- 『面会』 作者:ダフニス / リアル・現代 ショート*2
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全角9486文字
容量18972 bytes
原稿用紙約27.75枚
19歳のヘタレ大学生雄登が友人に告げられて訪ねた場所で出会った人とは?また、それをきっかけに雄登はどう変化したのか。
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二限が終わってのろのろとノートやら筆記用具やらをカバンにしまっていると、ジーンズの尻ポケットの携帯が振動した。
「何?」
通話ボタンを押して言った。向こう側は騒々しい。さぞかし聞き取りにくいだろう。
「おまえ、今日学校来てる?」
と相手が、周囲の雑音がかなりの距離を持って感じられるほどの声で聞いてきた。
「うん」
と僕は答えた。
「あ、そう。じゃ、メシ食わね?」
「いいよ」
「オッケー、じゃ学食の前にいるから。後でね」
それだけ言うと、相手は通話を切った。僕は教室を出る無秩序な渋滞のあとに続いた。
電話をかけてきた相手、裕貴は、学食前の広場でタバコをふかしながら待っていた。誰とも一緒でないのは珍しい。裕貴は、僕の姿を認めると、灰皿でタバコをもみ消してベンチから腰を上げた。今、タイか沖縄から戻ってきましたといわんばかりに色が黒い。部活のロゴが入ったジャージを着ていて、下はハーフパンツだ。いつもこんな格好で授業を受けているらしい。
「悪いな。急に呼び出したりして」
「別に」
裕貴と会うのは数ヶ月ぶりだが、だからといって互いに遠慮しあうような間柄ではない。僕と裕貴は一応親戚ということになる。父親同士がいとこなのだ。裕貴は年は一つ上だが、一浪したので入学は僕と同じになった。フランス文学科などというまったく似合わない学科にいる。入学当初は万事において頼りなく、口数も少なくて非社交的な僕のことを気にかけてあれこれ世話を焼こうとしたが、僕がうるさがっていることを悟ってからはあまり干渉してこなくなった。だからといって仲が悪いわけではない。ほとんど緊急連絡用といってもいい僕の携帯に、食事の誘いの連絡をしてくる数少ない人間の一人だ。
昼休みの学食は混雑している。だから僕はあまり学食には寄りつかない。もし来たとしても昼の一時をまわってからのことだ。
あまり食欲がなかったのだが、他に思いつかず、僕は仕方なくという感じで白身魚のフライ定食を注文した。裕貴はカツカレーの大盛だった。テーブルはどこもおしゃべりに花が咲く学生たちで埋まっていて、空席を探すのに苦労したが、裕貴は体育会系の学生たちがくだらない話で盛り上がっている隣の席に二つ椅子が空いているのを見つけて席を取った。僕に言わせるとわざわざそんなところに席を取らなくてもという選択だった。
定食は大しておいしいわけでもなく、しかも食欲もないので、僕はおざなりにナイフとフォークを口に運んだ。しかも隣がうるさいので自分から何か話す気にもなれない。裕貴は僕のそんな様子をあまり気にかける様子もなくフランス語の授業で四苦八苦しているだの、部活で毎日帰りが遅いだのといった話をした。この男は数学が苦手である。だから経済学部の授業の話など聞いてもフランス語以上にちんぷんかんぷんなのだ。しかも相手は極端に口下手ときている。それで自分のことばかり話しているのだ。
それにしても、裕貴がフランス文学科に籍を置いているのは謎としかいいようがない。確かに父はフランス語が堪能だが、裕貴はフランスなど行ったこともないし、もちろん話せるわけでもない。フランスの作家の名前などろくに知らないだろうし、自分の学科の卒業生に日本を代表する高名な作家が数名いることも知らないだろう。よく言えば開けっぴろげ、悪く言えばがさつなこの男にこれほど似つかわしくない学科はないといえる。もっとも、もともと男子比率が少ないうえに、小柄だが男前な裕貴にとっては決して悪い学科ではないのだろう。毎日きちんと授業を受けているようだし、女の子たちとも楽しそうにおしゃべりしているのを見かけたことがある。本人から直接聞いたわけではないが、誰かと付き合っていることも想像に難くない。僕は色が黒い裕貴をひそかに「スルタン」と命名している。文学部を卒業してどういう会社に就職するつもりなのか分からないが、裕貴なら持ち前の前向きさと調子のよさで日本の厳しいサラリーマン社会を乗り切っていくことだろう。裕貴の話を聞きながらそんなことを考えた。
