- 『消えない色 (全五章)』 作者:榛名水木 / リアル・現代 未分類
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全角74492.5文字
容量148985 bytes
原稿用紙約239.5枚
“その場限りの友だち付き合い”というものを毛嫌いする主人公。相手をとことん赤の他人扱いして過ごした中学三年間は、人並ならぬ猛勉強に明け暮れる毎日を過ごしていた。そのかいあって、テストは満点を取って当たり前のように合格。奨学金生まで手に入れた高校へ、今日、めでたく進学する。そこで彼を待っていた、彼にとっては少し珍しい「他人」の話。
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消えない色
(第一章 - 新しいこと)
ある年の春。
今年も、友達作りに忙しないことこの上ない季節が始まった。
「数学大嫌い! 得意科目は保健です! よろしく!」
「保健ったってお前、分野決まってんだろ?」
「あっは、ばれた?」
「この“ド”スケベ!」
「変態!」
――うるさい。
胸中の片隅で悪態をつく青年、黒崎翔。彼は今日、めでたく高校入学を果たした。彼の中学三年間の猛勉強は、単なる入学のためではなく、奨学金狙いの勉強だった。彼は入学金免除までも勝ち取ったのである。
「っていうか、お前、中等部いたよな? 俺、C組にいたんだぜ。今度から俺のことは“変態”じゃなくて、大ちゃん、て呼んで欲しいな」
「本当に? 俺、F組だったからわかんなかったよ。よろしくねー、大ちゃん! 俺は“きっくー”でいいよ」
「“きっくー”?」
「俺、菊川」
「あー、なるほど」
変に浮き足立ってざわついているクラス内の、この時期特有な空気。その中で翔は、数人に囲まれた前席の青年が、楽しげに自己紹介をしている様子をぼんやりと眺めていた。どちらを見渡しても、男、男、男。ここは男子校である。
「黒崎くん?」
何をするでもなく担当教師を待つその背に、声がかかった。振り返ると、そこには眼鏡越しに自分を見つめる頭の切れそうな青年が立っている。彼は何か変なものでも見るように目を細めて、じっとこちらを見ていたが、
「もしかして君が、黒崎翔くん?」
念を押すような強い口ぶりでそう尋ねながら、怪訝な顔をする翔のすぐ隣まで歩いてきた。
変な奴だ、と思いながら翔が無言で頷くと、彼は打って変わって目を輝かせて、机の上でおとなしく組まれていた翔の手を両手で握り締め、大声で言った。
「入学試験で満点取ったのって、君か!」
「っ!?」
翔は、思わず数センチ身を引いた。それまでざわつていた周りの青年たちが、しんとなってこちらを向いて、唖然としている。入学試験で満点、という真偽のはっきりしない話よりかは、むしろ眼鏡の青年の大声に驚いている様子である。――何なんだ、彼は。
ただでさえ人と話すことを好まない翔が、あまりに早すぎる会話のきっかけに目を白黒させていると、大きな口で、さも楽しそうに青年は笑った。
「いやー、すごい! 尊敬するよ! なぁ、君!」
「え? あぁ、うん、そ、そうだね」
突然話を振られた“きっくー”もだいぶ驚いている。その隣の“大ちゃん”も、目を丸くして翔を見ている。その一際強い視線に気付いた翔が、彼の方へ目を向けると、彼の口がぽつりと一言。
「本当にお前、満点取ったの?」
もはや事態は彼の代表質問である。気付けばクラス中の視線は皆、翔に向けられていた。嫌な予感こそしたが、翔はやはりありのままを話す他ない。
おそらくは、喋りたがりの翔の母の近所話が大元であろう情報。それに酷く興奮する眼鏡の青年に両手を握られたまま、クラス中の注目の的になりながら、
「そう、だけど」
ぼそり、と呟いたその一瞬後を、大絶叫と大歓声が追うように湧き上がった。あっという間に翔の席の周りを青年たちが埋め尽くす。
「マジかよ!! すっげぇなぁ、お前!!」
「天才って、いるもんだなぁ」
口々に感嘆の声を上げる少年たちの中心で、翔は一人何が起きたのかさっぱり、と言った様子で固まっている。度々求められる相槌を打っては、あちこちからの質問攻め。こうなると、彼に言わせてみれば交流を通り越して尋問である。ここには社交的な性格の持ち主が多く、また各々のプライドを守り抜くために、やたら褒め立て騒ぎ立てる連中も少なくないらしい。
そのうち話題がそれて、ある青年が入学試験当日に翔を見かけたと言う話が出たり、翔の隣に座ったという青年が三人ほど出たり、挙句の果てには翔の話題からもそれ、試験中にテスト用紙を落としたのに気付いてもらえなかった話が始まった。
それまで自分の席で静かに縮こまっていた者も、騒いでいる者に話を振られ、周りで徐々にエスカレートしていく笑い声につられ、なんとなしに打ち解けて会話に混ざるようになっていた。始まったばかりの高校生活、一般的にはいい兆しである――一般的には。
「何だ、何だ。入学早々騒がしいな、うちのクラスは」
廊下にまで響いていた大声に怪訝そうな顔をして入ってきた若い担当教師が、生徒が一人の青年を囲んで大騒ぎをしている光景に目を見開いた。
「何やってるんだ!」
呆れ半分のその声には、ベテラン教師の慣れた含み笑いが混じっていた。だからこそ、彼らの大騒ぎは治まらない。教師にまで翔の満点騒ぎをぶちまけて、
「このクラスやべぇ、絶対楽しいぜ!! なっ、センセ!!」
「いや、この調子だと絶対崩壊しそうに見えるけどな、俺は!!」
「俺もそうだと思いまーす! さっすが、先生!! 分かってるねぇ!!」
「ぎゃはははは!!」
大騒ぎの中、大声で話さないと聞こえない会話を重ねに重ね、騒ぎはどんどん膨れ上がり、最終的に教頭が直々にやってくる始末となった。
――五分後。
出席簿順にたった三人の名前を呼ぶ間、何度も爆弾のような笑い声が再発し、点呼がまったくに等しく進まない。
「ゴホン、えーと」
変な咳払いをしながら出席簿に目をやる担当教師。その横では、顔を真っ赤にして息を整える、少し髪の薄い教頭が生徒たちをぎん、とにらみつけていた。
「池恭介」
「はい」
眼鏡の少年は、池という名前だった。一番楽しそうに翔に接した彼は、その後散々翔に笑わせられた後――無論だが、翔本人は何も可笑しなことはしていない――、初体面のウケをきっちりと自分がもたらしたということに誇らしげな様子で席に戻っていった。
「大友康弘」
クスリ、と誰かが笑う。
「はいっ」
試験中にテスト用紙を落とした大友は、一番後ろの席で椅子の背ごと、体育会系の大きな体をロッカーにもたれかけて、なんとも偉そうな態度である。バスケットボール部に所属しているらしく、足元にはボールが置いてあった。
「菊川栄二」
クスクス、と笑い声が大きくなる。
一番前の席に座る茶髪の“きっくー”は、吹奏楽部でホルンという金管楽器を担当しているらしい。彼の机の上には早々と落書きがあって、その中には“ホルン”らしい楽器のイラストも描かれている。こんなの、と誰かに説明でもしたのだろうか。
「はーい」
彼は返事をし終えるや否や翔を振り返り、意味深長な笑みを浮かべてみせた。翔はそれを見て、特別反応を示さずに――うるさい、と目は語っている――すっと目をそらす。そして点呼。
「黒崎翔」
「……はい」
翔が疲れた返事をして間も無く、また爆発のような笑いの渦が巻き起こった。
割り当てられた寮の部屋で、翔は早くも過ぎていった入学初日を、時折深く長いため息を交えながら振り返っていた。友人関係などどうでもよく、とにかく一人で静かにしていたかったのだ、彼は。しかしそれがまさかこんな騒ぎになるなんて、思ってもみない。
「やった、天才くんと一緒!」
「黒崎がいたら、毎日大笑いだよねぇ」
「俺たち最高についてるぜ! なぁ、黒崎?」
――最悪だよ、僕は。
翔は胸中で悪態をついて、また大きくため息をついた。
割り当ての出席番号制を恨むべきか、黒崎家に生まれたことを恨むべきか、はたまた責任を転嫁して、このクラスに“あ行”が少ないことに憤るべきか。廊下にびっちりと張り出された割り当てにミスがなければ翔は、池、大友、菊川の三人と、この先三年間の寮生活を共にすることとなった。
部屋の左右端に置かれた二段ベッドにそれぞれが寝転びながら、翔の返答、無論、同意を目で催促している。ただ一人ベッドに片足を立てて座っている翔はそれを痛いほど感じて、
「……うん」
変な声で、苦く同意した。
それを聞いて一斉にガッツポーズをし、歓声を上げる三人。勢い余った大友が上のベッドとの境の板に拳をぶつけ、痛がっているその上から池に軽く叱られながらも大声で、
「今夜はオールだ! 飲むぞーっ!」
聞いてずっこけそうになる。ただでさえ頭痛がしてくるというのに、なんだって、この十二分な未成年者は夜通し飲む、と?
いや、ちょっと待て、と翔は思う。入学初日から爆笑の渦を巻き起こした男子校も、有数な上レベルの高校の中で翔がしっかりと吟味して選んだ上の上レベル。進学校ということもあり、若干ピンキリと言えるところはあるが、早い話がエリート校なのである。
「なあ黒崎、お前、飲めるよな?」
「……何を?」
大友に呑気に尋ねられた翔は、だいたい分かってはいたものの、一応尋ねた。 冷静に考えれば、彼らもこの学校に入学してきたレベルの生徒だ。いくらんでもそんな軽はずみな発言などするわけが
「何って、酒に決まってんじゃん?」
――するか。
信じられないといった顔をする翔。彼を見上げる大友が茶化す。
「あれ、もしかしてお酒知らなかった?」
「別にそういうわけじゃ」
「サワーにチューハイ、何でもあるぜ。何飲む? あ、翔くんはオレンジジュースが好きでちゅか?」
「いや、だから」
「あっは、馬鹿言わないでよね! そんなものまで用意してないよ、俺!」
「…………」
あっという間にテーブルの上が酒瓶だらけになって、翔が一際苦い顔をする。これには池も驚いていた。精々缶ビールの二、三本だと、彼も思ったのだろう。
そんなことにはまったく気付かない様子で、大友と菊川の二人は一本目のチューハイを開け、コップに注ぎながら楽しそうに笑っている。
「やっぱ、みんな考えてることは一緒だよね!」
「ここに来るのもガキってことだな!」
大いに盛り上がる二人は、とても初対面の人間とは思えない。同じ中等部にいた人間とは、やはり打ち解けやすいのだろうか。とにかく彼ら、常識面では“キリ”の方で間違いなさそうだ。
早くもコップを傾けようとする大友の手を、翔が軽く叩く。
「ねぇ」
「あ、黒崎も、はい!」
なみなみと酒の注がれたコップを暢気に差し出そうとした大友の表情から、笑みが消える。翔の表情が、少し怒っているように見えたからだ。
「それ、法律違反」
顔を見合わせて一瞬黙り込んだ二人だが、この場の空気を適当に和ませようとしたのだろうか、同時に吹き出して笑い始める。
「面白いねぇ、黒崎は!」
「法律って、そんな固いこと言わないでさ、今日くらい甘めに見ろって!」
「固いも何も、捕まるよ、君ら?」
捕まるよ、という言葉に、ついに池が口を開く。
「そうだよ。やっぱ初日から騒ぎ起こすってのはまずいよ。……ほら、まだ俺ら一年だし、っていうのもあるし。お前らエスカレーターでここ来たんだろ? だったら先輩とか、沢山いるんじゃないの?」
正面からの真面目な反論を避け、先輩の目を気にしているふりをする池。だが、それは確かにまっとうな意見だった。試験に合格して入学した翔や池と違って、確かに彼ら二人には顔馴染みの年上が大勢いる。
かたん、とテーブルにコップを置いた菊川が、池の話などまったく無視して翔に歩み寄った。菊川はもう笑っていなかったが、翔の落ち着いた表情は変わらない。すう、と菊川が息を吸って、翔が怒鳴り声を予想する。しかし。
「何でそういうこと言うのっ」
「……は?」
わざわざ目の前で何を反論されるかと思ったら。小綺麗なことを言うなとか、いい子ぶるなとか、そんなことを言われるだろうと思っていた翔は、拍子抜けして変な声を出した。そして、酒の入ったコップが口元に突き出されたのを見てようやく気づいた。お前も飲めと言っているのだ、おどけて頬を膨らます彼は。
「これ飲んで仲直り!」
「……分かんないね、君も」
何が仲直り、だ。
ここまでくると、もう苦笑するしかなくなってしまう。その横では、菊川が翔に向かって殴りかかる場面を頭によぎらせていた池が、ほっと胸を撫で下ろしていた。ねぇねぇ、と訴え口調の大友だったが、翔に向かって怒鳴るように言った。
「じゃあいいよ、もう!!」
「何がいいのさ」
大声を、なんだか妙に不自然な大声を出した大友。さらりと受け流しながら、翔は心の片隅で不審に思っていた。――予想は当たる。
「おっ、酒じゃん! やるねぇ!」
「あらら、俺たちが入って来ないうちに打ち上げ?」
「最近の後輩は冷たいのが多いなぁ」
部屋のドアが乱暴に開いて、知らない青年が三人、入ってきた。体格や制服の着崩し方からして、三年生。最初に酒に目をつけたスキンヘッドが、勝手に始めんなよ、とかなんとか言いながら、大友と菊川にじゃれている。翔はすぐにピンと来た。
――「じゃあいいよ、もう!!」
いつからドアの前で待ち伏せしていたか知らないが、彼らは大友の声を聞きつけて入ってきたのだ。不自然に声が大きかったのは、酔っただとか、ただ単に声がよく通るだとか、そんな可愛いものではなかったのだ。
「大友……」
彼の方へと目を向けると、彼は青年たちの隙間から恐る恐る翔を見て、申し訳なさそうな顔で首を振った。自分ではどうにもならなかった、とでも言うのだろうか。菊川に目を移しても、やはり同じような顔でこちらを見ている。
「あの!」
緊張気味に声を上げたのは池だった。
「あのさ、どういうこと? 大友、菊川、この人たちは……?」
「だーかーら、俺ら先輩だって!」
一番目立つ金髪の青年が、池の目前まで腰を折って言った。少し身を縮めた池だが、引き下がらない。ぎゅっと唇を引き結んで、目の前の顔をにらみつけている。
金髪はからかうような目をして、ねっとりとした声で聞く。
「ねぇ、入試で満点取った黒崎って、お前のこと?」
――またか。
「……え」
鼻先を指差され、完全な誤解をされたまま、池は固まっている。
「聞いてんだよ」
「僕です」
もう額がくっつきそうなくらい間近に言い寄られている横から、翔が心底大儀そうに言った。金髪の目が、ぎょろりと翔をにらむ。池が、蚊の鳴くような声で翔の名をこぼしたのが聞こえた。翔は続ける。
「満点取ったの、僕です。彼は関係ありません」
「あぁ、そうだったの。悪かったねぇ、君、早トチっちゃって」
池の頭をぽんぽん、と撫ぜると、青年は翔に向かってゆっくりと歩み寄った。近くに来ると、身長差は楽に二十センチはある。立ち止まって、池のときと同じように中腰になると、まじまじと翔を見詰め、驚いたように一言。
「へー、天才は顔も綺麗なのか!」
「…………」
翔が何も言わずにじっと彼を睨んでいると、彼はそのままの体制で、もう一言。
「酒飲めんの?」
「……いえ」
言いながら、翔は内心ぞっとしていた。青年の目が、まるで麻薬でもやっているかのようにうつろに据わっていたからだ。とにかく、池を連れて一刻も早く部屋を出ようと思って振り返ると、
「っ、わ! 放して下さい!」
後ろにいた青年たちが即座に池の両手を掴んだ。恐怖のあまり情けない声を上げた池もろとも、この部屋の四人を断じて逃がさないつもりだ。
――読まれた……。
ぎり、と唇を噛んで、どうしたらいいか何十通りもの策を考え、
「ねぇ」
耳元での甘ったるい声に、ぴたりと思考回路が止まった。熱い息と唇が頬に触れて、ぞくりとする。肩が少し上がったのが分かった。
「こういう生意気なガキをさ、前々から一回思いっきり飲ましてみたかったんだけど」
「っ、ふざけるな!」
反射的に言い放って、青年の頬を手の甲で叩いた。池を力ずくで男たちから引き離すと、他の二人を置いたまま、池の手を引いて部屋を飛び出した。
「おーおー、怖いねー、今のガキは!」
後ろではやし立てる声がやたらと耳に障ったが、決して振り返らなかった。
「はっ、はぁ、はぁっ」
いったいここがどこだかさっぱり分からない。とりあえず、寮の昇降口からは出ていないから、寮内のどこかだ。それも、彼らの部屋がある三階よりも上の一部屋。ドアの開いていた部屋に、夢中で飛び込んだのだ。丁度よく空き部屋だったのか、人のいる気配はなく、明かりもついていない。
「はぁっ――池?」
眼鏡が少しずれている池は、床を見詰めたまま顔を強張らせて動かない。あの青年たちがよほど怖かったのだろうか。――まったく。
「もう心配しなくていい。満点取ってやっかまれてるのは、君じゃない」
「……ぇ」
翔はそっと彼の顔を起こすと、自分と目線を合わせて言い聞かせた。つい先刻までほぼ言葉を話さなかった彼の、まるで母親が子供にしてやるような安心感のある仕草に、池は驚いたように目を丸くした。
「いいね」
翔の声に、池は本当に小さくだが、やっと頷いた。同時に、彼にならこの後のことを任せ切ってもいいと思った。
「だぁれかな?」
「!」
部屋の奥から声がかかって、翔と池は体を強張らせた。こちらに向けた椅子に座っておどけたように首を傾ける青年は、これもやはり金髪だったが、さっきの彼とは似ても似つかない、優しい垂れ目をしていた。その目が今、驚いて少し丸くなっている。
「あれぇ、お前ら新一年? 迷子かい?」
「あ……あの」
「いえ。勝手に入ってすみません、すぐ出ます」
事情を説明しようとした池の言葉をすかさず遮り、翔が適切に謝って部屋を出ようとしたそのとき。ドア口からにゅっと手が伸びて、前へ出た翔の手を外へと引っ張った。
「っ!?」
「見つけたぜ、天才くん?」
体制を崩しながらも目を向けると、先刻部屋に入ってきた青年だった。片手には一本の酒瓶が握られている。転びそうになる翔の前髪をわしづかみにした青年は、素早くその飲み口を、翔の口元で傾けた。
「んっ……ぐ……!」
喉の奥に流れ込んでくる熱い刺激を必死に吐き出そうとして、パニックのあまりむせ返った。
「げほっ、けほ、ごほっ!!」
「あ! もーったいねぇな、高いんだぜ、これ?」
こぼれた酒がじっとりと襟元を濡らす。どれくらい飲み込んでしまったか分からないが、体が酷く重たい。頭の芯がくらくらとして、体からぼんやりと力が抜けていく。最悪な気分がだんだんと快感に変わっていくような、アルコールならではの恐ろしい感覚だった。
「ほら、もっと飲めよ」
ふらりとドア口に座り込んでしまった翔の口元で再び瓶を傾けて、酒を流し込んでいく青年。
「っ……」
抵抗むなしく、されるがままに飲み込んでしまい、ぼんやりと床に目線を落とした翔の後ろで、池は嗚咽を漏らしながらただ固まっている。
「ごほっ!」
「!」
翔がむせ返ったその苦しそうな声で、池ははっとした。誰か人を、先生を呼ばなければ、と思ったのだ。そんな彼がようやく一歩足を踏み出したとき、
「ゆーさ、ちゃん」
部屋の奥から、ゆっくりと落ち着いた声が響いた。呼ばれた遊佐というらしい男は翔を押しのけるように壁に叩きつけ、部屋の奥をにらみつける。そして、
「夜学の子がこんなとこで何やってんの?」
「矢羽先輩……!」
打って変わって酷く表情を焦らせた。
「あぁ、そっかぁ、始業式は夜学も合同だったかぁ。久しぶり」
にこにこと挨拶をする啓作に、遊佐はさぞ鬱陶しそうな顔で言う。
「こいつら連れて、ここ出ますんで――おら、来いよ!」
胸倉を掴まれた翔と池を見た啓作は、それでも少しも焦ることなく、
「昨日の夕方の話なんだけどさぁ」
「え?」
少し顔色を変えた遊佐に、意味深長に目線を合わせて話を始めた。
「煙草の臭いがして体育館裏覗いたら、うちの制服来てる奴らが三人ぐらいでたむろして、真ん中に座ってる奴を、何か脅かしてたんだよね」
啓作は目線を上に泳がせながら続ける。
「腕掴んで、煙草押し付けんばかりの勢いだったからさ、ちょーっと足音立ててやったわけ。そしたら、そいつらみぃーんな、走って逃げてったよ。情けないよねぇ」
「っ……!」
遊佐が拳を握り締めたところを見ると、その“たむろしていた三人ぐらい”には彼が含まれていたようだ。
あの時聞こえた足音はこいつのだったのか、と遊佐は“矢羽先輩”を睨んだ。ひるむことなく彼はこう言う。
「俺ね、そこで拾っちゃったんだよ。煙草の灰のついた、誰かのネックレス」
「は!?」
遊佐が思わず声を出した。そう言えばその日からネックレスが一つ見当たらない。どこかで落としたのだろうとは思っていたものの、まさかそことは。
「誰のものかなんて、ちょーっと調べりゃ、すーぐ分かるからさ。今から上条校長に提出しようと思って。ほら、これ」
ポケットを探った指先が持ち上げたのは、間違いなく遊佐の落としたネックレスだった。
「……いくら、ですか」
「金じゃない」
ますます表情を険しくさせる遊佐に、“矢羽先輩”は首を振る。そしてちらりと二人を見やって、
「今後一切、関わるな」
「……はい……」
ちゃら、という軽い音とともにネックレスが放られて、遊佐の手の平に大人しく収まった。
