- 『猫の死んだ世界 〜第四章』 作者:不伝 / 異世界 サスペンス
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全角65990文字
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原稿用紙約205.95枚
俺はうんざりする!この糞猛暑も学校前の急勾配も駅前の犯罪者も俺を苦しめるからだ!世界なんてものに興味は無いが、俺はこのクーラーのある世界と己の財布だけはちゃっかり愛しているんだ!だから俺はあの犯罪者だけは特に許さないぜ!俺が愛する両方を、奪ったあの女を!
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第一章 夢とコーヒー
黒才という姓を持つ所為で、いや別にくだらない駄洒落を言っているわけじゃないが、とにかくその所為でえらく買い被られてしまう俺はつまり親父を憎んでいるんだが、別に親父自身に罪は無いし、十年前にいきなり消息を絶ったかと思うと崖下で遺体で見つかった人間を悪く言うのも何だから、仕方なく遠慮なく俺は親父の遺産で朝飯を食っている。旨い。
「えー、ちょっと塩分足んないよコレ」
目前でロクに朝食の準備もしないダウナー系姉さんはぶりぶりと文句を言い胡椒ビンを取れと顎で俺を促す。基本的に姉さんは人間が一日に摂っていい塩分量メーターを朝食で振り切るので血圧が不安だったりするのだが、今朝のテンションを見る限りまだまだ大丈夫そうだなと俺は小瓶を片手に思う。
「だるー」
朝食を終えても姉さんのダウナーぶりは衰えを知らず俺を困らせる。自分の皿くらい自分で下げて願わくば洗って欲しいものだが、身の程を弁えない行為をして割れたそれを掃除するのは俺だ。
「ケーへー」
「何?」
俺は言いつつ新聞を取りに玄関へ向かう。黒才家のモーニングサイクル。
俺は郵便受けに行き、新聞を取り「パス」。姉さんはそれをキャッチするそぶりもせずに顔面で受け止めて、新聞はテーブルに落下する。そこで初めて「おう」と返事する姉さんはちょっと可愛いけど、その低速インパルスがたまに本気で心配になる。
「じゃあ俺行くから」
「ん。いってら〜」
姉さんは新聞を片手にふらふらと自室に戻り、俺は鞄を手に取り家を後にする。
玄関を開けて直ぐ、照りつける夏の日光に俺は嫌気が差す。午前七時半にこの暑さはいかがなものだろうか。
俺はむしむしするエレベーターの中で温室効果ガスの野郎を恨み、私立安曇坂高校の急勾配を徒歩で登る過程で地球温暖化の深刻さに気付いてしまう。
「俺はさ、リフトを設備するべきだと思うんだよ。エビス発、安曇坂校門前リフト」
教室に入るなり笑顔で言い出す志方陸生に、思わず同意しそうになるも思い留まる。
因みにエビスとは坂の麓にあるタバコ屋の名前で店長は志方戎。俺は教室の端に新たに加わったアプリアンスを指差しながら言う。
「クーラー付いたじゃねぇか」
そうだよクーラーだよ。愛しのクーラー。今日から全クラスに設置されたクーラー! 国民の温暖化への関心が今一つなのはクーラーの所為に違いないと俺は思う。いつ効果が訪れるか分からない温暖化対策をして暑苦しい生活を送るよりも、今この瞬間のクーラーの方が魅力的で分かりやすい快適なのだ!
「情けないねぇ。俺はクーラー付けるぐらいならリフトを付けて欲しかったな。ここは坂の上で木々に囲まれてるから風通しは良いし、登校時のあの暑さとかったるささえ凌げれば……」
俺は志方陸生を無視して鞄をまさぐる。情報処理の試験が近いのを思い出し参考書を開くが全く頭に入ってこないのは、温暖化の深刻さ故か。
俺が耐え切れずお隣の川瀬さんに訊くと、流石委員長の川瀬さんは何でもご存知のようで、クーラーは二十八度設定で中央管理されており云々ということを教えてくれる。やってくれるぜ温暖化。川瀬さんの薀蓄によると設定温度を上げるのは経費削減にしかならず、節電で減る二酸化炭素は火力発電によるものだけだそうだ。ちくしょう。
仕方ないので俺は目の前でまだ喋ってる男のニキビだらけの顔を殴って黙らせておく。
放課後になっても温暖化の深刻さは続くようで、図書室に向かう俺の意欲を削ぐ。しかし扉を開いた瞬間に頬を伝う冷気の所為で俺は泣きそうになる。
「す、涼しい!」
図書室は何故かクーラーがガンガン効いていて、急激な温度差で腹を下さないか不安になる。俺は学生証を取り出しセンサーにかざしゲートをくぐる。
安曇坂高校図書室は学生証が無いと入域できない仕組みになっている。といっても図書委員がいれば学生証忘れましたの一言で入れてくれるので大した役目にはなってないよなと俺は思う。
一冊のファンタジー小説を手に取り、俺は窓際の席に腰掛けた。そして俺は定例通りの挨拶をする。
「もう五巻ですか。相変わらず、早いですよねぇ」
そう言われて向かいの女生徒はスッと顔を上げる。長い前髪をかき分けて双眸が覗く。
「あ、黒才くん。すみません気付かなくて」
「夕部先輩は集中しすぎです。疲れないですか?」
まぁいつものことなので気にしないが、俺の「涼しい」も聞こえなかったのか……。
「私はこれが普通なので」
と言って夕部先輩は厚ぼったい頬を歪ませてぽやぽやした笑顔を俺に向ける。
夕部佳織先輩は俺の一つ上で高校三年生なのに、毎日図書室に来てこうして本を読んでいる。受験勉強はいいのだろうかと心配になるが、余計なお世話なので口には出さない。でもきっと頭は相当良いのだろうと勝手に妄想する。
俺は片肘を付き本を開く。それを合図に俺も夕部先輩も視線を本に移す。
「黒才くんに勧められたこのシリーズ、すごく面白くって、ページを捲る手が止まらないんですよ」
「大袈裟だなぁ。でもそれ後半は凄いですよ」
「あー先言っちゃダメですよ。というか黒才くんまたその著者ですか」
「はい。いやぁ宿井えんどの書くファンタジーは別格ですよ。なんか凄く懐かしい感じがするんですよねぇ」
「ファンタジー世界に懐古の情が湧くってどうなんですか」
「ハハ……でも面白いですって。そのシリーズ読み終えたら読んでみてくださいよ」
「ヤですよそんな変なペンネームの人」
「そこは大目に見てくださいよ……」
お互い本に顔を向けたままのやり取り。たまに通りかかる生徒が怪訝そうな視線を向けてくるのが見なくても分かるが、俺も夕部先輩も気にしない。もっとも先輩は気付いていないだけなんだろうけど。
俺と先輩は七時になって見回りの先生に叱られるまで学校に残り、読書と読書トークをしていた。夏というのは日が落ちるのが遅くて時計を見て焦るということがよくあるよねなんて話をしながら俺と先輩は坂を下った。
「この坂、リフトなんかがついてたら良いと思いません?」
全くその通りですよね!
「リフトさえあれば!」
俺は乗り損ねた電車がガタンゴトン動き出すのをホームで眺めながら叫び、駅員さんに変な目で見られる。ちくしょう。おまけに次の電車が五十分後となれば、最早田舎の電車の数の少なさを嘆く気にもならない。
コンクリートの床に汗が落ちる。なんつー暑さだ。
地球温暖化の深刻さは日が落ちても俺を苦しめるし、帰宅ラッシュのこの時間は田舎といえど人が多いので俺は息苦しさまで感じてしまう。先程さよならをした駅近くに在住しているという夕部先輩を羨みながら、俺はコンビニへと向かった。
流石に二十分も立ち読みをしていると、さっきのダッシュで疲弊した足腰的に辛くなってくるが、しかし温暖化の深刻さから放たれているこの二十四時間営業の空間を後にするのは惜しいなぁと思っていると俺の目の前で犯罪が起きた。
コンビニの雑誌売り場というのは店内で最も人が集まりやすので、窓際に設置して店外から見たときに繁盛して見えるようにしているらしい。そんな中々イカしたテクを使っていてくれたおかげで俺はそのスリ≠ノ気付いた。まぁ気付いた理由はそれだけじゃないんだけど、だから俺は月刊漫画雑誌を棚に投げつけ店を駆け出て犯人を追う。立ち読みだけして何も買わずに出て行くというのは俺のポリシーに反するのだが、今だけはきっと俺のポリシーもアルバイト店員さんも許してくれるだろう。
犯人は黒い服を着ていたが、駅付近は街灯や店の明かりのおかげで比較的明るいので、俺は辛うじてそいつを見失わない。平然と歩いて逃亡してくれていたおかげで俺は難なく追いつく。髪の長さで大体分かっていたが、掴んだ手の細さで俺はそいつが女だと確信する。
「何?」
女はゆっくりと振り向きベレー帽を少し上げ俺を睨む。鋭い目つきに一瞬怯むが、俺はしっかりとその女を見据える。身長や顔つきから女子高生か少なくとも二十歳前後だと読み取れるが、俺のその辺りの勘は当てにならない。
「スったよね?」
俺はできるだけ優しく言う。
「何のこと?」
「財布のこと。返してこい」
女は俺の手を振り解きジーンズのポケットから先程スったと思われる財布を取り出す。すると女は「仕方ないわね」と言って意外と素直に白状し、被害者の元に駆け寄ってこっそりと素早く鞄にそれを滑り込ませた。
気配なんてものを俺は信じちゃいないが、足音とか息遣いとか鞄の振動なんかで普通気付かれるものを、ターゲットどころか周りにも気付かせずにそれをやる女に俺は感心する。
女は俺のところに戻ってきて言う。
「ついてきなさい」
俺が返事をするのを待たずに今度は俺が手を引っつかまれてそのまま何処かへいざなわれる。俺は焦る。
な、なんだ! 俺は消されるのか? 実はこの女はスリ師界のトップで自分の任務を一介の高校生ごときに見破られたとあってはメンツが立たないからって理由で消されるのか! なんつうミスフォーチュンだ! それみたことか温暖化! 貴様の所為でどうこうなる前にこういう不幸をなんとかしなくちゃいけないんだ! ちくしょう!
ピロピローン。
いらっしゃいませ二名様ですか? は?
「うん。吸わないわよ」
俺と犯人はデザートが美味しいとクラスの女子によく話題にされている駅前のファミリーレストラン『るみのっくす』の禁煙席に向かい合って座る。さて。
「どういうこと?」
「私、くるみグラタンね」
俺の疑問は無視してメニューに見入る犯人はそこから顔を上げずに言う。おしぼりでも投げつけてやろうかと画策していると女はベレー帽を脱いで唐突に話し出す。
「お金」
「……は?」
「あの子のお金で今日の晩御飯、賄うつもりだったの。あんたがそれを邪魔した所為で私は今日晩御飯を頂く術がないわ」
俺はうんざりというか呆れる。同時に帽子を取ることによって露出した髪に一瞬見蕩れる。黒の中に薄っすらと馴染む赤銅色のロングヘアー。
……まぁなるほど。一応筋は……通ってないけど納得。てゆーか目つき怖えーよ。
「で、俺に奢れってわけね」
「奢りとは厚かましいわね。これは正当な慰謝料よ?」
犯人はそういってフフと高慢に笑い、勝手に店員お呼び出しスイッチを押す。ピューンという爽快な音が厨房の方から聞こえて店員さんになりすました同級生の笠小創平がニンマリ笑顔でやってくる。
「なになに? 恵平ってこんな可愛いかの――」ボスッ。
俺は笠小創平におしぼりの矛先を変えて投げつけ黙らせる。しかしうちの学校は確かバイトは禁制だった筈なんだが、こんなオープンに接客業して大丈夫なのだろうか。
犯人は気にする風も無く注文を始めて、くるみグラタンとたらこスパゲッティとハッシュドビーフオムライスとオレンジジュースとておいおいおいおいおいおい!
「何か?」ギロリ。
…………。
「た、炭水化物ばっかかよ!」
俺はホットコーヒーを注文して笠小創平を追っ払い溜め息を吐く。
何故だ。何故こんなことになった。てゆうか俺そもそもまだ了解して無いし! ここって結構たけーんだぞ! ちくしょう。もう電車も出ちゃったじぇねーか。
オレンジジュースとコーヒーがニンマリ笠小によって運ばれてきたので俺はカップに口をつける。
「このあっつい時期にホットって、あんたバカなの?」
犯人はオレンジジュースをストローでチューチュー吸いながら言う。
あっつい時期に真っ黒い服着といてよく言うぜと思うが言わない。
「いやコーヒーはやっぱホットに限るだろ。暑いって言っても店内は温暖化の深刻さから隔離されてるしな」
「は?」
「いや、なんでもない。それよりもう二度とあんなことすんなよ。次見つけたら警察に突き出すからな」
俺は人差し指を突きつけてかっこよーく言うが、女にまたフフと笑われる。
そういえば何故俺は今直ぐ警察を呼ばないのだろうか。すぐに思い当たる理由としてはやっぱり面倒くさいし変なことに巻き込まれたくないからなんだけど、恐らく俺は直感的に感じているのだろう。俺にはこの女を警察に突き出すことができないということを。
ちょっと目を逸らした隙に居なくなってしまいそうな曖昧な存在感が、彼女を捕らえることの難しさを俺に感じさせる。
テーブルにくるみグラタンが運ばれてくる。俺のドスが利いたのか運んできたのは笠小創平ではなく可愛いウエイトレスさんだった。
「それにしてもよく気付いたわね。あんたが初めてよ」
女はまたも唐突に言う。
「……生まれつき目が良くってな。それにお前がターゲットにした人、知り合いなんだ。コンビニで立ち読みしてたら知ってる顔があったから見てたら、後ろからシュッとさ」
「ふぅん」
女は自分から振っておいて興味なさ気にあしらってくるみグラタンを頬張る。別に俺もこれ以上言うことは無いのでコーヒーを啜っていると女が何かを差し出してくる。お札?
「じゃあこれ返しといて」
と言って俺に二千円を差し出す。え?
「あんたが払わないで帰っちゃったらあたし困るでしょ。保険で持っておいたの。ここの代金払ってもらっておいてそれまで懐に入れてちゃ、なんかすごい悪者みたいだし」
「保険て……お前まさかあの時、財布からいくらか抜き取って」
「そうよ」
「…………」
あのシーンでいつ財布から金を抜き取るチャンスがあったんだよ……。
俺はあのときの財布が簡単に開けられるような構造ではなかったのを思い出す。へー最近のスリ師ってすげーなー。てゆうか君、十分悪者だから。
俺は二千円を受け取り気付く。保険を捨てるということは。
「おい、俺はまだ払うと言った覚えは無いぞ」
「…………」ギロリ。
俺は二千円を仕舞う。自分の情けなさがいい加減嫌になってくる。
「……今俺が逃げたらどうすんの?」
そういうと女はさっき以上にフフフする。そんでスネ蹴り。
「――っ!」
痛さのあまり体がくの字に曲がりその拍子に顎がテーブルに衝突して俺は泣きそうになる。そしてスネの様子を見にテーブルの下に顔を下ろして気付く。
「…………」
スニーカーのシューレースが二本とも見事に解けていた。
「そんなものブラブラさせたまま逃げきれるの? フフフ」
俺は流石に戦慄する。
解かれたのか? いつ? どうやって? 足で? 俺に気付かれずに? ここまで普通に歩いてこれたんだから、解いたのは席に着いてからしかありえない。この女は俺と話しているときにもテーブルの下ではこそこそ紐解きしてたっていうのか? ばかな。
そして女が手に持って俺に見せびらかしているものが何か分かり俺は更に慄く。
「お、俺の学生証じゃねぇか!」
「安曇坂高校二年一組、黒才恵平、出席番号八番、彼女募集中か」
「最後のは書いてあるかよ!」
俺はあること無いこと音読し始める女の手から学生証をふんだくろうとするが、華麗に躱され手は空を掻く。
「くっ……」
俺はもうこの女に何をしても無駄だと悟り財布を出す。そして取り出したお札を叩きつける。
「三千円だ。これだけありゃ足りるだろ。返せ」
「そーら」
スリ女は俺の学生証を放り投げる。俺はそれをキャッチして席を立った。
「あれ? もう行っちゃうんだ?」
「ああ」
俺はもうその挑発的な発言にも乗る気になれずさっさと歩きだ――
ステーン。
「あははははははははははははははは」
すっ転んだ俺を指差してスリ女は哄笑する。今までで一番ムカつく笑い方だったが、その笑顔だけは犯行時よりもグラタン頬張っているときよりも人間らしく見えた。
「さっき教えてやったばかりだってのに、なんで紐結んでないのよあはははははははははははははは」
でもやっぱりムカつくので俺はその口におしぼりを突っ込んでやる。
「んぐぁ……んあがぁがが」
俺はちゃっちゃと紐を結んで今度こそ歩き出そうとするが、腕を引っつかまれる。そしてスリ女はさっきまでの爆笑をあっという間に持ち直して言う。
「コーヒー残ってるわよ。全部飲んでいきなさい。残し物は許さないわ」
「?」
なんか怖かったので俺は言う通りにしてコーヒーを飲み干す。やっぱスリ師なんかやってると安定した収入が無いからそういうの見過ごせない性質になっちゃうのかなあなんて俺は思って、さよならの挨拶もなくその場を去った。
そして俺はその考えが的外れもいいとこだということにしばらくして気付く。
思えばこのコーヒー一杯が俺の後の人生全てを狂わせることになった。
ファミレス『るみのっくす』を出てホームへ向かう途中、俺は夕部先輩を見かける。時刻はもう午後九時を回っているというのに何をしているのか。俺は迷わず近寄る。
「何してるんですか先輩」
「え?」
振り返った夕部先輩はどこか焦りのある表情をしていたが、俺を認識して笑顔を作る。厚ぼったい頬にはいつものようなぽやぽや感が無い。
「ま、まぁちょっと……」
どうみても怪しい。が、俺は追求せずに財布から二千円を取り出し夕部先輩に手渡す。
え? え? と困惑する夕部先輩は可愛いけどあれ?
「二千円探してたんじゃないんですか?」
「……違いますけど、どうして?」
俺はスリ師との一連の事件を説明する。ファミレスでの俺の情け無いシーンは勿論カットだが、それ以外は丸々説明した。誰にも言うつもりは無かったが、この人だけは仕方が無い。夕部先輩こそがスリの被害者≠ネのだから。あんな化け物女の光速スリに気付けた理由なんて被害者が夕部先輩であるから以外にありえないのだ。
「……てことでこの二千円は先輩のものでですね……ぐぉっ!」
暗転――
胸倉を掴まれ顔が近づく。
「――誰っ!」
俺が今までに見たことの無い夕部先輩の顔がそこにあった。眉を吊り上げて目を見開き、俺を睨めつける。俺は蛇に見込まれた蛙のように体がすくむ。
「そいつの名前はっ! 風体はっ!」
「え……っと赤っぽい髪で、長くて、帽子被ってて……とその、名前は分かりません」
先輩は怒号を張り上げてそう言い、俺が動揺でうまく話せていないのに苛立ったのか、駅の壁を蹴り上げる。
「くっ! その女はまだそのファミレスにいるのね!」
それだけ確認すると夕部先輩は俺のシャツから手を離し、『るみのっくす』の方へ全速力で駆け出していった。
闇の中へ消えてゆく夕部先輩を見ながら俺は思う。
ああもうあのスリ女はファミレスには居ないんだろうな、と。
俺は闇々とした洞窟の中で目を覚ます。
温暖化の深刻さとは無縁の涼しさがそこにはあって、俺は少し寒いくらいだった。横たわって数秒ぼーっとして夢かと気付く。そしてまたかとうんざりする。
俺はロクな夢を見たことが無い。
記憶にある一番古い夢は、薄暗い森を歩いていて何故かゴリラが現れてボコボコにされるという夢。確か小学校の頃の経験で、俺はそれがトラウマになって暫くは森々とした場所には近づけなかったりした。熊とかなら分からなくも無いがゴリラっていうのはどうなんだろうと思う。夢診断なんかしたら何か分かるのだろうか。
次に記憶に新しいのはレジャープールなんかによくある筒状のウォータースライダーを滑っているといつの間にか下水道で流されているという夢。次の日は飯食えなかったっけなぁと俺は懐古する。なんだいつも暗い所だ。
友人達の間で夢トークになると遅刻する夢とか落下する夢とか謎の黒い影に追いかけられる夢とか、そういう話ばかりを聞く。夢なんて所詮は夢だから俺はへーとしか思わないが、俺が自分の夢の話をすると決まって皆大爆笑する。俺としては爆笑する要素なんて一つも無くて本気で困ってるんだが、それでもやっぱり見てしまう。こういう夢を。
俺は立ち上がり洞窟を見渡す。全く見覚えの無い場所。
覚めるまでの暇つぶしに、俺はぶらぶら歩くことにする。どちらが出口に通じてるかも分からないがひたすら歩く。
暗いのだが、何故かすぐ先が分かるくらいにはぼんやりと明るかった。普通洞窟の中って何も見えないくらいに暗いんじゃないだろうかと疑問に思ったが、夢っていつでもご都合主義なもんかと気付く。
目の前を蝙蝠が飛び交い、水が滴る音が聞こえる。俺は妙なリアルさにこれまで以上の恐怖を感じ始めた。
さーてどんな落ちが来るのか。崩落して生き埋めなんてところが妥当かな、なんて考えていると本当に崩落してきた。
…………。
轟音。小石や土塊が降ってくる。その一つが額に命中し、俺は流血した。
ふ、ふふふ、ふははははははははははは!