ところで、裕貴はなぜ僕のことを呼び出したりしたのだろう。口が重く、おもしろい話題を持っているわけではない僕があえて昼食をともにしたい相手とは思えない。実際、裕貴はひとしきり話し終えると、カツカレーを片付けるのに集中している。文字通りかきこむというような慌ただしい食べ方で、行儀悪く足を組んでいる。つねに微笑を絶やさず、物腰も柔らかな、模範的な日本の法曹然とした父親とは対照的だと思った。こういう男が数年もすればスーツを着て外回りの営業をやり、取引先回りの合間に駅前のそば屋であわてて昼食をとるようになるのだろう。
「そういえばさ、今日は何か話があるんじゃないの?」
と僕は尋ねた。
「ん?」
と爪楊枝をくわえてあらぬほうを眺めていた裕貴は僕を一瞥すると
「ああ、そうだった」
と今思い出したかのように言って
「おまえ、このあと授業ある?」
と続けて聞いた。
「ないよ」
と僕が答えると
「他の用事も?」
と探るような聞き方をしてきた。目つきも顔色を伺うような下からのぞきこむようなものだった。
「何?何か言いにくいこと?」
僕は裕貴の様子から、あまり話したくない内容だと察して尋ねてみた。促すつもりで少し笑ってもみた。裕貴はらしくもなく歯切れ悪く用件を話し始めた。隣の雑談がうるさいので少し顔を近づけて、何度か聞き返さなければ聞き取れないような話し方だった。普段二人で話をするときとはまるで立場が逆転している。僕は話の要領が悪い上に声が小さいので、裕貴はときどき身を乗り出して聞き返してくるのだ。
「じゃあ、俺この後授業だから」
学食を出た裕貴は、僕の肩を一つ叩くと、そのまま足早に立ち去った。重荷を一つ下ろした安堵感と、一刻も早くこの場を立ち去りたいという気持ちが背中から見て取れた。裕貴の話は、僕もできれば聞きたくなかった内容だった。
大学の通用門を出て、駅に向かって歩き始めた僕だったが、そのまま駅に向かう決心がつかなかったのでネットカフェでしばらく時間をつぶすことにした。いずれにしても裕貴が言った話を受け止めるには少し時間が必要だった。
ネットカフェでやることはいつも決まっている。SFとホラーが混ざり合ったかのような長編のマンガを一冊づつ読んでいくのだ。何気ないきっかけで見つけたこのマンガの変化に富んだストーリーと、繊細な絵柄に僕はすっかりはまってしまった。それから一週間に一冊程度のペースで二十数巻を読みふけった。今日は最新刊に目を通したのだが、普段なら十五分程度で読み終えてしまうところが一向にページが進まない。決してマンガの内容に責任があるわけではなく、僕の精神状態に問題があるのだ。苦労しながら半分程度を読み終えて、僕はマンガを机の上の放り出した。それから椅子に深くもたれて天井を見上げた。
きっちり基本料金の三十分でネットカフェを出たあと、僕はようやく駅に向かい渋谷行きの電車に乗った。ネットカフェでは時間ぎりぎりまで天井を眺めて過ごした。ブログもSNSもやらない僕にとってはネットは大して魅力的な娯楽ではなかった。
渋谷駅の激しい混雑と入り組んだ階段に辟易しながら僕は湾岸方面へ向かう地下鉄に乗った。渋谷駅は乗り降りが多いので、座席を見つけるのに苦労はない。僕はドアに最も近い端の座席に申し訳なさそうに腰かけた。僕は日本人の男にしては背が大きい。当然座席の相当な部分を占領することになり、ときどき露骨に邪魔くさそうな視線を向けられることもある。おまけに前を向いていると僕の特異な風貌に対する好奇の目線にさらされることたびたびである。自然目線はうつむき加減になる。僕は半分は日本人ではないのだ。
