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『パンダの夢は猫の夢【ライト版】完結』 作者:バニラダヌキ / お笑い ファンタジー
全角70494.5文字
容量140989 bytes
原稿用紙約213.95枚
おたく渦巻く学園祭を、愛のパンダが駆け抜ける!!  不器用なパンダは、はたして薄幸の子猫ちゃんを救えるのか!? ……などと煽りつつ、ほとんど旧作再出御免、和み系学園ファンタジーです。

――――――――――――――――――――――――――――――

 パンダの夢は猫の夢・ライト版  【目次】

   プロローグ 【茂、パンダになる】 (約18枚・10月10日投稿)
   Act.1   【パンダは夢を見る】 (約37枚・10月10日投稿)
   Act.2   【パンダは野を駆ける】 (約25枚・10月13日投稿)
   Act.3   【猫たちの踊り】 (約23枚・10月17日投稿)
   Act.4   【パンダのままで】 (約39枚・10月21日投稿)
   Act.5   【猫も夢を見る】 (約32枚・10月26日投稿)
   Act.6   【パンダの夢は猫の夢】 (約24枚・10月30日投稿)
   エピローグ 【Yes,Virginia】 (約13枚・10月30日投稿)

――――――――――――――――――――――――――――――  







  プロローグ 【茂、パンダになる】


 阿久津茂は、かなりさむい男である。
 そうむさくはないのだが、ある種のぬくもりに不自由な男である。
 高校最後の初夏の、文化祭当日を迎えても、まともに女子に触れた経験がない。
 まあ都会とは違い、東北の片田舎のことだから、たとえ共学でもそうそう深入りしたおつきあいなどは、できないお約束になっている。それにしてもこの歳になって、まともに女子の手ひとつ握った経験がないというのは、今どきやっぱりみっともない。
 運動神経に見放されてしまっているので、そっち方向から女子が寄ってくる、という路線はない。「あたし、なるべく足が遅くて、泳げない人が好き」という女子がいれば別だが。
 中肉中背で顔立ちにもまったく特色と言うものがなく、同級生でさえ彼の顔と名前をペアで思い出せないことが多いくらいだから、そっち方向から女子が寄ってくる可能性もなさそうだ。たぶん「あたし、お豆腐にはお醤油もなんにもつけないでそのまま食べるのが好きよ」という女子の数ほど珍しいだろう。少なくとも、これまではひとりもいなかった。
 地元では荒れていないだけがとりえの商業高校で、成績は上から数えても下から数えても同じあたりをうろうろしているから、将来性方向から女子が寄ってくる路線もなしだ。まあ、「あたし、駅の裏通りのちっこい焼き鳥屋で、一生焼き鳥焼いて暮らしたいの」と夢見る乙女がいらっしゃれば別だが。
 さて、そんなこんなで女子のぬくもりに、とことん縁の薄い茂だった。
 ところが――本日土曜の朝に限っては、いまだかつてないぬくもりに、包まれっぱなしだった。お調子乗りのどこかの馬鹿が、学校の屋上で禁止事項となっていた派手な花火を打ち上げた直後から、茂の身に、奇跡が起こったのだ。
 ふだんは見向きもしない同じ学校の女子たちが、先を争って茂に寄ってくる。他の学校の女子たちも、遠くからわざわざ駆け寄ってくる。手を握ったり体に触ったり、中には情熱的に抱きついたり、頬をすりよせてくるお嬢さんさえ、多数いらっしゃるではないか。
 茂はそんな現実に、初めのうちは舞い上がっていた。
 しかし、昼も近づいて、さらに外来の一般客が増えてくる頃には、いいかげん疲れ始めていた。
 女子よりも子供の姿が増えだし、中には頭によじ登ろうとしたり、本気で相撲やケリを仕掛けてくる悪ガキなどもいる。五月《さつき》晴れの爽やかな土曜日なのに、茂だけは少々蒸し暑く、息が苦しい。第一、いくら少女たちに抱きしめられても、それはしょせんぶ厚い毛皮や、ウレタンごしの感触だ。
 そう、茂はその日、茂ではなく一頭のパンダだった。

     ★        ★

 ――なんぼなんでも、昼飯くらいは食わしてもらえるんだろうな。
 朝からこれまで、ストローで水分補給はできたものの、さすがに空腹だ。
 餌を探しに行こうとしたが、パンダの腰の両側には、さっきからちっこい姉弟がしがみついて、ひたすらすりすりし続けている。茂はそのちびっ子たちの頭に、ぱふっと手を置いて、なでなでっぽく、内心むりやり引きはがした。
 背後の『飲茶・ヨンクミ』からは、女子十二楽坊の典雅なCDが流れている。
 その中に入ると、焼きソバやチルドの焼売、ありふれた中華菓子やウーロン茶くらいしかメニューにないにもかかわらず、けっこうなお客で賑わっていた。
 それは茂の手柄と言うより、県下一のイベント会社から本格的なパンダを借りだしてきた、クラスの実行委員たちの手柄だろう。そこいらのスーパーのイベントで見かけるような、いかにも布袋っぽい、お粗末な着ぐるみではない。針金や発泡スチロールやウレタンフォームで、体形まできっちり造形された、リアルタイプ・パンダだ。
 それに店内――教室の中で女子の有志たちが扮しているウエイトレスも、よほどマニアックなコスプレ・パブにでも行かないとお目にかかれないような、素材まで本物のチャイナ・ドレス姿だ。さすがにスリットから覗く脚線や、その上のちょっとあぶないあたりは、タイツや短パンでしっかりガードされているが。
 茂はのっしのっしと店内を横切りながら、口の間から見えるお客さんたちに、頭を振ったり手を振ったり、せいぜい愛想をふりまいた。
 そう、無愛想な茂には不可能なかわいこぶりっこなども、大熊猫なら可能なのだ。思わず四つんばいになって駆け回りもしたくなったが、リアルな造形がかえって邪魔になって、そこまでは無理のようだ。
 しかし、写真やテレビで見かける、あの馬鹿でかい餅のようにでろんと座りこんだ姿は、再現できるのではないか。そんなポーズの方が立っているより楽そうだし、笹でも抱えてはりはりと囓って見せたりすれば、良い子の皆さんやお嬢様方に、より喜んでいただけるのではないか――茂は生まれて初めてと言ってもいい、外交的で建設的な意欲に目ざめていた。
 まあ、どっちにしても何か腹に収めないことには、午後のパンダとしての活動は難しい。
 茂は、教室の奥のベニヤ板で仕切られたスペース――三年四組文化祭実行委員会控室に、カーテンをくぐってのたくりこんだ。
「おう、ご苦労さん」
 実行委員長――いちおう学級委員長でもある横溝が、ひとつだけ残した机に向かって、なにやらデスクトップ・パソコンをいじっていた。
「いい具合だ。今日中に原価と経費は回収できそうだ。明日の売上は、純利益になるぞ」
 横溝は、エクセル命の会計人間だ。土日と二日続くここの学祭は、商業高校だけに、けっこう現実的な売り上げ実績も問題になる。
 机のまわりには、他にも三人ばかりのおたく状の男子生徒が、むさくるしい顔とぶよんとしてしまりのない体で、漫画を読んだり、膝のノートパソコンをいじったりしていた。今回の中華コスプレ喫茶の、仕掛け人たちだ。
「やっぱりチャイナで正解だったろう」
 おたくその一が、『花とゆめ』から顔を上げて、胸を張った。
「あの頭の両側のお団子が、なんとも」
「いや、ゴスロリ風のメイド服だったら、あと二割は集客できた」
 おたくその二が、ノートパソコンから顔を上げて反論した。
 おたくその三は、茂にはなんだかよくわからないものを両手でこねくり回しながら、顔を上げずにつぶやいた。
「……三つ編み。……膝丈ジャンスカ紺。……ルーズ不可」
 おたくその一が、不思議そうにその三にたずねた。
「それじゃ、校則のまんまだろう」
 その三は、なんだかよくわからないものをこね続けながら、顔を上げてニタリと笑った。
「……眼鏡、全員着用のこと」
 ちなみにこの三人は、ふだんの教室でも、出席番号順に「おたくその一」「おたくその二」「おたくその三」と呼ばれている。実際、ある無遠慮な教師が授業中「おい、そこのおたく」と呼んだら、三方向から同時に「はい」という返事が聞こえたという伝説もある。逆に「おたく」を省略され、「おーい、その一」「こっちこい、その二」「あっち行け、その三」、そんなときもある。
 もちろん、いくら片田舎でも、今の日本に名前のない人間はいない。番号順に相原、柴田、枕崎であることは確かなのだが、それでは実際三人並べて「柴田はどれだ」と聞かれても、同級生の七割は答えられないだろう。茂同様、とても分別の難しい連中――コンビニ弁当とスナック菓子とペットボトルと缶ビールで酒盛りをやった後の、複合ゴミのような連中なのである。 
「まあ、ヤング・ファミリー層の集客が五割ということは、やっぱりチャイナで正解だったってことだな。阿久津の健闘も馬鹿にならん」
 茂への評価を含めて横溝がシメてくれたようなので、茂は遠慮なく自己主張した。
「腹へった。飯くれ」
 横溝は机の下から、さ、と何かを取り出し、茂の鼻先に突き出した。
 笹である。
 茂はまじまじと横溝を見つめた。
 横溝はたいがいの場合、無表情な公認会計士顔を崩さない。そして今も、そんな顔で茂を見つめ返している。
 ――俺はやっぱり、これを食わなきゃならんのだろうか。
 茂は本気で悩んだ。
「……朝、渡し忘れた小道具だ」
 横溝は無表情のままそう言うと、おたくその三を顎でしゃくった。
「おい、枕崎、阿久津に何か持ってきてやってくれ」
 笹を両手で抱きながら、茂はほっとした。
 その三は軽くうなずいて立ち上がり、なんだかよくわからないものを大切そうに抱いたまま、カーテンの外に消えた。
 その三がいつも抱きかかえているなんだかよくわからないものは、茂もクラスの連中も常々気になっているのだが、誰も正体を聞けないでいる。なんとなく、その三の内的世界そのものに、深く関わってしまいそうな不安があるからだ。一度こっそり突っついてみた奴によれば、『ぷよぷよ』のような感触だったと言うが、そもそも『ぷよぷよ』に触ったことのある奴が、この世にいるのだろうか。
 ――そうか、あいつが枕崎だったのか。そうすると、残りのどっちかが相原で、どっちかが柴田なんだよなあ。
 そのふたりも椅子を立ち、茂の背中に回って、後ろ頭の人造毛皮に隠されたファスナーを、ごそごそやってくれている。
 リアルタイプなので、頭がすっぽり外れたりはしない。首筋の上あたりで、三本のファスナーがT字形に交わっている。その横の短い奴を左右に開き、さらに縦方向のいちばん長いファスナーを尻まで引き下ろし、蛹から羽化する蝶のように――茂の場合、蛾とか良く言っても蝉だろうが――抜け出して、ようやく自由になれる。
 茂は狭いパンダ頭の中で、待ちきれずにぐりぐりと肩を回した。
 パンダでいる間も、半開きになった口からけっこう風は入るのだが、やっぱりいつも洞窟の奥から外をながめているような視界は、自分の長い人生を暗示しているようで、けっこう肩がこる。
「おいこら、動くな」
 どちらかのおたく、推定その一が言った。
「あり?」
 推定その二が、奇妙な声を上げた。
「どした?」
 ふたりともいっしょになって、後ろ頭でファスナーをがしがしやっている。
 上下左右に激しく揺すられながら、茂はなんだか嫌な予感に捕らわれた。嫌な予感とその的中という事態に、茂はこれまでの人生で慣れきっている。
 やがて予感どおりの声が、後ろから聞こえた。
「だめだ」
「取れね」
 ――ああ、やっぱり。
 横溝も立ってきて、がしがしに加わった。
 やがて、落ち着きはらった声で断言する。
「ここまで噛んじまうと、ファスナー壊すか、切開するかだな」
「壊してくれ。切開でもいい」
 茂は当然そう哀願したが、横溝の返事はなかった。
「……弁償させられるか」
 その一が不安そうにたずねた。
「いや、その点は契約時に保険に入ってるから、最悪でも自己負担分五千円だけで問題ない。おい、柴田、ここんとこマクロで撮っといてくれ。四面から全身像も」
「はいな」
 おたくその二が、自分のいかにもおたくらしいショルダーバッグから、いかにもおたくらしいスタイリッシュな一眼デジカメを持ち出した。
 茂はちょっと安心した。
 ――そうか、こいつが柴田だったんだなあ。じゃあ、少女漫画が相原なんだ。
「ほい、マクロ完了」
 その二は液晶画面を確かめ、今度は茂のまわりを巡りながら、何度もフラッシュをたいた。
「目線ちょうだい、パンちゃーん。――ぐるっとな。――はい、パンダ、萌え萌えー」
 好き勝手にのべたあと、また液晶画面を確かめ、満足げにうなずく。
 茂は横溝に、ぬい、と鼻先を突き出した。
「……出して」
 もし尻尾も動かせたら、ふるふると振っていただろう。
 横溝は会計士顔のまま、茂の肩にぽんと手を置いた。
「却下」 
 ベニヤ板越しの楽しげな賑わいが、遥か彼方に遠ざかって行った。
 茂の耳から、すべての音が消えた。
「…………なして?」
「今パンダを解剖してしまうわけにはいかんのだ。一見モノホンのパンダがいてこその、売上ペースなんだからな。チャイナ・ドレスだけじゃ、ファミリーがほとんど客層から欠落する。おそらく損益分岐点も越えられない」
「そんなもん、クラスの連中にカンパでもなんでも――」
「茂君」
 横溝は初めて、姓ではなく名前を呼んだ。
「一頭のパンダのために、すべての民衆に増税を強いることはできない」
 横のふたりも、無情にうなずいている。
「と言うわけで、明日の学祭終了まで、君、ずっとパンダ」
 茂はフリーズしてしまった。
 頭の中のカーソルが動かない。『Ctrl』+『Esc』も、『Ctrl』+『Alt』+『Delete』も、反応しない。まるで頭が小学生の頃のパソコンになってしまったようだ。
 しかしそのフリーズも、長くは続かなかった。なぜなら茂のこれまでの人生自体が、その程度のプログラムで作動していたからだ。
 茂はあっさり頭の中のリセットボタンを押して、再起動した。
 ――パンダでいいじゃないか。阿久津茂などというぬくもりに不自由な男であるよりも、黙っていてもかわいい女子が抱きついてくれる、リアル・パンダで。そう、今日と明日はお祭なのだ。
「はい、おまたせー」
 おたくその三、確か枕崎という奴が、表から焼きソバとウーロン茶を運んで来た。あのなんだかよくわからないものは、学生服の胸からはみだしている。
 洞窟のむこうに、紙皿と紙コップが差し出された。
 ――そう、とりあえず腹をふくらませて、祭の続きはそれからだ。
 茂は、元気よく手を伸ばして――再フリーズしてしまった。
 焼きたての湯気を遮るように、ふたつの巨大な肉球が、洞窟の入口で震えている。それはそれで触るとぷくぷく気持ちの良さそうな肉球だが――パンダはどうやって箸を持つのだろう。
 ぽん、と誰かが肩を叩いて、ふう、と横溝のため息が聞こえた。横溝には珍しく、感情のこもったため息だった。

     ★        ★

 ――あのパンダさんに、もういっぺん、頭をなでてもらうんだ。
 そう決心したちっこい姉弟が、両親の目を盗んで、店の奥の『関係者以外の立ち入りはご遠慮ください』と札の下げられたカーテンに、顔を突っこんだ。
 すると、パンダさんは床に四つんばいになって、むさくるしいお兄さんたちから、餌をもらっていた。
 お兄さんの一人が、焼きソバをちょっとずつお箸でつまみあげ、パンダさんのお口に先っぽを入れてあげると、つるつると残りが吸いこまれて行く。
「あ、パンダさんが焼きソバ食べてる」
 まだ保育園の弟は、すなおに喜んだ。
 ――パンダさんは僕とおんなしで、焼きソバが好きなんだ。
 しかし来年小学校に上がる予定の姉は、ちょっぴり心配になった。
 ――これは何か違うんじゃないかなあ。こういう光景は、弟のきょういくのために、よくないんじゃないかなあ。
「……へんなの。パパンダは、タケヤブが好きなんだよ」
 パンダさんはあわてたようにこっちを向いて、床から笹を取り上げて、はりはりとおいしそうに食べ始めた。
 そんなパンダさんを、むさくるしいお兄さんたちは、なんだか頼もしそうにうなずきながら、笑って見守っていた。





  Act.1 【パンダは夢を見る】


「じゃあ、ちょっと他の出し物の偵察に行ってくるか」
 そう言って横溝が伸びをすると、
「じゃあ俺も」
 その一とその三が、いっしょに立ち上がった。
「俺はここのホメパゲ組み直してるから」
 その二だけは、自前のノートパソコンを忙しそうにいじくりながら、上の空で答えた。
 パンダは壁にもたれて座りこみ、ウーロン茶のカップを大事そうに抱え、ストローをくわえてちゅうちゅうやっていた。肉球のある手のひらは、箸を持つのは不可能でも、水分補給にはあんがい不便がない。
「飲んだらまた外でがんばってくれよ」
 横溝がカーテンをくぐりながら言うと、パンダはすでにまた環境に順応してくれたらしく、こくこくとすなおにうなずいた。
 その一は『花とゆめ』を椅子に残して行ったが、その三はなんだかよくわからないものを、相変わらず抱きしめたまま出て行った。
 ――あのなんだかよくわからないものは、どう見てもなんだかよくわからないけれど、よっぽど大事なもんなんだろうなあ。
 パンダ、いや茂は、ちょっと感心しながら見送った。
 残ったおたくその二は、ノートパソコンにPHSをつないで、ネット作業に夢中のようだ。
 ――えーと、こいつは柴田だったよなあ。あれ、相原だったかな。しかし、なして俺はこいつらの仲間ということになっちまったんだろう。
 その柴田あるいは相原であるはずのその二は、液晶画面をながめたまま、なにやら意味ありげな声を、茂パンダに投げかけた。
「おやおや阿久津君、またひとり君のファンが増えましたよ」
 そうそう、その画面がそもそもの元凶なのだ。
 茂は紙コップをつぶしてしまわないように気をつけながら、のそりと立ち上がり、ストローをくわえたまま、その二の肩越しに液晶画面を覗きこんだ。
 シンプルな青い空と白い雲。このクラスのホームページの、共通壁紙だ。そしてその真ん中に、トップページや案内板のロゴやテキストではなくて、部外者でも書きこめる雲形の吹き出し、つまり伝言板が浮かんでいた。

   >【あっくん】様

   あなたのお書きになった『だからぼくは泳げない』というお話は、
   とっても悲しいけれど、やさしくてきれいなお話ですね。
   ホントのお話なんですか?
   それとも童話みたいなものですか?
   私はほんとのお話だったら、かわいそうだけどなんだかいいな、
   なんて思ってます。
   あっくんもまた、泳げるようになるといいですね。
   あっくんなら、ぜったい大丈夫だと思います。
   イラストの子猫ちゃんも猫耳ちゃんも、とってもかわいいです。
   いっしょに見ていたお友達に、
   あなたに似てる、なんて言われちゃって、
   とっても嬉しかったです。
   でももしかして、ほかにモデルさんがいたりするのかな、なんて。

                             【段ボールの子猫】

 茂もすごく嬉しいのである。少なくとも、こうしたカキコがもらえた時点では。
 もともとは去年の夏、いまだにカナヅチでプールに入れないのをみんなにからかわれたとき、悔しまぎれに書いた作文だが、実はけっこう本心からノって書いたものだし、イラストの方は、横溝たちが今年HPを立ち上げたとき、かなり気合を入れて、フォトショップとペインターを駆使して描き下ろしたものだ。
 もちろんそんな高価なソフトは、ただの高校生が自力で買えるはずもない。それではどうやってそれらを手に入れたのか。まあそれらのソフトは、ソフトそのものの出荷数の何十倍も入門書が売れてしまう不思議なソフトである、とだけ説明しておこう。
 で、カキコしてもらった時点ですごく嬉しいことが、なぜ全ての元凶なのか。その原因は、イラストの方の猫耳娘のファッションにあった。
 茂としては、段ボールに入った子猫の頭を、少女型の猫がいい子いい子してやっている、そんな純かわゆい路線を狙ったつもりだった。ところが絵心が未熟だったものか、それとも内心の邪念がモロに出てしまっただけなのか、作者以外の男子たちの目には、ほとんど全裸に近い少女の猫耳コスプレ、としか映らなかったのである。
 もっとも教師やPTAやクラスの女子たちは、単にかわいらしいイラストとして評価してくれたようだから、実際には、作者を含めた男子生徒全員が邪念のカタマリだった、それだけのことなのかもしれない。
 どっちにしろ、これはこの田舎ではまだまだ珍しい『おたく』という奴に違いない、そんな判断が、主に男子たちによって、茂本人に下されてしまったわけである。さらに間の悪いことに、本物のおたくらしい横溝一派もそれを認めてしまい、何かにつけて茂に誘いをかける。今回のパンダ化にしてもそうだ。
「こーゆーのは、すぐに返信してあげると、好感度高し」
 その二がノートパソコンをさし出したので、茂はまた壁を背に座りこみ、お腹の上にパソコンを置いて、ぽこぽことキーを打ち始めた。
 真中あたりの爪を使うと、パンダでもキーボードは使えるのだ。

   >【段ボールの子猫】様

   僕の情けない話と、へたくそなイラストをほめてもらって、
   ありがとうございます。
   駄文の方は、本当の話です。
   小さい頃溺れた話も、それから何度か見た夢も、僕の体験談です。
   イラストのほうは、そのときの子猫や、
   いつか僕が夢の中でその子猫を助けてあげることができたら、
   こんなふうに大きくなることもできるんじゃないか、
   そんな想像で描きました。
   だから両方とも、同じその子猫がモデルということですね。
   あなたが本当に段ボールの中の子猫だったら、
   あなたがモデルさんなのかも知れません。
                               【あっくん】

