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『アインの弾丸3 上』 作者:祠堂 崇 / リアル・現代 アクション
全角64964文字
容量129928 bytes
原稿用紙約200.05枚
姫宮恭亜に敵襲来! 今度の来訪者は――『自称落下系ヒロイン』!?
 




 Prologue     夜宴に似た舞踏会を





 廃屋街の荒んだビルの密集群。
 人の気配を忘れてしまった世界を、萩原笙子は一人歩いていた。
 と言っても、場所も場違いなら風体も場違いだった。簡素な黒服の上から純白のエプロンと、黒髪の頭上にヘッドドレス。見るからにそれはメイド服姿であった。見た目にも大人に部類されるであろう彼女は、それを恥じるどころか全く感情の無い表情のまま。
 しかも足元はダッシュブーツという奇天烈さだ。無人の街を踏み鳴らすブーツの乾いた音が、乱れる事の無いリズムを保ったまま刻まれていた。
 向かう先は路地裏。狭苦しい場所を抜けたそのビルとビルの合間に出来ている、ぽっかりと広がる空き地。
 酷く殺風景な場所だった。恐らくここに新しいビルを建設する予定で、結局オフィス街創立の計画によって流れてしまったのだろう。敷地の隅に鎮座された土管の束が虚しい。
 蒸し暑い昼時の無人域に幾人か、空き地を占領する者達が居た。
 出入り口――空き地に入れるルートはこの路地一本だけなので、必然的に出入り口となる――を見張るように壁際に寄りかかって立っていた人物に気付く。キャップを目深に被った小学生ぐらいの少年だ。今どきにしては落ち着いているというか、斜に構えた雰囲気の少年は笙子と視線が合う。少年は特に何を言うでもなく、少し頭を下げて挨拶にした。
 こちらも小さく頭を下げて返事とし、空き地に足を踏み入れる。
「重役出勤か? 良い御身分よの、萩原嬢」
 声をかけたのは空き地の中心に佇む少女だった。
 年にして十二歳程度。後ろの少年より幼いかも知れない。肌の上から医療用スモッグだけを身に付け、首からドッグタグを下げている。
 やや白髪交じりの黒髪を後ろで縛っているが、首に掛かるか掛からないかという短い髪を強引に縛っているため、後頭部にちょこんと毛先が生えている感じだ。
 しかし、そんな彼女の一番奇抜な部分は、彼女が腰かけているのが檜造りを思わせる巨大な棺桶だという点だろう。二メートルはあろう巨躯を横たわらせる棺を椅子代わりに座らせ、組んだ片足をぶらぶらと揺らしている。履いているのは便所サンダルだった。
 年に似つかわしくない老獪な口調で、少女は迎える。しかし笙子の無情な顔が少し、曇った。
「……これだけですか?」
 彼女の懸念通り、本来居るべき頭数がとても少ないことに少女も溜息を洩らした。
「らしいの」
「らしいの、ではありません。御嬢様はまだしも、他の序列持ちはどうされたのです?」
 少女を責めているわけではない。単に笙子の口調は常日頃から無機質すぎて、聞く者には威圧的に感じるのだ。それでも少女は疲れたような呆れ顔で答える。
「稲城嬢からは『めーる』とやらが来おっての、生徒会の仕事が押しとるので欠席じゃと」
 視線を少年に配ると、少年は肩を竦めて肯定した。
「ナタルン様が居られないのは?」
「なんじゃ聴いとらんのか。あの小童は姫君殿の勅命で東京を離れておるぞ。例の『なんとかねっと』とやらのな」
「『イリスネットワーク』です。早苗様は?」
「妙な話じゃなぁ、あの小娘が会合なんぞに顔を出した事が有ったかの?」
「不定名詞≠ヘ?」
「顔も知らん輩の動向など存ずるものか。大方無視してぶらぶらしとるんじゃろうて」
 笙子は目を閉じ、今まで溜めに溜めていた疲れを一気に吐息として吐き出した。
 ≪アマテラス≫に数多く居るオーラム・チルドレンの中でも、十指に入る強豪に与えられる序列持ちだけが参加出来る会合において、ここまで人数の少ない集結は正に『酷い』の一言でしかなかった。笙子は、毎回必ず参加してくれている眼前の少女に申し訳ないぐらいの心持ちで仕方がない。一人はきちんとした理由が在るがようだが、会合の報せはしたのだから無理なら無理と返事ぐらい寄こして欲しいものだ。
「協調性に欠ける部分が良いも悪いも多い部下達だと御嬢様は笑っておられましたが……当の御嬢様が来ないだけでこの体たらく……」
 額に手を当てかねない程の落胆振りを見せる笙子に、少女は老婆めいた笑い声を快晴の夏空へと上げた。
「かっかっかっ! 序列の一位と二位の間にこれ程までの人徳の差が出ようとはの。御主もまだまだ若いという事かぇ」
「笑い事では在りません、巴様。緊急会合の意味の深さをこれ程までに理解されない方々とは」
 苦悩する笙子の事を構わないどころか楽しむ少女は、くつくつと笑いながら指を差す。
「緊急過ぎる故に来んのであろうて。安心せい、まだ一人真面目で殊勝な者が来るであろうが。のう、直己坊?」
 笑みだけは無邪気そのもので、頭をかくんと横に倒して少年を見る。
 少年は帽子の奥でムッとした。
「坊ってのやめてくんない? いくら自分の方が年上だから≠チて、ガキ扱いされたくないんだけど」
「小童風情が何を言っとるのかのぅ、劉坊が来るのを一等焦がれとるくせに」
「……っ」
 指摘された少年は咄嗟にそっぽを向いた。少女の言う通りで、そうでなくてこのような会合に顔を出すつもりなどなかったぐらいだ。
 しかして、この場に居る三人が三人とも、その話題の人物が実は女性であることを知らない。
 それとは別の意味で、笙子は小さく溜息を洩らす。
「なんぞ、どうしたのか?」
 きょとんとする少女に、笙子は簡潔に答えた。
「飛牙様は一週間程前に、≪ツクヨミ≫の手によって撃破されました」
「「――!」」
 二者様々な驚愕が奔った。先に口を開いたのは案の定、少年の方。
「飛牙さんが!? そんなまさか……!」
 序列十位という総ての序列持ちが上位者に当たる立場の中で、少年が師とさえ認め唯一崇める先達の敗北の旨を、信じられないといった顔で疑う。
 しかし笙子は嘘だと答えない。それが事実である以上、何を言えというのか。
 対して、一瞬は驚きもしたが、少女はすぐに静かに尋ねた。
「何者じゃ?」
 冷静な対応に助けられた笙子は目を伏せて答える。
「断罪剣=v
 その名前が最も伝わり易いのだろう。少女は再び瞠目した。
「手数殺しの小娘か。成程の、決定打に欠ける劉坊では致し方無し、か」
 結果一つに勝手に納得する少女など無視して、少年は笙子に噛みつく。
「そんなことより! 飛牙さんはどうなったわけ!? まさか……っ!」
 言うのも気が引けるとばかりの少年に、笙子はようやっと否定した。
「いいえ、雪嬰様によって救出されたそうです」
 その一言に、少年は複雑な表情をしつつもほっと胸を撫で下ろした。助けに来た相手が今一つ気にくわないが、劉=飛牙が死ぬとあっては不愉快で他ならない。
「ただ、あの断罪剣≠ノ敗れたからには、状態も好ましくは在りませんが……現在は御嬢様の伝手で入院中です。『素顔を見られたくない』の一言で面会謝絶でしたので、どれ程の傷を負ったかは定かではありませんが、その一言から察するに神器を送還されたのは間違いないでしょう」
 諭すつもりで言った笙子だが、いかんせん無慈悲な声音だけに全く少年の溜飲を下げる手伝いなど出来ず、少年は歯を食い縛って俯いた。
 少女は呆れた表情で少年を見遣る。
「案ずるな、直己坊。顔を見せたくないなどと抜かせる内は壮健であろうて。勝手に動いた揚句、二位相当の実力とはいえ≪ツクヨミ≫の者なんぞに負けたとあっては、九位の劉坊は一溜まりも無いのぅ。序列外通告どころか格下げにもならんかっただけ儲けものじゃ」
 少女はそう言いながら、組んだ手を口元に、思案する。
 確かにこれは緊急事態にもなりかねない。あの断罪剣≠相手に下手を打てば、≪ツクヨミ≫最強のあの男が来る可能性も在り得る。正直、今≪アマテラス≫と≪ツクヨミ≫の全面戦争になったりしたら、最近の東京でのABYSSの異常発生を食い止めるという名目に支障が生じる。ABYSSを滅しようとする組織は何もこの二大組織だけではない。≪ローマ大聖堂≫や≪トリニティ・グループ≫など、そういった連中達も二大勢力に対抗出来得る程の実力を有していると考えて不思議ではない。最悪の場合、『あの組織』まで動き出したら裏の世界の情勢に亀裂まで起きる。
 しかも厄介なことに、名目上は結界を用いた東京都市内の因果律操作を阻止したという点で、≪ツクヨミ≫に分がある。ここで逆上して姫君の立場を悪くするのを構わない程、少女も少年も馬鹿ではなかった。
「それだけではありません」
「今度は何じゃ。さらに一人負けたなどと言う訳ではなかろうな?」
 聴きたくないと言いたげに溜息を零す少女に、さらに笙子はバッドニュースを告げる。
「善悪一<Tラト=コンスタンスが、≪アマテラス≫を離反致しました」
「何……っ?」
 これにはさすがの少女も心底驚いた。
 今出た名前は序列九位の破戟@ォ=飛牙と違い、序列七位、充分に強豪能力者の部類に入る。
 少女自身、彼女の潜在能力に関しては期待を膨らませていた節がある。戦い慣れをして経験不足さえ克服出来るとしたなら、現行序列五位の少女をも上回りかねない才能を持つ子だった。
「何故にだ。あれ程までに姫君殿に懐いておったあの小童が、離反などと」
「……」一度黙り込んだ笙子は、珍しく重々しく口を開く。「……例の異常適正者です」
「……闇の楽園=Aだったかの」
「左様に御座います」
 その時、少年はぞっと背筋を凍らせた。
 自分よりも幼い姿の少女が目を眇めただけで、どこか空気が張り詰めるような感覚に囚われた。
 ただっ広い空き地を満たす、二重の殺意。
 七位離反によって九位に昇格した少年でも、理解できる。
 ≪アマテラス≫の序列五位以上は、正真正銘の化け物の集まりだと。
 その、五位と二位が目の前に居るのだ。まだ多少の才覚を認められて序列持ちに入れた程度の少年にとって、これは驚異と言える。
 こんな殺気を放つ化け物の頂点に君臨する姫君とは、果たしてどれ程のモノなのか。
 少年は想像もつかなかった。
「……今は致し方無いとはいえ、どうにも厄介に思えるの」
「そうですね。不安因子になる前に、手を打ちたいものです」
 いいからその殺気を早く消してくれ、と少年は心中で願う。
 遂には無言で見つめ合う二人。
 不意に、ピリリリリリ、という色気の無い着信音が鳴る。笙子の携帯電話だ。
 意を削がれた笙子が殺意を納めてポケットを弄る。釣られて意気を消す少女。少年は二人に気付かれないようにほっとした。
「はい、笙子です」
『……会合の欠席、済まないと謝罪』
 抑揚の無い声が聴こえる。相手は姫君の命令で探索している子供のものだった。
「いいえ、御嬢様の命とあらば仕方の無いことです、ナタルン様」
 十三歳という、善悪一≠ニ同年齢でありながら序列六位に座する子供は、堅苦しい小声で話す。
「して、どうされましたか? 欠席を詫びる為だけにお掛けになられた訳ではないのでしょう」
『……早急の理解、感謝』
 すると相手は、不意に妙な事を口走った。
『……先程、姫君より連絡が在ったと説明開始。内容は善悪一@」反により新たに序列十位となった能力者についてとの事と補足』
 笙子はきょとんとした。
 七位が空席になったことで、七位以下の序列持ちは一段格上げになり、そうなればいわば十一位の立場に居る能力者は必然的に序列持ちとなる。
 しかし、新たな十位については笙子も知らない。当然だ。序列というのは概ね、総長である姫君が選定するものであり、総長補佐である笙子でさえ直前では知らない事が多い。
 そもそも、序列を持たない者は皆、会社で謂えば平社員のようなもの。殆どの者が三流に近く、善悪一≠フような異例のスピード出世を除けば、大概が十位に落ち付く程度でしかない。序列持ちからすれば興味も湧かない話だ。内部勢力を知るのはさすがの笙子も一苦労なぐらいである。
 だからといって、まさか新十位席の報告を部下にやらせるとは思えない。
 どういう事なのか詳細を聞こうとすると、ある意味素っ頓狂な質問をしてきた。
『……手っ取り早く結論に移行。序列十位は現在そこに居るか≠質問』
 笙子の柳眉がひそめられる。
 何を話しているのか分からない少女を見、誰と話しているのか分からない少年を見、口を開く。
「こちらには来ておりません。出席者は私を含め、巴様、直己様の三名です」
 それを聞いた相手は、深い深い溜息を零す。
 この人物が溜息とは珍しいと思った笙子が訊くより早く、相手は言った。

『……姫君の伝言を通達。明朝姫君宛に電話在り、内容は「≪アマテラス≫に仇名す悪に正義の鉄槌を」、至急連れ戻すようにとの事』

「…………………………、はい?」
 昼下がりの日照りが酷い空き地で、意味の分からない伝言に笙子は思わずぽかんとした。










 Bullet.T     楚々なる使者





 今日も穏やかな日々だ。
 本日の授業を全うし、帰りのショートホームルーム前のどこか慌ただしく感じる掃除の時間に箒を操っていた姫宮恭亜(ひめみや きょうあ)は思った。
 自らの意思によってオーラム・チルドレンへとなり、≪アマテラス≫との二重乱戦が恙無く決着を明けてから早くも五日。
 こうして長閑な学園生活を送っていることを、恭亜はそれが当然のような心境で送っていた。
 とはいえ、自分がオーラム・チルドレンという、非日常の世界の人間であるという自覚を忘れたわけではない。
 というより、忘れられる訳が無い。未だに出自となる世界を知らず、それどころか善悪一$以来出したくても出せずに居る恭亜に堪忍袋の緒が切れた≪ツクヨミ≫の能力者、プリシラ=グロリオーサに毎日しごかれているからだ。
 やれ集中しろだやれ解放しろだ言われても、そんな抽象的な説明でどうしろというのか。神器を顕現させられた機会は二度有ったが、一度目は恭亜自身が『侵蝕』を起こして意識など無かったし、二度目は暴走した善悪一≠フ雷撃を受け意識朦朧の中でひょいっと出てしまっただけだ。などと言い訳をしたら『「ひょいっと」!? 貴様仮にもオーラム・チルドレンの癖に「ひょいっと」でしか出せんのでは半人前のアイン以下ではないかぁっ!!』などと怒鳴り自らの神器である巨大な大剣、イヴィルブレイカーを出す事態になったのはあえて忘我の彼方へ追いやることにする。そもそも言ってる事は抽象的なのにノリはまんま情熱溢れる体育会系というのはどうなのか。頭一つ分は小さいとはいえ常時軍服姿の彼女だ、竹刀なんか振り回したらさぞかし似合うだろう。言ったら今度こそぶった切られるだろうが。
「はぁ〜……」
 思い出して陰鬱になる恭亜。本人達を前にして言う気にはなれないが、正直、オーラム・チルドレンとしての能力を向上させる事を、嬉々として望んでいるわけではなかった。
 確かに、ABYSSという脅威から日常を護るには確かに力量は必要不可欠なモノなのだろう。だが、恭亜はそこまで好戦的ではない。別に穏健派という訳でもない。買うべきと判断した売られた喧嘩は迷わず買うタイプだ。
 しかし、それはあくまで自分の些細な地位やアイデンティティーを守るという意味での、『病院送りにしたらやり過ぎ』程度の域だ。何も殺す殺されるのギリギリの闘争なんて、したくはなかった。
 何より恭亜がそう思う理由は――、
「恭亜君、塵取り要る?」
 赤いプラスチック製の塵取りで顔の下半分を隠し、ぴょこんと恭亜の視界に入り込んだのは、クラスメイトの鵜方美弥乃(うがた みやの)だ。栗毛の髪をお下げにした、高校生らしい小柄さの少女だ。社交的で、愛くるしい仕草そのままに頭を左右にゆらゆらさせて返事を待っている。
「ああ……ありがとな、頼むよ」
「うん♪」
 塵取りを下げて満面の笑顔を向ける美弥乃。口元の八重歯がチャームポイントよろしくきっと覗いている。
 美弥乃は屈みこんで、塵取りを床に置く。恭亜は埃を立てないように箒の先っぽで器用に砂やゴミを塵取りに運ぶ。
「うわぁ! うわぁ! 恭亜君箒捌き上手だねぇ!」
 くいっくいっと箒を操る姿を、面白半分崇拝半分で褒める美弥乃。恭亜は苦笑した。大したことじゃないが、美弥乃はこういった小さな行為の一つでも感動して笑う明るい子だった。
 それと同時に、苦笑した恭亜の表情がゆっくりと、悲しげなものに変わる。
 塵取りの前で踊る箒の先を楽しそうに見下ろす美弥乃からは見えないように、薄い悔恨と懺悔の滲んだ視線を向けた。

 鵜方美弥乃。
 恭亜が非日常を知り、初めて対峙した明確な敵。
 【憎悪世界】のオーラム・チルドレン、檜山皓司(ひやま こうじ)。
 真名を切り裂き魔≠ニ呼び、神器ジャック・ザ・リッパーを用いて陰で連続殺人を行い、美弥乃まで手に掛けた果てに『侵蝕』した恭亜に撃破され、逃走中に何者かに殺害され存在が無かったことにされた。
 因果律の修正によって、事故で入院したとされた美弥乃とは今も友好的な間柄が続く。
 しかし、恭亜にとっては胸の痛い話であった。
 好意を持って接してくれる相手が、非日常に足を踏み入れかけている異形の存在だなど、知らないのだから。
 そして、完全なる日常を生きる彼女に、恭亜もまた言える訳が無いのだから。
 一方的に疑似的な友人関係を築く恭亜は、罪悪感でいっぱいだった。
 だまくらかして、平然と話し合うことを、恭亜は――、

「恭亜君?」
 美弥乃の呼びかけにはっと我に返った恭亜は、もう床にゴミが無いのに箒を動かし続けていたことに気が付いて箒を下げた。
「あ、悪い……」
 悟られてはならない問題を抱えているというのに、思いつめた表情を思いっきり見せてしまった恭亜。しかし今更取り繕っても、丸っきり気付かない美弥乃ではなかった。
「どうしたの? 何か考え事?」
 膝を抱えて上目遣いに訊ねる美弥乃に、恭亜は口元に手を当てて狼狽した。
「いや、特に……そんな顔に出てたか?」
「うん。なんか疲れた顔してたけど」
 不思議そうに、というよりはどこか不安げに見上げる美弥乃。恭亜は一度苦笑する芝居をし、今度はしっかり笑いかけた。
「そうだな、少し疲れてるか」
 素直にそういうと、美弥乃は眉を八の字にして笑う。
「そっか。だったら恭亜君はもう寮に戻ってくれて大丈夫だよ?」
「いや、そこまでじゃないんだけど……」
「晴香ちゃーん!」
 教室の隅で、いつもの三人組で話していた女子の中の、頭一つ抜きんでている長身痩躯で黒い短髪の、一見陸上部に入っていそうな体育会系を思わせる少女に声をかける美弥乃。
 思わず恭亜の身が竦む。
 呼ばれた少女、桃瀬晴香(もものせ はるか)は話していた親友を手で制して、美弥乃へ近づく。
 恭亜は心臓が締め付けられる感覚を必死で押し殺した。
 桃瀬晴香は、通り魔の巡回で出くわした恭亜との対峙の最中、檜山皓司に傷を負わされたもう一人の悲運な、恭亜の護れなかった三人の一人だ。
 出来ることなら、あまり話したいとは思わなかった。
 罪悪感で吐きそうだ。
「呼んだ?」
「あのね、恭亜君なんだか具合が悪いみたいなの」
 ほぅ、と小さく頷いた晴香は、恭亜へ顔を向ける。
「大丈夫なの? 何ならショートホームルームは出ないで、早めに保健室行くか寮に戻るといいよ」
 こんな時ほど、自分がどれほど卑劣な人間かを再確認させられる。
 仮初でなくてはならない責任を、恭亜は作ってしまったのだから。
「いや、ほんとに大丈夫だってば。美弥乃が心配しすぎなんだよ」
 深く。
 奥深く。
 ぐじゅり、という音は腐った果実が潰れた音に似ている。
 それが、恭亜の罪悪という名の膿が掻き回される音だとしても。
「そう? 姫宮君がそこまで言うならいいけど……ちょっと美弥乃、心配するのは勝手だけどね、もう少し相手を分かってあげる程度に留めなさい」
「と、留めてるよっ! そんな考えなしみたいに言わなくてもっ……!」
「そりゃあんたが優しいってのは充分理解されてるけど……って、あーもう面倒ね。ぶっちゃけ力入り過ぎだって言ってんのよ。押し引きを調節しないと点数稼げないわよ」
「ぅわー! きゃーっ!! それっ、ダメっ! お、おおっ、思いきり目の前で言わないでよ晴香ちゃんのバカぁーっ!!」
「ひゃんっ!? ど、どさくさに紛れてどこ揉んでんのよあんたはっ……!!」
 どこか、フィルターの掛った向こう側で、声がした。
 それが懐かしくて、愛おしくて、
 でも、恭亜は曖昧に笑って誤魔化した。
 狂おしくなってしまわぬように。
 憧憬が、歪んでしまわぬように。
 掃除の時間が終わる。
 それだけは無慈悲で、でも鮮明に、チャイムが聴こえる。