「痛ってええええええええええええええええええ!」
夢じゃないのっ! 俺は焦る。
そして声。
「……ちだぁ」
俺は声のする方へ振り向く。女。
「……こっちだっ!」
いつ以来か、俺はフルスロットルで走る。ヌメヌメした水溜りを踏みつけ、降ってくる小石たちを払いながら走る。俺はとにかく前方を走る女についていき続け、微かな風が流れてくるのに気付く。そして出口。ズサー。
慣れない全速力に足が痛む。俺の夢はいつからここまでリアルになったのだろうか。
「だらしないわね。ほら、さっさとそこどかないと生き埋めになるわよ」
「…………」
「どけっつってんのよ」ギロリ。
俺は洞窟の入り口から離れて再び膝を突く。ふぃー。
「ふぃーじゃないわよ。……あの悲鳴でまさかとは思ったけど、あんただとはね」
「…………」
「なんとか言えっつうの」ギロリ。
なんてこった……。俺の夢はとうとうその日にあった恐怖体験まで登場させてしまうほどになったのか。しかもここまでリアルに……うぅ。
そこに立つ女、数時間前に俺に無理やり奢らせたスリ女が、俺を踏みつける。
「なんとか言えっつってんだろこの安曇坂高校二年一組黒才恵平、出席番号八番、彼女募集中!」
「だから最後のは書いてねーよ!」
俺は足を払いのけ立ち上がる。息も大分整ってきた。
「何故覚めない!」
俺は天を仰ぎ叫んだ。見上げた夜空は雲ばかりで星の光を遮っている。
そのまま俺は首を回し辺りを見回す。
森―― 山―― 海――
ここは崖の上になっている。
……キャンプにはもってこいの場所だな、うん。……何処だここ。
「安心して。すぐに戻れる筈よ」
「……本当に夢かここ」
「…………」
スリ女は初めて俺の前で黙秘をした。
「……俺の夢には二つの共通点がある。一つは暗澹とした薄汚い場所だということ」
森はいつだって夜だったし、下水道はいつだって密閉空間だった。
「二つ目は俺以外の人間が居ないってところだ。どんなに悲鳴を上げて助けを求めても、どんなに必死に歩き回っても、他人は居ないんだ。ゴリラはいたけどな」
俺はさっきからじっとこちらを睨んでいるスリ女を、こちらからも見据える。
そしてスリ女は言った。
「ここはあんたの知る世界じゃ無いわ」
「…………は?」
思考が飛ぶ。
「何言ってんだお前。今更言い訳するんじゃねぇ。夜道で俺を攫ったとかだろ? スリ師の威厳を守るために俺の口を封じるんだろ?」
「……あんたこそ何言ってんの。今日家に帰った記憶、あるでしょ? んでベッドに入っておねんねしてる記憶だってあるでしょ? 私がわざわざ家に忍び込んであんたを攫ったとでも言うの?」
俺は脳味噌でテープを巻き戻すように記憶をたぐる。
夕部先輩にどつかれた後、俺はそのショックで放心状態のまま電車に乗って家まで帰った。その後、仕事中の姉さんに晩飯を拵えて、食欲の無かった俺はシャワーを浴びて、すぐにベッドにダイブしたのだ。
寝てる。俺は寝ている。
「なんだ、じゃあやっぱり夢か」
「違うわよ。ここはあんたの知らない別の世界」
「…………」
「どうしても信じられないみたいね。あんたの夢にはゴリラしか出ないんじゃなかったの?」
……そうだよ。俺の夢には他人は出ないんだ。ゴリラしか……ゴリラ……
「ゴリラしか……ねぇ…………ぶほぉぁっ」
グーで吹っ飛ばされる。同じ霊長類だというのに。
「そこまで言うんだったらアレを見なさい」
スリ女は海を背にして左の方角に指を指す。
振り向くと、遠くに三つの細長い塔が見える。幅は遠すぎてよく分からないが、高さは数百メートルはあろうかという塔。それぞれの塔はピサにある鐘塔のように傾き、三つの塔が重なり合っている。塔Aが塔Bを支え、塔Bが塔Cを支え、塔Cが塔Aを支えているかのように。
まるでカメラを支える三脚のようだと俺は思う。
「あんな塔、あんたは知ってる?」
「……いや」
認めざるを得ない。仮に夢だったとして、俺にあんな奇抜な建造物を夢に出せるか?
「じゃあここは地球じゃないと?」
言って俺は吹き出しそうになる。やっぱり夢だ。ありえない。
「地球よ。あんたの知る地球じゃないけど……ついてきなさい」
俺はあの時のように腕を掴まれてどこかへいざなわれる。まさかこの辺りにファミレスがあるとは思えないけど。
森の中へ入り、本物のゴリラが出てこないか俺は不安になる。十メートルは優にある巨樹が立ち並ぶ鬱蒼とした森林の中を、俺とスリ女はひたすら歩く。道と言えるのか分からない道をスリ女は迷わず縫うように進んでいく。
「時間が無いから簡単に説明するわ」
俺を半ば引きずりながら、スリ女は俺を見ずに言った。
「ここは分岐した別の世界とでも言うべきかしらね。いつ分岐したのかは分からないけど、だからここは紛れもなく地球」
「分岐?」
俺は早くも意味が分からない。
「シュレーディンガーの猫って知ってる?」
「名前だけはどっかで聞いたことあるな」
女は歩くスピードを少しだけ遅めて、やはり俺を見ずに滔々と語り始める。
「量子力学の思考実験のことなんだけどね。ある蓋付きの不透明な箱の中に、一匹の猫と一つの装置を入れるの。装置は五十パーセントの確率で一時間以内に青酸ガスを出す殺傷装置。蓋を閉めて誰も箱の中を確認できない状態にして、一時間待つ。箱の中の猫は生きているでしょうか死んでいるでしょうか」
「なんか動物愛護団体から苦情が来そうな話だな」
俺の的外れな感想を無視してスリ女は続ける。
「答えは両方=B箱の中の猫の生死を誰も観測していない時点では、生きている猫五十パーセント、死んでいる猫五十パーセントの重なり合わせの状態にあるのよ」
「へぇ」
何が言いたいのか分からない。
俺のそんな心情を読んだのか、スリ女は漸く端的に言う。
「つまりさっきまでの地球は猫の生きた世界、ここは猫の死んだ世界ということになるわね」
俺はもっと意味が分からなくなる。だが俺はそんな実験にどんな意味が込められていようと全く困らない。俺にとって問題なのは帰る方法であって、この世界の構造や起源なんぞではない。
スリ女の言っていることを信じるなら、この世界から脱出するには猫の生死の確認がいるってことになるのか? アホくさ。
「エヴェレット解釈ではたとえ観測者が出たとしても、この世界があんたの知る世界と収束することは無いわ。生きた猫を観測した者と死んだ猫を観測した者に分岐するから、結局世界は増えるばかり」
俺の悩みを察するようにスリ女は言った。
相変わらず意味の分からないことを言うので俺は思考をするのを止める。
森はどんどん深閑としてくる。雲越しの月明かりが木々の隙間から辛うじて漏れてくるだけで、ほとんど何も視認できない状態。
数十分歩き続け、俺の目が漸く暗順応してきた頃、俺とスリ女は森を抜けた。
「長いわね……」
スリ女はぽつりとそう独りごちた。
俺が何のことかと訊こうとすると、スリ女は俺の腕から手を離し、その左手で俺の後ろ頭を掴んで強制的にある一方向を向かせる。
その先にはテントの形をした家のようなものがずらりと並んでいて、まるで大昔の集落のような光景だった。
「浅墓村っていうの。あそこに私の借家があるから来なさい」
スリ女はそういうと、また俺の腕を引っ掴んで歩き出した。
どうもスリ女はここの世界――女の言うことを信じるとすれば猫の死んだ世界――に何度も行き来しているかのような、いやむしろこっちが本当の彼女の生きている世界のように話す。
スリ女がテント群の内の一つに俺を連れて行こうとしたとき、別のテントからボロボロの布きれに体を包んだひげもじゃの老人が現れて、スリ女を見つけた途端「おぉー」とか言って歓喜する。
「ひずみちゃん! 久しぶりだね……」
「芦屋さん……お久しぶりです。前に来たのが、えーと百二十日前になりますかね」
ひずみちゃん?
俺は変な名前だなと思うが、それ以上のことは思わない。俺にとってはもっと重要な引っかかり、他人が出ないという俺の夢の法則が更に崩れ去ったという事実が、ここが現実でないという現実を固めて俺を狂わせる。
「そちらの男性は?」
芦屋と呼ばれていたお爺さんが、俺の存在を見つけて訝しむ。
「あぁ、この人は何ていうか……そこの洞窟で見つけてきた浮浪者よ」
「ほぉほぉ」
おいおいおい。
俺は芦屋さんが右手を差し出してきたので、素直に握手をしておく。何故この場面で握手なのかとちょっと不思議に思ったが、芦屋さんは笑顔なので別によしとする。
「下手な嘘は止めときなさい。こんな服飾をした浮浪者はいないよ」
芦屋さんはニマニマしたまま言った。
「そうですね……フフ」
俺とスリ女は、スリ女の借家らしいテントの中に入った。
外見がテントだとやっぱり中身もテントで、俺の知るキャンプ用のテントと違うところといえば、割と大きくて形がしっかりとした円錐になっているとこと、素材がしっかりした皮……なのかは分からないが、それだったとこ。
殺風景も殺風景で、あるのは小さな机と布団のみ。机の上には大きな紙とペンのみ。紙には何やら地図のような見取り図のようなものが書かれていた。
「それで俺をここに連れてきて、ひずみちゃんは何がしたいわけ?」
ボスッ!
顔面をグーで殴られたのは始めてだ。
「私は高瀬ひずみ。高瀬って呼びなさい。いいわね?」ギロリ。
「わかったわかった。で、高瀬は何がしたいわけ?」
「いきなり呼び捨て?」
めんどくせぇ……。
まぁいいわ――とスリ女……高瀬は続けて、ギスギスした表情のままポケットから何かを取り出した。
何かが入っていたであろう小さな袋のようなもの。封は切られていて、中にあったであろうそれはない。
「何それ」
「風邪薬の袋よ」
……うん。なんでそれを今俺に見せるんだよ。
「でもただの風邪薬じゃないわ。こっちの世界の、猫の死んだこの世界にだけ存在する粉薬。私はこれを服用してここに来た」
「え?」
またもや意味が分からない。
こっちの世界の風邪薬には世界ワープする薬品でも調合されているのか? うわーお。
「さて問題です。存在するということはどういうことでしょうか」
高瀬は一つ溜め息を付いた後、また唐突にそう言った。
まず質問の意味がよく分からないし哲学は大嫌いだから、俺は両手を挙げて欧米風に分からない意を示す。
すると呆れた口調で高瀬は言う。
「存在していると、強く思うことよ」
「…………」
へーと俺は思う。
人の意識が世界を創るなんてのはよく聞いたことがある。コギト・エルゴー・スムだったっけか? あれは関係ないか。もっともデカルトが何と言おうと、シュレーディンガーが何を唱えようと、俺は全く困らない。ここは俺の知る世界じゃないのだから。
そして俺はいい加減苛々してくる。
「で、何が言いたいんだよ」
「……薬というのは夜眠っているときに一番よく効くのよ。体中を薬の力が、こっちの世界の薬≠フ力が覆ってしまう。そして睡眠中は人間の存在感が一番希薄になるわ。確かにここに存在しているのだと、意識していないから。いや、できないから」
「…………」
「猫の生きた世界で存在感が薄れて、猫の死んだ世界の存在感に体を覆われた状態、そのとき存在は世界に引っ張り込まれるわ」
私はそうしてここに来た――と高瀬は言った。
引っ掛かり。
頭の中にホッチキスの芯が埋め込まれているようなイメージが俺の中に湧く。
高瀬の言っていることは確かに筋が通っている。どこからそんな薬を持ってきたのかとか、何故分かっていてわざわざ世界を飛ぶような真似をするのかとか、そういうあいつの内情はいい。俺には関係無い。深追いはしない主義だ。
だが俺は?
「俺は何故ここに来た」
俺が当然の疑問を口にすると、高瀬は悪びれる風も無く言う。
「私がコーヒーに混ぜたのよ」
「…………」
俺はファミレス『るみのっくす』でのことを想起する。俺は一度もトイレに行ったり、その他の理由で席を立ったりしていない。だいたい俺は基本的にコーヒーから目を離していない。向かい合って座っているのだから、入れるチャンスなんて――
――ある。
俺の体にあの時の慄きが甦る。
「あのスネ蹴りのとき――か」
「やっと気付いたの? 安曇坂高校には推理の授業を設けるべきね」
高瀬はフフと言って狡猾な笑みを浮かべる。
いらねーよそんな授業――なんて突っ込みをする気も失せる。
「じゃあ知ってたんじゃねーか……俺がここに飛ばされること」
「そうよ。でも意外、というか異常な事態が起きたわ」
俺にとっては世界トリップさせられた今、これ以上の異常は無いと思うんだけど。
「私があんたのコーヒーに混ぜた風邪薬は微量も微量、しかもあんたはこの世界に来るのが初めてだというのに……どうしてこんなに長時間、この世界にいられるの?」
高瀬は眉を寄せて何故かこちらを睨みながら言う。
そんなこと俺に訊かれても困る。俺は高瀬とは違って、飛んできたんじゃなくて飛ばされてきたんだから。むしろ俺だって早く帰りたいくらいなんだよ。
「私が初めて……粉薬で初めてここに来たときは、たったの十数秒で元の世界に引っ張られたわ。三百六十度を見渡してる内にシュウィーンって。それなのにあんたはもう一時間もここにいるわ。考えられない」
知らねーよ。
俺だって考えたくねーよ。シュウィーンじゃねーよ。
しかし俺はそこで意外な光景を見て動揺する。あの高慢な笑い方をする、あの極悪卑劣な、あの光速スリ女である高瀬ひずみが、両手を合わせて赤銅の髪を前に出し、俺の方に小さく頭を下げている。
「ごめん。てっきりすぐに帰れるものだと思っていたから、試行に使わせてもらったりしてみた」
そしてそう言う。
俺は別に大して怒ってもいなかったが許すことにする――が、
「実験て何だ?」
俺に薬を飲ませて、こっちの世界に飛んでるかどうかを試して、こっちの世界のそれであるかどうかを確認しようとしたってことか? だとすると俺が飛んでるのを確認しないで高瀬がここに来るのはおかしい。大体、高瀬はこっちの世界の薬を飲んでこの世界に来ることは初めてじゃないらしいじゃないかと俺は思う。
「この薬は盗品なのよ」
高瀬は再び粉薬の袋を手に持ち、言う。
盗品……その言葉に俺は再び何か引っ掛かりを感じる。
「盗んだものって、盗まれる側が狙われていることを自覚している場合だと、なんか色々と怪しいじゃない? それ≠セと分かっていても向こうの罠じゃないかとか思っちゃうわけ。足がついたら困るだろうから毒とかじゃないのは確実なんだけど、ただの下剤とかをわざと盗ませたりする可能性もあるのよ。特にあの機関の人間ならね。まぁあの後あんたを駅まで尾行したけどトイレに駆け込んだりとかしなかったし、第一こうしてこっちの世界に来れてるんだから、ただの私の杞憂だったんだけどね」
引っ掛かりが取れかかる。まさか――
「夕部佳織がちゃんと財布にこれ≠忍ばせていて助かったわ」
汗が頬を伝って落ちるが、暑さや息苦しさはない。
ここは温暖化の深刻さとは無縁の世界なのだろう。
第二章 粘土男
「嘘……でしょ……」
呆然とした表情で記念物でも見るかのように俺を凝視しているスリ女高瀬のその声で俺は目を覚ました。俺が背を預けていたテントの隅から起き上がると高瀬が一歩下がる。俺が立ち上がると高瀬は更に一歩後ずさる。
「嘘よ! 嘘! 絶対嘘! 全く嘘!」
俺は慣れない場所で慣れない寝方をしたせいか、体の節々が痛いことに気付く。関節をぽきぽき鳴らせても全く晴れない。
「五時間よ五時間! 私が五時間ここに存在できたのって六回目くらいの頃よ! なんでよ! ありえないありえないありえない!」
俺はうるさい犯罪者を無視してテントから出て、大きく伸びをする。
昨晩の雲は信じられないくらいに全く無くなっていて太陽光が俺を刺すが、暑苦しくない。全然暑くないってことは無いが、体にまとわり付くような熱気や湿気はないし、清々しい暑さという感じで俺は気分が良くなる。
「ふぃー」
…………戻れていない。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
なぜだなぜだなぜだ!
俺はこっちの世界に閉じ込められてしまったのか? 目が覚めたらどうせお家のベッドでおっきっきだと思っていたのに!
あの暑苦しく息苦しいマイルームを俺は愛しく感じる。くそくそくそ!
「あんた世界ワープの才能あるんじゃない?」
いつの間にか横に立っていた高瀬が言う。
よく見ると高瀬以外にも三人ほど俺の周りに人が居て、それぞれが俺を舐めまわすように見てくる。三人の内の一人はなんか見たことあるなーと思っていたら、思い出した。昨夜のあの爺さんだ。芦屋さんだったっけ。
「君もひずみちゃんと同じ世界から来たのかい?」
「その衣服は何で出来ているんだ?」
そういやこっちの世界でも日本語は日本語なのかと俺は気付く。自分の知らない世界で自分が使っている言葉が使われているのは、なんか結構新鮮で俺はおおーとか思うが、よくよく考えると言葉が通じないならそれはそれで俺は別に困らない。
おじさんAとおじさんBの質問に答える気にはならないが、そういうわけにもいかないのでとりあえず「そうです。これはポリエステルとかじゃないかと思います」とだけ言って俺は高瀬を見る。俺はどうすれば?
