- 『蒼い髪2』 作者:土塔 美和 / ファンタジー 未分類
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全角28166文字
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天候は良かった。青い空と一緒に飛び立った空輸船以外は、いくら下を覗いても、もう何も見えない。時折、雲の上を飛ぶときだけ、幾重にも重なる雲の飛騨が太陽の光を反射し、目が痛いぐらいだ。
暫くすると彼女は、お茶と菓子を持って現れた。
テーブルにそれらをセットしながら、「王都へは、初めてですか」と聞く。
ナオミが頷くと、こまごまと王都の様子を説明してくれた。
最初は緊張していたナオミも、次第に打ち解けるようになった。
彼女はどうやら貴族ではないらしい。自分の才能だけでここまで伸し上がってきたようだ。だが所詮、平民は平民、これ以上の昇進は望めないらしい。
「よかった、接待して下さったのがあなたで。あの将軍たちではどうしようかっと思った」
彼女は微かに笑うと立ちだし、窓際へ寄る。
「そろそろ、王都が見えてきます」
眼下に広がる王都。それは想像を絶するほどの大きさだ。今まで住んでいた森どころではない。あの森の数十倍、いや数百倍かも。縦横に規則正しく走る道。その道の両サイドに木が植えられている。これも規則正しく並んで。その中は建物が隙間なくぎっしりと立っている。そしてそれらの町を過ぎると、広大な敷地にまるで鷲が両翼を広げたような建物が見えてきた。
「あれが、鷲宮で御座います」
鷲宮。大鷲が両翼を広げたギルバ帝国の紋章そのものの形をしている。
今のネルガルの中枢だ。
そしてその後ろに、森林とともに点在する建物が皇帝の別邸であり、奥方たちの館でもあった。
彼女の話では、ナオミもあの一画に館をもらえるらしい。ただし貴族でないナオミは、鷲宮からかなり離れた所になる。鷲宮を中心に前方は門閥貴族たちの館、そしてその後方は門閥貴族たちの血を引く奥方の館で、その外側が一般貴族、そしてその外側が平民となっている。もっとも平民は、泊りがけの使用人以外は王宮の敷地には住めないことになっている。
空輸船はしだいに高度を下げ空輸港へ着陸した。
既に出口には車が待機していた。
「お荷物は」と言う彼女に対して、
「これしか」と、ナオミは笛を見せる。
「望まれての結婚ではありませんから」
その点の事情は彼女も知っていた。
彼女はそっとナオミに近づくと、
「ご自愛を。あそこは人の住む所ではありませんから」
えっ。という顔をするナオミに、
「直にわかります。では、私はこれで。ここからは平民は入れませんので」
彼女は一歩ナオミから離れると、軍隊式の挨拶をした。
ナオミも丁寧に頭を下げた。
ここからは宮内部の方で取り仕切るようだ。
軍人ではないが、スーツをバシッと着こなした女性が車のドアを開けた。
車は向かい合わせのシートで、中央にテーブルが置いてある。
何人ぐらい乗れるのかなと思っているうちに、動き出した。
彼女はナオミの向かい側に座ると、
「館まで、ご案内いたします」
名前は名乗る必要もないという感じだ。事務的に事を進めようとしている。
空輸港を出た車は、鷲宮を大きく迂回しその裏側へと廻り込む。
鷲宮は言うなれば皇帝の執務室であり、その後ろに皇帝の館があり、奥方たちの館がある。
「あちらが、第六夫人の館です。こちらが第四夫人、そちらの奥が第二夫人の館です」
そして今までの館よりひときわ大きく美しい館が見えてきた。
「あれが第一夫人の館です」
それ以外にも館は点在している。
なるほど、これでは宮内部が事務的になるのも仕方ないか。しかし、一体何人奥方がいるのだろう。
鷲宮からかなり離れた所に館が見えてきた。今までの館に比べれば小さい。それでもナオミにしてみれば大きすぎる。
「こちらがあなた様の館になります」
既にエントランスには数名の者が出迎えに出ていた。
車が止まると同時にドアが開けられる。
彼女は先立って降りると、
「どうぞ」と、並んでいる者の間を進んでいく。
ナオミはどうしてよいやら迷いながらも、彼女の後に続いた。
エントランス・ホールはサロンも兼ねているのか天井が吹き抜けになっている。
これでは五百人収容してもと思いつつ天井を見上げた。大きなシャンデリアが垂れている。
落ちてきたら、危ないな。
ホール奥には、クラシックな階段が美しい曲線を描き大きな口を開けている。
二階には執務室と謁見の間があり、ここは王子が生まれ成長した時に使われる。その奥が客室とナオミの居住室になるようだ。三階はおもに使用人の部屋で、表からは上がれないようになっている。
一通り館の説明をすると、先程エントランスに並んでいた者たちをホールに呼び入れた。
「この者たちが、あなた様の身の回りのお世話をいたします」
女が一人前に進み出ると、
「ルイーズ・ペチルッチと申します。よろしくお願いいたします」と頭を下げると、後ろに控えていた者たちも全員頭を下げた。
ナオミも、「こちらこそ」と頭を下げた時、頭上で咳払いが聞こえる。
「奥方ともあろう方が、使用人に頭など下げるものではありません。あなた様は、貴族としての振る舞いをご存知ではないようですので、誰か手ごろな者を教育者としてお付けいたしましょう」
「貴族としての振る舞い?」
「はい、そうです。空輸場でもそうでした。あのような者と親しそうに口をお聞きになるとは、以後慎んでください。それと、何かご不自由なことが御座いましたら、なんなりとこの者に言い付けて下さい」
それだけ言うと、後をルイーズに頼み、彼女は出て行った。
一人取り残されたナオミは、どうしてよいか困った。
ルイーズ・ペチルッチ。名前が二つ、個人名と家族名。名前が二つと言うことは、彼女は平民なのね。貴族なら名前は三つあると、船の中でヤンス少尉が教えてくれた。個人名と家族名の間に門閥名がはいる。そして王子や王女の場合は、個人名の次にギルバ、そして母親の門閥名がくる。でも私の名前は一つ。こういうのって、どうするのだろう。などといろいろ考えてボーとしていると、
「ナオミ様、お食事は」と、ルイーズが聞いていた。
食事。そう言えば、船の中で菓子を摘んだだけで、朝から何も食べていない。食いしん坊の私にしてみれば、珍しいことだ。
「まだです」
「それではさっそくご用意いたしますが、お嫌いなものは」
嫌いなものと言われても、ナオミには心当たりがない。
「ありません。食べられるものなら、なんでも」と言ったとたん、皆に笑われた。
しかも遠慮しながらくすくすと笑うから、なんとなく気まずい。
それからルイーズは後ろに控えている者を紹介してくれたが、あまり多すぎて、ナオミの記憶にはさっぱり残らなかった。
まあいいわ、そのうち覚えれば。
食事ができるまで、ナオミは二階の控えの間に案内された。控えの間といっても二十畳ほどはある。周りがぐるりとクローゼットになっており、扉を開けると服がいっぱい下がっていた。
「これは?」
「用意いたしました。一日でのことでしたので、大変でした」
「そっ、そうよね」
「まだ、全部用意しきれませんでしたので、後々届くと思います」
まだ、あるの。これだけでも充分なのに。
「お召し替えになりませんか。その服では」
「でも、この服は、友人からもらった大事な」
あの村では美しい服だと思った。だが今目の前にある服に比べると、はるかに見劣りする。
「では、クリーニングをかけまして」
二度と着ることはないが大事に取っておくということらしい。
だが村に帰る時は、必ずこの服を着て帰る。
ナオミはそう心に誓った。御子様と一緒に。
次の日、宮内部から二人の女性が派遣されてきた。
一人はモリー・フレイ・ナウンスキーと言い、四十代前半の小太りでおっとりした感じの女性だ。もう一人は、デラ・セベルド・マーゴリスと言い、三十代前半で、如何にもキャリア派という感じがする。
ナオミはこの二人によって、徹底的にここでの生活習慣を教わるのだが。
「どうしたのじゃ、近頃元気がないのー。さては、相当いびられておるのか」
「ヨウカ様」
ナオミはあまりの驚きに思わず大声でヨウカの名前を呼んでしまったものの、慌てて周りを見回し、誰もいないことを確認したうえで、ヨウカに近づき耳打ちする。