日本の流行の発信拠点の一つで、ブランドショップの立ち並ぶ土地にほど近い駅で僕は地下鉄を降り、地上に出てタクシーを呼び止めた。そこで目的地の名前を告げた。知名度の高い場所なので運転手にあえて道順を説明する必要はない。僕は再びうつむいて目的地までの時間を過ごした。とても外の景色に見とれる気持ちにはなれなかった。
目的地の高層建築は、透明感のある瀟洒な建物だった。世界的に有名な日本人建築家が設計したので、完成当時はかなり話題にもなった。しかし、この建物には誰でも入れるわけではない。もっとも一般人にとってはあえて世話にはなりたくない場所でもある。僕にとっても基本的には縁のない場所だった。
吹き抜けのロビーは、簡素だが高級感のある作りだった。自動ドアをくぐって僕は受付に向かった。受付ではОLのような制服を着た二十代と思われる女性が「こんにちは」と言って、笑顔で丁寧に頭を下げた。厳しく訓練されているのだろう。
「あの、面会で来ました」
と僕はぼそぼそと用件を告げた。
「ご面会でございますね。ご予約はございますか?」
「ああ、はい」と言って、僕は自分の名前と面会を希望する人の名前を告げた。「かしこまりました」と言った事務の女性は端末で情報を確認すると
「三宅雄登さまでございますね。それではご本人様確認のため、こちらの書面をご記入の上身分証明書をご提示いただけますでしょうか」
と一枚の書類を差し出した。僕はそれを受け取ると、少し脇によけてボールペンで記入した。手に余計な力が入ってしまい、歪んだ字になってしまった。記入し終わると、免許証と一緒に女性に書類を渡した。失礼にならないように、とでも教育されているのだろうか、女性は素早く僕の名前や住所、免許証の番号などを確認し、書類に不備がないことを認めると、入館証とともにエレベーターホールの場所を告げて二十五階へ向かうよう僕に告げた。ここはまるで銀行だな、と僕は思った。
無機質でだだっ広いエレベーターに一人きりで乗り込み、たどり着いた二十五階は、静謐と呼ぶにふさわしい空間だった。職員たちの視線に当惑しながら自動ドアに向かう。傍らの機械に入館証をかざすと、重々しい音を立ててドアが開いた。頑丈そうな作りだ。ドアをくぐると、個室が並んだ廊下になっている。僕は二五〇一と数字で書かれた部屋の前で立ち止まった。入居者の名前が書かれている。僕にとっては特別な意味を持つ名前だ。その名前にはある特定の人々にとっても同様に特別な意味がある。呼び鈴はついていないのでドアをノックした。ドアの向こうで人の動く気配がし、間もなくドアが開かれた。
姿をあらわしたのは中年の男性だった。紺のストライプジャケットに白のYシャツ、グレーのパンツをはいている。黒の革靴もきれいに磨き上げられている。そのままファッション誌のモデルがつとまりそうな格好だが、この場にはそぐわない感じがした。
「どうぞ」
と彼は言って、かすかな笑みを浮かべた。それから室内に向かう。うらぶれているわけではないが、背中からは覇気は感じられない。疲れているのかもしれない。無理もないことだった。窓際にはベッドがあり、その手前にテーブル、向かい合う形で椅子が置かれてあった。室内は広々としているが、思ったほどに物は少なかった。彼、和仁は僕に座るようすすめると、自分はコーヒーを淹れはじめた。
「よく来たな」
と和仁はカップにコーヒーを注ぎながら言った。カップにコーヒーを淹れると、僕の向かいに座った。改めて容貌を観察する。確か五十六歳だったはずだが、見た目は四十代でも通る。僕とは三十七歳が離れている。能力とともに美男としても注目されてきた人だが、今は中年の渋さを備えている。手入れの行き届いた頭髪には白いものは一本もなく、顔にはしみ一つない。もっとも頬がこけていて若干顔色が悪い。やはり健康とはいえない状態なのだろう。
「一応な、着替えたんだ」
和仁は自分の衣服を眺めて言った。
「……そんな気を使わなくても」
僕は「お似合いです」と言おうと思ったが、やっぱりそれは違うだろうと思いなおしてそう言った。
