- 『羽化』 作者:Yosuke / リアル・現代 SF
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全角50614文字
容量101228 bytes
原稿用紙約154.4枚
少年には恐るべきものが秘められていた。彼を背徳的な衝動に駆り立てるものは一体何なのか。
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賢祐は、またその夢をみていた。
飛んでいる夢だ。だが、大空を飛んでいる、という程の上空を飛行しているわけではない。地上から数メートル……とか、その程度の高さだ。だがその爽快感は素晴らしかった。だがそれは、ただ「空を飛んでいる」ということから来るものではなく、どこか狭苦しい空間から、壁を突き破って出るような、すべてから自由になったかのような巨大な爽快感だった。
ACT 1 蝶の見る夢
「それは……死期が近いんじゃないのか?」
木田博明は弁当をつつきながらそっけなく言った。
賢祐は今日初めて、博明に夢のことを話したのだった。異常な回数見ているその夢について、彼は少なからず疑問を抱いていたのだ。
木田博明という少年の性格からして、まともに取り合ってくれるとは思っていなかったが、その予想通りのそっけない返答に賢祐はやはり多少の失望を感じた。
「そう言うだろうと思ったけどな」
「そりゃそう言うだろう」
「なんとなく変な感じがするんだよ。ただの夢じゃないっていうか……」
「へぇ……」
「…………」
「あ」
「なに?」
「ごめん、聞いてなかった。なんて言った?」
「……まぁいいや」
よくはないが、これ以上言っても何も変わらないだろう。
そのうち、件の夢などとは比べようもないほどしつこく聞いた、お決まりのチャイムの音が校内に響き渡った。次は三時間目だ。ちなみに昼休みはその次の授業のそのまた後である。しかし博明はいつも二時間目と三時間目の間に早弁し、弁当の半分ほどを平らげてしまう。昼食には弁当の残り半分と、購買の安いパンを食べる。彼はそれをもう1年以上、学校のある日は毎日欠かさず続けている。
チャイムが鳴ってから少ししてから、現代文担当の教師が教室に入ってきた。賢祐はそれを確認して博明の席を離れ、自分の席に着いた。その他の生徒も、先生の「ほら座れー」の声にだらだらと席へとつき始める。
「ほらほら、木田はもう弁当しまえよー」
「はぁい」
博明はまだ弁当をつついていたが、それで素直に食べるのをやめ、弁当箱を片付けた。
賢祐はまだ夢のことを考えていた。
その日の授業もいつも通りに終わり、何の部活動もしていない賢祐はそのまま家路につくべく、ひとり下駄箱で上履きから履き潰したスニーカーへと履き替えていた。あまり洗っていない上履きを下駄箱に押し込み、つま先で地面を叩いてスニーカーを足にフィットさせながら、昇降口を出る。
「……マジか」
口に出す必要はなかったが、そう漏らしてしまった。
雨が降っていた。何故教室にいる時点で気付かなかったのだろう。大雨という程ではなかったが、それなりの雨量だ。
賢祐の家は学校から徒歩十五分ほどだ。毎日片道1時間以上かけて電車で登下校している生徒もいる中、これはかなり近いと言える。しかし今降っているこの雨はその十五分間で彼の服と髪をずぶ濡れにさせるには充分な量に思えた。
ひとまず昇降口へ引き返し、下駄箱の横の汚い傘立てを一瞥する。自分の傘はない。今朝は晴れていたのだ。持ってきているはずがない。が。
賢祐の目に、それはそれは汚いビニール傘の姿が映った。
「…………」
見たところ、今朝持ってこられたものではない。だいぶ前からそこに置き去りにされているようだ。つまり。
持っていっても誰も傷つかないさ。
そう判断するのに十秒もかからなかった。事実、こういう日に傘泥棒をするのには慣れていたし、他の生徒だってやっていることだろう、という意識もあった。賢祐自身も何度か傘を持っていかれたことがある。
まるでその傘が自分のものであるかのように傘立てから引き抜こうとした、その刹那。賢祐はあることを思い出した。
……そういえば、バッグに折り畳み傘が入っていたような気がする。
ビニール傘に伸ばした手を引っ込め、だいぶ汚れたショルダーバッグを探ってみると、案の定そこには折り畳み傘があった。健全な男子高校生を雨から守るには少々小さいようだが、ボロボロのビニール傘を盗んで使うよりはマシだ。
さて、帰るか。
閉じた口の内側でそう呟き、折り畳み傘を開いて、賢祐は今度こそ家路につこうとした。
しかし。
「高橋ぃー」
背後から聞こえた声が、またも賢祐の帰宅を遅らせることになった。
高橋賢祐が部活に所属していない理由、それはひとえに「早く帰りたいから」である。学校が嫌いだとかではなく、単純に彼は自分の家、とりわけ自分の部屋が好きなのだ。何人の妨害も受けず、その部屋で自分だけの時間を過ごすのが好きなのだ。だからといって孤独を好む人間だというわけではないが。
とにかく、自分の帰宅を遅らせるその声を忌々しく感じた賢祐は、意識的に不機嫌な調子でそれに応えた。
「んだよ……あ」
先に述べた通り、彼は自分の部屋を好んではいるが、孤独を好んでいる、というわけではない。誰かに誘われればもちろん遊びに出掛け、それが自分にとって好意を寄せている相手とあればなおさらだろう。
彼を呼び止めたのは木村麻衣子という少女だった。
「雨降ってんじゃん! 傘入れてよー!」
少々うっとうしいほどの大声でそう言いながら、下駄箱で靴を履き替えている。
これ、折りたたみ傘だけど
などと言ったところで、関係ねーよ、と一蹴されてしまうに違いない。賢祐は素直に身体の半分以上を雨に濡らす覚悟を決めた。
靴を履き替えた麻衣子は、賢祐のもとへ駆け寄り、彼が持っていた傘を奪い取ってしまった。そして昇降口を飛び出すと、二、三歩ほど走ってから振り返り、彼女のダークブラウンの長い髪が揺れた。
「さ、帰ろう」
麻衣子は楽しそうな明るい声とともに賢祐に笑いかけた。
今日は早く帰るのは不可能なようだ。賢祐はそう思いながらも、普通では考えられないくらい楽しい気持ちになってしまっていた。
そういえば、その日も雨だった。賢祐はそのときはまだ自分の部屋以上に楽しい場所をほとんど知らず、その日も迷わず自宅へ直行しようとしていた。
その日の雨は、今日なんかとは比べ物にならないほどの大雨だった。しかし賢祐は傘を持ってきていなかった。折りたたみ傘もない。母親が今朝、家を出る前に
「今日は雨らしいよ。傘持ってった方が良いんじゃない?」
と言っていたのが思い出される。しかし今朝は快晴で、まさか雨が降るなどとは思えなかったのだ。傘を持っていくのも億劫だし、帰り際に雨が降っていなければ学校に忘れてしまう可能性もある。賢祐は「まぁ大丈夫だろ」の一言で、母親のアドバイスを聞かなかった。
今朝の快晴が嘘のように思えてくるような激しい雨を眺めて、母親の言うことは聞いておいた方がいいみたいだな、と賢祐は思った。
教室には賢祐以外誰もいない。ただひたすら、雨が地面を叩く音ばかりが聞こえてくる。建物の中にいても、なんとなく不安になるほどの大雨だ。
今日は早く帰るのは諦め、雨が弱くなるのを待つことにしよう。
しばらくして、雨が多少小降りになったようだった。待ってましたとばかりに賢祐は椅子から立ち上がり、昇降口へ向かう。
「…………」
昇降口に到着して、賢祐は閉口した。
雨はまた、激しくなっていた。
ため息をつき、さて教室に戻るべきかここで待つべきかどうしたものか、と考え始めたところで、昇降口に誰かが飛び込んできた。
おそらくは自分で染めたのであろう、暗い茶色の長い髪をした少女だった。彼女はこの大雨の中走ってきたようだ。全身がずぶ濡れだった。
「あ〜あ……もう……」
少女がうんざりしたような声を漏らす。
賢祐はその少女に見覚えがあった。確か去年、一年の頃同じクラスだった女子だ。名前は……木村だったような気がする。
「あれ? 高橋じゃん」
木村と思しき少女は賢祐にそう言った。どうやら彼女の方はしっかり覚えているらしい。
「……き、むら?」
自信がなかった。
「なにそれ……忘れてたの?」
違ったか!
「あれ、ごめん……なんだっけ?」
「木村で合ってるけどさぁ。でも忘れてたでしょ〜」
あまりに自信なさそうな賢祐の口調で彼女は見抜いたようだった。
「あ、そうか。木村……木村、麻衣子!」
なんとか下の名前も思い出せた。
「正解〜」
木村麻衣子は、にへらと笑った。
「ずぶ濡れじゃん」
「ホントだよ。小降りになったから帰ろうとしたのにさ……途中で急に強くなっちゃって……」
なんとなく予想はしていたが、予想通りだったらしい。帰らなくてよかった。
賢祐は麻衣子のワイシャツがほとんど全部雨に濡れ、その内側がうっすらと透けて見えてしまっていることに気がついた。なんとなくそれを見ることへの罪悪感を抱いて、目をそらす。
「ねえ」
「な、なに?」
「……なんか拭くもんない?」
彼女は一瞬の賢祐の視線に気付いたのだろうか。三点リーダ二つ分の、一瞬の間が賢祐を妙に焦らせる。
「え、あ、拭くもん?」
ちょっと焦ってバッグを開くと、そこには小さなハンドタオルがあった。何故か「よし!」と内心でガッツポーズをとる。
「あったあった。ほれ」
「サンキュー」
ハンドタオルを渡すと、彼女はまたいつものように笑ってくれた。その笑顔がなんとなく賢祐を安心させた。
「しばらく雨宿りかな」
誰に言うでもなく、賢祐はそう言った。
「そうだね」
麻衣子は腕やら足やらの雨水をタオルで拭き取りつつ、そう応えた。
その後、賢祐と麻衣子の会話が途切れることは殆どなかった。麻衣子は終止楽しそうに、様々なことを話してくれた。賢祐も不思議と話のネタに困ることがなかった。
雨はなかなか降り止まず、次第に辺りは暗くなっていったが、賢祐は自分の家や部屋のことなど忘れてしまっていた。麻衣子といるのがこれ以上なく楽しかったのだった。
「止まないな、雨」
辺りはもうだいぶ暗くなってしまっていた。
その日から、賢祐と麻衣子は友人としての付き合いを始めた。とは言っても、クラスが違ったために学校でもあまり会う機会はなかったが。しかし賢祐の携帯電話は時折彼女からのメールを受信した。それらの多くは全くと言っていいほど重要性を帯びていない内容のものばかりだったが、メールが届くたびに賢祐はひとりで笑みをこぼしたりした。それを見かけた博明に「お前マジで気持ち悪いな」と言われることもあったが、それでも彼女からのメールはとても嬉しかった。
月日はまるで何かから逃げるかのようにめまぐるしく過ぎていき、次の年の春、賢祐は何の問題もなく三年に進級した。新しく同じクラスになった面々の殆どは知らない者ばかりだったが、その中には麻衣子もいた。二人は高校生活最後の年度にクラスメイトとなれたことを心から喜んだのだった。
「……濡れるんだけど」
「あ、悪い」
麻衣子の声に賢祐は我に還る。雨と、傘と、麻衣子。それらがまだほとんど風化していないような、比較的新しい彼の記憶を呼び覚ましたのだった。
「小さくない? この傘」
「折り畳み傘だって言ったろ」
「……そんなこと言ってなくない?」
小さな折り畳み傘は二人で入るには狭すぎる。賢祐は右手で、なるべく麻衣子が濡れないように傘を持っていたが、それでも彼女の右肩には雨がかかってしまっている。とは言っても、自分の身体の半分以上はもうずぶ濡れなのだが。
二人は今、麻衣子の家に向かっているところだった。彼女の家も賢祐の家同様、それほど学校から離れてはいないが、学校から見て賢祐の家とは反対方向だ。
他愛のないことを話しているうちに、麻衣子の家に着いてしまった。麻衣子は玄関のドアを開け、「ただいまー」と言いながら革靴を脱ぎ、家の中に上がった。中から「おかえりー」と女性の声がする。
「どうぞぉ」
「どうも」
麻衣子が賢祐を振り向き、上がるように促す。雨水で濡れた折りたたみ傘を空の傘立てに押し込んでから、賢祐はスニーカーを脱いで上がろうとしたが、靴の中に浸入した雨水によって靴下が少し濡れてしまっていた。なので靴下も脱ぎ、それを手にもって裸足で上がることにする。ズボンもかなり濡れてしまっていたので、裾を何度か折って床に水がつかないようにした。
「あらっ」
賢祐が今度はハンドタオルを取り出し、濡れた髪やワイシャツやズボンを簡単に拭こうとしていたところで、女性が居間の開け放されたドアから顔を出す。
「賢祐くんいらっしゃい」
麻衣子の母親だった。彼女は笑顔で賢祐の来宅を歓迎した。
「あ、今日もおじゃまします」
賢祐もせっせとハンドタオルを動かしながら笑顔でそれに応える。
「そんじゃあ先にあたしの部屋行ってて」
一通り挨拶が済んだところで、麻衣子はそういって居間へ入ってしまった。
「はいよ」と応えてから賢祐は玄関のすぐ近くにある階段を上がり始める。階段を上がり、左右にのびる短い廊下の右側、一番奥の部屋が麻衣子の部屋だ。賢祐は迷うことなくその部屋の前に進み、扉を開けて中に入った。
見慣れた麻衣子の部屋。床にはカーペットが敷いてあり、入って右手にはベッドと机が設置してある。左手にはタンスや本棚があり、賢祐が聞いたこともないような本や、何かの小動物的な可愛さで消費者の受けを狙ったマスコットやぬいぐるみが飾ってある。女の子らしい部屋とでも言うべきだろうか。
賢祐はもう一度ハンドタオルで全身を拭き、最後にバッグについた水滴も拭きとってからそれをカーペットの上に置き、自分も腰をおろした。
少しして、階段を軽やかに上がる足音が聞こえ、それはすぐに部屋のドアの前まで近づいてきた。賢祐は立ち上がり、ドアノブに手をかけて引く。開かれたドアの向こうには、両手に麦茶を入れたコップを持った麻衣子がいた。
「お、サンキュー」
麻衣子は笑ってそう言った。ここへ来ると麻衣子はいつも二人分の麦茶を出してくれる。今回も麻衣子の両手が塞がっていることを賢祐は把握していた。
麦茶を受け取り、一口飲むと、やっぱりいつもと変わらぬ木村家の麦茶の味がした。
それから二時間ほど話しただろうか。
麻衣子はベッドの上に横になり、寝息を立てていた。喋り疲れたのかもしれない。これもよくあることだった。
よくもまあネタが尽きないものだ、と半ば呆れるほど、麻衣子はいつも色々なことを話してくれる。クラスメイトのこと、勉強のこと……端から見ればいかにも仲の良さそうなクラスメイトを、麻衣子としてはそれほど好きではないという話もしてくれた。
こんなことをもう何度となくしているが、やはり今日も話している間は賢祐にとって至福の二時間であった。麻衣子の楽しそうな顔を見ているだけで……そして、その笑顔を眺めているのは今この時間だけは自分だけだということも、賢祐をこの上なく心地よくさせた。
賢祐は心から、麻衣子のことを好いていた。
だがそのことはまだ誰にも言っていない。博明にも、だ。