 ショートホームルームが終わり、恭亜はさっさと教室を出た。
 ここ最近、何故か美弥乃がよく遊びや勉強などに誘ってくるが、恭亜にとっては少々、好ましくないものがあった。
 間違ってもそれは美弥乃に嫌気が差しているというわけではない。単に、周囲に馴染むことに気を許して、過度の接触を禁ずるべきだという意思からだった。
 ABYSSの沈静化、という作業は、はっきりいってしまえば肉体労働だ。
 オーラム・チルドレンとして、深淵から這いずり出る異形の怪物を滅し、世の安寧を護るという行為に、正否の区別はどうあれ、結局は誰かがしなくてはいけないことだと恭亜は認識していた。
 それにしても、ABYSSというのは勝手気儘な存在だと思う。定期的に出てくるならまだしも、まさに神出鬼没なタイミングで出現する。それこそ、昼も夜もお構いなしだ。夜中に携帯電話が鳴り出し、慌てて出ると『あほ! 早よ支度せんかい!!』というアインの叱責が飛んでくる。一度は寝間着姿のまま駆けずり回った事もあった。
 唯一の救いは因果律の歪みに乗じて発現する為、複雑な流れを持つ、つまり人間の多い場所には滅多に現れない、と言われたことぐらいだ。それはそうだ。人ゴミの中に突然現れたりなんかしたら、パニックどころではなくなる。それに生活の時間感覚の狂いっぷりをカバー出来る朗報とは全く思えない。
(アインがサボったり居眠りしたりする理由が、ようやく理解出来た……)
 最初の内こそ、気合でなんとかなると栄養ドリンク片手に軽く見た恭亜だったが、二日、三日、四日と続く内に、昼間の学生としての生活とを両立することがどれほど大変な行為なのか痛感させられた。しかも待っているのは多種多様な姿を持つ凶暴なABYSSとの、実戦だ。
 昼は美弥乃達日常の人間、夜はABYSS。
 地獄だ。
 しかもプリシラが空いた時間を見繕っては、恭亜やアインの能力開花の為の猛トレーニングを強制するので、一瞬たりとも気が休まらない。
 仕方がないこと、なのだが……。
「はぁ〜……」
 何度目か分からない溜息をつきながら寮の玄関を開けると、目の前で靴紐を結んで立ち上がる男子生徒とばったり遭遇した。
「おーっ、おいっすぅー姫っさん。早ぇなぁ帰ってくんの」
 顔を見るなりニカっと笑って迎えたのは、佐々原宍道(ささはら しんじ)だった。
 黒の中に控えめの赤を混じらせ、ワックスでツンツンに立たせた髪の長身の男子。
 恭亜の級友で、恭亜の向いの部屋に住んでる男だ。首や手の指にアクセサリを着けた、ギターを持たせたら似合いそうなチャラチャラした風体だが、不思議と不健康なイメージの無い雰囲気を持つ、気の置けない友達。
「よう宍道、お前こそ早いな。どこか行くのか?」
 私服姿の宍道は爪先をトントンと地面で蹴って靴を履き直しながら、
「ちょっと遊びのお誘いがあってさぁ〜。いやぁ〜友達ってなぁガツガツ作りゃ良いってモンじゃねぇなぁマジで。断って気まずくなんのも大変だしな」
 肩に手頃な大きさのショルダーバックを提げ、宍道は準備万端そうに一人頷く。
 恭亜は溜息をついた。出会って一週間かそこらだが、何となく宍道の性格を知ってきた。
 要するに、彼の言う『友達』というのは同年代ではないということだ。もちろん大半は紫耀学園の生徒なのだが、中にはその生徒のバイト仲間や、あまつさえ上司、特に関わりの深くない挨拶する程度の知り合いまで、幅広い面々と付き合っている。老若男女を問わず、この男の顔は広いのだ。崩して言えば広いというよりただっ広いと言うべきぐらいに。
「お前またか……今度はカラオケか? それともボーリング? まさか飲み会って訳じゃないだろうな。ハメ外して問題起こすなよ?」
 一応はお向いさんという間柄として忠告する恭亜に、しばしきょとんとした宍道は盛大に笑った。
「あっははははっ! なぁにが問題起こすなだよ。姫っさんだって似たようなもんだろが」
 唐突ななすり付けに、は? という顔をする恭亜の肩に腕を回し、ニヤニヤした顔で宍道は囁く。
「自分の部屋にまぁた女の子連れ込んじゃって。会話バカ聴こえだぜぇ?」
「な……っ?」
 ぎょっとした恭亜は、有り過ぎる心当たりに顔を覆った。
「またあいつか……勝手に来るなって言ったのに……」
 がっくしと肩を落とす恭亜に、ニシシ、と笑いながら宍道は腕を離す。
「そりゃ姫っさん、男のくせに超美形じゃんか。そりゃ女の子の一人や二人や三人ほっとかないだろうけどさぁ。言わせて貰うぜ姫っさん……ハメ外して問題起こすなよ?」
「お前の中でどういう展開が繰り広げられてるんだかあえて知りたくはないけど大きなお世話だっ!」
 軽い一喝も平然として、飛び跳ねるようにして玄関を潜る。
 引き戸に手をかけ、ちょっとだけ開いたその隙間から顔を出し、
「……聴こえてる声がやけに高いんだけど……え、姫っさんまさかそんな」
 すっ、と無表情で歩み出した恭亜を見計らって、バンっ! と引き戸が完全に閉められてしまった。
 あいつ言いふらさないように殴って脅しとこう、と心に決め、恭亜は靴を脱いで下駄箱にしまい廊下へと踵を返した。
「……だからさぁ、ダウトなんかやっても勝てるわけないじゃん。サラト能力あるのに」
 自分の部屋に近付くと、ドア越しでも通る幼い声が聴こえる。
 誰か居る、と考えた矢先、誰が居るのかすぐに悟った恭亜はさらに頭痛を覚え出す。
「ババ抜きとか。ポーカーとか。サラトに嘘つける無理なのに、アイン分かってる?」
「やかましい。次や次、今度はえーっと……」
「あ、スピードやる? それならサラトの能力関係無いよ」
「それや。次は負けへん」
「サラトだって負けるつもりないもぉーん♪」
 頭が痛い。
 恭亜は自分の部屋のドアをノックするなんて馬鹿馬鹿しく思えて、そのままノブを回して開けた。
「あっ、恭亜ーっ!!」
 六畳一間の畳敷きにばら撒いたトランプを挟んだ二人の少女。
 内の一人、やたら長い金糸の髪と大きな碧眼の瞳の、中学生ぐらいの小さな子は恭亜を見るなり立ち上がる。
 ノースリーブのワンピースを着ていて、立ち上がる際に裾のフリルがふんわりと揺れる。首元に、小柄な彼女には似つかわしくない程の大きなヘッドホンが掛かっている。
 恭亜はもう、何と言っていいのか分からなかった。
「恭亜、恭亜、サラト待ってた! 今日こそサラトと遊んでくれるよね? 今日は大丈夫だよね?」
 宝石のような瞳を輝かせて、彼女は恭亜を見上げた。
 サラト=コンスタンス。
 元≪アマテラス≫の所属で、現在は≪ツクヨミ≫の庇護下として保護されている。
 見た目と性格に惑わされるだろうが、彼女もれっきとしたオーラム・チルドレンだ。
 出自は【純真世界】。真名を善悪一≠ニ呼ぶ、電流使いだ。
 遭った当初はかなり自分の欲望に狂信的な面を持ち、目を付けられた恭亜はすぐに気付かず、アインとの接触で突然に攻撃を始めるような突拍子もない行動をする能力者だった。
 何とかアインも対抗したが押され、割り込んだ恭亜によって情緒不安定になった結果、『侵蝕』を起こして暴走。果てに一瞬のみ発現した恭亜の神器によって暴発するはずの雷撃を破壊されて撃破。行き場を失った彼女を恭亜が説得の末、プリシラが首を縦に振った。
 そして、今に至る。
 まぁ、それはいい。終わった話だ。
 そんなことよりも、恭亜の姿を見るなり不機嫌そうな顔でトランプを束ねシャッフルしている少女に、恭亜はジトっとした目つきを向けた。
「いやいやいやいや、トランプ続行するなよ。何で俺の部屋で遊んでるんだアイン、五時限目始まる頃から居ないと思ったら……」
「別にえぇやん」
「それは授業をサボった事にか? 勝手に俺の部屋に入った事にか?」
 ドアに鍵でも作ってやろうかと考えるが、銃でぶち抜いて入ってくる可能性を大いに感じた恭亜はもう反抗的な思考を断ち切った。
 星天蓋=A蓮杖(れんじょう)アイン。
 ≪ツクヨミ≫に属し、東京のABYSS異常発生の抑制を単身行うべく紫耀学園に編入してきた、物臭人間だ。
 首に掛かる程度の透き通るような蒼銀髪を、寝起きでもないのにぼっさぼさにしている。ブレザーやスカートから覗く肢体は日焼けを知らぬ陶器を思わせる白さで、前髪からちらと見える顔は、化粧もしていないのにぞっとする程美しい。しかし、目つきも表情も眠たげで、生気を感じさせない。良く言えば無気力な、悪く言えばぬぼーっとした顔だ。
 雨の廃屋街にて、ABYSS討滅の折に白銀の拳銃を駆る姿を恭亜に見られてしまい、紆余曲折を得て恭亜と共に巡回をするようになった。彼女もまた恭亜と同じく、己の出自を知らず、固有能力も覚醒していない半端者扱いながらも、実戦経験から繰り出される銃技はなかなかのものだ。だが、未だにその戦闘技術を誰に習ったのかを教えてくれない。むしろ単に恭亜が信用されていない節があるのだが、それを恭亜自身が言ったとて余計に機嫌を損ねるだけなので始末が悪い。
「……なんよ、人の顔じぃっと見てからに。気色悪い」
 つっけんどんな態度でねめつけてくる横暴娘にイラッと来ないでもないが、言い返すとこじれるだけなのでこっちが折れるしかない。
 サラトはサラトで、そんなやりとりなど完全無視で恭亜の腕を引いてドアを閉める。
「ねぇ遊ぼうよ恭亜。アイン賭け事みたいなゲームばっかでつまんないんだもん」
「そりゃそうだ」
 サラトの脳内に常時発現する(プリシラ曰くアビリティ・アーティファクトと呼ぶらしい)神器、トリック・オア・トリートは、嘘を電質化して攻撃の手段にする効果を持つ。騙してなんぼの賭け事ゲームなんかやらせたら、サラトに勝てる者は居ない。良い手も悪い手も誤魔化しただけで電質化してしまうからだ。あえて恭亜は顔に出さなかったが、腕に抱き付くサラトの肌を通してさっきからピリピリと弱い静電気が放出されていて痛痒い。制御の仕方を知っているから暴発しないでいるが、アイン、やり過ぎるなと忠告したのに。
「しょうもないのはこっちや。言う事する事見抜くのやから、たまったもんやない」
「べーっ。サラトつまんない嘘つく人嫌いだもん。嘘つきアインは恭亜みたいに友達扱いしてあげないよーっだ」
「そら結構、恭亜と同類なんてこっちから願い下げや」
「うわ、電気出ないっ? 恭亜聴いた!? アインってばはくじょーものだよねー?」
 あかんべーをするサラトと、トランプをシャッフルしながら冷たく言い放つアイン。
 板挟みに遭いながら、恭亜はまたも複雑な心境に追いやられた。
 アインとサラトは五日前の乱戦にて、こんな風に恭亜を板挟みにして殺し合った間柄だ。既にサラトは≪アマテラス≫から身を引いているが、わずか数日で遊ぶ仲になったのは僥倖と言えよう。たとえそれが、半女人禁制の男子寮に勝手に入り込んでの事だとしても。
「恭亜はサラトの方がいいもんねぇ〜。サラトはアインと違っていい子だもん」
 そう言ってアインの髪をわしゃわしゃして余計にぼさぼさにしようとしだす。無邪気な態度に対してアインは心底煩わしそうに抵抗している。
 確かに、この五日間でサラトの情緒不安定だった精神面はかなり改善された。前よりは多少の嘘を許せるようになったし、友好的でない対応にいきなり電撃を放つような危険な行為もしなくなった。自分勝手を当然のように振る舞う、無知故の危なさが抜けてきた。
「サラトは恭亜好きだから、イイこととワルいことの区別がつけられる子になるんだもん。自分だけ満足するためのトモダチはもういらない。恭亜みたいに、もっと笑顔にしてあげたくなる大切な友達を、ちゃんとした理由で守れるような、そんないい子になるんだから」
「サラト……」
 恭亜の前に立ち、純真の出自に相応しい無垢な笑顔で見上げるサラトに、恭亜はふっと笑みを浮かべた。
 悲しみを恐怖としか捉えられない、そんな生き方をしてきたサラトがそんな事を言えるようになったのなら、恭亜としても救えた甲斐があるというものだ。
 恭亜はサラトの頭上に手を置き、撫でてあげる。サラトは頬を染めて嬉しそうに目を瞑って喜んだ。
「あぁあぁ微笑ましいことで。イチャつくんなら余所でやって貰いたいわ」
「お前こそサボって遊ぶんなら余所でやれよ」
「何やて?」
「何だよ?」
 喧嘩腰になって至近距離から見つめ合う恭亜とアインの間にサラトが身をねじ込む。
「もぉー! サラト置いて二人で遊ばないでよぉー! サラトつまんなーい!!」
「誰が遊ぶかこんな横暴なやつと!」「誰が遊ぶかこない分からず屋と!」
 あまり噛み合ってない会話をぎゃーぎゃーと騒ぐ三人。
 ああ、本当に気が休まらない、と恭亜は疲れながらも食い下がるアインと言い合った。

 ガチャン!!

 そんな最中だった。
 蹴り破る、とまではいかないが、物凄い勢いを付けてドアが開け放たれる。
 両手を重ねてギリギリとせめぎ合う体勢の二人と、周りをウロチョロしながら騒いでいたサラトは、ドアの方を向いて動きを止める。
 そこに居たのは、黒髪を左右でツインテールに縛った幼い少女だった。
 サラトとあまり変わらない低身長を包むのは、近代化の激しい日本の首都東京とは思えない深緑の軍服姿だ。同色のマントを羽織り帽子を被ってはいないが、それにしても恥も外聞も気にした方がいい格好である。
 しかし、コスプレだの幼児体型だのと、そういったツッコミを入れさせない鋭い眼光で三人を見比べ、最初に取った反応は深い深い溜息だった。
「貴様等……ABYSS発生の兆候が無いとはいえ呑気にも程が在る」
 凛としているが機嫌が悪そうな仏頂面で、プリシラ=グロリオーサは言った。
 ≪ツクヨミ≫でもトップクラスの実力を有するという能力者であり、サラトと対峙する中、オフィス地区にて≪アマテラス≫と戦闘していたのが彼女である。
 恭亜の不安因子としての問題性に関して日本に来たらしく、現在は恭亜とアインの鬼コーチよろしく傍若無人ぶりを発揮していた冷血漢だ。男じゃないが、こんなのは冷血漢でいいんだと、その時だけは珍しく恭亜とアインの思想が一致した瞬間だった。
「な、なんだよプリシラまで……」
 なんとはなしに言ったが、プリシラは恭亜を一瞥して、「……フン」と鼻で笑った。
「えーっ!? プリシラ今日は恭亜しごかないって言ってたでしょー!?」
 友達を没収される不満を隠しもせずぶつけ頬を膨らませるサラトに、プリシラは首を横に振った。
「違う、話が在るだけだ」
 プリシラは恭亜とアインに一度視線を向け、口を開いた。
「そろそろ私は日本を去らねばならん。なので、一応は言っておこうと思ってな」
 あっさりと言うので、恭亜もアインも目を丸くした。
「随分急な話だな」
「そうでもないだろう。個人的な用事の経過報告の際に、ハイネに貴様の話を聞かされた勢いで立ち寄っただけに過ぎん」
 プリシラはドアを閉めて部屋に上がり込む。
「ABYSSの発現は何も東京だけとは限らん。まあ、ここ程異常に湧いて出る場所は無いだろうが、在る以上は征かねばなるまい」
 壁に寄りかかり、腕を組んでプリシラは疲れた吐息を零した。
 世界中を飛び回って、ABYSSの存在を表の歴史に出さないよう徹してきた。アインと違いプリシラは≪ツクヨミ≫のナンバー2として、激務をこなす責任があるのだ。
「尤も、万が一の場合を考慮して≪ツクヨミ≫の者をこちらへと寄越すよう連絡してある。半人前二人だけではマーシャが居ても心許無い。明日の十四時にすぐそこの六番地区定着駅前の時計台の前に落ち合う予定だが、私は明日の朝には発つ予定でな。アイン、この男と共に合流しろ。奴は東京の地理があまり詳しくないと言っていたからな」
 恭亜は成程と思った。
 先の一件のように、二つの場所で同時に戦闘が起こるような事態になった場合、今回はプリシラが居てくれたから何とかなったものの、彼女が欠けたら困る事は多いだろう。
 ナンバー2が欠けるのは些か勿体無い気はするが、この際贅沢は言っていられない。
 ところで、それとは別に『げっ』という顔でアインは立ち上がる。
「な、なんでこいつと一緒に行かなあかんのや!?」
「アインだけでは遅刻しかねん。かといって姫宮恭亜だけでは互いに顔が判らんだろう。マーシャは私を見送りたいの一点張り。貴様等が行くしかないから言っている。組織としての命令だ、文句を垂れる前に行かんか莫迦者」
「う……っ」
 苦虫を噛むようなアインの表情をちらとみながら、恭亜はプリシラに向き直る。
「で、来るのはどんな奴なんだ?」
 特徴ぐらいは教えて欲しいものだが、プリシラの返答は素っ気無い。
「会えば分かる。少なくともそこの半人前よりは気の利いた奴だ」
「気の利いた……あぁ、あいつか」
 一人納得して、髪を掻き上げるアイン。頭上に大きなハテナマークを浮かべる恭亜とサラトを余所に、プリシラは恭亜とアインを睨む。
「とにかく、十四時だ。遅れるなよ」
 そう言ってドアを開けるプリシラの背を見ていた恭亜に、サラトが擦り寄る。
「じゃあ、プリシラの用も済んだし、今度こそサラトと遊ぼ――」
 最後まで言い切る前に、サラトの首根っこをプリシラが掴む。
「要件は二つでもう一方は貴様だサラト=コンスタンス! また勝手に抜け出しおって! 貴様に≪ツクヨミ≫の庇護下に居るという自覚は無いのか莫迦者!!」
「やっ! ちょっ!?」
 襟首をがっちり捕まえられたサラトは半ば引き摺られるようにして連行される。
「や、やだぁーっ!! サラト今日こそ恭亜と遊ぼうと思ったのにぃ〜!!」
「マーシャの世話になっておいてどの口が言うか!! アパートで大人しくしていろ!!」
「だってマーシャって暇があればお祈りばっかしてて落ち着かないんだもぉ〜ん……!!」
 手足をばたつかせるサラトだが、重量大剣を片手で振り回す本音丸出しの猛者に電流使いが勝てる訳がなく敢え無くドアが閉まる。ドア越しに恭亜を呼ぶ悲鳴がフェードアウトしていった。
「……ほんまやでまったく。ちぃと甘やかし過ぎや」
「サラトには悪いけど、あいつの為にも自粛しよう」
 台風一過の末に取り残された二人は、ドアを見つめ遠い目でそんな事を呟いた。