 さて、パンダのあっくん、正式名称・阿久津茂は、伝言板に無事返信が掲載されたのを確認すると、のっしのっしと教室を横切り、廊下に戻った。
 昼飯休憩の間に、例のパンダ座りがあんがい楽なのがわかったので、壁を背にしてでろんとたれてみた。
 そのポーズで小道具の笹をはりはりしていると、午前中よりも「きゃあきゃあきゃあ」「めんごい」などの好評価が多いし、「ぷくぷくだよ、ほら、おなか、ぷくぷく」などのタッチやハグも、使いきりカメラや携帯でのツーショットも増えたようだ。ただ、いつのまにかちっこいのが脚の間に座っていたり、腹の上に飛び乗って来たり、頭めざして登ってくる回数が増えたのはうっとうしかった。
 ――まあ、クッションは充分効いているから、気にしなきゃあいいか。
 茂は食休みをかねて、当分くつろいで過ごすことにした。腹がふくらんだので、少々眠くもある。
 ほの暗いパンダの胎内でうとうとしながら、茂はさっきのカキコのことを考えていた。
 イラストに関するあれこれはともかく、駄文のほうも思いがけず好評なのは、ちょっと複雑な心境だ。内容がほとんど事実のまんまだけに、かなり恥ずかしい気もする。
 ちなみに茂の書いた駄文の中身とは、おおむねこんな体験談だった。

     ★        ★

 茂がまだ三つか四つくらいの頃である。
 ある春の午後、神社の境内で近所の子供たちといっしょに遊んでいると、どこかから猫の鳴き声が聞こえてきた。それがまだほんの小さな赤ん坊の声みたいだったので、仲間といっしょにあちこち探して歩くと、神社の縁の下に段ボール箱が捨ててあり、その中で一匹の白い子猫がなーなー鳴いていた。
 小学生の大きい子が、
「これは、腹がへったと言ってるんだ」
 と通訳してくれたので、とりあえず一番近所だった茂が家まで駆け戻り、店先の外売り用の焼き鳥を何本かくすねて来て、子猫に食わせてみた。
 ほんとうはまだ牛乳か何かのほうが良かったのかもしれないが、それでも子猫はいっしょうけんめい、はぐはぐと焼き鳥を食べてくれた。
 やがて食べ終わると、子猫は口のまわりや手の先をぺろぺろ掃除したあと、茂の顔を見て、ちょっと首をかしげ、一声鳴いてみせた。
「なー」
 たぶんお礼を言ってくれたのだろう。
 それがあんまり殺人的にかわいかったので、茂は思わずくりくりと、子猫の頭を撫でてやった。子猫はくすぐったそうに、小さな頭のやたらと目立つ大きな耳を、ぴくぴくと震わせた。
 仲間たちはそれを見て、みんな微笑を浮かべながら、なぜだかほろほろと涙をこぼしていた。
 下は三歳六ヶ月から、上は九歳四ヶ月までの幼児や児童でも、こういった子猫や子犬のあどけないしぐさを見てしまうと、女の子なら「ああ、きっとこの子は生き別れになっていた私の子」などと、自分で産んだ赤ん坊のような気になってしまうし、男の子なら「おお、こいつは俺が守ってやらなければ、きっと駄目になってしまう」などと、保護本能に目ざめてしまうものなのだ。
 当然、その夜あちこちの家で、異種養子縁組に関する相談が、子供の側から持ち出された。しかし残念ながらどの家でも、居住環境やら家の商売やら、両親と猫科生物の性格の不一致やらが障害となって、縁組は成立しなかった。
 茂の家でも、「食い物商売に、猫の毛と匂いは不可」、「散らかすのも泣くのも、お前ひとりで充分」、そんな両親の強硬な意見に、わずか四歳未満の被扶養者としては、反論するすべもなかった。
 そして翌日、てんでに焼き鳥やらソーセージやらシャケやらをくすねて縁の下に潜りこんでみると、もう段ボール箱も子猫の姿も消えてしまっていた。
 まあ、凶悪なまでにかわいい子猫だったから、きっと誰か拾って育ててくれるのだろう――そうあきらめて、みんなでいつものように遊んだ、その帰り道でのことである。
 家が同じ方向の何人かといっしょに、駅近くの川にかかる橋を渡っていると、誰かがすっとんきょうな声を上げて、川の上流を指さした。
 見覚えのある段ボール箱が、夕方の蜜柑色に染まりかけた川面を、ぷかぷか流れてくる。そしてその中では、あの子猫が、「ちょっとこまったなあ」と言うような顔をして、きょときょとあたりを見回している。
 茂たちはパニックに陥ってしまった。
 町外れの小川くらいだったらいくらでも飛びこめるが、その川はちょっと下ると最上川に合流して、やがて日本海にたどり着いてしまうくらいの大物だ。水源の蔵王方面はちょうど雪融けの頃で、水かさもあるし、流れもけっこう速い。
「どうしようどうしよう」
「おまわりさん呼ぼう、おまわりさんどこ」
「ああ、沈んじゃう沈んじゃうよう」
 そんなことをあたふたと言い合っているうちに、段ボール猫はもう橋のすぐ近くまで流れて来ていた。
 子猫は確かに茂のほうを向いて、また首をかしげてみせた。鳴き声は遠すぎて聞こえないが、「なー」に違いない。これは通訳してもらわなくても、「あたち、ちょうっと、こまっちゃってるみたい。おにいちゃん、どーしよう」だろう。
 さて、そのとき茂は、はたして何を決断したのか。
 何も決断しなかったのである。
 茂の優柔不断は、その頃から筋金入りだった。「たいへんだあたいへんだあ」と橋の欄干によじ登り、「どーしよどーしよ」と身を乗り出しているうちに、足がすべって段ボール方向にまっさかさま、それが正直なところである。
 実はその頃には、茂も田舎の子供なりに、なんとか泳ぎを覚えていた。物心ついた頃から、川遊びで水には慣れていたし、プールも海も、平泳ぎなら一〇メートルくらいはクリアしていた。だから、落ちてしまったこと自体にはびっくり仰天したものの、じたばたと段ボール箱までたどり着いて、子猫を頭にのっけるくらいまでは、なんとかなった。
 頭の上に小さなぬくもりの塊を乗せて泳ぐのは、苦しいけれど、気持ち良かった。頭にがしがし食いこんでくる子猫の爪も、まだ元気な証拠で、とても嬉しかった。
 それでも、やはり雪融けの大河の中ほどから、幼児が平泳ぎで岸にたどり着くのは、体力的に不可能だ。
 最後に波に呑まれるとき、薄れてゆく意識の中で、腕の中の子猫に「ごめんごめん」と謝っていると、子猫がなにか返事をしたような気がしたのは、気のせいだったのだろう。
 それから何分か、茂は「これが地獄という奴か」と思われるほどの肉体的な苦痛を、おもに肺に流れこんでくる水によって味わった。
 それでも必死で、子猫を水の上に上げてやろうとがんばったのだが、次に意識が戻ったとき――川で小型船舶教習中のクルーザーに救い上げられ、指導員の人工呼吸で息を吹き返したとき、子猫はもう頭の上にも腕の中にもいなかった。もちろん、川の上にもいなかった。
 そうしてそれから数日の間、茂は「これが地獄か」と思われるほどの精神的な苦痛を、幼な心に味わいつくした。そんなこんなで、茂は当分水に入る意欲を失ってしまったわけである。
 まあ、それだけならば、幼い日のちょっとキツめのトラウマとして、いつのまにか思い出の中に、人生の隠し味的にアレしてしまう、そんな程度で済んだのかもしれない。ところが、この虎だか馬だかは、茂の人生の中に時々ひょっこり顔を出して来て、なかなかアレさせてくれないのである。
 たとえば小学一年の夏、学校のプールを前に、茂は久しぶりに飛びこんでみようと決心した。いつまでも水に入れないでいては、ピカピカの一年生として、世間にツブシが効かないだろう。しかし、水が全身を包んだとたん、なにかとんでもないパニックに襲われ、泳ぐ前に気絶してしまった。
 夢の中で、茂は暗い夜の川を泳いでいた。まわりには燈篭流しの揺れる光がいくつも浮いていて、自分といっしょに流れていた。
 きれいだなあ、などとのんきに平泳ぎで進んで行くと、あの忘れもしない段ボール箱が、少し前の燈篭の間を流れているのが見えた。その縁には、あの忘れもしない白い子猫の前足がちょこんと乗っている。小さな白い耳もふたつ、その後ろに覗いている。しかし段ボール箱そのものは、すっかり水を吸って、今にも沈んでしまいそうだ。
 茂はあわてて泳ぎを速め、その箱を追いかける。追いつくのは簡単なのだ。だからじきに「……おっす」「なー」と感激の再会を果たし、子猫を頭に乗せて、岸を目ざしてまた泳ぎ始める。
 しかし結局、岸はあまりにも遠い。というより、岸そのものが見えない。だから流れに横に逆らって、いつか岸に着くのを望みながら、必死に泳ぐ。そのうち力が尽きてしまって、夜の黒い水をごぼごぼと吸いこみながら、茂はまた猫だけは息をさせてやろうと、できるだけ川面にさし上げたりしたのだが――目がさめると、そこは保健室のベッドで、色々な大人はいたが、猫はいなかった。
 二度目は、中学一年の夏だった。
 そろそろ女子のスクール水着が、なにやらまぶしく見え始める年頃なので、茂は久しぶりに、プール再デビューを志した。
 しかし、小学校のときのように派手に失敗しては、あんまりみっともない。そこで学校の水泳授業が始まる前に、わざわざ郊外の遊園地のプールに出かけた。さらに念のため、お子様向きのろくに深さのないほうで、おっかなびっくり体を横にして、水に沈めてみたのだが――ちびっ子たちのまん丸お目々に見送られながら、見事に救護室に運ばれてしまった。そのとき救護室で見た夢も、まったく昔と同じで、ただ自分が図体ばかり大きく育っているだけだった。
 高校に上がって、すでに茂はプール再デビューの意欲を捨てている。
 弁解させてもらえれば、それはけして水が恐いからでもなく、溺れるのが恥ずかしいからでもない。自分が今さらどんなドジを踏んだところで、それはせいぜいニュー・フェイスおたく、相原だか柴田だか枕崎だか阿久津だかが踏んだドジであって、他人の目など気にする必要はもとからないのだ。
 ただ、目がさめたとき、あの白い子猫が結局腕の中にいないとわかったときの喪失感――自分が無意味な透明人間にでもなってしまったような、とてつもない虚しさ――それを今度また喰らったら、それこそ自分の体にしこたまウェイトをくくりつけて、二度と浮かび上がれない川底にダイブしてしまいそうな気がする。
 まあ、さすがにそんな情けない心境を書くのはちょっとアレだったので、HPの駄文は、こうしめておいた。

『またいつか僕があの夢を見ることがあったら、なんとかあの子猫を岸まで運んで、コンビニに連れて行って、一番高い猫缶を買ってやって、腹いっぱい食わせてやりたいと思う。あの焼き鳥を食わせてやったときの「なー」がまた聞けたら、またきっと僕は、これからどこまでも泳いで行けそうな気がするのだ。』

     ★        ★

 ――まあ、泣かせ系としては、確かに女子ウケするのかもなあ。
 うとうとはりはりしながら、茂パンダは思う。
 ――でも、さっきのカキコの【段ボールの子猫】ちゃんだって、【あっくん】の実物を見せてしまったら、どうせまたあーゆー顔になって、結局かわいそうな思いをさせてしまうんだろうなあ。
『あーゆー顔』とは、どんな顔か。
 それは、三年四組のHPが横溝一派によって立ち上げられた今春、【あっくん】を訪ねてわざわざ来てくれた別のクラスの女子や下級生たちが、実物に出会ったときに、例外なく見せた表情だ。『去りゆく夢』『した後悔よりしなかった後悔』『やはり野に置けレンゲ草』――最後はちょっとちがうかもしれないが、まあ、そんなような顔だ。
 いっそ茂が力いっぱい不細工で、思わずノートルダムの鐘をついてしまいそうなタイプだったりしたら、『理性を超える意外性』といった方向から、少数でも固定ファンがついたかもしれない。しかし残念なことに、茂は何度も言ったように、とことん薄い顔をしている。わざわざ会いに来てくれた女子たちのうち、忘れっぽい女子は自分の教室に帰るまでの間に、記憶力に恵まれた女子でも翌朝起きた頃には、【あっくん】のルックスをきれいさっぱり忘れてしまっていたのである。
 いっそこのままパンダとして一生を過ごすのはどうか。ちょっとお年頃の女子の波は引いたようだが、ちっこいのはちっこいので、なかなかめんごいもんだし――茂は半分本気でそんな夢想をしながら、いつのまにかまたお腹にすりすりしているさっきの姉弟を、いい子いい子してやった。そのうち両親に呼ばれて、なごり惜しそうにばいばいする二人に、茂も笹を振ってばいばいして見せた。
「あのう……」
 頭の斜め上のほうから声がかかったのは、そんなときだった。
「阿久津さん……ですか?」
 ちょっと鼻にかかってやんわりとした、なんとも耳あたりの良い声だ。
 こんな女子の声は聞いたことないなあ、また【あっくん】探しかな――そう思って顔を、いや、正確には口を上げると、いきなり柔らかそうな少女の喉もとがアップになった。廊下の窓からの日ざしを受けて、産毛が白く光ったりしている。
「は、はひ」
 思わず声が裏返ってしまった。
 さっきまで見慣れていた野郎たちの無精髭とは、えらい違いだ。
 なんだか神社の境内の白桃の花のような顔が、緊張ぎみに茂のおでこのあたりを、いや、これも正確にはパンダの目を覗きこんでいる。軽く七三分けにしたまるまっこいショートカットが、生まれたまんまのすなおな黒で、触るとさらさら気持ち良さそうだ。小ぶりの鼻のてっぺんがちょっとだけつんとして、思わずつっついてみたくなる。
「【あっくん】さんですよね?」
「は、はひ」
 ――ああ、本当にパンダで良かった。こういうかわいい女子を、いきなりがっかりさせないで済む。見たところまだ中学か、高校ならせいぜい一年。でも、こんな制服は、このあたりで見たことないぞ。深緑のブレザーと、チェックの膝丈スカート。白いソックスは、ちょっと子供っぽく足首まで折り返し。でも、ふくらはぎあたりはすんなり伸びて、やや大人ぎみ。
 ――うんうんうんうん。
 茂が思わず錯乱ぎみにうなずいていると、女の子はポケットからかわいいピンクの携帯を取り出し、ちまちま打ってから、その液晶画面をパンダの目の前にさし出した。
 ――おお、袖口真っ白、キティちゃんの腕時計とってもキュート、ぶらぶら揺れてるストラップもキティちゃん。
 茂は引き続き嬉しく観察しながら、おずおずとパンダの口もと、つまり自分の目を指さしてみせた。
 ――うーん、ちょっと天然入ってるかも。でも、女の子はこんくらいとっぽいほうが、かわいいかも。
「あらやだ、あたしったら」
 あわてふためく声と共に、液晶画面が視界まで下りてきた。 
『>【段ボールの子猫】様 僕の情けない話と下手糞なイラストをほめてもらって、ありがとうございます。』
 さっき入力したばかりの返信が、iモード表示で浮かんでいる。
 茂がぽかんとしてたれたままでいると、液晶画面が引っこんで、また女の子の顔が現れた。
 まだ緊張の解けない自分の顔を、これこれ、と言うように指さしている。
 そのさらさら髪の頭から、ぴょん、と、いきなり何かが生えてきた。
 それはどう見ても、思わずつっついてぴくぴくさせたくなるような――ふたつの白い猫耳だった。
 ――は?
 ぽかんとしていたところに、さらに超自然的な光景を見せられて、茂は思わずつぶやいた。
「……耳」
 今度は女の子のほうが、不思議そうな顔をした。
「耳?」
 茂はこくこくとうなずいた。
 女の子は不思議そうな顔のまま、手を伸ばしてパンダの耳をくりくりと撫でた。
「……かわいいお耳ですね」
 そーゆー問題ではないのだ。確かにずいぶんかわいいが、持ち主が違う。
 茂も思わず手を伸ばして、肉球でその女の子の白い猫耳をくりくりと撫でた。
 自前の肉球ではないので、手触りはよくわからない。ただ残念なことに、期待していたぴくぴく反応はなかった。
 女の子もようやく気づいたらしく、あわてて自分の頭に手をやって、おろおろとそのかわいい耳をいじくり始めた。
「あらやだ、あたしったら。着けたまんまで来ちゃったんですね」
 揺すったり引っぱったりしている。
 ――ああ、やっぱりこれは生えてるんじゃなくて、くっついてるだけなんだなあ。
 茂は安心しながらも、ちょっと残念に思った。
「さっきまでリハーサルしてたんで……あうあう、取れない」
 そのまんまでもいいんじゃないかなあ、そう茂が言う前に、女の子は力まかせに白耳を引っぱって、それから梅干のように顔をしかめた。
「あだだだだだだだ」
 目じりに涙が浮かんでいる。
 ――これはちょっとではなくて、かなり天然かも。
 女の子がしゃがみこんでしまったので、上から見るとその耳の正体がわかった。カチューシャ、というよりも、ヘアバンドの要領で固定された根もとから、白い耳が生えていた。根もとに何か可動部品が仕掛けてあって、ぴょこんと耳が起き上がる仕組みらしい。その可動部分に、自前のさらさら髪がからんでしまっているのだ。
 茂はパンダ腹の隠しポケットから、ハンカチを引っぱりだした。
 女の子はすみませんすみませんと言いながら涙をふいて、それからふと手を止め、そのハンカチの柄を見つめた。まんまる目のたれぱんだが、ぐったりたれている。
 女の子はちょっと首をかしげながら、茂パンダの腹を、しげしげとながめまわした。
「……四次元ポケット、ですか?」
 茂パンダはこくこくとうなずいた。なんとなく、そうすることがこの場合、最も正しいように思えたのだ。
「すごおい。――ごめんなさい。洗ってお返ししますね」
 ハンカチを胸の前でもじもじさせながら、上目づかいに謝っているそのお顔は、なんとも言えず育ちが良さそうで、茂は思わずふるふると首を振った。
 ハンカチなどと言うものは、自分の汗を吸ったものでもかなりうっとうしいし、もし他の男子の汗など吸っていたら、それは汚物だ。しかし、こーゆー女の子の涙を吸ったハンカチなら、それは新品よりも推定百億倍の価値があるのではないか――茂はブルセラおやじと同じ次元に堕ちていた。
 茂は自分のパンダ腹を、ここ、ここ、と指さした。
「……いいんですか?」
 また必殺の上目づかいを繰り出す少女に、茂は激しくこくこくした。
「すみません」
 女の子は畳み直したハンカチを、えい、と見当をつけてお腹に戻そうとした。
「あれ? あれ?」
 四次元ポケットを探すように、ぱふぱふと努力を繰り返している。
 かなりではなく、ほぼ天然なのかもしれない。
「……あげる」
 茂はなぜだか、心の底から幸福感に満たされていた。
「いいんですか?」
 さっきから首をかしげて見せる、そのしぐさ。
 ――そうか、俺はだからこんなに幸せな気持ちになれるんだ。
「ありがとうございます。それじゃあ……」
 女の子は花のように笑いながら、胸ポケットからサインペンを取り出した。
「サインしていただけますか?」
 茂はまた激しくこくこくして、そのペンを受け取ろうとしたが――焼きソバのときと同じように、呆然と自分の肉球を見つめた。
 女の子は、あらら、とつぶやきながらその手を取って、パンダ手の指のわずかなすきまに、サインペンを挟んでくれた。
「三浦優美、って言います。ゆみちゃんへ、なんて書いてくれると、とってもうれしいです」
 茂は舞い上がりながら、優美が手のひらに広げたたれぱんだの横に、必死でペンを這わせた。そのサインペンのキャップにも、腕時計や携帯と同じ、くりくりお目々のキティちゃんが付いていた。
『あっくんより、ゆみちゃんへ』――雨上がりのミミズのようで、『へ』のあたりはたれぱんだの顔にかかってしまったが、色がピンクだから、それほどみっともなくはない。
「ありがとうございました。ずっと大事にしますね」
 そう言って、本当に大事そうにハンカチをポケットにしまうと、また花のように笑っている。
 茂は思った。
 ――ああ、この人になら、あげてもいい。……って、逆だ逆。まあそれが、俺みたいなヘタレもんの高望みだとしても、できることなら死ぬまでこうしていたい。
 そんな茂の夢を打ち砕くように、優美は腕時計を覗いて、あわててぺこりとお辞儀をした。その拍子に、頭の猫耳がぴょこんと揺れた。
「すみません。そろそろ本番の準備なんです。終ったら、また来ますね。阿久津先輩」
 廊下を去ってゆく優美の後ろ姿を、茂は夢心地で見送った。
 ――先輩。俺、阿久津先輩。
 せんぱーい、せんぱーい、せんぱーい、せんぱーい――テキストのポイントサイズが変えられないのが残念だが、茂の耳には、優美の最後の甘い声が、いつまでもリフレインしていた。
「『……しあわせなんて ほんのひととき』」
 いきなり左から、ず太いささやきが聞こえた。
「『まるで舌《した》のさきにのこる ジャムひとさじの甘さ……』」
 茂が仰天して振り向くと、おたくその一が、いつのまにか隣にしゃがみこんでいた。
「田淵由美子先生作『マルメロ・ジャムをひとすくい』より引用。集英社発行『りぼん』昭和五〇年三月号所載。りぼんマスコットコミックス『あのころの風景』昭和五十七年四月二〇日第一刷発行に収録。選集・文庫等で現在も入手可能。『先輩』で検索するなら、太刀掛秀子先生の『なっちゃんの初恋』もお薦め」
 なにやら呪文のようなものをぶつぶつつぶやいている。
「『猫耳』で検索するなら、なんといっても大島弓子先生の『綿の国星』が至上」
 ――だから俺には、なんのことやらわからないんだってばよう。
 茂が甘いリフレインを絶たれた怒りに震えていると、今度は右から、別のか細いささやきが聞こえた。
「……千葉県○川市、私立国分台女学院冬服」
 いつのまにか反対側に、おたくその三も、なんだかよくわからないものを抱いてしゃがみこんでいた。
「お前ら、どっから涌いた?」
 もはや怒り続ける気力もなく、茂はたずねた。
 おたくその三は、黙って床板を指さした。
 ――そうか、こいつらなら、いつのまにか床板のすきまから涌いても、不思議じゃないかもなあ。あとは、庭石の下からうにょうにょ這いだしてくるとか。しかしくじけないぞ、俺は。
 茂は脱力しそうになる心を奮い立たせようと、優美が去って行った廊下の奥をながめた。
 すると、優美は思ったよりのんびり屋らしく、まだその後姿が見えていた。
 奥の階段に曲がる角で、こちらを振り向き、ひらひらと手を振ってみせる。
 茂もひらひらと手を振り返す。
 おたくその三が、いっしょになって手を振りながらつぶやいた。
「……かわいろっぽい」
「なんだ、そりゃ」
 茂がむっとしてたずねると、今度はおたくその一のほうが、やはり手を振りながら答えた。
「『かわいやらしい』の過去形」
 ――こいつらとは、学祭が終ったら早めに縁を切ろう。
 茂はそう固く決意していた。
 廊下の奥の優美は、茂の両脇に増えてしまった異物を、ちょっと不思議そうな顔でながめていたが、やがて気を取り直したのか、にっこり笑った。そして、またぴょこんとお辞儀をすると、猫耳のまま階段に消えて行った。
「……未来形もある」
 聞きたくねえ、とさえぎる前に、おたくその三が続けた。
「……『かわいんらん』」
 これにはさすがにむかっときた。
 かわいろっぽいのは確かだ。時と場合によって、かわいやらしくなってくれてもいいかもしんない。しかし、未来形は失礼だろう。あの娘は絶対、そんなタイプじゃない。第一、その三があの娘に目を付けること自体、こいつのふだんの主義主張に反している。
「あの娘《こ》は眼鏡かけてないぞ」
「……問題ない」
「なして」
「……白の折り返し、完璧」
「ルーズだって似たようなもんだろう」
 その三はなんだかよくわからないものをぎゅっと抱きしめ、なぜだか激しく首を振った。
「……ルーズ不可!」
「だから、なして」
「……ルーズだと、逃げる」
「何が?」
「……折り返しの中に、隠されたもの」
 茂が意味をつかめないでいると、その三は何かに取り憑かれたようなまなざしで、その場にふらふらと立ち上がった。
「……宇宙空間に満ちる、愛のエーテル」
 それから廊下の窓の外の青空に向かって、ぱあっと両腕を広げた。
「それは……ファンタジー!」
 茂は思わず腰を引いた。
 これはもう、自分の踏みこんでいい世界ではない。
 俺は絶対これからも平凡に生きていこう――そう茂は決心していた。
 ――それにしても、なんでこいつが両手を広げているのに、あのなんだかよくわからないものは、ふわふわと宙に浮いているんだろう。





