっかりと握らせた。
「心配いりません。きちんとやってきます」
ルカは腰のベルトに笛を挟むと踵を返した。
リンネルがその後に従う。
ルカがこの館を出るのはこれが初めてだ。そして父や兄弟に会うのも。父の姿はスクリーンでは幾度か見ている。ルカが生まれてから父か通って来たのは一度だけ、それもルカを確認するためだった。愛らしいという感情からではない。
父とはどのような方なのだろう、そして兄弟は。自分と同じぐらいの子供に会うのも初めてだ。心が弾んだ。だがまず、王宮の広さと豪華さにルカは驚いた。行けども行けども肝心な部屋にはたどりつかない。最初はきょろきょろしながら目に飛び込む珍しいものをリンネルに尋ねていたが、次第に口数が少なくなっていった。
「疲れましたか」と、リンネルは隣で無口になって歩いているルカに声をかけた。
「いいえ」と、やせ我慢。
「もう少しですよ」
その間、誰ともすれ違わない。リンネルがいなければ道を間違ったのでは、否、廊下を間違ったのではないかと不安にすらなる。
「あちらです」とリンネルが指し示した方の扉の前には、護衛が数名立っていた。
ルカが扉に近づくと、扉が自然に開き室内にルカの名前が流された。だがそこに母親の家門名はなかった。名は二つ、いくら王族の家門名であるギルバが付いても、これでは平民のようだ。
扉が開いたのに気づき、中の数名の者がこちらに振り向く。
「さあ、どうぞ」とリンネル。
今まで自分の前を歩くような感じだったリンネルが、この扉を境に後ろに従うようになる。
リンネルはルカを空いているテーブルの所へ連れて行くと、そこに座らせた。
すかさず飲み物が運ばれて来る。
リンネルはそこからルカの分と自分の分を取ると、ルカの隣にかがみ込み、
「よろしいですか」と、控え室に居る者たちの名前を教え始めた。
ルカは既に自室のコンピューターで今回の祝賀に出席する兄弟姉妹、それにおもな貴族の名前と顔を照合してはいたが、やはり映像と実物は微妙に違う。
「名前がおわかりにならない場合は、まず挨拶をしてからお尋ねになればよろしいと存じます。まだ殿下はお小さいし、初めてですので」
「ありがとう、いろいろ気を使ってくれて」
「いいえ、本番はこれからです」
それからリンネルは中央のテーブルにいる人々に視線を向けた。あのグループが兄弟の中でも格別な存在。王位継承権はあの中で決められる。彼らに好かれるか嫌われるかでこの王宮での居心地が決まる。
そのグループが片隅にいるルカに気づき近づいて来た。
ルカは椅子から立つ。リンネルも立ち上がった。
こちらから挨拶をしなければならない、しかし声は先方から掛けられた。
「確か、ルカとか言ったかな」
「はい、はじめまして、ネルロスお兄様、ピクロスお兄様」
ルカはリンネルに教わった通りに胸に片手をあて会釈をした。
「お前に、兄呼ばわりされたくないな」
「ピクロス、そんなこと言うな」と、ネルロスは弟を注意してからルカに対し、
「すまないな、弟は口がわるくて」と謝罪したものの、その目には軽蔑の光が漂っている。
既に王位争奪戦は始まっているのだ。関係ないものはでしゃばるなという感じの。
「へぇー、この子が神の子かい」と別の王子が声をかけた。
ルカはきょとんとした。ルカには身に覚えがない。
「普通の子と、何ら変わらないような気がしますけど」と今度は王女。
「何か、かわったことが出来るのか、やってみろよ」
「あの、何のお話でしょう」
ルカは困ったように尋ねた。
ルカを取り囲んだ王子たちは笑う。
「何だお前、何も知らないのか。母親から何も聞いていないのか」
「そう言えば、お前の母親は?」
周囲を見回してもそれらしき人物はいない。
「十歳未満なら、母親も一緒に来られるのよ」と一人の王女が親切に言う。
「いやだ、それは相手が貴族でしたらの話ですわ。この子のお母様は平民ですもの。いくら母親でもここには平民は入れなくてよ。現にこの子、母親の家門名が無いではありませんか」
「そう言われれば、そうですね」
ルカの母親が平民であることは誰もが知っていた。そして王宮に入ってきた噂も。
ルカは不安そうにリンネルの方を振り向いた。
しかしリンネルの方も、今王子たちが言っていることに心当たりはない。だがよくよく思い出すと、五年ほど前に神の子を宿した女が奥に入ったという噂を聞いたことがある。奥の暇な貴夫人たちの戯言だと思っていたが、まさかこの子が。
