- 『羽のある生活 1〜3話』 作者:トーラ / ファンタジー リアル・現代
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全角61811.5文字
容量123623 bytes
原稿用紙約189.7枚
天使や堕天使が一般的に認められている世の中の似非ファンタジー小説です。
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1―0
電車が黒煙を上げ炎を発しているのを空から見下ろす。玩具の様にひしゃげた車両が遠ざかっていく。身体は宙に漂い、自分の意思とは関係なく流されていく。
灰色のブレザーを着た学生風の女、仲尾夜乃(ナカオヤノ)が空に浮いていた。
燃え上がる電車だった物を囲む人々が見える。聴覚が麻痺しそうな程の叫び声の渦も、最早遠い。彼らは目の前の惨状に気を取られ、浮遊する夜乃に気付いていなかった。上を見上げる余裕すらないのだろう。
夜乃の腹部に、ベルトをきつく締めたように食い込む二本の腕がある。夜乃の背後からしがみついている物がいるのだ。
誰が自分の身体に密着しているのかは分かっている。だから、首を回して顔を確認したりはしない。
それは、小さな身体の女の子で、いつもは姉と妹のような関係の幼い友人。
それは、背に光の翼を生やした少女。天使。
夜乃の身体を浮かべているのはしがみつく小さな天使だ。彼女の背にある翼は巨大で、直視出来ない程に光り輝いていた。翼は背後にありしがみつく少女と同じく確認は出来ないが、翼が放つ光は網膜に入り込んでいる。すべてを白く染めんばかりの光を感じられ、背後で何が起こっているかを容易に想像できた。天使が自分の身体を抱えて飛んでいるのだ。
夜乃は地上を見るのをやめ、視線を水平に保った。夕焼けに侵食されつつある空の中に、色紙でも貼り付けたようにはっきりと光源が見えた。
白い翼と黒い翼が空に紛れこんでいる。
白と黒が重なりあい、触れ合う瞬間、凄まじい閃光が夜乃を襲った。
何度も光の波は夜乃に届けられる。その光が何を意味しているのか、夜乃は分かり過ぎるくらいに分かっている。
波紋が広がるように沁み渡っていく恐怖を感じながら、何故こんなことになったのだろうかと夜乃は考えた。
1―1
羽の生やした女が立っている。何対もの純白の翼は、すべてを包み込む程に壮大で、神々しく映る。白銀に輝く髪は滝のように下り、彼女の足元に落ち着いている。
彼女が何処に立っているかを掴めない。上下左右、翼の白さに負けない霧が囲み、風景などないに等しい。白い霧の上に立っているとしか確認できない。
彼女が見つめる先も、白色に埋め尽くされている。だが、それは霧が生み出した物ではない。
それは跪き天を向く背に生えた翼。すべてを同色に染めようとする夥しい量の翼。
跪いた者達は動かない。飾られた人形のように。
羽で出来た絨毯はどこまでも続く。見渡しても終わりなど見えない。
ある種不気味な光景を眺め、彼女はこの世の終わりでも見たかのように退屈な表情を浮かべる。
くだらない、と唇が動いたように見えた。
そんな夢をよく見た。もう見慣れた。不思議な夢だがそれだけのこと。深く考えるのはとっくの昔にやめている。自分はそういう生まれなのだ。普通ではないという自覚はある。
夜乃(ヤノ)は気だるさの残る身体を起こした。部屋の間取りの関係で窓はない。よって日差しは部屋に入らず、最も分かりやすい朝の訪れを自身の目で確認することは出来ない。
狭くもなく、どちらかといえば広い集合住宅の一室で夜乃は暮らしている。四階建てで、夜乃の家は三階だ。
携帯を見ると午前六時前と表示されていた。いつもと同じ朝だ。今日は平日なので学校に行く日だ。
目を擦る。まだ瞼は重たい。
ベッドに腰かけ、頭の覚醒を待っていると、急かすようにドアをノックする音が聞こえてきた。
「夜乃ちゃん。おはようございます。起きてますか?」
ドア越しに女性の声が届いた。聞き間違えば男の声を思わせる低い声。同居している守羽叶(モリハカナエ)の声だ。
「あ、おはようございます。起きてますよ。すぐそっちいきます」
寝間着姿のままで部屋から出る。夜乃の部屋の隣はリビングダイニングキッチンになっている。毎朝そこで叶が朝食を作ってくれている。うなじまで垂れる黒髪をゴムでまとめている。Tシャツにジーンズというラフな格好で、リビングの中央になるテーブルに皿を運んでいた。
「詩縫(シヌイ)を起こしてきてもらっていいですか」
部屋から出てきた夜乃に気付いた叶が控えめに指示を出す。詩縫を起こすのは娘である夜乃の仕事になりつつあった。詩縫は朝に弱い。
夜乃は詩縫の部屋に向かい、ノックもせずに部屋に入る。
「お母さん。朝ご飯出来たよー」
夜乃とは違い布団を床にしき、かけ布団を抱きしめ子供のように眠る母に呼びかける。長い色素の薄い茶色の髪の毛が、詩縫の身体に絡まる蔦のようだ。整った顔立ちから漏れる寝息がどこか艶っぽく感じる。
「お母さん」
もう一度呼びかけ肩を揺する。高い呻き声が漏れる。
暫く揺すり続けると、諦めたのか薄く目を開く。
「――うぅん、夜乃ちゃん? ……おはよう」
「おはよう。朝ご飯冷めちゃうよ。早く起きて」
「夜乃ちゃん、起こして」
仰向けになり両手を夜乃に差し出した。引っ張りあげて身体を起こせということか。朝だけ母の性格が違う、と夜乃は思う。
「子供みたいなこと言わないで」
だらしのない母の姿を微笑ましく感じながら、母の手を引いてやる。思いっきり引っ張ると母の上半身も持ち上がった。
「ありがとう」閉じかけた瞳で詩縫が言った。
「もう、寝ないでって」
母を起こすのにはかなりの根気が必要だ。それも、毎日起こし続けることで学習している。
朝食も食べた。顔も洗った、歯も磨いた。制服にも着替えた。後は電車の時間に合わせて家を出るだけだ。
それまではコーヒーでも飲みながら朝のニュースをぼーっと眺める。時間は確認しなくていい。時間が来れば迎えがくるから。
詩縫は朝食を食べた後は結局二度寝してしまった。家事の殆どを叶が一人でこなしていた。
今も、叶は朝食の後片付けをしてくれている。手伝おうとしても絶対に叶は断るので、夜乃は叶の意思を尊重することにしている。
家の呼び鈴が鳴った。もう時間か、とテーブルの上に置いていた鞄を持つ。
「それじゃ、いってきます」
「はい。気をつけて。いってらっしゃい」
キッチンの奥から叶の返事を聞きながら、玄関まで駆ける。
ドアを開き視線を落とす。手を繋いで夜乃を見上げる二人の子供と視線が合う。片方はツインテールの女の子、もう片方は雛のような柔らかそうな髪の毛の男の子。
「夜乃ちゃんおはよう!」
「おはようお姉ちゃん!」
「おはよう。晴(ハル)ちゃん、陽(ソラ)くん」
天音(アマネ)晴と陽の双子姉弟だ。晴が姉、陽が弟。夜乃ちゃんと呼ぶのが晴、お姉ちゃんと呼ぶのが陽。二人とも同じ顔をしているので初対面だと区別がつかない人も多い。
家を出た夜乃の両側に二人がつく。陽が夜乃の鞄を取り上げ、空になった手を楽しそうに掴む。片方の手には晴が繋がっている。
天音一家とは部屋が隣り合っていて、それなりに付き合いもある。二人の通う小学校と夜乃の通う高校とは隣り合っているので、目的地は同じになる。なので一緒に登校するようになったのも自然な流れだった。
「早く行こうよ、お姉ちゃん」
「こらっ、引っ張ったら夜乃ちゃんが危ないでしょ」
「大丈夫だよ」
どちらかというと、晴の方がしっかりしているのかも知れない。そんな二人に癒されながら階段を下る。出来れば一階に下りるまでは手を離して欲しいという夜乃の気持ちは、しっかり者の晴にも届かないようだ。
三人並んで通るには少し狭い階段をゆっくりと下り、アスファルトの上に立つ。夜乃たちの他にも制服姿の若い男女が多い。その小さな人ごみの中に夜乃の馴染みの顔が見えた。
細い身体に少し長めのストレートの黒髪。髪を染めない辺り彼の真面目な性格が滲み出ている。
「あ、幸人くんだー。おはようー」
「お兄ちゃんおはようー」
双子が無邪気に手を振る。双子の声に気付いた彼、秋月幸人(アキヅキユキト)がこちらに振り向軽く頭を下げた。
幸人とは同い年の幼馴染だ。小、中、高とずっと学校も一緒だ。
「おはようございます。晴様、陽様」
落ち着いた声で幸人が言う。相変わらずだなと夜乃は思った。
「夜乃様、おはようございます」
「様付けとかやめてよ。恥ずかしいなぁ。呼び捨てでいいって」
ぼくたちも呼び捨てでいいのにねー、と双子が頷きあう。
「サンダルフォン様のような高貴なお方を呼び捨てになど出来ません。本来ならば言葉を交わすことすら私には許されていないというのに」
「固い、固いよ幸人君。私が恥ずかしいんだって。夜乃って呼んでくれていいからさ」
サンダルフォン。何度も聞かされた名前だ。
それが天使の名前ということは知っている。その人が凄い人なのも何となく分かっている。
その「サンダルフォン」の魂が夜乃の中に眠っていると言われても、夜乃自身何も実感が沸かない。自身を普通ではないと自覚させる唯一の要因なのだが、あまり深く考えたことはない。幸人たち天使が言うには、夜乃も天使らしい。
だが、そのよく分からない単語で夜乃の環境は出来上がっている。
夜乃をサンダルフォンと呼んだ幸人。彼は天使である。真の名はファレグという。夜乃の両側に立つ双子。彼らも天使である。姉がリリエル、弟がルルエルという。彼らは夜乃の護衛として彼女の傍にいる。同じ集合住宅に住んでいるのも、恐らくは天使たちの都合によるものだろう。
母親の詩縫も天使だ。叶は違うらしいが、天使側の人間に間違いない。
作られた環境、人間関係、周りと違う自分。幼い頃から薄くは意識していたことだった。だからといって不幸だと思ったことはない。それは受け入れるしかなくて、十分幸せに生活できているのだから考えたって仕方のないことなのだ。
それらは夜乃に与えられたものだ。それに文句をつけるようなことはしない。
空を見ると白い羽を生やして浮かぶ人影が見えた。一つだけでなくて、何人かが不規則に飛び回っている。その中の一人と目が合ったので、手を振った。彼か彼女か分からないが手を振り替えしてくれる。夜乃の真似をして晴と陽も大きく空に向かって手を振った。
彼らも天使である。双子や幸人のように肉体を持った天使ではなく、霊的な存在としての天使で、彼らの仕事の一部は夜乃を監視することだ。ご苦労なことである。夜乃だから彼らの姿を見ることが出来る。これも他とは違う部分のひとつだ。
「とにかく、様付け禁止!」
「……努力します」
「出来れば敬語もやめてね。同い年なんだから」
少々不満の残る顔ではいと頷いた。何回目の注意だろうか。
何故夜乃に護衛がついているかといえば、夜乃を狙う者がいるからだ。夜乃を狙う者は天使にとって敵であり、堕天使、とも言う。
サンダルフォン、という天使は天使の世界では超重要人物であり、天使と敵対する堕天使にとっても同じことが言える。夜乃にサンダルフォンの魂が宿っているとしても、夜乃には天使の力は扱えず、能力的には普通のヒトと変わらない。
天使界の超重要人物が無防備なのを堕天使が放っておく訳もなく、夜乃自身何だかよく分からないまま堕天使にその身を狙われたり、多くの天使が護衛についているのである。
そういえば、怪しげな大人に連れ去られそうになったことが何度かあったなと夜乃は昔を思い出す。その大人が堕天使かは分からないが、危険が普通の子と比べて多かったのは確かだ。
それでも今までずっと健康に何の問題もなく成長出来たのは一重に天使たちのお陰なのかも知れない。
天使や堕天使といった単語はそれ程特異な物とは認識されておらず、むしろ一般的に使われていたりもする。
電車の窓を覗くと、ちらりと一瞬、気分が悪くなる程の大量の漆黒の羽が散乱しているのが見えた。瀕死のカラスがもがき苦しんだ跡のようだ。だが羽の量が尋常ではない。カラスでは十羽以上集まらなくては再現出来ない量だ。
それが堕天使の亡骸である。通称黒羽の花。その亡骸は誰にでも見られる。一般的にも堕天使の亡骸だと認知されている。堕天使を亡骸にしたのが、天使だとも広く知られている。
「何か悪さしたのかな。かわいそうだね」
「でも仕方ないよ晴ちゃん。ヒトに悪いことするのは駄目なんだから」
晴と陽も亡骸が見えたらしい。それぞれの思いを口にする。幸人は黙ったままだ。
口ぶりから二人が加害者ではないと分かって、どこか安心していた。
だが、晴も陽も、幸人も天使だ。敵である堕天使を殺したりもするのだろう。天使なのだからそれが当たり前だ、という知識が夜乃の頭の中にある。
殺す、なんて言葉は出来るだけ使わないでいたい。自分の周りの皆にも使って欲しくない。
堕天使の亡骸は見慣れる程に溢れている。自分を堕天使から守るために、堕天使が殺される所も何度も見たことがある。だが見慣れるには重たいものだなと常々夜乃は思う。
だが、自分のために堕天使が死ぬことを嫌だとは言えない。そうやって自分が生かされていることを夜乃は知っている。死にたくはない。
生きるために何かを食べるのと似ているのかも知れない。これも、数多くある仕方のないことのひとつなのだと割り切っている。気にしていてはどうにもならないことはある。
拘れる部分は多いに拘ればいい。出来ないことに拘ることはない。それが夜乃の生き方だ。
1―2
学校の最寄駅をおり、学校に着くと晴と陽はすぐに校舎に駆けていった。途中思い出したかのように振り向いて手を振ってくれた。夜乃は二人に手を振り替えした。
双子が通うのは明樹市立小学校。中学校も高校もすべて明樹市立である。
高校の校舎を見ると嫌でも時計が目に入る。ショートホームルームまでまだ一五分も余裕があった。電車の都合でこれ以上余裕を持って学校に来るのは無理なので、少々早くても夜乃たちはいつもこの時間に登校している。そんな学生は夜乃以外にも多い。
背後から慌しく地面を蹴る音が聞こえる。誰かが走って校門を潜ろうとしているのだろうか。振り返らずに音だけで判断するとそんな予想が思いつく。
答え合わせにと振り向くと、見覚えのある女子生徒が夜乃に向かって駆け寄っていた。小柄で、ショートヘアーの薄く染められた茶髪がよく目立つ。夜乃が彼女を避けなければ、十中八九衝突するだろう。
だが夜乃は避けようとはしない。
「せんぱーいっ! おっはようございまーっす!」
暴走機関車の突進を夜乃はなんとか受け止める。不意打ちだったなら諸共崩れていた。女子生徒は夜乃の首に腕を巻きつけ抱きついている。
「お、はよう。葉子ちゃん。さっきのは危なかったよぉ……」
「えへへー、すみませんー」
反省した様子もなく高橋葉子が笑う。憎めない笑顔だな、と夜乃は苦笑いを浮かべた。葉子の挨拶はいつも突然で、荒々しい。
夜乃自身何故好かれたのかが分かっていないが、夜乃にとっては数少ない天使以外の友人である。
「そ、それじゃあ俺は先に行ってるから」
夜乃にじゃれつく葉子を見もせずに、慣れない口調で幸人が言った。そして言葉どおり幸人も校舎に向かって歩き出す。
一般人の前では一応敬語を使わないように意識してくれている。普段から出来るようになってもらいたいものだが。
「二人っきりですね。先輩」
「そうだね。葉子ちゃん、そろそろ離れない? 重たいんだけど」
「むむっ、失礼なー。わたしは重たくないですよ」
「いやいやそういう問題じゃなくてね」
話は噛み合っていないが、首に絡みつく葉子の腕から夜乃は開放された。制限なく行える呼吸が心地よい。
「ショートホームまで時間ありますね。どうしましょうか」
「えー、でも教室に着いたらいい時間だよ。素直に教室に行けばいいんじゃないかなぁ」
「もっと先輩と一緒にいたかったのになー。お昼休みはご一緒してくれますよね?」
「うん、いいよ。どこで食べる? 食堂でいいかな」
「はい。全然おっけーです」
親に甘える子犬のように葉子が夜乃の腕に抱き付いた。
葉子に手を離す様子はなく、夜乃はそのまま葉子を腕に引っ付けたまま校舎に向かう。歩きづらいが、別に嫌ではない。
授業中、退屈な時に窓の外を眺めるのは万国共通なのではなかろうか。外国のことは分からないが、国内での話に限ればありふれた場面だろう。事実、夜乃の教室でも数人は黒板を見ずに余所見をしている。
薄い青い布を被せたような空に、夜乃は天使を見た。ありふれているとしても、窓の外に天使を見つけるのは夜乃くらいのものだ。
空に浮かぶ天使と目が合う。どうやら監視されているらしい。
護衛がつくくらいなのだから、監視役の一人や二人は珍しくもない。これが夜乃の普通だった。
監視をつけなくてはいけないような重要人物なら、いっそどこか、天使の目の届く場所に監禁すれば手っ取り早いのだ。それをせず、夜乃に自由を与えてくれているのは天使なりの気遣いだろうか。親しい者たちがいらぬ苦労を負ってまで与えてくれる自由。それが作り物だとしても夜乃に不満はない。むしろ感謝するべきだと思っている。
もし、自分がいなかったならだなんて、くだらないことは考えない。考えないようにしている。自分がいない方がよかったとしても、自分ではどうすることも出来ない。自身が潰れるだけだ。
悲観的に物を見たところでどうにもならない。もう十何年も付き合ってきた名前だ。そしてこれから何年も付き合っていくのだから、どうにもならないことにあれこれ考えても仕方がないのだ。
成すべきことは、天使たちの好意に甘えて、限られた自由を満喫し、多くを求めないことだ。
許されること、許されないことの見極め。制限の中でどう立ち回るかということ。大事なのはそれだけだ。
どうしても諦めがつかない時は仕方のないことだと自分に言い聞かせる。十数年間で見つけた魔法の言葉だ。
いつも誰かに見られているのも仕方のないことなのだ。こちらが意識しなければいいだけだ。