普通ならば、その旨を麻衣子に伝え、二人の関係をいわゆる『恋人』とするための同意を得ようとするのかもしれない。しかし賢祐はしなかった。
単純に、怖かったのだ。彼女との関係が気まずくなってしまうことが。
ただそれだけの理由。だがそれは賢祐にとってあまりにも大きなことだった。彼女を失うのは、あまりにも辛い。
賢祐は眠っている麻衣子の顔を見た。穏やかな表情だった。少女らしい幼い可愛らしさと、女性らしい美しさがそこに混在しているように思えた。賢祐はしばらくその寝顔から目が離せなかった。
賢祐の中で、何かが動いていた。
彼女を自分だけのものにしたい、という気持ち。いつも恐怖に打ち勝つことができず、必ず隅へ追いやられてしまう気持ち。だが、それが消えることは決してない。いつも心の片隅で、次こそは恐怖に打ち勝とうと虎視眈々と狙っている。
それが今、また恐怖に勝負を挑もうとしていた。彼女の寝顔が、それに力を与えていた。
「……木村」
賢祐がぽつりと漏らす。麻衣子は応えない。
「……寝てるか?」
麻衣子はう〜んと高い声で唸って、身体をもぞもぞと動かしてから
「寝て……ない……」
と小さく呟いた。まだ完全に寝てはいなかったようだ。それでもまぶたは上がらず、寝息もそのままだった。
「そうか」
彼女の仕草はとても愛らしかった。不意に笑みがこぼれた。
そのとき。
突然、激しい頭痛がした。頭が、物凄い力で締め付けられているかのようだった。脈は早まり、息が荒くなる。
全身が熱い。額には嫌な汗がにじんでいる。頭痛はさらに激しくなる。
「があっ……!!」
声が漏れた。自分でも聞いたことのないような声だった。
賢祐は倒れ込み、両手で頭を抑え、足をばたつかせて悶え苦しんだ。
身体の中で、何かが暴れ回っている。狂ったように。そして嬉しそうに。
全身が溶けていくような気さえした、最早正気を保つのは不可能だった。
と。
突然それら全ての苦痛が吹き飛び、賢祐の中に平穏が戻ってきた。溶けるように熱かった全身が、今は爽やかな高原の風を受けているかのように涼しく、居心地がよかった。汗も引いていた。
「高橋?」
麻衣子は賢祐の異常を察知し、目を覚まして身体を起こし、驚愕の表情を浮かべて賢祐を見つめていた。
戦いは終わった。理性と本能の激しいぶつかり合いは、一瞬にして本能の勝利に終わったのだ。理性は消え失せ、賢祐の全ては本能に支配された。
賢祐は目を見開き、身体を起こして麻衣子の顔を見た。
薄れゆく意識の中で、麻衣子はゆっくりと全身がベッドに沈み込むような感覚を覚えた。ああ、今日も寝てしまう。きっといつものように目が覚めると賢祐はもう帰っていて、自分はこの部屋で一人で目覚めるのだろう。
彼に申し訳ない。だが、彼女は睡魔に打ち勝つことができそうになかった。
しかしその睡魔は唐突にどこかへ飛び去って行った。
それまで黙っていた賢祐が突然悶え苦しみだしたのだ。頭を抑え、足をばたつかせ、聞いている自分までもが苦しくなりそうなうなり声をあげている。
麻衣子は身体を起こして、無意識にそう彼の名字を呼んでいた。このときは純粋に驚きが彼女の意識を支配していた。
ところが突然、賢祐の身体はぴたりと静止した。
ゆっくりと上体を起こしていく。
まだ状況が掴めない中でも、麻衣子は「よかった、収まった」と内心胸を撫で下ろした。しかし。
麻衣子は賢祐のその表情に尋常ならざるものを発見した。それはまるで人間の表情ではなかった。
殺される。
直感的に、麻衣子は感じた。
逃げたい。逃げなくてはならない。彼女の中でけたたましく警報がなりひびく。しかし立ち上がれない。恐怖が彼女を縛り付けていた。
今度は麻衣子の全身から汗が噴き出した。怖い。逃げたい。逃げられない。
賢祐はゆっくりと立ち上がり、麻衣子を見下ろした。
賢祐の瞳に刻まれているのは、本物の殺意だった。熱いようで冷たく、激しいようで落ちついている。麻衣子の身体は震え始めた。目の奥が熱くなり、涙で視界がぼやけていく。
賢祐がだらりと下げていた右手をゆっくりと持ち上げる。そしてさらにゆっくりとそれを麻衣子に向けて伸ばし始めた。同時に右足も一歩踏み出し、ゆっくりと上体を前方に傾けながら、麻衣子に近づいた。瞳は麻衣子から離れない。
右手は彼女の首を目指していた。
あと三十センチ。二十センチ……十センチ、五センチ。
掌が、震える麻衣子の首を掴んだ。麻衣子の目から、涙がこぼれ落ちた。
窓からうんざりするような熱い光が差し込んできている。梅雨はそろそろ明けるのだろうか。夏になれば学生には夏休みがあるが、賢祐にとって今年の夏休みが『休み』たるものになるかどうかは甚だ疑問である。
だが、この部屋にいる分にはそんな心身ともに病んでしまいそうな暑さとは無縁でいられる。普通の教室とは違ってクーラーが設置されているのだ。
広い音楽室の一角、並べられた机から見て黒板の左側に、グランドピアノが置いてある。
その椅子に腰掛け、鍵盤に手を置いているのは博明だった。
見る人によっては少々稀な光景だろう。木田博明は、自分がピアノを弾けることをクラスメイトたちに公言していないのだ。だが彼の姿を見ているのは賢祐だけだ。
博明が全身で息を吸い込み、ゆったりと腕と指を動かしてそのピアノを弾き始めた。
優しく、美しいメロディがゆっくりとしたテンポで流れていく。博明は目を閉じ、自分の世界に引きこもったかのようにそれを奏でている。賢祐は一音一音を聴き逃さないように、聴覚をそのピアノの音色に集中させた。
テーマとなるメロディから、別のメロディへ展開し、そしてまたテーマへと戻ってくる。それを弾き終わったところで、博明の動きが止まった。目は閉じたままだ。
「……終わり?」
賢祐がそのたった三文字ばかりを言い終える前に、博明はカッと目を開き、両手を振り上げ、それを鍵盤に叩き付けるように振り下ろした。
和音が激しく響く。
その和音に続いて、先程の優美なメロディからは想像もつかないような、暗く、激しいメロディの速弾きが始まった。博明は、今度は目をしっかりと開け、全身を動かしながらもその視線を鍵盤に送っている。
狂ったように弾き続ける博明。だがその姿は活き活きとしているようだった。
速く、激しいままフレーズは駆け抜けて行き、そのまま終わりまで止まることはなかった。
曲が終わっても、賢祐は博明から目を離さなかった。いや、離せなかったのだ。何かが彼の視線を博明に釘付けにした。これが『感動』というものなのかもしれない、と賢祐が考え始めたところで、博明はひとつ大きなため息をついてから椅子を立った。
「あー……疲れる曲だ」
それまでの取り憑かれたかのような表情はとっくに消え失せ、いつもの彼の顔に戻っていた。
「お疲れ……俺はよくわかんないけど、なんかすごい曲だったな」
賢祐は素直な感想を述べた。
「どうかな。こういう曲ってなんかありがちな感じじゃないか?」
「そうなのか? でも俺は良い曲だと思う。俺は好きだな」
「そりゃありがたい」
博明はうっすらと嬉しそうな表情を浮かべる。
すると、少し離れたところから声が聞こえた。
「なぁに、今の曲って木田くんが作ったの?」
黒板を挟んだ反対側に音楽室と繋がるドアのある、音楽準備室から中年の女性が現れた。この学校の音楽の教科を担当している教師、平山だった。痩せていて背が高い女性で、見た目の年齢としては四十代くらいだろうか。温和で、生徒に対してもごく自然な態度で振る舞うので、彼女を悪く言う生徒は少ない。
「ええ、まあ一応そうですね」
博明は今度は少しだけはにかみながらそれに応えた。
「すごいじゃない! なかなか高校生であんな曲作れないわよ」
「そうですかねぇ」
「うん、すごいすごい。でもそろそろチャイム鳴るよ」
時計の長針は、午後の授業が開始する時間の3分ほど前を示していた。
「遅刻なんかして、先生にここ使ってること知られたら、もう使えなくなっちゃうかもよ?」
おどけた調子で平山は言った。
賢祐と博明はときどき、昼休みにこの音楽室に来て、ピアノを弾いている。実際に弾いているのは博明で、賢祐は聴いているだけだが。そんなことができるのは、ひとえに平山のお陰である。
二人が二年生の頃、博明は選択の授業で音楽をとっていた。博明が平山と知り合い、親しくなったのもそのときだ。
三年に進級してから、賢祐と博明は平山に、昼休みに音楽室を使わせてくれないかと頼んだ。しかし賢祐は今となっては、なぜそういう話が賢祐と博明の間で上がったのかよく覚えていない。だが博明は普段から「ピアノ弾きてえ」と唐突に言い出すことがよくあった。それが発端だったかもしれない。違うかもしれないが。
意外にも音楽室は昼休みは使われておらず、二人はあっさりと音楽室を使用することができたのだった。
平山を残し、二人は音楽室を後にした。賢祐の頭の中では、まだ先程の曲が再生されている。
「それで、さっきの曲の曲名は?」
教室を目指して歩きながら、賢祐は訊いた。
「曲名? いつも名前なんか付けてたっけ?」
「付けてないけど……今回はなんとなく、いつもよりも芸術的だったから……」
「お前、芸術を解ってるつもりか」
「知るか。とにかく、いつもいつも『あれ』とか『あの時の曲』とか『この前の前の曲』とか、解りづらいんだよ。今回から正式に命名してみたらどうだ?」
博明はいつも、曲を作っても名前をつけない。考えるのが面倒なのだそうだ。
「まあ、それもいいかもな」
それは賢祐にとっては意外な返答だった。博明は面倒なことは一切したがらないタイプの人間のはずだった。もしかしたら、今回の曲には今までにはない思い入れがあるのかもしれない。
「驚いたな。じゃあどんな曲名にするんだ?」
「う〜ん……」
博明は宙を眺めてぼんやりと考え込む。そのまましばらく二人は黙って歩き、もう少しで教室までたどり着くというところで、賢祐が口を開いた。
「『木田博明 ピアノソナタ イ短調 “変態” 第一楽章』」
「……よりにもよって変態かよ」
「変態ってあれだぞ、お前。サナギがチョウチョになったりする方だぞ」
「そうかい。で、第一楽章ってことは続きがあるのか?」
「さあな。気が向いたら作る」
博明がそう言ったところで、賢祐は自分のクラスの教室から見慣れた人物が出て来るのを見つけた。
「木村」
賢祐がそう声をかけるのと同時に、木村麻衣子は身体を硬直させていた。口を半開きにさせて、高橋を見つめたままの姿勢で。
「あ……高橋」
麻衣子は凄まじくぎこちない様子で呼びかけに応える。
「……どうした?」
賢祐は不審に思ってそう訊いた。すると麻衣子はまるで我に還ったかのように全身の硬直から解放され、一瞬はっとしてから笑顔を作った。
「なんでもない。ちょっとトイレ行ってくるだけ」
そう言って麻衣子は二人の横をさっさと通り過ぎて行ってしまった。
「なんだ、随分よそよそしいな。お前なんかしたんじゃねえか?」
博明が振り向きながらそう言う。
賢祐はそのまま動かなかった。頭の中にある何かが、賢祐をひどく不安にさせて、彼を動けなくさせていた。
「なんだよ、マジでなんかあったのか」
「……何にもないといいんだけどな……」
「はあ?」
「とりあえず、後で話すよ」
賢祐は神妙な面持ちでそう言うと、教室のドアをくぐった。博明は怪訝そうな顔をしながらそれに続いた。
この日の午後の授業ほど頭に入らなかった授業はない。いや、実を言うと午前の授業だってほとんど聞こえていなかったような気がする。それにははっきりとした理由がある。
昨日のことだ。
気がついたときには、賢祐は暗くなった学校近くの道を全身ずぶ濡れの状態でふらふら歩いていた。頭はがんがんと痛み、自分がそれまで何をしていたのか、最初は全く思い出せなかった。しかし、落ちついて少しずつ記憶を手繰り寄せていくと、最も新しい記憶は麻衣子の部屋にいるときのものであることに気がついた。
そこから少しずつ、記憶が記憶を呼び戻していく。麻衣子の部屋で、激しい苦痛に襲われた。何が何だか解らなくなって、そこで記憶が途切れている。
全身がだるかった。足が妙に重く、前に振り出して歩くのが恐ろしく面倒に感じる。思考も鈍く、何が起こったのかを思い出そうとするのはすぐに諦めてしまった。このままこの道の端にでも座り込んで、そのまま寝てしまいたいとさえ思った。もし、自分が今どこにいるのか解らなかったり、家が歩いてすぐのところになければ、そのままそうしてしまっただろう。しかし賢祐は自分がどこにいるのかをしっかりと把握していたし、あと数分も歩けば家に着くということを解っていた。
雨はひたすら降ってくる。シャツは身体にはり付き、頭から顔をつたって雨水が流れ落ちていく。靴の中も水浸しだった。
賢祐はそのままふらふらと歩き続け、なんとか家にたどり着き、軽くシャワーを浴びてそのまま寝てしまったのだった。
「……で、朝目覚め、登校し、今に至る、と」
博明が真面目な表情で言った。
二人は午後の授業を終え、賢祐の家、彼の部屋にいた。賢祐にとって最も落ち着ける空間。そこで博明に昨日のことを話したのだった。
「そう。で、今朝も木村にちょっと声をかけようと思って……でも、かけられなかった。もう最初からいつもとちょっと違って……元気がないっていうかね。しかも俺の顔を見るなり……」
彼女はびくりと身体を震わせ、そして怯えたような目を賢祐に向けたのだった。
「……昨日、一体何があったんだ……?」
賢祐はそう言って黙ってしまった。
博明も軽々しく何かを言うのはためらわれた。重苦しい沈黙が二人の上を流れていく。
長い沈黙のあと、賢祐がようやく口を開く。
「悪いな、お前だってこんなこと聞いてもどうしようもないだろ」
彼の顔は苦笑を浮かべていたが、それも博明に申し訳なく思ったが故の作り笑いに過ぎなかった。博明はそれにも気付いたが、やはりこんな時の適切な言葉は思い浮かばなかった。
「いや、まぁ……」
「まぁ、なんとかするよ」
一体どうすればいいのか、賢祐にもそんなことは解らなかったが、このままこの重苦しい空気のままでいるのは耐えられそうになかった。
その後はいつものようにしばらく雑談したりして、暗くなってから博明は帰って行った。
博明を見送った後、賢祐はまた部屋に戻ってきて、ソファに座り込んだ。
全身の力を抜き、頭だけを働かせる。脳内で昨日の記憶が再生され始めた。麻衣子の部屋、麻衣子の顔。そして激しい苦痛と、雨の降る夜道。それは何度も何度もループし、全くそこから解決へ向かおうとしない。
ひとつ、大きくため息をついた。
窓の外からセミの鳴き声が聞こえてきている。もう夏が近づいて来ていることを嫌味ったらしく教えているかのようだ。これからしばらくは、ひたすらその鳴き声が自分の鼓膜を振動させ続けるのかと思うと、なんとも言えない脱力感のようなものに襲われる。
まぶたが重くなってきた。頭の中ではまだループが続いている。身体はぐったりとしてソファに沈み込んでしまっているようだった。なんとなく眠気に抵抗したくなって、立ち上がろうと考えてみても、身体はそう簡単に言うことをきいてはくれなかった。首を維持しているのが辛くなり、そのうち力が抜け、がくんと顔が下を向いて自分の腹と向き合う。それをなんとか持ち上げ、壁にかかっている時計を確認した。