クリンベルク将軍からは何も言われていなかった。ただ月に一度の報告とは言われていたので、王子の健やかな成長だけを報告していた。
「わたしも、その様なことは存じません」
ここははっきり否定しておくべきだろう。
「お前の母親に聞いてみるといい。お前は人の子ではないそうだ」
「あら、神はお父様のことではありませんか」
ネルガルで神と言えば皇帝陛下のことだ。
「ではお前は何の子だ」
「蛇か魔物か」
彼らはルカをからかって笑う。
リンネルはそれを見かねて、
「お言葉を返すようですが」と、毅然とした態度で打って出た。
「ルカ様は列記とした皇帝陛下の御子であらせられます。お疑いでしたら宮内部へ行かれまして」
「遺伝子鑑定のデーターを見て来いってか」
「失礼いたしました」と、リンネルは頭をさげる。
「そんなもの、どうにでもできる」
彼らは笑いながら去って行った。
この一部始終を遠くから見ていた二人連れがいる。
「どう思うクロード」
「どう思うと言われましても、まだお声も掛けておりませんから」
「それもそうだな、声を掛けてみるかな」
「もう、そのお時間は御座いません」
祝賀会が始まる時間だ。
ルカは黙ってリンネルを見上げていた。
「殿下」
リンネルはルカの傍らにしゃがみ込み、
「今のことは気にせず、まずは祝賀の儀をきちんと行いませんと、奥方様が笑われることになります」
「母上が」
「そうです」とリンネルは頷く。
リンネルはルカの後ろで控えているしかない。口上は全てルカ独りで言う。
「お教えしたとおりにしっかりと。先程のことはこれらが終わった後に奥方様にお聞きいたしましょう」
わかったというようにルカは頷く。
祝賀会が執り行われる広間の扉が開かれた。
ルカは中に一歩はいるや、歩みを止めてしまった。
これは!
金色に輝く大広間。天井からは炭素の塊で飾られたシャンデリアが数限りなくぶら下がり、銀河の全ての星々を集めたような輝きを放っている。
ルカの館は、数ある館の中でも一番質素だ。調度品を買い足していけばあの館でもかなり豪華になるのだが、ナオミはそれをしようとはしなかった。全て最初に与えられたまま。あれから買い足したものといえば、二階のナオミの自室を池の近くのテラスの後ろに移しただけだ。
「ここの方が、あの方に会えますから」
「あの方?」
奥方の思い人はカムイという人物だと思っていたが、他にも?
ヤンスは考え込む。
そういえば不思議と池の縁を歩く奥方と殿下は、親子というより恋人を彷彿させる。
「殿下、後の方の迷惑になりますので」と、リンネルはルカを前方へと促す。
リンネルですらこの部屋へ入るのは初めてだった。この部屋に入れる貴族は限られている。王子の侍従武官でもなければ普通の貴族では入れない部屋だ。噂には聞いていたものの、これ程までとは。
前方の一段高い所に玉座が置かれていた。それを守るように近衛兵がずらりと並んでいる。
リンネルはルカを用意されているテーブルへと案内する。既に周りには王子や王女が席に着いていた。
ルカは先に着いている人たちに軽く会釈をしてから席に着いた。
他の王子たちに比べてルカの衣装は見劣りはしなかった。さすがはナンシーが取り揃えただけのことはある。ダークグリーンの上着はルカの紅い髪をひときわ引き立たせ、襟元や袖口の豪華な刺繍は、もともと品格のある顔立ちをいっそう貴公子然とした。
リンネルはルカの脇に跪くと、
「大丈夫ですね、私は後ろで控えておりますので」
ルカは軽く頷いた。
リンネルの席は遥か後方に用意されている。
皇帝が入ってくると全員が立ち上がり、皇帝が玉座に着くのを待ち座りなおした。
あの方が僕の父上。だがルカの席から皇帝までの距離はかなりあり、顔の輪郭はよく見えない。
挨拶は叔父叔母から始まり、兄弟姉妹と皇帝の前に進み出て述べていった。
ルカが呼ばれた時には名前の関係上少し会場がざわめいたが、皇帝の手の一振りで会場は静まり事無く式は流れていった。
「ご立派でした」とリンネル。
ルカはやっと緊張をほごしたのかほっと息を吐く。
「でも、父上から言葉はなかった」
声をかけてもらっている王子や王女もいたのだが。
「初めてですから、でもこれからは毎年ですから、そのうちお声をかけて下さるでしょう」