護衛の天使たちもヒトと同じように振舞い、ヒトとして接してくれるのなら、天使だということを意識しなければいい。
もう一度空を見た。もう天使は見えなかった。
午前の授業もすべて終わり、夜乃は葉子との約束を果たすために食堂に向かう。
その途中で幸人の教室を通ることになる。
何気なく幸人の教室を覗き込む。
男女を含む数人のクラスメイトと輪を作っているのが見えた。今から皆で弁当を広げるのか。
輪の中の幸人が、何の違和感もなく談笑の輪の中に溶け込んでいる。さも、自分は明るい好青年ですといわんばかりに。
何故、幼い頃から一緒にいた幼馴染の自分に出来なくて、出会って間もないクラスメイトとはこんなにも自然に笑えるのだ。
幸人は分かっていない。普段の幸人を知っているから何度も何度も敬語を使うなと指摘していることを。
氷を焼けた鉄板の上に落としたみたいに気持ちがざわめく。
冷静な気持ちが溶けきったらどうなってしまうのだろう。ふつふつと蒸発していく感情が怖い。
立ち止まりずっと窓を眺めていたのに気が付く。幸人と目が合った。
慌てて目を逸らし早足で教室から離れる。一際大きな音を立てて歩いていることに意識が回らず、少なからず向けられる注目の視線に耐えながら夜乃は歩いた。
これは、仕方のないことだろうか。
気持ちのざわめきは落ち着いてきたものの、答えの出ない問題があるのも落ち着かない。
「夜乃先輩どうしたんですか。機嫌悪そうですよ」
こーんな眉毛して、と葉子が眉間に皺を寄せる。知らず知らずのうちに顔に力を込めていたらしい。
「あいや、そんなことないよ。ごめんね」
夜乃は自分の眉間を軽く叩いた。葉子と一緒にいるのに別のことばかり考えているのは失礼だ。思考を切り替える。
「だったらいいんですけどー」
夜乃と葉子は食堂で弁当を広げている。食堂で弁当を食べる学生も少なくはない。
高校の食堂は中学生も利用可能だ。小学生は給食なので食堂を利用することはない。今日も多くの生徒で賑わっていた。
皆、思い思いに雑談を始めている。その声の中で目立つのは声変わりの終わっていない少々幼い声だった。
「しかし、最近中学生が多くなったね、ここも。私が中学生の頃は先輩に気遣って近寄らなかったものだけど」
公共の場というのをあまり意識していないのか、会話の内容まで分かるくらいの賑やかな声で中学生グループが話している。もう少し声の音量を下げたらどうなのだろう。
「これが若さです、先輩」
「葉子ちゃんだって去年まで中学生だった癖に」
「学生時代の一年は大きいんですよ」
「はぁ。分かるような分からないような……」
やはり後輩たちの大声は耳障りだった。この程度のことでも気になるようなったのは、年を取ったからなのだろうか。葉子の言うように学生時代の一年は大きいのかも知れない。
葉子は本当に楽しそうに話しかけてくれる。自分でも意識していないが、葉子に寄りかかっているのかも知れない。先輩と笑顔で慕ってくれる葉子の存在は夜乃にとってかなり大きなものだった。
自身の身の上の関係でなるべく人付き合いは避けてきたが、葉子は避けても夜乃に関わってきた。結局葉子に根負けする形で今の関係が続いている。今なら、正しい選択だったと思える。
葉子と知り合って一年になるが、自分が天使だとは知られていない。教える気もないが、もし、天使だと分かったら、葉子の態度も変わるだろうか。
「ねぇ葉子ちゃん」
「なんですかー」
「今朝ねぇ、黒羽の花が咲いてるとこ見ちゃってね」
「へぇ、天使様も頑張られてるんですねぇ」
天気の話でもするように、なんでもないことのように葉子が言った。それがどうかしたのか、とでも言うように。
「そうなんだけど、でもそれって、天使が堕天使を殺してるってことじゃない。それってどうなのかなぁって思ってさ。怖くない? 葉子ちゃんはさ」
「そう言われればそうですけど……、うーん」
箸を止めて葉子が考える。考え込む葉子を見て、面倒な質問したかも知れないと気付く。
「でも、わたしたちのためにそうしてくれてるんですよね。だったら仕方ないと思いますよー。まぁたしかにちょっと、怖いかも知れないですけど。それは地震が怖いとか、そういうものなんじゃないかなぁって」
「そっか。なるほどね」
葉子のような考えの者も多いだろうと思う。くだらないことを訊いてしまった。訊いて、何になる訳でもないのに。
「何で笑うんですか」
ぷんすか、という擬音語がよく似合う膨れっ面で葉子が抗議する。その仕草が可愛らしくて、また笑みを誘う。
「葉子ちゃんが可愛かったから。ごめんね」
「もうー、許しちゃいますけどぉ」
案外簡単に許してもらえた。葉子と一緒にいると楽しい。だから彼女のことは好きだ。
自分が天使だとばれた時のことなんて、その時になって考えればいいのだ。そうなったら、関係を維持出来るように努力すればいいだけ。それでいいや、と思えた。
「あ、そうだ先輩。放課後お暇ですか。せっかくの週末ですよ。ちょっと贅沢しましょう。美味しいケーキ屋さん見つけたんですよ。食べにいきましょう」
「あー……今日は双子の相手をする約束してるから無理だわ。せっかく誘ってくれて悪いんだけどね」
「一緒に食べにいけばいいじゃないですかー」
「そうだなぁ……」
簡単に言ってくれるものだ。双子を連れていくのなら二人分の代金を夜乃が払わなければいけないのを葉子は分かっているのだろうか。
葉子に付き合いたい気持ちは本心だ。だが、夜乃の手持ちもけして多い訳でもない。頭の中で電卓を弾く。最低幾ら必要になるのか。
なんとか、なるだろうか。無理をすれば恐らく、大丈夫という結果が出る。
「分かった。それじゃまた放課後にね」
「はいっ!」
飛び上がる勢いで葉子が喜ぶ。
代金以上の見返りは期待出来るかも知れない、と夜乃は思った。
1―3
すべての用事を終えた頃には日も傾き始めていた。太陽は熟れた林檎のように赤く染まっているが、空は染められることなく青いペンキを塗りたくったような色のままだった。
夕日が町の中心に聳える時計塔を照らしていた。それ程高い建物ではないが、それ以外の建物の背が低いので二割増しに大きく見える。
この時計塔は夜乃の住む明樹市の象徴であり、数十年前に建てられた物だ。一般開放されているが入場料を取られるので滅多なことでもない限り夜乃は時計塔には入らない。最上階は展望スペースになっていて、そこから眺める海はなかなかに綺麗なものだった。
その時計塔を中心にして三角形を作るように三つのアーケード街があり、アーケード街で出来た三角形の三つの頂点にそれぞれ駅がある。そしてその駅からは住宅街に向かって線路が敷かれている。
アーケード街を歩く夜乃の両サイドには双子がついている。二人は半円を描くくらいに大きく腕を振っていた。上機嫌なのが見てとれる。目指しているのは最寄り駅、第三通り駅。その駅が葉子の自宅に一番近かった。夜乃の住む集合住宅にもその駅から帰ることが出来る。
今日皆で入った葉子お勧めのカフェの感想をあれこれと話す。双子は余程ケーキが気に入ったのかまた食べたいと言うばかりだった。夜乃が予想していたよりも高くなく、この程度の値段ならもう一度行ってもいいかな、と思えた。そういえば、幸人は甘い物が好きだったっけ。
そんなことを考えていると駅に着いた。時間もちょうどよく一〇分も待たずに葉子の乗る電車がホームに到着した。そこで葉子と別れる。夜乃たちが乗るのはその次の電車。その電車は流石に少しは待たなくてはいけない。
暫くすると電車が滑り込んできた。スーツ姿の人がいれば制服姿の人もいる。無作為に詰め合わせた飴の袋のような車内だった。それ程混み合っている訳でもないが。
適当に空いている四人座りのボックス席を見つけそこに座る。通常二人しか座れない席に三人で座った。双子の身体が小さいから狭くは感じなかった。
電車が出発する頃にはさっきまではしゃいでいた双子も大人しくなっていた。電車が走り出すと双子の身体も揺れに合わせて身体を揺らした。
二人の姿が水槽の中で揺れる水草のように柔らかく優しく見えた。
やがて二人は瞼を重たそうに上下させ、頭を夜乃の肩に預け眠り始めた。
二人を起こさないように、夜乃はなるべく身体を動かさないように努力した。
こんなにも愛らしいのに。愛らしいだけでよかったのに、と現実を悔やみながら髪を撫でる。
苦にならない程度の揺れを与えながら電車が走る。
終着駅の手前の駅で電車が止まった。晴が目的地に着いたと勘違いして目を覚ます。陽は眠ったまま動かない。
「まだ寝てて大丈夫だよ。ちゃんと起こしてあげるから」
「……分かった。お休みなさい、夜乃ちゃん」
まだ眠る時間があると分かると晴もすぐに瞳を閉じた。
電車が再び進み始める。それから間もなくして、肩に寄りかかっていた二人が急に目を覚ます。
まるで中身が入れ替わったように。
「姉様、感じた?」
「えぇ、何か、来るわね」
二人の声音が変わる。幼さなど欠片もない大人びた声。小さな身体には不釣り合いな雰囲気。
それが彼らの本性だと、夜乃は過去に知っている。
双子の態度が急変したことに夜乃は不安を覚え始める。
「え、え? どうしたの二人共、何か――」
あったの? という言葉は発せられなかった。
黒板を渾身の力で引っかいたような騒音が聴覚を麻痺させる。
身体が前方に引っ張られた。足の踏ん張りも関係なく夜乃たちは前の座席に身体をぶつけた。
どうやら電車が急ブレーキをかけたらしい。夜乃たち以外の乗客もざわつき始める。
「夜乃様、こちらへ」
晴が立ち上がり夜乃を手を取る。
「急ごう、ここは危険だ」
晴を導くように陽が通路に出る。夜乃は状況を把握出来ていなかったが、二人の真剣な表情を信じることにした。夜乃は思い出す。二人は自分の護衛だということを。さっきまで悔やんでいたことだ。
晴に手を引かれながら出口に向かった。この段階で席から動こうとしているのは夜乃たちしかいない。他の乗客も夜乃の動きなど気に留めない。
出口に着くと陽が非常用のレバーを引き無理やりにドアを開いた。落ち着いているな、彼の手つきを見て夜乃は感心していた。
「降りて、夜乃様」
「う、うん……」
促されるままに電車から降りる。砂利の敷かれた線路に足をつける。ホーム以外の場所に降りるのは今日が初めてだ。
突然、突風が吹きつけられたような衝撃が訪れる。続いて耳が痛くなる程の爆発音。
咄嗟に跪いていた。反射的に耳も塞いでいた。頭に耳鳴が響く。
何が起こったのか。混乱するよりも前に、まだ何も分からない。何処からか叫び声が聞こえてくる。
ゆっくりと顔を上げ音源を見た。
「嘘……」
夜乃たちが乗っていた前の車両がひしゃげて、黒煙をあげている。その原型を失った車両の奥、線路の中心に一つ人影が見えた。
その人影の背後に、夜乃には陽炎のような、黒い翼を見た。
それが何を意味するのか、夜乃は知っている。
「……堕、天使?」
「そう、目立ちたがり屋の馬鹿がいたみたいね」
忌々しそうに、蔑むように、最上級の侮蔑のこもった声で晴が言った。
「姉様、夜乃様を頼んだよ。僕はあいつの相手をしなくちゃ」
「分かったわ。気をつけて。こんな派手なことをするのだから、とても自信があるみたい。ただの下っ端ではなさそうよ」
「大丈夫。油断はしないよ。それじゃあ、行ってくる」
言い終えると、陽の背が輝き始めた。光は増していき、天に向かって伸びていき、それが二対の翼に変わる。
陽が翼を羽ばたかせると、幾つもの光の粒が生まれた。
これが陽の本当の姿。天使としての姿。夜乃の目の前に見える天使は、自分をお姉ちゃんと呼んでくれる小さな男の子ではない。
翼の姿を表わすと、天使の姿はヒトには見えなくなる。本来天使はヒトが認識できない存在であり、翼を解放することでヒトから天使に戻れば、もうヒトには認識できないのだ。翼の眩い閃光も見ることは出来ない。翼を解放し、天使の姿になる直前までその姿を認識していれば、変化が起こったくらいは分かるだろう。車両を破壊した人物、黒い翼の男も乗客は認識できていない。見えているのは夜乃と、天使たちだけだある。
陽の翼を見ると息が詰まる。これから彼がしようとしていることが想像出来るからだろうか。それよりも、もっと他に大きな理由がある気がしてならないが、それが何なのか夜乃には分からなかった。
「私たちも安全な場所に移動しましょう」
夜乃の震える手を晴が握った。彼女の背にも大きな二対の翼が見えた。まるで太陽がもう一つ存在しているようだった。なんて威圧感のある太陽なのだろう。
「大丈夫。ルルエルは負けないわ。すぐにファレグが助けに来るだろうし」
ファレグ、ルルエルという名が誰を指しているのか一瞬分からず、陽と幸人のことだと分かるのに数秒かかった。
微温湯に浸る幸せを奪われるのに合図などない。今まで何度もこうして奪われてきた。
天使だとか、サンダルフォンだとかそんなことを一切忘れて、目を背けて穏やかな時を過ごす。それが夜乃の願いだ。
叶わぬ願いと分かっている。仕方のないことだと分かっていても、嫌なものは嫌だ。
晴に抱き抱えられ空を舞う。落ちないように必死に晴の身体にしがみつく。
広がる空に閃光が走った。陽と、何かがぶつかり合っているのだろう。衝撃が光になって身体に伝わる。何が起こっているかは分からない。何をしようとしているかも考えたくもない。
やっかいな相手だと陽は心の中で毒つく。晴の言う通り油断は出来ない。まさか、ここまで高位な堕天使が無差別にヒトを襲うとは。
陽と対峙する堕天使の翼は二対、大きさも陽の翼と匹敵する。
趣味の悪い金髪の髪を男の癖に女のように伸ばし、素肌にジャケットを羽織り、同じ素材のズボンを履いている。適当に見つけてきた衣類を身に纏っただけの姿に違いない。身だしなみを意識する人間とは違う。ヒトの形をした肉体に堕天使が宿ったのが一目で分かる。
「何の目的であんなことを?」
「身体が手に入ってな、どんなものか確かめたくてね」
「そんな理由で暴れるのか。力の使い方が分からないみたいだね。まぁなんにせよ、ヒトに手を出したんだ。見逃せないよ」
普通のヒトの身体では天使の力に耐え切れず崩壊してしまうのだ。天使の身体は天使が作る。堕天使の身体は堕天使が作る。だが作ることのできる身体の数は限られている。天使にとっても、堕天使にとっても器となれる肉体は貴重なものなのである。
「神の飼い犬が偉そうに。自身の力も扱いきれぬ癖によく言う」
「確かめてみる?」
男と話してみて、一つ安心出来たことがある。この男は夜乃が電車に乗っていたことに気付いていない。やはり、力を持っているだけの堕天使だ。頭は足りていない。
ゆっくりと男が陽に向けて手をかざした。
空が軋む音が響く。男の手から衝撃波が放たれ、陽に襲い掛かった。だがそれは陽に届く前に見えない何かに阻まれる。男の放った衝撃波は陽の髪を揺らす程度しか影響を与えられていない。
「この程度では怯まんか。面白い」
自分の攻撃で傷が付かなかったのが男を喜ばせたのか、唇を歪めて悪趣味な笑顔を作った。
狂気の笑みを浮かべたまま、一瞬で陽との距離を詰める。
零距離。
意外と、早い。
「くっ!」
男の衝撃波が陽を弾き飛ばす。
鈍い痛みが走るが、身体が動かない訳ではない。ただ先手を取られただけ。腹が立つし、単純に気分が悪かった。
後手に回るのは性に合わない。
追撃に距離を詰めてくる堕天使を迎え撃つ。
「素手じゃあしまらないね……!」
陽の手の付近、空間が歪む。陽の掌に力場が生み出されている。先刻男が放った衝撃波と、それを防いだ力、ヒトの言葉を借りるなら魔力と同じ物だ。
力に形はない。だが形を与えることは出来る。歪みが広がる。長く、細く伸びていく。
それは透明な刃、陽が作り出した長剣。陽はそれを掴んだ。目前に男は迫っている。
何の躊躇いもなく透明な刃で正面を薙ぐ。遥か先の雲までも切り裂く程の神速の一撃。その一撃は文字通り空を切った。
目標だった堕天使は上方に見えた。この一撃で終わるような相手ではないことを陽は分かっている。
「危ない危ない。器用なものだな。だが、その程度なら俺だって出来る」
堕天使周辺の空間が歪み、何かを握る。陽の持つ得物と同じような見えない刃を作り出した。
「そんなこと、自慢にもならないよ」
嬉しそうに自分の真似をする堕天使が哀れに思えてきた。この程度のこと、力の扱いに慣れれば誰にだって出来ることだ。特別な特技でもない。
絶対的有利を確信した笑みを浮かべて堕天使が陽に切りかかる。
力任せに振り下ろされた斬撃を受け止める。刃と刃が重なり合う瞬間、閃光が生まれる。
二人を覆う程の光の爆発。
光の中、堕天使と視線がぶつかる。男の歪んだ口元が陽の神経を逆撫でした。気色の悪い顔だ。
陽は渾身の力で男の見えない得物を支える。腕が震えている。気を抜けばそのまま身体が二つに分かれてしまう。
力は凄まじいが、受けきれない程ではない。癪だが、守りに徹すれば好機は見つかる。
腕に更に力を込め剣を弾き返す。体勢が微かに崩れた。そこに魔力の白刃を疾走させた。
牙は駆け抜けることなく遮られる。再び生まれる閃光と刃の慟哭。空気の震えが四散する。
――さてね、ファレグが来るまでは粘らないと。
幸人が近づいているのを陽は感じていた。派手に戦っているのだから、幸人が気付かない訳がない。
剣を鍔せりあっている堕天使は援軍の存在に気付いていないようだった。戦いに夢中で幸人の気配を感じていないらしい。
刃を引き一旦距離を取る。この男と力比べをしたところで勝ち目はない。
「どうした。攻めてこんのか」
「馬鹿みたいに攻めたって意味がないだろう」
「虚しい強がりだな……!」
そして剣撃が再開される。陽は襲い来る凶刃を確実に受け止め、すべてを受け流す。堕天使には受けるのが精一杯なのだと思わせるように。