 六月十六日土曜日。
 学生の休日ともなれば、居住区はかなりの人ゴミで賑わう。
 特に駅前なんかは往来が激しく、歩行者天国になりやすい。
 そんな人通りの凄まじい大通り沿い。恭亜は照り返す昼下がりの陽光に襟元を引っ張って風を送り、じりじりと焼けたコンクリートの道を歩いていた。
「あっつぅ〜……今年も相当上がるな。まだ六月だっていうのに」
 さすがは大都市東京だ。首都であるこの地を一斉更新し、居住区とオフィス地区に分けて近代化を疾駆するこの都市は、まだ『廃屋街』と呼ばれる場所が無かった頃に比べて、かなり猛暑になるようになった。
 だが、ただ気温を上げるために都市を造り直した訳ではないだろう。世界各地で重要視されている『未来を未来とは呼ばない新しい理想都市を作り上げる』というコンセプトの元に開発が繰り返され、今まで『先進国の尾っぽ気取り』と評されてきた日本は目まぐるしい発展を築き上げてきた。
 医療や軍事科学、社会的情報網など挙げられる業績は多いだろうが、とりわけ注目されているのは物的な電子機器の研究だ。
 今も恭亜が擦れ違った大手の電荷店で、売り子のお姉さんが『今月発表されたばかりの新型クーラーの試用キャンペーンを実施しておりまーす! 例年により暑い今季を、是非とも我が社の低燃費冷房機で涼み、夏バテを乗り切ってみませんかー?』などと明るい口調で宣伝している。この炎天下で長袖の黄色い仕事着を着て屋外宣伝なんかしたら夏バテどころか日射病で倒れるんじゃないかと恭亜は思うが、汗をひた隠して完璧な愛想笑いを振り撒く彼女にツッコミを入れるのは酷な話だと通り過ぎた。
 しかし、電子機器というからにはクーラーや冷蔵庫などよりも、パソコンなどのコンピューター系列の会社間紛争は熾烈を極める。聞いた話だが、今より性能の高い半導体機器を開発したら億単位の金が転がり込む、などという噂まで流れているそうな。
 そうやって東京を拡大してゆくのは、些か考えなしなんじゃないかと恭亜は歩きながら考えた。そうして生み出されたあらゆる面での廃棄物の集合体が、廃屋街だ。いずれはオフィス地区と呼ばれるあの場所も、東京の土地の四分の一を占めて未だに名も無い手付かずの更地に時代を先越され、第二の廃屋街となる日も遠くはないのかも知れない。
 恭亜はポケットから携帯電話を取り出し、液晶画面を覗く。画面右上のデジタル時計は午後一時過ぎを表示していた。
(……少し早く出過ぎたか)
 時計台までの距離はもう半分も無い。三十分以上も待ちぼうけをするのも馬鹿らしい。かといってコンビニで立ち読みして時間を忘れた、なんて冗談にならない。
 しばし黙して考えた恭亜は、少し遠回りに歩いて無駄な時間をロスすることにした。東京に来て一カ月も経っていない。地理的な場所はある程度覚えたが、裏道や隠れた店などを探して覚えるのに前々から興味があった。
 というわけで、本来なら鉄橋を潜った先のスクランブル交差点の向こうが発着駅前だが、鉄橋が遠くに見える場所から急速旋回。人通りが一気にまばらになる細い路地を歩く恭亜。
「ま、プリシラも言ってた通りアインが遅刻する方にジュース一本」
 などと言いながら、路地を進む。
 大通りは北から南へ一直線に伸びているので陽光がもろに当たるが、細い路地は建物に遮られて日陰が大きく、割と涼しい。遠回りもなかなかどうして、悪い選択ではなかったようだ。
 出来るだけ日陰を歩くように歩を進め、恭亜はもうじき会う≪ツクヨミ≫の能力者について考えた。
 どうにも、≪ツクヨミ≫に所属しているようでそうでない曖昧な立場の恭亜に献身的な人間はあまり居ないらしく、どうせ本人が挨拶するからみたいな態度で接される為、今もどんな輩が来るのか想像出来ずにいた。
 しかし、恭亜の知る限りではあのアインやプリシラの居る組織の者だ。果たしてどんな豪傑が来ることやら。
(剛腕巨躯の厳ついおっさんだったりするのかな。気が利くとか律儀とか言ってたし……出会い頭に敬礼とかされたらどうする? ダッシュで逃げるか)
 割と失礼なことを考えながら、路地の突き当たりに広がる公園に入る。
 その時だった。
「……、えっ?」
 木々のざわめきが風流なことに顔を上げ見ようとした恭亜の表情が、瞬時に硬直する。
 視界に映る木の幹に、少女がよじ登っていたからだ。
 彼女は人が乗るには不安な細さの枝の付け根に辿り着き、左手で自重を支えつつ、右手を精一杯に伸ばしている。
 よく見ると、彼女が伸ばす右手の先には、高い地面を身を震わせて見下ろし動かない野良猫が居た。どうやら上ったはいいものの、降りられなくなってしまったらしい。
「ん〜〜〜っ、もうちょっと。頑張れ皆の憧れ真琴ちゃん……! 町の平和を守る為、自らが犯した過ちに恐怖し竦む猫を大いに許し、今こそ救出するんだ……っ!」
 などと言いながら、少女はプルプルと震え出す手を少しずつ猫に近づける。
 しかし、人間に慣れていないのだろう。野良猫は鼻先まで迫った手に反応して身じろぎする。
「あっ――!」
 少し動いただけだったが、落ちる、と早とちりした少女は支えていた左手を離して枝に身を乗り出してしまう。
 猫一匹なら、問題はなかっただろう。しかし少女とはいえ生身の人間が乗っては、さすがの枝も耐え切れなかったようだ。
 ミシシっ! と嫌な音を立てて、少女の体ががくんと沈む。
「危ないっ!!」
 恭亜は反射で走り出す。
 枝がへし折れきる寸前、少女の視線が声の主に飛ぶや、素早い判断力を駆使して叫んだ。
「僕はいい!! 猫の方を――、っわ!?」
 次の瞬間、枝の付け根が完全に折れ曲がり、文字通り足場を失った少女と猫は落下する。
「く……っ!」
 恭亜は迷ったが、彼女の一言を引き金に、受け身も取らずに背中から落ちてゆく猫に向かってダイブした。
 バキバキドサバキン……!!
 至近距離だと聞くに堪えない凄まじい音を立て、枝やら何かが落ちる音やらが響く。
 ベンチや噴水などに居た周囲の人々が、驚いてこちらを見ていたが、今更後の祭りだ。
 やがて総ての騒音が消えた後で、地面に仰向けに倒れたままの恭亜は瞼を開く。
「……………、ったぁ〜〜〜……」
 肺に溜め込んでいた息を吐き、恭亜は両手でしっかりとキャッチしていた野良猫を顔の前に持ってくる。
 野良猫はあまりの衝撃シーンの当事者になった事に驚いてか、全身を震わせてまだ身動きできずにいた。
 とりあえず彼女の要望通りに猫は無事、と胸を撫で下ろした所で、その彼女はどうなったのかを思い出した恭亜は上体をがばっと起こす。
「お、おい……! 怪我無いか!?」
 すぐ近くで、突っ伏して倒れている少女を見て、恭亜はぞっとした。
 まさか、打ち所が悪くて……。
「おい! 大丈夫――」
 慌てて恭亜が彼女の肩に手を置こうとした直前、少女はバネ仕掛けのように起き上がる。
「ふっっっかぁ〜〜〜っつ!!」
「ぅおっ!?」
「痛っ……! こ、腰が……」
 少女は突然の咆哮と共に上体を起こすが、途端に腰を押さえて再度突っ伏す。アスファルトとはいえ、地面に寝そべるのはどうなのか。
「お、お前……とりあえず打ち所は大丈夫だったんだろうな?」
「何を言っているんだ君は! 腰は男の命と言うじゃないか! 僕は女だけれど!!」
 遠回しな下ネタを真顔で怒るのは違うと思う。
 どうやら打ち所は悪い方にいったらしい。そんな風に思った恭亜の胸元で今もビクビクしている野良猫を見て、少女はふっと微笑んだ。
「ああ、助けてくれたんだね。ありがとうっ! 君のような素敵なヒーローに助けて貰えただなんて、運が良い猫だね」
 そう言って少女は立ち上がり、服についた砂埃を払う。
 恭亜は野良猫を地面に放してやり、自分も立ち上がる。
 その少女は、典型的な日本人の顔立ちだが自身に満ちた凛とした可愛い顔をしていた。腰まで届く茶髪を左側頭部で結び、横に垂らしている。口には出さないが触手みたいだ。黒いタンクトップの上から生地の薄いカッターシャツの袖を捲って着ていて、下は濃紺のスラックス。すらっとした体型で、背丈も恭亜と大差ない、俗に言うモデル体型だ。歳もそれほど変わらないのかも知れないが、どこか大人びた雰囲気を醸し出していて、実齢より二つ三つは上に感じる。首に提げた左半分だけの十字架のペンダントが少し揺れた。
 少女は、真っ直ぐと恭亜を見据えて口を開く。
「僕からも礼を言わせて貰うよ。さすがヒーローは分かってるじゃないか」
「何だよ、ヒーローって」
 首を傾げる恭亜に、少女はちっちっ、と指を振る。
「決まってるじゃないか! 真に格好良いヒーローはここぞという時に現れるものさ! 僕一人の勝手で助けようとしたが、いかんせん腕が届かなくて……言いたくはないが猫の救出は絶望的だった。しかぁし! そこで君が現れた!! 自分まで汚れる事を気にも留めず、迷わず走ってきてくれた。そして僕より猫を優先して助けてくれた。これがヒーローのする事でなくては誰のする事なのかっ!」
 腕をフルに使ってよく分からないジェスチャーを交えつつ、オーバーな勢いで語る少女。
 服の汚れを落とす恭亜に気付き、少女はその背後に回って背中の汚れを落としてあげる。
「あ、あぁ……悪い」
「どうして謝るんだい? 君はとても素晴らしい事を成し遂げたんだ、胸を張るといいよ。繁栄という欲に駆られた日本も、君のようなヒーローが居るのなら捨てたものじゃないね」
 汚れを取り終えた少女はくるりと恭亜の前に立ち、
「そんな正義の味方を、真琴ちゃんは応援するよ!」
 ウィンクをして敬礼する少女。剛腕巨躯の厳ついおっさんより充分愛嬌を感じる姿に、恭亜は苦笑した。
「真琴、っていうのか?」
 あ、と少女は開いた口に手を当てる。
「そういえば名乗ってなかったね。そう、僕の名は相崎真琴(あいざき まこと)。日本の安寧を影から支える落下系ヒロイン、正義の味方の真琴ちゃんとは僕の事さ!」
「確かに落下してたけど腰に悪い落ち方はやめとけ……」
 思わずツッコミを入れてしまったが、誰かさん達と違って真琴は「ふっ……それも落下系ヒロインの宿命だよ!」と自信満々に微笑みながら返してくる。
 何だかおかしな奴だが、妙に面白いなと恭亜は思った。
 真琴は足元の野良猫を見下ろし、屈んで手を伸ばす。
 しかし、野良猫はカーッ! と威嚇した直後に前足を素早く動かし、真琴の手を引っ掻いた。
「――っ!」
「あ……!」
 手の甲に紅い三本の平行線が浮かび上がる。野良猫はそのままさっと茂みに潜り込み姿を消してしまった。
「ま、真琴、大丈夫か!?」
 恭亜が気にかけると、すっと立ち上がった真琴は傷口を舐めてから、寂しげに笑った。
「いや、大丈夫だよ。ふふ、哀しいものだね……昔からこうなんだ。特に気にならない相手は引き寄せてしまうのに、気になる相手は遠ざけてしまう……正義の味方の本心とは、個人には理解されないものだと痛感させられるよ」
 見失った野良猫を追う視線が、遠く眇められる。
 寂しげな後ろ姿に恭亜は口を開きかけたが、振り返った真琴の表情はさっきと変わらない自信に満ちた顔をしていた。
「それはそうと、君の名前も教えてくれないかな。いかにヒーローといえど、名も言わず颯爽と去るなんてテレビだけの話だと僕は思うね」
「あ、ああ……俺は――」
 言おうとしたら、かなり昔の特撮アニメの懐かしいオープニングテーマが流れる。
「おっと、僕のだね……ん、アラーム? あぁ、そうだ! 用事が有ったのを忘れてたよ!」
 携帯電話を後ろポケットに突っ込み、真琴は恭亜に向き直る。
「悪いね。僕はこれにて退散させて貰うよ」
「そう、か……」
「ふふ、なんて顔をしているんだい? 大丈夫、縁が在れば逢瀬も付いてくるものさ」
 振り向きざまにそう言い残し、手を振って真琴は走り去って行ってしまった。
 その背中を見つめていた恭亜は、はっとして携帯を取り出す。
「やべ……俺もそろそろ行かないとな」
 暑いので飲み物を買ってから駅前に行こうと思う恭亜は、踵を返してもと来た道を進む。
 再び平和な喧噪を取り戻した公園に、生暖かい風が吹いた。


 ◆


 空調の行き届いた空港のロビーで、並ぶ椅子の端に座るプリシラは顔を上げた。
「まったく……送らんでも良いと言ったろうに」
「な、何を言ってるんですかっ。ぷ、プリシラは、つつ、≪ツクヨミ≫の為に頑張ってるんですから、せ、せめて送らせて下さいって、あ、あれ程言ったじゃないですかぁ」
 プリシラの前に立ち、しきりに発着掲示板を確認している挙動不審なシスターは答える。
 フードを被らず、ウェーブがかった灰の髪と同色の眼を持つ目鼻立ちのくっきりした少女の名は、マーシャ=ハスティーノン。≪ツクヨミ≫に所属するオーラム・チルドレンだ。
 女性的なラインを持つ肢体だが、流暢な日本語だが所々でどもっている、困った顔が標準装備の超が付く弱気な性格が玉に瑕な人物。シスターだというのに何かの冗談なのか、首にロザリオ代わりとでも言わんばかりのシルバーアクセサリを六つも七つも提げており、一挙一動の度にジャラジャラと擦れる音が奏でられる。
 【救済世界】の出自を持ち、傷の因果を逆転して治癒させる神器シャイン・ブレスを持つ医療班担当。真名は弔花の諸手=Bしかし、何故か本人は真名を呼ばれるのをあまり好いてはいないらしい。
「こここっ、今度はっ、何処に向かわれるんですか?」
「イギリス領だ。やはりどうにも調査が足りん気がしてな……もっとも、お前は気分が悪い話かも知れんがな」
「あ……ぇ、と……そ、そのっ……ですね……」
「冗談だ、許せ」
 口に出したくないという顔のマーシャに、仏頂面で答えるプリシラ。
 イギリス領土にあまり良い思い出の無いマーシャ。各国を渡り歩いているプリシラだが、イギリスにだけはマーシャを連れていこうと思った事は一度も無い。今回マーシャを日本に留めさせたのは、アインの助力やサラトの面倒を見るという部分より、むしろこの点に気を配ってのことだった。
『御客様に申し上げ致します。十時二十四分発、ロンドン・ヒースロー空港着の飛行機の準備が整いました。御搭乗される御客様は、ロビー入口から向かって西の通路を進み、三番ゲートへとお向かい下さい……御客様に申し上げ致します。十時二十四分発、――』
 ロビーに響くアナウンス。あ、と小さく声を洩らすマーシャの脇で、プリシラは席を立ちあがる。
 パスポートとチケットを確認し、生真面目な表情で一歩二歩を進み、立ち止まった。
「……マーシャ、目を離すなよ」
 きょとんとしたマーシャだが、すぐに破顔した。
「あ、はいっ……大丈夫です。さ、サラトちゃんは、わ、わ私が責任を持って……」
「違う」
 プリシラは顔を向け、少し声音を低めて言った。
「姫宮恭亜の事だ」
「ひ、姫宮君、ですか……?」
 何故? という顔のマーシャを見据えるプリシラ。
「この数日、奴をしごいて鍛錬の程を見ていたが……妙に気にかかる。普通、オーラム・チルドレンになった能力者は出自はどうあれ、神器を発現させる事が出来ないなどという事は今までなかった。無論本人に表出する意志が無ければそれまでだが……姫宮恭亜の神器、アルテアリス……あれはまるで、本人の意志に反して出たがらないような気がした」
「え……」
「何故かは分からん……だが、どこか……奴の神器にしては似つかわしくないとでも言おうか……合っていないような、そんな気がするんだ」
 マーシャは押し黙った。
 そんなことが、あるのだろうか。
 確かに、出自を知らないということは能力の開花に繋がらない点にはとても理解出来る。
 孤高故に力の上下関係を皆無にするイヴィルブレイカーの『ダメージを負った回数に比例して斬撃威力を倍加する』能力。
 救済故に自分を癒す事を知らぬシャイン・ブレスの『傷の因果律を逆転して治癒する』能力。
 純真故に善悪を無視し総ての偽りを否定するトリック・オア・トリートの『嘘を電質化する』能力。
 真名の通りの必殺を冠するオーラム・チルドレンの中で、神器を駆る事は初歩中の初歩である。にも関わらず、彼の神器はどこかおかしな空気を放っていると言えよう。発現と同時に空間を固有的な結界で食い潰し、他者の『侵蝕』を沈静化する、そんな神器は聴いたことがない。
「何が起こるか、未だ不鮮明な部分が多い……マーシャ、決して監視を怠るな」
「は、はい……」
 マーシャは素直に頷いた。彼女の今の一言は暗に、『下手をすれば危険なのは周囲の者だ』という意味が多分に含まれていたからだろう。
 プリシラは前を向き、ゆっくりと吐息を零した。
「全く……何事も起きてくれない理想は、何時訪れるのだろうな」
 そう言い残し、プリシラはゆっくりとした足取りで三番ゲートを潜った。

 ビ―――――――ッ!!

 突然、ゲートの点灯と共に電子音が鳴り響く。
 どかどかと現れた警備員が、少女の両サイドを固めて連行しようとする。
「な、何だ貴様等っ! 貴金属類なら持っとらんぞ! 何だと! 格好!? 何がおかしい貴様等!! これは私の一張羅……は、離せっ!! 荷物も積み終わったのに飛行機に乗れなかったらどうするつもりだ!! 離せと言っとるだろうが莫迦者がぁぁああっ!!」
「……」
 軍服姿で堂々とゲートを潜り警備員に連れていかれまいとジタバタするコスプレ少女を、マーシャは乾いた笑みで見つめ立ち尽くすしかなかった。
 マーシャにとって最も目が離せない人物は、すぐそこで暴れている。


 ◆


 時刻は午後二時ちょっと前。
 駅前の広場の中心に立つ時計台は、その足元にドーナツ型の椅子が設置されている。
 駅のすぐ前という事もあり、待ち合わせしてる者や、ホップを片手に店の宣伝をする者、野鳩に餌をあげている者など、多種多様の人々が大きな波と化して出来上がっていた。
 丁度良い時間に来れた、と恭亜は荒波の中を掻い潜り、時計台の下へと近寄る。
「お……」
 時計台の下の椅子に座っている少女の姿が見える。
 アインだ。彼女は暇そうに足をぶらぶらとさせている。
 予想と違う早い到着に、恭亜は溜息混じりで手元のビニール袋を覗く。二本買ってきておいて良かった。試合に負けて勝負に勝った気分だ。凄く意味の無い話だが。
 声を掛けようと歩み寄ると、ふと知らない男達がアインに声をかけていた。
(……?)
 小首を傾げる恭亜。彼等がプリシラの言っていた助っ人なのだろうか。
 それにしては、随分と軽薄そうな顔の二人組だ。というか、複数とは言っていなかった気がする。
 もしかすると……、と恭亜は少し早足で近付く。
「――だからさぁ、誰も来ないじゃん。ホントは俺らみたいなのを待ってただけなんじゃないの?」
「しつこいな、さいぜん(さっき)から。お呼びやないからどこぞへ行け言うとるやろ」
 黒いTシャツの上からノースリーブのジャケットを羽織り、スカートは折り目正しいチェック柄。腰回りに分厚いホルダーベルトを巻き、アサルトブーツを履いた姿は、かなりファッションセンスが高い。全体的には暗めの服装だが、白い髪や肌を際立たせている。面倒臭がりな性格の割に、スタイリッシュに決める事を平然とこなせるタイプらしい。
 しかしそれ故に、万人を振り向かせるタイプでもある。外見もそうだし、何より顔つきは並み居る美女を場末のホステスにしてしまうだけの、存在感が在るのだ。
 要するに、ナンパをされているらしい。
 うわぁ、と恭亜は思わず脱力した。ナンパなんかする方もそうだが、それにしてもアインのあしらい方が酷過ぎる。
 ああいうのは、拒否の空気を出しつつ必要以上の言葉は出さないのが定石だ。
 しかし、あまりにストレートなアインの態度に、ナンパをしている二人組は表情をすっと無にする。
「……おい、あんま調子こいてんじゃねぇよクソアマ。ちょっと小奇麗な顔してるからって自分が偉いと思ってんなら痛い目みちゃうよ、マジでさぁ」
 言わんこっちゃない。火に油を注ぐが如く、片方は業を煮やしたのかアインに詰め寄る。
 もう止まれない所まで来たというのに、アインはさらに止めを刺してしまう。
「何が偉せや。へちゃむくれな顔が二人揃ったって、ついていくのは頭の弱いスカタンな女だけやろが」
 立ち上がって、丸っきりの喧嘩腰で睨み返すアイン。この猛暑で確実に苛立っている。
「んだとテメェ!!」
 ついにはアインの胸倉を掴もうと前へ近づく二人。
 これ以上は面倒になって欲しくない恭亜は、声を出しながら走り寄る。
「アイン!」
 呼んだのは彼女の方だが、何でか二人組の方がこちらを見る。当人はどうしたか? チラッと見た後はそっぽだ。このまま素通りしてやろうか。
 だが、完全に何処の馬の骨とも知れない男が声をかけた相手は目の前の少女に、と悟ってしまった二人組は、恭亜に睨みを向ける。
「何だよ、マジで彼氏待ちかよ……」
「でも結構綺麗な顔しちゃってんじゃん。男だよな、声からして」
 落胆する日焼けした男に、耳内をする長身の男。
 恭亜は確実に一悶着あると思い、いつでも手に持っているビニール袋を離せるよう右手の握力を弱めた。
「……ある程度何があったか分かるよ。今のはこいつの言い方も充分悪い。それは俺からも謝る。けどさ、脈が無いなら諦めるのもナンパなんじゃないのか? 酷い言われ様でも身を引くべきだと思うけどな」
 良くは分からないが、宥めるぐらいはしないといけないと思った。火は油を注げば燃えるのなら、水を差せばいいという寸法だ。
 が、恭亜自身がナンパは皆無なら喧嘩もさほど知るわけではないのが、災いした。
 つまり、唐突に現われて説教を始める人間に、説得力は感じられないという訳だ。
「は? テメェいきなし何言ってんだゴラ」
「おいおいやめとけよ。ブルっちゃってんじゃんよ彼氏さん」
 日焼けした男は眼を飛ばし、長身の男は下卑た笑みでからかう。
 両者共に、喧嘩を売られたのに帰るつもりは無いらしい。
(はぁ〜……ほんっと、気が休まらないったらないな……)
 呆れた顔でアインと二人組との合間に立つ恭亜は、腰に手を当てて思わず吐息を漏らしてしまった。
 気付いて自重しても、もう遅い。
 日焼けした男は目を細め、一歩身を乗り出す。
「おい……テメェ今溜息ついたろ? え? ズイブンと強気じゃんかよ」
「……それなら謝るよ。悪いけど俺達本気で人を待ってるんだ。ここいらで手打ちにしてくれると助か――」
 直後、恭亜の言葉が切れる。
 目の前の男が、突然腕を振り上げたからだ。
「ゴチャゴチャうるせぇっての、カッコつけてるまま死んどけ」
「!」
 恭亜の握力がさらに弱まるのと、背後のアインが体勢を低めたのが同時に行われた。
 その、絶妙なタイミングだった。