「どうして、ここへ? 森にいらしたのではないのですか」
「わらわは、ずーとここにおったわ」
えっ! 驚くナオミに、
「お前が車に乗っている時も、空輸機に乗っている時も、ずーとお前の膝の上におったわ。気づかなんだか」
ナオミは全然気づかなかったと言うように首を大きく横に振ったが、それと同時に熱いものが目に押し寄せて来た。
慌ててヨウカに背を向け目頭を袖口で拭くが、なかなか止まらない。
帰りたい、森へ。
「どうしたのじゃ」
「なんでもないわ」
気を張れば涙は止まったが、ヨウカの方は見られない。
ナオミは誤魔化すためにヨウカに背を向けたまま、窓際へと歩み寄った。
二階から見下ろす池。
「あの池、重機を入れて四角くしようとしていたから、私、止めさせたの。このままの方が風情があるでしょ」
「そうじゃの」
ヨウカもいつの間にか隣に立ち、池を眺めている。
「どことなく、村の池に似とるのー」
「ヨウカ様も、そう思う?」
「あのな、そのヨウカ様というのは止めてくれないか、気色悪い。前にも言ったと思うがのー」
「では、何て呼ぶの?」
「ヨウカでよい」
「でも、神様の使いですもの、呼び捨てには」
ナオミはしばし考えると、「ヨウカさん」と呼んだ。
「なんじゃ。うん、これでよいの」
ヨウカはさも納得したように頷く。
「ナオミ、あんまり奴らの言うこと、気にすることはないぞ。ここはお前の館なのだから、お前の好きにすればよい」
「でも」とナオミが俯くと、
「もっとも、最初から逆らうと骨じゃきに、最初ははいはいと頭を下げとくのじゃ。折をみて、反撃にでればよい。まずは味方を作ることから始めんとな」
「なに、それ」
「勝ための方法じゃ」
ヨウカはぐるりと部屋を眺める。
だが実際、ヨウカの目には何も見えていない。ヨウカとナオミでは住む世界が違う。二つの世界は重なるようで微妙な歪みができている。その歪みが邪魔をしお互いの世界が見えない。まれにその歪みを無視して、薄ぼんやりと相手の世界を見ることが出来るものがいることはいるが。ヨウカがナオミの世界を見る場合は、自分の近くに居る生物の視力を借りる。今、ヨウカの近くに居るのはナオミだ。よってヨウカは、必然的にナオミの目を通してこの世界を見ている。だから部屋を眺める仕種をしても無意味なのだが、これはナオミに心を合わせるため。
「しかし、蛮族にしては随分華美じゃのー。これじゃ、掃除するのがたいへんじゃろう。もっともわらわがするわけじゃないがのー、侍女らが気の毒じゃ」
ナオミはくすくす笑った。
「何が、おかしいのじゃ」
「だって、ヨウカさんでも、人の事を心配するのかと思うと」
想像もしなかったとは、口にしない。
「侍女たちに言っておきますわ、あなた方の苦労を、たいへん労っていらっしゃる方がいると」
ナオミもレリーフの多さには驚いた。テーブルの脚ひとつ取っても、無駄に装飾してある。これでは誇りがたまって。
つまりヨウカの思ったことは、ナオミの思ったことなのだ。ナオミの目を借りると言うことは、ナオミが見て感じたことをそのまま受け取ることになる。池も、ナオミが村の池に似ていると思うから、ヨウカにもそう見えるだけだ。
「なんじゃ、急にきどって」と、ヨウカは急に貴婦人ぽい言い方をしたナオミをからかおうとしたが、
「でも、蛮族とは私たちの方よ」と、ナオミは真剣に話し出す。
「わらわの、どこが蛮族だと言うのじゃ」
「ヨウカさんのことではなくて、村のことよ。ここと比べれば」
「そうかのー、わらわの目にはどちらも同じく見えるがのー」
ヨウカの目には魂しか見えない。魂は空間の歪みを超越して見える。どんなに華やかな衣装を纏っていようと、どんな豪華な椅子に座っていようと、ヨウカに見えるのは薄ぼんやりと光る魂のみ。まれにその魂が強烈な光を放っていることがある。それが、彼らが竜と呼ぶ魂。
「そうなの」と、またナオミは俯いてしまった。
ここに来て感じるのは、劣等感のみ。
どうしてあの村は、あんなに遅れているの。
ヨウカはナオミが落ち込んでいる訳がわかったのか、急に話題を変えた。
「なっ、ナオミ。皇帝のこと、どう思う」
ナオミには答えられなかった。思い出すだけでも。
「わらわは、ああいう男、嫌いじゃないのー」
驚いてナオミはヨウカを見上げる。
ヨウカは池を眺めながら、
「あやつはわりと合理的じゃ。あやつはあやつで、この国を守るために必死なだけじゃ。他に悪気はない」
「他に悪気はないって言ったって、彼は、カムイの町を、ザグートも、破壊してしまったのよ」
ナオミはまくし立てた。
「その、どこが、悪気がなくってできるものですか。カムイの家族は、皆殺しになったのよ」
ヨウカはナオミの勢いを鼻で笑うかたちで受け止めると、
「カムイの町は知らん。わらわは行ったことないからのー。じゃが、ザグートは、滅ぼされても仕方なかった」
「それ、どういうこと?」
ナオミはヨウカに詰め寄る。
「ザグートは、反乱分子の巣窟だったのじゃ」
「反乱分子?」
「そうじゃ、どの世界にもどの時代にもおる。この社会システムを採用するからにはな。仕方がないことじゃ。必要悪と言うのかのー。森のシステムとは違うきに、どちらが蛮族かとは言いがたい。もっとも、森のシステムでも文句を言う奴はおるがの、まあ、どのシステムにも付き物なのじゃろう」
「森のシステムとは違う?」
「ここに居れば、おちおちわかる」
「でも、どうしてヨウカさんはザグートが」
「レーゼに頼まれて、様子を見に行ったことがあるのじゃ」
「レーゼ様に?」
「ザグートから戻って来た奴らの話を聞いて、不審に思ったのじゃろう」
ナオミは意外な話を聞くような気がした。
あのレーゼ様が、いつも穏やかで優しくって。
「ちょうどその頃、テールがおもしろいものを持って来よってのー」
「兄さんが?」
「そうじゃ、ある兵器の設計図じゃ。お前の両親が残した」
「私の両親が?」
「テールから、何も聞いておらんのか」
ナオミは軽く首を横に振る。
「もともとは隕石を破壊する装置らしいが。おそらくどこかの衛星で、隕石にでも悩まされている基地でもあったのじゃろう」
「隕石を破壊する装置?」
「あんなものが兵器に使われた日には、たまったものではない」
どうしてそんな設計図を両親が持っていたのだろうと、ナオミは疑問に思いつつヨウカの話を聞いた。
「あの村は、ザグートとの関係が深かったからのー」
外貨の大半はザグートとの取引で得ていた。
「ザグートの残党があの村に逃げ込んだのではないかと、皇帝でなくとも考えるじゃろー。じゃから、わざわざ様子見に立ち寄ったのじゃ。森の外に軍隊を待機させておいてのー。そこにたまたまお前の婚礼があった。調査した結果、残党を匿っているふしもない。なにしろ村の奴等は皆、のどかじゃきに。いくら軍事訓練をしたところで、実際に人を殺すとなるとのー。奴ら軍人は殺しのプロじゃきに、お前らを見れば人を殺せるかどうか、直ぐ解かる。それでお前に興味を持ったというだけのことじゃ。唯一、あの村で危険な目をしているのは、カムイだけじゃ。奴は人を殺したことがある」
「ええ、あるわ。聞いたことがある。妹を守るために」
「ほー、あやつには、妹がおったのか」
「ええ、おぶって逃げたそうよ。やっと安全な所に来たと思った時には、妹は既に背中で息絶えていたそうよ。身内も誰も居なくなっていて、その場に妹を葬ったそうだけど、その場所がどこだか覚えていないそうよ。気づいた時には、あの森の中に横たわっていた」
「そうか、それでお前のことを妹だと思っておったのか。あやつの妹も、そうとう生意気じゃったのだろうな」
「それ、どういう意味」と、ナオミは頬を膨らまして言う。
「言葉通りじゃ、他意はない」
「もー」と言いながらも、
「カムイはこのこと知っていたのかしら。どうして自分の町が襲撃されたか」
「さあ、どうじゃろう。その頃はまだ子供じゃたろう。あの村では子供も政治に口を出せるが、普通は出せないのじゃ。特に反乱軍では、情報の漏洩は一番嫌うきに」
ナオミは暫く黙り込んでしまった。
反乱軍なんて言葉、初めて聞く。
「レーゼ様は、ザグートがこうなることは?」
「おそらく予測しておったじゃろうな」
