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『なんだかよくわからないものの聖夜 完結』 作者:バニラダヌキ / ファンタジー お笑い
全角79632.5文字
容量159265 bytes
原稿用紙約242.2枚
あの学園祭のパンダ騒動から、おおむね15年――。迷子になってしまったなんだかよくわからないものを巡って、冬の峰館市のスケッチ集が、静謐に、文学的に展開されます。――すみません。ちょっとフカシが入ってるかもしれません。

 
――――――――――――――――――――――――――――――

  なんだかよくわからないものの聖夜  【目次】

   プロローグ 【十二月二十一日】 (約16枚)
   Act.1 【十二月二十二日】 (約54枚)
   Act.2 【十二月二十三日】 (約75枚)
   Act.3 【十二月二十四日】 (約76枚) 
   エピローグ 【十二月二十四日】 (約17枚)

――――――――――――――――――――――――――――――  






  プロローグ 【十二月二十一日】


 峰館市を中心に、県下に十六店舗を擁するチェーン店『ミネダテメガネ』。
 枕崎はその峰館メトロプラザ支店の店長を務めていた。
 峰館商業高校卒業後、五年ほどで片田舎の支店だが店長を任され、その十年後にはこのどでかい駅ビルの基幹店を任されているのだから、高卒組では順風満帆と言っていいだろう。
 去年、市内六店舗統括のブロック長に、という話もあったのだが、枕崎は辞退した。ブロック長に上がれれば、将来幹部まで上がれる可能性も出てくる。役員も夢ではない。退職金など、天地の開きが生じる。実際定年まで現場だった場合と、本部の幹部社員では、退職金に数倍の開きが生じる。それでも枕崎は、なんの未練もなく、その話を辞退した。
「僕は一生現場がいいです」――本心である。
 給料のために、経営的な努力も人員管理も無論怠らない。しかし彼の人間としての使命は、あくまでも真の眼鏡を自分の手で組み上げることであり、それをひとりでも多くの他者に手渡す、それに尽きる。
 妻の洋子もまた、なんの不満も漏らさずに、それを支持した。昇進辞退を告白した夜、「あなた、すてきよ」――そんな吐息まで、蒲団の中で漏らしてくれた。
 妻は生来、強度の近視かつ乱視である。それで子供の頃から苦労したから、というわけでもなかろうが、敬虔なクリスチャンで、幼稚園からずっと市内の尼僧系ミッション・スクールに通っていた。高等部に上がる頃、それまでの眼鏡では目前の本も読めなくなり、医師の紹介で地元のミネダテメガネを訪れ、そこで技術研修を終えたばかりの枕崎と出会った。
 運命の出会いであった。
 いっしょに付いてきてくれた旧友たちは、その若い店員の陰気な「いらっしゃいませ」を聞くなり、洋子の袖を引いて店から逃げ出そうとした。なんとなれば、その男は服装こそスーツでまともな社会人らしく見せているものの、あきらかに中学時代に峰館商業高校の文化祭でしつこく彼女らの後を付け回した、不気味なおたく状の生徒に他ならなかったからである。
 枕崎にとって幸いなことに、洋子自身はその姿を記憶していなかった。そもそも自分の父親以外の男を間近に見たことのない洋子にとって、世間の異性はすべて朦朧とした人型の塊に過ぎなかった。洋子はせっかく掛かりつけのお医者さんが紹介してくれたのだからと、処方箋をその人型の塊に渡し、鏡に顔をすりつけるようにしながら、前の眼鏡と大差ない鼈甲縁のフレームを選んで帰った。
 枕崎は天職、あるいは天命という概念を、その日あらためて心に刻んだ。そして三つ編み・鼈甲眼鏡・ジャンスカ膝丈・白の折り返し様のために、心をこめて自分の社会人初仕事である眼鏡を研磨調整した。高屈折率の非球面レンズを使っても、やたら分厚く、極めてフレームに収めにくいタイプだったが、我ながら美しく収まった――そう納得できた。
 数日後、仕上がりの連絡を受けて再来店した洋子は、人型の塊から受け取った新しい眼鏡を掛けるなり、なにかこれまでの人生が、すべて誤りであったことに気づいた。
 前の眼鏡より特に鮮明に見えるわけではないのだが――自分を取り巻くすべての物の形というものは、眼鏡店のショーケースから彼方の書店や非常口の扉まで含め、けして輪郭だけで構成されているのではなく、光の反射だけに頼っているのでもなく、ただそこに『在る』、それだけでその存在を祝福されているのだ。
 洋子はそんな文法的に意味を成さない感慨に捕らわれ、思わずつぶやいていた。
「……世界って明るいものなのですね。美しいものなのですね。原罪なんて嘘なんですね」
 洋子の言葉に、枕崎は確信をこめてうなずいた。
 ――やはり自分の理論は正しかった。フレームとレンズの間に、アルコールで薄く延ばしたなんだかよくわからないものを補填材として塗りこめば、ファンタジー様のお創りになる、この宇宙に満ちる愛のエーテルが、その眼鏡を掛けた人たちにも感じ取れるようになるのだ。
 猫耳も生えるのではないか――そんな期待もあったが、残念ながらその気配はなかった。あれはやっぱり阿久津にとってのエーテルの凝《こご》りであり、自分にとっては、やはり最終的に眼鏡なのだろう。
 ――ま、いいや。猫は眼鏡掛けさせようとすると引っ掻くし。
 やったのかお前――そんなツッコミも恐くはない。彼は下水の溝鼠《どぶねずみ》にすら、手製のミニチュア眼鏡を着用させようとして、噛まれて破傷風になったこともある男である。
 洋子は突然光を帯びたテナント・フロアから、カウンターに視線を戻した。
 ぶよんとしたしまりのない顔が、嬉しそうに笑っている。
 ――まあ、これが世に言う殿方というものの顔なのね。
 心理学で言う、刷り込み《インプリンティング》である。動物の子が、生まれて最初に視認した動体を親として認識してしまう、あれだ。本能的なものだけに大変強固で、たとえばセントバーナードがチワワを親と信じてしまうこともありうる。洋子の場合、すでに親族や同性の人間は認識済みであるから――時と場合によっては、それほど厄介な心理である。

     ★        ★

 師走に入って間もなく、峰館に雪が積もり始めた。
 積もったり溶けたり、霙になったり牡丹雪になったり――市街地の路傍まで根雪になるのは、新年を迎えた後だろう。
 官公庁の賞与支給日、そして一般企業の賞与支給日――慢性的な不景気ゆえ、賞与カットもあれば、雀の涙程度のお恵みもあれば、やったねパパ、今日はホームランだ――だからほんとにお前はいつの生まれだ我が息子、などなど、様々の泣き笑いをその喧騒に飲み込んで、師走が流れてゆく。
 歳末セールも佳境に入った十二月二十一日、午後十一時二十分。
 店の内線電話が、ぽろろろろ、と鳴った。
『メガネさん、まだ終りませんか』
 地下通用口の、老警備員からだった。駅ビルのここ五階までは、十一時半から無人の機械警備に移る。六階から高層階までのホテル部分は、また別の縄張りだ。
「すみません。今から出ます」
 もうこんな時間か――枕崎は内線電話を置くと、研磨中のレンズに慌てて区切りをつけ、POSを締めた。
 背広を半畳ばかりのバックルームのハンガーに掛け、ダウン・ジャケットを着込む。
 九時の定時で、正社員やパートは上がっている。人件費削減の声がやかましい昨今、残業は極力役職者が請け負うことになる。一日十二時間拘束で休みは月二回、残業代は付かず店長手当月二万円こっきり――繁忙期にはそんな有様になる。単純に時給で計算すれば、若手の平社員のほうが高い月さえある。それでも、枕崎に不満はない。来年、息子と娘がいっきに進学する。息子は中学に、娘は小学校に。残業カットで年収が減るより、過労死寸前でもやはり固定の手当てのほうがありがたい。そしてなにより――ひとつでも多く自分の調整した眼鏡を世に出すのが、彼の使命だからだ。
 地下駐車場でバイクを吹かしていると、四階の楽器屋兼CDショップの支店長が、軽の運転席から声をかけた。
「おう、枕崎、『懐かしのイカ天』入ったぞ。『筋少』入ってるやつ」
 柴田である。その後ネットよりも打ち込み音楽趣味の比重が増し、パソコン系の店には就職せず、そっち方向でなんとかやっている。アマチュア・バンドの女の子と何度かくっついたが、結局いまだに独り身だ。
 柴田はカーコンポのスイッチを入れながら続けた。
「それから、今度、横溝がいっしょに飲まないかってさ。相原も帰ってるらしい」
 横溝は予定通り、公的には地道な公認会計士の道を歩んでいる。私的には、家に二十数匹の猫を飼い、妻や子も猫にまみれて嬉々として生活している家庭が地道と言えるかどうか、賛否の別れるところだろう。
 相原は高校卒業後、職のあてもないのに上京し、一時コミケの群衆に紛れ行方不明になったと言われていたが、最近市内の漫画専門店で、吊りスカート姿でサイン会を開いているのを目撃されている。なにか近代少女漫画史を体系的に語らせたら右に出るものはないと、近頃おたく界で話題になっているらしい。ただし未だに税金を納めなくてもいい年収だという話だ。
「明日の昼、取りに行くよ」
 枕崎はそう答えて、メットを被った。
「飲み会にも、出る」
 柴田は、この寒空にバイク通勤姿の枕崎を眺め、お前も若いなあ、とつぶやきながら、寒そうにウインドーを上げ、先に発進して行った。カーコンポから、古いパンクが流れていた。――ドブネズミみたいに、美しくなりたい。写真には写らない、美しさがあるから――。ヒロトのボーカルではなく、マーシーのギターでもない。それどころかリズム・セクションは、どう聞いても打ち込みだ。大方、柴田の関わっているバンドのカバーだろう。
 ――どこも大変なんだよな、齢食えば食うほど。
 傾斜の上の夜空には、また雪が降り出したようだ。柴田の軽はその白い雪片たちの中へ、奇妙な小室風リンダリンダと共に遠ざかってゆく。
 傾斜の麓のガラス窓で、老警備員が、や、と手を上げた。
 枕崎は軽く会釈して、雪空の下の自宅に向かった。

     ★        ★

 駐車場を出てぐるりと巡るだだっ広いロータリーの、中ほどの植込みが、かつて焼鳥『あくつ』のあった路地にあたることを、枕崎は知らない。自宅を行き来するほどには、親しくなかったからである。阿久津が三年ほど前にUターンして来てから、横溝たちと一緒に何度か飲みに行った『あくつ』は、すでに郊外のバイパス沿いに移転していた。
 降りしきる雪の中を、枕崎のバイクはそのバイパスに乗って進んだ。北の地方都市でも、市街地に一戸建てを建てるのは、よほどの金持ちでないかぎりもう無理だ。マンションも高い。その代わり、二十キロほど離れた山添いなら、枕崎の給料でも、なんとか土地付きの家が建った。三十年ローンである。
 狭いながらも楽しい我が家――世の非おたくの方々には意外かもしれないが、おたくという人種は五分五分でおたくのままでは結婚できないが、いざおたくのままで家庭を築いたりすると、ことのほか家庭を偏愛する傾向がある。縄張りと巣に固執する、動物的な本能ゆえであろうか。
 今夜の肴《さかな》は予想湯豆腐、入浴剤は予想ジャスミン、ジャスミンの香りの中で洋子と背中の流しっこ――連日の残業で、枕崎はいささか精神的に退化していた。
 ごん、と前輪に衝撃があった。
 濡れた路面とハンドルが、いっさいの関係を失った。
 ありゃ?
 首を傾げた時には、もう枕崎は宙に舞っていた。
 そこはちょうどバイパスと旧道の立体交差あたりだった。
 バイクは斜めに側壁に激突し、横倒しになって、どこかの一見正気な狂人が路上に捨てたコーヒーのスチール缶と共に、そのままバイパスを滑った。
 枕崎は、ローン、などと一瞬呆けたようにつぶやきながら、バイパスの下を潜る旧道に向かって、ぽーん、と雪の夜空を飛んだ。
 そして十メートルほど先の、五メートルほど下の路面に、背中から叩き付けられた。
 背中の本皮のリュックは、かなり脹らんでいた。それがもし何か硬めの中身だったら、背骨を折って即死していたかも知れない。
 しかし幸い、中身は硬くなかった。そもそも、硬さとか柔らかさとか、そういった物理的属性のあっち側にある代物だった。
 それは持ち主の胴体に加わるべき衝撃をあらかた吸収し、枕崎の肉体と同じようにぶよんと跳ねて、その弾みでリュックごと破裂した。
 破裂――といっても、それもまた物理的現象とはほど遠く、一瞬後にはリュックの破片のみ排他して、少し離れた路上でもとの形に――いや、なんだかよくわからない形に収束していた。
 旧道を疾駆していたタクシーが、そのなんだかよくわからない色の光を認めて、泡を食って急ブレーキを踏んだ。積雪はまだないが濡れた路面のこと、激しいスリップは避けられず、ぼん、とそのなんだかよくわからないものを跳ね飛ばす。
 それでも枕崎を轢く直前で、タクシーは停まった。
 二時間も前なら、勤め帰りの車たちが、派手な玉突き事故を起こしていただろう。
 運転手だけでなく、コート姿の客も降り立って、恐々と車の前を覗きこんだ。
「人、人。人だよ、人」
 若いサラリーマンらしい客が、初老の運転手の肩や背中を、あたふたと叩いた。
「判りますってば。けど、跳ねたんじゃないような……」
「そうだよね。俺そんなのやだからね。やだってば。やだなあ」
 運転手は年季が入っているらしく、さほど取り乱してはいなかった。
 今目の前に倒れているのは、確かに人間だ。しかしさっき跳ねてしまったのは、絶対に人ではない。犬や猫でもなかった。あれは――肥大化したタヌキででもあろうか。とにかくなんだかよくわからないものだった。
 運転手がその人間の上にかがみこんだとき、
「おーい、生きてるかあ?」
 そんな声が、ちょっと先のバイパスの上から聞こえた。
 側壁から身を乗り出して騒いでいるのは、ひとりやふたりではない。
 ――あそこから跳ばされたのか? じゃあ、とても……。
 運転手は心中でなかば合掌しながら、推定仏様の息を確かめた。
「……湯豆腐」
 通常、仏様は湯豆腐を食いたがらない。
 おーい、生きてるぞう――そんな運転手の声が、雪空を突いた。
 念のため、枕崎はけして家族そのものより、ローンや湯豆腐が大事だったわけではない。
 ローンはあくまで家族のための義務であるし、湯豆腐の湯気の向こうには、洋子と子供たちが、三人とも眼鏡顔でにこにこ笑っていたのである。




  Act.1 【十二月二十二日】


 ――病院には行きたくない。
 国保の納入は意地できちんと続けているが、聞くところによると医者というものは、金に汚い職業のはずだ。保険の水増し請求とか、日常的に行っている種族のはずだ。
 あれ?
 お上に水増し請求するのなら、俺の乏しい懐中そのものには、直で響かないのではないか。
 まあ間接的に保険料からふんだくられるにしても、それはこの前、顔で笑って心で泣きながら銀行で納めた金が、前払いになっているわけで――。
 それとも三割負担のほうに、やっぱり響くのか?
 フリー・ライターなどと自称しながら、島本はあきれるほど世事に疎い人間だった。
 安アパートの近所で見かけた、あの汚れた看板のちっぽけな医院なら、表通りの小綺麗な医院よりも安いのではないか。
 同じ診療なら同じだ同じ――そんな外野からのツッコミも、島本の耳には届かない。
 とにかく俺は小学校以来三十年ぶりに、医者というところに行かないとまずいだろう。散歩でよろける風呂屋で倒れる、いくら眠っても頭が揺れている。
 待合室の長椅子は補修跡だらけで、少なく見積もっても半世紀前の代物だった。
 その上で会合状態の老人たちは、表向き補修跡こそないが、素材の傷み具合から、長椅子よりもずいぶん年代物だろうと推測できる。一世紀を越しているのではないか、そんな骨董品クラスも混じっているようだ。
 今時過去の遺物と思われる水銀の体温計が、脇の下で温まってゆく。
 隣で、それはいかんなあ、などとしきりに繰り返すしかめっ面の老人が、駅前から移転してきた豆腐屋の隠居であることや、その向こうで穏やかに相槌を打っているのがお茶屋の隠居であることなど、無論島本は知らない。
 島本は養老院状態の待合室の隅で、備え付けのグラフ雑誌を所在なげにめくり続けた。
 雑誌の見開きで、お台場のクリスマスのイルミネーションが、光り輝いている。
 ――そこを飛び回っていたこともあったのだ。そしてその写真の下の文字が、俺の打った文章であったこともあったのだ。まあ、広告収入目当てのつまらないタウン誌や、三流オカルト雑誌であったにしろ。
 ようやく名前が呼ばれ、問診されたりあちこち触診されたあと、医師が言った。
「――朝は何を食べられました?」
 待合室の患者たち同様、極めて時代の付いた、ありがたそうな医師である。
「朝は食べない習慣なので」
 島本は正直に答えた。正確には、明け方に寝て、昼過ぎに起きる習慣だ。
「では、昨日の晩は?」
「キャベツモヤシ炒めと御飯です」
「昼は?」
「キャベツモヤシ炒めと袋ラーメンです」
「……おとといの晩は?」
「キャベツモヤシ炒めと御飯です」
「その前の昼は?」
「キャベツモヤシ炒めと袋ラーメンです」
 医師はしばらく宙を見つめて黙考し、やがて口を開いた。
「……そのうち死にますな」
「……死にますか」
 それはそれで仕方ないか、と言うような島本の口調にも、老医師はまったく動じなかった。
「詳しくは精密検査を受けてもらわないと診断できませんが、まあ軽い貧血や栄養失調でも、死ぬときは死にます。ただの風邪から肺炎など余病を併発しがちですし、最悪の場合、信号を待っている間にふらり、そこをトラックがくしゃり、とかですな」
 それはやだなあ、痛そうだし――思わず顔をしかめた島本に、医師は続けた。
「私も若い頃、無給助手の時代など、そんな生活でしたが、まだ二十代でしたからね。あなた、一日にもう三百円ほど、なんとかなりませんか」
「……百円くらいなら、たぶんなんとか」
「それでは、モヤシをホウレンソウにして、玉子を一日二個くらい、それから夜は――そうですね、ジャスコの特売の魚の缶詰など、一日置きにでも補給すれば――一日に均せば、百円で収まるかな。買い物のとき、あちこちの試食もなるべくハシゴしていただければ――ま、死ぬことはないでしょう。それで半月たってもまだおかしかったら、また来て下さい」
 老医師は今時珍しく、診療台の脇の机から煙草を取って、平然と火を着けた。
 島本にも差し出してくれたので、ありがたく拝借した。主に経済的な事情で、節煙中なのである。
「ありがとうございます」
「……いい時代ですよ。私はまだ行ったことはありませんが、駅前のダイソーとやら、何でも百円で買えると言うじゃありませんか。ことによったら、玉子だって何個も買えるのかも知れない。ま、人生雨の日もあれば晴れの日もある。見栄を捨てることです。人間、恥さえ忘れなければ、見栄なぞドブに捨てても生きていかれます。見栄を忘れないで恥を捨てれば、もっともっと楽でしょうが――それでは人間ではない。畜生以下です」
 島本は思わず「先生!」と叫んですがりつきたくなったが、かろうじて思い留まった。
「玉子を二個、黄身を半熟くらいに目玉焼きにする。炊き立ての丼飯にそれを乗せて、お醤油たらたら。くれぐれも半熟がポイントです。お若い方ならマヨネーズなど掛けてもいいかな。待合室に並んでいる『美味しんぼ』というポンチ絵を覗いた時、同じものが出てきて感心しました。他の料理はほとんど個人的な味覚ファンタジーに思えましたが、あれなどは現実の美味ですな」
 窓口に戻ると、初診料は十五円だった。
 なぜか手書きの領収書に、『フィリップ・モリス1本、内税』とだけ記されていた。

     ★        ★

 島本は卵アレルギーでもないし、ホウレンソウ嫌いでもない。
 ただ根っから人体の生理に無頓着で、外食に慣れてしまっていただけである。
 先月預金残高が二十万を割ってから、禁外食を心に定め、近所の八百屋兼なんでも屋で、安かったものだけを食っていた。
 ――そうか、バイパス沿いのでかいジャスコまで歩けば、玉子も魚缶もこんなに安かったのか。
 それでもホウレンソウはやっぱり高く、島本は熟慮の末、新発売らしい野菜ジュースを選んだ。一日にコップ一杯飲めば、それで野菜は充分と、ボトルに書いてあったからだ。まあ今さら死ぬのはどうでもいいにしろ、死なないに越したことはない。来月になれば、稿料が入る。五十万。二百五十枚を二か月かけて打って、そんなものだ。印税などない。買取りで著者の名前も心霊研究ナントカ会。島本の名前は出ない。要は刷り切り売り切りの、読み捨て文庫だ。『実話』形式の、作り話の羅列。それでも創作は創作で、恥は捨てていない程度の、中身があるはずだった。ただし、次の仕事のあては、今のところまったくない。
 ――まあ、死なずに打ってるくらいでいいさ。見栄を完全に捨ててしまえば、次の仕事も見つかるだろう。
 島本は根拠のない笑顔を浮かべて、アパートへの路地に曲がった。
 ――?
 路地の真中に、なにかが置いてある。
 なんだかよくわからない形で、なんだかよくわからない色をしている。
 出るときはそんなものはなかったような気がするが――島本は買い物袋を足元に置いて、その場にしゃがみこんだ。
 試しに指でつついてみると、むにゅ、と指先が沈み、指を離すと、ぷるん、と元に戻る。
 島本は昔取材したことのあるゲームを思い出した。
 ――ぷよぷよ?
 しかし、あれよりは感覚的に、大きいような気がする。そもそも、あれはこの世のものではない。
 島本は、さらに昔取材したことのある、あまり人前では口にできない、購入に年齢認証が必要なものを思い出した。
 ――実物大の、『全年齢対象作品ではこれ以上描写できない』もの?
 しかし、それならもう少しでこぼこがあるはずだし、亀裂や穴などもあるはずだ。
 島本はさらに二・三度つついてみてから、道端のゴミ収集スペースに、それを運んだ。なんにしろ、交番に届けるべき代物とは、思えなかったからである。
 もし半分硬化した医療用シリコンの塊などなら、このぐらいでかいと、燃えるゴミでも燃えないゴミでもない。粗大ゴミとして回収依頼するか、自治体によっては指定業者に処理を依頼しなければならないだろう。しかし、そこまで島本が気を使う義理はないはずだ。
 島本は路地の奥の、アパートの階段を登った。
 一階に2LDKの部屋が三つ、二階に1Kが六つ、そんな木造モルタルの安アパートだった。
 老朽化が著しく、実は来春、取り壊しの話が出ている。土地そのものを、今度このあたりに出店する大手電器量販店に売却してしまうらしい。
 それはあくまで大家側の都合だから、移転費用は向こう持ちである。気の早い住人や、このアパートそのものに未練のない連中は、冬の前に引っ越してしまって、大家の人のいいのを幸い、駅近くのアパートの高価な敷金や礼金、さらにお任せ引越し便の費用まで負担させている。
 残っている一階の二家族や、二階の島本を含めた三独身は、大家が川向こうに建築中の別のアパートにスライドする予定だ。そうすれば同じ家賃で、新築の部屋に住める。駅からはさらに遠くなってしまうが、もともと家賃の安さと大家の人柄で居着いていたようなものだから、文句はない。
 吹きさらしの階段を登り、やはり吹きさらしの通路に立って、島本は背後の路地を振り返った。
 路地の片側は、塀だけ残してすでに空き地である。
 もう片側は、すでに廃屋である。
 アパートの四方も、南側の畑を除けば、今や空き地である。
 きっと来夏には、日本中どこに行っても、同じ量販店が同じように揃ったバイパス沿いの光景へと変貌するのだろう。
 昨夜の雪はもう融けて、そのぶん乾いた鋭い木枯らしが、ゴミ収集スペースの汚れた立て看板を、びりびりと震わせている。
 たったひとつ残された、あのなんだかよくわからないものも、近くで見れば風に震えているのだろうか。
 島本はなにかいたたまれない気持ちになって、ドアの前に買い物袋を置くと、また階段を下りた。
 ――萌えるゴミ。
 我ながらつまらん洒落だ、などと自嘲しながら。

     ★        ★

 ――もっと楽に食えるはずだったんだがなあ。
 青年期も終わりに近い身で――一般的には立派な中年かもしれないが――今さら後悔しても仕方がない。
 金がないのは己の才能がないからだし、金を借りる身内もいなくなってしまったのは宿命だし、独身なのは己の情熱が足りないからだ。
 幸いバブルの内に若さにまかせて業界に首を突っこんだから、買いたい本はおおむね揃った。青蛙房版の岡本綺堂読物選集も、平井呈一訳の小泉八雲全集も、その他計数不能の、四方の壁を埋めるカラーボックスの中の古書たちも。
 まあテレビやラジカセを含むほとんどの家財がバブル以前の代物であることや、仕事用のパソコンがいまだにWindows95であることなどは、些末事である。スイッチひとつの電気釜でも、飯は炊ける。電気炬燵は料金節約のため、二月の厳冬期までコードを封じてあるが、股引と綿入半纏でまだまだしのげる。古机の上のパソコンは亀のように遅く、ヤニで茶色にくすみ、Cドライブはさすがに気息えんえんだが、ちゃんと外部HDとMOにシステムもデータもバックアップしてある。ネットとメールが使えて、エディタが動けば不足はない。
 あの老医師が教えてくれたように、目玉焼き丼は予想外に美味なので、とりあえず良しとしよう。
 島本は白身の切端に醤油と黄身をまぶし、ほくほくと口に運びかけ、ふと思いついて、炬燵の向かいに差し出してみた。
 そこにはあのなんだかよくわからないものが、ぽて、と炬燵の上に座っていた。置いてある、というよりは、やはり座っているように見える。
 あくまでもつまらない洒落の続きのつもりだったのだが――ぷよ、と箸の先は抵抗もなくそこに食い込んで、玉子の白身はなんだかよくわからないものの中に、するりと吸い込まれた。
 ぷるん、と歓喜に身を震わせたように見えたのは、ただの反動だろうか。
 島本はさすがに怪訝そうに首をかしげた。
 しかしすぐに気を取り直し、飯の続きにかかった。
 二十万でふた月を過ごそうという中年のチョンガーが、それしきのことで動じてはいられないのである。ただ息をしているだけで、そのうち四半分を公租公課に吸い取られる国だ。何があっても不思議ではない。玉子の白身の欠片くらい、なんでもない。きっと医療用シリコンは、蛋白質と親和性があるのだ。醤油だって吸いこむのかも知れない。
 野菜ジュースを飲み干して、うん、完璧、などとうなずいてから、島本は流しで食器を洗い始めた。
 流し場の窓から見える夜空に、また雪が舞っていた。
 そのガラス越しに、なにか若者たちの笑い声が響いてくる。
 真下は若いサラリーマンの夫婦がふたりきりのはずだし、この時刻では旦那もまだ帰っていないだろう。たぶんその隣の山福さん――教師夫妻の部屋だ。揃って超ベテランといってもいい年齢なのに、子供がいないせいか、聖職者に立派な家など不要、そんな主義でずっとこのアパートに居着いているらしい。それぞれが、学生演劇界では近頃有名な、市内のふたつの高校の演劇部顧問だという話で、ときおり部員たちの読み合わせの声なども聞こえてくる。今夜は少し早いクリスマス・パーティでも開いているのだろう。
 普段のしつけがいいらしく、若者たちのざわめきは、活気はあるが野放図ではなかった。
 やがて響き始めた『ホワイト・クリスマス』の合唱も、よく練習された、心地良い混声合唱だ。
 島本は夕方買い物をした、大手ショッピング・センターの喧騒を思い出した。同じホワイト・クリスマスでも、ああいった場所の「美しいメロディーでしょう。だからモノ買って」というような感覚は、どうも好きになれない。『ジングル・ベル』などにしてもそうだ。「ほらほら陽気で楽しいクリスマスですよ。だからモノ買って」。――これはひとり寂しく特売品を漁る、貧しい独身男のひがみだろうか。
 キャベツの芯を足元の屑入れにセットしたスーパーのポリ袋に放り込み、そこでその袋がいっぱいになってしまったので、口を縛って玄関横の燃えるゴミ大袋に放り込み、屑入れには今日もらったポリ袋を新しくセットして――そこで島本は、ポリ袋の中に、まだ何かの小袋が残っているのに気がついた。
 つまみだしてみると、それは数本のミニ・キャンドルだった。デコレーションケーキに飾ったりする、カラフルな愛らしい蝋燭が、オマケっぽい小袋に並んで入っている。
 百円の玉子六個パックか、野菜ジュースにでもくっついていたのだろうか。それとも、前の客がカゴに残していったのか。いずれにせよ、有料の品ではなさそうだ。クリスマス・セールか何かのオマケだろう。
 ちょっと小さすぎて停電用には使えんわなあ――島本はその袋をひねくり回しながら、炬燵に戻った。