次の式典まで暫し時間がある。ルカとリンネルは着替えのために用意された部屋へと案内された。そこには前もって着替えが運び込まれてある。そこで二人は軽食をとり、ルカは侍女たちに手伝ってもらい軍服へと着替えた。
「リンネルと同じ服ですね」
ルカは嬉しそう。
だが既にその服は金モールで飾られ、胸に階級こそ付いていないがリンネルより遥かに階級が上であることを物語っている。
「殿下」
「何ですか、リンネル」
「いえ、何でもありません」とリンネルは軽く首を横に振った。
殿下はまだこの服の意味を知らない。最も王子では戦場に出ても前線に出ることはないから、本当の意味を知らずに済んでしまうでしょうが、この服は死に装束か死神の服なのです。あまり喜ばないで下さい。
リンネルもまた、前線を経験している。どれだけの仲間が傷つき死に絶えていったか。
リンネルはルカを次の式典が執り行われるホールへと案内した。そこはリンネルもクリンベルク将軍の供として幾度が入ったことのある部屋だ。
「こちらです」
先程の部屋とはまるで趣が違う。色はダークブラウンを基調とし重厚観があり天井はドーム型になっている。最も広さが、何万人収容できるのかと思うほどだ。
ホールは既に軍人で満たされている。祝賀の儀とはまるで様相が違っていた。中央に金色に輝く玉座があり、その背後を近衛師団、前面は元帥たちがそれぞれの部下を引き連れ整列している。無論その中にはクリンベルク将軍の姿もある。これが本来のネルガル帝国の姿、この銀河を支配下に入れようとしている。
ルカはその中央の一角にリンネルと共に並ばされた。そこはこれから元帥の仲間入りをする、つまり軍旗を貰うものたちが並んでいるところだ。
四十代や五十代の軍功のある軍人の中に、ルカは二人の子供を見つけた。どちらもルカより年上だが、自分と同じ子供が居たというだけでルカは緊張が少しほつれた。確か一人は控えの間で声をかけられたピクロス王子、そしてもう一人は正室のジェラルド王子。ジェラルド王子は侍従武官の影に隠れるかのように彼の腕にしがみ付いて立っている。
リンネルは二人の王子の姿を見、ルカより年上の王子が後三人いるのにその姿がないことを気に病んだ。彼らを飛び越してルカ殿下が先に軍旗をいただく。これは後々のもめ事の種を撒くようなものだ。クリンベルク将軍も悩まれていた御様子だが陛下の気まぐれには困ったものだ。
陛下が玉座に着く。その両サイドには既にも軍旗を得ている王子たちが入場した。整列が終わると同時に最敬礼で式は始まった。
中央の赤い絨毯の上を新たに元帥を冠する者が一人ずつ呼ばれて皇帝陛下の前へ行く。そして皇帝より軍旗をいただき自分の軍隊が持てるようになる。兵士が十五歳で入隊しここまでになるのには、早くて二十五年はかかる。しかも貴族でなければなれない。だが王子たちは十歳を過ぎれば軍旗をいただき自分の軍隊を持てる。それにしてもルカは異例だった。
一般の軍人の軍旗の授与が終わると王子たちの番だった。
ジェラルド王子の名前が呼ばれた時には一瞬会場がざわめいた。彼は侍従武官に抱きかかえられるようにして皇帝の前に出、もう一人の付添い人が挨拶から何まで行った。
どうしてだろう。とルカは思いつつ傍らにいるリンネルを見上げたが、リンネルは黙ってその様子を見ているだけだ。
次はピクロスの番だった。彼は緊張のあまり少し言葉がもつれるところもあったが、年相応にこなした。
最後はルカだった。母親の身分からいっても年齢からいっても最後にならざるを得ない。そしてルカの名前が呼ばれた時には、ジェラルド王子の時以上のざわめきがおきた。
年齢は五歳、名前は二つ。前例が無い。こうなることは最初からわかっていた。
リンネルは会場のざわめきをまるで無視してルカを促す。
ルカはリンネルに背中を押されるようにして最初の一歩を踏み出した。だが一歩踏み出すと同時に心が落ち着きを取り戻し、ルカ本来の振る舞いになった。ナンシーが仕込んだだけのことはありその立ち振る舞いは美しい。否、持って生まれた品格なのかもしれない。
ルカはリネルを従え赤い絨毯の上を玉座の前までゆっくりと歩いた。そして優雅に跪く。
軍旗が側近の手によって渡される。
リンネルはジュラルミンの箱に収められているそれをルカの代わりに頭上で受け取る。
軍旗は緞子のような織りだ、それだけでかなり重い。
リンネルはそれを胸に押し戴き、改めて箱の蓋のレリーフを見た。
鳥ではない! 何故?
