- 『風霊月歌U【完】』 作者:ゅぇ / ファンタジー 時代・歴史
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全角33383.5文字
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原稿用紙約102.85枚
舜帝よ――このままだと人心は離反し、舜は崩壊する。それを知りながらなお、なぜあなたは。
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【愛おしきものよ】
すでに亢は屍となり果てていた。支岐との死闘の末である。支岐の肩ぐちと上腕にはぽかりと穴があき、そこから絶え間なく血が流れ出ていた。『風の者』たちの常軌を逸した力は、昔と変わらず存在した。我々の強靭な力は、みごと若き世代に継がれている――と、支岐は感心した。閖とともに戦うことの出来る力を持った、亢はそれほどの『風の者』である。亢を倒し、そこで支岐はようやく、苦しい闘いを強いられている斂に視線をよこした。
斂の美しい顔に、血が流れている。彼の糸刃は欠け、千切れ尽き、また閖の小太刀も尽き、針も尽き、彼らはもはや腰の太刀で斬りあっている始末であった。あの斂が、と支岐は思った。苦しむ斂を、いまだかつて支岐は見たことがない。斂が戦えば、勝敗はつねに数秒で決まった。
(まさか同士で討ちあうとは、思うてもみなかった)
舜先帝のもとで奈綺らとともに駆けまわっていた時代が、いまはもう懐かしい。たびたび奈綺と諍いをおこしては老師に叱られ――しかし『風の者』として胸に誇りを抱き時代を駆けていたあのころ、傍にはいつも奈綺がいた。同士で討ちあう行く末など、『風の者』の誰ひとりとして思い描いてはいなかったろう。
(もう、潮時よな)
何があろうとも、閖を宮城へ戻すわけにゆかぬ。閖という男は、善悪正誤の別を知りながらなお、舜帝に随おうとしている。この男の心ほど、まっすぐで誇りかで、また性質の悪いものはない。どれほど大きな障りがあったとしても、けして変わることがないからである。
「…………っ」
斂の身が大木に叩きつけられた。流れるような動きで、彼は体勢をたてなおした。ここでなお閖の攻撃を受けるだけの力と技を、斂は持っている。
閖――彼はもはや、舜国内においてもっとも強い『風の者』であるといって良い。かつての奈綺に近しいだけの力を持っている。斂の唇に血が滲んだ。この男も三十を過ぎた。若さ漲る閖の、すでに倍ほども生きている。
(さて……)
支岐は、わずかに離れた大木に背をもたせて、じっと坐っていた。斂と閖がいっさいこちらに眼もくれぬのは、もはや死んだものと思っているからに違いない。
(なんと幸いなことか)
思って支岐は、じりじりと手を動かしながら唇に微かな笑みを湛えた。笑いながらやはり、奈綺のことを思いかえしていた。彼女と斂が闘ったならばどちらが勝つだろうとか、彼女と閖が闘ったならばどちらが勝つだろうとか、そういったことを思いながら、支岐の手は緩慢な動きで糸刃扇を取りだしている。舜人の誇りをもって、けして使うまいと思っていた柳の武具であった。
(どちらと闘うても、やはり奈綺が勝つであろうなあ)
傷ぐちから流れる血が止まらない。また男の手は、それを止めようともしなかった。
(だからきさまは愚かなのだと、きっとあの女は怒る)
支岐はもはや、生きることに疲れていた。奈綺が嫌いぬいた、情に厚い人間である。血も涙もない柳帝のやりかたにも、それに甘んじる秋沙にも、先帝の面影さえ残らぬ舜帝にも、飽き飽きしていた。
(ふむ。ひとは死ぬまえにおのれの生涯を視るというが、俺は奈綺のことばかりだな)
奈綺よ――おまえが死んだときに、どれほど俺も死んでしまおうと思うたことか。おまえのいない世界は、まさに渇いた砂漠のようである。おまえとともに柳帝のもとへ赴いたときのことも、おまえとともに夷祉を守ったことも、またおまえとともに数々の大戦をくぐりぬけてきたことも、いま鮮やかに眼裏に甦るようだった。
(さて、ゆくか)
無言の殺しあいがつづいていた。どちらかが息を乱せば、そこで戦いは終わる。一瞬の虚をつかれたほうが、死ぬのである。流れる血が多い。支岐は眩む眼をおさえ、つかの間、息を整えた。勝敗は一瞬で決まるのだ、機を逃してはならぬ。
支岐が動いたのは、閖がこちらに背を向けて斂と対峙したときのことであった。満身創痍の体でありながら、そのとき彼はまるで傷ひとつ負うてもいないようなしぐさですらりと立ちあがり、その気配を遠く察した閖が一瞬気を乱した。敏すぎる本能のせいでもあり、また若さのせいでもあった。ただの『風の者』が相手ならばけして致命傷にはなりえなかったであろう、隙ともいえぬ隙であった。相手が斂であったことが、唯一、閖にとっての不運である。その隙をついたのは、まず斂であった。三段、四段と太刀を突きいれ、かろうじて閖がそれを避けたところで、彼の左腕から左頬にかけてを、支岐の糸刃が削ぎはらった。
「…………」
重ねて斂の太刀がその腹に深々と埋まり、さらに糸刃の尖端が閖の喉ぶえを静かに貫いた。相討ちを避けて飛びのいた斂の顔を、噴きだした鮮血が赤々と濡らした。かすかに閖の唇が動いた。
「…………」
このとき、彼の唇が秋沙の名を象ったのを、斂はたしかに見ている。
「…………」
さらに閖の唇が動いた。閖が何を言おうとしているのか、斂はあえて聞こうとはしなかった。もうわかっていた。この男のことであるから、最期に気にかけているのは舜帝のことに決まっている。
(なんという『風の者』か)
これが、斂が生涯でもっとも苦しんだ最初で最後の闘いである。ゆっくりと斂の傍へ歩み寄ってきた支岐は、出血のためにもはや朦朧としていた。
「……斂、秋沙のもとへゆけ。まだ何か……」
(この男も、もはやこれまでか)
「支岐さま。あの世で、また」
軽く目礼をし、踵をかえして宮城へ駆けだそうとしていた斂の耳を、鈍い音がうった。ふりむかずに往くべきかと思ったが、斂はここで静かに顔をめぐらせた。
閖の喉を、支岐の小太刀が突いている。そして支岐の腹から背にかけてを、閖の太刀が貫いていた。太刀の柄を逆手に握った閖の手が、小刻みに震えていた。
(…………)
これこそが――これこそが、奈綺の血を汲むまことの『風の者』であると、斂はなかば感心し、なかばその死を惜しむ気持ちでこの光景を見つめた。
ふたりの男は、まるで身を寄せあう獣の子たちのようにして大地に斃れていた。
(支岐……)
支岐にいたっては――どうせこの男のことであるから、この少年とともに死んでやろうとでも思ったのに違いない。
(奈綺のいない世に、この男も飽き飽きしていたろう)
疲れた唇で、静かに斂は笑った。
「できることなら……秋沙の手で死なせてやりたかったものだ。この閖という男だけは……俺や支岐が殺すのではなく」
(さて)
俺はゆかねばならぬ。俺がいましなくてはならないのは、支岐のように死ぬことではなく、ともかく生きながら国のたちゆく術を捜すことである。奈綺が渋面をつくってその生涯をともにした柳帝の、俺は片腕とならねば。
(俺はまだ死ぬにははやい)
この男の死にどきは、まだ先のことである。
◆ ◆ ◆
ひとりの『風の者』と行きあった。斂の血まみれの姿を見て何を悟ったか、およそ彼と同じ年ごろであろうと見られる『風の者』は小さくつぶやいた。
「……閖は……」
「俺が殺した」
男は、信じられないというような顔をしてみせた。無理はなかろう、と斂は疲れた体でひとつだけ息をつく。
「……真の『風の者』であった」
「そうか――そうか、あとで弔うてやらねばなるまい。あれは……よく働いた」
同胞を討たれたという憎しみはないようである。それがさだめと思いきっている表情で、男はあらためて静かに斂と対峙した。
「いまわたしは、おまえと殺しあう暇を持ちあわせておらぬのだ」
「宮城で何があった」
「――奈綺が戻ってきたのだ」
「……なに?」
わたしも信じられぬのだ、と彼は苦虫を噛みつぶしたような顔をした。
「陛下の命ぞ。あの“奈綺”が生きていた、生きて舜に戻ってきたとの噂を流せと」
「それはまことに舜帝自身の命か」
この『風の者』は、先刻まで秋沙と舜帝のやりとりを見つめていた、まさにその男である。退出を命じられたのちも、ふたたび天裏へまわって息をひそめていたものである。斂の問いかけに、彼ははっきりとうなずいた。
(……小嬢よ、またおまえは茨の道をゆくのか)
「陛下のご命令であるから、わたしたちはただ従うよりほかにない。もはや秋沙を裏切りのものとして殺す必要がなくなった――というよりは、殺すことが出来なくなったのだ。あくまでも……さしあたっての話ではあるが」
斂は、すべてを悟った。秋沙は賭けに出たのだ――母の愛した舜を遺し、おのれの祖国柳を守護し、そうして健在の父が気を遣らずに立ち動いてゆけるように、という一念において賭けに出たのだ。
(……惜しいが……)
ともかく閖を殺しておいてほんとうによかったと、斂は瞑目したい思いであった。あれを生かしておけば、かならず秋沙の往く道を阻んだにちがいない。
「おまえの名は何というか」
と、『風の者』は斂に問うた。
「斂」
「斂――奈綺の最期を見届けたという、あの斂か」
最期を見届けたというと、語弊がある。奈綺の屍にもっともはやく対面し、その首胴を切り離した、というのが正しい。
「わたしは狛《はく》という。おまえが奈綺の同胞であるというならば、ひとまずは戦わずにすむようであるな」
『風の者』たちは、刻々と変化してゆく国の状況に、あるいはまた時代の流れに、実に巧みに順応してみせる。これが数刻まえのことであれば、瞬時にふたり殺しあいに転じていたはずであった。ふたりがこうして穏やかに言葉を交わしたのは、『風の者』がまさに個を殺し、舜のために生きているからである。
「……狛よ、およそ俺と同じ年ごろと見受けられるが」
「三十六だ」
「ならば支岐をご存知だな」
急ぎ神森をぬける足どりで、ふたりは歩きはじめた。言葉なくして、すでに斂は狛につき舜帝の命をこなす心づもりでいる。支岐の名を聞いて、狛はわずか懐かしむような顔で笑った。