ついに啓作にねじ伏せられた自分に腹が立って、ぎゅっと唇を噛む遊佐。
再び頬杖をついた金髪の“矢羽先輩”が、にこりと微笑みながらとどめの一言。
「帰んな。ここ俺の部屋」
悔しそうに踵を返し、覚えておけとでも言わんばかりに翔と池を睨みつけて、遊佐は立ち去ろうとする。
「あ、やっぱ、ちょい待ち」
「!」
びくり、と体を強張らせた遊佐が憤りを滲ませた顔で振り返る。
「まだ何か……あるんすか?」
「んー」
わざわざ引きとめた遊佐を横目に“矢羽先輩”は、その目を翔に向けた。帰していいか、と確認の意味合いだろうか。
翔は、こんな所で殴りかかりに行かれたりでもしたらたまらない、と一人焦って、彼に力無く頷いた。そんな様子を見た“矢羽先輩”は一言。
「じゃ、右手の瓶、置いてって」
――目当ては酒か、どいつもこいつも。
はあ、と翔が複雑なため息をつく。
「ちっ」
軽く舌打ちをしながらも、とりあえずは言われた通りに酒瓶を置き、遊佐は走って出ていった。
「く、黒崎!?」
壁に叩きつけられてからはぴくりとも動かなかった翔の肩を起こして、池がわめいた。翔は少し青い顔をしていたが、
「平気」
打った頭を軽くさすりながら、小さく呟くように言ってみせた。
しかし本心、彼はだいぶ参っていた。無理に酒を飲まされたことはこれが二度目。一度目は、中学で同じような満点騒動に巻き込まれたとき、これもまた先輩から。そのときは缶チューハイを少しだけだったせいもあって体に支障はなかったが、どうも今回は調子が悪い。それもそのはず、遊佐が置いていった瓶のラベルには堂々とした“焼酎”の文字があった。
「……ふうん」
そんな様子を見て取ったのか、“矢羽先輩”は椅子から立ち上がって翔のところへ歩み寄り、変に中腰になったと思うと、
「よっこいしょ」
「う、わ!」
軽々翔を持ち上げた。控え目だが思わず声を上げた翔。そんなものには全く構わず、“矢羽先輩”は池に告げる。
「何か平気じゃなさそうだから、しばらくこの子、ここで寝かすわ。夕食には戻るからって、同室の子に言っといてくれる?」
「は、はい!」
「ちょっと待っ」
「お前はおとなしくしてるの」
「僕、もう平気ですから」
「もう平気な奴が何でおとなしく俺に捕まってんの」
「本当に大丈――ぅ」
翔が再び弁解しかけて、酷い頭痛に手の甲を押し付け、表情を歪めて黙り込んだ。クス、と笑った“矢羽先輩”は、池を見て言う。
「いーよ」
「あ、お、お願いします!」
ひらひらと手を振る彼に、池は眼鏡が落ちるのではないかと思うほど深々と頭を下げ、来た廊下を走って帰っていった。
「……あの」
「あぁ、あれね、三年の遊佐ちゃん。頭いい奴には昔っからあぁなんだよ。あっちは夜学だし、この寮もセキュリティロックばっちりだから、普段は会わないはずだけど……気ぃつけなね、“頭いい奴”」
確かに夜学生の寮からここへ来れる通路は無いし、彼がここへ来れたのも、始業式で寮が開いていたからだろう――と納得しながらも、翔は思う。
――別にそんなことを聞きたかったわけじゃないんだけどな。
呆れ半分に見上げた彼は、相変わらず微笑んでいた。
小さな明かりをつけると、中は新入生のそれよりもずっと広く、ずっと豪華だった。
入って右奥にキッチン、中央にテーブルと四脚の椅子、左壁に小窓、そこまでは一緒だ。しかし、キッチンの奥に風呂とトイレ兼化粧室が個別にあって、入ってすぐ左には、一軒家と同等な小さい暖炉まである。暖炉の前の床にはチェックのワインレッドの絨毯がしいてあり、さっきまで金髪の彼が座っていたソファーが暖炉に向かって置いてあった。羨ましいことに、それでいて個室だという。
テーブルで紅茶を啜りながら、その豪邸の主は笑う。
「俺は矢羽啓作。二年だよ。俺も金髪だけど、さっきのみたく遊び狂ってないから安心してね」
――分かる。
分かるのだ、なんとなく。
信じていい他人などいないと、いつか翔は甘えてきた他人に言い切ったことがあった。しかし、彼は違う。違うというか、根拠などどこにもないのだが、疑う必要がなさそうなのである。この張り合いのないへらへらした表情のせいだろうか。
暖炉のちろちろと揺れる火を見つめながら、
「……すいません、面倒かけて」
「なんのこれしき」
また彼は笑う。ついさっきまで彼が座っていたソファーに寝かされ、暖かい毛布までかけてもらって、翔は頭痛と眠気とが相殺しているような感覚を覚えていた。
「頭、ぼーっとするでしょ? 一気にあれだけ飲まされたら無理ないよ」
「二年生を……三年生が先輩呼ばわり、なんですか」
なれなれしい同情が気に食わなくてそう呟いた翔に、啓作はあぁ、と忘れていたように声を漏らして、
「俺ね、毎年ダブってるだけで、一応今年で四年目なのよ」
「……どうしてそんなことするんですか?」
頭痛のせいでそこまで深く考えることはできなかったが、翔は目の前の彼に心底呆れていた。このエリート校までわざわざ来て、それなのに留年していたのでは意味がないのに。そんな翔に、啓作は嫌に気持ちよく答える。
「んー、つまんないんだよね。ちゃーんとやって、ちゃーんと上がってくのが」
天才派が言う台詞だった。秀才派の翔に言わせてみれば意味の分からない答えだったが、確かに天才肌の啓作に言わせればそうだ。何をやっても出来てしまう、何をやっても結果は同じ、完璧を見すぎてつまらない、というのも無理はない。
カップをテーブルに置く、乾いた音が聞こえる。
「俺のこと馬鹿だって思う?」
啓作は、壁に貼られた一枚の古い家族写真を見つめた。尋ねられた翔は張り合う気も起きず、視線の先をぼんやりと絨毯に落として、
「留年なんて時間が無駄なだけですよ――もっとも、あなたが本当に天才なら、そうも言いようがないですけど」
「っへへ、まーね」
言われた啓作が、正直に照れ笑いをした。ここまで正直だと、いいとこ自慢もいっそすがすがしい。先刻からずっと目に入る笑顔につられたように、翔も少し笑って、
「じゃあ、天才は……退屈ですか?」
ふざけたように尋ねていた。頭がぼんやりとして、何を言っているのか分からなくなっているのかもしれない。
「あぁ、大いに退屈だね」
言われて、また少し笑った翔。答えをもらったところで彼の言い分を理解したわけではなかったが、人との会話が、今日は珍しくうるさくなかった。
しばらく経って、啓作が丁度紅茶を飲み終えたとき、鐘が鳴った。立て続けに六回叩いて、最後に大きく一回。この学校は、鐘で時間を知らせる。この鐘は、六時を告げる鐘だ。
「夕食だね」
啓作が立ち上がって、翔に呼びかける。しかし、返事がない。ソファーを覗くと、ソファーから片腕を落としたまま、翔は静かに眠っていた。やはり焼酎のアルコールが効いたのだろう。
――可愛い奴。
「黒崎、ね……」
ふっ、と笑って、啓作は翔の柔らかい黒髪を撫ぜた。
「また遊びにおいで」
啓作は部屋から出て行った。その言葉どおりというか、単に無用心というか、ドアに鍵はかけていかなかった。
「あ、黒崎!」
歩いてくる翔の姿を見つけた池が、ぱたぱたと駆け寄ってきた。心配で、自分の部屋の前でずっと待っていたらしい。――まったく。
「もういいの? 夕食には行ける?」
「大丈夫」
静かに笑った翔は、夕食に間に合わないといけないから、と小走りする池を追いかけるように足取りを速めた。
「池! 黒崎!」
大声に振り返ると、大友と菊川がおそらく全速力で駆け寄ってきていた。二人の前で急ブレーキ、ぽかんとしている彼らの目を一瞬だけ見て、
「ご、ごめん!!」
ややうつむき加減で、ほとんど叫ぶような感じで謝った。周囲の目もいささか気になるところで、翔も池も驚いて顔を見合わせる。
「俺たち、式の帰り道にうっかり話しちゃったんだ。入試で満点取った奴がいたらしいぜ、って……!」
「そしたら後ろで中等部からの先輩が聞いててね、それ誰だ、って話になって、それで話しちゃったんだよ!」
「さっきまで、俺たちも知らなかったんだよ。共通の先輩持ってたなんて……それも、目茶苦茶ヤンキーの……」
「浮かれててちょっと気を抜いちゃった、っていうか……とにかく、ごめん!」
鉄砲玉のように飛ぶ二人の話を最後まで黙って聞いていた翔は、小さなため息を飲み込んだ。
これだから面倒なのだ、人間と言うのは。特に面倒なのが、“他人”。赤の他人ならまだしも、少し知ってしまった他人は特別面倒だ。気を使い、同情をし、愛想笑いをしなければいけないから。
「顔上げてよ」
翔は、わずかだが表情を柔らかくして言った。恐る恐る顔を上げた二人は、気まずそうに顔を見合わせて目を伏せる。
「何言ったって、事実だし」
「そうそう! さ、早く飯食いに行こうぜ、あんまり遅くなると食堂閉まっちゃう!」
仲直りのおいしいところをきっちりと取った池が、ゆっくり走り出す。それを見た菊川が思わず、
「食堂そっちじゃないよ!」
聞いた池が、ぴたりと動きを止めた。ゆっくりと振り返ったその顔は、眼鏡が曇るのではないかと思うほど、真っ赤。それを見た三人から自然と笑みがこぼれ、
「あははは、お前どこ行くつもりだよ?」
「ははっ、ばーか!」
「だって、校内見学のときに先生からこっちだって言われたんだよ!」
「それ図書室じゃないの、池?」
「……あ」
「と、図書っ、図書室だって、あっはははは!! だってお前、どうやったら図書室と食堂間違えるんだよ……ははははは!!」
「笑いすぎだよ、大ちゃん!」
「おめーもだ、きっくー! だって、図書室だぜ!? 池、お前、今まで本食って生きてきただろ!!」
「お前ら寄ってたかって人の上げ足とって最低だ、あはははっ!!」
やがてかの“大爆発”が沸き起こった。
耳に障る、と普段なら一括していた翔だが、このときばかりは黙ってそれを見過ごした。疲れているだけだ、と彼は思って、今度こそ、食堂へ向かった。
――それが、新しいこと。
第二章 - 始まったこと
「もしもし?」
職員室で鳴り響いた電子音を聞きつけて、一人の教師が電話を取った。一足早く教室から出てきて、校長と雑談を交わしていた啓作がちらりと目をやる。
「ええ、ええ……え? あの、もう一度……あ、はい……はい」
どうやら電話の相手が相当なパニック、あるいは癇癪を起こしているようで、教師は時折言っていることが聞こえていないらしく、度々聞き返している。
しばらくして電話を保留させた教師が振り返ると、丁度啓作と目が合った。少し考えるように彼を目に留め、
「悪いんだけどさ」
「そう思うなら止めていただきたいけど」
苦い顔をする啓作に苦笑しながら、教師は彼に頼みごとをした。
高校に入って最初のテストが、今日ようやく、
「終わったぁー!」
「それ、どっちの意味だよ」
「もちろん“あっち”の!」
「あっははは、だよね!」
周囲の会話を聞きながら筆記用具を片付け、翔は小さく息をついた。とは言っても、特に気分が重くてため息をついた様子はない――その証拠に、今日一番の話題となった数学の三角比の難問は、彼が軽々と説明を板書して見事に解決した――。
「お疲れ、黒崎!」
「お疲れ様」
筆記用具と参考書を何冊も持った池が、翔の席で立ち止まって声をかけた。
入学から、早いものでもう三か月が過ぎた。内心では毛嫌いしていた同室の三人始め、にぎやかなクラスメイトにもだいぶ慣れ、最近ではさほど気苦労を感じることもなく、時々うるさくて寝付けないことこそあったが、翔としてはそこそこ順調な学校生活を送っていた。
「あのさぁ」
よく話しかけてくるようになった池が、なにやら一冊のノートを机の上に広げ、眼鏡越しに気持ちの悪そうな顔で言う。
「やっぱり俺、納得いかないんだけど、ここ」
「……あぁ、だからこのXは正弦、余弦定理を使って――」
池のためにもう一度説明をし直してやる翔の周りを、
「あ、俺ももう一回聞きたい!」
「待って、僕も!」
「俺も!」
すぐに数人の生徒たちが囲んだ。あまり頭のいい方ではないらしいこのクラスでの翔は、こういう役回りが非常に多い。
もう一度始まった丁寧な説明に聞き入って、ああでもないこうでもない、とクラスメイトが翔への質疑を重ねていると、
「ちょっと待った! 俺も聞きたい!」
教室の引き戸が勢いよく開いて、明るい金髪の青年が顔を出した。他のクラスにも自分を頼る者がいたのかと驚いて振り返った翔が、更に目を丸くした。そこに立っていたのは、二年生、実質四年生の啓作だった。
「なんてね」
「矢羽先輩!」
声高に叫んだのは池だった。彼はあのとき、遊佐という三年生に翔と二人で絡まれたときに救ってくれた青年だ。翔を囲む輪の中にいた大友と菊川が、気まずそうに顔を見合わせる。
「何やってんの? 楽しそうじゃん」
「あ、さっきのテストの超難問の解説をしてもらってて」
「どれ」
問題用紙と翔が書いたノートの上の説明書きを見て、啓作は顔色一つ変えずにほんの少し考えて、
「cosθが135度、求めるXは√7」
「え?」
突然彼の口から跳び出た正答に、思わず翔は聞き返していた。
「すっごい、合ってる!」
「知ってたんですか、問題?」
驚きを全面に出す生徒たちに、啓作は面白そうにけらけらと笑って、
「分かるでしょ、“お前なら”」
「……え」
ぽん、と翔の肩に問題用紙を乗せると、後の説明を任せた。そして、
「あ、そうそう、俺は別にお前らのテスト解きに来たわけじゃないんだよ」
立てた親指を後ろに向け、怪訝な顔をする翔に向かって彼は言う。
「電話。お前の親御さんから」
「あぁ、し、翔?」
「そうだよ。どうしたの?」
電話越しの何やら焦っているような声は、翔の母、千草のものだった。
「あのね、に、入院で、肺炎することになったの」
「……え?」
翔は突然の知らせに驚かされながら、混乱状態の千草の変な台詞に苦笑した。そんなに自然に笑っている彼を初めて見た啓作は、手ごろな椅子に腰かけ、じっと彼に見入っていた。
金曜日、全校生徒は休日を家で過ごすために帰宅していく中、教師もほぼ全員が帰った後の職員室で電話を取る翔。千草の台詞を言い直してやる。
「肺炎で、入院?」
「ありゃま」
言葉と比べて大して心配していない様子で、啓作はこぼす。それから何度か会話を交わして、電話を切った翔の顔は、なるほど、大して心配そうな顔ではない。
「……だそうです」
「そう。お母さん、何かものすごいテンパってたから、誰か危篤なのかと思ったよ」
聞いた翔は、ぎこちないながらも思わず笑っていた。どうやら、この啓作という青年とは会話の波長が合わなくもないらしい。“ちょこっと”難問然り、きっと彼も本当に頭がいい。
「じゃ、家帰っても誰もいないんだ?」
「そういうことでしょうね」
つまりは、明日、明後日の帰宅の話である。母の退院日は確かではないが、おそらく来週辺りまで、家の中は空っぽになるだろう。
「……ふうん」
翔の返答を聞いた啓作が、彼の顔を覗き込んで提案した。
「じゃ、寮に残れば? 俺、帰んないし」
「え?」
予想もしなかった言葉に、翔はおもわず聞き返す。
「俺ね、家族いないの」
「いない?」
啓作はうなずいて、おどけたように軽い声で笑う。
「そ。だぁーれも、いないの。俺一人。両親、電車に撥ねられて死んじゃった」
驚いた翔が絶句して何も言えずにいると、啓作はなおも話し続ける。
「俺の居場所は常にここなのよ。んで、休み中はずーっと一人。誰かいたってガキばっかだから、いないとセーセーするけど、やっぱつまんないかな、うん」
――だからこの人、違うんだ。
翔が面倒だと思う他人とは少し違った空気を、今思えば、出会ったときから彼はまとっていたように思える。同じ年のクラスメイトなんかよりもずっと大人びていて、安定している空気。傍にいてもさほど気分の悪くならない、他から独立した綺麗な空気だ。
「ね、泊まってきなよ。お前、馬鹿じゃなさそうだからいいよ」
翔は胸中で苦笑して、職員室の扉に手をかけた。そして言う。
「あなたが“セーセー”出来る日、今日でしばらくお別れになってもいいんですか?」
「……ん?」
啓作が目を丸くして、期待と驚きとが入り混じったような顔をした。ドアが開いて、少し風が入ってくる。そこで振り返った翔の顔は、自然に笑っていた。
「泊めてもらいます」
翔はそう言って、引き戸を閉めた。一人残された啓作は、ぱっちりと目を開いたまま立ち尽くす。久しぶりに感じる大人びた新鮮な空気に、心が晴れていくのが分かる。
「……楽しみ」
一人呟いた啓作は、手ごろな椅子に腰を下ろし、頭の後ろで楽しそうに腕を組んだ。
“大富豪”が決まろうとしていた。
「勝負!」
“貧民”候補の大友がそろりそろりと加えたのは、“スペードのキング”。これに勝つには、未だ出されていない“ダイヤのエース”しかない。大富豪では最強の“二”で上がれば反則負けだし、“ダイヤ”以外の“エース”は全て出され終わっている。オールマイティの“ジョーカー”はついさっき、菊川が起こそうとした革命の革命返しに大友自身が使ったのだから、もう手札の中にはない。
――あいつはエースをもう二枚も出してるんだ。三枚目の確率は低いはず!
どうだ、どうだ、と菊川の目の色を窺いながら予測を立てる、池と大友。やや俯き気味の菊川の手に握られた一枚のカードが、ゆっくりと裏返される。白いカードに印刷された絵柄は、たった一つのひし形。二人の表情が、一気に厳しくなる。“ダイヤのエース”だった。
「あーがり!」
「うっそだろー!?」
ひらひらとカードを見せつけるようにしながら笑う菊川が、お茶を飲み干し、後ろの壁にもたれた。運がいいのか、先刻から勝ち続けているトランプゲーム“大富豪”も、もう今ので五戦目だった。
「あーあ、ったく、ついてねぇなー」
「イカサマしてんじゃないの、きっくー」
「してないってば!」
調子がいい菊川は六戦目に持ち込んでもよかったが、きっと二人にはそろそろ飽きが来る頃だ。気を利かせて、こう提案する。
「ねぇ、カフェ行かない?」
「あ、それいい! そう言えば最近話してねぇな、あの茶髪の子と」
「あ、そうだった! って、そもそも俺らなんか相手にされてないって」
口々に冗談を言ってけらけらと笑う三人の奥では、青く細いフレームの眼鏡をかけ、耳にイヤホンをして机に向かう翔が、何やらとても分厚くて難しそうな薬学の本の論文を書いていた。
その後ろ姿に、菊川と大友がそろって声をかける。
「ね、黒崎も来たら?」
「勉強ばっかりしてると、鉛筆みたいになっちゃうぜ」
「どういう意味、それは」
「来いってことだよ」
苦笑しながら言った翔に、たった一人正面から突っかかった者がいた。池だ。翔の態度が気に食わないらしく、しきりに貧乏ゆすりをしている。
「お前にとっては俺らなんかなんでもないんだろうけどさ、一応同室の連中だぜ。遊びに行ったっていいだろ、たまには?」
やけに刺々しい口調の池。菊川も大友もうっすらとそれを感じ取っているようで、彼らもまた気まずそうな顔で翔の返事を待っていた。
翔はため息をついてイヤホンを取ると、机に向かったまま、普段となんら変わらない返事をする。
「せっかくだけど、遠慮するよ。書き上げないといけない論文があるから」
「なあ……ちょっと変だよ、お前」
ついに池が言った。
「少しは誘ってやってる奴の気持ちも考えたらどうだ、勉強ばっかりしやがって。成績さえよければ、後はどうでもいいのかよ?」
「…………」
池の怒りに満ちた声を聞きながら、翔はぼんやりと考える。
――面倒なんだよ、そういうの。
いっそそう言ってしまってもよかったが、同室の人間といざこざを生んだらもっと面倒なことになると予想して、翔は言わなかった。その代わり、
「誘ってくれるように頼んだ覚えはないよ。それに池、君も少し変だ。僕がどうしようと、君には関係ない話だろ?」
池の怒りの塊を、隙一つ見せない口調であっさりと跳ね返した。言われた池は唇を震わせながら大きく息を吸うと、
「友達じゃないのかよ、俺ら!!」
「――え?」
怒鳴った池の声に、翔は思わず聞き返した。
「俺はお前のこと友達だと思ってたよ! 友達だったら、お互い何でも言い合えるようにだんだんなれるもんだろうなって、思ってたよ! だから……!」
「――だから?」
興奮しすぎたのか、主張が続かなくなった池が口ごもった。翔はその先が純粋に聞きたくて聞いたのだが、いつもの癖で、言い方が酷く冷淡になった。言い終わった後でようやくそれに気づいたが、遅かった。
「……もういいよ」
「あっ」
足元の荷物を持ち、乱暴な足音を立てながらドアの向こうへと消えていった。池、と翔は小さく呼んだが、足音にかき消されたのだろうか、彼は振り返らなかった。
「あ、池っ!」
「待てよ!」
すぐにリュックを背負い、追いかけていった大友の後を菊川が追い、ドア口で足を止めた。そして、それまで通り机に向かった翔の背中に、小さな声で言う。
「黒崎……今のは、ちょっと酷かったんじゃない?」
「…………」
何も言わない翔に、菊川は小さなため息を呑みこんで部屋を出た。
宿題をきっちりと終え、来年やるらしい科学の実験内容に興味を持って発展学習にまで手を伸ばし、それら全てを終わらせて時計を見上げると、七時を過ぎていた。生徒たちの門限は六時。七時には寮が閉められ、夜学生たちの講義が始まるため外へ出られなくなる。
――遅刻、じゃないよな?