一般の貴族ならいざ知らず、現にクリンベルク将軍の馬印は獅子だ。だが直系の王族なら馬印は猛禽類と決まっている。前二人の王子の馬印も猛禽類だった。
会場からどよめきの声が上がる。
皇帝の背後にあるスクリーンにルカの馬印が映し出されたためだ。
ルカもそれを驚きの顔で見詰めている。
どうして? とは訊けない。
「何か?」と侍従が訊いてきたのに対し、
「何と言う生き物なのでしょうか」とルカは尋ねた。
見たことが無い。否、ある、どこかで。そうだ、この笛の袱紗。
「竜だ」と、皇帝自ら答えた。
また会場がざわめく。
竜、ドラゴン。それはネルガルでは忌み嫌われる幻想上の生物だ。
どうして鳥ではないのか。という顔をしているルカに、
「それはあなたの母上にお尋ねになるようにとのことです」と侍従。
「母上に?」
その後、剣と階級が与えられた。階級は少将。ネルガルでは少将になって初めて艦隊が動かせる。
新たに元帥になった者たちに皇帝陛下からの一言があり、これで一通りの儀式は終わった。皇帝陛下が退出された後、一同もホールを出た。
この後、両陛下と親族との晩餐会がある。無論、親族でないリンネルは出席できない。
「私は、部屋の方でお待ちしておりますので」
そう言いながら、先程受け取った軍旗をもう一度見る。
袱紗の絵に似ている。
ルカもそれに気づいていたのか、笛を取り出しまじまじと見比べた。
「これを基にデザインしたようですね」
そして控えの間の中央ではピクロスたちが騒いでいた。
「何てざまだ」
ネルロスは弟のつかえながらの謝辞を非難していた。
「仕方ありません、まだ十歳なのですから」と、ピクロスを庇う母。
「だが、あいつは五歳だ」
ネルロスは部屋の片隅にいるルカに忌々しげに露骨な視線を送ってきた。
ルカは軍旗を見ていてその視線には気づかない。
リンネルはさり気なくルカの着替えのために与えられた部屋へ主を促す。
一方皇帝は自室で、控えの間で軍旗を眺めているルカの姿をスクリーンを透して見ていた。
色白の線の細い子だ、女と見間違うほどの。自分に似てもあんなに華奢にはなるまい。あれが神の子か。水神というからもう少し猛々しいのかと思っていた。
「陛下」と侍従。
「そんなにお気になられるのでしたら、今のうちに」
侍従は、どうもあの子供を好きになれない。いつかこのネルガルに災いを招くのではないかと。
「心配はいらぬ、跪いたではないか。あの者が本当に神なら、俺はこれで名実共に天を跪かせたことになる」
「しかし」
侍従は心配だった。本当にあの子はただの子供なのか。ということもあるが、侍従は現実主義者だ。それよりも陛下のあの子に対する執着の方が問題だ。確かあの子の上に三人の王子がいるはずだ。その三人を差し置いての軍旗の授与。そして五歳という年齢の早さ。これでは他の王子への示しがつかない。否、王子ではない。その王子を擁立しようとしている妃の親族に対する示しだ。彼ら門閥貴族の力はバカには出来ない。こんな事で内紛を起こしたくはない。
「これで月に一度は登城することになる。様子を見られるというものだ」
皇帝はパネルのスイッチを切った。
只それだけのための異例の授与だったのですか、と侍従は内心呆れた。
ルカの部屋では、既に侍女たちが晩餐のための衣装を整えていた。
今度はエンジの上着だ。色のトーンを落としているせいかシックに見える。エンジはルカのグリーンの瞳を引き立たせた。
侍女はルカを鏡の前に立たせ、
「何をお召しになられても、お似合いですね」と、うっとりした顔つきで眺める。
「ナンシーの見立てがよいからです」とルカ。
その声も涼やか。
今はまだ五歳。でもよくよくはこの王宮の女性を全て虜にしてしまう。そんな雰囲気をお持ちだ。
晩餐が終わり部屋へ戻ってみると、リンネルは約束どおり待っていた。
「リンネル、食事は?」
「ここでよばれました」
「そう」とルカはあたりを見回す。
こんな所で独りで食べていたのか。でもあそこでも同じようなものだった。
「それより、いかがでしたか」と、リンネルは晩餐のことを訊いてきた。
ルカの席は末尾に用意されていた。上座の方は両陛下を中心に賑やかだったが、下座にくるにしたがいあまり話しをするものはいなかった。
ルカは上座を見詰めながら思い出していた。式が始まる前に彼らが言った言葉を。
僕は陛下の子ではないのですか?