「どうにかならなかったのですか」
「このシステムを採用したからには、走り続けるしかないのじゃ。一度でも足を止めれば、社会は窒息する。サメと同じじゃ。貨幣という海の中を泳ぎ続けないと死ぬのじゃ。知っちょるか、サメは泳いでいないと呼吸ができんそうじゃ。じゃきに、寝ている時も泳いでおる。眠ることも許されないのじゃ。飛んで火に入る夏の虫のようにのー。貨幣の周りをぐるぐると回り続ける。最後にはその回転の速さに付いていけず、脱落するか一緒に破裂するかじゃ。脱落した者が反乱分子になるのじゃ。もう何万年も前から繰り返しているのに、まだこりずにこのシステムを採用し続けておる。考えのない連中じゃ」
「村のシステムは違うと?」
「さあ、どうじゃろう。わらわには解からん」
エルシアは違うシステムを採用しようとしていた。だがそれは、人間の欲望の前では余りにも脆い。現に、五百年前に壊れかけた。人がもっと精神的に進化しなければ、奴の考えるシステムは回転しない。
「既にこの国は、地上の全ての国を併呑しておる。ここで足を止めるわけにゆかんからのー、星系に目を向けたと言う事じゃ。既に星系も、着々と我が物にしてきておるきに。なかなかの男じゃよのー、エルシアとは真逆を行く。なかなかおもしろいとは思わぬか」
ヨウカは楽しげな顔をしつつ、池を眺める。
一体この人、何を考えているのだろう。
ヨウカはナオミの方に振り向くと、
「どうじゃ、少しは世間が広―なったがや。人は、より深い心配事を抱え込むと、ちんけな悩みはどうでもよくなるものじゃ」
「ちんけな悩み?」
「そうじゃ、お前のくだらぬ劣等感の事じゃ」
もう。とナオミは脹れる。何を偉そうに話しているのかと思えば、私の劣等感を消すため。だが確かにそうだと思った。
「皇帝とエルシア。水と油じゃのー。今生は、おもしろいやもしれぬ」
ヨウカのその言葉が何を意味しているのか、今のナオミにはまだ解らなかった。
「奥方様、どうなさいました」
ナオミは侍女の声に、ふと我に返り声の方を振り返った。
ヨウカはまだ窓際にいる。
ナオミは慌ててヨウカを隠すように侍女とヨウカの間に立ったが、
(心配はいらぬ。わらわの姿は、お前にしか見えぬ)
えっ! と思いつつ侍女の様子を伺うと、確かに侍女には見えていないようで、心配そうな顔で私を見ているだけだ。
「どうかと、言いますと?」
「先程、大きなお声が」
あまりの驚きに声を張り上げてしまっていた。
「いつから、そこに?」
「お声がいたしましたから、直ぐに駆けつけて参りました」
と言う事は、かなり前から。だがそれにしては侍女は息を切らしている。今、駆けつけて来たような。
「お声がしましてから一分と経っていないと思います。ただ奥方様が池を眺めておられたようですので、声をお掛けするのを暫しためらっておりましたが、それでも二分とは」
「そうですか」と、ナオミはまた池を見る。
あの時と同じだわ。あの時も、随分遊んだような気がしたけど実際には一晩だった。
(そうじゃ。わらわといる時は、時間は余り必要としない)
ナオミは一瞬、ヨウカを見たがまた視線を池に戻すと、
「ルイーズさんに言付けてもらえませんか。あの池の中ほどに、祠を一つ建てて欲しいと。五十センチ四方の小さなものでよいのですが」
「祠ですか?」
侍女は暫し考え込む。
「ええ、神の住む家です」
(わらわはそんな所には住まんぞ)
(私の気分の問題です)と、ナオミは心で話しかける。
「神殿のことですね」
侍女はやっと意味がわかったかのように、明るい顔をして、
「わかりました。お伝えしておきます。それと、一階のテラスの方にお茶の用意ができております」
ナオミがよく池を眺めているものだから、侍女たちは気を利かせて、池に張り出しているテラスに午後のお茶を用意してくれるようになった。
「ありがとう、今行きます」
ナオミは笛を持つと侍女の後に続いた。
なんだか、池に向かって笛が吹きたくなった。
(よく練習しときや、お前、村でも下手な方だったきに)
もう、一言多いんだから。と思いつつ振り向くと、既にそこにヨウカの姿はなかった。
ずっと居てくれたのね、私ひとりではなかったんだ。ありがとう。
門閥貴族の豪勢な館が立ち並ぶ一画に、軍専用車が入っていった。
中でもひときわ豪華な屋敷の前で止まる。
車が止まるや、エントランスに待機していた執事が車に駆け寄りドアを開ける。
「お帰りなさいませ。先程からヤンス少尉がお待ちかねです」
将軍は腕の携帯機で時間を確認すると、
「もうこんな時間か、思ったより会議が長引いたな」と言いつつ、上着を剥くと従者に渡し、足早に屋敷の中へと入って行った。
ヤンス少尉は幾つかある客間の一室で、自分の上官であるクリンベルク大将の帰宅を待っていた。出されたお茶には手も付けず、壁一面に貼られた絵画を見ている。カイザス・クリンベルク・アプロニア伯爵、これが彼女の上官の正式名称だ。軍を指揮させれば右に出るものはいないと言われるほどの実力者で、皇帝の覚えもめでいた。骨董のコレクターとしても知られている。特に絵画と武器。この部屋は絵画しか飾られていないが、ここに案内されるまでに通った部屋や廊下には、ところどころ古代の甲冑や武器が飾られていた。
しかし、この絵のどこがいいのやら。と思いつつ、彼女は幾つかの絵をじっくりと眺める。教養のない自分にはわからない。と思いながらも、将軍も実際はわかっておられないのでは。と思うことがしばしばある。だって、気安く人にくれてしまうのですもの、誕生日祝いだなどと言って。もしかしてこれって、隠れ蓑。皇帝の猜疑心から自分を守るための。部下が強くなれば強くなるほど、皇帝だって警戒する。いつか自分の寝首をかきに来るのではないかと。だから自分は地位や名声よりお金の方が大切です。と言うがごとくに、贅沢な屋敷に住み、高価な絵画を買いあさる。まるでネルガル帝国があるから、自分は贅沢な生活ができるのだと実証しているように。
これって私の考えすぎかな。と思いつつ、彼女は次の絵を見る。でも、どこがいいのかさっぱりわからない。
思わず絵の前で肩をすくめていると、
「随分、待ったかね」
ドアが開くなり、言葉をかけられた。
「いえ、たいしたことはありません、閣下」
彼女はその場で慌てて敬礼した。緊張がはしる。
平民の身で将軍と対等な立場で話せる。これがこの将軍のおもしろいところだ。実力さえあれば、身分に関係なく対等にあつかってくれる。私は幸運だ。この将軍の下に配属されて。他の将軍ではこうはいかないだろう。
「まあ、掛けたまえ。何か飲むかね」
将軍は奥のバー・ラウンジからワインとグラスを持って来た。
「わたしがやりましょうか」と言うのに対し、将軍はそれを片手で制し、自らワインを注いでくれた。
どうやら、人払いがされているようだ。
将軍は反対側のソファに深く腰掛けると、ワインを傾ける。
「どうかね、君も」
「はい、いただきます」
暫し沈黙があった後、将軍は体を前に出すように座りなおすと、
「どうだったね」と、感想を聞いてきた。
「君とは年も近いことだし、話も弾んだのではないかと思ったのだが」
「はい、いろいろと話しました。最初は緊張なされていたご様子ですが、最後には五時間という時間が短いぐらいに」
「そうか、それで」
「私には、普通の少女のように思えました。特別変わったようなところは、見当たりませんでしたが」
「そうか」と、将軍は視線を宙に浮かし座りなおすと、
「陛下にも困ったものだ。どうせ旅先の土産なら、おいしいものにでもしてくれた方が、どんなに有り難いか」
その言葉にヤンスはワインを吹き出しそうになったが、彼女との会話でふと気になることを思い出し、「ただ」と口にする。
思わず出た言葉なのに、将軍は目ざとい。
「ただ、なんだね」
ヤンスは迷いながらも、将軍に問われれば答えるしかない。
「私の気のせいかとも思いますが」と、前置きをしつつ、
「ご気性が、少しばかり激しいのではと」
一見、お淑やかそうな少女に見えるのだが。
「また、それはどうして」
「ときおり、言葉の端々にご自身の意思をはっきりさせるようなところが御座いましたもので」
「なるほど、深窓の美姫というわけにはいかないか」