     ★        ★

 食後の日本茶をすすりながら、しばし黙想する。食後すぐには血が腹に回ってしまうので、打鍵には向かない。ただ、そこはかとなく想いを巡らせているうちに、ベースのアイデアはけっこう浮かぶ時がある。
 クリスマス――クリスマス・ケーキ――鳥の丸焼き――シャンペン――貧しい中年男――チョンガー。
 鳥の丸焼きが食いたい。しかし金はない。金があったとしても、ひとりでは食いきれない。骨付きのモモ焼き? しかしそんな物は、クリスマスでなくとも、今は年中あるよな。やっぱり丸焼き。クリスマス・ケーキはさして食いたくもないが、まあ季節の物として金があったら食ってもいい。しかしやはり、ひとりでは食いきれない。シャンペンもそうだ。ウィスキーや日本酒なら、いくらでもひとりで飲めるが――つまりポイントは、やはり金がないことよりも、基本的にひとりであることが、クリスマスという概念を、その主人公から遠ざけているのだ。って、俺だ、俺。
 そうだ。今はステーキ肉すら半端なそぎ落としから成型できる時代ではないか。安い鶏肉で、独身者サイズの丸焼きを成型してしまえばいいのだ。そして直径数センチのクリスマス・ケーキの超精密フィギアを、マジなケーキ素材で作って、シャンペンのミニ・ボトルと組んで、コンビニで売ればいいのだ。『ひとりクリスマス・ディナー』。ひとり鍋だって売れる時代なのだから――。
 島本は頭を抱えて、炬燵にうずくまった。
 部屋がいきなり暗くなったような気がした。
 ――いかん。病気で昼間っから寝てるときのような気分だ。
 気を取り直し、古いジッポで煙草に火を着ける。一日十本は自分に許している。それがないとそれこそ一打もできず、結果的に餓死してしまうからだ。その代わり、安いゴールデンバット。フィルターなしの両切だから、昔どこかのビンゴで当てたミニ煙管を使えば、吸い殻なしに丸々吸える。買うたびに味の違う不思議な煙草だが、その時々の余剰葉で造るという噂は本当だろうか。確かに運が良いときは、ハイライトに近い味だったり、ピースのような味だったりする。まあ大概は、辛いだけだが。ああ、フィリップ・モリスというのは、ほんとに旨かったなあ。
 ヤニが回るといくらか気分が良くなり、島本はふと思いついて、手元の小袋からキャンドルを一本取り出した。
 なんだかよくわからない色には、オレンジが似合いそうだ。
 粟粒のようなかわいい炎の灯ったキャンドルを、てっぺんに立ててやる。
 なんだかよくわからないものの頭が、ほんのりオレンジ色にぬくもった。
 ――おお、似合う似合う。
 こころなしか、喜んでいるようにも見える。
 しかし一本きりでは、まだ寂しげでかわいそうだ。
 ――ちょちょいとな。
 赤と緑のキャンドルを、左右に追加してみる。
「♪ ぼーくーはオッバッケーのーQーたーろおー ♪」
 これはちょっと気を悪くしたかな、と不安になってよく見定めると、やはり喜んでくれているようだ。
 実際、からかったり悪戯をしたりしているつもりはない。
 まだ両親も兄も生きていた幼い頃、クリスマスにQ太郎のプラモデルを買ってもらって、どれほど嬉しかったか。ポルシェのミニカーを買ってもらった兄も、同じくらい嬉しかったに違いない。二本の鳥の腿を、祖母も含めて五人で分け合うような時代だったが――。
 早く家族を失った人間は、早く家族を成したがると言う人もいる。
 しかし、それは人それぞれだ。
 あのバブルの頃のクリスマス、取材で訪れた有名ディスコでは、B,zの『BAD COMMUNICATION』が、鼓膜を破らんばかりに鳴り響いていた。――そう 逃げてる いつかそれを 失うのが恐くて かけがえのないものを作ることから逃げ出してる――。ペエペエのライターが、ディスコ帰りにインタビューと称して初見の女をホテルに連れ込んでも、それが取材費で落とせる時代だった。あの娘たちは、今頃どうしているのか。
 ――いや、うらぶれまいうらぶれまい。
 島本は景気付けに、残りの三本のキャンドルにも火を点し、なんだかよくわからないものに、両手と尻尾を与えてやった。
 なんだかよくわからないものは、薪をふんだんにくべた暖炉のように、暖色にぬくもった。
 島本の脳裏に、かつての一夜限りの娘たちの明後日が、ありありと浮かんだ。
 人は皆、俺のような馬鹿ではない。浮かれた腰を時の流れと共にいつか落ち着け、それなりの旦那や子供たちといっしょに、それなりの家庭でクリスマス・イブの食卓を囲んでいるだろう。あのきわどいワンレン・ボディコン姿が、夢だったかのような福々しい姿で。
 島本はまた炬燵にうずくまった。
 しかし部屋は暗くならず、甘い暖炉の光が、汚れた炬燵板の上から、島本の頭を暖めていた。
 ――ああ、俺はかわいそうなマッチ売りの少女。でも、最後の一本が燃え尽きたとき、きっと天国のおばあさんが、俺を迎えに来てくれるんだわ。
 炬燵板の上に、いかにも幻想的なフォグさえ漂い始めた。
 ――フォグ?
 なんぼなんでもそれは過剰演出だろう、そう思って顔を上げると、炬燵の上のなんだかよくわからないものは、実際に白い霧の中で、いかにも幻想的に揺らめいていた。
 ――ああ、ばあちゃん。
 そんな夢の世界に逃避しかけた島本だったが、次の瞬間、激しい咳きこみに襲われて我に返った。
 ぼろぼろ流れてくる涙も感傷のせいではなく、物理的に煙が目にしみているのである。
 しまった、可燃性物体だったのか――島本は大慌てで、なんだかよくわからないものの周りの煙を払った。
 そうではない。
 ちっぽけなキャンドルなど、すでに頭のてっぺんは燃え尽きており、まだ炎の残っている部分も、本体に引火した様子はない。
 島本はおそるおそる炬燵布団をめくった。
 煙が吹き上げ、熱気が流れた。
 しまった、炬燵が――パニックを起こしかけて、また首をひねる。コードが繋がっていなくても過熱する電気炬燵が、この世に存在するだろうか。
 それでも炬燵の中敷の下から、じわじわと煙が燻っている。
 島本はようやく事態を飲みこんだ。
 真下の一階が、燃えているのである。

     ★        ★

 泡を食って部屋を飛び出し、階段を駆け下りる。
 真下は新婚さんのスイート・ホームだ。同じ崩壊寸前のアパートに違いはないが、真新しいネーム・プレートのピンクの縁取りや、『とだしんきち・まゆみ』などという丸まっこい手書き文字が、いかにも毎晩の甘い吐息の応酬などを想像させた。
 ドアの隙間から、きな臭い煙がうっすらと漂っている。
 島本は力任せに、ドアを連打した。
「戸田さん! 戸田さん! とだしんきち・まゆみさあん!」
 ――返事はない。
 この際不法侵入もくそもあるまい――ノブを回すと、ドアはあっさり開いた。
 二階のちっぽけな流し台と違い、一応四畳半まるまるくらいの台所である。
 その真ん中に、セーターにエプロンの若妻が、背中を見せて立ち竦んでいる。
 そして奥の畳の部屋で、炬燵の上の天麩羅鍋が、派手に炎をあげている。
 若妻はぽつりとつぶやいた。
「――燃えてる」
 おう、舌足らずの可愛い声、などと喜んでいる場合ではない。
「――燃えてます」
 島本は消火器を探して台所を見回したが、そんな代物は自分の部屋にも用意していないし、新婚家庭の必需品でもないだろう。
 若妻は開いたままの携帯を手に、ただ呆然と突っ立っていた。トイレのドアが開きっぱなしなのを見ると、お座敷天麩羅の準備中におトイレに入ったところへ、携帯に着信、そのまま長話――そんなところか。
 とにかく消防署呼んで、とだけ叫んで、島本は階段に駆け戻った。その裏に、共同の消火器が置いてあるのを思い出したのである。
 騒ぎを聞きつけたらしく、隣の部屋の教師・山福も、いかつい鬼瓦のような顔を覗かせた。
 お隣が燃えてます、と声をかけ、脱兎のごとく消火器を抱えて駆け戻ると、ジャージ姿の山福は、すでに自前らしい消火器を天麩羅鍋に吹き付けていた。
「火事だあ! 火事だあ!」
 破れ鐘のような声が響いている。
 さすが教師、消防訓練にも慣れているなあ――島本は感心しながら、初期消火作業に参加しようと、消火器のピンを抜いて身構えた。
「ちょい待ち!」
 山福がそれを制した。
「あなたは天井を」
 ううむ、さすが教師――島本は燻っている蛍光灯の傘や天井板に向きを変え、消化剤を放出した。
「奥さん、消防署は?」
 振り返って見ると、若妻はさっきと寸分たがわぬ直立不動のままだった。
「――新吉さんは揚げたての天麩羅が好きなんです」
 携帯もどうやら、さっきからただ握りっぱなしらしい。
「もうバイパスのとこまで帰ってるんです」
 口元がうっすらと笑っているようだ。
 ――これがゲシュタルト崩壊という奴か。
 半ば感嘆してしまった島本に、山福が苦笑いを向けた。
「うちの奴が電話してます」
 ううむ、ベテラン社会人、強し。
 部屋中真っ白にした結果、炬燵の上は無事消火できたようだ。
 粉まみれの蛍光灯の傘が、粉を浮かべた天麩羅鍋に落ちて、油ごと派手に引っくり返したが、また燃え出す気配はない。
 島本は自分の担当した天井を、固唾を飲んで見守った。
 一見真っ白に冷めたように見えた天井板の間から、またちらちらと赤い舌が、しぶとく覗き始めた。
「すみません」
 俺ってほんとに公共的に無能者――島本が首を縮めると、
「なあに、あなたのせいじゃありません。天井裏に火が入ったんでしょう。さ、逃げましょうや」
 山福はいかつい顔にあんがい柔和な笑顔を浮かべた。
「さ、奥さんも」
「新吉さん、遅いなあ」
 まだ現実から乖離している若妻を促して通路に逃れると、二階の住人の浪人生が、島本同様無精髭に綿入れ半纏姿で、ぼーっと立っていた。国立大としては比較的敷居の低い峰館大を狙って、さらに田舎から出てきている少年だ。
「消えました? 焼けます?」
 普段と同じ緊張感のない声に、島本はむしろ救われた気分になった。
「どうも焼けそうだよ」
「ありゃ。じゃ、ノートとアンチョコだけでも」
 島本もその後を追った。
 自分の部屋に駆け戻ると、室内は意外にさっきと変わらず、薄い煙が燻っているだけだった。いくら安普請でも、階下の天井の上に、じかに二階の畳が乗っているわけではない。配管やらなにやらの空間がある。炎はそこで潜伏しているのだろう。
 島本は素早くパソコンから外部ドライブだけ引っこ抜き、MOやCD―Rといっしょに、ありあわせの手付き袋に突っ込んだ。それから通帳や保険証の入った肩掛け鞄を下げて――四方の貴重な財産、古書の山を見渡した。
 十年前なら、いっしょに心中していたかも知れない。しかし、ここ数年の不安定な生活の中で、島本はすでに悟っていた。転々するものすべては空《くう》。不生不滅。不増不減。
 ――さらば。灰は灰に、塵は塵に。
 島本は踵を返して通路に逃れようとした。
 なにかが、部屋の中で鳴いたような気がした。
 このなんだかよくわからない音は――振り向くと、炬燵の上で、あのなんだかよくわからないものが、ぼて、と佇んでいた。
 もう両手は塞がっている。これ以上荷物を増やしたくない。しかし――島本はあえて別の手付き袋を探し出し、あちこち煤けたなんだかよくわからないものを、そこに詰めた。
 そんな正体不明の化学物質だか有機体だかなんだかよくわからないものを火にくべてしまい、有毒ガスでも発生されたら大事だし――それ以上に、なんとなく、ほっておけない気がしたのである。

     ★        ★

 逃げ出す前に、島本は念のため、二階の一番奥の部屋をノックしてみた。
 そこは去年越して来た、フローラさんの部屋だった。
 フローラさんといっても、外人さんではない。表札は上野千鶴子となっている。早い話が、源氏名である。峰館市街の花小路という盛り場で、結構高級なクラブのホステスをしているらしい。
 むしろ飾らないレンゲ草を思わせるその三十年輩の楚々とした美女が、なぜ水商売をしているのか、そしてなぜこんな古アパートに住んでいるのか、残念ながら島本は知らない。源氏名を知っているのも、営業熱心らしい彼女が、アパート中の独身男に名刺を配って回ったからである。といって、こんな安アパートに住んでいる男どもが、そんな高そうな店で飲めるはずもなかった。
 何度か強くノックしてみたが、返事はない。部屋の中も暗いようだ。職業柄いつも午後遅く出勤して、帰りは午前様だから、当然と言えば当然だ。
 ――高価な宝石など、置いていなければいいが。
 島本はいくつもの手付き袋を下げて、路上生活者のような姿で階段を下りた。
 すでに他の住人たちは避難を終えて、牡丹雪の舞い降りる中、路地の出口に固まってアパートを見上げていた。
 男女の高校生数人も、山福夫婦の後ろでざわざわと騒ぎ合っている。
 島本は山福の奥さんに、どうも、と頭を下げた。歳は島本よりも上だが、若い頃はさぞかし男性教師や男子生徒をブイブイ言わせたと思われる、理知的な美人である。旦那と並んでいると、鬼瓦の横で優雅に毛づくろいをしているシャム猫のようだ。
「どうも消防車は遅れそうですよ」
 山福の旦那が言った。
「城西や山辺でも、燃えてるんだそうです。けっこう町中《まちなか》で」
「こんな季節ですからねえ」
 島本は荷物を置いて、ギャラリーに混じった。
 その場の全員に、不思議なほど緊張感がなかった。
 本以外に貴重品など何も持っていない自分や、親掛かりの浪人や、新吉さんまだかしらとまだ現実逃避し続けている若妻はともかく、山福夫婦あたりは結構焼けると困る家財なども、多いのではなかろうか。
「あのう……」
 背後の路地から、気弱そうな声がかかった。
「えと、あの、皆さん、これは……」
 とだしんきちさんの、ようやくのご帰還である。
 まゆみさんはしんきちさんの顔を見るなり、ようやく我に返ったらしく、わっ、と若い旦那の胸に泣きついた。
「新吉さん! 新吉さん! 新吉さあん!」
 その時、ぼ、という鈍い破裂音と共に、一階の真中の窓から、炎が噴き出した。
「えと、あの、まーちゃん、これは……」
「天麩羅が火事なのよう」
 要領よく事態を説明するのは、まだ無理らしい。
 島本と山福の旦那が、推測を交えて代理で説明すると、さすがに戸田は血相を変え、いきなりその場に土下座した。
 生真面目な涙声の詫び言やら、妻の責任は自分の責任ですやら、一生かかってもこの償いはやら、取りすがっていっしょに頭を下げる若妻の泣き声やら――これらの直撃を受けて、シニカルでいられる人間は鬼である。
 うんこ座りで煙草を吸っていたために、真正面から土下座の直撃を受けてしまった浪人生が、ぼりぼりと頭をかきながらつぶやいた。
「まあ、なんつーか、あれですよね。わざとじゃないんだし、まあ俺としては、なんつーか不幸な事故ってことで」
 ――おう浪人、ナイス反応。
 島本が感心していると、山福の旦那も、力づけるように戸田の肩を叩いた。
「まあまあ、頭をお上げになって」
「そうですわ。そんなにご心配なさらなくとも、大丈夫ですわ」
 山福の奥さんが、確信に満ちた声で言った。
「保険がありますもの」
 俺は入ってないけど、まああれだからなんつーかまあいいや、などとつぶやく浪人生に、
「あら、でも、あなたもここに住んでらっしゃるなら、駅前のメイプル不動産さんでしょう?」
 浪人生はこくこくとうなずいた。
「だったら契約の時に、入居者総合保険に、入ってるはずですわ。大家さんが、入居者全員必ずそうするようにって、わざわざ礼金から負担して下さっているのよ」
 横で聞いていた島本も、ようやくそんな契約書の一項を思い出した。
「えーと、そうすると、なんつーか、俺の場合」
「お独り身の方だと――確か四百万だったかしら。うちのような家族なら、六百万まで請求できます」
 山福の旦那は、いやさすが俺の愛妻はしっかり者だわい、と言うようにうなずいている。
 生徒たちも、これはいい社会勉強だなあ、と言うようにうなずいている。
 まだ怪訝そうに首をひねっている新婚夫婦の肩に、山福の奥さんは優しく両手を置いた。
「賠償側だと、二千万まで下りますよ」
 下で考えこんでいた浪人生が、いきなり絶叫した。
「超ラッキーィィィ!」
 うんこ座りのまま、ガッツ・ポーズを取っている。
「頼むぜ、ぜーんぶ燃えてくれい! そんだけありゃ、二浪三浪も楽勝じゃん」
 その叫びに呼応するように、浪人生の部屋の窓から、炎が吹き出した。
「消防車、来るな」
 島本も不道徳ながら、内心そう願っていた。書物とはすでに精神的決別を果たした。己の創作データは全て手中にある。後はあのレトロパソコンや超レトロ家電が、焼ける事によって最新型に変身してくれれば――新生俺、島本R。
「ありゃ?」
 舞い上がっていた浪人生が、妙な声を上げた。
 二階の一番奥の窓に、急に灯りが点いたのである。
 カーテン越しの光は明らかに均一で、飛び火とは思えない。
 そのカーテンに、右往左往する人影が映った。
「なんで、おねーさま、今頃……」
 浪人生が呆然とつぶやいた。
 ――フローラさん!
 島本は我を忘れて、駆け出していた。
 美女はこの世の貴重な資源である。まして三十過ぎても素顔で勝負できる女性となれば、二千万やそこらで償えるものではない。死んだら減ってしまう。お釈迦様的悟りの、範疇外だ。
 島本は瞬速で階段を駆け上がり、立ちこめる煙をものともせず、最奥のドアに突進した。
「無事ですか千鶴子さんさあ助けにきました私と一緒に行きましょう」
 部屋に飛び込むなり、島本は絶句した。
 ――ここは、俺の部屋か。
 ほとんど炬燵と蒲団だけの部屋を、無数の書籍の背表紙が取り巻いている。しかし良く見れば、島本ごひいきの岡本綺堂なども、初単行本だけでなく、初出誌まで揃えてあるようだ。島本の数十倍は金をかけている。
 千鶴子はパジャマの上着だけ羽織り、下はショーツだけという必殺のいでたちで、なにやら懸命に書籍を選別していた。
 ――おお、フローラさん、ナイス・ヒップ。
 などと感動している場合ではない。
「行きましょう。隣まで火が来てます」
「行けません」
 千鶴子はきっぱりと答えた。
「せめて初版本だけでも」
 きりりと島本を見据える瞳が、怪しく燃えていた。
 これは――まるで洞窟の女王、否、神保町のクイーン。
 たじたじと退いた島本の足が、枕もとの屑かごを蹴り倒した。鼻をかんだらしいおびただしいティッシュが散乱した。良く見ると、千鶴子の鼻が赤い。声も鼻声だ。枕もとには、今日島本も行ったばかりの、医院の薬袋も置いてある。
 風邪薬に含まれる抗ヒスタミン剤は、ふだん睡眠不足気味の人間にとって、睡眠薬と同じだ。それでこれまでの騒ぎにも、気づかなかったのだろう。今もまだ、醒めきっていないのかもしれない。
「死んだら本も読めません」
 島本は再び歩み寄って、千鶴子の腕を引いた。
「そんな問題じゃありません」
 千鶴子は島本の手を振りほどいて、綺堂の『玉藻の前』の初版本をかき抱いた。
「『おお、一緒に棲むところあれば、魔道へでも地獄へでもきっとゆく』」
 島本は強引にその本を奪い取った。
 千鶴子の痩身に似合わぬ豊かな乳房が、ぷるん、と揺れた。
 島本はその書物――多くの人にとっては風化しかかった黴臭い古本、しかし自分を含めた少数の人間にとっては黄金にも等しい宝を、千鶴子の前で、真っ二つに引き裂いた。
「確かに書物は、先人の言霊の結晶です」
 呆然と立ち竦んでいる千鶴子を、きっ、と見つめて、島本は続けた。
「しかしそれを受けるあなたの心なくして、なんの書物、なんの言霊」
 千鶴子の背後の背表紙たちが、煙を上げ始めた。
 こくり、と千鶴子がうなずいた。
 熱気の渦巻く通路を、千鶴子を半纏でかばって急ぎながら、島本は思った。
 ――でも、横光利一の『寝園』や、乱歩の『蜘蛛男』は、初版だったら持って逃げたほうが良かったかなあ。

     ★        ★

 消防車やパトカーのサイレンは、まだ気配すら響いてこない。
 元来可燃物の塊とでも言うべき建物のこと、一度くまなく火の回ったアパートは、壮大な焚き火となって雪空に映えた。
 無数の木材がばちばち爆ぜる音も想像以上に激しかったが、むしろその熱気の渦に、島本は圧倒された。寄り添うように立っている千鶴子も、山福の奥さんに借りたジャージと、島本の綿入れ半纏だけで、充分暖かそうだ。
 浪人生のいた端の部屋が、支えを失った階段と共に、ばりばりと崩れ落ちた。
 やった、完璧、などとグーを作る浪人生の後ろで、山福の奥さんが突然叫んだ。
「ああっ! あの炎の中に、私の赤ちゃんがっ!」
 山福関係者以外の住人は、驚愕して振り返った。
 山福の奥さんは炎の照り返しを受けながら、身も世もあらぬ悲愴な表情を浮かべ、身をよじっていた。
 島本は危うくアパートに向かって、またダッシュしそうになった。それほどリアルで気のこもった叫びだった。
 浪人生がつぶやいた。っつーか、いねえじゃん、子供。
 山福の奥さんは何事もなかったかのように、お上品顔で生徒たちに講釈を始めた。
「このようにスタニフラフスキー演劇論では、内面からの演技が外面に表出されなければなりません。当然シチュエーションによっては、非常に高度な想像力、いえ、その状況とキャラクターに、完全に同化することが要求されます。しかし、そのために舞台を燃やすのは不可能ですね。また、その必要もありません。セットがなく暗幕一枚でも、俳優の演技から炎を見せることが可能です。しかし、今の皆さんには、それはまだ難しい」
 生徒一同が、こくこくとうなずいた。
「ちょうどいい機会です。花輪さん、どうぞ」
 上級生らしい女生徒が、こく、とうなずいて一歩踏み出した。
「ああっ! あの炎の中に、私の赤ちゃんがっ!」
 うーん、今一――四点。
 講師としても同じ感想だったのだろう。山福の奥さんは、顎に人差し指をあてて講評した。
「花輪さん、もし観客席に、本当に火事でお子様を亡くしたお母様がいらっしゃったら、その演技から何を思われるでしょう」
 女生徒は真剣な表情で黙考した。
 うーむ、今時の子供たちも捨てたものではない、などと島本は思った。
「――あなたがたに、この場合の『赤ちゃん』は、まだ難しいかもしれませんね。肉体的成熟は皆さんご立派ですが、物理的に産める産ませられるからと言って、母や父になれるとは限りませんし」
 生徒一同が、またこくこくとうなずいた。
「では、こうしましょう。『赤ちゃん』の代わりに、皆さんの今一番愛しているもの、それがあの燃え盛る炎の中に取り残されています。はい、花輪さんから、もう一度」
 女生徒はしばらく黙考を続けた後、思い切ったように一歩踏み出した。
「ああっ! あの炎の中に、私のヨン様がっ!」
「――結構でした。それでは、西田さん」
「ああっ! あの炎の中に、私のAさん(仮名)がっ!」
「吉田さん」
「ああっ! あの炎の中に、私のミケがっ!」
「東条さん」
「ああっ! あの炎の中に、私のペスがっ!」
「黒田君」
「ああっ! あの炎の中に、僕のアダちゃんがっ!」
「渡君」
「ああっ! あの炎の中に、自分の裕さんがっ!」
「一太郎君」
「ああっ! あの炎の中に、俺の花子がっ!」
「バニラ君」
「ああっ! あの炎の中に、ワタシの仲間由紀恵さんがっ!」
 一部島本の知らない名前も混じっていたが、平均七点はやれるだろう。
 炎の山が本格的に崩壊を始めた頃、ようやくけたたましい消防車やパトカーのサイレンが近づいて来た。
 しかし真っ先に現場に到着したのは、大家の軽と、青年の運転するミニバンだった。
「おやおや、形無しですなあ」
 大家の阿久津老人が、もはや名実共に巨大な焚き火と化しつつあるアパートを眺め、感慨深げにうなった。面倒見のいいタイプなので、しばしばアパートの補修などにも訪れ、入居者全員の顔も覚えている。
「とにかく皆さん、ご無事で何よりだ。そちらのお子さん方は、山福さんの生徒さんたちかな。お寒いでしょう。どうぞ、車の中へ」
 ごめんなさいごめんなさい、妻の不始末は僕の責任です、などとまとわりつく若夫婦を、老人は、なあに焼け太り焼け太り、と軽くいなしながら、自分の軽に導いた。
 ミニバンから、青年が顔を出した。
「お久しぶりです、先生」
「おお、茂。ヤマブクロでいいぞ」
 えへへ、と照れ笑いを浮かべる青年の顔に、島本は首をひねった。
 ――こいつ、昔、会ったことがあるぞ。峰館ではなく、東京の、確か出版社で。
 青年も島本の表情に気づいて、同じように首をひねった。
「……えーと、あの、島本さん?」
 島本は、その人の良さそうな青年の顔を、下請け編集会社のうらぶれた情景の中に、ようやく思い出した。
「……イラストの『あっくん』?」

     ★        ★

 島本は慣れない座敷で寝つかれず、障子の窓枠に腰を下ろした。
 半纏のポケットからゴールデンバットを取り出し、ミニ煙管を持って出なかったのに気づく。
 昔、両切りの缶ピースを吸っていた父親の姿を思い出しながら、とんとんとん、と煙草の片端を軽く窓枠に当ててみると、記憶どおりに中の葉が詰まって、巻紙のもう片端に少しだけ余裕ができた。そこをつまんで吸い口に仕立て、唾で濡らさないように気をつけながら、いつものジッポで火を着ける。
 ――思えば俺は、この安ジッポひとつ遺して若死にした親父よりも、長く生きちまったんだよなあ。
 灯りが落ちて、がらんと暗い宴会用の座敷には、様々な串焼きの匂いが、温もりとともに染み付いていた。
 大家がバイパス沿いで経営している、焼鳥酒場の二階である。
 ただ障子の格子だけが、朧に長く連なっている。
 その闇の下に、焼け出された住人たちが、点々と水底の魚のように横たわっていた。
 あのひとつの毛布にくるまった若夫婦は、どんな夢を見ているのか。事件性はなかったにしろ、火元としての事情聴取は、自分や山福に比べ、ずいぶん長くかかっていた。破綻と再生を一夜の内に味わった鴛鴦たちの夢が、願わくば春の夢でありますように。
 バイパスを行き交う走行音は、まだチェーン半々といったところか。しかしこの障子の明るさだと、夜は雪で満たされているだろう。
 島本は横の障子を開いた。
 外のサッシ一面に、夜露が光っていた。
 そうか、そうなんだ。部屋の中、夜露、ガラス窓、それから雪の夜。
 人々のなりわいというものは、そうした順序で構成されていたのだ。
 子供の頃の家も、冬には夜毎、ガラスが夜露で濡れていた。ろくな暖房がなくとも、家族たちの息が小さな家にこもっていたのだ。
 島本はもう数年、自室の結露を見ていなかった。いつからか炬燵以外の暖房を必要としない体質になってしまったし、自分ひとりの息では、冬の乾燥した大気を曇らせるには不足だったのだ。
 幾重にも流れる夜露の筋を目で追いながら、島本はただバットの紫煙をくゆらせた。
 ぽ、と少し離れて炎が揺れた。
 メンソールの香りが漂った。
「……ありがとうございました」
 千鶴子の密やかな声が、細く響いた。
「いえ、僕こそ、すみません」
 島本は、手元の灰皿を押し出した。
「あのコレクションが自分のものだったら、僕も心中していたかもしれない」
 薄明かりで表情までは見えないが、千鶴子の息づかいは微笑んだようだ。
「中身だけでよければ、かなりデータが残ってます。選集や文庫からの掻き集めで、あとは図書館のコピーのスキャンとか、テキストだけですけど」
「……ときどき、見せていただいてよろしいですか」
「喜んで。プリントしましょうか。今すぐは無理ですが」
 千鶴子の指が、窓の夜露を拭った。
「……いいえ、見せていただくだけで」
 夜露の外の夜は、やはり舞い降りる雪で満たされていた。
 くしゃん、とくしゃみをする千鶴子を、島本はあわてて毛布で包んだ。