「ああ、よう知っているとも。よくもまあと思うほど、奈綺の喧嘩をうっては返り討ちにあい……毎日のように腐っていたな。何だかんだと言いながら、しかしあの奈綺の、もっとも近しいところにいた」
「…………」
「……支岐も死んだか」
時代は変わってゆくものだからな、と狛はぽつりとつぶやいた。何ともいえぬ気持ちで、斂はその言葉を聞いた。
「新しき時代がやってくる」
◆ ◆ ◆
奈綺が生きて舜へ戻ってきた――その噂は、一昼夜のうちに、まことしやかに民々のあいだに流れてまわった。まさかと言いながら、それでも奈綺の生存を疑うものはいなかった。あの“奈綺”ならば、この十数年のあいだ息をひそめ、他を欺いて生き抜いていたとしてもおかしくはないと、彼らはそう思ったのであった。民々のあいだに奈綺の名が知られている、それだけでも奈綺は他の間諜とは異なる存在である。
噂が巷間に満ちたころ、舜帝の室で殺伐とした諍いがはじまった。
「恩赦を出せ」
「……おまえ、誰にむかって口を利いている。俺は恩赦など出さんぞ」
「出せといっている。人心をつかみ国力をつけたければ、いますぐに恩赦を出せ」
たがいに一歩も退かぬ。
「舜人の気性と心を知れ」
と、奈綺は尊大な態度で言った。
「ほう、憎らしいことを。おまえも体半分は柳人であろうに、おまえに何が知れるというのだ」
女の唇が、意地悪くつりあがった。すがめるような双眸は美しく冷ややかであり、また小柄でしなやかながら、おのれよりも長身の舜帝を見下ろしているかのようである。
「わたしを奈綺と断じたのは、どこのどなたであったろうかな。奈綺は正真正銘、骨の髄まで舜人であるのだがね」
「…………」
いま、舜帝のもっとも近しいところに奈綺がいる。そうである以上、迂闊にぶつかればおのれの命がないということを、舜帝は敏感に悟っていた。この男もまた、いま死ぬわけにゆかぬのだという強靭な気持ちでいる。ここで奈綺の言をのんだのは、彼が怯えていたからではけしてない。たがいに、いつかこやつを殺してやろうという意志でもって、ぶつかりあっているのである。
恩赦を出せ、恩赦だ、と諦めたように舜帝は宰相にむけて吐き棄てた。舜先帝の息子というよりは、柳帝の息子といったほうが納得できるような、そういった気性の男である。
恩赦の出た晩、狛たち『風の者』が宮中の広間に顔をそろえた。文武官はすべて退出させられ、『風の者』たちのほかにその場にいるのは、舜帝と奈綺、宰相のみである。舜帝はむろん、不機嫌であった。どのようにするのが最善であるかを知りながら、奈綺という女と徹底的に気性があわぬのである。
「陛下、閖が死にました」
「……なに?」
ぴくりと舜帝の柳眉が動いた。
「閖が死んだと? あれがか」
「……は」
奈綺の表情は、いっさい動かぬ。閖――それは秋沙にとって、最愛の男であった。
「そのかわりと言うのも妙な言いかたでございまするが、奈綺を慕って、柳から流れてきた男をひとり」
「…………」
そこでようやく、奈綺の双眸がちかりと光った。
「ほう」
「斂と申すものでございまする。かつて舜で生まれ、いまはなき桐で若き時代を過ごし、そののち奈綺と生死をともにした『風の者』にございまする」
斂がゆっくりと拱手してみせた。『風の者』たちが、無言で彼を認めているような空気がそこにたたずんでいる。
「それを俺につけるなよ」
「は……しかし」
「俺の傍らには、もはやこれ以外要らぬぞ」
奈綺に右をかためられ、斂に左をかためられては動けるものも動けぬわ、というような顔つきである。
(たしかにな)
と、舜帝の心情をみた斂は思わず笑いたくなった。
「奈綺よ。湯浴みだ、ついて来い」
舜帝の体は、よく陽にやけて逞しい。日々太陽のもとで、武術の鍛錬をしているためである。舜帝の言葉にしたがって、奈綺はおのれの衣を脱ぎ落として彼のあとにつづいた。
「奈綺――いや、秋沙よ」
裸のままで、秋沙はわずかに頭を垂れた。
(苛立ちの行きどころがないのだな)
と、秋沙は思った。奈綺でいることを求めながら、秋沙と呼ぶ。秋沙と呼ばれたから、彼女は従順に頭を垂れてみせた。しゃん、と熱い湯が秋沙の顔にかけられたが、それに不満の顔ひとつ見せず、彼女はじっと立ち尽くした。
「おまえに、自尊心はないのか」
舜帝の唇が、嘲笑に歪んでいる。たちのぼる湯気のなかで、白い肢体が美しい。
「どうなのだ、何とか言え」
「…………」
「ふん、避けるなよ」
という舜帝の言葉と同時に、今度は青磁の香炉が飛んできた。避けるなと命じられたから、秋沙はそれを避けぬ。鈍い音をたてて額に香炉があたり、数秒ののち、女の白く美しい頬を一筋の血がつたった。実のところ、秋沙にとっても手探りのことである。奈綺と秋沙、いつどのようにして切りかえてゆけばもっとも効果的であるのか。
(ひとつひとつ、試していくしかあるまい。幸か不幸か、時間はまだ残されている)
秋沙と呼ばれれば、従順に秋沙の顔をしてみせよう、と彼女は思った。
(太刀打ちできぬ女であると、思い知らせてやろう)
「ほう、なら次だ。避けるな」
こめかみに酒器が投じられた。ゆるやかに血が流れた。まるで血の涙が流れているかのようであった。秋沙は眼を伏せ、白い体を晒したままじっと黙していた。濃厚な火酒が体じゅうをつたい落ち、芳醇な香りが鼻をぬけてゆく。
「自尊心がないか。芝居上手の牝猫め」
よほど秋沙の沈黙と恭順が気に入らぬらしい。吐き棄てるようにつぶやいて、皇帝はその眼を閉じた。
◆ ◆ ◆
もっとも信頼できる駒であった閖が、死んだ。舜が誇る最強の『風の者』閖が、死んだ――まこと俺だけに忠誠を誓う覚悟を持っていたのは、あの男しかいなかった。
(すべては秋沙の策のゆえか。そのために閖は死んだのか)
だとすれば、俺は秋沙をけして許さぬが。
あれが監視の目的で俺の傍から離れないのならば、むしろそれを逆手にとってやろうとも。価値なしと判ずれば、俺がこの手で殺してくれる。
(秋沙よ――おまえに俺の心が読めるかな)
俺がまさに先帝の第一嫡子であると、誰もが信じて疑わぬ。
(笑止……)
俺が復讐のために帝位に坐していると知ったら、さあおまえは、どうする。
【蒼き炎】
時は遡る。かつて、奈綺が柳帝の傍らにいたころのことである。まだ秋沙が生まれて間もないころで、これはちょうど彩妃が舜先帝の子を生んだ時期にあたる。彩妃の難産を耳にいれた奈綺は、なぜかその晩、思いだしたようにつぶやきを落とした。それほど深刻そうでもない、いつもと何ら変わらぬ顔つきである。そのとき奈綺は、舜には悪習がある、と言ったのであった。
舜とは、もとは血脈をひとつとして強く結ばれた遊牧国家である。優しく穏やかな性質をもった彼らの文化のなかに、ひとつ異質な慣わしがあった。ヲ《ふたご》を忌むというものである。とはいえ、興亡を繰りかえしてゆく幾百もの国家の歴史を紐解いてみるに、ヲを忌む慣わしというのはけしてめずらしいものではない。
「ほう」
と、柳帝は寝台のうえでゆっくりと寝返りをうち、奈綺のほうへその美貌をめぐらせた。冷めた眼をしているが、これは“おまえの話を聞こう”という、この男なりのしぐさである。
「ヲの弟妹は、兄姉のためだけに生かされる」
弟妹の存在を知っているのは、ごく少数のものだけである。腹を痛めて産んだ女親には、ヲであることはけして知らされぬ。女親の情は激しい。
「十五まで生かされ、そこで兄姉が健康に育っていれば、弟妹は殺されるのさ」
「健康でなければ」
「弟妹が、替え玉となって生きる」
たしかに悪習だな、と柳帝は嗤った。だとすれば、弟妹の悲哀と憎悪はいったいいかほどのものとなるのか。
「ヲの弟妹の多くが、親にさえその存在を知られぬまま死んでゆく」
そしてまたヲの兄姉の多くが、おのれに弟妹のあることを知らずして生きてゆく。何を契機としてそのような慣わしが生まれたのか、それは奈綺も知らなかった。一度だけ、窖《あなぐら》に幽閉されたヲの弟を見たことがある、と奈綺は言った。
「けして裕福ではない商家の子であったな」
かびの臭う窖に、小さな文机と薄汚れた厠があった。高く遠い窓から、ほんのわずかに空が見えるばかりである。出入りする口には格子がはめられており、中からは開くことがない。
「ああいう児は、言葉を発せぬものなのだとそのとき知った」
「……さしもの奈綺も、怖ろしいと思うたか」
柳帝の問いには答えず、
「十五まで生かすこともない、早急に始末すべきであると思ったよ」
と、奈綺は小さく嗤った。その双眸は静かである。何を思ってヲの話をはじめたのか、この女の眼を見ただけではわからない。
「このことに、『風の者』が深く関わるわけでもなし……もしもうっかり弟妹を殺し損ねたらどうなるだろうな」
◆ ◆ ◆
秋沙がひとに涙を見られたのは、これが最初で最後のことである。
「閖……」
愛していた、あなたを愛していた――誰よりも愛おしく、わたしはきっとあなたに恋をしていた。けれどわたしが守るべきものはあなたではなく、またあなたが守るべきものはわたしではなかった、そういうことだ。悲しくもあり、それ以上に誇りかである。わたしたちは激動の時代に生まれ、『風の者』として生きねばならなかった。
(悔いてはいないのだ、あなたを死に追いやったことは……)
ただ、唯一わかりあえる片身を失くしたような喪失感があった。
体のひとつさえ重ねることのなかった仲であった。
「…………」
背後に気配を感じたとき、秋沙は一瞬の逡巡ののち、あえて涙ぐむ双眸のまま顔をめぐらせた。舜帝の美貌がこわばったのを、彼女ははっきりと認めた。
(いまのは……)
すぐに舜帝の唇に、揶揄するような笑みが湛えられた。
「おまえの最大の障壁であった閖は死んだ。おまえの策謀どおりにな。それは嬉しさゆえの涙か」
(いま、なぜこの男はわたしの涙を見て動揺したのか)
「……嬉しくなど、ございませぬ」
ぽつりと秋沙はつぶやいた。本心である、しかし秋沙が本心を素直にひとに晒すということは、ある意味でもっとも見破られにくい芝居でもある。
「なら悲しいとでも言うのか、閖を死へ導いたおまえが、その唇で」
「……心底悲しゅうございまする。わたくしは……」
舜帝がこちらを強く見据えていることを知りながら、秋沙は指の背で涙を拭った。
