- 『ラスト パートナー 3』 作者:暴走翻訳機 / アクション 未分類
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全角61196.5文字
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原稿用紙約184.2枚
ついに明かされる、二度に渡るテロ事件の真相。明響矢こと庵明響がニューヨークで潜入捜査官と出会い、『連続絞殺魔事件』と今を繋ぐ歯車が回り出す。そして、殺し屋『新月の狐』に襲い掛かる復讐の魔の手と、救出に向かった宗谷の下した決断とは。全ては終末に向かう。国家の狗が発するは、勝利の雄叫びか負け犬の遠吠えか。
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Last Partner/Governments Difeated Dogs/
序章・開戦の花火
木枯らしが、いつもより強く吹き抜ける。
一組の男女が訪れた時、少女は窓を見つめていた。正確には、窓の外に見える一本の枯れ木。
普段は二つに纏めている金糸の如き髪を下ろし、碧眼を何度か瞬きさせる。
木枯らしに吹かれて揺れる、最後の一葉を静かに見据える少女。その姿は、まるで今にも消えかかった灯のようだ。純白のシーツが敷かれたベッドで上体を起こし、枯れ木を見つめる少女は何を思っているのか。
「こほっ」
少女が小さく咳をする。
『咳しても一人』という句を読んだのは、果たしてなんと言う俳人だっただろうか。
哀愁の漂う少女の横顔と、病室に渦巻く終末の予感。
「イェーチェさん……」
病室を訪れた女性が、少女の名を呼んだ。
こちらに気付いていないわけではないのだろうが、イェーチェという少女はこちらを振り向こうとしない。たぶん、その痩せこけた蒼白の顔面を見られたくないのだろう。
ベッドの側に置かれた点滴台から伸びる細いチューブが、蜘蛛の糸を彷彿させるようにイェーチェの腕に繋がれている。ゆっくりと滴る点滴が、刻一刻とイェーチェの余命をカウントする。
どうしても顔を見せようとしないイェーチェに、男性の方が痺れを切らせて口を開く。
「なっちまったものを、今更後悔してどうする。叶いもしない小さな奇跡を信じる前に、自分でどうにかしろ」
男の口調から読み取れるのは、叱咤でもなければ激励でもなく、同情してのものでさえない。アクセントの変わらない、単調で無感情な声音。
どうすれば、イェーチェの顔に笑顔を取り戻せるだろうか、などとは考えない。例え嵐の過ぎ去った晴れ間に、最後の一葉が枯れ木についていたとしてもイェーチェは笑わない。男性が、拙い画力でその情景を書き上げたところで、本当の奇跡は訪れたりしないだろう。
「……相変わらず、宗ちゃんは厳しいなぁ」
イェーチェが、自嘲の笑みとも苦笑ともつかぬ表情を浮かべて振り向く。宗ちゃんと呼ばれた男性は、変わらずイェーチェを睨みつけていた。
別にそんなことをワザワザ言いに来たわけでもないのだろうが、手ぶらなところを見ると見舞いというわけでもなさそうだ。宗ちゃん――桂木宗谷という男の性格を考えれば、そんな女々しい手段で元気付けようなどとしない、と予想がつく。
僅か、女性が甘い香りの漂う紙袋を握っていることだけが、見舞いと分かる唯一の要因であろう。
「食べられるようなら、と思って買ってきたのですが……。食欲は、ありませんか?」
「ありがとう、アンリ。入院してから、ずっと流動食ばっかだからお腹がペコペコだよ。体重も二キロぐらい落ちた。ダイエットには、病気になるのが一番だと思えたよ」
イェーチェがアンリと呼んだ女性のお礼を言って、今だけは気丈に振舞おうとお腹を擦ってみせる。本当のところ、固体の食事を飲み込むほどの気力は持ち合わせていない。
けれど、強がりな軽口も、アンリには直ぐ見破られてしまう。紙袋に落とした視線が、己の軽薄さを呪っているかのように潤む。
アンリは、今やこのような状態ではあるものの、元々天才とまで謳われたイェーチェが作り出した現代技術最高峰の自律型アンドロイドである。
姿かたちは普通の人間で、実質は無機質な金属で出来た肉体。しかし心は人同様に、他人の気持ちを理解し、痛みや苦しみを共有できる。決して無情な機械ではない。
そのアンリとコンビを組んで、犯罪捜査を行うのが某県警に勤める宗谷だ。階級は警部補と田舎の県警でも上位に立つが、その他人に無関心な性格と傲慢なスタンドプレーによって人間的地位はそれほど高くない。もちろん、イェーチェやアンリのように、少なからず宗谷のことを理解している者もいる。
「『Ebis』のケーキだな。そこのモンブランが、美味しいんだよな。また、食べたいよ」
アンリが行き着けにしている近所の喫茶店に売られている、秋限定のモンブランに思いを馳せるイェーチェ。
「今日は一つしか残っていませんでした。でも、きっとまたお腹いっぱいになるまで食べられますよッ」
諦観を決め込もうとするイェーチェに、アンリが声のボリュームを上げて言う。
そこで、今までの会話を聞いていたのか、病室の入り口から小さく溜息を付く声が聞こえてくる。
「はぁ……いつまで三文芝居を続けるつもりだ、あんたら? この間来た時に、他の患者さんからお裾分けしてもらったお菓子を頬張っていたのに、よ」
声の主は、行儀悪く入り口の柱に肘で持たれかかるジャージ姿の青年。大型肉食獣のブランド名を冠したジャージに金髪、相変わらずのヤンキーの格好をしている。
「そうですよ、ちょっと『肺炎』をこじらしたぐらいでこの世の終わりみたいな顔をしないでください。まだ若いんですから、直ぐに治りますよ。はい、これでメイクを落としてください」
と、青年に続いて病室に入ってきた少女がイェーチェにお絞りを渡す。
青年と同じぐらいの年で、肩を並べているのが不似合いな清純然としたボブカット調の髪をした少女だ。人口の染髪剤で金色に染めた髪の、ヤンキー姿ながらまだ十八という若さを隠せない青年と、服装次第では大和撫子とも呼べる少女のコラボレーション。
二人は、イェーチェが様々な経緯で勤めることになった塾の生徒である。春先の出来事ではあるが、今では講師と塾生というよりも同年代の友人といった関係だ。
青年の名は王城高屋。少女は白姫林檎。今年になって出会ったイェーチェとは違い、幼少期からの純真無垢な幼馴染である。
「ふうっ、でもなかなかの演技だっただろ?」
お絞りで青白く染まった顔を拭い、いつもの白い顔色を見せたところでイェーチェが四人に問う。
「イェーチェ先生やアンリさんは上手でしたけど、宗谷さんは……」
林檎が、高屋よりも頭一つ分は突出した巨漢を見つめて言葉を濁す。
「大根役者」
自分よりも背の高い肉付きの良い男を前に、憮然と止めを差す高屋。
「申し訳ないね、演技力が無くて。勝手に台本を渡されて、リハーサルもなしに演技なんて出来るかッ」
自分の無力を棚に上げて、宗谷が大人げもなく不貞腐れる。
まさか宗谷も、自業自得で風邪から肺炎に悪化させたイェーチェのお遊びに付き合うことになろうとは、彼女の入院を知らされて直ぐに分かるはずも無い。
「先生も、風邪は万病の元というぐらいなんですから、無理して講義に来なくて良いんですよ。稲城先生達も、心配していたんですから」
林檎の台詞に、塾の講師仲間に心配を掛けたことだけ、イェーチェは反省する。
「さて、ネタバレも終わったところで、ケーキタイムと行きましょうか」
病室に漂い始めた別の不穏な空気を霧散させて、アンリがお見舞いのケーキを掲げる。
ケーキを買ってこさせたのは演技の一環ではあったが、ちゃんと皆の分を用意してくるのはアンリらしい。ただ、取り分けている途中で気付く。
「あれ? 一つ余っちゃいますね。私とイェーチェさん、宗谷さんに林檎さんと高谷さん……」
ヒイ、フウと数えながら残ったショートケーキとその場の面子を見比べる。
そして、宗谷がいち早く足りない人物を見つけ出す。
「あの眼鏡の坊主がいないな。ヤンキー坊主、一緒じゃなかったのか?」
ヤンキー坊主こと高谷に、宗谷が問う。
宗谷のいう眼鏡の坊主というのは、この場にいない水無月誠司のことだろう。
「ヤンキーって……まあ、あんたに名前を覚えて貰っても光栄じゃないから逐一名乗らないけどよ」
誠司の行方を言うよりも、宗谷に付けられた不本意なあだ名に反応する高谷。代わりに、苦笑を浮かべながら林檎が答えた。
「誠司君は、身内に不幸があったとかで今日は来られないと」
人の不幸に苦笑を浮かべてしまったことに、少しばかりバツが悪そうな顔をする林檎。
「……ふぅん、あいつの身内か。まあ、そいつはご愁傷様で」
会いもしていない、話にも聞かない身内に対して、イェーチェは大して感慨も湧かぬ風に言う。
常に冷静沈着で、運動ならば――体育会系の部活を総なめした――高谷にも負けず、勉強なら――県内トップクラスの学力を誇る――林檎にも劣らないインテリ系の眼鏡少年。その身内となれば、割と有名なのではないかと勘繰ってしまってもおかしくはない。
「幼馴染なんだろ? 近所なんだから、お前らは行かなくていいのか?」
幼馴染の身内で、地元の名士とくれば葬儀などの参加を強要されてもおかしくはないはずだ。
「私達もあまり誠司君の家庭事情は聞いてませんが、隣県に年の離れた兄が単身赴任しているみたいなことを言っていましたから。それに、まだ亡くなったわけではありませんよ」
どうやら、イェーチェの早とちりだったらしい。
「そうか、そりゃあ悪いことを言っちまったな。お、サンキュー」
大して反省していない口ぶりで応え、アンリに手渡されたケーキを受け取る。生粋のアメリカ育ちにしては、日本に馴染みきってしまったイェーチェだった。
思い返してみれば、日本に訪れてから今年の冬で三年が経つ。その間に、小さなことから大きなことまで、色々なことがあったものだ。最初は孤児だったイェーチェを養女にしてくれた養父から逃げるようにして日本へ密入国し、趣味と実益を兼ねてトレジャーハンターをやっていた時に知り合った男に出会い。様々な経緯を経て宗谷や多くの人間と出会えた。
「アンリとはパソコンのOSを作った頃から知っているけど、やっぱり今のアンリとは違う。あ、ちなみに、最初のメイド服は単なる宗ちゃん用オプションだから気にするなよ」
「俺用かよ……。あれ、どうしたんだっけか?」
イェーチェの台詞に呆れながら、宗谷がアンリに振り返る。元メイドロボットは、何か思い当たる節があるように目を逸らして押し黙る。
「確か、養父のオッドさんに……」
話を逸らせようとしたアンリが、自分で口にした名前で地雷を踏んだ。
事情を知る宗谷とイェーチェは、アンリのプログラムに異常が出ないか固唾を呑んで心配する。
「あ、大丈夫です。あまり思い出したくありませんけど、決してオッドさんは悪い人ではないと思ってます」
イェーチェは日本の地で養父のオッド=ワイルズマンに見つかり、パソコンのお喋りプログラムとして作られたOSをアンリという人型の媒体に入れた。例えそれが、最初は軍事利用されるものだったと知らずとも、自律型アンドロイドを作ってしまったことを悔やんだイェーチェは自分の手でケジメを付けようとした。
「分かってる。あの爺は、単純に私の才能を見込んでいただけだ。それに、アンリの製作に関わった他の皆も、株主のオッドが単独で起こした事件ってことで罪には問われなかったからな」
ケジメを付けるためにイェーチェが、アンリの中に入っているOSの根本となるデータを廃棄し、オッドはテロリストという汚名を着せられたまま逃亡者となったのだ。
警察側の発表では単なる強盗事件という形で片付いたものの、まさかその事件が全ての始まりだったことをその時のイェーチェ達は知らない。正しくは、知らなかった。
「あの時、響が熊谷と出会って、情報を交換しあってなければ明るみに出なかった話だ」
詳しい事情を知らぬ高谷と林檎は小首を傾げるが、オッドが起こした県内の海底ホテル事件は知っている。
それでも、まだ分からないことは沢山ある。アンリを人質にして連れ去ったオッドを、逃げ延びた港で射殺した謎の軍隊。オッドを事件へと唆し、次の事件を起こした組織も未だに謎のまま。
「今更だが、俺達は大変なことに首を突っ込んじまったみたいだな……」
宗谷が、ケーキに手もつけずぼやく。
宗谷が言うのは、海底ホテル事件よりも深く関わってしまった中央空港娯楽施設『セントラル・バベル』爆破事件のことだ。
そこで、イェーチェは自分を捨てた父親アレキサンドロと偶然の邂逅を果たす。しかしながら、別れを告げる間もなくアレキサンドロは謎の組織による手で殺された。
「あれは、私達も大変な目に合いましたよね。『セントラル・バベル』が崩壊してから、バイロンさんは日本への企業進出を諦めて次の計画は立っていないみたいですし。楽しみにしていたんですけど」
やっと自分達に理解できる話が出てきて、林檎が口を挟む。
言われてみれば、偶然の邂逅を果たしたのは父親のアレキサンドロだけではなく、イェーチェの本当の祖父に当り『セントラル・バベル』の創作者であるバイロンとも出会うこととなった。まあ、余計なことを言えば、トレジャーハンター時代に出会った裏社会の殺し屋『新月の狐』なる女性とも出会ってしまったのだが。
「…………」
「あれ、誰か来た見たいですね?」
病室の外から聞こえてくる声に、林檎は反応する。
病室の外にいる人物は、部屋に入ってこようともせず外で誰かと話している。
「あのぉ〜、どなたでしょうか? ――ッ!」
一番扉の近くにいた林檎が、扉を開けて様子を伺う。そして、突如として不吉なオーラを背中から立ち上らせた。
「狐さん……何をやっているのですか?」
林檎がドスの利いた声で口にした人物の名に、その場にいた皆が「まさか」とばかりに顔を見合わせる。
狐とは、『新月の狐』の愛称としてこの場の皆が呼ぶ名前だ。その上、甘い言葉で懐柔された林檎の恋人――クエスチョンマークを付けたいが――でもある。
「あ、林檎ちゃん。あの墓泥棒娘が入院したって聞いたから、様子を見に来たのよ」
「それは別に構いませんが、どうして若いナースさんの耳元で囁いていたんですか?」
林檎に気付いた狐が、相変わらずの美貌をダウナーに緩めながら病室に入ってくる。それに応える林檎の前文は、この場の誰もが構いたい。
「あぁ〜、可愛かったからつい、ね」
「つい、ね。じゃありません! そうですか、年下の私よりも二十歳過ぎの可愛い女性の方が良いんですねッ。分かりました、分かりましたよッ!」
「もう、そんなに不貞腐れなくても良いじゃない。大丈夫、私が愛しているのは林檎ちゃん、あ・な・た・だ・け」
林檎の耳元で囁きながら、ススッと首筋に指を這わせる狐。
「あッ……」
なにやら、誰もが知らぬところでピンク色の空気が生まれてしまっている。
「おい、乳繰り合うのも良いが、何の用だ?」
ピンク色の空気を一掃させたのは、イェーチェの不機嫌そうな問いかけ。
「だから、あんたの様子を見に来ただけよ。私が、病院にまで仕事で来ると思ってる?」
林檎との時間を邪魔された狐が、艶やかなロングヘアーを振り払いながら答えた。
先刻聞いた以上、二度も言わずとも分かっている。ただ、目の前の殺し屋にお見舞いなどという殊勝な行為が似遣わしくないのだ。
「あんたが風邪を引いて、いつもの馬鹿騒ぎが聞けないのも物足りないから、ワザワザ様子を見に来て上げたのよ。あわよくば、あんたの首を掻っ切ってやりたいところだけど」
そう言いながら、普段着とも変わらない黒装束のベストの中で、鞘に収まった仕事道具――殺し用のナイフ――をチラつかせる。
やはり、狐にお見舞いなど似合わない。
「そいつはどうも。お前に染せたらどんなに楽だろうな」
身の危険を感じるまでもなく、学生のように皮肉を言い合う二人。
命を狙われる側と狙う側。今では狐にそのつもりは無いのだろうが、考えが変わろうとも二人には相容れぬものがある。宗谷も、仲良くしろ、とまでは言わないものの、公共の場でイザコザは起こさないように釘を刺す。
ちなみに、狐はイェーチェを殺す依頼など受けてはいない。受けていたとしても、イェーチェが生まれたばかりの十八年ほど前になる。
「確か、お二人のご関係はずっと前からでしたよね? バイロンさんが、娘とアレキサンドロさんの間にイェーチェさんが生まれて、大事な選挙の前にスキャンダルを防ごうとして狐さんに殺しの依頼をしたんでしたっけ。今でも、狐さんはその時に殺せなかったことと、生理的にイェーチェさんを殺したい衝動に駆られてしまう。でしたか?」
誰ともなく、アンリが細かく説明を付け加える。
林檎とアンリだけが、この場で狐の存在を不快に思っていない。誠司の分のケーキを渡し、甲斐甲斐しくパイプ椅子まで出してきて世話をする。
「ありがとぉ。話には聞いていたけど、良くできたロボットね。もう一台、私の分はないの?」
ダウナー系美女が、日々の家事に疲れてお手伝いロボットを注文してくる。
「あるかッ! OSだけならアンリから株分けすれば良いが、ソフトウェア専門の私ではボディを作ることは出来ないんだよ。『プロフェッサー・シェイド』がいれば別だが、彼は製作が終えてから直ぐに帰国してしまったからな」
狐にツッコミを入れつつ、どこか懐かしそうに製作に携わった仲間のことを思い出す。
『プロフェッサー・シェイド』と皆から呼ばれていたため、それが本名なのかまでは分からない。しかし、機械工学においてはイェーチェにも並ぶ天才でもあった。まあ、少々仕事に熱心過ぎるマッドな人柄ではあったが。
「いや、あってもお前にはくれてやらん。壊すことしか出来ない人間には、少しばかり勿体ない代物だからな」
「私、商品扱いですか……。スペックは携帯電話並ですし、扱いは機械製品ですし……私の存在意義って?」
「そんなことより、どうしてモンブランがアンリの分しかないんだ?」
嘆くアンリを他所に、話はケーキの好みへと移る。
甘いものは程ほどの宗谷、ケーキなら全てオッケーな林檎、食べられればなんでも良い高谷、食べることに執着しない狐は、特に何も言わずランダムに手渡されたケーキを突っ突き始める。
ただ、目の前でアンリとイェーチェによるモンブラン争奪戦が始まる。こうして喧嘩が出来るのなら、イェーチェも直ぐに快復するだろう。喧嘩をするほど仲が良い、というのは、常に側に居あうゆえいがみ合いが生じることから来ているのだとつくづく思う。
「お取り込みのところすみませんが、検温の時間ですよ。面会人は退室をお願いします」
アンリとイェーチェの喧嘩をケーキの肴にしていると、看護師が諌めるために病室へと入ってくる。流石に個室とは言え、騒がしいのは迷惑になる。
「病人がケーキぐらいで喧嘩しないでください。こういう場合、喧嘩両成敗ですよね」
看護師がそう言いながら、取っ組み合うアンリとイェーチェに近づきモンブランの乗った皿を取り上げる。
『あッ……』
二人の嘆息が重なる。
大好きなモンブランを取り上げられたからではなく、更にそれを二口ほどで看護師が完食してしまったのだ。
少々横暴な手段に、嘆く二人を除いた皆の溜息が充満した。
「うん、やっぱり『Ebis』のケーキは美味い! ほら、ちゃんとお金は返すから後で二つ分買ってきなさい」
まあ、そんなこんなで、二人分の代金を手に入れることでその場の争いは収束したのである。ちなみに、秋限定のスペシャルモンブランはその日のティータイムで終了したという、残念な結果だけを追記しておこう。
「さてと、長居するのも迷惑だろうから、俺達は帰るぞ。お前も、早く元気になってまた県警まで遊びに来い」
別れの挨拶を告げて、宗谷達が出て行こうとする。
「あ、あぁ……」
その時は、単に考え事でもしていたのだろうと、思っていた。もしくは、少し騒ぎ過ぎて疲れただけなのだと、歯切れの悪い返事を気にも留めなかった。
『昨日の午後七時、自衛隊陸軍の軍事演習用山林にて大規模な山火事が発生しました。炎は駆けつけた消防団によって消し止められましたが、演習に参加していた自衛隊陸軍一師団の安否は未だに確認されておりません』
何気なくつけたテレビから流れるアナウンスを耳に、イェーチェを残して宗谷達は立ち去る。部屋を出た宗谷達は、各々の目的を果たしに病室の前で別れを告げる。
高谷と林檎は塾へ。狐は相変わらず仕事もないまま自堕落な一日を過ごしに行く。
宗谷とアンリは、非番にも関わらず出掛け際に頼まれた買い物をしに。
「あのババァ、自分の客ぐらい自分で相手しろってぇの」
「仕方ないじゃないですか。大家さんは車を持っていないみたいですし、これだけの買い物をするには一人じゃ無理でしょうから」
二人が住んでいるボロアパートの大家に、今日訪れる客人用の食材諸々を買出しに言ってくれと頼まれたのだ。
悪態を吐く宗谷をアンリが宥め、何もないはずの午後が訪れようとしていた。