「お待たせ致しました」

 ピタリと全員の動きが止まり、視線がそちらへ向く。
 そこに立っていたのは、洋風の顔立ちの少女だった。
 見た目はプリシラやサラトより少し上め。しかし小柄、というより華奢だ。背中までの灰銀の髪を後ろで縛っている。ポニーテールではなく、毛先の辺りを可愛らしいピンクのリボンで結ぶ纏め方だ。
 このクソ暑い中だというのに漆黒のロングコートを着ている。膝が覗いているのを見ると、下はスカートを履いているらしい。シャツを第一ボタンまで留め、チェック柄のネクタイをきちっと締めている。しかしプリシラのような威圧感は無く、どちらかと言えば楚々とした雰囲気を放っていた。
 やけに大きな黒いキャリーバックを引きながら、澄ました表情で四人の顔を見比べ、こほん、と咳払いをすると、はっきりとした日本語で口を開いた。
「察するにここで待ち合わせをされていたアイン先輩とその知り合いの方に、ナンパを失敗し逆上された御二方が喧嘩腰になった挙句、腕を振り上げている……という状況で宜しいですか?」
 丁寧というより生真面目な物言いで、視線は恭亜に向いていた。
「ぇ、っと……」
 誰だろう、と首を捻ると、少女はすぐに口を開き直す。
「正解と判断しましょう。重ねて申し上げます、お待たせ致しました。お久し振りですね、アイン先輩」
 アインは何とも言えない表情で小さく頷く。言うが早いが少女ははきはきとした口調で二人組を見ながら、キャリーバックを引いて恭亜の隣りに立つ。
「では、場所を変えて大事な話をしますので、そろそろ御引き取り願えますでしょうか。挨拶を済ませたらすぐ東京の観光案内を御願いしたいのです。折角五日前から張り切って『東京食い倒れ街道完全網羅マニュアル』を作って来たので、一分一秒でも惜しいんです」
 スラスラと話を続ける少女に、二人組は戸惑いながらも睨みつける。
「ワケ分かんねぇこと言ってんじゃねぇよガキ! テメェも輪姦すぞ、ぁあ!?」
 ドスを利かせた物言いに、少女は目を伏せて細い吐息を零した。
「ふぅ……プリシラ先輩からは御話を伺っておりましたが、その通りですね。酷過ぎます。日本の酷さがこれ程までとは。ドイツより暑いですし、興味をそそられるのは料理店系列だけ、人間はまるで問題外です。特に若年男性の低劣さといったら……当然の主張に対し『訳が分からない』の一言で済まそうとする知性の無さ、相手が女と取るや性的暴力をチラつかせる品性の無さ、まったくもって聴くに堪えません。はっきり言って底が知れます」
「なんだとテメェ!! 喧嘩売ってんのか!!」
 徐々に男の声が大きくなるにつれ、周囲の人々は何だ何だと視線を向ける。
 しかしそれでも少女の態度も声量も変わらない。きちんとした背筋のまま、真っ直ぐと見つめ返す。
「売っていません。『一分一秒も惜しい』という数十秒前の発言も記憶出来ないのですか? それにそんな大きな声を出さなくても充分聴こえています……あと、それから」
 少女は嫌そうに顔を歪め口元を手で覆い、
「歯を磨いていないのか煙草を吸っているのか知りませんが、息が臭います。あまり至近距離で喋らないで下さい」
「……っ!!」
 その一言が決定打となった。
 顔を真っ赤にしながら日焼けした男が野太い腕を振り上げる。
 少女の対応は迅速だった。
 傍らに立っていた恭亜が持つビニール袋に手を差し入れ、素早く前に出る。
 振り下ろされた腕。かなり腕力に自信があるのか、ぶぉん! という空気を殴る音が聞こえた気がした。
 しかし、少女は難なくそれをひょいと避け、空振りして前のめりになる男の脇を通り過ぎる。刹那、カシュン! という空気の抜ける音が聞こえ、
「――、」
 小さく何かを呟いた少女は、日焼けした男の振り抜いた腕の手首に触れる。
 そのまま細い体躯を捻転。途端、日焼けした男の利き腕がグン! と引っ張られる。腕力ではなく、相手の体重移動を利用した合気道の動きだ。
「ぅ、おっ――!?」
 流れる動作で上体を凄まじい勢いで低め、後ろに立っていた長身の男の右足首に触れる。
「うわっ、何だ……!?」
 驚く長身の男の胸を、少女は上体を起こし、とん、と大して凄味の無い軽い力で押す。
 すると、何かに引っ掛かったように長身の男は後ろへ転げ、日焼けした男は腕を引っ張られてつられて倒れ込んだ=B
「え……?」
 胸を押されただけで二人揃ってドミノのように倒れ伏す姿にぽかんとした恭亜を、振り返った少女は落ち着いた口調のまま言う。
「これでしばらくは追ってこれません。申し訳有りませんが、小走りで退散、という形で人気の少ない場所まで御案内頂けますか?」
 キャリーバックの取っ手を掴み催促する少女に戸惑う恭亜。その後ろからアインがつまらなそうに肘で突いてきた。
「せやよ。茶番はもうぎょうさん、はよう行くで」
「お、おう……って! 元はと言えばお前のせいだろうが……!」
「その言い分に同意します。アイン先輩の変わり無さもプリシラ先輩から伺った通りです」
 三人は形成し始まるドーナツ状の人垣に突っ込み、やがて抜け出す。
「ま、待てよテメェらぁ!!」
「いてぇっての! 引っ張んな!」
「クソっ! 何だよコレ≠・……!」
 人ゴミの向こう側から、倒れながらも叫ぶ声がする。
 それを背に受けながら小走りと言わず普通に逃走する恭亜に、少女は悪びれる様子も無く声を掛ける。
「ああ、それと……容器だけでも御返ししておきます」
 視線を向けると、キャリーバック片手に走りながら、もう一方の手で少女は空のペットボトルを渡してくる。
 それは、行きしなに買って来たはずのミネラルウォーターだ。
 蓋も中身も無いポリエチレンテレフタレートで出来たただのゴミを受け取る恭亜に、始終落ち着いた口調で少女は言った。
「勝手に拝借して済みませんでした、後ほど弁償します」
「? ……、?」
 空のペットボトルを見て、恭亜はこの中身を利用してあの二人組をどう足止めしたのか、走りながら真剣に首を傾げた。





「……ふぅ、これぐらい走れば、もう追ってこないでしょう」
 走り出して十分。さすがに息が上がって来ていた少女は足を留め後方を確認する。
 場所は駅前から少し南下した住宅地だった。塗装の綺麗な一軒家が規則正しく群がる。どうやらこの辺りは最近建てられた物が多いのか、そこかしこに表札が掛かっていない。
 のっぺりとしたアスファルトの上で立ち止まる恭亜とアイン。
 深呼吸をしながら膝に手を突いて汗ばんだ額を拭うアインのぼさぼさ頭に、恭亜はねめつけるような視線を送る。
「アイン、俺が言えた義理じゃないだろうけど、もうちょっとマシな追い返し方しろよな」
「やかましぃ。とゆうか、嫌だ言うとんのにしつこいのが悪いんねや」
 カチンと来た恭亜と、顔を上げたアインが睨み合う。
「だったらもう少し言い方ってもんが有るだろって話をしてるんだよ!」
「んなのウチの勝手やろ! 自分は巧くかわせたみたいに言うてんなや!」
「行かなきゃ胸倉掴まれてたくせに!!」
「結局殴られそうになってたくせに!!」
「避ける自信は在ったよ!」
「ウチにも在ったわボケ!」
「――こっほん!」
 言い合いになりかけた矢先、少女の主張の激しい咳払いに口論は止まる。
 少女はこちらを見る二つの視線を見比べ、肩を竦める。
「喧嘩をされるのは結構ですが……いい加減私の自己紹介ぐらいはさせて頂けませんか? 置いてけぼりを食らう第三者の事も考えて下さい」
 尤もな意見に恭亜は気まずそうに頭を掻き、アインは腕を組んでそっぽを向く。
 恭亜はやっと落ち着ける空気になってから、少女を見た。
「お前がプリシラの言ってた助っ人か」
「でなければ他人の喧嘩に首を突っ込む奇特な異人にでも見えますか?」
 嫌味というより冗談めいた言い方で少女はキャリーバックを足元に置き、礼儀正しく腰から身を折って御辞儀をする。
「ABYSS討滅結社≪ツクヨミ≫所属、ルルカ=T=エスティークと申します。以降より東京及びアイン先輩方のABYSS沈静化の助力とさせて頂きますので、どうぞ御見知り置きを」
 今までにない立派な挨拶に、逆に内心焦る恭亜。
「ああ、俺は……」
「存じております。姫宮恭亜さん、ですね?」
 顔を上げる少女――ルルカ。
「話に聞いただけですが、切り裂き魔℃膜盾熈善悪一≠ニ破戟≠フ同時乱戦事件も察しております……そうですか、貴方が……」
「え?」
 最後の方で何かを呟いたが、よく聴こえなかった。
 ルルカは首を振る。
「いえ、御噂は兼々、と……」
 それだけ言うと、ルルカはアインに向き直る。
「それで、これからの私の行動方針ですが……」
「ちょい待ちぃ」
 アインは手でルルカを制し、恭亜を見る。
「恭亜、喉乾いた。飲みもん」
 と言って、ビニールの中で今も雫を垂らしているスポーツドリンクのペットボトルを指さしてから、手の平を向ける。
 さすがに恭亜はその横暴さにむっとした。
「お前の分ならさっき無くなった」
「何言うとんねん、それがウチのやろ?」
 両者譲らない体勢に、ルルカが申し訳無さそうに眉根を寄せた。
「済みません、私が勝手な事をしたばかりに……」
 今度は恭亜がルルカを手で制する。
「いや……えーっと、ルルカ、だよな。ルルカは悪くない。悪いのはこいつ」
「はぁ!?」
「はぁ、じゃない。お前が悶着起こさなきゃ減る事も無かった。というか……どっちもお前にあげるつもりじゃなかったし」
「自分のまで買っといてよぉ言うわっ」
「これはルルカの分。本当はミネラルウォーターの方を渡すつもりだったんだけど、どっちにしろ俺もお前も我慢だバカ」
「バカ!? バカ言いよったな!?」
「お前はさっきからその『なんで来なきゃいけないんだ』みたいな態度やめろよな! ルルカに失礼だろ! わざわざ俺達の為に来てくれたんだから年上は譲れよ!」
「……御二人とも」
 不意に、二人がまたも口論になろうとするのを、腹からの苛立った声でルルカが遮った。
 そうして、キャリーバックの脇の網状ポケットから一冊のノートを取り出す。上にいくつもの付箋シールが飛び出し、横からは少しだけ写真らしきものまで覗いている。
 そこには、
「埒が明かない非効率極まりない喧嘩をやめて下さいと言っているでしょう。この際ですので私の目的を満たしつつ話を進められるよう、場所を変えます。それで良いですね!?」
 語尾が強調され、二人は思わず頷いていた。
 彼女が胸元に持ってきたノートの表紙には、綺麗なボールペンで『Tokyo Tour Führer Handbuch.』。ドイツ語表記で『東京観光ガイドマニュアル』という意味の文字があった。


 ◆


 午後二時過ぎ。
 六月の蒸し暑い空気どころか地球の温暖化など素知らぬ振りの、二十三℃ドライ設定の冷房ガンガンな六畳一間のアパートの一室。
「プリシラが帰ってぇ〜。恭亜にも暇なのにぃ〜。部屋を出ちゃだめぇ〜って」
 畳の上に寝そべり、足をパタパタしながら変な唄をこれ見よがしに口ずさむサラト。
 その傍らで、窓から差す光に向かうように少し腰を浮かした正座という、普通に正座した方が楽そうな体勢で両手を合わせ瞼を閉じるマーシャが居る。
「――qui conceptus est de Spiritu Sancto, natus ex Maria Virgine, passus sub Pontio Pilato,crucifixus, mortuus, et sepultus; descendit ad inferos;――」
 彼女は今まで何度も何度も何度も何度も口にしてきたイタリア語での言葉を、本来の彼女らしくなく滑らかに小声で呟く。
 マーシャはある教法における祈祷文十種総てを一日の内に唱える事を習慣としている。
 といっても、一つ一つの所要時間はさして長くない。しかし時間きっかりに何を唱える、といった厳格なルールを課している訳では無く、時間が押したらすぐに次の祈祷文を唱えるつもりなのだ。なので、上手く合間を見計らって祈りを捧げているだけであり、今日は昼前にプリシラを見送りに行っていた為、彼女が今唱えているのは十種の内のまだ四つ目にあたる『使徒信経』の最中だった。
 静かな部屋に続く彼女の調べの中で、サラトはわざとらしく床をゴロゴロと転がり回りながら不満を口にする。米国の名を持ちながら、中身は純日本人であるサラトにとって、イタリア語で何かを呟き他の反応を一切しない光景は暇で仕方がないのだろう。一度祈りの最中に脇腹をつついて邪魔したら、プリシラに拳骨を落とされたので、間接的に攻めるしかなくなってしまった。嘘をこよなく嫌う彼女ならではの純粋にして残酷な本音の嵐だ。
「ひっまひまぁ〜。恭亜と遊びたいよぉ〜。部屋でぬくぬくしてるなんてつまんなぁ〜い」
「――carnis resurrectionem, vitam aeternam.Amen.」
 最後の言葉と共に、胸元で十字を切る。首に提げられたいくつものシルバーアクセサリが、じゃらん、と擦れた。
 もう一度手を組んで数秒、やっと祈りを終えたマーシャはやや引き攣った顔で横からぴょこんとこちらを見つめているサラトと視線を合わせる。
「終わった?」
「サラトちゃん……い、祈りは、にに、日課だからちょっとだけ、が、我慢してって、言ってるじゃ、ないですか……」
「……マーシャ、料理の最中に突然祈りだしたらサラトでも非常識だと思う」
 マーシャは立ち上がり、クーラーの設定温度を二度上げる。
「わぁ!? そ、そんなに上げたら暑いよ!」
「だ、駄目ですって……っ! た、倒れるよりはつけた方が、い、いいですけど、ここ、こんな温度じゃ、体壊しちゃいますからっ!」
 ぴょーん、と飛び跳ねながらリモコンを奪おうと頑張るサラトだが、身長差のせいでまるで取れない。
 頬を膨らませて見上げるサラトの頭に手を置いて、マーシャはなだめる。
「わ、私はプリシラに、あ、貴女の面倒を見るよう、いい、言われてるんですから……」
「でも……」
 しゅんと項垂れるサラトに、マーシャは出来る限り優しく、それでも譲れない部分を頑なに、諭す。
「あ、≪アマテラス≫との、事だって……まだ解決した、訳じゃ……ないんですから……大丈夫です、苦痛にならないように精一杯最良の、環境を、作りますから……ど、どうか、御自愛下さい」
「……」
 撫でられながら上目遣いを向けるサラト。
「……ね?」
 マーシャは困った顔で、それでも微笑む。
「……、うん」
 やがて、サラトはこくりと頷く。
「わかった。サラトいい子にしてる。恭亜と約束したから……マーシャ、ワガママ言ってごめんなさい。サラトのために言ってくれてるのに」
「良いんですよ。こ、困った時は……お、御互い様と言いますし。たとえ主の導きを失おうとも、わ、私は、決して……見捨てたりなんか、し、しませんから」
 そうしてサラトの頬を両手でそっと包み、こつんと額を軽く当てるマーシャ。
 救済の出自の為に深淵へと身を沈め、幾重もの悔恨を引きずりながらも≪ツクヨミ≫と巡り合い、生きる彼女。
 マーシャは戦闘の点においては、足手纏いになる。自分でも勿論自覚していることだ。
 そんな事を一度言った事があったが、誰一人としてそれに頷いた者はいなかった。彼女の神器シャイン・ブレスが無ければ、命を落としていた可能性の高い者だって居たからだ。その最たる存在が、傷を負わねば能力を発揮する事が出来ないプリシラである。
 足手纏いなんかじゃない、と面と向かって言われ続けたマーシャだが、本人はそれに首を横に振って答えた。
 違う。そういう悲観的な考えではない。
 むしろ、弱いからこそ見えるモノがあるのだと、マーシャは信じている。
 人を傷付ける事を義務として背負う生き方は、アインやプリシラのような生き方は、出来ない。
 だからこそ、マーシャが≪ツクヨミ≫の一人として、オーラム・チルドレンとして欲したのは、『戦わない強さ』だった。
 誰かが傷つくなんて嫌。
 しかし何かを犠牲にしなければ何も成立しない世界でもある。
 ならばマーシャが犠牲にしたのは、因果律を逆転する事で治癒するという、痛みを伴わせるだけの奇跡の力。
 恐らく、彼女の出自は≪ツクヨミ≫の中でもトップクラスに有する能力を持っているだろう。
 しかしそれは、相応の代償も少なくない。
 何故なら、人の再生能力は万能じゃない。いかに因果律を捻じ曲げても、老人や病人など再生能力が弱まっている人間は治し難く、また対象者本来の再生能力が無いと治せない。彼女が死者や無機質を治せないのはそこにある。
 犠牲として分け与える再生能力が無ければならない=B
 マーシャの能力の代償。それは、血液が凝固作用を殆ど持たないというもの。
 オーラム・チルドレンとして身体能力を保有してはいる、彼女の肉体は日常の者よりも圧倒的に治りが悪いのだ。腕を軽く切っただけでも、彼女にとっては重傷になりかねない。
 だが、マーシャはそれを恐れてはいない。
 それこそが、その揺るがぬ救済意識こそが、彼女にとっての『神』だからだ。
 たとえ傷の治りが遅くたって、自らが犠牲になる事より、誰かが傷つく事にこそ恐れる。
 故に、その両手が掴める限りに弔いの花を奪い取る。
 弔花の諸手=B
 あまり好いてはいない真名が、彼女の唯一の誇りだった。
 だからこそ弔花の諸手<}ーシャ=ハスティーノンは、たとえそれが敵であったとしても、救済という存在意義の為に殺されようとも手を差し伸べるのだ。
 今回は、たまたま目の前の少女であっただけ。
 それでも、救う為に。マーシャは何一つ迷いの無い心で言い聞かせる。
 サラトは、気恥ずかしそうな笑顔をマーシャに向けた。
「えへへ……サラト、マーシャも大好き。マーシャさっきから全然、嘘ついてない。本心から言ってくれてる。本当にサラトのこと大事に思ってくれてる。だから好きだよ」
 マーシャは少し目を瞬かせ、それから、困ったように破顔させた。
「そう言ってくれると、と、とても嬉しいですよ……サラトちゃんは、幸せですね。や、優しい人に、たくさん、巡り合えて」
「……、うん」
 昔。
 あまり思い出したくはない頃の過去に、サラトは孤児院の先生に頭を撫でられ諭された事があったが、それとは全く違った。
 自分の事しか案じていない小利口な人間より、他人の事しか考えていない馬鹿な人間の方が、大好きだった。
 そうしてサラトは、もう一人の馬鹿な人間に、救われているのだから。
 サラトは少しもそれを馬鹿だなんて思っていなかった。
 大好きだから。
 大切にしたいと、今度こそ思えるから。
 我武者羅に求めた『トモダチ』という呪いから解き放ってくれた、そんな存在だから。
 どうしよう、また逢いたい気持ちが芽生えてしまう。
 マーシャに言われたばかりなのに、やっぱりこの想いには、嘘をつきたくなかった。
「マーシャ、マーシャ、やっぱり恭亜のとこに行きたいよ」
 切なる表情で懇願する。
 マーシャはやや困ったが、苦笑しながら折れてあげる事にした。
「……し、仕方が無いですね、この子は。わ、分かりました。準備をしたら、い、行きましょうか」
「うん!」
 喜びながら、サラトはテーブルの上に置かれていた大きなヘッドホンを首にかける。
「行こうマーシャ! ……って、座ってるけど何してるの?」
「何って……出かけるので、あ、あと二つぐらいは祈りをしておこうかと……」
「と、トリック・オア・トリート!」
 直後、反射的にサラトは自らの神器を目覚めさせる。
 既にほど良く蓄電されていた生体兵器サラトは、こそばゆい程度の静電気をその身にマーシャに突撃していた。
 建前ではなく、本気で言っているからマーシャは意外と性質が悪い。