翔は真っ赤な顔をした池を思い出して、ふと心配になったが、
「あ」
たまたま目についたカレンダーを見て、初めて今日が金曜日だということに気がついた。月曜日まで学校は休み、寮に泊まるのは啓作と翔だけである。そういえば彼らは大きな荷物を持っていたし、帰ってくるはずがないのだ。
「……はぁ」
珍しく、翔は自分の口にした言葉に後悔を覚えていた。小さくため息をつくつもりだったのに、声まで漏れた。
――「鉛筆みたいになっちゃうぜ」
大友のあの顔。
――「もういいよ」
池のあの目。
――「ちょっと酷かったんじゃない?」
菊川のあの声。
酷かった、だろうか。
「…………」
いや、他人との関係など所詮こんなものだ。そう割り切ってしまおうと、翔は無理矢理目を閉じた。
机上の明かりを消して部屋を出ると、
「よぉ、遅かったじゃん」
薄暗くなってきた廊下に、啓作から声がかかった。どうやら翔が出てくるのを待っていたようで、彼の姿を見るや否や、ほっとしたように微笑む彼。
「寝てたの?」
「あ、いえ……すいません、遅れて」
早足で歩み寄ると、彼の服からなんだかいい匂いがした。翔の周りの常に張りつめた空気が、そのとき少し緩んだのを感じ取ってか、啓作は微笑みながら言った。
「作る量が増えたんで、味がどうなってるか怖いけど。夕飯にしよう」
階段を降りてすぐのところにある調理室へ入ると、いい匂いが立ち込めていた。一番手前のガスコンロに小さな鍋が乗っていて、テーブルにはサラダが二人分、綺麗に取り分けて盛り付けられていた。
「結構ちゃんとしてるでしょ?」
ひひ、と得意げに笑った啓作。自分のためにしか作ったことのなかった彼の、初めての振る舞い料理だった。
食事を済ませ、風呂を済ませると、二人はこっそりと寮へ入り、鍵を内側から閉めて、啓作のあの豪華な個室でゆったりとしたひと時を過ごしていた。本来なら休日の寮への出入りは禁止なのだが、啓作の鍵があればどこへでも好きな時に行ける。
「はー、お腹いっぱい!」
啓作が満足そうに言った。椅子に座る彼の手元には一杯の紅茶が入れてあり、仮眠を取ろうとソファーに寝転がる翔は、カップを皿に乗せて絨毯の上に置いている。角砂糖を一つ入れ、銀のスプーンで混ぜながら、啓作がいるその生活音に、家族のそれと似た安心感を覚えていた。
「美味かったでしょ」
「ええ」
半分念を押すような形で尋ねられて、それでも翔は会釈と共に頷いた。事実、啓作の手料理は絶品だった。メニューは簡単なミルクリゾットとサラダで、味付けはどうやらイタリア料理のそれらしかった。過剰に褒めたりお世辞を言ったりをするのが嫌いな翔が、啓作の料理の腕前には心底感服していた。
「すごく」
付け足された褒め言葉に会釈を返した啓作に、珍しく翔から、話を切り出した。
「あの、テスト後に僕を呼びに来てくれたときの話なんですけど」
「うん?」
何かあったっけ、と啓作はソファーの背もたれ――翔の姿を見たかったのだが、今の彼の寝転んだ体制では、髪の毛しか見えない――に目をやった。
翔が少し間を置いて、
「……あなたが一瞬で解いた問題の答え、始めから知ってたか何かですか?」
「はあ?」
変な声を出しながらも、そう言った翔の声がなんだかつまらなさそうに聞こえて、啓作はくすりと含み笑いをした。
「解くの速すぎる、って?」
「……いえ……ただ」
もぞ、とソファーの上で少し動きながら口ごもった翔に、啓作はまた少し笑ったような声を出しながら、
「天才だからだよ」
「……え?」
今度は翔が聞き返した。啓作は頭の後ろで腕を組んで、背もたれに体を預けて繰り返す。
「天才だから。前にも言ったじゃん、何でもできるからつまんない、って」
相槌に困った翔が黙っていると、啓作は立ち上がって、一度も開かれていないような綺麗な教科書の並ぶ本棚に目をやって、一枚の紙を取り出し、
「ほら」
ぴら、と広げたそれを翔に向けた。何かと思った翔が体を起こし、
「!」
その紙、内申書の、評価の羅列に目を見張った。
「オール……A」
「中学からずーっとこう。ここ二、三年はもう見飽きたね、正直」
驚いた。翔にも中学時代にオールA評価を取ったことがあったが、そのときは相当の努力をした。毎日“予習・復習”を欠かさず、日頃からレポートは真面目に提出、忘れたことはない。そうしてやっと得られる評価が、それなのだ。
「“関心・意欲・態度”だけCだけど、テストの点数が主だから、総合評価はどうしてもAになっちゃうんだよね。だから一回わざと、回答全部、逆から書いたこともあるよ。でもバレた」
ひひ、と啓作は一人笑う。翔は信じられないと言った顔で彼を凝視し、彼の“天才説”に、ほぼ確信に近いものを持った。
「だから、頭いい奴もすぐ分かるよ。お前がそうだってことも、初めて見た時から分かってた。だから、泊めた」
「…………」
自信たっぷりで、聞き方によっては傲慢にもなりえるような台詞の連続だったが、翔は何故か、彼に対して腹立たしさを感じなかった。
遠すぎたのかもしれない、彼が。
「……じゃあ」
それなら、と翔は開き直って、唇の端を少し上げる。
「次の物理であなたを抜きます」
「へ?」
意表を突かれたような顔をする啓作に、翔は床に置かれた紅茶のカップを取って背もたれに乗せ、頷いた。
ふうん、と腰に手を当てた啓作は、
「ふふ、なるほどね。秀才が天才を超える、ってか」
「ええ」
あっさりと頷いてみせた彼の宣言に、期待交じりの笑顔を見せて、それならいっそ対等勝負で、と彼はこう言う。
「ねぇ、その“ええ”ってのさ、止めない?」
「はい?」
突然すぎる話の展開に、思わず聞き返す翔。啓作はそんな彼の様子を察知することもなく、
「そうやって敬語に直すの、いちいち面倒でしょ、お前も?」
いいこと言ってるでしょ、とでも言わんばかりの顔で翔を見ている。
――すごい、性格。
天才ならもう少し空気読んでよ、と翔はふざけたように胸中で思う。思って、しかし悪い気はしなかった。
「そう……だね。じゃあ、」
無意識のうちに微笑を浮かべながら、素直に頷く。そしてなんとなく楽しそうに繰り返す。
「次の物理は君を抜く」
「うん、そうそう」
彼の微笑につられるように、啓作が特別楽しそうに笑った。
「う……ん」
寒さに目を開けると、翔はまたもや暖炉の前のソファーを占領して眠っていた。そうか、帰らなかったのか。
「……翔」
ふいに聞こえてきた声に驚いて起き上がると、ベッドに寝る啓作がかすれた声を出した。
「起きてる……?」
「……どうしたの?」
咳き込んでそれ以上喋ることのできない啓作に近寄ると、どうにも顔色が悪い。呼吸も少し乱れている。窓から差し込む薄い月明かりに、潤んだ目が薄く光った。
仰向けが辛いのだろうか、彼はうずくまるように横を向き、ベッドに手をついて起き上がった。
「けほっ、げほ」
「……何か飲む?」
啓作が頷いたので、棚に置いてあったインスタントの粉でレモネードを作り始めた。かちゃかちゃ、とコップにスプーンがぶつかる音が響く。苦しそうな息使いがやたら心配になって、翔は何度も宙に目を泳がせた。
「翔……」
初めて呼ばれた名前に過敏なほど反応して、思わず振り返る。しかし今思い返せば、最初に起こされた時から名前で呼ばれていたような覚えもある。
何と言えばいいのか分からずに、
「……うん」
翔はとりあえず返事をした。
とにかく、こんなに寂しそうな彼の声は初めて聞いた。彼という男は必ず余裕の場所に立っていて、こんなにも不利な彼の姿はこのとき初めて見たのだ。調子が狂ってせつなさすら覚えながら、翔はコップを持ってベッドへ歩いた。
誰かのために眠い体を起こしてやるのも久しぶりだな、と翔は思う。前にも一度、母が病気で寝込んだことがあったが、その時に病院に泊まり込んで夜通し看病をしたきりだ。
「風邪……引いたのかもね」
ぎこちない心配を口調ににじませる翔に、啓作は咳き込むのを堪えて笑う。
「これ……けほ、喘息」
「……あぁ……そうだったの」
少し驚いたような顔をする翔。喘息を患っている人には今までも出会ったことがあったが、こんなに間近に発作の症状を見たことはなかった。分からないながらも、とりあえず彼は呟く。
「じゃ、大変だったね、今まで」
――「大変だったね」
そんな言葉、今までに飽きるほど聞いてきた。しかしこのとき、啓作は今までのそれとは違った暖かさのようなものを感じていた。不思議と情に触れてきて、熱いものが込み上げる。
差し出されたレモネードを見つめ、
「うん」
言いながら、思わず顔を歪めて泣いた。頬を涙が滑り落ちていったのを見た翔の目が、いつもよりほんのわずか丸くなる。
「ありがと……」
啓作は、組んだ両手を額に押し付けるように俯いた。
自分が発作を起こしたときに心配してくれる人間がいることに、彼は言い知れぬ安堵と幸せを感じていたのだった。
「…………」
――面倒な人。
優しすぎる彼の内を知った翔は小さく息を吐くと、彼が寝るベッドの端に小さく腰かけた。レモネードを手渡し、咳き込む彼の背に手をやって、いつからこんなに他人の世話を焼くようになったのだろう、と自分に少し呆れた。しかし、そこで夕方の池を思い出した節には、月曜日は少し話を聞いてやってもいいかな、とも思ったりして、やはりなんとも調子が狂う。
コップを受け取った啓作は、ゆっくりとだが、一気に半分ほどまで飲んだ。酷く喉が渇いていたらしい。コップを返しながら微笑む。
「こんな美味かったんだね、これ」
「…………」
コップを受け取った翔は、何も言わずにキッチンへ行ってしまった。部屋が薄暗いのもあったせいで、啓作の単なる気のせいかもしれないが、彼には翔が少し赤くなっていたように見えた。
戻ってきた翔は再びベッドに腰かけて、足を組む。どうやらしばらく傍にいてやるつもりらしい。
「少し眠った方がいいよ」
感情の抜けたような、いつもどおりの口調だった。――それでも嬉しい。
啓作は素直に横になり、薄明るい窓の外を眺めている翔を見上げた。
「…………」
そして何を思ったのか、翔の腕に手をかけると、啓作はそれを引っ張った。
「え」
バランスを崩した体が、啓作の手前に倒れる。小さく声を上げた翔の首に腕を回して、そっと頭を抱え込む啓作。受け身さえ取れず、翔は目を見開く。視界が定まった数秒後、ようやく声が出た。
「何、してんの」
「お前、何か弟みたいでさ……。しばらくこうしてて……」
こつん、と啓作の額が頭にぶつかって、それきり彼は体から力を抜いた。弟みたい、それはつまり体の大きさが、ということだろうか。何にせよ、翔はいつになく焦っていた。
「あ……の」
こうなると、もはやどうしようもない展開である。傍から見れば変な勘違いをされてしまうだろう光景だったが、この状況下、彼の頭は逃れる術を編み出せなかった。
「――――」
――ええと。
「――――」
――その……ええと。
「――――」
頭の中が混乱して、そのまま一分ほど身を固くしていた翔。彼にしては随分長期戦となった脳内口論の末、状況の変動は諦めようという結果にたどりついた。そして、とにかく眠ってしまおう、そう思った。
一つ震えた息をして、ゆっくりと目を閉じる。そしてその場の寒さに皮膚がだんだんと気付き、掛け布団の端を引き寄せて中に入った。当然ながら暖かい。何をやっているんだ、と頭の片隅で問いかけられたが、それももうどうしようもない。
「…………」
髪を触っている手の感覚と、後ろから伝わってくる熱をまざまざと感じる。抱かれて寝るなんて、物心ついてからはしてもらった覚えがない。それにしても彼、こんなに大きかっただろうか。
うとうとと眠ってはいるものの、呼吸が少し苦しそうな啓作。黒崎敬作――幼い頃に母と離婚して家を出た、大好きだった父親の名前と、同じ音だった。
「ケーサク……」
言いながら、その頬がわずかながら綻んでしまっていることには、翔自身も気づかなかった。
目を開けると、自分の目の前にいたはずの翔がいなくなっていた。
「翔……?」
返事はない。まだ少しだるい体を起こして、部屋を見渡してみる。机の上の紙に、ふと目が止まった。近寄ってみると、どうやら彼の置手紙らしい。
“母の病院へ行ってきます”
滑るような細い字で、そう書いてあった。
“何か食べられるようなら、小さい鍋にスープを作っておきました。後はパンでも焼いて食べて下さい。今日はゆっくり寝てて下さいね、食事の支度は帰ったら僕がやりますから”
気の利いた文章の後には、何かあったら、と携帯番号がメモしてあり、右下には“翔”とサインが残されていた。
「……ふうん」
前髪に指を通してかき上げながら、啓作は小さく笑った。
「スープねぇ、俺コンソメ嫌なんだよねぇ……何スープだろ」
コンロの上に置かれた鍋の蓋を開けると、白い湯気の奥には、
「おー、いいねぇ」
コンソメのそれとは違う、クリームのいい匂いが立ち込めていた。野菜がたっぷり入ったポタージュである。さては勝手に調理室を開けたな、と含み笑いをしながら、鍋に指を入れて味を見た啓作は、
「うま。あいつ料理もできるんだぁ」
その綺麗な優しい味に、目を丸くして驚いた。
――「次の物理は君を抜く」
昨夜の翔は、そんなことを言って笑っていた。言ったからには絶対に抜いてきそうだな、と啓作は思う。
ふと、勉強している翔の姿を思い浮かべる。自分の能力に関してはプライドの高そうな彼のことだ、おそらく宿題という名の独学勉強を延々続けているのだろう。もしかしたら、今日行っているという見舞いにも、参考書を持ち込んでいるんじゃないだろうか?
そんな秀才の姿に、想像だけで大義さを覚えた啓作は、ベッドに戻って仰向けに倒れ込む。
「あと二年、ね……」
退学させられないようにギリギリ頑張ってみるか、と本気で留年を考えている啓作が、自分への嘲笑を交えて一人、笑った。
“黒崎千草”。そう書かれた病室のプレートを見つけて、翔は軽くノックをして部屋に入った。二人部屋らしく、ベッドは二つ並んでいる。
「あら、翔」
手前のベッドから、長い黒髪を後ろで一つに束ねた千草が顔を出した。彼女の体は強くない方で、入院は初めてではないため、双方ともになんとなく慣れた感じがある。翔は後ろ手で扉を閉めて、見舞いに持ってきた柿を手渡した。
「えー、買ってきてくれたの? やっさしーい!」
「うるさいな」
翔は苦笑しながら隣のベッドの患者を窺うと、柿と一緒に持ってきた果物ナイフを取り出した。
「食べるなら、剥くけど」
「食べるー!」
無邪気な子供のように千草は言って、洗面台で柿を洗い始める息子の姿に微笑んだ。そしてとてもいいことを思いついたように嬉しそうな顔をして、隣のベッドに声をかけた。
「村松さん、息子が柿を持って来たんですけど、よかったら召し上がりません?」
びく、と翔は目線を上げて、千草を凝視した。カーテンが開いて、本を片手に持った老婆が顔を出す。
「あら、よろしいんですか、私なんかがいただいてしまって?」
「ええ、私と息子じゃとても食べ切れませんから。きっと美味しいですよ」
千草は満足そうな顔で答える――どうしてこう、僕が嫌なのを分かっていて、常に他人と関わらせたがるのだろう、母は。翔はそんなことを考えながら、出来るだけその老婆を視界に入れないように柿を剥いた。
「もう、秋ですもんねぇ」
「そうですね、早いもので」
微笑みながら談笑を交わす二人を背に、翔は何とか柿を剥き、まな板も無いので柿を手に持ったまま器用に切り分けた。動揺していたせいか、豊漁を深く入れすぎて、小さく指を切った。――まったく。
「どうぞ」
皿に盛り、ぶっきらぼうに二人へ、やや千草寄りに差し出すと、
「あら、上手ねぇ、お兄さん」
皿の上の柿を見て、老婆がにこりと微笑んだ。そして、それを剥いた翔の指先に小さな切り傷を見つけて翔の手を取った。
「少し指を切ったんじゃない?」
うわっ、と思わず声が出そうになるのを何とか堪えた翔は、
「平気です、ずっと前の傷ですから」
「でも、血が」
大丈夫です、と再び言って、変に不自然な会釈を返すとそっぽを向いてしまった。指先を銜えている様子を見た老婆が、小声で――耳のいい翔には丸聞こえなのだが――千草に尋ねる。
「私、息子さんに何か悪いことを言っちゃったかしら?」
「いえ、気になさらないで下さい。誰にでもあぁなんです、あの子は」
困ったように笑う千草をちらりと振り返って、老婆と目が合いそうになった翔は、再び顔を背けた。
「いただきましょ」
「あぁ、それじゃあ……」
千草が老婆に勧めて、二人はやっと、柿を食べた。これで自分に関わってくることもないだろう、とほっとする翔。
「まあ、甘くて美味しいわ」
「本当ですね。ありがとね、翔」
「うん……」
ぼんやりと見下ろす三階の窓からの景色には、オレンジ色の夕日が差し込んで綺麗だった。
――「俺ね、家族いないの」
ふと、啓作が言った言葉が頭に浮かんだ。聞いたその時は、その事実に驚いたこともあってよく考えられなかったのだが。
彼は寂しくないのだろうか。両親をいっぺんに無くして、一人になって。家にすらいられず、他と比べて少し大きいとは言え、あんな寮の一部屋で、毎日たった一人で暮らして。
「翔!」
「あ……、え?」
千草の声にはっとして振り返ると、柿を一切れ持った千草がすぐ後ろに立っていた。彼女と話をしていた老婆は、もうとっくに自分のベッドに帰っていた。
「ふふ、何考えてたの?」
「へ?」
「好きな人のこと?」
「違うって……男子校だよ、僕は」
「冗談よ! 柿、食べたら?」
口の前に差し出された翔は少し困って、顎を引くようにして柿に手を伸ばす。
「何、照れてんの?」
「別に照れてなんか」
「だったら食べなさいよー、ほら」
こうなると決して引かない千草。もう若干唇に触れてしまっている柿に、彼は素直に口を開けた。みずみずしくて甘い果汁が口の中にたっぷりと広がっていく。
「美味しいでしょ?」
言われて、翔は微笑んだ。紛れもない正真正銘の家族、母がいてよかったと、改めて思った。
外は木枯らしが吹きだしていた。
校長室の前に、結局その日を丸々眠って過ごした矢羽啓作が立っていた。制服とワイシャツのボタンをだいぶ開けて、ズボンから裾を出して、堂々と耳にピアスまでつけて立っていた。
通いなれた部屋だが、一応ノックをする。
こんこん。
「――――」
こんこんこん。
「――――」
ごんごんごんごん。
「おっ邪魔、しまーす」
半ば呆れながらドアノブを回す啓作。いないはずがないのだ。土日も昼間はここが住み家と化しているあの校長は、よほどのことがない限りはここを出たりしないのだから。
中へ入るとやはり彼は、開いたままの本を顔にかぶりながら仮眠、いや爆睡していた。
「外は昼通り越して夕方ですよ、上条サン」
「むぅ……?」
本を浮かせて寝ぼけ眼でこちらを見る校長、上条俊彦。
「起きてちょーだいな。今日は話があってきたんですからね」
「お前が私に折り入って話だって? そりゃ珍しいこともあるもんだな」
入ってきた人間が啓作だと分かるや否や、引き出そうとした緊張感を全くゼロにした校長は、それでもゆっくりとソファーから起き上がった。
彼の正面のソファーに腰を下ろし、啓作はすぐさま口を開く。
「一年の、黒崎翔って奴を知ってる?」
校長の目が、すっと啓作を捉える。
「あいつ、ちょっと頭いいんだ――」
にやりと笑った啓作の目を見ながら、校長は内心とても驚いていた。普段彼がする友人の話など、呆れ半分のものばかりだったからだ。それが今回の彼の話だと、黒崎翔という人間は、少なくとも啓作と同じくらい、頭のいい人間らしい。
「一緒にいたい」
さっぱりと啓作が言いきったのを聞いて、校長が微笑んだ。
つまりは、だ。来年また留年するからクラスと部屋を一緒にしてくれと、彼はその短い一言の下にそれだけの要望を詰め込んでいたのだ。もちろん校長は、それをしっかりと理解している。その上での微笑なのだから、まあおそらくは了解、だろう。
手を組みながら、啓作は校長を見上げた――余談だが、姿勢の悪い啓作は、誰と座っても目線が低くなる――。
「ふうん……そうか」
校長は、啓作がよくするのと同じように鼻で相槌を打つと、遠い目をして言った。
「いい子が入ってきてくれて、よかったな」
ふふ、と小さく鼻で笑いながら、まったくだ、と思った。あの日、突然翔が部屋に飛び込んできて、第一声――すぐ出ます、だっただろうか。なんて出来た奴だと、啓作は感心さえした。
「さ、もう夕刻だ。寮へ戻りなさい」
実はこの校長、苗字こそ違うが啓作の叔父である。両親を失った啓作がこの学校に入学し、毎日寝泊まりできるのも、全ては彼の権限のおかげなのだ。
聞くだけで安心できる声。それに一度だけ頷いて、啓作は校長室を後にした。
「おやすみ、上条サン」
「あぁ、おやすみ」
早い就寝の挨拶をして、校長室のドアを開けると、
「うわっ!」
正面衝突するギリギリのところでドアを避け、その拍子に上靴を床に滑らして尻もちをついた者がいた。頬を少し赤くし、息を荒げていたのは池だった。休日だというのにわざわざ出向いての補習を終えて、これから家に帰るところらしい。
「あ……君か。大丈夫?」
「あはは、大丈夫で――あ、すいません」