「その買い物メモ、裕に二十人分ぐらいないか? お盆や正月でもないのに、どうしてそんなに客が来るん……」
ただ、既に花火が打ち上げられたことを知るまでは、平凡な一日だったはず。
「どうかしましたか?」
急に言葉を区切った宗谷に、アンリが顔を覗き込みながら問う。
大したことはない。病院なら珍しくもない、女医と擦れ違っただけの話。
なのに、何故、自分は振り向いてしまったのか。
例えその女医がイェーチェの病室に入ったからと言って、往診と言ってしまえばそれだけの話になる。
「さ、早く行きましょう。夕方には帰らないと、夕飯に間に合いませんからね」
「あ、あぁ……」
大した理由などなかったのかも知れない。単に、その女医が狐にも負けず劣らずの美女だったから。あるいは、一度どこかで出会ったことがあって、他人に無頓着な宗谷が意識的にだけ覚えていた、ということも考えうる。
だから、アンリに急かされるまま病院を出た。
某県自衛隊陸軍演習用林――P.M.6:00
秋の夜長とは言うが、少し前まではこの時間でも日が落ちていなかった。それが、十月にもなれば完全に夜の帳が落ちる。
予想以上に演習が長引いてしまった。所々で鳴き止まぬ鈴虫の短命な愛の囁きに精を出している。
狐に化かされた、というのはこのことなのだろうか。と、鈴虫達の囁きに耳を傾けながら、男が思った。
縦長の整った顔立ちは、疲弊しているにも関わらず凛々しささえ感じさせる。野暮ったい丸渕の眼鏡さえなければ、女性にもよくモテただろう。
しかし、女性関係に疎い男――水無月良介陸軍一尉はそんなことも気にせず、額から流れ出る汗を迷彩服の袖で拭う。疲弊しているのは、良介だけではなかった。
「梅宮陸曹、方角はこちらで合っているのか? 自分達の庭で迷子になったのでは、洒落にもならないぞ」
自分も精魂が尽き果てようとしているのに、後ろから追ってくる仲間を軽口で励まそうとする。
今日の演習は、密林内での隊形訓練という簡単な内容だったはず。なのに、なぜか彼らは演習用林を彷徨っていた。歩きなれたはずの、方角さえ見失わなければ一時間弱で出られるはずの森林だ。それが今日は、演習を終えてから二時間以上も歩いているというのに出口へたどり着かない。
「おかしいですね。さっきまでちゃんと南をさしていたはずなのに……全く反対へ歩いています。コンパスが壊れたのかもしれません」
方位担当の梅宮の言葉に、皆が怪訝そうな顔をする。
やはり、今日はいつもと違う。
おかしなことは、彷徨い続けていることだけではない。演習に出る前、ちゃんと装備の確認はした。演習を始める前にも、無線機で開始の確認を取ったのだ。
最初は使えたものが、演習を終える頃になると使えなくなっていた。特に壊れるような扱いはしていないはずだが、無線機からはノイズが流れるだけである。無線機だけならまだ、演習中に壊してしまった可能性も考えられた。が、今度はコンパスまで正確な方角を指そうとしない。
「仕方ない、ここで一旦休憩しよう。我々の帰りが遅ければ、本部の方も気付いてくれるだろう」
どうすることも出来ず、良介が休息を決める。良介の指示に、歩き疲れた師団の皆が思い思いに腰を下ろす。
「それで、コンパスの調子はどうだ?」
「駄目ですね。富士の樹海みたいに、全く方角が定まりません。まるで、我々をどこかに誘っているように指針が方向を変えます」
良介の問いかけに答える梅宮。
それが意味するものとは、いったい何なのか。決まっている。
「自然的要因ではなく、完全に何者かの故意による現象か……。でも、いったい誰がこんなことをするんだ?」
答えなど返ってくるはずもない問い。
こんなことをしても誰かが得をするとは思えない。自衛隊の一師団を道に迷わせ、あわよくばどこかへ誘い出して何の意味がある。
移動する度に方角を変えるコンパスの指針と、地図を照らし合わせればどこへ進ませようとしているのかは一目瞭然だ。
「林の中心部ですね。しかし、それさえ分かればこのまま真っ直ぐに突き進めば出られるじゃないですか。ワザワザ、そいつの手に乗るなんて真っ平ですよ」
梅宮の言う通り、このまま誘いに従って林の中心部へ向かう必要などない。
だが、良介はそこで簡単に物事を決めなかった。
「俺達を林の中心に誘い出したいなら、ワザワザ無線機をジャミングする必要なんてないはずだ。まるで外と連絡を付けさせたくないみたいだし……そうかッ!」
やっと、良介が敵の策略を見抜いた。
何者かまでは分からないが、良介達の師団は完全に敵の罠に嵌められたのだ。そして、気付いた時には遅かった。
「急いでここから離れるぞッ!」
「どうしたんッ……」
良介の声に反応した梅宮が、唐突に口を噤む――否、噤まされた。
その場にいた誰もが、突然に起こった目の前の事象を理解できなかった。良介の声に反応して立ち上がろうとした梅宮の体が、何の予兆もなく前のめりに倒れたのだ。
ただ、被っていた濃緑色のヘルメットに一センチほどの穴が開き、頭部から鮮血が噴出す瞬間だけを見た。誰もが驚愕に言葉を発せない中、良介だけが梅宮の死を悼むより前に口を開く。
「クソッ、囲まれているぞッ! 皆、立ち上がるな!」
この暗闇の中でどうやってこちらの動きを把握しているのか、離れたところから敵は梅宮を狙撃したのである。
(暗視スコープ……赤外線? どちらにしても、素人の動きじゃない)
身を屈めながら周囲を見渡しても、暗闇の中では相手の姿を視認できない。予定以上に演習の時間が掛かってしまったため、良介達は闇夜の中で人を認識する道具も持っていなかった。
敵は、どこからか自分達の演習を監視した上で、演習が終わると同時に外との通信を阻害して時間稼ぎのためにコンパスを狂わせたのだ。
数百人近い師団に見つかることもなく、包囲されるまで気取られずに行動する手際、どれをとっても素人の敵対集団ではない。しかも、演習用の着色“ペイント”弾しかもって来ていない良介達にとって、実銃を使われている今、出すべき手足がない。
「このまま隠れて、本部の救援を待つか? いや、無理だな……」
たぶん、本部の方も自分達と同じ状況に置かれている。最悪、全滅という可能性も考えられる。
「ど、どうします? このままじゃ、皆殺しですよ……」
「シッ。喋るな。どこに敵がいるか分からないんだ、俺達はここにいます、といっているようなものだぞ」
怯える隊員をたしなめる良介。
とは言ったものの、うかつに動けず抵抗する手段もなければ、隊員の言うように皆殺しにされる。
「よし、四分隊に分けて散るぞ。茂みに身を隠しながら進めば、狙撃される恐れはないはずだ」
留まるだけ命が縮むのであれば、こちらから進み出るしかない。目的は生き残ることと、外に出て本部への救援を求めること。
あらかじめ決められていた分隊に編成し、良介達は四方向へ進む。師団とは言いつつも、本部に待機する上官達や、非番の隊員達を除けば一大隊にも満たない人数である。
その二百人程度の内、果たして何人が生き残れるだろう。
本当に、運命に命を預けたサバイバルとなった。
「いや、絶対に皆で生き残る。何者か知らんが、お前らの手に掛かるなんざ真っ平ごめんだぜ」
普段は隊員の前で使うことのない、砕けた言葉遣い。
良介には出来の良い、年の離れた弟がいる。頭の良さという点では大して変わらないが、こうした場面において冷静さと正しい分析を見出すのは弟の方が優れていた。
言葉遣いについては、教師をしている両親に躾けられたため兄弟揃って人前で砕けた表現など使わない。
「誠司、俺は生きて帰る」
叶うことのない、ただ心の拠り所を見つけるためだけに、良介はその決意を口にする。
誰もが同じ気持ちだった。生きて帰る、それだけを願って前屈みになりながら茂みを抜ける。焦らず、できる限り物音を立てないようにして。しかし、彼らを阻む壁は思った以上に大きかった。
後方で、別の分隊が進んでいるはずの方向で、鼓膜を劈くかのような爆音が奏でられる。
立ち上る爆炎、饒舌に木々を燃やし尽くす紅蓮の炎、風が遮られた林の中に濛々と黒煙が渦巻く。
「対人地雷“クレイモア”だと……? なんて物を、仕掛けてやがるんだ」
敵は、遥かにこちらの予想を上回る勢力だ。
これは演習などではなく、既に戦場と化していた。それに気付いた者は、ただ愕然と夕焼けに似た炎を見つめるのだった。
隊員の一人が、恐怖する。恐れをなして、身の程も弁えず駆け出す。
「うああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
「ま、待てッ」
駆ける。駆ける。駆ける。良介の制止を振り切り、声を張り上げながら必死に出口を求めて駆け抜ける。
「みぃ〜つけたぁ〜」
走り出した隊員の前に、誰かが立ち塞がる。どこから現れたのかさえ、遠巻きに見ていた良介にも分からない。ずっと前からそこにいた、と言われても違和感がないほどに、中肉中背の男が自然の中から姿を現したのである。
まるでかくれんぼを楽しむ子供のような声、少し訛りのある日本語を向かってくる隊員に投げかける。隊員は、立ち止まらず男の横を通り過ぎようとする。
「ぐえッ」
たぶん、あの爬虫類のカエルを踏み潰すとそんな声を出すのだろう。それぐらいチャチな悲鳴が、逃げ出した隊員の断末魔となった。その上、隊員がこちらに向かって投げ飛ばされてくる。
首から上が完全に折れ曲がり、後頭部が肩甲骨と密着している。首には紐のようなものを巻きつけられた、擦過傷が見られる。
「こちら『月“ムーン”』。一つ見つけたから、こっちで始末しておく」
男がこちらに歩み寄りながら、簡潔な通信を誰かとした。
『月』というのは男の名前か、もしくは通称のようなものか。いや、部隊の名前だ。
気付けば、良介達の分隊は数人の男に囲まれていた。幾人かはフルフェイスの防護マスクをつけていたため、性別を断定するには至らないが。
ザクザクと、草と土を踏みしめる足音を立てて男達が近づいてくる。良介達には、それが死の足音に聞こえてならなかった。竦み上がり、目の前に立つ男に手から伸びる細い紐の蠢きを、涙に曇った瞳で見つめていた。
「く、来るなッ! それ以上近づいたら、引き金を引くぞ」
それでも良介は諦めない。
男に向けた銃口から放たれるのは着色弾のみ。演習を監視されていた以上、男にもばれているはずだ。
無意味な抵抗のはず。しかし、良介の意図を読み取った他の隊員達も、着色弾が装填された小口径の拳銃を周囲の男達に向けた。
「まだ抵抗するつもりぃ〜? もう諦めようよ。そんな物、当っても怖くないんだから」
男が困ったように、良介達を嘲るように皺を寄せて顔を歪め、一歩――生きるか死ぬかの境界線――を踏み越えた。
瞬間に良介達は引き金を引く。
『なッ?』
男達が驚くのも無理はない。
例えるなら、『窮鼠猫を噛む』という諺が適切な最後の抵抗。男達の顔面に向けて放たれた着色弾が、着弾と同時に色取り取りの花を咲かせる。
「着色弾でも、目潰しぐらいにはなるんだぜ」
良介がそれだけを言い残し、着色剤に目を眩まされた男の横を駆け抜けた。
幸いにも、先刻の通信を受けた他の敵部隊は、別の分隊の方へ狙いを定めていた。
良介達の駆ける向こうに、望んだ林の切れ目が見え始める。
もう少しだ。
後、数メートルも走れば生き永らえる。
目潰しをされた男達が追いかけてくるぐらいの時間は経っただろうが、本部へ辿り着けば救援部隊が呼べる。だから、良介達は必死に林の出口へ向かった。
「は、ははははは……」
そして、嗤う。
生き残ったことへの悦びではない。あえて言うならば、絶望を知ったことへの諦念に対する自嘲の嗤み。
どうして、外に出るまで気付かなかったのか。良介は狂いかけた思考の端で考える。
木々を薙ぎ払わんと突風を巻き起こすローターの轟音にさえ、希望を見出した脳はその感覚を麻痺させていた。
目の前でホバーリングする少し角ばった流線型のフォルム。所々に野暮ったく付随した鉄パイプと抱き枕――否、銃身と弾道ミサイル。アメリカ製戦闘ヘリAH-64通称アパッチ。
どうして、こんなものが日本の自衛隊陸軍の演習用林上空を飛んでいるのだろう。
『こちら『太陽“ザ・サン”』。取り逃がした残党を発見。一掃した後に証拠を隠滅する。直ぐにその場を離れろ』
付けっぱなしだった無線機が、偶然にも操縦者の声を拾う。これまでこちらの無線を傍受していたのだから、周波数が同調するのもおかしくはない。
そして、操縦桿に付いているスイッチを親指で押さえ込むだけで、呆気無く良介達は肉片と化した。
呆気無い。本当に、人間というものは脆い。
『了解。ナパームを……。テンパ……がイ……マンとの接触……確認した。直ちに、別働隊を……る。回収後直ちに撤収する』
消えかかった意識の中で、最後に聞こえたのはノイズ混じりの通信。どこかで聞いたことのある名前だったが、良介は誰なのか思い出すことも出来ず意識を失う。
残された屍を染めるのは、赤々と燃え滾る炎。全てを消し去り、そこにあった真実さえも灰に帰す。
開戦の花火は、既に打ち上げられた。
一章・コインの表裏
今から昔の話。とは言っても、まだ七、八年ほど前の話になる。
ある男が、まだコインの裏を見つめていた頃の話だ。男の名は、明響矢。今は庵明響と名乗っているが、彼の見つめるものは同じコインだった。
当時、響という男はアメリカにいた。
仕事は、裏の社会で暗躍する悪党の始末。そう言ってしまうと格好良い正義のヒーローだが、響曰く――「この世に悪も正義も無い」である。
話は唐突に、今から三年前のとある事件になる。
五年くらい前に、某県警としてコインの表を見つめ始めた響は、三年前に一つの事件と出くわした。一時は当時のマスコミを騒がした、『連続絞殺魔事件』という見出し。
平凡な商業マンと専業主婦、高校生と中学生の子供が暮らしていたが、彼らは絞殺死体として見つかった。当初の見解では一家心中とされていたものの、極少数はそれを否定した。
仕方ないと言えば、仕方がない。
一家全員がリビングで首を吊り、周囲に抵抗した様子が無ければ心中と断定されてもおかしくない事件である。他殺の痕跡が見当たらなければ、創作の世界にいる名探偵などいない現実に、他殺という見解を見出すことなどできはしない。
しかし、同様の事件が別の一家を襲う。一度目と同様、リビングで一家五人が首を吊って死んでいた。それから続いて三度、四度、と繰り返される連続絞殺事件。
二度ならば、まだ一家心中という見解になっても世間は騒がない。それでも、三度目となれば警察も本腰を入れなければならなかった。ただし、犯人を断定するような証拠も証言も得られなかったと言う。
誰もが警察の無能さを信じた数日後、四度目の事件は起こる。一度目の事件があった街から遠く離れた県境の小さな村で、村の外れにある森の中に野晒しにされた数体の屍が発見されたのだ。
一つの県に留まらず、日本という島国を震撼させた悲劇。その悲劇は、警察が『連続絞殺魔事件』として捜査を始める前に、不思議なほど静かに終演を迎える。
普通ならば、十年は続くであろう残酷な手口は、終演を告げられてから僅か一月で人々の記憶から消え去られる。それと同時に、警察の捜査も打ち切られたのは言うまでもない。誰かが言い出さなければ、言い出す記憶さえ復元することの出来ない、『連続絞殺魔事件』は収束を向かえた。
ただ一人、庵明響という男を除けば。
何故、響がその事件に固執したのか、未だに真実を追い求めているのか、それはアメリカを訪れた五年前に語られる話。
冬も深まろうかというコネチカット州郊外の港町。年中を通して漁業、貿易業で栄える小さくも賑わった町だった。
「今日も収穫なし、と……。でも、この珈琲だけはなかなかの収穫だな。ファーストフード店の物とは思えんな」
人気の少ない海岸沿いのベンチに座り、英語が羅列された新聞を片手に女性店員が入れてくれた珈琲など飲みつつ、男は独白した。
灰色に染まった空、吐く息が白く濁る。雪でも降るのではないかというぐらい、その日はマイナス度の冷え込みを観測する。
防寒用の米国製ロングコートに人工着色の茶髪、サングラスと新聞で隠した軽く焼けた肌。注意して聞いていなければ、男が日本の黄色い猿だということに気付かないだろう。気付いても、観光客の一人と思われるのが関の山だ。
だからこそ、男が一人で街を歩き回ることに誰もが気に留めない。ベンチに座って珈琲を啜り、ウミネコを眺める男に誰が声を掛けようものか。
男の独り言など、尚更聞く者などいない。
「情報が正しけりゃ、この辺りにあるはずなんだがなぁ〜」
誰にも聞かれないことを良いことに、男は人目をはばかることなく声を大きくする。
すると、男の声を聞きつけたのか、こちらへ怪しげな男が向かって歩いてくる。口髭を蓄えたフレンチコートの男で、一見は通りすがりの商社マンにも思える。しかし、怪しい男は真っ直ぐにこちらを見据えていた。
「Mr.Akira?」
「…………」
側まで来た怪しげな商社マンの問いかけに、しばし沈黙してからうなずいて見せる。
名乗るべきか迷ったが、自分の名前を知っている以上は誤魔化しても無駄だろう。そう思って、明響矢は正直に答えた。
もし目的の相手であれば、響矢にとって探す手間が省ける。
「唐突に申し訳ない。あなたの名は、こちらとしてもかねがね耳にしている」
驚いたことに、男は流暢な日本語で切り返してくる。
「戸惑うのも無理はありませんが、私の身分上、事細かに説明するのは勘弁させてもらいたい。ただ、貴方が欲しい情報を提供したいと思ってね」
「情報……? せめて、あんたが何者かぐらい教えて欲しいね」
所々、敬語と砕けた言葉の混じる男の台詞に、響矢は怪訝そうに返す。
「……FBIと言えば信じてもらえるだろうか?」
男の答えに、響矢の反応は薄い。
信じろと言われて、はいそうですか、の一言で信じるほど馬鹿ではない。それに、こちらの動きはどこの組織も属さずに行っている詮索である以上、ここでFBIが接触することなどありえない。
「悪いが、その情報とやらはあんたの胸に閉まっといてくれ。本当にFBIならあんたらが勝手にすれば良い。逆に俺の敵だったなら、ここで永遠に黙って貰うことになるぞ?」
「ならば、『狂う歯車“マッド・ギア”』について、と言えば話ぐらい聞いてもらえるかね?」
「ッ?」
男が口にした一つの単語に、響矢が向けた敵意が驚愕に変わる。
こちらの動きに気付いた敵の罠か。それとも、本当にFBIなのか。
どちらにせよ、男は響矢が追い求める目的に精通している。
「話、ぐらいなら……。もしそいつが嘘だったら、その時は覚悟しろよ」
何一つ収穫が無い今、男のもつ嘘か誠かも分からぬ情報さえ響矢には欲しいものだった。言葉など意図を伝えるだけの物とし、睨みつけながら先を促す。
響矢の眼光に男は数瞬たじろいで、汗を拭うようにコートの裾で額を撫でる。
「貴方を見込んで、我々に協力して貰いたい。詳しいことは現地の潜入捜査官に聞いて欲しい。今夜――」
時間は移り変わり、夜の帳が落ちた埠頭の倉庫。
『――の十二時、三番倉庫の正面にあるコンテナを三度、二秒の間隔を空けながら叩いて欲しい。それを合図に、現地の潜入捜査官が接触してくる』
という、男の言葉を半分信じて、響矢は指定のコンテナの上に息を潜める。
予定の時刻まで三分を切ったところで、思い直そうとする響矢。コンテナの上に潜んだのは、例え合図を聞きつけたのが敵であっても、逃げるなりすることが出来るからだ。それに、暗闇とは言え男の言う潜入捜査官の様子を観察できるからである。
腕に巻いたブランド物でもない市販の腕時計を見つめ、心の中で予定時刻までのカウントを始める。
(後一分……寒ッ)
夜の冷え込みは、昼間に比べて相当のものがあった。十分ほど前には到着していたが、待っている間に何度身を震えさせただろうか。
クシャミをして台無しにしてしまうのでは、などと考えながら響矢は十数回を数える時計の確認をする。どうにか、秒針は10の表示を過ぎて秒読みを開始していた。
(九、八、七……)
秒針が刻々と時を刻む。
一秒、そして深夜零時。
時が訪れるのを待っていたかのように、チラホラと黒一色の空から白い塊が降り始めた。やはり、今日の冷え込みは予兆だった。
響矢は、雪が少しずつ降り積もってゆくコンテナを言われた通りに叩く。どれぐらいの強さで叩けば良いのか分からなかったが、気取られぬよう注意していなければ聞こえない程度にリズムを奏でる。
叩き終えてから、たっぷり三十秒を数えたところで、三番倉庫の扉が開く。
「少し様子を見てくるわ。誰かに嗅ぎつけられたら、命が危ないのは私達だからね」
倉庫の中にいる誰かに話しながら、姿を現したのは若い女性だった。暗闇の中なので声で判断するしかなかったが、年中女性をナンパしている響矢には、これだけである程度女性に限り年齢を判断できる。
(二十……いや、十代後半か?)