七時十五分。
「あ〜ぁ」
なんとなく、理由もなく声を出してみた。
七時十五分と言えば、そろそろ夕飯の時間だ。今頃居間で母親が夕飯の支度をしているに違いない。支度ができれば起こしにくるだろう。それまでは起きていよう。
そんなくだらないことを考えているうちに、いつの間にか頭の中のループはどこかへ消えてしまっていた。賢祐は心地よくなって、今度こそ本当に眠りに落ちそうになった。
しかし、意識が消える寸前に何かが見えた。
例え賢祐がそれを忘れてしまっても、頭の中のループはそれをやめていなかった。そしてそれはようやく突破口を見つけ、嬉しそうにそれを賢祐に見せびらかそうとしたのだ。
それは映像として現れた記憶だった。
自分の両腕が見えている。その腕は自分のものとは思えないほど、気味が悪いほどに何本もの筋を浮き立たせ、青っぽい色をした血管までもが、今にも皮膚を突き破って破裂してしまいそうなほどに膨れ上がり、浮かび上がっていた。両手はどこかを目指してゆっくりと進んでいた。
やがてそれは柔らかいものに触れる。両手の掌がそれを感じ取り、その柔らかいものをしっかりと掴む。
誰かの首だ。
指の間からその首の白い素肌が確認できて
「賢祐!」
「うわっ」
賢祐は驚いてソファから飛び上がった。見ると部屋のドアが開いていて、そこに裕美の姿が見えた。
「もうご飯だってば。いつも寝ちゃってるんだから……」
時計を見てみると、時刻は七時半になろうとしていた。
裕美はそれだけ言うと、さっさと賢祐の部屋を離れて階段を下りていった。母親に起こすように言われて来たのだろう。高橋家では恒例となっていた。
「……寝てたか」
意味もなくそう口に出し、賢祐は立ち上がった。飛び起きたお陰で眠気はもう完全にどこかへ行ってしまっていた。裕美に感謝しなくては。
裕美は賢祐の妹で、一歳年下だ。賢祐とは違う高校に通っていて、運動部に所属しているらしい。それに関して賢祐は詳しいことを聞かされていなかったし、それほど興味もなかった。
彼女は物事を素直にはっきりと口に出すことが多く、口論になることもあるが、賢祐と裕美はそれなりに仲が良かった。
賢祐はそのままゆっくりと階段を下り、夕飯を食べた。裕美の声に飛び起きる寸前に見えた映像のことは、もうすっかり忘れてしまっていた。
草原がどこまでも広がっている。空には雲ひとつなく、爽やかな風が背の低い草花を優しく撫でている。
彼はそれを見下ろしていた。
またあの夢だ、と彼はすぐに気付いた。空を飛んでいる。とは言っても、せいぜい地上から一メートルから二メートル程度というところだろうか。飛んでいるというよりは、むしろ『浮いている』と言った方が近いかもしれない。何度も見た夢と同じ感覚だった。
普段、夢を見ていてもその間はそれが夢であることに気付かないことが多い。後で思い返してみると明らかに異常な世界にいるというのに、それが全くの現実であると思い込んでいるのだ。だがこの夢だけは違う。すぐに自分が夢の中にいることが理解でき、そしてこの夢の中ではあまり異常な現象は起こらない。ただ、自分が空を飛んでいるということを除けばだが。
この夢を見ている間に、眠る前の現実世界のことを思い出すことももちろん可能だし、この夢から覚めた後にすべきこと(例えば顔を洗ったり朝食をとったりすること)について考えることもできる。それらの要素はあまりにも普段の夢とかけ離れているので、これは夢ではなく何か別のものなのではないかとさえ彼は考えていた。
今回もいつものように、軽やかに空を飛んでいる。彼の心は異様なまでに爽やかで、すべてから解放されたような喜びに満たされている。
ふと彼はなぜか笑い出したくなった。自分が空を飛んでいるということが唐突に可笑しく感じられたからかもしれない。彼はついに堪えきれずに、大声で高らかに笑ってしまった。
草原が、青空が、その笑い声に応えるように笑っているような気がして、彼はますます上機嫌になった。笑いが止まらなかった。面白くて仕方がなかった。こんなに楽しく空を飛べるというのに、現実世界での俺は何を悩んでいたんだ? 木村? 大したことはない、謝れば済むことさ!
どうしたことだろう。いつも以上に爽快な気持ちだ。彼は笑いながら考えた。そういえば、いつもは『どこを飛んでいる』ということを意識することなどなかった。得体の知れない空間を飛行している……といったものだったが、今回は美しい草原という空間の上空を飛行しているという意識がある。もしかしたら、それがまた楽しいのかもしれない。
ひとしきり笑い終えてからも彼から楽しげな気持ちが消えることはなく、にこやかな笑顔を浮かべながら彼はひたすら草原の上を飛んでいた。
これが、今までの見てきた空を飛ぶ夢と同じものであれば、そのまま飛び続けているうちに疲れてきて、空を飛んだまま意識を失ってしまうだろう。そしてまた別の、いたって普通の夢を見始めたり、あるいはそのまま目を覚ましたりするのだ。
しかし今回はいつまでたっても疲労を感じることはなかった。ひたすら広がる草原の上を延々と飛び続けていく。心の中にある爽快感のようなものも消えず、彼は相変わらず上機嫌のままだ。
ふと、どこかから声が聞こえたような気がした。
だが今まで見た空を飛ぶ夢の中で、自分以外の人間が出てきたことは一度もなかった。彼は最初、気のせいだと思い、特に気にしなかった。しかし同じ声がまた聞こえてくる。彼はそれが気のせいではないことに気付き、空中に静止して耳を澄ました。
「おーい」
三度目に聞こえたその声は、確かにそう言っていた。男の声だった。
「え?」
「こっちだよ、こっち」
声は彼の後ろから聞こえた。
彼が振り向くと、そこにはひとりの若い男がいた。しかしただの若い男ではなかった。
彼も空を飛んでいた。
男は彼よりも少し年上の好青年という感じで、顔には優しい笑顔を浮かべていた。背は割と高く、腕や足もすらりと伸びていた。青年は彼に近づくと「どうも、はじめまして」と笑ったまま爽やかに挨拶をした。
「はじめまして」
彼もそれに応える。しかし全く面識のない男に突然、それも夢の中で声をかけられ、少しだけ困惑していた。そんな彼の様子を見て、青年は言った。
「僕が誰か、気になる?」
「まぁ、それは気になります……」
「でも、僕の名前を言ったところで何の意味もないんだよ。ただ言えるのは、僕は君の仲間……というよりは、君と同じなんだ」
「同じ?」
「だって、僕は君と同じように空を飛んでるだろ?」
「それはこれが俺の夢だから……」
「なるほど、夢か……」
青年はなるほどね、と呟いてから少し考えているようだった。やがて言葉を続ける。
「確かに、夢みたいなものかもね。でも厳密には夢じゃないんだ。君だって普通の夢とはちょっと違うってことには気付いてたんじゃないか?ここは……この草原は夢の世界じゃない。もちろん現実世界でもない。なんて言ったらいいのかな……もしかしたら、僕たちの今の言葉ではこのニュアンスを表現する言葉がないのかもしれないな」
彼はどう相槌をうったらいいのか解らなくて、優しげな青年の顔を見たまま黙ってしまっていた。青年は彼が喋らないのを見て、また喋り出す。
「ごめんな。突然よくわからないことを言い出して。でもまぁ……いずれは君も知ることだろうし。今無理に理解する必要もないはずさ」
「そうですか」
突然青年が現れて、よくわからないことを言い出したことに対して多少の困惑を覚えたとはいえ、彼の心はいまだに爽快感に満たされたままであり、青年の言葉を疑り深く考えてみたりするようなことは考えなかった。ただ青年が自分に対して敵意を持っていないということだけで充分な気がした。
「それで、俺に何か用があったんですか?」
「そうそう。用があったのさ。実はね、僕の仲間が今ちょっとしたイベントみたいなのをやってるんだ。それで僕は君を誘いに来たってわけだ。さっきも言ったけど、僕らは仲間だからね」
「イベント?」
「そうだよ。まぁ大したことはしないんだけどね。みんなで集まってご飯を食べながら話したりするんだ」
「え……それは……現実の世界で?」
「いやいや、もちろんこの世界でだよ。どうする、来るかい?」
普段の彼ならば、思いっきり時間をかけて悩んだに違いない。得体の知れないイベントに、さっきであったばかりの名も知らない青年と一緒に参加するのだから。しかし今の彼は普段の彼ではない。誰もいない草原で、ひとりで高笑いをするくらいに上機嫌、ハイテンションなのだ。
「いいですよ。行きます」
「よかった! それじゃあ早速行こうか。僕についてきてね」
青年は嬉しそうにそう言って、飛んでいった。言われるままに彼もそれに続いた。青年の飛ぶスピードはかなり速く、はじめは置いていかれそうになったが、すぐに彼もそのスピードに合わせて飛べるようになった。
賢祐は気がついたとき、自分がどこにいるのか理解できなかった。ただ白い天井がぼんやりと見えた。雨戸の隙間から光が差し込んでいた。目覚まし時計がひたすら騒いでいた。彼にとって見慣れた光景がそこにあったのだが、それまで、ほんの一瞬前まで見ていた光景とはあまりにかけ離れていて、まるで密閉されているような気がして、彼は異様な感覚を覚えた。
まずは上体を起こし、それから身体をひねってベッドの枕近くに置いてある目覚まし時計のアラーム・スイッチを切った。部屋の中に静寂が戻った。ベッドを降り、身体を思い切り伸ばしてから、雨戸を開けると、まだ朝だというのに暑苦しい日差しが部屋に飛び込んできた。賢祐はひとつため息をついて、ゆっくりと部屋を出た。時計は午前七時半を示していた。
まだ眠り足りないと訴える身体にムチをうちつつ、手早く朝の支度をしている間、彼の頭の中にあったのは、先程の、妙にはっきりと記憶に刻み込まれてしまった『夢に似た世界』のことだった。ただひたすら広がる草原。空を飛ぶ自分……というよりは宙に浮く自分。笑顔の青年。イベント。そこから何かが始まろうとしていた。それなのに自分はここへ引き戻されてしまった。
続きが気になった。そして、どういうわけかその続きは近いうちに必ず見ることができるような気がした。今朝の夢は今までの『空を飛ぶ夢』とは違う。当然、他のどんな夢とも違う。こんなにもはっきりと夢の内容を覚えていたのは始めてだったし、そんなこと以上に何か不思議な、予感のようなものが彼の中にはあった。
きっとまたあの夢を見るに違いない。ひょっとしたら、今夜にでも。
いつものように母親に出発の挨拶をして、彼は家を出た。外には午後の暑さを予感させる、熱く鋭い陽光で満たされていた。
彼はそこでふと思った。
自分がこんなにも真剣に何かを考えるのも珍しいことだ、と。
木村に関することにしても、一昨日まではこんなに真剣に悩んだりしたことがあっただろうか? 一昨日の夜の出来事、昨日の彼女の表情、それを打ち明けた時の木田の気まずそうな顔。そして夢。
いわゆる非日常の予感がした。思春期の少年少女が、漫画や小説の世界で巻き込まれる非日常。そんなものは作り話でしかないと思いながらも、彼は少しだけ、そういうものがあったら面白いに違いないとも思っていた。だが今自分に降り掛かろうとしている非日常が、果たして後になっても「面白かった」と人に笑って話せる類のものになるのかどうか。それは今の彼には全く解らないことだった。
ほんの少しだけ不安だった。
仮に自分だけがこんな妙な不安を抱えているとしたら、随分不公平なことだ、と思いながらも、まるで世界中が彼を指差して非難しようとしているような気がした。
自転車に乗って風を切っている間も、彼はそんなことを考えていた。
「バッドエンドはやめてくれ」
小声でそんなことを口に出してみたが、何も変わった気はしなかった。
すぐに学校に到着し、決められた場所に自転車をとめて、いつものように昇降口から校舎に入って自分のクラスの教室に向かった。
教室に着いて、彼はまず麻衣子の姿を探してみた。麻衣子はだいたい賢祐よりも早く学校に着いており、多くの場合、親しい女友達と談笑している。賢祐はまずクラスの女子生徒が集まって楽しそうに話しているあたりを見てみたが、そこに麻衣子の姿はなかった。次に麻衣子の席の方を見てみたが、そこにも彼女はいなかった。賢祐はまたひとつため息をついてから、自分の席についた。
結局、その日一日木村麻衣子の姿を見ることはなかった。彼女は朝のホームルームが始まっても姿を現さず、そのままその日の授業はすべて終了した。
昼休みは博明と一緒にまた音楽室に入り浸った。博明はその日、軽やかで楽しげなジャズを弾いた。彼が演奏している間だけでも賢祐は夢や麻衣子にまつわる悩みを忘れようとしたが、そう簡単に頭から消え去ってくれそうにはなかった。
帰り際、博明がまた家に寄ると言い出したが、賢祐はそれを断った。博明は明らかに気を遣っているようだった。賢祐にはそれがよくわかった。博明は普段、ほとんどそういう態度を見せることがないために、賢祐は彼の少しだけ申し訳なさそうな顔を見ているのが嫌だった。それに、今彼に相談したところで何か解決策が見つかるとも思えず、無意味に気まずい雰囲気になってしまうであろうことはすぐに予想できた。
賢祐は博明と別れてからひとり、無言で自転車を漕ぎ、さっさと家に帰ってから短く「ただいま」と言っただけで、すぐ部屋に引きこもってしまった。彼はベッドにひっくり返り、そこでまたひとつ、今度は大きく吸ってから大きなため息を吐き出して、全身の力を抜いた。
案の定、それはすぐに訪れた。
例の夢。正確には『夢に似た世界』らしいが。
昨夜と同じ草原。だが空は青色ではなかった。昨夜、青空が広がっていたところにはかわりに夜空があった。たくさんの星がまたたいていて、普段彼が見上げる夜空とは段違いに美しかった。あたりは静かで、風も吹いていなかった。優しい静寂が彼を包み込んでいた。そして彼はやはり上機嫌だった。
彼はこの夢の中に、今回始めて意識を持って『逃げ込んだ』のだ。さっきまで頭の中で渦巻いていた様々な負の要素は跡形もなく消え、満足感、爽快感、解放感……そういった類のものが生まれていた。
しかしそこで、彼はある決定的な事実に気がついた。ベッドに横になり、力を抜いて、すぐに『空を飛ぶ夢』を認識したが、今彼は空を飛んでいなかった。しっかりと地に足をつけ、直立した状態で満天の星空を見上げていたのだった。
「おーい、こっちこっち」
昨夜も聞いた、あの青年の声が聞こえて、彼は見上げるのをやめた。するとそこにもいつもとは違う光景があった。
草原のまっただ中に、しっかりと造られた、まだ殆ど劣化していない木製の四角いテーブルがあった。かなりの量の料理が卓上に並べられている。四本の太い脚がしっかりと地面に固定されていて、高さは人の腰ほどくらい。はじめからそこに設置されているようだった。そのまわりを、同じように木で造られた背もたれのないいくつかの丸椅子が囲んでいる。そして、十人ほどの男女が立っていた。全員が彼の方を見ていた。空にまたたく星以外に光を発するものはひとつもなかった(どういうわけか月も出ていなかった)のに、それは闇にかき消されることなく鮮明に確認できた。