「芦屋さん、私狩りに行ってきますね」
俺のアイコンタクトには気づいてるだろうに、高瀬は無視する。
「ひずみちゃん、君はそんなことをしてる暇はないだろう。我々のことなんてほっといて早く……」
「いいんです。やりたいからやるんです」
俺はついていけないのでその場を離れる。
勝手な事情で俺をここに飛ばしておいて無責任な女だ。ああ今何時だろう。ダウナー姉さんが親鳥を待つヒナのように、お腹を空かせて俺を待っているんじゃないだろうか。また俺が修学旅行で家に居なかったときのように、耐え切れずに生卵に塩コショウ振りまくって飲んでるんじゃないだろうか。
村のはずれに――と言ってもそれほど広くないんだけど――辿りつき、俺の頭にまた引っ掛かりが生じる。いや引っ掛かりというか疑問なんだけど。
俺の体はあっちの世界にあるのだろうか――
よく魂だけ移動するファンタジー小説なんかがあるけど……。
俺は昨日ちゃんとベットにダイビングしてスリーピングした。もし体ごと吹っ飛んできたのでは無かったら、俺は今も布団の中でグースピやってるはずだ。もし姉さんが俺を揺さぶり起こしてくれれば、俺はちゃっちゃとこの世界におさらばできるんじゃないかと思う。
……だが俺は寝た。こっちの世界で寝た。寝てこっちに来てこっちで寝てこっちで起きた。となると順番的には今度は向こうで起きる番だが、どうなんだろう。
俺は夢を見たかどうか思い出そうとするが、無理だったので諦める。やっぱり体ごと飛んできた可能性が高いのかな。俺の体はここには確かにあるわけだし。寝るときの、朝着替えるのが面倒だからカッターシャツにベルトを取った学校指定のズボンという組み合わせのままで。まぁ仮に俺の体があっちに残されたままだったとしても、あの脱力姉さんが俺を起こしにきてくれるわけないんだけど。とゆうか、まずあっちとこっちの時系列が同期しているかどうかってとこが謎だよ。
俺が森の中へ入ろうとすると、肩を叩く者が出現。
振り返ると言うまでもなくそこに高瀬が居た。
「何処行くの? 森は危ないわよ」
そういやこいつは狩りに行くとか言ってたっけ。
「知るかよ。もうほっといてくれ」
「ほっとけるわけないでしょ。私があんたをここに連れてきたんだから」
「だったらさっさと俺を返してくれよ。俺はこんな村に帰化するつもりはねぇぞ」
「うるさいわね。返してやれないから困ってるんでしょーが」
「困ってるのは俺だ! 姉さん腹空かして待ってんだぞコラ」
「そんなのどうにでもなるでしょ、しょーもない」
「あぁん?」
「何か?」ギロリ。
そんなギロリンに俺はもう怯まない。
俺は無視して意味もなく挑発気味に鼻で笑って、森の中へ足を進める。
「魔物に襲われてもしらないから!」
背中に投げつけるようにそう言う高瀬をしかし無視して俺は歩く。
魔物だってよ。日本にそんなもんいるわけねえだろ。いてもゴリラだよゴリラ。いやゴリラもいないか。
熊ぐらいならいるかもしれないと思ったが、俺は構わず歩く。うちの姉さんの朝ごはんをしょーもないなんて言う奴はこっちこそ知らないぜ。狩りだか何だか知らないが、ゴリラにでも食われてろ。
心の中で毒づきながら獣道を歩いていて俺は気付く。昨夜は暗すぎて分からなかったが、森に生えている木は見たことない種類のものだった。相変わらずその巨樹の葉は少し上空を覆っていて朝だというのに薄暗い。
五分くらい歩いて俺は疲れる。
「……腹へった。喉渇いた」
そういや昨日の晩はコーヒーしか飲んでないんだった。諸悪の根源のコーヒー。そして今朝は水一滴口にしてないんだからまぁ当然か。
「あの……」
でこぼこに盛り上がった地面に腰を下ろそうとしたとき、正面から潤いのある声がかかる。顔を上げると、少年。
「もしかしてお爺ちゃんの言ってた漂流者の方ですか?」
少年は丸い目を爛々と光らせて言う。
「漂流者ね、まぁ間違いじゃないけど……キミ誰?」
「僕は小次太郎といいます」
……小次郎か小太郎で迷ったんだろうなぁとか俺は思う。
でもどっちかにしてやれよ親御さん。呼びにくいじゃねぇか。
「えっと、じゃあ小次太郎くんさ」
でもまぁ太小次郎よりはマシかと思い、俺は小次太郎に訊く。
「苗字は?」
「芦屋です」
やっぱりか。お爺ちゃんと呼ばれそうな人は一人しか心当たりが無いしな。
小次太郎が背中に竹籠を背負っていたのでキノコでも取ってたのかなーと思ってみてみると、中には数匹の魚がいた。虹鱒か何かか?
「あ、これは恥ずかしいものをお見せしてすみません。僕は魚を獲るのが苦手なんですけど、お爺ちゃんがやれって言うもので……」
小次太郎は照れながら言う。
なるほど、確かにこれっぽっちの魚を持ってったところで一家の一食分くらいにしかならないだろうな。自給自足なら十分だが、商売できる量じゃない。
そんで俺はとんでもないことに気付いてしまう。
魚……川……水!
「川があるのかっ?」
「は、はい」
「水はきれいか? 飲めるか?」
「大丈夫ですよ」
「案内せぇ〜い!」
俺は高らかに叫ぶ。何様だよって感じだがこのときは必死だったから仕方がない。
小次太郎は「はい、喜んで」と、俺が女だったら惚れそうなくらい爽やかな笑顔で快く承諾してくれたので、俺は心が弾む。
小次太郎改めコジ太は俺の右手の中でぴちゃぴちゃ跳ねている虹鱒を見て仰天する。
「す、凄いです黒才さん! 僕一時間やっても四匹しか獲れなかったのに……こんな一瞬で一匹捕まえるなんて」
コジ太は目を更にまん丸にさせて言う。
「俺の爺ちゃんちの近くにもこういうところがあってさ、遊びにいく度にこうして捕まえてたんだよ」
コジ太に案内されて辿り着いたのは、気持ちのいい瀑声の木霊する滝つぼだった。俺は衣類をかなぐり捨てて、いの一番に飛び込み、水を文字通り浴びるように飲んで、その後コジ太が魚を獲ろうと躍起になっていたので手伝ってやった。俺はてっきり釣りでもやって獲っていたのだと思っていたが、よく見るとコジ太は竹籠を背負っているだけで竿も餌も持っていない。訊くとそんな小手先を利かせるよりもぱっぱと掴み取りしたほうが早いらしい。普通は。コジ太は自分は特別下手なのだと言う。
因みにコジ太という呼び名は、俺が即興で考えてやった。いくらなんでも小次太郎は呼び難い。
「ほら、二匹目だコジ太」
俺は空いた左手でもう一匹虹鱒を掴んで、岩に座って休んでいるコジ太の背中の籠に入れてやる。
「あ、ありがとうございます」
コジ太はたどたどしい謝礼の言葉とお辞儀をする。
久々にやってみたが俺の腕も鈍ってないな、とか思ったりして俺も気分が乗ってきたのでまた水に潜る。
ここの水は本当にきれいだ。俺の世界には……あの日本にはこんなきれいな自然の水がある場所はそうそうないだろうと思う。自然だって空気だってそうだ。俺の爺ちゃんの家の近くの川は、今はゴミや油のようなものが浮いている始末。だけど俺は……
「…………」
岩場に隠れている浅知恵な虹鱒を二匹掴み取って俺は浮上した。
「ほら」
コジ太の元に行き竹籠に入れてやると、またたどたどしいお辞儀を返してくる。
「いいよ、そんな肩肘張らなくても」
「あ、すみません。高瀬さんから、そちらの世界ではこうやって感謝の意を表すんだと教えていただいたので、やってみたんですけど……」
「え?」
こっちの世界ではお辞儀が無いのか?
そんなはずはない。これだけ俺の知る世界の日本と言語が一致していながら、お辞儀が存在しないなんてありえるだろうか。確かお辞儀は弥生とか飛鳥の時代の頃から日本にはあったと日本史で聞いた覚えがある。そうなると高瀬の言う世界の分岐はそれよりも前ということになる。そんなに前から違う路線を走っているこの地で、俺たちと同じような日本語が育つのか?
俺が一人思案していると、コジ太が顔を覗き込んでくる。
「どうかしましたか?」
「あ、いや……お辞儀がないってのが不思議でな」
迷った末、俺は正直に言うことにした。コジ太が特に反応を見せないので、俺は少し気詰まりを感じて再び水に潜ろうとしたら、コジ太が声で制してくる。
「もういいですよ、八匹いれば十分です」
「なんだ、売らないのか?」
「はい、身内で食すだけです。芦屋家は僕を含めて六人なので、黒才さんと高瀬さんで八人です」
そうコジ太が嬉しそうに頬を歪めて言うものだから、俺もクスリと笑ってしまう。あの犯罪者に俺が獲った虹鱒を分けてやるのは癪だが、その画は中々優位ぶれそうで悪くないなと思い至り俺はニヤニヤする。
「それじゃあ村に戻りましょうか」
コジ太が笑顔を崩さずにそう言うので、俺は地面に上がる。体を拭くものも何もないので、とりあえず四肢をぷらぷらさせて申し訳程度に水を弾いてから服を着た。
「コジ太って何歳?」
俺は髪をバッサバッサしながら訊く。
「十一です」
こりゃおでれーた。
俺は十一のときのことなんてほとんど覚えちゃいないが、少なくとも客人に対してこうもニコニコ接することのできるガキじゃなかったな、なんて思いながら俺は歩き出す。後ろから駆け足でコジ太がついてきて俺の横に並ぶ。
「高瀬さんも……気にしてらっしゃいました」
そしてそんなことを言う。
俺は何のことかと考えて、すぐにお辞儀のことだと気付く。
「向こうの世界では千年以上も前からある習慣なのにって言ってました。僕には黒才さん方の住んでいらっしゃる世界のことはよく分からないんですが、言語は通じるのにそういった日常的な動作一つを取っても全然違ったりする矛盾は、なんかすごく面白いなって思うんです」
コジ太は本当に嬉しそうに俺の顔を見て話す。
確かに面白いが、俺にとっては笑い事じゃないから困る。
「よければ、お話してくださいませんか? 黒才さんの知る世界のことを」
「俺の知る世界か……」
といっても俺の見てきた世界を理解するは難しいだろうなと思う。
そりゃあ科学や経済の発展とかは目覚しいものがあるだろうけど、そんなの単語のひとつひとつを一々説明していたら日が暮れちゃうしな。どうせならもっと笑えそうなもんがいいよなー、そうだ。
「お手玉知ってる?」
「お手玉?」
やっぱり知らないか。あれは確か奈良時代に伝来したからな。
俺は落ちている石を三つ拾って、ひょいひょいひょい。
「カスケードっていう投げ方なんだが、すげぇだろ」
「ああ、石回しのことですね」
「…………」
知ってんのかよ!
俺は石を放り投げて何事も無かったかのように再び歩き出す。
「あ、う、上手いですね石ま……お手玉!」
コジ太は俺を立てようと必死に褒めてくれる。
「いいかコジ太。これは石回しではない。お手玉、もしくはジャグリングだ」
「ジ、ジャグリンヌですか」
「ちがあう! どこのフランス人だそれは!」
「す、すみません!」
そう言ってコジ太はペコペコ頭を下げてくるので俺は気付く。
「あれ、お辞儀はこっちには無いんだよな? 謝罪のときはするけど感謝のときはしないってことなのか? それともまた俺たちの世界の慣習を真似て?」
「あ、そうです。謝るときはするんですよ。こっちでも」
ふーん。
面倒くさいなと思うが、確かに今の日本は感謝・謝罪・挨拶・敬礼とお辞儀の出番が多すぎる感がある。使い方によって腰の角度とか変わってくるみたいだけど、ビジネスマンでも何でもない俺は勿論分からないし、分かってる人間の方が少ないだろう。偏見か?
「こっちでは感謝するときどうするんだ?」
俺が興味本位で訊くとコジ太は快く実演してくれる。
「感謝します」
そう言ってコジ太は右手を広げて真ん中三本の指をこめかみにあてがった。なんか手話みたいだなーとか思う。
「割と畏まったときにしか使わないんですけどね。普段は口でありがとうといえば大丈夫です」
「そっか」
そんなことを話していると、いつの間にか俺たちは浅墓村に戻ってくる。
村の人はそれぞれがそれぞれに働いていた。薪を割ったり、赤子をあやしていたり。
「コジ太」
「はい?」
コジ太はきょとんとした顔で俺を見上げてくる。身長差が結構あるが見えないということはないだろう。
俺は三本の指をこめかみに当てる。
「案内、感謝します」
芦屋家のテントは高瀬の借家とは比べ物にならないくらいデカかかった。あっちじゃ直立すらできなかったが、ここの天井は一番高い所で三メートルくらいはある。
俺は現在その芦屋家にお邪魔になって、知ってる人二名、知らない人二名と俺の五人でちゃぶ台を囲んでいる。知ってる人というのは勿論芦屋さんとコジ太で、二人が朝ごはんに誘ってくれたので、お言葉に甘えてといった感じだ。
「旨いです」
食卓にはさっき獲った虹鱒とか山菜のようなものが並んでいる。山菜は苦いし虹鱒は味が薄いしで普段ならとても旨いとは感じなかったろうだろうが、昨日の昼からロクに何も食べていなかったので、ついがっついてしまうほど旨かった。
「どうぞ」
「あ、すみません」
知らない二人の内の一人、どうやらコジ太のお母さんらしい方が親切にお茶を出してくれる。三十路前くらいのきれいな人だった。
「高瀬さんはまだ狩りに行ってらっしゃるのかな」
もう一人の知らない人、恐らくコジ太のお父さんが言う。
おじさんの言うとおりかどうかは分からないが、高瀬は確かにまだ村に戻ってきていなかった。狩りとか危なそうだし、俺は少し心配になったりする。
「あの」
そして俺は空気を読まずに、かねてより疑問に思っていたことを訊く。
「どうして別世界人の俺にこんなによくしてくれるんですか? 高瀬がこっちで何をしたか知りませんけど、俺はそんな凄い奴でも良い奴でもないですよ?」
一同がポカーンとする。あれ?
俺なんかまずいこと言ったかなーとか思っていると芦屋のお爺さんが口を開く。
「この村の人間は客人ならば誰でも持てなしますよ。人間は助け合いの精神が一番大事ですから。それに黒才くん、あなたは十分凄い方だ。別の世界からこうして我々の村に飛んできているし、虹鱒を」
箸で持ち上げる。
「獲るのも上手だそうですし」
芦屋のお爺さんはそのまま魚を口に入れて笑う。みんなまで俺の方を見てニコニコしてくるので俺は居た堪れなくなって水粥をかき込む。
……虹鱒はともかく、俺はこっちに飛んできたことを褒められても困る。
「凄くなんかないんですよ。俺は飛んできたんじゃなくて飛ばされてきたんです」
みんなが分かりやすく驚く。
やっぱり俺も高瀬のように望んでここに来たのだと思われていたのか。
「俺はあいつとは、高瀬ひずみとは違います。好きこのんで世界移動するほど暇ではないんです」
俺には家族だって学校だって、少ないけど友人だっているんだ。暑苦しくて息苦しくて汗臭い熱気漂う世界だけど、俺の世界はあっちだ。温暖化の深刻さに覆われたむっさい世界の住人だ。帰らなくてはいけない。
「ひずみちゃんだって好きでここに来たわけではないみたいですよ?」
「え?」
「勿論来たこと事態は彼女の意志だろうけど。彼女なりに、来なくてはいけない理由があるんですよ」
あいつがここに来ないといけない理由。
……そりゃあるだろう。あいつの話を聞いてると数十回は来ているように思える。普通ただの観光や暇つぶしでそんな回数飛んできちゃったりしないし、何より今回は人から薬スってまでここに来たんだ。そりゃあ、ある。
だがそんなのは俺がここに来たこととは関係が無い。
俺が帰りたいこととは関係が無い。
「私の口から言っていいとは思えませんが、あなたには是非ひずみちゃんを支えてやって欲しいんです。だから言いますよ?」
芦屋のお爺さんが勝手なことを言い出すが、俺は止めない。
「彼女は、ひずみちゃんは妹を探しているんだそうです」
「妹?」
途端、芦屋家一同の顔が曇る。コジ太すらお通夜みたいな顔をするから、俺はまた気詰まりを感じてしまう。
「詳しいことは私も知らないんですけどね、初めてここに来たときは妹さんと一緒に来たらしいんですよ。経緯は分かりませんが。それで暫くこっちで滞在していたらしいんですが、元の世界に戻されたのは姉のひずみちゃんだけで、妹さんがこっちの世界から帰ってこないそうなんだ」
「…………」
あいつは初めて来たときは十数秒で返されたみたいなことを言っていなかったか?