「いやいや、やっぱりお客様だから」
と和仁は言い、僕が黙っていると
「みじめったらしいのもいやだからな」
と付け加えた。この人らしいと思った。見た目には人一倍気を配っているし、着るものにもやかましい人なのだ。僕はこの人に会うのは初めてではない。もっとも、僕とこの人との関係を考えると、会う頻度はとても少ないといえるのだが。
「それより具合はどうなんですか?」
と僕は尋ねた。自分でも不自然なくらい気を使っているのが分かる。
「悪くないよ。ときどきだるいけどな。それ以外は普通だね」
と和仁は答えた。確かにやや不自然な痩せ方をしている以外は、見かけ上健常な人と変わらない。
「それにしてもこの部屋豪華ですよね。ホテルみたい」
「ホテルっていうよりは棺桶だけどな」
僕が部屋を見回していうと、和仁がそう答えた。この人は昔から毒舌で知られている。自分のことすらそのようにとげのある言葉で表現してしまうのだ。僕は返答に困ってうつむいた。和仁はその様子を見て楽しそうに笑った。
「やっぱおまえ、背でかいよな。いくつあるんだっけ?」
「一八七です」
僕が話し出す様子もないので和仁が話題を変えた。そうしてもらったほうがやりやすい。ついでに言うと僕はこの人の身長を十センチばかり超している。四年ばかり前に追い抜いた。
「今年大学入ったんだったよな?」
「はい」
「楽しい?」
「別におもしろくはないです。でも他にやることもないし」
「経済だっけ?」
「そうです」
「すごいよな。看板学部じゃん」
「あなたほどじゃないです」
和仁は「ふふふ」と笑った。この人は東京近郊の日本最高クラスの国立大学に現役で合格している。一年在籍してパリに留学し、即職業に直結するその学校を卒業した。今では一時籍を置いた大学の学生としては最も想像しがたい職業に就いている。それにしてもこの人を呼ぶのに「あなた」はないだろうと思う。そう思うのだが、その呼び方を変えられなかった。
「そういえば、ピアノないですよね?」
と僕は尋ねた。
「部屋の中まで持ち込まんでもいいだろう。他の階にあるんだ」
しばらく沈黙した後和仁が答えた。
「毎日弾くんですか?」
「一応な。つらいときは無理だけど」
どうつらいのだろう。やはり痛むのだろうか。
思わず「聴きたいです」と言いそうになった。しかしそれをきっかけに自分の中の何かが壊れそうな気がして口を開けなかった。
「俺はね、言ってみれば今有給消化中のような状態なの。とても働く気にはなれないね。しかも確実に腕は落ちてるし」
「そんなの素人には分かんなくないですか?例えば僕みたいな」
「うーん」
和仁は首をかしげて黙り込んだ。どうせやるからには納得のいく結果を追求してしまうのだろう。しかし、僕は正直この人の仕事のことが分からない。もちろんそれが世界的に見ても指折りのものだと言われればうなずくことはできるのだが、実感で受け止めたことがない。自分には何かが欠けているのだろうか、と真剣に悩んだこともある。
「このコーヒーうまいだろ」
と和仁が言った。ブラックで飲んでいる。コーヒー本来の味を楽しみたいのだろうが、僕にはやはりよく分からない。だから砂糖もミルクもたっぷり入れている。
「そう……ですね」
と僕は答えた。確かに、コーヒーチェーンのものよりは特徴的な味だという気がした。
「それにしても会えてよかったよ」
そう言って和仁は僕に微笑みかけた。この人にもやはり人並みの情はあるのだ。
「もう無理かと思ったよ」
僕は彼の気持ちをどう受け止めたものか困惑した。結局
「迷いました」
と答えた。和仁は
「うん」
と言った。コーヒーの味に感心したのか、僕の言葉にうなずいたのか、はっきりしない返事だった。
「で、結局タクシーで来ました」
自分でも何を言っているのだろうとバカらしくなり、言ってから後悔した。
「あ、僕方向音痴なんです」
「何だそれ」