  Act.2 【パンダは野を駆ける】


 横のふたりは言いたいことだけ言った後、床板のすきまに――いや、教室の中に帰って行った。
 また一頭に戻れたパンダは、ほっと壁にもたれて笹をくわえた。
 ――まあ、その三はともかく、その一の言ってたナントカ先生の引用は、当たってるのかもしれんなあ。『……しあわせなんて、ほんのひととき』。
 阿久津先輩が実はパンダ級の個性派ではなく、その他大勢の分別しにくい男子だとわかったとき、あの三浦優美という娘は、それでもあのハンカチを大切にしてくれるだろうか。
 茂は、ふとパンダ指の間に挟まったままのキティちゃんに気づき、ごそごそと腹の隠しポケットに、大切にしまいこんだ。
 ――俺がパンダでいられるのは、明日の夕方までだろう。残された時間は、せいぜい二十数時間だ。また来てくれると言ってはいたが、ただここに座って待っていたのでは、限られた時間があまりにもったいない。
 茂はあまり良くない頭で、善後策を練り始めた。
 おたくその三によると、あの娘の着ていたのは千葉のナントカ女学院の制服だ。でも、自分を『先輩』と呼んだ。ということは、外来者ではなくて、最近来たばかりの転校生かもしれない。前にも急に転校して来た生徒が、こっちの制服の仕立てが間に合わなくて、しばらく違う制服を着ていたことがある。どっちにしても、あのかーいいお耳が『リハーサル』や『本番』のためだとしたら、これからどこかの教室、あるいはイベント用の体育館で、なにか出し物を始めるに違いない。校内を片っぱしから当たれば、その出し物はきっと見つかるはずだ。
 茂はどっこいしょと立ち上がり、さっき優美が消えていった階段のほうに、のしのしと歩き始めた。
「こらこら、茂君、どこへ行く」
 ぐい、と体が後ろに引っぱられた。
「看板生物が勝手にうろついてはいけない」
 偵察からもどったらしい横溝が、パンダの尻尾をつかんでいた。
「えーと、その、トイレ」
「君はその体で、どうやって排泄するつもりだ」
 ――言われてみれば、なるほどなあ。
「考えてやろう。奥に来い」
 横溝はそのままずりずりと、パンダを教室に引きずりこんだ。
「あ、パンダがいぢめられてる」
「かわいそー」
「きゃあかわいい」
 様々な声を浴びながら、茂パンダはずりずりとカーテンの奥に連れこまれた。
 横溝はそれほど腕力は強くなかったから、逃げようと思えば逃げられたのかもしれない。しかし茂本人も、昼飯で飲んだウーロン茶が効いてきて、ここいらで余分を出しておかないと今後の活動にさしつかえる、そう判断したのである。
「おう、そっちはどうだった」
 おたくその二が、相変わらずノートパソコンをいじりながら、横溝にたずねた。
「ちょっと待て。パンダが尿意を催したらしい」
「おう、それは盲点だったな」
 横溝は教室の隅に転がっていた、コーラの五〇〇ミリリットルの空ボトルを拾い上げた。
「これだな。茂君、腕はなんとかなるんじゃないか」
 確かにリアル・タイプだけに、ずんぐりした胴体の中身は、空洞部分が多い。
 茂は、よ、は、と、などとつぶやきながら、なんとかパンダの腕から自分の腕だけ抜き出した。
「ほら食え」
 横溝はペットボトルを、パンダの口に押しこんだ。
 自分の口ではないものの、いかにもつらそうなパンダの顔を想像して、茂は思わずうめいてしまった。
「あがががが」
 それからしばらくの茂の苦闘に関しては、あえて詳しい描写は避けたほうがいいだろう。
 なにやら節操のない水音を聞きながら、おたくその二は言った。
「大のほうはどーすんだ?」
 茂は世界の終末を予感した。そう、いつかは恐怖の大王が降臨する。それも一九九九年に間に合わなかったぶん、思いきり根性入れて。
「……やーねえ、男子って、これだもの」
『花とゆめ』に完全没頭していたその一が、ず太い声でつぶやいた。
 横溝は慌てず騒がず、
「ビニールの携帯トイレを食わそう。ティッシュもいるな。心配するな、茂君。後でマツキヨで買ってきてやる」
 ふるふると首を振りながら、命尽きるまでこらえよう、そう決意する茂だった。
 まあ落ち着いて考えれば、そう根性入れるほどでもない。もともとそれほど代謝のいい体質ではないし、これから何も食わなければ、明日の夜までなら楽勝だろう。
「さて、トイレが済んだらまた頼むよ、茂君」
 横溝はパンダの脱臼した腕を、ぶらぶらもてあそびながら言った。
「二時から――あと三〇分か。ちょっと強敵が始動する」
「やっぱり、演劇部か?」
 その二がノートパソコンの液晶画面を、他の連中に向けた。
『峰館《みねだて》商業演劇部・国分台女学院演劇部合同公演・ミュージカル【猫の森には帰れない】・於・体育館』――そんなカラフルなロゴが踊っている。
「まあ、うちの演劇部も一応全国コンクールまで出てるし、レギュラー・セミレギュラー級はダンス・レッスンまでやってるからな。この国分台ってとこは、関東一位だ」
 おたくその二はいかにも事情通らしく、すらすらと解説した。
「それに、うちは学祭じゃ外部プロ禁止だから、演劇部でも表向き宣伝しちゃいないが、どうも向こうにはプロも混じってるらしい」
「プロ? その話は聞いてないな」
 横溝の目が鋭く光った。
「ああ。上の実行委員会からクレームはいるから、黙ってたんだろうな。当日んなって気がゆるんだみたいで、さっき情報が入った。まあ、正確には予備軍だ。劇団『季節』の練習生だとよ。向こうの演劇部の中に、四・五人くらいいるらしい。でも練習生ってっても、『Cats』くらいは踊る連中だろう。初日はこらえても、明日が問題だ。こういうのは、口コミであっという間に広がるからな」
 横溝は腕組みをして考えこんだ。
「……今日が二時から約二時間、明日が十時と二時の二回公演。スナック・タイムがモロにかぶるな。昼のゴールデン・タイムはしのげるとしても――いかん、足が出る」
 そんな会話を聞きながら、茂はペットボトルから引き出したナニモノかを、あわててトランクスにしまいこんでいた。
 ――国分台女学院。あのとっぽさと年頃から見て、主役ってことはないだろうが、とにかく優美ちゃんはその舞台に立つのだ。
「あ、じゃ、俺、前でがんばってるから……」
 後ずさりを始めたパンダを、横溝はにやりとにらんだ。
「待ちたまえ、茂君」
「……いや、ほら、俺ががんばんないと」
「まだ時間はある。トイレ食ったまま戻る気か。ゆっくり吐き出してからでいい」
 それから横溝は、おたくその一とその三を振り返って言った。
「相原、枕崎、どっかからロープを調達してきてくれ」
 おうよ、とばかりにふたりが立ち上がった。
 ――いかん、このままでは、いかん。
「……ファイアー!」
 パンダはその口から、勢いよく流線型のミサイルを発射した。
 呆然とする横溝たちの目の前で、それは教室の空間に、世界の終末を予感させる弾道を描いた。
 でん、という景気のいい音が床に響いた。
 それから流動性のナニモノかが、派手にはね散らかる音が続いた。
 なにしろ手探りでやった仕事だから、キャップの締めが甘かったか、斜めの半開きだったのだろう。
「ぎゃあ」
「なんてことを」
「死ぬ」
「……えんがちょ」
 その他もろもろの悲鳴を残して、茂パンダは一目散に駆けだした。

     ★        ★

 けっこう混雑している学祭中の廊下を、でででででと疾走するパンダは、その後を追うおたく状の男子たちともども、行く先々でけっこう注目をあびた。その意味では、飲茶『ヨンクミ』の広報活動として、充分な成果を上げたかもしれない。
 パンダは脱臼した両腕をインナースペースから治療しながら、必死に駆けた。
 途中、多くの生徒や外来のお客様、休憩中の子泣き爺、お岩さんとパンク野郎、バルタン星人などを跳ね飛ばしてしまったような気もするが、パンダの腹は最良のショック・アブソーバーなので、あっちにも怪我はなかったはずだ。二年棟で仮面ライダー龍騎十三人揃いをドミノ倒しにしたときは、思わず勝利の咆哮を上げてしまった。パンダ、無敵。
 ちなみに茂パンダは、あくまで世を忍ぶ仮の姿なので、首はあんまり回らない。茂の頭と発泡スチロールのパンダ頭蓋は、中でヘッドギア状に固定されているが、外の素材の関係で、斜めを向くのがせいいっぱいだ。それ以上首を回すと、体もいっしょに回ろうする。
 それでも角を曲がるついでに、時々後ろの具合を確かめると、まともに追跡してくるのは横溝ひとりのようだ。他の三人は、振り返るたびに、ひとりまたひとりと消えてゆく。その理由も、茂にはおおよそ想像できた。
 たとえばその一は、三年一組のアンドレとオスカル様のつがいの誘惑には、かろうじて打ち勝った。
 しかし二年五組で、セーラームーン・セーラーマーキュリー・セーラーマーズ・セーラージュピター・セーラーヴィーナスが全員揃って「食べてかないと、おしおきよ!」と中から声をかけると、食いたくもない『銀水晶みつまめ』『黒水晶おしるこ』『虹水晶あんみつ』目ざして、迷わずその甘味処に飛びこんでしまった。横溝がいくら「帰ったら月に代わっておしおきよ!」などと叫んでみたところで、当分出てこないだろう。
 その二は今さら二年三組のネット喫茶などに、興味を覚えるヤワなおたくレベルではなかった。
 しかし一年四組で、奇妙なフリルに縁取られたミニ浴衣《ゆかた》の三人娘に声をかけられると、思わず立ち止まってしまった。
 色違いのゴスロリ浴衣――ネットでその存在は知っていたが、現物を見るのは初めてだった。
 その二はすかさず反転し、もとの教室目指して、びゅん、と瞬消してしまった。デジカメを取りに戻ったのだ。
 実を言えばその浴衣自体は、『邪道ゴスロリ』と分類したのだが、その三人娘のうちの真ん中の一番背の低い女子が、ソフトブラウンのドールカールのウイッグに黒リボン、白の薄手のオーバーニーでキメていたため、彼としては常連の画像掲示板で展開しているゴスロリ理論のテコ入れのために、どうしてもその画像が必要だったのである。
 残るその三は、けっこうしぶとかった。
 彼にとってはいつもの校内のほうが、よほど幸せだからだ。
 現在残念ながらソックスの折り返しは流行っていないが、コンタクトが体質に合わず、眼鏡でがまんしている女子は多い。もちろん近づく度胸も近づいてもらう可能性もないが、落ちついてこっそり観察するには、静かな環境が一番だ。
 ――ああ、学祭、早く終ればいいなあ。
 そう思いながら、その三は横溝に続いて、茂パンダを追跡し続けた。
 ところが玄関口近くを通り過ぎたとき、市内のミッション系中学の女子たちが数人、その三の目に止まった。
 ミッション系は、学外でもしっかり校則が優先する。全員きっちり三つ編みでジャンスカで白の折り返しで、さらに神様のおぼしめしか、ほとんど全員が眼鏡をかけていた。古風な鼈甲《べっこう》フレームの少女まで混じっている。彼がこの世で最高の眼鏡だと信じているタイプだ。
 当然その三は、摩擦熱で廊下を焦がしながら急停止した。そして、眼鏡の鏡玉《レンズ》やソックスの折り返しから漂う愛のエーテルに導かれるまま、そのとてつもなく地味ーな一群――彼にとっては最も高貴な一群の後に、なんだかよくわからないものを抱えたまま、アブナイ足取りでついて行ってしまった。
 そして誰もいなくなった――。
 と言いたいところだが、いくら商業高校でも、学祭でエクセルネタの芸をやったり、マテリアルフローコスト会計の講習会を開催したりする物好きはいない。だから横溝だけは、わき目もふらず脱走パンダの追跡を続けている。
 ――いかん、このままでは、開演前に捕獲されてしまう。
 茂はあせった。
 このまま引き離したところで、行き先は体育館に決まっているのだ。今、正面入口からのこのこ入って行ったら、じきにその場で捕獲されるに決まっている。
 ここはなんとかふり切って、校舎裏の雑木林に逃げこみ、そのまま体育館の裏手に回り、開演直前までそこに潜伏するのはどうだ。体育館は正面以外にも、いくつも入口がある。裏には非常口もある。開演と同時に横溝のいない入口から突入すれば、いくらあいつでも、上演中に中で騒ぎを起こすほど馬鹿ではないだろう。
 ――うん、決まり。だったら、とにかく一度は、この粘着質の会計野郎をまかないと。
 廊下の角を、特殊教室棟に向かってだだだだだと曲がった直後、茂はあることを思い出した。
 ――あそこだ、あそこしかあるまい。
 美術室の隣の、電算実習室。
 今日明日は無数の催事で大量の女子が衣装替えするために、いつもの女子更衣室だけでは足りず、たしかコンちゃん部屋が、臨時の女子更衣室になっているはずだ。
 少し遅れて角を曲がってくる横溝の気配を確かめながら、茂はまっしぐらにその教室を目ざした。
『臨時女子更衣室・入る前は必ずノックしてね・男子はノックしても立入厳禁』と、扉に大きな張り紙がしてある。
 ――うん、パンダはOK。
 今は俺、阿久津茂じゃないもんね、などと虫のいい判断を下して、茂は思いきり扉を開け放し、どどどどどとその中に駆けこんだ。
 そこではパソコン・デスクとほとんど同数の女子たちが、ちょっとけっこうなソノモノや、かなりけっこうなアノモノや、あんましけっこうでもないKONISIKIタイプのクセモノなどを、お花畑状態でいろいろナニしていた。パンダ口の視界だと、ちらちらとしか見えないのが残念だが――いや、いけないいけない。浮気してはいけない。
 予想どおり、きゃあ、という華やかな悲鳴が上がった。
 しかしこれも予想どおり、それ以上に危なそうな悲鳴は上がらなかった。あくまでもただびっくりの悲鳴であって、中にはこんな状況でさえ、「きゃあ、めんごい!」などという嬉しい声も聞こえる。
 ――リアルパンダ、無敵。
 茂は、や、や、や、と愛想を振りまきながら、反対側の扉に向かって駆けた。
 直後、なんとも表現しにくい絶叫が、後ろで爆発した。
 これが、さっきまでと同じ、やーらかそうな生物たちの声だろうか。
 サイトBあたりで自然繁殖した、ティラノサウルスの吠え声ではないのか。
「この」「馬鹿」「ケダモノ」「くぬやろ」「変態」「死ね」などという雄たけび――正確には雌《め》たけびに、何か肉のはじけるようないやーな音が何度も重なり、それに混じって「ひい」「ちが」「ごめ」「すみま」「死ぬ」などという横溝の声も、かすかに聞こえてくるような気がする。
 ――このまま逝ってしまうかもしれない。
 予想以上の惨劇に震えながら、茂パンダは自由に向かって走り続けた。

     ★        ★

 校舎裏の雑木林は、それほど深くない。
 油断すると校舎側から見つかってしまいそうで、茂はいっぺん林を抜け、裏の河原まで足を伸ばした。
 川はあの日よりもずいぶん穏やかだ。遠い蔵王連峰からの雪融け水は、とっくに日本海に流れて行ってしまったのだろう。
 その同じ川の上流を流れていた、遠い日の子猫。
 その苦い思い出に、サインまで求めてくれた優美という少女。
 白い耳がぴょこんと生えた頭を、軽くかしげてみせるしぐさ。
 茂はその三と違って、宇宙空間に満ちる愛のエーテルも、ファンタジーも信じてはいない。そんなものがこの世にあるのなら、なぜあの子猫は自分の手を離れて、どこかへ流れて行ってしまったのだ。しょせんこの世界は、阿久津茂などというちっぽけな存在とは、無関係に流れているのだ。
 ――すべてがただの偶然の寄せ集めならば、その偶然がいくらかでも俺に味方してくれている間、俺はあの娘を見つめていたい。
 背中にしなびた老人のような哀愁を漂わせて、河原の岸にしばらくたたずんでいたパンダは、やがて腰を上げ、のそのそと林に戻って行った。
 体育館の裏手の林から、用心深く鼻面を突き出してみる。
 窓は暗幕に覆われて、中のざわめきはちょうど鎮まってきているところだ。
 横溝もおたくたちも見当たらない。
 ――よしよし。
 茂は手近な入口に狙いを定め、ダッシュの準備体勢に入った。ステージからは一番遠い位置になってしまうが、この際ぜいたくは言えない。
 いかにもそれらしい劇場のような、開演のベルが響いた。
 パンダは明日に向かって駆け出した。
 ――あの扉の彼方には、希望の光が――。
 そして金属製の扉がまさに目前に迫ったとき――げし、と足払いを喰らって、パンダは扉の前の石段に、ばこ、と顔面から激突した。
 自前の鼻ではないので、鼻血は出ない。それでも鼻が思いきりひん曲がってしまったような気がして、茂は思わずうりうりとパンダ鼻を撫でさすった。どうやら無事のようだ。
「……君の考えることくらい、見通せないでどうする、茂君」
 ずいぶん顔の変わった公認会計士が、扉を背に立ちはだかった。
 ――おお、横溝、生きていたか。
 茂は悔しがるよりも、よくこいつはこのボコ顔で冷静にしゃべれるもんだ、と感心してしまった。
「おとなしく戻ってくれれば、何もしないよ、茂君」
 妙に優しい猫なで声だ。
 しかし横溝の腫れ上がったまぶたの奥には、何かいやあな色が浮かんでいる。
「明日の夕方までおとなしくしていてくれれば、ちゃあんとパンダもバラしてやろう」
 ――こいつは絶対、「あ、手もとが狂った」などと白々しく言いながら、中身もいっしょにバラすつもりに違いない。
 ここはひとまず戦略的撤退を――そう判断して茂が身を翻すと、行く手におたくその一が、しゅた、と立ちはだかった。
 あわてて左右を見回すと、その二とその三も、どこからかしっかり復活している。
「……お、お前ら、どっから涌いた」
 その一はにやりと笑って、天を指さした。
 その二もにやりと笑って、地を指さした。
 その三はそれらしい場所をふたりに取られてしまったので、きょろきょろとあたりを見回してから、ちょっと自信なさそうに、石段と地面の境目あたりを指さした。
「……てめえら、人間じゃねえ」
 茂が思わずつぶやくと、横溝はふてぶてしい笑いを浮かべた。
「人間としての誇りなど、さっき臨時更衣室に捨ててきた」
 完全に目がすわっている。
「できれば活きのいいパンダが欲しかったが、ま、この際、剥製でもかまわん」
 ――うーむ、やっぱり、なにかとってもアレな目に遭ったらしい。
 思わず後ずさりするパンダを、おたく三人衆がじりじりと包囲する。
 しかし、危機一髪――。
「何やってんのよ、うっさいなあ!」
 ドスの聞いた女子の声とともに、いきなり内側から扉が開いた。
「あう」
 よほどダイナミックな開け方だったらしく、石段の横溝は軽々と宙に舞った。
 そのまま落下したらまた怪我の増えそうな勢いだったが、幸い飛んだ先は、パンダの腹だった。
「おお」
「ナイスキャッチ」
 おたくたちの賞賛を聞きながら、茂が扉の主を確かめると、それは最近どこかで見たような女子だった。
 このKONISIKIタイプの巨漢、いや女子は――そうだ、さっきパソ部屋で見かけた、クセモノの持ち主。
「あんたら、もう始まってるんだからね!」
 横溝はちらりと後ろを振り向いて、またすぐにパンダの胸に顔を埋めた。
 こわいようこわいよう、などとつぶやきながら、雨に打たれた子犬のように震えている。
「あれ? あんたら――」
 横溝はびくりと硬直し、あわててパンダの後ろに回りこみ、ぐい、とその背中を、力の限り女子の前に押し出した。
「ですからさきほど申し上げましたようにみーんなこいつが悪いんですすみませんけして私はあなたさまがたの高貴なお姿をこの目で汚そうとしたわけではないのであってすみません許して下さいすみませんみーんなこいつが悪いんです信じてくださいお願いですからすみません」
 ――うーん、俺はこいつの人生に、重い十字架を背負わせてしまったのかもしんない。
 さすがにちょっと反省した茂の顔を、KONISIKI、いや女生徒が、じろりとにらんだ。
 現在の体格では互角と見たが、立ち会えば重量差の壁は厚い。
 ――しかし俺は、男として、やはり責任を負うべきだろう。
 茂は決意した。
 ――武器。パンダの武器。パンダは大熊猫――猫。そうだ!
 茂は真正面から対戦力士、いや女生徒を見つめ、全身全霊をかけて、かわゆく小首をかしげた。
「がう?」
 さすがに「なー」は不自然だろうと思ったのである。
 女生徒はしばらく不審そうに茂を見つめていたが――やはり茂の計算どおり、リアルパンダのかわいこぶりっこは、すべての女性に麻薬的な作用を与えるらしい。
「きゃー、めんごいめんごい。おいでおいで、中でめんごいの見ようよ」
 ――うん、パンダ、連戦連勝。
 呆然と見送る横溝たちを後に残し、茂パンダは自分と同じ大きさの影に続いて、のしのしと暗幕をくぐった。