     ★        ★

 ――さて、その間。
 なんだかよくわからないものは、他の荷物に紛れ、汚い手付き袋の中で、特になにも考えていなかった。もともとそれ自体が、考えるとか考えないとか、そうした次元の存在ではなかったからである。まあそもそもの存在意義からして、その周囲の『因果律』そのものには、弱冠影響を与え続けていたのかもしれない。
 翌朝島本は、保険が下りたら必ず返すと約束し、茂から幾許かの金を借りた。同郷であることは前日まで知らなかったが、同じ泡沫クリエイター仲間であり、都落ち仲間でもある。歳の差を気にしたり、安定した実家の存在を羨むほど、島本も初心ではない。水は高きから低きに流れる。金はそうでもないようだが、この際少しくらいいいだろう。
 翌春まで住む場所は、大家がコネで各人のアパートを探してくれることになった。さすがに即日は無理なので、島本たちはとりあえず、やはり大家のコネのビジネス旅館に移った。浪人生だけは、ひとまず実家に帰って行った。
 るんるん、隣の部屋は千鶴子さん、ラッキー、などと脳天気に鼻歌を歌いながら、島本は初めて、なんだかよくわからないものを途中で落としてしまったのに気がついた。
 もともとくたびれていた紙袋の底が、湿って抜けていたのである。
 ――とうとうなんだかよくわからなかったが、ま、大丈夫だろう。なかなか萌える奴だったし。
 島本は買出しに出かける準備を始めた。
 風邪っぴきの女王様には、玉子酒――いや、それは俺の願望だな。やっぱり、蜜柑あたりが無難だろう。ビタミンC、てんこ盛りみたいだし。




  Act.2 【十二月二十三日】


 高木慎也は息をひそめて、スクリーンを見つめ続けた。
 あちこち染みのある、古く大きな銀幕の上で、冴えないおっさんと、まあ綺麗だと言えば言えなくもない程度のおねえさんが、いきなりラブホでエッチを始めた。
 ――えーと、さっきまでは、なにかミステリーっぽいドラマを安っぽく演じていたような気がするのに、なんでいきなりラブホに入っちゃうのかな?
 それは言わない約束になっているという、ピンク映画特有の法則を、慎也はまだ理解していなかった。
 さすがにテレビより遥かに大きなスクリーンで、どたんばたん、あるいは、ぱんぱんぱん、などと繰り広げられる男女の絡み合いは迫力があったが、その行為の内容自体は、さほどインパクトがなかった。鍵っ子の悪友の家でこっそり見せられる裏DVDや、自分の部屋で夜中にこっそり覗く、ネット上の荒いサンプル映像のほうが、即物的なぶんだけ将来の参考になるような気がする。
 実際は銀幕上の行為のほうが、必然性は薄いにしろ情動的に『現実的』な男女の在りようである、そんな社会的意味合いまでは、当年とって十五歳の中学三年生のこと、まだ理解できなかった。
 全世界のミドルティーンやローティーンの性の乱れがどうであろうと、少なくとも東北の片田舎に住む慎也やその同級生たちにとっては、まだまだ手の届かない世界、仮想世界に過ぎない。まあ全世界といっても、それはそれを問題にする大人たちにとっての世界であって、すべての少年少女が大人同様に無差別に好色であるとは限らないという常識は、新聞でも週刊誌でも、あまり喧伝されない。印刷頒布するのが無差別に好色な大人なので、やむをえないことなのだろう。
 慎也は正直言って、そのシーンに巻きを入れたいと思っていた。うざい。かったるい。
 まあ肉体年齢相応に、股間の息子、というよりまだ孫は、それなりに反応している。しかしこの際、もっと重要な件が残っているのである。
 いったい兵藤麻美は、どこに登場するのだろう。
 ピンク映画――そんなジャンルがまだこの世に存在することを、慎也があえて認識したのは、つい二週間ほど前だった。
 ビデオやDVDに押されて前世紀の遺物扱いになりつつあるジャンルだが、この世界には、レンタルしようにも身分証明の不可能な人々や、そもそも自分の部屋のない人々や、個室鑑賞のデッキの操作さえ不安な人々が、まだ多数存在しているのである。
 そして、自宅もデッキも持ちながら、あえて公共のこうした場を必要とする人々もいる。
 がら空きの小劇場で、わざわざ慎也の隣に座った、見知らぬおっさんなどがそうである。
「コーヒー、飲む?」
 親切に缶コーヒーを奢ってくれる。
「あ、どうも」
 慎也は上の空でそれを受け取り、スクリーンを凝視しながら、プルトップを引いてしまった。
 ――おお、おっさん親切、ラッキー。
 しかしおっさんのほうでは、よし、OK、いつこの青鹿のような少年の膝に手を伸ばそうか、どこまで触らせてくれるか、などと考えているわけであるが、慎也は無論、想像もできない。
 いったい兵藤麻美は、いつになったら登場するのだろう。それとも、すでに通行人か何かで、画面の隅をよぎってしまったのだろうか。先月テレビでチェックした、あの事件番組の再現シーンのように――。
 スクリーンのふたりは、ようやくラブホでの一戦を終えて、安直不倫ミステリーのシナリオに戻ったようだ。
 綺麗だと言えば言えなくもない程度のおねえさんが、自分のアパートに帰った。
 ひとり暮らしらしく、兵藤麻美は、その部屋にいない。
 慎也ががっかりしていると、一方の冴えないおっさんが、冴えないおばさんのいるマンションに帰った。
 中学生の娘が、夕餉の食卓にいる。
 ――麻美ちゃん。
 慎也は目を皿のようにして、耳をそばだてた。
 ピンク映画は、成人指定であっても、あくまで本質は劇映画である。ストーリーとして成立したシナリオもあれば、作劇上、子役も登場する。児ポ法のうるさい昨今、無論きわどいシーンに登場したりは、絶対にしない。その点では、カット割りや吹き替えで、内容的にけっこう危ない役もやらせてしまうテレビドラマやオリジナルビデオのほうが、よほど過激だろう。
『お父さんがこんなに早く帰るの、珍しいよね』
 ――おお、セリフがある。
 身を乗り出した慎也の感動と期待も虚しく、シーンはすぐに深夜の夫婦の寝室に変わり、あろうことかあるまいことか、冴えないおっさんと冴えないおばさんが、一戦交え始めた。
 俺は動物の交尾を見に来たんじゃねえんだよう、などといくら心中で嘆いても、交尾はえんえんと続く。
 慎也は不埒にも、もしかしたら娘がその場を覗くのではないか、などと一縷の望みを抱いた。
 しかし次のシーンは、すでに冴えないおっさんの出勤風景だった。
 そして、さらにあろうことかあるまいことか――会社に娘の事故死を告げる電話が入り、次のシーンでは、麻美は黒い額縁の中に納まっていた。写真が一度だけアップになり、それきりらしい。
 ――馬鹿野郎、金返せ。
 慎也は激怒しそうになった。
 いやしかし、まだ回想シーンとか、あるかも――そう気を取りなおして缶コーヒーに口を付けた時、誰かが後ろから慎也の肩を叩いた。
「君、中学生じゃないの?」
 びくりと硬直して、恐る恐る振り返ると、見覚えのあるとても冴えないおっさんが凄んでいた。
 ――おう、歳末巡回中。
「おや、君は――」
 生活指導の教師である。
「ち、違います」
 慎也はあわてて立ち上がった。
 逃げ出せば、それは即「はい、中学生です」なのだが、こんな状況を見越して、マフラーとスキー帽で、顔は半分隠してある。逃げ切れば勝ちだ。
 早足で通路を逃げ出す慎也と、それを追う不粋な補導員を、隣のおっさんが恨めしげに見送った。
 せめてお流れを、などと思いながら、慎也が床に置いて行った飲み残しの缶に口を付けていたことなど、無論逃亡者も追跡者も知らない。

     ★        ★

 峰館座は、市内で唯一の、古風な常設映画館の生き残りである。
 数年前繁華街にオープンした大手シネコンによって、他の同業者は皆廃業してしまった。
 まあそれができる以前から、大半気息えんえんで、良い退き時を待っていたのが事実である。
 しかし、昔から日中を古い洋画や邦画、マイナーな独立プロ映画などの上映に当て、残り半分を成人映画で凌いでいた峰館座だけは、市内の映画サークルや、峰館大映研などの強い要望もあり、なかばボランティアとして興行を続けていた。経営者がパチンコ店やボーリング場でそれなりに稼いでおり、また月に一度はスクリーンで往年の石原裕次郎や小林旭を観ないと気の済まない老人だったので、そんな慈善事業も可能だったのである。
 その入場券売り場もまた、古いスチール写真のウインドーの隣で、昔ながらに、旧道に臨んでいた。
 雪が積もり始めたせいか、すでに暗い夕刻の旧道は、行き交う車もめっきり減ってきた。
 薫は入場券売り場で隙間風に身をすくめながら、大ぶりの焼き芋を食べていた。
 券売兼モギリ台の下のハロゲン・ヒーターは、安価ななりにがんばって、遠赤外線とやらを盛んに発している。
 それでも窓口は直接外に面しているので、いくらボードを立てて塞いでいても、やはり寒い。
 結果的に、毛糸のズロースや毛糸の靴下で、はたちの娘には不本意な、おばさん的重装備を余儀なくされている。
 まあ、この時期はこれでいいのである。峰館大の映研の連中も、冬休み中はあまり寄り付かない。地元の学生はどこかで遊び呆けているだろうし、他は帰省してしまっているはずだ。ご当地シアター・クイーン、一時休業。
 ほくほくと焼き芋を口いっぱいに頬張った時、慎也がせっぱつまった顔で売り場に飛びこんできた。
 薫は言った。
「あえあいあお」
 あげないわよ、と言ったのである。
 しかしすぐに、慎也を追ってきたらしい、補導員の姿に気づいた。
 さ、と椅子の向きを変え、ヒーターを横に蹴って、台の下を空ける。
 慎也はすかさずその奥に潜りこんだ。
「うちの生徒、見ませんでした?」
 ロハで入場した補導員に、親しい子を売る義理はない。憎たらしい色ボケの子なら突き出してもいいが、慎也が成人映画の時間帯に入場したいなどと言い出したのは、今日が初めてだ。普段は自分と同じ、名画座おたくである。
 薫は焼き芋を飲みこんで、思いきりしらばっくれた。
「今、出てっちゃいましたけど」
 すまし顔をすると、薫はちょっと見よりはいい娘《こ》っぽくなる。中年の補導員は『少女A』の明菜顔にあっさりだまされ、くそ、とつぶやいて街路に飛び出していった。
 そのまま雪の中に消えるのを見届け、薫は台の下に声をかけた。
「ほい、行っちゃったよ」
 ついでに、ちょっと事務服のスカートの脚を、ぱ、などと開いてみせる。
「ほい、サービス」
 おばはんのパンツなんて見たかねーよ、そんなぼやき声が下から聞こえた。
「おーい! 先生さーん!」
 ごめん、おねえさま。でもパンツ、おばはんしてるじゃん――ぶつぶつ言いながら、慎也が這い出してきた。
「ヒモパンだったら、嬉しいかもしんない」
「よしよし、春になったら御開帳してあげよう」
「……いいよ」
 口の割にはウブな慎也を、薫は普段から弟のようにからかっていた。
「それより、あれ、何だ?」
「あれって?」
 慎也は自分が出てきたばかりの、台の奥を示した。
「それ」
 薫は身をかがめて、足元の奥を覗きこんだ。
 なんだかよくわからないものが、すみっこにうずくまっている。
 生き物のような風船のような、動いているような、いないような。
「……食いつくかな」
「……知らね」
 薫は上履き靴の爪先で、試しに軽く突っついてみた。
 ぷよん、と揺れただけで、動き出す気配はない。
「慎也」
 薫は慎也を顎で促した。
「はい、ここに上げて」
「えー、なんで俺が」
「こーゆーのは、男の仕事なの」
「キモいよ」
「そーゆー弱い子は、麻美ちゃんに嫌われるぞ」
「……薫に関係ねーじゃん」
「おーい! 中坊がエロ映画観て――」
 慎也はあわてて薫の口を塞いだ。
 薫は口を塞がれたまま、横目で慎也を睨みつけ、こくこくとうなずいた。
 慎也は降参して、またごそごそと台の下に潜りこんだ。掌に付いたオレンジ系のルージュに、ちょっと鼻を寄せてみたりしてしまったのは、まあ若気の至りとして、かんべんしていただきたい。
「おらよ」
 慎也はぶよぶよと持ちにくいそのなんだかよくわからないものを抱えて、台の上に据えた。ヒーターの輻射を受けていたのか、けっこう暖かく、意外に軽かった。
「なんか、中でぐうぐう言ってるぞ」
「おなか空いてるのかね」
 薫は食べかけの焼き芋を、おっかなびっくり近づけてみた。
 ぬぽ、と、焼き芋は、そのなんだかよくわからないものの中に吸い込まれた。
「うひゃあ」
 薫はあわてて手を引いた。
「……『人食いアメーバの恐怖』?」
「『ブロブ・宇宙からの不明物体』」
 映画おたくのふたりゆえ、大昔のB級SFや、そのリメーク版のタイトルなど連想してしまったが、よく見ればそんな凶悪な雰囲気はまったくない。どちらかと言えば、なんだかよくわからないなりに、そのまま自宅の箪笥の上にでも置いておきたい奴だ。
 物理的に腑に落ちないながら、ふたりしてふにふに突っついたりしていると、その後ろから、誰かが顔を出した。
「なに? それ」
 峰館大映研の、井上だった。人の良さそうな長い顔に微笑を浮かべて、ガラスの外から中を覗いている。
 薫はたちまち、ぽ、と頬を染めた。そして、でかい焼き芋を始末してくれたことに心から感謝しながら、なんだかよくわからないものを、ひょい、と横にどけた。
 井上は傘を持って出なかったらしく、髪や肩に、薄く雪が積もっていた。
「なんだろうねえ」
 ふたりに助言を求められた井上は、窓口から手を差し入れて、その不明物体を触ってみた。
 雪で濡れた指が、うにゅ、と飲みこまれた。
「温かいね。それに、さらっとしてる。丸くなって寝てる猫の、おなかのまん中あたりに指をつっこむと、こんな感じだなあ」
 そう言ってまた微笑する井上を眺めながら、ええわあ、と薫は内心で吐息した。
 月に一度、薫たちの映画鑑賞サークルと峰館大映研が合同で開催する、名画鑑賞会の打ち上げの時など、井上の映画評はいつも温かい。駄作はもちろん細かく批判するが、それはその映画の不備を心から惜しんでいるからであって、他の理論家きどりの仲間のように、言葉でゴミ袋に放りこむような自己中批評ではない。
 育ちがいいからなんだろうなあ、と、薫はいつも井上に憧れていた。実家は東京の、なにか老舗の菓子舗だと聞いている。ヨン様をちょっと庶民的にアレンジした感じが、とっても美味そう。
「でも、どう見ても生き物じゃないよね。警察――じゃないか、保健所にでも見てもらったら?」
「俺、明日持ってってやろうか」
 慎也も、それが妥当だろうと思った。自分も去年からその鑑賞会に時々顔を出して、井上の穏やかな良識に、多少の感化を受けていたのである。薫から貸してもらった、慎也が幼い頃の有名な映画評論家の講演CDを聴いて、その淀川長治という人が、なんとなく井上に似てるかなと思ったこともある。歳や顔や声は全然違っていても、なにかこう、色々あってもやっぱり映画と映画のあるこの世界が好き、そんな感じだ。
「そうだね。僕が持って行ってあげたいとこだけど、これからちょっと、実家に帰るから」
 井上は大きなスポーツ・バッグを下げていた。
 それでわざわざ寄ってくれたのかしら――薫の胸は高鳴った。
 そうだわ。寮は方向違いだし、この人は、絶対ピンク映画なんか観ない人だもの。もしかして、わざわざ私に会いに――んなこたねーか。でも、だったらいいなあ。
 まあ薫の井上観には、多分の理想論が含まれていたのも否めない。
 第一それ以前に、大学の映研部員ともなれば、ピンク映画も本来カバーすべき対象である。多くの映像メディアが、民生用のビデオ機器でも事足りてしまう昨今、ピンク映画製作現場は、構造上、立派な職業的フィルム映画製作現場である。現に多数の有名監督がその現場から出発し、第一線にのし上がっている。そして多くの場合、アマチュア自主映画の出身監督よりも、作劇が手堅い。実際に井上も、薫が非番で短期パートのおばさんしかいない時など、しっかりその世界をチェックしていた。
 そんな実態は露知らず、とろんとしている薫に、井上が追い討ちをかけた。
「……これ、後で読んでもらえるかな」
 そう言って、一通の封書を差し出す。
 は?
 薫はフリーズして、台の上の封筒を見つめた。
 井上らしい、真っ白の味もそっけもない長封筒だが……『薫様へ』。
 ――おてまみ。今時、メールでも電話でもない、正式のおてまみ。
「それじゃ」
 軽く手を振って、雪道に去って行く井上を、薫はあわてて追いかけようとしたが――自分の足元を見て、思い止まった。
 できれば相合傘で、駅まで送って行きたい。しかし現在、職場放棄は無理だ。せめてけなげに後姿を追いかけて、自ら傘をお渡ししたいが、自分の今の出で立ちは――おばさん風の分厚い毛糸の遠赤外線加工ハイソックスと、それでも足が収まるような、ぶかぶかの上履き靴だ。
「ほいっ!」
 手元の傘を、慎也に突きつける。
「およ?」
 慎也は一瞬面食らったが、すぐに状況を察して、売り場を飛び出した。
 ――俺、なんで薫のパシリばっかりやってんのかな。
 そんな疑問を抱きつつ、そのおかげで今日の違法行為も見逃してもらえたのかも知れないから、まあいいか、とも思う。しかしそれのおかげで、今後も一生パシリにされてしまうのではないか。
 ――いや、あと三年たてば違法ではなくなるから大丈夫。
 角の煙草屋の前で井上に追いつくと、井上は妙に大袈裟なお礼を言ってくれたあと、さらに奇妙なほど情のこもった眼差しで、彼方の峰館座を見つめた。
「じゃあ……さよなら。君も元気でね」
 女物の小さな傘を広げて、駅のほうに去ってゆく後ろ姿が、やがて雪に紛れた。やけに哀愁の漂う背中だった。
 慎也はちょっと首をかしげながら、券売場に駆け戻った。
 念のため、大袈裟に努力をアピールしてみる。
「おー寒!」
 薫は井上の残して行った封筒を、幸せそうに胸に抱いていた。
「うふふふふふふ」
「いや、すげー雪!」
「うふふふふふふ」
 台の上のなんだかよくわからないものに、ひらひらと封筒を見せびらかしたりしている。
 ――駄目だ。聞こえてねーや。
 薫はうつろな視線を宙空にさまよわせながら、
「帰りに茶店おごったげよっか、少年」
「お、おう」
 なんだか気持ちが悪いような気もしたが、小遣いをほとんど映画館に運んでしまう慎也としては、異議なし、である。残りの映画には、なんの未練もない。
 間もなく、夜の部パートのおばさんが出勤してきた。
 慎也はなんだかよくわからないものを両手で抱え、私服に着替えた薫にくっついて、夜の街に出た。

     ★        ★

 昔は繁華街だったこのあたりの旧道筋も、メインの映画館群そのものが峰館座を残し壊滅してしまったため、今はすっかり寂れてしまった。
 暗い舗道には、パートのおばさんの新しい足跡と、さっきの井上や慎也のすでに薄くなった足跡が、雪の上に点々と、駅に向かって続いているばかりだった。
 しぶとく営業を続けている小さな店も、夕方早々には店じまいしてしまう。もっともそれはまだましなほうで、多くの個人商店は、下手をすると一日中シャッターを降ろし、ただ店先の自販機だけが稼動している。
 そんな中を歩いていると、ついつい胸の中に甘い郷愁がこみあげて、まだ大して生きていない慎也でさえ、思わず『雪の降る街を』など口ずさみそうになったりする。
 いかんいかん。自分はまだ中学生ではないか。夢と希望の未来たっぷり、というのはウソだが、とりあえずまだ先はある。
 それでも慎也は、昔のままに続いているその道筋が好きだった。駅の周辺などは道筋そのものが、夢と希望という発展的感情でもときに追いつけないほど、日々変わっていってしまう。
 やがてその駅に続く新しい商店街に折れると、クリスマス・イブを明日に控え、夜の巷はさすがに明るく賑やかだった。
 クリスマス模様をウインドーにめいっぱい白いスプレーで型抜きした、小さな喫茶店兼スナックの扉をくぐる。
 雨ざらしの木の看板に、『ほんやら洞』という彫文字が、風化しかかっている。かまくらの意味だ。
 民家仕立ての燻った店内は、カウンターも数卓しかないボックス席も、常連らしい和やかな人々で、それなりに賑わっていた。
 昔から旧道筋で営業していたのを、根性で造作ごと移転してきたくらいだから、根っこができているのだ。
「やあ、薫ちゃん、まいどー」
 カウンターから、中年のマスターが、親しげに声を掛けた。
 鑑賞会の帰りに、いつも批評会を開く店である。薫はたぶん勤め帰りなどにも寄っているのだろう。慎也も去年から何度か、顔を出したことがあった。
「おやおや、こんな時間に、珍しいね」
 マスターは慎也の顔も、覚えていてくれたようだ。
「ども」
「年上の女の誘惑に、惑わされちゃあいけないよ」
 こうした会話に慣れていない慎也は、どぎまぎとうなずくばかりだったが、薫は聞こえているのかいないのか、
「うふふふふふふ」
 慎也はふわふわ状態の薫に従って、奥のボックス席に座った。
「いつものでいい?」
 同年輩のウェイトレスさんに、薫は上の空でうなずいた。
 慎也はそんな薫をあきれてながめながら、同じでいいです、と答えた。
 まあ、オトコに手紙を貰ったオンナというのは、きっとこんなものなのだろう。無論、相手にもよるのだろうが。なんにせよ薫は当分、まともな会話ができそうにない。
 なんだかよくわからないものを、ぽふ、と隣の席に置いて、慎也はちょっと考えこんだ。
 ――あのとき、麻美ちゃんはどう思ったのかな。
 あの日もちょうど今日のような、牡丹雪の夜だった。

     ★        ★

 冬休みの内に同級の兵藤麻美が転校してしまうと聞いて、まだ小学五年生だった慎也は、生まれて初めて女子に手紙を書いた。
 好きだとかデートしてくださいとか行かないでとか、ラブレターと言えるほどの言葉はさすがにまだ使えなかったが、ピカピカの一年生の入学式でいかに慎也が隣のクラスの入学生から殺人的インパクトを受けたかとか、高学年のクラス替えで同じクラスになってからは毎日その姿が見られるので天国にいるようだったとか、秋の学芸会のマッチ売りの少女はこの世の者とは思われぬほど清らかで綺麗だったとか、そんなことばかり列記してある手紙は、たとえ最後の一行が『一生わすれません。これからも元気でがんばってください。』だけで結ばれていたとしても、誰がどう見たってラブレターそのものだろう。
 翌日の夜、思い切って麻美の家を訪ねると、高校生くらいのお兄さんらしい人が、にこにこ取り次いでくれた。
 雪夜の玄関先で、初めて一対一で話す麻美の、ちょっと戸惑っている西洋人形のような顔立ちを、慎也は文字通り『一生』忘れないだろう。あまりの恥ずかしさにすぐに駆け戻ってしまったため、どんな会話を交わしたかさえ、はっきりとは覚えていないが。
 もちろん返事が来るはずもない。
 冬休み明けには、教室は何かにつけ男子にケリを入れたがる女子ばかりになってしまい、かつての天国は地獄とは言えないまでも、月並みな煉獄に変わってしまっていた。
 それはいいのである。小学五年生ともなれば、この世界がけして夢や希望に満ち溢れた社会であるなどという幻想は捨てている。
 日教組かぶれの教師がいかに燃える眼差しで平等社会の理想を子供向けに説いても、慎也の通知表は兵藤麻美の推定全品三割引セールだし、性格は半額大放出だし、外見にいたっては三越VSダイソーだ。
 ただ慎也は、麻美に『これからも元気でがんばって』欲しかったのだ。
 そして、現に元気でがんばっていること自体は、もう別れの翌春から判っていた。
 いわゆるジュニアアイドル候補として、兵藤麻美の姿がちらほらとテレビの画面に映り始めたからだ。
 麻美の引越しそのものが、そっち方向の両親の期待によるものであったことなど、慎也も後日知った。
 当初はあくまでも、候補段階の端役ばかりだったが、慎也は必死にテレビの前に張りついて、それらのCMやドラマを録画し続けた。
 そして世にロリコンの種は尽きまじ、U―15アイドル専門誌なども本屋に並んでいる昨今、慎也は恥を忍んで本屋のおっさんのいぶかしげな視線に耐えながら、毎号それらを立ち読みチェックした。
 一度ニューフェイス扱いでグラビアの見開きに麻美のスクール水着姿が掲載されたとき、慎也は明らかに大人向け定価のそのムックを、ビンボなコンビニの親がくれるひと月ぶんの小遣いをはたいて、本屋のカウンターに『とりあえずバイト代もらえれば、あとはどうでもいいです』風のあんちゃんしかいない時間帯を選び、購入を敢行した。そのムックはひと月ほど毎晩ながめて、布団の頭の下に敷いて寝て、それから厳重にラップして保管してある。
 こうなったら今後の小遣いや来年のお年玉は全部テープと専門誌に――そんな悲愴な決意を心に秘めて、翌月からも毎号チェックし続けた慎也だったが、残念ながら、麻美のメジャー露出はデビューのみで終ってしまった。
 おかしい。どう見ても世界で一番魅力的と思われる姿が、もっともっと有名にならないのか――慎也はそこでまたひとつ、社会の厳しい現実を学んだ。自分の天使が世界の天使であるとは限らないのである。しかし、それはある意味嬉しくて、また誇らしくもあった。自分はその天使に選ばれし者なのだ。まあ一方的に勝手に選ばれただけであるにしろ。
 一本だけけっこう出番のある劇場用映画があったので、慎也はお年玉の大半を費やし、単身峰館座に通い詰めた。『杉並日和』とかいうその映画は、独立プロのマイナー作品なので、シネコンでは上映されず、ソフト化もされなかったからだ。細かいデータを求めて『キネマ旬報』なども買いこむ。そこから旧作マイナー映画の道にも目覚めたりしたが、あくまでも柱は『兵藤麻美は今も元気でがんばっているか』だった。
 そうした意識に目覚めた段階で、行き着く先は決まっている。
 冥府魔道の、マイナー・ジュニアアイドルおたくの道である。
 主に暇を持て余した、大学生以上のロリ野郎などがハマリがちな世界だ。
 慎也の場合は、あくまでも同い年の少女に対する個人的恋愛感情の発露だから、たまたま手法的に近似した、と言うべきか。
「これからの人間はIT必須」と親を欺いて、自分専用のパソコンを買ってもらい、慎也はネットの海に船出した。
 ムックの記事を頼りに、真っ先にデビュー時の所属事務所のHPを覗いてみる。しかし、どんな端役でも華々しく列記してあるその実績ページに、麻美の名はなかった。すでに抜けてしまったらしい。念のためそこのアドレスにファン・メールなど送ってみたが、やっぱり梨のつぶてだった。
 検索の渚で様子を探っても、ロリ野郎ご用達のDVDや、電子出版物には見当たらない。個人運営のファン・サイトも立ち上がった形跡はない。
 ちょっと沖に出て合法的有料サイトのサンプルなど探し回っても、姿がない。
 さらに外洋に出て、無数の掲示板や過去ログの大海原などを彷徨っても、稀に見つかるのは慎也がすでに自力で原版を集めた、同じスキャン画像やキャプチャー画像ばかりだ。勇を奮ってスレ立てしたり貼ったりしても、『かーいー。どこの子?』『うわあ、なつかし』的なレスばかりで、しまいには慎也の貼った画像が全然別の板に、『拾いでスマソ』などと出回るばかりだ。
 これはもう引退して『普通の女の子』に戻ってしまったのか――なかばそうあきらめながら、さらにあの悪名高い2チャンの海溝深く、覚悟を決めて潜ってみると――
『もう終わりでしょ』
『胸出ちゃったし』
『さいきん顔がながすぎねえ?』
『最近?』
『もう去年でしょ。今年はどこにもいません』
『渋谷援交の○5がクリソツ』
『にてねーよ。○5のほうがかわいい』
『まあどっちにしてもズボズボでしょ』
『どっちも厨房であのケツだとねえ』
『拉致してバックで入れてー』
 慎也は顔が蒼白になるほど激怒して、思わずキーボード返しを喰らわせそうになった。
 ――人間には、たとえ言いたいと思っても、人前で言ってはいけないことがあるだろう。やりたいと思っても、やっちゃいけないことがあるだろう。てめーらのきたねーツラが、いくら外から見えねーにしても。
 やっぱり俺は、外に出よう。
 それから恥を忍んで、かつての同級生や、同級会仕切り娘などに当たってみたが、やっぱりこのところ、麻美と連絡は取れないらしかった。
 そんな時、一通のメールが、慎也のパソコンに届いたのである。
『君はなぜ兵藤麻美を探し歩くのか』
 差出人は、asinagaozisan、とある。
 心当たりのない相手だったが、慎也は藁にもすがる思いで返信した。
『元気でがんばっているか知りたいから』
 翌日、返信の返信が届いた。
『どうして元気でがんばっているか知りたいのか』
 語彙のまだ少ない慎也は、さらにこう返信するしかなかった。
『いつまでも、元気でがんばっていてほしいから』
 翌日、HPのアドレスと、こんな入室パス・ワードが届いた。
『ogenkidesuka―sinnya』

