- 『箱庭』 作者:アイ / リアル・現代 ショート*2
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全角6630.5文字
容量13261 bytes
原稿用紙約17.85枚
人間が思う幸せとは、ただのエゴの幸せではないのでしょうか?自分勝手な幸せに、意味はあるのでしょうか。
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正月が明けてそろそろ三週間になる。来たるべきバレンタイン・デーのために全国の女子たちが意中の男子へ渡すプレゼントの準備をせっせとし始める頃、私は公園で彼を見つけた。
図書室から借りた本を開き、公園のベンチに座ってひたすらそれを読んでいた。今日は日が照っていて、夕方近くに肌を容赦なく刺すシベリア寒気団など忘れてしまうほど暖かかった。座った瞬間、ひやりとしなかったベンチに驚いた。このままでは冬将軍も冬中佐ほどに成り下がってしまうのだろう。学校の校庭ほど広い公園には誰もいなくて、読書をするのに最適だと思った。
そんな時にたまたま目をやった公園の茂みに、ダンボールの大きな箱を見つけた。有名な通販会社の箱。不法投棄にしては少し人の目に付きすぎる。私はそのダンボールに何故か興味を持ち、本の読みかけのページに指を挟んだままそれを持って歩み寄った。茂みの中に埋もれるように置いてあるダンボールにはガムテープなどで封がされておらず、半分開きかかっていた。私は一瞬、爆弾テロか何かか? と警戒したが好奇心は抑えられず、恐る恐る蓋を開いて中を覗き込んだ。
精一杯壁に手をついて背伸びし、私に微笑みかけたのは一匹の子猫だった。全身が真っ黒で、目が大きくて、しかし手のひらに十分乗ってしまうその体長。まだ生まれてそんなに日が経っていない。彼は内側の壁に爪を立てて二本足で立ち上がり、必死で私に前足を伸ばしていた。私は驚いて、思わず彼を抱き上げ、小さな脇の下に手を入れて正面から見つめた。みーみー、と高い声で鳴きながら四本の足をぎこちなく動かしている。開いた口は私の小指も入るかどうかわからないほど小さく、歯があるのかないのか見えない。目だけがまっすぐに私を見つめていて、純粋で、人間の子供のようだった。
人間と同じ目をしている。私はただそう思った。
子猫は私の手のひらの上に乗って、手相を辿るようにくるくると歩き回り、手首、二の腕を歩いて背中まで冒険していった。落ちそうになったので慌てて片手で彼を掴み、ため息をついた。捨て猫か。拾ってくださいという置手紙はないが、ちょっと買い物に行くために生まれたばかりの飼い猫をダンボールに入れて公園に放置するとは思えない。
私は子猫の目を見つめた。彼も見つめ返す。異種族同士のコミュニケーションは共通母語がないぶん難しい。私は彼を見つめて、ふと今日の授業での出来事を思い出した。
何故人を殺してはいけないのか分かりますか、と先生は黒板をチョークで叩きながら振り向きざま質問した。四十人がひしめく教室の中で、誰もが「家族が悲しむから」「逮捕されるから」「一生を棒に振るから」と答えている中、私は手を上げて先生に名前を呼んでもらった。
「人が人であるからです。人は、同胞の人を殺すことに対して罪悪感が生まれ、共食いをしているような気分になります。それはそうでしょう。自分と同じ人間が殺されているんだから。逆に、人以外の動物、例えば牛や豚などは平気で殺し、それどころかその肉体を食らいます。人間ですら、彼らと同様の動物です。人が人を殺してはならぬというのなら、牛や豚を食らうことも許されないでしょう。しかし現状では、人は自分たちの同胞である人間を優先したった一人の死ですら重要視して取り扱う。人間は捨て猫が一匹死んだぐらいでは見向きもしないのに。他の動物に関しては、数が少なくなって初めて危惧し殺すことを制限しています。人はみな自己中です」
先生は、思いもよらなかったらしくこの答えを絶賛した。隣の席の男子生徒が軽く舌打ちをして「意味わかんねえよ」と呟いた。本を読まない高校生と一緒にしないで欲しい。席に座りなおし、先生が話を続けるのをぼんやりと見ていた。