 ◆


「じゃあ、お前もオーラム・チルドレンなのか」
 住宅地から徒歩数分。繁華街を少し外れた先のサンロードと呼ばれる長い小道。
 そこに連なる店の中で、ルルカが指定したのは喫茶店だった。
 正しくは珈琲を専門に扱う小さな店であり、内装も西洋の重圧で薄く濡れているような雰囲気に満ちている。店の隅に立っている無駄に大きなレコードプレーヤーの筺体からはしっとりとしたBGMが流れていた。最新式のコンポやデジタルオーディオプレーヤーなどで競い合う東京の中で、その古臭さは懐かしく、どこか切なく、自然と心を落ち着かせてくれる。こんな洒落た店を良く見つけたものだ、と恭亜もなかなかに気に入ったぐらいだ。
 少し遅いランチながら、注文したオムレツをケチャップと絡ませて口に頬張ったルルカは、きちんと咀嚼し、嚥下した後に恭亜の問いに答えた。
「はい。こんな所で真名や出自を言っては食事が美味しくなくなるので伏せますが、私も一応はオーラム・チルドレンです」
 恭亜は目の前のシーフードパスタを口に運び頷く。
 ちなみにアインはというと、恭亜が質問する度にルルカが適切に答えてしまうために、特に自分が喋る機会はあるまいと自分が頼んだポテトグラタンを黙々と食べている。
 差し当たって、決して大きな声ではないといえ恭亜とルルカが公に非日常を口に出して話せているのは、客がこの三人しか居ないからだ。隠れた名店、と言えば聞こえは良いが、このがらんとした光景は少々不安に思う。そういえば店主はさっきからカウンターでグラスを拭いているだけだし、注文を受けたたった一人の女性店員はどこにも見当たらない。美味い。確かに運ばれてきた料理は美味いのだが、何だろう、なんでだか不安になるのだ。
「恭亜さん、と御呼びしても宜しいですか?」
「ああ、好きなように呼んでくれて良いよ」
「アイン先輩も含め、この度はわざわざ御足労頂き有難う御座います。地図の方を暗記はして来たのですが、不慣れが高じて道に迷う可能性も皆無とは言い切れませんでしたので」
 申し訳無さそうに眉をひそめるルルカ。
「いや、一度も日本に来たことなかったんだろ? そりゃ仕方が無いって……それにしても、日本語上手いんだな」
 身近な日本人よりも巧みに日本語を操るルルカは、それもきちんと答える。
「日独のクォーターなんです。生来の母国語はドイツですが、日本語はプリシラ先輩や、総一郎先輩という同じく≪ツクヨミ≫の一員の方から教わりました」
 成程、と恭亜は納得した。考えてみればプリシラは、本人は日本語が母国語と言っていたが、世界中を飛び回っているのだから多くの言語を使いこなせるに違いない。そのソウイチロウ先輩とやらは知らないが、聞くからに日本人だ。それにルルカはさりげなく言っていたが、今『地図の方を暗記はして来た』と口にしていた。普通、地図とは現地で見比べる為に確認する物だ。世界地理の勉強じゃあるまいし、真面目というより、勤勉という意味では頭がかなり良いと見た。
「てゆうか、俺の知り合いってまともな言葉遣いしてる奴がほとんど居ないんだよな……まともなのは美弥乃とか桃瀬ぐらいか」
「……? ミヤノさんにモモノセさん、ですか。そう言えば、切り裂き魔℃膜盾フ際にその名前を耳にしたような気が……」
 思わず口に出してしまった恭亜に、ルルカは口元に手を添えて深く考え込む。
 ずぐり、と。
 恭亜の中の膿が、また潰れるような音がした。
「待ったっ……、今のは無かった事にしてくれ……というより、あまりあの時の事は思い出したくないんだ」
「……そう、ですか。立ち入った真似をしてしまい、済みません」
 今度は社交辞令ではなく本当に申し訳無さそうな顔をするルルカ。
 いや、と。恭亜は一応それを受け流し、パスタを口に運ぶ。
 脂っこい食べ物を頼まなくて良かったと思った。
 多分、食べ切れなくなっていただろうから。
 恭亜は精一杯に苦笑で取り繕い、ルルカの隣りを指差す。
「ある意味凄いと思うぞ、ルルカは。そいつなんか名前も外見も日本人っぽくないのに、よりによって関西弁って……」
 今まで黙っていたアインは、半ば睨むような視線を恭亜に向ける。
「……ウチのは人の譲り受けや。似非といえばそやけれど、あんまりバカにせんといて」
「譲り受けって、誰から?」
 思わず訊いてしまった恭亜。アインの表情が一気に険しくなる。
「アンタには関係ないし、おいそれと言ぃたない。下らん詮索は大っ嫌いや」
「そ、そうか……それは悪かった」
 邪険にでなく怒りを表すアイン。順手にフォークを握る手をテーブルを叩きつけるので、恭亜は乾いた半端な笑い顔をしながら詫びた。
「ルルカ、そないどうでもえぇ話をしに来よった訳ちゃうやろ。さっさと本題に入ってくれへん?」
「それもそうですね、少し長くなりますが宜しいでしょうか」
「ああ、逆に俺は是非聞かせて欲しいぐらいだ」
 たった五日間で体力的に厳しくなってきた恭亜にとって、プリシラが欠けた穴を埋めるルルカの存在は有り難かった。
 出来れば平日の昼間や、深夜を頼みたい所だが、自分より年下の彼女にそんな不規則な生活を送らせるのは些か酷いんじゃないかとも、恭亜は相反する思考に悩む。
「分かりました……済みませーん、注文の追加を宜しいですか?」
 ルルカがカウンターに向けて声を掛けると、今まで何処に居たのか女性店員がメニュー片手にやって来る。
 デザートでも食いながら真面目な会話、というのはどうかと恭亜が思っていると、メニューを見るなりルルカは文字の羅列を指でなぞりながら、
「アサリとソーセージのパエリエ、ビーフストロガノフ、牛肉百パーセント和風ハンバーグ、ペパロニピッツァ、南瓜の甘味スープ、厚切りトーストはジャムたっぷりで、ソーダシャーベットとコーヒーは食後に御願いします」
「――ぶふっ!?」
 恭亜が絶句するどころか思わずパスタを吹きそうになった。
 途端にアインが汚らしいモノでも見るような顔をしたがそれはどうでもいい。
 今のは空耳だろうか?
 一見華奢でサラダを細々と食べていそうな彼女が言ったなどとは考えられない台詞が聴こえた。嘘だと信じてつい視線を上げるが、当のルルカは冗談一切無しといった顔で女性店員に言っているようだ。
「コーヒーはアイスとホットのどちらになさいますか?」
 女性店員も何故さらっとそこを訊くのか。
「アイスで」
 ルルカも何故しれっとそこを答えるのか。
 かしこまりました、と全くツッコミたそうではないスマイル零円体勢でメニューを受け取り、女性店員はカウンター越しに店主に注文を伝える。いやいや、店主も店主でこくりと一度だけ頷いて奥に引っ込んでる場合じゃない。
「お、前……っ! どんだけ注文してるんだよ!」
 ルルカはその質問の意味が分からないといった表情で、首を傾げる。
「勘定でしたら問題有りませんよ? 自分の注文分は自分で払いますので」
「いやそこじゃないから! 単に量の問題を言ってるから!」
「え? 今のオムレツは単なる前菜なのですが……」
「どう考えても前菜じゃなくないか!?」
「恭亜さん、何を言っているんですか。オムレツにはちゃんと玉ねぎが入っていますよ」
「論点そこっ!?」
 おかしそうに微笑を浮かべるルルカを見て、恭亜は再確認させられる。
 ああ、≪ツクヨミ≫にまともな人間はやっぱり居ないんだ、と。


 ◆


 昼下がりの陽光が、じりじりと照り返す繁華街。
 並び立つビル同士の合間の、日陰と涼しい隙間風が汗ばんだ肌を拭い去ってくれる無人の路地裏で、少女は遥か向こうに見える人通りを遠く見つめる。
 距離にして三十メートル程度。しかし、大声でも張り上げない限りは決してあそこに居る人々はこちらに気付く事はないだろう、そんな境界線を感じる気がした。
 黒いタンクトップの上に生地の薄いカッターシャツ。袖は肘まで捲っている。下はスラックスなので、さすがに暑い格好のはずだが、冷たい空気を放つ空間で携帯電話を弄る少女からは汗が流れていない。
 少女は一度だけ電源を付ける。
 すると画面の端に着信三十六件という嫌がらせでもなかなか出来ないような回数が不在通知の表示と共にずらっと並んでいる。登録していない相手なので誰なのかも知らないが、全てが同じ番号である事を考えると、即刻戻って来いというメッセージなのは明らかだ。
 うわぁ、と若干怖くなりながらも、少女は電源を再度切って、パタンと閉じた。
「まあ、姫君宛に直接勝手な留守電入れた挙句音信不通になれば怒るのも無理はないかな。でも別に親しい仲でもなし。正義の味方は悪を見過ごしてしまう訳にはいかないんだよ。後で垂直落下型ヒロインショーの持ち芸を見せるので許して欲しいな、と……」
 メールに認めようか迷ったが、さすがにそんな事をしたら殺されかねないのでやめておいた。
 携帯電話をスラックスの後ろポケットに突っ込むと、不意に背後から声がかかった。
「見つけたぜ」
 特に驚くでもなく少女が振り返ると、大通りを挟んで、大柄の男達が立っていた。
 数は三人。どれもそこら辺に居そうな今時の若者らしい金髪やピアスで飾った不良じみた風体だ。
 ただ、あくまでそこら辺に居そうな若者と感じるのは、格好だけだ。
 三人とも、眼に宿る光が異質に放たれる。
 明確な非日常の光。
 少女は寄りかかっていた壁から離れ、三人を見る。
「なんだ、もう見つかってしまったのか。さすがは≪アマテラス≫だ、半日で突き止めるとは恐れ入るよ」
 三人のリーダー各なのであろう金髪を逆立てた体格の良い男が唾を吐き捨てて前に出る。
「へっ……勝手な真似しやがって……なんで俺達がこんなふざけた女の為に動かなきゃならねぇんだ」
 一睨みでそこいらのちゃちな不良を黙らせる鋭い目つきを向けられて尚、少女は微笑む。その表情はとても自信に満ちたものだった。
「そう思うなら別に捜してくれなくても構わないんだけれどね。まさか連れ戻しに来た訳じゃないんだろう?」
「当たり前だ」男は呆れた顔で即答する。「つってもまぁ、巴さんからはそう命令されてんだけどな。巴さんも俺達もはっきり言ってお前になんざ興味無ぇよ」
「へぇ……」
 少女は腰に手を当て、面白そうに相槌を打つ。
 男は手を軽く上げ、『しっしっ』と犬を相手にするように嘲笑う。
「俺達ぁ≪ツクヨミ≫のクソどもをぶっ殺して、ついでにお前を連れ戻せりゃ御の字ってだけなんだよ。だからお前が動き回ってる意味なんざ無いって訳だ」
「どういう事だい?」
 訊ねると、三人は同時に声を押し殺して嗤う。
 首を傾げて見遣る少女に、男は嗤いながら答えた。
「お前が出しゃばる頃にはとっくに俺達がカタぁ付けてるって事だよ。あんま調子乗った態度でいんじゃねぇよ。成り上がりがいくら頑張ったって、無駄だってのが解んねぇのか?」
 少女はそんな嘲笑に対し、目を細めて吐息を零した。
 成り上がり、というのはその名の通りの意味だ。≪アマテラス≫の十傑に与えられる序列が変動する際、流れのままに十位になれた者を大概そう呼ぶ。
 実力で十位になった、という意味合いが薄いからだ。過去に小学生ぐらいの電流使いが十位になった際も同じように言われたようだ。
 しかし、と少女は肩を竦めた。成り上がりと小馬鹿にしていた幼い子供が、ここ数年で七位にまで駆け上がった時の彼等の顔はいっそ哀れとしか言い様がなかった。
「そんなに欲しいならあげようか?」
「……、何だって?」
 途端、三人の視線が一気に殺意となって集中する。対する少女は自信満々な顔を決して崩さない。
「僕は別に序列に興味なんて無いよ。僕が≪アマテラス≫に居るのは、力を貸す代わりに情報を提供してくれるという交換条件を呑んでくれたからさ。今回の十位就任も甘んじて受けはしたけれど、そんなに僕が気に入らないのなら君達の誰かに譲るのも悪くはないね」
「こ、こいつ……!」
 男が睨みつけて来る。こっちは本気で言っているのにどうして怒るんだろう、と少女は真剣に困る。序列に入ってしまうと余計に知名度が上がってしまうので、正直言って要らない。邪魔臭い。適当に押し付けてしまいたい。
「ふざけんのもいい加減にしろよっ……? 俺達が誰の部下だか知ってんだろうな?」
「知っているとも、巴君だろう?」
 当たり前のように答えると、唐突に男は懐からナイフを取り出す。
 それがまた安っぽそうな折り畳み式のナイフなのだが、男が握るとその凶暴性はぐんと増す。
 それを見せびらかしながら、男は鋭い殺意をそのままに低い声で脅す。
「巴さん、だろう? いや、テメェは黛様って呼びやがれ。これ以上ナメてっと殺すぞ」
 男は本気だろう。素人が気軽に出す『殺す』とは、全く別種の重みがある。
 少女は堪らず頭を掻き、苦笑しながら両手をあげる。脱力したような、降参のポーズだ。
「御免よ。呼び方は人それぞれだし、本人がそれを強要したようには思えないんだけれど。そうだね、君達は彼女直属の部下だよね。それは悪かったよ。だからそんな物騒なモノは仕舞ってくれないかい? やめて欲しいんだ」
「くくっ……偉く殊勝な心がけじゃねぇかよ。成り上がりが俺達三人を相手にしたって、勝てねぇってのが理解出来たかよ」
 男はまた嘲り、ナイフを懐に戻す。
 そして、その手で中指だけ突き出して少女に向け、ベロを出す。
「とっとと消えな、腰抜け野郎。おっと失礼、野郎じゃなかったか。このお零れにたかるあざとい雌犬さん? 死にたくなけりゃ犬小屋にハウスして餌でも待ってろ」
 後ろの二人も、吹き出すように笑いだす。
 少女は苦笑を噛み締める。頭を掻いた拍子で胸元に垂れてしまった長い左側頭部からの髪を払い、

「黙りなよ、不快だ。そんなに死にたいのかい?」

 一瞬にして男達のせせら笑う声が消失した。
 ズン! という腹にくるような重圧が、路地裏に満ちる。
 男達は何も言えないどころか、突然の彼女の豹変に呼吸を一拍殺される。
 咄嗟に顔を見たが、本能的に視線を逸らしてしまった。
 直視できなかった。
 今、目の前の少女の顔は、自信に満ち溢れた利発な表情じゃなかった。
 形容する言葉さえ見つからない。
 無表情であるにも関わらず、圧倒的な殺意の闇に染まっていた。
 少女は静かに、しかししっかりと通る声で彼等に言う。
「僕はね、ナイフを見せびらかす事を言ったんじゃない。殺しを知る者に脅される事を言ったんでもない。序列の就任につけ上がっていると思われる事も勿論そうだ。単に人格を忌まれるのも……まあ、なくはないけれど、それも違う。そうじゃない。そうじゃないよ」
 暗闇の奥から、ズルリと這い回るような殺意をこびり付かせ、淡々と少女は男の首を絞めるように導きを出す。
「僕が『やめて欲しい』と言ったのは、あまり僕を怒らせるような物言いを口走る事にだ」
「ぁ、……っ」
 別人が、そこに居た。
 オーラム・チルドレンであるかないか、なんて差の問題じゃない。
 間違った応答どころか不用意に喋っただけで、肉を前にした空腹の獣のような目の前の少女に喰い殺される気がした。
「さっき言ったじゃないか。僕が≪アマテラス≫に所属しているのは僕の個人的な目的のためだと。この組織の一翼を担っているのはあくまで手段に過ぎない……分かるかい? ≪アマテラス≫が僕を選んだんじゃない、僕が≪アマテラス≫に決めただけなんだ。格付けは要らない、ルールも知りたくない、籠の鳥なんて真っ平御免だ。得るモノが無いなら、その時こそ腰抜けのレッテルを喜んで受け取り、荷物を纏めて日が変わる前にさっさとオサラバするだけさ。君達のように誰かに心酔している訳じゃないし、僕は≪アマテラス≫を好んでなど全くない=B情報さえくれるのなら≪ツクヨミ≫に所属したって構わない」
 でもね、と。少女はさらに殺意を強めて続ける。
「こんな僕にもね、僕なりのプライドは在るんだよ。巴君の実力は大いに認めようとも。でも、だからどうしたんだい=H 『はい分かりました』でコケにされるのは我慢ならない。理屈の無い暴力は悪だ。正義の味方として、今すぐ君達を完殺しても良いんだよ?」
「ひ……っ!」
 今更になってようやく恐怖に竦んだ男が、一歩後ずさる。
 それを見て、少女は急ににっこりと笑った。辺りを充満し尽くしていた冷たい重圧が、嘘のように消え果てる。
「そういう事だから、僕を悪く言いたいのならそれ相応の道理に適った暴言で貶してよ」
 やがて少女は前へ――大通りへと歩み始める。
 男達は殺意に当てられた余韻で、身動きしなかった。
「幸いな事に、僕も君達を殺す道理は無い。殺した所でデメリットしかないしね」
 少女が、男のすぐ脇を抜ける時だけ、小さく、囁いた。
「でも気を付ける事だね。正義の味方は何時如何なる場合に限らず、君達をも見ていると。逢いたくなったらいつでも来ると良い。序列が欲しいならすぐにあげるとも……ただ、」
 ぞくりと背筋を凍らせる男に、少女は更に珍しく、にやりと薄く笑んだ。
「キュートで御茶目な落下系ヒロイン真琴ちゃんを、あまり邪魔しないように……ね」
 それだけ伝えると、微笑みながら少女は男の肩をぽんと一つ叩き、緩やかな足取りで大通りの人波に紛れていった。
 男はすぐさま、はっ、と息を吐いてその場に尻餅をついてへたり込む。
 他の二人は金髪の男のように座りこそしなかったが、じっとりと汗ばんだ首元を拭うことすらせず、身震いした。
「う、嘘だろ……? あ、あれのどこが序列十位なんだよ……」
 男達は想像を絶するあの殺意に、既視感を覚えた。
 そう、自分達が敬虔の念を抱く、棺桶を背負う小さな戦争屋と――同じ次元の重圧。
「ば……化け物……っ」
 座り込んだ男は、畏怖と屈辱のままに渋面を引き攣らせた。