     ★        ★

 ――まあ、それも確かにあるんだけどなあ。
 家では絶対飲めない『本当に旨い』コーヒーをすすりながら、慎也は思う。
 券売場からずっとふわふわ夢の世界を漂い続けている薫につきあっていると、つい気になってしまう。
 あの四年前の雪の夜、突然自宅の玄関に押しかけたろくに話をしたこともない男子から、大馬鹿な手紙を渡された兵藤麻美は、いったい何を思っただろう。迷惑だっただろうか。馬鹿だと思っただろうか。それとも、今日の薫ほどではないにしても、ほんの少しくらいは、嬉しく思ってくれただろうか――。
 慎也も自分の世界に入ってしまって、気づかないうちに、となりのなんだかよくわからないものをうにうに撫でていたりする。
 向かいの薫が、急に口を開いた。
「♪ マッチ〜は、いかが〜 ♪」
 この学区の学芸会定番、音楽劇『マッチ売りの少女』のメロディーである。昔、麻美が歌っていた歌だ。
 慎也が驚いて顔を上げると、現実世界に復活したらしい薫が、悪戯っぽい目つきでこちらを見ていた。
「――あたしゃバック・コーラスだったけどね」
 成人映画の部に入場させてもらうため、慎也は薫に、麻美の思い出をある程度告白していた。
 薫は相変わらず白い封筒を抱きしめながら、
「あんたもマメだよねえ。どっからあんな情報、仕入れてくるの? キネ旬だって出てないじゃん、そんな端役のキャストまで」
「教えてくれる人がいるんだよ」
 きまりの悪い話でも、今後も協力してもらうには、話さざるをえない。
「ネットとか、メールとか」
「ふーん。でも、ある意味、ライバルだよねえ」
 ――ぎく。
 それは確かに、慎也も嫉妬したことがある。
 なぜそのページの管理者『あしながおじさん』が、兵藤麻美のそんな詳しい情報を知っているのか。その人は、麻美のロケのスケジュールとかまで、詳しく知っているらしいのである。現在私生活の見えない少女に惚れている少年としては、果てしない懊悩の夜が続いたりもした。恋に狂う人間の嫉妬妄想は、実際果てしがなく、相手も選ばない。
 思い余ってある悪友に悩みを漏らすと、そいつはあっさり断言した。そんなの、事務所の人にきまってるじゃん。
 それならいいのだが――しつこく悩めば、腑に落ちない部分が多々ある。
 その業界のどんなページを見てみても、現在稼げるタレントしか、本気ではフォローしていない。頭数としてメジャー露出の結果を報告してくれるのが関の山だ。
 しかし結局、慎也もその悪友の推理を、全面的に受け入れることにした。でないと、本当に気が狂ってしまいそうだったからだ。
「ま、少年、今後の健闘を祈る」
 薫は無責任に言って、ふんふんふん、と鼻歌を歌いながら、バッグからソーイング・セットを引っ張り出した。
「へえ、そんなの持ってんだ」
「お姉さまも女ですのよ」
「……見えねー」
「おーい、この中坊はさっき……」
「いい女!」
「よーし」
 すまし顔で、小さな鋏で封筒を切っている。
「うふふふふー」
 ――まあ喜ばしておこう。そのほうが楽だし。
 世の中、幸せな人間がひとりでも多いに越したことはない――慎也はそんな爺臭い心境に達してコーヒーをすすり、なんだかよくわからないものをうにうにし続けた。
 薫はひらひらと封筒の中身を見せびらかした後、その何枚かの便箋に、顔を擦りつけるようにして没頭し始めた。
 ――気合入ってんなあ。
 慎也は興味深く観察させてもらった。
 男に手紙を貰った女は、どんな反応を見せるものなのか。
 ――にこにこしている。
 まだにこにこしている。
 もっとにこにこしている。
 にこにこしすぎて、はっきし言って、怖え。
 こりゃ今にもVサインかガッツ・ポーズが出そうだ――。
 そんな順調にゆるんだ薫の眉根に、いきなり、うに、と皺が寄った。
 ――おう?
 これは驚愕の展開か。
 眉根の皺がみるみる深くなる。
 もう何も信じられない、そんな皺だ。
 やがて薫の顔全部から、夢と希望が失せた。
 ――か、薫おねーさま、解りやすすぎ。
 しばしの沈黙ののち、薫はその便箋を、ぽい、と慎也の前に投げてよこした。
「……いいの?」
 薫は気の抜けたような顔で、こくこくとうなずいた。
 おそるおそる手を伸ばして、便箋を開いてみる。
 さすがに大学生がマジに書いた手紙だけあって、読めない漢字が多かったが、日本語というのは本当にありがたい。読めないまでも、おおよその意味はつかめるのである。
 ――なんじゃ、こりゃ?
 慎也は強烈な既視感に捕らわれた。
 初めてモギリ台で会ったときの、運命的インパクト。合同鑑賞会に薫も加わっていると知ったときの、舞い上がりそうな喜び。そして月に一度の批評会で映画評を語る薫の、誰よりも女性らしい魅力。
 他人事《ひとごと》ながら、いや、他人事とは思われず、慎也は思わず赤面してしまった。
 かつて子供の、いや、今でも子供だが、とにかく俺のあのときの手紙と、これはおんなしようなシロモノなのではないか。まあ、麻美ちゃんと薫におんなしような魅力があるかどうか、それは疑わしいけれど。
 差出人として唯一の明確な違いは――井上は、実家の父親が急病で亡くなって、どうしてもすぐに帰京しなければならないらしい。もともと父親が元気な間だけの約束で、文学部に通わせてもらっていたのだそうだ。要は今日を限りに、峰館には戻って来られないのである。つまり、慎也の逆パターンだ。――『貴女の面影は一生忘れません。これからも、末永くお元気で。』
 ――どひゃあ。
 慎也は思わずバンザイ・ポーズを取ってしまいそうな衝動を、懸命にこらえた。
 薫が気の抜けた表情のままでつぶやいた。
「……始まってもいないのに、なんで終っちゃうわけ?」
 慎也に答えられるはずがない。
 答えを欲しているようでもない。
 薫はふらふらと、慎也のほうに手をさしのべた。
 ――な、なにかな?
 くいくいと顎で促しているのは、どうやら隣のなんだかよくわからないものを、よこせと言っているらしい。
 慎也は黙ってそれを差し出した。
 薫はそのなんだかよくわからないものを、うにゅう、と抱きしめた。
 抱く、というより、禁じ手のさば折りだ。
 それからひょうたん型に変形してしまったその頭に、むにゅう、と顔を埋めた。
 ――なるほど。女としては、誰かに抱きつかないではいられなかったんだなあ。コーヒー・カップや俺では抱きつきがいがないので、とりあえずあれだったんだなあ。
 慎也はしみじみ思った。
 ――ううむ、こうして俺は大人になって行くのだ。でも、あれがもし生き物だったら、今頃確実に窒息死してるだろうなあ。
 お冷のお代わりに来たウェイトレスさんが、そんな薫をしげしげと覗きこんだ。
「ねえ、薫ちゃん、それってなあに?」
 薫は顔を埋めたままつぶやいた。
「なんだか……よくわかんない」

     ★        ★

 ――ま、よく考えりゃ、あたしにお上品な和菓子屋さんの女将さんなんて、勤まりっこないしね。
 自分の家も、たとえば慎也の家よりは豊かなのだろうが、それは父親が工事現場の大型重機の熟練操縦者だからであって、品とかお行儀とかとは無縁の家庭だ。
 ――それに、井上さん、見る目なさすぎ。あたしは、そんなかわいい女じゃないもんね。
 しかしその誤解に関しては、やっぱりとことん嬉しかったりする。
 ――でも、いっぺんくっついたって、どうせ敵の卒業といっしょにサヨナラよ。
 過去に他県から来ている峰館大生とつきあった友達で、実際、痛い目を見た者もいる。
 賑やかな街路を歩きながら、薫は表向き、早くも立ち直ったつもりでいた。
 後ろからついてくる慎也が妙におとなしいので、
「ま、いろいろあるかもしんないけど、がんばんな、少年」
 振り返って景気よく肩を叩いたりする。
 慎也はなんだかよくわからないものを、相変わらず両手で抱えながら、逆だろ逆、と心の中でつぶやいた。
 薫が虚勢で必死につっぱっている状態だということくらい、いくら五歳下でも判る。
 しかし、そんな立場の女性とどんな言葉を交わしていいものやら、そこまではまだ人生経験が足りないので判らない。
 不自然に機嫌のいい薫と、とまどいがちな慎也のアンバランスなアベックは、やがて商店街を離れ、人気《ひとけ》のない城跡に入った。
 いずれ修復して観光の目玉にするつもりらしく、ここ数年で朽ちた門を建て替え、土手や堀を整備し、来春からは本丸の復元工事に入る予定だ。
 雪は小降りになって風もなかったが、その代わり底冷えが厳しくなり、雪国土着のふたりでも、早く家にたどり着いて炬燵に潜りこみたいほどの夜だった。
「あっ、あれはなんだっ!」
 薫が突然、ハイ・テンションな声を上げた。
「……セリフ、棒読み」
「へへへ。でも、なんだろ」
 慎也が薫の指先を追うと、古い豪族屋敷を模した郷土資料館の庭が、そこだけ闇に浮いたように明るい。ライト・アップというほどではないが、街灯よりもずいぶん強力な照明が、ふたつほど光っているようだ。
 さらに目を凝らすと、三脚に据えたビデオカメラの横で、四人ばかりの男たちが、地面に置いたモニターを囲み、どうのこうの相談している。
「――ロケ?」
 薫の期待に満ちた声に、慎也もうなずいた。
 慎也の知る限り、それは最小限の商業的なロケに見えた。
 子供の頃、学校帰りに田んぼの畦道を歩いていると、蔵王を背景になにか時代錯誤のわざとらしい野良着の男女を撮影している人たちがいて、その情景が後日両親の熱唱するDVDカラオケのイメージ映像にそっくり出てきて、仰天した記憶がある。そのときの人たちが、ちょうどそんな雰囲気だった。
 峰館大映研クラスの結構本格的な自主映画の撮影現場も見たが、そもそもスタッフの緊張感が違う。防水シートで保護されたカメラもでかい業務用らしいし、音声機材も揃っている。スタッフの頭数は、たぶんディレクター、カメラマン、それから照明さんに音声さん。自主映画っぽい野次馬スタッフなし。その代わりモノホンの映画やドラマでもないので、助手などもなし。
 その少し脇の路肩には大型のバンが停めてあり、その中でも何人かの人影が蠢いているようだ。
 役者さんやメイクさんは、きっとバンの中でスタンバっているのだ――キネマ旬報を二年も購読していると、そのくらいは見当がつく。
「行こ、行こ」
 薫に袖を引かれて、ずるずると芝生に積もった雪を踏み分ける。
 慎也の推測どおり、バンから役者さんらしい三人が登場した。
「うひゃあ、寒そう」
 薫がそれを見て、首をすくめた。
 中年の男女は厚手の和服を着ているが、もうひとりの少女は、この雪空に薄い白帷子一枚である。肌色の下着を重ねているのかもしれないが、それにしても寒そうだ。おかっぱの鬘《かつら》まで白いのを見ると、雪女、いや、年齢から見て雪娘の役か。
 薫はずうずうしくバンに近づいて、中に残っていた女性に声をかけた。
「すみませーん。ちょっとよろしいですか?」
 ウインドーを下げた不審げな顔をものともせず、すかさず名刺を差し出す。
『峰館座副支配人・峰館映画文化研究会副会長・コミュニティー峰館編集部員 西園寺薫』
 恐るべきことに、全てが真実である。それらの団体が全て最低限の人員によって構成されているにしろ、真実は真実である。姓だって、明治期に百姓のご先祖様が近くのお寺を参考にしただけにしろ、やっぱり歴史的真実である。
 ほう、と相手の顔に好奇心が浮かんだところで、薫は必殺のすまし顔を繰り出した。これまた東京のいいとこのボンボンが、ころりと錯覚するだけの演技力がある。
「取材させていただいて、よろしいでしょうか」
 もう四十近そうなその女性は、薫のぶりっこに騙されたのか、それともただ面白かったのか、表情を緩めてふたりを車内に導いた。
 煙草の匂いとお化粧の匂いが混じり合って、そこにヒーターの暖気が加わり、車内は不思議な空気に満ちていた。
「ここで役者さんの準備とかなさるんですか?」
 女性は微笑しながら、自分の名刺を差し出した。
「まさか。機材積んだら、後ろはいっぱいでしょ」
 確かに座席は十人も入れば満杯のようだ。
「その日その日の、宿が楽屋だわ」
 映像関係者というより、やり手の商家の女将、そんな感じの微笑だった。名刺には『川本プロダクション社長 川本多喜子』とある。
「うわあ、社長さん――おみそれしました」
 薫はあわててぺこぺこと頭を下げた。
「社長兼マネージャー兼、メイク兼スタイリスト兼その他もろもろ。下請けの下請け会社。家内制手工業――町工場みたいなものよ」
 あ、この人OK――薫はそう直感した。いわゆる現場キャリア・ウーマンタイプの女性と、なぜか薫は波長が合う。相手もそう感じてくれたらしく、初対面の相手の割には、視線や口調に親しみがこもっていた。
 薫はさっそくバッグから、ボイス・レコーダー機能付きのMP3プレーヤーを引っ張り出した。
「『今回こちらの峰館市には、どのような作品のロケで?』」
 すっかりアナドル口調である。
 川本女史は、苦笑して煙草に火を着けた。
「聞いても仕方ないんじゃない? オンエアもタイトルも、コロコロ変わっちゃう特番だから」
 それまで薫の陰に隠れるようにして、無言でじっと窓外を見つめていた慎也が、ぶつぶつとつぶやいた。
「関東テレビの、土曜スペシャル――『味と民話の東北秘湯の宿』」
 心ここにあらず、そんな口調だった。
 ぎょっとする薫ごしに、川本女史もしげしげと慎也の顔を覗きこんだ。
「――アシの少年は、シックス・センスの子?」
「いえ、ただのオマケで……ただのバカのはず、なんですが」
 呆けたように外を見つめ続ける慎也に、川本女史が訊ねた。
「……もしかして、シンヤ君?」
 慎也は機械的に、首だけこくこくと反応した。
 ひゅう、と川本女史が嘆息した。
「こりゃすごい。なんたるご都合主義。ドラマだったら、鼻をつまんで即ザッピングだわ」
 薫はなんのことやら解らず、放心状態の慎也と、感心したようにうなずいている川本女史を、交互に見比べた。
「いや、ゆんべ宿で、なんとなくあの子の話、聞いただけなんだけどね」
 薫もようやく、なんとなくだが気配が読めてきた。
 窓の向こうの、雪の豪族屋敷の庭で、撮影が進んでいる。
 和服の夫婦と雪娘の、別れの場らしい。
 厚着の夫婦がけっこう寒そうな演技をしているのに、どう見ても一番寒そうな白帷子の少女だけは、まるで春のように泰然と演技している。
「おい慎也。えーと、つまり、あの子が」
「……麻美ちゃん」
「ひええええ」
 薫は思わず慎也の肩を揺すった。
「行きなよ!」
 慎也は夢見心地の口調のままでつぶやいた。
「……仕事中」
 川本女史が、よしよし、と言うようにうなずいた。

     ★        ★

 薫は川本女史に続いて、屋内に移動する撮影隊を追った。
 内部は資料展示用に改装されているが、いくつかのコーナーは、当時の富農のお屋敷そのものの部屋を復元してある。
 スタッフたちは宿直員らしい制服の好々爺に案内されて、囲炉裏の切ってある畳の間に陣取った。
 てきぱきと機材をセットするスタッフたちを、薫は夢中でスナップし続けた。
 邪魔にならないようにフット・ワークを駆使しながら、ああ、あたしは取材記者、などと自己陶酔に浸ってみる。
 まあスナップ機材がカメラ付き携帯ひとつなので、誰がどう見ても、ロケ現場に紛れこんだミーハー観光客だ。自分でもそれはちょっと自覚したりしているのだが、デジカメを持ってこなかったのだから仕方がない。それに携帯の画像でも、近頃は馬鹿にできない。ミニコミ誌やそのHPのコラム画像になら、充分使えるだろう。
 川本女史は部屋の隅で、夫婦役のメイクなおしに余念がない。
 それが終ったらしいのを見計らって、薫はまたボイス・レコーダーのスイッチを入れた。
「ちょっとよろしいですか?」
 川本女史はスタッフの進行具合を確認して、
「十分くらいなら、いいわよ」
 薫は喜んで和服の中年夫婦に、インタビューを開始した。
「三田監督の『杉並日和』でも、お二人で出演されてましたよね」
 おやおや、と言うように、中年夫婦は顔を見合わせた。
 旦那役のほうが、嬉しそう言った。
「よくあんなカットを覚えてくれているねえ」
 奥さん役も、感心してうなずいている。
「あたし、頭は悪いんですけど、目はいいんです」
 薫は胸を張って続けた。
「あの喫茶店のマスター夫婦は、完璧だったです」
 夫婦役はふたりして、くすくすと笑い合っている。
 奥さん役が薫に笑顔を向けた。
「あれはね、まんまだから」
「はあ?」
 首をかしげた薫に、旦那役が後を続けた。
「三田君とこも、お金がないからねえ。うちの店を使わしてあげたんだ」
「その代わり、セリフもらったりしてね」
「つまり、夫婦揃って役者じゃ食えなくて、杉並で喫茶店やってます」
 ――ああ、なんかいいなあ。
 薫はそのふたりの、歳のわりには若々しい笑顔をながめながら、しみじみ思った。いつか自分も中年になるなら、こんな感じが理想かもしんない。
「うちもお金はないけどねえ」
 川本女史が、所帯じみた声で会話に参加した。
「なんのなんの」
 旦那さんが慰めた。
「川本さんとこは、ちゃんと唐揚げ弁当が出るじゃないですか」
「そうよね。三田君とこの若い人なんか、日の丸弁当にコンブの佃煮で、真冬に善福寺川に突き落とされるんだから」
「あ、あの夕方のシーンですね」
「そう。よく死なないわよ。せめてシャケ弁くらい、食べさせてあげないと」
 薫は感心して、ふむふむとうなずいた。
「なるほどなるほど。そんなこんなで、鳴子温泉ロケが、この峰館郷土資料館に化けてしまったわけですね」
 車中で川本女史に聞いた話を出すと、夫婦は爆笑した。
 宮城の鳴子の古民家民宿でタイアップのはずが、豪雪のため逆ドタキャンを食らってしまい、予算も時間もないので急遽予定を変更し、峰館の観光課に渡りを付けた、そんな話だった。地元出身の兵藤麻美が、たまたま予定のイメージに近いこの場所を、知っていたからである。つまり今回のロケは、文字通り下請けの下請け――有名タレントの温泉探訪部分は大手下請けプロダクションが仕切り、川本プロは、そこに挿入する民話の再現部分だけを、細々と撮って回っているのだ。
「でもこんな雪の中で、さっきの外のシーンなんか、大変ですよねえ。あの娘さんなんか、凍え死んじゃうんじゃないかと思っちゃいました」
 薫はさっきから気になっていたことを、遠まわしに言ってみた。
 慎也ご執心の少女だから、というわけではないが、いくらなんでも可哀想なのではないか、児童福祉法に触れるのではないかなどと、同情していたのである。
「あーゆーシーンって、スタジオとか、合成でやるのかと思ってました」
 川本女史が答えた。
「スタジオ借りる予算なんてないけど、デジタル合成ならお茶の子ね。あの子だけ多重合成でいいんなら、グリーン・バックもいらない。夜に事務所の屋上で暗幕でも広げれば、あとは今時ただみたいなもんよ」
「そうですよねえ」
 腑に落ちない薫の顔を見て、川本女子はスタッフのほうに声をかけた。
「おーい、木島君」
 ディレクターらしい三十年輩のスタッフが駆けてくる。
「視聴者代表から、クレーム入ってるわよ。若い娘さん、イジメちゃいけないって」
 薫は恐縮してあわてふためいた。
「そ、そーゆー訳でもないんですが……」
 その木島というディレクターは、川本女史から説明を受け、ちょっと考えてから口を切った。
「そうだね。まあ、普通なら多重合成あたりでやっちゃうだろうね」
「……はい」
「もともと幻想的なシーンなんだし」
「……はい」
 素直にうなずく薫に、木島は訊ねた。
「でも、君はドラマや映画でそんなシーンを観て、本物に見えたことがあるかい?」
 薫は言葉に詰まった。
 木島は続けた。
「夢は夢でいいだろう、そう考えてしまえば、この仕事はほんとに楽だよ。でも、夢を見ている間は、誰もそれが夢とは思わない。まあ寝起きでぼんやりしているときなんかは、夢かな、なんて思ってることもあるけど、おおむね夢を見ている間は、その世界が現実だ」
「はい」
「だから今回は、本物の夢を撮ろうってことさ。夢のような夢でも、起きたあとで思い出す夢でもなくね。そしてあの娘《こ》も、この仕事では、それがベストだと言ってくれたし」
 薫は全てが納得できたような気がして、大きくうなずいた。
 旦那さんが横から言った。
「あの子は、ひょっとしたら化けるよ。子役上がりにしては、根性あるし」
 奥さんが続けた。
「そうよね。子役崩れはどうしようもないけど、あの子なら上がれそう」

     ★        ★

 慎也はひたすらもじもじしていた。
 膝に置いたなんだかよくわからないものを、もじもじとこねてみたりする。
 隣の麻美も、ひたすらもじもじしているようだ。
 さていつまでもじもじしていられるか。
 夜明けまでずっとこうして、ふたりきりで車の中にいられるなら、それはそれで慎也としてはOKのような気がする。
 しかし、いずれは屋内撮影も終わり、麻美は次の土地に移動してしまう。
 慎也は勇を振るって、声を絞り出した。
「……ずっと、見てた」
 あまり緊張していたので、声がかすれたりした。
 隣の麻美が、こくりとうなずいた。
 慎也は、ちら、などと横目を使って、麻美の胸元を視界に入れたりする。
 邪念はない――というのは大嘘で、やっぱり昔の麻美にはなかった胸のふくらみなど、非常に気になる。
 まあ胸のサイズも気になったのは確かだが、ちらりと防寒用の厚手のシャツなども覗けたので、慎也は安心した。
 ――良かった。見た目よりは、暖かそうだ。
「……ずっと、応援してた。兵藤さんは知ってるのかな。『あしながおじさん』ってホーム・ページ。そこの管理人さんが、兵藤さんのことすごく詳しくて、いろいろ教えてもらったりして。メール送ったり」
「――ずっと、見てた」
 麻美の声も、少しかすれていた。
 映画で聞いたばかりの声とはずいぶん違って、普通の同級生の女子がしゃべるのと、同じような響きだった。
「は?」
「あそこは、お兄ちゃんのページだから」
 と、言うことは――なんだ、あの晩取り次いでくれた、優しそうなお兄さんか。
 慎也はいきなり目の前が、ぱあっ、と開けたような気がした。
 初夏の蔵王の高原のような、気前のいい開け具合だった。
 ――マテ。と、ゆーことは……。
 それこそあの日渡した手紙など、比べ物にならないほど恥ずかしい思い出メールの大群も、管理人さんに情報を教えてもらうたび、感動して送りつけた長大な感想メールの大群も?
 ――それはちょっと、つらつら考えるに、かなり恥ずかしいかもしんない。
 慎也がまた黙りこんでしまっていると、
「……パパもママも、もうあきらめちゃったし、応援してくれるのは、お兄ちゃんと――高木君だけ」
 独り言のような、力のない声だった。
「俺、死ぬまで応援する」
 慎也は声高に断言した。実際、会えようが会えまいが、その予定だったのである。
 隣の麻美はうつむいたまま、顔を見せてくれない。
 ――やっぱ、俺じゃ、嬉しくないか。
 慎也が『身の程』という概念に打ちひしがれていると――突然麻美が、跳び跳ねるように向きを変えた。
 慎也の顔すれすれまで、自分の顔を突きつけてくる。
 あまりの衝撃に、慎也はパニックに陥ってしまった。あうあう。
 麻美はなにやら思いつめた表情で、慎也に問いただした。
「――あたし、かわいくないでしょ!」
 慎也は冷や汗を流しそうになりながら、ぷるぷると頭を振った。
「――かわいい?」
 慎也はこくこくとうなずいた。
 鬼のようだが――やっぱり、かーいい。
 麻美はその言葉の真実味を探るように、慎也の瞳を凝視した。
 やがて、ふっと気合が抜けて、麻美はまたシートに腰を沈めた。
 なんだかよくわからないものを、いつのまにかその胸に抱きしめている。
「……そう言ってくれるの、もうお兄ちゃんと、高木君だけ」
 麻美の腕の中で、なんだかよくわからないものが、『ほんやら洞』で薫がシメたときのように、うにゅう、とひょうたん形になった。
「……だからなんで背が伸びちゃいけないのよ胸がおっきくなっちゃいけないのよお尻がおっきくなっちゃいけないのよ顔が長くなっちゃいけないのよウェストにちょっとくらいお肉がついたからってなによ!」
 それはなにか、魂からの叫びのようだった。
 ――え、えと、あの、オイラとしてはオールOKなんですけど、はい。
 息を鎮めようとしている麻美の腕の中で、なんだかよくわからないものが、もとの形だかなんだかよくわからない形に戻っていった。
 慎也はほっとしたような、寂しいような、複雑な心境だった。
 ――やっぱり俺はまだ、麻美ちゃんにさば折りしてもらうにも、役不足なんだよなあ。
 正確な日本語として、『役不足』は逆の意味である。しかし慎也の語彙は、やはりまだ麻美の推定三割引だった。
 麻美は言った。
「だから、役者になることにしたの」
 ふだんの声に戻っている。
「本物の役者になるの」
 小声だが、しかし断固とした口調だった。
 慎也は言った。
「なれるよ、絶対」
 麻美は正面を見据えたまま、何も答えてくれない。
 慎也は繰り返した。
「――絶対、なれる」
 麻美は無言で、なんだかよくわからないものを横にどけた。
 それからごそごそと、後ろのシートを探り始めた。
 車の外から、スタッフの声が響いた。
「おーい麻美ちゃん、ごめん、カット追加」
 麻美は、はーい、と明るく返事して、大急ぎでポシェットからメモ帳を取り出した。
 なにやら一所懸命走り書きすると、ぴ、と破いて慎也に差し出す。
 それから何も言わずに飛び出していく麻美を、慎也もまた、何も言えずに見送った。
 手元には、なんだかいい香りのメモ用紙が、ただ一枚残っていた。
 麻美はスタッフといっしょに、雪の中を遠ざかって行った。
 やがて、郷土資料館の淡い光の中に消えてゆく。
 それと入れ替わりで、薫がぺこぺこ頭を下げながら出て来るのが見えた。
 慎也は、ほうっ、と吐息を漏らした。
 ――麻美ちゃんは、元気に頑張っている。たぶん、これからもずっと。
 慎也は手元に残されたメモ用紙に、おずおずと目を落とした。
 どんな言葉を残して行ってくれたにしろ、嬉しいようで、ちょっと怖い。
 ――サインだったりすると、嬉しいかな。
 メモ用紙には、なにかちまちまとアルファベットが並んでいた。
 ――えーと、これは……携帯のメアド?
 その下に、こんな言葉が続いていた。
『お兄ちゃんはおしゃべりだから、パス! 麻美でいいよ、慎也くん』
 さらにもう一行、
『なれなかったらセキニンとってね』