池は続けて礼を言った。転んだときに落とした一枚の紙切れを、啓作が拾い上げたのである。見ると、最近新しく開かれた美術館の招待チケットで、よほど強く握りしめていたのだろう、真ん中のあたりがしわくちゃになっていた。
「ふふ、よっぽど大事なチケット? 彼女とデート、とかかな?」
「いやいや、まさか! もらったんですよ、翔に」
翔に、と思わず聞き返した啓作に、池が嬉しそうな顔をした。
――「今度聞かせてよ、カフェの女の子の話」
――「……うん!」
先刻突然かかってきた電話越しの翔の声を思い出しながら、池は言う。
「信じられませんよね。期限が週末までで、偶然四枚手に入ったって、翔が」
「あの……翔が?」
――あんな愛想嫌いの子が、自らつるんで美術館、ねぇ。
ふうん、と楽しそうに相槌を打った啓作。
「たまにはあの子、たっぷり引っぱり回しといで」
「そうですね!」
池は軽く頭を下げて、チケットを再び握りしめると、ぱたぱたと長廊下を駆けて行った。
「翔とデートか……妬けるなぁー」
ぽつりとふざけたように言って、啓作は部屋へ向かった。
――それが、始まったこと。
(第三章 - 些細なこと)
真っ暗な夜の山、カーブの多い道を、二台の車が猛烈な速さで走り抜けていく。道の両側はいつでもみっちりと木々が覆い尽くしていて、枝から伸び放題の葉は、満天の星空を黒く塗りつぶしていた。
「そしたらさ……」
ギャギャアァァッ、とタイヤのこすれる音がして、前を行く車が派手なドリフトをやって見せた。ヘアピンカーブを最短距離で曲がりきり、そのまま更に加速。次のカーブでは道路端の溝にわざとタイヤを落として、遠心力を最大限に使ったパワフルな曲がり方をする。ずっと後ろにつけていた車との距離が、ぐんぐんと広がっていく。
「……でね……」
運転手の顔は見えない。助手席にも誰か座っているようだが、その顔も見えない。ただ、彼らのしていること、それはとてつもなく派手で洒落た、足をつけている世界の違いを感じさせるようなものだった。
「っていう夢!」
「へえ」
今の今まで興奮状態にあり、昨晩みたらしい夢について舌を噛むほどの巻き舌で喋り続けていた啓作が、翔のそっけない返答にがくりと肩を落とした。
「相変わらず冷めてんのねー、お前! 何かもっとさ、すっげー! とか、かっこいいー! とか、無いのかい?」
「んー……? じゃあ、強いて言うなら“不思議”」
「不思議ィ?」
二年の春から同じクラスになった二人は、学年の違う最後の冬休みを、一足早く寮の一室で過ごしていた。正月までに自宅をリフォームするのだとかで、家にいると邪魔になるかも、と気を使った翔は、その年の残りを寮で過ごすことにしたのである――一人じゃなんだから、と誘われて、啓作の部屋で。
そんな一日、先刻と大してレベルの変わらない翔の返答に、半目の啓作はぼやく。
「わかんない奴」
「うん……ちょっと、物理でつまずいててさ……」
シャーペンの先を額に当てて、翔はその大人しそうな目を、朝から何度も問題文に走らせていた。聞いた啓作が、羽織っているパーカーのポケットから取り出して口に放り込んだ金平糖――彼の好物であり、何か考え事をするときなどは特に大量に食べている――を、がりがりと噛み砕きながら目を丸くする。
「学年トップが物理つまずくってどういうことさ」
「どういうも何も、何度やっても数値が一致しないんだよ――それに君だって学年トップでしょ?」
あぁ、そうだったっけ、と啓作は笑った。
いつかの宣言通り、一年後期の物理で翔は満点を取ったが、啓作もまた、バツの無い綺麗なテスト用紙を持って帰ってきた。こればっかりはどうしようもなく、結局引き分けである。
「じゃ、学年トップに見してみな」
啓作がプリントを覘いてみると、問題用紙の余白には計算式とその検算が細かく書き込まれていた。問題を睨んだまま、先刻からちっともページをめくっていなかった翔だが、どうやらつまらない計算ミスの類ではない。啓作が目で一通り解いてみたが、やはり数値が合わない。どうやら間違っているのは問題の方らしい。啓作が尋ねる。
「これ、作ったの誰センセ?」
「上沼先生。三年の」
じゃあだめだ、と啓作は頭の後ろで腕を組んだ。
「彼、十問に一問はミスってるから。おかしいと思ったら、すぐ止めた方がいいよ」
四年間ここで過ごしてきた彼だからこそ言える、悲しい事実であった。
ふうん、と翔はその問題を飛ばし、次の問題へと移る。問題文に一通り目を通して、よし、今度は大丈夫そうだ。再びいつもどおりのリズムで問題を解き始めた肩に手を置いた啓作が、あのさぁ、とこぼす。
「勉強中断して構ってくれてもいいんじゃないの、たまには?」
「池たちと同じこと言うんだね。……そんな寂しがり屋だったっけ、君?」
にやりと意地悪い笑みを浮かべた翔の頭を軽く小突いて、
「ハイパー寂しがりよ、俺」
半分冗談、半分本心の台詞と同時に、問題分しか見ない翔の両目を、頭ごと腕で抱えるようにして塞いだ。
「!?」
すると、さっと顔を強張らせた翔が、啓作の肩を強く突き飛ばした。
「うわっと!」
思わず声を上げる啓作。そんなことなどまるで構わないかのように、翔は乱暴に椅子から立ち上がり、ドアに向かう。
「お、おい、翔!」
驚いた啓作が、彼の肩に手を伸ばす。すると翔はきつく目を閉じたまま、後ろ手で素早くそれを振り払った。
「ごめん、頭冷やしてくる」
やり場のない混乱を滲ませた目を見て、啓作は何も言えなかった。
乱暴に開けられたドアから冬場の乾いた冷たい空気が吹き込み、翔の体を包んでそのまま連れ去っていく。
二人の間に、初めてすれ違いが生じた瞬間だった。
「ふぅ……」
机の上に広がった勉強道具を端へよけて、頬杖を突く。出てきたものの行き場を失って、寮を閉め出されてしまう翔のために唯一開いている保健室へと、仕方なく戻ってきたのだ。
――何で、こんなに腹立たしいんだろう。
翔は自問して、ため息をついた。
いつものように彼がふざけていることなど、ちゃんと分かっている。それなのに何で、今日だけ。――そうやって疑問を疑問で覆いながらも、彼の胸中に心当たりが全く無いわけではないのだった。
中学三年、丁度今から二年前の春に、ことは起こった。
その日最後の授業が体育だった翔は、放課後、倉庫の片づけの手伝いをすることになっていた。クラス委員を務めていた翔が、クラスメイトの体育委員、安藤から頼まれたのだった。
「じゃーな、黒崎!」
「また明日」
最後に着替えを終えた生徒を見送り、更衣室の施錠をすると、彼は鍵を持って体育倉庫に向かった。倉庫は体育館の脇に併設されている小さなもので、今日まで使っていたバスケットボールや得点ボードを奥にしまい、次回から使うバレーボールのネットやポールを出すのが今日の仕事だった。
倉庫のドアを軽くノックして、声をかける。
「安藤?」
中から返事は聞こえてこなかった。
不審に思いながらも、翔はドアを開けた。いつものことながら、中は真っ暗で何も見えない。とりあえず明かりをつけようと、入って右奥のスイッチに手を伸ばしたとき、その手を何かが掴んだ。
「っ!?」
突然の出来事に目を見開いた翔だが、もう何をするにも遅すぎた。後ろから突き飛ばされて倉庫の中に倒れ込むと、乱暴にドアが閉められた。
「あ、ぐ!」
突如、苦しそうな悲鳴を上げた翔。暗闇の中、何者かにものすごい力で腹を蹴られたのだ。
「ごぼ、げほっ――がっ!!」
あらゆる方向から、暴力は次々と襲いかかってきた。どうやらそこにいるのは一人ではない。
「い……っ」
足を蹴られて転んだ拍子に、手元に何か硬い棒のようなものを見つけた翔は、反動をつけて思いきりそれを振り回した。
「ぎゃっ!!」
「う!」
手が痺れそうなほどの酷い反動が返ってきた。そしてそれは誰かのどこかに当たったらしく、声が聞こえた。聞き間違いでなければ、安藤の声だった。暗い中に目を凝らして見ると、体格のいい影が見える。やはり、そうだ。
「安藤!?」
「あ……っ」
翔が声を上げると、ぱっ、と突然辺りがまぶしくなった。電気がついたのだ。
「大宮先生!」
「ばれちゃ、しょうがない」
目を細める翔は、まぶしい中で、自分の周りに三人の人間がいることを知った。一人は安藤。もう一人は、どんな難題を投げかけても最後には解いてしまう翔を、目の敵にしている数学教師、大宮。そしてもう一人は、
「うっ……うーっ……!」
「三条さん……!?」
誰かのネクタイを猿轡として噛まされ、両手を得点ボードに縛り付けられて座らされている、クラスメイトの女子生徒、三条だった。唾液を含んで緩んだのだろうか、彼女がうめき声を上げた時に、猿轡が顎の下まで落ちた。気がついた坂本が猿轡に伸ばした手に、思い切り噛みついた三条は、咳を切ったように、
「助けて!!」
「!」
翔にすがりつくように、そう叫んだ。目に涙を浮かべる彼女を見て怒りがわき上がって来て、翔は二人を睨みつけた。
「どういうこと、安藤?」
「……ご、めん……」
つい先刻まで楽しそうにバスケットボールをしていた安藤は、三条の喉元にカッターナイフを突き付けていた。その口が小さく謝罪の言葉を漏らしたのを聞いて、翔は大宮を睨みつけた。
「あぁ、彼は関係ないよ? 私が手伝わせているだけなんだから。ちゃんと手伝えたら成績を上げる約束で、ね」
「……ごめんなさい……! 俺、ちゃんとした高校行かなきゃ……父さんに、殴られ……っ!」
家に帰れば、父親が参考書を片手に待っている。何だこの点数は、早く直して、理解するまで解け――そんな台詞も、もうこの一年間で何百回聞いただろう。そんな父親がいる前で、もし、成績にA評価がついていなかったら。考えただけでも寒気がする。
安藤はそれを恐れて教師に頼み込み、じゃあ、と彼が口にしたこの計画の手助けを、引き受けてしまったらしい。
――くだらない。
翔はため息を飲み込んで、大宮に問う。
「どうして三条さんを?」
「人質がいるんでね。お前をここから逃がさないために」
嫌味っぽくそう答えた。レベルの低い答えに翔が尚更呆れていると、
「……何するの!?」
喉元の刃物を安藤の手ごとどけた大宮が、三条に顔を近づけた。
「嫌!! 来ないで!! 嫌だ!!」
三条の声を無視して、
「止めろ!!」
思わず上げた翔の怒鳴り声にちらりと目を向けながら、彼女の唇にキスをした。ぞく、と鳥肌が立って、翔は拳を握り締めた。
「おっと」
大宮がバランスを崩して、床に手をついた。喉元にナイフがなかったため、三条が足で大宮の膝を蹴ったのだった。
「最低!! 何でっ……最低!!」
涙をぼろぼろとこぼしながら叫ぶ三条から離れ、安藤に再び刃物を見せておくように言うと、大宮は翔に向かって、にやりと笑ってみせた。
――何で。
「私がイラついてるのは、三条じゃない。安藤に頼んでここへ呼んでもらった……お前だよ、黒崎」
しゃくりあげながら三条が泣く横で、大宮は続ける。
「私が出す問題なんかやってられるか、って顔をして、いつも何か別の問題集を解いているね、お前は?」
難関私立の高校受験には、学校の授業だけではとても足りないような学力が必要だった。翔はそれを目指して、自分で参考書を買って、休み時間に少しずつ解いていたのだ。
「……それが何か?」
怒りのあまり乱れる呼吸を整えながら、冷淡にそう聞き返した翔の胸倉を、大宮が突然掴みあげた。
「気に入らないんだよ、その態度が」
「っ!」
そう言って、大宮は翔の耳のすぐ下の所を拳骨で殴った。同時に胸元から手を放し、翔の体は三条が縛り付けられている得点ボードに頭からぶつかって、その場に倒れた。
「黒崎くん!!」
――何で?
「く……!」
三条の高い声が強打した頭にキンキンと響く中、翔は頭の芯がぐらぐらと揺れるような、変な感覚に襲われていた。歯を食いしばり、それでも必死に立ち上がろうと床についたその手を、大宮が靴で踏みつけた。ぎりぎりとかかとに体重をかけて、そのまま骨を折らんばかりの勢いで彼は言う。
「優等生ぶるのも大概にしろ」
――なん、で?
悲痛に満ちた嗚咽を漏らす翔の姿に、安藤も三条も、ただただおびえていた。いつもの“委員長”としての冷静な姿しか、彼らは見たことがなかったからだ。
翔を蹴ろうとしたのだろうか、振り上げかけた足を、大宮がぴたりと止めた。そして、楽しそうに言う。
「目隠し、しようか」
「……え……?」
言っている意味がよく分からなかった。目隠しをして、それで何になるというのか。
意味を考えている間に、翔がつけていたネクタイをするりと解いた大宮は、それを目の上から、翔の頭にきつく結び付けた。そのきつさに痛みを覚えた翔が外そうと手をかけた瞬間、
「いっ!」
手首を思いきり蹴られて、翔はうめき声を上げた。そして初めて、結ばれたネクタイの意味を理解した。暴力が加わるその瞬間が、全く分からないのである。これには酷い恐怖があった。
「う……あっ!!」
とにかく逃げようと床に手を這わせるが、それこそ何の意味もない。腕を掴まれて引きずられ、壁に叩きつけられるだけだ。
そのうち体中が痣だらけになって、翔は抵抗する術を無くしていた。
「げほっ……ごほ、ごほっ」
「やだ、黒崎く……やだぁ……!!」
自分の喉元に刃物があるという恐怖よりも、目の前でクラスメイトが一方的に殴られている、その光景が恐ろしくて、三条はぎゅっと目を閉じた。
「ちょっとは堪えたか、あ!?」
「っ……か、は」
鳩尾を蹴られて、ついに込み上げたものを吐いた。ただの吐瀉物と思ったそれは、真っ赤な血だった。口の中に錆びた鉄の味が広がって、目隠しをしている翔にもそれが分かった。
「きゃあぁ!!」
「黒崎っ!!」
生徒二人が大声を出したせいもあってか、大宮が血相を変えて、発狂したようなめちゃくちゃな悲鳴を上げた。
事故だ、殺すつもりなんてなかった、私は知らない、と散々叫んで、大宮は倉庫を飛び出した。
その後教師は解雇され、教員免許もはく奪されて今は刑務所にいるらしい。三条はそれまで通り、それよりも少しだけ翔を気遣うようになって、安藤は両親揃って黒崎家に頭を下げに来て以来、どうなったのか知らない。
そして翔がそれを思い出すときには決まって、何も見えない中での激痛の恐怖が、錆びた鉄の味と共に蘇ってくるのだ。
――あのときの、か……。
くだらない。翔は頬杖を額に持っていって、前髪をぐしゃりと上げた。
「くだらない……」
ふっ切るように立ち上がり、私服に着替える。制服で外に出たりなどしたら、休み中に学校にいることが人に知れてしまう。そうなっては困るからだ。
コートを羽織り、マフラーをし、スニーカーをひっかけて、翔は正門の脇からそっと外へ出た。
「うわ」
風に舞う砂埃が目に入って、思わず目を瞑る。指で軽くこすると、マフラーを鼻まで上げて、海へ向かった。
静かな海沿いの通りを歩いていると、一台の車が横を通った。ひゅう、と口笛を吹かれて顔を上げる。車は数メートル先で道路の端に寄せられ、止まった。
――怖い。
嫌な感じがして近づきたくなかったが、踵を返すわけにもいかず、車の横を、出来るだけ何も気づかなかったふりをして通り過ぎようとする。が、無駄だった。
「こんな所で会うなんて奇遇だなぁ?」
運転席、左ハンドルの外車の窓が開いて、見覚えのある男が顔を出した。いつか翔に無理矢理焼酎を飲ませた、菊川と大友の先輩、遊佐だった。
「……何か、僕に用ですか」
「あんだけ世話になっといて、そりゃないだろう?」
呂律の回っていない喋り方、切れ長の目、赤いメッシュの入った髪、ジャラジャラと沢山ついたアクセサリー。健全な高校生には見えない。
「あんときは邪魔が入ったからな。今度こそ白黒つけようじゃねぇの」
啓作に初めて憤りを感じた今だからこそ、まざまざと蘇ってくる目の前の男への怒りに、翔は無意識のうちに乱れてくる息を押し殺していた。
「酒の味はもう覚えたか? あ?」
言いながら遊佐が翔の顎先に手をやった、次の瞬間。
がん、と鋭い衝撃が右手に走った。気づいたら、遊佐を殴っていた。彼自身、信じられないくらいの力が出て、男はいくつものアクセサリーをガチャガチャ言わせながら道に倒れた。
「遊佐さん!」
後ろのドアが開いて、もう一人青年が出てきた。はっと我に帰った時にはもう、出てきた男にものすごい力で腹を蹴られて、ガードレールにぶつかっていた。
「がは、かはっ!!」
意識が急にはっきりとしてきた。そして同時に気づく。啓作もいない。誰にも頼れない。がちゃがちゃとにぎやかだった周囲の連中が今は、いない。
――今、孤独なんだ――。
ぞくぞくと体を襲う恐怖にむせ返るその胸倉を、青年が力づくで掴み上げる。身長差もあって、翔は軽々持ち上がってしまった。
「あんまし調子乗ってんじゃねぇぞ、あ?」
「……っ」
息苦しさに翔が顔を歪めると、遊佐がのっそりと起き上がってきた。唇の端が切れて、少し血がにじんでいる。
「潰すから」
「へ?」
素っ頓狂な声を上げた青年に、遊佐はにやりと笑う。
「そいつ、潰すっつってんだよ。手足折れ、両方だ」
「!」
聞いて、翔はぎくりとした。ぐ、と左腕が背中に回される。まさか、と翔は見開いた目を遊佐に向けた。
「いいんですかぁ? 今度こそ退学になっちゃいますよぉ、俺たち?」
ひひ、と楽しそうに笑いながらそう言った青年に、躊躇の色は感じられなかった。遊佐も当たり前のように言う。
「腹立つんだよ……さっさとやれ」
「ひゃははは! いいですねぇ!」
――やられ、る。
青年の笑い声と共に、徐々に腕が締め上げられる。翔は夢中で振り解こうともがいた。しかし、青年の力は強く、びくともしない。
「いっ!」
痛みを増してくる肩に、焦りが思考回路を次々に閉ざす。とにかくここから逃げなければ、と左腕をつかむ腕に手をかけると、遊佐の膝が鋭く腹を突き上げた。
「――は……!」
一瞬、息が止まったような気がした。がくりとひざを折って崩れそうになったところを、両腕をそれぞれに抱えられて無理矢理立たされる。吐き気がした。
「動くんじゃねぇよ!」
喉の奥が膨れ上がるような苦しさに、抵抗はおろか、自力で立つことすら出来なくなって、翔はきつく目を閉じた。
「困ったときには誰かが助けてくれるなんて、てめぇはいつでも信じてんのかもしんねぇけどな! 俺はそういうのが大嫌いなんだよ!!」
突然、遊佐が声を張り上げた。
「そうやって時間稼いでりゃ誰か来る、ってか!? そんな素敵な友情の映画みたいな関係なんざ、あると思ってたら大間違いだぜ! 誰も助けになんて来ねぇんだよ、てめぇのためになんかよ!!」
――そうだよ。
分かってるじゃん、と翔は小さく笑った。その頬に、力任せに拳骨が入る。あまりに大きな衝撃は、痛みを通り越して、まるで麻酔でも打ったかのような、ぼんやりとした感覚麻痺を引き起こした。
耳元で遊佐の怒鳴り声が響く。
「笑ってんじゃねぇよ! 自分の立場分かってんのか!?」
――分かってるよ。
翔はまた、今度は胸中で笑った。
いざと言う時に助けてくれるような間柄など、作った覚えはさらさらない。そんなことは彼自身、重々承知していた。
「っ……つ……!!」
本格的に意識が朦朧としてきたとき、遠くに車のクラクションが聞こえた。遊佐が即座に目線を上げ、目を細めて顔をしかめる。
「何だ、あの車……?」
「俺たちに鳴らしてんですかね?」
彼らの声に、翔はゆっくりと顔を上げた。そして目を丸くする。
「啓作……!?」
派手な赤い車だった。啓作が車に乗り出したのが五年前で、十六歳で免許を取るまでの二年間、無免許運転で見事捕まらなかったという変な自慢話を聞かされたのを覚えている。そしてこちらへ向かってくる車は確かに、その車だった。
対向車線にも自転車一台通っていない静かな道路で急ターンをし、ややスピン気味に車を停止させて降りてきたのは、紛れもなく啓作だった。ばん、と後ろ手でドアを閉め、二人を睨みつける。
「またてめぇらか」
「……っ」
翔は思わず息をのんだ。啓作の口調が、目つきが、表情が、いつもよりも鋭く、きつい。酷く怒っているとすぐに分かった。
「こいつと関わんなっつーのが分かねぇみてぇだな、あ?」
「え、“こいつ”って、このガキのことだったんですかぁ? 俺、あっちの眼鏡の奴のことかと思ってましたぁ!」
わざとらしく敬語を使う遊佐に、啓作は怒りを通り越して呆れていた。ちゃんと名前を言ってくれないと、と嘲笑している遊佐に便乗してか、青年も言う。
「言っとくけどな。こいつが先に殴ったんだぜ、遊佐さんの顔」
翔の髪を後ろから強く掴み、強く下を向かせる。その拍子に走った鋭い痛みに嗚咽を漏らした翔を見て、それでも啓作の怒りに満ちた表情に、動揺の色は浮かばない。
「馬鹿言え。そいつがそんな真似するはず――」
「……したよ」
啓作が言葉を切った。ぐっと俯むかされたまま、切れた口の中で滲む血の味を噛み締めながら、翔は続ける。
「かっときて、殴った」
「は……?」
驚いたように目を丸くして、
「…………」
言い終わった翔が不様な自分の現状をさげすむようにほんの少し笑ったのを彼は見た。
――本当に、もう。
ため息交じりでがしがしと頭を掻いた拍子に、啓作は彼と同じだけ笑った。それまで彼の心を埋め尽くしていたがむしゃらな怒りが、しっかりと晴らすべき対象に変わっていく。
横から青年がダメ押しをした。