昨晩の青年がその中から彼に歩み寄った。青年は彼の横まで来ると、テーブルの方へ向き直って言った。
「みなさん、こちらが噂の彼です」
青年は笑顔だった。彼を紹介することを喜んでいるように見えた。
それを聞いたとたん、そこにいて彼を見つめていた全員が破顔し、口々に驚きと喜びの言葉を述べた。彼はなんとなく、自分も何かを言わなければと思い、
「初めまして。高橋です」
と照れ笑いを浮かべながら名乗った。
するとそれまで喜びの笑顔を浮かべていた人々の表情から一瞬それらが消え、すぐに彼らは苦笑を浮かべた。すぐ横にいる青年も同じように苦笑している。
賢祐にはその苦笑がどういう意味なのか、よくわからなかった。紹介されたから名乗ったというだけのことだったのだが。
「まあとにかく、主役が来たところで……始めましょうかね」
テーブル近くにいた十数人のうちのひとりの痩せた男が、さりげなく仕切りなおすようにそう言った。その男は身体のほとんどのパーツが妙に細く、頬も少し痩けている。歳は三十代くらいだろうか。少々不健康な印象を与える容姿だったが、特に体調が悪いということもないらしく、顔には青年と同じような微笑を浮かべている。
一同は彼に同意し、各々手近な丸椅子に腰掛けた。賢祐も青年と一緒に彼らの輪に入って、同じように席に着いた。
全員が席に着いたのを確認して、先程の痩せた男が口を開いた。
「待ちに待ったこの日がやってきましたね」
待ちに待った、という部分を強調しながら男はそう言った。賢祐以外の全員がそれにうんうんと頷く。男はそれを満足そうに眺めてから、賢祐の方を向いて、彼の目を見ながら言葉を続ける。
「初めまして。私たちは君を待っていたんだ」
「待っていた?」
賢祐は素直に疑問をぶつけた。
「そうとも。待っていたんだ。もう随分長いことね。ようやく君が現れてくれて、ほっとしてるよ。もうじれったい思いをしなくて済むんだ」
賢祐以外の全員が、今度は苦笑しながら頷いた。
「今、世界は新しい世界へ進もうとしている。私たちは新しい世界の住人だ。そして君は、私たちの先頭に立って、未来へ突き進んでくれる存在なんだ」
その言葉の意味は、賢祐にはよく解らなかった。新しい世界? 未来へ突き進む? 話が抽象的でよくわからない。
「君が一番に飛び立つんだ。新しい世界にね。それは前から解っていたことで、私たちは君がいつ現れるのかと待っていたんだ。君が現れたということは、つまり、私たちが新しい世界に飛び立つ日も近いということなんだよ。だけど……」
賢祐が、全く理解できないという顔をしているのを見て、男はそこで一旦言葉を区切った。
「とりあえず、いただきましょうか。おいしいうちに」
と、苦笑しながら言った。まわりもそれに賛同し、「いただきます」と言ってからテーブルの上に並べられた料理に手をつけ始めた。
賢祐はそこで、テーブルの上に並べられた料理が、今まで全く見たことのないものばかりであることに気がついた。どんな食材を使っているのか見当もつかない料理もいくつかある。だが彼は全くそんなことを気にしないでそれらを口に運んだ。初めての食感、初めての味だったが、それらはとても美味しかった。
ほんの少しの間だけ、全員が無言になった。しかしまた先程の男が賢祐に向かって口を開いた。
「さっきの続きだけど、新しい世界というのはちょっとだけ大袈裟な表現かもしれない。新しい世界と言ってしまうと、まるで今の世界とは全く異なる空間のことや、違う次元のことみたいだしね。でも実際には違う。私たちが言う新しい世界っていうのは、あくまでこの宇宙の、この地球上でのことだ。新しい世界と言うよりは、新しい生活と言った方がいいかもしれないね」
「新しい生活ですか」
「そう。新しい生活、新しい暮らしだ。……今、地球上にあるほとんどの大陸には、ヒトという生き物が住んでいるね。彼らは集団で暮らし、社会を形成してその中で暮らしている。彼らはとても知能の発達した生き物だ。しかし……彼らの文明はこの地球にもとからあったものを破壊し、貪り尽くそうとしている。その上、彼らはヒト以外の生き物に対して尊大で、まるで地球上の生き物たちの王であるかのように振る舞っている」
「彼らは肉体の能力的には他の動物に敵わないが、知能が優れているためにそれを補っている。素手でライオンに勝てなくても、ライフルが一丁あれば勝てるだろう」
痩せた男の隣に座っていた別の男が口を挟んだ。見た感じでは痩せた男よりも年上のようだ。
痩せた男はいつの間にかとても真剣な表情になっていた。しっかりと賢祐を見据え、一言一言に力を入れて語っていた。
「しかし、残念ながら彼らの時代はもうすぐ終わる。彼らに変わって地上を支配する生き物が出てくるからだ。支配と言っても、力で押し付けてひれ伏させるわけじゃない。ヒトも、他の生き物も、そして新たな生き物たちも平等な世界を作り出し、ヒトの傍若無人な振る舞いをとめるんだ。簡単に言えば、ヒトを自然に還すんだよ」
「その新しい生き物っていうのが、僕らのことなんだ」
賢祐のとなりに座っていた青年が、優しく教えるようにそう言った。
「僕ら……じゃあ、俺も?」
「当然じゃないか」
痩せた男が笑いながら応えた。
「ヒトを自然に還し、地球を取り戻すんだ。それこそが私たちの使命であり、存在する理由でもあるんだよ」
痩せた男はそこまで言い終わると、賢祐の意見を求めるようにして口をつぐんだ。とりあえず、最低限言うべきことは言いました、という表情だ。
「……なんかのカルトみたいですね」
賢祐は、男の話を聞いての素直な感想を口にした。新しい世界とか、人類を批判するあたりとか……なんとなく、人々を扇動し、いわゆるテロ行為に走るようなカルト教団のイメージが、男の話の内容にそのまま当てはまるような気がした。
「そう言われると辛いな」
男は苦笑しつつそう言った。
「すいません」
「でもまあ、そのうちわかるよ。まあ難しい話はこの辺にして、あとはみんなと親睦を深める時間にしてくれ」
痩せた男の言葉は、賢祐にとってもわかりやすいものではあった。だがその言葉の内容があまりにも突飛過ぎて、すぐには飲み込めない。解るようで、なんだかよく解らない話だな、と賢祐は思った。だがそのときは痩せた男の言葉を吟味してよく考えようという気には全くなれず、後で考えればいいと楽観的に考えて、「そうですね」と彼は笑いながら言うだけだった。
その後しばらく、賢祐はまだ会って間もない人々との会話を、美味しい食事とともに楽しんだ。彼らはとても気さくで、話の内容もとても面白かった。賢祐の方からも話をすることもあったが、彼らは賢祐の言葉のひとつひとつをしっかりと聞き、的を射た意見をくれた。
それは、これまで生きてきた中で、こんなにも楽しい時間はあっただろうかと思うほどだった。その間彼は、現実の世界のことなど完全に記憶から葬り去ってしまっていた。
薄暗い部屋で、賢祐は目を覚ました。弱々しい光が窓から入ってきている。
前に同じ夢から目覚めたときにも感じた、異様な感じがこの時も存在した。広く自由な世界から連れ去られて、狭く、密閉された空間に閉じ込められ、栓をされてしまったかのような息苦しさ。前回目覚めたときはそれほど気にならなかったが、今感じているそれはその時のものよりも大きいように感じられた。賢祐はそれを不快に感じた。
時計を見ると、時計は七時過ぎを示していた。
しまった。
学校から帰ってきてそのまま朝まで寝てしまったらしい。全身が寝汗でべたべたしていた。シャワーも浴びなかったし、歯も磨いていない。閉じ込められたような不快感よりも、それは現実的で解りやすい不快感だった。
朝まで寝てしまった自分に対するやるせない気持ちと、昨夜の段階で起こしてくれたっていいだろうという母親や裕美に対する少しばかりの怒りが、頭の中で入り交じっている。
うんざりしながらもむっくりと起き出し、ベッドを降りた。
「…………?」
そこで、賢祐は違和感を覚えた。
妙に暗い。窓から入ってくる光が、この時期の午前七時にしては少なすぎるんじゃないか? いつも目を覚ますのが七時半。雨戸を開けたとたんに飛び込んでくる暑い日差しを思い出す。
……もしかして。
床に放置してある携帯電話を拾い上げ、それを開いた。
『PM 7:08』
日付変更線はまだ越えていなかったようだ。
賢祐はベッドに座り込んで、ため息をついて、肩の力を抜いた。
一安心。だが今は考えるべきことがある。
夢に出てきた、あの痩せた男の言葉を思い出す。
『ヒトを自然に還し、地球を取り戻す。それが私たちの使命』
普通なら、そんなことを言われたところで自分は全く耳を貸さないだろう。そんなくだらない妄言に付き合っても時間と労力の無駄だ。
しかし。
その言葉を半分以上、真実であると信じてしまっている自分がいる。
男の口調は真剣であるのと同時に、まるで『水は酸素と水素からできている』といった、当たり前のことを言うような口調でもあった。そんな当たり前のことを忘れてしまった自分に、もう一度言い聞かせる……そんな雰囲気があった。
もし、男の言うことが真実であったとしたら。
『私たち』とは誰だ?
私たち。当然、自分も含めた私たち。
新しい世界の住人……彼らが持っているのは、人間(ヒト)に対する客観的な思想。彼らは人間ではないというのか。
彼らが人間でなければ、自分も人間ではなくなる。
俺も。高橋賢祐も新しい世界の住人であり、人間ではない存在である。
そして私たちは、人間に変わって地上を支配し、人間を自然に還し、地球を取り戻す……。
そのとき、不意に賢祐の頭の中に映像が浮かび上がった。
誰かの腕が、誰かの首を絞めている。首の上には、頭がある。顔がある。賢祐にとっては、馴染みのある顔だった。
誰かが、木村麻衣子の首を絞めている……。その『誰か』の記憶を、今自分は再生している。
その記憶を、自分は持っている?
麻衣子の左目から、涙が一滴だけ溢れ出た。彼女の頬をつたって尾を引きながら流れていく。
涙はすぐに、彼女の首を絞めている手にまで達した。
映像はそこで終わった。繰り返すこともなく、それっきりだった。
賢祐はベッドに座り込んで、全身を硬直させていた。頭は考えようとするのに、別の何かがそれを邪魔している。自由を束縛された思考回路は熱を帯び、煙を上げていく。
「ちょっとっ」
誰かが、彼の肩を掴んで揺さぶった。裕美だった。
「なにボーッとしてんの? 夕飯なんだけど……もう、ほらっ」
裕美は苛立ちながら、もう一度賢祐の肩を揺さぶる。
賢祐の顔がゆっくりと裕美の顔の方を向き、ふたりの目が合う。
「裕美……」
賢祐は肩を掴んでいた裕美の手を掴み返し、言った。
「俺は……誰だと思う?」
「もう、何言ってんの? 夕飯だから! 降りてきてよ!」
裕美は彼の手を振りほどくと、そう言って部屋から出て行ってしまった。
彼女の表情は一見すると怒っているようにも見えたが、それは恐怖や驚きの入り交じった表情だった。
その日の夕飯も、いつもと同じ母親の手料理だった。メインディッシュはビーフシチュー。賢祐の好きな料理だ。
しかし、どういうわけか食欲がほとんどと言っていいほどになかった。夢の中で食べた、あの見たことのない料理が、まだ腹の中におさまっているかのようだった。
それでもなんとかをビーフシチューを口に運んでみたが、いつも美味しいはずのそれが全く美味しく感じられない。食欲がないせいもあるだろうが、何かそれ以上の理由があるように思えた。あまりにもその料理に魅力を感じなかったのだ。賢祐はその日の夕飯はほとんど食べることができなかった。
そして夕飯を食べている間、シャワーを浴びている間、部屋で漫画を読んでいる間……彼はひたすら息苦しさを感じていた。
密閉された空間。栓をされた世界。押しつぶされるような気さえした。
ベッドに横になると、いくらか楽になった。
苦しい。こんなところにはいられない。逃げ出さなくては。
目を閉じて、そう念じ続けた。
さっきまで寝ていたというのに、意識は驚くほど早く遠のいていった。
目を覚ます。
身体が軽い。
さっきまであった圧迫感は完全に消え失せて、異様な解放感に支配された。
まるで自分自身が無限の世界に広がっていくかのような解放感。あまりの快感に全身が震えた。
また、あの草原だった。
地平線まで広がる草原。程よい気温、優しい風。賢祐はその中に立っていた。
今回は昼間のようだ。だが青空は見えず、白い雲が空全体を覆っている。
「ははは……」
賢祐はついに堪えきれなくなって、笑い出した。
なんて愉快なんだ。頭のてっぺんからつま先まで、全身の細胞のひとつひとつが喜びに震えている。これまで、自分はこんな快感を得たことがあっただろうか!
「あっはははは……!!」
笑いがあとからあとから溢れ出してくる。賢祐は大声で笑った。笑っているうちに脚の力が抜けて、バランスを崩して草原に倒れ込む。それでも笑いは止まらず、転げ回った。
頭のどこかが狂ってしまったのかもしれない。そう思ったが。狂ってしまった自分というものもまた滑稽で、さらに彼を愉快にさせた。
そのまましばらく、賢祐は笑い続けた。
次第に脇腹が痛くなり、息も苦しくなってきたところで、ようやく笑いはおさまった。賢祐は柔らかい草花と土の上に大の字に寝転がり、曇り空を眺めた。
現実世界は、どうしてあんなにも息苦しいんだろう。
というよりも、どうしてここはこんなにも心地がいいんだろう。
……現実世界に戻れば、またあの圧迫感に苦しめられることになるのだろうか。わけも解らず、空気穴もないような狭い空間に放り込まれ、栓をされる……。考えるだけで吐き気がした。
戻りたくない。
彼の感情、理性でさえもそう訴えていた。
友人を失っても、家族を失っても……あの息苦しさには耐えられない。
「まぁ、今はこの瞬間を楽しまなくちゃな」
しかし、彼はそう口に出した。ここでは悲観的な考え方など場違いだ。
彼の視界全体を覆う雲は、少しずつ動いていた。柔らかい風がまた吹き、彼を優しく撫でる。彼は目を閉じて、その風を味わった。
風が止み、目を開けると、視界に映っているものが雲だけではなくなっていた。視界の上の方に、さっきまではなかったものが映り込んでいる。
ひとりの少女が、立ったまま賢祐の顔を覗き込んでいた。
「初めまして」
賢祐から見ると上下反転したその少女の口が開いた。
「あ、初めまして」
賢祐はそう言ってすぐに身体を起こし、立ち上がって少女と向き合う。
白いワンピースを着た、華奢で小柄な少女。ちょっと強い衝撃を加えたら壊れてしまいそうな感じだ。悪く言えば、弱々しい。ワンピースから露出した腕や、脚や首筋は透き通るほどに白く、うっすらと柔らかい光を発しているようにさえ見える。少女は無表情で賢祐の瞳をじっと見つめていた。
……?