男の顔は見るに耐えない程に歪んでいた。陽を切り刻むことしか考えていない、冷静さを失った狂人の顔だ。
頭の中に声が響いた。その声が誰のものかもすぐに分かった。
――遅れて申し訳ありません。ルルエル様。
――気にしないでいいよ。こいつ、君に気付いてないみたいだから、後ろからやっちゃってよ。ずっと受け続けるのもくたびれてきた。
――……了解しました。
歯切れの悪い返事を最後に声が途切れた。幸人の性格的に不意打ちに抵抗があるのだろう。だが、残念ながら陽にそんなものは欠片もない。気付かない相手が馬鹿なだけ、程度にしか感じていない。
囲まれていることにも気付かず、一心不乱に剣を振り回す男が陽には滑稽に見えてならなかった。
自然と嘲笑が零れる。
「これから俺に殺されるのがそんなに可笑しいのか」
男が陽に笑い返した。何も知らない愚かな男が笑っている。
――あぁ、可笑しいさ。最高に笑えるよ。
必死で自制するが、そろそろ限界に近い。
駄目なんだ。こんな顔をしちゃいけないんだ。こんな下品な顔を見せちゃいけないんだ。でも、もう我慢の限界だよ。
「だからお前は馬鹿なんだよ」
自分でも分かる。醜く顔が変化していくのが。自分の中で、最も凶悪で、残酷で、残忍な表情が目を覚ます。
笑って、笑って、笑って、男を見る。男の背後から無表情のまま近づく幸人の姿が見えた。
空を裂く音が届いた。
男は焦り驚き、慌てふためき、子供のように狼狽している。当然だ。突然背後から斬り裂かれ、片腕がなくなったのだから。
切り落とされた片腕は血を垂らしながら落下していき、腕は弾けて黒い羽に変わった。紅い空を黒で汚していく。
「……き、き、きさ、まぁぁぁぁ!」
自分の知恵足らずを棚に上げ、火でも吐きそうな勢いで男が叫ぶ。
「ははっ、それじゃあさようなら」
怒り狂う顔を見られただけで満足だ。だから、もう男は必要ない。
はたきを振るうように軽く刃が駆け、男の首が身体と別れた。
声もなく男が堕ちていく。血も肉も弾け、羽になり空に広がる。空に花を咲かせたように。
「無事で何よりです。ルルエル様」
「……あぁ、ご苦労様」
陽が肩で息をしながら掌で顔を覆う。布を被せるように指を広げ、顔を隠した。顔全てを隠すには圧倒的に面積が足りないが、それでも陽は顔に手を被せたまま離そうとはしない。
倒すべき敵が消え、感情を高める必要もなくなった。陽の感情の昂ぶりは幻だったかのように消え去っていく。眠らせていた残虐性だけを刻み込んで。
「サンダルフォン様のところへ向かわなくてよろしいのですか」
「この顔でサンダルフォン、いや、夜乃に会えって? 夜乃を怖がらせたくないよ」
手で覆った醜い笑顔はまだ消えない。まだ沈もうとはしない。
「家まで運んでくれるかな。この姿は疲れる」
「了解しました」
「それとさ、ファレグ。サンダルフォンじゃなくて、夜乃って呼んであげなよ。そっちの方が夜乃は喜ぶ。ね、幸人」
「……努力します」
苦い顔をして、幸人が陽を抱えて羽ばたく。
空の一欠片が黒く染まった。陽が事を成したのだろう。夜乃の身体に、突風が吹きぬけるように寒気が全身を駆け巡り、血の毛が引いていく。
陽が堕天使を殺した。どうということのない天使たちの日常だ。今回が初めてではない。いつも道端に広がっている黒い羽の花。見慣れた惨状。ただ、陽がそれをしただけなのだ。
なのに何故、こんなにも落ち着かず、身体は硬くなっていくのだろう。足に上手く力が入らなかった。
いつもそうだった。何度目になっても、慣れることはない。
風にもなびきそうな危うい夜乃の身体が崩れ落ちていく。
「夜乃様、大丈夫?」
「うん。――多分、大丈夫」
晴の小さな身体が夜乃を支えた。腰を地面に打ち付けることなくゆっくりとへたりこんだ。
「大丈夫じゃないよね」
「そうかな。でも、大丈夫だと思う。だって、仕方ないじゃない。これが、陽君たちの仕事なんでしょ」
後ろで身体を支えてくれている晴に夜乃が言う。仕方のないこと。今もその言葉に頼っていた。
「無理しないでいいのよ。私たちのこと、怖いのなら怖いと言ってくれた方が楽だわ。夜乃様に無理して嘘をつかれるよりは」
「でも、私は怖いだなんて思いたくないの」
「そう言っていっつも無理してる。それって結構つらいんだから」
晴の腕が夜乃の身体を少しだけきつく締める。思いを伝えるためだけに力が込められる。
すぐには口を開かなかった。短い沈黙も、晴の繊細な腕が気を紛らせた。
晴に抱きしめられている。それだけで夜乃は満足していたし、それに返すべき言葉なんてないと感じていた。黙って抱きしめられていることが晴への返事に最も適しているように思えた。
「夜乃ちゃんが私たちを怖いって思う時があっても大丈夫だよ。友達だって思ってくれてるのは分かってるから。だから、無理してまで自分の気持ちを隠すことないよ。何があっても夜乃ちゃんとは友達だよ。夜乃ちゃんのこと、大好きだもん」
絵本を読み聞かせるように晴が語る。土が水を吸うように、晴の声すべてが自分の中に染み込んでいく。
天使としてではなく、晴としての言葉だ。夜乃にはそう聞こえた。
「……うん。ありがとう。ごめんなさい」
そんな晴の優しい言葉を聞いても、答えられたのはそれだけだった。
1―4
昨日の事件はくどいくらいにニュースに流れた。自分の身に起きたことだと言うのに、遠い国の出来事のように夜乃はそのニュースを見ていた。一晩過ぎれば、それはもう拾いに戻れないくらいに離れていく。
「お姉ちゃんー、喉渇いたー」
「夜乃ちゃんわたしもー」
テレビをぼーっと眺めていた夜乃を呼ぶ二つの声。晴と陽の物だ。
夜乃は二人の面倒を見るために双子の家にいた。昨日、天使の力を解放したせいで身体に負担がかかり、二人とも38度前後の高熱を出していた。二人の両親は共働きのため、看病をする者を家族以外に頼るしかなく、休日で暇をしている夜乃がその役を買って出ることになったのだ。
パジャマ姿でソファに座る双子は元気そうにも見えるが、体温を測ったのは夜乃だ。仮病という可能性は信じたくなかった。
「ちょっと待ってねー。ポカエリとジュースどっちがいい?」
冷蔵庫を開き中身を確認する。容量一リットルのペットボトルが二本。スポーツドリンクとリンゴジュース。二本共夜乃が二人のために買ってきたものだ。
「ジュースー」
「ポカエリー」
二人の声が重なる。昨日の頼もしい姿からは想像出来ないような、甘えん坊な子供だった。演じているのではない。この仕草も二人の一部だ。
「アイスが食べたいわ」
「僕はあんぱんが食べたい」
「さっき食べたでしょー。熱ある癖に食欲はいつも通りなんだから」
食料も差し入れに幾つか買ってきたのだが、昼前にして二人はすべてを喰らい尽くしていた。
夜乃がコップに注いだアクエリとジュースを二人に手渡し、ソファの真ん中に座った。
「美味しいもの食べないと元気がでないの」
「ていうか、ちゃんと横になってないと駄目でしょ」
「退屈だもん。そんなのやだ」
「もう、一応病人なんだよ」
愛らしくも感じる二人の我侭を聞き流す。すべてを聞いていたらきりがない。甘やかしてはいけない。
学校に行くよりも疲れるかも知れないが、充実した一日になるに違いない。
今日は可愛い天使たちの相手をしなくては、と溜息をついて気合を入れた。
昼過ぎ、双子は眠ったまま起きない。退屈と文句をつけていても、疲労には逆らえなかったようだ。
昼食も簡単にしか食べていなかったせいか、半端な時間に空腹が訪れていた。
物音のない部屋に呼び鈴の鳴る音が響く。夜乃は他人の家にいることを思い出した。
正直に事情を話せば大丈夫だろうと判断し、外に聞こえるかは疑問だが「はーい」と声を上げ玄関に向かった。
ドアを開くと、ビニール袋を手にさげた幸人が立っていた。緊張しているような、固い表情でこちらを見ている。
何故幸人が、という疑問のせいで言葉が出ない。沈黙が気まずい。
「あ、あの、こちらで二人の看病をしていると聞いたので、差し入れを」
なるほど、と夜乃は心の中で呟く。納得できる理由だった。手にあるビニール袋の存在理由も理解した。
「――ご迷惑でしたか」
「あ、いやいや。全然大丈夫だよ。むしろ凄く良いタイミングだし」
気が抜けているだろう顔面に気合を入れる。紙を捲るように、対人用の表情を作った。
「ちょうどお腹空かしてたところだったんだよね。えーと、他人の家だけど、上がって」
意識して作った笑顔だが、幸人の訪問に心躍らせている自分を夜乃は否定しなかった。
双子の天使と幸人は親戚のようなものだから、幸人を勝手に家にあげても特に問題もない筈だ。
「よ、良いのでしょうか」
「大丈夫でしょ。せっかく来てくれたんだし、退屈してたし、話し相手になって。お願い」
自分の願いを幸人を断らないのを分かっている。分かっていて頼みごとをする自分は汚いのかも知れない。
「……それでは、失礼します」
夜乃は、戸惑いながらも自分の声に従い靴を脱ごうとする幸人を見ながら、そんな自分も悪くないな、と思った。
半ば無理やりに家に連れ込んだのは良いものの、話題が見つからなかった。テレビに映るワイドショーの音声だけが流れる微妙な空間の中、夜乃と幸人がソファに並んで座っていた。幸人が持参した差し入れのケーキはすでに食べ終えている。
話したい事はあるのだが、話題に適しているかと問えばそうではなかった。
場の雰囲気だとか、場を包む波長の最大値最小値の見極めだとか、諸々の項目をすべて把握し、絶妙のタイミングを狙わなければ自分の口から言葉が滑り出ていきそうになかった。
単純に気まずいだけの事を小難しく考えてみたのは、少しでも肌に貼りつく拘束感が和らいで欲しい、というささやかな願いがあったからだ。
いつまでも黙ったままでは幸人を家にあげた意味がない。
「幸人君ってさ、昔から私に敬語使ってたっけね」
「はい。ずっと、無礼がないようにと心がけていますので」
「敬語で話すのってさ、学校で私だけだよね」
「他の方々にも敬語を使うと群れに入っていけないというか、普通の学生らしく振舞うのも俺の仕事のようなものですから」
軽く幸人が笑った。夜乃には作り物のようには見えなかった。夜乃が言わんとしていることに気付いていない証のようにも見え、それが歯痒く感じ、溜息をつきたくなる。
「あのね、やっぱり私とは普通に話せないの?」
「普通に、とは?」
夜乃は溜息をついた。
「敬語を使うなって言いたいの。私以外の同級生と普通に話しが出来るのに、何で私とは出来ないかな」
想像以上に上手く噛み合わない会話に、微かに苛立ちを覚える。
「それは……夜乃様に無礼があってはいけないと」
「夜乃様っていうのも嫌だな。サンダルフォンはもっと嫌」
幸人は返事をしなかった。その代りに笑みは消え失せ俯きがちになっているのを横目で確認した。
「正直言うけどねー、ちょっと寂しいんだよ。皆と違う話し方されるのってさ。わたしたち、ちっさい時から一緒にいたのにさ、なんか他人みたいじゃない」
次は何と伝えようか悩んだ。伝えたいことは一つだけではないから。優先順位はどうなっているのだろう。頭の中であれこれと言葉を並び替え、番号を振っていく。一番伝えたいこと、二番目に伝えたいこと。三番目に伝えたいこと……。
話題がないが話したい事はある、という最初の気持ちと同じく。伝えたい事と、伝えられる事はまた別の問題だ。
ワイドショーの音楽が場を繋ぐ。
三番目に伝えたいことなら、大丈夫だと夜乃は判断した。
「私がサンダルフォンで、皆が私を守ってくれてるのは分かってるし、感謝もしてるんだけど、私は夜乃だよ。サンダルフォンなんて知らない」
「……申し訳ありません」
「ごめんでいいじゃん。てか、謝らなくてもいいんだけどね。ごめん。でも、その、とりあえずさ、本気で私は注意してるっていうの、知ってて欲しいんだよね」
「……はい」
本音を伝えると何故こんなにも疲れるのだろう。黙っていればよかったと思えるくらいの精神的な疲労に襲われる。
こんな日もあるか、と夜乃は無理やりに自分を納得させた。
ドアに耳を当て、パジャマ姿で息を殺す二人。身体の発熱のせいで少々息が荒くなっているが、ドアの向こうにまで聞こえるような荒々しいものではない。息を殺して物音を立てずにいることが重要だ。
「何だか良い雰囲気だね晴ちゃん」
「そうね。幸人君もやるわね。家に押しかけてくるなんて」
音を立てると夜乃に気付かれるかも知れない。笑いを堪えるのに晴も陽も必死だった。ここでドアを開いてリビングに突撃を仕掛けたら二人はどんな反応をするだろう。想像するだけでまた楽しくなってくる。
「これからどうなるかな」
「これ以上期待は出来そうにないけれど、だけど、大きな一歩だと思うわ。夜乃ちゃんも女の子よねぇ、やっぱり」
「でも、幸人君は馬鹿だからね。なかなかじれったい感じになりそう」
「憎めないお馬鹿よね」
等と、盗み聞きされていることを、夜乃と幸人が知る余地もなく。
2―1
明樹市は海に面しており、海岸付近は工業地帯に発展していった。工業地帯には民家も少なく、工場の従業員以外に立ち寄る者は殆どいない。
そんな人気のない工業地帯の路地裏に黄昏の灯りが差し込み、アスファルトを隠す黒羽を照らす。羽が光を吸い込み、色彩を強めているように見えた。
一見羽が敷き詰められているようにしか見えない。だが、その場所に充満する咽る程の強い匂いの説明がつかない。
密度の高い匂いが脳をかき乱し、内から外に響く鈍い痛みに襲われる。その香りに身体が反応していた。そうなるように身体が作られているのは分かっている。何の匂いに反応しているかも分かる。
鮮やかに届けられる血の香り。それが頭痛の元凶だ。鼻腔だけでなく皮膚から、服越しにも血の香りを感じる。
血の匂いがするのは黒羽が赤い水溜りを隠しているからだ。羽に埋もれかけているヒトの死体も確認できた。
鈍痛に耐えかね、額を押え叶は目の前の異空間を眺める。命が失われていなければ絵画にも見えなくもない。紅と漆黒で彩られた幻想的な芸術作品。だがこれはそんな見栄えの良いものではない。ヒトの死体に堕天使の死体が重なっているだけの惨状だ。
ヒトの死も、堕天使の死も叶には見慣れたものだが二つ同時に起こるのは珍しい。
堕天使はヒトを殺す。目の前の死体も堕天使に襲われたのだと分かるくらいに形が崩れている。だが、何故堕天使の死体も一緒にあるのか。第三者がいたというのか。
ここで考え込んでも答えなど出そうになかった。頭痛に耐え続けることが最善の選択肢だとは思えない。それに、時間が余っている訳でもない。
パートタイムの時間まで後数分。本来は寄り道などする予定はなかった。遅刻は免れない。
叶は携帯を取り出し二箇所に連絡をした。一つ目はパート先のスーパーマーケットに遅れるという事を伝え、二つ目は警察に殺人が起こったことを伝えた。
仕事が終わるのは基本午後一〇時。閉店が九時三〇分。片付けの進み具合で仕事の終了時間は異なる。今回は少しだけ早く帰ることができた。
家に中に入ると、奥のダイニングキッチンで退屈そうに肘をつき、テレビを見つめる詩縫の姿が見えた。昨日もこうしてテレビに噛り付いていた。詩縫の隣には夜乃がいた。二人とも同じ姿勢をしている。
二人の仲の良い姿を見ていると気持ちが安らぐ。疲れも彼女たちが癒してくれているようだ。
「ただいま戻りました。今日はコロッケと鶏の唐揚げがもらえましたよ」
叶の帰りに気付いた詩縫たちが振り向き、綿のような笑顔で叶を出迎える。
「あ、お疲れ様です叶さん。おかえりなさい」
「おかえりなさい。まぁ、今日もごちそうね」
詩縫と夜乃が並ぶと詩縫の方が幼く見える。完全に土産に喜ぶ子供と化していた。それが詩縫らしさだと叶は知っている。そういう純粋な所が彼女の魅力だ。かなりおっとりとした母のせいで、夜乃は人一倍しっかりとした性格に育ったのだろう。
「さっそくお夜食にしましょう」
叶がぶら下げていたビニール袋を取り上げ、詩縫が電子レンジの中に入れる。
「ちゃんと晩御飯食べたのに。なんか節操ないよお母さん」
「えー、だったら夜乃ちゃんの分も私が食べるわ」
「そういうことじゃなくてー。全部食べちゃ駄目だからね」
レンジの中で回る皿を新種の動物を見るみたいに目を輝かせて見つめる母と、呆れた顔で母を見つめる娘。
「あの、詩縫。お夜食の前にお話ししなければいけないことがあるのです」
「あら、何かあったの?」
「今日の夕暮れ時のことなのですが、人間が堕天使に殺されたようなのです」
「……それはまた物騒ね。加害者の方は見つかったの?」
詩縫の雰囲気が変わっていく。表情も態度も見た目には変化はないが、叶は変化を感じ取った。
「いえ、それはまだ見つかっていません」
かん高い電子音がなりレンジの回転が止まる。詩縫は中から湯気を放つビニールパックを取り出しながら叶の方を向く。
「夜乃ちゃん、お箸取ってくれる?」
「ちゃんと聞きなよ。真面目な話なんでしょ」
「わかっているわ。でも、食べながらでも聞けるでしょう」
「それが駄目だって言ってるの。食べたいなら自分で取って」
「夜乃ちゃん、別に気にしないでいいんですよ。詩縫はちゃんと聞いてくれていますから」
叶は詩縫を庇ったが、結局温めた夜食は箸はまだつけられず、テーブルの中央で芳しい匂いを発し続けていた。
夜食を囲んで三人がテーブルに着く。
「ほらぁ、叶はちゃんと分かってるのよ」
「叶さんが良いって言っても駄目。基本的な礼儀の問題でしょ」
夜乃は一歩も引く気はないようだ。だが、食べながら話を聞く聞かないで議論をしていては話が前に進まない。夜乃もそれを理解しているようで、さっきの言葉を最後に何も反論はしなかった。
「それでですね、ヒトの遺体と一緒に、堕天使の遺体も一緒にあったのです。天使様の方からは何か報告等ありましたか?」
詩縫は明樹市に存在する天使たちの長である。天使が堕天使を倒したとしたら、その旨を長である詩縫に報告が入る筈だ。