「だからそう言ってんじゃねぇか。だいたい何だぁ? 勝手に首突っ込んできやがって」
「……呆れた」
ぽつりと呟くと、啓作は遊佐の鳩尾に素早く一度、それは鋭い蹴りを食らわせた。その足を地面に着くと同時に、反対の足で同じくもう一人の青年にも蹴りを入れた。見事だった。
「ぐえっ!?」
「ごふっ!?」
変な声を出した二人の間に手を伸ばし、支えを失って崩れそうになった翔の体を支えると、ひょい、と軽々担いで自分の車の助手席に座らせた。ぐったりとシートにもたれかかった翔が、薄く目を開ける。
これを機に、もう啓作との間柄などどうでもよくなったらしい遊佐は、敬語を止め、これまでとは打って変わって啓作に牙をむき出した。男と二人で車に乗り込む。
「げほげほっ……畜生、待ちやがれ!!」
「待てって言われて待ってやるほど甘かないのよ、俺は!」
運転席に飛び乗り、そのまま急発進させて二秒後、
「シートベルト。ちゃんとしてね」
バックミラー越しに追いかけてくる車を見ながら、啓作は笑った。
もう十分ほど走っただろうか。遊佐たちの乗った車は、まだ後をついてきていた。十分に違反で捕まれるスピードを出し、バックミラーを時々見上げて、その度に啓作は適当な道を乱暴に曲がる。それも今度で六度目となった。
「まーだ、いる」
それまで続いていた不自然な沈黙を、頃合いを見た彼はすんなりと破ってみせた。それで少し軽くなった空気の下を、またすんなりと彼はくぐってくる。
「珍しいじゃん、お前があんなの本気にするなんて」
「……そう、だね」
喋るとまだ少し痛む腹に組んだ両手を乗せて、翔はうなだれるように言った。するとすかさず啓作が、
「ガキ」
「…………」
――言われるまでもない。
翔は数秒の間を開けて、咳を切ったように過去の出来事を全て打ち明けた。別に特別隠す理由もない、そう考えたらなんだか随分口が軽くなって、気づけば涙がこぼれ落ちていた。
「気がついたら……殴ってた」
背もたれに体を預け、下を向いたまま、彼は話を終えた。
ハンドルを切って道を曲がりながら、啓作は黙ってそれを聞いていた。翔がわずかな涙声になったときに一度だけ彼に目をやったが、それきりまた、正面とバックミラー、時々サイドミラーに目線を行き来させるだけだ。
震えるようなため息をついて、翔は小さく呟く。
「迷惑、かけた……」
「あっは、別にそんなん迷惑でもなんでもないさ」
明るい声に目をやると、正面を向いたままだったが、へら、と笑った啓作の口調はいつもどおり、和やかだった。
「悪かったね、ふざけて」
「……啓作」
翔の落ち着きを取り戻した声に安心しながら、赤信号で停車させる。すると、後ろにぴったりとへばりついてきていた遊佐の車がクラクションを鳴らした。いつまでも人通りの少ない道で、やはり近くに車は走っていない。うっとうしそうに後ろを振り返った啓作。
「赤だろーが。信号見ろ、馬鹿」
吐いて捨てるように呟いた啓作。翔がふとバックミラーを見ると、遊佐の鋭い目と合った。目線を外して、言う。
「僕らが死ぬまでついてきそうだね」
「何それ……ハイパーうざいんだけど」
納得のいかない苛立った顔をしながら、それでも若干おどけたようにうなる啓作。――よかった、いつもの彼だ。
翔は、峠へと向かうカーブが近づいてくるのをゆっくりと目で追いながら言う。
「僕は車酔いしないから、あとは啓作の好きなようにやって」
「……おー……」
彼とは思えない発言に驚いて、とっさに言葉が出なかった啓作だが、何を思いきったのか、スピードをぐんと跳ね上げた。道の険しい峠へと迫るカーブを翔と同じように見ながら、
「ちょっと怖いぜ? それでもいい?」
わくわくした心境を隠しきれない子供のするように、白い歯を見せて笑った。無邪気な彼の姿に思わず翔も微笑んで、
「いいよ」
彼の返答とほぼ同時に青に変わった信号機を見て車を発進させ、急なカーブを曲がりきった。
あぁ、あれは正夢だったのかもしれない、と二人は思った。
登り坂をぐんぐんと登り、道の両側を木々が鬱蒼と生い茂ってくるにつれて、啓作の表情が確実に緊張してきていた。どんなにゆったりとした心持ちの彼にもやはり、緊張感はあるらしい。
「意気込んでる?」
「え? あぁ、別になんてことないさ、こんなん……たかだかお遊びのカーチェイスさ」
言いながら、やはり目が本気である。翔はそれきり、喋るのをやめた。
しばらく登りつめて、車は山頂に到達した。バックミラーには、やはりぴたりと後ろにつけた遊佐の車がある。
「うぜぇ……絶対振り切るし。なーんか、今日は負けたくない」
翔に小声で言って、ぎゅっとハンドルを握り直した。窓をしっかりと閉めて一つ深呼吸をすると、
「行くよ」
「っ!」
改めて、思いきりアクセルを開けた。
普段は出さないエンジンのうなり声を大きく響かせながら、短い直線を二秒で走り抜けた。五十キロ制限の看板が目の端を一瞬通り過ぎ、すぐに一本目の右カーブ。ギャアッ、とタイヤのこすれる音がして、車が大きく左へ流れていく。
「……啓、作!」
迫りくる山肌。恐怖のあまり彼を呼ぶが、返事は返ってこない。ばしっ、と窓ガラスを木の枝が叩き、衝突を覚悟してこぶしを握り、身を固くすること数秒。
「ひゅうっ」
啓作の口笛に、いつの間にか固く閉じていた目をそっと開けた。衝撃はない。道幅ぎりぎりに綺麗な弧を描き、車はカーブを曲がりきって直線に入っていた。見事なまでのドリフトである。
「大丈夫? まだきっと沢山あるよ、カーブ」
「…………」
景色がものすごい速さで流れていく。ちらりと見たスピードメーターの針は百二十キロを回っていた。高速道路でもなかなかここまでは出さないだろう初めての猛スピードに、翔は息を呑んだ。
「ちぇ、まだついてきやがる……相当やり手だな、あいつ」
バックミラーに目をやって、少し冷や汗をかいた啓作は、わずかに楽しそうな舌打ちをした。
遊佐の運転する車内は、酷い寒気に満ちていた。前の車のドリフトが事故とあまりにも紙一重だったのを見て、こちらまで恐ろしくなっていたのである。
「な、何だ、あいつ……今の突っ込み普通じゃないですよ……!?」
「玄人だったら出来ねぇよ、あんなの……ド素人か?」
そう言いながらもなお赤い車を見失わずに着いていく遊佐は、実は普段からこんな風にカーチェイスをやっていた。今日は突然追いかけることになったため、車のメンテナンスや微調整こそしていなかったが、運転技術は確かなのである。
慣れた手つきで小刻みにサイドブレーキを調節しながら、徐々に前の車との距離を詰めていく。直線の馬力は、こちらの方が上らしい。
そして二本目の左カーブ。前の車はふらふらと後ろを振りながらも、やはりスピードを落とすことなく大惨事の際を滑って行く。――ふらふらと後ろを振りながら? 遊佐は一瞬考えて、血相を変えて叫んだ。
「ド素人だ!」
「嘘だろ!? ……くそ、負けてたまるかよ!」
助手席の青年も、敬語を忘れて大声を出す。舌打ちをしつつ、ぐん、とスピードを上げる遊佐だが、やはり前の車ほど潔く突っ込んでいく勇気はない。経験を積んで持ち合わせた本能が危険を感じて、どうしても身じろぎしてしまう。
「くそ……!」
恐怖を憤りで覆い隠すように限界までスピードを出してわずか数秒、
「ゆ、遊佐さん、突っ込みすぎ!!」
「えっ」
助手席から叫ばれて我に返った。目の前に、ほぼ直角な山肌が迫っている。目を見開いてブレーキを踏み、ハンドルをいっぱいまで切る。
「うわあぁぁ!!」
耳を覆いたくなるようなブレーキ音。ごつごつとした山肌に大きく乗り上げるようにして、なんとかカーブを曲がりきった。勢いのままにコースへ戻り、加速。心臓が縮みあがった。
「じっ……冗談じゃねぇ……」
「ちょっ、アクセル緩めんじゃね……っ、緩めないで下さい、置いてかれますよ!」
息を乱しながら、徐々に小さくなりつつある前の車を凝視した。
そして、
「絶対、次で振り切って……」
「え、もう終わらせちゃうの?」
“ド素人”の車では、翔が疲れた顔をしてシートにもたれかかっていた。カーブ二本の衝撃が辛かったらしい。強いことを言う啓作の額にも、じわりと冷や汗が浮いている。それを見た翔は、小さく呟く。
「かっこつけ……」
「ばっ、そんなんじゃないって!」
少し赤くなった啓作にちらりと目をやって、いつ茂みに突っ込むかという恐怖の中、ほんのわずか楽しそうに見えなくもない翔。ハンドルを握りながら長いため息をついた啓作は、
「……次で振り切る」
「そうして」
更に車のスピードを上げた。
啓作の車が五つ目のヘアピンカーブを無謀運転で越えたとき、勝負はついた。
「あー、寿命が三年は縮まった」
「……ほんとにね」
二人は峠を無事に下りきり、学校近くの海沿いの道まで戻って来て、車を止めた。啓作が車から降りて、自動販売機でコーラを買う。“勝利の杯”である。
真っ赤なボディに座り、喉の奥に一気に中身を流し込むと、助手席の翔が笑った。
「でもパンクなんてついてなかったね、向こうも」
実はつい十分ほど前、まだ最後のヘアピンカーブが残っていた直線の道の上で、遊佐たちの乗った車のタイヤがおそらくパンクをした。尖った石でも踏んだらしく、ふらふらと情けなく後ろを振りながらスピードを落としていくのが見えたのだ。
ごくりと飲み込んで、ピリピリとした刺激を喉に感じながら海へと目をやる啓作。
「んー……あれが無かったら負けてたかもね、俺」
「負けるどころか死んでたよ」
翔がしっかりと言いきって、続ける。
「それにわざわざくっついてきてまで挑んだ自信、きっと向こうはアマチュアか何かだ。慣れてるんだよ、ああいうのには」
「何、ド素人だからこそ、怖いもの知らずにカーブ突っ込めたってわけ?」
厳しいなぁ、と笑いながら、実際そうなのだろうと啓作も思っていた。あそこを走っていたすべての時間が、一瞬間違えたら大事故になりかねないものの連続だったことは、運転していた彼が一番よく知っている。
かかとでタイヤを二、三度蹴り、うなだれる。
「あーあ、滑りやすくなっちゃった。……あんなもんで熱くなってんじゃねぇってのな、俺」
「うん、僕も」
缶を口元で傾けながら、啓作はちらりと翔を見やった。俯いた彼の顔が少し笑っている。――よかった。
最後の一口を飲みほして、
「っし! 帰るか!」
「もう?」
そんな彼の一言に耳を疑った。目を丸くして、凝視する。そんなに早く帰りたかった? と翔が真顔で尋ねるものだから、余計に言葉が出てこない。
「だってまだ一時じゃない」
「いや、だって……お前がそんなこと言うなんて思ってなかったから」
「言うよ」
本音を漏らしたら、軽く跳ね返されてしまった。品行方正、真面目で完璧主義の彼も、本当はただの十七歳なのかもしれない。いや、そうなのだろう。そう思うと、三歳年下の彼がなんだかとても可愛く見えてくる。
「……ふうん!」
潮風を肌に感じながら、啓作はとても楽しそうにボディから腰を浮かし、運転席に乗り込んだ。普段と何ら変わらない翔の頭を、わしゃわしゃと乱すように撫ぜる。
「っ、わ」
「やっぱりまだガキだね、お前も!」
もう楽しくて仕方がないといった様子の啓作。乱された前髪の間から無邪気な笑みを見上げた翔は、小さなため息ととともに少し笑って見せた。
「さ、どこ行きたい? どこでも連れてってやるさ!」
「じゃ、とりあえず、お昼食べよう。コーヒーが美味しいとこで」
それなら最高の店を知っているだとか、今日は俺の奢りだとか、その他諸々を楽しそうに口走りながら、啓作はシートベルトを締め、車を発進させた。
「久しぶりに高いワインでも飲んじゃおっかなー、俺」
そう笑った数秒後、
「そういえば、もう法律的にも飲めるんだ」
「……あぁ……そうだったね」
ぽつりとそうこぼした。今年の一月に成人式が行われたのだが、両親がいないやらスーツ代が馬鹿にならないやらで面倒になり、啓作は式へ出席しなかったのだ。
車は細い路地に入っていく。昼間なのに少し薄暗いところがまた、粋な感じがしていいのだ、と運転手は語る。そしてテンションも最高潮に達したとき、ついに決意。
「っし! 決めた! じゃんじゃん飲むからね、今日は!」
「あ、そう? ――じゃあ」
翔はおもむろにシートベルトを外し、リアシートに腕を伸ばすと、その座席カバーの下から小さな紙袋を取り出した。
「ボクからのお祝い。用意しておいてよかったよ」
え、と啓作は目を丸くした。正面と紙袋とを交互に見ている様子からすると、それがいつから車内にあったのかも、全く知らなかったようだ。
「用意ってお前……どうやって俺の車開けたのよ?」
「おととい乗ったじゃない、君がドライブするって言い出して」
「じゃ、あのときからずっとあったの!? ……驚いたね、こりゃ」
赤信号で一時停止して紙袋を覗くと、ざらざらと音を立てる金平糖が大袋いっぱいに個別包装されて入っていた。
「冬だから、二、三日置いといても大丈夫だと思って」
「絶対平気!」
そう言って目を輝かせた彼に、翔もどこか幸せそうに微笑んだ。
「おめでとう、啓作」
「さーんきゅーっ!」
――それが、些細なこと。
そして帰り道、
「飲酒運転はだめだからね。寮まで歩くよ」
「えーっ!!」
――それも、些細なこと。
(第四章 - 馬鹿馬鹿しいこと)
「こんにちは、今年からめでたくお酒が飲めるようになった矢羽くんです。今年度から、多分今から決めるクラスの委員長と二人部屋です。近未来の委員長サン、俺のことしっかり見張って下さい。好きな科目はありません、強いて言うなら――保健。苦手な科目もありません。何か困ったらなんでも俺に聞いて下さい、大抵のことは教えます。そんなもんかな。多分もう留年しないんで、これから卒業までよろしくお願いしまーす」
彼にとっては新しいクラスでのなあなあな自己紹介が功を奏したのか、啓作は一日で皆になつかれた。学年が変わって二日目、
「それじゃ、係を決め直しまーす」
教師が言ってすぐさま手を上げて立ち上がった青年がいた。黒髪をワックスでラフに整え、真っ黒で淵の太かった眼鏡を茶色に変えた、池だった。
「委員長に、黒崎を推薦します!」
「へ?」
突然言われた翔が変な声を出して、真顔で推薦する、隣の席の池を見上げる。そしてまさかと思って、一番後ろの席の啓作に目をやると、
「よろしくー」
ひらひらと彼は手を振った。
そんな様子を見た教師が、微笑ましい様子で頷き、
「そういうことでいいか、黒崎?」
「いいか、黒崎?」
「いいか、黒崎っ?」
言わずもがな、大友と菊川である。同室の三人を手なずけた啓作の裏工作だろうか、と翔は一人考えて、
「よっ、委員長!」
「満点パワーで頑張れよ!」
「だっはははは、出たぁー!」
懐かしい大爆発の中、断るに断れず――断る理由も特に思いつかなかったので――翔は苦笑しながら頷いた。
「よし、じゃあ黒崎は部屋移動だ。今日にでも荷物を移しておいてくれ」
「分かりました」
その後も様々な係があり、啓作は一番活動時期の短い体育祭実行委員に、池は副委員長に、大友と菊川は冬のストーブの灯油を運ぶストーブ委員に収まった。
「では、早速だが次の時間から授業だ。君たちが初めて受ける化学だね。記念すべき第一回は実験から入るようなので、筆記用具を持って科学室に行きなさい」
教師が言って、終業の礼をすると、生徒たちはぞろぞろと列を成して科学室へと向かった。
「初めまして。科学担当の大山です。今日は指定された実験を進めて下さい。私は何も助言しません」
初対面の生徒たちにこれだけ言って、担当教師は実験室を後にし、準備室にこもってしまった。
「はぁ……なるほど」
委員長として挨拶に行こうとした翔は、それを聞いてとりあえず生徒を出席番号順に席につかせ、二人組のグループを決めると、まずは現状を理解しにかかった。
各班の番号の書かれたトレーに用意された十個のビーカーには、それぞれ液体が入っていた。その周りには、様々な試薬が用意されている。
――“用意された試薬で検証しなさい”
試薬実験室のホワイトボードには、たったそれだけ書かれていた。なるほど、と頷いた翔は、皆に体を向けて話し始める。
「先生からは何もおっしゃらないということなので、代わって僕が説明します。ここに、一から十の番号を持った液体が十種類と、それが何なのか調べるための試薬が数種類、あります。劇物が混じっているかもしれないので、液体には絶対に触らないで下さい」
「はいはーい、委員長! もし触ったらどうなるんですかー?」
「そうだね、最悪、溶けるかな」
ふざけて聞いた質問に間髪入れずに帰ってきた答えに、驚愕の表情を浮かべる大友。それを見た周りの生徒が笑う。
「みんなには、試薬を使って、どれが何という液体なのかを調べてもらいます。さっき二人一組の班を割り振ったので、各班一セットずつ、液体と試薬を取りに来て下さい。あぁ、菊川は僕が持っていくからいいよ」
「いーな、菊川!」
「絶対出来るじゃん!」
そうじゃん、と今更気がついたように目を丸くした菊川が、へへへ、と自慢げに笑った。
「まずは自分たちで実験して、何かに結果を残しておいて下さい。方法がどうしても分からなければ、僕か啓……矢羽、君も分かるよね?」
目をやると、啓作は頭の後ろで腕を組みながらおどけたように目を瞑って、
「俺様に不可能はなーい」
大きな声で言ってみせた。ぶっ、と準備室の中から噴き出したような音が聞こえて、生徒たちは顔を見合わせた。
くすくすと色々な笑い声が聞こえる中、翔は開始の合図をした。
「そういうことらしいので、僕か矢羽に聞いて下さい。繰り返しますが、先生にはお尋ねしないように。あ、窓側の人、悪いけど窓開けて」
「はーい」
「めんどくせー」
「はーい」
ぱらぱらと返事が返ってきて、翔は自分の班のセットを手に、菊川の隣に腰かけた。彼は座るや否や、わくわくと楽しそうな菊川に適切な指示を出し、早速実験が始まった。
「矢羽さーん」
「分かんないことがあるんだけど」
頬杖をついてあくびをしている啓作に、早速質問に来た。
「何で留年したの?」
「すっげぇ金髪! ヤクザの息子?」
「刺青も入ってんの? 蛇とか?」
「何だ、そーいう質問か」
最初こそ苦笑したが、何をどう聞かれても、へらへらと笑って受け答えをしている啓作。
「フツーのおにーさんだよ」
「いや、そうは見えないですぜ、兄貴?」
ははは、と笑い声が上がる中に、今度は本当に実験についての質問がかかる。
「すいません、この透明なのって、何の試薬でしたっけ?」
「ん? ……あぁ、それはフェノールフタレイン液って言って、アルカリ性だと真っ赤になるやつ」
「あぁ、そうだった! 中学のときやった! ありがとうございます!」
頑張ってねー、と手を振る啓作。彼は尋ねられた質問には必ず答えたが、自分自身は何もしなかった。相方もいないため、全く進んでいない。クラス人数が奇数のため、前から二人一組を作ると最後の彼はあぶれてしまうのだ。
「彼女いんの?」
「あ、メッチャいっぱいいそう!」
「何だそりゃ」
啓作は言いながら苦笑して、彼女というテーマで過去を振り返ってみる。――いるわ、いるわ。
「ゼロってことはないですよね?」
「それはないだろー」
いちいち名前など覚えていないが、一時期は相当な人数と遊んでいた。寝ずに朝まで飲み明かして校長に怒られた、苦い記憶も蘇ってまた苦笑する。
「ねぇ、いるの? いないの?」
べらべらと勝手に妄想を膨らましながら喋っていた生徒たちが、今一度、彼に聞き寄った。
「彼女ねー……」
啓作は少し考えるような素振りを見せて、おもむろに立ち上がった。逃げた、逃げた、と後ろからかかった声に、啓作はぺろりと舌を見せる。彼の向かう先にいたのは、実験を進める翔だった。
「――違う、それはコバルト紙。リトマス紙は赤と青の二種類ある方……そう、それ。一番と三番と七、八番に、それぞれ両方の色を浸してみて」
十番のビーカーから発生している気体を採取する翔は、菊川と二人でスムーズに実験を進めていた。
歩いてきた啓作が結果をまとめたノートを取り上げて、
「二番が炭酸ナトリウム、四番が水酸化バリウム、五番、九番が水で、六番がアンモニア……へー」
驚異的な速さで解明していく実験結果を読み上げ、感嘆の声を漏らす啓作。
「よくやるねぇ」
「どうしてやらないの」
完全にすれ違う二人の意見を互いに苦笑しているそこへ、一人の生徒がやってきた。
「ねぇ、これって何が分かる試薬?」
「あぁ、phの判別紙だ。酸性・アルカリ性の度合いが分かる。変色の例が資料集に載ってるから、見ながらやるといいよ」
ありがとう、と戻っていく生徒を見送って、翔が再び自分の実験に戻ろうとした瞬間。す、と肩に腕が回った。
「え?」
振り返ると、啓作が意味深長な笑みを浮かべて立っている。その口がゆっくりと開いて何を言い出すかと思った次の瞬間、
「これ、俺の彼女」
「……え」
ぎゅっ、と啓作に体を引き寄せられてバランスを崩しながらも、椅子の上でなんとか視界を定め、翔は驚いた。
自分たちの正面には、ぽかんと口を開けてこちらを凝視しているクラスメイトの姿があった。現状、啓作に肩を組まれた上に、その手の平は翔の頭の上。抱えられている、と言った方が適切かもしれない。――それより彼、今何て?