     ★        ★

 城跡を抜けて、雪明りの住宅街をちょっと歩くと、道はゆるやかに坂に続く。
 夜空から舞い降りる雪は、また勢いを増したようだ。
 奥羽本線を跨ぐ陸橋の下を、田舎にはあまり似合わない銀色の山形新幹線が、雪煙を巻きながら走りすぎてゆく。
 並んで歩いていた薫が、陸橋の真ん中で、ふと立ち止まった。
「さて、雪の夜定番シーン、お約束と行きますかね、少年」
 ――な、なんだべ。
 薫はちょっと両手を広げて、真上の夜空を見上げた。
 ――あ、そうか。
 慎也もちょっと鳥っぽく腕を広げて、雪空を見上げた。
 この陸橋のあたりは、高いビルがない。てっぺんにいると、街の灯がみんな眼下だ。
 しばらく真上だけを見つめていると、視界いっぱいの雪は、ふと舞い降りるのをやめて――。
 ふわふわ漂う雪の中を、薫と慎也は、夜空に吸い上げられた。
 そのままどんどん昇ってゆく。
「いやー、舞い上がっちゃうねえ」
「おう」
「いいネタも取材できたし、こりゃ、最高の歳末だわ」
「……おう」
「どうした、少年。キミも最高の気分じゃないのかね」
 元気に「はい!」と答えたいところなのだが――慎也は少々、新しい悩みを抱えていたのである。
 ――俺は今も麻美ちゃんを応援している。もういつでも即、応援したいときに速攻応援できる態勢にある。でも、やっぱしセキニンとるほうも捨て難いかなあ、などという気もしてしまう。正しい男として、俺は今後、いかに生きるべきか。
 薫に大人としての意見を――あまりまともな大人ではないが、まあ成人式過ぎてるから少しは大人としての意見を聞きたい気がする。しかし、夕方あんなことがあったばかりの薫に、そんな贅沢な悩みを相談するのは、いわゆるひとつのちょっとアレな気がする。
「そうか、君はとことんビンボの人だったんだ。よしよし。携帯くらい、このお姉さまが買ってあげよう。ボーナス出たし。でも契約料だけの奴ね」
 ――どうもこのハイな状態が、心配なんだよなあ。
 そんなこんなで、お互い様々な悩みは尽きないにしろ、とりあえずふたりは、雪の夜空を果てしなく上昇し続けていた。
 ぶーん、という鈍い音が、薫のバッグから響いた。
「ありゃりゃ」
 薫は瞬時に陸橋に着地して、あわてて携帯を引っ張り出した。
「まいったね」
 まあこんだけ門限破っちゃうとね、オヤジ怒らんといて、へいへい、今出ました、などとつぶやきながら、メールをチェックしている。
 隣に着地した慎也は、陸橋のガードにもたれて、雪に煙る街の灯を眺めた。
 ――いいじゃん、門限決まってて。俺んちなんか二十四時間営業で、息子もシフト制だもんなあ。
 ちょっと背中に哀愁を浮かべたりしていると、薫はいつまでたっても動かない。
 携帯の画面を見つめたまま、固まってしまっている。
「閉め出し食らったとか?」
 まだ固まっている。
「……俺んち来る?」
 薫は何も言わないで、両手で携帯を握りしめたまま、その場にしゃがみこんでしまった。
 その肩が小刻みに震えている。
 慎也はおろおろと、肩越しに前を覗きこんだ。
 暗くて薫の顔は見えなかったが、携帯の画面は見えた。
『今、宇都宮を過ぎました。やっぱり、あきらめられません。大宮から、引き返します。井上』
 薫はすすり泣いていた。
 慎也がまだ一度も聞いたことのない、大人の女の声だった。
 肩を叩いてやろうした手を、慎也はふと引っこめて、ただ後ろから見守ることにした。
 ――泣いてていいよ、薫。
 年上の女もかわいくていろっぽいなあ、などと不埒にも考えてしまったのは、まあ若気の至りとして、かんべんしていただきたい。

     ★        ★

 ――あ。
 翌朝、家のコンビニでおでん鍋に汁を足しながら、慎也はようやく思い出した。
 あのなんだかよくわからないものを、ロケ車の中に置いてきてしまったのである。
 ――まあ、大丈夫だろう。麻美ちゃんも気に入ってたみたいだし。でも、薫、大丈夫か。外泊なんかしちゃって、親父さん、家に入れてくれんのか。駆け落ちすんなら、俺に携帯買ってくれてからにしてくれよな。
 しかし、脳天気に蛸やはんぺんを追加し続ける慎也の楽観をよそに、なんだかよくわからないものは、きわめて不安定な状態にあった。
 そもそも前夜、麻美が車に戻る前に、途中で機材を取りに戻った音声さんの手によって、それは後部の小道具の間に押しこまれてしまった。さらに本日未明、天童市の安宿の駐車場で、出発前のチェックをしていた川本女史がその異物を見つけ、こっそり宿のゴミ置き場に放置してしまったのである。
 そこを通りかかったのが、津軽半島旅行中に飼主とはぐれてしまい、はるか下関をめざして列島縦断中のジャーマン・シェパード、轟天号だった。
 食えるか、食えないか。なんだかよくわからないが、なんとなくいい感じだ――そんなニュアンスでそれを咥えた轟天号が、やっぱり食えないみたいだし鳥を襲うのに邪魔だわなあ、そう判断して路傍に放り捨てたのは、すでに小一時間南下したあとだった。
 やがて翌春、轟天号は艱難辛苦の末に列島縦断を果たし、餓死寸前で下関の主人一家と、涙と唾液の再会を果たすのだが、それはまた別の話である。
 とにかく薫が峰館郊外のとあるホテルで、妙にツヤツヤしたシアワセ顔を井上の満ち足りた寝顔に向けて、そろそろ夜明けのコーヒーね、などと微笑しているとき、なんだかよくわからないものは、すでに轟天号の口にぶらさがって、食いこむ犬歯をものともせず、ぶらぶら移動していたのである。




  Act.3 【十二月二十四日】


 不幸の多くは、無知によって生じる。
 この世界に存在する多くの事象の中には、確かに『知らざれば幸福』と言うべき事象もごく稀に存在するが、それ以外の無慮数の事象は、ひとつでも多く熟知することが、幸福への確率を高めることになる。
 その意味では、人間という種が猿人から進化し、急速な知能的・肉体的進化を始めた時点で、人間は確実に不幸への道を歩み始めた、そう断言しても過言ではないだろう。『知るべき事象』自体が日々無限に増殖し、無限を超えた加速度さえ予感させる社会では、もはや『人間として何を知るべきなのか』という選択そのものが、困難になりつつある。
 もっとも人間が動物である以上、本来猿人以前のごく簡略な原則さえ悟っていれば、根源的な部分で幸福な人生や社会を実現できるはずである。なるべく死なない、なるべく殺さない、とりあえず満腹になったらそれ以上食わない、そのような原則である。
 また野生動物を越えた人間としても、進化以降のごく簡略な原則さえ悟っていれば、ある種の不幸は確実に避けられるはずである。計画出産可能な精神年齢に達するまではコンドーム必須、陰性確実な相手でない限りやはりコンドーム必須、そのような原則である。
 しかしそれらの原則は、現在すでに無慮数の事象の中に紛れてしまい、それら原則のためのごく単純な行動規範すら、初期学習課程からも見失われているのが現状である。

     ★        ★

 前川享子は高校中退である。
 中退と同時に、家を出た。
 十七歳で妊娠し、十八歳で娘の沙弥香を出産した。
 オバンになる前にカレシとの赤ん坊を抱いているのがオトナでカッコいい、そんな仲間内での風潮だったからである。
 入籍するのもケジメでカッコいいはずだったので、きちんとカレシといっしょに市役所に行った。
 しかし国保にも加入せず、まともな産院に行く費用もなく、出産経験豊かな仲間の手を借りて、アパートで自力出産した。
 その時点では、その場にいた誰もが、生命の神秘の感動に酔った。
 翌年カレシは行方をくらまし、その筋から生活費や遊興費を引っぱれるだけ引っぱっていたためか、あるいは単なる情緒欠落の報いか、さらに翌年水死体となって、遠く東京の多摩川に浮かんだ。
 享子は知らないうちに保証人にされており、返済のため花小路のソープで働かざるを得なかった。
 幸い十人並みの容貌であったし、母性本能にだけは恵まれていたため、釈迦力で客をとった結果、八年ほどで借金は消えた。
 まっとうな消費者金融なら二年も働けば消えたろうが、相手が相手だっただけに、やむを得ない歳月だった。
 その過程で、娘の沙弥香のあどけない姿に目をつけたその筋から、『たった一夜ですべての負債がチャラになる話』など匂わされたが、享子はそれだけは断固として拒否した。それにうなずいた時点で、自分は母ではなくなる。
 八歳になった娘は、幸いあの馬鹿と自分の子とは思われぬほど、愛らしく素直に育った。
 その頃になると、さすがに享子にも、ある程度の世間知が蓄積されていた。今の歳ならまだ適当な独身中年客を篭絡して、妻の座を得ることが可能だ。しかし、入籍はもうこりごりだ。テクでカバーすれば、この田舎の花町なら、あと数年は第一線にいられる。とにかく金を貯めて、娘だけは自分の世界から外の上の世界へと、押し上げてやるのだ。
 しかし、娘の沙弥香は八歳の夏から、急速に知能の衰えを見せ始めた。
 脳性梅毒――そんな病名を医師から告げられたとき、享子は半狂乱になって誤診ではないかと訴えた。
 そうした事態から娘を護るために、自分はすべてを賭けてきたのである。
「それならば――症例は稀ですが、晩発性先天性梅毒が考えられます」
 享子はさらに誤診を主張した。
 八年前、確かに出産自体はいいかげんだったが、少なくとも妊娠の確認時は正規の婦人科で診断を受けたし、自分もあの馬鹿も、勧められて血液検査までやっている。
「それが間違いないならば、前川さんは妊娠以降、御出産の六週間以前までの間に、感染された可能性がありますね。病原の梅毒トレポネーマという細菌は、母体の感染後、胎盤を侵して胎児まで感染するには、約六週間を要しますから」
 その可能性は――あの馬鹿ならば、いくらでも考えられる。外でもらって女房に伝染《うつ》すくらい、お茶の子のクズだったのだ。そんな腰の軽さを、なぜ当時の自分は『モテモテ』などと容認していたのか。
「もし妊娠初期に判明していれば、母体の梅毒などは、抗生剤で簡単に完全治癒可能です。そして梅毒トレポネーマは、経胎盤感染――つまり胎盤が完成していないと、胎児には感染しません。ですから胎盤が完成する以前に、つまり妊娠後四週間以内に治癒すれば、胎内感染は百パーセント防げるのです。しかし、それ以降の感染に気づけないと――。もし出産にも正規の産婦人科を利用されていれば、胎内感染が確認できますから、当然、お子様も出産直後に治療可能だったんでしょうが」
 それならばなぜ、自分に症状が出ないのか。
「個人差というものがあっても、いずれは顕著な病変が現れるはずなのですが――前川さんは、ご出産後早い時期に、何か御病気をなされませんでしたか?」
 確かに翌月、体力が落ちていたのか風邪から肺炎に移行し、医者にかつぎこまれたことがある。
「おそらく、その時に強めの抗生剤の投与を、何度か受けているはずです。免疫力の強い方なら、それだけで症状の消えてしまう病気ですから。無論まだキャリア状態である可能性がありますので、至急検査が必要です」
 それなら娘も――これから症状が回復するのではないか。
 藁にもすがる思いで享子が問いただすと、医師はしばらくの黙考のあと、襟を正して言った。
「さらに精密検査を重ねないと、断定はできませんが――すでに脳に第四期症状が出ている以上、現時点で確実にお約束できるのは、トレポネーマ駆除、つまり、症状の進行の阻止だけです。あとは、その後のリハビリテーションに尽力し、お母様や沙弥香ちゃん御自身にも、尽力していただくことになります」

     ★        ★

 ――そして、それからさらに、十年の歳月が流れた。
 雪のお庭に、なんだかよくわからないものが、ひとつ。
 冬枯れた生垣の根元にしゃがみこんで、沙弥香はさっきから、その小さな雪だるまのようなものを見つめていた。
 雪だるまみたいに見えるのは、まあるく雪が積もっているからで、そのまあるい雪を落としてしまうと、たぶん頭のない雪じゃないなんだかよくわからないものになるみたいだ。
 さっきからその雪の頭を払ってみたいと思っているのだが――なんだか、おっかない。
 かわいいみたいな感じでも、やっぱり、おっかない。ぷるんと跳ねて、飛びついて来そうな気がする。
 そんなわけで、沙弥香は昼からずっと、そこにしゃがんだままだ。
 猫の額ほどの小さな庭だが、幼稚園や学校にもう行けない沙弥香は、毎日隅から隅までチェックしている。春や夏や秋は、毎日花壇や生垣の様子が変わるし、冬だって毎日雪の様子が違うから、退屈はしない。
 ――でも、こんなのいるの、初めて。
 指を伸ばそうとしてはまた引っこめて、もう三十分もしゃがみ続けている。
 朝まで降り続けていた雪も上がり、お空はすっかり青空で、あんまり寒くない。
 お買い物トートを下げたお隣のおばさんが、そんな沙弥香を生垣の向こうから見つけ、声をかけた。
「あら、沙弥香ちゃん、お母さんは?」
「こんにちわ」
「はい、今日は」
「ママはね、お仕事」
「ボランティアのお姉さんは?」
「えーと、今日はね、お休み」
 お隣のおばさんは、ずいぶん心配そうな顔をした。
「風邪を引いちゃうから、中でおこたに入ってらっしゃい」
「うん」
「知らない人が来たら、おっきな声で呼んでね。おばさん、ずっといるから」
「はーい」
 まだ少し心配そうな顔で、こちらを見ながらお隣の玄関に入っていくおばさんに、沙弥香は元気に手を振った。
 かわいそうにねえ、などとつぶやく声が聞こえても、沙弥香には何がかわいそうなのか解らない。
 ――なにかきっとかわいそうなものが、お隣にいるんだ。猫のチャメが、お風邪ひいちゃったのかな。
 あとでお見舞いにいこうかな、などと思いつつ、沙弥香は、ひょい、と手を伸ばし、そのなんだかよくわからないものを持ち上げてしまった。
 お隣のおばさんと話しているうちに、さっきまで恐がっていたという事実自体を、忘れてしまっていたのである。
 それに、言われたとおりおこたに入って、なおかつそれを観察し続けるには、どうしたっておこたの上まで運んでいかなければならない。
 ぶよん、と揺れたそれの頭から、雪が崩れて、やっぱり残ったのは、雪じゃないなんだかよくわからないものだった。
 持ち上げたばかりのときは冷たかったが、あっというまに掌といっしょに温まっていくようだ。
 ――よしよし、おねえちゃんがかわいがってあげますからね。
 沙弥香は、勝手に心の中でチャメ二号と名付けたそのなんだかよくわからないものを大事に抱きかかえ、家の中に戻って行った。
 おこたのある居間には、大きなお仏壇がある。
 ママが毎日いっしょうけんめいお祈りしている、金ピカのお仏壇だ。
 そのまわりの壁には、なんだか難しい漢字がいっぱい並んでいる額や、なんだか気持ちの悪い太ったおじさんの写真が、大事そうに飾ってある。
 でも、沙弥香はそのお仏壇や写真は、あんまりきれいじゃないなあ、といつも思ったりする。
 きれいみたいだけど、じっと見ていると、やっぱり気持ちが悪い。
 でも、ママがとても大事にしているし、「ありがたいありがたい」といつも言っているので、きっと大人になるときれいに見えるのかな、などとも思う。
 ――チャメ二号のほうが、きれいで、かわいい。
 沙弥香はおこたの上にチャメ二号を座らせて、さっきからぷよぷよとかわいがっていた。
 お友達がいないとさびしいかな、そんな感じがしたので、リカちゃんやイサムくんも、並べてあげる。
 やっぱり、うれしいみたいだ。
「ずうっと、おうちにいる?」
 なんにも言ってくれないが、いやだと言わないのだから、もううちの猫――じゃない、うちのなんだかよくわからないものだ。
「おなか、すいてる?」
 やっぱりなにも言わないが、野良猫――じゃない、野良なんだかよくわからないものは、きっとにゃあにゃあ――じゃないかも知れないが、ママあ、ママあ、とか鳴きながら、ずっとお家をさがしていたりしたのだ。きっとおなかがぺこぺこだ。
 沙弥香はおやつのバーム・クーヘンを半分こにして、チャメ二号のお口――たぶんお口のあたりに、つんつんと差し出した。
 うにゅ。
「……おいしい?」
 んまい、と言ってくれたみたいだ。やっぱり鳴かないけど。
「えへへへへー」
 半分こ半分こ。
 自分も残りのおやつを頬張って、パックのミルクを飲みながら、やっぱりお友だちはなんでもわかちあわねば、などと考える。
 半分になったミルクのストローを、さっきのあたりにくっつけてみる。
 ちゅるるるるるる。
「おう」
 猫よりもお利巧みたいだ。
 ――猫はストローで、ミルク飲めないもんね。
 ママがなかなか帰ってこなくても、これでもうだいじょうぶ、と沙弥香は確信した。
 いつもママがいない日に、遊びにきてくれる優しいおねえちゃんたちは、今日は来てくれない。
 今日は一日中遊んでくれるはずだったママも、急なお電話で、出かけてしまった。
 でも、おにいちゃんは、来てくれるはずだ。クリスマス・イブの夜は、いっしょにケーキを食べて、いっしょにお歌を歌って、いっしょに遊んでくれると、ずっと前から約束していたんだもの。猫も大好きなおにいちゃんだから、きっとチャメ二号もかわいがってくれる。
 ――ママがいないときにも、もっと来てほしいなあ。
 沙弥香の現在の内的世界――四歳児程度の思考力と、その半分にも満たない記憶力を残し、成長を止めてしまった脳の把握する世界では、その『おにいちゃん』がいつから自分と遊んでくれていたのか、もう漠然としか思い出せない。
 ずっとずっと昔、生垣の向こうから、今日のお隣のおばさんのように優しい声をかけてくれたとき、自分はまだ半分くらいの大きさだったような気もする。
 ――もうちょっと、大きかったかな?
 ちょっと考えこんだあと、沙弥香はすぐに、思い出すのをやめてしまった。
 思い出せないことを無理に思い出そうとしてしまうと、頭が痛くなったり、すごくいやな感じになったりするだけなのだ。
 とにかく、おにいちゃんはいつも優しくて、ママやほかのお姉ちゃんがいないときには、とても気持ちのいいことをしてくれる。
 ときにはちょっと痛いこともあるけれど、痛い、と言うと、おにいちゃんはぺこぺこあやまって、大人の人じゃないみたいで、とってもおかしい。
 とにかく、今日はクリスマスのイブの日だから、夜はママもおにいちゃんも、いっしょにクリスマスの歌を歌って、いっしょにケーキを食べるのだ。サンタさんも、お願いしていたリカちゃんのレインボーマーケットを、プレゼントしてくれるのだ。まだ一度も、会ったことないけど。
 それまで考えていたことも、次の瞬間にはすぐに忘れてしまい、とりあえず沙弥香はチャメ二号とリカちゃんファミリー全員のご挨拶を、あらためて執り行うことにした。
 チャメ二号の飼主として、きちんとやっておかなければならないことだ。
 そうして、沙弥香は充実した午後のひとときを過ごし始めた。
 彼女のこれまでの十八年の人生が、祝福されているのかどうか――それは、誰にも解らない。
 晩発性先天性梅毒の場合に多く見られる、角膜実質炎、内耳性難聴、発育不良といった症状は、沙弥香には発現していない。進行性麻痺も、水際で食い止められた。同じ病を後天的に患ったベートーベンやシューベルトの例を見ても判るように、非常に変則的な症状を発現する疾病である。沙弥香の外部的な病変が、歯科的に対処可能な一部永久歯の変形のみにとどまったのは、幸運と言っていいだろう。
 しかしそれゆえにこそ、沙弥香は公共的な多くの庇護の、対象外である。実生活にさほど介助を要さない状態であると、法的には判断されてしまう。ボランティアあるいはNPOといった民間福祉意識の希薄な過去の時代であったら、それこそ週に一度もケース・ワーカーの訪問を受けられれば、上等だっただろう。
 そしてまた、身体的に健康な少女であるからこそ、母親やボランティア不在の折に不埒者の甘言に弄され、懐妊・中絶といった事態に陥る危険もある。たとえそれが当人の意識に、なんら苦渋を残さないにしろ。
 しかし、それでも沙弥香は、天使のように幸福な日々を送っていた。
 まるで、なんだかよくわからないものと同じように、ただそこに存在していることを存在の意味としながら。

     ★        ★

 十数年に渡る過労と心労に、享子の肉体と精神は、すでに破綻していた。
 しかし北条邦彦からの電話を受けて、それなりに瀟洒なコート姿で街を歩く享子は、一見若々しい有閑マダムに見えた。
 先夜突然に始まり、それからずっと続いている後頭部の頭痛が、今は嘔吐感まで伴っている。悪寒を感じるわけでもないのに、額や背中に冷や汗が流れる。
 それでも、行かなければならない。熱はないのだし、頭痛薬のおかげか、痛み自体は軽くなってきたようだ。吐き気がひどいのは、きっと薬で胃が荒れたせいだ。
「大丈夫ですか?」
 昼下がりのいつものパーラーで、先に着いて待っていた邦彦は、享子の鉛色に近い顔を、心配そうに覗きこんだ。
「ええ。ちょっと頭が痛いだけ」
「気をつけてください。インフルエンザが流行っているから」
 ――本当は死んでほしいんじゃないの?
 そんな皮肉が口をつきそうになったが、やめておいた。皮肉を言うのさえ、今は辛い。
 それにこの青年は、そんな大それた憎悪を抱けるだけの、度胸も向上心もない。立派な脳神経外科医の父親を持ち、その知能もある程度受け継ぎながら、自身は人の命を扱う度胸がなく、形成外科でお茶を濁している――そんな小心者だ。
「これ……今月分です」
 差し出した分厚い封筒を、享子は当然のように受け取り、バッグに入れた。
 それは恐喝なのではないか――当初感じていたそんな胸の痛みも、享子はすでに忘れていた。
 この男は、学生時代に娘を妊娠させ、中絶させた。その時点で親に訴えれば、その封筒の百倍の厚さの示談金でも、喜んで払っただろう。
 あえてそれをしないのは、その気になれば相手の社会的生命をいつでも絶つことができる、そうした精神的優位感を保つためでもあろうが――心の深奥では、まだいて欲しかった、のである。
 自分は男など、もうどうでもいい。自分にとって、それはただ生活の糧を得るための、愚かな肉の塊に過ぎない。
 あの遠い昔の馬鹿ですら、けして享子の夫などではなかったのだ。
 沙弥香だけが、今の享子の全てである。
 そしてその沙弥香は――今でも、邦彦を必要としている。本当ならば憎悪して唾棄すべき存在に、毎日のように会いたがっている。
 享子はそれを内心歯軋りしたいほど愚かだと思いながらも、結局遠い昔の、あの馬鹿との短い日々を、思い出さずにはいられないのだ。なんの根拠もなく、ただシアワセだと思いこんでいた日々を。
 結果的に、実の娘を出汁《だし》にしている女衒。そして、そんな日々をただ嬉々として天使のように生き続けている沙弥香――無限の矛盾の救いを、享子は数年前から、『お仏壇』に求めていた。
 それを拝み、与う限りの浄財さえ積んでいれば、それは日々の救いと来世の救いまで、確約してくれる。拝めば拝むほど、そして浄財を積めば積むほど、そのありがたい教祖様と、その背後にいるお釈迦様は、自分を救ってくださるのだ。
 そして与う限りの浄財を積み続けるには、永遠の矛盾を繰り返すしかない。それでいいのだ。自分は日々拝み、浄財を積み続けているのだから。
 どのような不浄な金銭でも、お釈迦様に捧げれば浄財――無論、本来の大乗仏教に、そんな概念は微塵も存在しない。教祖様が、全国規模の『騙《かた》り』であるのは明らかである。そもそも何物へも執着しない、『執着しない』ことにすら執着しない、それが大乗仏教の説く『空《くう》』である。
 しかし、享子はそんな概念を知る由もない、ごく普通の、弱い人間だった。
「今夜はどうして来てくださらないの?」
 そう言って、享子は頭痛を堪えながら微笑む。
「あの子も、楽しみにしてたのに」
 邦彦はいつもと変わらず、優柔不断な、曖昧な口調で答えた。
「すみません、ちょっと、親父たちと会食で……」
 ――そう。それなら、家でもそれに負けないものを、沙弥香に食べさせてあげるわ。
 ほんの二・三分、沙弥香へのプレゼントの話など交わし、おどおどと落ち着かない邦彦を後に、享子は街路に出た。
 午後の街路を流れるクリスマス・ソングが、最高潮に達しようとしていた。
 家を出たときの青空は、また灰色に曇り始め、この地方でも師走とは思えないほどの、厳しい冷え込みが始まっていた。
 激痛が享子の後頭部で爆発した。
 頭の中を、後ろから鷲掴みにされるような痛みだった。
 その場にうずくまった享子に、老夫婦が声を掛けた。
「大丈夫ですか?」
 人の良さそうな老人が、享子の顔を覗きこんだ。
「……ええ、すみません」
 その手を借りて立ち上がった享子の、脂汗の浮いた鉛色の顔を見て、老夫人――というよりはまだ中年の夫人が、心配げに言った。
「インフルエンザかしら。すぐ病院に行かれたほうが」
「ご親切に……ありがとうございます」
 確かに痛い。でも、意識ははっきりしている。
 ――インフルエンザなら、大丈夫。
 沙弥香を連れて月初めに予防接種に行ったとき、ワクチン不足で一本しか残っていなかったので、沙弥香だけはちゃんと打ってもらっている。あの子には移らない。自分は、明日にでも病院に行けばいい。
 気掛かりそうな阿久津老人夫婦に頭を下げて、享子はまた歩き始めた。
 県下で一番の高級デパートの、高級食品売り場を目指している。
 ――とにかく今夜は、あの子にこの街でいちばん美味しいものを、食べさせてやるんだ。年に一度の、クリスマス・イブだもの。
 自分がクモ膜下出血の初期状態を呈していることに、享子は全く気づいていなかった。
 その病名自体は、しばしば聞いていた。享子の現在の職場は花小路のクラブであり、お得意のほとんどが中年以降の働き盛りである。会社で突然昏倒し、大鼾《おおいびき》をかきながら救急車で搬送され、その日の内に亡くなった同僚の話など、何かにつけ耳に入る。
 しかし享子は、死亡率五十パーセントのその難病が、必ずしも中年以降の病とは限らないこと、そして初期症状に多く意識障害を伴わないものであることまでは、誰からも聞いていなかった。
 一時間後、享子は峰館メトロプラザの玩具売り場で、歩行困難に陥った。
 邦彦が前金予約しておいた沙弥香へのプレゼントを、代理で受け取った直後のことだった。
 私服の警備員に支えられながら、それでも享子は救急車を望まなかった。
「……ごめんなさい。少し、休ませていただけます?」
 老練な警備員であれば、あえて救急車の手配をするほどの顔色だった。
 しかしその警備員はまだ若く、状況を読むという経験に不足していた。
 救護室のベッドで眠り続ける享子に、シスター――メトロプラザでは、顧客救護のシフトに当たる女性社員を、そう呼んでいる――は当然何度か声をかけたが、そのつど享子は「もう少し」「すみません」などと、声を返した。
 それが意識混濁の始まった脳から、なかば無意識に漏れた片意地の発露であることに、やはり若いシスターは気づけなかった。
 やがて隣室で待機していた遅番のシスターが、明らかに異常な音量の鼾を聞きつけて救護室を覗いたとき、すでに享子は失禁していた。
 頭蓋の中で、脳を血液が覆っていた。
 脳動脈瘤からの出血、凝固、再出血――流れ出た血液は脳を圧迫し、脳自体の血管は出血によって攣縮し――いずれにせよ、脳細胞は次々と息を絶ってゆく。
 享子は前夜すでに、それまでの緩慢な破綻への道から、決定的な破綻への岐路に踏み込んでいたのである。