  Act.3 【猫たちの踊り】


 救世主のKONISIKI嬢は、幸いなことにパンダを抱えこんだりはしないで、扉のすぐそばの折りたたみ椅子に腰を下ろした。
「ごめんね、立ったままで平気?」
 前評判のためか、空いた椅子はなく、立ち見も大勢出ている。
 いやもうおかまいなく、永遠におかまいなく、それにしても頑丈な椅子ですね、などと口には出さず、茂は立ち見に混じって、後ろの真中あたりの壁に背中をもたれた。
 もう話はけっこう進んでしまってしまったらしく、幕開きのツカミとか、細かい話の事情はわからない。
 明るい外から急に入ってきたので、夜のシーンらしく抑えた照明の舞台も、なかなかはっきり見えてこない。
 舞台上から響いてくる、演劇特有の良く張った、ちょっと気恥ずかしいくらいデフォルメされた声を聞いていると、どうやらその村から昔家出してしまった若者たちが、街から戻ってくるのでどうのこうの、といった話らしい。
 ようやく舞台の夜が明けて、ちゅんちゅんちゅん、と雀の声が響き始めた。
 茂は演劇など、学校の行事や演劇教室でしか観たことがなかったのだが、その舞台セットには思わず感心してしまった。
 ――ほほう、やるなあ。
 小さい頃にテレビで観ていた、世界名作劇場の田舎の森のようだ。つまり、全然写実的ではないのに、まるで本物の森のような空気感がある。上手《かみて》だか下手《しもて》だかどっちだか忘れてしまった右のほうにあるログハウスなども、丸太ではなくただの板とわかっていながら、やっぱり丸太で組まれた家に見える。
 その家の小さな扉が開いたので、茂は目を皿のようにして、パンダ口からその登場人物を見守った。
 ――ああ、優美ちゃん優美ちゃん、いきなり出てくるってことはないだろうが、それでもやっぱり優ー美ちゃん。
 さて真っ先に姿を現した、もこもこしたロシアのマトリューシカ人形みたいな村娘、そのお顔は――やったあ、パパ、今日はホームランだ。って、俺はいったいいつの生まれだ。
 白いウイッグをつけているが、自前と同じようなショートカットなので、すぐに見分けがついた。それにあの猫耳は、さっき廊下で見たまんまだ。
 とととととと反対側のほうまで駆けていって、舞台袖の奥――たぶん森の外をしげしげと見渡し、ああ、つまんない、そんなそぶりで中央に戻り、
「おにいちゃん、遅いなあ。昨日の夜には帰ってくるはずだったのに、もう六年も村に帰ってないから、道にまよっちゃったのかなあ」
 ――シナリオはちょっとオソマツみたいだが、許す。これじゃ台詞じゃなくてナレーションだが、優美ちゃんの声だから、みーんな許す。ざーとらしいポーズも演出が悪いんだから、優美ちゃんは悪くない。とにかく優美ちゃんが出てるんだから、ぜーんぶ許す。
 つまり茂も、あんなイラストを描いてしまうだけあって、立派なおたくなのである。
 自分ではおたくだと自覚していなくとも、駅前のツタヤから、とっかえひっかえ大昔のカルピスファミリー劇場や世界名作劇場を借りてきて、〈フローネ以降はイマイチ、演出はハイジ・三千里・アンの高畑勲最高、場面設定は当然世界の宮崎駿、シナリオはハイジの佐々木守完璧、でも嫁にするなら鶴ひろみさんのペリーヌ、ただしペリーヌんときはまだ雨冠《あめかんむり》付きの鶴、で、ハイジみたいな娘ができたら至福の家庭〉――いくら当人が否定しても、こーゆーのを世間ではおたくと呼ぶのである。
 さて、残念ながら舞台のほうは、他の登場人物――いや、全部猫だから登場猫物が現れ始めると、優美ちゃんはあくまでも脇役で、それほど出番も台詞も多くないのがわかった。主役の一匹である青年猫シロの、妹のチビ。
 ストーリー自体が、どうも青年猫とその仲間、つまり都会に家出してしまった猫たちのUターン・ギャップや、都会でのそれぞれの経験が本筋らしい。確かにうまいあちこちの踊りも、そのむさい男連中がメインで、優美ちゃんはたまにからむ程度だ。
 それでも茂は充分幸せだった。廊下で見たときもかわいかったが、あの舞台用にメーキャップしたお顔の色っぽさなど、『かわいやらしい』の寸止めだ。
 結局茂パンダは、二時間弱を通しで立ち続け、心ゆくまで優美ちゃんウォッチングを楽しんだ。
 芝居全体は、牧歌的ほのぼのミュージカルちょっとスパイス入り、そんな感じで、無事に大団円を迎えたようだ。茂にはあちこちクサすぎると思えたシナリオも、けっこう受けていたらしく、女性客の多くはハンカチで顔をぬぐっている。本気印の拍手が鳴りやまず、席を立つ観客もいない。そのあたりが、全国コンクール級の実力なのだろう。
 ――ああ、いい舞台だった。特に三浦優美というバイプレーヤー最高。もっともそれ以外、ほとんど覚えてないけど。明日もこれが二度も拝めるのだ。まあ、その前に横溝をなんとか始末しなければならないが。何かいい手はないか。あのトラウマをうまく利用したり――。
 茂がそんな思案を始めたとき、一度閉まった幕が、するすると開き始めた。
 お決まりのカーテンコール、そう思って、また優美ちゃんを求めて顔を上げると――おう、と客席中がどよめいた。茂も思わず、ほう、とつぶやいた。
 絶妙な早変わりだ。
 そこにはすでに村猫あんちゃんたちも村猫娘たちも消えて、きわめて洗練された個性派の猫たちが、きわめて洗練された数々のスポットライトの下、きわめて洗練された彫像のように、それぞれの待ちポーズをキメていた。
 それぞれの猫顔は、舞台での三毛や虎や斑《ぶち》や黒や白を引き継いでいるが、布製のしゃれた仮面に変わっている。本編の田舎っぽい衣装も、全身タイツのような体のラインを生かしたものに変わっていて、雄猫たちは見事にひきしまり、雌猫たちはおそろしく色っぽい。
 うめえ――茂は息を飲んだ。
 ここがいつもの体育館とは、信じられない。以前県民ホールで劇団『季節』が公演したとき、地方局のTVスポットでしつこく流れた、ミュージカルの予告シーンにそっくりだ。
 客席も息をひそめて、次の瞬間に始まるはずの、何かすばらしい光景を期待している。
 そしてイントロのゆるやかなストリングスに乗って、猫たちはしなやかに体を伸ばし――ドラムとベースが一気に入った瞬間――中央の雄雌各五匹が、文字どおり空中に飛翔して、弧を描きながら交差した。
 これはまるで――武富●ジャンプ。
 夢か、と茂は思った。
 もちろん、訓練しだいで生身の人間もそんな動きができることは、テレビや映画で知っている。しかしその手の技は、特別な人間がそれらしい所で展開するもので、まさか峰館商業の体育館まで出張してくるとは、思ってもみなかったのだ。
 ――なまんだぶなまんだぶなまんだぶ……念仏唱えてどうする、俺。
 その現実離れしたステージは、それから十分近く続いた。
 もっとも、音楽そのものに耳が慣れてしまうと、ちょっと現実的なところも見えてきた。
 確かに全員、根性でお見事に踊っている。全員八十点以上なのは間違いない。しかし、やっぱりそれはほとんどがアマの根性の踊りで、ちょっとした動きの変わり目に、「どっこいしょ」的な苦労が見えてしまう。最初に●富士ジャンプを披露した一群も、雄猫五匹は踊っているうちに息切れしているのがわかった。あれはまあ間違いなくうちの同輩や後輩連中だから、いくらレッスンやっても、しょせん峰館踊りだろう。
 結局、あの雌猫ちゃん五匹が、その二の言ってたプロ予備軍なのだ。どんな動きをどんな速さでこなしても、きちんと流れが繋がっている。内心息は切れているのかも知れないが、体の外には健やかな動きしか見せない。そしてまた、あの絶妙なサイズのバストと、きゅっと締まったウェストと、大きすぎる寸止めでバランスのとれたヒップライン。
 ――この世界には、あんな神々しい生き物も生息していらっしゃるのだ。それがなにかの間違いで、こんな東北の片田舎まで降臨されているのだ。ひええ、なまんだぶなまんだぶなまんだぶ……。
 茂は結局、心の中で両手を合わせて拝んでしまったが――いかーん!
 ――い、いかん。俺はそんなもののために死地を逃れて来たのではないのだ。おおお、俺はけして浮気心を起こしているんじゃありません、ほんとです優美ちゃん。
 茂は立派な浮気心を振り切って、バックの群舞の中に優美の姿を探し求めた。
 ――ありゃりゃ。
 白猫が数匹入り乱れて、どれがどれだかわからない。みんな似たようなマスクを着け、同じように踊っていて、白耳ぴょこぴょこむぴょこぴょこ、どれがあの娘かわからない。
 ――おーい、お顔を見せてくれよう。誰だ、こんな紛らわしい演出した奴は。おい責任者、出てきてそこに座れ。
 茂はさっきまでその演出に感嘆していたことも忘れ、舞台を行きかう元気な白猫たちを、おろおろと目で追い続けた。
 しかしそんな努力も虚しく、どうやら音楽はクライマックスに近づいていた。
 めいっぱい盛り上がったところで、あの五匹の雌猫たちが、オープニングよりもさらに見事なハイジャンプを決めてみせる。雄猫たちがいっしょではなかったところを見ると、始めから実力に合わせた振り付けだったのだろう。
 絶賛の歓声と拍手を浴びながら、その五匹は四つん這いになって、舞台中央までしなしなと這ってきた。優雅に立てた尻尾を、どういう仕組みなのかゆらゆら揺らしながら、しなやかに背中を反らせて歩くその姿は、完璧なお年頃の猫だ。
 浮気はしないと誓いながら、茂はやっぱり「なまんだ」まで唱えそうになってしまった。
 ――ああ、あの右から二番目のおねいさん猫も、白なんだよなあ。でも、全然タイプ違うしなあ。
 カーテンコールというより、こっちが本編だったのかもしれない。とにかく合同公演一回目は、大成功に終ったようだ。今度こそ幕が引かれてしまっても、なかなか客が引かない。あの正義のKONISIKI嬢も、パンダなど忘れて、隣の痩せた小柄な男子と仲良く手に手を取り合い、興奮気味にしゃべり合っている。
 ――うーむ、結局最後は見失ってしまった。でも、まだチャンスはある。「終ったらまた来ます」、そう言ってくれたんだからな。教室に戻ろう。まだ俺には充分時間が残っている。
 気を取り直した茂パンダが、出口の方を振り向くと、いつのまにか、また見たくもない奴が四人ばかり、ずらりと並んで突っ立っていた。まるで縁日の射的屋の、誰も狙わない最下段の置物のようだ。
 茂はもう驚かなかった。こいつらは、きっと人目につかないあちこちの暗い陰に、いつも潜んでいるものなのだ。光あるところには、常に影がある。
 ――それにしても、なんで今度は襲ってこないんだろう。
 茂はちょっと身構えながら、横溝たちの顔色をうかがった。
 すると四人が四人とも、なんだかうるんだ目の下に幅広の不安定な平行線を浮かべて、その平行線の間を、とめどなく液体が流れ落ちている。
 ――た、滝涙。
 思わずパンダが腰を引くと、横溝たちは、ぽつりぽつりとうわ言のように、なにやらつぶやき始めた。
「……猫」
「……耳」
「……猫耳」
「……ねこにゃん」
 異議はない。異議はないが、しかし、あんまり無節操ではないのか。
「――お前ら、ほんっとに、節操ないのな」
 おたくたちは出席番号順に答えた。
「問題ない。『綿の国星』、至上」
「問題ない。『猫耳』、ネット検索語ランク、常に上位。ゴスロリ併用可」
「問題ない。眼鏡の代わりに猫耳、それは……ファンタジー」
 ――まあこいつらは好きにやっててもらうにしても、横溝までが、なぜ。
 そんな疑いの視線を感じたのか、横溝は不気味にうるんだ目を茂パンダに向け、その両肩をがしりと両手でつかんだ。
 横溝はわなわなと震えていた。
「……フェチという概念は、枝葉末節から事物の根幹へと遡るための、極めて着実な手段ではないのか、茂君。神は細部に宿る、とも言いますね、茂ちゃん。猫耳という存在がなぜかくも我々の心の琴線に触れ、星のたてごとを全宇宙にポロロロロロンとかき鳴らしたり響かせたりするのか……それは我々男の心の深奥に潜む『原女性=アニマ』が、あの猫という愛らしくも不可解かつ蠱惑的で追いかけるとにゃうっとか逃げてしまうくせにふと気づくといつしかボクの膝の上であたしの世界はあなたの膝の上だけなのよみたいな顔でまあるくふにふにと安らかに眠っていたりしてまあなんというかかーいいかーいいああねこにゃんねこにゃん、というような至高の生物に仮託されたものであって、『いつかきれいなきれいなお姫様がきれいなきれいな馬車に乗ってボクの前にあらわれ、優しくキスしてくれるんだ。そのときボクはこんな醜いアヒルの子からきっと凛々しい白鳥の王子様になって、お姫様といっしょにそうしてふたりは一生幸せに暮らしましたとさ、とんとん。』というような場合のお姫様の頭からかーいいかーいいお耳がぴょこん、などというのは駄目ですか虫良すぎですか暗すぎですかすさみすぎですかああっっ!」
 茂パンダの肩にがしがしと指を食いこませながら、一気にまくし立てる横溝の滝涙は、そのうち血の涙に変わりそうだ。
 ――ああ、横溝が壊れてゆく。
 茂は、つくづくパンダで良かったなあ、生身だったら確実に、俺の肩は今ごろ砕け散っているなあ、などと、的はずれな感慨にふけった。
 ……まあ、こいつらには永遠に壊れていてもらうことにしよう。そのほうが、何かと楽そうだし。
 そう気を取り直して教室に戻ろうとしたとき、茂の耳に、甘く懐かしい声が聞こえてきた。
「阿久津せんぱーい!」
 ――そう、先輩。俺、阿久津先輩。
 茂パンダは、声の聞こえたステージのほうに、ふわりふわりと向きを変えた。
 ――えと、優美ちゃん……あれ、いないなあ。
「やだあ、先輩、もう観られちゃったんですか?」 
 ――ありゃりゃ、声はすれども姿は見えず。白いなまんだぶ様が、タオルで顔を拭きながらとととととと駆けてくるみたいだけど、ちょっとあーゆーお方は、次元が違い過ぎだしなあ。浮気はいかんよなあ。えと、優美ちゃん、優美ちゃんは……。
「本番初めてだから、あんまり自信なかったんです」
 ――おお、なまんだぶ様は、もうマスクを外していらっしゃる。
「うまく踊れたら、明日観てもらおうと思ってたのに」
 ……うひゃあ!
 パンダは思わず万歳ポーズになって、でん、と後ろの壁に張りついた。
 ブレザーだと、お胸のサイズがわからなかったのだ。
 廊下でたれていたので、ほんとの背丈もわからなかったのだ。
 マトリューシカ的村娘衣装だと、ウェストもおヒップ様も隠れてしまっていたのだ。
 ――こ、こりは……ありか? いいのか? 
 ふるふると首を振りながら壁にへばりついているパンダを見て、優美はちょっと心配そうに、小首をかしげた。
「――やっぱり、へたくそでした?」
 パンダはさらに激しく、顔が半透明に流れるほどぶんぶんと首をふった。
「うふふ、良かった。ほんとは自分でも、今日はうまく踊れたかなあ、なんて」
 太陽のように笑う優美の頭に、白いお耳が揺れている。
 こくこくうなずくパンダの中で、茂もまたどうどうと滝涙をたれ流していた。
 なまんだぶなまんだぶなまんだぶ――。

     ★        ★

 なまんだぶを十数回ほど唱え終わったあたりで、残りの四匹の雌猫さんたちも、華やかなオーラを漂わせながら、優美を追うようにやってきた。
「なになに? これが優美の言ってた、カナヅチさん?」
 先頭の一番大きい黒猫様が、クールな美顔には似合わない、豪快な低音で言った。茂はなんとなく宝塚の男役スターを連想した。
「そうなんです!」
 優美は嬉しそうに答えた後、ちょっと言いわけっぽい口調で、
「――でも、カナヅチじゃないです」
 黒猫様はおかしそうに優美の頭をぽんぽんと叩き、それからパンダの顔をしげしげと覗きこんだ。
「……ぱんだだ」
 おお、大人の魅力――また浮気心を起こしかけながら、茂はこくこくとうなずいた。
 黒猫様はいきなりパンダの口に両手をかけ、思いきり上下にこじ開けた。
「あがががが」
 反射的にうめいてしまう茂の顔を、じろじろ覗きこんでいる。
 残りの三毛・斑《ぶち》・虎さんたちも、「へえ」「どれどれ」「あらま」などと、いっしょになって代わる代わる覗きこんでいる。
「……やめれば? ヤワそうだよ」
 黒猫様はあっさり優美に忠告した。
 この場合、当然強く抗議するべきだったのだろうが、茂はすっかり怖気づいてしまって、思わずまたこくこくとうなずいてしまった。
「そんなことない……はず、なんですが……」
 今度は優美が顎に手をかけて、ごめんなさい、と小声で謝りながら覗きこんだ。
 ――ああっ、見ないで。ワタシの恥ずかしい哀れな正体を見ないで。
 ついに目と目が合ってしまい、茂は夢の終わりを予感した。
 ――ああ、砂の器が、崩れてゆく。
 優美は茂のヤワそうな顔をおずおずとながめ回した後、にっこり頬笑みかけて、それからうるさ型のレフェリーたちに、ミス・ジャッジのクレームを入れた。
「そんなことないです!」
 なんだかほんとに嬉しそうだ。
 茂は自分も嬉しがる先に、ぽかんとしてしまった。
 ――優美ちゃん、もしかして、すっげー近視? それとも乱視とか。でも、ちゃんとみんなで踊ってたよなあ。
 黒猫様はにんまりと笑って、
「はいはい、『蓼《たで》食う虫も好き好き』ってね」
「?」
「ありゃ、知らない? じゃあ、これならわかるかな? 『ホレてしまえばアバタもエクボ』」
「そ、そんなんじゃ……」
 ないです、と言いかけて、優美は隣の茂パンダに遠慮したのか、ごにょごにょと口ごもった。
 黒猫様は「わはは」と笑いながら、また優美の頭をぽんぽんと叩いた。
「着替えたら、あとはフリータイムでいいよ。でも、八時までは宿に帰ること。ミーティングやるからね」
「はい!」
 優美が笑顔でうなずいた。
 茂もにっこりうなずきたかったが――俺は?
 外野の様子をうかがうと、横溝と三人組は、舞台の真の主役たちに群がってきている他の生徒たちを、必死に牽制していた。
「はいはいごめんなさいよ!」
「踊り子さんには手を触れないでね!」
「見るだけよ、見るだけ!」
「……おあずけ」
 すでに脱走パンダなど眼中にないらしく、わらわらと踊子さんたちに手をさしのべる臭そうな男子たちに、ケリを入れたりチョップを入れたり奮戦している。
 ――うん、大丈夫だ。あいつらは、一度にひとつ以上の物事を深追いできるほど、頭も良くないし根性もない。俺の頭と同じ程度の奴らだから、間違いない。
 茂の予想どおり、黒猫様御一行が更衣室のほうに引き上げ始めると、横溝たちもその後を追って、ふらふら歩き始めた。どうやら横溝は黒猫様、その一は三毛猫様、その二は斑《ぶち》猫様、その三は虎猫様を慕っているらしい。
 ――って、あれ? 白猫様、もういない?
 優美の姿が見えないので、茂がとまどっていると、
「私、いっしょにお店、お手伝いします!」
 すぐ耳もとで、元気な声が聞こえた。
「だったら、このままのほうがいいですよね?」
 パンダはまた顔が半透明に流れるほど、ぶんぶんとうなずいた。