自分でフォローしようとしてさらに余計なことを言ってしまった。笑われてしまった。一つ妙なことを言ってしまうと、止まらなくなり、失点を取り返そうとしてさらに余計なことを言ってしまい、火に油を注いでしまうという失敗を僕はたびたびおかしてしまう。これで女の子と付き合う機会をふいにしてしまったことも何度もある。致命的な欠陥だ。だから僕は話すのに臆病なのだ。僕はうなだれてしまった。
「ここに来るかどうしようか迷ったんだろう?」
と和仁が助け舟を出した。呆れたに違いない。
「え、まあ……平たく言えばそういうことです」
「正直だな」
「あ、いや……その」
どんどん軌道がずれてしまう。考えるのが面倒になった。
「いいんだよ。そう思うのも当然だろうし」
和仁は大人の余裕を見せた。
「いえ、あの……あなたのことが嫌いとかそういうことじゃないんです」
「無理しなくていいって」
「あ、はあ……」
僕は夢中でコーヒーを飲み干した。味わう余裕などとてもなかった。そして乱暴にカップをさらに戻して
「ごちそうさまでした」
とかろうじて言った。しかし、椅子にはすっかり根が生えてしまったかのように腰を上げることができなかった。「今日はこのへんで」と言うタイミングがなかなかつかめないでいた。
「正直、おまえには十分なことがしてやれなかったような気がするんだ」
と和仁が言った。
「そんなことないです」
と僕は答えて
「そりゃあ、もっと近くにいたかったです。でも、あなたが僕のことを嫌っているとは思えませんでしたし、それに生活には困ってません。学費だって出してもらってます……感謝してるんです」
と付け加えた。場の空気を和ませようとしてその場限りのごまかしで答えたわけではなかった。僕はむしろ場の空気をぶち壊すのが得意な人間なのだ。
「そっか……ありがとうな」
と和仁はしんみりと言った。
「でも、気に食わない野郎だとは思っただろう?」
「……正直、僕はあなたから何を受け継いだんだろうと思ったことはあります。僕は楽器も弾けない。人付き合いは苦手だし、女の子にもモテません」
僕は幼い頃から何かを期待されてしまう人間だった。そしてことごとくその期待を裏切ってきた。中学校の音楽の女教師などは僕の楽器の実技や筆記試験の結果を見て「あなた恥ずかしいと思わないの?」と公然と吐き捨てたし、楽器を習っている男子生徒は僕に音楽の話題を振ってきて、僕がまともに答えられないでいると「えらく無知なんだね」という言葉とともに軽蔑の視線をよこした。身長と見た目で僕に関心を示した女子学生は僕に話術が欠けていることを悟るとつまらなそうな顔をして離れていった。大学ではもはや僕にすすんで声をかけてくる学生はいない。陰では「うどの大木」だの「裏口入学」だのといった悪口を言われていることも知っている。もっとも前期の試験では一つも単位を落とさなかったので、この批判がまったく根拠のないものであることは自負している。
「コンプレックスになってるんだな」
と和仁は言った。
「……確かにあなたの存在が重荷でなかったかいえば嘘になります。でも、だからといってそれをあなたのせいにするのは筋違いじゃないでしょうか。僕はそう思います」
堰を切ったように言葉が出た。すごく恥ずかしいことを言っているような気がしたが、止められなかった。和仁はしばらく黙った。そして
「雄登、おまえ強いな」
と言った。気がつくと涙が頬を伝っていた。
カフェインを摂取して尿意を催したのか、和仁はトイレに立った。その間僕は席を立って、ベッドに歩み寄った。枕元に本棚がある。何冊かの本が並べてあるが、日本語のもの、英語のもの、フランス語のものさまざまだった。和仁はマルチリンガルである。本の手前にふと目をやるとデジカメが置いてあり、その下に黒い表紙のアルバムのようなものが置いてある。それを手にとった。どうも窓からの景色らしい。ビルが完成に近づいていくさまが時間をおいてプリントされていた。
「ああ、それ。ここから見えるんだよ」
トイレから出てきた和仁が僕がアルバムを眺めているのを認めて、ブラインドを上げた。そのビルは少し離れたところにまだ未完成の状態で立っていた。らせん状の弧を描きながら立ち上がる奇妙な外観である。目測では、まだこの部屋より低い位置にあるようだ。陽が落ち始めていて、空は一面オレンジ色だった。