賢祐は、その少女の顔に違和感を覚えた。
醜いわけではない。むしろその逆で、少女の顔は驚くほど整っていた。女性らしい美しさではなく、少女のあどけない魅力を持っている。
だが、彼女は似ていた。
賢祐がこれまで生きてきた間に出会った全ての女性に。
母親や祖母、裕美や麻衣子、それなりに仲のいいクラスの女子や、ほとんど会話したこともない女子、どこかの街ですれ違った女性……。賢祐の記憶の中にある、全ての女性の顔の要素を、その少女は持っていた。
見たことがある。だが見たことが無い……。賢祐はその少女の顔に、妙なもどかしさを感じた。
「どうしたの?」
じっと顔を見つめたまま固まってしまった賢祐を見て、少女は無表情のままそう尋ねた。
「あ、いや、別に……」
「ねぇ、名前はなんていうの?」
賢祐の『別に』という言葉にかぶせるように、少女は言葉を発した。
「名前?」
名前?
ごく普通の質問のようなのに、不思議な感じがした。どうして名前を尋ねられるんだ?
賢祐はそこで、この『夢に似た世界』で、初めて自分の名前を尋ねられたということに気がついた。前に出てきた青年や、痩せた男や、その他の十数人の男女。彼らと言葉を交わしている間、一度も自分の名前や彼らの名前に関する話題が出てこなかった。尋ねられることもなく、彼ら自身も名前を言おうとしなかった。
「……高橋、賢祐……」
賢祐はゆっくりと、確かめるようにそう言った。自分の名前を言うだけなのに、なんだか間違っているような気がした。
「タカハシケンスケ」
「……君は?」
「私?」
「そうだよ。人の名前を聞いといて、自分の名前は言わないのか? ……それとも、『名前を言っても意味が無い』?」
青年とこの世界で出会った時のことを思い出しながら、賢祐は言った。
「もう、みんなに会ったんだ」
みんな、とは青年や痩せた男たちのことだろう。
「まあね」
「あの人たちは、今の名前はもう要らないって思ってるみたい」
「要らない? どうして?」
「新しい世界になったら、新しい名前を考えるって」
「へぇ……」
「……私は五十嵐有紀。よろしく」
そこで彼女は初めて、ほんのわずかに微笑した。賢祐はその微笑を見ることができたことに対して不思議な喜びを感じた。
「うん。よろしく」
自然と笑顔になって賢祐は応えた。
「じゃあ、ちょっと手を出してくれる?」
自己紹介を済ませたところで、有紀はそう言って、掌を上に向けて右手を差し出した。細く、白く、弱々しい右手。だがそれはしっかりとした生命力を感じさせた。
「手?」
そう訊きながらも賢祐は右手を前に出し、有紀の掌にのせた。彼女の掌にのっている自分の手の甲が、妙にいかつく見えた。有紀がその手を優しく握る。
有紀は一瞬賢祐と目を合わせると、そのまま目を閉じた。
「うん。それじゃ、行くよ」
そう言ったかと思うと、有紀の身体がふわり、と宙に浮き上がった。
静かに目を閉じ、背筋を伸ばしたまま宙に浮いた彼女の姿に賢祐は目を奪われてしまった。
美しい。
彼女の髪や、白いワンピースの裾が穏やかに風になびく。
神秘的な光景だった。
賢祐が呆然とその姿を眺めていると、有紀の身体はまたふわり、と浮き上がった。そして目をゆっくりと開き、賢祐の目を見据える。
彼女はただ浮いているのではない。羽ばたいている。見えない翼で、優雅に……。
賢祐はそこでふと、そう思った。すると有紀はまたふわりと高度を上げ、ついに賢祐の脚を地面から引き離した。
ひっぱられているという感じはない。握られている右手にも、腕にもほとんど負荷はかからなかった。有紀の神秘的な力が賢祐の中に注がれて、その力で賢祐自身が浮かびあがったかのようだった。
そうか。
今まで、自分が夢の中で空を飛んでいたのは、彼女の力によるものだったのか。きっと彼女は姿を消して、自分をこうして持ち上げていたに違いない。
賢祐の頭の中では、そんなことばかりが繰り返されている。
「手……離すよ」
「え?」
有紀は突然そう言って、賢祐の右手を握る力を抜いていく。
落ちる。
「大丈夫。自分の力で飛ぶの」
自分の力?
ついに有紀は賢祐の右手から手を離した。右手から注がれる力が急に消えてしまう。慌てたが、その身体が地面に落ちることはなかった。
賢祐も羽ばたいていた。
右を見ても、左を見ても、一面の廃墟。地平線の果てまで続く、濃い灰色の世界。倒壊したビル、むき出しの鉄骨、割れたコンクリート、ひっくり返った車、人の死骸……。空気はどこか油臭く、あたりは静寂に包まれているのに、落ちつかない。
ひとりの男が、瓦礫の山の上に現れた。衣服は何も身に付けていない。身体は大きく、がっしりとした印象を受ける。
男がもうひとり、最初の男のいる瓦礫の山のふもとに現れた。こちらも同じようにがっしりとした全裸の男だ。
二人の男の目が合う。
二人はしばらく無言のまま見つめ合っていたが、やがてその表情には憎悪が
現れ始める。最初のうちはゆっくりと、そして途中から爆発的に、憎悪が二人の中で増殖し、あっという間に彼らは憎悪に支配されてしまった。
二人はほぼ同じタイミングで、弾かれたように動き出す。瓦礫の山の上にいる男は憎しみの言葉を大声で叫びながら瓦礫の山を駆け下り、下にいた男は理解不能な言語を口走りながら瓦礫を駆け上がっていく。
瓦礫の山の表面には鋭利なものも多く、二人の男の足はすぐに血まみれになったが、二人が足を止める事はなかった。
やがて二人は肉薄する。瓦礫の上にいた男の拳が、下にいた男の頬を捉えた。下にいた男はその衝撃で瓦礫を転げ落ちる。全身に傷を負いながら転がり落ちていき、最初にその男が現れた地点までいったところで止まった。
上にいた男は尚も憎しみの言葉を叫びながら瓦礫の山を駆け下りる。止めを刺すつもりだ。転がり落ちた男はむっくりと立ち上がる。彼は自分を殺そうと、鬼のような形相で迫ってくる男をしっかりと視界に捉えてから、足下に落ちていた、細長い鉄の塊を拾い上げた。それは細長いと言ってもその男の太腿ほどの太さがあり、長さは一メートルほどもあった。男はそれを両腕で抱え、再び駆け下りてくる男を見据えた。
男が駆け下りる。
男がそれを迎え撃つ。
下にいた男が何かを叫ぶ。同時に鉄の塊を、全身を使って思い切り振り抜く。
それは駆け下りてくる男の頭にぶつかった。
彼の頭蓋はいとも簡単に砕かれ、そのまま身体ごと吹き飛ばされて、絶命した。吹き飛ばされた身体は血を大量に噴き出しながら落下し、人形のように地面に叩き付けられて、それからはもう動かなかった。
戦いに勝った男は鉄の塊を手から落とし、目を閉じて、何かを呟いた。
それは戦いに敗れた男の頭蓋を砕く寸前に叫んだ言葉と同じ。
彼にとっての『神』の名前だった。
そして、神に許しを請う。
神よ、お許しください。
神よ、お許しください。
神よ、お許しください。
男は何度もそう呟く。
何十回も繰り返し、また同じ言葉を呟こうとしたところで、男の頭は吹き飛ばされた。
血を噴き出しながら、男の首から下が倒れる。
その近くに、また新たな男が現れていた。
その男も全裸ではあったが、手にはライフルを握っていた。銃口からは細く煙が出ている。
だがその男も、新たに現れた男に背後からナイフで刺され、絶命した。
次から次へと、人間が現れる。
男だけではない、女や少年も混じっていた。
地平線まで続く廃墟の中に無限に現れ、互いの命を奪い合っていく。
濃い灰色の廃墟はだんだんと赤く染められていく。
人間は無限に現れていく。
死体は無限に増え、血は無限に流される。
彼らは皆一様に何かを叫んでいる。
神の名前を叫んでいる。
殺す。
殺される。
殺す。
殺される。
殺す
殺される。
永遠にそれは続けられる。
「どう?」
それまでその光景を無言で眺めていた有紀は、突然賢祐を振り返ってそう尋ねた。無感情な瞳が賢祐を捉える。
二人は、その廃墟の上空にいた。
廃墟を埋め尽くして、蠢きながら互いを殺し合う人々を、じっと眺めていた。
「どう、って……」
賢祐が口籠る。
草原から飛び立ち、雲の上にまで昇り、ひたすら空を飛んで、たどり着いたのがこの廃墟だった。有紀はこれを見せたかったらしい。
空を飛んで、ここまで来る間は、頭がおかしくなるのではないかという程の快感で満たされていたが、今は少しだけそれが弱まっている。それでも、背中にある見えない羽を動かす度に全身に流れる快感が無くなったわけではないが。
「どうして、あの人たちは殺し合ってるんだと思う?」
有紀がさらに尋ねる。
「……頭がおかしいからなんじゃないか……?」
賢祐は、それくらいしか言えなかった。
「頭がおかしい、か……なるほどね」
「…………」
「あの人たちはね……神を信じてるの」
「……神を?」
有紀の表情が曇る。
「そう。神を。ひとりひとりがそれぞれの神を信じてる。彼らの頭の中で、神は囁くの。私を信じなさい、私を信じないものを憎み、殺しなさい、ってね。だから彼らは『異教徒』を憎んで、殺そうとするの」
「ひとりひとりが、それぞれの神を……」
「……可笑しいよね」
ふっ、と有紀が哀しげに微笑む。
「神なんて、どこにもいないのに……」
「…………」
「強いていうなら、彼らの頭の中にいるのかもね。でもそれはただの空想や妄想でしかない。根拠の無い妄想で、彼らは簡単に殺し合える。君が言った『頭がおかしい』っていうのは、案外的を射てるのかも」
賢祐は、何も言えなかった。正確には、何も言うべき言葉がなかったのだ。賢祐は何も具体的な『神』を信じていなかった。神、という言葉について真剣に考えた事もなかった。
賢祐は再び、下界の殺し合いに目を向けた。
ただ今、漠然と感じた。
もしも本当に神がいないのであれば……彼らはなんて虚しいことをしているんだろう。ありもしない神の言葉にすがり、自らの手を穢し、そして最後には血をぶちまけて死ぬ……。
下界の殺し合いは、まだ終わりそうにない。ただただ薄汚れた死体が異常なスピードで増え、それが新たな地面となり、生きているものはその上を走り回って殺し合う。
いつまで続けるのだろうか。
賢祐は呆然と下界を眺め続けていた。血なまぐさい、などという言葉では表現しきれないようなおぞましい映像を見せつけられれば、普通の人間ならば正気ではいられなくなるのかもしれない。だが、今の自分は異様なほど冷静にそれを眺めていられる。これはどういうことなのだろう。
他人事。
彼らがどんなに憎しみあおうが、殺し合おうが、自分には関係のないことだと自分は判断している。
彼らは自分とは違う。彼らは他人だ。自分とは関わりがない。接点が無い。共通点が無い。
だが、彼らは人間だ。
そして
『私たちは、新世界の住人』
痩せた男の言葉。
私たちは、人間ではない。俺も当然、人間ではない。
自分の両手が、麻衣子の首を絞めている。その映像がまたフラッシュバックする。
人間ではない。
私たちは、人間の上に立つ。
人間の命の価値など、私たちの存在の価値には遠く及ばない。
痩せた男の声が、そう言っている。その声は天から降りてくるようでもあり、地面から沸き上がってくるようでもあり、自分の内側で響き渡っているようでもあった。
「私たちは、神を信じない。何故なら私たちは、神にすがりつくほど弱い存在ではないから」
有紀が突然、力強い口調でそう言った。賢祐は少し驚いて、有紀の顔を見た。彼女は賢祐の瞳をまっすぐに見据えている。その目には確固たる自信が浮かんでいた。
「新しい世界に、神は必要ない。私たちは、私たちの力だけで世界を創っていく」
そう言って、有紀は右手を差し伸べた。賢祐の手を掴んで空へ舞い上がった時と同じように。
「賢祐、私たちと一緒に、新しい世界に飛び立とう」
有紀の目には、神秘的な力が宿っているようだった。それは賢祐の視線を掴み、離そうとしない。
彼女の瞳から、何かが流れ込んでくる。
それは目から体内に入り込み、脳を包み込んでから、全身に浸透していった。
賢祐は無意識に、自分の右手を有紀の右手の上に乗せ、そして力を込めて握りしめていた。
初めて羽ばたいた時と同じように。
目覚まし時計がけたたましい音を鳴らす。
白い天井が見える。また朝が来た。
賢祐は右手だけを動かして、耳障りな目覚まし時計を黙らせた。
静寂。
目は完全に覚めていた。一寸の眠気もない。意識が異常なほどはっきりとしている。
閉塞感。圧迫感。
昨晩、眠りにつく前に感じていた、この居心地の悪さ。それは軽減するどころか、ますますひどくなっている。
それでも朝がきてしまったからにはどうしようもない。今日も学校に行かなくては。賢祐は自分にそう言い聞かせ、身体を起こそうと、腹とベッドについた両手に力を入れた。
だが、身体は起き上がらなかった。
力がうまく入らない。
もう一度力を込めておき上がろうとしてみたが、結果は同じだった。
そこで賢祐は初めて、全身が巨大な倦怠感に支配されていることと、頭痛がすることに気がついた。
どうやら今日は体調が優れないらしい。
賢祐は起き上がることを諦め、大きく息を吐いて全身の力を抜いた。ベッドに身体が沈んで行くようだった。
……今日は学校に行くのは無理そうだ。
目を閉じると、休日にする二度寝の快感を覚えた。
ACT 2 雪原
明るく、熱い日差しが窓から差し込んできている。皆もうとっくにワイシャツやポロシャツなどに衣替えし、だるそうに団扇や下敷きで顔に風を送っている。セミの鳴き声は日増しに大きくなって来ていた。
朝のホームルームが終わって、一時間目の授業が始まっても、高橋賢祐は姿を見せなかった。
……サボるつもりか、あいつ。
木田博明は、質素な椅子の背もたれに体重を委ね、力の抜けた体勢で、教卓で授業を進める教師の声を聞くでもなく聞いていた。
一応、机に教科書とノート、筆入れは出してあるが、それらに手をつけようという気にはならなかった。昨夜遅くまで起きていたので、寝不足によって全身がだるい……という理由もあるが、今は少し考えるべきことがある。それはもちろん、授業に関することではない。
ちらと木村麻衣子の席の方を盗み見る。
彼女も自前の団扇で顔を扇ぎながら、ぼんやりと黒板を眺めている。時折ノートに何やら書き込んでいるようだったが、あまり集中している様子は無い。これは彼女のごく普通の授業態度であり、特に変わった様子はなかった。
一昨日、賢祐の家で聞いた話のことを、博明は考えていた。
麻衣子の家で賢祐が自我を失った。
気がつくと外にいて、自分が何をしていたのか思い出せなかった。そして麻衣子は賢祐を見て、怯えるような顔をした……。