  Act.4 【パンダのままで】


 モニターやグラビアの中でなく、自分と同じ生活空間でも、少女という生き物は、あんな神々しい姿でいられるものだったのか――茂はつくづく感動しながら、夕暮れの古い街道を歩いていた。
 今、茂パンダと並んで、駅前への道をたどっている三浦優美は、もう初めて会ったときのブレザーに着替えている。だから舞台や教室前の廊下で何度もなまんだぶしてしまったようなところは、そのおとなしい制服に、しっかり封印されている。どちらかといえば童顔のショートカットの下に、あんなスペシャル級のお姿が隠されているとは、まだ信じられないくらいだ。よほど趣味が徹底しているらしく、キティちゃんのポシェットなど下げているから、ますます子供っぽく見える。
 ところで茂パンダは、前にも説明したように、あんまり首が回らない。並んで歩く優美を見つめようとすると、体そのものも横を向いてしまう。
 さっきから何度もよたよたと蛇行して、自分の顔に口を向けようとするパンダに、優美は心配顔でたずねた。
「……大丈夫ですか?」
 足もとがふらついているのだと、思ってくれたらしい。
「着ぐるみって、重くて暑いですもんね」
 ――ああ、お名前どおり、優しくて美しい。
「私もクラブで、兎さんに入ったことあります。もう汗びっしょりになっちゃって」
 ――ううう、汗びっしょりの優美ちゃん。濡れたアンダーウェアが、お体にぴったり張り付いたりして……。
 茂は確かにすっかりのぼせていたが、それはあくまで彼の邪念のためで、東北の初夏の大気は、パンダの腹の中でもそれほど酷くはなかった。
 ――でも、なんでこの娘《こ》は、あんな駄文やイラストに、ここまで愛着してくれるんだろう。
 茂はつくづく不思議だった。
 あれだけで、閉店までコスプレ状態のまま、看板生物の手伝いなど勤めてくれるものだろうか。あれで、横溝たちがそれきり職場放棄してしまった『飲茶・ヨンクミ』の売上は、ずいぶん回復できたはずだ。
 そしてまた閉店後、着替に戻る別れぎわ、「先輩の部屋が見てみたいです」などという、空前絶後史上最高十点十点十点十点十点超ラッキーな言葉を、そのやーらかそうな唇から、もらしてくれるものだろうか。やっぱり俺が、パンダだからだろうか。でも、中身の正体だって、とっくにばれてるはずなのに――。
 それでもなお、優美は約束どおり校門前に駆けてきて、茂といっしょに家に向かっている。
 気の利いたパンダっぽいジョークでもしゃべれればいいのだろうが、残念ながら茂はもともと、女子とはあまり気楽に口のきけない性質《たち》だ。
 聞きたいことは山ほどある。実際いくつで何年生で、どんなものが好きでどんな所に住んでいて、そして将来はアイドル狙いかやっぱり本格派狙いかとか。
 でも、一時間近く教室の前に並んで、看板役を――優美は立派に客引きまでこなしていたが――勤めていたにもかかわらず、茂は結局、まだ彼女の名前と学校しか知らないのだ。それはたぶん、さっきの根本的な疑問が、頭に引っかかったままだからなのだろう。聞いてしまえばすぐなのだろうが、聞いてしまえばそれまでよ、そんなのが恐くて、いまだに聞けないでいる。
 やがて、例の橋や駅前に続く幹線道路に曲がると、車の流れもずいぶん多くなってきた。
 ――あれ?
 不思議の種が、またひとつ増えた。
 さっきから優美ちゃんの斜め後ろ姿を、ずっと視界で追っている。
 遠い関東からのお客が、なんで駅までの道を知っているのだろう。
 こりゃいい話のきっかけが――そう思って口を開こうとすると、優美は急にこちらを振り向いて、体育館のときと同じように、しげしげとパンダ口を覗きこんだ。
「……まだ思い出していただけません?」
 茂はぽかんとして立ち止まった。
 ――思い出すも何も、我が人生に現実の美少女という文字はない。でも仮想ならあるぞ。って、自慢してどうする、俺。
「……ちょっと悲しいかも」
 優美は寂しそうにうつむいて、ひょいと視界から横に反れてしまった。
 そこはもう、あの橋の中ほどだった。
 ちょうど大昔、茂があの子猫を助けに――いや、ただ焦っているうちに、すべり落ちてしまったあたりだ。
 今日もあの日と同じように、夕日の赤に染まりかけた川面は、遥かな山並みに向けて悠々と蛇行している。 
 優美は茂に背を向けて、橋の欄干に向かって、なにやらごそごそやっていた。
 ポシェットから小物を取り出して、顔をいじくっているらしい。
 ――あれ、泣かせちゃったのかなあ。
 心配になっておずおずと近づいた茂パンダに、優美がくるりと振り返った。
 それまで軽い七三分けで、眉や目じりにかかりがちだった前髪を、ヘアピンですっかり横に流している。ますます幼いデコピン顔だ。ついでに両側のショートも、耳の下あたりでさらに短く、おかっぱっぽく両手で隠し――
「……あいざわゆみです。ご本のおにいちゃん」
 ――え、えーと、たしかにこんなデコピンちゃんが、俺の物覚えの悪い頭の中にも……。
「え? え? え? ……もしかして、みーちゃん?」 
 優美は嬉しそうに笑顔でうなずいた。
「ぴんぽーん」
 ――うひゃあ! って、こればっかしや、俺。

     ★        ★
 
 三浦優美ではなく、『あいざわゆみ』。
 阿久津茂ではなく、『ご本のおにいちゃん』。
 なるほどそれで、茂の疑問は一瞬に解けた。
 昔からその他大勢だった茂でも、小学校時代、柄にもなく図書委員を務めた経験がある。小学校五年の頃だ。
 図書委員などというものは、ほとんど図書室の整理係であり、たいがい読書好きの女子などが務めるものだ。しかしそのときは、たまたまクラスの女子がみんな本よりも、跳んだり跳ねたり男子を蹴ったりするほうが好きなタイプだった。そこで昔からものに逆らわない茂が、図書室に蹴りこまれてしまったのである。
 その頃、毎日のように図書室に顔を出す、下級生がいたのだ。まだ一年生か二年生だったと思う。どことなく上品で育ちが良さそうだったが、痩せて顔色が悪く、いつもひとりで本ばかり読んでいるような子供だった。印象に残っているのは広いおでこと大きな瞳ばかりで、それも当時は痩せた白っぽい顔の中で、そこばかり目立っていたからだった。
 そんな弱そうな小さい子供がいると、茂はあんな幼児体験もあってか、ひいきしてしまう性質《たち》だ。ちょっと難しい漢字のある本なども、背伸びして読みたがるそのちびっこに、何度か隣で読み方を教えてやったりもした。茂はひとりっ子だったから、妹ができたようで嬉しかったし、自分でも気づかない内に、そのちびっこの大きすぎる目や白すぎる顔色や丸いおでこを、あの段ボール猫に重ねていたのかもしれない。
 図書カードによると、あいざわゆみ、というそのちびっこは、茂を「ご本のおにいちゃん」と呼んでなついて回り、家までくっついて来ることもあった。日曜日には、親を連れて焼き鳥を食べに来たりした。確か父親は、郊外の大きなショッピング・センターの、店長さんだった。
 しかし結局、知り合って半年もしないうちに、そのちびっこは急な父親の転勤で、ろくにお別れを言う余裕もなく、引っ越して行ってしまったのだが――。
 ――なるほど、顔色はすっかり元気そうだけど、広いおでこも大きなお目々も、そんなに変わっていないんだ。ただ、お顔も含めてそれ以外の部分がすんなり育ったから、その中にベストなバランスで収まったということか。
「ひどいです、先輩。私なんか、ひと目でわかったのに」
 笑顔と怒り顔をいっしょにしてみせる優美を、茂はつくづく感心してながめていた。
 ――おうおう、あのガリガリのちびっこが、こんなに立派になりおって……って、爺いか俺は。
「えーと、でも、ほら、名字もアレだったし……」
 うっかり口にしてしまってから、茂は、あ、と口ごもった。
 未成年の少女の姓が変わるということの、多くの場合アレな事情を想像してしまったのである。
「そうか……そうですよね。あの頃は相沢、今は三浦……全然違いますもんね」
 優美はちょっと顔を曇らせた。
 茂は自分の無神経さを呪った。
 それは親がアレしてしまったか、それともナニしたか、そんなところだ。
「いやほら! それより、みーちゃんこんなに綺麗になっちゃって、わかりっこないじゃん! ははは」
 突然大声を出してしまって、こりゃざーとらしかったかなあ、とさらに反省している茂に、優美は寂しげな笑顔を向けた。
「……ありがとう」 
 茂は黙って、ただうなずいた。
 優美の黒目がちの瞳が、夕日を受けてうるうると揺れている。
 しかしそのうち、優美は自分の言った言葉が、まんまで受け取られてしまうと、けっこうずうずうしく聞こえることに気がついたらしい。
「あらやだ、あたしったら。えと、そーゆー意味じゃなくて、その、えと、綺麗じゃないんですけど、つまりおにいちゃんはやっぱりやさしいなあ、そんな感じで――」
 パンダはいつものように、「何も考えてません。笹だけ食えればいいです」、そんな顔で、ゆっくりとうなずいた。

     ★        ★

 そうとわかってしまえば、もう水くさい遠慮はいらない。
 ――俺、おにいちゃん。昔のまんまの、優しい優しいおにいちゃん。邪念ありません。
 もちろん大嘘だが、まあ優美に対しても自分に対しても、アレ的な部分で、いくぶん嘘がつきやすくなったのは確かである。
 茂がおたくその一やその二と、分野違いのおたくだったのは、茂にとっても優美にとっても幸いだった。
 彼らだったら「おにいちゃん」と呼ばれた時点で、データベース内の検索に無数の適合情報が引っかかり、それらは『妹萌え』というジャンルを形成したはずだ。まして血の繋がらない妹ならば、なにを想像しようが、ソフト倫でもビデ倫でも規制できない。おそらく「おにいちゃん」と呼ばれるたびに、彼らのぶよんとした背中には、一種のエクスタシーが走ったはずだ。
 茂は世界名作劇場タイプのおにいちゃんパンダになんとか適応して、それからの帰り道を、みーちゃん女学生バージョンといっしょに楽しく歩いた。小学校の図書館での思い出なら、気軽にいくらでも話せる。
 優美から聞いた今回の合同公演の裏話も、なかなかおもしろかった。
 峰館商業演劇部顧問の国語教師・山福――通称ヤマブクロは、茂の担任でもある。鬼瓦のような顔をしているためか、三十過ぎてもまだ独身だ。
 そのヤマブクロが、去年の全国高校演劇コンクール会場で、国分台女学院演劇部顧問の女性教師に、ひとめ惚れしてしまった。そして帰郷後、身のほどもわきまえずに毎日メールを送りつけ、一時はストーカー法で訴えられかけた。しかしその女性教師も、三十近いのにまだ独身だったから、いつのまにやら事態好転、そんなこんなで合同公演話が持ち上がったらしい。『いつのまにやら』のあたりは、優美もおだやかに言葉を濁していたが、たぶん『こんだけ本気なら、多少ブサイクでもいいかなあ』、そんなニュアンスだろう。
 いい話である。どんな顔でも希望を捨ててはいけないという教訓になるし、何より今後の茂のヤマブクロ対策に、かなり使えそうな話だ。
 そんなお互いの学校話や昔話で、けっこう盛り上がっていると、やがて峰館駅が見えてきた。数年後には地域再開発で高層化する話も出ているが、今はまだ、どこにでもある二階建ての地方駅だ。
 駅裏の路地に入ると、『焼鳥・あくつ』の香ばしい煙が、鼻先に漂ってきた。
「……わあ、懐かしい。昔とおんなじ匂い」
 目を細める優美に、茂パンダは、すなおにこくこくとうなずいてみせた。
 一年中焼いてるほうも飽きる様子がないようだし、自分も生まれてずっと嗅いでるわりには、けっこう飽きない煙だ。
 いつもなら、裏口からそのまま二階の自分の部屋に上がってしまうのだが、あとでいきなり部屋に座っているパンダを見つけたら親もショックだろうと思ったので、一応挨拶しておくことにした。それに今夜は、超大切最上級おもてなし対象のお客様もいる。
 のれんをくぐると、店内は敬老会状態だった。
 ふだんは勤め帰りのサラリーマンたちが軽く一杯やる、そんな店だが、土日や祝日は、ご近所の年寄り連中のたまり場になるのだ。
「ただいま」
 推定二十個近い目が、一瞬にして点になった。それはそうだろう。ふつう、ジャイアント・パンダは焼鳥屋に帰ってこない。
「こんばんは。おじゃましまーす」
 おお、というしなびた驚きの声がコーラスした。
 ふん、どうせ豆腐屋の爺さんあたりが、「美女と野獣」とか言い出すんだろう、などと茂が覚悟していると、
「おう、どうした、茂ちゃん。そんな立派なパンダになって」
 お茶屋の爺さんが笑いながら言った。
「それに、そんなかわいい嫁さんまで連れて」
 ――うん、この爺さんは、昔からちょっと気の利いた爺さんなんだ。
「……何やってんだ、お前」
 ようやく我に帰ったらしい白髪まじりの親父が、焼鳥を焦がしながら、あきれ顔で言った。
 こんばんは、とまた元気に頭を下げた優美に、あわてて挨拶を返したりしている。
「いや、まあ、いろいろあって、学祭で」
 奥から酒の追加を運んで来た母親は、ぎょっとして、一升瓶を取り落としそうになった。
「学祭終るまで、これ脱げないんだ」
 父親は耐えきれずに吹き出した。
 母親は、パンダ化してしまった息子もまんざらではないと思ってくれたらしく、嬉しそうに笑って、それからしげしげと、隣の優美の顔を見つめた。
「あら? ……もしかして、ゆみちゃん? 相沢さんとこの」
 ――おお、母ちゃん、さすが。
 そう、このちっぽけな『焼鳥・あくつ』が、夫婦だけでは手が回らないときもあるほど繁盛しているのは、無愛想で焼くしか能のない親父の力ではない。一度来た客の顔は十年ぶりでも忘れないという、母親の記憶力のおかげなのだ。
「わあ、うれしいです。おぼえていてくれたんだ」
 優美が手を叩きながらはしゃいだ。
「そりゃ、ゆみちゃん、あんたみたいな都会っぽい子なんて、このあたりにはいないもの」
 ほう、と茂は内心でつぶやいた。なるほど、昔自分がやせっぽちで弱そうでおとなし過ぎと思っていたちびっこも、大人から見れば、そう見えていたのかも知れない。
「ほら、茂、茶の間にお通しして」
 茂パンダは柄にもなく照れて、ぽりぽりと頭を掻いた。
「それが……俺の部屋、見たいって」
 それはいかんなあ、などという、豆腐屋の爺さんの声が聞こえた。
 ――黙ってろ、くそ爺い。
「やめたら?」
 母親も優美に忠告した。
「昔と違って……臭いわよ?」
 ――そ、そりゃないぜ、母ちゃん。まあ確かに、ほかの男子がほとんど臭い以上、俺も臭いのかもしれないが、それだって自分の鼻ではわからない程度じゃないか。
 外野は無視することにして、茂は優美を、こっちこっち、と奥に誘った。
「後でお茶持ってってあげるからね」
 ひらひら手を振る母親に、優美はまたぺこりとお辞儀をした。
 店のすぐ奥の階段を、優美を従えてのそのそと上っていると、下から母親の声が聞こえた。
「茂、見ててもいいけど触っちゃだめよ」
 くすくす笑う優美の声も聞こえる。
 茂は思わず、ぎく、とこわばったが、幸い立派な毛皮に覆われているので、優美からは見えなかった。

     ★        ★
 
 茂の四畳半は古い畳敷きで、ベッドもソファーもない。座れる椅子もパソコン机の前のひとつだけだ。
 本棚の半分以上を占める名作アニメ系のおたく物件は、現代の高三男子の部屋としてはちょっと変かもしれないが、女の子をそう警戒させるものでもないだろう。
 また、その本棚の上に飾られているどでかいムーミン・ハウスや、勢揃いしているムーミン谷の仲間たちも、それだけ見ればけして異常ではないはずだ。その部屋に住んでいるのが、阿久津茂であることを無視すれば。
 さらに壁中に貼られている、猫や猫耳娘の手描きイラスト旧作や、自分でプリントアウトしたCGの近作も、作者は神に誓って邪念なく描いたものだから――半分は嘘だけど――メルヘンチックで女の子好みのはず――だということにしよう、うん。
 ああ、アレやナニは、押入れの一番奥の衣装ケースに隠しておいて、本当に良かった。ソレらばかりは、最悪両親に見られたとしても、息子の将来にめいっぱい絶望しつつ、世間体を考えて見て見ぬふりをしてくれるだろうが――優美ちゃんにだけは、永遠に見せられない。
「おもしろいお母さんですね」
 優美は茂と向かい合わせで、ちょこんと座布団に座っている。
 パンダ座りでたれる茂の目に、優美のかわいらしい膝小僧が映る。
 ふだんこの部屋では絶対に拝めないものだけに、茂のナニモノかは、思わず「気をつけ」状態になってしまった。しかしこれもまた、幸いパンダの中での出来事なので、優美にはないしょである。
「それに、ずっときれいなまんまみたい。あの頃来たときも、お母さんじゃなくてお姉さんみたいだったし、今でもそう」
 触っちゃいかんが見るだけならいいんだ――そんなことを考えていた茂は、上の空で、うっかり答えてしまった。
「うん、まだ三十二だから」
 は! 
 言ってしまってから、茂はあわてふためいた。
 ――忘れてくれ、優美ちゃん。
「へえ、じゃあ、ほんとに若いんだ」
 優美は最初感心してうなずいていたが、やがて不思議そうに首をかしげた。
「……ほんとのお母さん、ですよね。あのころとおんなじ」
 ――ああ、気づかれてしまった。
 茂パンダは、がっくりとうなずいた。
「でも、おにいちゃんはあのとき五年生で……今、三年生で、十八?」
 ――そう。計算、合わないの。
 そういう親父なのである。いい大人が女子中学生の腹をふくらませるのは、児ポ法成立以前の時代でも、世間的には立派な犯罪だ。鬼畜のしわざである。
 まあ確かに、母ちゃんの実家から見れば、親父は昔なじみの気のいい男だったらしい。当時すでに自分の店を持ち、郊外にちっぽけながら賃貸アパートまで建てている、まじめな働き者でもあったらしい。
 それにしても、中学生に子供を産ませる親も親だし、産んでしまう娘も娘だ。しかしまあ、そのおかげで自分はこうして水子供養の世話にもならず、かーいらしい膝小僧を拝めるのだから、文句は言えない。
「ひええええ!」
 優美がたまに見せる天然反応を示した。
「……十四……」
 計算結果をつぶやいて、顔から膝まで真っ赤にしている。
 なんだかもじもじと巧みに足を使って、じりじり遠ざかっている気もする。
 茂パンダはやけになって補足した。
「……そう。中二」
「……学年、あたしとおんなしだ」
 は?
 それもまた、なんだか計算が合わない気がする。
「あれ、でも、優美ちゃん、高校……だよね?」
「中二ですよ。ほんとは三年になってるはずなんですけど、小学校のとき、病気で一年遅れちゃって……おにいちゃんと別れて、次の次の年、でした」
 ちょっと寂しそうにうつむいている。
 ――そうか、いろいろ大変だったんだなあ。
 小学生の頃、同じクラスにいた学年遅れの女子の、なんだか大柄で居心地の悪そうな様子を思い出して、茂はしんみりうなずいた。
 ――あの頃三個下だったんだ。で、今は四個下。……あれ? でも、それだと今度は、その二の奴が言ってた話が、なんかおかしいぞ。
「中学生でも、『季節』って、練習生になれるの?」
 今度は優美のほうがきょとんとした。
「なれるはずないです。どうしてですか」
「いや、プロ予備軍って聞いてたんで」
 優美は焦ったようにふるふると頭を振り、ぱたぱたと手を振った。
「そ、そんな。練習生は内田先輩だけですよう。内田先輩は、もう短大だから。ほかのみんなは、先輩のレッスン受けただけです」
 まだ首をひねっているパンダに、
「ほら、うちは中学から短大まで一貫ですから」
 茂はようやく事情が飲みこめた。そして、少しばかりほっとしていた。
 今まではみーちゃんはみーちゃんでも、現在はすでに、茂のへばりついている地表の遥か上空、推定天の川あたりで踊っている感じだった。それがなんとか衛星軌道あたりまで、下りてきてくれたような気がしたのだ。それに話題が変わったおかげか、微妙な後ずさりも止まったようだ。
 うんうん、OK――などと思っていると、いきなりふすまが開いて、母親が顔とお盆を突き出した。
「よしよし、野獣は美女を押し倒してないね」
 ――か、かーちゃん、そーゆー冗談は、時と場所を選んで言ってくれ。だいたいあんたは、そんとき野獣を告訴するべきだったんでは。
 それでも、母親のあまりにあっけらかんとした笑顔にごまかされたのか、優美は楽しそうに笑いながら、「ありがとうございます」と、コーラのストローをくわえた。
「さっきはああ言ったけど、やっぱり茂、あんまり見るんじゃないよ。近頃あんたの目つき、なにかとアブナイから」
 ――さっさと消えろ、かーちゃん。
 思わずにらみつける茂の視線を、親だけあってパンダ口からでも受信したらしく、母親は「へいへい」と言いながら下がって行った。
「……ほんとに、楽しいお母さん」
 ――まあたしかに色々おもしろいことは確かなんですけどね、それはそれで、あたしゃ年中気苦労が絶えないんですよ。
 優美は座布団の上でうつむき、膝に拳を置いて、いつまでも肩を震わせている。
 ――そりゃ笑いも止まらんでしょうねえ。
 そう思って優美を見つめる茂の目に、なにか奇妙なものが映った。
 小刻みに震えている優美の拳の甲に、ぽたり、と雫が落ちたのだ。
 ……涙?
 茂がわけもわからずあたふたしていると、雫はぽたりぽたりとあちこち重なって、そのうち手の甲の端をつたって、優美の膝まで濡らし始めた。
 うつむいたままの優美の口から、とぎれとぎれに、つぶやきが漏れた。
「……お父さん……パパ……逃げちゃったんです」
 は?
 そのつぶやきも、肩や拳と同じように震えていた。
「……ほかの女の人と。……だからあたし、ママがかわいそうで……だから、ママといっしょに……」
 雫は止まる気配もない。
 ――俺は、俺はどうすればいい。
「……でも、ほんとは……今は、パパのほうが良かったなんて。……ママがあんなだから……ほかのママでも、パパのほうが良かった、なんて……ママなんて……あたしって…………」
 膝につたう涙の筋も、どんどん増えていく。
 ――俺はいったいどうすればいい?
 茂は自分の決断力の無さと無能さを噛みしめながら、しゃくりあげている優美を、おろおろとながめ続けるしかなかった。
 数分もそうしていただろうか、やがて優美はポケットからハンカチを出して、うつむいたまま顔をぬぐい始めた。
「……ごめんなさい。……こんな話、聞きたくないですよね」
 そう言って顔を上げる優美の頬は、茂のサインが滲んだらしく、ピンク色のまだらになっていた。
 茂の意識は、すでに小学校の図書室を通り越して、あの三歳六ヶ月の、神社の縁の下まで逆行していた。 
 ――俺はこの娘を食ってしまいたい。このでかいパンダの腹に収めて、朝まで温かく包んでいてやりたい。
「……君が俺に話してくれることなら」
 パンダはおずおずと言った。
 茂には恥ずかしくて言えないことでも、パンダなら言えるような気がした。
「それはどんな話でも、たぶん、ぜんぶ俺の聞きたいことだ」
 優美は何かたずねたそうな、まだ濡れた瞳で、じっとパンダの口を見つめた。
 それからぷるぷると、さらさら髪を扇のように振って――次に茂の方を向いたとき、優美はもうもとの笑顔に戻っていた。
「おにいちゃんのアルバム、見たいです!」
 顔に泣いた跡のピンクのまだらを残して、どう見ても晴れ晴れと笑っている少女――。
 ――だ、だめだ。俺には女心というものは、わからん。
 茂はすなおに降参して、どっこいしょ、と立ち上がり、のそのそと本棚にとりついた。
 ――それでも優美ちゃんが笑ってくれているなら、俺はそれでいいんだ。
 優美は何事もなかったように、にこにことコーラをすすっている。