     ★        ★

 ――♪ ぱんだ、ぱぱんだ、こぱんだっ ♪
 沙弥香はミミちゃんの逆立ちや、パパンダやコパンダが愉快に駆け回るのを、繰り返し繰り返し、ビデオで見続けていた。
 ビデオの見方くらいなら、沙弥香にも判る。
 なんだかいつもと違うボタンを押してしまったのか、いつもみたいに一回で終らなくて、何べんも何べんも、パンダ・コパンダが始まる。でも、これは便利でいいかもしんない、と満足だ。
 ――トトロもおもしろいけど、やっぱし、コパンダ、かわいい。
 チャメ二号もなんとなく、コパンダに似ている。お目々やお口はないけど、ふかふか、おもちのような後ろ姿がおんなし。
 おこたに入って、同じアニメを見てチャメ二号を抱いていると、なんだか眠くなる。
 そのままくうくう眠ってしまって、目が覚めると、お部屋はもう真っ暗だった。
 テレビのミミちゃんとパンダたちだけ、元気に明るい。
 ――おう、映画館みたい。
 時々ママやおにいちゃんが連れて行ってくれる駅前のシネコンを思い出し、また夢中で同じ話を追っかける。
 ぐう、と、おなかが鳴った。
 カーテンが開けっ放しの窓の外は、またすっかり雪だ。
「……ママ、遅いね」
 チャメ二号の頭をぽんぽん叩いてみる。
 ぷるん、と、うなずいたみたいだ。
「おにいちゃんも、遅いね」
 今度は叩かなかったのに、うに、とうなずいたみたいだ。
「おなか、すいたね」
 目の前の頭がなんとなく美味しそうだったので、はむ、などと口を当ててみる。
 ほんとうにおもちみたいで、そのままお口の中に入ってきそうだった。
「おう」
 あわてて口を離して、
「じょうだん、じょうだん」
 飼主は、飼い猫を――だかなんだかよくわからないけど、とにかく食べてはいけない。
 別に食べてくれてもいいです、そんな感じだが、食べてはいけない。
「……まいごになっちゃった、かな」
 お外で迷子になったって、知らない人じゃなくて、お店屋さんの人やお巡りさんに言えば大丈夫だと、いつもママは言っている。でも、ママやおにいちゃんは『まいごふだ』、持ってたかなあ。
 パンダコパンダがまた終って、ちょっとビデオがガーガーがんばっている間、テレビにニュースが映った。
 女の子が、ゆーかいされて、さつがいされてしまったおはなしだ。
『さつがい』はなんだか解らないが、『ゆーかい』は恐いのだ。
 ――知らない人には、ついてっちゃいけないの。
 知ってる人でもけっこう危ない、そんな概念は、沙弥香の世界にはない。
 なんだかとても恐くなってしまって、あわててリモコンをポチポチ押してみる。
 どこもニュースのお時間みたいで、またゆーかいのお話だ。
 テレビの横のお仏壇が、暗いお部屋の中で、なんだか恐い。
 その横のおじさんのお写真は、笑っているのに、もっと暗くて恐い。
 沙弥香はあわてて立ち上がって、家中をとととととと駆け巡り、あちこちの電灯を点けて回った。
 おこたの部屋よりも、もうツリーの飾ってあるリビング・キッチンのほうが、恐くなさそうだ。
 食卓の上の、ツリーのスイッチも入れて、ピカピカさせる。
 ――よしよし。
「♪ おー星さーまーきーらきらー ♪」
 ありゃ、違う歌だったかな。
 てっぺんの大きなお星様や、きらきらと瞬く色とりどりの豆球に、しばらくじゃれたりしていたが――やっぱりママも、おにいちゃんも、お食事も出てこない。
 沙弥香はチャメ二号を抱きしめながら、雪のお庭に飛び出した。
「おばちゃん! おばちゃん! おばちゃん!」
 でも、お隣の窓は、どこも真っ暗だった。
 ――おとなりも、みんな、まいご?
 ふだんの夜は明るいお隣も、今夜は一家揃って、ファミレスのクリスマス・ディナーに行ってしまったのである。
 お窓のカーテンから、元祖チャメが覗いて、にゃあ、なんて挨拶してくれたけれど――チャメはお家から出られない。たぶんごはんも作ってくれない。ママも探してくれない。
 じわ、とお鼻の奥に、涙の元がこみ上げてくる。
 ――うう、泣きそう。
 もうおっきいんだから、泣いてはいけない――そう思っても、やっぱりどんどんお鼻がむずむずしてきて、やっぱり泣きそうだ。
 そのとき、声がした。
『行こう』
 沙弥香はきょとんとして、あたりを見回した。
 小さい子のような、大人のような、女の人のような、男の人のような、かわいいような、優しいような――そんな、なんだかよくわからない声だった。
 でも、お庭には、だあれもいない。
『お外に、行こう』
 その声は、胸に抱いているチャメ二号の温もりといっしょに、沙弥香の胸の奥に直接響いてきた。
 チャメ二号の声みたいだった。

     ★        ★

 どちらかと言えば、やっぱり沙弥香はただの女の子であるよりは、やっぱしないしょだけどお姫様になれたりしたらいいなあ、などと願っている。
 そんな沙弥香の喜ぶ顔と、世間体の両方を天秤にかけて、ママが買ってくれた他所行きのお服は、だから社会的にはギリギリの線だ。ドレスからコートまで、西洋人形のようにフリルや意味のないひらひらなどに飾られている。
 ところが良くしたもので、いつからか街には、そんな服装の少女たちが少なからず歩き始めた。中には少女と呼ぶには縦幅も横幅もちょっと育ちすぎなのではないか、そんな娘たちも混じっている。
 したがって、十年ぶりに『ひとりでお出かけ』を敢行した沙弥香の姿は、夜の街路に案外ジャスト・フィットして、違和感などは全くなかった。その街路自体が、クリスマス・イブの疑洋風装飾で満艦飾なのだから、当然と言えば当然である。
 お台所のツリーを何万倍も派手派手にしたようなイブの街を、沙弥香はあっちこっちのウインドーに気を取られて、あっちに行ったりこっちに行ったりしながら、ともかく駅方向に進攻していた。
 おもちゃ屋さんのウインドーには、欲しがっていたリカちゃんのレインボー・マーケットも、本物のお店屋さんみたく広げてある。本物よりかわいくて、きれいだ。うちのリカちゃんファミリーじゃない、別のリカちゃんたちがお買い物をしている。
 ――サンタさんは、『まいごふだ』持ってるよね。
 きっと今夜はだいじょうぶ。あしたはうちのリカちゃんたちも、マーケットでお買い物。
 うなずきながら隣のウインドーを覗くと、そこは立派な宝石屋さんで、ウエディング・ドレスの花嫁さんと、王子様のような花婿さんが並んで立っている。
 ちょうど結婚指輪をはめてあげるところで、ふたりともすごく嬉しそうだ。
 ――花婿さん、おにいちゃんに似てる。花嫁さん、沙弥香に……似てるかな?
 ついついお出かけの目的まで忘れてしまいそうになったりするが、そのたびに、胸に抱いたチャメ二号が、くにくに、などと気合を入れてくれる。いや、そんな感じがするだけなのだけれど。
 ――猫じゃなくて、もしかして、ちゅーけんハチ公二号?
 絵本で読んだワンちゃんなのかな、そんな感じだ。
 とにかく、粉雪の舞うぴかぴかの街を歩いているだけで、沙弥香はもう寂しくなかった。
 峰館上空に急速に流れ込みつつある、二十年に一度の強烈な寒気団なども、どこ吹く風だ。
 そしてなんだかよくわからないもの自身は――やっぱり、特には何も考えていなかった。
 ただ、ビッグ・バン以前から無限の時を『在り続けて』きた存在として、沙弥香に抱かれクリスマス・イブの街を進んでいるという状況に、ある種の強い『親和性』を帯びていた。
 クリスマス、という概念に、それは無関係である。猿人以降の人間という種がどんな名前を勝手に考えて、どんな幻想をそれに付加してきたとしても、なんだかよくわからないものは、ただのなんだかよくわからないものであり、それ自体が自分について何かを思想する、そんな能力はない。
 そもそも、現在沙弥香の腕の中でなんだかよくわからないものとしてぶよぶよしていたとしても、それは枕崎が小学校時代、何かの偶然でそれをぶよぶよさせてしまっただけであって、本来現在降りしきる粉雪の中にも、その周囲の夜空にも、そしてこの宇宙の事象の地平線の彼方、はるか無限の『虚無』のループの中にまで、物理学とも天文学とも数学とも哲学とも文学とも無関係に漂っているものと、まったく『同じひとつの存在』なのである。
 ただ、枕崎が物理的にぶよぶよとさせてしまった段階で、それは『親和性』という進化を得ていた。
 その根拠はなんだかよくわからないもの自身も、特に何も考えたことがない。しかし本来無関係なはずの『因果律』に、結果的に干渉しているのも確かだった。
 たとえば現在なんだかよくわからないものは、沙弥香という存在に、今まで接触した多くの人々や、今朝その口にぶらさがった轟天号よりも、さらに強い『親和性』を帯びている。それは、沙弥香が個体として『在るがままに在り続ける』ことになんら意味や懐疑を持たず、なお高次で在り得ている、そんな意味合いだったのかもしれないが――実のところ、やっぱりなんにも考えていない。ただ無意識に『因果律』への干渉を、こんな形で発生させ続けているだけである。――こっちだよ、沙弥香。
 あっちこっちで楽しい浮気を繰り返しながら、沙弥香は峰館駅前にたどりついた。
 雪空にそびえるその高層駅ビルは、まるで巨大なツリーのようにぴかぴか光っていた。
 ――うひゃあ。
 沙弥香はそっくり返って、てっぺんまで見上げようとした。
 でも、お顔に粉雪が降ってきて冷たいし、それにてっぺんまで見ようとすると、そっくり返りすぎて、そのまま後ろに尻餅をついてしまいそうだ。
 ――えーと、なんとかめとろぷらざ。
 とりあえず入り口のでっかいプレートを読んで、それで満足することにする。
 こんなでっかいツリーの中は、どんなでっかいツリーの中なんだろう。
 ――わくわく。
 またお出かけの目的を忘れそうになる沙弥香の腕の中で、チャメ二号が、くにくに、と動いた。
 ――そう。まいごのママを探しにきたの。
 沙弥香は「ぶーん」と口真似しながら、自動ドアをくぐった。
 ――おう、でっかい。みんなで、いっぱい。
 ひとりで探すのはちょっと大変そうだったので、すぐ横のカウンターでにこにこ笑っている、綺麗なおねえさんに訊いてみる。
「あのう、ママ、いますか?」
 おねえさんは、笑ったまま、困ったような顔をした。
 ――おう、おもしろいお顔。
「……お連れ様を、お探しですか?」
 なんだかよくわからなかったので、もう一度説明する。
「ママがね、まいご」
 沙弥香の目が幼児と同じ性質のものであるのを、受付嬢はようやく悟った。
 第一声では、まったく甘ったれ言葉の馬鹿なゴスロリ娘がよう、イブに遅番やってる労働者の身にもなってくれよな、などと内心思っていたのである。
「えーと、お嬢ちゃん、なんてお名前ですか?」
「さやか」
「上のお名前は?」
「うーんと、まえかわ」
「はい。それじゃあ、おいくつ?」
「じゅーはち」
 ちょっとおねえさんのお顔がにこにこでも悲しそうになったりしたのは、なんでかな、などと沙弥香は思った。
「はい、偉いね。じゃあ、住んでるところは、なんていう町かな?」
 ――わかるけど……急にきかれちゃうと、よく、わかんない。
 これがママの言ってたアレなんだ、そう沙弥香は思いついた。
 ポシェットからひっさつのアイテム、『まいごふだ』を引っ張り出そうと思ったが――チャメ二号、ちょっと、じゃま。
 ひょい、とカウンターに置かれた異物に、受付嬢は面食らった。
 これに住所氏名が書いてある――なんてこた、ないよな。大体、これって何? 新素材のぬいぐるみ?
 思わずうにうにと確認したりしていると、
「はーい!」
 正しい幼稚園児のお返事のような声と共に、ピンクのパス・ケースが差し出される。
「はい、ありがとうね」
 おねえさんはまたにっこり笑って、
「ちょっとここで待っててね。今、お母さん、呼んであげるね」
 にこにこと奥のマイクに向かいながら、まったく近頃の馬鹿っ母はよう、こんな不憫な子ほっぽっといて、暢気にお買い物かよ、馬鹿が、などと内心思っていたのは、もちろん沙弥香には判らない。
 ――これでいい、のかな?
 そうして言われたとおりに、きょろきょろしながら待っていると――売り場の奥に、ものすごくうれしいものが見えてしまった。
 ――おにいちゃん!
 邦彦おにいちゃんが、エレベーターの前にいる。
 ママと同じくらい好きな人が、ママより先に現れた。
 沙弥香はチャメ二号を抱えて、わき目も振らずに駆け出した。
 ――あう、乗っちゃう。
「おにいちゃーん!」
 ――あうあう、乗っちゃった。
 そして、受付嬢が残されたパス・ケースを手にあわてて売り場を見渡しているとき、沙弥香はすでにエレベーター横の階段を、一所懸命とたぱたと駆け上がっていた。
 チャメ二号がくにくにしてるから、たぶん、これでいいのだ。

     ★        ★

 また冷え込んできたようですなあ――そんな鷹揚な宮坂の声を、北条邦彦はけして嫌いではなかった。
 高層階の料亭のベランダには、こぢんまりとした日本庭園も設えてあり、無論露天ではないのだが、その向こうは地上百メートルの夜空である。
 その空を舞う雪の形や密度で、峰館土着の人間であれば、外の寒気は充分想像できた。
 宮坂はベテラン心臓外科医である。峰館大医学部の教授であり、同大学病院の心臓外科主任でもあるから、邦彦の父親・正吾とは、専門分野こそ違え、同僚にあたる。
 来春、邦彦が臨床研修を終え、峰館大学病院形成外科の正規職員として採用されることが確実になり、それを機に宮坂の娘・志保との縁談話が持ち上がった。
 料亭の座敷には、邦彦と志保、そしてそれぞれの両親が揃っている。
 見合い、と言おうか、それぞれの息子と娘も子供時代から顔見知りであることを考えれば、再確認、と言ったところか。
 クリスマス・イブというタイミングを考えれば、料亭よりも同じフロアのフランス料理あたりが似合っているのだろうが、正吾も宮坂もレストランよりは和風のほうがくつろげる、そんな理由でこの割烹を選んだ。
 新郎新婦候補の主導による会食であれば、おそらくレストランがディナーの場となっていただろう。
 談笑の声も、学生時代からの仲である父親同士、そしてその双方が結婚して以来の旧知である母親同士のほうが賑やかで、邦彦と志保の会話は、むしろ少なかった。
 と言って、ありがちな政略結婚や、前時代的な『親の決めた許婚』などでもない。
 志保は邦彦を、容貌・性格・将来性全ての点で、配偶者候補としては申し分がないと思っている。マスクは甘いし体格も適度にスリム、性格も柔和で何より育ちがいい。専門分野の形成外科も、父親たちの常に水際で患者の生死に関わるような分野に比べれば、はるかに配偶者として緊張が少なくて済む。
 そして邦彦は、そんな人々と表面《おもてづら》親しく交わりながら、内心、懊悩の川をただ流されていた。
 邦彦が軟弱である――それは享子の見立て通りなのだろう。良い家、出来た親、さほど努力しなくとも常に学業では上位にあった頭脳、そして健康な肉体。それら他人様から見れば垂涎の的とも言うべき人生でありながら、邦彦は日々、流されるだけの人間だった。
 両親は素直な邦彦に、常に甘い。父親は内心、自分と同じ脳神経外科への道を望んでいたのかも知れないが、形成外科に進みたいという邦彦の希望に、特に反対はしなかった。
 その分野は、享子が美容整形と混同して想像しているような、プラス・アルファとしての医術だけではない。火傷を始め外見的な傷痕、先天的な奇形、腫瘍や腫瘍を切除した後の損なわれた外見や失われた機能の再建――美容整形は、それら多くの形成外科分野の一部に過ぎない。たとえばあくまでも健康な乳房に対して行われる審美的な豊胸手術と、乳癌を切除した後の乳房の再建は、技術的に大いにリンクしているにしても、やはり別分野である。特に峰館大学病院クラスの組織になると、職制は細分化され、たとえば邦彦の上司になる予定の形成外科医は、生体肝移植の現場にも参加し、微細な血管の縫合を担当している。
 しかしそうした社会的意義を踏まえて、邦彦が進路を決定したのかと言えば、それも怪しい。享子が推測したように、「人の命を扱う度胸がない」、それが正直なところなのだろう。そして何より――自分はしょせん、親父たちにはかなわない。人生に常により高いハードルを設定し、それを越えながら生涯を送る、そんな生き方をしている人間たちに、伍して生きようとする気力がない。
 そんな劣等感は、幼い頃から、常に邦彦の心の深奥に根を張っていた。
 ――沙弥香。
 学生時代、初めてあの生垣の下で彼女に出会ったとき、邦彦は救われたと思った。
 その天真爛漫な笑顔を見ているだけで、別の流れに乗れる気がしたのだ。
 身を任せるのが精一杯の大河ではなく、岸辺の花が目に止まれば、いつでも泳ぎを止めてその岸辺に佇んでいられる、そんなせせらぎに。
 以来、懊悩が深まるたびに邦彦は前川家を訪れ、沙弥香の無邪気な好意に救いを求めた。たわいのない遊びを通しての精神的な慰撫から、やがては肉体的な慰撫まで。
 ――これからも今の生活を続けるのは、可能かもしれない。
 学生時代も研修期間も、両親は邦彦の少なからぬ浪費を、社会的な交際費として許容してきた。仮にその家庭に志保が加わったとしても、一家の経済的首長はあくまで正吾であり、たとえば邦彦の所持するカードの一部は今でも正吾の口座からの引き落としだし、磊落な父親は明細などほとんどチェックしない。
 邦彦はそんな惰弱な思考を巡らせながら、今も志保の微笑と会話を、曖昧に受け流し続けている。しかしそんな生活が、自分を含めた全ての周囲に対する最低の欺瞞であることも、無論悟っている。
 なぜ自分はここにいるのだろう。
 約束通り、前川家に行きたかった。
 沙弥香の唇に、クリスマス料理を運んでやりたかった。
 子供のように寝入る沙弥香の枕元に、こっそりクリスマス・プレゼントを置いてやりたかった。
 しかし、自分は結局、ここで愚劣な笑顔を造っている。
 己ひとりでは、何ひとつまともに転がせない。
 周囲が破綻に至る全ての要素を、惰弱な己ひとりで生んでいる。昔から――そして今も、これからも。
 背中をほんのひと押しされれば、頭を抱えて目の前の庭園に踏み出し、地上百メートルのガラスを抜けて、雪の中を堕ちる所まで堕ち、自分という存在に引導を渡してしまいたい――思わずそんな衝動にかられるが、無論外面はそんな内心を恥じて隠蔽し、その隠蔽しているという負い目もまた、ひたすら累積する一方だった。
 その時点で邦彦の脳は、すでに精神疾患の域を越えていた。あくまでも物理的に、脳内活性物質の分泌が、鬱病によって限界まで阻害されていた。
 享子とは別の意味で、邦彦もすでに破綻していたのである。
「四月だと皆さんなにかとお忙しいでしょうから、やっぱり式は五月にはいってからのほうが、よろしゅうございましょうねえ」
 そんな所まで話が進んでしまったとき、邦彦はその母の声に重なって、奇妙なアナウンスが流れているのに気がついた。
『峰館南町にお住まいの前川様、峰館南町にお住まいの前川様、お子様がお待ちですので、一階受付までお越し下さい』――そんな良くあるアナウンスと、『峰館南町にお住まいの前川沙弥香ちゃん、峰館南町にお住まいの前川沙弥香ちゃん、至急一階受付までお戻り下さい』そんな矛盾したアナウンスが、交互に繰り返されているようだ。
 実はかなり前から、困惑した受付嬢によって、定期的に何度も同じアナウンスが流されていたのだが、周囲の音楽や会話に紛れて、気づけないでいたのである。
 ――沙弥香が来ているのか?
 今夜は享子といっしょに家にいるはずではなかったか、そう驚いて耳をそばだてていると、やがてまた同じアナウンスが繰り返された。
 しかし、状況が理解できない。受付には享子も沙弥香もいないようだ。あの親子に何が起きているのか。
 邦彦は逡巡した。
 ただの迷子なら、いずれ収まる所に収まる――そう割り切って、会話に戻るべきだろう。自分が探しに行っても、なんの足しにもならない。
 そう流される一方で、邦彦の脳裏に、迷子になって途方にくれながら、館内を彷徨っている沙弥香の姿が浮かぶ。
 邦彦はさらに逡巡を続けた。
 しかし、自分は――泣いていて欲しくない。
 あの生垣の下で見せてくれた笑顔を、涙で濡らしたくはない。
「――すみません」
 そう言って邦彦が席を立ったとき、おにいちゃん、おにいちゃん、という息を弾ませた声が、通路の向こう、フロントのほうから聞こえてきた。
 あわてて通路に下りた邦彦の胸に、ととととと、どん、と、フリル娘が飛びこんで来た。

     ★        ★

 沙弥香のここまでの苦労を考えれば、チャメ二号のナビゲーション能力は、極めて不充分なものだったと言わねばなるまい。
 同じくにくにでも、ちょっと斜めとかここは左に折れて次の角を右とか、くにくにの角度を微妙に変えるくらいの機能が欲しかったところである。
 しかしなんだかよくわからないものとしては、あくまでも特になにも考えていなかったし、凝縮された空間の人ごみに入って『親和性』もやや散漫になっていたため、おおよその方向へくにくにするのが精一杯だったのである。
 沙弥香は基本的に元気娘である。子供と同じ無分別なまでの走行性を誇っている。しかしさすがに、高層ビルのてっぺんまで階段を駆け上がるほどの元気はない。
 途中でエスカレーターに浮気したり、エレベーターに乗ったり、それがテナント・フロアまでで終わってしまってまた高層階行きに乗り換えたり、くにくにに従ってレストラン・フロアで降りたのはいいものの、いい匂いのお店屋さんばっかりで、ついつい「おなか空いたなあ」などとあちこち覗いて回ってしまったり――まあ沙弥香の普段の行動半径から考えれば、ちょっとあたし母をたずねて三千里のマルコみたいかなあ、そんな感じにまでなってしまったのである。
 それだけに、艱難辛苦の末に邦彦おにいちゃんを、ちんとんしゃん、などという音楽の聞こえる通路の奥に発見したとき、沙弥香は舞い上がった。
 思わずチャメ二号も放り出したりしてしまって、とにかくおにいちゃんの首にかじりついた。
「おにいちゃん! おにいちゃん! おにいちゃあん!」
 ここはもう、最大級の愛情表現しかないのである。
 ――ぶちゅう。
 お座敷の上から、凄まじい衝撃の視線が集中したのにも、沙弥香は気づかない。
 とにかくありがとうでうれしいのだから、これしかないのだ。
 ……ありゃ?
 おにいちゃんが、あんまり嬉しがってないような感じだ。
 いつもみたいに、おベロ、こない。
 おにいちゃんのくちびるも、固まってるみたいだ。
 ――しっぱい、かな?
 そういえば、ママやおねえさんたちがいるときは、キスきんしだったみたいな……。
 と、ゆーことは、やっぱしお外のみんなのいるときも、きんしかなあ。
 そんな不安にかられながらも、やっぱり気持ちがいいのでふにふにし続けていると、ようやくおにいちゃんのくちびるも柔らかくなった。
 ふにふにしてから、おベロもうにうにしてくる。
 沙弥香の頭をしっかり抱えて、まるで『あの時』みたいに、根性入ってる。
 沙弥香は精神的にはどうであれ、肉体的にはやはり大人である。
 思わずある部分が潤ったりもする。
 お外でなければ、おにいちゃんの『いたずらっこ』に手を差し伸べたりしてしまったのかもしれないが、それをしなかったのは、すでにお外であることを忘れてしまっている沙弥香の意思ではなく、入り口横の通路に置き去りにされたなんだかよくわからないものが、『全年齢対象の場』というこの社会への親和性を、かろうじて保っていたからだろう。
 うっとりするようなひとときの後で、沙弥香はまた『お外』の知らない人たちの、凄まじい視線を感じた。
 ちょっと横目でかくにんしてみる。
 ――おう、おもしろいお顔が、いっぱい。
 けど、中にはずいぶん恐い顔をしている、おばさんやおねえさんなんかもいるみたいだ。
 ……やっぱり、しっぱい?
 不安になっておにいちゃんのお目々にお目々で訊ねると、
「――ありがとう」
 おにいちゃんは、いつもの優しいおにいちゃんだった。
 いつもよりずっと優しいお顔かもしんない。
 ――やっぱし、OK。キス、無敵。
 もうだいじょうぶ、そう沙弥香は確信した。
 おもしろいお顔で固まっているお外の人たちに、おにいちゃんがずいぶんていねいに頭を下げた。
「すみません。事情は、戻ってからご説明します」
 まだ唖然としている家族たちを残して、邦彦は沙弥香の肩を抱き、外のフロアに向かった。
「ママとはぐれちゃったの?」
 そう訊かれて、沙弥香はようやく、本来の心配事を思い出した。
「ママ、いないの」
「いっしょに、晩御飯に来たの?」
「ううん。お昼から、ずうっと、いないの」

     ★        ★

 それは――絶対におかしい。
 邦彦は当惑した。
 その性格や生活がどうであれ、享子は常に沙弥香を中心に生きていたはずだ。どんな緊急の用件が生じたとしても、沙弥香を夜までひとりで放置するなど、考えられない。
 昼に会ったときの、鉛色の顔が頭に浮かぶ。
 とにかく、アナウンスにあった受付に行ってみよう。
「いっしょに探そうね」
 内心の不安を隠して沙弥香に微笑むと、
「うん!」
 沙弥香はいつもの『全幅の信頼』、そんな笑顔を返した。
 テナント階直行のエレベーターを待っていると、邦彦の肩を、追ってきた手が鷲掴みにした。
「どういう事だ?」
 正吾の顔は、赤黒く上気していた。
 微細な指技に集約される職業であるため、父親は常に血圧等の自己管理を怠らない。絶対的な心身の自己管理が、外科医として最先端にいる父親の職業倫理である。その父親が、こめかみの血管を限界まで浮かせ、それでも己を律しようと、巌《いわお》のように唇を結んでいる。
 邦彦は痛烈な胸の疼きに耐えながら、その父親を、腹の底から愛している自分に気づいた。
 これ以上、欺いてはいけない。
「……学生時代、この子を中絶させました」
 正吾は愕然として、その娘に目を落とした。
 なんの話かな、そんな沙弥香のきょとんとした瞳を見つめ、正吾は先刻のこの娘の非常識な行動が、けして蓮っ葉娘の愚行などではないのを悟った。
 この目は――無垢な幼児の目だ。
「こんにちわ!」
 沙弥香は元気に頭を下げた。
 おにいちゃんのお知り会いなら、ちょっと変な感じでも、やっぱり最大級ごあいさつの人だ。でも、こんばんわ、のほうが良かったかな。
「……こ、今晩は」
 あう、やっぱし、などとちょっと反省したりしている沙弥香を、正吾は呆然と見つめ続けた。
 邦彦は何か言葉を続けなければと思いながら、言うべき言葉を紡げなかった。
 正吾は、なお呆然とつぶやいた。
「しかし……責任を取る……形は、他にもあるだろう」
 教えて下さい――邦彦がそんな弱音を吐きかけたとき、またアナウンスが流れた。
『峰館南町にお住まいの、前川享子様のお連れ様、前川享子様のお連れ様、いらっしゃいましたら、至急お近くの従業員に、お声をおかけ下さい。峰館南町にお住まいの――』
 繰り返される受付嬢の声は、いつもの慇懃無礼なトーンではなく、なにか切迫したように震えていた。