つらつらと並べた答えは全てアドリブだ。「人を殺してはならない理由」として、殺すことによって生じるリスクやマイナスの面ばかり考えている周囲とは違い、多面的な角度でこの問題にぶつかった結果こうなった。適当に並べただけだが、自分が答えた内容にしばし悩むことになる。
このことに関して、休み時間にずいぶん長い間考えた。人が人を殺してはならないのは、同胞であるから。自分中心であるから。他の動物を殺すことは躊躇などしないのに、人にだけは罪だという。全く愚かな話だ。地球上に生きている限り、そして始めはひとつの細胞から分裂してここまで繁栄してきた命であるのだから、人間だろうが牛だろうが豚だろうが、同じなのだ。結局、人は狭い世界で共食いをしていることに他ならない。人も動物も同じだ。人だって動物なのだ。
だからといって牛や豚を殺すなというわけではない。「人を殺してはならない理由」として、自分たちの視点からしか人同士の殺し合いを見ているようじゃ人間もまだ甘い。
授業中に私自身が答えた内容を思い出し、ぼんやりと考え込んだ。ブラック・ジャックにも、確か大怪我をした人間と猫がいて、BJ先生が猫を最優先に治療したとして人間の方が裁判を起こした話があった。何かの災害や広範囲の事故が起こった時、ニュースは死傷者数の人数は出しても決して犠牲になった動物たちの数は言わない。動物を捨てたり、野良犬を殺したりすれば「器物損壊」の罪になる。一体、日本にいる何人が、街で捨てられている子猫や子犬を家に連れて帰るのだろうか。九割九分がた、かわいがるためだけに近寄って撫で触り、「他の優しい人に拾ってもらってね」と言い残して去っていく。捨て犬猫の立場からすれば、会う人会う人に何百回もそれを言われて見捨てられ、いつになったら「他の優しい人」が現れるのか待った挙句、奇跡的な確率で拾われるか多くはダンボールの中で死ぬ。茶色く、隙間風の冷たいダンボールの中で一生を過ごす動物たちは何匹いるのだろう。人間は、同じ遺伝子を感じながら、彼らをどういった目で見つけ、見過ごし、あるいは捨て、拾ったのだろう。
しない善よりする偽善、とは下らないと思っていたが。
私は猫を一旦ダンボールの中に戻した。彼は狭い室内でぐるぐると歩き回り、時々上を見上げて私を見つめる。私は学校指定鞄から携帯電話を取り出し、家に電話をかけた。
ああ、お母さん? あのね、末摘花公園で子猫ちゃん、拾ったの。ダンボールに入れられてて。まだ生まれたばかり。ええー、駄目? 飼えないの? かわいそうだよ、今夜はきっと寒いのに。凍えて死んじゃうよ。せめて風を避けるために玄関にぐらい置いてあげようよ。え、何言ってんの、お母さん、ちょっと、今なんて言ったの? もうお母さん最低。
一方的に電話を切った。凍えて死んじゃうよ、という私の言葉に対して母が冷たく言い放ったのはただ一言。
「捨て猫一匹ぐらい、日本中で何匹も死んでるのよ」
人間的な、あまりに人間的なジコチュウさに、私は賞賛の拍手を送った。
人間は確かに動物的だ。芥川龍之介は偉大である。
私はしばらく考え、ダンボールの中でみーみー鳴いている小さな子猫を抱き上げ、公園の芝生の広いところに連れて行ってあげた。花がほんの僅かにちらほら咲いている芝生に立つと、まるで生まれて初めて広い世界に連れ出されたかのように、子猫は縮こまってしまった。目が開いてから今まで、ダンボールの世界しか知らなかったのだろうか。視界が見えてくる頃には寒い寒いダンボールの中。外界と遮断された茶色い箱の中で、彼は孤独に生きてきたのだ。捨てられてから何日目なのかは分からない。ダンボールの中に餌は入っていなかったから、それほど経っていないのだろうが。もっとも、餌すら入れない捨て主の人間性を疑わざるを得ないが。
子猫はしばらく足がすくんで動けないようだったが、私がしゃがんで地面を叩き、ほらほらと笑顔で呼んでみせると少しずつ歩き始めた。そうして私と子猫は芝生で遊び、じゃれ合い、ふざけていた。ダンボールの外へ連れ出したのは私が初めてだったのか、子猫はまるで私を親だと思っているかのように懐いてきた。何かあるとみぃみぃ鳴きながら私に擦り寄ってくる。十センチもない大きさなので、踏んづけてしまいそうになることが時々あった。そんな小さな小さな彼を、友達のようにかわいがった。