     ★        ★

 アルバムを引っ張り出すのは、パンダ手だと、けっこう大変だった。
 苦労して優美にさし出すと、優美はそのまま受け取らないで、「わくわく」などと言いながらパンダに寄りそってきた。
 パンダの中の茂には、そのぬくもりも肌触りもまったく伝わってこないが、ただ寄りそっているという事実だけで、心の底から嬉しかった。
 しかし、自分で自分のアルバムを開くのは、正直言って気が進まない。
 ――俺の花も実もない人生なんて、あんまり見せたくないなあ。
 イラストや駄文とは違い、写真はリアルな現実がモロバレになってしまう。
 それでも表紙をめくったとたん、 
「きゃあ! かわいい!」
 優美は歓声を上げ、拍手までしてくれた。
 ――ああ、ほんとに優美ちゃんは優しいなあ。
 茂はひがみ根性でそう思ったが、さて、久しぶりに自分のお子様時代を見てみると、さすがに赤ん坊の頃は赤ん坊なりに、愛嬌のある顔をしている。
「きゃあきゃあ、これもかわいい」
 ――おう、これはけっこう、お世辞抜きかもしんない。
 茂も案外のってきて、その他大勢になる前の自分を、思わずほめてやりたくなった。
「あら?」
 優美がちょっと笑顔を静めて、一枚の写真を指さした。
 幼稚園に入った頃のスナップだ。
「あのお話の頃、ですよね?」
 ――よっぽどあの駄文を気に入ってくれたんだなあ。
 茂パンダは感動しながら、こくこくうなずいた。
「……かわいい。欲しいな」
 パンダは迷わずポケット式のセロファンのすきまに、指を入れようとした。
 セロファンの上をすかすかと滑るパンダ指に、優美のほっそりした右手が被さった。
 にこ、とパンダ口を見上げて、自分で写真を引き出し、また、にこ、と笑う。
 ――うん、異議なし。
 その後もアルバムの幼稚園編は、順調に盛り上がった。今は道端のペンペン草のような茂でも、生きてるだけで芸、そんな時代があったのである。
 やがて小学校編に入ると、また優美の指が止まった。
「……あの夢の、頃?」
 小学一年の、夏休みのスナップだ。
 優美のオネガイ視線に、茂は少々とまどったが、まあかろうじて愛嬌の残っている写真だったので、結局こくこくとうなずいた。
 しかし、さらに十分ほど小学校編を解説し、「やっぱり、みーちゃんは写ってないね」「あーん、残念」などと言い合った後で――中学一年の林間学校のスナップまで欲しいと言われたときには、さすがに茂も、優美の視力をまた疑ってしまった。
 その写真も、優美の言う『夢の頃』には違いないが、そのあたりから茂の顔は急速に、阿久津だか誰だかどうでもいい、ただの男子に紛れこんでいくのである。
 ――こーゆーのは、門外不出にしたいなあ。
 内心そう思っても、優美のオネガイ攻撃に対抗するだけの自尊心は、茂にはない。
 そうして結局その晩は、アルバム解説だけで、七時を回ってしまった。
 階段の下から、母親の陽気な声が響いた。 
「優美ちゃん! ご飯食べてったら?」
 茂としては、ずっとこのままこうしていたかったが――『しあわせなんて、ほんのひととき』。
「……じゃあ、行こうか」
 茂パンダはのそりと立ち上がった。
「でも、悪いです」
「みーちゃんいるから、きっと店の焼鳥だよ」
 昔、店に来るたび「おいしいおいしい」と喜んでいた優美の笑顔を、茂はよく覚えていた。
 優美はこっくりうなずいて、三枚の写真を大事そうにポシェットに収め、上きげんで立ち上がった。
「……食べる前に、顔洗ったほうがいいかも」
 茂が言うと、優美は自分の頬っぺたを撫でさすり、そのピンクの指先をしげしげとながめて、
「あらやだ、あたしったら」
 子供のように、きゃははと笑った。

     ★        ★

 俺は後で食べるから、などと恐怖の大王に牽制を入れる。
 子供の頃と同じように、優美が「おいしいおいしい」と喜んで焼鳥ご飯を食べてくれた後、茂は念のため、駅向こうの旅館まで送って行った。
 優美にちょっかい出そうとする路地の酔っぱらいをパンダ唸りで撃退したり、旅館の顔見知りの女将さんに自己紹介して大ウケしたり、なまんだぶ様たちにまた触られまくったり、その親分の推定内田先輩に「や、ご苦労。うちの大事な娘を歯牙にかけてはいないね」などと豪快に肩を叩かれたりして、なかなか充実したひとときだった。
 家に帰ると、もう店は閉まっていた。
 まだ八時ちょっと過ぎだが、どうせ土日は年寄り連中が帰ってしまえばそれきり暇だから、早じまいしたのだろう。
 裏口から台所に上がると、母親が洗い物をしていた。
「飯食っちまいな」
「……断食」
 勘のいい母親は、なーる、と言うようにうなずいた。
 台所の屑入れから手頃なペットボトルを拾って居間に入ると、父親はちゃぶ台の横に寝ころんで、だいぶ前に録画した映画の『釣りバカ日誌』を観ていた。『男はつらいよ』シリーズを全部観てしまってからも、順調にオヤジ路線を進んでいる。
「……帰りが早すぎやしねえか」
 パンダ化したひとり息子を振り返りもせず、父親はぶっきらぼうに言った。
 ビデオで「がはは」と笑っているハマちゃん――西田敏行さんとは対照的な、むっつり顔の親父だ。
「門限八時だってよ」
「……門限破らせてこその、男ってもんだ」
 ――これだもんなあ。
 茂はパンダの中で舌打ちした。
 ――こんな親父だから、俺はそれを反面教師にしてしまって、いまだに女の子の手ひとつ握れないんだ。
「お嬢様学校なんだよ」
「……じゃあ、ウブだな。そりゃいい。先に種まいたもん勝ちだ」
 隣の台所からアルミのボールが飛んで来て、親父の頭に、くわん、と跳ねた。
「……悪く行っても、一生覚えててもらえるぞ。二番手や三番手じゃ、そのうち忘れられちまう」
 自分の頭も転がったボールも、まったく気にしていない。
「……でも、ポイントはマ○じゃねえぞ。こんな物は、種さえまけりゃいいんだ。落とすのに大事なのは、指と舌――」
 今度は丼鉢が飛んで来て、げん、と親父の頭を直撃し、ずん、と畳に転がった。
 さすがに親父は、無言でわななきながら頭を抱え、畳の上をのたうち回り始めた。
 ――おお、母ちゃん、ナイスショット。
 ああはなるまい、などと父親を見殺しにして、茂は階段に向かった。
 その耳に、ビデオの若妻・みち子さん――石田えりさんの明るい声が聞こえてきた。
 ちょうど、夫・ハマちゃんのプロポーズの言葉を、その上司・スーさんに暴露する場面だ。
『君を幸せにする自信は全然ありませんが、僕が幸せになる自信は絶対あります』
 名言である。
 茂は自分の部屋に戻り、畳の上に広げられたままの、アルバムの空白をしみじみとながめた。
 衛星軌道あたりで踊っていた猫耳の天女が、エアバスの翼あたりまで、また少し降りて来てくれたような気がする。
 親父の馬鹿のせいで、またナニモノかがナニゴトかを期待して、「気をつけ」体勢に入りそうだ。
 しかし、さすがに今夜は「休め」と命じるしかない。

     ★        ★

 その夜、茂は夢の中で、中国四川省の山野を駆けるパンダであった。
 山道の先を駆けてゆく白い子猫を追いかけて、へっへっへっ、などと息をきらしながら、いつまでもどこまでも、果てしない山野を走り続けた。





  Act.5 【猫も夢を見る】


 翌朝、茂がのそのそと開店準備中の『ヨンクミ』に入っていくと、女給さんやボーイさんたちはもうせっせと働いていたが、横溝たちの姿はまだ見えなかった。
「ねえ、パンダ君、お仲間、どうしたの?」
 チャイナ服にお団子頭の女子が聞いてくる。
 ――ち、違う、俺は絶対奴らの仲間じゃない。被害者だ。
 しかし、それを面と向かって言えないのが、茂の性格だ。
「……知らね」
 どうせ昨日のあれからずっと、奴らなりの猫耳道を突き進んでいるのだろう。おそらく今頃は、国分台女学院御一行様の控室あたりで、頼まれもしない警備員でも勤めているに違いない。
「ほんっとに無責任なんだから」
 ――それは、他に誰も引き受けたがらなかったというだけの理由で、横溝を学級委員長に祭り上げてしまった、クラス全員の責任ではなかろうか。俺もだけど。
「はいはい皆様ご苦労さん!」
 噂をすればなんとやら、妙にテンションの上がった横溝の声が、入口から響いた。見ると顔の腫れはずいぶんおさまって、もともとの顔が茂同様どうでもいいような造りだから、それほど違和感はない。
 続いて入ってくるおたくたちは、朝っぱらから妙に疲れきった顔をしていた。
 横溝だけは元気いっぱいで、なにやらファンシー・ショップの段ボール箱を抱えている。
「はいはいお嬢様方、朝の点呼を取りますよ」
 女性恐怖症からも、もうしっかり立ち直っているようだ。
「はいはい、それではお嬢様方、新しいアクセサリーをお配りしますので、そのチャーミングなお髪《ぐし》にお飾りくださいね」
 手近な女子にさしだした箱の中身は――色とりどりの猫耳のカチューシャだった。
「……なにこれ」
 さっきのうるさ型の女子が、三毛耳をつまみ上げて首をひねった。
「売上倍増のための、必殺のアイテムでございます」
 横溝は上機嫌で即答した。
「演劇部に対抗するには、もうこれしかございません」
 ――嘘つけ、お前の新しい趣味だろう。
「いやはや、朝のうちから人数分確保するのは、なかなか大変でした」
 ――なるほど、それで後ろの三人は、妙に疲れてるのか。でも、あのゆるんだ口もとを見ると、充実した疲労感って奴だな。
 女子たちの様々な声が、教室を満たした。
「なんか変」
「でも、ちょっとかわいいかも」
「おう、なかなか」
「あたし本物のお団子なんだけど」
 さっきの女子が、三毛耳をひねくり回しながら、茂にたずねてきた。
「パンダ君、昨日の猫ちゃん、また来てくれるの?」
「あ、ああ。うん。手が空いたときは、来てくれるって言ってた」
 本当なら弾んでいそうなパンダの声は、なぜだかあまり嬉しそうではない。
「そっか、じゃあ、意味ナシでもないか」
 その女子は納得して、頭の付けお団子を外し始めた。
「でも、あたしも演劇部観たいよう」
「朝の部と昼の部、半分ずつ行こうか」
「あ、それいいね」
 女子たちの会話はまだ続いている。横溝の反論が混じらないところを見ると、自分たちは朝昼二回とも、しっかり観に行くつもりなのだろう。
 茂パンダはそんなにぎわいから離れて、とぼとぼと廊下に向かって歩き始めた。
「待ちたまえ、茂君」
 横溝から、また不気味な猫なで声がかかった。
「……まあ、昨日の件に関しては、色々釈明を求めたい事柄も、多々々々々っとあるわけだが」
 横溝が背後のおたくその一を顎でしゃくると、柴田、いや、たぶん相原は、手提げ袋からひと巻きのロープを取りだした。
「その件はまあ色々実りも多かったことだし、不問に付してやるのもやぶさかではない。しかし――」
 その二とその三が、パンダの行く手をふさいだ。
「今日こそは任務をまっとうしてもらわんと、マジに売上がヤバいのだ」
「……そんな縄、いらね」
 茂パンダはぶっきらぼうに答えた。
「今日はずっと前にいる」
 まるで昨日の果てしない逃走が夢だったかのような、無気力な口調だ。
 横溝たちの疑わしげな視線を後に、パンダはその言葉どおり、のそのそと廊下の定位置に座り、壁を枕にぐったりとたれた。そして開店後も、昨日よりはずいぶんけだるそうだが、一応愛想を振りまき続けた。
 開店後しばらくたつと、横溝たちは案の定、こそこそと職場放棄を決めこんだ。
 それでもパンダは、彼らのおどおどした視線をよそに、おとなしくお子様たちの頭を撫でたりしていた。

     ★        ★

 ――俺は、最低の男だ。
 パンダの中で、茂は朝からずっと自己嫌悪に陥っていた。
 四川省の山中で、子猫を追いかけ続けているうちは良かったのである。
 ところがうっかり、明け方の最後の夢の中で、幸か不幸かパンダは子猫に追いついてしまった。
 本物のパンダであればなんの問題もなかったのだろうが、なんと言ってもその正体は茂である。そのパンダに背後からのしかかられてしまった子猫は、たちまちのうちに舞台姿の、それももちろん村娘姿ではなくダンス姿の優美に変身してしまい、「ごろにゃーご」などとかわいやらしいの未来形に近い鳴き声を上げ――茂パンダは「いかああああん!」という絶叫とともに、寝床で跳ね起きた。
 思わず自分のパンダ腹の下を、おそるおそる覗きこんだりする。
 当然、のっぺりした毛皮が見えただけだ。
 茂はごそごそとパンダの中で腰をひねって、ナニモノ近辺の具合を確かめてみた。
 もし最悪の事態を迎えてしまっていた場合――新しいトランクスをむさぼり食って、汚れたほうを吐きだすなどという超魔術は可能だろうか。
 幸い、まだだった。
 昨日からパンダのままで、体力をけっこう消耗していたのが、良かったのかもしれない。
 ほっとして目覚まし時計の液晶を確かめると、まだ六時前だった。しかしまた寝こんでしまうと、それでなくとも朝のお元気タイムのこと、また不良息子が若さゆえの暴走に走らないとも限らない。茂は念のため、パンダ座りのままで朝を迎えることにした。
 ほの暗いパンダの胎内でたれていると、どうしても意識はとろとろとまどろんでしまう。先ほどの子猫――優美のなまんだぶ様状態など、薄ぼんやりとまぶたに浮かんでくる。
 ――触らなきゃ見てても大丈夫。
 つまり、この程度の出来事で自己嫌悪に陥るほど、茂も初心《うぶ》ではない。正気なときでも、さらに問題のある行為を、いくらでも妄想している。「あれあれいけませんわお兄様」「良いではないか良いではないか」「ああ助けてお母さーん」「うむこの抵抗する初々しい姿がなんとも」――その程度の男である。
 しかし、問題はそのあとだった。
 妄想にふけりながら、まどろみの中でやくたいもない想いを繰り返しているうちに、茂は突然、己の真の醜さと対面してしまった。
 優美ちゃんの家が、ずっと不幸のままならば――そんなことを考えている自分に、気づいてしまったのである。
 邪念にまかせた想像のあとだけに、その自分の醜さは、もう人間として駄目なクラスに思われた。
 あわてて立ち上がり、顔でも洗って忘れてしまおうとしたが、当然不可能だ。悪戦苦闘の末に、コンビニで買ったフェイシャルペーパーを食って、なんとか顔をぬぐってみたが、しょせん製品分類上『医薬品』ではない『化粧水』、心の醜さまでぬぐい去るほどの効果はない。
 茂は壁の鏡を呆然とながめて、寝ぼけ顔のパンダの奥に隠された、真の自分に直面しなければならなかった。
 ――優美ちゃんの家が、ずっと不幸のままならば、優美ちゃんはいつまでも俺を必要としてくれるかもしれない。いや、もっと悩みが増えて、俺に話したいことがどんどんできれば、帰ってからも電話やメールをくれることだって、ことによったら毎日のように……。
 俺は、最低の男だ――茂は自分を、そう結論した。 
 俺は優美ちゃんを幸せにしてやる自信どころか、自分が幸せになる権利さえない男なのではないか。そんな気持ちでまたあの舞台を見てしまったら、優美ちゃんはまた遥か天上のかなたまで、離れて行ってしまうのではないか。そして俺はその天上から、自分のいる地べたまで、優美ちゃんを引きずり下ろしたいと、願ってしまうだけなのではないか。
 そんな疑問が、茂のあまり大きくない脳味噌の中で、朝からずっと渦巻いていた。
 やがてお昼のチャイムが鳴って間もなく、とととととと白い姿が、廊下の向こうから駆けてきた。
「おにいちゃん、お待たせでーす!」
 汗を拭いたばかりの、まだメイク跡を残した天然顔で、元気いっぱいに笑っている白猫娘。キティちゃんのポシェットも、ご機嫌に揺れている。
 たちまち胸を満たす幸福感に、意志薄弱な茂の悩み事は、とりあえず蒸発してしまった。それでも正直なところ、一度抱いてしまった自分自身への不信感だけは、霧は晴れても空気に残る湿気のように、心の中にまだ漂っていた。
 しかし、そうして並んで楽しくお客さんにちょっかい出していたりする限り、やっぱり茂は幸せだった。
 昨日からなかば本気で願っていたこと――俺はもう阿久津茂ではなく、一生パンダでいい、そんな馬鹿げた想いがますます強くなる。
 そんな邪念のない純パンダとして、子猫の心配をしてみると、チャイムがなってすぐに駆けてきたタイミングの良さが、ちょっと気になった。十時から昨日と同じ舞台を勤めたのなら、お昼ご飯を食べている暇はなかったはずだ。
「みーちゃん、お昼は?」
「あとでいいです。だって、お店、稼ぎどきだし」
 ――母ちゃんとおんなじようなことを言うなあ。
 茂が感心していると、なにやらお腹の虫の抗議が、隣から聞こえてきた。そのなまんだぶ級の締まったウェストからは想像しにくいほど、かなり元気な抗議だった。
「あらやだ、あたしったら」
 あわてふためいている優美の隣で、今度はパンダの腹がぐるるると派手に鳴った。昨日の昼に焼きソバを食べたきりだから、抗議の声も命がけだ。
「……いっしょに、食べます?」
 一日絶食したかいがあったのか、恐怖の大王は降臨する気配もない。それに学祭そのものも、後始末の関係で、四時にはお開きになる。そうなれば晴れて茂も人間に戻れる。それを望んでいるのかいないのか、自分でも、もうわからないのだが。
 照れ笑いを浮かべながら小首をかしげる優美に、パンダもこくこくとうなずいてみせた。

     ★        ★

 静かなところで食べたいですね――そんなありがたいお言葉を受けて、茂パンダはあっさり職場放棄を決意した。
 どうせ横溝たちは、この学内にあの猫様たちが留まっている限り、教室には戻ってこないだろう。それに昼どきなら、飲茶『ヨンクミ』は放っておいても客が入る。
 茂は優美を連れて校舎裏の林を抜け、昨日と同じあたりの川原に向かった。
 二人前はたっぷりある、焼きソバの大皿を優美が抱え、パンダはこれもふたり分のウーロン茶の一番大きい紙コップを、大事そうに抱えている。
 やがて初夏の青空の下に、「のどかなだけがとりえです」と言うような、川原の景色が広がった。
「わあ」
 優美は大げさな吐息をもらした。
 川のこのあたりは対岸がえんえんと緑で、そこに見え隠れする家々も古い瓦屋根ばかりだし、中には藁葺き屋根まで混じっている。これはもう胸を張って、「のどかさだけなら負けません!」と言い切れるだろう。
 優美は大皿をそろそろと河原の石の上に置いて、茂パンダの横に腰を下ろした。
「懐かしい……。あの頃と、ほんとに、おんなじなんですね」
 優美の父親が働いていたショッピングセンターも、遥か上流のバイパスあたりで、昔のままの駐車場の屋上を、木々の間にのぞかせている。
 変わらなすぎて時々嫌になるけどね、などと正直に口を挟むほど、茂も無神経ではなかった。
「……千葉って、どんなとこ?」
 確か東京の隣だから、やっぱりきんきらきんの都会なんだろうな――ろくに地理の授業も聞いていない茂には、そんなイメージしか涌かない。
「千葉って言っても、江戸川を渡るともう葛飾ですから、やっぱりごちゃごちゃです」
 ――おお、知ってる知ってる、親父のビデオの渥美清さんが、毎回歩いてたとこだ。だったら、ごちゃごちゃと言っても、けっこうのどかな所なのかも。
「……寅さんの映画で観た。矢切の渡し、とか」
「はい。帝釈天とか」
 優美が嬉しそうに答えた。
「でも、やっぱり近くで見ると、江戸川は、ゴミとか、色々」
 ――そうだよなあ。あのあたりは、男もつらかったりするらしいし。
 優美は器用な手つきで、割り箸の先に焼きソバをくるくるとお団子状に巻いて、パンダの口もとにさしだした。
「はい、おにいちゃん」
 パンダは、あぐ、と優美の手先まで箸ごとくわえ、喉のあたりで、はむ、と餌にありついた。
「おいしいですか?」
 パンダはご機嫌でうなずいた。
 うふふと笑って自分もひと口すする優美の唇を、茂はパンダ口の奥から、じっと見守っていた。
 ――ううう、おんなじお箸。ってことは、ウーロン茶も。
 しかしさすがに、コップのストローは二本並んでいた。
 ――いやいや、ちょっと逆流して、混在することもありうるのでは。
 やはり茂の精神は、しょせんこの程度のものらしい。
 同じ大皿に添えられていたシューマイやパオズも、はぐはぐと餌付けしてもらう。それと、紅生姜――茂は紅生姜はちょっとパスの口だったが、優美が好きらしくソバ団子に巻きこんでくれるので、今日はありがたくいただいた。
「……あたし、ほんとはキャベツ苦手だったり」
「俺、好き」
 苦手なら食ってやろうと思ってそう言うと、
「あ、じゃあやっぱり、あたしも」
 無理に自分の口に押しこんで、ちょっと顔をしかめたりしている優美を、茂は心の底から愛しいと思った。
 ――このまま皿の焼きソバが永遠になくならなければ、俺は腹が裂けるまで食い続けていよう。
 しかし、昨日おたくその一が引用したように、幸せ同様焼きソバも、残念ながら有限だった。
 ――いやいや、まだウーロン茶という最高の飲み物が。
 これは絶対何ccか、優美ちゃんのナニが逆流している、などと妄想にふけりながら、茂は最後のお茶をすすった。
 ストローを放して、空いたパンダ口から隣の優美を覗いてみると、まだストローをくわえていた優美と目が合って、優美ははにかんだように、えへへ、と笑った。
 茂も柄にもなく赤面してしまい、しばらくの間、なんとなく言葉がとぎれてしまった。
 軽やかな流れの音と、川面を渡るそよ風だけが、茂と優美を包んでいた。
 やがて優美は、岸辺のさざ波をながめながら、ぽつりとつぶやいた。
「……舞台で内田先輩の歌った歌、おにいちゃん、覚えてますか」
 急に思いがけない話題を振られて、茂は少々あせってしまった。
 それまでの沈黙の間、ただ隣に優美が座っているという気配だけを、パンダの中から探っていて、なーんも考えてません状態だったのだ。
 ――えーと、黒猫様、黒猫様……。みーちゃんばかり見ていたのであんまし覚えてないけど、確かになんか歌ってたなあ。確かうちの演劇部のあんちゃん猫と並んで、川の岸に座ってるシーンだったか。
「……歌っても、いいですか」
 異議なし――茂パンダはぱふぱふと手を打った。
 優美はこほんと小さく咳払いをして、あーあー、などと発声テストを繰り返し、それからゆっくりと、指で拍子を取り始めた。
 緩やかな、控えめな、しかしやはりきちんと訓練された歌声だった。