「いいえ、そんな話は何も聞いていないわ。だとすると、堕天使が仲間割れでもしたのかしらね」
「そうですか。何にせよ、気をつけなくてはいけませんね。堕天使ではない可能性もありますし」
「報告ありがとう。ちゃんと皆には知らせておくわ」
「はい、お願いします」
会話が途切れた。報告すべきことがあると言っても、叶も多くの情報を持っている訳ではない。
「それじゃあ、今度こそお夜食の方をいただきましょうか」
「どうぞ。時間を取ってしまってすみません。私は先にお風呂をいただきますね」
お預けを解禁された詩縫は、余り物の総菜を誰よりも美味そうに食べる。その顔は見ていて気持ちがよい。
2―2
夜乃が学校に行った後、八時過ぎになると詩縫の身体は動き出す。今朝は夜乃と朝食を食べることなく眠り続けた。叶が用意しておいたトーストと目玉焼きは冷めていた。
普段よりも少しばかり多く寝たにも関わらず、詩縫は普段の朝と変わらないふやけた顔をして目を擦る。テーブルに着いたらそのまま二度寝しそうだ。
「少し温めましょうか」
「――うーん。そのまま食べるわ……」
叶の声には答えることができた。一応頭は覚醒しているらしい。
草を頬張る牧牛のようにもそもそと冷めたトーストを齧る。口は動いているがなかなか噛みちぎることが出来ない。
そんな詩縫の仕草を、洗い物を片付けながら眺めるのが叶の朝の日課だった。
緩やかに、叶たちの一日は始まる。
すべての家事を叶がこなしているので、詩縫に仕事はない。基本的には暇を持て余している。叶も、洗濯、掃除等主な家事を済ませば暇になる。仕事が終われば淡い眠気に任せ、眠気に支配された時はダイニングのテーブルでうたた寝をすることも多い。
一方、時間があり余っている詩縫は、小学生向けの計算ドリルを説くことで時間を潰していた。現在、九九を暗記中である。
詩縫が下界に降りた目的は、サンダルフォンの魂が宿る夜乃を育てるためだった。なので、幸人や、晴、陽のように学校に通うタイミングがなかった。
天使に学問に触れるきっかけなど殆どない。歴史などは人間の短い歴史程度ならば諳んじることもできるし、読み書き、様々な言葉も扱うことができる。だが、数学、物理、化学辺りは馴染みもない。知らなくても問題がないからだ。それらを知らなくてもヒトを守ることはできる。堕天使と戦うこともできる。
詩縫が暇を持て余して、勉強に目覚めたのは夜乃が高校に進学した時だったように思う。それからゆったりとした速さで、小学校の勉強内容を習得していった。
「叶、聞いて! 私、とうとう七の段を全部暗記したのよ。聞いてくれる?」
ベランダに洗濯物を干していた叶を捕まえ、詩縫が無邪気にはしゃぐ。手には可愛らしいキャラクターがプリントされた縦長い冊子を持っていた。小学校低学年向けの計算ドリルだ。
「それはおめでとうございます。聞かせてくれますか」
「ええ。こっちに来て。ちゃんと聞いてほしいのよ」
強引に叶の腕を引っ張る。洗濯物はまだ全部干せていないが、詩縫のささやかな願いは断れない。詩縫に引き摺られ、ダイニングに連れてこられた。
「それじゃあ行くわね」
「はい」
早く告げたくて我慢できない、と弾けそうな果実のような顔をして詩縫が息を整える。
「なないちがなな、ななにじゅうし……」
ぎこちなく、たどたどしい舌使いで順に諳んじていく。今のところ順調だった。だが、どこででも引っ掛かりそうな危うさもあって、叶は微かに不安を抱きながら、詩縫の挑戦を見守る。
「ななろくよんじゅうに、なななな……よん、じゅう……」
零れた硬化が転がるような速度で流れていた詩縫の声が澱んだ。
「よんじゅう……」
「四十九ですね。まだすべて暗記出来たとは言えないみたいです」
「……うん」
首が頭を支えるのを拒否したみたいに、詩縫の頭がテーブルに自由落下する。落胆、という言葉がよく似合う。
「頑張りましょう。一の段から初めて六つ段を暗記できたじゃないですか。焦らず、のんびり行きましょう」
「そうね。こんなことでへこたれてはいけないわね」
「はい。掛け算ができるようになったら次は割り算が分かるようになります。それができたら分数だってできるようになりますよ」
「分数と言えばあの棒で上下に数字があるものよね。あの記号は掛け算割り算が分からないと理解できないの?」
「えー、と、少し難しいと思います」
「そう。でも楽しみだわ。今日は七の段を完璧に覚えることにします。また聞いてくれる?」
「はい、喜んで。それでは、あの、洗濯物の方を干しに戻ってもいいですか?」
「あら、途中だったの。気付かなかったわ。ごめんなさい」
手品の種明かしでもされたかのように詩縫が驚いて見せ、その後に照れくさそう笑った。
「こちらの仕事が終わったら、一緒に勉強しましょう」
詩縫の笑顔は周りに伝染する。彼女と一緒にいるといつも笑顔が絶えない。それはとても素敵なことだと叶は思う。
洗濯物も残り少ない。掃除は、今日はまだ必要ないだろう。よって、洗濯物を干し終われば、昼食の時間までは仕事はない。
ベランダに戻った叶は詩縫の最終的な目標を思い出す。夜乃に勉強を教えたいのだと詩縫が嬉しそうに話してくれたことがあった。
和差積商が出来るようになっても、関数に図形、試練は多い。それらを理解する頃には、夜乃はもう学生ではないかも知れない。
だが、そんなことを、詩縫に言える筈がない。
仕事に行き、時間が来たら家に帰る。そのサイクルを繰り返すのが叶にとっての、本当に意味での仕事とも言える。服装はいつもと変わらずTシャツとジーンズだ。叶はあまり服装には拘らない。
月が見えないが、場所によっては明るい夜道を歩いて帰る。車の免許は持っているが、最近はガソリンが高くて乗っていない。電車が運休になった時に晴と陽、夜乃の学校の送り迎えに乗ったのが最後だった。
そもそも、車などなくても一人で移動するのには困らないのだ。走れば車並みとは言えないが走る事を仕事にしている人間よりも早く、長い時間を走ることができる。常人以上の動きは必要に迫られた時にしかしないようにと、叶は自分を戒めている。ヒトの生活に溶け込むこともまた重要なのである。
だが、今は例外だった。人の疎らな歩道を弾丸のような速さですり抜け、路地に潜り込む。
叶を遮る物がなくなり、より加速して走る。不吉な風が叶を誘っていた。
細く、左右を草花で挟まれ、更に柵で挟まれた遊歩道を走る。住宅街からも離れ、工場からも離れた道だった。普段は散歩道として親しまれている道である。人が三人も横に並べば狭く感じる程度の幅の道の中央を走る。注意するような物は何もない。道も殆ど直線なのもあり、叶は全力に近い速度を出していた。もし、この速度でヒトとぶつかれば相手は玩具のようにバラバラになるだろう。そんな心配も必要なかった。
風の濃度が増していく。それに比例して鈍痛も酷くなっていった。元凶は近い。
長い間隔で立てられた街灯の明りが叶の足元を照らす。幾つか先の街灯が照らす箇所に、灰色の地面ではなく人影が映っている。
ヒトでは人影しか認識できないだろう。だが、叶にはそれ以上の物が見て、感じることができる。
人影の足元に広がっているものが液体で、その液体が何色をしているかも、叶には見えるのだ。暗がりだろうが、どこであろうが。
生命の赤を見た。濁った色。醜いと感じてはいけない。それは尊い物だから。
下半身へ急停止の信号を送る。叶の命令に忠実に、足は動きを止める。常人離れした叶の肉体でも、慣性の法則を無視することは出来ない。超速度で運動していた物体の動きを止める。それ相応の力が叶に襲いかかる。
全身を駆け巡る苦痛を歯を食い縛って耐えやり過ごす。衝撃に地面が耐えきれず抉れ、小型の爆弾が爆発したかのように破片が飛び散る。靴は使い物にならなくなっていた。
身体の中に衝撃が巣食っているのを感じながら、街灯の真下に見える人影を見据える。
性別の分からない中世的な顔立ちの人が、足を組み柵に腰を下ろし、空を見上げていた。黒いストレートパンツに灰色のシンプルなブラウスを着ている。胸の膨らみを見て、叶は男だと判断した。
足元には彼を際立たせるように血が広がっていた。その上に闇夜の黒に紛れて黒羽が散りばめられている。
先日も見た光景だった。唯一違うのは少年がいることだけだ。
「意外と早かったんだね。やっぱり、血の匂いが分かるのかな」
見上げていた顔を下ろし叶を見た。月光のように薄い笑みを浮かべている。邪悪な笑顔だ、と一目見て叶は感じた。
「――やっぱりって? 私を知ってるの?」
「カイン。有名人じゃないか」
纏わりつくような粘着質な声で、愉快そうに少年が言った。
「違うのかい? 咎人カインと言えば、僕たちの間で知らない者はいない」
少年の呼んだ名前が叶の感情をきつく締めつけた。息が詰まる。一時も忘れることのない「カイン」という言葉。
久しく呼ばれることはなかった。詩縫の声が呼ぶ、「叶」という名前に慣れすぎていた。
感情のすべてを被いつく程の違和感に襲われる。
自分でも分かるくらいに動揺していた。少年に自分がカインだと証明しているのと変わらない。
「……貴方がやったの?」
叶は肯定も否定もしない。叶にとって重要なのは、少年が自分の正体を知っているかではなく、足元に転がる死体を作ったのは誰か、ということだ。優先すべきことをはき違えはしない。
「どうだろうね。僕がヒトを襲った堕天使を殺した、と言ったら信じてくれるのかい」
「簡単には信じられそうにないわ。貴方は何者? 先日の事件も貴方が関わっているの?」
「質問ばかりだね。お前はカインなのか、という僕の質問はどこに行ってしまったのかな」
こちらの質問に答える気はないようだ。少年に敵意はないように思える。ヒトを殺したかも分からない。彼について何も情報がない今の状態で、彼に危害を加える訳にもいかない。詩縫と交わした誓いがある。
ヒトとして接してくれる詩縫のために、殺戮者に戻ってはいけない。
「――貴方の言うとおり、私がカインよ」
「やはり、ね。噂は本当だったんだ。本当にカインがヒトに紛れて生活しているなんて」
星明かりのように繊細に少年が笑う。その笑みに込められているものは嘲笑以外に何もなかった。叶自身、当然のことだという自覚はある。
「私の質問にも答えて」
「ヒトを殺してなんていないさ」
うんざりした様子で柵から降り、足元の黒い羽を踏み躙る。同時に血が跳ね上がり、びちゃりと悪趣味な音が聞こえた。
「やったのは堕天使だけ。信じるかどうかはあんたの勝手だ」
叶と少年との距離が縮まる。咄嗟に身構え彼を警戒するがやはり、敵意は感じられない。
最低限の警戒を張りながら少年の言葉の真意を探る。長くは考えられない。結局彼の言葉を信じることにした。
「何の目的でこんなことを」
「あんたに会いたかったからさ。血と羽の匂いにあんたが敏感なのは知ってる。だから用意したまでさ。もちろん、僕はヒトを殺していない。ゲスな堕天使が殺したんだ。僕はそれを殺した。ヒトに害をなす堕天使を駆除しただけ。見方によっては、あんたの協力者だ」
絶対的な自信を持って少年が言う。叶には何ひとつ共感できるものがなかった。
「何が協力者だ。ヒトを見殺しにしておいて」
「僕を殺すの? 僕は堕天使を殺しただけなのに? 見殺しだなんて随分な言い方じゃないか。間に合わなかったんだよ」
薄ら笑いを浮かべて言われても説得力がない。だが、絶対に嘘だと判断できる証拠もない。
歯痒い気持ちが無意識のうちに握り拳を作っていた。
「……貴方は一体何者なの」
叶をカインと呼べるのは、ヒトが知りえない知識を持っているということだ。しかも、堕天使を殺せる程の力を持つ。恐らく、ヒトではない。
「グリゴリ、さ。もうすぐ堕ちるけどね。あんたもよく知ってるだろう」
グリゴリ。遥か過去に、ヒトの監査役として天から派遣された天使団の名称だ。彼らはヒトの監査を続けていたがヒトに魅了され、グリゴリの過半数がヒトの共生を選び堕天している。歴史的な集団堕天の一つである。堕天しなかった天使たちは未だに人間の監査を続けている。
叶はその一団を良く知っていた。離反者の処罰を命令され、何人もの天使を殺したことがある。
「あれだけ殺しまわった癖に、ヒトの一人や二人で何を怒っているんだい。アルマロスも、ガドエレルも、ペネムエも、みんな殺した癖に」
曇天の空よりも暗い声なのに、口調は糸でも弾くように軽い。彼の不釣り合いな声音が叶の戦意を削いだ。握りしめていた拳から力が抜けていく。
「あんたが解放されたと知ってからずっと探していたんだよ。あんたに復讐できるのなら、僕は空から堕ちたって構わない」
声が刃になって喉元に突きつけられたような気がした。背筋が凍る。声に乗せられた殺気は、形は見えなくとも確実に喉元に存在している。
「今すぐやりあおうとは思っていないよ。今夜はあんたに挨拶するのが目的だったからね」
声が出なかった。彼の攻撃的な笑顔を、唾を飲んで見つめることしかできない。
自身の過去に眠るもうひとつの自分を垣間見る。
カイン。私の名前。殺戮人形。
人殺し。
思い浮かぶ笑顔、最後の表情。
「……っく!」
開きかけた心のドアを必至で押さえた。目を逸らしてはいけない。自分がしてきた行いは消えない。目を逸らすのではなく、耐えるのだ。腕に蘇る感触も、断末魔の声も、飛び散る羽も、すべてを。
透明な力が身体を引き裂こうとしているようだった。
胸を掴む。指が身体に食い込みそうだ。苦痛に顔が歪んでいくのが分かる。
「それじゃあ、また会おう。もうヒトは殺さないと誓うよ。僕の目的はお前だからね」
闇夜に光源が生まれる。それは生き物のようにうねり、羽ばたいた。少年の身体は浮き上がり、叶の手が届かない高さまで浮上していた。
やがてその姿は闇夜に消えた。
一人残された叶は力なく膝をつき、手負いの獣のように荒々しく呼吸を行った。口からは涎が数滴零れた。
もうひとつの名を忘れていない。自身を常に戒めている筈だった。だが、つもりになっていただけだった。
真に自分を戒め続けているのなら、過去を思い出した程度でこうも心を揺さ振られたりはしない。動揺なんてしない。自分を抑え込むのに必死にならなくてもいい筈だ。
なのに、絶望する程に情けない姿を見せた。
忘れようとしていたのか。過去を。今まで殺めてきた者たちを。
――なんて、浅ましい。
力任せに地面を殴りつけた。アスファルトが砕け破片が舞う。急停止した時の衝撃よりも強い力が大地にかけられた。
地面を殴りつけた叶の腕は砕け、締まりきっていない蛇口から零れる水滴のように液体が流れ出ていた。
その液体は、赤くはなかった。汚れた油のような、薄汚い黒色。
骨が見えるくらいに皮膚が裂けているが、叶の表情に変化はない。
死ぬ瞬間の痛みに比べれば、こんなものは傷にも入らない。
家のドアを開くと、玄関に詩縫が立っていた。家に入った瞬間に詩縫に睨まれ、身動きが取れなかった。
「遅い」
一言だけ、叶を咎めるように詩縫が言った。詩縫は笑っていなかった。
今は何時なのだろうか。グリゴリを名乗る天使と出会ってから、どれだけの時間が過ぎたのかも分からず、どれだけの時間をかけて帰ったかも分からない。
「今何時だと思ってるの?」
「……すみません。分かりません」
「一時過ぎ。遅くなるなら、何で連絡をくれないの? 凄く、心配したのよ。何度もメールも、電話もしたのに取らないから……」
「すみません」
携帯の着信音にも気付けない程、ずっと少年の言葉を引き摺っていたらしい。それが今も続いていた。
心底自分が嫌になる。
叶の役目は詩縫の補佐だ。にも関わらず彼女を心配させ表情を曇らす。何のために詩縫の傍に居させてもらっているのか。
今回の失態を無意味に悔み続ける叶を、詩縫は無言で抱き締めた。叶の方が身長が高く抱きつかれたようにも見えるが、叶は抱き締められていると感じた。
後頭部と背に腕が回り叶を抱え込む。詩縫の身体と叶の身体が触れ合い、擦れ合う程に密着する。
詩縫の気持ちが流れ込んでくるようで、叶にはそれがつらかった。
「ちゃんと帰ってきてくれてよかった」
耳元で詩縫が囁いた。か細い声が脳に届いて、彼女を抱き締め返したいと全身に命令を送った。心臓が全身に血液を巡らせるように、どくんと、電気が流れたみたいに意志を感じる。
叶はそれを理性で抑え込んだ。そんな我儘、許されてはいけない。
詩縫に抱き締められている。それだけで十分だ。それ以上を望んでは何も我慢が出来なくなる。
緩い結び目を解くように詩縫の身体が離れる。叶の肩を持って身体を支える。
「何があったの?」
詩縫の表情は和らいでいた。すべてを受け入れる態勢ができているように思えた。
いつまでも落ち込んでいてはいけない。今日あったことを詩縫に報告する義務がある。
「また、ヒトが一人犠牲になりました。それで、今日はその犯人と接触しました。犯人は自分のことをグリゴリだと」
叶は詩縫に今日の出来事を順を追って話し始める。
場所をダイニングに移し、叶の報告を聞いた詩縫は、犯人を逃した叶の失態を咎めることはなく、「御苦労さま」と労っただけだった。
報告が終わった後、詩縫が叶の手を両手で握った。叶が地面に叩きつけ、砕けた拳だ。血の跡が残っているだけで傷はもうなかった。元通りに戻っている。それは叶がヒトではない証の一つだった。
「もう少し自分を大切にしなさい」
傷一つない手を握りしめ、詩縫が言った。詩縫には完治する前の傷が分かるのだろう。血の欠片から悟ったのか、それとも、修復された手の微かな変化に気付いたのか。
どちらにしても、その詩縫の一言が叶を驚かせたのは確かだ。
「貴方が傷つくと、私も悲しいわ」
艶のある手のひらが見えない傷だらけで、血塗られた手を撫でる。本来なら詩縫のような高貴な人物が触れることなどありえないのに、詩縫は丁寧に、愛おしさをも感じられる手つきで叶の手を撫でた。
「――はい。気をつけます」