 Bullet.U     旅は道連れ世は情け





 カラン、と扉に掛かっている呼び鈴が涼やかに奏でられ、三人は店を後にする。
 あれから、ルルカはこれからの方針を物を食べながら説明した。ただ、注文した料理が次々と運ばれる度にいちいち会話が中断されるので恭亜にとって堪ったもんじゃなかった。しかし本人はかなり真面目に話しているつもりのようで、ツッコミを入れた途端淑女の食事に余計な指摘はしないものと素で怒られてしまった。この場合、悪いのは恭亜だろうか?
 結局全ての料理を綺麗さっぱり食べ、食後に頼んだ淡い水色が美しい半球状のシャーベットと氷の入ったコーヒーを前に、ハンカチで口元を拭いながらルルカはこう呟いていた。
『ふぅ……六、いえ五分目ぐらいでしょうか』
 聴こえなかった事にしよう。恭亜は表情を作るのも忘れてそう悟りを開いた。
 それ以上に、あの食欲を失いかねない凄まじい食事を目の当たりにしながらも、途切れ途切れの会話をしっかり聞き取れていた恭亜は偉いと思う。
「で……何だっけ。ABYSSを警戒しているのは何も≪ツクヨミ≫だけじゃないんだっけか?」
 やけにごつい財布をキャリーバックの網状ポケットに入れ(地味に危ない場所に財布を入れているが)、ルルカは頷く。
「はい。元来、深淵の歪曲性を補填、修復するのがオーラム・チルドレンの本領ですから」
「深淵の歪曲性?」
 恭亜が首を捻るとルルカは歩きながらすらすらと答え始める。
「要するに因果律というこの世の必然性の穴、『本来は在り得ない事物事象』の事です。我々オーラム・チルドレンを含む能力組織の大半が、それを元に戻す為に裏世界に存在します」
「修復って……具体的にはどうやって?」
 すると脇を歩いていたアインが溜息混じりに返答する。
「アホか。いつもやっとるやんけ」
「……? ああ、そういう事か」
 恭亜が納得すると共に、ルルカはその結論を口にする。
「そう、ABYSSです。ABYSSとはとどのつまり、因果律に生じた亀裂……『本来は在り得ない事物事象』の総称なのです」
「あの化け物の事だけじゃないのか……」
 恭亜は今までに遭遇し、討滅したいくつものABYSSの姿を思い出す。その総てが、図鑑やテレビの枠組を超えた、尋常ではない姿形の怪物達だった。
「その辺りは各自の得意分野に沿った分業ですからね。東京周辺に限って言えば、広範囲に影響しやすく隠蔽や包囲を要する事象型ABYSSは符術による結界創生が得意な≪アマテラス≫が、発現と同時に即効性の危険を生みやすい事物型ABYSSは感知による索敵追尾が得意な≪ツクヨミ≫がそれぞれ担っています」
 そういえば、と恭亜はポケットに忍ばせていた物を取り出す。
 鋼色のチェーンに繋がれた、握り拳大のプリズム。中にコンパスのような独楽状の回転盤が入っているペンデュラムだ。プリシラに手渡されていた。
「それも索敵の為の物です。一応、神器ですよ」
「え? 神器って……俺のじゃないんじゃ……」
 ルルカは髪を掻き上げ、ロングコートの内側に隠れていた首に提げていたと思われる同じペンデュラムを見せる。
「これは複製神器と呼ばれる……有り体に言えば量産品ですから。オーラム・チルドレンはそう簡単になれる存在ではありません。しかし、優に三桁を超える人数を有する組織には大概が複製神器によって自らの能力を簡易的に引き出す人間も居ます。悪く言ってしまえば劣化品ですが、場所によってはそれなりに重宝されているようです」
「ん? オーラム・チルドレンって、別のオーラム・チルドレンとの接触で成れるもんなんじゃなかったか?」
 一瞬、ルルカの表情が曖昧になった気がしたが恭亜は気付かなかった。その接触をせずに一人で強引にオーラム・チルドレンとなった異常適正者の自覚が、恭亜にはないらしい。
「何故、オーラム・チルドレン≠ニ呼ばれているのか……と言えば分かりませんか?」
「というと?」
「極論を言えば、人は誰しもオーラム・チルドレンになれる可能性は在ります。ただし、適正……もとい適齢期が在るんです。オーラム・チルドレンやABYSSに関する書籍や史歴の作成は基本的に禁じられていますが、暗黙の了解として『成人した者がオーラム・チルドレンになるというケースは一つも無い』というものが、今の私の発言になる訳です」
 精神的な資質の問題で出自を見い出せず成れない者も居ますが、とルルカは補足する。今更になって恭亜は自分やアインがどれ程稀有で曖昧な存在なのかを、理解させられる。
「成った者勝ち、とは良く言ったものですけれどね。一度成ってしまえば成人した後でも問題無く能力を使えます。まあ、多くのオーラム・チルドレンがまだ成人していない現状なのです」
 ルルカは財布を取り出す。
「こしあんと白玉を二つずつ下さい」
「ってコラぁ!!」
 会話の最中に、通りすがった今川焼の手渡し店で唐突になんか注文しているルルカに恭亜が声を張り上げる。
「まだ食うのかお前は……! てゆうか大事な話の最中なんだから買うな!」
 ルルカはブツとお金を交換し、釣り銭を受け取る。一人で食べるように少し大きな紙袋に入った、ほこほこと湯気を立てる今川焼を一つ取り出しかぶりつきながら、不満そうな顔を向ける。
「まず一つ、自分のお金で買って自分が食べるのですから文句を言われる筋合いは有りません。次に、大事な話なのは認めますが……昔から日本の料理を食べてみたかったんです。話はちゃんとしますし、これぐらい良いじゃありませんか」
「さっきの喫茶店で日本発祥の料理一つも食ってなかったじゃないか……っ」
 一体どれだけ食べれば気が済むのだろう。むしろこの華奢な体のどこに入れているかの方が気になって仕方が無い。恭亜の目には今川焼を頬張りながら料理店ばかりに視線を巡らせているルルカが既に事物型ABYSSに見えた。
 今川焼を口に咥え、器用に財布に釣り銭を入れようとしたルルカは、
「ふぁっ!」
 これまた器用に今川焼を口に咥えたままで声を上げた。
「ど、どうした……?」
「おふぁえふぁあふぁいおひあふあはいおえ、はいはうあっへいはいあひあ」
「はしたないから今川焼咥えたまま喋るな!」
 乙女な部分を指摘されたルルカは少なからず頬を染め、今川焼を口から離す。噛まずに離すもんだからなんか今川焼に……!
「お金はあまり持ち歩かないので、足りなくなってしまいました」
 と言いました、と付け加えてルルカはなんかアレな今川焼をあろうことか袋に戻し、口を折って閉じる。
「そういう事なので、ATMに案内を御願いします」
「お前マイペースなんだな」
 恭亜の一番最初のルルカのイメージが定着した辺りで、ずっと黙ったままついて来ていたアインが溜息混じりに歩き出す。
「あ、おいアイン、どこに……」
「あほらしなってきた。ウチはもう帰るからな」
 付き合い切れないとばかりの足取りに恭亜が困った顔を浮かべる。
「アイン……それはないだろ。久しぶりに会ったんだろ? 積もる話もあるんじゃ……」
 足を止め、振り返ったアインは不機嫌な顔を向ける。
「ウチとルルカはそこまで深い仲やないんや……そもそも、ウチは人の伝手で流されるまま≪ツクヨミ≫に属しとるだけで、入りとぉて入った訳やない」
 アインは恭亜の視線を真っ直ぐと見据える。
 ぼさぼさの髪の奥の夜色の綺麗な瞳が、無機質に恭亜を貫く。
「ウチに……仲間や言える資質が在るだなんて、ちっとも思ぉとらん……」
「アイン……」
 胡乱に視線を泳がせ、アインはそれ以上何も言わず人ゴミの中に紛れてしまった。
 何も出来なかった恭亜は、気まずい空気の中、ルルカへ振り向く。
「え、っと……ルルカ……」
 しかし、ルルカの態度は相変わらずだった。
「構いませんよ。アイン先輩はどうにも≪ツクヨミ≫に……というより、組織に飼い慣らされると警戒してああいった言動をする事は茶飯事でした。それがきっかけでプリシラ先輩と諍いや口論を起こす事も稀ではありませんでしたから」
 今川焼の入った袋を片手に、キャリーバックを手に掛け、
「むしろ、アイン先輩には少なからず感謝しなくてはなりません」
「え……?」
 つい、と顔を上げたルルカの表情は、一片の迷いも無い真剣なものに変わる。
「……貴方に、話しておきたい事が有ります。これは極個人的な内容なので、二人きりになれる機を窺っていました」
「俺と?」
 頷くルルカ。生真面目な態度が板に付いていた彼女の、更に真剣な顔つきに、恭亜は思わず息を呑む。
「出来れば、誰も居ないと思われる場所へ案内頂けますか?」
「あ、ああ……」
 恭亜はアインに関して気になってばかりいるのだが、ルルカが話が有ると面と向かって言うのを、拒否する訳にはいかない気がした。
 やがて恭亜は、少し離れた場所にある、最近知ったかなり小さな公園なら人が居ないだろうと踏んで案内を始める。
「……あ、恭亜さん」
 不意に呼び止められた恭亜が今度は何かと振り向くと、
「……………先に銀行かコンビニに寄っても宜しいですか?」
「金が無いのは本当だったんかい」


 ◆


「サラト恭亜に会いたい言ってるのに……マーシャの祈りだけサラトちょっと嫌い」
 遊歩道を歩くサラトは、ブツブツと不満そうに独り言を愚痴る。
 淡いブルーの、ノースリーブのワンピース。肩から斜めがけに提げた可愛らしい小さなバックがワンポイントだが、首に掛けた大きなヘッドホンだけ妙にアンバランスさを持つ。ただし素材は高いランクに在り、異国の風貌という面がマイナスになる事もなく擦れ違う男達が放って置かない可憐さがあった。加えて日本語が話せる。さっきから一人で歩いているのに誰にも声を掛けられないのが不思議なぐらいだった。
 あれから、結局二つの祈りを済ませたマーシャに電話が来てしまい、余計に家を出るタイミングを失ったサラトが業を煮やしてしまい、通話中のマーシャの目を盗んで靴とバッグを手にトイレの窓から抜け出したのだ。今頃マーシャは困り果てて泣いているか、もしくは怒りで珍しくカンカンかもしれない。
 だが、そんなものをさして気にするサラトではない。怒られようとも、恭亜に会えない時間の方が嫌だったからだ。
「サラト一人でも会えるもん。マーシャ心配多いよ……ね、トリック・オア・トリート」
 溜息混じりに自らの脳内に住み着く異質の存在に、まるで親友のように語りかけるサラト。明確な意思を以て応答する事の無い神器だが、持ち主の言葉を電質化しない辺りは、肯定を示しているとサラトは勝手に思い込んでいた。
 太陽が徐々に西に傾き始めた頃に、左右を等間隔に植えられた木々で出来た深緑豊かな遊歩道を闊歩するサラトは、さらに悩ましげな表情を浮かべる。
 結局、脱出したは良いものの、恭亜は紫耀学園の寮には居なかった。そういえば≪ツクヨミ≫の一員と会う約束をしていたという所までは思い出せたが、興味があまりなかった為に場所までは聞き流していたのが仇となった。こんな事ならちゃんと聞いておけばよかったとサラトは今になって後悔する。難しい話はあまり分からないので好きではないが、人の話はきちんと聴こうと、数日前まではあんなにも『他人の声』を心の底で嫌っていた彼女にはない目標がここに立てられた。
 サラトは遊歩道を抜けて横断歩道を渡ると、目的は在るのに行く先の知れないという不可解な進みをそのままに、何とはなしにそこを目指した。
 既に視界に入っている遥か彼方で、大通りを歩く人波が見える。


 ◆


 公園に辿り着いた恭亜とルルカ。
 路地を抜ける途中にぽっかりと出来ている本当に小さな公園で、遊具も砂場と低い滑り台、なけなしの鉄棒ぐらい。
 しかし、休日である上に住宅街がそれなりに近い為か、幾人かの子供達がはしゃいでおり、向かいのベンチには子供の親御さん達が二人で談笑している。
「悪い、ここなら居ないと思ったんだけど……」
「いいえ、何も必ず無人でなければならないという訳ではありません。御気遣い有り難う御座います」
 そう言って石の上からペンキを塗っただけの冷たい椅子に座るルルカ。
 恭亜は襟首を摘んで風を送る。昼下がりにもなるとさすがに暑さで汗ばんでくる。ルルカもよく黒いロングコートで居られるものだ。
 辺りを見回すと、丁度道路を挟んだ先に自販機を見つけた恭亜はルルカを見る。
「飲み物要るか? あそこで何か買ってくるけど」
「あ、いえ……先ほども貰いましたし、これ以上はそんな……」
 途中で立ち寄った銀行のATMで金を下ろしたルルカは、キャリーバックの奥――網状ポケットに入れていたのは単純に盗まれても困らない金額しかなかったからのようだ。――から財布を取り出す。
「いいって、大した事じゃないから。何かリクエストは?」
「そう、ですか……。それでしたら済みませんが、紅茶かコーヒーで御任せします」
「ん、了解」
 恭亜は自分の財布を取り出し、自販機へ行く。ルルカはその背中を見送り、椅子に座ったまま正面を向いた。
 そこには、小さなゴムボールを持って走る男の子を、きゃっきゃと騒ぎながら追いかける二人の男の子と女の子。付き添いが二人なのを見る限り、三人の内二人は家族か何かなのだろうか。
 じんわりと蒸す陽気にも負けない明るさで遊ぶその姿を、ルルカは静かに眺めていた。
 目を眇め、手に薄っすらと力を込め、やがて力を抜く。
 それは、本来ルルカも居たような、そんな温もりに満ちた微笑ましい光景。
 二度と戻る事はないと誓った、憧憬と悔恨の、風景。
「買って来たぞ、紅茶で良いか?」
 やがて戻ってきた恭亜は、五百ミリ容量のペットボトルを受け取る。ひんやりと冷えたペットボトルには、赤いラベルが巻かれている。
「重ね重ね済みません、頂きます」
 ルルカはキャップを捻り、一口飲む。
「……、」
 途端に、ルルカは何とも言えない顔でじっと手元の紅茶を見つめる。
「どうした? 気に入らなかったか?」
 自分の分のコーヒー缶のプルタブを開ける恭亜に、視線を紅茶に向けたまま唸るルルカ。
「……頂いておいて失礼ですが、どうも市販品はあまり好ましく思えません。香りが殆どしませんし、後味に独特の重みも無いですね。イギリスなど本場の味を知ってしまうと、やはり劣っている感は否めません」
「はは、本場を先に知っちゃうとそりゃ不満にもなるわな」
 恭亜は苦笑混じりに答える。なら飲むなという考えではなく、自分なんかより様々な国を渡り歩くルルカに尊敬の念を込めての苦笑いだった。
「……」
 するとルルカはすっと顔を上げ、恭亜をじっと見つめてくる。
 迷う事無く射抜かんとするマーシャと似た灰銀の瞳に、恭亜はたじろぐ。
「な、なんだ……?」
 何かまずい事を言ったのだろうか、と自分の言葉を反芻してみる恭亜をしばし見ていたルルカは、ペットボトルを椅子に置き、ゆっくりと正面を向き直して口を開いた。
「……………この国は、平和ですね」
 遠く遠く、はしゃぐ姿を羨望の眼差しで見つめるルルカは、ペットボトルを脇に置き、ゆっくりと立ち上がる。
 一歩、二歩、と進み、そこで立ち止まり、続ける。
「私の見てきた裏の世界とは、根本から違う光景です。人々は気侭に生き、子供達は笑い遊び回り、光の元で暖かく暮らせる……尤も、表の世界にも日陰となる場所が存在するのですが……」
「……ルルカ?」
 どうしたのか分からない恭亜が問いかけるが、それが聴こえないかのようにルルカは囁くように、また、続ける。
「私の……私達の居る世界は、暗闇に満ちています。ABYSS、オーラム・チルドレン、組織、善と悪、憎しみと哀しみ。人々は束縛に生かされ、子供達は泣き弄ばれ、闇の底で冷たく暮らさなければならない……死という言葉が当たり前のように飛び交い、殺人ですら自らの保持を最優先に考え、時を歩まなければならない世界。犠牲の上に犠牲を塗り固め、一人生き残った者を英雄のように扱いだす。深い、深い……暗い色が沈殿した世界」
 そして、二度とは戻れない場所。
 恭亜はようやく、気付いた。
 ルルカが、ただならぬ異質の気配を、薄く身に纏わせている事に。
「恭亜さん、貴方に御訊きします。貴方は一体、何なのですか?」
「なん、だって……?」
 恭亜は座ったまま、身を硬直させた。
 少しだけこちらに首を向け、繰り返す。
「そのままの意味ですよ。オーラム・チルドレンとして世界と契約していながら己の出自を見い出せない。それはまだ良いでしょう、アイン先輩も同じなのですから」
 ですが、と、ルルカは完全にこちらを振り返る。
「貴方とアイン先輩の相違点。貴方を最も懸念しなければならないのは……貴方がどの組織にも属さず、単なる顔見知り気取りで≪ツクヨミ≫に近付き、あまつさえ助力となっている事を、私は大いに懸念しているのです」
 恭亜の背に、じわりと嫌な汗が滲む。
 その顔が、
 その眼が、
 意味するものは――。
「極論を申し上げましょう」
 明確な、敵意だった。

「姫宮恭亜さん……私は、貴方の存在を認めません」


 ◆


 二人と別れた後で、遊歩道を歩いていたアイン。
 今頃二人は何をしているのだろうか、そんな考えが浮かぶ。というより、特に何をする予定も無かったので、これはこれでつまらない。ショッピングには滅多に行かないし、ゲーセンなんて案は端から無い。帰って寝るという事も出来たが、何となく散歩ぐらいはした方が体には良い気がした。
 ルルカの事だ。どうせまだ何か食べ歩くつもりで恭亜を引きずり回しているに違いない。昔から生真面目で他人の意思を尊重するような素振りを見せてはいるが、自分が欲しいモノ、つまり食べ物に限ってのみ異様に視野が狭まる傾向にある。自分の治療代で額が跳ね上がるプリシラも大概だが、ルルカの場合食費という他人へのメリットが全くもって無い理由で費用がかかるので、意外と問題児扱いされかけているのだ。とは言うものの、≪ツクヨミ≫最大の問題児であるアインにとやかく言える筋合いは欠片も無い訳だが。
(……、って)
 そこでアインは気付き、頭を振って意識を取り戻す。何も考えずに散歩しているだけだったとはいえ、ぱっと思いついたのが何故恭亜とルルカの事なのだろう、と自分を諌める。
(別にあの二人が何してたって、ウチには関係ないやんか……)
 どうかしてる。
 他人なんてどうでもいいはずなのに、最近になって調子が狂う。
 それは何も、最近になって東京に来たからだけではないのかも知れない。
 けれどそのもう一つの理由≠、肯定もしたくなかった。
 少し歩いたら、寮に戻って寝てしまおう。ルルカに関しては気にしない事にした。どうせマーシャが借りているアパートに泊まるのだろう。恭亜なら二度も行っているのだから場所は知っているし、特にアインがする事なんて何も――、
「あ……! あ、アインっ!」
 ふと呼ばれたアインは何気なく振り返った。
 やって来るのは、黒いシスターの服を着た少女だ。やや小走りでやってくるので、首に提げられたシルバーアクセサリが擦れて喧しい音を立てている。
「……マーシャ?」
 ウェーブがかった灰の髪を揺らしアインの元まで辿り着いたマーシャは膝に手を突いて乱れた息を整える。
 長い間走っていたようで、既に汗でびっしょりだ。ルルカもそうだがマーシャもこの季節に適した服装じゃない。
「何しとん? その格好でランニング? 痩せたいのは人の自由や思うけど、体力無いんやからやめとき」
「ち、ちが、違……ます、よ……」
 はぁはぁとなかなか戻らない呼吸のまま、マーシャは上体を上げてアインに尋ねる。
「あ、アイン……さ、サラトちゃんを、み、見かけませんでした……?」
「サラト?」
 サラトは現在、≪ツクヨミ≫の庇護対象としてマーシャと同居中のはずだ。マーシャが知らないのにアインが知ってるなんてそうそうある訳がない。
 素っ気無くそう答えると、マーシャは目に見えて肩を落とす。
「そ、そうですか……もう、サラトちゃんったら」
「一緒やあらへんの?」
 特に気になる程ではないが、サラトがマーシャを邪険に思っている節は無かったはずだ。喧嘩でもしたのかと思っていると、マーシャはやっと正常な呼吸を取り戻す。
「恭亜さんに、あ、会いたいと言うので、じ、準備をしていたんですけど……途中でプリシラから電話が来ちゃいまして……お、終わったらもう、い、居なかったんですぅ……」
「プリシラからて……今、飛行機ん中ちゃうんか……」
 マーシャの話では、ルルカはきちんと着いたのかを確認するだけの要件だったらしい。しかし当の本人に会っていない旨を伝えて時間を喰った内に、サラトが脱走したという寸法のようだ。
「ひ、一人で歩いちゃ駄目、って……い、言ったのに」
 見てるこっちまでブルーになりそうな落胆の様子に、さすがのアインも溜息を零した。
「はぁ……しゃあないな、一緒に捜したる」
「えっ? よ、宜しいの、ですか……!」
「どうせ暇やったし、知らん仲でもないしな」
 そりゃあ殺し合った間柄ですから、などとは口が裂けても言えないマーシャは、取り繕うような苦笑混じりに頼む事にした。
「見当あるん?」
 二人で横断歩道を通り、長い車道の脇を歩きだす。
「無い、ですぅ……あの子、け、携帯電話持たないから」
 それもそうだろう。電流を操る能力者が電子機器なんか持ち歩いてもすぐ駄目にするに決まっている。彼女が首に掛けているヘッドホンにはコードも無ければオーディオ・プレイヤーも無い。あれはただ単に道行く人間の会話を耳にしてトリック・オア・トリートが反応し、許容量を超える電流を作ってしまわない為の代物だ。
「大方恭亜のアホを探して大通りに行ってる可能性有りやな。繁華街行けば逢えるかも知れへんか」
 アインは特に深く考えた素振りもなく、面倒そうに頭を掻いて適当に結論付ける。
 サラトには、微弱な電磁場を広範囲に行き渡らせる事で特定の人間の位置を割り当てる高等技術が扱える。以前に逃走するアインを、サラトはまるで居場所が常に分かっているかのように先回りして追撃してきた事がある。欠点としては外部から来る電磁場の流れを阻害する高層マンションや、電子機器――携帯電話などを持ち歩く人間が大量に居る場所、要は人ゴミの中では跳ね返ってくる磁場の揺らぎに演算を処理し切れず文字通り本人がショートしかねない為、結局サラトも足で恭亜を探しているかも知れない可能性も在り得る。
 つまりそれは、二人も足でサラトを捜さなければならない事を意味する。
 はぁ、と。二人揃って溜息をつく。
 嫌悪を抱きはしないが、どちらに転んでも傍迷惑な小娘だと思った。