     ★        ★

 享子が救護室で昏睡状態に陥っているのが、シスターによって確認された直後、当然救急車が手配され、緊急事態と言うことで、享子の手荷物も検められた。運転免許証はなかったが、写真入りの住民基本台帳カードがあったので、すぐに身元は確認された。
 ほとんどの市民が忘れ去っているそんなカードも、他に写真入りの法的に有効な身分証明書を持たない人間には、至極便利なカードだったのである。
 しかし、自宅に何度連絡しても、留守電しか応答しない。
 救護室で寝入ってから何時間もたっていたが、念のためのアナウンス依頼が、受付に入った。
 受付嬢は、すぐにその名前の一致に気がついた。パス・ケースを残していなくなってしまった不憫な少女を、ずっと気にかけていたのである。
 警備員に導かれて救急車に向かう沙弥香の姿を見つけ、受付嬢は思わずカウンターを出て駆け寄った。
「こら、どこ行ってたんだよ! 心配するじゃん!」
「ご、ごめんなさあい」
 面食らってぺこぺこしている沙弥香の頭を、ほっとして撫でてから、ふたりの同伴者に気づいても、もう遅い。思わず地の言葉で叫んでしまったあとである。
 お兄さんと父親? そう想像しながら、あわてて頭を下げる。お兄さんらしい二枚目の感謝のこもった会釈に、ちょっと顔を赤らめたりもする。
 お母さん、早く良くなるといいね――そんな気分で、受付嬢は沙弥香とひらひら手を振り合った。
 しかし受付嬢の期待とはうらはらに、享子を搬出してきた救急隊員たち、そして彼らと共に救急車に同乗した正吾は、すでに患者が危機的な状態にあるのを見抜いていた。
 正吾は横向きになった享子の顔の吐瀉物を拭い、眼球の状況、そして呼吸と心拍を探りながら言った。
「峰館大学病院にお願いします」
 救急隊員は、怪訝そうに答えた。
「今夜は県立病院指定なのですが」
「峰館大の北条と申します。脳外科の主任を勤めております」
 うまい、天恵だ――救急隊員の顔に、喜びが浮かんだ。速やかな開頭手術が必要なのではないか、そう判断していたのである。
 クモ膜下出血でこの状態だと、自分たちでは、吐瀉物が気道に逆流するのを防ぐ、その程度の処置しかできない。あとは患者の安静をできる限り保って、一刻も早く専門医の手に委ねる、それだけだ。ほとんど外科的な処置でしか、治療できない疾病である。
 正吾は救急通信を借り、職場にCT検査と脳血管撮影の準備を指示した。クモ膜下出血であることは経験上確信しているが、高血圧性脳出血や脳梗塞の可能性もゼロではない。それによって、処置は変化する。またクモ膜下出血自体が、脳動脈瘤によるのか、先天的脳動静脈奇形によるのか、それによっても施術は変わる。
「……ママ、お病気?」
 沙弥香が心配そうに、享子と正吾の顔を見比べている。
 正吾はその隣でうなだれている、邦彦の表情を窺った。
 すでにエレベーターの中で、ある程度の事情は聞いている。
 邦彦は正吾の視線に気づき、顔を上げた。
 邦彦の目は、正吾に懇願していた。横たわる患者を、救って欲しいと訴えているようだ。それがこの娘に対する執着から来ているにしろ――完全に腐っているわけではなさそうだ。もし息子がこの患者の永遠の不在を望むようなら、自分は自分の息子に始末をつけなければならない。
「大丈夫だよ」
 正吾は沙弥香の頭を撫でた。
「お病気だけど、きっと、治る」
 最善を尽くします――そんな言葉は、子供には届かない。
 正吾は自分が偽善者であることを、とうに悟っている。
 人の心などというものは、本当に弱いものだ。
 現に自分の思考の中にすら、息子の不始末を知っているこの患者に対する、ある種の逡巡がないとは言えない。その意味では、自分のほうがこの馬鹿息子よりも、よほど唾棄すべき人間なのかもしれない。
 しかし、少なくとも術中だけは、心を捨てられる――それが自分の現在の名誉や収入を、許しているのだ。
 生かすという意思を指先にまで直接届けるために、心はいらない。
 そう、今けたたましいサイレンを響かせながら、クリスマス・イブの街を進む救急車の窓外を、流れてゆく白い雪のひとひらにも、心などありはしない。
 やがて峰館大学病院の緊急搬入口に到着すると、正吾は即座に内線で担当医を呼び出し、先ほどの指示の進行状況を確認した。
 ひと通りの確認が終ると、正吾は搬入口の外で佇んでいる邦彦たちに、おもむろに歩み寄った。
 邦彦の両肩に両手を置き、怪訝そうにしている息子を引き寄せ――その下腹に、思いきり膝を入れる。
 鈍い肉の音が響いた。
 うひゃあ、と沙弥香が息を飲んだ。
 邦彦は丸くうずくまり、激しく嘔吐し始めた。
「本当はその鼻っ柱をつぶしてやりたいんだが」
 正吾は穏やかに言った。
「今は手が使えんからな」
 沙弥香はおろおろと邦彦の前にかがみこみ、懸命に背中を撫でながら、きっ、と正吾を見上げた。
「おにいちゃんをいじめちゃだめ!」
 小鬼のように怒っている。
 そんな沙弥香の頭を、正吾は上から優しく撫でた。
「おじちゃんは、お兄ちゃんのお父さんだからね」
 邦彦は嘔吐しながら、嗚咽している。
「お父さんは、子供を叱ることもあるのさ」
 まだ納得できないで頬を膨らませている沙弥香を見つめながら、正吾は、確かにこの子は志保ちゃんより可愛いかも知れんな、などと思った。
 しかし、踵を返した瞬間には、すでに心を切り離していた。
 そのための蹴りだったのだ。

     ★        ★

 ――俺は、何もできない。
 邦彦は手術室を臨む廊下のソファーで、ただ無力感に捕らわれ続けていた。
 暗い深夜の廊下には、邦彦と沙弥香が、ふたりで残っているだけだ。
 手術開始後すでに四時間を経過しているが、終了の気配はない。
 難しい手術ならば、数時間に及んでも不思議ではない。
 人体とは、それほど奇跡的に複雑な造化である。
 父親の蹴りの入った下腹を、痛いの痛いの飛んでけ、と撫でてくれていた沙弥香は、今はその下腹と太ももを枕にして、くうくうと寝息をたてている。
 その髪を指で梳いていることしか、今の自分にはできない。
 あの料亭で感じた束の間の高揚は、すでに失われていた。
「……まだ、痛い?」
 いつの間にか沙弥香が起きて、こちらを見上げていた。
「大丈夫。もう痛くないよ」
「……ママ、もう起きた?」
「いや、もうちょっと。沙弥香は、朝まで寝てればいい」
「朝になったら、ママも起きるかなあ」
「そうだね」
「ママ、ねぼすけさんだから」
「沙弥香が早起き過ぎるのさ」
 えへへ、と笑って、沙弥香は邦彦の腹に頬を摺り寄せた。
 その視線が、廊下の奥に止まった。
 邦彦もつられてそちらを見ると、缶飲料の自販機が、ぼうっと光っている。
「……お汁粉?」
 沙弥香の自販機好物は決まっている。
「えへへへー」
 邦彦は小銭を出して、沙弥香の掌に乗せてやった。
「おにいちゃんは、えーと、ぶらっく?」
 何も欲しくなかったが、沙弥香のつぶらな瞳には、応えてやりたかった。
「……ぴんぽーん」
 ぴんぽんぴんぽん、おしるこ、ぶらっく――そう歌いながら駆けていく沙弥香の後ろ姿を、邦彦は愛おしく、そして悲しく見送った。
 恐らく、享子は朝になっても目覚めないだろう。
 この世を去る、という意味ではない。正吾の過去の実績を思えば、むしろ命は保てるだろう。しかし曲がりなりにも医学部を卒業し、臨床研修も終えつつある邦彦には、その末期的症状の術後が、おおむね推測できた。
 たとえ命を保っても、生命維持装置に繋がれたままの、目覚めるあてのない昏睡。そして、何日後か何週間後か何ヶ月後か、目覚めたとしてもその後に始まる、さらに先の見えない意識障害と身体的麻痺との戦い。
 初期症状段階で気づければ、多く数日で回復する疾病だが、あのCTや血管撮影の画像からは、そんな奇跡は期待できない。享子の脳は、血の海に浸っていた。
 邦彦は沙弥香を見つめ続けた。
 おっかなびっくり自販機にコインを入れて、じっくり狙ってボタンを押し、おう、などとつぶやきながら、転がり出る缶に小さく拍手して、それから両手に缶を掲げ、誇らしげに駆けてくる。
 そんな姿が愛しければ愛しいほど、邦彦の心は萎縮した。
 ――どうせ、俺は結局、何もできないのだ。あの可憐な娘を不安の捌け口にして生きるだけの、無用の人間だ。
 健常者から見れば鼻持ちならない自己憐憫でも、すでに鬱病によってセロトニンやノルアドレナリン等、脳内活性物質の分泌も覚束ない邦彦には、もはや抗う術のない感情だった。
 ――後には、もう父さんがいる。父さんは、公正な人だ。いつも眩しいほどに正しかった。俺など、いっそこの世にいない方が――。
 罪業念慮が、臨界を越えようとしていた。
 ――朝になったら、俺は……。
 そんな邦彦に、フリルの天使がとととととと近づいて、ふと、立ちすくんだ。
 両手に缶を持ったまま、横の小窓のガラスを、目を丸くして見つめている。
 ほわあ、というつぶやきが聞こえた。
 窓の外を見つめたまま、おしるこで手招きしているので、邦彦も立ち上がった。
 小窓の外は、中庭のはずだ。なにか、雪だるまかかまくらでも、拵えてあるのか。
 沙弥香は夢中になって外を眺めながら、しきりに手の甲で窓ガラスの夜露を拭っていた。
「……ほわー」
 沙弥香はまたうっとりとつぶやいた。
 その横から外を覗いて、邦彦は絶句した。
 無数の白い光の瞬きで、夜が満たされていた。

     ★        ★

 それは、ただの偶然だったのだろう。
 マイナス十度以下の寒気は、通常そのままでは峰館盆地の底まで降りてこない。
 その時点でなんだかよくわからないものが極めて安定した状態にあったとしても、気象まで左右する力があるとは思われない。
 それはあくまでも、ふとした気流の悪戯であって、たまたま聖夜の賑わいで通常より高まった都市熱が、寒気団の中で急速な対流現象を生じ、結果、蔵王連峰や朝日連峰を始め四方の連山上空から一気に寒気が流れこみ、押し上げられた暖気は北風に乗って南方に散り、その盆地全体がほぼ全域、高山地帯のような零下十度以下の寒気に覆われ、それを高湿度の雪雲が包みこむ――全ては物理法則にのっとった現象である。二十年に一度くらいは、この市街地でも、確率的に起こり得る気象の流れだ。
 夢中で駆け出してゆく沙弥香を追って、邦彦は非常口から中庭に飛び出した。
 邦彦は、外の光をダイヤモンド・ダストだと思っていた。
 北海道などで見られるという、大気中に生じた微細な氷晶による煌めきの乱舞を、邦彦もドキュメンタリーなどで知っている。
 しかし、一面に雪の積もった噴水の庭で、きゃあきゃあとはしゃぎまわる沙弥香を取り巻く光の瞬きは、異様なまでに大きかった。
「おにいちゃん! すごいすごい」
 コートの全身にその煌めきを宿らせて、沙弥香が飛びついてくる。
 ぷるんと揺れたフードから、さらさらと光が散った。
「雪印だよ。ぜーんぶ、雪印」
 乳製品ではない。
 雪の結晶そのものだった。
 ひと目でそれとわかるほど大きな、絵に描いたような雪の結晶が、他の結晶と融合して綿雪になることもなく、型崩れの粉雪になることもなく、六角型を基本とした樹枝状の紋様そのままに、地表まで降り注いでいるのだ。
 中庭全体が、そして見上げる夜空一面が、星が降るように瞬いていた。
 邦彦がいつまでも唖然としているので、
「雪印!」
 沙弥香は邦彦の袖を引っ張って主張した。
 邦彦は呆けたようにうなずいて、空を見上げたまま、手探りで沙弥香を求めた。
 そして、煌めく雪の妖精と化した娘を見下ろし、そっと胸に抱いた。
 あまりきつく抱いてしまうと、そのまま無数の雪の結晶の中に、紛れて消えてしまいそうな気がした。
 胸の中で、おう、あったかあったか、そんなつぶやきが聞こえた。
 それから、こんな囁きが、息の温もりと共に伝わってきた。

 ――ずうっと、いてね。

 邦彦は、自分がなぜこの世界に『在る』のか、そのとき初めて悟った。




  エピローグ 【十二月二十四日】


 結婚して、もう七年になる。
 子供が生まれて、四年を過ぎた。
 高校の学祭で再会したとき、十五歳の少女だった優美は、来年には三十路を迎える。
 優美の隣で、騒がしくお子様クリスマス・ディナーをつっつく茂美は、誰に似たのか女の子なのに少々元気すぎて、幼稚園でも男の子を泣かせたりしていると聞く。まあ、札付きの問題児とタイマンを張って、傘下に収めてしまったという話だから、他の父兄からは賞賛の声のほうが高いくらいで、別に問題はないのだろうが。
 しかし、もし親父の感化を受けていたりすると、将来が恐い。親父は今でこそ好々爺化してしまい、孫を猫っ可愛がりするしか能のないただの爺いだが、なんといっても過去はバリバリの非行中年だ。あまり茂美に近づけないほうが、得策かもしれない。
 一方で、自分の隣でちんまりと椅子に収まり、黙々とディナーを頬張る優太は、これはもうどこから見ても茂の子だ。内向的で自己主張が苦手で、他の子供と紛れてしまうと、実の親でもない限り見分けがつかないほど没個性的だ。まあ、自分だってなんとかなったのだから、優太もなんとかなるのだろうが、思春期になったらいっぺんパンダの中に封じて、修行させたほうがいいか、などとも思う。
 催し物のステージで、なにか泣き虫のサンタが、柄の悪いトナカイたちを相手に悪戦苦闘している。
 サンタがトナカイにいじめられそうになると、茂美が口からソースを飛ばして応援したりしてしまうので、隣の優美は叱ったり拭ったりするのに大わらわだ。
 め、と茂美を嗜める優美の面差しには、やはり齢相応の、世慣れた婀娜《あだ》っぽさが感じられる。
 そこがまたいい、などと、茂はステーキを咀嚼しながら、思わず見惚れてしまった。
 茂は普通の会社勤めをしたことがない。売れない漫画やイラストだけでは妻子を養えず、妻のダンス講師のパートや、小金持ちの両親に食事をたかったりして、かろうじて家庭を保っている。それだけに、三十幾つにもなって、未だに学生気分が抜けきれない。
「……綺麗だ」
 いつのまにか、そう口にしてしまった。
 照明を抑えたレストランで、テーブルのキャンドル・ライトに浮かぶ優美の母親姿は、実際美しかった。
 優美もまた、普段田舎のタレント志望の女の子たちにヒップホップまで教えているだけあって、子持ちの割には気が若い。
「馬鹿ね」
 などと呆れつつ、頬を染めたりしている。
 ラブラブだあ、と、こましゃくれて茂美が囃した。
 おう、これはちょっと失敗か、そう思って隣の席を横目で確認すると、優太はじっと興味津々で観察していたらしく、あわてて視線を外し、何くわぬ顔で黙々とナイフとフォークを使い始めた。
 ――どうもこいつは、俺に似て屈折したところがある。おたくにだけは育って欲しくないものだ。
 自分の本質を棚に上げて、茂は嘆息した。
 なにはともあれ、つつがなく爺婆ぬきのディナーが終った。
 ステージのサンタも、つつがなくプレゼントの宅配に旅立ち、子供たちも手を打って喜んでいる。
 茂は上機嫌で会計を済ませた。
 今夜の食事は、全額茂持ちである。秋口に描いた五十枚ばかりのイラストの稿料が入り、珍しく金回りがいいのだ。
 外のフロアに出ると、優美が袖を引いた。
「おにいちゃ――パパ」
 学生時代の呼び方をしかけて、あわてて訂正したりしている。
 おう、これはほんとにラブラブ気分、などと浮かれ気分で優美の視線を追って、茂は首をかしげた。
 なるほど、優美が学生返りしかけたのも無理がない。
 向かいの料亭の入り口の横に、しょんぼりと――いや、なんとなくそんな感じがするだけなのだが、とにかくぽつねんと佇んでいるのは、あの思い出の、なんだかよくわからないものらしい。
 あいかわらず、どう見てもなんだかよくわからないが、あのなんだかよくわからないものと同じなんだかよくわからないものに違いない。
 ――えーと、あれを大事に抱えてたのは、その三だよな。えーと、柴田、いや、相原だったかな。
 結婚式にも呼んでおきながら、もともと確かには記憶していないので、正式名称が思い出せない。
「枕崎さんのでしょ?」
 優美の方が恨みがないぶんだけ、素直に記憶していたようだ。
「そうそう、枕崎。――あれ、だったら、ここの眼鏡屋にいるんじゃないか?」
 優美もこくこくとうなずいた。

     ★        ★

 テナント・フロアでエレベーターを途中下車すると、もう閉店音楽が始まっていた。ホテルやレストラン・フロアとは違い、九時には閉まってしまうらしい。
 小洒落たテナントの店々は、いかにも元が親方日の丸の組織のビルらしく、早々に閉店準備に入っている。
『ミネダテメガネ』の前でも、若い社員がネットを張り始めていた。
 その社員となにかぺこぺこお辞儀を交わしたりしているのは、どうも枕崎の奥さんの、洋子さんらしい。結婚式には夫婦で来てくれたので、茂も優美も覚えている。なぜ茂が旦那を忘れても奥さんは忘れないのか、そんなツッコミは野暮というものだ。男なんてそんなものである。
 洋子の横には、子供ふたりもくっついていた。下の女の子は優太や茂美と同い歳だが、上の男の子は来年あたり、もう中学生のはずだ。母親から子供たちまで、そろって鼈甲縁の眼鏡をかけているのが、旦那の趣味と職業を反映しているようで、なんだかおかしい。
 茂一家の姿に目を止め、洋子が会釈をした。
 これ以上お上品な会釈もあるまい、そんな身のこなしなので、がさつな茂は少々恐縮してしまった。まあ、隣の優美が負けずにお上品球を打ち返してくれたので、OKだろう。
「これからお食事ですか?」
 笑顔でうなずいてくれたのだが――なにか、おかしい。
 優美と妻同士のご無沙汰の挨拶など交わす姿は、それなりに賑やかなのだが、どうも雰囲気が暗い。
 よく見れば、元気盛りのはずの兄妹も、なんだかどんよりしている。
 これからうちと同じようにクリスマスの外食に向かうのなら、もう少し明るくてもいいのではないか。これではお葬式とは言わないまでも、初七日かなにかが始まりそうだ。
 じゃあ、あと、よろしくね――そんな声と共に、コート姿の枕崎が現れた。
「よう」
「やあ」
 男同士だと、何年ぶりでもこんなものである。
 枕崎が軽いびっこを引いているので、
「どうした?」
「うん。ちょっと捻っただけ」
 危うく死にかけた、そんな話を派手に披露するほど、枕崎は多弁ではない。どちらかと言えば、含羞の人である。
 枕崎の様子もなんだか暗い――まあ昔から根暗だったが、それにしても暗い。こんな暗さでよく店長が勤まるなあ、そんな感じだ。
「遅くまで大変だなあ」
 茂が柄にもなくねぎらいの言葉などかけると、
「早い方だよ。柴田のヤング・フロアなんか、毎日十一時閉店だ」
「ひえー」
 いかんいかん、だらけているのは俺だけなのだ、などと、内心反省する。
「それより、お前、落し物してないか?」
 枕崎は怪訝な顔をした。
 茂は後ろにくっついていた茂美を呼んだ。
「ごあいさつは?」
「こんばんわー」
「はい、今晩は」
 茂が茂美を顎で促すと、茂美はタヌキのように脹らんだお子様コートの胸を、うに、と開いた。
 なんだかよくわからないものが、むに、とはみ出た。
 茂美が妙に気に入ってしまって、ずっとそこに入れて運搬役を務めていたのである。
 枕崎の口が、あが、と開いた。
 枕崎だけではない。洋子やその子供たちも、茂美の前に集まって、あが、と口を開いている。
 ――家族で、食うのか?
 茂はちょっと心配したりしてしまったが、そうではないようだ。
 名残り惜しそうにしている茂美から、そのなんだかよくわからないものを受け取った枕崎は、明らかに落涙していた。
 涙で濡れた頬を、うにうにとなんだかよくわからないものに摺り寄せながら、
「ありがとう……ほんとに、ありがとう……」
「ありがとうございますう!」
「ありがとう、おじさん!」
「ありがとう、おじちゃん!」
 あまりの一家の喜びように、茂も優美も優太も茂美も、思わず超弩級のサンタクロース一家になったような気がして、その場に立ちすくんでしまった。
 実際、すかさず枕崎一家にスポット・ライトが当たり、最大音量の『諸人こぞりて』の合唱が響き渡りそうな、そんな雰囲気だったのである。

     ★        ★

「なんだかずいぶん、いいことしちゃったみたいね」
 振り返る優美の声は弾んでいた。
 夜の街で雪に溶ける白い息も、今は暖かそうに見える。
 優美の両側に、手を繋いで歩く子供たちも、足取りが軽い。
 普段は無口な優太さえ、優美や茂美と陽気に語らっている。
 明日の朝、枕もとに届いているはずのプレゼントが、楽しみでならないのだ。
 茂はそんな妻と子供たちを、ひとり後ろから見守りながら歩いていた。
 なんとなく、そうしたい気分だった。
 去年まで、優太と茂美の間に、もうひとり、優作がいた。
 しかし、三つ子としてこの世に生を受けたのに、その子はひとりだけ病弱だった。
 それだけに可愛くて、ずいぶん大事に育てたのだが――三歳の冬に、眠るように旅立った。
 茂も優美も、そして爺さんや妙に若い婆さんも、胸が裂けそうなほど悲しんだ。
 優太や茂美だけが、「天国に行ったのよ」、そんな言葉を素直に信じて、いずれはそっちでいっしょに遊ぶ気でいるらしい。
 天国などというものがあるかないか、茂には判らない。
 あったとしても、心配が多すぎる。
 かつて生を終えた人間は無数だ。善人だって、まだ穢れのない子供だって、無数のはずだ。そんな騒々しそうなところにひとりで旅立つことが、あの泣き虫のチビにとって幸せだろうか。せめて家の年寄りでも先に行ってくれていれば世話もできるだろうが、あいつを知っている人間は、まだみんなこっちに残っているのだ。大体、母ちゃんや優美や茂美や優太はともかく、俺や親父がそこに行ける保証はない。
 だったら、あの斎場の煙突から、すなおに空に溶けてしまったほうがいいのではないか。そうすれば、あいつはこの世界のどこにでも、永遠に居てくれる。俺も親父も、煙にならなれるだろう。
 いずれにせよ――家族の思い出の中に、今も優作はちゃんと生きている。
 茂は気を変えて、優美の後ろ姿を、しみじみと楽しむ。
 昔、一念発起して上京したあと、親父との交換条件を守ってなんとか陥落《おと》した時の、少女らしい肌の張りは、当然失われつつある。
 しかし、それはなんら愛しさの妨げにはならない。
 まだ固い若桃を食べるには、それなりの苦渋が伴う。
 熟れたほうが、なめらかで甘い。
 じゃあその後はどうなるの、と言われると困ってしまうのだが、まあ妻が婆さんになる頃は自分も爺さんだから、問題ないだろう。それまでは茂自身が「うまさVビタミン増量光パワー野菜室」付きの冷蔵庫的にがんばって、大事にしてやればいい。
 そんな一部けしからぬ思惑を抱きながら、茂は妻のなよやかな腰つきを、いつまでも見つめている。
「……どうしたの?」
「いや、ほら、……なんでもない」
 変なの、と言って微笑む優美の、目じりに浮かぶかすかな小皺すら、茂には心地良い。
 茂はいつになっても、柔弱な男だった。
 今夜から十月十日後に、優美が今度は四つ子まで出産することになろうとは、神ならぬ茂の知る由もない。
 娘の茂美が、さっきのメトロプラザで、なんだかよくわからないものをずっと抱いている間、「弟と妹、いっぱい欲しいなあ」などと思い続けていたことと、今夜の茂の発情になんらかの関連性があるのか、それは誰にも判らない。
 茂はまた優美たちと並んだ。
 優美は茂美の手を引いて、茂は優太の手を引いて、爺婆の待つ家路につく。
 無数の雪の結晶たちが、さらさらと宙を舞い、きらきらと光っている。
 あの純粋大型結晶が、そろそろ形成されつつあるのかもしれない。
 街をゆく家族たちも、恋人たちも、そしてかつての茂のような寂しい影たちも、その白いレースのゆらめく帳《とばり》に包まれてゆく。
 茂は今年最後の仕事の、イラストを思い浮かべた。
 そのCGイラストはポエム系ムックの注文で、上半分を占める雪空の部分に、立原道造の詩句がレイアウトされる予定だった。
『眠りの誘ひ』――戦前に二十四才の若さで病没した、抒情詩人の佳作である。

     ★        ★

  おやすみ やさしい顔した娘たち
  おやすみ やはらかな黒い髪を編んで
  おまへらの枕もとに胡桃色にともされた燭台のまはりには
  快活な何かが宿つてゐる(世界中はさらさらと粉の雪)

  私はいつまでもうたつてゐてあげよう
  私はくらい窓の外に さうして窓のうちに
  それから 眠りのうちに おまへらの夢のおくに
  それから くりかへしくりかへして うたつてゐてあげよう

  ともし火のやうに
  風のやうに 星のやうに
  私の声はひとふしにあちらこちらと……

  するとおまへらは 林檎の白い花が咲き
  ちいさい緑の実を結び それが快い速さで赤く熟れるのを
  短い間に 眠りながら 見たりするであらう







                                  ―終―




◎プロローグの文中に、甲本ヒロト氏・作詞『リンダ リンダ』の一部を、引用させていただきました。
◎Act.1の文中に、東京ムービー企画部・作詞『おばけのQ太郎』の一部、稲葉浩志氏・作詞『BAD COMMUNICATION』の一部、岡本綺堂氏・作『玉藻の前』の一部を、引用させていただきました。
◎Act.3の文中に、真田巌氏・作詞『ミミ子とパンダコパンダ』の一部を、引用させていただきました。
◎エピローグの文中に、立原道造氏・作『眠りの誘ひ』を、引用させていただきました。
 

 
2015/11/18(Wed)01:24:57 公開 / バニラダヌキ
■この作品の著作権はバニラダヌキさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
最前の『パンダの夢は猫の夢・ライト版』のみをお読みいただいた読者の方には、文章の風合いがかなり違って感じられるかもしれませんが、実は『パンダ〜』も、元来こんな雰囲気で書かれておりました。
その意味で、今回再投稿させていただいた本作は、4年前の投稿時から変化は目立たないのですが、細部のブラッシュ・アップは、特にAct.3あたりで懸命に行ったつもりです。
親しみやすい軽喜劇に始まり、最終的には狸なりの聖夜の情動を、大衆文学としてとことん突き詰めてみよう――まあそんな野望はちょっとこっちに置いといて、ラストを迎えたとき、狸の感じる聖夜の深い静謐を、読者の皆様にもしみじみと共有していただければ幸甚です。

12月7日、プロローグおよびAct.1の前編をアップしました。
12月10日、Act.1後編をアップしました。
12月14日、Act.2前編をアップしました。
12月17日、Act.2後編をアップしました。
12月20日、Act.3前編をアップしました。
12月23日、Act.3後編およびエピローグをアップしました。
12月27日、♪ ラ〜ブ ラ〜ブ ラァァ〜ブ 愛〜あるかぎり〜〜 ♪ ……って、そんな大昔のタイガースの歌なんて、たぶんどなたも知らんがな。閑話休題。語句の一部を修正いたしました。

2015年5月20日、続編開始にあたって、一部修正。
2015年11月18日、続編との絡みで、一部人名変更。
この作品に対する感想 - 昇順
こんにちは!読ませて頂きました♪
私は感性がやはり鈍いのか、文章の風合いの違いも気にならずに、というか気づけずに読んでしまいました。プロローグはファンタジー!と吠えたくなりながらニンマリ笑っていました。それぞれの近況も分かって嬉しかったです。枕崎がネズミにまでメガネかけようとするなんて、いやー本物だなって感心したり、家庭についても馴れ初めについてもウンウンありそうって思えて、やっぱり笑っちゃいました。あとはこんな老医師に会ってみたい、いや診てもらいたい!近所の病院も、どんどん大きくなって荒稼ぎしたのかな?なんて思ってしまいますから。患者と同じ目線で考えてくれるのは嬉しい。そう言えば、誰も信じてくれないのですが昔、500mlのペットボトルぐらいのでっかいナメクジみたいな生物を踏ん付けたことあるんですよ、気持ち悪くて逃げてしまったのですが家に持って帰ればよかったかもと読んでて思いました。
では続きも期待しています♪
2008/12/08(Mon)16:52:300点羽堕
 こんばんわ。最近思うがままに感想書いてる晶です。時間がなかなかとれず、仕事でぐったりとして帰ってきてます。ベッドにすぐにばたんきゅー(ぷよぷよ)
 まずは細かいところで気になったところを。
 蒲団の中で漏らしてくれた。とあるんですが、ここらへん、三人称一視点の、夫のほうにライトがあたっていて、いつのまにか妻のほうに視点が移行してる気がしました。視点気にしながら読むと、そこらへんおや?と思いました。
 病院には行きたくない〜からなんですが、感情にライトを当ててから、その後に別の登場人物紹介する。この人間は、こういう人間だという印象付けだと思うのですが、誰が思ったのかというか、視点が誰なのかちょっとの間混乱しました。視点の主をどの段階で紹介するのが良いか、三人称はめっさ苦手なので、いまいち判ってませんが、とりあえず感じたことをそのまま書いてみた次第です。
 全体的に、文章もよく纏まっていると思います。ところどころ笑いました。ライトノベル風な調子でもあるんだけど、ちょっと古めかしくもあるし、でも要素的には違う。ではどの層狙ってるんだろうかなとちょっと思いました。多分、バニラダヌキさんが書いてて楽しいものを書いてるんだろうなといのが伝わってくる文章です。それを読んでいて、私も楽しくなりました。楽しくなれるんだからそれで良いじゃないか、良いんでしょう。でも、なんだろう。作品を応募されたということを別のところの感想にて読んだのですが、応募するとなるとそこらへんの当て方も審査対象になるのではないかなと思いました。(今回の作品云々とは別の話に逸れました)
2008/12/10(Wed)21:22:210点
 ぐはっ また、投稿ボタンを間違えて押してしまいました。ごめんなさい。
 実はまだバンダのほうは時間がとれず読めてないです。多分パンダのほうが波長が合いそうな予感です。では続きも楽しみにしております。
2008/12/10(Wed)21:27:500点
>【羽堕】様
ファンタジー! ――まあ前回ほどのトビ具合ではないかもしれませんが、あくまでなんだかよくわからないもののいる世界ですから、今回もまったりとお楽しみいただければ本望です。なお、風合いの変化は確かに今んとこ目立たないかも。ラストのエピソードに至るまで、徐々にシリアス要素が――なんて、でもやっぱりファンタジーなんですけど。
>【晶】様
あれ? あそこんとこは、視点の統一はとれているはずなんですが。『くれた』の場合、やっぱりもらった側に視点があると思うんで。などと言いつつ、実は今回の語りでは、けっこう視点がころころ変わってしまったりする部分も多いのですが、なんといいますか、今回は語り手である自分(狸自身ですね)の存在を前提として、かなり自由に語らせてもらっております。目に余るところは、手を入れたはずなんですが。
Act.1の冒頭の混乱は、オムニバス作品で日が変わるごとに主人公も変わるということが、明示されていないからもしれませんね。確かにプロローグから続けて読んでしまうと、一瞬、枕崎の状況にも重なりますし。各章タイトルを、日付だけではなく、なにかそれらしいタイトルに――たとえば人物名を入れるとか――ちょっと考えてみます。
で、応募の件なんですが、そのとーり! 選考する編集の方々は、もう歴然と「誰に売るか」で最終結論を出します。「面白いだけじゃだめ」と、はっきり断言してきます。そりゃそーだ。相手は量販できそうな商品を求めているのですから。そんなこんなでなんかいろいろ、いいとこまで行っても結局ボツの日々を送っているわけですが――しかし、狸が狸であることをやめるわけにもいかない。でも一度は思いきって、あざとく化けないといけないのでしょうね。
しかしまあ今回再投稿の『聖夜』は、むしろその対極をめざした、『狸が狸であること』『それでもたまたま読んでくださった方にだけはきっちり狸印の魂を感じて、かつ愉しんでいただくこと』、そんな心算の物件ですので、よろしくラストまでおつきあいください。
2008/12/10(Wed)23:06:430点バニラダヌキ
こんにちは!続き読ませて頂きました♪
Act.1では、なんだかよくわからないものは、やっぱりなんだかよくわからないものでした。これって天使か何かで、なんだかよくわからないものを拾ってくれた人に少しの幸せをプレゼントしてくれているような、でも全然関係ないような、なんだかよくわからないっぷりが凄い出てたと思います。島本って本能で動くタイプなのかなと思いました。人なんだから打算で動く所は当たり前で、人間らしいなって思える登場人物たちも良かったです。あっ棚から牡丹餅とかいうから、アレは牡丹餅の精なのかな?
では続きも期待しています♪
2008/12/11(Thu)17:15:470点羽堕
 言葉足らずでごめんなさい。「妻の洋子もまた〜くれた」というところで夫視点。次の「妻は〜も」同じ調子で、やや夫視点。で次の「一緒についてきてくれた」で妻視点。ここらへんの移り変わりのポイントのこと言ってました。
 で、続きを読んだわけなんですが、バニラダヌキさん全開だなーと思いました。面白いです。では何が面白いのかっていうと、全体としてのストーリーの流れではまだなくて、話の掛け合いだとか、作者のセンスだとか、そういった部分です。
 そういえば、自分も初期消火訓練なるものを受けました。一般に言うところの初期消火限界は天井に火が回るまでだそうですね。
 では、そろそろ時間がとれるのではないかと思いつつ、残業許されないため、持ち帰った仕事をこなします。更新楽しみにしてますね。
2008/12/11(Thu)18:31:141
 