リンネルが心配そうな顔をして自分を見詰めているのにルカは気づき、慌てて答えた。
「食事は、おいしかったです」
「そうでしたか、それはよかったですね」
他の王子にいじめられなかっただけ、今回はよかったと思うしかない。
「帰ろう」とルカ。
母にいろいろと訊きたいことがある。
車が着くや否や、エントランスに出迎えている人たちに目もくれずに、
「母上、ただいま戻りました」と、ルカは奥にいる母の所へ駆け込んだ。
「何かあったのか」と、ハルガンはリンネルに尋ねる。
まあ、何も無い方がおかしいとは思っていたが。
「後で話す。それよりこれを、謁見の間へ」と、リンネルはジュラルミンの箱をハルガンに差し出す。
「母上、王宮でへんな話を耳にしました」
「へんな話とは?」と、ナオミはルカに聞きながらも、その視線はルカの背後に控えているリンネルに向けられていた。
「僕は人の子ではないと」
たぶんそんなことを言われてくるだろうと、ナオミも予想はしていた。
ナオミはルカに生い立ちを話したことはない。
「誰が、そのようなことを」
「ピクロスお兄様です」
兄とも呼ばれたくないとは言っていたが、ここはナンシーに教わったとおりにルカは言った。
「そうですか」
「どういうことなのでしょう」
「それは」と、ナオミは説明した。
今エルシア様のことをこの子に言っても仕方ない。おそらくこの子は理解できないだろう。村に何も起こらなければ、この子はルカとしての人生を送る、エルシア様の存在にも気づかず。それが一番この子には幸せ。ヨウカさんがそう言っていた。必要になれば、この子自身が過去の記憶を思い出すと。
必要な時って、この子が神としての力を使う時。それって村に天変地異が起きた時。
ナオミは思わず身震いした。
「どうなさいました、母上」
ナオミはルカに近くのソファに座るように促すと、
「私が巫女だったからです。村では後々神の子を生むとも言われていました。只の噂です。私にはカムイという許婚がおりました。巫女だったからそういう噂が立ったのでしょう」
「そうだったのですか」
初めてルカは母の昔の話を聞いた。カムイという恋人がいることは知っていたが。
「ここの王宮の祭司様と似たようなことをしていたのです」
実際は違うのだけど、そこはそう誤魔化した。
「それであなたのことを神の子だなどと言う人がいるのです。あなたは陛下と私の子です。神の子などではありません」
母にはっきりと言われ、ルカは安心し緊張が解れるのを感じた。
そこへ護衛たちがやって来た。
「殿下、軍旗いただいてきたのでしょ」
「見せて下さい。雀でしたか」
「それとも雲雀かな」と皆でルカをからかう。
ハルガンを筆頭にここには身分がない。だが護衛たちは主であるルカをからかいながらも内心では、鷹の類ならよいが梟や鳶ではと思っていた。
鷹の類なら将来皇帝にもなれる確率が高い。前例から、王子の時に鷹の馬印を授かったものが皇帝から大鷲の馬印を譲り受けている。
「こら、お前たち」とリンネルは忠告する。
しかしそんなことはお構いなしに、ねほりはほりと訊いてくる。
「そんなに気になるなら謁見の間に行ってみるがいい。もう用意が出来ているだろう」
そのリンネルの言葉を合図に、皆は一斉に謁見の間へと駆け出した。
リンネルはやれやれと溜め息をつく。あの中には自分が連れてきた部下もいる。最初はきちんとした規律を保っていたのだが、いつしかこの館の雰囲気に馴染んでしまったらしい。唯一なじんでいないのはリンネルぐらいなものだ。
お前は固すぎるんだよ。これはハルガンの言葉だ。
謁見の間ではハルガンたちが、ジュラルミンの箱の中から真紅の軍旗を取り出して言葉を失っていた。
「猛禽ではない」
誰かがぼそりと言う。
「一体これは?」
真紅の布に銀糸で刺繍されたそれは、
「竜だ。白い竜」
眼光は人を射るかのようにこちらを睨み、三本の指には全てを切り裂くような鋭い爪がある。
壁に貼り付けその前に立つと、居竦まされそうだ。
何事にも動じることの無いハルガンですらしげしげと眺めていた。
そこへ背後からのざわめき。
ドドドドーと走り込んで来るなり、
「軍旗は、何でした?」