俺は昨日の夜の会話を想起する。
『私が初めて……粉薬で初めてここに来たときは、たったの十数秒で元の世界に引っ張られたわ』
粉薬以外でここに来たことがあることを臭わせる表現にも取れるか。だからって粉が錠剤になったとかカプセルになったとかでもない、もっと完全に別ルートの何かから来たような臭い、ニュアンス。
もしかしたら薬じゃなくてもいいのか? 都合良く睡眠中に体中を巡ってくれるようなものだから薬だとかそんなことを言っていたが、要するにこっちの世界に存在するものに覆われたりすればいいわけだよな。
俺は必死に考えるが、服を纏うとか仕様もないことしか思い浮かばない。
「それであいつは何度もこっちに来て、妹を探しているんですか?」
「みたいですね」
俺はふーんと思う。
妹探しのために足繁く別世界に訪れて旅をするなんて中々の美談だが、それは人から物をスってまで貫いて良い信念ではないと俺は思う。夕部先輩が何故こっちの世界の風邪薬を手に入れて財布に仕舞っていたかとか、どうしてそれを高瀬が知っていたかとかは分からないが、窃盗の上に成り立っているそれを俺は美しい姉妹愛だとかは思えない。
「我々は、彼女に感謝しているんです」
芦屋のお爺さんは俺に哀願するような顔で語る。
「四年前、ひずみちゃんは突然この村に現れて『教えてください!』って言ったんですよ。何を教えて欲しいのかも分からないし、何処から来たのか聞くと、聞いたこともない地名を言うもんだから、我々は困りましてね」
四年! そんな前から妹探しをしてたのかよ。
いや、あいつが言うには最初の頃はすぐに元の世界に引っ張られていたんだ。村まで辿りつけない。となるとこの世界に来るようになったのはもっと前から…。
「見捨てるわけにもいかないので、面倒を見ながらここらの地理とか生活のことを教えてあげました。ここに来る度に。だが、暫くすると我々より詳しくなりましてね」
芦屋のお爺さんは突然立ち上がり、引き出しから何かを取り出して俺に見せる。大きな紙には細かい線が何本も描かれている。
道。森。洞窟。
恐らくはこの辺りの地図だった。
「これはひずみちゃんが描いて私にくれたものです。こんなに精巧なものはどこの露店にも売っていません」
俺は高瀬のテントに似たような紙があったのを思い出す。小さな部屋に唯一あったインテリアの上に堂々と居座っていた紙。
「それだけじゃないんですよ。ひずみちゃんは一刻も早く妹を探したいはずなのに、貴重な時間を割いて我々の仕事を手伝ったり、村の子どもたちの遊び相手をしてくれたりしました。だから我々はもう十分です」
お爺さんは突然畏まる。
「ひずみちゃんには妹探しに専念して欲しい。だが彼女は頑固だ。我々に恩を返すと言って聞かない。黒才くん、あなたからも彼女に言ってもらえませんか? そして、出来れば彼女を手伝ってやれませんか?」
「無理ですね」
俺は即答する。
やはり俺は高瀬ひずみとは根本から違うのだ。何を見ているかではなく、何処から見ているかの違い。守りたいもの、大事にしているもの、掴みたいもの、あいつにはそれら全てがここにある。果たすべき使命がここにあるんだ。
だが俺は違う。
俺が通っている学校も、俺の作る飯を食う姉さんも、図書室で小説の話をする先輩も、ここにはいない。俺の住所はここではない。しなくてはいけない全てが向こうにある。
だから俺は帰らなくてはいけない。家に。
「荘二さん」
俺は芦屋家自己紹介のときに聞かされた芦屋のお爺さんの名前を呼ぶ。荘二さんは俺の即答に落胆していたが、きちんとこちらに向き直ってくれる。
「この地図の真ん中にある洞窟は――」
「はいそうですよ。神刈の洞と呼ばれていて、ひずみちゃんはいつもそこからこっちの世界に来るそうです」
ならば――
「ありがとうございます。それと、ごちそうさまでした」
俺は立って皆に感謝のお辞儀をする。コジ太でなくてもその別世界の風習は知っているらしくて、誰も不思議そうな顔はしない。
俺は「おじゃましました」と言って外に出る。
日差しがさっきより強くなっていて少し暑いが、俺の知る日本ほどではない。地面がアスファルトでない分、下からの熱がないような感じだ。舗装の仕方が違うだけで体感温度が随分違うなと俺は感心する。
村の中を歩いているとやけに俺にフランクに話しかけてくる人が多い。どうもこの村は高瀬ひずみの影響で異世界民に対する偏見とか余計なイメージが強いらしい。
俺は村人のコミュニケーションを愛想笑いで適当に流してテント群を抜ける。森への入り口の近くで畑仕事をしている五十過ぎくらいのおじさんにそれを借りて、俺は再び森へと入った。
ざっくざっくざっく。
日差しの照りつけが無視できないレベルになってきていることを俺は察する。じっとしていればそれほどでもないが、こうしていると登校時の安曇坂急勾配の登攀時に匹敵するほど蒸し暑い。
「ぐぉっ」
汗が目に入って俺は悶絶する。せめてタオルでもあれば良かったが、俺の学校指定ズボンにはポケットティッシュしか入っていないので、仕方なく俺はそれで顔を拭いて作業を再開する。
ざっくざっくざっく。
全く進まない。進捗度が低い作業ほど嫌いなものは無いが、俺は柄にもなく頑張る。いい加減手が痛くなってきて、見るとマメとかできちゃってたりするが、俺は気にせず作業をする。
こんな風に肉体に無理をさせて何かをするというのは久しぶりだと気付くと、もう俺は自嘲を止められなくなる。ぽたぽた垂れてくる濁った汗も、そのせいで濡れていき半透明になっていくカッターシャツも全く似合わない。
ざっくざっくざっく。
「ツルハシなんか持って何やってんのよ」
突然後ろから、犯罪でも起こしそうな刺々しい女の声がかかる。
足音すらしなかったのは職業病か何かだろうか。流石天下のスリ師さまだ。
「見りゃ分かんだろ。掘ってんだよ」
俺は振り返らずに答える。
「それはこの洞窟がこっちの世界に移動したときの初期座標になっていて、その入り口が昨日の崩落によって塞がれていたとすると、私が次にこっちの世界に来たときに閉じ込められて困ることになると分かっていての行為?」
後ろの女は語気を強くしてまくし立てる。
物音一つしなかったが、その声は明らかにさっきより俺に近づいている。
「昨日は結構危なかったからな。土塊当たって俺ちょっと血ぃ出たし。もしかしてと思ってきてみたらご覧の通り見事に崩れてるわ。入り口だけだといいんだけどなぁ。流石に中まで掘っていくのは疲れる」
「……どうして?」
ざく。
高瀬ひずみは俺の横の土にシャベルを突き刺した。
「どう考えてもこっちの方が効率いいでしょ」
「うっ……」
確かにそうかもしれない。
俺のツルハシが小さく見える。俺のじゃないけど。
高瀬がシャッカシャッカと掘り始めるので俺も負けじとツルハシを振り下ろす。
ざっくざっくざっくシャッカシャッカシャッカ。
ざっくざっくざっくシャッカシャッカシャッカ。
……面倒くさい沈黙。さっさと質問に答えなさいというオーラを感じてしまう。
「どうして?」
重ねてきたか。
「……聞いちゃったからな。妹探してるって話」
「…………」
高瀬は一瞬だけチラリとこちらを見るだけで、すぐに作業に戻る。
また面倒くさい沈黙。折角答えてやったのにコメント無しかよ。
ざっくシャッカざっくシャッカ。
「あんたには、関係ないでしょ」
高瀬は掬った土を放り投げながら言う。
「そうだな。けど一方的にそっちの事情を知って逃げるのはなんかイヤだ」
「わがままね。あ。ちょっとこっちに土飛ばさないでよ」
「うるせー。じゃあもっと離れろよ。近ぇよ」
「こっち岩があって邪魔なのよ。あんたが動きなさいよツルハシ」
「俺の名前は黒才だ! 道具と一緒くたにすんじゃねぇ」
「学生証で知ってるわよそんなこと。彼女募集中なんでしょ」
「だからそれは書いてねーよ!」
「いいから早くどきなさい」
「うるせー。後から来といて命令すんな」
「私は掘る必要があるから来たのよ。あんたは違うでしょ」
「だが先に来たのは俺だ!」
「先にこっちの世界に来たのは私よ」
「そうだけど! つうか俺は好きで来たわけじゃないんだけど!」
「…………」
あ。
しまったそうかと俺のクソ海馬は遅まきながら思い出す。
高瀬ひずみだって好きでこっちに来ているわけではない。
「悪かったな」
俺は少し右に寄る。
「わかればいいのよ」
ざっくシャッカざっくシャッカ。
暫くの間、俺たちはひたすら土を掘り続けた。この崖の上の周りには木々が茂っていなくて鳥とか虫の鳴き声があまり届かないせいか、やけに息遣いがよく聞こえてくる。
ぜーはーぜーはー言いながら二時間くらい掘り進んでいくと、小さな空洞が見えた。
「っしゃああああ!」
俺はツルハシを投げ捨てて手でそこを掻いていく。
「上から土砂が雪崩れてこなきゃいいけど……」
服で汗を拭いながら高瀬はそう言って、シャベルで空洞を広げていく。
最初のうちはだらだらやっていたが、掘っても掘っても上から降ってくる土に段々と俺も高瀬も苛々してくる。
「ぐおおおおおおらあああああああああああぁぁぁぁぁぁ!」
「うおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
夕方。
精も根も尽き果てた俺たちだったが、何とか人が通れるくらいの穴を開けた。崩れてこないように手とシャベルで淵を固めたりしてそれっぽく仕上げたが、効果があるのかは定かではない。というか見栄えから判断するに多分ない。
「様式美よ」
ちょっと違う気がする。
高瀬はシャベルをぽーいして、何もない土の上に寝っ転がって「あぁー」とか唸る。まぁ汚れとか気にするタイプには見えないが、どうなんだろうと俺は思う。
「そっれにしてもあんたまだ消えないのねー。私みたいに何度も来てれば、存在感がこっちの世界に馴染んでなかなか引っ張り戻されたりしないんだけど。あんたもしかしてこっちの常連?」
「なわけねーだろ。俺だって早く帰りたいよ。やることいっぱいあるしな」
今日学校休んじゃったなーとか思いながら、俺は高瀬の横に座って足をだらーっとさせる。学校行く理由なんて八割方放課後のためだし、別にいいんだけど。
「てゆうかお前はいつ消えるんだよ」
俺は百パーセント興味だけで訊いた。だからチラリと見た高瀬がしっぶい顔をしているのに驚き、また俺は余計なことを言ってしまったのかと焦る。
「約三十七日と二時間四十二分、私はここにいられるわ。昨日の夜から現在までの時間を引いて残り三十六日と九時間ってところかしらね」
「やけに正確に分かるんだな」
「そりゃあね、十九回も来てれば分かってくるわよ」
きっと頭の良いこいつのことだから、来た回数を引数とした滞在時間の算出関数でも導出してるんだろう。それを言わないのはなんか馬鹿にされている気がして癪だが、確かに数式なんか出されてもきっと俺には理解できない。
「十九回も薬スったのか?」
「あんた真性のバカみたいね。そんなわけないでしょ」
そりゃそうか。
「昔ね、一家全員であの街の海でやる花火大会に行ったのよ。ほら、あんたの通う安曇坂高校から結構近いとこでやる奴」
高瀬は脈絡もなくそんなことを言い出した。何急に、と思うが、どこか哀愁のある高瀬の横顔を見ているとそんな無粋なこと言う気も失せる。
「ああ、あるな」
あの街で花火と言ったらあれ以外には思い浮かばない。正式名称は安曇坂向島間大橋花火大会だが、学校じゃ花火大会が代名詞になっている。
結構全国的にも有名な花火大会で、毎年えらく賑わう。当日は交通規制が半端じゃなかったり、街を歩く人間がガヤガヤとうるさかったりして、地元民で祭りが好かない俺みたいな人間はあまり楽しい一日では無かったりもする。
「私はあの街の人間じゃないから初めて行ったのよ、アレ。そんでまぁ楽しかったんだけどさ、帰りに妹と二人で迷子になっちゃったのよ。仕方ないから泣きじゃくってる妹あやしながら街中ふらふらしてたら、なんか真っ白な袴着てサングラスかけた男が突然現れてさ、きれいな光る石のアクセサリをくれたのよ。お嬢ちゃんこれあげるーとか言って」
「バリバリ怪しいじゃねえか」
「まぁ食べ物くれたわけじゃないし私も妹も幼かったからね、喜んで首にかけたのよ。んで気付いたらこっちの世界に飛んでたの」
「…………」
昨晩、高瀬がさりげなく会話に混ぜた『あの機関』というセリフが、俺の記憶の中から抽出されてくる。
作為的に高瀬姉妹をこっちに送り込んだ人間が居る。
勝手な憶測だが、それは高瀬が俺をこっちの世界に送ったときのようなひょんな理由ではない気がする。そういう直感が俺に奔る。
「その白袴の男ってのは――」
「実務院空助、やつはそう名乗っていた」
そのふざけた苗字に俺は言い知れない憤りを感じる。
「石でこっちに飛んできたときには十日間くらいこっちに居れたんだけどね、ちょっと色々あって妹とはぐれちゃって、こっちの世界に引っ張られて来たときには、アクセサリを首にかけたときにいた場所、つまり街のど真ん中で一人ぼっちだった」
高瀬は淡々と滔々と話す。そんな過去、平気の平左で話せるはずもないだろうのに。
「いつまで経っても妹は帰ってこないし、警察に行ったら両親が行方不明なったとか聞かされるしで、私はそれから暫く地元の施設で過ごしたんだけど、色々耐え切れずに抜け出してこの街に戻ってきた。絶対にあの白袴を見つけてやるって思って必死に探したら、案外あっさり目撃情報が取れてさ、恐喝でも奇襲でも何でもして情報を手に入れたわ。一つの機関の」
俺は無意識的にゴクリと唾を飲む。
「月蝕会社って呼ばれてる機関。夕部佳織もその一員よ」
「そうか」
予測していた言葉のはずなのに、俺はその現実が胸にくる。
夕部先輩がそんな組織にいたとはついぞ知らなかった。俺には悪い組織なのかもイマイチよく分からないが、少なくとも高瀬はその組織を敵対視している。この女がそういうことで嘘を吐くとは思えないし、何より夕部先輩は一年以上俺と図書室で本を読んでいたというのに、そんなことは一言も言ってくれなかった。
信じるしか、ないのか。
「随分と夕部佳織にご執心なようね」
いつの間にか俺の顔を覗き込むようにしていた高瀬が茶化す。
俺は否定しない。
「まぁそんなこんなで組織の奴から薬ふんだくってこの世界に来て、あっという間に引き戻されてまたパクってまた飛んでってやってる内にスリが巧くなって、六回目のときに浅墓村の存在に気付いて風邪薬分けてもらって、それからは引き戻される前にポケットに薬入れて、月蝕会社の奴らから奪わなくてもいいようにしたってわけ」
うっし――と言って高瀬は勢いよく起き上がる。俺はまだまだ座って休んでいたい気分だったが、空気を読んで立ち上がり尻についた土を払い落とす。
「さーて町に行くわよ」
「は? 村に帰るんじゃねーのか?」
てゆうか町なんてあるのか? いやまぁあるんだろうけど。
「帰ってどうすんのよ。また芦屋さんとこにご馳走にでもなるつもり? 私が奢ってやるから来なさい。泥臭いのも落とさなくちゃいけないし」
「え、あ、ああ」
高瀬はとっとと歩き出す。
芦屋家にあった高瀬の描いたっていう地図が正しいなら、村は東の方にあるみたいだが、高瀬は北へ進んでいく。どうやら本当に村へ帰らないらしい。あのときの地図もっとよく見てれば良かったなーなんて思いながら俺は高瀬に小走りで追いつく。
「あ、サンキューな」
ありがとうというのは、少し照れくさい。
「私の軽率な行動でこうなったんだから、ここにいる間くらい面倒見るわよ」
高瀬はこっちを見ずに言う。
陽が沈んできてさっきまでの蒸し暑さが嘘のように吹っ飛ぶ。何処から吹いているのかよく分からない涼風が体を潤して気持ちがいい。
俺と高瀬はオレンジ色の森の道を歩く。
村に行く道ほど獣道ではなかったのが幸いだった。俺にはもうあまり動き回るような体力がほとんど無い。
「あんたって粘土みたいね」
と唐突に高瀬。何のことかと訊く暇も与えずに喋りだす。
「突然こんな世界に飛ばされてきたっていうのに、なんか全然焦ったり狂ったりしてないし」
「んなことないよ」
狂ってはないと思うけどな。でもそれが何で粘土だよ。
「いーや嘘。普通急にこんな非日常が襲ってきたら、ただひたすら困ってるわよ。そうでなくちゃあ、飛ばされて次の日ってときに村の少年と仲良くなって変なあだ名つけたりする余裕があるわけないし。どんな適応力してんのよ」
コジ太のことか。
あいつ嫌がってた癖にもう吹聴してやがる。
「だから粘土。外から力が加えられると変形して、その力を取り去っても形はそのままに存在し続ける。新たに力が加えられるまで」
「なるほど」
でも粘土ってのは外気に触れ続けるとある程度は硬化していくもんだよなと俺は思う。俺は俺自身の可塑性については今まで考えたことなんてなかったが、相対する人物によって二十面相の如く顔を変える姉さんを見て、粘土みたいな顔だなーとか幼心に思ったことはある。やはり血の繋がりってのは驚異的なものがあるのか。
まぁ俺が紙粘土でないことを願うしかない。
「さっきの話で気になったことあるんだけど、訊いていいか?」
「手短にね」
「さっき言ってた光る石のペンダントってもう無いの?」
そいつがあれば時間を気にすることなくこっちにいられるのだから、風邪薬なんか調達してないでそれを使えばいいんじゃないかと思う。
「ああ。あれはこっちにいる間に少しずつ小さくなっていって、最終的に消えてなくなったときに元の世界に戻ったわ。調べてみたら別に特殊な石ってわけじゃなくて、光輪石っていうこっちの世界にしかないただの石だった」
こっちの世界にしかない時点で俺にとっては十分特殊なんだけど。
「あの洞窟、何故か明るかったでしょ? あそこは小さい光輪石が散乱してるから薄ぼんやりと明るいのよ。もっともあの程度の光輪石を首にかけたところで、世界を移動できるほどのエネルギーはないと思うけど」
「へー」
そういえば俺は火も懐中電灯もなしでまっすぐ歩いてたな。あのときは夢のご都合主義のせいにでもして意に介さなかったけど。
「じゃあもう一つ」
「まだあるの?」
うんざりしたような声を俺に返すが、しかし高瀬の横顔はそれほど嫌そうには見えないので俺は続ける。
「浅墓村の存在を知ってからは、貰った薬をポケットに入れておいて、あっちの世界に戻ったときに一緒に連れて帰ったその薬を飲んで、次の移動をしてたんだよな?」
「そうよ」
高瀬は淡白に答える。
「じゃあ何で昨日、夕部先輩の財布から薬を盗んだんだ?」
「…………」ギロリ。
出ましたギロリ。しかしもう俺にはそのお睨みは通じませんぜ?
「捕まったのよ」
「は?」
高瀬は自責するように、忸怩をその顔に滲ませて言う。
「狩りに失敗したわ。絶対にうまくいくと思ってたのに!」
俺の頭が混乱する。
狩りに失敗で捕まる? 捕まるってのは警察にってことだよな。いやこっちの世界に警察があるとは思えない。こっちでは何だ? 町奉行? おかっぴき?
クエスチョンマークのオンパレードに苛まれる俺にしかし高瀬は気付かない。
「そのときに所持してるもの全部取られたわ! 牢屋に放り込まれてくっさいご飯食べて五日間無駄にした。流石にある日ふと牢屋を見ると人間が消えていたんだから、さぞあの見張りは驚いたでしょうね」
丁度牢屋にいるときにあっちの世界に引き戻されたのか。
「んで、狩りの失敗で何で捕まるんだ? 禁猟区域で狩ったとか?」
「はあ? 何言ってんのあんた」
高瀬は思い出したくないことを思い出してしまったせいか苛々している。そんな八つ当たりをされても俺は困るんだけど。
陽が完全に沈むと同時に俺たちは森を抜けた。ここは崖の上になっていた。
そして俺はそこを見下げて愕然とする。
「嘘……だろ?」
目の前には巨大で深潭な窪地。その中を惜し気もなく広がっている町。
俺が想像した江戸時代のような風景とは掛け離れた町。
「私が狩りって言ったらコレ≠オかないでしょーが」
高瀬は顔を邪悪に歪ませて指をぽきぽきと鳴らす。
そりゃそうだ。
ここは分岐した世界だがしっかりとした日本。
進む道は違えど言語はほとんど変わらない進化を辿っていた。
ならばそれは言語だけに拘わらない。
それが自然。それが通常。
何故気付かなかったのだろう。
そこはビル街――
俺の住む街よりも雑然とした――ビル街
第三章 夜の街
入場料一万円。
入浴料は別料金で更に三千円。
バスタオル六千円。ミニタオル三千円。サウナ使用量二千五百円。
計二万四千五百円というお年玉が一気に吹っ飛ぶような値段を二人分ぽんと出して、高瀬は女湯に直行した。あまりにも当然のように俺の分まで出してくれるので、礼を言うのも忘れてしまった。
というか高すぎではないだろうか、と俺は『和みの湯』に浸かってまったりしながら思う。でもよくよく考えるとこっちの世界の相場を知らないから何とも言えない。あっちの日本じゃ銭湯なんて数百円で入れるものだけどなーとか思うが、俺はこんな感じのきちんとした温泉施設のようなところには来たことが無いから参考にはならないか。いやいやいや。それでもやっぱり二人で七万五千はないだろ。
俺は『和みの湯』を出て二周りくらい小さい隣の浴槽を見る。『驚きの湯』と描かれた木造看板が立ててあり、濁った白色のお湯がたたえられていた。浸かっている人が誰もいなかったのがちょっと怖かったが気になったので足を入れてみる。
ちゃぽん。
「…………」
大体くるぶし辺りまで浸かったところで足が止まる。深さ十センチ。
そりゃ驚くわ。
俺は足を出して他の浴槽へ行く。一部始終を見ていたらしい中年のおっさんがぎゃははははとか言って指差して笑い飛ばしてくるのがむかつくが、これ以上の醜態も晒したくもないので俺はスライド式のガラス戸をガラガラーっとして野外に出る。すぐ近くに山があって猿でも降りてきそうな雰囲気。
滝みたいな奴が六つ並んでて丁度一つ空いていたので俺はお邪魔する。
思ったより痛いのですぐに止める。
滝の横に『超和みの湯』と書かれた看板と石造りの浴槽があるので、俺はそこで露天風呂デビューを果たすことにした。湯には二人ほど先客がいたので、俺は深さを疑うことなく安心して足を浸けられる。
黄色みを帯びた熱過ぎずぬる過ぎないお湯から花のような香りがする。
「うわー。超和む」
顔を半分うずもらせて年甲斐もなくぶくぶくーとかやりながら俺は思い出す。
森を抜けた後、俺と高瀬は崖に沿って設置されてある階段を下って窪地の中に入り、街に訪れた。上方から見た通りの場所で、この街はあっちの日本のそれと変わらない形態をしていた。
コンビニがあって喫茶店があってビルがあって、そして俺と高瀬が今いるような温泉施設まで。違うところといえばコンビニが見たこともない看板だったところぐらい。当然なんだけど。
ただ明らかにおかしなこととして、通行人。
俺と高瀬以外の全ての人間は浅墓村の人たちと同じような格好をしていた。厳密には村の人たちよりも少しだけちゃんとした布の服を着ている人が多かったが、どちらにしてもこの街に似合う格好ではなかった。
それ故に俺と高瀬は道行く人々から稀有な目で見られた。俺は少し落ち着かなかったが、高瀬は堂々としたもので、視線なんて全く気にも留めない様子だったので、あのときは俺も黙って歩いたが、どうも引っかかる。
コンビニとか喫茶店とかビルとかあるってことは、経営者がいて店員がいて会社員がいて、その建造物を建てた建築士と大工さんが少なくともいるはずだ。いや、俺が知らないだけで、もっと色んな職業の人が絡まりあって成り立っているはずだ。
なのに服飾だけこうも発達しないのか?