「俺、こいつしかキョーミないから」
さあっ、と翔の顔色が青くなる。絶句とドン引きと寒気の嵐を覚悟した翔の耳に入ってきたのは、
「あっははははは!!」
「さっすが矢羽ちゃん!!」
「言うことなしだもんね、その彼女!」
例によって“大爆発”だった。その中心で、反応の大きさにちょっと驚いたような顔をする啓作だが、
「だろ? 実験結果も写させてもらうんだ、手ぇ出すんじゃねえよ?」
そう言いながらすぐにテンションを乗せ、ふざけたように――本気でふざけていて欲しい限りだが――笑いながら、ぼすぼすと翔の頭を叩いた。
「……啓作」
「なーに、マイハニー」
満面の笑みの上から、ごしゃん、と鈍い音がして、ひっくり返った啓作の体が派手に壁にぶつかった。
「矢羽ちゃん!!」
「うっわ、夫婦喧嘩だ!」
「逆DV!」
「痛そー!」
冷やかす野次馬の中心に立っていた翔の手には、長いビーカー立てが握られていた。あろうことか翔が、委員長が、啓作の頭をそれで叩いたのである。
「たは……あっはは……いったい」
「馬鹿言うなよ、真っ赤な他人の癖に」
頬を若干赤くしながらも厳しく言い放った翔は、一番近くで“彼女騒動”を目撃して絶句している菊川の肩を叩いて実験の続きを促した。
「あぁ、えっと……、あ」
どこまでやったんだっけ、と焦っている菊川の手から、啓作が赤いリトマス紙を引き抜いた。それを翔の目の前に持ってきて、
「これだとまだ“赤の他人”」
「……は?」
突然言い出した言葉に怪訝な顔をする翔に、これまた意味深長に目線を合わせた啓作は、これまでの翔の班の実験結果の控えから判断して、一番の薬品を手に取った。そしてそこにリトマス紙をつける。薬品に使った部分が、綺麗な青に染まった。
「こうすれば……ほら、“青の親友”。これすなわち俺ら! だろ?」
親友、確かに今そう言った啓作が持っているリトマス紙を、じっと見つめる。赤かった紙が、確かにそこだけくっきりと青い。しばらくして啓作に目を向けてみると、彼もじっとこちらを見ていた。
もう一度青色を見つめながら、ぼんやりと考えてみる。
――親友……。
「……え?」
翔は思わず声を漏らした。完璧な冷やかしムードの中で、気がつけばクラス中から注目を浴びていた数秒の後、
「うわー……信じられない。翔が、俺の言葉にときめいてくれちゃった」
「!!」
ぼそりと啓作が呟いたものだから翔ははっとして、再びビーカー立てで彼の頭を引っ叩いた。
「いった! ぃいった!!」
「リトマス紙の変色なんて――どこの詩人だよ、馬鹿」
うずくまって悶える啓作を尻目に、ますます赤くなった顔を背け、それが悟られないよう、やや俯き気味に尋ねる。
「菊川、八番の結果は?」
「あ、今、今やる! 待って、待って」
夫婦漫才に釘付けになっていた菊川が、言われて若干にやつきながら、八番の液体にリトマス紙を浸し始める。菊川が結果を言う前に目で見た翔が、結果をノートにすらすらと書き足しながら、ほぼ棒読みで結果を読み上げる。
「赤も青もそのままだね。八番は炭酸水だ。十番は硫化水素が出ていて通電性の液体だから硫酸銅、実験は終わりだ」
「ちょ、ちょ、翔、翔ってば」
「何!」
翔が、大声を出していた。こんなに取り乱した彼の姿は、一年間ともに過ごしてきたクラスメイトも、寮の元同室の三人でさえも初めて見る。
両手を合わせた啓作は、ウインク越しに翔を見上げて、
「青の親友、どーか、お慈悲を」
「…………!」
また言った――親友。
翔は彼から目をそらし、結果をまとめたノートを乱暴に投げつけた。この短距離で、器用に片手で受け取った啓作は笑いながら席に戻って行く。
「さんきゅ、恩に着る!」
「着なくていい、気色悪い」
ひゅうひゅう、と沸き起こる冷やかしに頭を押さえながら座り込んだ翔の耳元で、
「矢羽さん、格好良くていいじゃん」
菊川がなんとも楽しそうに言ったので、翔は再びビーカー立てを握った。高く、終業の鐘が鳴った。
「いやぁ、科学は有意義だったね! あんなに真面目に授業に出てたの初めてだよ、俺」
「馬鹿なこと言ってただけの君の、一体どの辺が真面目なのさ」
二年生を迎えて初めての授業をすべて終えた翔は、今までいた寮で荷物をまとめ、啓作の部屋への移動もすっかり終えて、ソファーに寝転んでいた。
「だいたいね、男の君が僕を彼女だなんて意味が分からない。僕にしか興味がないって、どういうことだよ」
怒ったように言いながら、途中で苦笑が混ざってしまった。啓作も苦笑しながら翔を見やる。
「ほんのジョークだって。常識で考えれば、彼女と親友の違いくらい分かるだろ? それがあんな騒ぎになるなんて、思わなかったんだよ……相手がガキだとこうなるから嫌だ」
がしがしと頭を掻きながら弁解する啓作にため息を一つついて、
「……とにかく、今日から僕はここで寝泊まりさせてもらうことになったから。ソファーで寝ればいい?」
どうせこれも君の陰謀だろ、と言いかけたが、これ以上啓作が調子に乗ったらとんでもないと思って止めた。が、それでも彼は言ってみせるので、
「え、ベッドで一緒に寝」
「遠慮する」
ざっくりと一線を引いた。呆れ返った翔は啓作の顔を見て、小さく笑った。
「……何だよ?」
「いや……馬鹿みたいだから」
「馬鹿みたいって……そう言えばお前、今日だけで“馬鹿”って相当言ったよなぁ」
そうだっけ、と翔はまた笑う。こんなに笑って話が出来る他人なんて、唯一の家族である母だけだと思っていたのに。
こんこん、と扉がノックされて、開けようと啓作がソファーから立ちあがる前に、勢い良く開いた。
「配達です!」
「池!」
驚いた顔をする翔の目の前に、
「じゃーん!」
池が両手で広げて見せたのは、
「レストランの無料券……?」
「何、タダで食い放題?」
座ったままの体を思いきり反り返らせて、啓作は逆さまになった池を見つけて尋ねた。ビュッフェじゃないから食べ放題ではないんですけど、と池は笑って、
「近所にオープンしたんで是非、って店長が。それがさ、五名様までなの」
池、大友、菊川に加えてこの部屋の二人、と言う訳か、なるほど。
「いいの、僕らが行っちゃって?」
「だって去年、翔だって美術館のチケットくれたじゃん」
懐かしそうに微笑んだ池は、何度も頷いた。まだ逆さま状態の啓作が一言、
「美味いの、一杯飲んでくか?」
「え?」
「高校生に変なこと進めないで」
親指と人差指で作った御猪口をくい、と口元で傾ける啓作に翔がすぐさま一喝して、そう言えば、と尋ねる。
「いつ行くの?」
「それがさぁ……」
池は一転して困ったような顔をして、
「今日までなんだよ、期限」
そして五人は午後六時半、予約した時間きっかりにレストランに着いた。
「そーいう情報は最初に言うもんだぜ」
「あはは、すいません、言い辛くて」
それぞれが思い思いの格好でいるせいで、一体どんな集まりで来たのか、一見しただけでは見当がつかなかった。
「あ、予約した池ですけど」
ウェイトレスに無料券を見せながら話しかけた池は、カーキ色のワイシャツの上に、英語のプリントの入った白いタンクトップシャツを着、更に黒いベストの前を開け、肩にかけるように羽織る。眼鏡が似合っていい感じだ。
「なぁ、飲むよな?」
「もちろん!」
一方の彼らは部活を終えてそのままここに直行してきたため、バスケットボール部の大友はジャージ姿、吹奏楽部の菊川は制服姿だ。
二人で盛り上がっているところへ、池がしっかりと水を差す。
「さっきから飲む、飲む、って言ってるけどさ、公共のレストランだぜ? 未成年に酒なんて出すはずないじゃん」
「あー!」
「飲めない!」
ショックに満ち溢れたような顔をする二人に、横から啓作が一言。
「俺が頼む分にはいいんでしょ?」
「え、本当ですか!?」
「矢羽さん最高!」
すっかりなついた二人と笑いながら肩を組む啓作。彼はグレーのパーカー姿で、大きなフードをすっぽりとかぶっている。所々擦り切れた仕様の、ユーズドブルーの緩めのジーンズは、皆と比べて完全にラフだ。
酒が飲める、と二人がはしゃいでいると、ウェイトレスから声がかかった。ばれたか、と口を噤んで目をやると、彼女は微笑みながら一言、
「池様、五名様ご案内します」
「あ……はーい」
「何だ、ビビったー」
見事なフェイントに苦笑しながら、頼んでおいた窓辺の席に向かう。
白黒のボーダーの長そでシャツに、銀のネックレスを下げ、黒のカラージーンズを合わせる翔が忠告する。
「飲むのはいいけど、ちゃんと自分で寮まで帰ってよ、特にその大きい人」
「俺ぇ? 俺、酔わないもん!」
黙示された啓作が弁解して、
「いざとなったら頼れるシラフが二人いるじゃん、ねぇ?」
「やだ」
「無理です」
酒は飲まない池と翔が、先頭切って歩きながらきっぱりと断った。
「こちらでございます」
「すっげ、綺麗!」
「池、ナイス!」
「だろ?」
ビルの五階の展望レストランだけあって、さすがに景色は見応えがあった。正面では町明かりや遠い繁華街のネオンがキラキラと光って、右手には観光船の走る海が広がっている。学校から近く、毎日見られる海も、夜になるとだいぶ雰囲気が変わるものだ。
ご注文が決まり次第お呼び下さい、と頭を下げて戻っていったウェイトレスの背中を眺めながら、
「やっぱさ、いいところは可愛いよねぇ」
「あぁ、まったくだ」
「な、今日来てよかったろ?」
池と、彼に心底頷く大友と菊川が腕を組んで座った向かい側に、翔と啓作が座る。早速メニューを開いたとき、
――ピンポーン
明らかにここで呼び鈴が鳴った。翔が啓作に尋ねる。
「押した?」
「押してない。池、押した?」
「押してません。大友?」
「いや、俺じゃねぇ。きっくー?」
「正解!」
えっ、まだ決めてない、と皆が焦る中、菊川は目を閉じ、落ち着いた口調で言う。
「せっかく可愛いウェイトレスさんが担当なんだからさ、ここのお勧め何ですか、とか聞きながら決めよーよ」
あどけない菊川の妙案に、大友と啓作の目にはハートが浮かんだ。池は一人店員への失礼と迷惑を考えてうなり、翔は長いため息をつく。
「いい! それいい!」
「うるさい、大友。……でも、ご飯時に悪いんじゃない?」
「いいんだよ、こっちは客なんだから」
「やるなぁ、このマセガキ! 酒飲めないくせに!」
「それとこれとは別ですよ!」
けらけらと笑い声が絶えないテーブルに、先刻のウェイトレスがやってきた。
「お待たせしました。お決まりでしょうか?」
ごほん、とわざとらしい咳払いを一つした菊川が、大人ぶった口調で尋ねる。
「すいません、ここのお勧めを教えてほしくて」
「はい、只今の当店のお勧めは、季節限定の栗おこわの定食となっております」
菊川のある意味での豹変ぶりにくすくすと笑いを堪えている大友と啓作。そんな妙な雰囲気の中で、“限定”に弱い池が、じゃあそれ、と注文する。
大友が調子に乗って、更に尋ねる。
「ウェイトレスさんのお勧めは?」
「えっ、私のお勧めですか?」
若干戸惑ったような顔を見せたウェイトレスに、啓作まで声色を変えて言う。
「あなたのお勧めなら何でもいただきますよ」
「まあ……ふふ、本当ですか?」
唇に手を当てて笑ったウェイトレス。ずきゅん、と音が聞こえそうなほどに男三人が興奮して、翔と池が顔を見合せて苦笑する。
それにしても、今の啓作の一言が効いたのだろうか、彼女まで少し顔が赤い。メニューの中の一ページを開いて、彼女は啓作にメニューを向け直して言った。
「じゃあ……こちらの秋刀魚のおろし定食はいかがですか?」
見るからに美味しそうな定食だ。
「旬のお魚、いいですね。いただきます。あとグレープフルーツサワーを一つ」
「あの、かき揚げか天ぷらか何かの定食ってありませんか?」
「俺もそういうのがいいなぁー」
楽しげな大友と菊川に、ございますよ、とウェイトレス。メニューを自分に向けてもらうのをやって欲しくて、定食の存在を知っていながら、彼はわざわざ尋ねたのだった。
「こちらです。旬の野菜のかき揚げ定食になります」
「旬の野菜、いいですね。いただきます」
「え、矢羽さんの受け売りかよ」
池の冷静な突っ込みには皆が笑った。すると、ウェイトレスはまだ注文していない翔に自らメニューを向けて、
「お決まりですか?」
「あぁ、彼と同じものを」
声をかけてもらった翔に四人全員が羨ましそうな、びっくりしたような目をして注目する。
「かしこまりました」
注文されたものを複唱して、小さく頭を下げて去っていくウェイトレスを見送りながら、大友がため息をつく。
「あーあ、俺ときっくーは終わったな」
「“アウトオブ眼中”寂しいねぇ」
菊川も同じような顔でそう言って、
「ねぇ、どっちかな?」
しょんぼりしている二人に、横から池が声をかけた。
「ウェイトレスさんが気に入った男。矢羽さんと、翔と、どっちかな?」
賭けごとの好きな大友が即、頬杖をつきながら返事を返す。
「俺は矢羽さんに賭けたな。やっぱ女の人って年上のがいいんじゃない?」
「俺は翔に賭けた! 目が違ったもん、何か意識してる目だったよ!」
菊川が答えると、そのウェイトレスがやってきた。啓作ににこりと微笑んで、
「お待たせ致しました。グレープフルーツサワーでございます」
「あぁ、どーも」
グラスを受け取った啓作が微笑み返し、ウェイトレスが帰って行くと、大友がにやり、と笑って池の肩を小突いた。
「きてる」
「きてるね」
二人は視線をウェイトレスの背中に釘付けにしたまま頷く。見かねた菊川が翔を急かす。
「おい翔、お前もうちょっとアピールしろよ……ほらほら、料理来たぜ」
「何をどうアピールするのさ? しかもあれは別の客のかき揚げ」
いくらなんでも来るの早すぎるでしょ、と翔が冷静に返す。
すると、先刻から何やら池とこそこそやっていた啓作が、テーブルの陰から、何やら怪しげな色の液体の入ったコップを出した。
「何それ、何混ぜたの?」
「サワーにタバスコとコショウと醤油入れて、みりんで割ったの」
してやったりと言わんばかりに楽しそうな顔をする啓作と、それを自信たっぷりに説明した池に、大友と菊川が揃って、
「うえぇ!?」
「気持ち悪りぃ!」
これでもかと言うほど表情を歪めた。
「そんなもの誰が飲むの?」
翔も一際渋い顔をして尋ねると、啓作が一言。
「負けた方」
「えっ、それって俺らの話!?」
「矢羽さんだったら俺、飲むの!?」
ええぇ、と更に二人が変な顔をして、
「頼んだからね、翔」
「頼みましたよ、矢羽さん」
それぞれ賭けた方の手をがっしりと握り締めた。審判は俺ね、と一人言った池の声など、二人にはおそらく何も聞こえていない。
「お待たせ致しました」
「うわっ!」
運命の瞬間が訪れるのがあまりに早くて、思わず菊川は悲鳴を上げた。
二段の配膳台に、五つの定食が乗っていた。まず始めに誰の定食を出すか、と目を見張る彼らに、
「かき揚げ定食でございます」
「お」
「えっ」
「うそ」
「まじで?」
定食を差し出された翔以外の四人が、それぞれ思い思いの顔をした。
「失礼します」
「どうも」
翔が会釈すると、ウェイトレスは翔に向かって可愛く微笑んだ。菊川がさも嬉しそうな顔をする横で、大友は下唇に手を添えて泣きそうになっている。
「秋刀魚のおろし定食でございます」
「はい、どーも」
そしてウェイトレスの微笑みは啓作へ。翔への方が可愛かっただとか、啓作への方が丁寧な置き方だっただとか、そんなつまらない言い合いは池が却下し、軍配は菊川に上がった。この男、どうも賭け事には強いらしい。
面白がった池が、定食を全て配り終えたウェイトレスにダメ押しで尋ねる。
「あの、そこの二人、どっちが格好良く見えますか?」
「はい?」
突然の質問に目を丸くしたウェイトレスに、大友と菊川が必死の形相で言い寄る。
「こっちですよね! 明らかこっちのが精悍な顔してますし、しっかりしてそうですし、現にそうですから!」
「いやいや、こっちですよね! 明らか優しそうだし、年上だからほら、何か安心するって言うか、ほら!」
「え、っと、どちらも素敵な方だと思いますけど……」
明らかな戸惑いを全面に出すウェイトレス。楽しそうな啓作はともかく、翔に至ってはめまいでも起こしたように、額に手を当てて黙り込んでいる。
二人を押しのけるようにして、池が彼女に苦笑交じりの会釈をし、
「あの、こいつら本当に気にしないでいいんで、どっちかって言ったら、っていう方を、ウェイトレスさんの本音でお願いします」
「ど、どちらかですか……?」
ウェイトレスは頬を赤く染めながら、二人を見比べるように交互に見る。奥の席の翔は照れたように目線を外し、手前の席の啓作もまた、照れて頭を掻きながら笑っている。そんな様子にウェイトレスはますます赤くなって、
「あ、あくまでも私が、ですけど……」
「ええ、それでいいんです!」
祈るように目を瞑る二人の真ん中で、池が頷く。ウェイトレスの口が開いた。
帰り道、サワーを飲みすぎて眠ってしまった菊川と、サワーに色々と混じった液体を飲まされてふらふらになった大友を片腕ずつ支えて歩く啓作が、
「面白かったね、賭け」
コップ一杯飲んだだけで酔い潰れ、散々愚痴を言って眠ってしまった池に肩を貸す翔に、そう笑いかけた。
とんでもない、とでも言った顔で、翔はひたすら前を見つめる。
「馬鹿馬鹿しいよ……」
「でもよかったじゃん、あんな美人に素敵だ、なんて。だって、俺がそーいうので負けたのなんてメチャメチャ久しぶりだぜ?」
名誉だよ名誉、と笑い声を上げる啓作。
「お前のことだし、勉強三昧の毎日なんだろうけど……悪くないだろ、こーいう“馬鹿馬鹿しい“のも?」
――うん。
心の片隅で、翔はそっと思っていた。しかしそれがどうにも口に出せなくて、無言のまま、彼は俯いた。
「付き合ってやれよ、たまには」
暗い夜道、よいしょ、と二人の肩を背負い直した啓作の声に、くす、と翔が笑い声をもらした。
――それが、馬鹿馬鹿しいこと。
(第五章/最終章 - 儚いこと)
校門をくぐって見上げると、見慣れたいつもの学校だった。にぎやかな学生寮。緑の多い中庭。見た目の少し古くなった校舎。
「…………」
雨の降りしきる朝。翔は、普段となんら変わらない一瞬一瞬にわずかな安堵を覚えていた。ふうっとため息を吐いて、肩を落とす。今朝の出来事を始めからなぞるように思い浮かべ、途中で気分が悪くなってやめた。
――夢だったんだ、全部。
無理にでも自分に言い聞かせようと、彼は硬く目を閉じた。
「おっはよ」
寮の入り口からひょっこりと顔を覗かせた啓作。傘の下、雨に少し濡れた茶髪に手ぐしを通す彼は、相変わらずの能天気な声で挨拶をした。
「おはよ」
「嫌に疲れた顔してるね」
「――そう? 別になんともないよ」
怪訝そうな顔をした啓作だが、それ以上彼を問い詰めることはしなかった。その代わりに、“昨夜のこと”を尋ねる。
「昨日、帰ってたんだって? 夜になっても部屋に戻ってこないから心配した」
翔はぎくりとして顔を強張らせ、数秒後、反射的に止めてしまった息をゆっくりと吐き出した。
月曜日に寮に来て、金曜日に一旦各自の家に戻るのがこの学校の寮制度だ。木曜日の昨日は当たり前のように寮で一夜を明かすはずだった翔が、同室の彼に黙って家に帰っていたのだ。
「いや、いいんだけどさ。家、何かあったの? 確かお母さんと二人暮らしだよね、翔んとこ」
「あぁ……、母さんが誕生日だったから食事してきただけ。言わなかったっけ?」
食事、と啓作は目を丸くした。
「言われなかった! なぁんで俺を誘ってくれないの!」
翔の母さん美人じゃん、と残念そうな啓作の表情に、特に疑っている様子は無い。よかった、と思う。翔は少し苦笑を浮かべて、黒崎翔を演じきる。
「じゃ、今度ね。……あ、そうだ、君の班の科学レポート」
かばんの中から一枚のプリントを取り出した翔。それを見た啓作が、打って変わって申し訳無さそうな顔をする。
「悪いねぇ、いつもいつも」
つまり、啓作が科学の授業で行った実験結果をまとめ忘れたのを、彼が完璧に仕上げて持ってきたのだ。
「はい」
「さんきゅ!」
しかし彼も単なるお人よしではない、要は見返りである。プリントを丁寧に両手で受け取った啓作も、それを薄々感じていた。
「……ええと、おいくらで?」
予想通りの好転に、翔は唇の端を上げて笑う。笑ってでもいないと、なんだかそのまま精神がおかしくなってしまいそうで怖かった。
「今週末、“君んち”に泊めて」
「……ふうん」
そこで何やら察したらしい啓作が、傘を肩に乗せてにやりと笑った。翔はその様子に気づき、いつもするように彼をふざけて睨む。
「構わないでしょ? 部屋数だけは不気味なくらいあるんだから」
しばらく間をおいた啓作が、意味深長な笑顔を浮かべながら一言。
「いい、けど」
「――――?」
思いもしなかった文末の逆説に、翔は無意識のうちに身構えていた。啓作は傘を上げて雨模様の空を大きく見上げながら、小さな声でこう言った。
「俺の予想が外れてなければ、朝から随分思いつめてるね?」
思わず啓作を振り返った翔。啓作は傘を肩の上に戻すと、驚いた顔をしている翔を横目で見やり、こう続ける。
「珍しいね、君が人に隠し事バラすなんて」
「……何、を」
翔に一言の文句さえ言わせず、にやにやと笑っている啓作。その何もかも見透かしているかのような目から目線を外して、翔は少し傘を下げた。
校門を入ってすぐのところに礼拝堂がある。それぞれの信仰している神へ礼拝をする習慣があるこの学校では、毎朝八時丁度になると、生徒たちが礼拝堂へ集まってくるのだ。
「おはようございます」
「あぁ、おはよう」
翔がわざわざ傘を上げて挨拶をしたのは、本校の校長。今年で創立十年を迎えるこの学校の、初代校長である。彼は啓作にも声をかけた。
「おはよう、啓作」
「おはよ、上条サン。天候崩れちゃったねぇ」
素行の良くない啓作がとやかく言われないのには、理由があった。彼はいわゆる天才、つまり“できるのにやらない”奴だからである。成績はその気になれば翔をも上回るほどなので、特待生として学校に通学しているのだ。つまり学校側も、特待生、しかも校長の甥にあたる生徒を退学になど、そう簡単にはできないのである。
よく見れば、全体の模範のような翔の制服姿と比べて、啓作はワイシャツの襟をだいぶ開けているし、ピアスもつけて、髪の毛も染めている。“職権乱用”ならぬ“特権乱用”、学校内での自分の位置を充分に理解した上で、いつにおいてもそれを有効活用している、頭の良い啓作がいた。
礼拝を終え、生徒達がそれぞれの教室に向かう。
「おい、聞けよ! 体育館が雨もりだから、器械体操中止だって!」
「っしゃ、ラッキー! 自習じゃん!」
「食堂行こうぜ!」
声を遠くに聞きながら、翔が礼拝堂の裏でぼんやりと雨を眺めていた。クラスがある校舎が左奥に見えて、その奥にいくつかの山々が連なり、地平線が鈍く光っている。ちょっといい景色だ。
その様子を、翔の見えない角度から眺めている啓作。礼拝の後に自販機で買った熱い缶コーヒーを開け、ふうっと白いため息をつく。今朝の翔の、啓作からしたら明らかに不自然な様子が気になっていたのだった。
「来る途中、エスカレーターでカップルがやたらくっついてると思ったら」
「チュー、してた?」
「そう! もう気持ち悪いのなんのって!」
「他人のイチャイチャなんざ、朝から見てらんないよなぁ」
他愛もない話をぼんやりと聞きながら、互いの存在には気づいていない。ふと耳を傾けると、また別の声が、遠くで必死に弁解していた。
「玄関まで覚えてたんだって! でもさ、玄関出たら忘れちゃって!」
その話を聞いていると、なにやら誰かに返すべきはずのものを家に忘れてきたらしい。
「そういうの記憶喪失って言うんだぜ」
「あー、それかも。うん、それだな」
「何お前、どっか打ったの?」
「家の犬のペロがこの前死んだから、そのショックがでかすぎたかな?」
「ショックで記憶が飛ぶかよ?」
けらけらと笑い出す彼会話の相手。青年はとりあえず苦笑交じりに謝って、
「でも、実際あるらしいぜ? 近所のばあさん、じいさんが死んだせいで記憶喪失になっちゃって、今じゃ病院で一言も話さなくなったんだって、母ちゃんが言ってたの聞いた」
「……何か朝から大変な話だな」
青年が呟いた。――そう。大変だったのだ、朝から。
翔は、そのときこそさっぱり聞き流した救急車のサイレンの音を思い出しながら、深くため息をついた。
――何があったっていうんだ……。
色々なことがおもちゃ箱をひっくり返したように混ざり合い、頭の中でもやもやとした塊になっていた。それを“どうして”という感情が雁字搦めに縛り付けていて、一向に解けない。
「ん?」
足元の小さな石を蹴ったその音で翔の存在に気づいた啓作が、おどけたように悲しみを交えた声で、とうとう呟いた。
「どした?」
思いもしなかった啓作の声に少し驚いたように、翔は頭を垂れて小さく笑う。そして、
「母さんが……死んじゃう、かも」
「え?」
啓作が、だらしなく壁に寄りかかっていた背中を浮かした。あまりに突然、しかも内容が内容だったので、最初は聞き間違いでもしたのかと思った。――死んじゃうかも?