「ええ。お願いね」
花を咲かしたように詩縫が笑った。こういう時は、笑い返すのが一番の選択支だと詩縫と生活して学習した。
「そろそろ寝ましょうか。夜更かししてしまったわね」
「すみません。付き合わせてしまって」
「謝らないで。私が勝手に待っていただけだもの。それにさっきは怒ったりしてごめんなさいね」
「そんな……。詩縫が謝ることはありません。連絡をしなかった私が悪いんですから」
詩縫の優しさに触れていると、自分が咎人だということを忘れそうになる。
詩縫の優しさが、今は怖い。
逃げるように部屋に戻る。風呂はもう明日で構わない。
部屋に入る直前に、背後から詩縫の声を聞いた。
「お休みなさい。叶」
身体が動かなかった。叶、と呼んだ詩縫の声に釘付けにされた。心が震えている。
詩縫の前では、カインではなく、叶としていればいいのだと言われたみたいで、また、彼女に縋りつきたくなってしまう。
「はい。お休みない」
笑顔を繕い、何とか自室に逃げ込んだ。
一人になりベッドに倒れこんだ。そこで初めて、ジーンズのポケットに入れたままになっていた携帯に気付く。
携帯のモニターには、着信が二〇回、メールが四七件と表示されていた。すべてが詩縫の携帯からの物だった。
メールはどれも叶を心配する内容だった。
泣きたいくらいに嬉しいのに、叶は泣けない。涙は叶の身体に存在していないからだ。
涙を流す感覚と、泣きたい気持ちは消えずにはっきりと残っているのに、叶には涙がない。
瞳に何も変化がないのが分かっていても、叶は掌で目を押さえた。
ヒトでなくなったことを後悔するのは、これで何回目だろうか。
2―3
叶が詩縫に出会うまでは、叶は堕天使を殺し続けるだけの存在だった。ただそれだけのために存在していた。
叶自身、自分にはそれしかないものと感じていたし、何も求めることはなかった。
叶にとって、詩縫は数千年ぶりに与えられた家族だった。叶が詩縫に出会ったのは、サンダルフォンが下界に降りた時だ。
詩縫はサンダルフォン、夜乃を育てるために下界に降りた。叶は、詩縫と夜乃の護衛、生活の補助役として詩縫に呼び寄せられた。
堕天使を殺す以外の命令を与えられたのは本当に久しぶりだった。
まさか、自分がヒトの中で生活することになるなどとは、その時は思いもしなかった。
詩縫はカインという名の他に、カナエ、という名をくれた。そして、ヒトの生活を何も知らない詩縫は叶に何度も頼った。
叶が犯した罪にも、今までしてきたことにも触れず、詩縫はヒトとして叶に接した。
詩縫はただひたすらに温かかった。名前を呼び、労り、甘え、叱った。
殺戮人形だった叶を、ヒトとして扱ったのは詩縫が初めてだった。叶の過去を詩縫が知らない筈がない。知っていながら、詩縫は叶に家族として生きる事を命じたのだ。
詩縫と共に夜乃を育てながら、絶対服従だった天使に対する態度を改める努力をした。詩縫を呼び捨てに出来るまでに一年がかかった。詩縫に自分から話せるようになるまで一年かかった。指示が出せるようになるまでに一年かかった。それまでに数えきれない程詩縫の怒る顔を見た。
シヌイ、と初めて呼べた時の彼女の綻んだ表情を、涙が流せない事を知った時に、抱き締めてくれたことを、叶は忘れない。忘れるなんてできない。
詩縫がいるから叶でいられる。ヒトだった頃の感情を思い出せたのも詩縫のおかげだ。
疲れた時には寄りかかってもいいと、長い時間をかけて詩縫は教えてくれた。誰かに寄りかかることは恥じるようなことではないと気付くのに、長い間時間がかかってしまったと思う。
叶がいつも銘じていることは、本当につらい時だけ詩縫に寄りかかっていい、ということだ。
甘えすぎたら、独りで立てなくなってしまうから。
もう一度叶の前に少年が現れたのは、初めて会った次の日の夜、パート先のスーパーマーケットだった。そこで時間と場所を言い残し彼は去った。
少年の目的は叶への復讐だ。それ以外に興味はないと言った少年の言葉を叶は信じている。だが、叶に対する復讐が、叶の慕う者たちに向けられる可能性もある。少年の指定された場所に向かい、然るべき報いを受けることで、自分以外の者に凶刃が向けられないようになればいい、と叶は願う。
そう上手く行くとは思えないが、それが叶に出来るささやかな贖罪だった。
指定された場所は海浜公園。時間もパートが終わってから十分間に合う。
叶は家には戻らず、真っ直ぐに海浜公園に向かった。指定された時間よりも数十分も早くに着き、来るべき時を待った。今回は詩縫への連絡を忘れてはいない。
後は本当に待つだけだった。繰り返し遠くから聞こえる波の音のように、叶の内面も落ち着いていた。
公園の小高い丘に立ち、暗くて何も見えない海を眺める。風が足元の雑草を撫でた。
叶が詩縫に出会い、夜乃が生まれる前までは、天使の殺戮のために飼われた人形だった。敵を殺す時以外はずっと牢に繋がれていた。今まで、幾千以上の命を狩ってきた。あの少年の仲間も殺した。それは、叶という名を得ても消えるものではなく、永遠に背負っていかなくてはいけないものだ。
今までが穏やか過ぎたのだと思う。こうして、誰かに恨まれ、憎まれるのが本当は当たり前なのだろう。それだけの事をしてきたのだから。
もう迷いはない。昨日、十分すぎるくらいに詩縫には甘えられた。だから、耐えられる筈だ。
「早いね」
「この方が確実でしょう。遅れるよりはマシよ」
背後から聞こえた声に返事をした。この場所に訪れる者は限られている。叶を呼び出した少年の声だった。
叶が振り向くと、薄い笑みを貼り付けた少年が立っていた。
「私を呼び出してどうするつもりなの? 私を殺すの? でもそれは無理よ。私は死ねないから。不死身だって、知らない?」
「関係ない。僕はあんたを殺す」
殺気だった声と共に、少年の背から光が生まれる。くすんだ輝きが羽の形を帯びていく。夜に塗り潰されていた風景を少年の羽の光が塗り替えた。
瞬間、凪いでいた空気に流れが発生した。人為的な流動。それに込められた感情が、全身に針が刺さったかのような緊張感を生んだ。
風を生んだのは少年の動きだった。最高速の車と同等かと思えるくらいの速さで叶に詰め寄る。
叶には少年の動きがすべて見えていた。どのくらいの速さなのかを認識できる余裕もあった。
突進から繰り出される少年の攻撃も、避けようと思えば避けられた。だが、叶はその場から一歩も動かない。
「――かはっ……!」
少年の手槍が叶の身体を貫いた。叶の背から腕が生える。勢いよく血飛沫が舞い、やがて重力に逆らい切れず身体を伝って落下していった。
叶の口から鮮血が溢れる。貫通させられた穴が身体中の力を奪う。体を支える足にも上手く力が入らない。
少年が腕を引き抜く。腕に付着した液体が滴になって空に消えた。彼の腕という支えを失った叶は力なく膝を付く。
「何で避けなかった」
「……よけ、れなかったのよ」
少年を見上げて、叶は笑ってみせた。何の為に笑ったのか、自分でも分からない。自由を奪われる程の痛みを感じて、頭が少しおかしくなっているのか。
少年は無言で叶の顔面を蹴り倒した。西瓜を地面に叩き落としたような、ぐしゃりという音が耳に届く。鼻が砕けたか。
「戦う気がないなら勝手にしろ。簡単には殺さない。不死身なら、出来る限りの苦痛を与えてやるまでだ」
傷口に焼けた鉄の棒を差し込まれているみたいだった。
熱くて、死にそうだ。
「あんたが殺したのは堕天使だ。殺されても仕方のないのかも知れない」
身体の穴を少年の足が踏み躙る。身悶え、声にならない叫び声を上げる。貼り付けにされた昆虫のように、無意味に身体を動かすことしかできない。
「だがね、あいつらは新しい道を見つけたんだ。堕ちることになっても、僕はそれでも構わないと思った。自分のやりたいことがあるのならね」
足が更に叶の身体を押さえつける。このまま踏み潰さんばかりの力だった。
「あいつらはヒトと共に生きようとしただけだ。貴様ら天使たちに敵対した訳でもない。なのに、お前は殺した。先陣を切って、最も多くの命を狩った」
いい加減視界も霞んできた。少年の顔も良く見えない。遠くに聞こえる声を感じながら、少年の怒りを測り知る。
「まだ生きているか?」
吐き捨てるように少年が言った。返事など出来る訳がない。それを分かっていて、あえて少年は問うたのだろう。
叶は律儀に指先を動かした。蟻の歩みよりも小さな微かな動きだが、少年は見逃さなかった。
見えない刃が叶の腕を切り離した。木の枝が転がるように腕が茂みに消えていく。
腕を失った叶は死にかけた魚のように体が跳ねただけで、それ以上の反応を見せられなかった。
「死んだか。何が不死身だ。こうも簡単にくたばるなんてね、期待外れだ」
叶にはそう言っているように聞こえた。はっきりとは聞こえない。水の中から、小さな声を聞いているみたいで、まるで夢でも見ているかのように錯覚していた。
もはや、夢と現との境も曖昧になっていた。
そして、叶の意識は深くに沈んでいく。
沈みゆく意識が二度と這いあがれないところに到達する寸前、血が沸き立つような、鮮明な感覚が叶の感覚を支配した。
叶は死んだ筈だった。だが、叶は死ねない。
ぼやけたままの視界。痛みも曖昧になった身体。自分の身体が何十倍にも膨れ上がったかのように、腕も、足も酷く重たい。
別の身体を操縦するような感覚で、ゆっくりと上半身を起こした。
切り離された腕の切断面からは細い管が、活きの良い蚯蚓がのた打つように暴れ回っていた。まるで何かを求めているかのように。
豹変した叶を警戒してか、圧倒的優位に立っていた少年が叶から飛び退いた。
「――なるほど。それが不死身の身体ということか」
「そういう、こと、よ」
切断面に巣くう蚯蚓の群れが動き出す。触手のように数本の管が伸び、すべてが茂みに潜り込んでいく。その付近には、先刻切り飛ばされた片腕が眠っている筈だ。
生きた肉同士が絡み合い、ぐちゃぐちゃと挽肉を作るような不愉快な音が二人に届けられる。
意志を持った管が片腕の切断面と融合し、それを叶まで引き摺ってくるのにそう時間はかからなかった。
「化け物め」
「こんな身体にしたのは貴方たち天使よ」
その間にも、完全に腕は叶に戻っていた。切り口も分からない程に修復されている。
身体に出来た空洞からも細長い管が生まれていた。それらが絡み合い肉を作っていく。穴を塞ぐのにもそう時間はかからなかった。
次に変化が起こったのは背中だった。
「――ぐぁ……!」
獣のような声で叶が短く喘いだ。
叶の背中で何かが蠢く。もう一つの命がそこにはあるかのように、生まれ出ようと必死にもがいている。背中が沸騰でもしているみたいに、慌ただしく所々に激痛が走る。
その痛みはやがて二つの場所に収束していった。叶の目の前の少年が、背に生やした羽の付け根の位置に、皮を突き破ろうと内部の力が集まっていく。
「がぁぁぁ!」
叫び声は叶の物ではなく、もっと別の、どう猛な肉食獣の雄叫びにも似ていた。だが、紛れもなく叶の口から発せられた物だった。
それは、雄叫びではなく、産声なのかも知れない。
叶の背中に翼が生まれていた。夜の黒の中でも禍々しい程の存在感を放つその翼は、夜空を被いつくす程の大きさだった。少年の羽の三倍以上の大きさはある。
天使や、堕天使の持つ光の翼ではなく実物の、質量を持った現実の翼だった。
巨大な翼は生まれて間もなく、朽ち始めた。枯れ木から葉が落ちるように大量の羽が抜け落ち、それが粘着質を持った得体の知れない液体に変わり、雫になって地に落ちる。液体を被った雑草は煙を上げて枯れ、色を失い、最後に残ったのは不毛の大地だけだった。
小雨の様に滴が降り注ぐ。叶の周りの緑はすべて枯れ果てていた。叶を中心にして、円状に裸の土地が広がっている。
「これが、あんたの本当の姿か……。なんて、おぞましい」
「――でしょう。私も、そう思うわ」
叶は自分を嗤った。
この姿を嗤わなくてどうするというのか。こんな姿にされてまで、殺し続けなくてはいけない自分を。
本当に嗤える姿だ。嗤いが止まらない。
哀しくて、笑わずにはいられない。
少年の顔が引き攣っていた。その顔に滲むのは恐怖だろうか。
「はっ、はは! なるほど、なるほど。お似合いの姿だな! 唯一人の弟まで殺したあんたには相応しい格好だろう。そんな見るに堪えない姿になってまでまだ殺したいか。弟だけじゃあ殺し足りないか。カイン!」
少年が叫ぶ。怒りを吐いて叶にぶつける。冷静さもすべてを怒りに変えて、罵声を浴びせる。
「こんな、こんな化け物にはあいつらは殺されたのか……!」
狂ったように笑いながら、手で口を押さえた。そこから吐瀉物が溢れた。絞り出される声が空しく辺りに響く。
「――殺してやる!」
明確な殺意を持って少年が異形の叶に飛びかかる。一度はまともに食らった手槍を、身体に到達する前に叶は手首を掴んだ。
それから後は、叶は覚えていない。本能の命ずるままに敵を破壊し、完全に壊し続けただけだった。
覚えていることは、その間、ずっと嗤いが止まらなかったことくらいだ。
――泣けないから、私は笑うのだろうか。こんな醜い姿に、醜い笑みを重ねてまで?
戦い、というには一方的過ぎた戦いが終わり、暫く叶は動けなかった。動かないだけなのかも知れない。だが、頭が動きたくないと我儘を言うのだ。だから叶は動けない。
叶の服は、羽を生やした跡と、少年に貫かれた跡に大きな穴が出来ていて衣類としての意味を失っていた。胸も穴から見えている。
朽ちかけた羽は、すべての羽が抜けおち、消えていった。叶の羽は何度でも甦る。種は、叶の身体に埋め込まれている。永遠に朽ちることのない魔種が。
自分が殺し咲かせた羽の花の上で、何も見えない空を見上げる。
頭の中に隙間が出来て、その隙間で色々な事を考える。
いつも携帯をしまっているポケットに、今日も携帯は入っていた。運よく下半身を狙われなかったおかげか、携帯は殆ど無傷だった。
しまった、と携帯を見て叶は思った。事が終わったのに、また連絡を忘れていた。行きだけ連絡を入れても意味がなかったかも知れない。また心配をかけているのだろう。だが、連絡を入れる気になれなかった。もう少し、一人でいたい。
そんな淡い願いは誰にも届かなかった。叶の願う気持ちが、逆に詩縫をこの場に呼び寄せたかのように、彼女の姿を見ることになった。
詩縫がゆったりとした足取りで叶に歩み寄る。
「詩縫……」
どうして、とは聞かなかった。叶が力を解放したのだ。詩縫ならそれで居場所など簡単に分かる。あの禍々しい力を感じない筈がない。
「自分を大切にしてと言ったのに」
詩縫が泣いていた。とても綺麗な涙だと叶は思った。
見惚れていた。涙の溢れる瞳も、雫の伝う頬も、震える唇も何もかもが綺麗だった。
「どうして、傷つかないようにできないの? 自分を傷つけることが罪を償うことにはならないのよ。……何度言ったらわかってくれるの?」
「私は償いの方法をそれしか知りませんから」
「叶が傷ついたら私が悲しいの……!」
詩縫が縋りつくように叶に抱きついた。昨日のように抱き締めるのではなく、胸にしがみ付くように抱きつき、詩縫が涙を拭う。
こんな醜い身体でも、何の躊躇いもなく詩縫は抱き締めてくれる。それが叶には嬉しくて、幸せで、悲しさもつらさも何もかも忘れさせた。
今回はどうやら、我慢が出来そうにない。叶の腕が一人でに動いて詩縫を抱き締めていた。
「……はい。すみません」
それからずっと、叶は詩縫が泣きやむまで彼女を抱き締め続けた。詩縫の身体から伝わる温もりが愛おしい。それから離れるのが惜しい。
帰り道は手を繋いで帰った。抱き締めあった時の余韻を手の平で感じながら歩く。
「あの、詩縫。一つだけ、お願いがあるのですが、聞いてもらえますか?」
「なに? 珍しいわね。何でも言って」
「はい、その……」
次の言葉がなかなか出てこない。急に黙り込んだ叶を詩縫は不思議そうな顔で見ていた。
「その、今日は、私と、……一緒に寝てくれませんか……?」
あまりの恥かしさに叶は俯いた。顔面が熱量を帯びていく。詩縫の手を握る手も震えた。
「ええ。いいわよ。一緒の布団で寝るのって、気持ちがいいものね」
詩縫はいつもと変わらぬ笑顔で叶に告げる。
こんなにも大胆になれたのは、今日が初めてかも知れない。
2―4
いつもの時間になっても叶が起こしに来なかった。午前六時一〇分過ぎ。携帯のデジタル表示を見て大体の時間を知る。部屋の外でも朝食の準備をしている気配もない。どうやらまだ寝ているらしい。
叶の声を待つのをやめて、部屋の外に出る。案の定、ダイニングキッチンには誰もいなかった。
昨日詩縫と叶が夜中に帰ってきていたのを思い出した。何かあったのだろうか。
とりあえず、夜乃は叶の部屋に向かい、部屋のドアを叩く。
「叶さーん。朝ですよー」
返事がない。部屋の中を覗いても、叶のベッドには誰も寝ていなかった。
「あれぇ……」
叶の部屋で叶を探すのを諦め、一応玄関を見てみた。詩縫と叶、二人の靴はある。
残すは詩縫の部屋だけだ。
母の部屋にはノックはしない。遠慮なく夜乃がドアを開いた。
「おかあさーん。叶さん知らな、い?」
途中で夜乃の声が詰まった。布団の中で詩縫が抱き締めているものを見たからだ。抱き枕ではなく、叶を抱き締めていた。
二人とも心地よさそうに眠っている。
「何で……?」
一旦夜乃は部屋の外に出て、深呼吸をしてみた。頭は完璧に覚醒していた。
冷静に考えてみた。あれは本当に叶だったのか。確かに叶だった。等身大の抱き枕等ではない。そんな物を詩縫は持っていない。
どうみても詩縫と叶が一緒に寄り添いあって寝ていた。これは一体どういうことだろう。
夜乃は自分が緊張しているのが分かった。二人とも美人なだけに、どうにも艶っぽく見える。しかもあんなにも親密に抱きあって寝ているなんて。二人の姿が瞼に焼きつく。
――あの二人の関係は一体?