その話を聞いた翌日に麻衣子は学校を休み、その翌日、つまり今日、麻衣子は学校に来ているが、まだ賢祐は学校に来ていない。つまりまだあの二人は一歩も解決に向けて進んでいないということだ。二人の様子からして、昨日の間に話し合いをしたということもないだろうと博明は考えた。
……あとで、木村に話を聞いてみるか。高橋が覚えていないことを、木村は覚えているはずだ。一昨日の賢祐に対する態度からして、それはほぼ確実だろう。
そう簡単に話してくれるかはわからないが、うまくいけば一昨日何があったかを知ることができる。何があったのか知ることができれば、自分が仲介役になって二人の間を取り持つこともできるはずだ。
……まぁ正直、面倒くさいとは思うが、仲のいい友人のためだ。それに……あの二人の今回のことを考えると、妙に落ち着きが無くなる。これが『胸騒ぎ』というやつなのかもしれない。これはひょっとしたら、思いもよらない展開になるかもしれないが……。まずはできることをやってみなければ。
もしもうまくいったら、ジュースかパンを高橋に奢らせよう。
その日の授業が終わり、部活動のあるものは部活動を、無いものは帰宅を始めている。賢祐は結局学校には来なかった。
博明はまだ麻衣子と話していなかった。そもそも博明と麻衣子はそれほど親しいわけでもなく、それに「高橋と何かあったの?」などという無粋な質問を、彼女の友人やクラスメイトの前でするというのは、博明の今ひとつはっきりとしないモラルのようなものに反するのだった。授業の合間の休み時間の度にちらちらと麻衣子の方を盗み見てタイミングをうかがっていたのだが、結局声をかけることができなかった。
これじゃあまるで、俺が木村に片想いしてるみたいじゃないか。
自分でも、今日は終始挙動不審だったと思う。友人たちからしてみれば相当怪しかったに違いない。妙な誤解が生まれなければいいが……。
クラスメイトたちが各々散っていく教室の中で、博明はやはりちらちらと麻衣子の方を盗み見ていた。今彼女は友人と何やら話をしている。その様子は楽しそうで、賢祐との間で何らかの問題を抱えているようには見えない。
博明が携帯電話をいじったり、机やバッグの整理をしたりして時間をつぶしているうちに、ようやく麻衣子がバッグを持って立ち上がった。友人に軽く挨拶して、教室を出て行く。
それを確認したあと、なるべく自然に数秒の時間をとり、博明もバッグを持って立ち上がった。
廊下に出る。麻衣子の姿が確認できた。どうやら今のところひとりで帰るようだ。博明にとっては都合がいい。
終始、俺は何をやってるんだ? という疑問を浮かべながらも、博明はなるべく自然な態度で麻衣子のあとをついていった。
階段を下り、一階に到着する。順調だ。あとは靴を履き替え、自然に声をかければ良い。本当になんで俺はこんな面倒くさいことやってんだろうな。
しかし、ここで邪魔が入ってしまった。
昇降口の下駄箱の前で麻衣子が靴を履き替えている間に、彼女の友人と思しき女生徒が現れ、そのまま二人で行ってしまったのだ。
作戦失敗。
博明はひどく空しい気分になった。そもそも、こんなに気を遣う必要があったのだろうか? ため息をついてから、まっすぐ昇降口へ向かうルートを外れ、自動販売機でウーロン茶を買ってから校舎を出た。熱い日差しに貫かれ、ますます大きな脱力感に苛まれながら、博明は校門を出た。
……そういえば、今日は金曜日だ。
缶のウーロン茶を飲みつつ歩きながら、博明は唐突にそれを思い出した。彼は普段からあまり曜日というものを意識していない。今日が金曜日ということは、明日と明後日は学校が休みということだ。そうなると木村に話を聞けるのは月曜日、明々後日になってしまう。これといって急ぐ理由はないが、このまま週末に突入するのはやっぱりなんとなく気分が悪い。
よし、高橋の家に行ってやろう。
木村から話を聞かなくてはあまり意味がないが、それでも一応賢祐の家に行って、それなりに相談に乗ってやれば、なんとなく自分の気は晴れるのではないだろうか。博明はそう考えた。誰かの悩みを聞いて自分の気が晴れるというのはいかにも変な話だが、とにかくこのまま黙々と駅まで歩き、電車に乗って地元に帰るのだけはどうしても避けたかった。
高橋と話せば、自分は満足するし、あいつだって悪い気はしないはずだ。
博明は駅へ向かう道からはずれ、賢祐の家を目指してまた歩き出した。
ズボンのポケットから携帯電話を取り出す。誰からもメールは来ていない。念のためにセンターに問い合わせてみたが、やはり誰からもメールは来ていなかった。
昼頃、博明は賢祐に「今日はどうした?」という内容のメールを送信した。その返事はまだ来ていない。賢祐は普段なら、くだらない内容のメールでも律儀に返信する。今回たまたまメールに気付いていないだけか、それとも何か理由があるのか。博明の歩みは自然と速くなっていった。
それから十分ほどで賢祐の家に到着した。ドアのすぐ横にある『高橋』という表札の下のインターホンを押す。一般的な、二音で構成された呼び出し音が二回鳴った。
反応があるまでの短い間、そこら中で一心に鳴きまくるセミの声と時折吹く風の音が妙に大きく聞こえた。
短い雑音のあと「はい……」という男の声が聞こえた。それは生気の感じられない、やつれた声だった。博明は一瞬それが誰の声なのか解らなかったが、すぐにそれが賢祐の声であることに気付いた。
「あ、木田です……」
相手が賢祐であることは解っていたが、念のために敬語で名乗る。
「ああ、木田ね。今開けるよ」
少しして、ドアの鍵が開く音とほぼ同時にドアが開かれた。賢祐の顔が開かれたドアの間から覗く。
「よう。どうした」
「いや……お前がどうしたんだよ」
博明は思わず聞き返してしまった。
賢祐の顔は、インターホン越しに聞こえた声と同様に、異様にやつれていた。青白い顔が目の下にできた隈を無意味に強調させている。彼は友人の来訪に笑顔を浮かべていたが、場合によっては嘲笑にも見えるその出来損ないの笑顔がまた見苦しかった。
「まぁ、心の病だな。空気感染はしないだろうから、安心してうちへ入れ」
語尾に小さく「へへへ」という弱々しいせせら笑いが入った。
「ん……そうか。わかった」
もしかしたら、来ない方が良かったのかもしれない。博明はそう考えながら、招かれるままに賢祐の家に入った。
賢祐の部屋は明るかった。蛍光灯の白い光に満たされていた。少なくとも博明が来る時にはいつも開いているはずの雨戸は閉められ、隙間から太陽の白い光が漏れていた。閉め切ったままエアコンを付けていたらしく、部屋に入ったとたんに不快な匂いのする空気が鼻の中に浸入した。博明はそれに顔をしかめたが、賢祐は全く意に介さない様子で、部屋の奥にあるソファの上にふんぞり返るように座った。
「今日、木村は学校に来てたよ」
部屋の手前、右側の壁にぴったりと付けてある机から事務用の椅子を引っぱり出して、賢祐と向かい合うように座りながら、博明は言った。
「へぇ……」
ぐったりとソファに身を沈めながら賢祐が相変わらず生気のない声で応える。
「……あのことは解決したのか?」
「ぜんぜん」
「じゃあ、これからどうするつもりなんだ?」
「どうかな……」
「……おい、どうしたんだよ?」
あまりにも返答が投げやりすぎる。一昨日には木村麻衣子との問題についてひどく悩んでいたというのに、これはどういう変化なのだろう。博明はそう疑問に思うと同時に、少しだけ不安になっていた。このままでは賢祐と麻衣子の関係が回復しないかもしれない、などということではなく、もっと抽象的だが、確実にもっと危険なものが迫っているような気がしたのだ。
何かがおかしくなっている。
「う〜ん……」
ふと、賢祐が気の抜けた声を出した。見るとソファの上で全身の力を抜き、そのまま眠りにつこうとしている。博明がここへ来てまだ十分も経っていない。
「おい、寝るな」
博明は若干の苛立ちも覚えながらそう言って賢祐を起こそうとした。
「無理だよ……俺は……もう……ここは辛すぎるんだ……」
「ここは辛い?」
「……ここには居たくないんだ……悪いな……」
「……おい!」
賢祐はそのまま眠りに落ちてしまっていた。
博明は立ち上がり、賢祐の肩を揺すって起こそうとしたが、賢祐は目を覚まさなかった。ため息をついて再びもとの椅子に座る。
やっぱり、今日木村と話が出来なかったのは大きな失敗だった。明らかに高橋と木村の間には何かが起きている。おそらくは、問題が起きているのはほとんど高橋の方のようだが……。
ふと、ある考えが頭に浮かんだ。
……こいつ、麻薬でもやってるんじゃないか?
博明は麻薬に触れたこともなかったが、学校などでしつこくその犯罪性や危険性を聞かされている。一時的に気分が良くなるが、その後体調が悪くなり、また新たな麻薬が欲しくなる。そして一度でも手を染めてしまえば、例え立ち直っても症状が出てしまうこともある……といった程度の一般的な知識は持っていた。
自分も賢祐も、もう十八歳だ。今まではどこか別の世界で起こっているかのように思っていたモノが、自分のまわりで起こり始めてもおかしいことは何もないだろう。今までだって知らなかっただけで、本当は身近でもっと危険なことが起きていたとしても不思議はない。
博明は再び立ち上がり、部屋の中を物色し始めた。
本棚、机、タンス、ゴミ箱、何だかよく解らない袋の中……思いつく限りの場所を探ってみた。白い粉の入った小さな袋や、錠剤、注射器など、博明の頭に浮かぶ『麻薬』と関連するものがどこかにあるかもしれない。
はじめのうちは、賢祐を起こさないようにとなるべく物音を立てないようにしたが、賢祐に全く起きる気配がないので、そのうちほとんど彼のことは気にしないで探しまわった。それでも賢祐は起きそうになかった。
もしも、それらしいものを発見した場合、自分はどうするつもりなのだろうか。探しながら、博明は考えていた。賢祐をはたいてでも起こし、その動かぬ証拠を見せつけるのだろうか? 見せつけて、それからどうする?
そうしてしばらく探したが、結局めぼしいものは見つけられなかった。博明はまた椅子に座り、ため息をついて肩の力を抜いた。
……まぁ、麻薬を持ってたとして、そんな簡単に見つけられるような場所には置いておかないか……。
「うう……」
ソファに寝ている賢祐が小さく唸ったようだった。見ると、彼は寝たまま額に汗をにじませ、苦悶の表情を浮かべている。何か悪い夢を見ているようだった。博明は立ち上がり、ソファに歩み寄って賢祐の肩を掴んで、強く揺すった。
「高橋……おい、高橋。起きろ」
それでも賢祐は目を覚まさず、さらにはひどく苦しげに喘ぎ始めた。博明は賢祐を呼ぶ声を荒げながら、一層力を込めて肩を揺すった。
「うわっ!」
すると突然賢祐が目を覚まして飛び上がった。全身に汗をかき、ぜえぜえと苦しそうに口で呼吸をしている。
「あぁ……木田か……」
苦痛の表情の中に、一瞬だけ安堵の表情を浮かべ、賢祐はそう言った。
「……どうした? 悪い夢でも見たのか?」
「ん? いや、まぁ……大したことじゃないよ……悪いな、寝ちゃって。でもやっぱり調子悪いから、今日は相手できそうにないわ。ごめんな……」
賢祐は早口にそう言って、どさりと倒れるようにまたソファに座り込んだ。
「そうか……解った。帰るよ。俺こそ急に来て悪かった……」
「そんなことないさ。じゃあな……」
博明はそのまま踵を返し、部屋のドアを開けて足早に玄関へと向かった。
玄関のドアを開け、外に出ると、日差しはここへ来た時よりも少し和らいでいた。一度ため息をついてから、足を踏み出す。
やっぱり、来るんじゃなかった。博明は重い足をなんとか持ち上げ、出来る限り足早に歩いた。
少し歩いたところで、前から誰かがこちらへ歩いてきているのに気がついた。それは博明と同じくらいの年齢の少女のようだったが、近づいてみるとその顔には見覚えがあった。しかし同時に、全く面識のない人間であることもわかった。
博明と少女がすれ違い、少女は賢祐の家のある方向へ歩いていく。
もし相手も振り返っていたら気まずいなと思いつつ、博明は振り返った。少女は振り返っていなかった。ただまっすぐ、目的地に向かって歩いている。その目的地が賢祐の家なのではないかと博明は一瞬考えたが、それは何の根拠もない考えなので、すぐにそのまま前に向き直り、やはり足早に歩いた。
携帯電話で時刻を確認する。十六時半を過ぎていた。再びため息をつき、数分前からずっと思っていることを小声で呟いてみた。
「来なきゃよかった」
彼女の携帯電話の奥で、呼び出し音がなっている。
木村麻衣子は決心し、彼に電話をかけることにしたのだった。
また一昨々日と同じように、大きな恐怖を感じることになるかもしれない。それでも、このままではいられなかった。
彼はあの瞬間、本当に彼だったのか? 人間とは思えない、彼のあのときの表情が、本当に彼のものだったのだろうか?
……なんて言えばいいんだろう。
彼がこの電話に出たとき、まず自分が何と言えばいいのか、彼女はよく考えていなかった。
静かな部屋に、窓から白い光が差し込んでいる。
賢祐は目を覚ました。
身体の調子が元に戻っていた。
今朝も感じた、あの不快感もどこかへ行っていた。
まるであの夢のようだ。しかし、ここは草原ではない。まぎれもない自分の家、自分の部屋、自分のベッドの上だった。
賢祐は身体を起こし、頭をくしゃくしゃと掻いた。寝起きだが、意識はかなりはっきりしている。ベッドから降りて、壁に掛かっている時計を仰ぐ。
「……あ?」
思わず、そう漏らした。
時計の短針は『7』と『8』の間にあり、長針は真下より少し左にずれた辺りを指している。
七時半過ぎ。
窓から差し込む白い光が、それに『午前』という二文字を追加させる。午前七時半過ぎ。
賢祐の目覚まし時計は常に七時半にセットされている。つまりそれが彼の起床の時間ということだ。今朝もいつも通りの時間に起こされ、そして二度寝した。
まだ五分も寝ていないということなのだろうか。
時計を見た限りでは、そういうことになる。だが賢祐にはそれが全く信じられなかった。あの不快感や頭痛が、五分にも満たない時間寝ただけで完治するものなのだろうか。
ふと、窓に目が行った。白い光が差し込んできている。雨戸は開けられていた。
白い光?
この時期、この時間帯の朝日が、こんなにも白かっただろうか?