 ◆


「……どうしろって、言うんだよ」
 恭亜はその顔を見上げて、そう問いかけていた。
 遠くで、子供達の笑い声が聞こえる。
 しかし二人の立っているこの場所だけが、明らかに尋常ではない空気で満たされていた。
 表情は無いが、どこか意思のような気配を湛えた顔で、ルルカは口を開いた。
「質問の意図を理解しかねます」
 アインのような露骨な嫌悪感を漂わせるものでもなく、
 プリシラのような圧倒的な重圧を与えるものでもなく、
 ただ静かに。雪の降る夜のような、しん、と耳が痛くなってきそうな冷たい敵意。
 機械じみた声に思える。
「俺が個人のまま、≪ツクヨミ≫に近付くのが不満なんだろ? なら、俺に何をしろっていうんだ?」
 恭亜は何とか言葉を絞り出した。
 ルルカの態度は、確かに敵意を感じる。
 だが恭亜が唯一救いと思えるのは、ルルカには敵意はあっても殺意は無い事だ。返答次第で武器を持ち出すような気配は、全くしない。恐らくこの敵意も、彼女なりの警戒心なのかも知れない。
「早急の御理解感謝します」ルルカは瞼を閉じてようやく口を開く。「ですが半分不正解です。私は何も貴方に命令をするつもりはありません。これは単なる警告ですので、悪しからず」
「警告……」
 口の中でその単語を噛み締める恭亜に、ルルカは頷く。
「御分かりですか? つまり能力者である貴方が一個人として居る限り、≪ツクヨミ≫に干渉する事は確実な他組織不当介入及び方針活動阻害行為と見做せるのです」
 なっ……、と恭亜は絶句しそうになる。
「お、おいちょっと待てよ……! 不当介入はまだ分かるけど、俺が一体どんな邪魔を……っ!?」
「現にしたではありませんか」
 ルルカの言葉が恭亜の物言いを即座に切り捨てる。
「切り裂き魔℃膜盾ナは本来する必要性は高くなかったはずの陽動行為に走った事で二名の民間人に被害を与えています。先の善悪一@瑞では、善悪一≠ニの友好関係を築いたが為に戦闘が拗れ、アイン先輩に危険が及びました」
「それ、は……!」
 恭亜はとんでもないという顔で瞠目する。
「確かに、失敗した訳ではありません。切り裂き魔℃膜盾ナは想定される数字を遥かに下回る被害状況でしたでしょうし、善悪一@瑞に至っては死者数ゼロという誉れ高いケースと言えます」
 なのに、それを喜ばしくなどルルカは思わない。
「……恭亜さん。しかしそれは、全てが丸く収まったと言えるのですか?」
 目を眇めるルルカ。
 批難と、侮蔑の視線。
 違う。恭亜はルルカの問いに頷く他無かった。
 現に恭亜の行動理由は、どちらにせよ≪ツクヨミ≫という組織の為ではない。檜山皓司を止め、町の安寧を護るため。サラトの暴走を止め、己の狂気に気付いて貰いたいため。それらは、別にアインやプリシラが恭亜の意見を聞いて行動する意味など持たないはずだ。赤の他人も同然の男の行動を許容させ、終いには付き合わせた。間違いなく、恭亜の出しゃばりが無ければもっとマシな結果が残せたかも知れない。
 恭亜が居なければ、檜山皓司が明確に狙って美弥乃や晴香を襲う事はなかった。
 恭亜が居なければ、サラトが情緒不安定の末に『侵蝕』を起こす事はなかった。
 何より、恭亜自身が不安因子となる要素が多すぎる。自力でオーラム・チルドレンに成った上、出自も分からないのに能力者から見ても異常と呼べる現象を次々と起こしている。それだけでも、組織である≪ツクヨミ≫に軽い気持ちで干渉して良い事など一つも無い。
「つまり貴方が考えるべきは、御自分の立ち位置をしっかりと決めて欲しいという事です」
 ルルカの言葉の意味を、恭亜は既に察していた。
「要するに≪ツクヨミ≫に関わりたいのなら、ちゃんと所属しろと?」
「それも構いません。決めるのはハイネ教授やプリシラ先輩方ですが、貴方の事は嫌いではありません。良ければ私の方から口添えする事も約束しましょう」
「……」
 ルルカはそこで、恭亜の何か言いたそうな顔に気付く。
「何でしょうか?」
 勿論、何を言おうとしているのかなど、分かり切っていた。
「……もし俺が、≪アマテラス≫を選んだとしたら?」
 だからルルカは、いっそ早すぎるほど即座に答えた。
「排除します。貴方は、見す見す敵対している組織に引き渡すには危険過ぎます」
「――、」
 恭亜の表情が、ふっと哀しげなものに変わった気がした。
 だが、ルルカは気のせいと結論付けた。この状況で、哀しいと思う理屈が無いと思ったからだ。
 何にせよ、ルルカがわざわざ日本くんだりにまで訪れた本当の目的はここに完遂された。
「事は急いては仕損じるもの。ですが、御自身の曖昧な立場が周囲に害を及ぼす前に、可及的速やかに行動するべきです」
「俺の、立場……」
 恭亜が頭を垂れ、深く自分の存在を見定める。
「俺は……自分のしたいようにするだけでも害悪にしかならないのか……」
 ぽつりと落とすような恭亜の呟きに、ルルカは柄にもなく自分が焦燥している事に気付いて、内心で自らを叱責した。
「いえ、その……何も今すぐ答える必要はありません」
 顔を上げる恭亜に、ルルカは出来る限り優しいつもりで声を掛ける。
「あくまで私が言いたいのは、早い段階で御自身の立ち位置をしっかりと固めて欲しいという事です。強引に≪ツクヨミ≫に入れたいという訳ではありませし、別の組織でも構いません。ただ単に≪アマテラス≫に属するのだけは遠慮したいと思っただけですので」
 ルルカはそう言うと、椅子に立てかけていたキャリーバックと飲みかけのペットボトルを手にする。
「私が言いたかったのはそれだけです。どうか……恭亜さん自身が持たれる不安要素を、そしてどの組織に属するつもりなのかを、念頭に入れて置いて下さい」
 そのままルルカはきちんと御辞儀をし、踵を返す。
 恭亜はやっと立ち上がる口実を見つけ、重たい腰を上げた。
「ルルカ、何処に?」
「マーシャ先輩のアパートです。……、それが何か?」
 振り返り様にこちらを見る目は、どこか冷めた色をしている気がした。
「案内、は……」
 小さく口篭もるように言う恭亜にルルカは、呆れたような、嘲るような、そんな顔をした。
「必要ありません。というより、貴方に案内させたのがこの公園だけ≠フ時点で、気付かれると思いましたが?」
 言うが早いか、ルルカは網状ポケットに入れていたノートを、椅子の脇に設置されていたゴミ箱に捨てる。
 気紛れにも似た裏打ち。
 恭亜にはもう、自分を見据えるルルカの視線が、敵対する者でも相手にしているようにしか見えなかった。
 嫌いではない。
 しかし、認めはしない。
 いっそ侮蔑してくれた方が、恭亜も悲観的に己を憐れむ事も出来たかも知れない。
 だが目の前の少女は、賢しくも厳しい手を使って来た。
 まるで恭亜に悲劇の当事者ぶる事を許さない、事務的で、機械的な視線だった。
「時間の猶予は設けられる話のはずです。どうぞ、御自分の居場所が何処であるべきなのか、よく御考え下さい」
 そう言い残し、ルルカはキャリーバックを引いて公園から去っていった。迷う事無く、しかし急ぐ気配も無く、やるべき内の最大の目的を遂行し切ったように。
「……」
 恭亜はルルカの姿が消えても、たっぷり数十秒は身動き出来さえなかった。
 やがて、子供達がはしゃぐ耳障りの良い喧噪を聴きながら、それでも頭の中は空白で埋め尽くされたままの恭亜は、椅子に掛け直し自分の眼前に在る両手を広げ、それを見下ろす。
「……俺の、あるべき居場所?」
 呟いてその重みを理解して尚、恭亜には確かな実感を以て解を導き出す事など、容易に出来る訳が無かった。
 膨らむ疑念はただ一つ。
 姫宮恭亜が、この非日常の戦いに身を投じ、果てに掻き乱す資格が在るのか?
 そうしなければ、起こり得たはずの惨劇。
 そうして失われ、起こってしまった悲劇。
 可能性と事実。
 二律背反の波は、ゆっくりと恭亜が見下ろす両手を弛緩させ、握り締める力をも奪った。


 ◆


 繁華街、と一口に言ってもその規模は並々ならない広さを持つ。
 東京居住区を九つに分断する地区の中でも随一の広さと建造物の密集率は凄まじく、端から端まで歩くだけでも最短ルートを通って三十分以上かかり、道が分からない人間なら更に一時間や二時間など平気で掛かってしまう。
 しかも今日は土曜。大半の人間が休日となる繁華街は、正に歩行者天国だった。
「いや参った、帰りたなってきたな……」
 もう面倒としかアインは思えなくなってきた。片側三車線の野太い車道も上を進むのは歩行者、なんて光景から一人の人間を見つけ出すのがどれほど気が遠のく事か。容姿は確かに目立つが、サラトはまだ子供だ。この人ゴミは早くもアインの珍しく表意していたやる気を一気に削ぎ落とした。
「か、帰っちゃ、だだっ駄目ですぅ!」
 ぽつりと呟いたアインの一言に敏感に反応し、涙目で訴え出すマーシャ。しかし泣き顔をして動かされるアインではないし、そもそも気紛れで手伝っただけなのに意地になる理由もさしてない。ぇー、と肩をだらりと下げ、最早惰性で歩を進めていた。
「ちゅぅかさ……別に一人でも帰って来れんちゃうん? 飯時なったら戻るやろ」
「そ、その一人の時間が怖いんです……!」
 溜息混じりのアインの物言いに、マーシャはやや怒ったように言う。
 さすがのアインも、申し訳なく感じた。そう、忘れてはいけない。サラトは≪ツクヨミ≫の庇護対象となる前は、≪アマテラス≫の人間だったのだ。≪ツクヨミ≫と違い完全な実力主義で通っているあの組織は、当然やっかみ≠買われる事が多い。
 何よりそれが問題に発展するのは、何も他組織から喧嘩を売られる事ではない。≪アマテラス≫の序列持ちに喧嘩を売るような奴が居たら、自身の力量を履き違えている者か、あるいは頭のおかしい戦闘狂ぐらいだろう。
 問題とはすなわち、組織の内部抗争の方だ。
 ≪アマテラス≫の階級意識は、他の組織の群を抜いている。序列なんてシステムを導入しているのは≪アマテラス≫だけだ。
 無論、それが五位までの能力者は次元の違う戦闘能力を有しているのだから誰も文句は言わないが、敵視されるのは決まって六位以降――特に、最近になって序列持ちになった能力者だ。とどめとばかりにサラトのあの人畜無害な態度のせいで、『序列持ちになったくせにあっさりと離反するなんて良い度胸だ』と勘違いを起こす人間が居ないとも限らない。
 だからこそサラトは庇護措置という位置付けに在るのだ。今のサラトを攻撃しても、赤の他人も同然なのだから理屈は通る。それどころか裏切り者を成敗したと昇格のチャンスを狙う不届き者が出たりしたら厄介この上ない。
 アインなんかはさして気にしていなかったが、やはりマーシャはどこまでいってもマーシャなのだ。その行動の行き先が常に利他的である彼女の心配は仕方が無いのだろう。
 アインは謝ろうと口を開いた矢先、マーシャは言うのも畏れ多いとばかりの表情で、
「さ、最近は、へ、変質者がよく、ででっ、出るって聞きましたし……さ、サラトちゃんの、め、眼に毒ですぅ……!」
「……その前に変質者の心臓に毒や」
 変質者が何かしらすると同時に、無邪気な笑顔で雷電による迎撃をするサラトの姿が容易に思いつく。
 アインはマーシャを置き去りにせんとする足取りでさっさと先へ進んでしまう。な、何がですかー!? と情けない問いかけと共にマーシャが追うが、真剣に考えているのは自分の方だったと肩透かしを食らったアインは心配して損したと振り返るつもりもなかった。
「ちゅうよりもやなぁ……こんな人ゴミの中を恭亜が歩いとるなんてサラトも思ぉとらんのとちゃうんか?」
 その何とはなしといった一言に、ピタリとマーシャは立ち止まる。
 やがてそーっとこちらを見て、豆鉄砲を喰らった鳩のように目を瞬かせた。
「……………恭亜さん、ひ、人ゴミ苦手なん、ですか?」
「知らへんけど、少なくともルルカは嫌やろ」
 へ? と間抜けな声を出すマーシャ。
「ルルカ? い、今ルルカは、恭亜さんと、一緒なんですか?」
「ん……」
 頷くアイン。数秒の空白の後に、マーシャはぶわっと泣き出すような顔になった。
「そ、それを早く言って、下さいよぉ……! なな、何で黙ってたんですかぁっ」
「訊かれへんかったから」
 しれっとアインは答えるが、マーシャはぶつぶつと呪詛めいた何かを哀しげに呟き、すぐに携帯電話を取り出した。恭亜の番号は知らないが、ルルカのなら当然登録されている。恭亜の居場所さえ分かれば探す手間は少なからず無くなるのだ。
「もう、もうっ……い、言ってくれれば、面倒だなんて、お、思わないでしょうに……」
 旧式のやけに分厚い携帯電話を開き、登録されている中からルルカの名を探しあてる。
 そして、通話ボタンを押して耳に押し当て、コール音を聞いていると、すぐに電話が繋がる。
「あ、る、ルルカ? じ、実はちょっと大変な事にな、なりま」
 その先は、走っているのかどこか息を弾ませるルルカの一喝に遮られた。

『敵襲です!! ≪アマテラス≫が――!』

「……、ぇ」
 ぽかんと口を半開きにし固まるマーシャの後ろ。
 その時のマーシャにはまだ理解の外だった。
 マーシャが気付いたのは、アインがマーシャに体当たりに似た勢いでぶつかる衝撃と、人ゴミの陰から伸びた銀閃がアインの脇腹に突き刺さったのが同時に起こった瞬間だった。


 ◆


「恭亜!」
 深い奥底に漂っていた意識を引き上げたのは、ソプラノの心地良い声。
 反射的に、しかしのろのろとした動きで顔を上げた恭亜が視たのは、金糸の髪を揺らして小走りで近寄って来る小柄な少女だった。
「……サラト」
 呟いてから、恭亜はようやくその存在についてしっかりと把握する事が出来た。彼女は確か≪ツクヨミ≫の庇護下として、マーシャの借りているアパートで大人しくしているはずだ、と。そこまで考えた辺りで、勝手に人の寮に潜り込むような人物が大人しくしている訳が無いと思い至った。
 サラトは数十年越しにようやく再会した親を前にしたように、頬を紅潮させて満面の笑みを見せて来る。ほっとしたのか、ただ単に走って体温が上がっただけかは、定かではない。
 恭亜自身、まだ少し頭の隅が霞がかったようにボーっとしていた。
「やっと見つけた! サラト、恭亜探してた!」
 楽しそうな、耳障りの良い声。恭亜が立ち上がると、サラトは無邪気に恭亜の腰回りに抱きついてきた。
「恭亜、もう用事おわった? ≪ツクヨミ≫の人もう居ない、恭亜もう用事なくなった、だよね?」
 大きな瞳を爛々と恭亜に向ける。
 恭亜はそのあどけなさに思わず苦笑した。
「そう、だな……一応俺の用事は終わったよ。といっても、ただの骨折り損だったみたいだけど」
「?」
 小首を傾げるサラト。恭亜はあまり喋り過ぎて建前を口にしてしまうのを躊躇ってか、サラトの頭に手を置いて撫でた。絹糸のようにさらさらとした、綺麗な髪が指の間を抜ける感触。撫でられたサラトはむず痒そうに、それでも猫のように喉をゴロゴロと鳴らした。
 だが、次第にサラトの顔に不安の色が浮かぶ。
「恭亜、どうかした? なんだか、顔色わるい……」
 言われて、恭亜はずぐり、とまた心の奥の膿が潰れるような感覚に苛まれた。
「いや、何でも……」
 思わず口に出してから、はっとした。サラトの表情が一瞬、嫌そうにというか、予想外の痛みを受けたように強張った。恭亜の隠し事に否応無しに反応するトリック・オア・トリートによって、チリ、と電流が生まれたのだ。
 相手が相手だけに訝しむように見上げたままのサラトに、恭亜は一度瞑目し、やがて瞼を開いて苦々しい顔をした。
「悪い……何でもなくは、ない……けど、サラトは知るべきじゃないんだ」
「……サラト、仲間外れ?」
 純真、故の残酷さを持った、無自覚な詰問。
 だが恭亜は、小さく首を振った。
「違う。ただ、これは俺の問題だから……アインやマーシャにも黙ってて欲しいんだ」
 駄目か? と苦笑する恭亜をじっと見つめるサラトは、真っ直ぐの視線のまま口を開く。
「わかった。ううん、ほんとはよくわからないけれど、恭亜大事なこと話してたんだよね? じゃあ聞かない。アインとマーシャにも内緒」
「サラト……」
「あ、でも訊かれたらサラト困る。サラト嘘吐きたくないから、こういうときは……」
 うんうんと唸りながら考え込むサラトに、恭亜は頭を撫でながら破顔した。
「いや、そんな凄い話でもないからな。俺こそ隠して御免。ありがとう、サラト」
 サラトは髪をくしゃりと撫でられたが、前髪の隙間から碧眼を細め、嬉しそうに笑った。
「サラト、恭亜大好き。恭亜、サラト思って、仕方ない嘘吐いた。恭亜は何も悪くない」
 そう言って、サラトはたっと駆け出す。
「恭亜! 今日こそ遊ぼう! いっぱい、いっぱい!」
 ABYSSも、≪アマテラス≫も、自分の置かれた状況さえも考えにすらないような無邪気さに、恭亜は苦笑しながら歩き出した。
 サラトの強さも、脆さも、サラトらしいものだから。
 彼女が来てくれたのは、恭亜にとって救いになっただろう。彼女が来て……。
「……、サラト?」
 ふとそこで、恭亜は気付かなければならない存在が居ない事に我に返る。
「マーシャは何処に居るんだ? 一緒に来たんだろ?」
「ぇ……」
 ぎくり、とサラトの体が固まるのを見てしまった。それはもう、はっきりと。
 硬直したままの背中を見る恭亜の眼が、ゆっくりと眇められる。
「……お前」
「あ、ぇっと……」
 振り返ったサラトの表情は、『やべっ』と言いたい色一色だった。分かりやす過ぎる。
「サラト……まさか一人で歩き回ってたんじゃないだろうな?」
 ギチギチ、と錆びた機械のような動きでこちらを見るサラト。【純真世界】のオーラム・チルドレンは嘘を吐く事も叶わず、誤魔化すなど到底出来なかった。
「ぬ、抜け出しちゃった……あはは、は……」
 乾いた笑い声を出すサラトに恭亜は深い溜息を洩らす。
「あのなぁ……マーシャだって好意で面倒見てくれてるんだから、困らせるなよ」
 両手で拳を作って、サラトのこめかみを両サイドから万力の如くグリグリする。
 サラトはじたばたしながら、それでもどこか嬉しそうだった。
「い、痛たたたたっ! き、恭亜ぁっ! 痛いよぉ……、――」
 途端、サラトは一瞬にして表情を無にし、もがくのをやめる。
 きょとんとする恭亜の手首を掴んでやんわりと除けると、サラトは音も無く振り返った。
 その視線の先を追い、恭亜も自分の表情が強張るのを感じた。
 そこに居たのは、一人の男。ダウンジャケットとジーンズ姿の、どこら辺にでも居る若者だ。髪をワックスで撫で上げたその男は、静かな佇まいでこちらを見つめている。
 いや、違う。
 あれは――、
「恭亜……」
 ぽつりと呟くサラトの声は、生気を感じさせない堅い音を恭亜の耳に届けさせる。
 警戒。
 それをしなければならない程の――殺意。
 恭亜とサラトが何か言うよりも先に、
 男は口元が裂けんばかりに歪ませ、汚らしく舌を出し二人を嘲笑う。