少し緊張の混じったソプラノボイス。女性というのは若く、少女と呼ぶのは失礼に思える年齢。
もし彼女が潜入捜査官なら、FBIのやることの底が知れる。
やっぱり偽りの情報だったのだろう。そう思い、謎の娘にばれないように帰ろうとしたところで、彼女は周囲を見渡してコンテナに近づいてくる。そして、寒気に程よく冷されたコンテナにもたれかかり、三度、二秒の間隔を空けながらコンテナを叩いた。
「隠れてないで出てきてくださいよ、猫さん。私とお話しましょ」
どちらが猫なのか、娘は猫撫で声で誰とも無しに話しかける。
しかし、まさか本当にこんな成人も迎えていないような娘が潜入捜査官なのだろうか。信じ難い響矢は、もう少し様子を見ることにする。
「恥ずかしがり屋の猫さんですね。奥へ逃げちゃいましたか」
そう言いながら娘はコンテナの隙間を縫って、倉庫の中にいる何者かに聞こえないぐらいの距離をとる。
響矢は着地した音も立てずにコンテナを降り、娘に気取られぬよう後をつける。娘がコンテナに囲まれた少し開けている場所で立ち止まると、響矢を探して周囲を見渡す。
「ここなら大丈夫でしょ? 隠れてないで、出てきてください」
完全にこちらの存在を知っている今、娘が敵である可能性は低かった。それでも、正面から姿を現す気にもなれず、
「ここだ。今出て行くから、変な真似はするなよ」
と娘の背中に声を掛ける。
なのになぜか、娘は響矢のいる方向とは反対を向いていた。その隙に娘の背後に近づき、後頭部にデコピンの要領で指を突き付ける。
「……ッ!」
娘の声にならない驚愕。自分が声を聞いた方向と反対から声の主が現れれば、驚くのも無理は無い。
コンテナの空洞に音を響かせて向かい側のコンテナに反響させただけの、山彦に近い簡単な音響のトリックだ。
「……流石、『波紋の奇術師』とまで呼ばれた明響矢ね。まんまと背中をとられちゃったわ」
娘は観念したように両手を挙げて降伏する。
裏の社会で『波紋の奇術師』と異名を付けられた響矢は、音や振動、流体の動きを直感的に把握して己の物にできるのだ。今のデコピンの状態も、少し指を弾くだけで娘を昏倒させるだけの振動を与えられる。
「まず、君が何者か喋ってもらおうか。どう見ても、捜査官って年齢じゃないんだよな。身分証明書ぐらい、持ってるだろ?」
なんとなく自分の方が悪人のような台詞で、娘を問い質す。
だが、娘は響矢の言うことを聞こうともせず黙りこくる。
「腕が立つって聞いたからどれほどの物かと思ったけど、頭の方はあまり良くないみたいね」
口を開いたかと思えば、それだ。
「正体も明かせない奴を、信用するつもりは無いんだが。まさか、FBIが一般人の小娘を囮に使うとは思えんしな」
「信じてもらえないみたいだけど、私は潜入捜査官よ。第一、潜入捜査官が自分の身元が割れる物なんて持ち歩かないでしょ」
そう言われて、響矢は自分の台詞の浅はかさに気付く。
「なるほど、そりゃ確かに、な。じゃあ、せめてお宅が俺に声を掛けた男の仲間だと証明して見せてくれないか? 合図ぐらいなら、注意深く聞いてりゃ真似できる」
ここまでされて堂々としている娘が敵とは思えないが、響矢には一つだけ感銘を受けた台詞がある。
「信じたければ信じられるまで疑え。知り合いの受け売りだが、あんたが信用できる人間だと分かるまでは手を除けるつもりはない」
「疑り深いのは良くないけど、分が悪いのは私のようね」
自分の立場を理解したのか、娘はポケットに手を入れて弄る。
何を見せるつもりか知らないが、下手な真似をすれば直ぐにでも指を弾けるように、手に力を込めて様子を伺う。
そして娘が取り出したのは、見覚えのありそうなサングラスと綿のような塊。
「見覚えないかしら? 貴方に力を貸して貰いたい」
「……なッ!」
今度は、響矢が驚かされる番だった。
娘が取り出したのは、声を掛けてきた男のつけていたサングラスと、たっぷりと蓄えられた口髭――正確には付け髭だ。その上、娘の声による問いかけと、男の声音による懇願の台詞。
それが意味するものは、娘とあの男が同一人物だということ。
最初は声を変える機械でも使っているのかと思ったが、娘にそうした様子は見られない。天性的に与えられた声帯で、娘は女声と男声を使い分けているのだ。
「特異体質とでも言うのかな? 物心がついた時から、こうして声の質を完璧に変えられたわ。変装については、恩師がいるんだけどね。貴方を騙せるぐらいなら、私も大したものね」
娘が誇らしげに言う。
テレビにでも出られるほどの、響矢が年齢を間違えるぐらいの能力。そうした能力は、スパイや潜入に打ってつけと言えよう。
疑う余地が無くなり、響矢が娘の頭から手を除ける。
「そこまでされちゃ、信じないわけにはいかないな……。それで、なんて呼べば良いんだ? これから協力し合う仲間を、娘っ子って呼ぶのも失礼だろ」
「ありがとう、信じてくれて。今の私は、仲間内からアリスって呼ばれてるわ。私もそれで通してるから」
「分かった。それで、アリス。俺は何を協力すれば良い?」
「部外者の貴方が動き回ってると相手も警戒するから、私が内情を探る。もし私に危険が迫った時、救出と脱走の手助けをして欲しいの」
どこかアリス一人でも自分の身を守れそうな物言いだが、直接的な戦闘においては響矢の方が上手だ。
「今回はもうもう戻らないと怪しまれるから、明日にでも別の場所で落ち合いましょう。貴方が逗留しているホテルの近くにある、ファーストフード店で働いてるから」
その夜は、顔合わせと次の接触地点を決めて二人は別れた。
しかし、宿泊場所まで特定されている上に、珈琲を買ったファーストフード店で既に顔を合わせていたとは思わなかった。ただ、ナンパを目的に店内の確認は怠っていないはずだが、アリスの顔や声に聞き覚えは無い。
「私の入れた珈琲、美味しかった?」
別れ際に、アリスが悪戯に微笑みながら聞いてくる。
果たして、この娘は幾つの声と顔を持っているのだろうか。
自称FBIの潜入捜査官を名乗る娘、アリスとの邂逅を果たした翌日。
響矢は、昨日珈琲を買ったファーストフード店にやってきた。時刻まで指定されていなかったので、朝食ついでに入店して店内を見渡す。
アメリカでは人気の高いファーストフードとは言え、流石に朝の開店間際には混み合わない。朝食を買い求める商社マンの隙間を潜り、手近なレジへと注文をしにいく。
「いらっしゃいませ〜。ご注文はお決まりですか?」
昨日の昼頃には見なかった女性店員が、朝から元気な笑顔を浮かべて注文を聞いてくる。
「ホットコーヒーとプレーンドッグ。それから、アリスって店員は勤めてるかな? はっきりと名前を思い出せないから、似たような名前の子とか」
注文と同時に聞いてみると、店員は僅かに訝しげな顔をしてから、注文を調理係に伝えて質問に答えてくれた。
「アリスちゃんなら、昼前からの出勤ですけど。どちらさん? まさか……ね」
いったい、最後の疑いの眼差しはなんだろうか。
アリスがここでどんな立場なのかは知らないが、男が訪ねてくるのが珍しい人間関係を作っているのか。
とりあえず、注文の商品を受け取って少人数用のテーブルに着く。もちろん、アリスが来るまでの間ここで時間を潰すという主旨は店員に伝えた。
朝食を取り終えてから、響矢は椅子に腰掛けたまま思い返す。
どうして、誰からの依頼も無くこの事件に首を突っ込んだのか。数年後の日本で『連続絞殺魔事件』と呼ばれ、アメリカでは『狂う歯車“マッド・ギア”』と異称を付けられたこの事件に。
事の起こりは、一月半程前にニューヨーク州で起こった強盗殺人事件だった。三十代男性、無職住所不定のジャンキーがショットガンを片手に銀行へ押し入った、アメリカではさほど珍しくは無い強盗事件。
普通と違うのは、男は銀行へ入るなりお金を要求するでもなく手当たり次第に散弾を客に向けてぶっ放したということ。死傷者数十名に及ぶ大惨事となり、それから一月はアメリカ中のマスコミで騒がれていた。それが、一月も経つ頃には合衆国民の記憶から消し去られていたのである。
誰かが問えば答えは返ってくるものの、マスコミに取り上げられることも無ければワザワザ話題に上ることも無く、田舎町の殺人事件如きに人々はその強盗殺人事件を忘れた。
そして、響矢がその強盗殺人事件の犯人逮捕に加わったのは言わずもがな。店内は死死累々、阿鼻叫喚の地獄と化し、響矢が踏み込んだ頃には既に手遅れと言っても良い惨状だった。
廃人寸前の男を取り押さえることなど響矢には容易いことだったが、それまでに店内へ突入した警官隊が数人犠牲になり、野次馬までもが散弾の流れ弾で怪我をした始末。ただ、犯人の男は正当な社会のルールで罰せられることは無く、響矢が取り押さえる寸前に己の銃で口内から脳天を打ち抜いて自決した。
その後の司法解剖によって判明したのが、男が全く麻薬などやっていないとのこと。誰もが検査のミスを指摘したが血液検査に限らず何種類かの検査でも麻薬らしき成分は検出されなかったのだ。男が精神的に狂ったとでも言わんばかりに、他の要因も無く行われた犯行として事件は処理された。
一時はそれで終わるかに思われたのだが、一月の間に同様の事件は片手の指では数え切れぬ回数を数えることとなる。強盗に限らず通り魔的な犯行、手段は銃器だけではなく刺殺もあれば撲殺も。犯罪者の容姿等も、ホームレス染みた身分から一般的な市民、老若男女を問わなかった。そして、犯人の全てが行方不明になるか、顔の原型を留めぬような状態になって見つかる。
以来、人を動かす歯車が狂ったような犯行、そうした揶揄を込めてマスコミが書き上げたのが『狂う歯車』という見出しである。警察関係者も同様の手段による犯罪者を、もしくは正体不明の薬物を総称として『狂う歯車』と呼ぶようになる。
幾度かの事件に関わった響矢は、事件が収束した後もこうして真相を突き止めるべく嗅ぎ回っているのだ。その中で唯一の収穫が、ここコネチカット州の港町に訪れた人間、出身者――との接触した者を含む――という共通点だった。無論、浮浪者だったり身元を隠していたり、人付き合いの悪い性格などの理由で『狂う歯車』の半数以上は大した情報を持っていなかったので、三割程度の共通点でしかない。
それでも、全体の三割がここに繋がっているのなら、調べてみる価値は少なからずあった。こうして、目的の情報も得られたのだから。
「こんにちわ、私の用事があるというのは貴方ですか?」
これまでの流れを思い返していると、正面に立った女性が声を掛けてくる。
パーマの掛かった髪をブロンドに染めた、少し濃い目の化粧をしている二十歳過ぎぐらいの女性。ファーストフード店で働いているより、水商売の客引きをしている姿の方が似合っている。
響矢の知るアリスとは全く違う、女性を物色していても目に映らないような容姿。僅かに、こんな女性が珈琲を渡してくれたような気がした。
「人違いだったかな……」
「私です、アリスですよ。これも変装の一環です」
腰を上げて立ち去ろうとする響矢に、アリスなる女性が間髪入れず呼び止めてくる。聞き覚えのある、夜の埠頭で出会ったアリスの声で。
「……紛らわしいだろ、それ? 何の必要があって、ここで働くのに変装なんかしてるんだよ」
響矢が呆れて溜息を吐く。
「こういうところは、普通のお客さんだけが食事に来るわけじゃないんですよ。ほら、あんな輩だって一日に何度か見ます」
声を抑えながら泳がせたアリスの視線を追うと、数人の若者が屯しているテーブルがあった。いかにも真っ当な人間ではない、ヘビーメタル風の若者達だ。
裏の社会には、一般人を装ってあくどい稼業で私腹を肥やす奴もいれば、その若者達のように末端でお零れに与るような奴らもいる。裏の情報を聞き出すのなら、前者よりも後者の方が簡単に口を開くというわけだ。
ようやく、先ほどの店員が向けてきた視線の意味を理解する。
「思ったより、鼻は利くんだな。埠頭のことも、あんなのから?」
「思ったより、ってのは余計だけど、そうね。ちょっと甘えて魅せると、案外ホイホイ喋ってくれるものよ。昨日も、密輸されてくるヤクのお零れを与ろうってフリをして、倉庫にある荷物の見張り番を買って出たわけ」
まんまと騙された馬鹿共を嘲るように肩を竦めるアリス。
もしアリスの言うとおりなら、『狂う歯車』は三番倉庫にあるというこなのか。響矢が期待を顔に浮かべると、アリスは残念と言わんばかりに首を横に振った。
「昨日密輸されてきたのは、普通のコカインやヘロインだったわ。それだけでも十分に検挙の理由になるけど、悪までも私の目的は『狂う歯車』よ。もう少し、敵を泳がせるわ」
言い切ってから、アリスは睨みつけてくる――実際は睨んでいるわけではない――響矢に気付き、言葉を付け加える。
「もし貴方が正義の元で摘発したいのなら、好きにしてもいいのよ。協力関係とは言っても、私と貴方が『狂う歯車』を追う理由は違うのだから」
「いや、そのつもりは無い。確かにコカインやヘロインだって見過ごせないが、俺の目的は麻薬の摘発じゃない。君と同じく『狂う歯車』の正体を暴いて、これ以上の被害者――犯罪者も含めて狂う人間をいなくしたい。ただ、気になっただけさ……」
険しい顔を、いつものように女性を見る時の柔和な表情にして応える。
別のことが気になって、少しばかりアリスを見据えてしまっただけなのだ。
どうして、彼女はそれほどまでに『狂う歯車』に執着するのか。FBIの捜査官であっても、ただならぬ執着心が彼女にはある。
変装の達人である以上は、アリスが『狂う歯車』の被害者の親族親戚を思い出しても一致する人物はいない。捜査の一環として固執しているとしても、普通よりも思いのたけが強い。
「なんで、君みたいな女性が潜入捜査なんて危険を冒してまで未知の麻薬を負い続けるのか、考え付かなくてね」
「…………」
響矢がそう言うと、アリスはどこと無く悲しげに見つめ返してくる。
喋りたくないのか、それとも思い出すのも嫌になるような理由なのか。嫌なら別に構わない、と制そうとしたところで、アリスは伏せがちだった顔で上目遣いに薄ら笑いを浮かべる。
「貴方は?」
「はぁ?」
唐突な返しに、響矢は妙に間の抜けた声を出してしまう。少しばかり言葉足らずなので、何を言っているのか分からなかった。
「だから、貴方はどうして『狂う歯車』を一人で追っていたの? 貴方が話してくれたら、私も話すわ」
付け加えられた言葉。どうやら、意地悪く交換条件を突きつけられたらしい。
しかし、理由を問われても、響矢にそれほど深い理由などないのだ。単に、これまでの人々を狂わせた未知の麻薬に興味が沸き、調べ回っている内にうっかりここまで来てしまっただけ。それが運命、もしくは必然というのか、もしかしたら偶然という相対的なレールに漕ぎ出してしまっただけなのかも知れない。
「大した意味はないさ。追い掛け回していた女のケツが意外にもつれないものでね、紳士の俺らしくもなくしつこくストーキングしちまった。それだけだ」
長々と話す必要もないので、おどけるように肩を竦めて答える。
アリスは少しつまらなそうに「ふーんっ」と鼻を鳴らす。話がつまらなかったのか、例え話が面白くなかったのか、それとも紳士と自称する響矢を小馬鹿にしているのかも。
どれともつかぬ顔をしながら、頭の中で話しの構想を練っているという顔をしながら口を開くアリス。
「じゃあ、例え話でも良ければ話すわ。あるところに、仲の良いグループがいました――」
――そのグループは幼い頃から仲が良く、皆で和気藹々と暮らしていた。街の人に悪さをする悪党をやっつけたり、困っている人を助けたり、彼らは多くの人々に感謝されていました。
それがある日、数人の仲間が唐突にグループを抜けたのです。そして、抜けた仲間達は街の人々を苦しめたり、悪いことをし始めます。残った仲間達は、どうして、なぜ彼らがそんなことをするのかが分かりませんでした。
これまでの生活は、仲良しグループにとって何の不満もない楽しい生活のはずでした。街の人々が笑顔で暮らせる街を作ろうと、必死に頑張ってきた彼らの行動に何の不満があったのでしょう。残った仲間達は、その理由を知ろうと、そして悪さをする仲間達を止めようと頑張ります。
「話はそれで終わり」
アリスが語りを止める。
「……君は、誰がこんなことをしているのか知っているのか? まさか、FBIの誰か、なんてことは」
「誰がやっているのかは知ってる。でも、理由なんてどうだって良いの。ただ、また昔のように仲良しグループに戻れないかな、って望んでるだけ。私が持っているたった一つの願い、私って我侭かな?」
響矢の言葉を遮り、アリスが憂いを帯びた瞳で問い返してくる。
それに、響矢は答えられなかった。離反した仲良しグループが何を思って、何がしたくて悪さを始めたのかなんて知らない。アリスの願いが、我侭なのかどうかも響矢には判断のつかないことだ。
もしかしたら、この件は自分が関わるべき問題ではなかったのかも知れない。仲良しグループだけの、彼女達が解決すべき問題なのではないだろうか。
「さて、そろそろ時間だから仕事に行くわ。今夜もまた、三番倉庫で見張り番をしているから、合図は昨日と同じで」
答えあぐねていると、アリスが時計を見て立ち上がる。
こちらの返事を待たずに立ち去るアリスの背に物憂げな何かが見えたのは、まだ真実を知らぬ響矢だけだったろうか。
アリスというFBIの潜入捜査官と出会い、二度目を数える夜が訪れた。
響矢は、指示通りに昨夜と同じ埠頭の三番倉庫の正面にある、コンテナの上で夜空を眺める。薄らと降り積もった雪はオレンジ色のコンテナを白く染め、見つめるつもりだった星空は再び灰色の雲に覆われていた。
体の熱で溶けた雪が、ズボンを濡らして少しばかり冷たい。体の心に響くような寒さに身を震えさせ、フッと時計を確認する。
気付けば、ここへ着てから一時間程度が経っていた。午後十一時過ぎ、人の気配は倉庫の中からしか感じられない。コンテナを伝わってくる足音を聞く限り、倉庫には三人ぐらいの見張りがいると思われる。