子猫は芝生の葉っぱに興味を持ち、前足でつついたり、鼻先を近づけてみたり、勢いよく突っ込んでいったりした。あちこちを見渡しながら、知らないものは自分の目で見て触って確かめるぞとばかりに、目新しいものへ目新しいものへと次々に走り回る。彼にとって芝生の草や木の枝、指先ほどしかない小さな花、広い空、茂み、土、石っころは、電気を発明したエジソン並の大発見なのだろう。ダンボールの中にないものには片っ端から駆け寄り、前足でつついたり匂いを嗅いだり、体当たりしたりする。私は芝生に体育座りをして、彼が次から次へと新しい知識を吸収していく様を見ていた。
このままこの子が大人になってくれれば、と私はふいに願った。
捨て猫は誰にも見向きもされない。拾ってもらえるなど場外ホームランと同じほどの確率だ。そういうことを知ってか知らないでか、彼らはダンボールの中で鳴きながら生きている。ダンボールの外の世界を知らない。多くの場合、あの茶色く狭い世界からとうとう表を走り回ることが出来ないまま死んでしまう。それが果たして幸福なのか。成長段階で閉じ込められたのならともかく、生まれたときからすでにダンボールの中にいた捨て猫たちは外の世界を知らないのだから、それは幸福と言えるのだろうか。知らないということは幸福なのだろうか。
ダンボールの中で生きている捨て猫たちがもし、外の世界を知っていればきっと悔やんだまま死ぬだろう。出ることを夢見て、誰かが拾ってくれることを夢見て、狭い世界でみーみー鳴いている。救い出される確率が厳しい世界で、彼らが一生外の世界の存在を知ることなく死ぬのは、果たして幸福なのか。
最初から知らないものに、誰も憧れや夢など抱かない。
時々、ダンボールの中で、鳴くこともせずにじっとしている子猫がいる。それが今芝生を駆けずり回る彼なのか、私なのか、分からない。
新発見を次々に発掘していく子猫の彼を抱き上げ、体育座りをしている私の膝小僧の上に乗せた。上手くバランスを取りながら子猫は私の方を向き、じっと見つめた。ちょっと小首をかしげたようなその表情がかわいくて、私は手で優しく彼の頭を撫でた。温かい手のひらが気持ちいいのか、子猫は目を閉じて手に擦り寄った。
きっと彼は、一瞬でも、外の世界で遊べたことを覚えていてくれるだろう。
その目に刻まれた大発見の数々と共に。
私は彼を抱え上げ、元のダンボールの中に戻した。子猫は遊び相手との距離が離れて寂しいのか、再び壁について二本足で鳴いている。私はお弁当の蓋に持っていたペットボトルのミネラルウォーターを注ぎ、ハンドタオルと一緒にダンボールの中に入れてやった。子猫はお弁当の蓋に並々と注がれた水に興味を示し、前足でちょいとつつき、そして口を近づけた。まだ上手く飲めないらしく、顔を盛大に突っ込んで何度もびしょぬれになった。そのたびに顔を拭いてやりながら、私は彼が少しずつ、ほんの少しずつではあるけれど水を飲んでいる姿をじっと見ていた。自然と笑顔がこぼれてくる。まだ数センチの赤ちゃん猫が、こんな狭い世界に閉じ込められても必死に生きているのだと、いつだったかテレビでやっていたヘレン・ケラーのドキュメンタリー番組を見て感動した時と同じ気分になった。
何も聞こえなくても、見えなくても、世界を知らなくても、命あるものは生きるために生きる。
自分の信じた光の方向に向かって。
舌先でちょっとずつ水を飲む子猫の頭を撫でると、上を見上げてみぃと鳴いた。もう行くからね、こんなこと言いたくないけど、優しくて猫が大好きな人に拾ってもらってね、元気でね、私のことを覚えててね、バイバイ。私は教科書が数冊と雑多なものが入って重い学校鞄を抱えて立ち上がり、名残惜しんで小さな彼を見つめていた。彼も見つめ返した。私は冷たい風を避けられるようにダンボールの蓋を半分だけ閉じ、ひとつ深く息を吸って踵を返した。背後から一度だけ、みぃ、と鳴き声が聞こえたが、また一時間ほど彼と遊ぶ気になりそうなので振り向かなかった。帰り道、何度も子猫の感触を思い出すように、右手の指を動かしていた。
今夜はきっと寒くなる。陽が沈みかけた空を見上げて身震いした。気持ち悪く、歯の間に何かが詰まった時のような違和感と捉えがたい感情が、じわじわとシベリア寒気団に乗って私を包んだ。