ただ俯いておとなしくしていてくれればこちらもやりやすいのだが、他の奥方ともめるようなことだけは避けたいものだ。
「引き続き、彼女を監視してはもらえないか」
「私が、ですか」
「君の人に対する洞察力を、私は高く評価しているものでね。ただし、王子が生まれるまでだ。王子が生まれれば、王子に侍従武官を付け直接監視させる」
ヤンスは不思議な顔をして、
「王子と言われますと、既に懐妊なされておられたのですか」
そのようには見えなかったが。
「いや、まだだ」
「では、どうして王子だと」
「一年も前からわかっているそうだ。生まれるのは男、髪は紅、瞳は緑。もっとも今回は父親が違ってしまったから、その姿かどうかはわからないが」
「神の子ですか」
やはり将軍もあの噂を気になされておられるのか。
将軍はゆっくりワインを傾けると、ソファに深く座りなおす。
「おそらく儀式だろう。人は人によって支配されるのを好まない。だが相手が神なら、従順になれる」
「しかし、神など存在しません」
「だから、儀式だと言っているのだ。おそらくあの村のシステム。神に選ばれたという娘が生んだ子を神として育てる。無論教養のある者たちが付いて育てるのだから、その子はそれなりの教養を見に付けるだろう。そしてその子によって村を支配する。これも皆が平和に暮らす一種の社会システムだ」
「しかし村人が神を信じなければ」
このシステムは成り立たない。
「神を信じなくとも、その者の政治がよければ村人は文句をいうまい」
しかしこのシステムであの村はどのぐらい栄えてきたのだろう。教養も科学力もかなりの高水準だという報告を受けている。
世界地図に存在しない村。どの地図を広げても、あの村のある位置は砂漠になっている。時折、砂漠の中に森を見たという者がいる。まるで蜃気楼のような存在。だが確かに近くの町はその村と取引をしている。そして今、こうやってその村から一人の少女を拉致して来た。
将軍は頭を抱え込む。
「まったく、それでなくとも問題が山積みだというのに」
神の子を生む娘など、陛下の身辺警護を担う将軍にしてみれば、頭痛の種以外のなにものでもない。
「しかし、おかわいそうですね、王子とはいえ母親が平民では」
捨石にしか使われない。
「この際、同情はなしだ。とにかく監視を頼む。もしも生まれてきた子が人外のものであれば」
そんなことはあり得ないと思うが、宇宙は広い。未知の生命がいくらでも存在する。その一種があの森に住み着いていたとしてもおかしくはない。
「それなりの処分を考えなければならないからな」
「かしこまりました」と、ヤンスは軽く頭を下げる。
「それと、母子の思想には注意を払っといてくれ。もし子供を神として横柄な態度に出るようなことがあれば」
今のところ村には敵意がない。反乱分子を匿っている様子も伺えないし、村人の気質もいたって穏やかなようだ。だがあの母子の思想しだいでは、小さな村だからといって放置しておくわけにもいかなくなる。どんな堅固な要塞でも、些細なところから崩れるものだ。危険な目は早くに積むに限る。
「あの屋敷には、あくまで屋敷の護衛という形ではいる。そのことについては、私から宮内部に口添えしておこう。人手が必要なら私の屋敷から連れて行くがよい。その他に必要なものがあれば何なりと申し出ろ。とにかく、頼む」と言われてしまえば、彼女は立って敬礼するしかなかった。
できれば少女のお腹の子の見張りよりは、軍艦に乗っていたい。これがミルリー・ヤヌス少尉の本当の気持ちだ。
まあ、ここまで出世できたのも将軍のおかげだ。ここは協力するしかないか。
彼女がそう腹をくくってその場を去ろうとしたとき、
「よかったら、持って行くかね」と、将軍から声を掛けられた。
「何を、ですか」
「絵だよ、随分しんみりと眺めていたようだから」
彼女はあわてて、
「いえ、遠慮しておきます。いただいたところで、私には価値がわかりませんので、絵がかわいそうです」
実際は置き場がないからだ。この部屋自体がかなり広いから、どの絵もさほど大きくは見えないのだろうが、どう見ても一番小さな絵でも、畳二帖はありそうだ。そんなもの掛けておく壁がない。
「そうか」と言うと、将軍はまたゆっくりとグラスを傾けた。
数日後、池に小さな祠というよりも神殿が設置された。
少しイメージが違うけど、只でやってもらうのだから仕方がないかと、ナオミは諦めつつ祠を眺めた。
「いかがですか」
聞き覚えのある声に、ナオミは思わず振り向いた。
「確か、ヤンス少尉」
「覚えていてくださいましたか」
「どうして、ここへ」
「あなた様とこのお屋敷の、護衛を言い付かりました」
「護衛?」
既に後宮は頑丈な壁とバリアで覆われている。その上護衛など必要ないと思うのだが。
「どのお屋敷にも、護衛の兵士が配置されております。王子様がお生まれになるまでは、私が担当になりました。王子様がお生まれになれば、護衛も強化されることになりますので、私はお役ご免になります。其れまでの間ですが、よろしくお願いいたします」と、ヤンスは丁寧に頭をさげてから、
「どうですか、もうこちらの生活には馴染まれましたか」と、親しげに声を掛けてきた。
まずは、警戒心を持たれないこと。ヤンス少尉はここから始めることにした。
「庭など、散歩されましたか」
「屋敷の中だけでも、迷子になりそうなのに、まだ庭までは」
部屋数だけでも、大小合わせて五十はくだらない。使用人の部屋まで合わせたら、いったい幾部屋あるのだろう。これで小さな館だそうだか、では鷲宮の近くにある夫人たちの館はいったい幾部屋あるのだろう。生活するのにこんなにいらない。これではかえって広すぎて寂しさが増すばかりだ。
「お時間があるようでしたら、私がご案内いたします」
時間? そういえば丁度、休憩時間でもある。
「一時間ぐらいでしたら」
「それでは、果樹園まで行けますね」
「果樹園があるのですか」
ナオミの瞳は輝いた。
「行ってみますか」
「ええ、是非とも」
だがナオミは自分の服を見る。長いドレス。これでは思うように歩くことすらできない。まして走ることなど、もってのほか。
「大丈夫ですよ、お車を用意いたしますので」
車? 庭を散歩するのに?
用意された車は、荷台を入れると五、六人ぐらい乗れる馬車のようなもので、モーターで動いている。
「どうぞ」と、助手席に乗せられた。
車はゆっくりと動き出す。
「このお屋敷は、秋の収穫の時、陛下も何度か起こしになられたことがあるそうです。上流貴族の奥方様は、鷲宮から遠いと敬遠されますが、私などは幾つかあるお屋敷の中では、ここは静かで好きなのですが。果樹園があるのも、このお屋敷だけです」
実際この王都では鷲宮から離れれば離れるほど、身分が低くなることを意味する。貴族の館も奥方の館も。しかしヤンスは強いてそれを口にしなかった。直に解ることだから。
そうなのですか。という感じにナオミはヤンスの話を聞く。
「何でもご存知なのですね、ここは長いのですか」
姿から見て、私の年齢と十も違わないと思われるのだが。
「いえ、ここへ来たのは三年前です。ただこのお屋敷の護衛をする都合上、いろいろと調べましたので」
「では、今の知識は一夜漬け」
「そうですね」
ここら辺は平民の会話だった。
ナオミは笑う。ヤンスも笑った。
ナオミはここへ来て、毎日貴族としての嗜みばかり教えられていた。いい加減、うんざりしていた。やっと同じレベルで話せる友達を得たような。
「あれがそうです」と、ヤンスに案内された果樹園は荒れに荒れていた。
伸びるがままに放置されている枝、いろいろな種類の木があるがこれではどれも実を付けない。まずは、剪定をしなければ。
ナオミはやっと自分の生きがいを見つけたような気がした。
ここで教わる立ち振る舞いや教養、だがそこには生活しているという実感がなかった。そんなこと出来なくとも知らなくとも、死ぬようなことはない。だが村で教わったことは、出来なければ知らなければ、生きて行けない。まずは食べ物を作ること。
「剪定をしなければ」
いきなり話出したナオミの言葉を、ヤンスは先手と聞き違えた。緊張が走る。
「先手ですか」
何のために。と思っていると、
「一、二年は諦めましょう。まず、全部無駄な枝をおろして」
一、二年は、潜伏して様子を伺うということか?