   河のほとりに ふたり座れば
   さざ波のかすかな 歌がきこえる
   黙ってこのまま そばにいてください
   悲しい思い出 流してしまうまで

   ずっと昔から 知っていたような
   そんな気がする あなたが好きです

 優美のふだんの声と、大きさはそんなに違わない。
 ただ声のすみずみまでしっとりと濡れていて、透明なガラス窓の外側を、つたい流れていく五月の雨のような響きだった。 

   河のほとりに ふたり座れば
   たそがれ風さえ ふとたちどまる
   黙ってこのまま そばにいてください
   あなたの肩に もたれていたいのです

   はじめからずっと 知っていたような
   そんな気がする あなたが好きです

 メランコリックなマイナーの曲調なのに、けして憂鬱ではなく、その底に漂っているぬくもりが、古いわらべ歌のように、茂の心にもじわじわと伝わってきた。
「……谷山浩子さん、って方の歌です。『河のほとりに』。今度の舞台の練習で聞いたとき、前にどこかで聞いたと思ってたんですけど……」
 茂パンダの肩に、優美の頬が触れた。
「……まだこの町にいた頃、パパとママが、よくいっしょに聴いてた歌だったんです。なんだか、昔の思い出の曲だったって、いつもふたりで聴いてたのに……」
 優美の言葉の端々に、あの消え入るような鼻声が混じり始めた。
 昨日の部屋と同じように、優美の頬にも雨の雫が流れているのだろう。
「……どうして、みんな変わっちゃうんだろ。……どうして、あんなに優しかったひとが、あんなに優しかったひとに、あんなにひどいこと……。でも、おにいちゃんは……」
 茂は自分の思い悩んでいたちっぽけな事柄が、五月の雨のガラス窓の向こうで、ゆるゆると形を失い、外の景色に紛れてゆくのを感じていた。
 ――俺はいったい何をうじうじしてたんだろう。高いも低いも関係ないんだ。あの馬鹿親たちが毎日大騒ぎしている家でのんびり暮らしている俺のほうが、ずっと幸福かもしれないんだ。
「……でも、変わってしまって、いいことだってたくさんある」
 茂はパンダ手を上げて、優美の頭の白耳を、おずおずと撫でてやった。
「たとえば、みーちゃんが、こんなに大きくなってくれていること。あんなに元気に、上手に踊ったりできること。こんなに綺麗な歌が歌えること。……それに、俺が今、またみーちゃんの隣にいられること」
 俺はただもうこの世に生きているだけでいい――茂はすでに悟っていた。
 阿久津茂であろうがパンダであろうが、地べたで天を仰いでいようが、この娘と同じ世界に存在して、この娘がちょっと天から降りてきたときに、いつでもこうして話を聞いてやれる所にいられれば、俺は――。
「あ、いけない!」
 いきなり優美の元気な声が響いた。
 ――おう、これは昨日とおんなし、見事な変わり身の術。
「ごめんなさい。そろそろ行かないと」
 パンダ口の視界に、また濡れまだらの無邪気な笑顔が現れた。
「最後の舞台は、観に来てくれますよね?」
 茂パンダはしっかりとうなずいた。
 ――うん、もう大丈夫。まかせなさい。
「あ、それと――ちょっと、これ……」
 優美は何か思いついたように、ポシェットからピンクの携帯を取りだした。
 ちまちまとキーを押して、またどこかのHPにアクセスしているようだ。
「……ちょっと恥ずかしいけど、おにいちゃんだから、やっぱり」
 液晶画面には、『○川市立中央図書館児童館・作文コンクールの部屋』、そう表示されている。
「うんと昔なんですけど――相沢優美、で検索してみてください」
 そのまま携帯をパンダの手に乗せて、
「……笑わないでくださいね」
 そう言い残し、とととととと駆けて行ってしまった。

     ★        ★

   『夢の中のお兄さん』
          市立国分台小学校 四年二組
                       相沢優美

 わたしは生まれたときから、とても体が弱かったそうです。
 赤ちゃんのころも、なかなか大きくなれなくて、なんども病気になって、お父さんやお母さんに、ずいぶん心配をかけてしまったみたいです。
 でも、赤ちゃんのころのことは、自分ではおぼえていないので、そのときもお兄さんが助けてくれたのかどうか、よくわかりません。
 わたしはひとりっ子です。
 だからお兄さんというのは、本当のお兄さんではなくて、昔からときどき夢の中に出てくる、お兄さんのことです。
 その人は、わたしが熱を出して保育園を休んだり、幼稚園を休んでねていたりすると、ときどき夢の中に出てきて、いつもわたしを助けてくれました。
 夢の中では、いつもわたしは小さな紙の箱の中にはいって、川の上を流れています。川の上は波でいつもゆれているし、はいっているのが紙の箱なので、水もどんどんはいってきて、とてもこわいです。でも、かならずお兄さんが泳いできて助けてくれるので、安心です。

 わたしのお父さんは、お仕事で日本のあちこちに、お引っこししました。
 わたしが生まれたときは奈良にいたそうです。
 でも、私はまだ赤ちゃんだったので、奈良のことはよくおぼえていません。
 幼稚園のときは、北海道と福島にいました。
 小学校にはいるときも、まだ福島にいました。
 それから二年生になったとき、峰館にお引っこししました。
 峰館の小学校は、今まででいちばん楽しかったです。
 それはなぜかというと、図書館にいた図書係のお兄さんが、とてもやさしかったからです。
 図書係のお兄さんは、夢の中に出てくるお兄さんと、そっくりな人でした。
 わたしはそれまで峰館に行ったことはなかったから、夢の中のお兄さんとは、やっぱり別の人だと思います。
 でも、図書係のお兄さんは、本を読んでくれたり、むずかしい漢字を教えてくれたり、おもしろいお話をしてくれたりして、夢の中のお兄さんと同じくらい、やさしかったです。
 図書係のお兄さんの家は、駅前のやきとり屋さんでした。
 だから、わたしはお父さんやお母さんといっしょに、お兄さんの家で、なん度もやきとりを食べました。
 外のお店でやきとりを食べるのは、お兄さんの家がはじめてだったのですが、なんだか赤ちゃんのときから食べていたみたいな気がして、とてもおいしかったです。
 でも、峰館には半年くらいしかいられなくて、お父さんが東京の本社というところにおつとめすることになって、またお引っこししました。
 図書係のお兄さんは、ほんとうのお兄さんみたいな人だったので、とても悲しかったです。

 わたしは今年の春に、病院に入院しました。
 心ぞうのどこかに、奇形という悪いところがあって、手術しないとなおらないそうです。
 わたしはまだ子供なので、大人みたいに一度になおせなくて、三回に分けて手術するんだと、お医者さんが教えてくれました。
 一回めは、春に手術しました。
 手術のときは、ますいをかけるので、ぜんぜん痛くありません。
 でも、やっぱり夢を見ました。
 やっぱり川の上で、紙の箱にはいって流れていました。
 でも、幼稚園のころの夢とちがって、まっくらな夜で、変なぼんぼりみたいなものが、まわりをいっぱい流れていて、ずっとこわかったです。
 でも、やっぱりお兄さんが助けに来てくれて、すごくうれしかったです。
 二回めは、夏に手術をしました。
 やっぱり夢を見ました。
 また、まっ暗な夜で、きみの悪いぼんぼりがたくさん流れていて、そしてやっぱり、お兄さんが泳いで来てくれました。

 今はもう秋で、もうすぐ三回目の手術をします。
 でもまたきっと、お兄さんが来てくれるので、手術はぜんぜんこわくありません。
 それよりも、もう半年も入院しているので、来年からまた四年生になるのが、ちょっとこわいです。
 でも、わたしには、夢の中のお兄さんがいるので、きっと元気になれると思います。

                             終わり
 
     ★        ★

 ――これは一体、どーゆーことなんだろう。
 茂はパンダの中で、首をひねった。
 びしびし思い当たるような気もするが、現実的に考えれば、まったくつじつまの合わない話だ。
 おたくその三のように、なんでもかんでも宇宙空間の愛のエーテル様にまかせてしまえば楽なのかも知れないが、あいにく茂は、そこまで電波を受信できない性質《たち》だ。
 ――偶然、だよな、これは。どう考えても。
 あるいは、茂が考えていた以上にシビアな状況にいた優美が、そんな夢の世界に救いを求めたとか。
 茂の乏しい知識から想像しても、心臓の奇形というものは、人の生き死にそのものに関わっているはずだ。まして半年以上も入院しっぱなしで、何度も手術を繰り返すというのは、並大抵のことではない。幼い優美の周囲の人々がいくら実態を隠しても、幼いなりに、いや、幼いからこそ、漠然とした死への恐怖はいつも胸の奥にあったのではないか。――しかし、それでもやっぱり説明はつかない。この作文は、どう検索しても、五年も前のコンクールの佳作だ。茂があの駄文を書いたのは去年だし、全世界に恥をさらしたのは、ほんの春先だ。
 やっぱり、なにかエーテル様的な因縁でもって、茂の夢と優美の夢が、時空を越えて同調しているのか。そんなのは、ありか。
 ――えーと、俺の夢は小学校で一回、中学で二回目。でも、それっきり水には入ってないし……。
 いくら首をひねっても、茂の貧弱な思考能力では、結論は出なかった。
 ――やめ。
 茂はあっさりと、理解するのをあきらめた。
 どっちにしても、俺は本当に、ずっとみーちゃんに必要とされていたのだ――そんな紛れもない確信が、茂の胸を熱くした。
 ――だったら、俺はその必要に応じて、これからの人生を組み立てていけば、オールOK。これからの人生に関する自信はまったくないが、とりあえず、午後の部を力いっぱい楽しむには、オールOK。
 茂パンダは意気揚揚と河原に立ち上がり、力いっぱい歩き始めようとしたが――
 どで。
「あう」
 力いっぱい前のめりに転倒してしまった。
 いつのまにか、片足にロープが巻きついている。
「ふっふっふ」
 頭上から横溝の不吉な笑い声が響いた。
「やはり君には拘束が必要のようだね、茂君」





  Act.6 【パンダの夢は猫の夢】


 茂パンダは、河原の砂利にじゃりじゃりと腹の跡を残しながら、林に引きずりこまれた。
「あうあうあうあう」
 何度かパンダの外から揺すられたり起こされたり、ひと騒動が終って気がつくと、どうやら林の奥の栗の木に、縛りつけられているのがわかった。
 パンダ口の視界に、腕組みをした横溝と、はあはあ荒い息をついているおたく三人組の姿が並んでいる。
「お、お前ら、何やってんだ!」
「見てのとおりだよ、茂君」
 横溝は冷ややかな微笑を浮かべて答えた。
「逃亡パンダを捕縛させていただいた」
「だったら場所が違うだろうよ。教室に戻ればいいんだろ!」
 茂は猛然と抗議した。
 最悪舞台は見られなくとも、教室前で縛られていれば、いずれ優美ちゃんはまた来てくれる。それに、そこまでの間に、また逃亡のチャンスが訪れるかもしれない。
「すでにそーゆー問題ではないのだよ、茂君」
 横溝はあくまでも冷徹に続けた。
「先ほどの中間会計で、すでに損益分岐点は越えた。人件費がゼロというのは、当節、つくづくありがたいことだよ、茂君」
 横の幹に手をついて、意味ありげにパンダ口の中を覗きこむ。
「まあその過程で色々あったにしろ、先ほどまでの君のご協力には、心より感謝の意を表させていただく」
 どうやら本気らしいので、茂はなるべく横溝を刺激しないよう、そっと言ってみた。
「じゃあ……出して」
「却下」
 横溝はあっさり答えた。
「な、なして?」
「――すでにそういう問題ではないと言っただろう、茂君」
 横溝はなぜかパンダから目をそらし、指を組んだ手を口もとのあたりでゆらゆらさせながら、うろうろと左右に歩き回り始めた。
「……先日の終演以降、我々はありとあらゆる奉仕活動に努めた。身辺警護はもとより宿への送り迎え、お飲み物軽食日用品等々パシリ万端のみならず、おみ足おさすりしましょうお背中流しましょうといった下僕的奉仕すら勤めるにやぶさかではないとまで忠誠を誓い、刻苦研鑚奮励努力、与うべき総ての身も心も捧げた尽くしたにも拘わらずだ!」
 しだいに興奮してしまった荒い息を鎮めるように、横溝は栗の幹に手をついて、ぐったりとうなだれた。
「……いまだにご住所電話番号携帯メルアドスリーサイズ、何ひとつ情報開示していただけない」
 おたくたちも、力なくうなずいている。
 ――だからそーゆーことやってるから駄目なのでは?
 茂は思わず口をはさみかけたが、かろうじて腹に飲みこんだ。
 ――でも、それとこれと、なんの関係があるんだ?
「と、言うわけでだ、茂君」
 横溝はころりと顔色を変え、軽い調子で言った。
「君は夜までひとり寂しく、ここにいてくれたまえ」
「……なして?」
「簡単なことだよ、茂君」
 横溝はいつもの邪悪な頬笑みを浮かべた。
「――我々としては、君ひとり幸せそうにしているのが、非っ常ーに、悔しい」
「んな、むちゃくちゃな!」
 茂は彼には珍しく怒声を上げた。
 第一、これまでこいつらはこいつらなりに、まあ多少歪んでいるにしろ、一応理屈で動く人間だったはずだ。
「お前、それ、理屈にもなんにもなってねえぞ!」
「ふっふっふ」
 しかしすでに昨日壊れてしまっている横溝は、まったく気にしなかった。
「確かに歴史というドラマは、一見必然性によって動いている。その場その場の社会的論理・民意としての思想・あるいは卓越した指導者の理論的先見――。しかるに、総ての歴史的分節点を、つらつらつらとよーっくその前後の分節点まで、深ーく探ってみたまえ」
 横溝は、ぬいっ、とパンダ口に顔を突きだした。
「――『情動』、それが総てを支配するのだ」
 横溝はくるりと背を向けた。
「じゃ、そーゆーことで」
 おたくたちを従え、悠々と引き揚げていく。
 ――じょ、冗談じゃねえぞ。
 茂パンダは栗の木を激しく揺らしながら、懸命にもがいた。
 もし今が実りの秋だったら、毬《いが》だらけの危険な針鼠状態になっていただろう。
 ――俺は絶対、もう一度なまんだぶするのだ。
 情動が総てを支配するのなら、茂など始めからそれだけで生きているのである。
「ぬおおおおおおっ!」
 茂は満身に力をこめた。
 びしっ、と縄がちぎれて、はじけ飛んだ――と言いたいところだが、さすがに歴史はともかく物理現象のほうは、情動や煩悩だけでは左右できない。
 その代わり――茂が力つきて、ぐったりと栗の幹にたれたとたん、急に胴体のあたりが楽になった。
「ありゃ?」
 胴体をぐるぐる巻きにしていた縄が、ぼとぼとと足もとの地面に落ちていく。
 これは茂の根性でもなんでもない。もともと弾力性のあるリアルパンダが、うにょうにょともがいているうちに、おたくたちのひ弱な腕で縛りつけた縄など、簡単にゆるんでしまったのだ。
 ――なまんだぶ!
 パンダは再び一目散に、でででででと逃げ出した。
 しかし、ほとんど同時に横溝も、その気配を感じて振り返った。
「追え!」

     ★        ★

 おたくたちの追跡は、昨日より何倍もしつこかった。
 林の中には、せらむん様もゴスロリ様も眼鏡様もうろついていない。
 もちろん臨時女子更衣室も、存在しない。
 茂パンダは必至に校舎を目ざしたが、行く先々に、その一やその二やその三が現れて邪魔をする。
 茂はとうとう、もとの河原に走りでてしまった。
 横溝も三人組もそれに気づいて、林のあちこちから河原に飛びだしてくる。
 ――うーむ、ほんとに粘着質な奴らだ。
 人のことを言える茂でもないのだが、現状に関しては、こっちが正当だろう。
 あたふたと逃げ回りながら、茂はさっきから片足に巻きついたままの、最初のロープが気になっていた。
 林の中でも木の根にからんだりしてずいぶん邪魔だったし、河原の砂利の上だと、目立って仕方がない。長さは三・四メートルありそうで、それだけ捕獲される危険も増えてしまうだろう。といって今の自分の体形では、外しようがない。
 一番近くにいたその一だったかその二だったかが、真っ先にそれに気づいた。
 ぷよんとした体形の割には、あんがい身軽に縄の端に飛びつく。
 そのまま腰を落としていると、当然、縄は間もなくぴーんと張り切って――
「あうっ」
 ちょうど流れの岸にいたパンダは、もんどりうって、ざば、と顔面から川に突っこんだ。
「あうあう」
 ――こ、こりはヤバい!
 茂はパニックを予感してしまった。
 パンダ口から、ざばざばと川の水が流れこんでくる。よりによって川上方向に倒れこんでしまったらしく、水は盛大に顔を洗いながら、たちまち腹のほうまでたぷたぷと波打ち始めている。
 ――お、落ち着け、俺。ここは海でも、足の立たないプールでもない。ただの河原の水際だ。
 茂は必死に理性を保とうとしてみたが――無駄だった。なにしろ中一のときには、水深五十センチのプールでさえ、立派に溺れてみせた茂である。
 まあ、一般にトラウマという奴は、理性などというお上品な代物を、いつも無視して暴走するものだ。茂の肺は、まだ吸いこんでもいない水に侵され、たちまち無茶苦茶に暴れまくり始めた。そして体中の筋肉も、それに従ってまともな反応を放棄した。当然、意識もまた底知れない水の中へ、闇雲にもがきながら、ぐんぐん沈んでいく――。
 横溝たちは、その異様な光景を前に、呆然と立ちすくんでいた。
 推定ほんの三十センチほどの浅瀬で、一頭のジャイアント・パンダが、のたうちながら自発的に溺れているのだ。助けるもなにも、じきにパンダはもがきながら仰向けになって、体半分はきちんと水の上だ。それでも力いっぱい溺れ続けている。そんな光景は、たとえ四川省の山中に生涯定住しても、とうていお目にかかれないだろう。
「……なるほど、見事なもんだ」
 つくづく感心したように、横溝がつぶやいた。
 パンダはやがて力尽きたらしく、ひくひくと軽い痙攣を繰り返したあと、ぐったりとたれてしまった。
「……死んだかな」
 その一が不安そうに言った。
 その二はおそるおそるパンダに近寄って、その口の中を覗きこんだ。
「……中身はまだぴくぴく言ってるぞ」
「ノー・プロブレム。こいつの駄文にもあっただろう。気絶しただけだ」
 横溝が冷静に断言した。
「おあつらえむきだ。このまま夜を待ってもらおう」
 横溝はぷかぷか揺れているパンダの横腹に足をかけ、くい、と岸から押しだした。
「……ひえ」
 その三が小さく息を飲んだ。
 パンダは水面に前半分を浮かべたまま、ぷかぷかと下流に向かって流れ始めた。
「心配ご無用。お前たちも着せるとき見ただろう。中身は阿久津以外、ウレタンと発泡スチロールだ。沈むわきゃあない。橋向こうまで流れれば、またどうせどこぞの船が拾い上げてくれるさ。パンダの土左衛門を、見逃す馬鹿はいない」
 その一とその二は、納得してうなずいた。
「ま、行き着く先はどのみち病院だろう。帰りは当分先だ」
 そう言って、先に立って歩き始める横溝に、その一とその二も従った。
 その三だけは、遠ざかり始めるパンダを、なんだかよくわからないものを抱きしめたまま、おどおどと見送っていた。
 実は彼が小学校の頃イジメに会っていたとき、電波を送って助けてくれたファンタジー様――この宇宙に満ちる愛のエーテルを司る者は、仏教信者ででもあったのか、いっさいの殺生禁止を命じてきたのだ。
 もし万が一――。
 その三は少々迷った後、なんだかよくわからないものをひと掴みほど、むち、とちぎって、パンダのほうに放り投げてやった。
 そのなんだかよくわからないものの一部は、ゆっくりと放物線を描き、パンダの腹の上に、ぽと、と落ちた。
 その三はほっとして、横溝たちの後を追い始めた。
 これでもし『万が一』があっても、エーテル界第五天あたりに転生してくれるはずなのだ。