「もっとも愛していたかたを失うたのでございまする。かつて陛下のこの御室であのかたと対峙したときから、たがいに予見しておりました」
「……何をだ」
「遅かれ早かれ、わたくしたちはたがいに殺しあうことになるであろうと」
静かに舜帝の手指が、秋沙の細い顎をとらえた。導かれるまま、ゆっくりと秋沙はその顔をあげた。
「斂がいたからわたくしはいま生きているのだ、といっても過言ではございませぬ。斂の援けがなければ、わたくしはおそらく閖の手で殺されていた」
「愛していたのか」
「…………」
視線がぶつかった。その視線の強さに不吉なものを感じたのは、秋沙のほうである。
「愛していたのだな」
肯定の意をしめし、秋沙は静かにうなだれた。そのときであった。舜帝のしなやかな腕が風のように伸び、秋沙のほっそりとした肩ぐちを壁に押しつけた。
「気が変わった」
「は……?」
「おまえを殺す気がなくなったと言っているのだ。俺におまえは殺せぬ」
顔が近い。あれほど秋沙を揶揄し、蔑み、こけにしてきた舜帝の表情に、いま遊びの色はなかった。
「陛下、何を……」
「閖がおまえを愛していたことは、知っている」
秋沙の頭はめまぐるしく働きつづけた。答えが出ない。ただ本能が警告している――この男は、いままさに勝負に出ようとしている。
(いったい……)
「閖は、俺が信頼し得た唯一の人間だ。その男と愛しあっていた女を殺すことなど、俺には出来ぬ。『風の者』とは違うからな」
秋沙よ、と舜帝は低く唸るように言った。
「秋沙よ。頼むから――俺の邪魔だけはしてくれるな。俺の子を孕もうとも考えるな」
(なにを考えている、なにを……)
なにか根本的なものを、わたしは見落としているのではないのか。舜帝の性格そのものを、わたしは見誤ってはいないか。信頼する閖の愛した女であるから、わたしを殺すことが出来ないのだという。
(わたしはなにか――取り返しのつかぬ過ちを犯しているのでは……)
「……陛下、閖は……」
と、かろうじて秋沙はしぼりだすような声で問うた。
「ただの『風の者』、陛下にとってはひとつの駒にすぎませぬ。にも関わらず、なぜ……」
「おまえの言うとおりだ、俺にとって『風の者』は駒にすぎぬ。勘違いをするなよ、俺に『風の者』など要らぬのだ。俺が信頼し、敬愛し、何よりも大切に思うていたのは、『風の者』ではない。閖というひとりの男だ」
おのれの唇が渇いてゆくのを、秋沙は感じていた。母にあわせる顔がない、と頭のどこかで思った。
(……見誤ったか)
「すべてを教えてやろう」
舜帝の低い声が耳を掠める。
「おのれの治世が混乱を招くと知りながら、人心の離反を招くと知りながら、それでもなお暴虐の限りをつくすのはなぜか、教えてやる」
(この男は、それほど舜を厭うているのか。なぜ、国の崩壊を望んでい……)
秋沙の双眸が弾かれた。しまった、と、この女にしてはめずらしく思った。
「まさか、ふ……」
「復讐のためだ。俺はこの国を叩き潰してやる、そのために帝位にいるのさ――俺は第一嫡子ではないのだがな」
秋沙の頭のなかで、さまざまなことが繋がっていく。復讐といったか、ああそんなことよりも、第一嫡子ではないといったか――。
「……ヲか……?」
この男の望みは、大陸の制覇などではない。舜の滅びである。大陸を掌中におさめたいという野心溢るる皇帝であるとみた、もはやその時点でこの男を見誤っていたのだ。
「おまえたちは、そんなに舜という国が愛おしいか」
まるで秋沙を抱きしめるような格好で、舜帝がつぶやいた。かろうじて秋沙は、まっすぐ皇帝の眼を見つめた。ひとりの秋沙という女として、いまは対峙すべきであろうと思ったのである。
「俺は憎い。同じなりをしながら、ヲというものはこんなにも異なる生き道をゆくのかとな。舜人などみな死ねばよい、俺はそれほど舜が憎い」
舜帝の双眸は、驚くほど静かであった。これがほんとうの姿なのだ、と秋沙は思った。
「誰にも知られておらぬのを良いことに、世話をしにやってくる舎人に犯され、刃向かえば殴打され足蹴にされ、またおのれの棲むうえでは父母と兄が何も知らずに笑って生きている――おまえに、この弟の気持ちがわかるか。閖はただひとり、この俺の命を救ってくれた」
(この男の言葉を聞いてはならぬ)
けして情愛の眼で見てくれることのなかった父への思慕、母であるまえにひとりの『風の者』であった母への思慕、母を超える『風の者』になればきっと少しは、と思いつづけた娘の気持ち。
(気をたしかに持つのだ。舜帝を弑すればよい)
「父母を怨んではいない。だから父が崩御し、母を逐うてから動きはじめたろう」
誰も助けてくれなかったと恨み嘆く子のように見えるか、と舜帝は自嘲気味につぶやいた。
(……いやしかし、閖が……)
閖が何の意味もなくひとを助けたりしようか。舜にとって大きな災厄となりうるヲの弟を、意味もなく助けることがあろうか。
(あのひとのことであるから、気まぐれなどであるはずがない)
「閖には恩がある。だから、俺がおまえを殺すことはない。しかし、俺の邪魔をするな。柳に火の粉の飛ぶようなことだけは、避けてやる」
だから俺の行く道を遮るな、とふたたび舜帝は言った。
この男は、賭けに出た。
そしてその賭けに勝ったのだ――負けたのはわたしだ、と秋沙は思った。
(わたしに、この男を殺すことが出来るか……?)
対峙した相手の心に共鳴りするがゆえに、殺すことが出来ぬ。それはいったい何を意味するのか。
(舜の崩壊。そしておのれの死だ)
◆ ◆ ◆
復讐の念に燃ゆるものほど厄介なものはない、とそのとき奈綺は言った。
「ただびとならば、それも良かろう。どれほど強い復讐心を抱いていたとしても、我々『風の者』がただびとに敗れることはない」
麻衣からのぞくしなやかな脚が、美しい。舶来の像のごとき美しさである。その脚を組みかえながら、奈綺はゆっくりと眼を細めた。
「しかし、『風の者』に復讐心を抱かせてはならぬ。『風の者』たちがかならず一撃で相手の息の根をとめようとするのは、復讐心を抱かせぬためでもある……仮に」
「仮に」
「仮にわたしが復讐心など抱いてごらんよ。国のひとつやふたつ、呆気なく潰れてゆくさ」
柳帝は鼻先で嗤って、そこで興味を失ったように寝返りをうった。奈綺もまた、もはやこれ以上話すこともないというふうに、静かに窓辺の卓子に腰をおろす。昔から行儀が悪い。
(…………)
眼を閉じたまま、柳帝はふと女に問いかけた。
「なぜ、そんな話をしようと思った」
「さて――深い意味はないが。彩は難産であったらしいな。あの女が産み落としたものがヲであったならば、このさき舜は混迷の道を辿るであろうなと思ったまでさ」
柳帝は口をつぐんだ。舜の国政が乱れようとも、あるいは舜国そのものが崩壊しようとも、柳にとっては関わりのないことである。あわよくば混乱に乗じて舜を柳のものとすればよい。
「とはいえ、ヲの弟妹は殺されるのであろう」
「仮にという話さ、柳帝よ。万にひとつでも、弟妹が生き延びることのあろうものなら――まあ、そういう話だ」
そういった会話を交わしてから、およそ六年のちに奈綺は死んだ。その六年のあいだ、奈綺は柳帝の片腕として働きつづけ、それは実質的に柳帝に尽くしている格好となった。柳国の基盤を堅固なものとし、舜との友誼をはかることが、何より舜帝の望んでいることであったからである。この女が舜へ赴き、舜の内情について詳細を探ることはほとんどなかった。つねにその心中に舜帝という主君の姿があったにも関わらず、である。奈綺のなかに疑念はあったものの、しかしヲが産まれていたとして、その弟妹を殺しそこねることなどありえぬ――ましてや『風の者』がそれを助けようなどとは、この女でさえ予測することは出来なかったようだ。
◆ ◆ ◆
舜帝の妃として舜国にすべりこんだ秋沙の、懐妊の報せがいっこうに届かぬ。たとい秋沙が“秋沙”であったにしろ、彼女が『風の者』であり、柳帝と奈綺の娘である以上は、舜にすべりこんだが最後、無理やりにでも舜帝の胤をおのれの腹にもぎとってくるはずである。遅い――もう懐妊の報せがきてもよいだろうに、と思った次の瞬間に、柳帝はかつての正妃との会話を思いだしたのであった。
(仮に、だ。彩がヲを生んでいたとすれば)
ヲの弟妹を、仮に殺しそこねていたとすれば。
何らかの法でそれが舜国帝位に就いていたとすれば。
(弟妹の扱いは、酷かったろう。あの奈綺が、それらの復讐心を厄介と認めたほどには)
仮にその弟妹の心情の吐露を、秋沙が聞いたとすれば。
(少なくとも俺と話しているとき、あれは舜帝にヲの可能性を見てはいなかった)
真実を見抜くことが出来なかったおのれを、あれは間違いなく恥じているだろう。否、常時ならばそれも良い。しかし秋沙は、最愛の男を亡くし、旧知の支岐を亡くし、兄を亡くしている。当人の意識せぬところで、心にひびが入ってはいまいか。
(あれは秋沙だ。奈綺とは違う)
――かならずあの娘は、哀れな皇弟の心に共鳴りする。
斂を呼べ、斂を、と柳帝は命じた。いっこうに秋沙が懐妊せぬ、と報せにやってきたのはまぎれもない斂である。皇帝のもとへ参じた斂は、その冴え冴えとした双眸を一瞥してから拱手した。
「ただちに舜へ向かえ」
「御意」
「何としてでも舜帝を殺せ。秋沙がそれを阻むようならば、秋沙ごと殺せ」
「は……」
その声色に、非常にあっさりとした決意があった。
(いや、何も驚くことはあるまい。陛下は、こういったおかただ)
おのれの嫡子が死んでも涙ひとつ見せぬ。顔色ひとつ変えぬ。おのれの娘を殺せと命じるにも、その美しい顔の筋肉はいっさい歪みを見せない。
「秋沙を殺すことに逡巡があるか。哀れと思うならば、かまわぬ。あれを殺したあとに、おまえも後を追うてやればよい」
「…………」
「斂よ」
と、柳帝はここではじめて唇を歪めて嗤った。
「やはり奈綺は奈綺であり、秋沙は秋沙にすぎぬのだ」
斂の脳裏に、かつて秋沙を小嬢と呼んで可愛がっていたころのことがふいに甦った。この父、あの母から産まれたとはとうてい思われぬ、心優しき娘であった。その娘のことを、母親は心底苦々しい眼で見つめていたものである。
(とうとう、来るべきときがやってきたのだ)