絶対におかしい。
「兄ちゃん良い目の色しとうのぉ」
意識的にあの服装にしているのかな。何かここ一体の人が共通して持っている愛着みたいなのが、あの服を着させているのかもしれない。
「おい兄ちゃんってば」
あー、こんな気にするくらいだったら高瀬に聞いとけばよかったな。あいつ街に入るなり俺に何の説明もなしにここまで一直線だもんな。ほんと融通利かないよなぁ。
「おい! 聞こえてんだろ!」
「……え?」
なんか突然、目の前の爺さんが俺に怒鳴る。
「そうゆう三段落ちみてぇなのはいらねぇから!」
爺さんがすげぇノリノリでつっこむ。
丸顔だが目つきはやけに尖った感じのする結構な爺さんだった。ミニタオルを頭に乗っけているが、取ったところで荒野だろうことがなんとなく分かる。
「えーと、何の話でしたっけ」
「目の色が良いって言っとうだろうが!」
お湯をバシャバシャしながら怒号を張り上げる。
年くってる割にガキくさいことするなぁとか思っていると眉間に人差し指を突きつけられた。
爺さんの眼光が俺の目を突き刺す。その鳶色の瞳には、目を逸らしたくても逸らせない眼力があった。どう考えても良い色してるのは爺さんの方だ。
「フ……見掛け倒しというわけでもなさそうだな」
爺さんは一人で勝手に納得して、俺の眉間から人差し指を離す。
「一体なんなんすか?」
俺は眉間をさすりながら訊く。元気が出るパワーでも注入してくれたのだろうか。
「ただの老いぼれの暇つぶしだよ。さて、兄ちゃんに一つ質問だ。己の持っている善意と悪意のどちらが大切だ?」
俺の疑問には適当に答えといて、自分からは質問してくるのか。
「善意ですね」
俺の答えを待っていたかのように爺さんはニヤリとする。
「ほう。ならば善行と善意のどちらが大切だ?」
一つと言っておいて平気で二つ目の質問をするのはどうなんだろう。
「善行です」
俺は即答する。
善い行為と善い思想なら、行為で示した方が善いに決まってる。頭の中で考えてるだけなら善意と悪意にさほど差はないだろう。
「ならば善行が生んでしまった不幸と悪意、どちらが大切だ?」
風呂から上がって六千円のバスタオルで体を拭く。
少しのぼせてしまったせいか、若干ぼーっとする。一度、水風呂にでも入っておけばよかっただろうか。
俺はロッカーから着替えを取り出す。それにしてもお札が入るロッカーてのもなんか新鮮すぎだよなぁ。
ロッカー用にと高瀬から頂戴した千円札はもちろん俺の知るそれではなく、夏目さんも野口さんも印刷されていなかった。代わりに誰かよく分からないおばさんの顔がでんと描かれていて、裏には鶴でも富士でも桜でもない黒い丸が一つあるのみだった。透かしも付けられていない。
カッターシャツと学校ズボンに着替えてぶぃーんと髪を乾かし始めると、隣の洗面台で同じことをしていた男が血相を変えて驚き、ドライヤーを取り落とす。
「す、すみませんでしたー!」
男は俺に土下座して額を地面にこすり付ける。
「え?」
暫くして漸く顔を上げた男の顔をよく見てみると、さっき俺が『驚きの湯』で晒した醜態を、指差して爆笑していたおじさんだった。
おじさんは額を地面に打ち付けてはすみませんすみませんと連呼し、一回一回顔を上げては俺の目を見据えて赦しを請う。
「もういいですって」
「いえ、悪いのは全てこの私。いくら裸の格好だったとはいえ、あんな無礼を……」
おじさんはとうとう泣き出しそうな顔をする。
意味が分からない。
服を着た途端こうなるってことは、恐らくこの学校スタイルの服装が原因だってことは何となく分かる。だけどこの服はこっちの人は知らないはず……。
「あー」
俺は閃く。
実際にはこの世界にもちゃんとこういう服があって、でもびっくりするくらい高価だから富豪層にしか着れない……とかそういうことか?
なんかちょっと違う気がするが、別に怒ってもいないのにペコペコ謝られるのは少し居た堪れないので、俺は適当におじさんに優しい言葉をかけて去ることにする。
まだ髪乾いてないんだけど。まぁいいか。
ホールに行くと既に高瀬がいた。
「うぉっそい!」
女だからどうせ長いこと浸かってるんだろうなーとか思って、時間調節して無理にサウナ入ったりして頑張ったのだが、逆効果だったようだ。
「すまん。で、次どこいくの?」
「決まってるでしょ。ご飯よご飯」
高瀬はちゃっちゃと受付に向かってちゃっちゃと手続きを済ませる。
「ほら行くわよ」
建物を出たらもう完全に夜だった。
空を見上げると昨晩のような厚い雲は無く、満天の星空が遠くまで続いていた。その蒼い闇もやっぱり俺の知る日本より綺麗に広がっていた。
俺と高瀬は夜の街を堂々と、通行人の視線を無視して歩く。
車道はあるが自動車は一台も無い。これは通行人の格好以上に不可思議なことだったが、それほど広い街でもないし何よりここは窪地の中だ。崖の上から見たとき、階段以外に上に上がれそうなものはなかった。
「訊かないの?」
「は?」
高瀬が訝しげな表情をして俺に言う。
「この衆目。粘土は気にならないの?」
「気になるよ」
その変な呼び名が。
そういえば高瀬は一度も俺の名を呼ばないな。
「でも服が珍しいからじゃないのか? みんな古臭い服着てるし」
「ああ! シナチク堂まだやってる!」
「おい」
高瀬は俺を無視してシナチク堂と書かれた看板がある雑居ビルに走り出す。
仕方ないので俺もついていき、ビルに入る。階段を上って二階に辿りつくとまたでーんと店名を主張する看板があって、俺は高瀬を追ってシナチク堂に入店する。案の定ラーメン屋だった。
店には数名の先客と店員二人だけであまり繁盛しているようには見えない。
「いるあっすあいますぇー!」
滑舌悪!
いやこれは滑らかさの問題とかじゃないな。
「葱ラー二つね店長!」
高瀬は勝手に俺の分まで注文してちゃっちゃとカウンター席につく。俺も後を追って席につく。椅子と椅子の距離が近くて隣に座ってもいいのか少し逡巡したが、一つ空けて座るのもなんか返って意識しすぎみたいでかっこ悪いから隣に座ったら、高瀬がふ〜んみたいな感じのジトっとした目で見てくる。
「な、なんだよ……」
「あ! 店長葱多めね!」
「…………」
スルー率高すぎやしないだろうか。
俺は店内を見渡す。
床もテーブルもきれいに掃除してあって、壁にシミのようなものもほとんどない。厨房もやけにピカピカでラーメン屋特有の脂っぽさを感じさせない完璧な店内だった。まだ建てたばかりなのかと思うが、見るに高瀬は恐らく常連なのでそれはなさそうだ。とするとこの客の少なさは……。
「へい。葱ラーメン二つね」
早くもカウンターに二つの器が並ぶ。葱で麺が見えない。
俺が唖然としていると高瀬は早くもズルズルいっているので、箸を割って葱の山から麺を掬う。こういう見かけのラーメンほど味は旨かったりするんだよなー。
ズルズル。
「…………」
うん……。
「わあしたひほえっしょくかいさのひんへんだとあんひはいしてひるあらよ」
高瀬は口にものを含んだまま言う。
私たちを月蝕会社の人間だと勘違いしているからよ、と言ってるのだと思う。
「あの視線のことか?」
「ほおよ」
月蝕会社――
昔、高瀬と高瀬の妹をこっちの世界に意図的に飛ばした組織。夕部先輩が所属しているという組織。
高瀬はとりあえず口にあるものを飲み込んで水を飲んだ。
「この街にある全ての建物は月蝕会社が建てたものなの。あいつらは向こうの世界の人間だから、もちろん服装もあっち仕様なわけ」
高瀬はブスっとした顔で言う。
「ふーん」
てことは、この世界の科学の発展というわけではないのか。言語は俺たちと同じように発達しているのに、科学の発展はしていない……。
とってもおいしい葱ラーメンをちまちま食べながら、俺は考える。
月蝕会社の目的とは何だろう。
どうやってこっちとあっちの世界の行き来というのを発見したのかは分からないが、こっちに来て街つくっちゃってそれが目的ってのはおかしな話だ。貨幣が違うから、ここで利益を出しても向こうじゃ使えない。こっちで幸せになろうってんなら、それはいい暮らしができるかもしれないが、街まで作る必要は無い。あっちで売ってる商品をこっちで転売でもすればいい。んー。
「あんまり悩んでもキリがないわよ。月蝕会社のやつらなんかに、ロクなやつはいない。その事実だけ頭に入れときなさい」
高瀬は横目でギリッと、俺の思考を停止させるように睨む。
「あ、店長さんは別だからね! 私が言ってるのは幹部の奴らのことだから」
――え?
俺は店長さんに目を向ける。この人が月蝕会社の人間なのか?
店長さんは「どうもです」とか言って厨房で器を洗っている。否定する様子など微塵も無い。こっちとあっちの世界を行き来している月蝕会社の人間。それが目の前に――
「あ、あの!」
反射的に立ち上がる。
「向こうの、ここじゃないあっちの日本の方なんですか?」
「食事中に行儀悪いわよ。座りなさい」
食いながら喋る奴に言われたくない。
店長は器を洗う手を休めずに「そうですよ」と言った。
「私は月蝕会社に入社させられました。店を持たせてあげる代わりに、ここで五年働けと言われて、半ば強制的に……」
「向こうの世界に引き戻されないんですか?」
「背中に、こっちの世界の墨が刺してあるんですよ」
バキッ。
割り箸の折れる音。高瀬だった。
「絶対に許さない。何百人もの人間に誘拐みたいなことして……乱暴して……」
一方の店長さんは落ち着いたもので、少し苦笑いをしながら器を拭いている。
「高瀬……」
「推測だけど、墨に使われているニカワは、動物の骨とか皮っていうこっちの世界が染み込んだものを使ってるから、刺青っていうのは存在をこの世界にとどめておくにはもってこいの方法なんだと思う」
高瀬は血が滲んでいるんじゃないかと思うくらいに下唇を噛んでいる。
「でも、なんで……」
「月蝕会社は街をつくるために、あっちの日本から何人もこっちに人を送ってるの。昔は建築の作業員とか設計に携わる人たちばかりだったらしいけど、最近ではこうやって料理のできる人だったり、店の経営ができる人が駆り集められてる」
「……何のために?」
「知らないわよ」
知りたくもない――そう言って高瀬は割り箸を取り替えて、またズルズルし始めた。
俺は知りたい。
葱ラーメンは一人前三千円だった。葱多めが果たして有料オプションなのかは分からないが、仮にそうだとしてもやっぱり高い。俺の問題ではないが、どうも気になるから高瀬に聞いてみたら「あっちの約十倍の相場と考えなさい」と言われた。そうなるとシナチク堂の葱ラーメンは、なんと三百円だ。良心的かどうかは食った奴にしか分からないだろうけど。
俺たちはシナチク堂出た後、あてもなく夜の街を徘徊していた。いや、あてはあるのだろうけどそれは高瀬しか知らない。俺は何も聞かされていないままついてきていた。
「さあ、狩りを始めるわよ」
高瀬はニヤリと笑む。
肩をぐるぐる回したりしてやる気まんまんに見える。
「おい……本当にやるのか?」
「当たり前でしょ。何? 気がひけた?」
そりゃひける。俺は今まで真っ直ぐ、善良に生きてきたんだから。
「言っとくけどあんたも手伝うのよ粘土。私の財布から何万円もむしりとっておいて、ぼけっと見てるだけなんてのは認められないわよ」
「は? 奢りじゃないのかよ!」
「私は奢りなんて一言も言ってないわよ」
「言ったよ!」
「記憶にございませーん」
ひょっとこみたいな顔をして白を切る高瀬。
だが、俺は……。
「すまん。俺にはスリなんてできない」
善良な市民の財布から金を盗むなんてことは、いや善良でなくっても、例えそれが憎悪の対象になっているような奴でも、俺には出来ない……。
「……………………は?」
何ゆってんの君?――といった顔をして高瀬が俺のテンプルを殴る。
「私が月蝕会社の人間以外にそんなことするわけないでしょーが!」
「じ、じゃあ狩りって何?」
立ち止まる。高瀬が急停止したから。
「これよ」
見るとそこはラスベガス。
誇張が過ぎたかもしれないが、一目で賭場だと分かるくらいにはベガスチックな造りをしていた。看板、入り口、窓の淵、全てにきらびやかな照明が取りつけてあって、思わず目を細めてしまうような眩しさがあった。
俺の知る日本では賭博禁止法があるから、渡米経験の無い俺にはこういった堂々とした賭場を見るのは始めてだ。漫画とかドラマで見るような違法な賭博は、ビルの上の方でこっそりと催していたりするし。
「なるほど。合法的にむしろうって魂胆か」
頭の良いこいつのことだから、きっとこういうところでも勝ち組なんだろう。
「けど未成年は入れないんじゃ」
「入れるわよ。この街は……っていうか月蝕の奴らは、結構そういうとこにルーズだったりするから。てゆうか何であんた私が未成年だって知ってんのよ」
「そりゃあ……」
なんでだろう。ファーストインプレッションでは二十歳くらいかなぁと思っていたはずだが、何故か今は同級生くらいの気がしている。
「十七よ。あんたとタメ」
そう言って高瀬はさっさと一人で店に入っていくのかと思いきや、「ちょっといい?」と言って俺にこしょこしょ話をし始める。
こしょこしょ。
ザーーー。
ピッピッピッ。
パラピロパラピロパラピロパラピロ。
ザーーー。
隣席で鬼の形相を浮かべてスロってる高瀬のケースには、既に溢れんばかりのメダルがジャラジャラいっていた。後ろにはいつの間にか人が集まってきていて「おいまたビッグだよ」「なんだよこの確率」「俺さっきあの台でやったけど全然だったぜ?」「うお、連荘だ」とかなんとか言ってる。スロット初体験の俺には分からない単語もびゅんびゅん飛び交っている。
ここにいる俺たち以外の客のほとんどは村人と同じような服装だったが、数人だけ俺の知る世界の格好をしている人が居た。高瀬によると、それぞれの事情で月蝕会社に連れてこられた人たちらしい。つまりシナチク堂の店長と同じ立場の人たちだ。
一人でぶらぶらするのもなんだから、俺もメダルを入れてポチポチとボタンを押して魚やらタコやらサメやらを停止させる。収穫は言うまでも無い。せっかく高瀬から恵んでもらったメダルも底を尽きてゆく。
「高瀬ー。十時だぞー」
店内が機械や人の声でガヤガヤうるさいからか、高瀬がスロットに集中しすぎているからか分からないが、俺の声はどうやら高瀬の耳にまで届いていない。もしくは届いているが無視されている。
「高瀬ぇー!」
「うるせぇんだよ」
この世のものとは思えない顔つきを持ち合わせた刺すような両眼で、俺を睥睨する。もうそれは豹変といっていいほどのものだった。
俺は勝手にクレジットオフのボタンを押してメダルを払い戻す。
「あ、何すん…」パチン。
デコピン。
「目ぇ覚ませ。十時に醒まさせろっていったのは高瀬だろ」
「あ、ああ。そうだったわね……」
高瀬ひずみは筐体の前に座ると人格が変わるらしい。そんなばかなと思って、半ば聞き流していたが、どうやら本当みたいだった。反抗期の不良男子みたいな感じだったと伝えてやると、高瀬はひどく落ち込んだ。
「じゃあアレ、行くわよ」
高瀬はメダルケースをガシャガシャと響かせて歩き出す。
ついていくとそこはトランプやルーレットといったディーラーさんがいるゲームが並ぶコーナーだった。パチスロコーナーに比べるとはるかに静かな雰囲気だったが、遊んでいる人数は同じくらいだった。あちこちに場違いな格好をした人たちがいる。
「ギャンブルする金があったら、服ぐらい買えばいいのにな」
「服屋どころかファッションに関する店は一つも無いわよ。あっちの人間かこっちの人間か判別できるようにって月蝕会社が決めたシステム」
俺のぼやきに高瀬が淡白に答える。
向こうの世界から来た人から金で買えばいいのにと思うが、禁止されてるんだろうなと自己完結。
「さーて、もう前のようにはいかないわよ」
高瀬はメダルをチップに変えに行くと言って受付に向かうので、俺もついていく。
「そういや前は何で捕まったんだ?」
「やりすぎたのよ」
ガシャンとメダルケースを置くと、受付の外人がうわーおって顔をする。この人も月蝕会社の奴らに無理やり連れてこられたのだろうかと思うと、何故か虚しくなる。
「こういう賭場っていうのは、具体的な勝算があって勝ちまくってる人とかがいると、店の人間に経営者権限で永久退場を命じられたりするのよ。それが嫌だから見切りをつけて一対一のポーカーで全部賭けたら、せっかく勝ったのにイカサマ呼ばわりされてさ……って聞いてるの粘土」
「聞いてるよ」
要するに冤罪か。何はともあれスリ未遂とかじゃなくてよかった。
高瀬は外人さんからチップを受け取って、スタスタ一直線に歩き出す。
「でもそれって失敗か? 避けられない不幸って感じがするけど」
「十五過ぎたら避けられない不幸なんてないわよ。あれは大勝狙った私のミス。対戦相手にプライドの高い月蝕会社の幹部を選んだ私のミスよ」
さらっとそんなことを言う。
「幹部って……夕部先輩とか? それとも実務院とかいう」
「んなわけないでしょ。夕部は滅多にこっちには来ないって聞くし、実務院空助だったら暢気にトランプなんてやってないで会った瞬間に殺すわよ」
この女の場合、冗談に聞こえない。
しかし以前にインチキ呼ばわりされて捕まった女が、のこのこと再戦しにきて大丈夫だろうかと思う。イカサマといっても、根拠もなしにいきなり引っ捕らえたりはしないだろうから、何かしら潔白の証拠になりそうなものがあればいいんだけど。
「安心なさい」
俺の懸念を察したように高瀬は言う。
「前に来たときの私の髪はオレンジ色のショートカットだったわ。それに以前はツレなんていなかった。勝負を受けると一度認めるまで騙せたら、私の勝ちよ」
「へー、俺はその赤銅色の方が好きかな。前の髪見たこと無いけど」
「あっそ」
興味なさ気に俺の感想をあしらって、高瀬はフフフフフフフと気味悪く笑う。
そして一台のテーブルの前で立ち止まり、赤い回転椅子に腰を掛けて、足を組む。
「さて、ブラックジャックで遊ぶとしましょうか。粘堂くん」
なにそのキャラ。てゆうか粘堂くんて誰だよ。
テーブルの向こう側には若い男のディーラーさんらしき人がいて、何も疑うことなく、にっこり笑顔で「よろしくお願いします」と言う。
「スプリット後のダブルダウン、インシュアランス、サレンダーは可能です。サレンダーはレイトサレンダー方式。私のナチュラルBJの確認はプレイヤー様のアクションの前となります。よろしいですか?」
「ええ、よろしいですわ」
高瀬は変なお嬢様キャラのまま勝負を開始する。ブラックジャックなんて、勝負するかもう一枚引くかの選択肢しかないと思ってたが、どうやら全然違うらしい。ディーラーさんが何を言ってるのか二割も理解できない。
そして勝負が始まる。
高瀬は張り切っていた割にちまちまと賭けていて、勝ったり負けたりしている。テーブルにはもう一人プレイヤーがいたが、高瀬は彼と同じくらいの実力にしか見えない。数秒で勝負が終わっては、またシャッシャとカードが配られての繰り返し。
俺は飽きる。
「高……ぶほぉ!」
話しかけようとしたら、顎に思い切りアッパーが飛んできた。
「あら、どうしたの粘堂くん? 麗香に、何かご用かしら?」
身分を隠すのは勝手だが、何故その設定をチョイスしたのか……。普通お嬢様はそんなジーンズは穿かないし、そんなアッパーは繰り出せない。何よりパチスロとかしない。
「あの、麗香……さま? 俺はちょっとそこらへんぶらついてきますね?」
「どうぞご自由にあそばせ」
そう言ってチップを五枚くれる。
俺はそれを右手の上でチャラチャラしながら、とりあえず店内をぐるっと廻ってみる。
本格的なカジノにありそうなゲームは俺にはほとんど分からないが、奥に進んでいくとゲームセンターにも設置されているような、競馬ゲームの筐体とかスクリーンがあったりして驚く。
こういうのはやっぱり向こうの世界から直接持ってきているんだろうか。人間がワープできるんだったら、物だってワープできる気がする。高瀬はポケットに薬を入れて向こうに持ち帰っていると言っていたから、少なくとも身に着けているものと所持しているものは一緒に移動できるはずだ。
鞄なんかは無理だとしても、筐体を適度に分解して、部品だけを手分けしてポケット経由で移動させれば、あとはこっちで組み立てるだけだし。
「きゃ……!」
そんなことを考えていると、俺は女の子と衝突してしまう。服装から察するに、ここの世界の女の子。
「あ、あああ、ああああのあのあの! すっ、すすすすみませせせせせせせ」
「…………」
落ちてしまった自分のチップを拾いながら、女の子は必死に謝ってくる。
そうえいば温泉の脱衣所でも、俺はこっちの世界の人に謝られた。俺は大して怒ってもいないし、怒っていると思われそうな表情とか態度もしていないのに。
月蝕会社の人間というのは、それほど畏怖されているのだろうか。少なくとも『尊敬する人物に失礼なことをしてしまった』といった意味が込められているような謝罪では絶対に無い。
なんだろう。この憤りは。
「あ、あああああの! 本当に失礼致しました!」
チップを拾い終えた女の子は、もう一度俺にペコペコしてから逃げるようにその場を去っていこうとする。
俺はそれをさせない。
すれ違いざまに女の子のひ弱そうな肩をガシと掴む。
「すりかえたよね? 俺のチップ」
女の子の名はホリ子ちゃんというらしかった。
「彫谷桐子です! 略さないでください!」
「どっちでもいいじゃん」
俺が詰問すると、桐子ちゃんは割とあっさり罪を認めた。どう見積もっても小学校は卒業していないくらいの少女を面責するのは、さしもの俺も心が痛んだが、チップの中央に書かれた五の文字を一にされてちゃあ黙っていられない。心どころか、誰かさんによって肉体を痛めつけられそうだし。
それにそんな遠慮は一瞬で吹き飛ぶことになった。
「いや本当にすみませんでした」
桐子ちゃんはこれで三度目になる土下座をしてきて、俺はいい加減うんざりする。
プライドの無い行為をしているからではない。
「もういいでしょ?」
その上辺だけの行為を量産しているからだ。
桐子ちゃんはすり替えを白状するなり、態度が豹変した。そしてさっきから「あーあバレちゃった」とか「まだまだだなーあたしも」とか自分のことばっか言ってる。
あの温泉のときのおじさんのような必死さがまるで無い。俺が月蝕会社の人間じゃないとバレてる様子もなく、かといって腹を括ってる様子もない。怖くないのだろうか。
「差し引きたったの二万円分じゃないですか」
「よくねーよ。たったの二万円だったら自分で稼げよ」
「これが稼ぎなんですよ。そうだ、なんだったらアタシが倍に増やしてきてあげますけど」
「それができねーからこんな狡いことやってんだろうが」
俺は桐子ちゃんのケースから五と書いてあるチップを五枚取って、俺が持っているチップを返す。
「ちぇ。はいどうぞ」
「ん?」
桐子ちゃんは内ポケットをまさぐって何かを取り出す。手には百とか千とか書かれたボロボロのお札が数十枚あった。中には血の滲んでいるものまである。
「全部で四万はあると思います」
一変してしょんぼりした表情で桐子ちゃんは言う。差し出すその手には、よく見ると小さな傷が無数にある。どうやってこの金を手に入れてきたのかが、それだけで分かる。
「……いらないよ」
「え、でも……」
俺は差し出してくる札束を押し返す。
なるほど。社員相手に許される条件ということか。桐子ちゃんは金という武器があるから、こうやって余裕ぶっていられた。あの温泉の男は恐らく手持ちがなく、口だけで許されるしかなかった。それ故の土下座か。つくづくうんざりのシステムだ。
「いいか、これは怖い姉ちゃんに口止めされてることだから絶対に口外するなよ。俺は月蝕の社員じゃない」
「え……」
「だからってわけじゃないが、俺は桐子ちゃんを許す。だがチップのすり替えなんていうのは、月蝕とか移住者とか関係なくやっちゃいけないことだ。二度とするんじゃないぞ」
桐子ちゃんは暫くポカーンとしていたが、やがてハッとしたように言う。
「ひずみさんと同じこと言ってる」
……………………………………………………え?