アリスと同様に、密輸された麻薬のお零れに与ろうという輩か。こうして目標を見張っていても、一向に麻薬が密輸されてくる気配はない。
「今日は来ないのかねぇ〜。うん?」
響矢がそう呟いた時、海の方で水が跳ねるような音が聞こえる。
最初は魚が跳ねたのかと思ったが、この季節に海面まで姿を現す魚などいるだろうか。魚の生態などさほど詳しくは無い響矢は、コンテナの上で身を伏せて暗黒の水平線を見つめる。
すると、海から上がってくる二つのシルエットが見えた。
どちらもダイバースーツのような黒い潜水服を着て、シュノーケルに水中眼鏡だ。こんな時期に海水浴をしている酔狂な奴、というわけでもなさそうだ。
海から、紐を引っ張って何かを引き上げようとしている。
「こいつは、グッドタイミングじゃねぇか」
引き上げられた箱らしき物体に舌なめずりして、響矢は倉庫のアリスに合図を送る。
合図を聞きつけたアリスが、中から合図を返してくる。近づいてくるダイバースーツ姿の何者か。キョロキョロと周囲を見渡して、二人係りで木箱を運んできた。
とりあえず、他に仲間がいる様子はなかった。
「ここだ。おい、いたら返事をしろ。例のブツを持ってきた」
男らしきスーツの一人が三番倉庫の扉を叩き、アリスが姿を現す。
「見張り役のアリスよ。他に二人。これが、話に聞いてた奴?」
「あぁ、貴重な奴だぜ。安心しろ、分け前はちゃんとくれてやるからよ」
「ほんのちょっとで天国に行けるぜ。明日にでも、試させてやる。それまで、ちゃんと見張りを続けるんだぞ。もしばれたり、持ち逃げしようなんて考えたら……」
「分かってるわ。私達だって、死ぬのは怖いからね。寒かったでしょ、ストーブが利いてるから温まっていきなさいよ。あ、灯油が切れてたんだっけ?」
アリスと短い会話を交わし、男達が倉庫に入ってゆく。
どうやら、あの木箱に入っているのが目的の麻薬――『狂う歯車』のようだ。一ヶ月以上探しまわったターゲットに出会え、らしくも無く響矢は興奮を抑えられない。
ダイバースーツの二人組みは、木箱を置いて直ぐに海へと引き返してゆく。後は、襲撃するタイミングを見計らうだけだった。
時間は刻々と過ぎ、十二時を前にした。そこで、再び夜空から白銀の粒が降り始める。昨日とは違う粘り気のある牡丹雪で、古い雪をすぐさま覆い隠していった。
「さむぅ〜。くそっ、早く帰って暖かい珈琲でも呑みたいぜ。もちろん、ウェイトレスはアリスにお願いする」
体の凍えを誤魔化すように、一人で寂しく軽口を叩く。
そうしている間に、時計の針が十二に重なる。
「少し外の空気を吸ってくるわ。ちょっとそこ、変な考えを起こさないでね」
扉を開けて外に出てくるアリス。『狂う歯車』を持ち逃げしようと考えた馬鹿野郎に制止をかけている。
「大丈夫だって。これだけありゃ、一つぐらいなくなっても……」
たぶん、軽い気持ちだったのだろう。木箱いっぱいにある麻薬を目にして、欲に溺れるのも無理は無い。
「大丈夫だガッ……」
だが、その馬鹿野郎は一つの断末魔を残して口を噤む。
『ッ?』
響矢からは何が起こったのかわからないが、二人の驚愕が重なる。
アリスがこちらを見つめてくるので、響矢はコンテナから降りて倉庫に駆け寄る。アリスを押し退けて倉庫を覗き込むと、そこには頭をカチ割られて倒れている小柄な男性がいた。
いたというよりも、既に息絶えている。火が付いていない灯油ストーブの側に木箱が置かれ、麻薬を握り締めながら微動だにしない屍。
代わりに、どうやって倉庫の扉を潜ったのかも分からないような、一般男性の二倍はある巨漢が直径二十センチほどの鉄パイプを握って佇む。鉄パイプから滴る鮮血を見れば、巨漢が男を殴り殺したのは明白だ。
「何者だ……? そうか、お前の方だったのか。あの人が言っていた、ヤクのことを嗅ぎまわっている奴らって言うのは」
スキンヘッドの黒い顔が、口元を吊り上げてこちらをねめつけてくる。
巨漢の言っている人物は知らないが、どうもこちらの動きは知られていたらしい。呆れたようにアリスを振り向くと、申し訳なさそうに合掌してくる。
しかし、今はアリスを責めている暇などない。目の前には、凶器を持ったヒグマよりも凶暴な化け物がいるのだから。
「薬の方は後で頂くとしようか。先にミートローフにしてやるから、掛かって来いよ黒豚」
響矢が巨漢を挑発する。
「なめるなッ! この、極東の黄色い猿がッ!」
巨漢が怒涛の勢いで向かってきた。
こうした輩は大して頭が良くなく、簡単にこちらの挑発に乗ってくれる。
「アリス、お前は『狂う歯車』を持って逃げろ。こいつは、俺が惹き付けるッ」
そう言いながらアリスを倉庫の奥へと押し遣り、振り被られる鉄パイプを腕一本で横に受け流す。
普通の男性でも全力で当てれば骨の一本ぐらい砕けるほどの鉄パイプを、受け流されたことに巨漢は驚きを顔に浮かべる。
これぐらいは大したトリックではなく、単に腕を滑らせて勢いを下方に流しただけの話だ。それに、
「本当の奇術はこれからだぜ!」
響矢は声を張り上げ、隙の出来た巨漢の懐へと踏み込む。
踏み込む前方向のベクトルと、腰の回転で生まれるモーメント力を、巨漢の腹部と下腹部に間にある重心へと叩き込む。
腕を伝わる衝撃。脂肪か筋肉であるはずの肉の塊が、ゴムマリを叩いたかのように後方へと吹き飛ぶ。
「がはっ!」
体を「く」の字に曲げて苦悶を吐き出す巨漢。
響矢はそのまま金属質の床を蹴って、宙に浮いた状態の巨漢へ詰め寄り、二度目の合成力を叩き込んだ。
響矢の噂を聞いていたアリスも、姿を消したかのように巨漢へ肉迫する俊足に奇術師なる異名を見ただろう。だが、この程度はトランプマジック程度の奇術である。
二度目のストレートを食らって壁に激突しようとした巨漢に、再び詰め寄った響矢が壁の三メートルほど手前で立ち止まる。そして、壁に反発して戻ってくる巨漢に某格闘ゲームばりの回転跳び蹴りを加える。
今度は「へ」の字に空を飛ぶ巨漢。どれほどのタフネスを持った巨漢も、これだけの連続コンボを食らってダメージが皆無とは思えない。
「止めだ」
それでも響矢は、容赦というものを知らぬ鬼人の如く最後の一撃を叩き込む。二度目の跳躍で上昇力を失った巨漢を飛び越え、踵落しという凶悪な蹴り技で巨漢を床に叩き付けた。
轟ッ、と倉庫全体が大きく揺れ、床に人型の窪みを付ける。
「男をお仕置きする趣味はないが、お寝んねの時間を守らない子は無理やり寝かしつけなきゃな」
白目を向いて昏倒する巨漢を見下ろし、ポケットから取り出したタバコ――銘柄はSeven Stars――にライターで火をつける。
全てに終止符を打つかのように、深く吸い込んだ紫煙を天井に向けて吐き出す。
「逃げる暇もありゃしなかったわ……。正直、化け物は貴方みたいね」
アリスが、複雑な顔で複雑な感想を述べる。
結果はどうあれ、邪魔者を寝かしつけて目的のお宝を手に入れたのだ。
「さて、俺達が追い求めた最凶のお宝を拝ませて貰おうかね」
最後の砦である守護者“ガーディアン”を倒せば、その先にあるのは宝物だけだった。
しかし、勇者達は宝箱から出てきたものに怪訝そうな顔をする。
木箱に詰め込まれていたのは、ポリ袋詰めにされた白い粉。麻薬なんてものは全て白い粉だが、そればかりは袋を開けずとも見分けがつく。どうして、麻薬と称して運び込まれてきた粉末が、料理に使われたりするそれなのか。
『小麦粉……?』
二人が声を合わせて、粉末の正体を口にする。
ポリ袋の上から触っても、デンプン質の触感など明白だった。もちろん、袋を破いて粉を舐めてみたが、口に広がる無味の粉っぽさに唾を吐き出すだけ。
「くそっ! 外れどころか、大外れだッ! どうやら、FBIの調査も大して役に立たなかったみたいだな」
悪態を吐いて、呆れながら踵を返す響矢。
タバコを苛立ち紛れに床へ放り、靴裏で揉み消そうとする。その時、目の前に掛かる人並み外れた大きな影。と同時に、アリスの声が響く。
「いえ、これでいいのよ! これが、『狂う歯車』の正体だったのッ」
しかし、響矢に振り向く暇など無かった。
「うがぁッ!」
獣じみた気迫と共に鉄パイプが唐竹に振るわれる。それを響矢は横っ飛びで避ける。
完全に白目を剥いた、先刻寝かしつけたはずの巨漢が既に起き上がっていた。だが、巨漢には人としての理性など残っていない。
分厚い唇からだらしなく涎を垂れ流し、生きた屍と言わんばかりに敵が誰であるのかさえ認識せず歩を進める。
「アリス、逃げろッ!」
響矢が叫びながら巨漢へと肉迫する。
「エッ?」
『狂う歯車』の正体を掴んで周囲の状況に気付いていなかったアリスが、半瞬遅れて響矢の声に振り向く。
だた、その僅かの時間が足りなかった。
巨漢に近づかれていたことを知り、逃げようと腰を浮かせたアリスの横腹に向けて、鉄パイプが振るわれる。
食い止めようと走る響矢。巨漢の懐に飛び込んで、拳を叩き込む。
それでも響矢の行動は僅かに間に合わず、吹き飛ばされながら横薙ぎに振った鉄パイプがアリスの横腹を薙ぐ。
「か、はっ……?」
一瞬、何が己の身に起こったことが分からなかったのか、それとも脳が理解することを拒否したのか、呆けた顔でアリスが吹き飛んでゆく。
殴り飛ばされたアリスは惰性で数メートルほど床を滑り、スチール棚にぶつかったところで動きを止める。
響矢は駆け寄ると、倒れたスチール棚を起こしてアリスをガラクタの中から掘り出す。散乱したガラクタの中にストーブ用の灯油が混じっていたのか、倉庫内に有機溶媒の香りが充満した。
「おい、大丈夫かッ?」
アリスを助け起こすが、傷の様子は分からない。ただ、口から血を滴らせてグッタリと響矢の腕に身を預けるアリス。
鉄パイプを引き離すことでダメージは減らせたが、まだ息があるというのが精一杯の顔色をしている。今すぐに病院へ駆け込めば助かるだろう。
が、それを阻むかのように猛獣と化した巨漢がこちらへ歩み寄ってくる。まさに、宝を守る命無き守護者だった。
「ぐるぅぅぅぅぅぅぅぅ!」
響矢は、守護者の唸り声に意を返すことも無く、静かに立ち上がろうとする。
それを留めたのは、アリスの力ない腕。
「お願、い。そいつは、殺さない、で。そいつも、歯車を狂わされた、ひとり。生きていれば、助けられるから……殺さずに、連れ出して」
「何を言ってるんだ? 連れ出すならお前が先だ! 直ぐにこいつを倒して、病院に行こう。治ったら、ホテルでたっぷりお仕置きしてやるから」
「私は……お仕置き、されるような、子供じゃないわよ」
アリスが、響矢の軽口に弱々しく苦笑を浮かべる。
「もう喋るな。お喋りは、生き残った後でも出来る。そうしたら、色々と聞かせてくれ。お前の本名、本当の姿も見せてくれよ……約束だ」
制止しようとも何かを口にしたがるアリスを床に横たわせて、今度こそ守護者に向き直る。
「どけ。アリスのお願い通り、殺さずにお前も連れ出してやる。だがな、邪魔をするならここで――」
恐怖を忘れた、元から感じることのない意思無き守護者に、響矢は言葉を区切って拳を構えた。
「――お前を殺す」
立ち止まらない守護者に、静寂にも似た声音で最後の警告を伝える。
「聞こえる、聞こえるんだ。お前らを殺せ、殺せと……。だから、俺はお前らを殺す!」
それが、宝を護るべくして生み出された守護者の返答だった。
仕方の無い話。使命を与えられて生まれたのなら、それを全うするのが生み出された者の運命“さだめ”。
ならば、
「土人形は、土人形らしく地に還れ!」
振り上げられ、振り下ろされた鉄パイプと、肉迫した響矢が煌きの中で交差する。
零れ出していた灯油が気化して、消し忘れたタバコを火種に引火したのだ、炎は周囲のガラクタを巻き込み、姿を巨大なものへと変えてゆく。それが更に灯油の気化を早め、炎は際限なく成長していった。
響矢にとって、どうしてそこを狙ったのか見当も付かない。ただ、イルカやクジラが超音波で障害物を確認するように、流れを詠む本能が守護者の『命』を『死』に変える手段を知ったのだろうか。
拳でもなければ蹴りでもなく、子供を泣かせるぐらいが精一杯のデコピンを、守護者の額に叩き込んだだけ。なのに、守護者は呆気無くその運命に終止符を打たれる。
響矢は、倒れた巨漢に息があるかどうかも確かめず、再び起き上がってこない絶対の確信を持って踵を返した。
アリスを抱き起こし、炎が渦巻く倉庫の出口へと向かう。お姫様抱っこでもなく肩を貸しているだけなのは、アリスが拒んで自分の足で歩こうとしたからである。
『狂う歯車』の入った木箱は、残念ながら持ち出すだけの余裕はないだろう。
「例え証拠が無くても、正体を掴めただけで十分だ。後は、お前を無事に病院へ送り届けるだけだ」
気休め程度にしかならないだろうが、響矢は物惜しげに木箱を見つめるアリスに言う。その時、アリスが思っていたことはそんなことではなかった。
そして、出入り口に近づいたところで、アリスが足を止める。
「どうした? もう少し頑張れ」
「駄目よ。このままじゃ間に合わない……」
声援を聞こうともせず、アリスが響矢の背中に回る。
木箱の近くで小さな爆音が響く。熱でストーブに残った灯油が気化し、軽い爆発を起こしただけだ。しかし、小さなものでも炭になりかけた木箱を弾き飛ばすには十分だった。
果たして、木箱に詰め込まれていたのは何であったか。そして、それがストーブの爆発で霧散して、空中に白い粉を撒き散らせばどうなるだろう。
答えは、中学生でも分かる。
「なっ?」
唐突に背中が押され、響矢はつんのめりながら出口へと押し出される。アリスがこれから起こる現象を予測して、残った渾身の力で押し出したのだ。
空中にばら撒かれた小麦粉が、燃え盛る炎に包まれて無数の火の粉へ変わる。それは徐々に全ての粉塵を取り込み、大きな爆発へと顔を変えた。
粉塵爆発。炭鉱などで起こる爆発事故の最もな原因であり、微粒の粉が火花などで引火した時に起こる。
粒子の引火とは思えない衝撃が、扉の前にいた響矢にまで襲い掛かる。
「……アルカナ、No.1『魔術師“マジシャン”』。本名は――」
轟音がアリスの言葉を掻き消してゆく。そのまま、アリスの姿までも飲み込む炎。
粉塵爆発の衝撃で外へと追い出された響矢は、何を思ったのか夜空を見上げた。まだ降り止まない雪に、降り積もった白銀と炎の真紅が反射して輝く。
それは、それは、誠に綺麗な景色だった。奇術師ではなく、魔術師が最後に残した魔術。
「星を降らせるなんて、ロマンチックな魔術師だことで……」
どこかで、消防車とパトカーのサイレンが鳴り響いている。
立ち上がった響矢は、どこへ向かうのかも考えず、星降る夜の下を歩く。そうして呟く名は、再びどこかで呼べることを願う魔法の言葉。
「エーミー=リア」
長いようで、短い空想。暖房の掛かった車内で、リクライニングシートを倒してジッと天井を見つめる男。
響矢――庵明 響はおもむろに咥えたタバコに火を点けて、紫煙を吹かす。唐突に、誰かが車窓を叩く。
響は、待ち合わせをしていたことを思い出す。
空想の中に出てきた巨漢を思い出させる、響の愛車である黒のスカイラインの助手席には納まり切らないような大男。スキンヘッドでも黒色の肌でもないが、一睨みで街のゴロツキ程度なら黙らせそうな厳つい顔をしている。
しかし、服装は3Lでも足りそうになりスーツで、セーターの上にロングコートを羽織った響とは貫禄が違う。
「早く閉めてくれ、ここは臭う」
案の定、助手席に必死で体を押し込めている大男を見て、響が急かす。
ここは東京の高層ビル郡の中。排気ガスと工業スモッグが混在し、嗅ぐに耐えない悪臭を放つ。響が裏社会で得たコネで、警視庁や検察庁でなく田舎の県警を選んだのは、この悪臭が嫌いだったからである。
「もう少し大きな車にしたらどうだ?」
どうにか助手席に収まった大男が、言うなりそれだ。
「あんた一人のために、車を買い替えるつもりは無い。それより、こんなところに呼び出して何の用件だ?」
自分の体を縮めろ、と心の中で悪態を吐きながら男に問う。
響が田舎の県警から東京までやって来たのは、ワザワザこの男に会うためだった。待ち合わせ場所を決めたのも、どこかの施設ではなく車内にしたのも、男の方である。
男の紹介をするのも癇に障るが、男の名は熊谷。ファミリーネームだけなのは、どこかの無頓着とは違うが名前まで覚えてやる義理がなかったからだ。そもそも、「熊みたいな大男」と言えば彼を知るものなら誰もが一番にたどり着く。
「……不機嫌だな。愛しの愛人に会えなくて、苛立っているのか? なに、直ぐに会えるさ」
熊谷が茶化す。
それが、更に響の癇の虫を暴れさせる。
別に怒っているというほどでもないにしろ、車による長旅の上に長いこと待ち惚けを食らい、やっとこさと思えばこうして建設的な話が出てこないのだ。多少は苛立ちもする。
「まあ、私も似たようなものだからな。忙しくて、最愛の妻に顔も見せに行けん」
険しい顔つきをする響を和ませようとしているのか、熊谷が呆れたように肩を竦める。正直、似合わない。
それよりも、この厳つい男が妻帯者であることに驚きを隠せなかった。
「奥さんがいたのか……」
「あぁ、今年で五歳になる愛娘もいる。見てみるか?」
驚く響に、頼んでもいないのに家族の写真を見せてくれた。
遊園地かどこかへ行ったときの写真だろう。ネズミのようなマスコットと一緒に写る、熊谷の膝丈にも達しない少女と、胸部辺りまでの身長しかない童顔の女性。言わずとも後者が奥さんらしいが、少女の姉と言われても違和感のない若い顔立ちだ。
「娘さんと奥さん、お前の顔を見て泣かないか?」
「娘は、久しぶりに顔を見せると驚くよ。妻は……ぅんッ、高校からの付き合いだからな」
響の揶揄を含んだ問いに、熊谷は相変わらず真面目な返答をしてくる。身の上話を聞いてやる気もないが、一度ぐらい奥さんとの馴れ初めを聞いてみたいものだ。
「まあ、家族の話は置いておこう。お前も早く、誰か見つけろよ」
自分で話を打ち切ろうとしている割に、余計なお節介である。まあ、響としても早く話しの本題に移りたいので、突っ込まずに視線で先を促した。