「一週間おきに記録してるんだ。まあ、日記みたいなもんかな。いつまで持つか分かんないけど」
そう言って和仁は笑った。
「悲しいこと言わないで下さい」
と僕は冗談めかして言って、アルバムを元の場所に戻した。
「完成したら五十階建てぐらいになるんだろうな」
それから和仁は外国人の建築家の名前を口にした。おそらく高名な建築家なのだろう。思えば僕はこの人の趣味趣向についてほとんど何も知らない。もっとたくさんの時間を共有してこの人からさまざまなものを吸収したいと思った。
「そこ立てよ。記念に一枚撮っときたい」
と和仁は言った。僕は自然と窓際に歩み寄った。和仁はデジカメを構えながら片手でもう少し左に寄るよう合図した。ズームにしたのだろう、レンズが前に伸びた。僕が柔らかく微笑むとシャッター音がした。
「やっぱ、実物のほうが男前だよな」
「そんなことないっす」
「美男美女の合作なんだ。自信を持ちなさい」
僕は何も言わずにはにかんだ。
「これ持って帰れよ」
と和仁は一枚のCDを持ってきて僕に手渡した。ジャケットは和仁のバストアップの横からの写真、フォーレの夜想曲集とある。作曲家の名前は全く知らない。一年ほど前に録音されたらしい。
「ここで聴いてもいいですか?」
と尋ねると
「いいよ。でもヘッドホンつけてくれよ。目の前でCD聴かれるのいやなんだよ」
と和仁は答えた。その後和仁はパジャマに着替えた。さすがに疲れたらしく、これから一眠りするらしい。帰るとき声をかけてくれと言って、和仁はベッドに横たわって僕に背を向けた。
ヘッドホンを耳に当てて、CDをスタートさせた。クラシックの鑑賞など学校以外では始めてかもしれない。不安だったが、僕にも全く鑑識眼がないわけではないようだった。フォーレはフランスの作曲家で、ドビュッシーやラヴェルより早くに生まれ、印象主義と言われる彼らと同時代を生きた人であるらしい。印象主義といわれると、曖昧模糊として切れ切れにフレーズが浮かんでは消える軟弱でそして難解な音楽のように思われている。しかし、和仁の演奏は一切の無駄のない研ぎ澄まされた彫刻のようだった。あまりタメを作らず速めのテンポでさらりと流していく。退屈しないし、重苦しくない。叙情的な旋律もあまり大げさに歌わせず、わざとらしさがない。世界的にフランス音楽の第一人者と言われるゆえんだろう。もっともこれはそのときの言葉にできない印象をあと付けの知識で補ったものである。
約一時間程度の音楽鑑賞を終えると、僕は和仁の体を揺すった。和仁は気だるそうに僕を見上げて
「帰るのか?」
と尋ねた。
「今日はいろいろありがとうございました」
「いやいや、こちらこそ」
それからはお互い無言で扉に向かった。
「また会えるといいですね」
扉を出て僕はそう声をかけた。父はかすかに笑みを浮かべただけで何も答えなかった。
年が明けて寒気が緩み始める頃、父の訃報が朝刊一面に掲載された。
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2008/11/15(Sat)14:42:45 公開 /
ダフニス
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ダフニスさんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
なんというか、こういうものを出すのはとても恥ずかしいです。
二十数枚を費やして書くようなものなのか、果たして作品と呼べるレベルに達しているのか、わざわざ人に見せるようなものなのか、今さらながらに気の迷いがあります。
後半は砂糖菓子のように甘く、ありきたりなお話だと思います。
しかし、今どきの男子ってこういう感じなんでしょう。決して嫌いではありません。
文章も粗く、お粗末ではございますが、よろしければご一読ください。