「ひずみさんって、高瀬ひずみのこと?」
「はい。あれ、ひずみさんとお知り合いなんですか?」
あのスリオタク大ぼら吹きやがる。
月蝕の社員相手にスリやってる奴が、月蝕の社員相手にすり替えやってるのを咎めて、あまつさえ諭すとは……棚上げチャンピオンだな。
「知り合いというより、被害者と加害者だな。原告と被告と言ってもいい。ビーチ姫とグッパと言ってもあながち間違いではない」
「はぁ」
と言っても俺には助けに来てくれるようなマリ雄はいない。
「まぁそんなわけで、二度とやんなよー」
俺は後ろでに手を振りその場を離れる。
適当にぶらついても、俺にチップを増やせそうなゲームがないことに気付く。格ゲーでもあれば結構やれるんだけどなぁとか思うが、そんなものあるはずもなく。
俺はなんとなくルーレットの台に着く。人気が無いのか誰もおらず、ディーラーさんが暇そうにしているからだ。
「黒に一万円だ」
俺は五のチップを二枚出す。すると横からぶぶーと吹き出す声。
「黒だって。普通ノワールって言うんですよ。ぶぶー」
いつの間にか隣に座っている桐子ちゃんが偉そうに言う。
「じゃああたしはルージュに全部」
「おいおいおいおい」
桐子ちゃんはケースをひっくり返して一と書かれたチップを全て、テーブルの赤くなっているところに出す。三十枚くらいはある。
「本当にいいのか嬢ちゃん」
ディーラーのおじさんまで気遣ってくれるが、桐子ちゃんは自信満々のやる気満々といった感じで「早く回して」とか言い出す。
おじさんがホイールを回し、ボールを投げ入れる。俺も桐子ちゃんも追加ベッドをしないままノー・モア・ベッドの鈴が鳴る。
「…………」
「…………」
カラン。
黒に――入らず、赤のポケットに嵌り込む。
「イェーイ! ありがとです恵平さん」
「……俺は関係ないだろ」
「いえ恵平さんのおかげですよ。アタシ運が無い人判別するの得意なんで」
うるせぇ。
俺のチップがおじさんに貰われていく。スロットで全くダメダメだった上に、ルーレットなんていうほぼ運だけのゲームでも当てられないとは……。高瀬、すまない……。
「もうどうにでもなれ」
俺は残りの三枚を全てテーブルに乗せる。
おじさんディーラーが再びホイールを回し、ボールが投入される。カチカチと音を奏でながらボールは逆行して、やがてホイールにつられてゆく。自分の場所を探すようにポケットに入ったり出たりを繰り返す。
「恵平さん、どこに賭け……って一目賭けじゃないですか!」
俺は黒の三十一番に賭けた。
やがてボールは嵌る。
「うおおおおおおおおおおおおおお」
三十六倍。
俺は一夜にして五十万円を越す大金を手にした。
「たったの二百万しか稼げなかったわ」
高瀬はつまらなそうにチップをジャラジャラいわせる。
「……凄いっすね麗香さま」
「……さすがですひずみさん」
あの後、五十万円超のチップを抱えて意気揚々と高瀬の元に戻ると、まず真っ先に金色に輝くチップの山と憔悴したディーラーの顔が目に入った。高瀬はスロットのときほどではないが、かなりオーバーヒートしていて悪魔の最終形態みたいな面をしていたので、無理やり止めさせた。因みに何故かそのとき一緒に桐子ちゃんもついてきた。
「いやでも仲裁してくれて助かったわ。もう少しで追放くらうところだった」
「……そうだな」
「……そうですね」
ブラックジャックにはカウンティングと呼ばれる勝率を上げるテクニックがあるらしい。記憶力が相当良くないとできない高度なものだと聞くが……
「ふぅー」
目の前で首をポキポキやってる悪魔には造作も無いことなのかもしれない。
「そういえばキリちゃん久しぶりじゃない。もうあの下手くそなとっ替えやってないでしょうね?」
「はい! あれから一度もやってないです!」
「ついさっきやられたぞー……っと」
俺は高瀬に持たされている分と自分で稼いだ分のチップをどさっと受付のカウンターに置く。外人さんはさっき以上にうわーおって感じの顔をして、チップを機械に通す。
「全部で二百六十一万と二千円になりますね」
流暢な日本語で札束と領収書のようなものをくれる。こっちの世界には十万円札というのがあるということを俺は知った。そのせいで俺の五十万がしょぼく見える。
「うおーすげー」
目をひん剥いて感想を漏らす桐子ちゃんに、高瀬は「お小遣いよ」と言って万札を手渡す。どこかの御曹司みたいなことをする。
「さてそろそろ行くわよ。キリちゃんも帰んなさい」
札束を無造作にポケットに仕舞いこみ歩き出す。
「いつもこんなに儲けんのか?」
「んなわけないでしょ。さっきも言ったけど追放される危険性があるから、わざと負けるためだけに来たりするわ。もう半分バレてるけどね」
完全に別次元の話だ。
高瀬なら本物のラスベガスに行ったとしても通用するんだろう。ここほどぬるい監視はされていないだろうけど、それでもこいつはやってのけそうな気がする。
俺と高瀬と桐子ちゃんはそれぞれ別の表情と金を持って店を出た。
「そこまでだ高瀬ひずみ」
こめかみに冷やりと銃口。気付けば周りを黒服の男達に囲まれる。
「な、なんだよこれ!」
「ちょっとどういうことですか!」
慌てているのは俺と桐子ちゃんだけで、高瀬は落ち着い――いや、落ち着いていない。燃え盛るようなエネルギーが横顔から感じ取れる。
その眼光が捕らえているのは一人の大柄の男だった。隆起した筋肉をスーツで纏い、オールバックの髪を手櫛で整えながらタバコをくゆらせている。
「牢獄からの脱走犯、高瀬ひずみで間違いないな?」
酒ヤケしたようなガラガラ声で男が言う。
「いかにも私は高瀬ひずみですが、脱走などとは異なことを」
「それでは十二日間、間違いなく獄中に居たと?」
「ええそうです。きちんと月蝕刑事法に則った十二日間の軽服役を終えたばかりですが?」
ギスギスとした睨み合いのような会話が飛び交う。
やがて大柄の男がガハハハハと笑い出す。
「何が可笑しい!」
男は哄笑を止めて地面にタバコを叩きつける。
「可笑しいというより、おかしなことなんだよな。お前が服役八日目に入った頃に、私の主張が月蝕の裁判部に認められてね。君の服役期間は四十日となったんだよ」
「な――」
高瀬の表情から威圧のようなものが消え去る。
「それが何故、十二日で牢獄を出てきている? 囚人所の人間は、脱獄犯が出たなんてことを部外の者にバラしたら面汚しになるからだろう、口を割らん。だが街ではお前の目撃証言が出ている」
「そんな! 私は――」
「正体がばれていない、とでも思っていたか? 月蝕の情報部を舐めるなよ。ついこの間やっとだが、本部の人間から風邪薬を強襲やスリなどで奪い取っている犯人が、お前だと判明した。昨日、幹部の夕部様からスリに遭ったとの被害報告も受けている。お前が月蝕会社の人間で無いことは最早周知の事実となった!」
高瀬の膝が折れる。その横顔に、もう力は無い。
「お前がどんな理由でこっちに来ていたか知らないが、これで終わりだよ。月蝕会社の人間だと偽ってこの街にいることはできない。それに脱獄の罪科は服役するはずだった残りの日数の五倍だから、まぁ少なくとも百三十五日は服役しなくてはいけないな。囚人所の人間に脱走日を吐かせればもっと伸びるだろうが」
俺は息を呑む。
これは、分かっていてやっている。俺なんかでも気づくんだ。高瀬は気付いてないわけがないし、この男だって――
「因みにこれは二度目だろうが三度目だろうが同じだ。もし――」
くそっ!
「この服役中に再度脱獄するようなことがあれば、更に服役期間は五倍となり、指名手配犯となる」
高瀬はこっちにいられるのはあと三十六日だと言っていた。
無理だ。服役中に飛んでしまう。向こうの世界に引っ張り返されてしまう。
望まない脱獄をしてしまう!
そうなると更に罪は重くなって、高瀬はこっちでは大罪人となってしまう。
捕まって逃げて捕まって逃げての繰り返し。無限ループ。ウロボロス。
この状況はつまり、高瀬のこの世界からの永久追放を表している。
「私にカードで恥をかかせたのが仇になったな! まさか私もこんなことになるとは思ってもみなかったよ。高瀬ひずみを連行しろ」
ガハハハハハハ――と、男は再度哄笑を上げて去ってゆく。
拳銃を持った黒服たちに高瀬は連れて行かれる。半ば引きずられる形で。
俺と桐子ちゃんは解放されて、その場に放置される。
何故かは分からない。
分からない――が。体が動いていた。
「うおおおおおおおおおおおおお」
高瀬を黒のセダンの後部座席に押し込もうとしている男を蹴り飛ばす。
「ぐ……な、なにしや……がっ」
そのまま歩道に投げ捨て、助手席に乗ろうとしていた奴が構えてきた銃を左足で弾き飛ばす。左足を戻す回転の勢いを使って右足のかかとで脇腹を粉砕する。
「ごぉ……」
そいつの頭を持ち、車の中に押し込む。俺は後部座席の淵でへたり込んでいる高瀬の右腕を掴み、引っ張って、歩道に連れ出し、そして拳銃を構えた男達に囲まれていることに気付く。
「一緒に連行しろ」
高瀬とは反対の後部座席に座っていた、あの大柄の男が言う。
俺は黒服の男に腕を掴まれ――ない。
「え……?」
黒服が驚く。俺も同時に驚く。
体が透けてゆく――
同時に何も思考できなくなってゆく――
体が白み、頭も白くなっていく感覚――
引っ張られる――壮大な何かに――
吸い寄せられる――荘厳な何かに――
横にいる高瀬がひずんで見えた。
そして俺は暑苦しいベッドの上。
第四章 そこにいること
「恵平……」
「なに?」
「けぇへー……」
「うん。えーと」
「けえぇぇへえぇぇぇ――――!」
今まで溜めてきたアドレナリンを一気に分泌させるようなテンションで、朝っぱらから姉さんが俺にダイビングハグをかましてくる。仕事中以外でこの興奮状態を見るのは久しぶりなので、俺も動揺する。
「久しぶりー!」
「え――」
そうか。俺が向こうの世界に行っていたのは一日だけだが、向こうとこっちの時間が同期しているとは限らないんだ。
「一昨日ぶりー」
してるのかよ同期。
「昨日ケーヘーがいないから焦ったじゃーん」
「ちょっと色々あってさ。ごめんごめん」
「……謝りたいのはこっちなんだけどね」
ん?
姉さんはきまりが悪そうな顔をして、苦笑いながら人差し指でこめかみを掻く。
自室を出た瞬間もの凄い臭気が漂ってきてダイニングに出ると案の定だった。
テーブル上にある皿の上には紫色のスライムがうにょうにょしてて、その周りには煤がばーって広がってて、キッチンを覗くとやっぱりコンロの周りにも煤が舞ってて、フライパンは溶けて変形してて、焦げた何かがフローリングに転がってて、食器棚の角には何故か割れた卵が刺さっていた。
「いやー、お腹空いたからさ」
「食ったの?」
「生卵をね」
さすがのダウナー姉さんでもあのスライムは食べらんないか。というか家には紫色の食材なんて無かったはずなんだけど。どうなっているんだろうまぁいいや。
「じゃあ掃……」「だるー」
…………。
姉さんは急にいつもの姉さんに戻って、フラフラしながらリビングに行き、ソファにどっかと腰掛けて「紅茶ー」とかいう。キッチンの現状を考えて欲しい。
俺はとりあえず応急処置的にキッチンを掃除して姉さんお気に入りの(というかこれしか飲まない)ダージリンを淹れる。焦げ臭いせいで、ちっとも紅茶の香気がしないが、そもそも姉さんのせいなので文句は言わせない。
俺は自分の分も淹れてリビングへ。姉さんはソファでぐたーっと眠りこけていた。パジャマがはだけた色々と際どい姿勢で。
「なんだよせっかく淹れたのに……」
姉さんのカップをテーブルに置いて、俺は絨毯の上にあぐらを掻く。
紅茶を啜りながら思い返す。
一つの物語のようだった。
こっちの世界でまるまる一日行方不明になっておいて何だが、俺は未だにあれら全てが夢だったんじゃないだろうかという幻想に駆られている。体ごと吹っ飛ぶなんてどんな夢だって感じだが、確かにその幻想は俺を寝させたんだ。
昨晩こっちの世界に唐突に引き戻されて、俺はとりあえず寝た。もう一度寝てしまえば、一回前の夢なんて忘れてしまえそうだし、何よりもう考えたくなかった。要するに逃げた。
だが姉さんは一昨日ぶりだって言うし、俺は紛れもなく高瀬ひずみや芦屋小次太郎、彫谷桐子ちゃんの外貌、性格、どんな会話を交わしたかを覚えている。
高瀬ひずみが脱獄犯として連行されたことを、俺は覚えている。
「あの時の醜態まで覚えているしねー」
独りごち、紅茶を啜る。
聞かれてないだろうかと不安になり、姉さんの顔を覗く。すーぴーいって気持ち良さそうに寝ている。目じりが、薄っすらと濡れているように見えた。よく見ると頬にも濡れて乾いたような痕がある。
「…………」
らしくないじゃないか俺。あれは物語。やっぱり慣れないところで生活してしまったせいか、カルチャーショックでどうかしていたみたいだ。向こうにはこんなに美味しい紅茶は無いというのに。向こうにはこんなに優しい姉さんはいないというのに。
そうだ。あれは物語。小説を読んでいただけだ。
読んでいる途中で用事ができて、本を閉じてしまっただけだ。そしてその本は最悪のストーリーだったため、二度と開かれることはなく押入れのダンボールへ。
俺は紅茶を一気に飲み干して立ち上がる。めちゃめちゃ熱かったが、舌の麻痺と引き換えに正気を取り戻す。
煤とスライムを適当に片付けて消臭スプレー振りまき、身支度を整える。昨日は休んでしまったが、別に俺一人休んだくらいで何がどうなるわけでもないだろう。
「行ってきます、姉さん」
鞄を取り家を出る。姉さんはまだ寝言をぶつぶつ言いながら、ソファに寝転がっていた。
地球温暖化の深刻さは一日二日でどうなるものでもなく、相も変わらず安曇坂急勾配を上る俺を苦しめる。ただでさえ汗だくだというのに、教室に入るなり暑苦しい男がくっついてきて鬱陶しい手を首に回して、汚らわしい息を吹きかけてくる。
「なーなー恵平さんよー! 昨日休んだのは例の彼女とちちくりおうてたからかぁ?」
笠小創平。何故かファミレス『るみのっくす』でバイトをしている帰宅部男児。そのせいで俺が高瀬ひずみと一緒にいるところを見られた。あれは俺が高瀬ひずみに脅されて飯を奢らされているだけで、まぁ実際は薬の毒味という影があるんだが、それでも決して恋人同士のディナーというわけではないし、客観的にそう見える光景だったとも思いがたい。が、
「どうなんだよー」
こいつは当時から勘違いしている。
「いやそういうアレじゃないから。それよりカサゴさー」
俺は首にまとわりつくカサゴをそのままに席に着く。俺より二回りくらい大柄の男を引きずるのは鬱陶しいとかそういう問題ではなく、単純に重い。
「なんでバイトしてんだよ。それもあんな堂々と」
安曇坂高校はバイト禁制だ。厨房のバイトなんかはこっそりやってる奴もいると聞くが、接客なんてバイトやってまーすと公言してるようなもんだ。
「あぁ。俺ハゲ校長の許可取ってあるから」
「へーそうなんだ」
「…………」
「…………」
「話逸らすの下手だなまた」
うるせぇ。
「説明は面倒だからしないけど、あいつはあの時点ではホント知り合いですら無いから」
「あの時点では=H」
「揚げ足を取るな」
言って、俺は数学の教科書を取り出しながら、首からカサゴの手を払いのける。いい加減邪魔くさい。キンコーンとお馴染みの鐘が鳴って一時限目の授業の開始を知らされるが、カサゴは焦る様子もない。理由は数学の教師。
「またか。チョーさん遅刻多いよなー」
「だから話逸らすなってばさー。今の時点≠ナはどうなんだよ♪」
嬉しそうに音符までつけくさるカサゴ。チョーさん(数学教師)よ。今日ばかりはあんたの遅刻がありがたくないです。
「今の時点って言っても………………」
「ん? どったの?」
今の、この時点での高瀬ひずみ。
恐らくは牢獄の中にいる。百三十日以上の懲役。実際は三十五日の時点で本人の意志に拘わらず終わってしまう懲役。それが分かっていて牢獄の中にいる彼女の今の時点=B
「分からない」
「ひょー意味深!」
いつの間にか教卓に立っていたチョーさんに「笠小ー!」と注意され、カサゴは席に着く。
俺は数学の教科書を開く。三ページも進んでいて、鬱々とした。
「なぁなぁ」
授業が開始されて十分くらい。突然後ろの席の志方陸生からお呼びがかかる。
「なんだ? リフトの話ならもういいぜ?」
振り返らずに答えると、志方は「違ぇーよ」と言って俺のズボンの右ポケットあたりをその汚らしい足で蹴る。
「それ金だろ? どうしたんだよそんな大金」
「え?」
俺は半信半疑のままポケットに手を突っ込む。感触。
「あ。そうか」
あの似非ベガスで稼いだ金だ。確か全部で五十五万円とちょっと。向こうには十万円札があるから十枚ちょっとしかないけど。
「いくらだよいくら!」
志方がチョーさんにバレないように息だけで尋ねてくる。えーと、向こうでは相場が約十倍違うんだっけか。
「五万五千円だな。少なっ!」
「何自分で言ってビビってんだよ」
三十六分の一を当てたってのに、たったの五万円か。あのときは五十万だなんだっつって桐子ちゃんと大騒ぎしてたのにな。そういや桐子ちゃんどうしてるだろ。
「十分あるじゃん! 何で儲けたか知んないけど飯でも奢ってよー」
「無理だな。俺はもう『奢って』『奢り』『奢るわよ』などのワードは、検出し次第頭から弾き出して信用しないようにしてるんだ」
「……そ、そうか。なんかよく分かんないけど」
勿論、使おうとしたところでここで使える貨幣じゃないから、お店の人になんだこのおもちゃはって言われる落ちなんだが、それは言わない。
志方がそれ以上何も言わないので、俺は少し覗いたお札をポケットの奥に追いやり、しれっと授業に戻った。ポケット経由のワープについて考えようとする頭を制して。
来週から始まる期末考査を乗り越えたら夏休みが待っているこの時期というのは、意外と一番勉強に気が乗らなかったりする。日は中々落ちないし、夏休みのことを考え過ぎる人が多いからだ。
あの人がそんなタイプだとは思わないが、居る気がする。仮にそんなタイプだったとしても、あの人ならテストなんてひょいひょいひょいだろうから心配もいらない。会うのはあれ以来だけど、あれ以来だからこそ、居る気がする。
戸を開き、学生証をセンサーにかざし、入域する。
居た。
いつもの席。
辺りを見渡すまでもなく、室内には俺とその人だけ。
「あ、黒才くん」
きれいに切り揃えられた前髪をかき分けてこちらを見る。その顔にはあの夜とは違い、また俺のよく知る笑顔とも違い、何かを必死に堪えてきたような、悲しい表情が浮かんでいた。
「先輩……」
「一昨日はすみませんでした!」
夕部先輩は突然、椅子を少し後ろにずり下げて立ち上がり、机にぶつかりそうなくらい頭を下げた。薄いブラウンのロングヘアーがばさっと靡く。
「あの、俺は別に……その」
「財布から、テレホンカードが抜かれてて……その、おばあちゃんから貰った……」
「え――」
嘘だ――と、反射的に言いそうになるのを必死に抑えた。
違う。高瀬はそんなことはしない。目的はあの粉薬だけだ。
「大事な……物で、愛着があったから、必死に探してて……それで……」
「…………そ、そうだったんですか!」
そりゃそうだ。言えるわけないもんな。
「いやびっくりしましたよ。まるでハイド氏じゃないですかー」
月蝕会社なんて。俺は夕部先輩からすれば一般人で……他人、なのだから。
「でも、もう勘弁してくださいね? 先輩結構怖かったから」
「そ、そうですか? もうホント気が急いちゃってて、私自身よく覚えて無いんですけどね。それに結局犯人が見つからなくって……」
「……そうなんですか。すいません、俺の察しがもっと良ければ」
「いえ、いいんですよ。悪いことをしたのは私です。本当にすみません。それより――」
夕部先輩は椅子に掛けて、俺を促すように右手を窓際の席へ向ける。
「いつまでそこに立ってるんですか? 読みましょう、本を。話をしましょう、本の」
「――っ」
頬を歪ませて、ぽやぽやとした笑顔を俺に向ける。
俺の一番良く知る夕部佳織先輩の姿。裏とか影とか知るものか。
一昨日の姿が本性であろうと、今この笑顔に偽りなどあるものか。
俺は読みかけの一冊を手に取り、窓際の席に腰掛ける。本を開きパラパラと捲る。いつもの通りスピンの挟んであるページは変わっていない。俺ぐらいしか読む人間がいないからだ。
「それで、そろそろそのシリーズ読み終えそうですか?」
「はい。昨日はちょっとごたごたしてて読めなかったんですが、今日は朝に貸し出しをして、授業中にこっそり読んでました」
「さらっと不良なこと言いますね。テスト近いのにいいんですか?」
「勉強はちゃんと家でしてますよ。黒才くんこそどうなんですか?」
「俺はいつも通りですよ」
「いつも通りダメなんですね?」
「広義で言えば」
「はいはい」
相も変わらず顔を本に向けたまま、俺たちは他愛も無いことを話す。
俺はここまでのストーリーを思い出しながら読んでいて、気付く。
この本の舞台はあそこに似ていると。
この本の著者である宿井えんどは、ファンタジー小説によくある魔法、剣、それに準じるものを一切出さない。それ故にファンタジーと言えるか分からないが、少なくともあの世界よりはファンタジーしていた。なのに似ていた。
「…………」
いや、似てない。本当は全然似ていない。この小説にはあんな街は無いし、光る石だって無い。ただ思い出しているだけなんだ。少しでもあっちの世界に関すること、リンクすることを見つけたことに、俺の頭が反応しているんだ。
何故だ? 俺があっちの世界を欲しているかのように、気付けばあっちの世界のことばかり気にしている。騙し騙しやっていても、どうしても見つけてしまう。考えてしまう。
例えばズボンのポケットに入っている向こうの現金。
俺は気付いていなかったか? 今朝、学校に行く支度をしているときに、穴掘り作業で土臭くなったズボンをわざと履き替えなかったんじゃないか? 予備の制服はあるのに。それで教室で志方陸生に指摘されて、俺は嘯いていなかったか? 俺が確かに向こうの世界にいたことを。それを思い出せることを。考えることを。そして嬉々としてポケットに手を入れなかったか? 内心に手探りを入れるように。
何故だ?