「妻が入れてくれたレモネードじゃなくて悪いが、これでも呑んで落ち着け。それとも、帰ってから愛人に入れてもらうか?」
どうやら家族の話になると止まらない性質らしく、ささやかな自慢を含めながら魔法瓶に入った珈琲を勧めてきた。断る理由もないので、響は言葉に甘えて珈琲の入った紙コップを受け取る。
「……奴ら動き出した。今朝の、自衛隊陸軍を襲った火事は聞いたか?」
熊谷が珈琲を啜りながら問いかけてくる。
「あぁ、ラジオで、だが……。奴ら、何者だ? こいつも、何か意味があるのか?」
割と美味しい珈琲に舌鼓しつつ、静かに答えを返す。それと、聞くべきことは聞いておく。
響が取り出したのは、イェーチェから受け取った一枚のタロットカード。星の絵が描かれた、占いなどでも使われる本格的な物だ。
「こいつをイェーチェから渡されるまで、アリス――エーミー=リアを思い出せなかったよ。このタロットカードは、大アルカナって呼ばれてるんだよな。それに、『魔術師』は大アルカナの一番目のカードだ」
アメリカで出会った潜入捜査官アリスことエーミー=リア。彼女を思い出すきっかけとなった、大アルカナの十七番目に当る『星“スター”』のカードである。
熊谷は、追い詰められた犯罪者のような顔で答えを渋る。そんな熊谷を、逃がすまいと冷たい視線でねめつける響。
「悪いが、俺の口からは言えん。俺は、雇われているだけの末端の人間だよ」
渋々と口を開くが、建設的な答えとは言えない。
「深い事情まで話せとは言わんよ。俺だって、この件に関わることがどれだけ野暮なことか、分かっちゃいる。所詮、俺はコインの裏側でしかないんだから、な」
「それなら、どうして我々のことに固執する。コインの裏は、表を対にあってこそ裏だ。どんなに抗ったところで、表か裏のどちらかにしか成れん」
紙コップの中で波紋を作る、珈琲を表面に映る自分達の顔を睨みつけながら二人が言い合う。
そう、熊谷の言うとおり響はコインの裏でしかないのだ。それが意味することぐらい、身の程を弁えている響も分かっていた。
だが、響には果たさなければならないことがある。見つけなければ、願わぬ思いを抱いたまま死に逝った彼女が報われない。
「さて、用件はこれだけだ。いずれまた、お前達の前に奴らも現れるだろう。お前達が敵に回るか味方に回るかで、答えは自ずと変わってくる」
熊谷がまだ熱い珈琲を喉に流し込み、なにやら意味深なことを言い残して車を降りる。あれだけ手間取っていたくせに、出て行く時は割とすんなり体を外に出している。
「もしかしたら、お前は裏の世界に生きるべきではなかったのかも知れんな。詮索が過ぎると、馬に蹴られるから気をつけろ」
熊谷が外から覗き込みながら、似合わない悪戯な笑みを浮かべて言う。
「……まッ」
東京まで赴いておきながら、何の収穫もなく手持ち無沙汰で帰るつもりはなかった。それでも、引きとめようとしたところで熊谷が扉を勢い良く閉じる。
追いかけることも出来ず、交通帯の向こうへ立ち去る熊谷の背を呆然と見つめる。伸ばしかけた手が、どこか寂しげに虚空で揺れていた。
頭では分かっていても、響は既に間違った立ち位置に立ってしまっている。なまじその立ち位置を間違えれば、人はどうなってしまうのだろう。それは、立った人間の加重に耐え切れず足場は脆く崩れ去る。
今、まさに響は崩れる運命から逃れられない足場へと踏み入れようとしていたのだ。そのことに、響自身が気付いていたのかいないのか、分からない。
「中途半端は程ほどにしておけ、ってことか……」
自嘲とも取れる独り言を呟きながら、響は残りの珈琲を飲み干す。焼けるような黒色の液体が喉へ、胃へ流れ落ちて、少しずつ頭の感覚が現実へ戻ってくる。
その時、誰かが車窓をノックする。
熊谷が戻ってきたのかと思ったが、振り向いた先には一人の女性が膨れっ面で佇んでいた。
ハッチング帽に薄手のマフラー、ワンピースタイプの白黒のロングソウを子供っぽく、それでも大人びて見えるように着こなした女性。
「……り、リン!」
響が、膨れっ面の女性の名前を呼ぶ。
この時間ならば、田舎の県警で資料の整理をしているはずの、資料係に所属する婦警である。ちなみに、響の愛人であることは言うまでもない。
「ど、どうしてお前がここにッ?」
断りもなく愛車に乗り込もうとするリンに、響は驚愕を隠さずに問う。リンは、膨れっ面のまま睨みつけて助手席に腰を下ろした。
ハッチング帽を頭から取ると、ボブカット調の黒い髪が不機嫌そうに揺れる。
「私が、資料係だってことを忘れましたか?」
もちろん、経緯は知らないが二年ほど前から生活安全課から移ったことは覚えている。
「響さんがどこへ出張するかも、ちょっと資料を探せば見つかります」
「な、なるほど……。でも、それって規約いは……」
「シャーラップ! いつもはお隣の県警だったりしますけど、東京ってのがおかしくてつけてきたら、こんなところで男の人と密会ですか? 私というものがあろうのに、密会、それも男と。不潔です! 不潔を通り越して最低のゴミ屑以下ですよッ! えぇ〜、分かりました。今度、正式に私の両親に会ってもらいますからね。返事は!」
「は、はい……」
言葉を遮られ、捲くし立てられた響は怖気付いて素直に返事を返す。
その返事を聞いて、リンは機嫌を直したのか、いつもの愛らしい笑顔で付け加える。
「冗談です。最後を除いては」
シレッと言ってのけるリン。
どうやら、勢いに任せて婚約を取り付けられたらしい。そして、その意味がどれほど重要なことであるか気付くのに十秒を要する。
「な、なにぃーッ! ちょ、ちょっと待て……俺は結婚なんてするつもりは――いや、する権利さえないんだぞッ?」
無論、裏社会に生きていた響にだって表の社会での法律や権利、義務と言ったものは適用される。響が言っているのは、人間としての存在的な意味合い、だ。
「何を言っているんですか、私の体を弄んで、よくもまあ責任逃れしよう思えますね」
リンは、台詞こそ冗談染みているが、冗談でも酔狂でもない真顔で詰め寄ってくる。
「言っておきますが、隠しても無駄ですよ。資料係の私が、響さんの過去を知らないと思ってます? 流石に生い立ちや出生までは知りませんけど、資料上では一般人であるはずの響さんが、いきなり県警の警部及び準キャリアとして刑事課警務部の部長になれるほどの後ろ盾“バックボーン”ぐらい調べることは出来ます」
どこまで調べたのか知らないが、隠し立てしても無駄のようだ。
けれど、それを知られたからと言って結婚を承諾する理由にはならない。
「分かっているだろうが、俺はコインの裏だぞ。表であるお前と結ばれることが、どれほど不幸なことか分かっているのか? 俺だけじゃなく、お前まで人生を影に差し出さなけりゃいけないんだ」
響がリンを突っ撥ねる。
助手席に腰を戻し、諦めたかのように顔を俯かせるリン。横目で様子を伺うと、小刻みに肩を震わせている。リンの顔から途切れ途切れに零れ落ちる雫が、白のストライプを黒く染めていった。
泣いていた。
喜怒哀楽の内、哀の一文字だけを忘れたかのように笑顔と膨れっ面を絶やさなかったリンが、初めて響の目の前で涙を見せたのだ。
「別に、良いじゃないですか……。コインの裏は、引っくり返せば表にも成れます。オセロの黒も白も、どちらかに交わることが出来るんですよ。本当の裏社会って、コインの裏表じゃなくてその真ん中の見えないところなんじゃないですか?」
目頭にいっぱいの涙を溜めて、リンが顔を上げながら言う。
響は、一瞬だけ身を引いてしまった。怒っているわけでもない、泣いているだけの誰かに恐れを感じた。
違う。考えもしなかった真実を突き付けられ、響は自分の居る世界から身を引こうとしてしまったのだ。
「見えないところ……。なら、裏に居る俺はまだ表に交わることが出来るのか?」
「出来ます!」
響の狼狽が混じった問いかけに、リンが間髪いれず答える。
その眼差しに、嘘偽りは見られない。
「必ず、絶対に、なりたいと思えば人は裏にでも表にもなることが出来るんです。どんなに抗っても、コインの真ん中には決められた人間しかなれないんですよッ! だから、戻り……」
リンが手を差し伸べながら言う。しかし、最後まで言い切るより早くどこかで轟音が反響する。
響の愛車が停まっている位置から少し離れたところで、幾つかの黒煙が立ち上る。玉突きをしているかのように、高層ビル郡を反響する轟音と喧騒。
一時的な事故ならば珍しくないが、黒煙は時間を追うごとに増えてゆく。何台かの救急車と消防車が、サイレンを掻き鳴らして直ぐ側を通り過ぎて行った。
「……なんだこりゃ?」
響が、稀に見る玉突き事故を前にして怪訝そうに呟いた。
二章・ネクラの巣
どういう気紛れだったのか、自分でも良く分からない。ただ、病院を出て直ぐの駅で電車に乗り、思い立った駅で降りただけ。
それから数十分歩いてたどり着いたのが、今彼女が居る公園だった。途中で昼食を買いに寄り道した露店とも呼べる小さな店を除けば、ここまでの道にある目印は皆無。一応、駅までの帰り道は覚えている。
かと言って、折角やって来た場所なのだから、観光もせずに帰るつもりはない。と言っても、特に見て回るような施設のない簡素な街である。
だからこうして、寄り道した露店でテイクアウトしたタコ焼を口に運びながら公園のベンチに座っていた。
「お持ち帰りしたかったなぁ……」
彼女が口にしたのは、別にタコ焼――既にしているので――のことを言っているのではない。もちろん、『ヒョットコ屋』と銘打った看板でもない。
テナントで働いていた、ロングヘアーの二十歳前後といった風貌の店員のことだ。大人びて愛らしい、どこか林檎という少女に繋がる何かを持った女性――もしかしたら少女。
ところが、口説いているところで別の店員が現れ、
『困りますお客様。当店でそのようなことを為さられては』
などと慇懃にのたまう。
目当ての店員の同僚なのか、困り果てた女性もすがり付こうとしていた。小柄で細目の、無造作に米神の辺りで縛ったツインテールの店員。目当ての店員が臆病な犬なら、野暮な店員は牙の無い虎と言ったところか。
まあ、誰かに邪魔されたぐらいで食い下がる彼女でもなく、虎店員を歯牙にもかけず犬店員を口説き続ける。瞬殺の必撃、首筋の愛撫で落としかけたところで、虎店員がタコ焼用のピックを五指に挟んで武装してくる。何もないところから手品のようにピックを取り出したのは、彼女も驚くほどの手際だ。
『これ以上続けられるようなら、こちらも武力行使に出ますが?』
牙を失っているかと思えば、見事な爪を持っていやがった。薄っすらと見開かれた目は、獲物を威嚇する虎そのものだ。
只者ではないと直感した彼女は、素早く黒いベストの懐に手を滑り込ませる。が、ここで問題を起こすと林檎に叱られるので仕方なく身を引くことにした。
そうした経緯を含め、彼女――『新月の狐』こと狐はどこか分からぬ街の公園で熱々のタコ焼を頬張っている、とうわけだ。
何が「というわけだ」なのかは知らないが、こうして気ままに出歩いて日向ぼっこをするのも悪くはない。
殺し屋という仕事柄、世界中を飛び回り一箇所に逗留することのない狐にとって、日本という国は一時の止まり木でしかないはずだった。それが今ではどうだ、おかしな依頼で過去に殺し損ねた標的を殺しに来て、気付けばそこで知り合った少女を口説き落として恋人にまでなっている。
「堕落したわね、私も……」
とんだ体たらく。
陽気に誘われて呟く独り言としては、少し情緒に欠けるものがあったのは気にしないで欲しい。
しかし、そうした独白“モノローグ”を終えるのに時間はかからない。空っぽになったタコ焼の透明なパックを傍らの屑籠に投げ入れ、眩い陽光から目を離す。
見つめるのは、公園の外からこちらを伺う黒服の男達。陽光を照り返す黒のベンツが四台、一台に四人ずつの計十六人。
歳半端も行かぬ子供達がはしゃぎ回り、芝生にさえ柵が立てられた自然豊かな公園には溶け込むことのできない異様な光景だった。
男の一人が、明らかに狐を見据えて歩み寄ってくる。どうするべきか逡巡したが、男の腕から手に覆い被さる新聞紙を目にして狐は立ち上がった。ここに居残ることは、身の危険を受け入れるも同様。
狐が逃げに転じたことに気付いた男は、途中で立ち止まって新聞紙を被せた腕を横に広げる。
「……?」
男が解読不可能な言語で狐に問いかけてきた。
僅かに問いかけと分かるニュアンスだけで、直ぐに男の意図を理解する。
「脅しのつもりなら、それってとんでもない冗談よ」
足を止めた狐が、男と同じ意味不明な言語で言う。
言い直せば、これはロシア語である。
世界中を飛び回る狐にとって、言語というものは程度重要な物になってくる。故に、英語のみならず現地の言葉を直ぐに覚えることは最初の関門と言えよう。だが、どう言った天賦か、狐は言語や口語においてソフトウェア理論の天才少女を凌ぐ才能を持っていたのである。
「冗談ではない。もちろん、君の行動によっては結果も変わってくる」
男が二つ折りにした新聞紙の谷間を、ボール遊びに熱中する子供達に向けて応える。
狐の判断は早かった。
ベンチの背もたれに手を着いて、飛び越えると同時に身を屈めて芝生の花壇を横断する。まさか、本気で無関係な子供を人質にとるとは思わず、狐は公園の外へと走る。
だが、そのまさかは起こる。横目に後ろを振り向いた瞬間、新聞紙の谷間から火花が迸った。先端を黒く焦げ付かせた新聞紙が宙を舞い、後頭部から鮮血を噴出しながら一人の少年が前のめりに倒れる。他の子供達は、数秒ほどその光景を眺めてから、
『きゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――ッ!』
長い、長い絶叫を上げた。
それでも狐が立ち止まらなかったのは、通りすがりの子供のために己を危険に晒すことを考えなかったからか。
木々を揺らしながら公園に木霊する子供達の絶叫を耳に、狐はひたすら足を進める。どこへ向かうのかも分からぬまま、本能の危機回避能力が信じるままに公園を抜ける。
後ろを二台のベンツが追走し、途中で男を拾う。公道を逃げるのは不利だと悟った狐は、人気のない小道や路地を駆ける。途中で一旦身を隠し、ベンツが通り過ぎたのを見計らって来た道を戻った。
思うに、奴らは狐の顔を知っている。彼らは確信を持って自分を狙ってきた上、周囲を巻き込んでも厭わない何か後ろ盾をもっているのだろう。そして、狐が覚えているロシア語で話しているところを見れば、思い当たる節は一つ。
日本を訪れる前、とある依頼を受けて足を踏み入れた永久凍土“ツンドラ”の大地。
その名に反れぬ、初春が訪れた北半球に残る雪と氷の大地は、半年が経った今でも記憶の片隅にこびり付いていた。
踏み締める度にザックザックと音を立て、足跡を残していく白銀の床。いつもの黒装束に防寒服を着込み、今と同じように行く当てのない逃走を図る。雪に足を獲られ、何度も転びそうになりながら逃げた。外気は凍えるほど寒いというのに、黒装束の下は汗に濡れて体は火照る。
針葉樹林の森“タイガ”に逃げ込み、追い縋る敵を一人ずつ、喉笛を掻っ切って永久凍土に沈めていく。実際の永久凍土は地表の雪よりも下にあるが、いずれ雪が降り積もれば鮮血も屍も沈み行くだろう。
自分ひとりなら、まだ近くの空港まで行ってどこかへ高飛びすることも出来たのだ。それが、変な情に絆されてしまったが故に、狐はシベリア地方の小さな村へ向かっていた。
今や村の名前なんて覚えていないが、そこにはロシアでの標的だった麻薬カルテルのボスが残した、妻と息子がいる。家族に手紙を届けて欲しいと頼まれてしまう。殺す標的と、警備を呼ばない代わりに取り交わした約束。殺した後にまで守ってやる義理などないのに、狐は律儀に手紙を届けた。
しかし、届けた封筒に手紙と呼べるものは無かったのだ。ただ、『すまない』とロシア語で書かれた紙切れと、シンプルなシルバーリングだけが妻の手に滑り落ちたのである。
涙を流して嗚咽を漏らす妻と、母の涙の理由を問い質す息子を背に、狐はロシアの地を去った。
殺して逃げるだけなら、言葉を知らなくても出来る。言葉を知るから、彼らの願いを聞き届けられた。
「今みたいに、逃げるためにも使えるけどね」
建物の影に身を潜めながら、独白する狐。
このままやり過ごせれば楽なのだが、なぜか敵は安易にこちらの居場所を突き止めてくる。まるで、狐狩りに狩り出された犬のように。ロシア出身の奴らならシベリアンハスキーといったところか。
ロシアでやったように一匹ずつ喉仏を掻っ切ってやりたいところだが、先ほどの公園での騒ぎで警察まで集まりだしていた。
林檎に迷惑を掛けたくない狐にとって、今は逃げることの方が先決だった。
物陰を飛び出して走る。直ぐに見つかり、ベンツが後を追ってくる。
「追ってきなさい。直ぐに警察の目の前に突き出してあげるから」
パトカーのサイレンが鳴り響くところまで、付かず離れずの距離を置いてベンツを撒く。細い住宅街の道では、相手が車でも十分に走って逃げ切れた。
目前にパトカーのランプが見え、ベンツは誘い込まれているとも知らずに狐を追ってくる。
いくら目撃者が子供やその親であっても、黒い服を着た黒いベンツに乗る男達、という証言は警察に話せるだろう。無論、似たような車が目の前を通りかかれば警察も停止命令を出さないわけがない。
そう踏んでほくそ笑んだ狐は、次の瞬間に顔を引き攣らせる。
パトカーの側を素通りするベンツ。警察はしばらくベンツを眺めていたが、直ぐにどこかへ行ってしまう。
「馬鹿な……ちっ」
そして、気付いて舌打ちをする。
「外交官ナンバーか……準備の良い奴らね」
警察が手を出すことの出来ない、移動する無法地帯。このまま奴らを野放しにすれば、狐を捕まえるために無関係な小動物“市民”に噛み付くだろう。
こちらはと言うと、全く地の利が無い逃亡者だ。
「どこか、建物の中で奴らを……あそこ?」