「何のことですか」
「実を成らせるためですよ。あの木なんて、あんなに伸ばして。あれでは駄目です。あの木は、新芽に花が付くのです。新芽を多く出すためには、あんなに枝を伸ばさせては駄目なのです」
ここら辺は、ナオミは詳しかった。村で充分教わってきたから。否、おいしい実がなる木は好きだから、その木の性質も自然に覚えてしまった。もっとたくさん成らそうという欲から。
急に積極的に話し出すナオミを見て、ヤンスは驚いた。
やはり、田舎娘なのね。
自分はスラムで育った。だから野良仕事は知らない。あの町では盗むか恵んでもらうかだった。その生活から足を洗うには。戦で幼くして父を亡くしたヤンスは、父に代わって家族を養うため女だてらに軍隊に入った。それも募集年齢前から。家族の口減らしの意味もあった。貴族の屋敷で奉公するよりもはましだと思って。
「奥方様、そろそろ戻りませんと」
ヤンスに言われ、ナオミはアクセサリー化した腕の携帯機を見る。
「ほんと、もうこんな時間。ありがとうヤンス少尉。おかげでよい場所を知りました」
「二人だけの時はミルリーで結構です。少尉などと呼ばれては」
「では私もナオミでいいわ。奥方様なんて呼ばれては、何か話がしづらいもの」
「そうは参りません」
「では、私もヤンス少尉と呼ぶわ」
二人はしばし顔を見合わせた。根気比べのような。先に辞したのはヤンスの方だった。
「わかりました。ナオミさんとお呼びいたします、二人だけの時は」
「どこへいらしていたのですか、先程からダンスの先生がお待ちかねです」
「申し訳ありません、私がお引止めいたしたもので」と、ヤンスが謝る。
「クリンベルク将軍から使わされた護衛ですね。奥方様の日程表を渡しますので、以後、時間は厳守して下さい。今回は将軍の顔を立てて不問にしておきます」
「申し訳ありません。以後、気を付けます」
今回はヤンスのおかげでナオミまで小言がまわってこなかった。
ナオミはあの日以来、しばしば果樹園に出向くようになった。最初はドレスの裾を絡げて、自ら木に登り枝をおろそうとした。それを見かねたヤンスが植木職人を呼んだはいいが、
「その枝を切ってはだめ。あなた方、何を考えているの」と、ナオミの強い叱責。
植木職人としては見栄えのよさを気にする。だがナオミとしては、いかに実を付けさせるかを気にしていた。当然、剪定の仕方も違う。
「もう、そんなところを切ってしまったら、その木は実を付けるようになるまで、何年かかると思っているの」
結局、ナオミの指示で一本一本剪定することになった。
ヤンスはそれを見ていて感心する。
「木によって、随分違うのですね」
「人にもいろいろな性格の人がいるのと同じよ。昔からよく言うでしょ、桜の切るバカ、梅の切らぬバカって」
「それ、初めて聞きますが」
「えっ、知らないの」と、ナオミは驚く。
村人なら誰でも知っていることだ。
「どういう意味なのですか」
「桜は枝を切ると花が咲かないの、逆に梅は、枝を切らないと花付きが悪いの」
「そうなのですか、初めて知りました」
「やだ、そんなに感心することではないわよ。誰でも知っていることですもの」
「いいえ、おそらく後宮に住んでいる人の大半は、知らないと思いますよ」
ヤンスの言葉にナオミは驚く思いだった。
「そうなの」と、ナオミは声を潜めて聞く。
今まで私の前で威張り散らしているフレイやセベルドも、知らないのだろうか。
「たぶん」と、ヤンスも声を潜めて答える。
なんか、やっと彼女たちに勝てる方法を見つけたような。
館へ来て十日が過ぎた、ある昼下がり、ナオミはいつものように果樹運で剪定をしていた。ヤンスはすっかりナオミの助手になっている。今では植木職人ではなく、ヤンスの部下が植木職人の代わりに木に登っていた。
「少尉、次はどの枝を落とすのですか」
まったく少尉にも困ったものだ。何で俺たちがこんなことを。などと文句を言う者もいる。
それを耳にしたナオミは、
「成ったら、まず最初にあなた方にあげますよ」
「何が、成るのですか」
「いろいろな果物です」
果物といえば、市場に山積みにされているものしか知らない者たちばかりだ。だいたい果物も、バイオ工場の中で栽培され、どの果物も同じような蔓性植物に成るようになっていた。この方法なら、ネットを張っておくだけで場所をあまりとらない。後は水と光さえ調整してやれば、一面積当りの収穫率はかなり高い。大空の下、木に成るのを見たことがない。
果樹園といっても、ここはあくまで観賞用だった。過去にこんな植物があったという。
「ほんとうに、成るのですか、こんな木に」
そんな会話をしている中、屋敷の方から、侍女がやって来た。
「奥方様、セベルド様がお呼びです」
「まだお稽古の時間には早いと思いますが」
「今宵、陛下がお泊りになるそうです」
それを聞いたとたん、ナオミの顔色は失せた。
「陛下が」
「はい、よろしゅう御座いましたね」
侍女たちは心から、陛下のお渡りを喜んでいるようだ。
「準備がありますので、私たちは先に戻りますが、奥方様も早くお戻り下さい」
侍女たちは車に乗り込み屋敷へ戻って行く。その後姿は軽やか。
だが侍女たちの気持ちとは裏腹に、ナオミの元気は失せた。
ナオミの沈み込んだ様子を見て、
「どうなさいました」と、ヤンスは尋ねる。
「あまり、嬉しくないようにお見受けいたしますが」
ナオミは苦笑する。
「どこのお屋敷でも、いかに陛下に足を向けていただくかと、それは奥方様をはじめ、侍女たちが懸命に努力しているものです。それを差し置いて来ていただけるのですから、もう少しお喜びになられても」
「それ、本心で言っているの?」
その問いには、あなただけはそういう人ではないと思っていたのにと言う非難が、言外に含まれているのを感じ、ヤンスは黙ってしまった。
ヤンスはどんな方法でナオミがここへ連れてこられたか、知っている。
「私には、夫になる人がいたのです」
「今でも、その人を?」
「待っているのです、いつでも戻って来いって」
ヤンスの部下たちは初耳だった。だから驚いた顔をしてナオミを見る。
「子供が生まれて、陛下もその子の顔を見れば納得されるでしょう。そしたらその子と一緒に、私は村へ帰るつもりです、夫のところへ。この子は夫の子として育てます。陛下の子としてではなく」
ナオミはまだ膨らみもないお腹をさすりながらそう言うと、ヤンスたちに背を向けた。
「屋敷まで、送っていただけますか」
「あっ、はい」
ヤンスはナオミの言葉に唖然としていた。
この方は、いつまでもここに居るおつもりはないのだ。
ヤンスは部下たちに道具をかたづけ、護衛としての本来の部署に戻り、自分の担当部署の掃除をするように命じた。
「近衛たちに、けちを付けられないようにな」
ヤンスはナオミを助手席に乗せると車を出した。
彼女たちを見送りながら、護衛兵の一人が、
「なっ、さっきの奥方の話、どういう意味だ」
「子供を生んだら、里帰りするってことだろう」
「子供と一緒にな。そんなこと、できるのか」
子供は陛下の御子だ。
「さあな、俺たち平民にはわからないよ。奥方も平民なんだから、ここに居るよりましだろ」
「そうだよな。俺たち兵士なら、戦って軍功を上げるということもできるが、後宮では、平民では立場がなかろう」
「ひとのことを心配するより、道具、早くかたづけろよ」
ひとりで黙々と後片付けをしている兵士が怒鳴る。
「奴らが来るんだ。その前に体裁だけでも付けとかねぇーと、また何言われるか知れたものじゃねぇー。少尉に恥じ掻かせることになるからな」
「そっ、そうだな」
日が落ちてから、陛下はやって来た。案の定、数人の近衛を従えて。
エントランスには、この館に仕えている数少ない貴族階級の者が出迎えていた。
ヤンスたちも無論、平民である以上、陛下と直接対峙することは出来ない。遠巻きに護衛をするしかない。
「しかしかわいそうにな、夜だけの相手かよ」