俺はあの世界で何を得た?
俺はあの世界に何を得させた?
何もしていない。
俺は何も残していないし、だから俺の中にも何も残っていないはずだ。
はずなのに――
「あの……黒才くん」
夕部先輩が話しかけてくれている。
今ばっかりは、本に顔を向けたまま会話をするこの習慣が……ありがたい。
きっと俺はひどい顔をしているだろうから。
「わ、私……が、実は別の……別の世界の人間だとしたら、どうします……か?」
「え――」
つい顔を上げてしまう。
だけど、むしろひどい表情をしているのは夕部先輩の方だった。
「どういう……意味で……」
夕部先輩の目じりに溜まったそれが決壊した。頬を伝い、ぽたぽたと落ちる。
「ぅ……わ、わだし……は……、嘘を……つぎまじだ…………」
ぐす――と鼻をすすって、夕部先輩は顔を覆う。
開いたままの本の上に落ちる大粒の涙が紙を滲ませる。
物語の上に雨が降り注いだ。
俺は日が半分くらい落ちて緋色に染まった空の下を歩く。いつもより少しだけ早い帰宅。
そういえば姉さん腹減ってるはずだよなぁ。家出る前に何か簡単に作ってあげてれば良かった。いつもは昼は取らないが、確か姉さんは昨日は生卵しか食べてないみたいなことを言っていたし、流石にぶっ倒れてるかもしれない。
買い物をしてマンション前に着いたときには日も落ちていた。エレベーターに乗り五階までウィーンと何処かの首都のように昇って玄関を開ける。
「ただいまー」
郵便物が山のようにある。といってもほとんどが姉さん宛のものだから、俺はとりあえず鞄と買い物袋をダイニングの椅子に置いてから、郵便物全てを抱えて姉さんの部屋に入り机の上に放る。
「おかえり」
こちらを見ずに姉さんは言う。
あまり長くもない髪をそれでも邪魔そうに結って、無理やりポニーテールにしている。
「うん。すぐに飯作るから、少し休んだら?」
「そうだね。でも今ちょっと目が離せないんだよ」
カチャカチャとキーボードを叩きながら姉さんは言う。その声は毎朝のダウナー系でも、今朝限定のハイテンションでもなく、よく通る仕事時のビジネス声。
俺が姉さんの部屋に入ると、決まって姉さんは寝ているか、こうして三台のディスプレイを三面鏡のように配置して、回転椅子の上に胡坐を掻いて両手で別のキーボードを触っている。
投資。
本人は趣味だと言い張るが、紛れもなく姉さんの仕事。株だかFXだか知らないが、俺には及びもつかない知識とセンスを持ち合わせている姉さんだから、儲けはすごい。
ディスプレイに蠢くグラフと数字の山を真剣に見つめている姉さんを放置して、俺は台所に向かう。
今頃米を炊いても時間が掛かるから、適当にパスタを茹でて簡易夕飯。カルボナーラ。姉さんの大好物だったはずだ。
「どう?」
「うま〜い」
いつの間にかユルキャラの本質を取り戻した姉さんがフォークを咥えて言う。
「ケーヘーどんどん料理うまくなってるよね」
「そうかな。まぁほとんど毎日やってるからね」
望むと望まざるとに関わらず、そこそこできるようにはなってしまうよな、そりゃ。
といってもカルボナーラくらいなら、それほど難しいわけでもないし。
「それよりどうなの? 仕事の方は」
「違うよケーヘー。投資は趣味でやってるんだから。私はニート」
平然と言って、麺をちゅるちゅると吸い上げる。
あれだけの利益を出しておいてニートを自称するのは、ホンマもんの方々に失礼ではないだろうか。
「まぁどっちでもいいけど。順調なの?」
「あんまりー。昨日はパソコン見なかったからー」
「あ……ごめん」
俺の謝罪の面になど目もくれずカルボナーラを頬張って、そして笑う。
「いいの、いいのー。ちゃんと帰ってきてくれたし。もう無断でどっか行っちゃうなよ〜? 探すの面倒だし疲れるし腰痛くなるしー」
「うん。それと金。あんなに家に入れる必要ないぜ? 親父の遺産だってあるのに……」
そう言うと姉さんは唇を突き出して不満そうな顔をする。
『家に入れる』とか『親父の遺産』って言葉を出すと、姉さんはもれなくこういう反応をするので俺は別に驚かないが、困りはする。
「私が好きで入れてるんだからいいの。それにご飯だって作ってもらって、世話を焼かせているのはやっぱり私なんだから。お姉ちゃんとしては不甲斐ないの極みだけど……」
「そんなにしょんぼりされても……」
額が額だ。飯だけじゃなく家事全般俺が受け持っているが、その人件費的なものを差っ引いても余りあるほど姉さんはお金を入れてくれる。
まるで本当の……。
「それに私を甘く見すぎー。あれくらいのお金を引いたって私の口座は全然痛くないの」
「はぁ……」
俺の気のない返事に姉さんは一つ溜め息をして、フォークで俺を指す。行儀が悪い。
「とにかくー、仕手としての私、弓原冴香をなめないでね」
そしてウインク。
どこかの魔法少女のようだと思った。
暑苦しい夜もクーラー一つで劇的に涼しくなるが、だからって勉強は捗らないし睡魔も襲ってこないから本を読む。宿井えんど。図書室から借りてきた。
「…………」
結局あの後、ぐすぐすと泣く夕部先輩をうまく慰める方法も宥める方法も分からず、すみませんいいですよごめんなさい俺が悪いんです等を連呼して、最終的に「俺、帰りますね」と残してすごすごと帰ってきてしまった。我ながら最低の極みだ。俺は何も泣かせるようなことをしていないと思っているが、そんなものは関係ない。夕部先輩はされたと思っているのかもしれないし、そうでなくても俺は傍にいてあげるべきだった。
俺は知っているんだから。先輩の裏を。
嘘を吐いているのは先輩だけじゃない。俺が高瀬ひずみと共に向こうの世界に行ったこと、彼女の目的と今の立場を知っていること、夕部先輩が月蝕会社の幹部であることを、知っていて黙っている。厳密には虚言を吐いているわけでも嘯いてるわけでもわけでもないが、自分が知っていることで、他人にとって知った方が良いことと分かっている事実を、その人に敢えて伝えようとしないのは、嘘を吐くことと大して変わりなど無い。
他の人にとってどうであろうと、それが俺にとっての虚実だ。
明日、夕部先輩に謝ろう。
と思ったけど。
「今日って土曜日じゃん」
朝。ベッドの上でボーっとしながら再スケジューリング。掛け時計を見ると既に十時を回っていて、カーテンの隙間からまたレーザーのような日射が入り込んでいる。リビングからテレビの音がうっすら聞こえて、姉さんですら起きていることが分かる。
「とりあえず起きよう」
服を着替えてリビングに出る。
姉さんはソファーにぐてーっと寝転がって、俺が昨日買ってきたタマゴ味のスナック菓子に齧りついていて、俺の存在に気付いて「ふぉふぁひょー」とか言う。多分おはよう。
「食べながら喋るなよ。おはよ」
株式市場は土日が休みなので、姉さんは平日以上にダウナーモード全開リミッター解除って感じで、覇気どころか気配そのものが感じ取れない。
「んーんー」
「いや分かんないから」
だらーっと垂らした腕の先の中指をだらーっと玄関の方へ向ける。
「あぁ新聞ね」
玄関行って新聞取ってパスすると、姉さんはニマーっと笑顔だけで返事をする。
俺は台所に行きお湯を沸かし紅茶を淹れて、寝転がった姿勢のまま器用に新聞を広げて読んでいる姉さんの前のテーブル上にカップ置き、俺の分を啜る。
ピンポーン。
「セールス」
「いーや、勧誘ね」
呼び鈴が鳴ってすぐに交わす会話。ここ黒才家には、互いの知り合いが訪ねてくる確率は限りなくゼロに近いので、いつしか始まった小競り合い。別に揉めているわけではないんだが、次の献立は当てた側の好みに合わせられる特権がある。にしても急に元気になりすぎです姉さん。
「どちらさまでしょうか?」
玄関に繋がれたカメラの映像をモニターで見て、スピーカー越しに訊く。シルクハットを被った小柄な男。なんだコイツ。
「どうも月蝕の者です。アヒャヒャヒャヒャ」
「――っ!」
月蝕会社――! なぜ――
「どうしたの?」
「あ、いや、なんかの勧誘みたい。ちょっと出てくる」
無視すりゃいいのに――という姉さんの呟きを無視して玄関まで行き、チェーンを外して扉を開く。
背丈だけではなく顔も幼さが残ったような、だけど雰囲気に、視線に、禍々しい何かを纏った少年だった。右頬と前髪の隙間から見える額から切り傷のようなものが見える。
「どうもどうもどうも。私、月蝕会社の雑務を一手に引き受けております雑務院ラジウムと申します。いえ雑務といっても一応ノナプル幹部の端くれをかれこれ三年やっておりますからね。掃除とか書類整理とかお茶出しとかそういうことをやってるわけじゃないんですよ? ただ性格上というか体格上というか、あまり体力とか腕力とか脚力とかに自信が全くこれっぽっちもございませんのでね。必然的に仕様もないネゴシエートとか事情説明役みたいなことをやらされてしまうのですよ。いえいえいえいえ、決してあなたと会うのが面倒くさいとかそんな無礼なことを思っているわけじゃありませんよ? ただ私にもね、もう少しやりがいのある仕事を回してくれても罰は当たらないんじゃないかなと思うんですよ。他の社員に示しがつきませんしね。ってこんなことあなたに言っても仕方ありませんよねアヒャヒャヒャ。失礼。少し話がずれてしまいました。閑話休題、閑話休題。それで私は月蝕会社の幹部として働いております雑務院ラジウムと申します。ってさっきも言いましたよねアヒャヒャ。まぁ気軽にラジ君とか呼んでもらって構いません。ほら電動ロボットみたいでかっこいいじゃないですか、ラジって。かっこいいって大事ですもんね。かっこいいと言えばお兄さんも中々のイケメンでいらっしゃいますねー。おっとまた話が逸れてしまいました。そういうわけでつまり私はあなたにお願いと諸注意があって参りました雑務院ラジウムです。以後お見知りおきを」
「……はぁ」
ふーん。変な人もいるもんだ。
「ってちょ……ちょちょっと! 閉めないでくださいよドア!」
隙間に足を入れられる。どこの押し売りだコイツ!