狐が目をつけたのは、住宅街の外れにポツンと佇む二階建ての建物だった。外観は新しくも古くもなく、周囲に人気が無かったため、ついつい何の建物かを確認せずにそこを選んでしまう。まさか、そこでとある再会を果たすことさえ知らず。
『中部工学専門塾』と銘打った看板が、木枯らしに吹かれて傾いた。
住宅街の外れに寂しく佇む塾。時刻は夕刻を前にしていた。
これから次の講義が始まる、それまでの小休止。事件は、現場ではなく控え室で起こっていた。
塾の講師が講義の準備や休憩をするために設けられた、入り口近くにある六畳間ほどの部屋だ。室内には三組の机が三角形に置かれ、机上には所狭しと講師の私物が置かれている。部屋の端の本棚に教材が追いやられ、どちらかと言うと講師用の私室と言う方が正しい。
そこで、二人の大人が年甲斐もなく鬼ごっこをしている。逃げる役は、短く刈り揃えた頭髪をワックスで纏め、紺色のスーツを着こなした講師然とした男性。鬼の役は、赤茶けたロングともショートとも言えぬ中途半端な髪を振り乱す、Tシャツに短パンの女性。
対極的で子供染みた二人だが、ここの講師である。
その様子を、苦笑しながら眺めるショートカットの少女。と不良スタイルとでも言おう人工のブロンドヘアーにジャージの少年。
紹介せずとも、林檎と高屋の二人である。
「これはまた、どう言った経緯で?」
林檎が呆れながら、鬼ごっこを続ける二人の大人に問う。
「このバカが、残してあった私のカリッフモを、食いやがったのよ! 今からヒョットコまで行かせてバイさせてくるから講義は後でね」
ようやく、竜司と呼んだ男性を捕まえた鬼が、暴れる男性を押さえ込もうとしながら答える。ちなみに、彼らの日常を知らない人間には理解し難い単語が幾つかある。
「竜司先生が、誓子先生のたこ焼を勝手に食べてしまった。そして、もう一度買ってくるように脅迫している、と。それと、たこ焼を食べるまで講義はやらないってことですか……」
翻訳したのは高屋。
本来こうした役目は、ここにはいない眼鏡の青年か、もう一人の入院中の少女講師がやるべきなのだ。が、不在故に高屋が呆れながらも役目を担う。
「わ、分かりましたから、離してくださいッ!」
誓子なる講師に羽交い絞めにされ、やや顔を赤くしながらも竜司がたこ焼の再購入を承諾する。
嬉恥ずかしい竜司の立場を理解したのか、高屋だけが視線を逸らせる。林檎やイェーチェも幼い顔立ちに似合わず大きいが、誓子のそれは規定外の大きさがある。
「高屋君、何を考えているのかなぁ〜?」
「いや、別に……」
林檎に、情欲的な視線を気付かれてボソッと誤魔化す高屋。
とりあえず、高屋を問い詰めるのは後だと考えた林檎が、どこからとも無く荒縄を取り出してくる。高屋も、荒縄でそうするかくらい理解していた。
出かける準備をする竜司に、ケモノの如く吠え掛かる誓子。カリッフモことたこ焼を食べるまで静寂を覚えぬたこ焼オタクを、竜司が戻ってくるまで留めておかなくてはなるまい。
一度暴れだしたら何をしでかすか分からない誓子を、誠司と林檎が二人掛りで簀巻きにする。
「こ、こら、あんたら何すんむ〜、むぅぅ、むむ〜ッ! むぅ〜」
最後に猿轡を噛ませて完了。そこまですると、なぜか誓子は急に目を閉じて眠りだす。この格好になった時の、おかしな体質らしいのだが。
確か、この格好を見るのもイェーチェが初めてこの塾へやってきて以来だ。あの時は、たこ焼がジャンクフードだのかんのと言い争った末に、誓子は簀巻きのまま眠ってしまい、寝起きで寝ぼけながらイェーチェを迎え入れてしまった。
林檎や高屋も、最初に簀巻きとなった誓子を見た時は唖然としたものである。塾に入ってから二年ぐらい経った頃には、誓子の性格を理解していたからイェーチェほど驚かなかったが。
「あの時は、たこ焼の食べすぎで急性たこ焼中毒に掛かったんだっけ?」
「うぅ〜ん。確か、たこ焼依存症じゃなかったか?」
「でもさ、三十個近くたこ焼を食べて、良く太らないよね。羨ましいなぁ〜」
「そんなに太ってるか? 見たところ、全然変わってイテテ、痛い、ヒタイ!」
竜司が出かけた後、林檎と高屋は誓子を見張りながら雑談を開始する。
実在しない誓子だけの病名を思い出したり、デリカシーのない高屋の頬を抓ったり、誓子の贅肉が無い腹部を突っ突いたり、そんな日常がそこにはあった。
誰もが、決して破られることのない平和があると、信じて疑わない。
「あ、これもしかして誓子先生の?」
誓子の観察に飽きた林檎が、いつの間にか彼女の机から見つけ出したネックレスを掲げて問う。細いチェーンに無機質な銀色の二つの楕円をつけた、何かが描かれているアクセサリー。
「お前、最近、性格悪くなってないか? あの女狐の影響かねぇ……。違うと思うぞ。男っ気のない先生にしたら、贈ってくれる相手もいないだろ。それに、この絵柄は女向けじゃねぇな」
勝手に机を漁ったことをたしなめ、ネックレスに対して批判する。
誓子の身の回りにいる男と言えば、竜司ぐらいのものだ。しかし、竜司が誓子に贈り物をするとは思えない。
その上、一つはライオンか何かの絵柄。もう一つが、骸骨に襤褸切れを着させて大きな鎌を持たせた絵柄。どちらも、女性が身につけるものとしては可愛げがなかった。
「これって、ドックタグって奴だろ。軍人や男ならまだしも、女が持つものじゃねぇよ」
「じゃあ、昔の彼氏の思い出とか?」
雑談はいらぬ詮索に変わり、林檎は謎のドックタグに興味を示す。
こういうものには名前が彫られている、という高屋の指摘に、マジマジとそれを探し始める林檎。しかし、どこにも名前らしいものは彫られておらず、絵の下にアラビア数字とローマ文字が刻まれているだけだ。
象形文字にも思える、流れるような綴り字。
「なんて読むんだろ。えっとNo.8『Strength“ストレングス”』とNo.13『Death“デス”』かな?」
ライオンの方が前者、骸骨の方が後者だ。日本語に訳せば、『力』と『死』である。どちらも殺伐とした文字で、ますます女性が見につけるものから程遠くなる。
昔に特定の男性がいた、という話も聞いていないし、身の回りの男性と言えば竜司ぐらいのものだ。しかし、竜司は誓子を『姉御』と呼んで慕ってはいるものの、彼に贈り物をするような度胸があるとは思えない。
「ほら、無駄な詮索はよしておけ。そろそろ皆に伝えないと」
「そうだね。まあ、日常茶飯事のことだし、皆も呆れるしかないよ」
雑談を終えた二人が、教室に残る皆に事情を話すため二階へ戻る。
誰もいなくなった控え室で、小さな呻き声が上がる。
「うぅ〜。無理だよ、私はあんた見たいに非情にはなれないから……」
果たしてどんな夢を見ていたのかは、誓子以外に知る者はいない。
ただ、その苦悶と悲しみを孕んだ表情が、彼女の過去を物語っているようだった。
「むにゃむにゃ……たこ焼がいっぱいだぁ〜」
直ぐに誓子の表情は幸せのそれに戻った。大きな窓から差し込む夕暮れの淡い赤褐色が、夢うつつに落ちる女の顔を優しく照らす。
それ以降、静寂が彼女達の平和を見守るかに思えた。その時、喧騒は望まずともやってくる。
誰かが入り口の扉を開けて駆け込んでくる。窓が大きいために、電灯を付ける必要が無いのが災いしたのだろう。
招かねざる珍客は、そこを廃ビルだと思って中に入ったらしい。しかし、思った以上の小奇麗さと人の気配がすることに顔を顰める。だが、黒いロングヘアーを携えた女性は出て行こうとしなかった。
いや、出て行けるわけが無かったのだ。
『――ッ!』
数瞬、迷っている間に乾いた音が響き渡る。
控え室で寝ていた誓子の驚愕と、女性の驚愕が重なる。何かが窓ガラスを砕き、飛び散った破片から誓子と女性が身を翻す。誓子など、縄で簀巻きにされながらも見事な回避を見せてくれる。
「な、何ッ?」
誓子がガラスの無くなった窓の向こうを覗き込んだ。見えるのは、銃火器を手にした数人の男が建物を取り囲んでいる情景。それだけで、理由は分からずとも状況を理解する誓子。
「厄介なものを連れてきたのは、どこのど……ッ?」
一言でも文句を言ってやろうと振り向いたところで、控え室に入ってくる女性を見て絶句する。
自分でも、血の気が下がって顔が青ざめていくのを感じる。何せ、そこにはこの世で二度と会いたいとは思わない人物がいるのだから。
「ど、ど、どう、して、て、て、て……ッ!」
驚きのあまり呂律が回らず、珍客を困らせてしまう。
「あの、その、驚かないで、というのは無理な相談かも知れないけど、別に私は強盗とかじゃなくて――犯罪者じゃない、ってわけでもないけど……とりあえず、あなたに危害を加えるつもりは無いわ。ただ、あのシベリアンハスキーどもをどうにかしたいのよ」
どこにシベリアンハスキーがいるのかは分からないが、どうやら簀巻きの格好が女性を戸惑わせたらしい。
このままでは寝そべっていることしか出来ず、カクカクと肩を鳴らしながらもがく誓子。そして、緩んだ縄から体を抜き出す。元から、この程度の簀巻きならば直ぐに抜け出せる技量は持ち合わせていた。ただ体質とでも言おうか、簀巻きにされると意思に構わず睡魔が襲ってくるのである。
「器用ね……。縄抜けなんて初めて見たわ」
「そんなことより、どうしてあなたがここにいるの?」
奇抜な光景を目の前にして呆れている女性に、誓子が問う。
もし両者が認識を持たない相手ならば、普通ならこの問いはおかしいものだ。女性の方も、誓子を知らないと言いたげな表情をしている。
「どこかで会ったことがある? あなたみたいな美人なら、そうそう忘れないと思うんだけど」
「しまっ、た……。いや、そのぉ〜。私の勘違い! そう、知り合いに似た人が――」
誓子が誤魔化そうとしたところで、どこからか人の駆けつけてくる足音がする。
「な、何があったんですかッ?」
「外の連中は何者なんだよ!」
「姉御、状況を……」
林檎、高屋、竜司が順に響く。林檎と高屋は、騒ぎを聞きつけて二階から様子を見に来たのだろう。竜司は、たこ焼の入ったビニール袋を提げているところを見ると、買い物の帰りに正面入り口の騒ぎを知って裏口から入ってきたに違いない。
そして、見覚えのある女性の顔に三人が同じような険しい顔をする。
「狐、さん……? どうして、こんなところにいるんですか?」
「まさか、外の奴らはアンタの友達か?」
「姉御、これはどういうことなのか説明してください」
『…………』
三人に口々と問いかけられる誓子と女性――狐は、状況に対応しきれず押し黙ってしまう。
狐は、逃げ込んだ建物が愛人の通う塾であることに戸惑い。誓子は、馬鹿げた運命に対して呆れを通り越す。
確かに、イェーチェから林檎と狐が恋愛関係にあることは聞いていた。かと言って、ワザワザ田舎町の塾に助けを求める狐ではあるまい。全てが偶然で出来上がった命題の中に納まる宿命。
そして、誓子と竜司が、一度は狐と敵対した関係にあることは紛れもない事実だった。
その両者がここで手を組むというのは考えても見なかったが、どうやら狐だけを裏口から逃がして済む話ではないらしい。
「とりあえず、説明は後にしましょう。今は、どうやって奴らを追っ払うか考えないと……」
誓子は林檎達の疑問を他所に置き、説明や現状の詳解に必要な脳内信号を伝達する労力を完全に切り捨てる。単なる塾の講師とは思えぬ、現状打破の一点に目的を置いた常人を超越した表情を作る。
「あいつら、『新月の狐を差し出せば手荒な真似はしない。夕刻まで待ってやる。それでこちらの要求に応えられないようなら、強行手段に出る』って喚いてるわよ。どうする? 私を生贄にして、自分達が助かるのが得策じゃない?」
「そいつは良い考えだ。ワザワザ、危ない仕事人のために死んでやる義理はねぇからな」
狐のおどけた提案に、高屋が皮肉混じりに返す。
「そんなこと、出来るわけ無いじゃないですか! 巻き込まれただけだからって、誰かを犠牲にして助かりたくないよ!」
「セオリーから言って、生贄を差し出したところで手を引くお人好しじゃないだろうね」
生贄作戦に賛成したのは二人。反対するのは竜司を含めて、誓子と林檎の三人。
「オッケー。じゃあ、あのマフィアかぶれの犬どもを片付けるわよ!」
誓子の掛け声と同時に、シベリアンハスキー撃退作戦は決行された。
最初に、誓子は黙想して呼吸を止める。
ニューロン間を行き来する伝達信号がパシッと音を立てて情報を伝え、脳内麻薬の一種であるエンドルフィンを自発的に全身へと巡らせる。また瞬間的な思考に使われない、日常から多量に摂取しているタンパク質を分解して出来上がってくるα‐D‐グリコース(ブドウ糖)を重合させて出来る栄養素――グリコーゲンを余すことなく身体への運動能力に変換させる。人の肝臓に蓄積されるグリコーゲンは百グラム当たり六百キロカロリーのエネルギーを生み、それは稲城 誓子という女性の本質的能力を百パーセントにまで引き出すことが出来る。
それは機械的な能力啓発でありながら、彼女の顔に浮かぶ表情は人という情緒から外れぬものだった。
「これが済んだら、ヒョットコ亭のたこ焼でも食べましょうか」
やはり自分は、過去に慕ったあの人のように完全な機械にはなりきれない、のだと思った。
決して忘れえぬ思い出を今は胸に仕舞い込み、誓子が本棚へと歩み寄る。教材が並べられた本棚を足蹴すると、横にスライドして現れた壁の大きな扉を開いた。
林檎や高屋は疑問に思っただろう。なぜ、一介の塾に隠し扉があるのか。また、そこから現れた幾多もの軍隊張りの銃火器に目を見張る。
その中に、少し風変わりな銃火器が含まれているのを狐は見逃さなかった。そして、久しく狐が戸惑いを浮かべた。
「そ、それって……まさか、あなた――」
「それじゃあ始めましょうか、死神の舞踏会“デス・ダンスパーティー”を!」
狐の驚愕を横目に、誓子がAUG又はステアーと呼ばれる銃火器を握る。反動軽減用のスティックが銃身の側面に付いたそれを、トンファーのように振り回す。
目の前に立つのは紛れも無く、『セントラル・バベル』で一戦を交えた女軍人だった。
「呆れた……。二度も、同じ舞踏会に呼ばれるなんて思いもよらなかったわ。ガラスの靴は、預けておいて正解だったみたいね」
驚愕の後、狐が溜息を漏らす。
林檎と高屋は、あの時その場にいなかったため狐の台詞の意味を理解できない。しかし、戸惑っているばかりではなく自分達でも何か出来ないかと模索し始めた。高屋は役に立たないであろうが掃除用具ロッカーから箒を持ち出し、林檎は控え室の電話で助けを呼ぼうと受話器を取る。
「ここは、いつから沈黙の戦艦になったのかねぇ。セガールも真っ青だぜ」
「えっと、イェーチェ先生はダメだろうから……そうだ、宗谷さん達に!」
戦闘体勢が整ったところで、シベリアンハスキーどもが与えてくれたタイムリミットが訪れる。
そこで、自分達が完全に敵の包囲網に捕らえられたことを知る。
誰も口に出さなかったのがおかしいぐらいで、状況ゆえに忘れていた疑問。
なぜ、奴らがこれだけ騒いでいるのに警察や周囲の住民が気付かないのか。いや、気付いていても助けを呼べぬ状況にあるのだということを、知らされる。
「……そんな、電話が、繋がらない」
林檎の呟きと同時に、受話器が手から滑り落ちる。
『ただいま電波が混線しております。またの機会にお掛けくだ――』
受話器から流れる、機械的な女性のアナウンス。
『――おい、何があったッ? 電話の調子が――』
一瞬だけ、頼みの綱である刑事の声が響いて途切れる。
「おかしいわね。ここの回線は、他の電話とは別に繋げてあるのよ。まさか、あいつらが何かを仕掛けたって言うの?」
「もしもぉ〜し、こちら『新月の狐』で〜す。助けにきてぇ〜」
誓子の緊迫した口調とは裏腹に、狐が間延びした声で受話器に話しかける。
『狐? どうして……がいるんだ。……どこで何をしてるんだ?』
完全には回線を支配していないらしく、やや雑音交じりで声が返ってくる。
「大変なんです! 変な人たちに襲われてるんですよ。私達の通う塾まで助けに来てください!」
『――ッ』
林檎が全てを言い切るか否か、電話が完全に沈黙した。
どこまでこちらの状況が伝わったか知らないが、悩んでいる暇など無かった。シベリアンハスキー達が、獲物を狩るべくして動き出したのである。
こうして、彼らは孤軍奮闘を強いられる。
そこは東京の某所。都心から離れた郊外にあるアパートで、世界を包み込もうとする闇は密かに動き始めていた。
どこにでもあるような、大きくも小さくもない二階建ての建物。少し萎びた風体ではあるが、それなりに家賃は安く、彼が未だに続く両親の仕送りだけで生活するには十分な場所だった。
アパートの一室で、電気を消した居間に座り込む彼。贅肉を体中に携えた、不健康極まりない体系の男性。年齢は二十歳過ぎか二十代後半。脂汗で出来たニキビを顔中に葺き出し、ポッチャリ系とは言えぬお多福顔に眼鏡を掛けている。服はダボダボのハーフパンツに、何かのアニメキャラクターをプリントしたTシャツが、腹部の贅肉の前で大きく横に伸びている。
典型的なメタボリック症候群の若年ニート。加えて、始終パソコンのモニターを眺める引き篭もりである。一日中そんな同じ行動ばかりしている若者達に、団塊の世代は日本の未来を疑うであろう。
またその反対に、彼も自分を認めようとしない世界へ反感を抱いていた。
降り注ぐ険悪な視線。若くして罹ってしまった糖尿病で数ヶ月入院した病院でも、周囲の視線は彼の醜悪な体へ向けられる。
自分の怠惰な生活態度が招いたことだというのに、それを棚上げして彼は世界を憎む。自分のことを理解しようなどとせず、食事制限や運動制限を伝える医者達を疎む。
そんな失敗にも飽き足らず、彼の目の前では液晶の輝きがゆっくりと更新を、スクロールを繰り返している。
『1:テロリストが名無しでお送りします:200○/1○/2○(○) 11:25:31 ID:Ne4kUr0A
今日から漏れ(俺)はテロリストになるお』
スレ――スレッドの略称――の書き出しは、彼のそんな文字の羅列だった。
『2:テロリストが名無しでお送りします:200○/1○/2○(○) 11:33:26 ID:???