一般に陛下が泊まるという場合は、昼ごろからやってきて午後の一時を一緒に過ごすものだ。
だが今のナオミには、ダンスといわれてもステップすらろくに踏めないし、会話も社交的な会話は知らない。一緒に過ごしようがない。
「これはこれは、ヤンス少尉ではありませんか」
近衛の数人が偵察に来た。と言うよりも嫌味を言いに来た。
近衛といっても宮内部管轄の近衛兵は、上流貴族の子弟が多く、前線に出ることもなく、実戦を経験しているヤンスたちに比べれば、腕の方はたかが知れている。
ヤンスは口を利くのもおっくうだったので、敬礼でその場をやり過ごそうとしたのだが、
「その若さで少尉とは、どのような色眼鏡を使ったことやら」と、下卑た笑いを浮かべながら近衛が話かけてきたのに対し、ヤンスを崇拝している部下のひとりが、その言葉にかっとなって殴りかかろうとした。
戦場で、自分たちにてきぱきと指示を出し前を走る上官の姿は、神にすら見える。この死地から自分を救ってくれる女神。
それを、この野郎。
ヤクスは慌ててその間に割って入いり、
「十才のときより軍役に入っておりますので、これでもキャリアはかなり長いのです」
ヤンスは口だけの少尉ではなかった。軍曹の頃は前線で指揮をとり数多の戦場を駆け巡っていた。その証拠は、体に傷として今も数箇所残っている。それでなければ部下を自由に使役できない。ましてクリンベルク将軍の部下たちは、誰もが実戦を経験しているものばかりだ。
「お前らのように、後宮や花街を警護しているのとは、訳が違うんだ」と、背後から部下の一人が怒鳴る。
ヤンスはやれやれという顔をする。
いつのまにか部下たちが集まって来ていた。
「持ち場を離れるなと言っておいただろー」
それで数名の部下は持ち場に戻って行ったが、まだ数名残っている。
「お前たちは?」
「非番です」
「なら、番が来るまで休んでいろ。今夜は、寝ずの番だぞ」
この館で陛下にもしものことがあったら、クリンベルク将軍に合わせる顔がない。
ヤンスは指示を出すだけ出すと、自分も持ち場へと戻って行った。まるでここに近衛兵などいないがごとくに。
「まったく隊長らしいぜ」と、ハルガンは額に手を当てながら呆れたように言う。
ヤンスが軍曹の時から一緒に戦場を駆け回った仲だ。
「ああまで、徹底して目の前の存在を無視するとは」
「だか、ヤンス少尉も少尉だが、ここの奥方も奥方だぞな」
何故か、ヤンスとナオミは気が合う。方や軍人、方や皇帝の奥方なのに。お互いが平民というだけでもなさそうだ。
剪定の時の指示の出し方。
「あの方は、畑という戦場の前線司令官だったんじゃねぇーか。男を使い慣れ過ぎている」
「どのような所なのです、その畑という戦場は。自分は、聞いたことがありませんが」
一番若い兵士が問う。
クリンベルク将軍の下にいれば、こんな平和な所にいても戦況は熟知していなければならない。何時、どの戦場に派遣されるかわからないからだ。
仲間たちが笑い出す。
「クリス、お前、畑も知らないのか」
少年兵はまじめに答える。
「知りません」
仲間の一人が少年兵の肩を軽く叩くと、
「やれやれ、もう畑という言葉も、過去の産物か」と、嘆く。
ナオミは寝室で待っていた。
「ナオミ、交代じゃ。お前はカムイの所へ行け」
えっと思い、顔を上げると、そこにヨウカが立っていた。しかも嬉しそう。
「やっと気が吸えるからのー。エルシアに比べりゃ、味は遥かに劣るが、それでも吸えないほど不味くもない。せっかく向うから差し出してくれるのじゃ、これを受け取らない手はなかろう」
「カムイの所へ行けといわれても、どうやって」
「こうやってじゃ」
気づくと、カムイの寝室にいた。
カムイも気配に気づいたのか、のろのろと起き出す。
「ナオミ!」
「カムイ」
「どうして?」
もう暫くは帰ってこないものと諦めていた。
どうしてと訊かれても、ナオミもわからず首をかしげた。
(一晩だけじゃ)とヨウカの声。
ヨウカはベッドの上に寝酒を用意してというよりも、既に一人で始まりながら待っていた。
しかし、広い部屋じゃのー。寝るだけなのにこんな広い空間はいるまい。天蓋付のベッドだけでも、ゆうに五、六人は寝られる。これだけあれば、いくら寝相の悪いナオミですら落ちることはなかろう。などとナオミが聞いたら憤慨しそうなことを言いつつ、ヨウカは皇帝が来るのを待っていた。
皇帝が入って来るなり、
「遅いのー」
皇帝はベッドの上で胡坐をかき、酒をあおっているナオミの姿を見る。
ナオミでないのは一目瞭然。
「ヨウカか」
「そうじゃ」
皇帝はナオミに歩み寄った。
「どうじゃ」
ヨウカは皇帝に杯を差し出す。不遜な態度。
皇帝はその腕を掴みあげると、酒瓶を床に投げ捨てヨウカをねじ伏せた。
「乱暴じゃのー」
「村に残ったのかと思ったが」
「わらわは、村の守り神じゃないきに。この腹の子に憑いておるのじゃ」
皇帝はナオミの腹を撫でた。何の変哲もない。
「宿っているのか」
「既にのー。まだこの娘は知らんが、お前の子じゃ、お前の種じゃきにのー」
皇帝はじっとナオミを睨みつけた。
ヨウカは微かに笑うと、
「怖いか」
皇帝は黙っている。
「生まれてくるのはただの人間じゃ。お前のように、走って転べば怪我もするし銃で撃たれれば死ぬ」
「では何故、村の者はこいつを神と呼ぶのだ」
「さあ、人のことはわらわには解からん。呼びたいから呼んでおるのじゃろー」
「貴様は何者だ」
「村の者に言わせれば、わらわは神の使いじゃそうな。わらわの姿は、見える奴には見えるが、見えん奴には見えんのじゃ。お前はどちらかのー」
そう言われて皇帝は村でのことを回想した。ナオミに憑依したヨウカは知っているが、ヨウカ自体を見たことはない。
ヨウカは皇帝の首に腕を回し、抱き寄せると、挑発するかのように皇帝の耳元でささやく。
「わらわは、強い男が好きなのじゃ、だからこいつに憑依しているだけじゃ」
「つまり、俺がこいつより強ければ、俺に憑くということか」
「考えてもよいがのー」と言いつつ、ヨウカは声をたてて笑った。
「お前、こやつに勝つつもりか。千年早い。いや千年じゃきかぬかのー」
「そんなに強いというのか、この俺より」
皇帝は憤慨した。
ヨウカはバカにしたように笑うと、
「強さにもいろいろあるきに、こやつの強さはお前とは真逆じゃ」
「真逆?」
「生まれてくればわかるがな。それより遊びに来たのじゃろ。こやつが肉体を得えて成人するまでは、わらわは暇じゃきに、暫くお前の相手をしてやってもよいぞ」
カムイは久しぶりに清々しい朝を迎えた。だが隣に寝ているはずのナオミはいない。
やはりあれは夢か。しかし夢にしては。
洗面所の前で考え込むカムイに、
「おい、今日はいい顔してんじゃないか。夕べ、何かいいことあったのか」と、同僚たちが声を掛けてくる。
結局カムイは庄屋の離れではなく、元居た独身アパートと呼ばれている一画に住んでいる。別にそこは独身専用というわけでもないのだが、テールを筆頭に技術者が集まって住み着くようになってから、そう呼ばれるようになった。
「お前もそう思うか、俺もそう思った」などと言いつつ、めいめい歯ブラシを持って集まって来る。
人間より機械の方が好きな奴らだ。
「別に、何にもない」と言いつつも、テールにだけは夢のことを話した。
それからは、皇帝が通ってくるたびに、ナオミの魂はカムイの所に行った。
そして三月が経ったある夕方、その日は朝からどうも体調がよくなかったのだが、夕食を前にして、耐えがたい吐き気に襲われた。
ナオミは慌ててトイレへ駆け込む。
吐くだけ吐いたらさっぱりした。ハンカチで口をぬぐいながら顔を上げると、そこにヨウカが立っていた。
「心配ない、おめでただ」
「おめでた?」
まさかと思い、ナオミは立ち上がりお腹をさする。
「月の物が遅れていると思うていたか」
ナオミももしかすると、とは思っていた。
「ありがとう」
ヨウカに素直に感謝され、ナオミは慌てた.