翌日、授業が終わるなり颯爽と公園に向かった私は、ダンボールの中で息もせず横たわる子猫を見つけた。
私があげたハンドタオルにお腹から下の下半身を埋め、お弁当の蓋に半分ほど水を残し、彼は私の目の前で冷たくなっていた。開いたばかりの目は再び閉じられ、代わりに口は少しだけ開いたまま。一月下旬の寒さに耐え切れなかったのか。カタカナの「ヨ」の字のように横になって、昨日まで芝生で遊んでいた子猫は、死んでいた。
私はしばらく、ダンボールの前にしゃがみこんだまま彼をじっと見つめていた。もう見つめ返してくれない彼の瞳に、最期には何が写ったのだろう。最期の最期まで、彼は狭いダンボールの壁しか見えなかったのか。それとも、蓋の隙間から見える星空を眺めていたのか。私には分からない。
学校鞄をダンボールの脇に置き、子猫を抱え上げた。昨日、みーみー鳴きながらばたつかせていた足はだらりと重力に従い、てるてる坊主のようだった。もう何も言わない。彼はもう、何も言わない。冷たくて固い彼の身体は頼りなく、生前のお転婆っぷりは幻だったのかと錯覚してしまう。
私は彼を抱えたまま、彼と一緒に遊んだ芝生をざくざく歩いていき、最初に目に付いた桜の木の根元を、そのあたりに落ちていた木の枝で掘り返した。夕暮れ、学生服のまま地面を掘り返す私の姿は異様だったかも知れない。けれど私は、何かを払拭するように、自分の罪悪感を拭うように、ただ一心不乱に地面を掘った。左手に子猫を抱え、右手を規則的に動かして。
罪悪感。それはきっと、この状況に接して誰もが抱くほど普遍的ではなく、極めて解釈の難しい感情。
深さ十センチほど掘ったところで、私は子猫を見つけた時と同じように窪みに横たえた。そして、もう二度と目を覚ますことのない子猫の目をじっと見つめた。償いの代わりにしては足りないかも知れない。しかし私は、自分が抱え持つ拭いきれない何かを直視して、結果的にこういうことしか出来ない自分に腹が立った。主観によるものかも知れないが、今現在、現場にいる私が考えることは、ただこれだけだった。罪悪感。そして、捨て猫の世界。
本当はずっとこのまま見ていたいところを自分の尻に鞭打ち、そっと冷たい土を子猫の上に被せてやった。小さな彼の姿は両手でかき集めた土であっという間に見えなくなってしまい、涙があふれ、手早く土を被せて崩れないよう上から何度か叩いた。
これで良かったのだろうかと、私が私に問いかける。
これは人間のエゴじゃないのだろうかと。
ダンボールの外の世界を知らないまま死ぬことと、広い外界で一度駆けずり回ってから死ぬことのどちらが幸せなのだろうかと。そう考えることすらエゴのように思えた。人間の思い違いだ。世界の狭さは生き物によって違う。人間が軽視し狭すぎると困窮しているダンボール内の視野すら、一匹の子猫にとっては全てであり、幸せな箱庭だったのかも知れない。その違いはやはり、人が人を殺してはならない理由に直結する気がした。
人間の勝手な想像と、ほんの僅かな正義心だけで彼らの領域を、または思想を作り上げることは、エゴなのだろうか。
分からない。私は今、人間だから。
彼をダンボールから出してやらないまま死なせてしまったら、私は一生後悔するかも知れない。しかし、その後悔ですら……人間の視野だ。
私は彼の墓の前で手を合わせ、そっと目を閉じた。もし、彼の魂が再び地上に生まれ変わるなら、彼が彼のいるべき世界で自由に暮らせますようにと。立ち上がり、ダンボールの脇に置いてあった学校鞄を拾い上げ、彼が生きていた大きな箱はそのままに公園を去った。彼を殺した冷たい冬将軍が、公園を丸抱えするように強く吹きすさんだ。
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2008/11/08(Sat)00:02:07 公開 / アイ
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■作者からのメッセージ
初めまして。
僭越ながら拙作投稿させて頂きます。
ツッコミどころがてんこ盛りだと思うので、批判お待ちしています。