「“かも”って、どーいうこと?」
「今朝、僕を送り出した後、母さんが倒れたらしくて、近所の人が救急車呼んでくれて……病院に、いるんだ」
重いであろう口を開く翔の横に歩み寄る。啓作はただ一心に驚いて、目を丸くして尋ねる。
「行かなくていいの、病院?」
「病院から連絡があるまで待てって、その近所の人が……もう、訳分かんない」
雨の向こうの地平線を眺めるのをやめて、翔は足元のタイルを軽く蹴り、
「学校が終わったら、連絡無くても行くつもり」
そう言って黙り込んだ。
啓作はいたたまれない気持ちになって、自分よりも少し背の低い翔の頭を、不器用に片手で包み込むように引き寄せた。
「疲れた……」
混乱しているのだろうか、翔は吐いて捨てるようにそう呟いたきり、動こうとしない。そんな彼に啓作は何も言えずに、言ったらいけないような気がしたせいもあって黙っていると、翔はそれをなんとなく察して、
「……うん」
小さく呟いた。安心したのか、していないのか、おそらくは双方の入り混じった気分で、薄く涙の浮かんだ目をゆっくりと閉じた。
今時珍しい本物の釣り鐘の音が、校舎の屋上から響いた。
「行こう、始業の鐘だ」
「受けられんの?」
受けるな、とは言えなかった。今の翔に、何かを強制させるようなことはタブーだと直感したからだ。翔は少し笑って、頷く。
「平気。先に行ってる」
雨のなるべく届かないところを縫うように走り、翔は教室へと続く廊下に消えていった。啓作もその後を追い、同時にポケットからたばこを一本取り出す。ライターを出して火をつけようとし、考え直してやめた。
「?」
目の端を一瞬だけ通り過ぎたものが気になって、啓作は少し廊下を戻った。見やった科学室の窓辺には、小さく上品な音を立てながらだんだんと水かさを増していく、いくつもの実験用ビーカーがあった。誰かが干したまま、片付け忘れたのだろう。
「……まったく」
火のついていない煙草を銜え、雨空を仰いだ頭の後ろで、啓作はそっと腕を組んだ。
雨で締め切られた窓が、外と教室内との温度差で白くくもっている。近くの煙突も、遠くの景色も、全てがにじみ、混ざり合った世界。
「はい、それじゃ、始めましょうか」
会議が長引き、五分ほど遅刻してきた教師の気の抜けるような声で、今日の最初の授業が始まった。教科書も開かず、啓作は猫背気味に頬杖をついて、なんだかつまらなそうである。
「えーと、教科書百十三ページ。昨日の続きねー」
入学当初は分厚く感じた一年分の教科書も、もうほとんどに細かいメモや書き込みがされ、だいぶ年季が入ってきた。五、六ページ目でやった基礎が懐かしく思える。
「“The woman who cooks in a kitchen while listening to a radio is his mother.”……それじゃ、矢羽、訳して」
隣に座っている生徒の教科書をなんとなしに見ていた啓作は、教師が教科書の文法例文をそのまま読んでいるだけだということに気づいた。おかげで考える手間が省ける。ますますつまらない。
「ラジオ聞きながらキッチンで料理をしているその女性は、彼のママです」
「うん、まあ、いいでしょう。次、じゃ、関係代名詞の文法を前へ出て説明して。えーと、黒崎」
「はい」
ノートを持って立ち上がると、翔は黒板の前へ歩いた。同時に、生徒たちがせかせかとペンを持ち始める。彼が前に立つときだけ、今こそ理解のチャンスだと、皆の勉強に対する思いが一変するのだ。
「この文の場合、“the woman”に“cooks”以降の文章が後置修飾されているので――」
――よくもつな……。
暇つぶしにシャーペンを指で回しながら、啓作は感心した。説明を終えた翔が当然のように合格をもらって席に戻り、座り終える、その一部始終を細々とチェックを入れながら見ていたが、少しの違和感もない。
「……ふぅ」
啓作には、翔の精神の強さにほとほと感服する他なかった。
結局、午前授業を終えて先生が教室を出て行くまで、彼は全くの“普通”を決め込んでいた。それでもやはり気が抜けたのだろう、休み時間に入ると、椅子に座ってぼんやりと窓の外を眺めている。おそらくは全くの無心だ。そんな翔に、啓作が後ろから声をかける。
「食堂行こーよ」
「え――あぁ、うん」
翔が啓作のもとへ歩み寄ると、啓作は彼を一歩通り過ぎて少しかがんだ。耳元に口を近づけ、誰にも聞こえないように小さな声で囁く。
「朝は悪かったよ、知らなかったんだ……。病院で一通り済んだら、“俺んち”そのまま来いよ」
彼が過去に対して謝るということが意外で、少し驚いた翔は目を伏して、彼と同じだけ笑った。
「その代わり、夜は俺の部屋から出るなよ。見つかったら大事だから」
わざわざ出向いて誰が見つけに来るんだよ、と笑いかけて、せっかくのチャンスを無駄にしては大変だと思い直し、翔は軽く頷いた。
「It’s secret for everyone(秘密だよ)」
「あぁ……sure(もちろん)」
内緒話には決まって耳をそばだてる池に気づかれないように、英語で会話を交わす。啓作が突然英語を使い出したので、翔もすぐに気づき、早速英語を使う。池は英語が大の苦手なのだ。
「Can you return to here by the end of today(今日中には帰れそう)?」
「Though I do not yet understand it, sleep earlier if my return becomes late(まだ分かんないけど、遅くなったら先に寝てて). If you keep on having opened a key of here, I enter the room without permission(鍵だけ開けておいてくれたら、勝手に入るから)」
啓作が頷いた。それを見て、翔はこう続ける。
「Because it is 8:00 that I go to the hospital, I am in the health room till then(病院へ行くのがきっと五時頃だから、それまで保健室にいるよ). If I am found by somebody, you are troubled(“見つかったら大事”でしょ)」
「If you do so it, I am good(そうしてくれると助かるよ). よろしく」
「うん」
二人は言葉を日本語に戻して、同時に軽く伸びをする。英語に払われたというか、盗聴を諦めたらしい池の姿はもう、教室には無かった。
「今日は久しぶりにチャーハンでも食べようかなー」
「俺、めんどくさいから普通にカレーでいいや」
廊下に出て、昼休みのゆるりとした時間だけはせめて気楽に過ごそうと、翔は無理にでもといった具合に笑い、啓作もまた、それを酌み取って笑った。
週末の病院はとても混んでいた。受付で名前と要件を言い、担当医を呼ぶから待てと言われてからもう五分が経つ。
落ち着かずに立っていた翔だが、ついに待合室の椅子へ座り込んだ。組んだ手に額を押し付けるように床を睨み、
「誰が仕組んだんだ、こんなこと……」
そう呟いて強く唇を噛むと、じわりと血が滲んだ。常に真面目な顔をしてクラス委員を務める普段の彼とは思えない、酷い荒れようだった。
「黒崎さん」
やっと呼ばれた。待ちかねて顔を上げると、何枚もの書類が挟まったカルテを持った看護婦が一人、気の毒そうな“医師の顔”をして立っていた。
「ご家族の方は、他にいらっしゃいますか?」
「いえ、僕だけです。父がいますが、だいぶ前に離婚して」
そうですか、と看護婦はカルテにその旨を書き加えた。翔にはそれが、この先の自分の行く宛てを聞かれたような気がしてならなかった。ボールペンをしまって、看護婦が顔を上げる。
「一つ、お部屋を用意しました。お母様もそちらにいらっしゃいます。そちらでお話をしてもよろしいですか?」
看護婦の自分を見る寂しい目。変な言い回し。わざわざ設けられた個室。
「……はい」
もう無事ではないのだろう、と翔はなんとなく確信した。
「よーっし、終わり」
最後に一階の音楽室を施錠して、これで啓作は全ての教室の扉にマスターキーで鍵をかけた。学校で暮らしている同然の啓作には、全ての部屋を好きなときに開け閉めすることができるのだ。
「疲れたー」
廊下を歩き、階段を下りて、保健室へと続く廊下へ足を踏み入れる。
窓から見える保健室内の時計をちらりと見て、もうすでに六時を回っていたことに気づいた。靴の裏でわざと大きな音を立てながら歩き、乱暴にドアを開ける。
「いつまで喋ってんだ! 席つけ、席!」
言ってみたかった、らしい。完璧な独り言体質である。
本来なら保健関係の書類が積まれている机の上に、参考書や要点を書きとめてあるノート、教科書などの山が出来ていた。
「こんな日まで勉強、ってか」
開かれたままの数学のノートにふと目をやって、
「あれ……うわ、珍しい」
彼の計算ミスに気がついた。よく見ると、その一つ前の問題にもミスがある。間違いがあるのは全て今日の日付のノート。きっと啓作がここに来るまで勉強していたときに間違えたのだろう。どれもこれも、彼らしくない初歩的なミスばかりだ。
――まったく。
啓作は何秒もかからない間に間違いを全て正すと、ノートを閉じて元の位置に置いた。腰から落ちるように椅子に座り、本日何度目かのため息をつく。
静かな室内、聞こえるのは暖房の風音だけ。
「どうぞ」
看護婦に連れられて、翔は部屋へ入った。いくつもの機械に囲まれたベッドの上には、今朝がた明るく見送ってくれた母が、呼吸器に口を覆われ、鼻に細いチューブを取り付けられた姿で目を閉じていた。
「母さん……」
看護婦が扉を閉めて、カルテを見ながら言った。
「黒崎さんは現場に居合わせていなくて、連絡は救急車を呼んだご近所の方からお電話で、ということですね」
「あの、母はどうしたんですか?」
居ても立ってもいられないと言った様子で、翔は看護師に尋ねた。
「……おかけ下さい」
とりあえず、と看護婦は翔に椅子を勧める。翔がそこへ座ると、彼女は言った。
「お母様は持病に肺炎をお持ちで、その発作が今回、とても悪い形で起きてしまったんです」
「持病?」
まず、翔はその言葉に酷い抵抗を覚えた。そんな話、聞いたこともない。看護婦はそんな翔に、言い辛そうに話す。
「前回、一年と少し前に入院なさった時も、実はその発作が原因なんです。でもお母様本人が、持病だということは息子には話さないで欲しい、と強くおっしゃっていまして……」
翔はぐっと唇を噛んだ。母のことだ、自分のことで気を遣わせまいとしたのだろう。
「前回は発作のみだったので、お薬と点滴を繰り返して回復なさったんですが……今回は、体の中にあったウイルスが肺に入ってしまっている中、発作がで起きてしまったんです。ですから先程、緊急手術で出来る限りのことはしたんですが……それ以上手術を続けるとお体が持たないと、執刀医が判断致しました」
――何だよ、それ。
翔は、目の前の看護婦に殴りかかってやろうかと思った。執刀医って誰だ。どういう人間なんだ。一体どういう根拠があって、体が持たないなんて判断したんだよ――。
拳を握って、怒鳴りたい気持ちを必死に堪える。翔は震える唇をそっと開いて、
「じゃあ、母はどうなるんですか」
怒ったような声で、そう尋ねた。看護婦は気の毒そうな顔をして、
「現在は、心肺機能を助ける“延命処置”を施してありますので持ちこたえていらっしゃいます。ですが、処置を止めたら、もう自力で命をつなぐことはできないと思います」
それを聞いて、翔はまさかと思った。そしてその“まさか”を、看護師は無情にも言う。
「このまま延命を続けるか、あるいは……延命を止めるか、どちらかを、黒崎さんに決めていただきたいんです」
「…………」
翔は咄嗟に何か言おうとして、結局何も言えなかった。
“延命を続ける”と、その瞬間の彼は言おうとしていた。しかし、それで母は幸せだろうか。動けず、意志の疎通も出来ずに、ただ生きている。それでいつか生き返るのならそれに越したことはないが、そうならなかったら、母はただ辛いだけではないか。
――でも。
翔は、膝の上で強く組んでいた手で両目を覆うように俯いた。
“延命を止める”、それはつまり、母をそのまま殺すということだ。母の命を、どうして息子の自分が左右できる――?
「……母さん」
――母さん、どうしたい?
そう聞いたら、母は何と答えるだろう。私は生きたい、と言うだろうか。それとも、翔に迷惑がかからないように殺して、と言うのだろうか。いや、どちらも聞きたくないと、翔は結局頭を振って、話を振り出しに戻す。
「母さん……」
「今すぐ、決断なさらなくても大丈夫ですよ。少しお時間がいるようでしたら、私は外におりますので」
看護婦はドア口でそう言って、翔が何も言わないのを見て取って、静かに外へと出て行った。
翔は、もう一度母の顔を見た。その表情に苦しみは無く、眠っているような安らかな顔だった。
――生きる、っていうのはさ。
翔は心の中で、母に話しかけるように呟く。
――生かされる、とは違うよね。
震える指先で、そっと母の腕に触れる。暖かい。翔はその瞬間、ぼろりと頬を涙が滑っていったのを感じた。
「母さんは、“生き”たい……?」
ほんの少し、母の唇が動いたような気がして、翔は少し笑った。
濡れた頬を手の甲で拭って立ち上がり、部屋のドアを開ける。先刻の看護婦の他に、そこには二人の医師がいた。執刀医なのか、そうでないのかは分からない。
すう、と息を吸って、
「母を……楽にしてあげて下さい」
翔はこくりと頷いて、確認するように翔の目を見た男の医師に、迷うことなく頷いた。
「お願いします」
――さよなら、母さん。ありがとう。
様々な延命器具を取り除かれた母は、安らかな顔をしていた。
どこをどう帰ってきたのか覚えていないが、時刻は十一時を回っていた。
何やら書類のようなものを書かされ、遺体の火葬など、これからしなければならないことの説明をするから後日また病院へ来るように言われ、それで今日は帰ってきたのだ。
学校に着く寸前の道で、赤信号に気がつかずに横断歩道を渡ろうとした翔にトラックが急ブレーキをかけ、
「赤だろ! 気をつけろ!」
運転手に怒鳴られて、翔はその先の道を走って帰った。
「はぁ……はぁ……」
ふらふらとおぼつかない足取りで寮へ入り、啓作の部屋へと歩くその途中、自分の下の方が嫌に明るい気がして目をやると、ズボンのポケットの中に携帯が光っていた。昼間は携帯を意識している余裕なんてなかったからな、と翔はぼんやりと思う。
おもむろに取り出して履歴を見て、思わず立ち止まった。
――“8:02 不在着信1件 黒崎千草”
八時二分。母が病院に運ばれたらしい時刻も、確かその辺りだ。発作が起きる直前だろうか。あるいは苦しみながら。それとも――。
履歴をよく見ると、短い伝言が残されていた。翔は震える指で再生ボタンを押し、マイクを恐る恐る耳に当てる。無意識のうちに、彼は息まで殺していた。
「…………」
ざーっ、というノイズの奥で、がやがやと大勢の人の声が聞こえる。
――「あ、もしもし、翔?」
母の声だ。翔は思わず目を見開いた。母の携帯からの伝言メッセージを再生したら母の声がした、そんな当たり前のことのはずなのに、今の彼にはそれだけで、喉の奥がぎゅっと詰まったような感じがする。
――「今日、ちょっと遅くなるかも。夜は何か取るから、何がいいかメールしといてね。なるべく早く帰るから。じゃ」
メッセージは以上です、と電子アナウンスが告げ、再生が終わった。発作を起こす前のようだった。
今日は金曜日、一度自宅へ帰る日だ。残業が入って遅くなることが多い千草は、金曜日によくこうして伝言を残す。
翔はもう一度再生ボタンを押した。マイクを強く耳に押し当て、なぞるように声を聞く。メッセージが終わると、また再生する。何度も、何度も。
「……翔?」
軽いドアノブが回って、奥でドアが開いた。ふわりとラベンダーのアロマのいい匂いがして、それまで無に凍りついていた心が溶かされるような感覚を覚える。中から出てきた人影に、翔はぼんやりと目をやった。
「……だいじょぶ?」
啓作の手が左の頬に触れたのではっとした翔は、びくり、と肩を上げた。気づけば、彼はすぐ目の前に立っていた。心配そうな顔をしている彼を、見開かれた目でじっと見つめる。そして、かすかに口が動いた。
「帰る、から、って……」
「え?」
心の中で張りつめていたものが緩んで、
「翔!」
声を上げた啓作の腕の中に、翔は気を失って倒れた。
どのくらいたっただろう。気がついたら、ベッドに眠っていた。
「う……」
何もかもが滲んだ世界の真ん中に、顔が見える。啓作だ。瞬きをすると、冷たい涙が一筋こぼれ落ちて頬を伝った。
「目、覚めた? 今ね、三時半。随分酷くうなされてたけど、大丈夫かい?」
ベッドに腰かけた啓作の目を捉えて安堵したのか、大きなため息をつく。目の上に腕を乗せて、浮かぶ涙を拭った。なんだか酷く疲れたような気がする。
「起こして悪かった」
「いーや」
気を回したのか、啓作は頭の後ろで腕を組むと、立ち上がってソファーへと戻った。その狭間、翔は言う。
「母さん、死んじゃった」
「…………」
咄嗟に言葉が出ず、戸惑いを隠せない啓作に、疲れた顔でほんの少しの笑みを浮かべた翔は、目を閉じた。
「…………」
すると、黙ったままの啓作が、どこからか小瓶を取り出してきた。中には何か透明な液体が入っている。ふたを取ると、酒の匂いがした。翔は本能的に自分の口に手の甲を当てたが、啓作はあっさりとその手をどけた。
――あぁ、飲まされる。
「寝な、ゆっくり」
「…………」
言われるままにぼんやりと力を抜いた翔の肩を抱き起こし、彼の口元で小瓶を傾けた。口の中に入ってきたそれは、必然的に喉の奥へ流れ込んでいく。嫌に懐かしい焼酎の水割りの味に、翔はなぜか抵抗を覚えなかった。
瓶の中身が一気に半分ほどにまで減ると、さすがに啓作は傾けた瓶を戻した。ふたをしながら、楽しそうに笑う。
「案外強いんだ? “焼酎”だからすぐ吐き出すかと思って心配したけど」
「吐き出そうかとも思ったよ」
少し微笑んで、翔は枕に頭を沈めた。シーツがひやりとする。皮肉っぽい言葉にけらけらと笑い声を上げた啓作は、予想よりも思考回路のはっきりしている翔にいくらか安堵した。
「したたかな悪だな、委員長」
「ふふ、一気に飲んだからもう気分が悪いけど……」
翔が小さく笑う様子を見て、彼が気を使っているのが手に取るように分かり、寝かせてやろうと彼は思った。
「……ふうん」
ベッドのふちに座って、無意識にそう呟いていた。彼が考え事をしているときには、必ずに等しくその相槌を打ってしまう。彼の癖だ。
「そのふうん、ての……あんまり好きじゃ、ない……」
「……じゃ、言わせるな」
ふざけて拗ねたような啓作に、だいぶ目がうつろになってきた翔は、大人しく掛け布団に顔をうずめた。
――ベッド、取っちゃったな。
こんなにも自分を思っている、迷惑で、面倒で、しつこい他人。だから他人には本気で笑わないし、本気で泣かないし、本気で怒らない。――が、そんな“他人”に、このとき翔は間違いなく感謝していた。
「おやすみ」
ソファーに寝転んだ啓作が囁いた。
暖房のせいで乾燥した空気は、程よくぬるい。
うっすらと開いた翔の目に、まず始めに移ったのは、つきっぱなしの蛍光灯の光だった。まぶしさに目を細め、手をかざす。
「啓作?」
何か声が聞こえたような気がして、小さな声で呼んでみるが、ソファーの上に彼の姿は無く、そして当たり前のように返事は返ってこなかった。
仕方なく明かりを消そうとしてゆっくり起き上がると、どうにも頭が痛む。翔はゆっくりと毛布をはいで、そして空気がとても冷たいことに気づいた。思わず身震いをして辺りを見回すと、啓作が“裏口”と呼ぶ、校庭に続く非常用のドアが開いていた。彼が開けたのだろうか。
――寒い。
カーディガンを肩にかけて、ドアを閉めようとドアノブを引き寄せ、
「…………?」
夜中の校庭の隅に、薄ら明るい光を見た。目を細め、光の中心を見て、翔は目を見開く。
「母さん……!?」
翔は再びドアを開けると、ふらついた足で革靴を引っ掛け、光のもとへ走った。そこにあったのは、先日延命を止めて死んだはずの、しかし紛れもなく、母、黒崎千草の姿であった。
目の前にやってきた翔に、彼女は微笑みかける。
「翔」
少し響くような彼女の声に、翔は再び喉が詰まるような気がした。混乱した状況にようやく助けが来たような喜びと、今度はもう二度とそれを失いたくないという強い願いが、彼の心に湧き起こる。
目に涙を浮かべながら、翔は彼女に手を伸ばした。しかし触れようとした千草の腕を、手は無常にも通り抜ける。翔はそれを見て表情を強張らせた。
「ごめんね、翔。忙しいのに心配かけて、お母さん最低だね」
「……ッ……!」
出来ないと分かっていながら、それでもがむしゃらに手を伸ばす。手は当たり前のように千草の体をすり抜け、空を掴んだ。胸が潰れるような思いがする。
「翔に、母親らしいこと何もしてあげられなかったね。ごめんね」
千草はそう言って、寂しそうに笑った。何も出来ない自分の無力さに、翔はぎゅっと歯を食いしばった。
――あなたが母親でなければ、いったい誰が母親なんだ。
翔はきつく目を瞑り、歯を食いしばって何度も首を振った。まぶたに熱いものが込み上げて来て、千草の姿がはっきり見えない。――見たいのに。
「翔、母さんの息子で幸せだった?」
「え……?」
見上げた母親は、複雑な顔で微笑んでいた。
「母さんね、今すごくそれが心配なの。幸せだったら、母さん、もっと頑張りたいし、もし幸せじゃなかったら、もっともっと、頑張りたいから――」
翔は唇を震わせながら、溢れて止まない涙を必死に堪えた。
――僕が幸せでなければ、いったい誰が幸せなんだ……!
「幸せだった?」
再びそう言った声に、ノイズのようなものが混ざったように聞こえた。気づけば、千草を模っていた白い光が所々消えてなくなっていた。
「待っ……母さん!」
いつからかぼんやりと消え始めていた千草に、翔は必死で叫ぶ。母である彼女でさえ初めて見る、息子の混乱状態だった。そこまで追い詰めてしまった辛さが、もうほぼ消えてしまった彼女の胸を、最後に締め付けた。
「ごめ、ね……しょ……」
途切れ途切れになっていく千草の声。彼女の目から、光の粒のように綺麗な涙が零れた。永遠の別れの象徴のようで、翔はありったけの声で否定する。
「嫌だよ!! 何で、嫌だよっ!!」
もう彼女の声はほとんど聞き取れない。しかし千草の口は、ありがとう、と確かに動いていた。そのとき翔ははっとして、伝えなければ、と思った。千草が、母が最後に確かめたかったことを、しっかりとこの口で伝えなければ。
「――幸せだった!」
声は聞こえているのだろうか。思いは届いているのだろうか。千草はただただ頷いて、泣きながら笑っている。
「幸せだったよ! 母さんがいて! 幸せだった!」
こんなものではない。伝えたい思いはまだまだ沢山あるのに、どう表現していいのか分からない。だから、とにかく翔は叫んでいた。
「ありがとう!!」
こんな大声は自分だってほとんど聞いたことがなかったが、抵抗は無かった。
「生んでくれてありがとう!!」
言った、瞬間。
ふっと光が消えて、そこにあった暖かさが一気に冬の冷たさへと変わった。大事なものが滑り落ちていくことが、最後の瞬間がやって来ることが、はっきりと分かる。他人が一人いなくなることが、このときばかりはやけに悲しく、怖かった。
「あ……ぁ……!!」
すっかり暗くなった校庭。暖かい光が確かにあったその場所を、翔は抱きしめた。空を切った腕が自分の胸に当たっても、強く、強く、抱きしめた。
「ふぇ?」
土曜日の夜明け、寒さにすっきりと目を覚ました啓作は、嫌に背の高くなった家具たちを見て、しつこく瞬きをした。寝ている間にソファーから落ちたらしい。
「俺……なァんでまたこんな所で寝てるわけ?」
自分に少し呆れる半面、いつもここで大人しく寝ている翔に尊敬を覚えながら、少し冷えた体を暖めようと、擦る。立ち上がって、まだ翔は寝ているだろうベッドに目をやった。
「……はれ?」
乱れたシーツと掛け布団が乗ったベッドに、彼はいなかった。勉強に使う机にもいない。
――寝てろって言ったのに、どこ行ったんだ? トイレかな。
電気ストーブの消えた寒々しい室内には、そう言えば風があった。嫌な予感がして、ぱっと“裏口”を見る。予想通り、ドアが開きっ放しになっていた。そしてドアの向こうの校庭の真ん中で、うつ伏せに倒れている翔を見つけた。
「翔!」
啓作は思わず大声を出して、彼を見下ろしている遊佐の姿を見つけて更にぎょっとした。その上、彼は金属らしい黒いバットまで持っている。
「うっぜぇな、くそ!」
スニーカーを引っ掛けて、啓作は“裏口”を飛び出した。
「げほ、ごほっ!!」
込み上げてくる吐き気と痛みで、翔は目を覚ました。ぼんやりと滲んだ視界に映るのは、晴れた空の手前に立っている青年の姿。――遊佐、だ。
この吐き気と痛みが彼に腹を蹴られたためのものであることに気づくのに、何秒もかからなかった。
「お目覚めか、委員長さんよぉ?」
履いている靴のつま先で翔の顎先を持ち上げ、遊佐が嘲笑を交えた声で尋ねる。
「朝っぱらから校庭のど真ん中で居眠りなんて、呑気なもんだな、ぁあ?」
「……あ……」
息を荒げ、酷く怯えたような顔をして身動き一つ出来ない翔。
「……母さん、は?」
「はあ?」
――母さんが。
先刻まで見ていた母の姿。悲しみの中、消えていった姿。あれは何だったのだろう、ただの夢だろうか。
現状よりもそっちの方が気になって、翔はとにかく焦っていた。もしかしたら母は生きているのではないかと、またひょっこり目の前に顔を出すのではないかと、家に帰ったら玄関を開けて出てくるのではないかと、そう思った。
「寝ぼけてんのか?」
いつもと明らかに違う彼の様子に怪訝な顔をした遊佐だが、彼にしてみれば翔を“潰す”絶好の機会だ。
先刻、校庭の隅に落ちていたのを拾ってきた野球部の金属バットを片手に、ほくそ笑む。
「これな、金属バット、ってんだよ。これでてめぇの頭ぶっ叩いて、今度こそ潰してや――」
「遊佐ぁ!!」
怒りに満ちた大声が、朝の校庭に響き渡った。血相を変えた啓作が、こめかみに青筋を立てて遊佐に殴りかかろうとしていたのだ。走ってくる啓作の姿に呆れたような顔をして、金属バットを握る遊佐は言う。
「こいつのピンチってぇと、絶対出て来るな……夫婦かよ、てめぇらは?」
「黙れ!」
ぎゅっと拳を握り締めた啓作が、振り下ろされた金属バットを肩で受け止め、反対の手でこめかみを殴った。
「ぎゃあっ!?」
信じられない、とでも言いたげな顔をしながら、あっけなく遊佐は倒れた。それもそのはず、確かに彼には手ごたえがあったのだ。がきっ、と骨が砕けるような音も聞こえたのだ。それなのに、何故彼は殴ってくる――?