「まだ、生まれたわけではないのよ」
「心配ない。ほっときゃ、自然に生まれてくる」
「ほっときゃって、私、どうしていいか解からない」
「周りの奴らが知っちょるじゃろー、奴らの言うとおりにすりゃよい。最初はあまり食えないから、食えるものだけ食えばよい。そうじゃのー、冷たいもの、酸っぱいものは美味しいそうじゃ。そのうち食えるようになったら、最初の分まで取り返すつもりで食えばよい。そうすりゃ、丸々太った美味そうなのが生まれてくる」
「美味そう?」
そうだ、ヨウカさんにとってエルシアは餌なんだわ。
「そういうことじゃ」
「もう、人の心、読んだのね」
「お前が無防備でものを思うからわるいのじゃ」
もー、とヨウカに食って掛かろうとした時、
「奥方様、奥方様、大丈夫ですか」と、ドアを叩く。
トイレと言っても、ひと間はある。この広さに慣れるまでは落ち着いて用が足せなかった。
「どうしよう、ヨウカさん。何て言えば」
「何も言わなんでも、外の奴等は気づいちょる」
どうしよう。それでは余計に困る。と言うより、恥ずかしい。
「合鍵を」と言う言葉と同時に、ドアが開けられた。
えっ。と驚いているナオミの前に、侍女の一人が出てきて頭を下げ、
「お車を用意いたしましたので、病院の方へ」
「今からですか」
「はい」
「もう夕刻です。今からではお医者様にもご迷惑でしょう。戻したら楽になりましたので、明日でも」
「早い方がよいかと存じます。先方の方でも、既に用意しておりますので」
そんなと思いながらも、ナオミは侍女たちに抱え込まれるようにして病院に運ばれた。
即、検査室へと通される。
セベルドも付き添って来た。
「それで、いかがでしたか、検査の結果は」
「ご懐妊ですな。羊水を調べたところ、赤子は男児、陛下の御子に間違いありませんな」
「そうですか」と、セベルドは報告書を受け取る。
「奥方様には、何と」
「ご懐妊とだけ」
「畏まりました」
館に戻ると、既に病院から知らせがあったのか、祝福の言葉で迎えられた。料理も消化のよいものへと調理されなおされている。だが、どうにも箸が付けられない。結局、甘酸っぱい果物だけをよばれてその日は床についた。だが眠れない。
お腹をさすっても、何の変哲もない。
本当に妊娠しているのかしら。
でも、胸のむかつきだけはある。
これが、つわりなのかしら。まるで車酔いしているみたい。
こんな時、ヤヨイお嬢様がそばに居てくれればな。お互い何も知らなくとも、なんとなく心強いのに。
村に帰りたい。
「どうしたのじゃ」
ナオミがホームシックにかかって落ち込んでいるところに、ヨウカが現れた。
「何だか、自信ない」
「生むのがか」
「育てるのも。だって、ここは村とは全然違うのだもの」
生活様式も価値観も。ナオミが村で教わったことは全て野蛮だといって否定される。
このままでは、この子に何を教えてやればよいのかわからない。
「私の身分が低いために、この子は苦労するわよね」
ナオミはこれからのことを思った。
王宮では母親の血筋がものを言う。何をするにも母親の血筋によって扱われ方まで違ってくる。それはナオミがここで、次第に知り始めたことだ。
「なんじゃ、そんなこと気にしておるのか」
「そんなことって、これは重大なことよ」
「人間界ではのー」
「人間界に生まれてくるのよ」
「そりゃ、そうじゃ。だがこやつは、何処にどういう形で生まれようともマイペースじゃきに、人に左右されることはない。じゃきに、気にすることはない」
「でも」と、黙り込むナオミに、ヨウカは真実を話した。
「やつは、地獄を見てきたからのー、ちょっとやそっとじゃへこたれんがに」
「地獄? でも彼、地獄には行ったことがないって」
ヨウカは笑う。
「お前は何も知らんからのー。もっともあの森で育ってば仕方ないことじゃが」
「エルシア様だって、あの森からは出たことがないでしょ」
「あの森が出来る前の話しじゃ」
「あの森が出来る前?」
「そうじゃ。あそこには、我が主が統べりし美しい王国があったのじゃ」
ヨウカは遥か昔を回想するかのように視線を宙に浮かした。
ナオミは急に黙り込んだヨウカを見て、
「どんな国だったの」と、聞く。
ヨウカは慌てて首を大きく左右に振ると、
「今の話は聞かなかったことにしてくれ」
「どうして?」
「エルシアに怒られるからじゃ。それに、何万年も前のことじゃ。今更話したところで何にもなるまい」
だがナオミにはそれが引っかかった。それが今でも尾を引いているような。
ヨウカは話題を変えるかのように大声で言う。
「とにかくじゃ、お前らが作り出すほどの地獄を、わらわは未だかつて見たことがない。どんな残虐そうに見える獣も、自分が食べる以外に相手を殺すことはないし、日照りも洪水も、誰の上にも平等にやって来る。ある特定の民族を、己が優越感を満たすためだけに、いじめて殺すなどということはせん」
「それ、どういうこと」
「ここに居れば解る。お前は村で教わったことを、こやつに教えればよい。なぜならば、村の教えは、こやつが村人に教えたことなのじゃからのー。こやつがそれを思い出すまでは、そえすればよい」
「そうなの、あの村はエルシア様が作った村なの」
「そうじゃ。奴が理想とした村じゃ。なかなか思うようにはいかんようじゃが」
そうなの、あの村はエルシア様の理想。でも、竜宮とは随分かけ離れているようだが。
いつの間にか眠ってしまったようだ、朝、コーヒーの香りで目が覚めた。
「お早う御座います、ご気分は」
「ええ、今朝は」と言いかけて、起き上がると同時に吐き気がした。
今朝は清々しい感じがしていたのに。
「大丈夫ですか」
そんな日が幾日続いたのだろう、お腹がぽっこり出てきた頃には、胃のもたれはあるが吐き気は落ち着いてきた。こうなるとナオミ本来の食欲が戻る。定期健診ではあまり太らないようにと言われながらも、気づくと、何かしら食べているという状態になっていた。
これではいけない、少し動かなければ。しかし家事は全て侍女たちがやってくれる。それでは私は何をやればよいのか。いろいろ考えたあげく、やはり自分に出来るのは野良仕事しかないと確信した。丁度、果樹園の手前が空き地になっている。あそこを畑にしょう。
ナオミは思い立つと実行は早い。兄からはよく、考える前に動くタイプだ。と言われていたが、早い話が、考えなしで動く。ということらしい。結局兄は、遠まわしに私のことをバカだと言っていた。
まったくもー、思い出すたびに腹が立つが、今は目の前にいない兄のことをとやかく言ってもしかたない。
それよりもまず、考えなしに、
「トラクターが必要ね」
さっそく侍女頭のルイーズに頼んでみた。
「何に、お使いでしょうか」
「何に使うって、トラクターは、畑を耕す以外に使い道はないと思いますけど」
どうやらルイーズはトラクター自体を知らないようだ。
ルイーズは首を傾げながらも、「手配いたします」と言ってその場を辞した。
次の日には、庭先に業者からトラクターが送られて来た。
「取り扱いの説明をいたします」と言う業者に対し、
「知っているから、いいわ」と、ナオミ。
驚く業者をさっさと帰すと、ナオミはさっそくトラクターに乗り込んだ。
注文すると、大概のものは何でも直ぐに来る。これだけはここの利点だとナオミは思っていた。
もっともこれはナオミの生活費として宮内部が宛がっている予算の内なのだろうが、ナオミは装飾品をあまり購入しないため予算はかなり余っている。
「何ですか、これは?」と、警護の者たちが集まって来る。
「新しい、装甲車ですか」
おい、お前たち、トラクターを見たことないのか、言いたくなるのをナオミはじっと堪えた。
よくよく考えれば、工場での水耕栽培の野菜しか食べたことのない彼らに、このような機械を見せたところで解るはずがない。
後は苗だけど、水耕栽培の野菜は病害虫に弱い。やはり村から送ってもらうしかないかな。
軽やかなハム音が鳴り出すと、トラクターが動き始めた。
それを見て驚いたのは警護兵である。
ヤンスは慌ててトラクターの前へ飛び出すと、
「奥方様、何をなさるおつもりですか」
「何って、果樹園の手前の荒地を耕すのよ」
それを離れて見ていた警護兵の一人が、やれやれと肩をすくめて見せる。
「ほんとに、乗り出すかよ。まいったな」
しかしあの荒地、トラクターぐらいで耕せる代物ではない。
「クリス、閣下の館へ行って兵士を二十人ぐらい借りて来い。若い奴がいいな、畑を知らないような。畑の実戦訓練をする」
「はい」と、心地よい返事をしてクリスは駆け出す。
実際クリスはここでののどかな生活に呆がきていた。
「あいつ、畑は戦場だと思っているぜ」
「いいじゃねぇーか、そう思いたい奴には思わせておけ。それよりケリン、お前は重機屋へ行って、ブルをニ、三台借りて来い」
やっとの思いでナオミを留まらせ、ヤンスがやって来た。
「少尉も、大変だな」と、笑う。
「笑い事ではないわ、ハルガン。まっさか、あれを乗り出すとは思わなかったわ」
ハルガン・キングス・グラント。本来、大佐の地位にありながら、酒と女でその地位を失った。
だが彼は、この館の護衛の真の目的を知っている者の一人だ。
「一筋縄ではいきそうもないね、ここの奥方は」
三十分もしない内に、二十人の兵士を連れてクリスが戻ってきた。それと三台の重機。
「何、これ」
「あそこを耕すには、これだけの人手が必要かと思いましてね」
「耕すって?」
「奥方様も、言い出すとききませんからね、誰かさんに似て」
「誰かさんとは?」
「言わずもがでしょ」
ハルガンはヤンスに蹴られる前に逃げ出した。
兵士たちの前に行くと、