何言ってんだこいつは?wwww
厨房か?』
早速返信がついたが、こんな突拍子も無い話を信じようとはしない。彼自身も、その経緯を辿れば信じ難い話であった。
しかし、ことはまもなくして起ころうとしていたのだ。思うに、この書き込みの主に対しても裁きが降るだろう。
『3:テロリストが名無しでお送りします:200○/1○/2○(○) 11:43:51 ID:???
基地外がいるので通報しますた(^д^)ノ』
裁きを受けるものが増えた。
『4:テロリストが名無しでお送りします:200○/1○/2○(○) 11:59:10 ID:???
ついに日本転覆を企む輩が現れたか!!』
『5:テロリストが名無しでお送りします:200○/1○/2○(○) 12:08:59 ID:???
>>1
お前なんかに転覆させられる日本じゃねぇよwwwwww
帰れカス』
これで三人は確定する。
『6:テロリストが名無しでお送りします:200○/1○/2○(○) 12:23:18 ID:???
ハイハイワロスワロスw』
四人目。
何人かのユーザーが冗談交じりに返信を返してくる。
流石は某匿名掲示板だ。ここのユーザーは人を貶すのが上手いというのか、他者をからかうのが至高の喜びなのだろう。
彼自身、馬鹿げた話にこうした返信を何度もしたことがある。その後の反応としては、軽く無視してくるか、逆切れするか、もしくは諸々だった。けれど、自分は選ばれた人間なのだ。この腐った輩に裁きを降すのは自分なのだと、信じて止まない。
『7:テロリストが名無しでお送りします:200○/1○/2○(○) 12:24:03 ID:Ne4kUr0A
嘘じゃないんだなぁ
もし信じられないのなら、見ていると良いんだ
お前らなんか裁きで死んでしまえば良いんだおmg(^∀^)プギャー』
『8:テロリストが名無しでお送りします:200○/1○/2○(○) 12:41:37 ID:???
よし、俺は東海地方を攻めるぜw』
『9:テロリストが名無しでお送りします:200○/1○/2○(○) 11:49:18 ID:???
>>7
じゃあ俺は四国なww
これ声明文とか出すのか?』
『10:テロリストが名無しでお送りします:200○/1○/2○(○) 12:53:59 ID:???
>>1
おいおい、中部でおかしな事件が起きてるからって、馬鹿な考えはよせよ』
裁きを信じない腐った輩も、裁きを受ければ良い。
『11: :テロリストが名無しでお送りします:200○/1○/2○(○) 13:15:17 ID:???
今こそ我々ヲタクが立ち上がる時だ!
集え同士たちよ!』
『12: :テロリストが名無しでお送りします:200○/1○/2○(○) 13:18:48 ID:???
>>9
声明文出して、どういう要求するよ?
北海道在住のテロ屋はタラバガニ要求して俺に送ってくれw』
以降、そうしたやり取りがしばらく続く。
誰がどう見ても、冗談と酔狂で立てたスレが雑談板に変わったぐらいに思える。彼自身、くだらない雑談に付き合いきれずスレッドから離れようとしていた。
そんな半場呆れかけていた時、思わず目を引く返信がやってくる。
『31:テロリストが名無しでお送りします:200○/1○/2○(○) 15:11:20 ID:mi0TArI+
>>1
うはwwおkww把握
ところで、どんなテロするよ?』
今まで見なかったID番号で、これまでに誰もしてこなかった質問だ。
それが単なる形式的な質問なのか、それとも本気で興味を示したのかはわからない。しかし、彼の野心と呼べるべき何かが鎌首をもたげるのだ。
『3:テロリストが名無しでお送りします:200○/1○/2○(○) 15:14:20 ID:Ne4kUr0A
>>31
それはだな――』
質問への返信を返そうとキーボードを叩きながら、彼は思い返す。
彼の元に、啓示が降りてきたのは今朝のことである。
いつもなら夜遅くまで掲示板を巡ったり、パソコンのシュミレーションゲームなどをしている彼は、大抵昼を過ぎたぐらいに目を覚ます。それが、今日に限って朝の十時過ぎに目を覚ました。普段から周囲の住民は倦厭して立ち寄らない彼の部屋に、珍しく来客があったのだ。
激しく鳴り響く呼び鈴の音が疎ましいほどに、浅い眠りの周期に入った彼の耳朶に障る。居留守を使って追い返そうかと思ったが、まるで自分がいることを知っているように訪問者は執拗に呼び鈴を鳴らし続けた。それでも出てこないと見るや、訪問者は一度だけ扉を強くノックする。
借り物の部屋を壊されてはたまらないと、仕方なく寝ぼけ眼を擦りながら玄関に向かう。そして、驚くことに訪問者は玄関の踊り場で屈託の無い笑みを浮かべて彼を待ち受けている。
彼とほとんど年の変わらない、清潔感のあるスーツに身を包んだ痩躯の男。こんなところよりも、都内のホストクラブで愛想笑いを浮かべている方が似合っているだろう。
訪問者の容姿云々よりも先に、
「鍵は……」
ちゃんと掛けたことを昨夜に確認したはずだ。
「こんにちわ。あれ、まだおはようの時間かな? どちらにせよ、せっかくの快眠を邪魔して申し訳ない。少し君に頼みたいことがあってね、鍵にはご丁重に退いて貰ったよ」
彼の戸惑いに対して、訪問者は笑みを崩すことなく軽い挨拶をしてから話を切り出し始める。
作り笑いとも本心とも取れる訪問者の笑顔とは裏腹に、口を開けた玄関の扉は一部を欠いていた。本来ならドアノブがあるはずの場所が、ポッカリと風穴を作っているのだ。
その瞬間、彼の背中に言い知れぬ悪寒が走る。
この男に関わってはいけない、と日常的に使われない彼の本能が警鐘を鳴らす。
「おっと、これは失礼。名乗りもせずに、いきなり頼みごとなんて礼節に反するね。けれど、本名は無いんだ。ただ、『アルカナの使徒』とでも名乗っておこうかな? そこで君に頼みたいことというのは、我々の崇高なる掲示を代行して貰いたいのだよ。我々を仇なす者達に裁きを与えんがために――」
男は会釈や、胸の前で十字を切ったり、大仰な身振り手振りを交えながら宗教勧誘のような台詞を捲くし立ててくる。決してこちらが話す隙が無いわけではないが、話の腰を折ることが恐れ多いことのように思えて口を挟めない。
最初は恐怖していた意識が次第に、畏怖、そして尊敬へと変わってゆく。男の存在が神々しいまでに輝きを放つ。
いつしか、彼にとって男は己の主なのだという錯覚さえ覚え始めていた。
「――ゆえに、我々はこの世界に裁きの鉄槌を落とさねばならない。そして、我らが主『アルカナ』は君を従者の一人として選んだのだよ。どうだね、やってみる気はないか? なに、簡単なことだ。これを君の電子端末で再生してくれれば良い。さすれば、正しき者は救われ、悪しき者には裁きが降るであろう」
気が付けば、男の布教は終わりを迎えていた。
そして、差し出された一枚のCD-ROMを手に取り、知らず知らずの内に肯いていた。
「我らが『アルカナ』の名の下に、裁きを降さん」
男――『アルカナの使徒』は、彼がCD-ROMを受け取るのを確認すると、それだけを言い残して歩き去る。
その間、彼は一言さえ声を発することが出来なかったのである。
そう、彼らこそがこの腐った世界を変えんとする使者達なのだと、自分は錯覚していた。
その上、こうして返信を書き込んでいる間にも、その気持ちは変わることはない。彼は完全に、『アルカナ』なる神へと忠誠を誓ってしまっている。
『33:テロリストが名無しでお送りします:200○/1○/2○(○) 15:29:46 ID:mi0TArI+
うはwwwwおkwwwwww把握wwwwwwww
で、その裁きとやらはまだなのかな?
いつやるんだ?』
彼の説明を信じたのか、返信が返ってくる。
まだ彼が裁きを降していないのは、CD-ROMの中にメモ書きが残されていたからだ。
『今日の十五時三十分ちょうどに行って欲しい』
と、短い文で注意書きが残されていた。
その時間指定がどんな意味を持つのかは分からないが、裁きの準備に時間が必要だったのだろう。神を降臨させるには、儀式やら生贄やらと色々と必要らしい。
だから彼は、疑いもせずに指定の時間を待った。
そして、カウントダウンが迫ってくる。
――9。
――8。
――7。
刻々と時計の秒針が十五時三十分へ向けて進む。
――4。
――3。
ついに、その時がくる。
CD-ROMドライバにディスクを放り込み、起動し始める。
パソコンの演算処理が行われるカチカチという音が、
――0。
それを機にディスクの内容を読み取った。
その瞬間、パッと閃光が走るようにしてパソコンのモニターが輝いたかと思えば、永遠の暗闇で室内を包み込んだ。
彼は訳も分からず、黒に染まった画面を睨み付ける。停電してパソコンの電源が落ちたのかと思ったが、電灯が点くところを見るとそうではないらしい。
何度か電源を入れ直してみても、一向にパソコンが起動する様子は見られない。まさかの、裁きを降す寸前でパソコンがいかれてしまった。もしかしたら、起動したCD-ROMにおかしなコンピューターウィルスが仕組まれていたのか。
彼は戸惑った。
せっかくの機を逃してしまったこと、担がれて騙されたのではないか、という疑念に狼狽する。
しかし、その間にも裁きは降されていたことを彼は知らない。
――東京都内某所。
流れる人波。過ぎ去る車。
それは、都会でならどこにでもある光景だ。どこにでもいる若者が、車を乗り回している途中で交差点の信号に捕まることも、日常なんて言葉では飽き足らない当たり前の光景である。
特に都会の信号機は、入れ替わるのが遅い。そんな暇な時間に、愛する恋人へメールを打つこともしばしばある。もしくは友人に。電話をかけながら運転する愚かな運転手もいる。
後ろに並ぶ車にクラクションで急かされて信号の色が赤から青に変わったことに気付くことも、多々ある日常の一風景だろう。
メールをしながら、はたまた電話で談笑しながら、車を走らせる。
そんな時、思わぬ事故というのは起こるものだ。なぜか急に、携帯電話の調子がおかしくなり、余所見をした瞬間だった。
突然、交差点の中央を通り抜けたところで、横断歩道を渡ろうと飛び出してきた誰かが勢い良くボンネットに乗り上げる。十分に加速が付き始める距離だ、急ブレーキを掛けたところで数十立方メートルの巨大な鉄の塊にぶつかられた歩行者など、ひとたまりもないだろう。
運転手は戸惑う。確かに、信号は青だったはず。周囲の車も、それに合わせて走り出したり、止まったりを繰り返す。
振り返って確認し直すと、先ほど通り抜けたはずの信号は赤く光を発している。
馬鹿な、と運転手は心の中で呟く。
数秒も経たぬうちに、信号の色が変わるはずがない。例え変わったとしても、車の前に飛び出してくる歩行者などいない。
そうやって、余所見をしていた自分を正当化する。
しかし、気付けばまた信号機が色を変えた。何度も、数秒だったり、一秒もせず明滅しながら――赤、黄、青。青、黄、赤。赤、青、黄。青、赤、黄。黄、赤、青。黄、青、赤――と。
もちろん、直ぐに通行への混乱をきたす。どこかで急ブレーキを駆ける音が聞こえ、車同士がぶつかる轟音が響き、歩行者と運転手の不協和音がそこらかしこで奏でられるのだ。
先ほどボンネットに乗り上げた歩行者も、その演奏の一つにすぎないのだろう。
足があらぬ方向へ曲がり、投げ捨てられた人形のように横たわるヒトガタ。使い終えた楽器は仕舞われ、また目覚める時には音色を奏でる。
そう、一瞬のブラックアウトから意識を取り戻すのと同様に。
――覚めるな。目を覚ますな!