だが誰もが壁に貼られたそれを見て言葉を失った。
そこへルカたちもやって来た。
部下たちはリンネルに尋ねる。
「これは、鳥ではありませんね」
普段砕けている護衛たちが急に改まる。
ルカはナオミを見上げると、
「母上」と尋ねる。
ナオミは軍旗を見詰めたままこぶしを握り締めていた。
(この御印を持ってこの方に跪けと言うのですか、陛下。無礼な)
握ったこぶしが怒りでぶるぶると震える。
リンネルは見た。滅多に怒気など顔に乗せたことの無い方の、それは凄まじい形相を。
ルカもそれをさっしてか、
「母上、どうなさりました」と尋ねた。
だがそれも一瞬だった。ルカが声をかけた時には、いつもの優しい奥方の顔に戻っていた。
「これは私が仕えていた社の御印です。少し違いますが」
違うということで、あの方の御印であることを否定した。
「竜神様です。水を司る神です。干ばつの時に頼めば雨を降らして下さるし、洪水の時は水を引いて下さるのです」
「ドラゴン」と護衛の一人が言う。
村の守り神はネルガルではドラゴンと言い、悪魔の使者ということになっている。ナオミはここへ来るまでそれを知らなかった。ドラゴンが竜神様を指している言葉だとは。
ここへ来てナンシーに忠告された。
「笛の袱紗ですが、別な物にかえるほうが」と。
しかし笛にも竜は掘り込まれている。
ナオミはその忠告を丁寧に断った。
「よいのです。これは村の第一人者が精魂こめて織って下さったもの。他の袱紗ではこの笛には合いません」と。
暫く護衛たちは軍旗の前で呆然としていたが、一人が叫んだ。
「ドラゴンか、いいじゃないか」
するともう一人が、
「大鷲より、強そうだぜ」
慌てて隣にいた男がその男の口を塞いだ。
「誰かに聞かれたら、大変だぞ」
言った本人はもとより、ルカまでが不敬罪で牢屋に叩き込まれる。
「しかしぱっと見、蛇に足が生えたような生き物だな」
無礼な。とナオミが言う前に、ルカが大声で笑い出していた。
「ほんとですね、手足を取れば庭の池の縁にいる白い蛇のようだ」
「白い蛇?」
護衛たちは首を傾げた。青大将ならともかく白い蛇など見たことが無い。
「あれ、皆、知らないのですか」
護衛たちは一斉に首を横に振った。
「ときおり池の縁で日向ぼっこしているではありませんか、のどかに。だから捕まえようとすると、さっと池の中に逃げて行ってしまうのです」
「それで、殿下も池に?」
ルカは軽く笑う。
ときおりルカは服を着たまま池に飛び込む時がある。最初の頃は池に落ちたのかと思い、護衛たちは慌てて池に飛び込み助けようとしたのだが、ナオミはいたって冷静だった。
「そもそもが水神様なのですから、泳ぎは得意なのですよ」と。
現にルカは、歩くより早く池で泳いでいたような気がする。
お陰で近衛たち全員が風邪をひくようなことになってもルカは元気だった。
「俺、動物園でなら見たことあるけど。何でも青大将の突然変異とか」
「池にもいますよ」と、言い張るルカ。
近衛たちはお互いに顔を見合わせた。だが誰も見たものはいない。
「まあそれはそれとして、これは奥方様の村の神様なのだから、俺たちには悪魔でも殿下だけは守って下さるでしょう」
「どうせ伝説上の生き物だし、いるわけないし」
これが護衛たちの見解だった。
ナオミは居るのよ。と心の中で言った。
よろしいのですかこれで、エルシア様。あんな人物の足元に跪いて。あなた様が何ともお思いになられないのでしたら、私は構いませんけど。
ナオミが物思いに耽っている姿を見てルカは、
「帰りたいのですか、村へ」と尋ねる。
ナオミは優しくほほうむと、
「私をこの世で一番愛してくださる方が近くに居るのです、帰りたいなどとは思いません」
ルカは暫し考えた。その人とは誰なのだろうと。母の愛している人は村にいるはずなのに。と思いながらルカがナオミの方を見ると、彼女と目が合った。
「あなたですよ、ルカ」
ルカは母のその言葉に、顔一杯の笑みで答え、
「僕もこの銀河で一番母上が好きです」と、ナオミの腕の中に飛び込んだ。
「皆さんが見ていますよ」
だが護衛たちはそれぞれにあらぬ方向に視線を移している。
「よろしいではありませんか、奥方様」とリンネル。