――ぶっ殺してやる。
啓作の脳内では、とんでもない怒りの塊が渦を巻いていた。どんどん大きくなっていくそれに脳内が占領されて、もはや肩を走る痛みなどどうでも良くなっていたのだ。
「ちょ……啓作……!?」
恐ろしくなって、翔が呼びかける。しかしそんなものなどまるで無視して、倒れた遊佐の胸倉を掴んで無理矢理引き起こすと、今度は頬を殴りつけた。ぱっ、と飛び散った血が、啓作の頬にもかかったが、彼の手は止まらない。
――ぶっ殺して、やる。
「うぎっ……ぎゃあ!!」
瞳孔を半開きにしてひたすら遊佐を殴り続ける啓作の腕を、必死に立ち上がった翔が掴んだ。その拍子に翔自身の目尻を啓作の爪が引っ掻いて、ぴ、と短い切り傷が出来る。
「あ!」
翔に怪我をさせたことに思わず声を上げて振り返ると、悲痛に満ちて表情を歪めた彼の目に、涙が少し浮かんでいた。驚いて目を見開く啓作。
「……しょ」
「駄目、殺しちゃ……!」
翔の言葉に、啓作は我に帰った。気がつけば、殴ったせいで熱を持った手が、翔の手に掴まれて血に染まっている。気絶したらしく、最後に肩を突き飛ばされてから起き上がってこない遊佐の頬は真っ赤に腫れ、唇や鼻からは血が流れていた。
「はぁ……はあっ……」
いつの間にか上がっていた呼吸に喘息の予兆を感じて、啓作はワイシャツの襟元を掴んで肩を上下させた。
「けほっ」
殴られた肩を反対の手で抱えるようにしながら俯いた啓作。痛みを思い出したのか、翔が恐る恐る見上げると、啓作の頬を伝った冷や汗が、ぱたりと地面に落ちた。
「啓作……?」
「あぁ、だいじょ――げほっ!」
まだ少しおびえたような顔をする翔に向かって、咳き込みながらも啓作は手を広げてみせた。翔の表情は変わらない。どうしたらいいものかと焦り、珍しく翔の判断が鈍っている。とにかく病院、と震える手で携帯電話を握る。ボタンを押そうとした次の瞬間、
「もう呼んだぜ、救急車」
翔の背後で声がした。振り向くと、そこには以前、遊佐とカーチェイスをやったときに彼と一緒にいた青年が立っていた。
「あ!」
どん、と突き飛ばして転ばせた翔の首をわしづかみにし、地面に押しつけるように締め上げる。精神的な部分もあって、彼はすぐに過呼吸に陥った。
「はっ……ぁ、はっ……」
「安心しろ、黙って見てりゃ、殺さねぇよ。お前は遊佐さんが直々に――殺すから」
にやり、と気味悪く笑った青年は、首から手を離して立ち上がった。
そんな声などほとんど耳に入らない翔は、胸元を掴んでうずくまったまま時々震えるように痙攣し、苦しそうな嗚咽を漏らしている。
その横で、必死にそれを止めようとしていた啓作が、がくりと膝をついた。
「ごほ、げほっ!」
「風邪か? だっせぇの」
青年はそう啓作を嘲笑して、遊佐が落とした金属バットを片手で拾い上げると、その先端を啓作の頭に向けた。バットを捉えた啓作の目が、苦しさの中に緊張を持つ。
「てめぇはここで死ね」
「――っ!」
バットが振り上げられて視界から消えた瞬間、ごっ、と頭に鈍い音が響いた。何もかもが真っ黒に染まった。
「黒崎!」
名前を呼ぶ声で、翔はようやく“意識”を取り戻した。気絶などはなからしていないのだが、今までは、はっきりと物事が考えられる状態ではなかったのだ。
名前を呼んだ誰かに支えられて、椅子に座る。どうやってここまで来たのか、翔自身もよく覚えていない。
「大丈夫か!?」
そう言って翔の顔を覗き込んだのは、校長の上条だった。翔は彼の目を見て何度か瞬きをし、目線をゆっくりと上げた。
目の前には“緊急治療室”との札がかかった扉と、往来を繰り返す白衣の人間たちの姿。――ここは病院らしい。
「啓……?」
苦しい息の下で最後に見たのは、こめかみから大量の血を流して倒れた彼の姿だった。金属バットであの青年に殴られたのだ、彼は。
「……はぁっ……」
がくがくと震えてきた手をなんとか組み、額に押しつけるようにして震えを止める。
そんな彼の背をさすって、
「君は無事でよかった」
そう言って彼の隣に腰を下ろした校長は、彼と同じような格好で目を瞑った。
「…………」
少し経つと、日頃冷静なせいか、翔はだいぶ落ち着いた。
自分が首を絞められて過呼吸を起こし、今は首に包帯を巻かれて生きていること。また、意識の片隅で頭を殴られていた啓作が現在、目の前の扉の向こうで生死の境目にいることも、追って理解した。
校長が呟く。
「きっと助かる。君も助かったんだから」
「……ええ……」
適当な言葉で答えたが、内心は不安でいっぱいだった。目の端の傷に触れた小さな痛みで、啓作のあの恐ろしい形相を思い出す。
――怖い。
とにかく、もうこれ以上何も消えないでくれと、翔はがむしゃらにそれだけを繰り返した。
「…………」
もう何度目になるか、校長が足を組み直したとき、集中治療室のドアが大きく開いた。びくん、と体を震わせた翔が、恐る恐るドア口を見る。真っ白な白衣を着た女性医師が一人、立っていた。啓作の搬送時にはおらず、初めて目にした校長にまずは声をかける。
「ご家族の方ですか?」
立ち上がった校長が、医師に挨拶をした。翔の手前、この子たちの通う高校の校長だ、とだけ。軽く頭を下げた医師は翔にも目を向けて、
「どうぞ」
それだけ言った。
「…………」
妙に静まり返り、深く溜まったような空気の中に、翔は色々な物を見た。
丸いガラスがいくつもついた、虫の目のような蛍光灯。一定の波形を示しながら規則的に音を出す、箱形の機械。細い銀色のスタンドにつるされた、何やら透明な液体の入ったビニールパック。そのパックから伸びる細い管と、その先端についた針と、その針を固定するテープ。テープの貼ってある腕をたどると、
「啓作……」
頭に包帯が巻かれ、呼吸器で口を覆われた彼が、目を閉じて横になっていた。
立ち尽くす二人に、女性医師は告げる。
「運ばれて来たときには危機的な状況でしたが、一生懸命、持ちこたえてくれました。現在は、心肺機能、脳波ともに正常です。頭を打ったせいで軽い脳震盪を起こしていたようですが、頭蓋骨に損傷は見られませんでした。肩の脱臼も、その場で治せたのでひとまずは心配いりません」
校長がほっと胸をなでおろしたのもつかの間、
「ですが、」
と医師が言葉を続けた。
「打ち所が良くなかったようで……覚えていないようなんです、何も」
「え?」
絶句する校長の横で思わず聞き返して、聞き返すんじゃなかった、と翔は一瞬のうちに後悔した。しっかり聞くのが、恐ろしく怖い。
そんな彼の葛藤などには構う余地もなく、医師は無情にも告げる。
「記憶喪失の可能性が非常に高いです」
――記憶喪失。
翔は頭の芯がぐらりと揺れたのが分かった。ベッドに手をついて、倒れようとする体を必死に支える。
「大丈夫ですか!」
医師が二人ほど駆け寄ってきて、ゆっくりと彼を立たせた。翔は彼らに小さく礼を言って、自分の後ろに丸椅子が用意されたのには気づく余地もないまま、
「……何で」
ただそれだけをこぼした。
その横で、校長は何も言わない。息をする音さえ聞こえてこないほどに、押し黙っている。翔はゆっくりと彼を見上げ、力無く戻した。――記憶、喪失。
「啓作くん」
医師が名を呼んだ。
「うん……?」
呼吸器越しのくぐもった声とともにゆっくりと目を開けた彼は、丁度自分の頭の横に立っている校長を見上げた。表情に大きな変化はない。
「啓、作……?」
恐る恐る呼びかけた校長――このとき啓作を名前で呼んだことにも、翔は全く気づけなかった――。
――“や、上条サン!”
そうやって笑いながら自分を呼ぶ、無邪気な彼の姿が欲しかった。しかし。
「誰?」
困ったような啓作の声。校長には、時が全て止まったように思えた。絶望に目を見開く力さえ、ない。啓作は申し訳なさそうに小さく笑いながら、校長の手をそっと握った。
「俺を知ってる? だとしたらごめんね。俺、今何も分かってないらしいんだ」
「……そんな」
「あ!」
がたん、と椅子を倒しながら、小さく呟いた校長は倒れた。慌てて医師が駆け寄って、また別の医師が簡易ベッドを出しに走っていく。ショックで気を失ったらしい。
「大丈夫かなぁ……」
目の前の啓作は悲しげな表情で、ベッドの上に寝かされて運ばれていく校長を見ている。声をかけるのも怖くなって、翔はただそこに突っ立っていた。
「それじゃ、啓作くん。この人が誰だか覚えてる? 友達じゃない?」
「!」
翔は固まった。
――そんなこと聞かないで。彼の答えが聞きたくない……。
医師に優しく尋ねられた啓作はしばらくうなって、翔に尋ねた。
「友達……名前は?」
啓作の手がゆっくりと持ち上がった。あらぬ場所を見つめていた翔の柔らかい髪を、くしゃりと撫ぜる。翔の体が、びくっ、と跳ねるように震えた。
「……翔」
「ショウ、ごめん」
彼の声に、翔は目を見開いた。
「そんな寂しい顔しないで」
「…………!」
啓作が辛そうに言う。信じられない。
握り締めた両手に、ぐっと力を入れた。そして同時に、唇が薄く開いた。声がこぼれる。
「君、と」
「?」
震える声を必死に絞り出して、伝える。伝えられなくなる前に。
「君といて、幸せだった……」
言いながら、涙が出そうになった。啓作をこれ以上悲しませてはいけないと、それをぐっと堪えて笑みで埋める。作り笑いとしては最高の、本音の気分としては最低の顔だった。
「幸せ?」
驚いたように目を丸くした啓作は、自分の手で呼吸器を顎まで下ろした。医師は何か言いかけたが、結局彼をとめることはしなかった。
啓作は、改めて目の前の青年を見上げた。おそらくは世界中の誰よりも信頼していただろう、この青年を。
「じゃあ俺ね……今、幸せ」
両手を伸ばして翔に触れ、確かにそう言った。翔の肩が少し震える。
「ショウがそう言ってくれて、幸せ」
どこにも影のない笑顔だった。
彼の記憶がそこへ戻ってくることは、二度となかった。
夜。何も知らない啓作は、静かにベッドの上に眠っていた。
「…………」
先刻目を覚ました校長は、彼に別れを告げると、医師に説得されて自宅へ帰って行った。これ以上自らの寿命を縮めてしまっては大変だからだ。
翔だけが一人、椅子に座って啓作を見つめている。
――「君といて、幸せだった……」
今までそんな言葉は、翔とはほぼ無縁であった。他人を他人としか見ない彼は、いちいちその場限りの愛情を育むことなどしなかったのだから。しかし彼は今、その言葉の本当の意味が分かる。だから、悲しい。
「君が生きててくれてよかった。でも、さぁ……」
小さく言いかけて、堪え切れずに啓作の胸に顔をうずめる。膝から床に座り込んだ拍子に、それまで座っていた椅子を倒したが、そんなものどうでもよかった。
「…………」
薄れてきた意識が、今となってはどうにもならないせつない記憶とともに、静かに遠のいていく。何かがどこかへ抜け落ちていく感覚に、翔はゆっくりと、確かめるように呼吸をした。
――これが、記憶喪失っていうのかなぁ……。
そんな想像など、どうせちっとも理屈に合っていないのだろうということは重々分かっている。けれど翔は、根拠もなしに、どことなく確信に近いものを覚えていた。きっと、このまま全て忘れてしまえる、と――。
酷く朦朧としてきた意識の下で、翔は最後に付け足した。今の啓作には届かないように今度は、英語で。
「I wanted “you” to……live……(“君”にも生きてて欲しかったんだよ)」
春一番の強い風の中、スーツ姿の見慣れない男性が、ばたばたと暴れるネクタイを押さえながら、学校の正面玄関の前で立ち往生していた。
「えーっと……」
いくつもの棟が立ち並ぶこの学校の校内案内図とにらめっこをすること数分、
「あった」
ようやく彼が見つけたのは校長室だった。
「失礼します」
約束が入っているためにしっかりと起きていた校長は、入ってきた男性に目をやって、
「お待ちしてましたよ、黒崎さん」
柔らかく会釈をした。
黒崎と呼ばれた彼は、母を亡くし、行き所を失った翔の、本当の父親だった。千草と離婚してからは翔には一切関わりを持っていなかった彼が、今日はその翔の転校の手続きに来ていた。
「初めまして、黒崎翔の――父です」
戸籍を改めて父子関係を持った彼がまず考えたことが、記憶を失ってしまった翔の転校だった。
いくらエリート校の生徒といえども、記憶喪失になった友人と過ごせるほど気丈ではないだろうと、彼なりに配慮をしたのである。
「こちらこそ初めまして。本校校長の上条です、それから」
挨拶に続きの余韻を残した校長。次の言葉を男性が待ってくれているのを感じて、さらりと彼は打ち明けた。
「実は私、翔さんと同室だった矢羽啓作の、叔父なんです」
「え?」
突然の告白に驚きを隠しきれない男性に、校長は苦笑いをしながら続ける。
「生徒たちはもちろん知りません。まあ、啓作が一番信頼していただろう翔さんには、知られてしまっていたかもしれませんが」
「そうだったんですか……」
男性は話を飲み込むように何度か頷いて、そして校長と同じように苦笑する。
「そう、啓作さんという方を信頼しているみたいだと、私も妻から聞いていました。驚いたんです。私たちが離婚して以来、あの子はすっかり人間不信になってしまっていたものですから……」
言いながら、男性は申し訳なさそうな、どこか寂しそうな顔をした。
校長はいつも彼が腰かけているソファーに座ると、彼にも、自分の座る場所の向かい側のソファーを勧めた。礼を言って腰を下ろした男性に、
「今日は、翔さんの転校の手続きですね」
「ええ。翔と仲良くしてくれた皆さんにせめてもの配慮のつもりで」
そうですね、と校長は笑って、手続きの用紙を出した。こちらにご記入下さい、と差し出された用紙には、沢山の記入欄があった。一番上の生徒氏名の記入欄にペンを向けながら、
「……こんなものを書く日が来るなんて思ってもみませんでした」
男性はそう言って、慣れない様子で一つ一つ、翔についての情報を書き込んでいった。
彼が転校先の学校を記入したとき、校長の顔色が変わった。そして校長は驚き交じりの顔で少し笑って、しかしそれについては何も言わなかった。その代わりに、もう一つ打ち明ける。
「私は、この冬を最後に校長の職を辞任することにしました」
え、と男性が驚いた顔をするのに校長は清々しい笑顔でこう続ける。
「あいつは素行が悪すぎて退学ということにして、二人で暮らすことにしたんです。記憶喪失ということは、生徒たちには口外しません……いっぺんに二人も、なんて余計に混乱させてしまいますからね」
神妙な顔つきをする男性に、少しでも和ませようとしたのだろうか、校長は微笑みながら言う。
「私の辞任を生徒に発表するときに、啓作のおじであることも一緒に、公表しようと思います。そうすれば、こそこそ隠れて生活する必要も無くなりますから」
「……そうですね」
男性が頷くと、校長は啓作の姿を思い浮かべながらぼんやりと言った。
「あんなに仲がよかったんですから、お互いのことだけでも思い出したらいいんですがねぇ……」
――「一緒にいたい」
彼の口からそんな言葉を聞いたのは、両親が事故に遭った直後に彼と出会ったとき以来、初めてのことだった。それを言わせるほどの彼の記憶まで、本当に啓作の脳からは抹消されてしまったのだろうか――?
「きっと思い出しますよ」
聞こえてきた声に校長が目を向けると、男性は微笑みながらこう続けた。
「よく言うじゃないですか、切っても切れない縁がある、って」
ふふ、と笑いながら、校長は遠い目をした。
「そうですね」
「そうですよ」
男性は念を押すように返して、用紙に目を戻した。用紙記入者欄に自分の名を書き、とうとう最後の記入欄、用紙記入者と生徒との関係の欄に、彼はペンを置いた。
「…………」
手が止まったので校長が心配そうに男性を見上げたとき、
「……あの」
きい、と校長室のドアが開いて、生徒が一人、顔を覗かせた。
「お客様がいらしてるんだぞ」
「すみません……、でも」
「聞こえちゃったんです、黒崎が……記憶喪失だ、って」
口々に事情を言ったのは、大友と菊川。あの三人だった。
「もしかして黒崎さんですか?」
ぽかんとした表情で三人を見る男性に、池が抑えきれなくなった感情を爆発させたかのように言う。
「お、俺たち黒崎の、クラスメイトで……! あいつ、記憶喪失って……本当なんですか……!?」
「池……」
ぽつりと彼の名を呼び、すみません、と困ったような顔をする校長に、いいですよ、と男性は微笑んだ。嗚咽を漏らしながら涙をこぼす池に、男性は立ち上がって近づいた。
「翔の、クラスメイトの方ですか?」
「友達ですっ……!」
泣きじゃくる池。そんな彼を必死になだめる二人も、彼の言葉に合わせて、同時に頷いた。
「そうでしたか……」
男性はとても嬉しそうな顔をして、三人に正面から話す。
「あの子の頭の中には今、私の記憶も、啓作さんの記憶もありません。自分がこの学校の生徒だということも覚えていなかったし、あなた方の記憶も、残っていないかもしれない」
そんな、と二人まで泣きだしそうになる中、男性はでも、と続ける。
「君たちに友達になってもらえて、あの子もさぞ嬉しかったと思います。その気持ちは、きっとどこかに残っていると思いますよ」
涙を堪えるのに精一杯で、静かに話に聞き入る三人。男性も少し涙声になりながら、
「本当に、翔は色々な方に沢山お世話になりました。その記憶こそ失ってしまいましたが、彼はきっと幸せ者です」
校長にもそれがしっかりと伝わるように、そう言った。
鼻水をすする音と、時々響く嗚咽しか聞こえなくなった校長室で、
「ありがとうございました」
男性は深く頭を下げた。目を擦りながら帰って行った三人を校長と共に見送って、ソファーに戻る。書きかけで止めてしまった記入を、今こそする。
――これからよろしく、翔。
彼を守って育てていくのだという決意をしっかりと胸に刻みつけるように、ペンを握った力強い手先は“父”を書いた。
――春、新しく通うことになった共学の高校。
バイブに呼ばれてポケットから取り出した携帯電話の画面にチカチカと表示された名前――黒崎敬作。
「もしもし?」
またか、とため息交じりに電話に出た翔は、電話越しの心配そうな声に小さく微笑んだ。窓枠に肘をついて少し乗り出し、
「うん、平気……わかってるって。式が終わったらお墓の前でしょ」
編入の知らせをしに、父と共に千草に会いに行く予定なのだ。わざわざ確認のために朝から電話をしてくる父の姿が、ここから遠目に見える。ベランダで受話器を片手に、先刻からずっと手を振っている男が、そうだ。
翔は軽く手を振り返して、
「じゃあね、父さん」
物心ついたころにはもう呼ばないのを当たり前としていた名前を、当たり前のように呼んで電話を切った。それとほぼ同時に、
「じゃあね、父さん」
同じような顔で、同じセリフを言いながら電話を切った青年がいた。翔はその声にふと目を下ろし、建物の脇に建っている桜の枝の向こうに、こちらへ歩いてきている彼を見つけた。事前に聞いていた“もう一人の転入生”だろうか、と思う。
自身が二年への転入生である翔は、一足早く寮につき、割り当てられた部屋で始業までの時間を過ごしていたのである。
――転入生同士が同じ部屋、ってことはありえないのかな。
寮の案内をしてもらった教師に聞いた“同室の人の名前”を思い浮かべ、歩いてくる彼はそんな名前の顔だろうかと、翔はぼんやり考えていた。
青年は、学生かばんの持ち手の片方だけを肩にかけ、制服のボタンをいくつも開けていた。深緑色の緩めのセーターを上手く着込んでいて、髪は綺麗な金髪。格好に似合わない優しい垂れ目で、単に頭の悪い不良には見えない。
「?」
ふと桜の木を見上げた彼が、翔に気づいた。その変に頭を上げた微妙な体制のまま、彼の方が一歩左にずれる。目が、合った。
「…………」
「…………」
そのたった何秒かの間で、彼らは何かに気づいたように、目を丸くした。
「――あんた」
第一声、あんた。つまらないその声に、翔は不気味なほどの安心感を覚え、同時に絶対にその声を知っているような、不思議な感覚に襲われた。
ざあっ、とひときわ強い風が、真っ青な空へピンク色の花びらを流していく。青年はその向こうで、ぽかんと口を開けたまま言った。
「どっかで見たことあるね」
「奇遇だね、ボクも君をどこかで見たことある」
少し微笑みながら、翔がすかさず言った。自分の口からまさかそんな“ジョーク”が出てくるなんて、彼自身考えてもみなかったのだから、少し驚いている。
「僕を知ってる?」
「いや、知らない。俺を知ってる?」
「ううん、知らない」
知らない。そうだ。まさか知っているはずがない。しかしお互い、全く知らないこともない――早い話が、ほんのわずかな切れ端だけ知っている。
ぎゃあぎゃあと大声で騒ぎながら校舎へと向かう生徒たちに肩をすくめたような格好をする青年の姿に、翔はなんとも不思議な感覚を覚えていた。
自分がとても安心できる何かと、どこか似ている。何かが何なのかは思い出せない。その何かの存在さえ、一度リセットされてしまった彼の脳内では定かではないのだから。
それでも翔は笑って、また“ジョーク”をこぼす。
「きっと僕ら、同室になるよ」
――うん、きっと彼が“矢羽”だ。
彼らしくない変な確信を持って、翔は青年に笑いかけていた。聞いた青年は目を丸くして、面白そうに唇の端を上げる。
「……ふうん」
あの笑み。よく知っているような、大好きな笑み。
「よろしく」
青年が笑った。
「よろしく――」
――それが、儚いこと。
最も面倒で長かった、他人の話。
(終)
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2008/09/29(Mon)21:40:53 公開 / 榛名水木
■この作品の著作権は榛名水木さんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
もうだいぶ前になりますが、「青の他人」として投稿させていただいた作品を大幅に推敲し直して帰って参りました。四章だった作品を五章に増やしたので、その分ストーリーに深みが出ていれば幸いに思います。
主人公を友情嫌いの設定にし、様々な状況下におくことによって、逆に友情・絆の強さを印象強く表現することを目的として執筆しました。
また、一般的な普通と比べてそれぞれ少しずつ変わったところがある、そんな二人の青年の独特な心情を想像して書いていくことに、一番力を入れました。その描写が読者様の心にまっすぐに入っていくこと、また本作品のタイトルを「消えない色」としたことの趣旨・背景を伝えることは、執筆上の挑戦でもあります。
まずは少しでも描写を忠実にし、幅広い年齢層の全ての読者に、伝わらない部分がないようにすることが目標です。
お読みいただいた正直な印象、ご感想を心よりお待ちしています。よろしくお願いします。