「とにかく殺せ。あとは何とでもなる。必要とあらばおまえが後見となり、秋沙の子を即位させれば良い」
「御意」
斂はすみやかに立ちあがった。立ちあがったときには、この男の眼は冷めている。殺したくないものを殺さねばならぬ、あるいは死なせたくないものの死を退けることが出来ぬ、これが我々の生き道だ――秋沙、あなたを殺さねばならぬ。
この男が殺すと決めたとき、その心に逡巡はない。
【愛しき道標】
――なぜ閖は、舜帝に救いの手をさしのべたのか。
◆ ◆ ◆
秋沙は眼を閉じた。母ゆずりの美しい双眸を閉じ、じっと考えていた。なぜ閖は、舜帝に救いの手をさしのべたのか。
風も空気も凍りついている。心は静謐としている。静謐としていながら、また揺れてもいる。向きあうしかあるまい、と秋沙は思った。わたしに舜帝を弑することは出来ぬ――このわたしの脆弱さを、父帝は見抜いているに違いない。
(斂さまが舜へいらっしゃるだろう)
『風の者』がひとの心の共鳴りするなど、あってはならないことである。秋沙は母の後ろ姿からそれを学んだ。けっしてひとの心の共鳴りをしてはならぬ――母もそうであったし、父もそうであった。斂や支岐、あるいはまた閖もそうであった。たとい共鳴りをしたとしても、それに惑わされることはけっしてなかった。
(わたしもそうであったはずだ)
どのような心の揺れも、『風の者』であるという誇りのまえでは塵に等しかった。わたしは『風の者』であり、“奈綺”の娘である。そのことがこの女を強靭にし、幾度も立ちあがらせた。秋沙でありながら奈綺でありつづける――実父との子を孕み、産み落とし、また両親を慕いながらも愛されず、そうした哀切のなかでおのれの生き道を定めたはずであった。
(なぜ、わたしは)
なぜこんなにも脆弱であるのか。なぜ“奈綺”の子でありながら、こんなにも情に弱いのか。秋沙にとって、おのれと比べる相手といえば奈綺であり、柳帝であり、斂であり――それは彼女にとって哀れなことでもあった。奈綺も柳帝も斂もみな、優しき秋沙がおのれと比べるにはあまりに非情でありすぎた。彼らはひとの情を持たずに、あるいは持てずに生きてきたものたちである。
(……ここにきて、舜帝に共鳴りしていてはならぬ。閖の思惑がどうであれ、あのかたはもう死んだのだし――何よりわたしは、柳人であるのだ)
なぜ閖は、舜帝に救いの手をさしのべたのか。
(…………)
「何を見ていた」
背後から声をかけられて、秋沙は静かに眼を開けた。雪の光をうけて、凍りついた睫毛がきらりと耀いた。
「まもなく暴動が起こるだろう」
はじめから答えを期待していなかったのか、間をおかずに舜帝はそう言った。ああ、念を押しにきたのだな、と秋沙はゆっくり眼を細める。
「けっして手を出してくれるなよ。俺はおまえを殺したくないし、俺自身もまだ殺されたくはないのだ」
いま、ここで弑すればよい。そうして柳帝とのあいだに生した子を幼帝に据え、秋沙なり斂なりが後見として就けばよい。
「……わたくしが手を出さずとも、斂が参りまする。陛下を弑するために」
秋沙の眼が遠い。その双眸が、白く覆われた白山を見つめていた。憧憬の眼差しであった。
「そして斂は、わたくしを殺すでしょう」
「殺させぬ」
と、そのとき舜帝はこう言った。声を荒げるでもなく、しかしそれは秋沙の視線を動かすだけの強さを持った響きであった。殺させぬ、と彼はたしかに言った。
「閖の愛した女を、死なせたりするものか」
舜帝もまた、白山を見つめている。それは信愛の眼差しである。ああ、と秋沙は思った。白山は、慕わしきものの姿に似ていた。秋沙があの急峻に憧憬の眼差しを向けるのは、そこに母を視ているからであった。舜帝は、そこに閖の姿を視ているに違いない。
(このひとは……)
つまりこういうひとなのだ、と秋沙は思った。わたしは『風の者』だから、たといその情の厚さと優しさに共鳴りしたとしても、彼を弑せねばならぬ。そうでなければ――ここにきて躊躇することなど、何もない。ここで躊躇などしてしまえば、おのれがいままで誇りを抱き築いてきた在りかたは、いったいどうなってしまうだろうか。
この女には、わからなかった。なぜここに至ってもなお、おのれがこのような迷いを抱くのか、それがわからなかった。おのれの往くべき道も見えているし、おのれの在るべき姿もわかっている。
(そしてわたしは、けっして弱くはない)
母や父と比べさえしなければ。
だというのに、なぜいま、このように迷うか。なぜいま、“わたし”が迷うのか。舜帝――この男が特殊なわけではない。彼のような気質のものを、秋沙は幾人も見てきたし、そうして幾人も殺してきた。憎かったからでもなく、殺したかったからでもない。ただそれらが、おのれの行く道を遮るものであったからである。閖を殺さねばならぬ、と決心したときでさえ、秋沙に躊躇はなかった。
隣に立つ舜帝は、口を閉ざしたままである。彼はただ白山を見つめていた。
なぜ――なぜだ、と秋沙は考えた。この類の迷いが心に生じても、いままでならばたやすく抑えることが出来ていた。それが“秋沙”という女であった。
(母上)
母上ならばきっと、こんなことはない。得体の知れぬ心の迷いなど、彼女の心には生まれさえしない。
「迷うているか」
問われて、女の唇がかすかに震えた。
「俺を殺さねばならんのだろう」
「…………」
閖。奈綺。愛すべき母の祖国――そして実質おのれの祖国でもある舜。それらさまざまのものが、この舜帝には深く強く絡みついている。第一嫡子でないにしろ、この男はそれでも舜先帝の御子には違いない。
(きっとその躊躇もある)
『風の者』が躊躇なく主君を弑することなど、むろんあるはずもなかろう。
「もう幾日か、待て。柳帝はどうせ、こののち俺が強大な敵となる――そうふんで始末しにかかろうとしているのだ」
まさにそうだろう、と秋沙は静かに眼を細めた。そうでなければ、この舜帝がみずから舜を潰してくれることほど柳にとって喜ばしいことはない。潰れたところを柳の賢帝が――舜先帝と“親交の深かった”柳帝が救うという構図にしさえすれば、それでよかった。
(にも関わらず、舜帝を弑するために動きはじめている)
ヲの片割れが抱く激烈な憎悪を、なるほど父はもっとも厄介なものと思っているらしい。
「秋沙よ。俺はこの国さえ潰してしまえば、もう何も要らぬのだ。柳の敵になろうとも思わず、むろん大陸を制したいとも思わぬ」
舜帝がこういう真摯な物言いをするとき、秋沙は喉もとに刃を受けているような心持ちになる。
「幾日か、待て。舜で暴動が起きるのを待ち、俺は皇室の連中を殺す」
「……おひとりで」
「そうとも。だが俺は『風の者』ではない、おまえに手出しをされると敵わぬ」
「おひとりで」
と、念を押すように秋沙はつぶやいた。『風の者』でもない、いったいひとりで何が出来るというのか、と思った。
「……俺は『風の者』ではない、しかし閖はおのれの持つさまざまな才を、俺に与えてくれた」
――閖が。
『風の者』である閖が、『風の者』としておのれが持った才を、他人に与えただと。ひとを一撃で殺し、謀り、ときに国を潰しさえすることのできる力を――閖が。
「……………………」
秋沙の双眸が悲しく光った。一瞬のことである。
なぜ閖は、舜帝に救いの手をさしのべたのか。とうに心のどこかで察していたことではあった。察していながら、幾度もそれを打ち消してきたのであった。
(閖――あなたも)
どこか遠い声で、秋沙は舜帝に話しかけた。
「それで、そのあとどうするおつもりでいらっしゃる」
「柳帝のまえで死んでやるさ。だからおまえは、けっして手出しをしてくれるな」
柳帝のまえで俺は死に、そうしてからおまえなり斂なりが入舜して国を治むればよい。だからおまえは、けっして俺を遮ってはくれるな。どうか最期の瞬間まで、俺を遮ってくれるな。
舜帝はそう言った。秋沙は本能的に悟った。
(父上。弑することなど、出来ませぬ)
おのれの不甲斐なさが、ひどく情けなく思われた。ただもうそれをどうにかするだけの力を、秋沙は持たなかった。
(これが……これがわたしの性質なのだ。ほんとうの)
ヲの片割れとして忌まれ虐げられ、何ひとつ知り得ぬ肉親たちの笑い声のしたで息をひそめてきたものたち。生き延びたとしてももはや兄姉の代用でしかなく、けして自我を持つことなど許されぬものたち。世を呪うたまま怨嗟の声をあげて死んでゆくものたち。けして対面することのない母を恋い、父を慕い、何も得られぬまま死んでゆくものたち。
わたしは何も憎くはない――何をも怨んではいない。ただこの心が、共鳴りしている。母を恋い、父を慕い、肉親を欲したヲたちの心に、である。何が契機であったのかは知れぬ。しかしいままでさまざまな感情を葬ってきたことが嘘であるかのように、もはや秋沙の心は流れてやまなかった。
(閖……あなたも)
なぜ閖は、舜帝に救いの手をさしのべたのか。なぜ閖は、舜帝に『風の者』としての才を授けたのか。
(なぜ言ってくださらなかった)
なぜわたしは、気づくことが出来なかった。
舜帝と閖のあいだに築かれた絆が、いったい何であったのか。
――閖、あなたも舜を憎悪していた。
(舜帝の心に共鳴りし、そうして彼に救いの手をさしのべた)
斂の言葉を思い出していた。息絶えるその瞬間に、閖の唇は舜帝の名を象ったという。俺が舜帝を見限ってしまっては、いったい誰が。国など――国など。俺が忠誠を誓ったのは、俺がほんとうに護りたいと思ったのは、舜国などではなく。
(なぜなら閖よ、あなたもまた)
◆ ◆ ◆
舜帝は、傍らに立つ美しい女の双眸を見つめた。一瞬そこに悲しい光がはしったかと思うと、すべてを確信したかのようにふたたび憂えた色に戻った。
「思い至ったか、秋沙よ」
女の唇が渇いている。不憫だ、と舜帝ははじめて秋沙にたいしてそう思った。『風の者』らしいというのか、奈綺の娘らしいというのか、ともかくいままで見慣れていた冷ややかな光がない。美しく澄み、ただ静かな双眸であった。
秋沙とは、ほんとうに優しき女であるのだ――母を慕うあまりにおのれを厳しく律しているが、暖かく明朗であり、またひとを愛する心を知っている女であるのだ。
(……不憫だ。なぜそういうふうに、生まれついてしまったか)