少しばかり考えた結果、とりあえず二人を起こさないことにした。と、いうか気まずくて起こせない。
そう決意した矢先、夜乃が閉めた筈のドアが開いた。ドアの隙間から叶が顔を覗かせている。
「あ、お、おはようございます。夜乃ちゃん。あの、これは、そのえーとですねぇ……なんというか」
赤面して弁明しようとする叶の舌は上手くまわっていない。こんなにも動揺している叶を、夜乃は初めて見た。
「そ、そう。その、詩縫に頼まれて、一緒に寝ることになったんです!」
とってつけたように叶が言った。夜乃は、正直今日のことはなかったことにしたいと思っていたし、叶もとても気まずそうなのでもう何も考えないことにした。
「やっぱりお母さんが……。大変ですね。叶さん」
「は、はい……」
ははは、と乾いた笑みを浮かべる叶を見ながら、夜乃は朝食を食べようと思った。
3―1
ホームに滑り込んでくる電車は夜乃との別れを告げる。電車のダイヤの関係上、葉子の乗る電車は夜乃の乗る電車よりも早くホームに着く。
電車の中で一人になった葉子は、夜乃に向けていた一番の笑顔を剥がす。そうすることで一日の疲れが全身に均等に沁み渡り、結果的に疲れが和らぐのだ。
貼り付けた笑顔が偽りの表情だとは思っていない。夜乃の前だから見せられる、とっておきの、満ち足りている時にしか浮かべられない特別なものだ。
葉子が自分の中で一番好きな表情は、夜乃と一緒にいる時に自然と浮かぶ笑顔だった。
電車に揺られながら、今日一日で聞いた夜乃の声と、見つけた新しい夜乃の表情を思い浮かべ、控えめに笑う。一緒に浮かんでくる寂しさも、心地よい刺激だと思える。
「楽しそうね、お姉さん」
線路を走る音の中に別の音が混じる。血液に別の液体が流れ込んだかのように葉子は違和感を覚えた。緩んだ笑顔も霧散するように消えていた。
さっきまでの緩んだ表情を忘れさせるために、冷静な顔を努めて脇を見た。そこから声が聞こえたからだ。
中学生くらいの背丈の女の子が、セーラー服姿で葉子を見上げていた。少し嫌味な笑顔に見えた。見覚えのある制服。葉子が通っていた中学校の生徒のようだ。
黒髪をボブカットにし、細い眉毛の下にある釣り目な瞳がとても印象的だった。
何時からそこにいたのだろう、と葉子は考えた。席に座る時は左右に誰もいないことを確認してから座ったのだが、いつの間に隣に座ったのか。
隣に座られたのにも気付けない程、夜乃の事を考えていたのかも知れない。心が散歩に出かけるまで他人の事を考えるなんて、我ながら痛々しいなと心の中で自分を戒める。
「そうかな……。君はいつからそこにいたの?」
苦笑で少女に対応する。葉子には警戒心が薄く張られている。隣に座る少女を、葉子は不気味に感じていた。
「ずっと前から」
目を細めて笑みを深くした。動きのなかった作り物のような笑顔に、命が宿ったように見えた。
「お姉さん、好きな人がいるのね」
その瞳はまるで、ガラス玉でも見ているかのように、すべてを見ていた。大きさも中身も、形も。むしろ、自分が透明になったかのような錯覚を葉子は感じていた。衣類をすべて剥ぎ取られたような。
「い、いきなり何?」
隠しきれない動揺が滲んでいくのを感じる。信号の色が黄から赤に変わるように、明確に少女を強く警戒し始めた。
何かがおかしい。
「私には分かるのよ。好き好きで仕方がなくて、でもどうしようもなくて、お姉さんがずっと悩んでるって」
花弁が舞うように軽く、少女の手が葉子の頬に添えられる。熱いような冷たいような、奇妙な刺激が頬から伝わっていく。
視線を逸らせなくなっていた。添えられた手が枷にでもなったかのように、完全に自由を奪っていた。
モニターに映る映像を見ているような気分だった。無機質なというか、上手く現実味を掴めない。
最大まで警戒レベルが上がっているのに身体が動かない。遠くの喧噪でも聞くみたいに、その子は危ない、という自分の声を聞く。
「私ならお姉さんの願い、叶えられるわ。大好きなあの人の気持ちを、お姉さんの物にだってできるわ」
軟体生物のように少女の唇が動く。
「――嫌!」
断線していた回路が繋がる。塞き止められていた嫌悪感が一気に流れだした。力任せに少女を押し退ける。
腕を押し出した筈なのに、手ごたえがない。何かを押した感覚というものが感じられなかった。
はっきりとした自我を取り戻した時にはもう少女の姿はなく、本当に映像の相手でもしていたように、忽然と少女の姿が消えていた。
帰ってきた意識はまだ安定せず、小刻みに揺れながら葉子の中に収まろうとしている。葉子は寝起きのようなはっきりとしない気持ちのまま落ち着くのを待った。電車の揺れが覚醒を手助けになった。窓から潜り込む光、葉子だけがいる車両。窓の中で流れていく電線。風景。
葉子の脈拍と呼吸は微かに荒く、喉の渇きも感じていた。
少女の声と同調する葉子の記憶が、夜乃の姿を映し出す。作り物のような素敵な笑顔を見せる夜乃の姿が、瞼の裏でちらつく。
少女の声が心にささくれを作り、そこから良くないバイ菌が入り込んでいるみたいだ、と葉子は感じた。
3―2
明樹市には一つだけ図書館がある。本棚よりは通路の面積の方が広いゆったりとした閲覧室に、売店のある軽食コーナー兼談話室の二つのスペースで図書館は成り立っている。
夏場は冷房が完備されていたりとそれなりに居心地のよい場所なのだが、市街地から離れた場所にあり、一部の人間にしか利用されていないのが現状である。人気のなさもこの図書館の魅力なのかも知れないが。
葉子と夜乃は談話室にいた。午後三時とまだ外は明るい。普段は授業中の時間だが、二学期中間試験最終日ということで午後からは授業がなく、夜乃にとっては持て余している訳でもない時間を使い、葉子に付き合っている。夜乃と葉子はこの図書館の常連だった。試験中はいつもここで勉強をしていた。
試験が終わっても、葉子には追試があった。数学の試験の結果について、試験返却の日よりも早く教師から呼び出され葉子は追試を言い渡されていた。
追試日は三日後。試験が終わったその日に勉強を教えてくれと誘われた夜乃には迷惑かも知れないが、葉子にしてみれば、勉強をすることで夜乃と一緒にいられる口実が出来るのなら勉強もそれほど苦には感じない。
テーブルの上には数学の教科書と問題集とノート。ジュースの入った紙コップがある。
「あのね、葉子ちゃん、聞いてる?」
テーブルに肘を付き、右手にシャープペンシルを持った夜乃が葉子を睨んだ。本気で怒っている顔ではないと葉子には分かっていた。だが、これがイエローカードに変わる注意なのだ。もう一回カードを切られたら退場処分。今日の勉強会は終了する。
「もちろんですよー。でもちょっとぼーっとしてたかも。もう一回お願いしますー」
「もう。葉子ちゃんがどうしてもっていうから付き合ってるんだからね」
少々嫌な顔をしながら、また最初から、公式の説明、例題の解説を繰り返してくれる。
教科書に印刷されているU字型の曲線と円が交差しているのをシャープペンシルで指しながら夜乃が別世界の言語を操る。
葉子は、普段よりは集中して夜乃の話を聞く。
自分だけに用意された特別な言葉のようで、葉子には夜乃の声がとても心地よく感じた。
「頑張ってるね。毎日」
夜乃と二人きりの空間に割り込む三人目の声。葉子が最初に感じたのは苛立ちだった。
背後から聞こえた声に振り向くと、背の高い、茶色のロングヘアーの女性が立っていた。ベージュ色の綿のパンツに、ありきたりなプリントTシャツ姿だった。シンプルな服装だが、本人の魅力のためか、とても様になって見えた。美青年にも見えるような整った顔立ちだが、その人物が女性だというのを葉子は知っている。
もう何度も会っているからだ。
野川花音(ノガワカノン)。図書館の近くの大学に通っている学生だ。試験期間ずっとここで勉強していたのだが、毎日こうしてちょっかいを出してくる。
葉子は花音の事をあまり好きではない。
「あ、花音さん。学校は?」
「サボったんですかぁ?」
「君たちと一緒に居られるなら講義なんてサボっても構わないけれど、今日は二時過ぎに講義は終わったんだよね」
葉子は許可した覚えはないのだが、勝手に花音がテーブルに着いた。
「今日も試験勉強?」
「今日は葉子ちゃんの追試の試験勉強ですよ。試験は今日で終わりました」
「へぇ、葉子ちゃんも大変だね」
「野川先輩には関係ないです」
「確かに」とキザな笑顔を浮かべた。
花音はいつも夜乃と二人で過ごす時間に割り込んでくる。葉子が花音を嫌う最もの理由はそれだった。
「夜乃ちゃんは、髪の毛弄ったりしないの?」
遠慮なしに花音の手が伸びる。頬をかすめるくらいの距離で夜乃の髪に触れる。硝子のように艶やかそうな頬に、小さく、可愛らしい耳に、自分以外の人間の手が伸びている。
「えー、と、そういうのあんまり興味ないんですよー」
「お化粧もしない?」
躊躇いもなく頬に掌が触れた。夜乃も嫌がるような素振りを見せない。
もう、我慢が出来なかった。葉子がしたいと願っていることを目の前の女はいとも簡単に行い、それを見せつけている。
――何て、嫌味な……!
葉子は叫んでいた。
「馴れ馴れしく先輩に触らないで!」
自分の声が聞こえた。まるで別人の声だった。こんな乱暴な声、夜乃に聞かせたことはなかった。
怒りで蓄積された熱量すべてが声と一緒に放出されたみたいだった。全身で叫んだ後に残るのは、落ち着いた自分。頭は落ち着いているが、身体は小刻みに震えていた。目を中心に顔面が発熱しているのが分かる。拳は握り締めたままで、力が抜けそうになかった。
集中する視線。静まり返るホール。驚き、怯えたような表情でこちらを見る夜乃。
「――帰ります」
震える指先でテーブルに広げていた教科書とノートを片付け、強引に鞄に詰めた。上手く中に入らず、ノートは滅茶苦茶に折れ曲げて捻じ込んだ。
床を殴りつけるように強く踏み込み、夜乃たちから離れる。後ろから夜乃の呼ぶ声が聞こえたが、葉子は振り返ることができなかった。一秒でも早くこの場所から逃げ出したかったし、自分でも晒すつもりのなかった激情を夜乃に見られてなお、彼女と一緒にいられるような性格をしていない。
羞恥心や後悔、単純な言葉で今の葉子の気持ちを表わすことが出来る。そんな単純な気持ちが混ざり合って、複雑な色彩を心に作りだしていた。
瞳に涙を浮かべながら、夜乃から離れることだけを考えて歩いた。
案外、個人経営の喫茶店というものは探せばいくらでも見つかる物で、図書館の近くにも一軒喫茶店が見つかった。
客は、学生風の青年と、幼い子供が二人だけと、寂しげな雰囲気を作り出していた。
「幸人君は心配症ねー」
「わざわざこんなとこまでお姉ちゃんを追いかけてくるんだもんねー」
「それが俺の任務です。万が一夜乃様に何かあったらどうするのですか」
日に焼けてくすんだ白色をしたテーブルに三人が座っている。双子が並んで座り、対面に幸人がいる。
双子の前にはオレンジジュースの注がれたグラスが二つと、三角形に切られたショートケーキが二つ。幸人の前には白いカップに珈琲が注がれている。支払はすべて幸人持ちである。
「何で俺についてきたんですか」
「楽しそうだから」
「幸人君一人だけだと心配だもの。図書館の目の前とかで夜乃ちゃんを見張りそうだし」
図星だった。むしろ、二人についてこられる前まで、幸人は図書館の入り口で夜乃たちの護衛の任務についていた。
傍まで近づかなくても、ある程度近い場所に居られれば、夜乃に異変が起きたとしてもすぐに対応できる。傍まで寄って夜乃の様子を探るのは幸人の個人的な趣向である。
「ばれたら夜乃ちゃん、すっごく怒るだろうなぁ」
「ですが、仕方のないことです」
「でも、図書館の従業員の中に天使はいるんだよ。そこまで心配することないんじゃないのかな」
「それはそうなのですが、少し、夜乃様から嫌な気配がしまして」
「男の子の気配?」
「は? その、ヒト以外の者の気配がするのです。堕天使のものとも違うようで、気にはなっているのですが……。どうかしました?」
つまらなそうに晴と陽がオレンジジュースをずずず、と音を立てて啜っている。二人が無言の圧力を送っているように見えた。
幸人は、何故二人の機嫌を損ねたのが分からなかった。
「べっつにー」
二人が声を揃えて言う。二人の態度が気になるといえば気になるが、これ以上気にしていては話が進まない。
「ともかく、何かあってからでは遅いのです」
冷めかけた珈琲を一口だけ口に含む。舌を刺激する苦さに少し顔を歪んだ。砂糖を入れるのを忘れていた。幸人は甘党である。ジュースを頼まなかったのは、見た目の上では年長者である自分の見栄だ。
「あれー、外歩いてるの夜乃ちゃんじゃない?」
「本当だー。お姉ちゃんだねー。知らない女の人と一緒だー。つまんないの」
窓の外、車線も引かれていないアスファルトの道路を二人の女性が歩いていた。夜乃の隣について歩く栗色の長髪の女は見覚えがなかった。
女がこちらを見た。
歯車の歯どうしが触れ合うように一瞬だけ、視線が重なり、そして、互いに離れていった。
女はこちらの存在に気付いていた。恐らく、偶然ではない。
幸人の網膜に女の微笑が張り付いている。
「――あの女だ」
自身の中に燻っていた疑念が、僅かに燃え上がる。
「前言撤回。これは意外と、面白いことになるかも知れないね、晴ちゃん」
「こらこら。あんまりはしゃいじゃだめよ」
陽を戒めてはいるが、晴の表情も淡く綻んでいる。子供の姿には不釣り合いな底知れぬ笑みが、幸人には不気味に思えた。二人の愛らしい姿は、天使であることを忘れさせる。
「どうかしました?」
運が良かったのだと思う。ぼーっとしていれば、花音が視線をどこかに向けていたことに気付けなかった。たまたま、花音の顔が前を向いていないのを夜乃は見た。
連れがいなくなったのに図書館に留まる理由もなく、出来れば葉子を追いかけたかったが帰ろうと決断したのは葉子が立ち去ってから一〇分少々過ぎてからだった。恐らく、今頃電車に乗っているのだろう。それも直帰したと仮定しての話だから、それ以外の可能性を考えると帰り道で葉子と再会する可能性は低い。
「いや、何でもないよ」
どこかを見ていた瞳が夜乃に向けられる。会った時と比べると少し表情が沈んでいた。葉子を激怒させたことに負い目を感じているのだろう。何度も夜乃は花音に謝られている。
「今日は本当に悪いね」
そしてまた花音は謝罪の言葉を口にした。謝れ過ぎると、逆に気を遣うから出来れば謝って欲しくはなかった。
夜乃は頼んでいないのだが、花音が駅まで送ってくれることになっていた。といっても一緒に駅まで歩くだけだ。まだ外も明るく、エスコートが必要な時間帯でもないと夜乃は感じていた。
「いいですよ。こういうこともあります。多分」
客観的に誰が悪いかと考えても、誰も悪くないという結論しか出なかった。怒りの沸点など人それぞれだ。夜乃の髪と頬に触れた花音に激怒した葉子が悪いのではない。葉子の逆鱗を知らなかった花音も悪くはない。誰が悪いかを考えるよりも、明日葉子とどう接するべきか、が夜乃にとっては一番の問題だった。
「ありがとう。ちょっとからかうだけのつもりだったんだけど、あんなにも怒らせるとは思わなかった」
「葉子ちゃんが怒るの、分かっててやったんですか」
「葉子ちゃんが可愛いから、つい苛めてみたくなっちゃった」
美男子にも見える整った顔を砕いて花音が笑った。葉子を可愛いという花音が可愛らしく見えた。花音が、葉子に抱いている感情が前向きな物だと一目で分かる笑顔だった。
「だけど、私は嫌われてるみたいだけどね」
「……そう、ですね」
「否定してくれないんだ」とまた笑って見せた。そんなことはない、などと白々しいことを言ったところでどうなるのか。夜乃から見ても、葉子は花音を嫌っている。嫌う理由も、自惚れかも知れないが何となく分かっている。
嫌われていると分かっていても、花音はあえて葉子に関わろうとしていることも、夜乃は知っている。
「葉子ちゃんは、夜乃ちゃんの事が大好きだから」
「そうだったら有難いことだと思います……。だけど……」
他人に好かれること。それは誇っても良いものだと思う。本当に有難いことだと思っている。
だけど、十割すべてが正の感情ではなかった。
「葉子ちゃんの気持ちにどういう対応をすればいいのか、ちょっと分からなくなりました」
何を言っているのだろう、と夜乃は我に帰る。こんな個人的な弱音を、出会って一週間程度しか経っていない人に告げたところで迷惑なだけだ。
相手の事を考えるならば言うべきではなかった。自分のことだけを考えると、気持ちが楽になるという側面も見られる。
だから、最後に一言だけ、
「少し、怖かった」
喉に引っ掛かっていた気持ちの欠片を吐きだす。少しだけ、呼吸がしやすくなったような気がした。
「夜乃ちゃんは素直な人だね」
不意に花音が頭に手を置いた。日差し以外の熱量を頭の天辺から感じる。
振り払おうとは思わなかった。羽が舞い落ちるかのように軽く、優しい手つきだったから。まるで大人に撫でられているようだった。
「昨日と同じでいいと思うな。深く考えずに」
「そう出来たらいいですね」
「そうだね」
その一言が、次に続く言葉がないと告げていた。会話がなくなる。だが、駅ももう目の前だった。
「今日はありがとうございました。もう、大丈夫ですから」
「そう。こちらこそ、今日は一緒に歩かせてくれてありがとう」
何処か卑屈な花音の言葉選びが、彼女らしいなと夜乃は思った。
立ち止まる花音から離れ、軽くお辞儀をして駅に向かう。背後にはずっと花音の気配を感じていたが、振り返る気はなかった。
だけど、ホームに入る前に一度だけ振り返った。花音の姿はなかった。
いい加減、見られ続けるのにも飽きてきた。夜乃と別れた花音に行動の制限はない。視線の元を辿り、来た道を戻る。その途中、駅まで真っ直ぐ続いていたガードレール、歩道の完備された道路から脇道に入る。
歩道の白線も引かれていないような罅割れだらけのアスファルトの道に出た。
人の気配のしない住宅街が立ち並び、その先には雑木林に挟まれた石段が見えた。
道の真ん中に、少女とも少年とも見分けのつかない子供の後ろ姿を見た。
「君は、こんなところで何をしているの?」
花音の呼びかけに、人影は素直に振り向いて見せた。顔を見て、花音は少年だと思った。挑戦的な笑みでこちらを見返している。
「貴方こそ誰を探しているの?」
その声は少年が発した物ではなく、背後から聞こえてきた物だ。可愛らしい女の子の声だった。その声に弾かれるように花音は振り返る。
振り返り見た先には、声と釣り合いのとれた小柄な少女が、少年と同じ顔で笑っていた。
気味の悪い子供だと花音が心中で毒つく。この子供たちが視線の正体なのか。
「二人とも、何を遊んでいるのですか」
次は若い男の声を聞いた。うんざりとした気持ちが増していく。だが、非日常的な環境に入り込んだことへの期待感も同時に生まれていた。
男が少女側の道から現れた。年齢は、夜乃と同じ位だろうか。花音が抱いた第一印象は優男だ。
「だって、普通に声をかけたんじゃつまらないじゃない。雰囲気作りってやつよ」
「そういう問題ではなくてですね……。晴様まで一緒になって何をしてるんですかまったく」
男はどうやら少年少女たちの保護者らしい。兄弟、と見るには年が離れているが。少女がじゃれるように男に体を寄せ、顔を見上げていた。
「ごめんね。お姉さん。ちょっと驚かせてみたかったんだ」
悪びれた様子もなく少年が謝り、男と少女がいる側に回る。
「でも、逆にこっちが驚いちゃったね、晴ちゃん。まさかこんなところにリリムがいるなんて」
「……リリム。そうか! 堕天使とも違う異質な気配にも納得がいく」
「幸人君はうっかりさんだね」