窓から差し込む光は、見ているだけで寒気を感じるほどの白さだった。
寒気。賢祐の身体が小さく震えた。
寒い。
賢祐は窓の鍵を開け、一気に開け放った。
冷たい空気が部屋に流れ込んでくる。
「寒っ!」
その空気のあまりの冷たさに、すぐに窓を閉めようとしたところで、賢祐は気付いた。
窓の外に広がっているのは、白い世界。ただひたすら地平線まで続く、真っ白な雪原がそこにあった。白い空から白い雪がゆっくりと舞い降り、それが雪原をさらに白くしていっている。
賢祐は窓から身を乗り出し、ただ呆然とその光景を眺めていた。
だが次第に身体がその寒さに耐えられなくなり、それによって思考も止まってしまった。賢祐はゆっくりと窓を閉じ、ひとまず着替えることにした。
タンスの奥から、冬に着ていた部屋着を引っぱり出し、急いで袖を通す。既に指先がかじかんでうまく動かなくなってしまっていた。
母はいるのだろうか。賢祐が目を覚ます頃には、父親と裕美は出掛けてしまっている。父親は仕事だし、裕美は部活の朝練があるからだ。普段なら母が居間にいるはずだが……。と賢祐は寒さに震えながらなんとか頭をはたらかせ、そう考えた。
階段を下り、居間のドアを開ける。雨戸が閉まったままになっていて暗かったが、隙間から差し込む光でぼんやりと部屋の中の状態を確認することができた。誰もいなかった。
ドアの向かいにある大きな窓を開けてから、雨戸に手をかけてこれも開けようとした。だが重くて動かない。賢祐の住んでいるこの家もそろそろ老朽化してきていて、雨戸の滑りはかなり悪くなってきていたが、いつもは一度で開けることができた。何度か体重をかけ、勢いを付けて開けようと試みたが、なかなか雨戸は開かなかった。
十分ほど格闘して、ようやく雨戸は開いた。白い光が全身に降り掛かると同時に、スリッパを履いた裸足全体に鋭い冷たさを感じた。足下を見ると、両足は雪に埋もれてしまっていた。窓の外、庭に降る雪は床の高さを超えて積もっていた。雨戸を開けたことによってそれの一部が部屋の中へ崩れ落ちて来たのだ。賢祐は急いで足を雪の中から引き抜き、スリッパを放り捨てて、手で雪を払った。
三枚ある雨戸のうちの一枚しか動かしていなかったが、賢祐はそのまま窓を閉めてしまった。
ふらふらと窓の反対側、ドアの横にある三人掛けのソファへ歩き、そのままそこへ腰をおろした。雨戸一枚分に切り取られた外の世界がよく見えた。雨戸との十分間の格闘によって、身体は少しだけ暖まっていた。
……また何か変なことになってきたな……。
白い空からゆらゆらと舞い降りてくる雪を眺めながら、賢祐はそんなことを考えていた。
夢とか、新しい世界とか、神とか……。
賢祐はそこで自分が久しぶりに冷静になっていることに気付いた。これまで、夢の中でハイになったり、現実世界で嫌な気分になったりしていて、落ちついて考える余裕がなかった。今いるこの現実とも夢とも言えない妙な空間は、賢祐の気分を安定した状態に保っていた。
もしかしたら、何も『変なこと』にはなっていないのかもしれない。ただ少しリアリティのある夢を連続して見ているだけで、起きている間に不快感を覚えるのは単なる体調不良だったのかもしれないのだ。
今この瞬間も、自分は夢を見ているに違いない。ただ、今までたまたま連続して見ていた夢を、もう見なくなったというだけのことなのかも……。
いや、だけど……。
今見ているこの世界、今いるこの空間が、夢だとは思えなかった。全てのものがしっかりとした存在感を放ち、自分の意識も、肉体も、はっきりとここに存在しているとしか思えないのだ。
考えは堂々巡りを始め、冷えた空気は体を冷やしていった。
再び寒さを感じ、そこで考えるのをやめた。ひとまず、この寒さから解放されるためにはどうしたらいいのだろう。
少し考えて、押し入れに電気ストーブがしまってあることを思い出した。賢祐はひとつため息をついて、立ち上がった。
腕をさすりながら寒い廊下を歩き、押し入れにたどり着く。引き戸を開けると、いかにも必要そうなものから全く用途の解らないものが、いくつかに区分けされた中にたくさん収められていた。電気ストーブがどの辺りに収納されているのか、大まかな見当はついていた。手前にあるものを少し動かすと、それはすぐに見つけることができた。両手で持ち上げ、一旦押し入れの外に置いて、扉を閉めようとした。
そのとき、一瞬だけ賢祐の目が何かを捉えた。
扉を閉めかけた手を止め、少し考えてから再び開く。
それは押し入れの右下にあった。大きな直方体の段ボール箱で、押し入れの一番奥まで届いていた。雑多な物が何個も積み上げられている押し入れの中で、その段ボール箱の上には何も積まれていない。それが理由なのかは解らないが、何故かそれだけが他の物とは全く違う次元の物体のような気がした。
賢祐はしゃがみ込み、それに手をかけた。そのまま引きずって引っぱり出そうとしたが、思った以上に重い。しっかりと掴み、力を込めて引っぱると、それはようやく全体の半分ほどを露にした。ガムテープでしっかりと口を閉ざされている。
よく見ると、何か大きく書いてある。段ボール箱が濃い茶色である上に、押し入れの中は暗かったのでその黒い文字は識別しづらかったが、それは中央に貼られているガムテープに沿って横書きで書いてあった。
『ほぞん用』
かなり汚い文字だったが、そう読み取れた。その走り書きの文字は、自分の書いた文字のようだった。
こんな物、前からあっただろうか。賢祐は少し記憶を手繰り寄せたが、こんな大きな段ボール箱があったという記憶を呼び覚ますことはできなかったし、もちろん自分がここへ押し込んだという記憶もなかった。
賢祐はそれを開けて中を見てみることにしたが、押し入れはあまりにも寒かった。電気ストーブを持ってひとまず居間へ引き返し、コンセントに繋いでソファの前に置き、電源を入れてからソファに座った。赤い光とともに、少々臭う熱風が電気ストーブから吐き出された。
冷えきってしまった手や足の先をストーブに近づけて暖めたりしながら、居間の空気がある程度暖まるのを待った。
しばらくすると、身体全体の冷えもそれなりに収まり、室温もいくらか上がったようだった。賢祐はようやく立ち上がり、先程の段ボール箱の中身を調べるために押し入れへ向かおうとした。
しかし、ふとそのとき、四角い食卓の端に置かれた電話機に視線が止まった。家のまわりが見渡す限り雪原になってしまっている中で、電話が繋がるとは思えなかったが、一種の好奇心もあって、賢祐はそれに手を伸ばした。
受話器を持ち上げ、耳に当てる。
いつもなら聞こえるはずの電子音を聞き取ることはできなかった。やはり繋がってはいないようだ。
しかし、電子音の代わりに別の音が聞こえていた。
美しいピアノの旋律。どこかで聴いたメロディだった。それは最初、受話器のスピーカーから流れるだけの小さな音だったが、次第に音は大きくなっていった。賢祐がその音量に耐えられずに受話器を耳から離しても音は大きくなり続け、最後には部屋全体に響き渡るほどの音量にまでなっていた。
音が大きくなっても、そのピアノの旋律の美しさは損なわれなかった。穏やかで、優雅なメロディ。賢祐はそれをどこで聴いたのかを必死で思い出そうとしていた。
その優雅なメロディは何度か繰り返され、やがて静かに消えていった。沈黙が居間を包み込む。しかし次の瞬間、爆音で和音が響いた。賢祐はびくりと体を強張らせる。爆音に続いて、速く激しいメロディが流れていった。
賢祐はそれを聴いてようやく思い出した。
木田博明 ピアノソナタ イ短調 “変態” 第一楽章……。
博明が音楽室で弾いたあの曲だった。
今回もあの時と全く同じメロディが駆け抜けるように流れていき、そしてそのまま終わっていった。
静寂。
賢祐は呆然と立ち尽くし、受話器を眺めていた。”変態”のメロディが頭の中で繰り返されていた。
やがて我に還り、受話器をゆっくりと親機に戻す。そしてしばし考え込んだが、どうにも理解できそうにないので考えることを諦めた。
今は明確にするべきことがあるのだ。
居間のドアを開ける。廊下はやはり寒かった。耐えながら、押し入れに向かった。
押し入れの引き戸を開け、先程と同じように、今度は完全に押し入れの外へ段ボール箱を引っぱり出す。やはりかなり重く、そしてかなり大きかった。その気になれば、人間ひとりくらいは入りそうだ。
ガムテープを力づくで剥がし、段ボール箱の上部を開いた。
段ボール箱に入っていたのは、またも段ボール箱だった。しかし内側に入っている段ボール箱の上に、何かが書き込まれたA4の紙が置いてあった。
それはやはり賢祐の走り書きの文字で、こう書かれていた。
『私たちは理解し合うことができる。
私たちは愛し合うことができる。
その翼は、大地の祝福を受け、天空と接吻するだろう。
これは悲劇であって悲劇ではない。
これから始まる全ての物語のプロローグである。』
例によって、こんなものを書いた覚えはなかった。
賢祐は深く考えずに、その紙を段ボール箱の外へ放り捨てた。そしてもう一度、今度は内側の段ボール箱のガムテープを引き剥がした。
そして、開いた。
最初の一瞬だけ、それが何なのか全く理解できなかった。
だがそれは本当に一瞬だけであり、次の瞬間、賢祐は背筋が凍るのを感じた。
死んだ人間が入っている。
脚を曲げ、両手でそれを抱えて丸まったような体勢で横になった少女だった。目と口は開いたままで、恐怖の表情を浮かべているようにも見える。賢祐はそれが死んでいるということを直感的に悟った。触らなくてもそれが冷たくなっていることは容易に想像できた。
…………。
そして、それが誰の変わり果てた姿であるのかを知るのにも、時間はかからなかった。
「ああ!」
吐息と叫び声の混じった異様な声が漏れる。賢祐は尻餅をつき、そのままじりじりと後退した。
裕美。
賢祐の脳裏で、映像が再生される。
首を絞める、血管の浮かんだ両手。恐怖の表情。もがき苦しむ姿。実の妹を絞め殺そうとする自分。実の兄に絞め殺される妹。事切れる妹。倒れ込む妹。死んだ妹。顔色ひとつ変えない兄。妹を殺した兄。自分。俺。僕。私。二重の段ボール箱に詰める。ガムテープで密閉する。紙に書き込み、のせる。再び密閉する。押し入れに押し込む。
「あああああ!!」
記憶の映像は繰り返される。いつの間にか電話機からあのメロディがまた流れている。
今度こそ、殺した。木村麻衣子の二の舞は踏まなかった。
俺が殺した。
「賢祐……」
自分を呼ぶ声。見ると死んだ妹が蘇っている。段ボール箱から這い出して、顔に恐怖の表情を貼り付けたまま笑っている。涙を流しながら笑っている。
「どうしたの? 賢祐」
妹の声ではない。いや、人間の声ではない。
死体は四つん這いで賢祐に近寄ってくる。
「食べるんでしょ? ねぇ? 殺して、食べるんでしょ? あのときみたいにみんなで食べるんでしょ? ねぇ、賢祐、賢祐、賢祐」
「殺してない! 殺してない!!」
口が勝手にそう叫ぶ。
「嘘つき。殺したよ。首を絞めて。苦しかったよ。ねぇ。苦しかった……。でも、ワタシ、ケンスケ、の、なカでイキツヅケルノ……フフフフフフフフ」
「アアアアアア!!」
賢祐は跳ねるように立ち上がり、廊下を走った。だがフローリングの床は走りづらく、すぐに転んでしまった。振り返ると、死体も立ち上がり、こちらへ歩いてきている。
自分の口から意味不明な言葉が溢れ出ているのがわかった。再び立ち上がり、玄関に向かった。裸足のままスニーカーを履き、ドアを開けようとする。鍵がかかっていた。振り返ると死体は嬉しそうに、やはりこちらへ歩いてきている。鍵を開け、ドアを開けようとした。開かない。死体は近づいてきている。死にものぐるいでドアに体当たりした。少しずつドアが開いていく。なんとか隙間から抜け出した。
雪原が広がっている。賢祐は走った。雪は想像以上に積もっていて、上手く走れなかった。雪はスニーカーの隙間から浸入し、中で融けて冷水になっていく。冷たかった。それでも必死に脚を動かして、前へ進んだ。
涙が出ていた。拭っても次から次へと溢れ出す。
どうして。どうして。なんで。俺だけが。俺ばっかりが。なんで? こんなに辛い思いをしなきゃいけないのはなんで?