閖の言葉を思い出しながら、舜帝はふたたび視線を白山に戻した。いまとなって、閖の言葉が鮮やかに脳裡に甦ってくるのである。
奈綺の娘――生まれながら『風の者』としての資質に恵まれた女、あれほど『風の者』にふさわしく、あれほど『風の者』に不向きなものもいるまい、と閖は言っていたのだった。
「思い至ったか」
と舜帝が訊ねると、秋沙は静かにその眼を伏せた。
「…………」
「…………」
この女の気質を、舜帝は閖から聞いて知っていた。優しく聡明であり、しかし母よりも朗らかな表情でひとを殺すことができる。秋沙の話をするとき、閖はその冷たく爽やかな双眸をそっとすがめるのであった。愛しているのか、と訊くと、彼は何も言わずに微笑んだ。
――舜を潰す。ただそのためだけに、ここまでやってきた。ただそのためだけに、『風の者』として生きてきた。閖はかつてそう言った。
これは盲点だ、と彼はまたこうも言った。『風の者』が舜国に刃を向けることなどけっしてありえぬと、皆が思っている。皇族たちも民々も、そしてまた『風の者』たちさえも。俺の忠誠心が疑われることは、けっしてない。なぜなら俺が『風の者』であるからだ。
「閖もまた……」
ぽつりと秋沙はつぶやいた。ため息を落とすようにして、言葉をつづけた。
「閖もまた、ヲであったのですね」
舜帝は、秋沙の静かな双眸を一瞥した。その眼はすでに穏やかな光を湛えており、もはや悲しみの色はなかった。
(舜を潰すまでは、倒れぬ。俺はけっして、倒れぬ)
柳帝のまえで死んでみせようといったとき、秋沙の瞳奥が揺れたのを、舜帝は見逃してはいない。これで秋沙を掌中におさめた、と彼は思った。これでこの女は、俺の盾となるだろうと思った。
◆ ◆ ◆
奈綺嬢よ、と斂は心のなかで呼びかけた。あなたはなぜ、あんなにも早く逝ってしまったのだ。俺はもう、わかっている。小嬢は、殺しあう覚悟で俺と相対するだろう。俺は、あの娘を殺さねばならぬ。
(あなたの首をとり、そしてまたあなたの娘さえ殺さねばならぬとは)
それでもあなたは言うに違いない。
(それでいいのだ、と――あなたは言うのだろうな)
次に生まれるときは、生まれたときからともに戦う同志ぞ。あの日、最後に奈綺と過ごした日。あのとき交わした言葉が、ふと脳裡に甦った。
奈綺よ。もう一度、あなたに会いたい。
【蒼雪のとき】
秋沙は舜帝の掌中にはまった。
◆ ◆ ◆
あとには退けぬ。
(わたしはもはや、逃れられぬ。舜帝の掌中にはまったのだ)
国内で起こりはじめた暴動は、小規模なものである。しかし舜帝が意図的に配した官吏たちは、それについていっさいの対策を講じなかったし、栄華を誇った舜都においてさえ店をたたまねばならなくなった家々が出てきた。
人心の荒廃、帝と臣民のあいだに生まれた溝、そういったところは賊のたぐいにつけこまれた。
「人心を何と心得なさる」
宰相は失望の眼で秋沙を一瞥し、そうしながら舜帝に向けて言葉を発した。あの奈綺の娘ならば、すみやかに今上帝を弑し奉ることができるであろうと期待した――にもかかわらず舜帝はいまだ健在であり、秋沙はおのれを失したかのように静かな眼をして彼の傍らに控えているのである。
「陛下、このままでは国が潰えまする。先帝たち、また先人たちが幾百年にわたって築きあげてきたこの大国が……」
「まあ待て、宰相よ。見極めているだけだとも、この荒世に生き残る強者がいかほどいるのか、ということをな」
「しかし……」
「焦るな。もう数日で機は熟す、そうなれば迅速に動くさ。いましばらく待て」
「…………」
宰相は口を閉ざすしかない。ひとびとが、秋沙を“奈綺の娘”としてみるのと何ら変わらぬ――宮中のものたちもまた、舜帝を“先帝の御子”として信望の瞳で見つめている。あの賢帝の御子であるのだから、舜を亡くすような愚かな行いをするはずがない。こうして非情の愚帝にみせているのも、国じゅうを見極めるための芝居に違いないのだ――というふうに舜人たちもまた、心の奥底でその呪いから解き放たれずにいるのであった。
「秋沙よ」
と呼び止められて、彼女は静かにその歩みをとめた。宰相の声である。
「…………」
「なぜ……奈綺の娘ともあろうものが」
男の眼が、なぜ舜帝を弑し奉らなかったのかと責めていた。
(ほんとうに)
おのれに問いただしたいほどである。宰相の恨みがましい顔を、しかし秋沙はいつもと変わらぬ平静な瞳で見つめかえした。
「宰相、ご安心なされませ。陛下はけして暴君にあらず、さきほどのお言葉を信じなさるがよろしいでしょう」
◆ ◆ ◆
求められたとおりいっさいの手出しを控えた秋沙に、舜帝は静かに言葉をかけた。
「秋沙よ――おまえの」
ふとしたときに見せる真摯な双眸や、穏やかな声や、暖かみのある表情や、そういったものこそがこの男の本来の姿である。復讐の影にひそむ、これがまさに先帝の子である証である。
おまえの決断をありがたく思う、と皇帝は言った。
「…………」
男の差しだす酒器に、秋沙は黙って果実酒を注ぐ。芳醇な香りがたちのぼった。酒を飲み干す舜帝の喉の動きがなめらかである。わずかに躊躇してから、秋沙は視線を落としたままつぶやくように言った。
「陛下。先帝陛下や、あるいは母君が恋しくはございませんか」
舜帝がこちらを一瞥した気配があった。
「……おまえに何を隠しだてしようとも、もはや意味はないだろうな」
面をあげよ、と舜帝は言った。ひとの耳朶を心地よくうつ声音である。いまそこに、彼を暴君と思わせるような色はない。いまの舜帝を見ればだれもが、なるほどあの先帝の御子だと安堵するに違いなかった。
秋沙はゆっくりと顔をあげた。
「恋しいさ。もう一度、お会いしたい。それも……兄としてではなく、また兄の代用としてでもなく」
舜帝のくちびるに、すっと暖かみがはしった。
(ああ……これは)
これはおそらく、この男が他人に見せる最初で最後の表情に違いない。
「ヲの弟である、ひとりの俺個人としてお会いしたいさ」
窓のそとは、深い雪である。雪は淡く蒼みを帯び、蒼河とおなじように耀いている。この季節の雪が蒼雪とよばれる所以であった。
「おまえと初めて会うたとき、それはおのれの姿と重なった」
秋沙という娘――あの“奈綺”の娘であるというだけで、その存在に価値がうまれる。死んだ奈綺の代わりを務めることができるのは、つまりこの娘だけであるとだれもが思った。それは秋沙への信望につながったが、言い換えればそれらは奈綺への絶対的な信頼に他ならなかった。
「おまえは一度でも、奈綺の存在をなしにして……ひとりの“秋沙”という女として見てもらったことがあるか」
父柳帝、支岐、あるいは彩妃。斂でさえも、秋沙の背後にいつも奈綺の姿を視ていた。秋沙はつねにひとりの“秋沙”ではなく、“奈綺の娘”であった。
「ひとりの人間として扱うてもらったことがあるか」
舜帝の声に、秋沙を追い詰めようとするような響きはない。おのれの生きてきた日々をふりかえりながら話しているのか、その眼は遠かった。わたしはこれだからいけないのだ、と秋沙は瞑目した。おのれの心が舜帝にどんどん共鳴りしてゆくのである。いまにも溶けあってしまいそうだ、と女は微かな嘲笑をくちびるに浮かべた。
そうだ――わたしをひとりの人間として見てくれていたのは、閖だけではなかったか。
「この二十年、苦しき日々であった。つらく、また悲しかった」
淡々とした吐露である。
「父帝に認めていただき、母上に愛されたかった。ヲであろうとなかろうと、兄弟手を携えて国を治めることが出来たならばどれほどよかったろう――幾度も思ったものだよ」
そう、いままで苦しき日々であった。ほんとうはつらく淋しく、また悲しかった。父に認められ、母の誇りとなることが出来るのであれば、もはやおのれが“秋沙”でなくともかまわなかった。秋沙として愛される夢など、それはただの夢でしかなかった。けして不幸であるとは思わなかったが、苦しく悲しい日々であることに違いはなかった。いつでもおのれの生き道を捜しつづけていた気がする。
(けれどたしかに、わたしは“秋沙”として父上や斂さまたちに認めていただきたかった。母上の代わりとしてでなく)
秋沙として、母上に誇りとしていただけるような『風の者』となりたかったのだ。胸が灼けるような感覚に、秋沙は渇いたくちびるを震わせた。
「憎しみは消えぬ。しかしまもなくすべてが終わると思えば、なぜであろうな……ひとはどうやら安堵するものらしい」
「…………」
舜帝が手招きをした。秋沙は黙ったまま寝台の傍らに歩み寄った。舶来の乳香が柔らかく流れる。伸ばされたしなやかな舜帝の腕のあちこちに、消えぬ傷痕がある。これは幼いころからの虐待の痕であったか、と秋沙は思った。
その舜帝の手が、驚くような優しさをもって女の白い頬に触れた。
「秋沙よ、おまえは不思議なことにだれも憎んではおらぬようだ」
「…………」
「許せ、俺はおまえの体を傷つけたな。だがいま、俺はけしておまえを厭うてはおらぬ」
舜帝の腕がそっとおのれの体を抱きしめることに、秋沙は謐として逆らわなかった。
「戯言と思うてもかまわぬ、似た境遇のものの言うこととして、ただ聞け」
と言って、男は視線を伏せた。
「秋沙よ。おまえが望もうが望むまいが、おまえは生まれたときから死ぬときまで、“秋沙”というひとりの人間であるのだ。忘れるな」
立ち尽くす秋沙は、もうこのとき“奈綺の娘”でもなく『風の者』でもない。二十歳にも満たぬ、ただひとりの人間であった。
「何も怖るることはないのだ。おまえは奈綺と柳帝のあいだに生まれたが、生まれ落ちた以上はもはや父母とおなじ生きものではない。おまえは秋沙という名のひとりの女だ、おまえにはおまえ本来の性質があり、心の奥が望む生き道がある――秋沙として誇り高く生きよ」
「…………」
「二十年ものあいだ、復讐だけを思うてきた俺には出来ぬ。閖にも出来なんだ。だれも憎んでおらぬうちならば、けして遅くはない」
――おのれの幸福を忘るることなかれ。
蒼雪が深い。ついに秋沙は腹をきめた。
◆ ◆ ◆
宮中に異変が起こったのは、それからまもなくのことである。宴をひらく、と舜帝は言った。
「宰相には命じてある。枢要な文武官どもを宮城に集めよとな」