「今日の殿下はとてもご立派でした。これはご褒美ですね」
皆が笑う。
「さて、軍旗に額をつけるぞ。殿下は奥方のパイパイでもすすってな」
完全に軍旗を壁に固定すると、
「殿下、旗の前に立ってみて下さいよ」と言いつつ、ルカの手を引いて壇上に上がらせた。
護衛たちは段から降り、真紅の馬印の前に立つ自分たちの小さな主を見詰める。
夢は彼方、殿下が十五歳になった時。皇帝陛下から艦隊をいただき、この馬印の元、その艦隊に号令を発するのだ。早くて後、十年後か。
「絵になるぜ」
「今夜は十年後の前祝いだ」
護衛たちは浮かれあがる。
ヤンスもその傍らでしみじみと軍旗を眺めていた。
皆が酔いつぶれた頃、子供だからと先に寝かせつけられたルカは起き出す。
何故かあの旗が気になる。否、旗ではない、あの竜が。白い竜、白竜。
ルカは旗の前に立つとおもむろに笛を取り出した。
五歳にもなると、かなりうまく吹けるようになっていた。
笛の音は夜陰に乗り、リンネルの耳にも入った。
「奥方様か? こんな夜分に」
その旋律の美しさ。リンネルはてっきりナオミが吹いているのだと思った。
笛の音のする方へ様子を見に伺う。
だがそこにいたのはルカだった。
「殿下」と声をかけようとして、様子がおかしいのに気づきためらう。
「どうなされました」
静かに近づいて声をかけると、ルカは慌てて顔を隠す。
「何でもありません、ただ」
訳もわからずに涙が出てくる。
袖口でその涙を拭いながら、
「母上には内緒にして下さい。僕にも訳がわからないのです。急に笛が吹きたくなり、吹き始めたら涙が止まらないのです。この歌は子守唄ではありませんね、こんなにも悲しくなるのですから。これではあまりの悲しさに眠ることができない」
竜の子守唄と題する曲。ナオミはこの曲だけを丹念に教えた。
だがリンネルには旋律の美しいただの子守唄にしか聞こえない。この曲のどこが悲しいのだろう。
そこへナオミも笛の音につられて来たようだ。
ルカは母に心配をかけないようにと、また袖口で涙を拭い笑おうとしたのだが、やはり涙が止まらない。
ナオミは大きく両手を広げると、
「いらっしゃい」とルカを呼ぶ。
ルカはたまりかねてその腕の中に飛び込んだ。
声を出して泣き出す。暫くしてやっと落ち着きを取り戻した頃、
「ご免なさい、母上。でも僕には」
「謝らなくともいいのよ、気が済むだけお泣きなさい」
これはエルシアが持つ想い。おそらく数千年前の。この子に解るはずがない。
ルカはナオミの腕の中で泣きつかれて寝てしまった。
「寝室にお連れいたしましょうか」
「お手数かけます」
リンネルはルカを静かに抱きかかえ運ぶ。
「奥方様は、殿下が笛を吹くとこうなることをご存知だったのですか」
あまりの対処のうまさ。
奥方は微かに頷くと、
「村では何人かいるのです、笛を吹くと泣く子が」
これは嘘だった。泣くのは神だけ。
「そんな時は訳を聞いても駄目なのです。ただ抱きしめてやること。これが村の慣わしです」
リンネルは不思議に思ったが、これ以上訊いても無駄なような気がした。その理由を知っていてもおそらく村以外の人に話すことはないのだろう。
笛はどうしても吹けなければならない。これはピアノやバイオリンよりもナオミは重視していた。
ナオミは眠り込んだ我が子の涙をそっと拭き取ってやる。
これで私の役目は終わりました。後はこの笛があなたとエルシア様を繋いでくれます。
ナオミはそっと笛を枕元に置く。
「もうこれはあなたの物ですよ、お休みなさい」
翌日、ヤンス少尉から謁見の間で会いたいという申し出があった。
ルカは何だろうと思いつつナオミと一緒に行ってみると、そこにはヤンスが護衛の軍服ではなく帝国軍の軍服を着て待っていた。
「ヤンス、それは?」
ヤンスは軍人らしくきちんと敬礼をすると、ルカに壇上に上がるように促す。
「殿下、お暇をいただきたく参上いたしました」
「暇?」
既にナオミにはルカが軍旗を授かるという話があった段階で話してある。ルカには殿下が寂しい顔をするのを見たくないというヤンスの願いから、突然という形になってしまった。