「私も混ぜてもらっていいかな。君たちの言うとおり私はリリムだけど、何故それを知っている? 君たちは、天使? それとも堕天使?」
花音は三人組の言葉を受け入れた。彼らは確信を持ってリリムという言葉を使った。彼らもヒトではないのだろう。否定したところで意味がないし、陳腐な嘘など通じはしない。
「前者よ。ヒトに何か悪さとか、してない? お母様はお元気?」
最初の一言が演技だったと思わせるに十分過ぎるくらいに大人びた声で少女が言う。彼女が天使なら、外見と不釣り合いな雰囲気にも納得できる。
「悪さだなんてとんでもない。私はただヒトに紛れて生活しているだけですから、ご心配なく。それと、お母様も元気にしておられます」
「そう。それは良いことね。敬語だなんて堅苦しい物使わなくてもいいのよ。リリム」
「でしたらお言葉に甘えて。私は今花音と名乗っているの。だから花音と呼んでくれるかな」
花音にとって天使は敵でも味方でもないが敬遠すべき存在だが、目の前の天使を名乗る者たちには過度に警戒はしなかった。
もし、リリムである花音が天使の機嫌を損ねたり、逆らったりしようものなら問答無用で殺されるだろう。
少女に敵意はないように思えた。単純に会話を楽しんでいるようにしか見えない。
「貴様、夜乃様には何もしていないのだろうな」
穏やかな会話を引き裂く怒気を孕んだ威嚇するような男の声。始めは保護者だと認識していたが、この中では一番若い天使なのかも知れない。二人の小さな天使たちと比べて、落ち着きがない。
「夜乃? あの子と知り合い? 珍しいな。天使が特定のヒトを気にかけるなんて」
「貴様には関係ない!」
「こらこら幸人君。怒らないの。馬鹿なんだから」
呆れた様子で幸人と呼ばれた男を少年が戒めた。やはり、彼は若い。
「想像の通り、ちょっと特別でね。だから神経質にもなる。夜乃に何もしないのならあんたにも何もしない」
「そんなにも簡単に教えてしまっていいのかな」
「だって、今更だもの。分かっちゃったんでしょ」
「まぁ、何となくだけれど。安心して。誰にも漏らすなって言いたいんでしょう。あの子に手を出す勇気もないよ。無理やりに誘惑する程悪趣味でもないから」
「じゃあ大丈夫だね。それじゃ用事も済んだし帰ろうか。晴ちゃん」
「そうね、電車もそろそろかな。幸人君、行くわよ。さようなら、花音ちゃん」
「二人とも! そんな簡単に終わらせて大丈夫なのですか!」
「だいじょーぶ。早く行こう」
幸人の両腕を引いて三人組が離れていく。幸人は最後まで不満そうな顔を崩さなかった。
三人共、態度は軽いがかなりの力を持った天使だ。話しただけでそれが分かった。堕天使であの天使たちと対等に戦える者など数人だろう。
そんな天使たちに守られる夜乃は一体何者なのか。偶然とはいえとんでもない人物と知り合ったものだ、と花音は独り、笑う。
夜乃と二人で並んで座る筈だった電車の座席に、一人で葉子が座る。電車は葉子の望みを叶えるかのように夜乃から離れてくれている。このまま二度と夜乃の見えないところまで運んでくれればいいのに、と現実逃避で自分を慰める。
後悔で泣きじゃくることはなかった。取り乱すこともなく、自分の行動を省みた。
明日からどんな顔をして夜乃に会えばいいのか。ずっとそれだけを考えていた。
夜乃と葉子はただの友人だ。自分以外の誰かが夜乃に触れたとしても、それを拒む権利など葉子にはない。だが、葉子はそれが許せなかった。
花音の手が伸びるのを拒絶した自分。夜乃を独占したいと思う醜い自分。
心から否定したいその自分が、恐らく本当の自分なのだろう。夜乃に嫌われないために、好かれるために隠していた汚い部分を、曝け出した。それはもうなかったことには出来ない。
夜乃はどう思っているのだろうか。感情のままに怒鳴り散らす自分を軽蔑しているかも知れない。夜乃を思い通りに動かしたいという歪んだ欲求も知られたかも知れない。
今まで築きあげてきた関係を自分で壊したようなものだ。本当に馬鹿なことをした。
潮の満ち引きみたいに、勝手に涙が溢れる時がある。葉子は溢さないように目を手で押さえた。
消えてしまいたい、という陳腐な願いが叶えられる筈もなく、叶えるつもりもなく、降りるべき駅に着けば葉子は電車から自分の意思で降りた。
水の中を歩いているかのような足の重さを感じながら駅から出る。建物から出ると太陽の攻撃的な淡い煉瓦色をした光が葉子を責めていた。
海沿いの住宅街に続く駅。駅前から瓦屋根の家屋が並んでいるのが見える。この地区には家しかない。夕方にもなれば人の姿もなくなるものだが、今日はそうではなかった。
葉子を待ち構えていたかのように、夕日に照らされる見覚えのある少女。
最も印象に残っていた不気味さが第一に思い出される。目の前で笑みを作る少女の顔と、数日前に見た笑顔とが一致する。
「どうしたの? 何だか落ち込んでいるみたいだけど」
少女が軽やかに葉子に近づいてくる。漠然と危険と感じていても、危険を回避しようと頭は動いてくれない。出来れば半径一メートル以内に近づかれたくないくらいだが、足が動かず少女の接近を許していた。
「大体分かるわ。好きな人と喧嘩したんでしょう。自分の気持ちがばれそうで、それがとても怖くて、どうしたらいいか分からない」
「な、何でそんなこと」
足に力が入る。逃げる準備がやっと整った。だが、少女が葉子の腕を掴み葉子の動きを制す。強く握られていないのに、身体が動く事を拒否しているかのように言うことを聞かない。
「駄目よ。逃げられないわ。前みたいにまやかしではないのだから」
少女の瞳が赤く光ったように見えた。錯覚かも知れない赤い光を感じた葉子は、彼女の瞳から視線が外せなくなっていた。
「捕まえたわ。安心して、貴方の願いを叶えてあげるだけよ。ただ、私の人形になってもらうけれどね」
牙をむくように笑う少女を見た。その表情を確認した時には、葉子の判断力の殆どが奪われていた。
3―3
何もない部屋だった。明かりもなく、ただ暗闇が広がっているだけの空間だった。
暗い箱の中に気配が二つ。この部屋の住人である。
「ラフィ、ヒトにちょっかいを出すのはやめられないのかい」
闇の中で声が飛ぶ。姿もろくに見えない、ラフィと呼んだ人物へ。
「それが私たちリリムの仕事でしょう、ケア。今日も可愛らしいヒトの子を捕まえてきたわ。これからどうなるか楽しみだわ」
声は届き返事が返ってくる。傍にいるにも関わらず、お互いの顔も見ずに話す。それが住人たちにとっては当たり前のことだった。
ラフィは、ケアが花音と名乗っていることを知っている。だがその名前を使わない。覚える気がないのだ。
お互いの姿を確認する必要がないから明かりはつけない。会話をするのなら声だけ聞こえればいい。顔を見る必要なんてない。
「昔とは違うんだ。私たちが信仰を試す必要がどこにある? 今のヒトに信仰なんて欠片もないのはラフィも分かっているだろうに」
「ケアは優等生ね。楽しいからやるの。それだけよ。まぁ、今回は少し違うのだけど」
「と、いうと?」
「教えてほしいの? いいわ、教えてあげる。今回はお父様のためなのよ。もしかしたら、お父様が自由になれるかも知れない」
ラフィの声が揺らいだ。はしゃいだような、無邪気な声音だった。
「お父様のため、ね……。よく分からないけれど、大丈夫なのかい? 危険なことはないのかな。お父様に関わることなら、天使たちも黙っていないと思うんだけど」
花音たちの父、堕天使の王。神の最大の敵対者。そんな天敵のために動くとなれば、天使からも眼をつけられるだろう。天使は、敵に情けはない。
「お父様のためだもの。天使なんて怖がってはいられないわ」
強情な、反発するように角ばった声が聞こえた。疎ましい姉の過剰な心配など、鬱陶しいだけなのだろう。
繋がりを意識しているのは、自分だけかも知れない。
「そう、余計な御世話だったね。上手く行くことを願っているよ」
この声はラフィに届いただろうか。返事は返ってこなかった。
追試が始まるのが終業後の四時十五分からだった。それから五十分間の試験が終われば葉子は解放される。その時間まで夜乃は図書室で時間を潰していた。
朝は珍しく葉子と顔を合わせなかった。何でもいいから、昨日の事について葉子と話がしたかった。会わないままでは腹の中に残る居心地の悪さはなくならない。
だから葉子に会いたくて、葉子が下校する時間を待った。放課後に会う約束もしていない。メールも返ってこない。
追試の終わる十分前。葉子のクラスの下駄箱の前で待つ。連絡がつかないなら自分から動くしかない。
自分が勝手に待っているだけなのに、来てくれるかな、来ないのかな、などと一喜一憂しながら携帯のデジタル表示が変わるのを眺める。自身で作り出した心細さに振り回されるなんて、何だか馬鹿らしい。
「――夜乃、先輩?」
二階に続く階段の前に、肩に鞄を下げた葉子の姿が見えた。少し距離があるが葉子が立っているのだと確信できた。
「あぁ……どうも。追試お疲れ様」
「待ってたんですか。私のこと」
夜乃との距離を縮めながら葉子が抑陽の小さな声で言った。夜乃と同じく、昨日の事を引き摺っているのだろうか。
「うん。一緒に帰らない?」
一から組み上げたみたいなぎこちない笑顔で葉子を誘う。いつも無意識に出せる言葉の筈が、今日は意識しすぎて声が震えそうだった。
「……はい。よろこんで」
白詰め草が花を咲かしたような小さな笑顔だったが、夜乃を安心させるに十分すぎるものだった。
「あの、これから時間ありますか。また美味しい喫茶店見つけたんです」
「今からかー。ちょっと遅くなるね」
「昨日のこと、ちゃんと謝りたいし、久しぶりに先輩と一緒に行きたいんです。だから、お願いします」
携帯を持つ夜乃の腕を握り、笑顔から一転必死な形相で葉子が詰め寄った。
「分かった、行こう。どのくらいで着くの? そのお店」
「十分も歩いたら着きますよ。すぐそこです」
「あんまり長くはいないからね」
「はいっ。じゃあ行きましょう」
両手で握りしめていた腕を、胸に抱きよせしがみついた。こうして抱きつかれると、いつもの葉子だなと思える。
もう、昨日の件はなかったことにしてもいいのかも知れないと夜乃は思った。
葉子に連れられるがままに歩き、寄り道の定番であるアーケード街からも外れ、あまり馴染みのない道に出た。車も通らないような人気のないところだった。道路の隅を、時折走り抜ける車に注意しながら歩いた。
「こんなところにお店があるの?」
「はい。穴場なんですよ。見つけるのに苦労しました」
行き先の分からないのは不安だが、葉子の足取りに迷いはなく、真っ直ぐに目的地に向かっていた。何処まで連れて行くつもりなのか、見当もつかない。
明樹市の中で最も賑やかな時計塔周辺でも、一歩アーケード街から外れてしまえば知らない街の景色になる。十年以上もこの町に住んでいる夜乃だが、一人では帰れない自信があった。時計塔を目指して歩けば或いは、知っている道に出ることも可能かも知れないが。
人が住んでいるのか怪しい古い木造の家やシャッターの降りた何かの商店。自宅でもなければ誰も立ち寄りもしないような通りに入り、不安が増していく。
「着きましたよ」
葉子の視線の先には、窓のガラスが罅割れ、貸物件と書かれた張り紙のされた無人の建物だった。外見は確かに喫茶店のようにも見える。何年か前までは経営者がいて、客もいたのだろうが、夜乃の目に映る建物はどんなに頑張っても廃屋にしか見えなかった。
「……ここ?」
「はい。間違いありません」
「でも、営業、してないよ?」
「ここなんです」
突然葉子が夜乃の胸に飛び込む。葉子を支え触れ合った瞬間、冬の空気が肌に吹き込まれたみたいに身体が震えた。
「葉子、ちゃん?」
「一緒にきてくれるって約束してくれましたよね。先輩が約束守ってくれないと私、死ぬほどつらい」
呼吸が止まった。有り得ない物を見たから。呼吸が止まり、心臓も止まり、葉子の指先だけを見ていた。
息を吹き返して、頭で考えられるようになった夜乃は葉子から離れた。二歩、牛の歩く速度くらいで、葉子を刺激しないように、ゆっくりと。
葉子の指が喉元に食い込もうとしている。いや、葉子の指ではない。
葉子の、人間の指ではないのだ。
臓物を連想させるような赤黒い皮膚が岩場のように隆起し、爪は短刀のように鋭い。
葉子の指先だけがそんな、人外な物に変化していた。鋭い爪は喉に食い込み、血が喉を伝い葉子の制服を赤く染めていた。
逆らえば、更に刃が葉子の喉に食い込む、ということだろうか。
「来て、くれますよね」
夜乃を安心させた笑顔はもう消え失せていた。感情のない蒼白な表情で、夜乃を見つめる。
葉子に従うしか選択支はなかった。
夜乃と葉子が二人で学校を出た。校門をくぐる二人の姿を幸人は図書室から確認した。偶然、終業後に図書室で夜乃と会い、それから夜乃が図書室から離れただけで下校していないことは分かっていた。夜乃がいなくなってからも幸人は図書室にいた。
夜乃たちを追うため、幸人も学校から出る。
夜乃の個人的な交友を覗き見るようで良い気分はしないが、好き嫌いや、良い悪いの問題ではなく、夜乃が安全に生活するために必要なことなのだと自分に言い聞かせた。
二人の姿は見失ったが、急いで追えば気配くらいは掴めるだろう。夜乃の気配なら何となく分かる。普通のヒトでは感じられないようなごく僅かな空気の振動や香りを幸人は感じることができた。天使の肉体はヒトの何倍もの能力を持つ。五感も例外ではない。
校門をくぐり、夜乃を追おうと走り出そうとした時だった。
「おにいさん」
背後から何者かに呼びとめられた。校門付近には誰もいなかった筈だが。
不審に感じながら幸人は振り返る。
そこには小柄な、こけしのような髪型をした少女が立っていた。纏わりつくような笑みを浮かべている。
外見はどこにでもいるような女子生徒だった。制服を見て市立中学の生徒だと判断した。だが、どこか子供らしからぬ雰囲気がある。
「誰か探してるの?」
「悪いが君の相手をしている暇はない」
少女に背を向け、人並みの速度で走り始める。ある程度人気がなくなればもう少し早く走っても問題ないだろう。
「待って」
幸人の進路を遮る者が一人。先刻声をかけた少女が、さっきと同じ笑顔を浮かべて幸人の目の前に立っていた。
普通ではない、と幸人の頭が認識し始める。その時には少女が幸人の目前まで迫っていた。
「貴方はここにいて。邪魔をしてほしくないの」
一瞬視界が揺らぐ。鮮明に映っていた筈の少女の顔が歪んだ。
「くっ!」
足にも上手く力が入らなかった。ふらつく足で少女から離れる。
どうやら何かされたらしい。油断していた。不意を突かれた自分の不甲斐なさに怒りが燃える。
「それじゃあさようなら。間抜けな天使さん」
視界は歪み何の役にも立たない。少女の愉快そうな笑い声を聞いた。声を聞く幸人は不愉快の極みだった。
意識ははっきりしているのに身体が言う事を聞かない。脳が振り子のように揺れ続けているような感覚。立つことすらままならず幸人は道路にへたり込み、背を校門に預ける。
頭を掌で押さえ回復を待った。
「嫌な予感は当たるものね」
聞き覚えのある声が聞こえた。確か、昨日出会ったリリム、花音の物だ。何故ここにいるのか。
「あの子は私の妹でね。私と違って、自分で言うのもなんだけど慎重なタイプじゃない」
幸人の目の前に花音が立ったのが分かった。ぼやけた視界では、人が立っている程度にしか認識できない。
「リリムは幻惑の力を持つ。昔からそれでヒトに悪戯してきた。天使ともあろう物が小悪魔の悪戯をかわせないなんて、無礼と承知で言わせてもらうけど、情けないな」
花音を間近に感じてから、徐々に身体の異常が回復し始めていた。花音の声を聞き終える頃には視界も元に戻っていた。
「……返す言葉もない」
「多分術は解けたと思うけど、大丈夫かな?」
「問題ない。助かった。何故俺に手を貸すんだ」
立ち上がりながら幸人は言った。天使がリリムに助けられるなど恥じるべき事だが、今はそんな時ではない。
「あの子は夜乃を狙ってる。夜乃に手を出したりしたら、あの子もただじゃ済まないでしょう。だから、恩を売りに来たの。夜乃に何ともなかったら、あの子を見逃してやって欲しい。ただそれだけ」
対等な立ち位置で花音が話す。天使たちから蔑まれていたリリムとは思えない程に堂々とした態度だった。幸人はリリムを見下し、花音の言うとおりただの小悪魔程度にしか認識していなかったが、今回の事で認識を改める必要があると思い知らされていた。
即答しても良いものか、と幸人が悩む。そもそも、自分に選択肢はないのかも知れないが。助けられたままで借りを返さない訳にもいかない。
花音の願いを受け入れるしか、ないか。
「分かった。約束しよう」
「感謝するよ。妹のところまで案内した方がいいかな?」
「分かるのか?」
「血肉を分けた姉妹だからね。もう、姉妹も殆どいなくなってしまったけれど」
花音が口にしたことの意味が幸人には分かった。分かるからこそ、何てことのないように笑う花音の表情がひどく印象的に映った。
「さて、じゃあ行こうか」
「あぁ、頼む」
すぐに気持ちを切り替える。今は夜乃を追うことが最優先だ。花音の表情は幸人の記憶に痕を残したが、そんなことを気にしている時ではない。
豹変した葉子の後を追い、廃れた店内の奥に夜乃たちは入りこんだ。歩いただけで埃が舞い、咳き込みそうになるのを我慢し続けた。些細な動作でも葉子を刺激しそうで、物音は立てたくなかった。
店内にはテーブルと椅子が無造作に寄せ集められていて飲食店の面影もない。不気味な寂しさがあった。小学生くらいの子供ならお化け屋敷だと勘違いしそうな、そんな空間だった。
薄暗く、罅割れだらけの窓ガラスはブライントが下げられ、西日を遮っている。外から店内を覗き見ることは出来ないだろう。
夜乃の知らない葉子と二人きり。鉛筆で身体を支えているかのように、心許なく、心細い。
「先輩と二人きりになりたかったんです。それで、今日は伝えたいことがあって……」
夜乃を脅迫するように、夜乃の身体に葉子の身体が重なる。制服越しに葉子の身体の熱と鼓動を感じた。温かさも、鼓動のリズムも疑いようもなくヒトの物だった。
「……私、先輩の事好きなんですよ。大好きなんです」
胸元で葉子が呟いた。小さな、遠くに聞こえる虫の声のように繊細な声だったが、一言も聞き逃さなかった。聞き逃せなかった。葉子の声以外に意識を向けることが、夜乃には出来なかった。
「そう。ありがとう。私も葉子ちゃんのことは嫌いじゃないし、好きだよ」
「嬉しいです。でも先輩の好きと、私の好きは違うんです……」
葉子の腕が背に回り込む。一つになろうとしているように、夜乃の身体を強く締め付ける。
「先輩が私以外の人と仲良くしてるの、嫌なんです。私だって、先輩の髪や、ほっぺたに触ってみたいし、本当はずっとこうやって抱きついていたい。私以外の誰かが先輩に触れるところなんて見たくない」
語る葉子の声は暗かった。受け止められない程の質量を持っているようにさえ感じた。
葉子に抱いていた恐怖すら忘れて、葉子の言葉に耳を傾ける。
「私だけの先輩になってくれればいいのに」
葉子の顔が夜乃の顔に近づく。葉子の動きは植物の蔦を連想させた。
更に近づいていき、唇が触れ合ったところで上昇をやめた。
暫くして、葉子の唇が離れた。凄く、驚くくらい、葉子の唇は柔らかくて、温かった。一番はっきりと葉子の存在を近くに感じられた気がした。
だからなのか、分からないけれど、身体が熱い。
葉子と、キスをしたのだな、と数秒遅れて夜乃は認識する。
「キス、しちゃった。初めてなんです。先輩も初めてだったらいいなぁ……」
唇と唇が、見えない力で引き合っているかのように、葉子の顔は夜乃から離れない。視界に葉子の表情しか映らないくらいに近づいたままだ。