ゆるやかなしぐさで、秋沙は拱手してみせた。何人たりとも皇帝の命には逆らえぬ――その宴の場で、舜帝はおのれの持つ刃を宰相たちへと向けるだろう。
(ヲの弟でさえなければ)
この男は賢帝と呼ばれていたに違いない。
(運とは……怖ろしいものよ)
「遮るものたちを始末せよとは言わぬ。おまえはただ、手出しをせずに居よ」
「……御意」
東空に月が姿をあらわしたころ、舜宮城の大広間に多くの文武官が集まった。舜の主だったものたちが一堂に会するさまは、壮観であるといってよい。秋沙が幼少のころに見知ったものたちも、少なくなかった。彼らはつまり、おのが母を知っているものたちでもある。
(申し訳もございませぬ)
「よくよく舜のために働いてくれた。今宵はくつろがれよ――暴君として振舞うてきたが、これで存分に膿も出た。わが皇室に与するもの、与せぬもの、それらすべてを見極めたり。明日から、ほんとうのわたしの治世がはじまる」
あたりが静かにざわめいたのは、一瞬のことである。玉座に腰をおろした舜帝の様子は、たしかにいつもとは異なるようであった。日頃あれほど露にしていた荒ぶる野心も、気性の激しさも、いまはいっさい見えぬ。秋沙が怖れ厭い、その一方で惹かれた――惹かれたといっても誤りではなかろう――真摯な気配に満ちている。これがほんとうの姿であったか、とひとびとは思い、心うちで安堵した。この安易な心の動きを責めるわけにはいくまい。彼らの脳裡にはいまだ先帝の姿がこびりついており、その先帝の御子が国に仇なす愚者であろうはずがない、と心の奥底では信じていたからである。あたりを包んだ安堵の空気を、秋沙はただじっと体で感じていた。
酒宴がはじまった。
「秋沙よ」
と舜帝が彼女を呼んだ。穏やかな声である。秋沙はすでに舜帝の傍らに坐していた。酒宴の席に『風の者』がいては不穏であるから、今宵の秋沙はきらびやかな裳と襲をつけ、化粧を施している。呼ばれて女は、小さく膝をすすめた。
「どうせ、そこここに『風の者』が隠れていようよ」
臣たちに向ける表情は、どこまでも静かであった。ごく小さな笑みを湛えたまま、舜帝はつぶやくように言った。
「奴らは俺を止めるべく全力を尽くすであろう。おまえひとりでそれを阻むのは、けっして容易くはなかろうな」
酒器のぶつかる高い音が、広間を満たしてゆく。静けさが談笑のさざめきに変わるまでに、そう時間はかからなかった。そのさざめきのなかで、舜帝のしなやかな腕はそっと秋沙の体を抱き寄せた。
「俺が『風の者』の手にかかったときは、おまえはすぐにここを離れよ」
「…………」
耳もとに吐息がかかる近さである。秋沙はただ黙ってその眼を伏せた。
「秋沙よ、『風の者』は幾人いると見る」
「……天裏に四人。それから」
抱き寄せる舜帝の腕に体を預けるようにして、秋沙はじっと息を凝らした。そうしながら、あたりの気配をひとつずつ拾っていく。
「内宮からの渡り廊に、三人いるかと」
舜帝の柔らかな吐息が、髪にかかった。秋沙よ、ともう一度舜帝は呼びかけた。あげた視線がぴたりと絡みあった。たがいの心は共鳴りしている――この男女は、すでに気づいている。
ヲの片割れとして忌まれ虐げられ、何ひとつ知り得ぬ肉親たちの笑い声のしたで息をひそめてきたものたち。生き延びたとしてももはや兄姉の代用でしかなく、けして自我を持つことなど許されぬものたち。世を呪うたまま怨嗟の声をあげて死んでゆくものたち。けして対面することのない母を恋い、父を慕い、何も得られぬまま死んでゆくものたち。父母に愛されることのないものたち、認められることを夢にまでみておのれを殺してゆくものたち――もはやことの善悪が問題なのではなかった。おのれのすべきことが問題なのではなかった。はからずも共鳴りしたもののために、何かせずにはいられない。いま秋沙を動かし、また舜帝を動かしているのは情である。静かにみえながら何よりも激烈な情である。
おのれは秋沙でありながら奈綺でもある、それはみずからが望んで確立した生き道であった。しかしここにいたって秋沙は、はじめて秋沙として行動しようとしていた。このとき彼女にとって、奈綺はあくまで母であり、けっしておのれの心うちに棲む分身ではなかった。また彼女はいま『風の者』ですらなく、そのことを自覚してもいた。
「おまえとの対面も、おそらくこれで最後となろう。おまえは俺の心に共鳴りし、俺はまたそれをおのれにとって都合が良いように利用した。許せ」
そっと秋沙は眼を閉じた。長い睫毛が一瞬震えた。
「親にまつわるさまざまなことが、おまえにとって淋しくつらいことであったろう。それをおのれの不幸にせぬは、おまえの心の在りようだ。その心を持ちつづけると良い――その優しく暖かな心をな」
母は、優しく暖かな心など要らぬと言った。心はいつでも冷え冷えとし、優しさや憐れみで動くことがあってはならぬと言ったはずであった。
「母の言うことを信じ守るのもまた良いだろうよ。しかし俺は、その優しさや情の深さこそがおまえの美点であると断じよう」
「…………」
「さて、それではゆくかな」
と、舜帝は静かに秋沙の体を離した。離れてはじめて、ああこの男にもぬくもりがあったのだと秋沙は思った。
舜帝がふらりと立ちあがったとき、ひとびとはみな、彼が酔っているのだと思った。天裏や渡り廊から人影が飛び出してきたのと、舜帝が糸刃扇を繰り出したのとが同時である。人影を阻みながら、秋沙は舜帝の殺しを一瞥した。
(ああ……)
脳裡に閖の姿が甦る。敏捷な身のこなし、的確な一撃、風に乗ったかのように滑らかな武具の操り――美しい殺しである。
(閖は本気でこの男に……おのれの技のすべてを伝えたのだ)
酒宴の座に、武具の類は持ちこめぬ。臣たちはただ逃れようと腰を浮かせ、腰を浮かせたところで舜帝の糸刃扇にかかった。これでこそ故先帝の嫡子であると安堵した矢先の出来事であったから、その場に居合わせたすべての顔に驚愕の色があった。
飛び出してきた『風の者』たちは、躊躇なく舜帝に向かってゆく。彼らはただ祖国を潰してはならぬという一念のみで動いているから、秋沙には眼もくれぬ。秋沙はそれらの背に容赦なく糸刃扇を向けた。ただびとではないから、彼らはそれを避ける。避けたところに秋沙はまっすぐ小太刀を突っこんだ。秋沙の動きにもまた、いっさいの躊躇がない。『風の者』たちが祖国のために戦っているのとおなじように、この女は舜帝とおのれの心のために――死んだ閖のために戦っているのであった。
「秋沙――――!!」
『風の者』の屍が、すでに六つ転がっている。ひとりの『風の者』が秋沙の名を呼んだ。狛である。秋沙の眼は良い、舜帝から視線を逸らさないまま狛にも一瞥をくれた。舜帝は、いま無数の武官に囲まれていた。体のあちこちから、血が流れている。『風の者』の小太刀を受けたのに違いなかった。とはいえ、その程度の怪我で舜帝がおのれの目的の達成に集中することが出来ていたのは、むろん秋沙がいたからである。
「どういうつもりか!」
狛の声は、朗々と広間に響く。あたりに出来た血溜まりが、その声を柔らかく吸いとっていくようである。
「これでは国が……国が滅ぶ」
秋沙は静かに狛と対峙した。
「おまえは母の遺志を無駄にするか」
「狛さま――わたしは、舜国を潰しませぬ。舜宮廷をひとたび潰すのみ」
「秋沙よ、祖国に刃を向けてはならぬ」
秋沙も狛も、ともに舜帝から注意を逸らさない。ふたり静かに対峙しているようでありながら、たがいの息を読んでいる。空気が張りつめていくようであった。
「閖を覚えておいででしょうか」
「…………」
狛の沈黙は、肯定の意をしめすものである。秋沙はつづけた。
「閖はヲの弟として生まれました。ヲの弟妹の末路は、狛さまならばご存知でございましょう」
「…………閖が、ヲの弟だと」
「そして舜帝陛下もまた」
狛は『風の者』である。おのれの感情を殺すことに長けている。その狛のくちびるが震え、みるみるうちに渇いていった。
「舜帝陛下というのは、いま……そこに」
秋沙は黙ってうなずいた。秋沙の眼前に立つ『風の者』は、それでさまざまのことを理解したようである。
「ならぬ……」
「狛さま、陛下をお止めなさいますか」
「………」
揺れた双眸を、男は懸命に抑えた。驚愕の色が濃かったが、やがてその瞳の奥にある種の悲しみが生まれた。
「やはりおまえは、奈綺ではないのだな」
と、狛はあたりまえのことをつぶやいた。悲しそうな男の双眸が、秋沙はただ淋しかった。
(だれもがわたしに……母上を求めていらっしゃる)
それはけして不幸せなことではない。むしろそんな女を母に持ったことが、誇りかでさえある。ただ、淋しかった。いままで押し殺し、隠し、知らぬふりをつづけてきた感情のすべてを、秋沙はようやく自認した。
「陛下に共鳴りしたか。おまえのその優しさは、けして悪くない。だが……」
ちらりと狛の視線が舜帝のほうへ向けられた。
「だが、『風の者』としては致命傷ともなりうる欠点だ」
ひとつ呼吸をおいて、秋沙はそこで静かに微笑んだ。幼いころによく見せた、柔らかく明朗な笑顔である。母が片脚を失ったときにも、秋沙は最後までこの笑顔で戦いきった。
(そういえば心に御しきれぬものが生まれたのは、母上が亡くなってからだった)
子は、親を求める。親の姿を見知っていれば、なおさらのことであった。
「……狛さま。悪習は廃するべきでございまする。悪習が閖のようなものを生み、陛下のようなかたを生む。それが舜を一気に衰退させた」
「悪習は廃するべきだ。だがそれを俺に言うてどうする。廃するのは我々ではない。皇帝が、皇室が、民々が、また時代の流れが法を変えてゆく。おまえが説くべき相手は俺ではなかろう」
何をどう踏みちがえてきたのか、もはや秋沙にはわからぬ。これが道を踏みちがえたゆえの結果であるのか、それともこれこそがおのれにとって正しい道であったのか、わからなかった。
「秋沙よ。俺は陛下を弑したてまつる。まだ地方には先帝陛下の弟君が健在でいらっしゃる――聡明なかただ。その血筋さえ守れば、舜はけして潰えぬ」
無風であるはずの広間で、一瞬ゆるやかに風が起こった。狛が動いたのである。ひとり、またひとりと武官の息の根をとめてゆく舜帝のもとへ、『風の者』はものの数秒でたどりつく。