「不審者……は! おこと……わり……してる……もんで……ね!」
「そんな……こと! ……おっしゃら……ずに!」
内と外からノブを引っ張り合う。
腕力ないとか言っていたが、俺も似たようなものってことか……。
「そりゃ」
「ぬぉぉぉ!」
ノブを離すとラジウムは引く力をそのままに後ろの柵に激突した。バカだバカ。
ラジウムはシルクハット越しに頭をさすっている。
「ちょっといいんですか! 私幹部ですよ! 他の幹部が押し寄せてきますよ!」
「すごい他力本願だな……」
「虎の威を借る狐と言ってください」
「似たようなもんだ」
ふん――と小生意気に鼻で笑ってラジウムは立ち上がる。
そしてずれてもいないネクタイを整えて言う。
「ちょっとそこの喫茶店でも行って話をしましょう」
「……長くならないならな」
「善処します」
俺とラジウムはマンションから百メートルくらい離れた所にある小洒落た喫茶店に向かっていて、そして俺はすぐに一旦家に戻ることになって、ムカつきながらもそれ≠取って再び喫茶店に訪れた。
喫茶『トリの巣箱』。ここは駅からじゃ面倒くさいくらい離れてるし、今は土曜の昼餉前の時間帯。窓越しに見た店内から既に閑古鳥が鳴き声が聞こえてきそうなほどがらがらだった。
店内に入ると客は二人。一人が俺を呼んでいる。
見ると窓際の禁煙席に背筋良く座っているラジウムが居て、呼ばなくてもわかるっつうのとか思いながら俺は近寄り向かいの席に座る。
「これでいいのか?」
テーブルの上にバサッと置く十枚ちょっとの紙。
「あー! これですこれです! 正真正銘間違いなくこれです! このツヤといい手触りといい匂いといいこれは間違いなく向こうのものです。そういえば向こうのものと言えば……」
うんたらかんたら語っているラジウムを無視して、俺は店員を呼び止めてアイスティーを注文する。
「……ってな感じで、あ! 私はクリームソーダを頼みますよガール! それでですねお兄さん、向こうの……」うんたらかんたら。
俺はラジウムに向こうの世界の紙幣を持ってこいと言われた。厳密に言うと、持ってきていただけませんかねーお兄さん? と巻き舌で言われた。すっとぼけたところで何やらこいつには確信があるみたいだし、正直に認めて持ってきた。多分あのカジノの人間からでも聞いたんだろう。
そういうわけで俺が折角稼いだ五十万円以上の大金は現在、ラジウムが両手の中でにぎにぎしている。
「これで俺は完全に向こうの世界との縁は断ち切ったわけだな?」
ラジウムは話の腰を折られても、ニマニマしたまま答えてくれる。
「んーまぁ皮相的には。ただですね、ただですね? 細かいことを言わせてもらえば、学校での夕部様との接点がある限り、完全にってわけにはいきませんねーはい」
「……やっぱりそこの辺はリサーチ済みですか」
「んー?」
ラジウムが俺の中を盗み見るような視線を向けてくる。
「夕部様が月蝕会社の者であることはご存知でしたか。なるほどなるほど」
「それが?」
『夕部様との接点』というフレーズを、彼女の素性を知っているかどうか分からない人間に対しての発言の中に混ぜてくるってことは、バレても問題ないことのはず。
「アヒャヒャ。いや、やはりあなたは賢い。かの黒才鉄也の息子なだけあります」
「そいつはどうも」
アイスティーとクリームソーダと伝票が届くと、ラジウムは元俺の金を鞄に仕舞ってストローをちゅーちゅーし始めた。その姿はどう贔屓目にみても、せいぜい中学生くらいにしか見えない。
「私も昔、鉄也さんの書籍はよく拝読させてもらいましたよ。いやー、あれは凄い」
「お前いくつだよ」
「二十三です」
年上かよ。
でも確かに親父は書き手としても天才だったとよく聞く。俺は一冊も読んだことないけど。興味ないし。今の生活はほぼ十割親父のお陰なのに、不実だろうか。
「まぁ鉄也さんの話は置いといてですね。お察しの通りですよ」
ラジウムが急に半笑いなまま真剣な雰囲気を出す。
何のお察しかと考えているうちに、ラジウムは説明を始めてしまう。
「あなたはカジノ前で起きた、というか起こしたアレによって、向こうでは軽犯罪ですが一応お尋ね者扱いされています。ウォンテッドってやつですね! かっくいいー! ああすみませんすみませんそんな睨まないでくださいよホント。それでまぁだから、もう向こうの世界には来ないでくださいね? 来る術なんて無いでしょうけどアヒャヒャ。まぁ念のためです。A級指定未満の犯罪はこっちの世界に居る限り、月蝕刑事法の適用されるところではありません。明確に規定されているわけではないんですけどね。通常は私たち幹部を通さずに移動することはできませんから。裏道、バイパスってことです。つまり――」
「ちょっと待て」
真剣かと思ったら身振り手振りを交えて楽しそうに話すラジウムを俺は掌で制す。
「だったら俺の金返せよ。取る必要ないじゃん」
俺はあの五十五万円ちょっとの金を渡せば罰さないでやるってことだと思って、なくなく渡したんだ。つまり保釈金として。
「いやーそれは、残念ながら出来かねます。月蝕の決まりで、正規ルート以外での物資運搬は堅く禁じられているんですよ。あ、ここで言う正規ルートというのは勿論、幹部を通して、必要事項を書類に記入してからってことです。お兄さんは究極のイレギュラーですので、この限りでは無いんですが、正規の手順を踏まずに向こうの世界の物をこっちに持ってきたら、A級指定の犯罪となります。勿論、そうならないように検査はしてますけどね。一応です。つまりこのお金。返してもいいですが、それだと所持していてはいけないと分かっていて所持することになりますから、必然、私はあなたをマザーの元に連行しなくてはなりません」
「マザー?」
「おっと口が滑りましたね。忘れてください」
苦笑いをしながらラジウムはクリームソーダをちゅーちゅー。そりゃ喉が渇くだろう。あれだけくっちゃべれば。
「つまりまぁそういうことです。私はお兄さんを連行したくありませんし、ここは退いてもらえませんか? 大体こっちじゃ使えない紙幣ですよ?」
「じゃあこっちの金額に換算してこっちの紙幣でくれ」
「んな我侭なー。金だけ貰って来いって言われて派遣されてきましたし、自腹で払うにも、私こう見えても貧乏なんですよぅ。そのアイスティー奢りますから、ね?」
「おっけー」
別に大して惜しくも無いし、処分できて助かったか。うまく財布を忘れてしまったこともカバーできたし。それに……。
「な! 高っ! 高いですよここ!」
ラジウムはクリームソーダのクリームを食べながら、伝票を見て言う。
ここはぼったくりで有名な喫茶『トリの巣箱』。近所からは皮肉を込めて獲りスと呼ばれていたりする。でも、相応かどうかは分からないが、出すものの質は良いらしい。今ラジウムが旨そうに食っているソーダ上のアイスなんかも結構なヤツなんだろう。
「ところでさー。さっきの。えっと、何だっけ。なんたらプル……」
「あーあーノナプル幹部ですか? まずノナプルというのはですね……」
ラジウムの話を適当に受け流しながら期を伺う。というか、この人はこんな簡単に社内情報を漏らしてもいいんだろうか。上司に怒られてそうな気がする……うわー、すごいイメージ湧いてきた。
「……というわけでですね」
「へー、実務院空助は?」
「…………」
一変。
ラジウムのちゃらちゃらした表情が完全にその顔から消え堕ちる。
「どういうことです? これも高瀬ひずみからの情報ですか?」
「うん、そう」
「なるほど……………………フッ。解けました解けました」
ラジウムは一人で勝手に納得してふむふむ言っている。次第に元の表情に戻っていき、完全にニマニマした面に戻るとすぐにアヒャヒャヒャと笑い出す。そして
「私は三点リーダ八つ分の時間を掛けて解けないことは無いんですよ」
とかメタなことを言い出す。
「おい何が分かったんだよ」
「それは言えません。アヒャヒャ。それにしても大したもんですねお兄さん。私の饒舌につけ込んで情報を盗み取る。まるでスリですよあなた。危ない危ない」
「スリね……」
アイスティーを全て飲み干す。さすが五百円もするだけあって中々おいしかった。
店の中央の柱にかかっている鳩時計がポッポポッポと鳴き始めて、俺は正午になったことに気付く。そろそろ金持ちが昼食目当てで来たりするだろう。
「じゃあ」「そろそろ」
ほぼ同時に立ち上がり、俺とラジウムは喫茶店を出た。ラジウムは「それでは〜」と陽気に手を振り俺の住むマンションとは逆方向に去っていった。
クリームソーダは七百円だったらしい。
ぶらぶらと店内を歩きながら暇つぶしできそうなものを探すが見つからない。わざわざ家から三番目に遠い、しかし立ち読みに寛容な本屋に来たというのに。ロクな新刊がない上に、懐かしの名作コーナーに親父のエッセーがあったりして、余計、居た堪れなくなる。
そこは本業で物書きやってる人のを優先して置いてやれよと、店員に抗議したくなる衝動を抑えて、俺は普段振り向きもしないライトノベルのコーナーに寄ってみる。
色彩豊かな文庫がずらっと並んでいて目がチカチカするなぁとか思っていると声。
「恵平?」
「…………」
無言で振り返ると、カサゴが土木作業員みたいな灰色の服を着て立っていた。
「お前ライトノベルとか読むの? 似合わねー」
「見てただけだよ。お前だってなんだその服。似合わ……いや、似合う」
元よりガタイのいい男で、顔も結構ゴツイし、何より雰囲気がおっさん臭いから、よく見るとびっくりするくらい似合っている。今にも本棚片付けて壁に穴空けて水道管とかチェックしそうだった。
「いやさ、そういうバイトしてんのよ俺。夜中に駆り出されて今やっと終わったわけ。いやーしんどかったよホント」
「マジか。カサゴ、お前『るみのっくす』でも接客やってたじゃねぇか」
駅前のファミレス。俺と高瀬ひずみを見られた場所。
「ああ。元々は厨房だったんだけどな。二つ肉体労働はキツイだろうって店長のご厚意で変えてもらった。つっても工事現場のバイトは土日だけだがな」
そんでアハハハと快活に笑う。
今日からコイツは心中でタフ夫と呼ぶことにしようか。
「そうだ。これからウチに来ないか恵平? 今日はもうバイト無いし。久々に鉄蹴4でボコボコにしてやるよ」
「よっぽど体力の余蘊が許せないみたいだな……知らねぇぞ貧血でぶっ倒れても」
姉さんは少しこいつにバイタリティを分けてもらってくればいいと思う。絶対に型の違う活力だろうけど。
「決まりだな。じゃあ行くか……っとその前に」
カサゴは一冊の女子向けライトノベルを手に取ってレジに向かう。
「えー何お前そんなの読むの? 似合わねー」
「妹に頼まれたんだバカ」
店外に出てカサゴを待つ。
そういやあいつの家は割とここから近かった。一年生の頃に二、三度行ったことがあったと思う。もう長らく行ってないから、うろ覚えだけど。
確か両親が離婚されてて、お母さん、お姉さん、カサゴの三人の家族構成だった気がするんだが、『妹に頼まれた』ってことは俺の勘違いか。……まぁ確かに、女手一つで三人の兄弟を支えるのは大変なんだろう。そうなると、唯一の男であるカサゴが頑張るしかないのか。
後ろから肩をポンと叩かれる。
「んじゃ行くか」
「おう」
片手で本屋の袋を握っているカサゴと歩き出す。俺の歩幅は明らかにカサゴより小さいが、こいつはそんな些事には気が付かないので俺は無理して股を開く。
「お前、昼飯済ませた?」とカサゴ。
「ウチで食べてきたよ」
ラジウムは俺と姉さんの予想に反してセールスでも勧誘でもなかったが、俺は姉さんに勧誘だと偽ってしまったので、献立は姉さんに決められた。野菜炒めとオムレツ。仮に俺が勝っていたとしても、姉さん権限で卵は必ずメニューに入る。
「じゃあラーメン屋行くか」
「なんでだよ。もう食えねぇよ。じゃあってなんだよ」
「えー。いけるだろ一杯くらい」
「無理無理。自分んちでカップラでも食ってろ」
「ちっ。旨いのになぁ――シナチク堂」
「え――」
シナチク堂?
聞いたことがある。思い出すまでもない。あの街で高瀬ひずみに連れられて入ったラーメン屋の名前だ。偶然か? シナチクってのはメンマの別称だし、ラーメン屋の名前にするにはある意味で平凡、普遍的と言えなくもない。
……いや違う。恐らく月蝕会社が中枢として動いているこの街に、同名のラーメン屋が存在するなんて偶然があるわけない。
「どうした恵平?」
「……いや、なんでもない。……カサゴ。そこってチェーン店か?」
「いや。多分あそこだけだと思うよ」
「葱ラーメンはあるか?」
「ああ、あるある。麺が見えないやつな」
決まりだ。あの店長は月蝕に引き抜かれたんだ。恐らくあの滑舌の悪い店員も一緒に。
「ちっ」
まずい。まただ。
また考えている。向こうの世界のことを。
体があの世界の情報を欲している。何か繋がりのあることが起こる度に、俺は内心で神経を研ぎ澄ませて情報に聞き入っている。見入っている。感じ入っている。
終わったはずだ。あの喫茶店で。
断ち切ったんだ。あの男を使って。
なのに……俺は……。
「行くかシナチク堂」
「お。その気になったか。さすが恵平だ」
折角チャンスをくれたのに、悪いなラジウム。
「ここ曲がってすぐだ。もう昼飯時は過ぎたから人も少ないと思うぞ」
本屋のある比較的広い道から外れると、丁度、住宅街と繁華街の間を隔てるようにしてお店があった。達筆でシナチク堂と書かれた看板は俺が向こうで見たものと同じだった。
駐車場は自営業にしては割と広く、十数台分のスペースが確保されていて、驚いたことにその内の八割が占領されていた。人多し。
「余裕で人だらけじゃねーか」
「何言ってんだ。ここ多い時は店外まで行列できてたりするんだぞ」
嘘だろ……と、心の中で呟いて俺はカサゴと入店する。
「いるあっすあいますぇー!」
あ、デフォルトなんだその挨拶。向こうの店員の個性だと思ってた。
二人分のカウンター席は辛うじて空いていて、すぐにスマイル抜群の店員に通される。店内は猫の死んだ世界支店ほどではないが、きれいで好印象。周りの客は、店の回転が早いからか黙々と麺をすすっていて、何だか大食い大会の会場に来てるみたいで落ち着かない。俺、結構食べるの遅いんだけどなぁ。
カサゴが勝手に店員を呼び寄せる。
「俺は葱ラーメン。恵平はどうする?」
「ん。俺も同じので」
スラスラと伝票に書いて、店員Aは「少々お待ちくださいねー!」とこっちまで気分がよくなるくらい清々しい笑顔で言って、去っていく。
ケータイをポチポチしながらカサゴの仕様もない恋愛相談(描写したくないので割愛)を受けていると、葱ラーメン二杯が届く。相変わらず器の上は葱の帝政だった。
俺が一昨日のことを思い出している内に、カサゴはジュルジュルときったねぇ食い方で麺と葱とメンマとチャーシューをかっ喰らっていた。
俺は本気出して前回の味を忘れてズルズルといく。
「……あれ、旨い」
「だろー!」
カサゴがしたり顔で言うのを無視して俺は思い出す。
向こうのシナチク堂は、失礼ながら言わせてもらうと、そりゃもうマズかった。高瀬ひずみはすんごい旨そうに食べてたけど。恐らくそれが客の入りが悪い原因だと思ってた。
「あああああ、もう!」
「ど、どうした?」
気になる気になる気になる。
遺伝なのかもしれない。親父の職業上……。いや獲得形質は引き継がないはず。
「あの!」
俺は反射的に横を通り過ぎる店員を呼び止めた。
「この店で働いていた人で、急に辞めていかれた人って……いらっしゃいませんか? 歳は四十過ぎくらいで温厚な感じの……」
店員は一瞬悩んで、「ああ」と何か思い出したようなアクションをする。
「働いていたというか、創業者の三島社長の息子さんなんですが、一年前くらいに突然行方不明になったとか聞きましたけど。三島三郎さんっていう」
「その方、ラーメン作るの下手じゃありませんでしたか?」
我ながら直球に失礼なことを言う。
「らしいですね。ここの経営、社長は一郎さんと二郎さんに任せてしまって、三郎さんだけ通常の店員扱いだったらしいです。それでうだつが上がらないから逃げ出したって、みんなが噂してましたよ」
「そうでしたか。ありがとうございます」
何故そんなことを訊くのか、とか何も言わずに店員さんは労働に戻ってくれる。店員教育がよく行き届いている。さすが行列が出来るほどのラーメン屋は違うなぁ。
「なんでそんなこと訊いてんのお前?」
「…………」
空気の読めない友人を空気のように無視して俺はラーメンをすすった。
「お邪魔しまーす」
「誰も居ないよ」
カサゴの家は五階建てアパートの五階で、昼食プラス締めのラーメン(親父くさいか?)を咀嚼した後には十分な運動になった。
当然のように俺はカサゴの自室に行き、ヴレステ2の電源を入れる。その間にカサゴは居間でなにやらガサゴソやってお茶を運んできてくれる。出来たお兄さんだ。
「あっついなーカサゴ」
「そだな。よし鉄蹴4やるぞ恵平」
「ああ。しっかし暑いよな。もう暑いというより熱いよな」
「……よっし今日は負けねぇからな。久々に本気出すぜ」
「おうよ。ところでカサゴ。暑くね?」
「…………」
「…………暑」
「分かったよ! 入れるよクーラー!」
俺はカサゴが一日一時間しかクーラーを入れてはいけないの命≠母親から受けていることを知っている。客人の前でそれを発動しないとはなんたる不届き!
「ああ涼しい」
「ちくしょう。夜に勉強するときに入れようとしてたのに」
「あ。そういやテストって来週か……」
俺は鬱々としながらキャラクター選択をする。スラリとした足のメキシコ人キャラ。
「お前は何もしなくても、そこそこ頭良いだろうが」
一方カサゴは、低身長の短足だが粘り強さのありそうなアメリカ人キャラ。
ラウンドワン……ファイト! というゲーム声が流れて戦闘開始。
「買い被りすぎだっ……て! 親父は親父だから……うぉ!」
「いや、たん……じゅんに! お前の頭が……良いんだ……って! どりゃ!」
蹴りの嵐。俺たちがやっているのは蹴り技のみのマニア向け格闘ゲーム鉄蹴4。四年前に原点となる鉄蹴が発売されて、そのあまりのコアさに全く人気が出なかった癖に、性懲りもなく毎年2、3とニューバージョンが発売されていた。しかし昨年、俺たちが今プレイしている4を最後にメーカーが倒産してしまい、当時俺とカサゴは抱き合って泣いた。
「水平下顎蹴りを躱しただと!」
「ふはははは。踏み込みがわざとらし過ぎたな! ……なにっ」
「上体逸らしは足元がお留守になりがちなんだよっ」
「そんな! ここにきて膝が麻痺状態に!」
「これで終わりだスティーブ!(キャラ名)」
「くそっ! リーチが長すぎるぞロペス!(キャラ名)」
「スティィィィィィィィィィィブ!」
「ロペェェェェェェェェェェェス!」
「ただいまぁ」
横からの唐突な声に思わず一時停止ボタンを押してしまう。ロペスの爪先がスティーブの鼻先で止まった状態で静止している。
「延命したなスティーブ」
「馬鹿を言うな。俺のスティーブなら避けきるさ。そんなことより雛子おかえり」
ただいまぁの声の方を向くと、幼稚園児くらいの女の子がでっかいバナナのぬいぐるみを抱えて突っ立っていた。雛子ちゃんというらしい。
「もしかして、本屋で言ってた妹?」
「ああ。実妹じゃないけどな」
「……さらりと俺をデリケートな部分に引きずり込むなよ」
雛子ちゃんが俺の方を「じろじろ」って口に出しながら見てくるので、俺はとりあえず「はじめまして、黒才です」と簡易自己紹介。我ながら堅い。
スティー……じゃなくてカサゴが立ち上がって背伸びをする。
「母さんは? 幼稚園に迎えに来たろ?」
「うん。ウチ着いてヒナ置いて買い物行ったー」
「そうかそうかー」
カサゴは雛子ちゃんの頭を軽く撫でて部屋を出て行き、ウーロン茶の2リットルペットボトルとコップを一つ持って戻ってくる。
「俺、雛子の弁当箱洗ってくるから二人でやってて」
んな――
「貴様逃げる気かスティーブ!」
「ふっ。君なんて雛子で十分だよロペス」
気障に微笑んでスティーブは部屋を出て行った。
雛子ちゃんはというと「じー」と言いながら暫く俺を舐めまわすように見た後、バナナをお尻に敷いて、さっきカサゴの居た場所に鎮座して、コントローラを取った。
「ヒナが右の?」
「う、うん。金髪の方な」
しかし可哀相だな。カサゴに負け役を押し付けられて。手加減してあげようにも、うちのロペスもうモーションに入っちゃってるし、当たったら吹っ飛ぶし、ゲージ僅かだし。
俺は真剣に画面を見つめる雛子ちゃんを哀れみつつポーズを解除する。
シュン――サッ……ズドドドドドドドドド! ダンッ!
KO! と高らかにゲーム音声が叫ぶ。ロペスは跪いた。
「うそん……」
スティーブは顎を引いてロペスの蹴りが入るまでの時間を数ミリ秒稼ぎ、その隙に体を回転させて宙に浮いた状態だった左足をロペスの腰に当てた。そのせいでロペスの爪先の行方がずれて無防備になったところにズドドドドドド……。
「わーい。勝ったよ創平ー!」
遠くから「雛子凄いぞー」という声が聞こえてきて、すぐに「へぃ!マヌケロペース」とわざわざこっちに戻って来て言うカサゴ。分かっててやりやがったなコイツ。
「卑怯だぞスティーブ」
「負け犬の遠吠えだなロペス」
一時間ローテーション制で鉄蹴4をやり続けていると、俺とカサゴが戦っている最中に雛子ちゃんが寝てしまったので、俺たちはそれを終戦の合図とした。雛子ちゃん全勝で俺とカサゴが共に3勝9敗。キリもよかった。
カサゴはバナナを抱いて無垢な笑顔で寝ている雛子ちゃんを抱えて、ベッドまで連れて行き、布団を掛けてあげていた。
「立派なお兄ちゃんスキルだな」
「……雛子は一度もお兄ちゃんなんて呼んでくれないけどな」
「え?」
カサゴはそんな悲しいセリフをいつもの明るい笑顔で言う。そうするように努めているわけでもない。そのくらいは分かる。
「雛子は俺の姉貴が産んだ子なんだよ。六年前に。半年前まで姉貴が結婚相手の実家で育ててたんだけどさ、離婚して姉貴と一緒にここに来たんだ」
カサゴは本当に常と変わらない。顔も。声も。態度も。
「それで暫くは一家四人で生活してたんだけど、姉貴は仕事してないわ、母さんのパートは安月給だわで、そりゃもう貧困の極みだったわけよ。そして姉貴は今、別の男と付き合ってて、都会の方行ってて、子持ちだってバレたくないから預かっててくれって」
虫唾が走る。とどのつまり雛子ちゃんは捨て子だ。
親になったり結婚したりする権利を一生剥奪してしまえばいい。子にそんな扱いをする親なんてのは。
「で、なんでカサゴはそれに従ってるんだよ。人の身内を馬鹿にしたくなんてないが、そんな姉貴の我侭、引き受ける必要ないだろ」
語気が少し責めるように荒くなってしまう。
「ああ、確かに姉貴は最低のクズだ。けど」
バナナ人形に顔を埋めている雛子ちゃんを一瞥して、カサゴは言う。
「雛子に罪は無いだろ」
「でも! お前はそのせいでバイトを二つも――」
「半年だ。半年一緒に暮らしてきたんだ。いや、期間は関係ないな。少しでも一緒に居て、苦難だろうが娯楽だろうがなんでもいい、共に在った人、自分の登場人物として心に僅かでも爪痕を残していった人の悲鳴なら、その存在は嘯けないだろ。あの姉貴の元に雛子を返さない方がいい。俺はそう判断したんだ」
「…………」
痛い。
何かが俺を責めたてるように引っ掻いていく。
『心に僅かでも爪痕を残していった人の悲鳴なら、その存在は嘯けないだろ』
爪痕なんて見えない。
悲鳴なんて聞こえない。
知らない。俺は知らない。
俺の生きる場所はここで、俺の生きない場所はあっち。境界は明確。
「…………」
「どうした恵平? ふっ。まさかお前も姉に何か不満があるのか?」
「俺に姉はいないよ」
いるのは姉さんだけ。
「…………いや」
違う。そうなんだけど…………違う。
俺は明確すぎて視線を囚われすぎていたのかもしれない。
俺は拠り所を場所≠ナ決めつけていた。
あっちの世界とか。こっちの世界とか。
俺は何故ここで生きたいと願った?
あそこから帰りたいと願った?
人≠セ。
いつだって俺の本当の拠り所は人≠セった。
この地球にいられなくなることを拒んだんじゃない。
俺の心に爪痕を残していった人たちに会えなくなることを、俺は拒絶したんだ。
ならば俺は――
残り三十四日。
十分すぎるぜおい。
月曜の校舎。俺は偶然すれ違った夕部先輩に声をかけた。
「あ。黒才くん。おはようございます。あの金曜のことは……」
「先輩、月蝕会社から粉薬五袋くらいくすねて来てくれませんかね?」
ちょっくら高瀬を救いに行かなくちゃいけないんで。
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2008/09/25(Thu)19:25:46 公開 /
不伝
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■作者からのメッセージ
不伝といいます。
半年前に『ホロニック』という仕様もない小説を載せさせていただきました者です。(誰も覚えてないでしょうけど…)
全体の構想はできているんですが、書く時間が無いのでまったり更新するつもりです。
感想いただけたら嬉しいです。
08/09/08 第一章UP
08/09/13 第二章UP
08/09/18 第三章UP
08/09/24 第四章UP
08/09/25 修正
仔細あって忙しくなるので、続きは10月末くらいになりそうです。