「はい、本来でしたらリンネル大佐がこちらにいらした段階で館を下がらせてもらうはずでしたが、私のわがままで今に至ってしまいました。この機会が丁度よい引き際かと存じまして」
「そんな」
ルカは唖然とした。次の言葉が出ない。
姉のように慕い甘えていた。
ヤンスは丁寧に今までの礼を述べ、二人の前を去った。
彼女が立ち去った扉を見ながらナオミはぼつりと言う。
「彼女本来の仕事に戻るのですね」
先程のヤンスの姿はナオミが最初に彼女と会った時の姿だ。
ルカはハルガンが珍しく一人で池の辺にいるのを見つけ駆け寄る。
「隣に座ってもいいですか」
ハルガンは一瞬うるさげな顔をしたが、
「どうぞ」と、少し横によける。
ルカは同じ石の上にちょこんと座り、
「いいのですか」と訊く。
「何が」
「追いかけなくて」
「はっ?」
「行ってしまいますよ」
「何で俺が、あんなおとこ女を追いかけなきゃならないんだ」
ルカはハルガンを見詰めた。ハルガンの態度から何かを得ようとして。
僕の思い違いか。
ハルガンはそんなルカを見て、もう少し寄れと言う。
ルカはハルガンに言われたとおりに彼の脇に座りなおす。
いきなりこぶしが飛んできた。
「痛い、何するのですか」
ルカは叩かれた頭を押さえながら。
「お前の頭のいいことは認めよう。だが世の中にはどんなに明晰な頭脳を持ってしても、わからない事が沢山あるんだ。その年齢に達しないとわからない事もな。いいかガキ。まだ母ちゃんのパイパイをすすっているような奴が、生意気な口を利くな」
ハルガンは怒鳴った。
だがルカは笑っている。
不思議とハルガンの言葉は、どんな罵声でもルカは傷ついたことがない。それよりも納得することが多い。それに対してあの王宮の人たちの言葉はルカの胸を抉った。
「何、笑ってんだよ」
ルカは慌てて神妙な顔を作り、
「笑ってなど、おりません」
「いや、笑っていた。お前、俺の話、聞いていないだろう。俺は怒っているんだ」
「笑ってなんかいませんよ」
「俺たちみたいな下等動物の話は聞けないってか」
他の館では護衛兵など下僕も同然。主たちを守っているとはいえ口を利くことも許されない。こんなに親しく殿下や奥方と話せるのはこの館ぐらいだ。
ルカは飛び跳ねるように立つと、
「そんなこと一度も思ったことありません。それどころか、あなたの言葉は教訓になると思っているぐらいです」
ハルガンも言い過ぎたとは思ったが、どうも今日は虫の居所が悪い。大人気ないとは思いつつも、
「大人をおちょくるな!」
「本当です」
「そこへなおれ。ぶちのめしてやる、このませガキ」
ルカは慌てて逃げ出した。
夕方、ナオミがテラスに立って池を眺めているのを見かけたルカは、傍に行く。
「ハルガンさんと喧嘩したそうですね」
いつの間にかそんな話になっていた。
「いいえ違います。一方的に売られただけです」
「まあっ」とナオミは笑う。
ヤンスは言った。
もう自分の役目は終わった。これからルカ殿下に必要なのはリンネルとハルガンだと。リンネル大佐は律儀過ぎて融通が利かないところもありますが、実直で頼りになります。ハルガン曹長は融通が利きすぎるところもありますが、参謀ともなればクリンベルク将軍ですら頷かせるものを持っていますと。その他の部下たちもそれぞれに利点と欠点を並べていった。部下思いの少尉だったのだとつくづく思わされたほどだ。
「ハルガンさんはヤンス少尉ではなく、あなたを取られたのですね」
ルカはナオミのその言葉に思わず母の方を振り向いた。
「僕を」
ナオミはじっと池を見詰めたまま、
「リンネル大佐も家督を弟に譲り、あなたと生死を共にする覚悟のようです」
ナオミはそこで大きな溜め息をついた。
「村にもあなたのためならと尽くしてくれる人は沢山います。でもここにもいたのですね。彼らにきちんと答えなければなりません」
もう村には戻れないのかもしれない。
「ルカ、笛を吹いてくれませんか」
-
2008/12/07(Sun)23:54:33 公開 / 土塔 美和
■この作品の著作権は土塔 美和さんにあります。無断転載は禁止です。
-
■作者からのメッセージ
つづきを書きました。感想をお待ちしております。