ここで思いとどまっても良いはずであった。これが最後の機会であるとわかっていた。舜帝が宮中皇室の人間を絶やし、狛が舜帝を弑する――そのあとに秋沙が狛を殺しさえすれば、それは柳にとって大きな益となるに違いない。ここで思いとどまり、狛が舜帝を弑するのを黙って見ていればよかったのである。
ひとを守るためだけに駆けたのは、これがはじめてであったかもしれぬ。秋沙はいま、ただ舜帝を守るという強固な意志をもって飛んでいた。舜、柳、父母――そういったものをすべて心のそとへ置いていた。
(母上)
ひとの心に共鳴りすることがこんなに怖ろしいことであるとは、思ってもみなかった。けれどもいま、はじめて秋沙というひとりの人間となれたような気がする。これでよかったのかもしれぬ、と秋沙は頭の片隅でそう思った。
【蒼穹】
舜帝は、その脚に傷を負うていた。酷な鍛錬と復讐の一念によってのみ、『風の者』としての才を会得した男である。天賦の才であったかと問われれば、けっしてそうとは言いきれぬ。ここまでよく戦ったというべきであろう。その舜帝を背に庇うようにして、秋沙はふたりの男と対峙していた。
「小嬢――おのれの道を、見つけたのだな」
舜帝の脚を傷つけたのは、狛ではなかった。閖から『風の者』としてのすべてを受け継いだ舜帝の脚に傷を負わせたのは、その閖さえも死に導いたただひとりの男である。斂――幼いころから、秋沙が慣れ親しんできた男であった。奈綺を慕い、かの女の死の直前までその傍らにいた男でもある。
「斂。おまえはどちらを選ぶ。陛下を弑するか、それとも秋沙を討つか」
狛は小太刀を構えなおしながら、落ち着いた声で斂に問うた。『風の者』として三十六年ものあいだ乱世を生きてきた男は、ここに至ってもなお冷静である。彼の言葉には答えずに、斂は憬れつづけた女の忘れ形見を静かに見つめた。顔だちはやはり母に似ている、と斂は思った。
「小嬢よ。俺は柳帝陛下の命を受けてやって来た――舜帝陛下を弑するためである。もしもあなたがそれを阻むならば、俺はあなたをも殺さねばならぬ」
出来うることならばそれだけは避けたい、と彼は言った。本心である。秋沙が崖から墜ちて死んだ、という報せを聞いたときのことを、斂はいま鮮やかに思い出していた。柳帝は激怒し、斂は愕然とした。あのとき、ふたりともに秋沙の生存を期待し、切望していたはずではなかったか。それがいまでは、かの女を死へ導こうとしている。
母である奈綺は、いったいどんな顔をするであろうか。どうせあの女のことであるから、まあそれが秋沙のさだめであったのだろうよ、とでも嘲笑してみせるに違いない。
秋沙のまっすぐな双眸が、ひたと斂を見据えている。生来の明朗さを隠した双眸は、これもまた母に似ていた。
「斂さま。わたくしはようやく、真実を悟ったのでございまする。頭うちではわかっていながら、心が認めていなかった」
「……とは」
「母上は」
「…………」
「奈綺は奈綺であり、秋沙は秋沙にすぎなかったのでございます」
かたちの良い斂の唇が、かすかに震えたようである。それはまさに、斂が柳を発つ直前の柳帝のつぶやきであった。奈綺は奈綺であり、秋沙は秋沙にすぎぬ。秋沙に奈綺を求めることも、あるいはまた奈綺に秋沙を求めることも、それらはすべて真実のまえには無力に等しい事々ではなかったのか。
「それはまた……」
不意にべつの声が響いた。その声を背に受けるような格好で、秋沙はひとつ瞬きをした。舜帝である。舜帝の視線とふたりの『風の者』の視線が、秋沙を挟んでぶつかりあった。
「おまえたちは“奈綺は奈綺であり、秋沙は秋沙にすぎなかった”という言いかたをするが……」
先帝を彷彿とさせる穏やかな声である。つい先日までの、ひとを冷たく突き放すような声色ではない。狛は寂しく、また懐かしい思いでその声を聞いた。いったいなにをどこで、誰がどのように道を踏み違えたのか。『風の者』であるこの男でさえ、そう思った。おまえたちは“奈綺は奈綺であり秋沙は秋沙にすぎなかった”、という言いかたをするが、と舜帝はつづけた。
「秋沙は秋沙であり、奈綺は奈綺にすぎなかったということでもあるのだ。おまえたちにとって奈綺がどれほどの存在であるのか、見当がつかぬわけではない。だが俺にとって、奈綺などはただの死人である」
ああ、と斂は悟った。
「いまさら奈綺を求めて何がどうなる。いま生きているのは、奈綺ではなく秋沙であろうよ」
いまここに立つものたちのなかで、舜帝だけがいっさい奈綺の影を纏うておらぬ。
(……これが理由か)
「いま俺の眼前にいるのは秋沙というひとりの女であり、人間である。おまえたちは、いったいいつまでこの娘に死んだ間諜を求めるつもりでいるのか」
このときたしかにふたりの『風の者』は、心中で彼の言葉を否定しなかった。そのくせ男たちの表情にいっさいの動揺も共鳴りも見えなかったのは、もはや道がひとつしかないことを彼らが理解していたからであり、また彼らが『風の者』であったからである。細々とした理屈や理由は不要である。『風の者』であるというひとつの理由によって、彼らは生きもし死にもする。
「陛下」
と、狛が遠慮がちに口をひらいた。憎くて舜帝を弑せんとしているのではなかった。この男の眼は、あくまで真摯である。
「秋沙がひとりの女であり人間であるのならば、それで何も問題はございませぬ」
「…………」
「しかし、この女はただびとにあらず。『風の者』、それも奈綺の血をひいたもの――ふさわしい資質がなければなりませぬ。心身、才ともにふさわしくなければなりませぬ」
資質はあった。ひとを殺す術にも長け、ひとの心を読む術にも長け、奈綺の生まれ変わりとなって柳舜の絆となりうる女であった。舜帝よ、と斂は心奥でつぶやいた。
(舜帝……あなたと秋沙が出会うたこと、それ自体がそもそも過ちであったのだ。あなたがたの魂が、惹かれあってしまった)
斂の静謐とした双眸が、ふたたび秋沙に向けられた。見慣れた優しい女の顔は、いままでにない静けさを湛えている。連れあいを亡くした牝鹿のようだ、と斂は思った。その眼の奥に、彼は寂しげな詫びの色を見た。
「この女は優しすぎた」
と、狛はつづけた。
「陛下の御心に畏れおおくも共鳴りし、いま舜に弓をひこうとしているのでございまする。『風の者』がそうなってしまっては我々の存在する意義もなく、またそのような『風の者』がおってはならないのでございまする。わたくしどもは、おのれの全身全霊をかけて舜国をお守りせねばなりませぬ」
「…………」
舜帝の唇に、すっと苦い笑みがはしった。秋沙は一度も舜帝を振りかえらぬ。ただ斂と狛を見つめつづけていた。
「おひとりの皇帝陛下の御為に、国が潰えるようなことがあってはなりませぬ」
「狛よ。たとえばおまえの言う『風の者』としての掟を秋沙が破ったとして、それはこの女に罪のあることか」
「陛下……」
言ってから舜帝は、自嘲の笑みに唇をゆがめた。我ながら愚かしいことを言ったものだ、とかれは思った。秋沙に罪がないことなど、この場にいる誰もが知っている。ただ奈綺の子として産まれた、そのことによって秋沙の生き道はさだめられたのである。奈綺という女は、国の礎として子を産んだ。秋沙は、父母の幸福な睦みあいのもとに産まれた子ではない。奈綺の腹に宿ったそのときから、すでに道はひとつしかなかった。怨むならば、おのれが奈綺の子として産まれたことを怨むしかあるまい。
おなじことである。舜帝に罪などない。ただヲの弟として産まれた、そのことによって彼の生き道はさだめられた。怨むならば、おのれがヲの弟として産まれてきたことを怨むしかなかった。この若者たちの心は、産まれたそのときから行き場所を失っていたのである。
「……いや、くだらぬことを言うたな」
舜帝はつぶやいて、静かに端座した。自堕落でどこか乱暴だった、かつての皇帝ではない。どこで教えられたのか、それとも生まれつきのものであるのか、端座した姿は美しく気品に満ちている。いつのまにか、狛の唇が渇いていた。
「真実のまえに、すべての事々は無力――『風の者』たちよ、俺の復讐は遂げられた。もはや思い残すことはなし」
斂はつと舜帝から視線をはずして秋沙を見た。まだ二十歳に満たぬ女の双眸は、ただ透きとおるように静かである。やはり女は、一度も振りかえることをしなかった。
「秋沙。盃をもて」
秋沙の睫毛が一瞬うち震えたのを、ふたりの『風の者』は見逃さぬ。初めからこのつもりであったのか、と狛は瞑目したい思いであった。
「斂よ。素性はどうあれ、おまえは柳帝に仕えるものであろう。この国の潰えしのちは貴候の思うままになされよと、あるじに伝えおけ」
「……御意」
振りかえりもしなかった秋沙が、静かに動きはじめた。そこここで血が凝固しはじめている。灯かりの多くが消え、あたりは薄青い月光のなかに沈んでゆくようであった。秋沙の白い手が、傍らに転がっていた盃をとる。そののちの光景を、斂も狛も生涯忘れることはなかった。
秋沙の白い手が、傍らに転がっていた盃をとった。
「……陛下」
思わずつぶやいて身動きした狛を、斂の手が制した。舜帝が手にした盃に、秋沙はおのれの腰帯から抜きだした小瓶を傾けた。細くしなやかな手に、誰のものともしれぬ赤黒い血がこびりついている。盃を満たして、秋沙は渇いた唇をひらいた。
「わたくしが『風の者』でなければ、いまここで斂さまと狛さまをこの手にかけ、陛下をどこか遠くへとお連れ申しあげるのですが」
黙って笑みを湛えた舜帝の顔が、亡き先帝の慈愛深い表情と重なった。狛の頬がびくりと震えた。『風の者』たちはみな、かの主君を愛し慕ったものである。あの奈綺が心から従った、ただひとりのひとであった。これでよいのか、と、はじめて狛の胸中に逡巡がうまれた。
「残念ながらわたくしは柳人にございますゆえ、それが叶いませぬ」
そう言った女の美しい横顔が、奈綺の死に顔と重なった。今度は斂の双眸の奥がかすかに揺れた。死んだ奈綺の体を抱き起こしたときのその体の軽さが、またかの女の首を刎ねたときの感覚が、まざまざと斂の脳裡によみがえった。
「陛下。柳の『風の者』として秋沙がお供できるのは、ここまでにございまする」