     ★        ★

 ――さて、その頃。
 茂は暗い夜の川を、久しぶりにながめる流し燈篭たちの間を縫って、パンダのままでひたすらに泳いでいた。
 横溝たちに対する恨みなどは、すでにない。いや、感謝したいくらいだった。
 なにしろパンダにしてもらったおかげで、沈む心配がまったくない。
 体がでかいぶん水の抵抗は大きいし、平泳ぎができないので犬掻きに近いパンダ泳ぎになってしまうが、浮力はありがたい。
 それに何より、茂は今まで大事なことに気づけないでいたのである。それを悟れたのは、横溝たちに溺れさせてもらったからこそだ。
 ――また優美ちゃんに会う前に、俺にはまだやらなきゃいかんことが残っていたのだ。
 三度目の正直。
 今度こそ大丈夫、そんな気がする。
 いつもなら見えない夜の川の岸も、今夜はその方角がなんとかわかる。
 いっしょに流れる色とりどりの燈篭の彼方に、ひとつだけ薄ぼんやりと、動かない――いや、流れに乗っていない明かりが見える。なんだかよくわからない色をしているが、流れていないのだから、それは岸で光っているのだ。
 茂パンダは懸命に泳ぎ続けた。
 やがて、忘れもしないあの日の段ボール箱が、燈篭の間で揺れているのが見えた。
 しゃにむにパンダ掻きのペースを上げる。
 箱の縁に、ちんまりとふたつの白い前足が見える。
 その後ろに、ふたつのちいさな白耳も、ちゃんと覗いている。
 茂は胸の高鳴りと、こみ上げてくる熱い何かを感じながら、さらに四本の足を掻き続けた。
 そしてようやく箱までたどり着き、前足で抱え――
「……おっす」
 子猫は伸ばしかけた首を、ちょっとびっくりしたように、あわてて引っこめた。
 覗きこんだのが茂ではなかったので、恐かったのだろう。
「大丈夫。俺」
 その声を覚えていたのか、それとも大熊猫に悪意がないのを本能的に悟ったのか、子猫はまたおずおずと顔を上げた。
 小首をかしげながら、不思議そうにパンダの口を見つめている。
「……さ、帰ろう」
 ようやく声の主がわかったらしい。
 子猫はその大きな瞳で茂の目を見つめながら、
「なー」
 と、嬉しそうにひと声鳴いた。

     ★        ★

 最後の舞台も、大歓声のうちにカーテン・コールを迎えた。
 最前列に陣取った横溝たちも、狂ったように拍手しながら、滝涙をたれ流しにしている。
 もっとも、黒猫様――内田先輩だけは、村娘その一の演技が、中盤以降微妙に乱れているのを見抜いていた。
 その理由も見当がついている。姐御タイプで、後輩の相談事などにもしょっちゅうつきあっているので、「待ち人来たらず」、そんな優美の気持ちが読めてしまう。
 ――ま、それでも、最後のジャンプまできちんとこなしたんだから、文句なし。見こんだだけあるわ。
 メイン・ダンサーが五匹並んで、しなしなと舞台中央に這って行こうとしたとき、客席の後ろのほうから、何かいつもと違ったざわめきが起こった。
 満場の拍手にも、奇妙な波ができている。
 五匹は歩調を乱さない程度に、その体育館の奥の様子をうかがった。
 白猫の瞳が輝いた。
 ――やっぱり、来てくれた。
 折りたたみ椅子群の中央に開かれた通路を、一頭のパンダが、のそのそと歩いてくる。
 全身びしょ濡れで、心身ともにだいぶ苦労したらしいパンダが、床にずるずると水の跡を残しながら近寄ってくる。
 しかしその足取りは、堂々として、確かなペースだった。
 そんな濡れパンダの頼もしい姿が、優美の記憶には、はっきりと残っていた。
 ――そう、あの秋の……最後の手術のとき。
 優美は思わず我を忘れて、他の四匹が止まってからも、そろそろと舞台際まで進んでしまった。
 ――やっぱり、そうだったんだ。夢じゃなかったんだ。
 幕は予定どおり、左右から閉じ始める。
 とまどっている三毛や虎や斑《ぶち》に、黒猫は視線で指示を出した。――ま、このままでいいでしょ。お祭なんだから。
 観客のかなりの部分を占めるリピーターたちも、いつもとは違う展開に、拍手を抑えている。舞台の千秋楽だし、学祭そのものも終幕だから、何か特別な趣向《イベント》が始まるのだろう、そう期待しているらしい。
 その中心にいるパンダと白猫だけが、もはやふたりだけの世界に包まれていた。
 パンダが舞台下までやってくると、白猫は閉じてしまった幕の前で、仮面とウィッグを外してしまった。
 頭の白い耳もいっしょに外れてしまい、そろそろとパンダの前に降り立ったとき、白猫は優美に戻っていた。
 くしゃくしゃになりそうな優美の顔の前で、パンダの口が、あが、と開いた。
 そこから、ちっぽけな白い子猫が、おずおずと顔を出した。
 痩せて、目ばかり大きい、赤ん坊のような子猫。
「なー」
 思いがけない無邪気な挨拶に驚いて、優美の瞳も、まん丸に開いた。
 びしょ濡れの、真っ白な子猫。
 初めて見たはずの子猫なのに、その子猫の姿もまた、ずっと昔から知っているような気がした。
 ――なんだか、おにいちゃんと初めて図書館で会ったときと、同じような気持ち。まるで生まれる前から、ずっと知っていたみたいな……。
 優美は、さらに顔をくしゃくしゃにして、その子猫に両手をさしだした。
 子猫はもそもそとパンダの口から這いだし、優美に両脇を支えられて、ぷらりとたれた。
「なー」
 優美は愛しげに、子猫をそっと胸に抱いた。
 そして濡れた体を温めてやりながら、その小さな頭に、頬をすりよせた。
 子猫も心地良さそうに目を細め、優美の胸に顔を埋めていたが――やがて、その白い胸に溶けるように、ふうっ、と消えていった。
 おお、という歓声が、客席から上がった。
 一拍遅れて、また盛大な拍手も沸き上がった。
 なんだかよくわからない趣向だが、とにかく見事なトリックだ、そう感心していたのである。
 実を言えば、後ろ半分くらいの観客は、猫が小さすぎて何が起こったのかわからず、ただ景気づけでやみくもに手を叩いているだけだった。――いいじゃないか、お祭なんだから。
 パンダを見上げる優美のくしゃくしゃ顔に、とうとう雨が降り始めた。
 自分でもどうしてだかわからない、こんな言葉が口をついた。
「……私は、もう、生きてます」
 黒いさらさら髪の間から、ぴょこん、と白いふたつの耳が生えた。
「……もう、ずっと、生きてました」
 私は何を言ってるんだろう。そしてこんなにうれしいのに、なんで涙が止まらないんだろう――。
 夢の中でまた夢を見ている、そんなあいまいな、しかし心地良い涙だった。
 パンダはゆっくりとうなずいて、優しく、その白い耳を撫でてくれた。
 そのくすぐったい感触も、優美にはなぜか、心から懐かしいものに思えた。
 ――生まれる前の、おにいちゃん?
 ふたつの耳はぴくぴくと震えて、それからさっきの子猫と同じように――ふうっ、と優美の中に消えていった。
 それといっしょに、つかの間よみがえっていた、遠い昔の、生まれる以前の記憶もまた、心の奥深く溶けていった。
 ――でも、生まれたあとも、ずっと………………

     ★        ★

 やがてパンダの背中が、だば、と鈍い音を立てた。
 もともと半分壊れていたファスナーが、その後のパンダの爆走や騒動や、まだ下半身を満たしている水圧に耐えきれず、いっきにほぐれてしまったのである。
 だばだばと床に水を撒き散らしたあと、なんだか急にしぼんでしまったパンダの背中から、無事に茂がのそのそと羽化してきた。
 まあ、羽化などと言っても、それは表面的な構図を例えただけで、びしょぬれのTシャツとトランクス姿の茂は、やっぱり予想どおり蛾か、良く言っても蝉程度のものだった。満場の観客から、明らかに「がっかり」のため息が漏れたのも、しかたないことだろう。
 それでも優美は、けなげにも失望の色を見せなかった。
 むしろ、泣き顔になんだか嬉しそうな色を浮かべて、
「……ごめんなさい、おにいちゃん。ほんとは、もう、わかってたんです……廊下で、遠くから、昨日、見つけたときから……」
 優美は茂の胸に顔を埋め、とうとう派手にしゃくりあげ始めた。
「……だって、あのとき……秋の手術のとき……おにいちゃん、パンダだったから」
 茂はしみじみと微笑んだ。
 そしてこくこくうなずきながら、優美の背中にそっと腕を回した。
 何がどうなっているのかすっきりわかるほど、茂の頭は良くない。
 それでも、今この腕の中で温かく震えているものに、これまでしてやりたかったことは、とりあえず全部できたような気がした。
 あとは、これからだ。
 ――やっとこの手で優美ちゃんにさわれたのに、なんで邪念が涌かないかなあ。
 などと、ちょっとけしからぬことを考えながら、
「……お帰り、みーちゃん」
 と、茂は言った。





  エピローグ【Yes,Virginia】


 さて、たった二日間の学祭の出来事なのに、妙に長たらしくなってしまったこの物語は、実質的には以上でおしまいである。
 満場の観客を前に抱き合ってしまったふたりが、この後その場をどう締めくくったか、それは読者だけでなく、観客にもわからなかった。
 なぜなら、幕の間からこっそりふたりの様子をうかがっていた内田先輩が、「こりゃそろそろヤバいかな」と判断した時点で、他の猫様たちといっしょに背景から暗幕を引きはがし、舞台から飛び降りて、「や、どもども、終わりですう、ども」などと頭を下げながら、まだ抱き合っているふたりを、覆い隠してしまったからだ。
 まあ実際のところ、それまでフォークダンス以外では女子に触れたこともない茂だから、内田先輩が恐れたような大それた行動など、いきなり起こせるはずもなかった。
「晩ご飯、何がいい?」
「……コンビニで、一番高い猫缶がいいです」
「…………マジ?」
「冗談です。おにいちゃんの家の、焼鳥がいいです」
 その程度の会話が交わされただけである。
 まあ、とりあえず優美と抱き合えただけで、茂には上々の成果だったのだろう。

     ★        ★

 読者の中には、それでは最前列に並んでいた例の横溝一派はどうしていたのか、そんな興味をお持ちの物好きな方も、いらっしゃるかもしれない。
 横溝一派は、実は白猫様とパンダがある程度近づいたあたりで、突然タキシード姿の弦楽四重奏団と化し、『慕情』『魅惑のワルツ』『ムーン・リバー』などの定番ムード・ミュージックを、いっしょけんめい演奏していたのである。
 横溝は音楽室のベートーベンを思わせるような荘厳な表情で、チェロを担当していた。
 それまでの罪をつぐなうつもりなのか、あるいは単にその場の『情動』に押し流されていただけなのか――自分の奏でるメロディーに陶酔しきっているその表情からは、誰にも読めなかった。
 第一バイオリン担当の、おたくその一、正式名称・相原は、こう思っていた。
 ――俺ら、いつの間にタキシードに着替えたんだろうなあ。この楽器、どっから降って涌いたんだろうなあ。そもそも、俺、いつバイオリン習ったんだろうなあ。まあ、横溝がノッてるみたいだから、別にいいか。『別マ』のラブコメなんかでも、よくあるパターンだしなあ。
 第二バイオリン担当の、おたくその二、正式名称・柴田は、こう思っていた。
 ――こんなシーンがあるんだったら、家のMIDIマシン持って来りゃ良かったなあ。そしたら俺ひとりだけで、ラスト盛り上げられたのに。ワキならワキで、やっぱりワキとしてのピン張らんと、つまらんわなあ。しかしこの話のソフトハウスは、作風から見てマニアは付くかも知れんが、このままだとじきにつぶれるなあ。俺だったらチャイナとゴスロリの美少女キャラ増やして、それぞれのルート置いて、やっぱし18禁のPC版出さんと、商売にはならんだろうなあ。でも、それだと俺ら男のボイスが、カットされる恐れがあるなあ。あれ? 俺ら、どんな声出してたんだ?
 そして最後にビオラ担当の、おたくその三、正式名称・枕崎は、いつの間にかもとの形に戻ったなんだかよくわからないものを頭上に浮かべて、こう思っていた。
 ――ファンタジー。

     ★        ★

【その後、茂はいきなり学習意欲に目ざめ、「東京芸大や武蔵美や多摩美はあんまりなまんだぶだとしても、日芸なら一浪すればなんとかなるんじゃないか。最悪、デザイン学校もアリか」などと、関東進出を企てた。】

 とか、

【親父は自分の代わりに息子に焼鳥焼かせて、早くから隠居するつもりだったので、茂の進学を強行に阻止しようとした。しかし息子の本心が、ただ優美の近所に行きたいだけだと判明すると、在学中に必ず『落とす』ことを条件に、学資を出してくれた。】

 とか、

【十年後、優美はその前世の影響か、いきなり三つ子を出産した。茂は原稿料も安く、単行本もなかなか出ない貧乏イラストレーターなので、かなり困ってしまった。】

 とか、

【産後もダンススクールの講師を続けた妻のほうが、夫よりもずっと収入が多かった。】

 とか、

【結局、夫婦は子育てに疲れて、爺さんと妙に若い婆さんの助力を得るため峰館に帰ったが、峰館のダンススクールのほうがかえって時給がいいし、毎日焼鳥をつまみ食いできるので、妻も特に不平不満はないらしい。】

 とか、そういったアフターストーリーは、今のところすべて未定である。

     ★        ★

 ……ここまで読んでいただいて、特に作者に腐ったトマトや、ひと月前から炎天下に放置した生クリームパイなどを投げつける必要性を感じなかった読者の方は、ここから先を読んでいただく必要はないと思われる。どうか他の本を手に取って、他の方の作品を楽しんでいただきたい。そのほうが、短い人生の中の貴重なひとときを、有意義に過ごせるのではなかろうか、と、作者は考える。
 しかしこの物語を、物好きにもここまでがまん強く読んでしまって、なおかつ、
『いかにエンタメ系とはいえ非合理的すぎる』
『青春の真の姿が描かれていない』
『ウッソー、ありえなーい』
『虫良すぎ』
 というような感想を持たれた読者のために、作者は次のエピソードをご紹介して、筆を置き――いや、キーボードを離れたいと思う。
 この世界が毎年十二月を迎えるたびに、あちこちで紹介されるエピソードなので、すでにご存知の方も多いだろう。

 時は西暦一八九七年九月、アメリカはニューヨークの、とある小学校で――。
 バージニア・オハンロンという八歳の少女が、友達と楽しくおしゃべりしていた。
「ねえねえ、今年のクリスマスは、サンタクロースにどんなプレゼント頼もうかなあ?」
 すると、それを聞きつけた男の子が、
「バッカでい。ほんとガキなんだからなあ。サンタクロースなんて、いるわきゃねえじゃん」
 まあ、いつの世にも、かわいい子供とかわいくない子供は、ほぼ同数存在するのである。
「えーっ、いるよう。だって、毎年、プレゼントくれるもん」
「だからそれはオヤジやオフクロなの。小学生にもなって、いつまでも夢物語のべてんじゃねーよ」
 さて、それからふたりの論争は、学校上げての論争にまで発展してしまったが、生徒はいるいない半々、教師も『正しい知識重視』タイプと『子供らしい夢重視』タイプが入り乱れ、結局誰もはっきりとは答えられない。
 幼な心をすっかり痛めてしまったバージニアは、パパはなんでも知っている、というわけで、家に帰って父親にたずねてみた。
 ところが父親のフィリップ氏も、知識と夢の板ばさみになってしまったのか、それともサンタクロースがいるかいないか、これまでの人生でまだ確かな結論に達していなかったのか、こんな方向に逃げてしまった。
「わからないことがあったら、新聞に聞いてごらん。ほら、ここに『読者の投稿』って欄があるだろう。ここで聞いてみれば、きっと新聞の人は、ほんとのことを教えてくれるよ」
 そこでバージニアは、家でとっていたサン新聞に、こんな手紙を書いた。

   へんしゅう者さまへ

   わたしは八さいです。
   お友だちが、「サンタクロースなんていないよ」と、いいました。
   お父さんは、「サン新ぶん社なら、ほんとのことをおしえてくれるよ」
   と、いいました。
   どうか、ほんとのことを、おしえてください。
   サンタクロースって、いるんでしょうか?
                             バージニア・オハンロン
                             西九五どおり一一五ばん

 さて、この難しい大問題を解くにあたり、サン新聞社では、五十八才になるベテラン記者フランシス・P・チャーチ氏を、適任と考えた。
 そうして、サンタクロースの存在を証明する唯一無二の論文が、九月二十一日付け社説として、正式に発表されることになる。
 原文あるいは訳文を全文参照することは、多数のクリスマスネタの出版物、およびインターネット上のホームページで現在も可能であるから、ここでの紹介は、冒頭の一節のみにとどめさせていただく。

 ただし、今回の作者の物語を締めくくるに際し、『バージニア』を『おたくちゃん』、『サンタクロース』を『猫耳っ娘』と、あえて別の単語に置き換えて意訳したことを、ここにお断りさせていただく。

    ★          ★

   おたくちゃん、あなたのお友だちは間違っているね。
   その子たちは、きっとこの疑い深い時代の、
   『疑い』という病気に、かかってしまっているんだね。
   その子たちは、目に見えるものしか、信じないんだね。
   そんなことを言う子供、いや、大人でも、
   その狭くて小さな頭でわからないことは、
   『ない』と思っちゃうんだね。

   おたくちゃん、大人の心も子供の心も、
   ほんとにちっぽけなものなんだよ。
   このはてしない世界や、はてしない宇宙の中では、
   それこそ虫みたいに、蟻んこみたいに小さいものなんだ。
   本当に知っていることなんて、ほんの少しだ。
   この世の『真理』だとか、『すべての知識』だとか、
   そんなものを全部見通そうとしても、
   やっぱり蟻んこみたいに、小さすぎるんだ。

   おたくちゃん、たしかに猫耳っ娘はいるんだよ。

   人を愛すること、許すこと、つくすこと、
   そんな、目には見えないものが、ちゃんとあるように――

   ――たしかに猫耳っ娘はいるんだよ。 







                                   ★終★





※文中に、やまさき十三氏・原作、北見けんいち氏・作画のコミック『釣りバカ日誌』の一部を、その映画化作品内台詞として引用させていただきました※
※文中に、谷山浩子氏・作詞『河のほとりに』を、引用させていただきました※
 

2008/10/30(Thu)23:50:27 公開 / バニラダヌキ
■この作品の著作権はバニラダヌキさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
そう、あれは今を去ること4年前の秋。
この『登竜門』で連載させていただいた、我が長編完結第二作目『パンダの夢は猫の夢』を、リニューアル再投稿させていただきます。
改訂前の本作は、現代的な趣向を昭和中期のユーモア文学風に料理する、そんなコンセプトでした。狸は始原おたく世代の、言ってしまえばすでにオヤジなのです。で、幸いなことに当時の当板の皆様からご好評を受け、増長した狸は推敲の上で某出版社の公募に送りつけ、選には漏れたものの編集者のおひとりから「ラノベふうに書いたら面白いのではないか」などというコメントをいただいたのですが、なにせオヤジのことゆえ、『ラノベふう』という表現形式自体が、ピンとこない。
そこでせっせと、いわゆる『ラノベ』を読んでみたのですが、別にライトもヘビーも関係ない、一般小説同様のなんでもあり世界にしか見えません。結局、自分流の昭和中期っぽいしかつめらしい語彙や、読点の少ない長回し文体(?)をできるだけ修正して、オヤジなりに『ジュニア小説』(すでに死語やがな)っぽく改訂し、今度は第12回角川スニーカー大賞などというナウいヤング(だから死語やがな)の新人賞に送りつけてみたところ――おお、第二次選考通過。や、やったぜオヤジ、高エネルギーのお若い方々(たぶん)に混じって、数百作の中からベスト10に残れたぜ、これはもしかして第3次選考にも――などと、文字どおりの『獲らぬ狸の皮算用』に心を躍らせたわけですが――はい、残念でした。世の中、そう甘いものではありません。いや、解ってるんですけどね、オヤジなんで。
さて、秋風も身に浸み始めたサミしい今日この頃、現在打鍵中の長編も私事に追われてなかなか進められない狸といたしましては、あたかも新作に恵まれない落ち目のゲームブランドのごとく、リニューアル商売(いや、無料なんですけどね)を始めてしまいます。
時あたかも、あれからちょうど丸4年――なんか、オリンピックに出たい出たいとあがきつつ、結局消えていくロートルみたいな感じもしますが、まあそこはそれ狸の腹鼓、またどなたか新しい方々のお耳に届いて楽しんでいただくことができるのではないか、あるいは旧作をご存知の方々に「なんでえ、リニューアルなんて言っといて、パッケージとBGMちょこっと変わっただけじゃん」などと顰蹙を買うだけなのか――いずれにせよ、ちょこちょこと再々推敲しながら、なるべく早いペースで更新したいと思います。

わ、10月22日にちょっと誤変換修正に来たら、羽堕様のコメントへのお返しの中で、一部敬称が抜けているのに気づいてしまいました。つつしんでお詫びいたします。

さて、完結いたしました。最後まで読んでいただいた方々に、心より感謝いたします。またこれから読んでいただく方には、心よりお願い申し上げます。「最後まで読んでくれないと泣くぞ」。
なお、実はこの架空の地方都市・峰館を舞台に、『なんだかよくわからないもの』を軸とした連作短編形式の長編(?)もあるのですが、完全なクリスマスネタですので、時期をみはからい、何度目かの推敲をしながら、再公開したいと思っております。
この作品に対する感想 - 昇順
 ジャスミンハイツが終わってしまいましたので、以前の作品にも手を出し始めた天野橋立です。
 過去ログの作品ということで、ひっそりと感想をつけさせていただこうと思ったのですが……面白い! これは面白いです。読み出してやめられなくなって、そのまま最後まで行きました。川で見失った子猫のトラウマが、こんな感動的な形で昇華されるとは。まさに、バニラダヌキさんが常に目指しておられるという情動的カタルシスというのを満喫させていただきました。
 これがライトノベルなのかどうかは僕には良く分かりませんでしたが、少なくともライトノベルの中に混じってさえベスト10まで行ってしまう面白さの作品、ということなのだろうと思いました。
2010/09/28(Tue)21:52:402天野橋立
わ、天野様のクリスマス芸を読んで、ちょいと自前の昔のクリスマス芸(?)を思い出して覗いてみたら、なんと何年ぶりかのご感想が、それもご当人から……平伏して感謝の意をぺこぺこぺこ。
そして感謝ついでに、もしよろしければ、後日譚の『なんだかよくわからないものの聖夜』なども、お暇な折にお目通しいただければ……てゆーか、実はそっちの文体のほうが、本来の狸節っぽかったりするものでして。いや、いっそこの『パンダ』も、天野様なら改稿前の文体のほうが……ぶつぶつぶつ。
2010/10/07(Thu)01:27:540点バニラダヌキ
合計2
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