「諸君、ご苦労。これより畑での戦闘方法を教える。司令官は、あそこにおられる方だ」と、ナオミを指し示した。
「整列、駆け足、前へ進め」と、ナオミの前へ連れてくると、
「敬礼」の号令で挨拶をさせた。
「なっ、なんなんですか」
トラクターを眺めていたナオミは、驚いて振り向く。
「この者たちは、畑の作り方を伝授してもらいたいそうです」
「よろしくお願いいたします」と、いっせいに頭を下げる。
「いっ、いいですけど」と、ナオミは若者たちの勢いにおどおどしながら答える。
「では、司令官はこちらへ」と、いつもの車の助手席に乗せると、ハルガンは運転席に乗りアクセルを踏み出す。
その後にトラクターと重機、そしてその後に若者たちがスコップを肩に担ぎ付いて来た。無論クリスも意気ようようとして。
果樹園の手前でハルガンは車を止めた。
「場所は、ここら辺でよろしいですか、司令官」
「ええ」と、ナオミは頷く。
「広さは、どの程度に?」
「あまり広くても大変ですから」と、ナオミは考え込む。
「そうですね、あそこの木から、ここら辺まででは」
「奥行きは?」
「同じぐらいで」と、ナオミは正方形の畑を作ることにした。
「これだけあれば、かなりいろいろなものが植えられるわ」
「了解」と、ハルガンは軽く敬礼すると、新兵たちに号令を発した。
「これより、仮想戦闘準備にかかるが、その前にまず戦場を作らなければならない。今より畑の作成に入る」
畑を知らない若者たちは、何やら新しい作戦任務ではないかと期待した。
さすがにブル三台もあっては効率が良かった。まして新兵たちは装甲車をはじめ重機の扱いにはなれている。見ている間に陣営を作る手際のよさで、瓦礫をよせ荒地をなだらかにしていった。
「早いものですね」と、感心するナオミ。
「慣れておりますから」
まず敵地へ入ったら堅固な陣営を築くこと。これは兵站の確保と同じぐらい重要なことだ。兵士に安心して休める場所と食事さえ充分に与えることができれば、ほぼその戦いは勝つ。これはハルガンのモットーだ。
「次はどういたしますか、司令官」
「そうね、こんなに早くできるとは思ってもおりませんでしたから」と、ナオミは困り果てる。
そもそも自分の健康のためにやりだそうと思ったことなのに。
「枯葉と化学肥料が必要です」
こうなったら、苗が植えられる状態にまでしてもらおうと思った。
「枯葉と化学肥料ですか」と、ハルガンが指示を出そうとした時、新兵たちは穴を掘り出していた。
「なっ、何やってんだ、お前ら」
慌てて止めに入ったハルガンに、
「これでは見通しが良すぎますので、塹壕をと思いまして」
新兵にしては気を利かせたつもりだった。
「塹壕?」と、ナオミが聞き返すと、
「芋を貯蔵する穴です」と、ハルガンはすかさず答えた。
「まだ、芋もできていないうちに、ですか」
「気の早い連中でして」
「ほんと」と、ナオミは笑い出す。
塹壕も知らないとはと、ヤンスはつくづく呆れ果てた。
しかしこの時代に生まれて、戦争を知らずに生きられる村とは、いったいどのような村だったのだろう。
「班を四班に分ける。第一班はケリンの指揮で化学肥料の調達に行け。残る三班は枯葉を集める」
「何に、使うのですか」と、兵士の一人が聞いてきた。
「司令官の命令だ」と、ハルガンはナオミの方を向く。
いかにもナオミが命令したかのように。
軍人はその一言で疑問がなくなる。後は素直にその命令に従うのみ。
「了解」と兵士たちは敬礼すると、スコップを箒に持ち替え林の中へ走って行った。
「よし、さすがは閣下の館の兵士だ、よく訓練されている」と、ハルガンは納得したように頷く。
クリンベルク将軍の配下の兵士で、訓練されていないのはハルガンぐらいだということを、ハルガンは知らない。
化学肥料が届く頃には畑一面に枯葉が撒かれていた。そこに化学肥料を撒いて行く。
「これで、よろしいですか」
「そうね、ここまでやってもらえれば助かるわ。後はトラクターでうなるだけですもの」と、ナオミはトラクターに乗り出す。
「奥方様」と、ヤンスが慌てて止めに入るが、
「心配いりませんよ、少尉。慣れておりますから」
ナオミはトラクターを動かし始めた。見事に一畝、きれいに耕す。
「大丈夫なのかな、あんなにお腹が大きいのに」
「大丈夫なんだろー」と、ハルガンは見事なナオミの操縦に呆気にとられて生返事をした。
これなら、兵士としても使える。
だが、我に返ると、
「てっ言うか、男の俺に聞くなよ。こういうことは少尉の方がよくご存知のはずではありませんか」
急に敬語を使われても、
「私はまだ、経験ありませんから」
それもそうだなと、ハルガンは思い、
「まあ、何かあったら事だから、奴らにやらせるか」
手がないわけではない。
ハルガンは新兵たちのところへ行くと、
「司令官の行動を見ていただろう、ああいうふうにやるんだ、誰か代われ」
「自分が」と、一人の兵士が名乗り出、ナオミと代わる。
その後は新兵たちの間で交代で耕していった。
「奥方様、お体の方は」と、気遣うヤンスに、
「大丈夫ですよ、妊娠は病気ではありませんから、私の母など、私が生まれる寸前まで畑で働いていたそうなのです。寸前のところで畑に産み落とすところだったとか、よく聞かされたものです」
「そういうものなのですか」
ヤンスは呆気に取られた。
他の館では、奥方が妊娠したとわかれば下にも置かない騒ぎなのに。
ナオミはしゃがみ込むと土を握る。
「今年は無理ね、まず、土を作らないと」
王都ではこれから夏になろうとしていた。村ではこれから冬だというのに。ここは村とは気候が反対だった。太陽が南にあるのも、最初ナオミは驚いた。衛星通信で南に太陽がある町もあるということは知っていたが、実際、体験するのとはわけが違う。慣れないうちは方向感覚がおかしくなった。本来御子は農閑期に生まれるのだが、どうやらここでは夏になりそう。
でもこれからの暑さは枯葉を発酵させるには丁度よいかも。
そして夏も終わろうとしているある日、ナオミは池にせり出しているテラスで夕涼みをしていた。
館の中は冷暖房完備で一年中快適な温度に保たれているのだが、どうもナオミの肌にはそれが合わない。庭に出るたびに風邪をひく。いっそのこと、冷房を使わないことにしようということで窓を開けたところ、池があり緑が多いせいか、意外に心地よい風が入る。
「他の館では、こんなに涼しくないのですよ」という侍女たちの言葉に、
「そうなのですか」と言いながら、ナオミは出来るだけ冷房を使わないようにした。
別にそれを侍女たちには強制していない。彼女たちは働いているのだから、私より暑さに敏感でもしかたない。
「重そうじゃのー」
「ええ、少し」
お腹が随分下がってきていた。もういつ生まれてもおかしくない。
「笛の練習、しちょるのか」
「さぼっていないわよ」
この子が生まれたら、私が真っ先にやることは、この子に笛を教えること。
それが村の習い。
ナオミは椅子から少し体を起こすと、
「嬉しそうね、ヨウカさん」
「そりゃ、そうじゃ。もう時期、会えるのだからのー。おもしろいのじゃぞ、自分がエルシアである自覚がないのじゃから。わらわのことも知らん。蛇がしゃべったなどと、大騒ぎするのじゃ」
「それって、寂しくないの。だって、すっかりあなたのこと忘れているわけでしょ」
「いつものことじゃきに」と、ヨウカも少し寂しいのかトーンが落ちた。だがすぐに立ち直ると、
「じゃきに、からかってやるのじゃ」
「まあ」と、ナオミは呆れたように。
ヨウカは視線を遠くに結んで、
「レーゼも、どれだけ自分のことを知っておったが。エルシアは必要がないと前世の記憶は与えぬからのー、レーゼはレーゼとして生きた。今度の主も、何もなければエルシアとしてではなく、その子自身の人生を送る。じゃきに、自分から言い出すまでは、エルシアのことは伏せておくとよい。お前も前世のことは知るまい、必要ないからのー。今生を楽しめばよい。下手に前世の記憶などあると苦労するばかりじゃ」
「そうなの」
「そうじゃ」と、ヨウカは確信をもって断定した。
「それに、ここではこやつが神の子だということも、伏せておいたほうがよいのー。ここは化け物の巣窟じゃ」
その化け物を代表している者に、言われたくはないだろうとナオミは思いながらも、確かにヨウカさんの言うとおりかもしれないと、心では思った。
「奥方様、そろそろお部屋の方へ。夜風は体によくありませんので」
夏も終わろうとしている。朝夕は肌寒いぐらいに冷えるようになってきていた。
しかし時間はといえば、あれからあまり経っていない。丁度、ティーカップを口までもってゆき、テーブルに戻そうとしたところだ。お茶もさめてはいない。
やはりヨウカさんと会話をしている時は、時間があってないようなものなのだ。
ナオミは残りのお茶を飲み干すと立ち上がろうとした。そしてうずくまる。
「どうなさいました、奥方様」
「お腹が」
冷汗が出てくる。
慌てて病院に運ばれ、そのまま分娩室へと担ぎ込まれた。
数分後、大きな産声とともに、
「おめでとう御座います。殿下にあらせられます」
祝福の声とともに、紅の髪をし翡翠のような瞳をした赤ちゃんが、柔らかなおくるみに包まれて渡された。
ナオミは我が子をしっかり抱きしめると、
仰せのとおりのお姿ですね、エルシア様。初めまして。と、赤子の耳元でささやく。
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2008/10/25(Sat)23:18:02 公開 / 土塔 美和
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