視線がぶつかったとき、舜帝は予感した。
(この女は、俺の死に殉ずるつもりか)
眼前で拱手をし、秋沙はうっすらと微笑んだのであった。もっとはやくに出会うておればよかったのかもしれぬ――そうすればもう少し、と思いかけて舜帝は苦笑した。
(よい女であった)
この女が俺の死に殉ずるならば、それもまたよいかもしれぬ。舜帝はぐいと盃を傾けた。『風の者』たちが常用する猛毒である。数滴で死に至る。ひと息に毒をのんだ男の唇からは、まもなく血泡が噴き出た。
「……陛下」
狛の声が震えた。国の転覆を狙う皇帝など生かしてはおれなかった、しかし眼前でのたうつ青年はたしかにおのれの主君であった。敬愛した先帝の子であった。
「……陛……」
見ておれぬ、しかし眼を閉じることが出来ぬ。瞠いた狛の眼に、うっすらと涙が滲みかけた。ただびとの死ではない。国を護るため、苦悩ののちに選んだ主君の死である。ぐっと狛はおのれの唇を噛んだ。すぐ唇に血が溢れた。
「…………」
舜帝の息は、まもなく絶えた。
大広間はもはやひとの気配をなくし、しんと冷えきっている。ただ上窓から月明かりがぼんやりと室内を照らすのみであった。
「……秋沙……」
絶句していた狛であったが、つぶやいた斂の声で我にかえった。いつも優しく爽やかな笑みを湛え、その顔のままひとを殺してきた斂の声がどこか苦しげだったことにわずかな驚きを覚えたのであった。
舜帝の死に顔は醜い。眼は血走り、唇はゆがんでいる。秋沙はそのしなやかな指で、そっと舜帝の眼を瞑らせた。その手つきに、肉親にたいするような優しさがあった。
「陛下、秋沙がお供申しあげまする」
と、かの女ははっきりと言った。柔らかくひとの耳をうつ、穏やかな声である。
「秋沙よ」
斂の声が張りつめている。いま彼は、小嬢と呼ぶことを忘れていた。
「一度だけ言う。舜帝は死んだ――もはやあなたが死ぬ必要はあるまい」
舜帝の傍らに美しい姿で端座した秋沙を見て、男たちはたしかに苦々しい思いを心に抱いた。奈綺の血はやはり、奈綺でしか御しきれぬのか。かの女の血は、若き子どもたちを『風の者』として生かすには禍々しく強靭でありすぎたのか。どんなときにも逡巡なく戦い、ひとを殺し、涙など見せたことのなかった男たちがいま、はじめて喪失の苦しみを感じていた。狛は主君を失った。斂もまた、慕いつづけた女の忘れ形見を失おうとしている。
「斂さま」
秋沙の顔が、薄青い月明かりのなかで不思議なほどはっきりと斂の眼に映った。
「わたくしはさきほど、柳人として舜帝の死を見届けました。わたくしはこれから、舜人として陛下の死に殉じまする」
「…………」
思わず斂は言葉を失った。柳人を父にもち舜人を母にもった子の、まったく巧妙な言いまわしであった。そう言われると、忠義厚い『風の者』たちは返す言葉を失くす。狛がそうであった。また斂は、それとはやや異なった意味あいで口をつぐんだ。
(奈綺嬢……)
出会った瞬間から惹かれ憧れつづけた奈綺ならば、主君の死に際して一片の逡巡なくそれに殉ずるであろうと思ったからである。
「柳の栄華と、舜の再興をお祈り申しあげておりまする」
国政の乱れをおまえが助長したのではないか、と非難してもかまわなかったはずである。しかし狛はただ黙って立ち尽くした。端座した秋沙が、あまりにも崇高に見えた。
(このような国の終焉を、だれが予見し得たであろうか。奈綺嬢よ、あなたでさえ……)
秋沙は、懐から小太刀を取りだした。
◆ ◆ ◆
これでよい。父は蔑み、亡き母は激怒するに違いない。しかし、これでよい。奈綺は秋沙でなく、秋沙は奈綺ではなかった、というだけのことである。
おのれの理想とした生き道ではない。幼いころから母の遺志を継ぎ、『風の者』として柳舜を結びつづけるためだけに生きてきたはずであった。父たちの求める奈綺を演じ、それゆえに閖への思慕もたやすく断ちきった。実父とのあいだに子を生しさえし、兄や閖の惨死にさえも冷静でありつづけた。それこそが死んだ母にたいして唯一誇れる生き道であり、おのれの理想でもあった。
(ただ――)
母が慕わしかった。周囲が、あるいは時代が母を求めることはかの女を孤独にさせたが、それはむしろかの女にとって誇りかなことでもあった。おのれの姿、在りようにどれほど母が求められていても、いっこうにかまわなかったのである。
(母上。ひとの出会いというものは、怖ろしゅうございます)
舜帝と対峙さえしなければ、ようやく掴んだおのれの在りかたを手放しはしなかったものを。舜帝の心の深奥に触れさえしなければ、父上の行く末を遮るような愚かものになどなりはしなかったものを。
(魂が震えたのでございまする)
理想も、おのれの在りようも、すべてはあのときに崩れ去ったといってよい。舜帝がおのれの出生を暴露したときである。舜帝が、緻密な計算のもとに打ちこんできたもっとも強烈な楔であるとわかっていたにも関わらず、この魂は激しくうち震えた。
辛酸をなめる思いをしてきたものは、舜帝だけでない。民々を見渡せば掃いて捨てるほどいたろうし、『風の者』たちもまた、そうである。苦しみなくおのれの生き道を掴んだものなど、いない。みながみな、ふとした隙に迫りくる死を巧みに避けながら生きている。それがなぜ、この魂は舜帝にのみ強く共鳴りしたのか。
(……いまさら自問してもはじまらぬ)
それがもはや知性や理性によって根拠だてられるようなことでないのを、秋沙は本能で察している。舜帝の掌中にはまったとき、かの女はすでにそれと自覚していた。兄のように慕った斂の顔を思いだし、優しかった実兄の死に顔を思いだし、また幾度も冷徹な父の美貌を思いだした。そして最後には決まって、父とよく似たところのある母の美貌が脳裡によみがえった。それらを思いだしては、おのれが踏み出そうとしている道への不吉な予感に慄いた。
(母上。わたくしには、いまだわかりませぬ。なぜこのわたくしが、おのれの情動を止めることが出来なかったのか)
苦しみぬいた皇弟と道をともにする。もはや、そうせずにはおれぬ。『風の者』にしては豊かすぎる女の情動が、秋沙を行く末なき道へと引きずりこんだのであった。
(お詫びのしようもございませぬ、母上。秋沙は、おのれの魂が望むほうへとゆきまする)
ふと、舜帝の声が脳裡をよぎった。
おまえは秋沙という名のひとりの女である。おまえにはおまえ本来の性質があり、心の望む生き道がある――秋沙として誇り高く生きよ。
(わたくしは、奈綺ではなかった。母上の血をこの体うちにいただきながら、母上とは異なるものであった)
これでよい。これが秋沙の生き道であったのだと、こうなったいまはもう信じるしかあるまい。
かの女は、麻衣の前をぐいとひらいた。
「わが祖国に幸多からんことを」
秋沙は眼を閉じてそう言った。母が死に際につぶやいたのとおなじ言葉であることを、秋沙は知らぬ。突きたてる小太刀に、逡巡の色は見られなかった。
――秋沙、享年十九。
この日、長きにわたり栄華を誇ってきた大国舜が滅んだ。
【月歌後記】
史書にさえ名を残した稀代の『風の者』奈綺は、何よりも舜の護国を重んじた。舜帝ただひとりにのみ従い、その命によって柳帝に嫁した。かの女があれほど護ろうとした舜国は、先帝の崩御後まもなく傾き、驚くべき速さで滅亡への一途をたどった。皮肉にも滅亡までの道のりを易くしたのは、かの女の娘であった。
舜が滅んだ、そののちのことを記しておく。
狛はまもなく自害した。舜の滅びとともに、年老いた多くの『風の者』が自害の道を選んだ。若いものたちは、舜再興の志を抱いて諸国をまわりはじめた。
おのれの死を選んだのは、『風の者』たちだけではない。柳都で斂からの報せを受けた彩は、かつて柳帝に仕えた間諜らしく平然と我が子の死を受けとめたが、事の真相をすべて聞かされたときにはじめて顔色を変えた。その翌日に柳宮中から姿を消し、数日後に斂がかの女の死体を見つけた。
柳帝は冷静であった。諸国は舜の有していた領土をめぐって争いはじめたが、柳はそれにいっさい加わる様子を見せなかった。柳帝の命により、騒乱に乗じて無数の間諜が諸国に散ったのみである。奈綺の死に際しては涙を見せさえした柳帝であったが、実娘の死はただ頷きひとつで流した。
舜の滅亡から十七年後に、斂が死んだ。この男が選んだ死に場所は、最後まで慕いつづけた奈綺が死んだ岩場であった。その年、秋沙の産んだヲの兄が柳帝位に就いた。柳には、ヲの弟妹を忌むというような悪習はない。弟は『風の者』として、表裏において兄の片腕となった。新帝即位の二年後、柳先帝崩御。
◆ ◆ ◆
柳先帝崩御の直後、宮中から巷間に流れたひとつの噂がある。息をひきとった先帝の腕に、いかにも大切そうに包みが抱えられていた。宰相がそっとひらいてみたところ、中身はひとつの頭蓋骨であったという。
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2008/12/28(Sun)12:51:29 公開 / ゅぇ
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■作者からのメッセージ
一年間かかりましたが、これで【秋沙の章】を書き終えました。奈綺の章を書きはじめたころにはまったく終りが見えなくて、当時は奈綺がこどもを産むなんて思ってもいなかったし、舜が滅ぶということも考えていませんでしたが、書きすすめるうちにこんな形になりました。中学のころに奈綺のキャラが生まれて、あれからもう十二年が経ちます。未熟なかたちながら、それをひとつの物語にしつづけることが出来てうれしく思いますが、ずいぶん前から書きつづけてきたので、もう一度あらためて歌物語から読み直し・改稿をしていきたいとも思います。
【秋沙の章】の終わり方、これではちょっと、という見方もあるのかと思いますが、私の中ではこれしかありませんでした。すでに自分の頭のなかでは秋沙の息子たち。それから何百年のちの奈綺再来の話まで出来ているのですが、いつか――ほんとうにいつか、これも物語にできたらいいなと思います。そのときはまた、よろしくお願いいたします。よ、……よろしく…!
おつきあいいただきまして、ありがとうございました!!