 美味しんぼ。目玉焼き丼もそうですけど、文化部の食べ物自慢大会なら真似できます。笑 究極VS至高はもう意味が判りません。

 パンダみたいな軽い感じの文章より、こっちの方が個人的には好みです。というよりも、バニラダヌキさんの文として、こっちの方が無理なく自然にスムーズに進んでくような、そんな印象を受けました。勿論パンダも面白かったし楽しかったんですけど、でも、少なくとも私はこっちのが好きです。
 ぜんぜん作品の感想になってませんね。「なんだかよくわからないもの」だったり、元オタク三だったりで、ぶっとんでそうなのにぶっとんでなくてほっとしました。当たり前なんだけど、でも中高生のノリのままで大人になってなくてほんとによかった……。交通事故に逢ったあと、彼はどうなったのかすごく心配です。一個だけ気になったのは、ローン、湯豆腐、って呟いた意味説明は無かった方がよかったかな、みたいな。ちょっぴり蛇足に感じました。ちょっとだけですけど。
 でもほんとに、ローン、とか、天麩羅、とか、そういうちょっとした人間くささがところどころに出てて、それがすごく気持ちよかったです。松谷みよ子もそういうのがすごく絶妙な作家さんですけど、ちょっと通ずるものがあって、でもやっぱりバニラダヌキさん、って感じで。何が言いたいのか判りませんよね。すみません……。まともな感想が書けるようになりたいです。
 続きも楽しみにお待ちしております☆
2008/12/12(Fri)21:43:141夢幻花 彩
>【羽堕】様
ふっふっふ、あるときはペットボトルサイズの大ナメクジ、あるときは天使、またあるときは二十九日の牡丹餅、しかしてその実体は――正義と真実の使徒、藤村大造だ! ……すみません。ネタが古すぎて通じないでしょうか。
ともあれなんだかよくわからないものの正体は、おいおい判明しそうに見えて実は最後までなんだかよくわからないかもしれませんが、今回の機能としては、おおむね羽堕様のお考えに近いっぽい感じのような気がします。でも結局なんだかよくわからないものはなんだかよくわからないので、人類永遠の命題として、各種宗教の根幹に共通するなんだかよくわからない存在の意味論が――ああ、なにがなんだかよくわからない。
>【晶】様
なるほどなるほど。そこいらの視点変化は、『妻』という単語のひとつを個人限定の『洋子』にするだけで、すんなり流れそうな――ぽちぽち、と。
さて、ここまでの狸の『語り口』主体の部分でも面白がっていただけて、なによりです。今後は徐々にストーリー展開要素も増量し、Act.3あたりで渾然一体、狸色の聖夜が現出する――そんな目論見はちょっとこっちに置いといて、晶様におかれましてはなんじゃやらハードワーク続きのご様子、くれぐれもお風邪など召さないようお気をつけください。我々日本の労働者、ぶっ倒れるのが許されるのは年末年始の休みだけ、そんな哀しいイキオイで。
>【夢幻花 彩】様
あのおたくたちすらも、自活後は、生活者であることを避けては生きられない――そうした意識が、もしかしたら狸の紡ぐファンタジーの限界なのではと思いつつ、地に足のつかない、何やって食ってんだか判らないようなキャラたちがどうやって財政成り立たせてるんだか判らないような世界で大活躍する話には、どうしても同調できない狸です。
ところで、あの蛇足的な部分は、もともとあの枕崎のふたつの言葉に裏の哀感までありありと感じていただける方々には確かに蛇足かもしれませんが、実は彩様が抱かれたという枕崎の今後への心配を、ムード的に和らげる目的のシメ方だったりもします。あくまでユーモア基調の世界なんだよ、そんなに心配いらないよ、みたいな。まあそれ以外にも、世慣れない厨房さんへの親切心とか、逆に狸世代の方々への共感補填とか、先代の林家三平師匠っぽいダメ押しギャグでシメようとか、なんかいろいろ、ごにょごにょと。
ところで松谷みよ子さんのお仕事は、『現代民話考』を全12巻読破したくらいで、創作のほうはほんの一部しか読んでいない偏った狸なのですが、若き日の松谷さんに師匠の坪田譲治さんがおっしゃったという言葉が、印象に残っております。「作品のかたちは何でもいい。小説でも童話でも、3枚書こうと1000枚書こうと、ファンタジーであろうとリアリズムであろうと。ただ人生をお書きなさい」――さすが、という気がします。もちろん人間でなく狸の生でも大宇宙の生でも、あるいは消しゴムの運命でもいいわけで、要は作者の視線の置き所だと思ったり。
2008/12/14(Sun)02:38:130点バニラダヌキ
 日曜日はダラダラと怠慢DAY。そう決めてます。夜更かしだってしちゃいます。というわけでこんばんわ。続きを拝読しました。
 何もかんも面白いと感じる本とは、自身の感性とかそういった部分があって、中々出会えないけれど、この作品の場合は、ストーリー展開は短編ではないので、やや遅く感じるものの、その場その場の会話やら、文章の地力やらで、引っ張って言ってる。面白いと感じるところもその部分であり、そういった部分で引っ張れるのは凄いと感じるわけです。
 最近、文章において、自分の武器とか、何で勝負するかとかそういったことを特に思います。次回の勝負どころのお話を期待してます。簡易感想でした。
2008/12/14(Sun)04:42:560点
こんにちは!続き読ませて頂きました♪
同級生で、しかも思いを寄せていた人が芸能界に入ったならば、とことん応援したくなる追いたくなる慎也の気持ちは分かる気がします。さらに何年も会ってなかったら、asinagaojisanだって頼りたくなるし、なにより一体、どんな関係なのか私も気になります。井上と薫、始っていないのに終わる、コレってお互いに気づいてないだけで、よくあることなのかも知れないなぁと思ったり、でもそれが、どちらかの動きで事実に気づいてしまったら、やっぱり終わらせたくないよなぁと、うーん、なんだかわからないものに私も顔を埋めたい!
淀川長治さんの名前を見ると、なぜか日曜日の終わりと寂しさを感じてしまいます。今日が日曜日というのもあるかも知れないですけど。それと『雪の降る街を』の歌も、子供の頃にアニメの「エスパー少女マミ」(違うかもですが)の中で流れた事があって、ずっと「雪の降る街を〜♪」の部分だけ繰り返し歌っていたのを思い出しました。なんだか懐かしい気持ちになれてしまいした。藤村大造シリーズ、観たことないのです。でもその台詞回しは私も知っていました。有名な作品自体を観てなくても、その中で使われた言葉やモノは、みんな知ってたりするんですよね、まだまだふれるべきモノが一杯あるなと。
では続きも期待しています♪
2008/12/14(Sun)13:21:100点羽堕
>【晶】様
『その場その場の会話』は、言い換えれば『登場人物がきっちり自分の言葉をしゃべっているか』、つまり作者やストーリーの傀儡ではなく一個の人格として存在しているかということだと思いますし、また『文章の地力』は、その登場人物や世界観を読者に伝えるための作者の『語り口』=『演出』であると解釈し、そのふたつをお褒めいただいて、光栄至極です。もちろん『ストーリー』も物語の重要な要素ではあるわけですが、早い話、面白げな荒筋や世界観だけなら、当節のアニメやゲームに慣れた方にはなんぼでも設定可能なわけで、しかしそれに肉付けして読者に伝えるには、やっぱり『キャラ』と『演出』が確立していないとどうにもならないわけで。
さて、Act.2の後半あたりからストーリー感が増量してきたはずなのですが、お楽しみいただけましたでしょうか。そして正念場のAct.3、全体的昇華のエピローグ――季節物ゆえイブまでにアップしますので、よろしくおつきあいください。
>【羽堕】様
ふっふっふ、ある時は片目の運転手、ある時は穴の奥の狸――って、しつこいですね。
ちなみに藤村大造=名探偵・多羅尾伴内シリーズは、もし万が一見る機会があったら、脱力系
お笑い映画だと思って見るのが吉だと思います。いや、ライターさんも監督さんも俳優さんも大真面目なんですけどね。当然昔の観客も、シリアスに手に汗握って見てたわけなんですけどね。まあ、時代の差です。しかしつらつら鑑みるに、最近のシリアスドラマのようなものや、喜劇ではないはずの時代物でも、なぜか狸は大笑いしてしまうことがけっこう多いんで、これもまあ、逆の意味で時代の差なんでしょうね。
ちなみに『雪の降る街を』は、どうやら作詞者の方が、北国・峰館市(仮名)と同じ県内のある街を歩きながら、イメージした歌らしいです。
はい、そろそろお時間がまいりましたね。それではまた来週、お会いしましょうね、サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ――。
……ところで、狸の眉毛は淀川さんなみにふさふさしてます。
2008/12/17(Wed)00:10:450点バニラダヌキ
こんにちは!続き読ませて頂きました♪
慎也と麻美の再会「いいなぁいいなぁ」と思っていたら、メモに「セキニンとってね」なんて、これは慎也じゃなくたって一瞬悩むよなと、でも麻美が大成した上での幸せだってありえる!と思うので、麻美が実力派若手女優などと言われる日を私も願っちゃいます。あとは、井上から薫にメールが来たときに「おぉ!」なんて本当に声を出してしまいました♪この二人にも慎也に携帯電話をプレゼントしてから幸せになって欲しいです。やっぱり冬ですし、こういうホッとするお話を読むと心が温まります。なんだかわからないものは喰われかけたってへっちゃらで次に行くのは、どこなのか楽しみです!
では続きも期待しています♪
2008/12/17(Wed)17:00:281羽堕
>【羽堕】様
狸もありえると思うので心から願ってしまう一方、ふたりで仲良く田舎のコンビニ経営なんてのも悪くないのではないか、いちおうフランチャイズで土地も店舗も親の所有物件だし、いざとなったら売っぱらって――いかんいかん、狸の願望に任せると、ふたりの将来までが、なんだかよくわからない方向に。ところで、この慎也君と麻美ちゃんの話は、実はパンダ物件を構想したときのボツ設定を下敷きにしたりしているのですが、ちょっと似てると思いませんか? って、自分からプロットの乏しさを露呈してどうする狸。なお、薫はもうあの性格ですから、どこに行っても立派に女将で通用するでしょう。
さて、Act.2あたりまでがストレートなナゴミ系で、以降、やや重いシリアス色も加わってまいりますが、よろしく最後まで電波受信のほど、お願いいたします。
2008/12/21(Sun)00:01:400点バニラダヌキ
こんにちは!続き読ませて頂きました♪
一気にドスンと胸にきました。母親が許せないかもしれません。邦彦の存在を結果的に受け入れている形に、なんで我慢できるんだろうと思ってしまうから。母親が自分の為に沙弥香を利用しているというのがハッキリと分かるのが辛いです。「娘より先に死ねない」という言葉を聞かせて頂いた事がるのです、だからこそ享子自身の健康にも、もっと真剣になって欲しかった。知らないから幸福を逃すというのが伝わってきた感じです。Act.3では、なんだかよくわからないものに今までとは違い何かを期待してしまいます。大きな奇跡が欲しい訳じゃないけど、でもこのままでは嫌だという気持ちになりました。どんどんと話の中に引き込まれて続きが気なってしょうがなくなりました。
では続きも期待しています♪
2008/12/21(Sun)10:59:550点羽堕
>【羽堕】様
えーと、まあ享子さんも享子さんなりに、頑張ってはいるのですよ。どうか許してやってください。悪いのは、たぶんお仏壇のむこうでお釈迦様を騙っている宗教屋(十字架の形骸を見せびらかしてキリストを騙る奴なんかも)ですね。真面目な人ほどコロコロ騙されてしまう。
閑話休題(って、ほんとは閑話でもないんですが)。
さて、ここから終盤に至るなんだかよくわからない玉虫色の展開も、引きこまれていただければ幸いです。不肖・未熟の狸、しかし化けられるだけは化けたつもりの聖夜だったりします。
2008/12/23(Tue)21:58:360点バニラダヌキ
こんにちは!続き読ませて頂きました♪
沙弥香は本当の恋をしてたんだろうなと思えました。邦彦自身に良い印象はないとしても、邦彦とずっと一緒にいたいという願いが叶っている事を願うばかりです。もし母親の病状をしり、これからの事を沙弥香が知っていたら、自分の事を知っていたら、また違っていたのだろうかなどと考えAct.3の冒頭に繋がっているのかなと思いました。私の上にも雪の結晶が降り注いでくれれば癒されるのにな。エピローグに登場した茂一家は、なんだか良かったです。茂の優美に対しての想いや子供たちへの想いなど学生時代と変わらない部分と成長している部分を感じれました。4つ子ちゃんは、さすがに予想外だとしても幸せなんだろうなって思います。なんだかよくわからないものの冒険も一先ず終わったのかなと思い、なんだかよくわからないものだけど、ゆっくりと休んで欲しいです。
クリスマスイヴなのに予定もなかった私には、このお話はクリスマスプレゼントでした♪面白かったです。
では次回作も期待しています♪
2008/12/24(Wed)16:21:341羽堕
メリー・クリスマス、羽堕様! ……ふたりっきりね、うっふん。
閑話休題。
なんかいろいろな意味で深読みしていただき、筆者としてはありがたい限りです。
なんだかよくわからないものに最も親和性のある沙也加が、まさになんだかよくわからないものと同じ程度の社会認識(?)しか持たないことは、一見皮肉な構図にも見えるわけですが――しかし、だからこそ沙也加のたったひとつの願い=「ずうっと、いてね」(これは邦彦に対してだけではなく、当然享子にも、またこの世界の森羅万象すべてにも向けられております)は、この宇宙におけるなんだかよくわからないものの実存そのものでもあったりして――ありゃ、何言ってるんだか自分でもなんだかよくわからない。
最後に、クリスマスなのにやっぱり予定もなかった狸から、オマケのプレゼントを、ひとつ。なんだかよくわからないものを、これこのようにひとつかみ、むち、とちぎって――はい、どうぞ。おいしいのよ、うふ。
2008/12/25(Thu)23:38:330点バニラダヌキ
おはようございます。折角二人っきりのところ、お邪魔虫が失礼します(笑)
久しぶりに登竜門に繋いだら、完結していてびっくりしました。そっか、聖夜ですものね……わ、私はいつまで夏を引きずるつもりなのでしょう。
初めから読み返してみましたが、昭和の映画を見ている気持ちになりました。別に昭和を信仰している訳じゃないんですけど、最近多い「どうです、この映像技術と制作費」みたいな映画じゃなくて、あまり綺麗な映像とは言えないながらも、ものすごい迫力と臨場感がある、見えないところにまで心を配ったからこその繊細さを持つ、陳腐な文句ですが「古きよき時代」の映画の空気を感じました。
 こういう小説って結構ありますけど、私の感受性が足りないせいか、心にじんとくるものってあんまり無くって、特に宮●輝の書く小説(わぁ名指しして良いのかな。ファンの方には申し訳ないですけど)みたいな、あぁ言うものはどうしても薄っぺらい気がして好きになれなかったのです。ほんとに、私の方に問題があるんでしょうけど。でも、彼の作品は、森を見ても、木を見ていないように感じてしまって。
 で、そういう感受性は私に不足しているのかなぁと思っているのですが、この作品では森をすごく感じるけど、木があっての森だっていうのもすごく伝わってくる、っていうか。特に描かれているわけではないんですが、森の荘厳さを感じると共に、一つ一つのエピソード、一人ひとりの人生、心もすごくじんと沁みるんですけれど、全体通して、万物がここに在る、ただ存在する、みたいなことを訴えかけてくるような作品だなぁ、と思いました。(とか言って、全然見当違いだったらごめんなさい)
最後に沙耶香の言った、「ずっと一緒にいてね」、は本当に、人間の真理の願いだと思います。本当にずっと一緒にいることなんて絶対にできないし、沙耶香ちゃんはともかく、邦彦さんにはいろいろな社会の事情があるだろうし、お母様がこのまま亡くなっても、一命をとりとめても、元の生活に戻れるはずもなく、多分、この二人は死の前に離れる時がきてしまうような気がします。でも、だけど。だからこそ一緒にいたいし、醜さも邪さも全部ひっくるめて、人間って愛おしい。ただそこにいてくれるだけで、いてくれただけでものすごい奇跡の集まりですね。もちろん、沙耶香ちゃんがそんなことを思ったわけはないのですけれど、ただずっと一緒にいたい、と思っただけなのでしょうけど、だからこそずん、ときました。
 とりとめのない感想になってしまい申し訳ありませんでした。あ、あと一個だけ、すごく余計なことを申しますと、茂美ちゃんが「アツアツだあ」っていうところがありますけど、最近の子供は「アツアツ」という言い回しを知りません。茂のアツアツ気分はともかく、茂美ちゃんのせりふとしては、「ラブラブだあ」の方が自然じゃないかなぁ、と思いました。
 ほんとにありがとうございました。それでは、次回作(と、やっぱり優子ちゃん)、楽しみにお待ちしてます!!
2008/12/26(Fri)11:21:272夢幻花 彩
いやいや、今夜もまたふたりっきりではありませんか、彩様――なんつって、すみません、推定彩様のお父上よりも爺いの狸が、ムードを出しちゃあいかんいかん。
ちなみに宮●輝氏の作品に関しましては、『虫酸が走る』『文芸上の天敵』とまで言いきってしまったりする、あんがい凶暴な狸です。狸より10年も長く生きといて、またお宗旨こそ違え仮にも仏法を論ずる身で、人間というものをそんな角度でしか認識できないか――でも、相変わらず売れていらっしゃるからすごい。まあ、池田会長の著書と同様、会員需要も馬鹿にならないという話ですが。
閑話休題。
今回、彩様にありがたくも感じ取っていただいた、なんだかよくわからないものをめぐる人々の紡ぐ世界観は、実は『たかちゃんシリーズ』を含め、狸の創作物すべてに通底する世界観だったりします。ようやく目覚めつつある優子ちゃんも、タカやクーニ、そして貴ちゃんや邦子ちゃんといっしょに、いずれ全宇宙をなんだかよくわからない色に染め上げてくれるはずなので、今後何年かかるかも定かではありませんが、どうか気長におつきあいください。
そして、おう、ラブラブ! そ、そーだったのかっ。子供もおらず、姪っ子たちもすでに育ちきってしまったロートル狸、まさか『アツアツ』が幼児語として滅びていようとは、想像もしておりませんでした。なまんだぶなまんだぶなまんだぶ――。
2008/12/26(Fri)23:24:350点バニラダヌキ
作品を読ませていただきました。綺麗なお話でした。楽しくそれと同時に心の中が温かくなるお話に満足しています。24日まではなんだかよくわからないものの存在が活かされていない印象を受けましたが24日で十分活躍していましたね。沙弥香のシーンを読んでいたら以前行った特別支援学校を思い出しました。でも、あの学校に通う子どもたちから比べれば沙弥香はまだマシだな。ただ私はこういう綺麗な障害者の話が苦手で……色々本も読んだし機会がある度にそういう人間とは触れているけど、彼女等(彼等)って決して純真な天使じゃないんですよね。知的障害なら知的障害なりに嘘もつくありきたりの人間なんですよね。だから私は彼女等(彼等)が好きなんですが。ダラダラと書きましたがお話としては凄く楽しく読ませていただきました。良い作品をありがとうございます。
以下、雑記。

イカ天の頃の大槻ケンヂって筋肉少女帯じゃなくって別ユニットの空手バカボンの方でレコード出していた時期じゃないんですかね。ちょっと自信ないけど。

千鶴子さんってウンベルト・エーコの小説「薔薇の名前」の主人公バスカヴィルのウィリアム修道士みたいだな。できれば燃えさかる炎の中からもてるだけの本を抱えて出てきて欲しかった(笑。そういえば古代日本にも船史恵尺が大化の改新で討たれた蘇我氏の燃えさかる邸宅から国記の一部を抱えて持ってきたんだっけ。洋の東西を問わず本好きは共感できるシーンでした。

ほんやら洞と言うと国分寺のあれですかね。山崎ハコや森田童子や中山ラビが出ていたという喫茶店? 石川じゅんのマンガにも出てきたような気もするし、村上春樹の作品にも出ていたような。

享子の病気クモ膜下出血って死亡率50%だったんですか。もっと高いと思っていた。実は私のオフクロは私が大学時代にクモ膜下出血をやりまして(私の母方の母方は遺伝的に血管が弱い)、意識不明で病院に運ばれたんです。その時同じ病気で入院した人は4人。で、結果として4人中3人が死にました。オフクロは復活。ちなみに私はオフクロが意識不明との連絡を受けてから1週間は病院にも行きませんでした。だって意識不明だから行ってもしょうがないし、1週間あれば死ぬか植物人間になるか復活するかハッキリするでしょう。なんて合理的な考え。なのにオフクロはこの話を聞いて以来、私のことを薄情者と言います……いいがかりだな
2009/01/04(Sun)01:04:032甘木
奥羽奥羽、新年も明けてからクリスマスネタにおつき合いいただき、感謝至極でございます。でも社会人だと、クリスマス前後から歳末にかけては、なかなか忙しい時期なんですよね。

沙弥香という少女の造型に関しましては、おっしゃるとおり、心身ともに現実よりも遙かに純化されております。幼児がけして天使ではないのと同様、社会的生物である限り裏表もあり、また弱者ゆえに健常者よりも姑息で哀しい嘘もつき――そうした部分は、狸も重々承知してはおるのですが、今回につきましては、大仰に言えば『虚実皮膜』、また大衆小説に携わった多くの先達が唱える『花も実もある絵そらごと』、そうしたスタンスで造型させていただきました。

で、筋肉少女帯は、確か『高木ブー伝説』のEP等ですでにインディーズ界ではけっこうウケており(確かに大槻さんは空手バカボンもやってました)、むしろイカ天よりは先行していたわけですね。イカ天によってバンド・ブームが沸騰し、それに乗って彼らもメジャーデビューできた、そんな構図でしょうか。まあ今回の自作内の近未来(?)CD『懐かしのイカ天』は、たとえば現在発売されている多数の懐かしフォーク系企画アルバムやBS特番のように、初期も後期もごちゃまぜの大雑把な時代ノスタルジー企画、そんな感じで。

しかし千鶴子さんがウィリアム修道士とは、あまりに畏れ多い気もしますが、『燃えさかる炎の中からもてるだけの本を抱えて出』てくるとゆーのは――し、しまった! そ、その手があった! このあたりはお笑い重視なんだから、もっともらしく説教たれた島本も、思わぬ稀覯本に目がくらんで、結局ふたりいっしょに大奮戦――あ、でもそれだと、『あくつ』での夜も書き直さなきゃ――。……今後、古書ネタの話を打つときは、ぜひそんな女傑を出したいと思います。

ちなみに『ほんやら洞』は、まあそんなイメージもほんのちょっとあったりしますが、むしろ敬愛する漫画家・つげ義春先生の『ほんやら洞のべんさん』から、なんとなく流用させていただいたネーミングです。国分寺の『ほんやら洞』も、関西フォークで有名だったあちらの『ほんやら洞』も、時代的に考えて、もしやつげ先生の影響による命名なのかも。

そしてクモ膜下出血に関しましては、昔、狸がまだ人間だった頃、職場の部下が突然ぶっ倒れ、半年以上の昏睡状態を経て奇跡的に社会復帰、そんな出来事がありました。お医者の話では、一週間で退院する人からほぼ即死の人まで、もうまったく出血状態しだいだそうです。お母様は無事復活されてなによりです。でもって……いいがかりでも……ないんじゃないかなあ、うん。
2009/01/04(Sun)20:01:150点バニラダヌキ
「パンダの夢……」の後日談と言うことで、またバニラダヌキさんのお薦めもあったということで、非常に楽しみにして読み始めたのですが……これはいけません、激しく感動してしまいました。
ACT1、2も非常にいいなと思ったのですが、最後のACT3まで来て、沙弥香ちゃんの天使ぶりにやられてしまいました。それぞれに過ちを犯した登場人物たち、その彼らの弱い部分を、沙弥香ちゃんがすべて引き受けて浄化しているかのような展開の美しさは、比類ないものがありました。(僕も現実を知らんわけじゃないですが、実際に障害のある人は云々という議論は、ここでは少々的外れなような)それにしても、バニラダヌキさんは正吾氏のような「プロの大人」を書くのが素晴らしくうまいですね。
あと、作中の台詞にもありますが、例えご都合主義的な展開で麻美ちゃんが現れても、「おお、ついに来たか!」などと思わされてしまうのは、やはり全体の展開に説得力があるからなのでしょうね。この作品の場合は、もちろん「なんだかよくわからないもの」がそのキーになっているわけですが。
あとあと、この作品が魅力的なのは、「峰館」の町が非常にきっちりと描写されていることによる部分も大きいと思います。実はというべきか、僕は地方都市オタクというジャンルの人間で、実際に歩くのも好きなら、架空の都市とその風物が美しく描かれた作品も大好きだったりする(例えば短編小説の中では――恐らくはお読みになっておられることと思いますが――筒井康隆氏の「エロチック街道」が最高傑作だと信じていたり)もので、特にそう感じたのかも知れませんが。
いやしかし、読む作品がどれもこれも面白いというのは素直にすごいです。バニラダヌキさんには、敬意を表さずにはいられない感じです。
2010/10/16(Sat)22:03:452天野橋立
ガッチャ!!
狸は、あの『エロチック街道』が発表されてから、少なくとも100回以上、繰り返し繰り返し、しつっこく読み続けております。あの珠玉の名作こそが、いわゆる『広義のファンタジー小説』における、究極の技術見本に思われるからです。とすれば『北極王』あたりが、現在湯水のように巷に垂れ流され続ける『狭義のファンタジー』の本質を、筒井流の大人の愛(?)をもって喝破したものなのでしょう。
思えば『エロチック街道』の冒頭に登場する、すでに閉館した映画館あたりが、ちょっと峰館座っぽいかもしれません。
2010/10/20(Wed)23:22:280点バニラダヌキ
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