「――ごめんな、さい」
葉子は笑っていた。笑いながら、泣いていた。
息が詰まる。何故葉子が謝ったのか。何故、こんなにも、痛みを感じさせる程の悲しげな表情を見せるのか。
「ただ気持ちを伝えるだけで満足だなんて」
薄闇の中から第三の声が通る。幼さの残る高い声だった。
空気が一瞬で塗り替えられる。突然の声に、剥き出しになっていた感情が心の奥に潜る。痛みすら感じられた葉子の気持ちも薄れ、鈍く奥底で疼いている。神経が新しい声に傾けられていた。
葉子の身体を支えたまま音源を探し、首を回す。
「良い物を見させてもらったわ。たまにはこういうのもいいわね」
乱入者はすぐに見つかった。夜乃と葉子以外に誰もいなかった店内に、セーラー服を着た少女が、始めからそこにいたかのように自然に立っていた。
自分たちを嘲笑っているかのような、楽しそうな表情を浮かべている。
邪悪だ、と夜乃は一目見て感じた。
「どこから入ってきたの」
「最初からここにいたわ。貴方達が気づかなかっただけじゃないの?」
そんな筈はない。ここに連れ込まれた時に何度も部屋の中を見渡したのだから。薄暗いと言っても、人の姿を見落とす筈がない。
怖い、という感情がゆっくりと身体中を走る。葉子を支える腕にも無意識の内に必要以上の力がかかっていた。
「葉子、その子をちゃんと捕まえておいて」
「――はい」
葉子の声音が変わった。また葉子が別人に戻る。だけど、悲しげな感情までは変わっていなかった。
葉子の腕が再度夜乃の身体に絡まり、首に巻きつく。命に触れられている感触。
「葉子ちゃんと知り合いなの?」
「知り合いも何も、この子は私の人形」
当たり前のことのように少女が言った。葉子を物のように扱っているみたいで、それが夜乃の気に障る。恐怖よりも不快感が勝っていた。
「この子の心を私がもらったの。願いを叶えてあげる約束でね。だけど、この子は気持ちを告げるだけで満足しちゃったの。可愛いわよね。悪魔に心を預けるってことが、どういうことなのか分かってるのかしら?」
いつまでも浮かび続ける薄い笑みと共に、少女が続けた。
首の皮膚に触れる葉子の腕の感触が変わった。弾力のある人肌ではなく、無機質な金属のようだった。
腕を見て、全身が総毛立った。
葉子の腕そのものが変化し始めていた。
店に入る前、人外な爪で夜乃を脅した時の臓物色の皮膚が、指先から肘に向かって葉子の綺麗な肌を侵食していく。
「この子の心は私の色に染められた。身体も中身相応の物に変わっていくわ。もう元には戻れないなんて、気の毒だわ」
芝居がかった調子で哀れむように少女が言った。葉子の肌の侵食は続き、顔面が罅割れ始めていた。魅力的だった可愛らしい顔が崩れていく。
「私、馬鹿ですよね。こんなになっちゃって。――ホントはこんなことしたくなかったですけど……。ごめんなさい、先輩」
葉子の崩れていく笑顔が見てられなかった。目を背けたくなる自分の気持ちに負けないために、葉子を抱き締めた。隆起した葉子の肌が少し痛い。だけど、そんなことは気にならない。
「謝らなくていいよ」
純粋な怒りを感じていた。葉子の身体の震えを身体で受け止めながら。
「何で葉子ちゃんがこんな思いしなきゃいけないのよ」
昂る感情が自分の中に蓄積されていくのが分かる。それはまるで自分から生まれた物ではないみたいで、とても透明な物のような気がした。
透明な何かが無限に溢れ、夜乃を満たしていく。
「よく分からないけど、あんたは何がしたいの?」
「貴方を手に入れたいの。貴方を欲しいっていう人がいるのよ。素直に従ってほしいわ。そうじゃないと、葉子ちゃんが貴方を殺してしまうかも知れないから」
「それだけのために、葉子ちゃんをこんな目に合わせたんだ」
「貴方の周りの天使が鬱陶しかったんだもの。だから貴方のお友達を使わせてもらったの。告白させてあげたのはせめてものお礼かしら。さて、お喋りもこのくらいにしましょう」
葉子に対して情の欠片もない物言いだった。こんなにも簡単に、こんなにも気軽に葉子を傷つけたのか。
「あの堕天使は何をしているのかしら。早く受取りに来てもらわないと、私が危ないっていうのに」
独り言を呟く少女の声も夜乃には届いていなかった。
「許せない」
その言葉が、今の夜乃のすべてだった。行動も思考も何もかもが、その言葉に繋がっていた。この少女を許せない。それだけが夜乃を支配していた。
自分を満たし続けていた感情が、一気に溢れだす。
一瞬の静寂。遅れて吹き荒れる突風。
一斉にガラス窓が破壊される。ばん、ばん、ばんと高い音を立てて、暴風に耐えかねたガラスすべてが形を失った。
じゃらじゃらと、ガラスの破片が床に落ちる音が響く。
突然の暴意に吹き飛ばされることなく、少女の足は地に着き身体を支えていた。風に舞うカラス片が小さく制服に切れ目を作っていた。
「な、何よ……!」
ずっと貼り付いていた邪悪な笑顔が剥がれ落ちている。余裕のなくなった引きつった表情で夜乃を見ていた。
「こんな力があるなんて聞いてないわ!」
少女が喚く。声は届くが、夜乃はその声に何も感じなかった。
「私だって知らない」
一度は空っぽになったかに思えた感情だが、まだ途切れることなく溢れ、夜乃に絶対の自信を与えていた。
今の自分なら、出来ないことはないのではないかと本気で考えてしまいそうだった。
「どうして……、その子の身体が元に戻る筈がないのに」
目を見開いて少女が見た先には葉子がいた。ずっと夜乃の腕の中に葉子はいる。
その葉子の皮膚が徐々に元に戻り始めていた。岩肌のように潤いを失った表面が、時間を巻き戻したみたいに弾力のある血の通った物に変わっていく。葉子は気を失っていて、自身の身体の変化に気付いていなかった。
「訳が分からない」
自分の事を棚に上げて、まるで化け物でも見ているように少女が言った。彼女の内の忌々しさが伝わってくる
少女が少しずつ夜乃から離れていく。夜乃を視界に収めたまま後ずさり、窓際を目指していた。
「こんなの、相手にしてられない」
ガラスも、ブライントも崩れ落ち空洞になった窓から少女が飛び出す。夜乃に少女を追う気もなく、少女の後ろ姿を見送った。
脅威は去ったのだろうか。今度こそ葉子と二人だけになったのだろうか。
大丈夫だと判断した瞬間、自分を支えていた力がなくなった。自分でも理解不能な力の皺寄せか。とにかく、立っていられない程に夜乃の身体は疲労を感じていた。
埃の積もった床に葉子を抱えたままうずくまる。呼吸も少しきつい。瞼も重い。
だるさ故の眠気か。気を抜けば意識を失いかねない。
薄暗い部屋の中に、淡い火色が差し込んだ。閉じかけた夜乃瞼をくすぐる。
「夜乃様!」
次に飛び込んできたのは幸人の声だった。危機迫ったような声で、大袈裟に夜乃の名前を呼んだ。
幸人の姿を見て、完全に安心したのか分からないが、それから夜乃の意識は途切れた。
蝙蝠の羽を連想させるような漆黒の翼を羽ばたかせ、傷だらけの制服姿の少女が赤い空に軌跡を残す。その表情には焦りと苛立ちを混ぜ合わせたような苦々しさが浮かびあがっていた。
「見つけた……!」
少女の視線先には、空に漂い動かない一つの黒髪の人影があった。
黒色の燕尾のジャケットに、同色の細身のパンツ。ジャケットの内側からは純白のブラウスが顔を覗かせていた。どこからかの異人のような格好だ。
背には闇夜を切り取って貼り付けたような、輪郭のない黒い翼が見える。
「話が違うじゃない。何で受取に来ないの? それに、あんな力を持ってるだなんて聞いてないわ」
「それはそうだ。僕も確信が持てなかったからね。君のおかげであれが本物だと知ることが出来た。礼を言うよ」
女の声と聞き間違いそうな声音だった。艶のある黒髪が顔の半分を隠し、言葉を紡ぐ唇は薄い桃色をしていた。
「どういうことよ」
「今回の目的は達成されたということさ。つまり、君はもう用済みなんだ」
「な……」
少女が聞き返すより早く、男の手刀が少女の身体を切り裂いていた。袈裟懸けに一閃、傷口から液体が吹き出し、男の顔に飛び散る。
男は満足そうな笑みで、少女を見ていた。少女はもう声すら発せられない。
幸人と別れ、空を駆けるラフィを追いかけた先には、ラフィの亡骸が転がっていた。身体の死んだ部分は色を失い、真白な砂に変わっていた。リリムの身体は血と肉で出来ていない。ヒトではないからだ。
少しずつラフィの身体が崩れていくのを見ながら、だから言ったのに、という最早意味のない言葉が頭の中に浮かんでくる。
「無鉄砲な性格で、よくもここまで長生きできたものだね、ラフィ。ゆっくりと眠るといい」
姉妹が土に還るのも何度も経験したことで特別なことではなくなっていた。
殺されても文句は言えない。それがリリムの生き方で、ラフィはそれを分かった上で行動していたのだから。
誰も恨むことはない。仕方のない話。運が悪かったの一言だけで片付けられる些細なことだ。
「だけど、寂しくなるな。ラフィのこと、嫌いじゃなかったんだけど」
些細なこと。ただ、寂しいと、あるかどうかも分からない心が疼くだけ。
こうして、姉妹がまた一人いなくなった。
目を開くと天井が見えた。背には柔らかい物が当たっていて、それがベッドなのだと分かるまで少々時間がかかった。
隙間の出来た記憶を探る。最後に覚えているのは、葉子を抱いて気を失う自分。
「目、覚めた?」
優しい問いかけを聞く。包み込むような柔らかな声。母が、詩縫が傍にいる。頭の一部が温かった。掌が額に添えられていた。
眠気が意識の半分を掴まれているが、覚醒には向かっている。気だるさを振り払いながら首を動かす。
「――おかあさん?」
上手く舌が回らなかった。無意識の内に詩縫に甘えようとしているのかも知れない。添えられた手に抱きついて、そのままもう一度眠りに着きたいという気持ちを抑え込む。
「……今、何時?」
一度上半身を起こせば目も覚めるだろう。頭を動かした時に、脳まで揺れた気がした。
「えーと、八時過ぎかしらね。夜乃ちゃんが帰ってきたのが七時頃だったから、まだ一時間しか経ってないわ」
おっとりとした調子で話す詩縫を見ていると、数時間前の出来事がなかったことにも出来そうだった。だが、はっきりと夜乃の頭の中には映像が残っている。葉子の笑顔も、罅割れた皮膚も。
「葉子ちゃんは?」
「叶に家まで送ってもらってるわ。もうそろそろ帰ってくるかしら。大丈夫、何ともなかったから」
夜乃の頬に詩縫の手が伸びる。不安が顔に表れていたのだろう。詩縫が夜乃を安心させる時は決まって肌に触れるのだ。効果を、夜乃は身を持って知っている。
「良かった……」
自分でも大袈裟だなと思えるくらいに大きく息を吐いた。
「ホントに、良かった」
嬉しさを噛み締めるように、もう一度口にしてみた。喜びというよりは、安堵の気持ちの方が強かったが。
嬉しくて、少し泣けてくる。零れかけた涙を詩縫の手が拭った。詩縫は黙って夜乃に微笑みかけるだけだった。それだけで十分だった。
詩縫に甘えて泣きじゃくることはなく、一雫だけで涙は止まる。
どうせ甘えるのなら、別の物を受け止めてもらいたい。
「私ね、こういうことが起こらないように、なるべく友達は作らないようにしてたんだよね」
自分の近くにいれば巻き添えで危険な目に遭うこともあるだろう、と夜乃は幼心に気付いていた。だから、出来るだけ交友関係を持たずにいた。葉子と付き合うようになったのは強引さに負けて、半ば無理やりに関係を作られたからだ。
そんな受身な関係だったが、夜乃も満更でもないと思っていた。
「それ、忘れてたかも知れない。友達といるのが楽し過ぎて」
「なら、もう葉子ちゃんとは会わないようにするの?」
「そこまでは……考えてないけど、でも、悩んじゃうな」
「それを知ったら、幸人君も、陽君も、晴ちゃんも皆悲しむわね。もちろん、葉子ちゃんも」
「分かってるけど。分かってるけどさ、弱気になる時だってあるじゃん。皆、私に普通に過ごしてほしいって思って頑張ってくれてるのも分かってる。私だって普通でいたいよ……」
喉に詰まっていたものをすべて吐き出す。気分が悪い時は腹にある物をすべて戻した方が楽になる。心の問題でも通じるものがあると夜乃は思った。
聞いてくれるのが、受け止めてくれるのが詩縫だからこそ、飾らない言葉で、見栄も何もない気持ちを吐きだすことが出来る。
すべてを言い終えた夜乃を詩縫が抱き寄せた。
「夜乃ちゃんから甘えてくれるなんて珍しい」
「娘がお母さんに甘えて悪い?」
「そんなことないわ。とっても嬉しいもの」
昔はよくこうして抱き締めてもらっていたように思う。母親という大きな存在に包まれるのは嫌いではない。むしろ好きだった。年を取るにつれて恥ずかしさが勝るようになっていたけれど、今は特別だった。
「私たちも、もっと頑張らないといけないわね。ごめんなさい。だから、これからも信じてくれるかしら」
夜乃の背中を摩りながら、詩縫が言った。
「――うん。ありがと」
照れくさいけれど、たまにはこういうのも悪くはない。
3―4
いつもより家を早く出て、いつも降りる駅を通り過ぎ、馴染みのない駅で人を待つ。
賑わう駅の片隅で葉子の姿を探した。葉子と別れるこの駅で、待ち合わせをしていた。
葉子とは昨日連絡を取り、学校は休むと返事をもらっていた。あんなことがあった次の日に、普段と変わらず登校する気になれないのも頷けた。夜乃はどうしても葉子に会いたくて、駅で待っているから、とだけメールをし、葉子とはそれっきりである。
待ち合わせもしていないから会えるかどうかの確証もない。だが、待つのは夜乃の自由だ。
人の流れが一旦止まる。電車が発進したようだ。次の電車が駅に到着すれば、また流れが生まれる。その中に葉子はいるだろうか。
制服姿で、流れに乗らず一人でいる自分が孤立しているように思えた。一人で誰かを待つのは得意ではない。他人の群れの中にいると、一人きりでいるよりも孤独を強く感じる。誰も自分を意識していないのに、夜乃は周りの視線を気にしていた。そもそも、誰も自分を見ていないにも関わらず。
ベルが鳴り電車の到着を知らせた。駅員のアナウンスが響く。数分前の喧噪がまた訪れる。
目線を改札口に向けた。一人ずつ改札口をくぐっていくのが見える。
その中に、清流に浮かぶ一枚の落ち葉を眺めるように、はっきりと葉子の姿を見つけた。
夜乃と同じ制服姿で、手には鞄を下げていた。
まず、深呼吸をした。葉子と接するのに最も適した表情を探し、作りだし、貼りつける。
昨日の告白を意識しない。なるべく昨日のことを話題にあげない。むしろ、だけど、なかったことにはしない。
とにかく、自然にと意識する。
手を振って合図を送ってみた。葉子の顔が正面を向いているので、夜乃の姿は視界には収められているのだろう。だが、葉子は気付かない。
「葉子ちゃん」
傍にいる人に声をかけるよりは大きな声で名前を呼んだ。
葉子がこちらを見る。その顔に笑顔はなかった。俯きがちに、ゆっくりと夜乃に歩み寄る。
「来てくれたんだ。ありがとう。制服で来たんだね」
「……この格好じゃないと、家から出してくれません」
「あぁ、そうか。そうだね。そういえばそうだ」
すぐに考えれば分かることなのに、緊張しているせいか葉子に指摘されるまで気付かなかった。自分だって制服を着ているというのに。
「このまま、学校にいけるね」
「行くんですか」
「そういう訳じゃないけど、なんとなく」
葉子の顔に笑顔は咲かない。ずっと陰ったままだった。こちらだけが笑っている。葉子と自分との温度差がつらい。
次は何と声をかければいいのだろう。口が回らない。行きかう人の足音と息使いが自分たちを避けて通っているみたいに、夜乃と葉子の周辺は静かだった。
ぽっかりと空いた空洞に二人で入り込んでいるようだと夜乃は思った。
「今からどこか行かない? 遊びに行こうよ」
「今から……ですか? 学校は?」
「それは、えーと……。うん。サボる。一日くらい大丈夫でしょ」
「本当に良いんですか?」
「大丈夫。またさ、葉子ちゃんのお勧めのお店とか連れていって欲しいな」
葉子の表情が悩んでいるように見えた。夜乃を恐れて、共に行動することを躊躇っているのだろうか。
まるで、異常な物を見るような眼を葉子がしているように見えるのは、ただの被害妄想だろうか。
「あの、ね。私が普通じゃないってのはもう分かってるんだよね。……私のせいで危ない目に遭わせちゃったのも、本当に悪いなって思ってるんだけど、やっぱり、その、それでも、これからも葉子ちゃんとは友達でいたいなって思うの。葉子ちゃんが、その、嫌だって言うんなら、……諦める、けど」
「嫌じゃないです」
気付けば駅内の人は疎らになっていて、ほぼ二人きりと言っても大丈夫なくらいだった。だから、葉子の小さな声もはっきりと夜乃には聞こえた。
「――本当?」
「本当です。先輩がそんなこと気にすることないんです。それだったら、私の方が先輩にいっぱい迷惑かけたし……それに――」
「いいよ」
葉子の表情が目に見えて険しくなっていった。これ以上、無理して声を出す必要なんてない。
「大丈夫。気にしてないよ。葉子ちゃんは悪くない。だって、操られてたんだからさ、仕方無いよ」
「でも……」
「……あんなこと言われなくても、何となく、葉子ちゃんの気持ちは分かってるつもり。葉子ちゃんの気持ちにちゃんと答えてあげれる自信ないけど、葉子ちゃんは一番大切な友達だよ。それは本当にそう思ってるから」
勝手な事を言っているのは分かっている。だが、それ以外の返事のしようがなかった。何も答えないよりは、我儘でも、自分の気持ちを伝えた方がいい。
葉子が不安定な瞳で夜乃を見つめる。真っ直ぐに夜乃を捕えている。
「勝手なことばっかり言ってごめんね。私は、今のままが好きだから。こんな返事じゃ駄目かな……?」
葉子の瞳が大きく揺らぐと同時に、夜乃の身体にしがみついた。
「……分かりました。それでも、いいです。駄目じゃないです」
「――ありがと」
肩に顔を乗せる葉子の髪を撫でる。
「葉子ちゃん」
ぴったりと身体に張り付く葉子の身体を少しだけ離して、半分泣き顔の葉子と向き合い、そのまま葉子の額に唇を触れさせた。
「今までのお礼とお詫びの印」
唇を離し葉子の反応を見る。顔に反応は表れていなかった。何をされたのかを理解できていないような無表情ともとれる、動きのない顔だった。
「葉子ちゃん?」
「……卑怯です」
夜乃の呼びかけに、やっと葉子が反応した。
「それは反則ですよ。先輩」
葉子が夜乃に飛び付く。夜乃の腕に支え慣れた重みがかかる。葉子の重みを身体が覚えていた。何度も支え続け、もはや心地よいとまで感じるようになっていた。
求めていた日常を身体が思い出す。
「たまにはいいじゃん」
久しぶりに葉子の笑顔を見た。嬉しくなって夜乃も笑う。
これからもまた何かしら問題は出てくるだろうが、束の間の幸せくらいは満喫してもいいだろう。
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2008/09/25(Thu)23:31:38 公開 / トーラ
■この作品の著作権はトーラさんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
使い古された題材ですが、天使というネタを使ってみました。
短編連作風で、続きも投稿出来ればなと思っています。
展開に無理があるとか、読みにくかったとか、世界観がよく分からないとか、何でもいいので何か感じる事があったら書き込んでもらえると嬉しいです。
読んでくださった方、本当にありがとうございます。
9/7冒頭とラストを加筆してみました。
9/10 2話更新しました。誤字修正。
9/24 3話追加。誤字修正