 ◆


 住宅の密集した辺りに来たルルカは、手元の紙切れを見比べながらようやく目当てのアパートに辿り着いた。
 そこは二階建てに上下十部屋ずつの割と大きなアパートだ。規模だけを考えればマンションに負けない広さだが、錆ついた階段や色褪せた壁などを見てしまうと、これは昭和末期の建造物ですと言われても疑える自信が無い、見たまんまのボロアパートだった。
(……立地条件は良いようですが、もう少しマシな場所は見つけられなかったのですか?)
 ルルカは喜びの顔で出迎えるであろうシスターを思い浮かべ、そう思わずにはいられなかった。記憶を巡らせれば、どうして≪ツクヨミ≫の人間はこう、目的の効率性以外には無頓着なのが多いのか。プリシラなどは完璧にセンスの問題だが、アインやマーシャならもっと周囲の目を気にするぐらい悪くはないんじゃないかと常日頃から理解出来ずにいる。
 まあ、先達の悪口をここで吐露しているつもりもない。ルルカは踏み抜いたりしないだろうかと不安になる階段を上り、メモに書かれた部屋の番号を照らし合わせる。
 辿り着いたのは最奥の部屋。玄関の横には安っぽいインターホンと、御丁寧に『ハスティーノン』とカタカナ表記でプリントアウトされたシールが若干斜めにずれた状態で貼ってある。部屋の位置といい表札といい、ひょっとしてわざとやっているのではなかろうか。
 ルルカは次々と言いたい事が塵のように積もる思いを呑み込んで、カメラも無ければ受話も出来ない、正に押して待つだけのみすぼらしいインターホンを押す。『ピーンポーン』、と最先端の電子機器に着手する先進国代表とは思えない陳腐な音が鳴った。
 しばし待つ。その間にルルカは念の為キャリーケースを少し離して置き、待機した。もう丸一年は顔を合わせていない。マーシャの事だ、久し振りの再会に、感激のあまりにハグの一つは平気でしかねない。
 多少踏ん張れるよう歩幅をやや開き、いつでも来いの体勢で待つことたっぷり十秒。
 返事が無い。
「……?」
 ルルカは不思議に思い、ドアノブに手を伸ばす。いきなり開けるのは失礼だからとインターホンを押したのに無反応とは良い度胸だ、どうせまた祈りに集中し過ぎて気付いてないのだろうとノブを掴んで回す。
 ところが、ノブはほんの少し動いてすぐに抵抗を見せる。鍵が掛かっているのだ。マーシャは部屋に居る時に鍵を掛けるような真似はしない。外出しているらしい。
 ルルカは溜息を零した。出かけるなら出かけるで一声掛けて欲しいものだと、この先の行動について思案する。とりあえず電話をして、こちらから出迎えるのが定石だろう。
 思い至ったルルカは、キャリーバックぐらいは置いて行きたくなった。中には少量とはいえ衣類や生活用品を隙間なく詰めているので、それなりに重い。かといって、こんな場所に置いていって盗まれたなんて馬鹿らしくて仕方が無い。
 どうしよう、と考えていると、ふと扉の横の小窓が、少しだけ開いている。
 まさか、と思いつつも窓を開き覗くと、そこはどうやらこの部屋のトイレのようだ。
 ルルカは更に深い溜息を洩らし、悩ましげな表情を浮かべた。不用心にも程がある。格子も付いていないのに窓を開けっ放しなんて、マーシャのおっちょこちょいを知ってはいても、あまりに注意が足りないと苦悩した。
 それは追々言っておくとして、ルルカは窓を完全に開け、キャリーバックを中に入れる。自分も通れる大きさではあるが、まさか常識在る乙女がトイレの小窓を潜り抜けるなんて気が知れない。そんな奴が居たら見てみたいぐらいだ。
 幸いトイレの蓋は閉じてあったので、その上にキャリーバックを置き、窓を閉めてからルルカは階段を降りてアパートから出る。
「まったく……皆さん非常識にも程が在ります。人間らしさについて語る程私は偉くないでしょうが、せめて女の子らしく振る舞う精神を身に付けて欲しいですね」
 愚痴を零しながら、身軽になったルルカは敷地を出て小道を歩きながら、携帯電話を取り出そうとする。
 その時だった。
「そりゃそうだ。女の子らしさってのは大事なモンだと俺も思うぜ」
 不意に横合いから声がし、ルルカは振り向く。
 アパートの横に広がる雑草だらけの空き地。その入り口に佇むのは、金髪をツンツンに跳ねさせた、ピアスやシルバーアクセサリで着飾った大柄の男だ。
「御嬢さん、外人? 可愛いねぇ〜。良かったら俺と遊ばねぇか?」
 ニヤニヤした表情で言う男にルルカが抱いた第一印象は、不快、の一言だった。
 ついさっきもこういう人種絡みで逃げたというのに、やはりどうしてこの国は腐った男しか居ないのだろう。これこそが、ルルカが日本には立ち寄りたいとはあまり思わない起因だった。
 ルルカは表情を厳しくし、そっぽを向く。
「御断りします、貴方に構っている暇は在りませんので」
 短い返答に、男は気難しそうな顔をして一歩こちらへ歩み寄る。その所作一つにも、嫌気が差す。
「そういうなよ、きっと楽しいぜぇ?」
 柄にもなく、ルルカはイラっときた。弾みで冷たい言葉がつらつらと出てしまう。
「御言葉ですが、人を堕とすつもりならばそれに見合う貞節を身に付けてからにして頂けますか? まず私が異国の血筋である事は認めましょう、ですがそれを『外人』の一言で括るのは紳士として思慮に欠けます。加えて、何ですかその格好は? 酷過ぎます。チャラチャラしていれば女は食い付くと思っているのなら立派な侮辱ですね、考えられません」
 大抵の男なら、ここまで言われれば行動は二択に絞られる。諦めてどこぞへ行くか、先刻のように逆上するかだ。
 勿論、前者であればそれで終い。後者であっても撃退する術はいくらでもある。オーラム・チルドレンである彼女なら、こんな不良一人追い払うくらい造作も無い。
 しかし、男の反応はそのどちらでもなかった。
「そう言うなよ、絶対に楽しいって」
 あくまで食い下がらない対応。本当にイライラする。どうしてこう、自分に脈が無い事に気付かずにヘラヘラとしているのだろう。非常識というより、頭の悪さに気が滅入る。
「しつこいですね。私はその場凌ぎの嘘を言った訳ではありません、本当に貴方に構っている暇は無いです。御引き取りを」
 もうこれ以上は何も話したくなかった。
 あとは黙って歩いていれば向こうが諦めるだろう。
 そう勝手に解釈し、ルルカは携帯電話を開く。

 その行為は、間違い無く僥倖だったのだろう。
 液晶画面にぼんやりと映る、何かを握る腕を振り上げる男の姿が見えたのだから。

「――!」
 ルルカは振り返るような愚行ではなく、的確に液晶越しの男の腕の軌道を把握し、身を低めた。
 ヒゥン! と風を斬る音が聴こえた。すかさずルルカは地面を蹴って距離を開け、男を見た。
「だから言っただろ? 絶対に楽しいってさ」
 男は手に握る分厚いナイフを口元に持ってゆき、刃に舌を這わせる。
 ルルカは嫌悪と警戒とがない交ぜになった表情で、窺うような声を出した。
「……何者ですか? 私を≪ツクヨミ≫の人間と知っての狼藉なのですか?」
 男は下卑た笑みを浮かべて、ルルカの問いを拒絶する。
「誰だっていいだろ、テメェは知らない内に死ぬんだからなぁ」
「……」緊迫した表情だったルルカは、「――なんだ、≪アマテラス≫の方ですか」
 即座にけろっとした顔になり、構えていた体勢も元に戻す。
 唐突な態度の豹変に男は面食らった。
「はぁ? 何でそんなの分かるってんだよ」
 問われたルルカは、誰かさんと違ってきちんと答える。
「第一に、≪ツクヨミ≫などという単語に対してあっさりと聞き流す時点でただの不良や通り魔の類ではないのは明白です。第二に、≪ツクヨミ≫と分かっていて即座に交戦態勢を取る組織は≪アマテラス≫以外に無い≠ナしょうから」
 それから、と、これはルルカの個人的なこじつけだが、どうせだから鬱憤晴らしに付け加える事にした。
「≪アマテラス≫は≪ツクヨミ≫と違ってゴロツキも抱え込む杜撰な組織でしょうからね。弁えも知らない集団は分かりやすいものです。本当に……その低俗さには眩暈を覚えます」
 しかし、軽蔑の視線を浴びせても尚、男の笑みは止まなかった。
「テメェ、随分とまぁ偉そうだな、ぇえ?」
 ルルカの態度もまた、変わらぬ気丈さを持っている。
「偉ぶっている訳ではありません。単純に貴方との力量が歴然である事への……余裕です」
「……マジでテメェ、ムカつくな」
 豪語するルルカを前にして、ようやく男の気配が重圧を伴うものに変わる。
 遅すぎるぐらいだ。ルルカは三度溜息を吐き、やるならやるで済ませるべき事をして貰おうと口を開いた。
 しかし、そこから先はルルカの予想を大きく外れる方向に進み出してしまっていた。
「≪ツクヨミ≫の誰だか知らねぇが、調子くれてんじゃねぇぞクソガキ!!」
 一足踏み出し、流れる軌跡のままにルルカの喉を食い千切る銀閃が奔る。
「え……!?」
 瞠目したルルカは、咄嗟の機転で身を捩じりそれを避ける。
 虚空を空振ったナイフは、その勢いが留まる事無く、家の塀にぶち当たる。
 だが、ナイフは石作りの塀に当たったはずなのに、削れる音も反動も殆どしなかった。
 吸い込まれるようにして塀に潜り込んだナイフの刀身。
「へへっ……避けて良かったなお嬢さんよ。こいつは複製神器さ。微細な磁力を持つ数種の金属類が触れた物体に適した構造に組み替えられて、最も効率の良い切れ味を創るのさ」
 こういう風にな! と男は腕を振るう。突き立ったままだったナイフは抵抗も感じぬ流れで、石で出来た塀をまるでチーズのようにくり抜き、ぽっかりと空いた穴を形成する。
 見るも恐ろしいとばかりに硬直するルルカを見て、自慢げにナイフを見せびらかす男。その武装、その動き、どれを取っても引けを取る事の無い殺人のプロだった。
 だが、
「……貴方、何を言っているのですかっ=H」
 ルルカの驚愕の意味合いは、男の想定よりもっと違う場所にあった。
「あ?」
 よく分からずに訊き返す男に、ルルカは信じられないといった顔で怒鳴りだした。
「『あ?』ではありません! 結界も張らずに、こんな住宅の密集した場所で戦闘を起こすなんて、一体何を考えているのですか!?」
 ≪アマテラス≫の戦闘とは、確かに自由性の高い部分が目立つ。
 先手必勝。売られた喧嘩は必ず買え。個人での戦いには余計な手を出すなというローカルルールも在るようだが、中でも暗黙の了解が存在する。
 人気の多い場所での戦闘、つまり民間人への危害の絶対抑止。
 こと結界による封鎖能力に長けている組織だからこその掟は、直接誰も口にはしないが、『して当たり前』という理念が≪アマテラス≫には在るはずなのだ。よりにもよってこんな場所で、被害は最小限にしか出ない武器とはいえ結界無しで振り回すなど、ルルカにとっては誤算以外の何物でもなかった。
 当然の憤怒に、しかし男は苛立つように答える。
「知るかよんなもん。俺はテメェ等≪ツクヨミ≫を殺せれば何でも良いって巴さんから言われてんだからよ」
「トモエ……、引き摺る棺¢癆b!?」
 彼が口に出したのは、≪アマテラス≫再発足以来一度もその座の変動を許した事の無い五強の一人の名である。会った事は無いが、不動の五位として数多の戦場を血の色に塗り替えてきた生粋の戦争屋と名前だけは有名だ。
 ともあれ、ルルカの驚きは何もそんな化け物を相手にしなくてはならないという意味ではなかった。
「引き摺る棺≠ェ、本当にそんな命令を出したというのですか……?」
 理解し難いと眉根を寄せるルルカに、男は意に介さない。
「うるせぇんだよテメェは。その舌切り落としたら少しは大人しくなるのか? ぁあ!?」
 鼻にかかる声。
 同時に男は足の裏に力を込め、バネ仕掛けのように飛び出す。
「――っ!」
 ルルカは咄嗟に上体を左に捩って、男の右腕を避ける。
「甘ぇ!」
 一合の刹那、空振りしたナイフを右手の中でクルリと逆手に持ち替え、ルルカの首を正確に狙い滑る。
 ルルカは上体を、それこそ重力に敵わず倒れ込んでしまうぐらいに仰け反らせる。加えてハーフコートの裾を掴み、体を一気に捻転させる。
 ばさり、と翻ったコートの端っこがナイフの切っ先に引っ掛かり、男はそれ以上の追撃を中断した。
 一歩退いたルルカに、更に間合いを奪った男は順手に握り替えて蛇のようにコンバットナイフの軌道をくねらせて、しかし恐ろしい速度を殺さないまま今度は眉間へ飛ぶ。
 ギィイン!! と鉄同士がぶつかり合う音が響き渡る。
 ルルカが懐から取り出したモノと衝突し、死の刺突を遮ったのだ。
 逆手に握られているのは、男のそれより遥かに小さい銀装飾が控え目にあしらわれた短剣だ。剣というより、投擲が手段の投げナイフだろう。
 競り合う二人。だが、ルルカが苦い顔をしたのに対して男の口元が嗤う。既に二人は互いの身体的な差に気付いていた。
 ふっと競り合いの力が無くなった。男が右腕を引いて、返すように左脚で浴びせ蹴りを放ったのだ。腕で、と思わず反射的に防ごうとしたが、まるで鈍器で殴り付けられたような衝撃と共にルルカの華奢な体躯が吹き飛ぶ。
「く……!」
 ルルカは手を突いて受け身を取って四肢を使い着地。低い体勢のまま維持する。
 首筋にざわりと戦慄が奔った。
(今の動きは……っ!)
 さすがにタカ派で名高い好戦集団に所属するだけの事はある。複製神器を用いている辺りが、オーラム・チルドレンではないのかわざと隠しているだけなのかは推し量りかねないが、これだけははっきりと分かる。
 この男、間違い無く殺し慣れている、と。
 ナイフを構えるが、男の後ろに映る民家の背景が前進する気力を奪った。
(駄目ですね……こんな所で戦闘を続けては騒ぎになるのは時間の問題……!)
 歯を食い縛って渋面を作ったルルカは、断腸の思いで得物をしまい込んで踵を返し、駆け出す。
「おいおい逃げんのかよぉ! ≪ツクヨミ≫は日和見主義ばかりの集団ってのは本当だったらしいなぁ!!」
 背を叩く罵声に、ルルカは怒りを押し留めてひた走る。
(大きな声で言わないで下さい……! 付近の住民に聴かれたらどうするつもりですか……っ!!)
 本来それは口に出して指摘してやりたかったが、今までの会話から察するに恐らくこちらの言い分は右耳から左耳だろう。組織としてのモラルもへったくれも無い、雑兵としても秩序の物覚えが悪い最低な部類に属する男だ。
 せめて能力さえ使えればあのような相手に遅れを取る事もないだろう。
 しかし、今この状況下ではそれもままならない。
(私の能力は派手な分、人前ではあまり使えない……狙っているいないに関わらず、なんて思慮に欠ける方なのでしょうかっ!)
 忌々しげに車も通れないような細い砂利道へ入り込み、後ろから追いかけてくる気配を感じ取りながら、せめて居住区から離れられるかを計算していた所に、色気の無い着信音が鳴る。
 走りながら器用に携帯電話を取り出し液晶画面に表示される名前を見、ルルカは何とも言えない顔をした。
 ≪ツクヨミ≫に同じく所属しているシスターだ。普通なら向こうから掛けてくるだけ良い心がけだと多少なりとも称賛したい所だが、今となっては空気が読めていないことこの上ない。
 通話ボタンを押して耳に当て、
『あ、る、ルルカ? じ、実はちょっと大変な事にな、なりま』
 吸気一拍、喝を入れるように叫んだ。
「敵襲です!! ≪アマテラス≫が――!」
 だが、その先は続かなかった。
 向こうで『……、ぇ』という間抜けな声の直後、耳障りな鈍い音が耳をつんざく。携帯電話が地面に落ちた衝撃の音だ。
「どうしたんですか!? マーシャ先輩!? マー――」
 応じない通話に何度も呼び掛けるルルカは、背中を撫でるような寒気を感じて前に屈んで力強く前進。首を水平に狩り取らんとする一閃が虚空を薙いだ。電話に夢中で距離を詰められていたらしい。
 ルルカはごろりと前転、間合いに入ろうと一歩を踏み込んだ男目がけて投擲小剣を三本の指で摘み、起き上がり様に手首の捻りだけで的確にその喉元に放つ。
 放物線を無視したように綺麗な直線で飛来する投擲小剣を、腕をかざしていた男は待ち受けていたかのように下ろす。
 ブゥゥゥン! という虫の羽音に似た不快音。直後に疾駆していた投擲小剣はその中程ですっぱりと斬断された。
「!」
「甘ぇって言ったろ。さっきの一撃でテメェの武器の硬度も密度も、もう俺の得物は計測済みだ!!」
 名残惜しそうに宙を回転して舞う投擲小剣の上半分を、目にも留まらぬ速さで、豆腐でも切っているかのように細切れにしてゆく。
 カシュン、というかすかな抵抗音しかしない。それどころか同じ金属に斬られているという自覚が無いかのように空中で次々とバラバラにされるのを赦す純銀製の物体。
 それが地面に落ちるより早く、観念したルルカは通話を切って、逃げる事のみに専念する。
(あのナイフ……斬り付ける物体に瞬時に反応して適切な振動数に変える、というものでしたね……!)
 製錬された純銀の武器を空中で分解作業する切れ味。使い手によって性能が左右されるのは複製神器の弱みだが、殺しの味をしめたプロが握ると厄介極まりない。特にああいった単純な機能ほど返って恐ろしい。
 何より、人目を気にしないというふざけた姿勢がルルカにとって一番の懸念だった。まさか本当に誰かに見られようともルルカの解体ショーを愉しみかねないし、最悪の場合ただの民間人を口封じのつもりで手に掛けないとも限らない。
 込み上げる理不尽さへの怒りに顔色を険しくし、ルルカは人が歩きそうにない小道を縫って走った。

 時刻は午後三時二十六分。
 休日の昼下がりに、切れてはならない緊張の糸が三つ。火蓋は、唐突に落とされた。





 To be continued

 
2008/10/14(Tue)23:54:36 公開 / 祠堂 崇
■この作品の著作権は祠堂 崇さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
お久しぶりです。
以前、『CHAIN』なるものを書かせて頂いておりましたが、

PCクラッシュでちょっとこれなかった内に無くなってしまいましたorz

しかも悲しい事に文面を記録していなかった為、再度書き直す事も出来ず。
最早血涙を流して断念という結果になり、本当に残念です。曲りなりにも当小説を読んで頂いていた方々(居るのか分かりませんが)、本当に申し訳御座いません。

という訳ではありませんが、過去に書いていたシリーズを続けて見よう、という決断に到り、再出発とさせて頂きたいと思います。
以前とは随分書き方が変わったかと思いますが(進化したか退化したかはさておき)、良ければ楽しんで貰いたい限りです。
それでは、始めさせて頂きます。

余談ですが、一話と二話は-completed_03(過去ログと言って良いのでしょうかね)にありますので興味が在れば読んで頂けるとアインの弾丸の話をそこはかとなく分かると思います。書き忘れていてすみません。
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