運転手は、ボンネットに寝そべった歩行者を見据えて祈る。
一台のセダンが一組の男女を住処に届けたのは、陽光が少し赤み掛かった十一月の三時ごろである。
セダンを降りる男女は、言わずとも知れた二人。桂木 宗谷とアンリ。
昼過ぎに赴いた買い物だったが、予想以上の物質量に圧倒されこの時間までかかってしまったのだ。二人で買い込んだ品数は、後部座席を占領するだけに飽き足らず助手席に座るアンリの足元と膝の上まで溢れ出した。
「いったい、こんなに買ってどうするつもりだ、あのババァは……あん?」
愚痴を呟きながらアパートの貸し駐車場に愛車を乗り入れたところで、不思議な光景に間抜けな声を漏らす。
いつもは住民の乗る数台の車両が疎らに置かれているだけなのに、今日ばかりは一箇所を除いて全てが満車だ。無論、空いているスペースは宗谷の愛車を止める場所だが。
「凄い車ですね。もしかして、これ全部が家主さんのお客さんでしょうか?」
「あの婆さんとは警察学校を出てからの付き合いだが、かれこれ三年ぐらいの間だけどよ、住み込み希望者以外の客と話してるところなんて一度も見てないぞ」
アンリの問いに、的確とは言えない返答をしつつ宗谷は愛車を降りる。
がら空きだった駐車場を占領しているのは、全面スモークガラスの黒いワゴンがほとんどである。中には、ジープタイプの物まで。
「GMにフォード、クライスラー……知らない奴まである。凄いな、これほとんどが外車だぜ。外人のオトモダチとは、どんな交友関係だ……?」
「でも、イェーチェさんだって生粋の外国人ですよ? 狐さんも、アジア系ですが日本人ではありませんし。それより、手伝ってください」
自分の交友関係を棚に上げる宗谷に突っ込み、既に荷物の運搬を始めるアンリ。宗谷は直ぐに手を貸すが、物々しい来客に不安を隠せない。
「……なにか臭うな」
「わ、私の体臭とかじゃむぐッ……」
久しく出てきたアンリのそそっかしさを黙らせ、溜息を吐きながらアパートへ向かう。
アパートに近づくにつれて、一階の端にある大家の部屋から聞こえる仰々しい物音が大きくなってゆく。聞こえてくる声には、日本語もあれば英語もあり、また聴きなれない異国語も含まれる。
いつもは自分達の騒音――主にイェーチェと狐の追いかけっこ――をたしなめる癖に、大家自身は騒音を抑えようとしない。
「おい、婆さん! もう少し静かに出来ないのかッ? 良い近所迷惑、だ……ふぇッ?」
騒音に耐えかねて扉を開いたところで、唐突に飛び出してくる何かに宗谷は押し倒される。
間の抜けた声を上げながら倒れこんだ宗谷の上には、小柄な少女がのしかかっていた。
少し金髪掛かった、十四、五の少女である。頭から外れたであろうハッチング帽が宗谷の顔に覆い被さり、ショートヘアーが乱れている。
『うぅ……』
宗谷と少女が同時に呻き声を上げて、どうにか意識を取り戻そうとする。
宗谷は、買い物の荷物を取り落としながらも咄嗟の判断で少女を受け止めようとしたのだろう。手が、少女の発展途上の小さな双丘の上に乗っていた。
ただ、絶望的に無理であろうとも宗谷が先に意識を取り戻すべきだったのだろう。
「…………」
最初の目を覚ました少女が、ソバカスの浮かんだ幼い顔を赤く染める。
「ま、待ってくださ……」
少女が顔を赤らめる理由に気付いたアンリが、少女が次に出ようとする暴挙を止めに入る。が、数秒ほど遅かった。
「いきなり、なん、だはぁッ! ……?」
次に目を覚ました宗谷の顔面に、少女の容赦ないエルボーが決まる。
ハッチング帽で目隠しされた宗谷は、何が起こったのかも知らない内に再び昏倒したのである。
「…………」
両手を塞ぐ荷物に顔を埋めながら、目も当てられないとばかりに冥福を祈るアンリ。
「Fuck you! この変態ロリコンイ――ポ野郎! 女の敵! 世界の屑! 宇宙の塵以下がッ! 一度くたばって出直して来い!」
少女は、気絶した宗谷に年相応とは言えない罵詈雑言を吐き捨てている。まあ、自主的に言葉を噤んでいるところは、まだ可愛げがあると言えよう。
「はぁ、はぁ……。小娘だからって、舐めてんじゃないわよ」
罵倒し終えた少女は肩で息をして、捨て台詞を吐き捨ててから部屋に戻ってゆく。最後には、唾を吐きつけられるという置き土産付きだ。
「大丈夫、ですか……?」
「そう見えるなら、お前の目は節穴か乱視だ、がッ……!」
安否を確認しようとしたのに、「大丈夫」の一言もなく酷い言われ様をしたため、ついついむかっ腹に来て宗谷の米神を爪先で蹴って黙らせる。
宗谷が完全に沈黙したことを確認してから、騒然としている室内を覗き込む。そして、そこに広がる喧騒と騒音の原因にアンリは呆然とする。
大と小の取っ組み合い。一人を除いて誰もそれを止めようともせず、けしかけながらどちらが勝つのかを賭けるという現状。所謂、阿鼻叫喚。
「お前ら、大概にしないかい!」
少女と、少女の二倍ほどはある巨漢の取っ組み合いに、大家が割って入ろうとする。ものの、周囲の煽りと歓声にほとんど掻き消されてしまう。
少女は必死に拳を繰り出すも、巨漢は分厚い掌で軽くあしらう。
少女の負けは見えているというのに、外国育ちの客人はそれさえも賭けの対象とし、はたまた余興の一部として歓喜する。
「……そ、そこのあなた達」
そんな光景を目の当たりにして、ほぼ一年を数える臨時警官暮らしが染み付いたアンリが黙っていられるわけがなかった。
しかし、少女と大家以外は宗谷に負けず劣らずの巨漢揃いだ。身体能力を最大出力にしてオリンピック選手並のアンリでも、素手で彼らを押さえ込むのは難しい。
それは既に、勇敢ではなく無謀の領域。
それでもその無謀へ立ち向かってしまう愚かな思考が身についてしまっていた。
「Hold up!」
力強く叫ぶ。
アンリが、ではなく、先刻まで気絶していたはずの宗谷が。
「何様のつもりか知らんが、少し羽目を外し過ぎだお前ら。これ以上騒ぐようなら、暴行罪で逮捕する。抵抗するようなら、公務執行妨害の現行犯だ」
その言葉に、室内の嵐がピタリと止む。
「起きてきやがったか、変態野郎。もうちょっと静かにお寝んねしてたら痛い目を見ずに済んだのに……被虐趣味でもあるのか?」
「こんな小娘にも舐められるようなポリ公に、俺達が逮捕されるとでも思ってるのか?」
少女と巨漢が口々に宗谷を嘲る。
「お外で居眠りできるほどの神経は持ち合わせてねぇよ。それに、俺は変態じゃねぇ」
宗谷も負けじと反論する。
「もうお止め。喧嘩をするために集まったわけじゃないだろうが。悪いね、買出しだけのつもりだったのに巻き込んじまって」
最後には、大家の一言で周囲の熱が冷めてゆく。
少女と巨漢の喧嘩の理由など知りたくもないが、どうやら一時的に争いを止めることはできたらしい。というより、矛先が宗谷に集まっただけのようでもある。
その周囲の意思など知らぬように、宗谷が言葉を続ける。
「婆さん、アンタの友人ならしっかりと躾けておいてくれ。ここはアメリカじゃなくて日本なんだ」
「おい、おっちゃん。どこの誰だか知らないがエン……グランマをババア扱いとは良い度胸だ。もう一度そのおつむに痛いのを食らいたいか?」
最初に矛を突きつけたのは、大家を慕っているらしい少女だった。
「クレイジータンク、手ぇ出すんじゃないよ」
「かっ、ちびっ子が何をほざく。お前は誰かを殴るより、パソコンと睨めっこしてる方がお似合いだよ」
「なんだとぉ〜ッ」
一度は収まりかけた矛が、再び両者の間で向かい合わされる。
これには、大家も宗谷も、アンリさえ呆れるしかなかった。
「ケーシィ、ここでそっちの名前は呼ぶんじゃないよ。この娘は私の孫で、英国人の夫の息子と、仏国系の奥さんとの間に生まれて普段は母元の生国で暮らしてる。そっちの大きいのは今亡き夫の奥さんの弟で、アメリカ生まれのドイツ育ち。名前はガンツ=ジャクソンだ」
話の主旨を無理やり変えようと、大家が自己紹介を始める。
今日ここに揃っている外人集団は、ほとんどが大家の親類にあたり、中には配偶者や極遠縁の親戚が混じる。たまに血縁関係が曖昧になるほどには、広い家系図になるらしい。
「なるほど、今日はその親類親戚が集まって、狭いお部屋で世間話ってか。久しぶりの邂逅のために、俺達は買出しをさせられたわけだ」
大方の自己紹介が終わった後、宗谷達も名乗り終えてから肩を竦めてみせる。
「済まないね、ほとんどが日本に来るのは初めてで、右も左も分からないんだよ」
「はぁ……。お役に立てて光栄だよ、グランマ。けど、せめて夜は静かにしてくれよ。それじゃ、荷物は出しておくからこれで失礼するぜ」
呆れながら別れの言葉を告げて、宗谷とアンリは大家の部屋を後にする。正確には、しようとした。
「さっきの蹴り、良い感じだったぜ。万引き犯相手ぐらなら、十分に捕まえられるかな」
「もう、宗谷さんったら……」
そんなアンリへの褒め言葉を聞かれたのか、荷物運びの手伝いに借り出されていたケーシィがあざとく聞き耳を立ててくる。
「姉さんの話はグランマから聞いてるよ。それで、本当はあの変態野郎とどういう関係?」
大して距離もとらずに、マル聞こえの内緒話をアンリに振るケーシィ。
「聞こえてるよ。婆さんが何を話したか知らんが、単なる仕事仲間だ。おマセな小娘が思ってるような関係じゃねぇぞ」
たしなめる宗谷の台詞に、ケーシィが疎ましそうに睨み付ける。しかし、アンリと宗谷を交互に見比べてから、何を根拠にしたのか溜息一つ吐いてから肯く。
「そうみたいだね。ほんと、勘の悪い男みたいだ」
「はぁ?」
ケーシィの台詞に宗谷が怪訝そうにするも、彼女は詳しく話すこともなく踵を返す。
そのまま、アンリの手を引っ張って強引に部屋へと連れ込んでしまう。
「えっ? あ、あの何でしょうか?」
「良いの、良いの。こんなむさ苦しい男ばっかより、アンリ姉さんが居てくれた方が華があるでしょ。たまには、女同士で本音を語り合わなくちゃ」
狼狽するアンリにお構いなく、乙女の語り合いへと話が進んでしまう。
親戚親類同士で水入らずにしようと気遣ったものの、アンリが残るのでは放っていくわけにもいかず宗谷も残ることになった。
こうして、夕暮れの談話会が始まろうとしていたのだった。
が、そんな平和な時間も長くは続かなかったのである。
彼らの元にその情報がやってきたのは、陽光が完全に夕日に変わったころだ。
普段なら来るはずもない、珍しい客人が宗谷達の住むボロアパートを訪れる。一台のボックスワゴンがアパートの側に停まり、二人の男が降りてくる。
宗谷が何気なくタバコを吸おうと外に出たところで鉢合わせした。
一人は、四、五十ほどの威厳を携えた男。引き締まった細い顔立ちは、やつれているようにも見えてどこか強面に思える。顔を見れば否応なく思い出せる、宗谷が勤める所轄の刑事部警務科の部長、大早良孝之である。
もう片や、どこにでもいるような商社マン風の若い男で、青年と言い換えても遜色はあるまい。名前は見渡友哉という。
一旦は宗谷の借りる部屋へ向かおうとした二人だが、大家の部屋から出てくるのを見つけて立ち止まる。
「せ、先輩!」
「どうした? 課長様と一緒になんて、今日は先客万来だな」
「あ、いえ……その、居るなら別に良いんです。先輩のことだから、てっきり行っちゃったかと思ってたので」
「?」
友哉の妙な物言いに宗谷は訝しむ。
課長に関しては、何も語るまいと踵を返してボックスワゴンに戻ってゆく。その後を、来たときと同じように慌ただしくついてゆく友哉。
「どなたかお客さんですか?」
ヒョコリと、アンリが顔を出して問う。
「いや、良く分からん。課長と眼鏡が来て、俺の在宅だけを確認してお帰りだ」
「課長さんと、眼鏡……えっと、友哉さんが? 在宅だけとは、これ如何に?」
「それより、あの小娘とは良いのか?」
「えぇ、何か宿題があるとかで、別の部屋に篭もっちゃいました。私は経験なんてありませんけど、学生さんって大変なんですね」
アンリがしみじみと呟く。
そうした感想はもう少し早く出てくるべきなのだろうが、イェーチェが付き合っている学生どもはアンリの前で学業について喋らないのだから仕方のない話だろう。
何気なく、そんなことを思ったときだ。
唐突に、当たり前なのだが前触れもなく携帯が無機質な着信音を吐き散らす。
発信は記憶にない、携帯の電話帳ソフトに登録されていない番号だ。
「はい、こちら桂木ですが。どなたでしょう?」
スライドタイプの携帯電話を開き、見知らぬ発信者に名乗る。
しかし、電話に出た瞬間に切れてしまう。
「……? 間違い電話なら、一言断れよ」
礼儀がなってない、と文句を言いながら携帯をしまおうとする。
すると、再び電話が鳴り出す。続けてゴトッという受話器が床に落ちたのであろう、鈍い音が響く。
不意に嫌な予感を感じた宗谷が、受話器に向かって怒鳴りかけた。
「――おい、何があったッ? 電話の調子が――」
言い終わるか終わらぬかのうちに、またツーと電子音だけが流れる。
普通なら、何らかの悪戯電話ぐらいで片付けられる内容だろう。傍に居たアンリも、そう提示したぐらいだ。
しかし、次に電話が繋がったところで聞き覚えのある声が、全く緊迫感を伴わずに聞こえてくる。
『もしもぉ〜し、こちら『新月の狐』で〜す。助けにきてぇ〜』
「狐? お前もいたのか? どこで何をしてるんだ?」
テレビの砂嵐のような雑音に何度か声を遮られながらも、とりあえず聞くべきことは聞けた。
そもそも、あの殺し屋が助けを呼ぶような事柄とはなんだ。先刻感じた予感が、現実的な不安となって押し寄せてきた。
宗谷の問いに答えたのは、狐ではなく少女の声。
『大変なんです! 変な人たちに襲われてるんですよ。私達の通う塾まで助けに来てください!』
狐とは打って変わった、切羽詰った早口で捲くし立てられたところで、電話が完全に機能を停止させる。
電波の受信具合を知らせるアンテナマークが『圏外』を示したならまだしも、携帯そのものが液晶の画面を暗黒に変えた。
「おいおい、買い換えたばかりなんだぞ? ちっ、あいつらは一体なにをしてやがるんだッ?」
「そんなことより、凄く大変なことになってるみたいです! 早く行きましょう!」
「考えても仕方ないってことか。婆さん、悪いが後は水入らずで楽しんでてくれ! ちっ、今日は変なことにパシらされてばっかじゃねぇか」
アンリに急かされ、宗谷はどうにもならない愚痴を言い残して愛車を止めた駐車場へ走る。
キーを差し込んでエンジンをかけたところで、車内ラジオが流れ始めた。
最初は慌てていて気にしなかったが、フッと耳に流れ込んでくる聞き覚えのある地名に気を取られる。
『……の公園で遊んでいた少年が、今日の昼頃、何者かによって頭を撃たれて殺されました。犯人はいまだ逃亡中らしく、目撃情報によりますと黒尽くめの若い女性とのことです。未だに潜伏していると思われ――あ、はい……では続いて別のニュースです』
宗谷の記憶が正しければ、その地名はとある塾のある場所。そして、思い当たる一人の人物が犯人であるように伝えている。
「狐が……?」
「そんなわけありません! いくら狐さんでも、理由もなく子供を殺すわけありませんよッ」
宗谷が思わず口にした名前を、アンリが必死に否定する。
ただし、その否定は『理由』がなければの話だ。もし何らかの『理由』があるのならば、『狐』は子供だろうが老人だろうが容赦なく歯牙にかけるだろう。
「そいつは会ってから聞くことにしよう。今は、アクセル全開で事故らないように祈るだけだ」
「…………」
猛スピードで車窓を過ぎ行く景色を横目に、アンリは宗谷の言葉に目を閉じて黙祷する。
こんな時、イェーチェなら言うかもしれない。
神なんてものは役立たずの幻影だ、と。
それでも今は、そんな幻想にさえ縋りたかった。が、本当に神などというものは存在しないのではないかと、その光景を前にして思う。
閑静な住宅街を抜け、公道に出ようとしたところでセダンが急停止する。シートベルトをしていなければフロントガラスに頭をぶつけていた勢いに苦悶を浮かべるが、それよりも先に別の事情が宗谷とアンリを愕然とさせた。
「……なんだ、こりゃ?」
驚くのも無理はない。
なにせ、道路は一台の車も踏み込む隙間がないほどに多量の車体で埋め尽くされていたのだ。
クラクションの音が喧騒となって鼓膜を劈き、人々の怒号と恐怖の断末魔が奈落の亡者を思わせる。どこかで救急車のサイレンが鳴り響き、複数の警官がいたるところで笛と手旗信号で統制を図ろうと努めていた。にも関わらず、動きはカタツムリの行列の如く緩慢だ。焦燥が二人の心臓を鷲摑みにしてくる。
その時、誰かがセダンの窓ガラスをノックした。
「桂木警部補、君の仕事はこっちだ。君が上層部の意向に干渉すべきではない」
窓を開けるより早く口を開いたのは、先刻訪れた孝之だ。
「これはどういうことだ? 俺には手旗を振ってる余裕なんてないんだぞッ?」
焦燥の所為か宗谷の声が荒くなる。
それでも孝之は至極冷静に見据え返してきて、首を横に振る。
「周辺の所轄の人員を動員しても人手が足りないのだ。それに、『新月の狐』に関しては上層部が下した決断だ。例え一般人に被害が出ようとも、上層部は決定を取り下げることはない」
孝之が発した言葉の意味を、宗谷とアンリは直ぐに理解した。
「あんた、正気か……?」
「イェーチェさんの生徒さん達を、見殺しにするつもりですか……?」
二人の愕然とした異議に、やはり孝之は動じた様子を見せない。
ただ静かに宗谷を見据えて、車を下りて手伝え、と沈黙の命令を下してくる。
当然、宗谷は命令に従うことを渋る。今、未来ある少年達を救えるのは自分だけなのだ。
例えその思いが傲慢なものだとしても、心のどこかで裏切ることが出来ない。
「ここであいつらを見捨てたら、イェーチェになんて言い訳をすれば良い? 上司に止められたから無理だった。そんな言い訳でイェーチェが納得するとでも?」
危機に晒された生徒達を救いたいのは、宗谷でもアンリでもなくイェーチェだ。その想いを受け止められるのは、自分達だけなのだ。
「『新月の狐』が大人しく投降すれば、一般人に被害は出ない。抵抗さえしなければ、上層部だって一般人に手は出さないんだ」
孝之が言い聞かせるように言う。
だが、その説得は意味を成さない。既に一般人が巻き込まれていることを孝之は知らないのだろうが、今や猶予は一刻も残されていなかった。
今すぐにでもアクセルを踏み込みたい気持ちを抑え、宗谷は孝之を睨み付ける。
まかり通ろうとする宗谷と、許可を出さない孝之との睨み合いが続く。
そこへ、意外な人物からの助け舟が出た。
「孝坊、アンタはいつからそんなに上の人間にペコペコするようになったんだい? 昔のアンタなら、誰の意見でも自分が正しいと思ったことをしただろ。通してやりな、そいつらの正義のために」
いつの間に、そこにいたのか。
黒いバンを傍らに置いた老婆が、柔和な笑みを浮かべて佇んでいた。
「……大家さん」
「お鈴おばさん……」
アンリと孝之が口々に老婆の名を呼ぶ。
宗谷やアンリも、自分達が住むアパートの大家の名前を初めて知った。
「姉さんとお呼び、と言ってあるだろ。孝坊から見れば、オバサンと呼ばれるほど歳は食ってないよ」
「す、すみません……。それより、以前もそうでしたが、どうして鈴姉さんは桂木警部補にそこまで肩入れをするのですか?」
どうやら大家の婆さんと孝之は知り合いだったのか、うだつが上がらぬといった様子だ。
「肩入れってわけでもないけどね、百人居れば百通りの正義があるものさ。そいつを貫き通すてぇのなら、貫かせてやれば良いじゃないか。そうだろ?」
「お言葉ですが、桂木警部補の言動は組織の規律を乱すものです。一個人の正義の前に、組織の正義を優先すべきではありませんか?」
孝之が慇懃にのたまう。
そして、そのまま続ける。
「私情を無闇に貫かれても、別のところで迷惑を被る人間だっているのです。現に、桂木警部補の無謀な行動で何人の人間が弁明に走り回ったと思っているんだ? スーパーの立て篭もり事件にしても、海底ホテル強盗事件にしても、細かいものを入れれば暇がない。加えて、それに関わって迷惑した人間は何人いるのだろうな?」
捲くし立てるようにして宗谷の批判を列挙する。
「それはあんたら組織が――」
孝之の言葉が途切れ、宗谷が反論しかけたところで、
「組織“我々”が悪いというのなら、構わん。辞表を出すぐらいの覚悟は出来ているんだろう?」
明確に、誤魔化しようのない言葉で遮る。
驚く宗谷よりも更に、助手席で控えていたアンリの顔が強張る。
要約する必要もあるまい。
『組織として動けぬのなら、組織を抜けろ』
と言っているのだ。
しばしの沈黙を置いて、宗谷が口を開いた。
「……あぁ、良いぜ。こんな馬鹿げた組織に居座るなんざ、こっちから願い下げだッ。辞表の一枚や二枚、百枚だってくれてやるよ!」
自棄にも思える口調で言い放ち、コートの内ポケットから取り出した警察手帳を孝之に投げつける。
金の桜をあしらった黒革の手帳は孝之の胸にぶつかり、パタッという乾いた音を立ててアスファルトに落ちた。
組織ではなく、『桂木宗谷』個人として戦う決意の表れ。それは、例え相方であるアンリでさえ止めることは出来ない。
「思い切るねぇ。気に入ったよ、その心意気」
大家が唇を吊り上げる。
「決まりだ。ガンツ、ケーシィ、このお馬鹿さんの手伝いは頼んだよ。それと、アンリちゃんはこっちに乗りな。難しいだろうけど、作戦がある」
現状を整理する暇もなく、勝手に話しを進めていく大家。
アンリも、大家の言うがままに従ってバンへと乗り換える。
宗谷は、大家の言う作戦を聞いてやや驚きながらも疑いはしない。
大家達がどういう理由で宗谷に力を貸すのかは分からない。けれど、今は誰かを疑う時間など無かった。
緩慢に動く車の群れに隙間ができたところで、アクセルを踏み込んで間へ愛車をねじ込む。
今はただ、己らの正義を信じるのみ。
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2009/04/20(Mon)17:04:51 公開 / 暴走翻訳機
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■作者からのメッセージ
さて、やっと構想が纏まって書き始められた第三弾です。序章のみの投稿ですが、最初からクライマックス的な展開にお腹いっぱいにならないで欲しいですね。
とりあえず、予定としては前編と後編に分けて書き綴る大長編にしてみたいのですが、もしかしたら分けずに終わるかも。
それでは、長々と話すのも申し訳ないので、どうぞ続きをお楽しみください。
長らく休止していて申し訳ありません。感想とか消えちゃってますけど、また頑張って行きたいと思います。まだ、頻繁にくる余裕がありませんが……。