絶望の涙なのかもしれない、と賢祐はパニック状態の頭の片隅で思った。
大声で泣きたくなった。少し我慢したが、すぐに耐えきれなくなった。わあわあと大声で泣きわめきながら、必死に手足を動かした。
そのうちバランスを崩して転んだ。雪の中に全身が埋もれる。足先以外の全身が異様に熱くなっていたので、丁度いいくらいだった。
もうこれ以上は動けない。雪原は地平線の彼方まで続いている。
雪の中で泣いた。
誰か助けてくれと願いながら、ひたすら泣いた。
しばらくして、涙は収まった。
立ち上がり、全身についた雪を払いのけて、振り返る。死体は追ってきていなかった。それどころか、この雪原の中にぽつんと取り残されたようにしてあったであろう自分の家も見当たらなかった。ただ自分の走った跡が遠くまで続いている。
無言で四方を見渡した。雪原しかなかった。
身体はもう冷えてしまっていて寒かった。全身が震えていた。倒れたときに身体についた雪が融けて冷水になり、衣服を濡らし、その内側まで到達していた。
どうしようもないほどに寒かった。また泣きたくなったが、もう涙が出なかった。
そのまま、かなり長いこと賢祐は動けずにただただ震えていた。
意識が遠のいて来る頃、それは突然現れた。
空から何かが降りて来ていた。
天使。
賢祐はぼんやりとした意識の中で、そう思った。
天使は五十嵐有紀の姿で、優しい微笑みを浮かべ、両手を広げて賢祐のもとへ舞い降りてくる。
賢祐は震える右手を伸ばし、その神々しい身体に触れようとした。有紀はその手を優しく掴み、そして引いた。賢祐の身体が軽々と雪の中から持ち上げられ、有紀のもとへ引き寄せられる。有紀は震える賢祐を優しく両手で抱きしめ、囁いた。
「私たちは、理解し合うことができる……そして?」
賢祐の全身を濡らしていた冷水が消えていく。
「私たちは……」
賢祐は有紀の微笑みを見つめ、少し口籠ってから言った。
「愛し合うことができる」
有紀はそれを聞き、「ふふっ」と笑ってから
「待っててね」
と囁いた。
賢祐は全身を汗と泥まみれにして、どこだか解らない林の中にいた。太陽はとっくに見えなくなり、辺りは深い闇に支配されている。冷たい風が木々の間を吹き抜け、ざわざわと葉を鳴らしている。
「はぁ、はぁ、はぁ……ははっはぁ、はぁ……」
荒い息の中に笑いを混ぜながら、賢祐は林の中を足早に歩いていく。堪えられない笑いがどこからともなく溢れ出してきて、顔面の筋肉を勝手に操って笑顔をつくってしまう。
しばらくの間、闇の中で土と枯れ葉を踏みながら歩き回り、やがて目的地に到達した。
そこはまわりの地面とは明らかに違っていた。掘り起こされ、そして再び埋められていたのだった。そこだけ地面が柔らかくなり、枯れ葉も除けられている。スコップがその柔らかい土に突き立てられていた。
賢祐は嬉しそうにそのスコップを土から引き抜くと、楽しげにその地面を掘り起こし始めた。
はじめは勢いよく。途中からは少し慎重に……。
闇の中、焦茶色の山と谷を作り出しながら、賢祐はスコップをせっせと動かし続ける。
やがてスコップは、自然の創造物ではない堅く大きな物にぶつかった。賢祐はそれを確認してからまた少しずつスコップを動かしたあと、それを放り捨てて今度は手で土をかき分け始めた。
掌も手の甲も指先も爪も、土で汚れてしまっていた。
土の中にあるのは棺桶だった。
土をかき分ける手は痛かったが、その棺桶の中に入っているもののことを考えると、賢祐は居ても立ってもいられない気持ちになった。手の動きが自然と速くなる。
やがてその棺桶は完全に姿を現し、賢祐はついにそれを開けようと、満面の笑みで手を伸ばした。
「!!」
その瞬間、闇は完全に消え失せ、辺りは柔らかい光に包まれた。
空が、大地が、木が、空気が……全てが発光しているかのようだった。
そして、賢祐のまわりにはたくさんの人がいた。
今まで、闇に紛れて見えなかっただけだったのかもしれない。その人々はまるで賢祐がここへくるずっと前から、ここで待っていたかのようだった。
彼らはぐるりと辺りを取り囲み、悲しげな表情を浮かべ、光によってその醜い姿をさらされた賢祐と、泥まみれの棺桶を見つめていた。
木田博明、木村麻衣子の姿もあった。その他の友人、知り合い、親戚や彼らの家族の姿も、賢祐の両親の姿もあった。
裕美の姿はなかった。
「見るな……」
賢祐の口がもごもごと動き、そう漏らした。
「見るな……!」
全身に寒気が走り、息は苦しくなり、頭が激しく痛んだ。賢祐はその場に崩れ落ち、四つん這いになってぜえぜえと苦しげに喘いだ。
「見るなっ……」
言いかけて、息をのんだ。
棺桶はいつの間にか開かれ、中からまたその死体が顔を出していた。
笑っている。
裕美の姿をした死体は、動けない賢祐の元へゆっくりと歩み寄ってくる。
「賢祐……」
賢祐はもう息が出来なかった。いつの間にかまわりを取り囲む人々も笑っていた。
「高橋……賢祐……高橋……高橋……」
賢祐の意識が遠のいてゆく。
…………。
「うわっ!」
賢祐はソファから飛び起きた。
目の前には心配そうな表情を浮かべる木田博明の姿があった。
「そんなことないさ。じゃあな……」
博明が部屋を出て、ドアの向こうへ消えていく。
寂しかった。もう以前のように彼と話すことが出来ないのかも知れない、と何故か賢祐は考えていた。そう思うと、賢祐の胸は張り裂けそうだった。
気が狂いそうなほどの激しい頭痛が賢祐を襲っていた。全身の力を抜き、ソファの上で目を閉じてもその痛みが消えることはなかった。
身体が熱い。息が苦しい。
炎のような肉体的苦痛は恐ろしい勢いで燃え広がり、やがて精神も侵してゆく。自分が少しずつ狂っていくのが手に取るようにわかった。
このまま死ぬのだろうか。
……死ぬ? ……そうか。その手があった。
死とはどんなものなのか、賢祐にも解るはずはない。だが、この苦しみを上回るほどの苦痛ではないという確信があった。死んでしまえば、この苦しみからは解放されるに違いない。
賢祐は立ち上がり、考える。どうやって死のう? 手段はいくつかある。一番手っ取り早くて、確実な方法はどれだろう?
死ぬ為の手段を考えている間、賢祐は苦痛を忘れた。
どうして今まで気付かなかったんだ? 死ねばいいだけのことだったのに! ついに終わる。なんて嬉しいんだろう。死がこんなにも爽やかで、喜びに満ちたものだったなんて、知らなかった!
心を弾ませながら、賢祐はひとまず部屋を出ることにした。家中を探せば、何か良いものが見つかるかも知れない。
そうして賢祐が一歩踏み出した瞬間、ベッドの上に転がっていた携帯電話がわめき始めた。電話のようだ。賢祐は立ち止まり、少し考えてからそれを拾い上げ、開いた。
『着信 木村麻衣子』
賢祐は固まった。身体も思考も動かなくなってしまった。どうすればいいのか解らなかった。画面を見つめたまま、無意味に時間が過ぎてゆく。
「切りなよ」
背後から誰かの声がした。懐かしい声。愛しい声。
停止した思考が動き出した。それは固まっている間、ひたすら誰かの指示を待ち続けていたのだった。たった今聞こえた四文字の指示。それは固まってしまった思考を解きほぐし、静かに背中を押した。
「わかった」
賢祐は迷わず右上のボタンを押し、携帯電話を閉じて床に放り捨てた。
「やっと来てくれたね」
賢祐は振り返り、笑いながら彼女に言った。もう身体も、心も、どこも苦しくなかった。
五十嵐有紀は可憐な笑みを浮かべて言った。
「私が全部治してあげる」
そして賢祐に優しくキスをした。
落ちかけた日が弱い光を部屋の中に注ぎ込んでいる。
静かな部屋。穏やかな世界。苦痛など、まるで元からなかったかのように消え去り、忘れ去られようとしている。
有紀が囁く。
「ねぇ、賢祐」
「なに?」
「今度は、賢祐が連れてってくれるんだからね」
「あぁ……わかった」
人はどこから来て、どこへ向かうのだろう。
そんなことを、初めて疑問に抱いたのは誰だったのだろうか。
でも、きっとその人は始めから、答えなんか必要としていなかったのかも知れない。人がどこから来たのかなんか知らないし、どこへ向かうのかなんて予想できるはずもない。解けるはずのない問題として、頭の片隅にそっと置いておいたに違いない。
しかし。
その疑問、問題……『どこから来て』『どこへ向かうのか』この二つのうちの一つは明かされようとしている。
どこから来たのか。それは言ってみれば過去のことであり、それを知るには何らかの書物や遺跡などを発見するか、時間遡行でもする以外に方法はないだろう。
だが『どこへ向かうのか』という問題に対する解答は、場合によっては知ることができるかもしれないものなのだ。
人は、どこへ向かうのか? 人間は一体、どうなっていくのか? 人間は一体……どんな最期を迎えるのか?
人はどこへ向かうのか。人はそこへ向かう。全ての物が向かう先に、同じように向かっていく。
始まりとは、終わってしまうことの理由だ。
人はここへ来た。そして始まった。
人はそこへ向かう。そこで終わる。
……そして、始まる。
また、始まる。だから、これはただの終わりの物語ではない。
終わり、始まる。その二つは重なり合う。
エピローグとプロローグが重なり合う。
……だから、何も悲しむことはないんだよ。
ACT 3 プロローグ
深夜。上空に雲は少なく、月や星がよく見えている。昼間の暑さはだいぶ薄れ、涼しげな風が時折駆け抜けていく。
高橋賢祐、木田博明、木村麻衣子の通う高校。校門のすぐ傍に、もうだいぶくたびれた雰囲気の街灯がぽつんと一つ設置されていた。白い蛍光灯の光が、暗い夜の一部をぼんやりと浮かび上がらせている。
木村麻衣子は街灯の横に立っていた。
「深夜零時、校門前に」
麻衣子の元に突然掛かってきた、賢祐からの電話。ただ「来てくれ」とだけ告げられ、麻衣子がその理由を尋ねてみても、それに答えることなく切られてしまった。
どういうわけか、疑うことも、もう一度電話をかけなおすこともせずに、麻衣子はここへやってきた。今も、不安や恐怖は一切感じていない。呼ばれたから、行くだけ。という感じだった。
……高橋は何を言うつもりなのだろう。
この前は済まなかった。もう二度とあんなことはないから、良かったらまた今までと同じように……。とか?
十中八九、そんなところだろうと麻衣子は考えていた。
時刻は11時57分。そろそろ現れるはず……。
足音が聞こえた。街灯の光の向こう側からだ。近づいてくる。
麻衣子は目を凝らした。ここへ来てから、殆ど人通りはない。タイミングから考えて、賢祐以外の人間ということはないだろう。
若い男の姿が白い光によって浮かび上がる。
「あれ?」
麻衣子は思わず声を漏らした。光の中に現れた人物は、賢祐ではなかったのだ。それは彼女のクラスメイトの男子。彼女の記憶が正しければ、名前は木田……博明だったはずだ。
その遭遇を意外に思ったのは麻衣子だけではなかった。博明も「え?」と口の中だけで呟き、少し驚いたような表情を見せた。
「え〜と……高橋に呼ばれて……」
博明が困ったように言う。
「うん。あたしも」
「あ、やっぱりそうなんだ……何なんだろうな、あいつ」
博明は苦笑する。麻衣子もつられて笑った。
「行きなり来いとか言っちゃってさぁ。俺なんかここまで来るのに一時間とかかかるのに」
「え、もしかして電車で来たの?」
「そう……っていうか……」
「……帰り、電車ないでしょ」
「そうだった。確かにそうだ……なんで気付かなかったんだ?」
致命的なミスを犯したことにようやく気付き、博明はまた笑った。笑っている場合ではないのかもしれないが、彼は笑うほかなかった。
麻衣子も笑った。木田博明とまともに話したのは初めてだったが、この人はなかなか面白い人なのかも知れない、と思った。
静かな夏の夜、二人の人間の笑い声がある。
それに、入り交じった足音が混ざり合う。
足音は二人分。ひとつはしっかりとした足取りで、まっすぐ目的地を目指している。もうひとつは不規則なリズムを刻みながら、よろけつつも進んでいく。
二人分の足音は、笑い声に近づいていく。
笑い声が止んだ。足音が止まった。
今度は明るい少女の声。
「こんばんは。人間たち」
少女は、笑いながら元気にそう言い放った。
「高橋」
博明と麻衣子はほとんど同時にそう呟いた。
街灯の光の下に賢祐と有紀の姿が浮かび上がっている。
ひどくやつれ、肩で息をする賢祐は足下もおぼつかない。対照的に有紀は背筋をぴんと伸ばして賢祐の横に立ち、微笑を浮かべて博明と麻衣子を眺めている。
あまりにもやつれた賢祐の姿に、博明と麻衣子は一瞬圧倒されて、口をきけずにいた。
「……よう。二人とも」
賢祐が苦しげに、うっすらと笑いながらそう挨拶をした。
「私は五十嵐有紀。よろしく」
賢祐に続いて有紀が自己紹介をする。
「あ……よろしく」
博明はようやくそれだけ言った。
麻衣子は賢祐の姿を見つめたまま黙っている。
……あのときの高橋だ。
麻衣子を絞め殺そうとした、あの日の賢祐。今目の前にいる男は、いつもの高橋賢祐ではなく、まさにあの時の……。
「今日はあなた達にだけ特別に、すごいものを見せてあげる」
麻衣子の全身が熱くなり出した頃、有紀が楽しげにそう言った。
「え、すごいもの?」
博明はどうしていいか解らないままでいる。
「そう。すごいもの! 新世界の始まり!」
「……は?」
博明が怪訝そうな顔をする。
「ねぇ、私にはあなた達が理解できないの。生まれたときから死ぬまで、ずっと『自分』という小さな密室の中にいるのに、まるで他の人間の存在を認識し、さらにはお互いの意識を共有しているかのように振る舞うでしょ? そんなことありえないのに。人間は孤独の中に生まれて、孤独の中を行きて、孤独の中で死ぬのに!」
有紀は嬉々として喋り続ける。その声はただ空気を揺らしているだけのようだが、博明と麻衣子にはそれが頭の中で鳴り響いているかのように聞こえた。
賢祐の息がさらに荒くなった。
「あなたたちは理解し合うことができない。あなたたちは愛し合うことができない。可哀相に。本当に可哀相。きっと寂しかっただろうね。でも、これから私と賢祐はその孤独の密室からついに脱出するの」
「……高橋も?」
麻衣子は思わずそう漏らした。
賢祐の息はさらに荒くなる。もはや立っているのも辛そうだ。
「私たちは理解し合うことができる。私たちは愛し合うことができる。私は今もずっと、賢祐のことを理解している。偽りではなく本当に。彼の意識は私の意識と混じり合い、喜びも悲しみも真の意味で共有している。賢祐も、私のことを理解している。そして私たちは、お互いの精神がお互いの愛で満たされていくのを感じることができるの。素敵でしょ!」
有紀は興奮した様子で、殆ど叫ぶような声でまくしたてる。
「ちょっと待って。それは……ねぇ、高橋! 聞いてる?」
麻衣子の呼ぶ声に、賢祐は反応しない。ただ苦しそうに息をし、背筋を曲げ、胸や腹を両手でかきむしるような動きをしている。
「今まさに、全てが始まろうとしてるの! すぐに賢祐の苦しみは消え失せて、私と一緒に、今度は本当に空に昇り、新しい世界を築いていく。そして私は彼の子を産んで……愛して、愛されながら生きていくんだから!」
「高橋! ねぇ!」
麻衣子が賢祐の元へ駆け寄り、彼の両肩を掴んで持ち上げ、間近で彼の顔を、目を覗き込んだ。しかし賢祐の目は虚ろにどこか遠くを眺めているかのように焦点が定まらない。麻衣子は彼の肩を激しく揺らして彼の名を呼ぶ。
「残念。もう賢祐はこんな古い世界にはいないの。新人類は人間も食べるし、新しい世界を創る上で人間は邪魔になるから、手当り次第に殺そうとするかもね。だから、早めに逃げた方がいいかも。でも、新しい世界が始まる瞬間は見ておきたいでしょ?」
「何を言ってるんだ……」
博明が呟く。有紀の言っていることは明らかに突拍子もないようなことだが、彼女の声は博明の中で激しく鳴り響き、それが真実であることを彼に認識させていた。だが、彼の持つ、いわゆる『一般常識』のようなものが、その真実を否定しようとしている。
突然、それまで虚ろだった賢祐の目が生き返ったように輝く。
「高橋!」
麻衣子が半分泣き声で叫ぶ。
「始まった!」
有紀が嬉しそうにそう叫んだ瞬間、賢祐が大きく口を開き、そして人間のものとも野獣のものともつかない奇怪な叫び声をあげた。
博明は耐えきれずすぐに耳を塞いだ。麻衣子が失神して倒れた。有紀が笑った。
叫び声は途切れない。賢祐は全身を突っ張り、空を仰ぐ。
叫び声の中に、別の音が混じる。肉が裂ける音。叫び声にかき消されそうではあったが、有紀にははっきりと聞き取れた。そして、服が裂ける音がそれに続く。
街灯の白い光に照らされた賢祐の背中から、何か巨大なものが顔を出す。
翅。
巨大な蝶の翅。
くしゃくしゃに丸められたような形の黒い翅が、賢祐の背中から突き出していた。
黒い翅は少しずつ、しわを伸ばしながら大きくなっていく。叫び声はいつの間にか止んでいた。賢祐はまた背中を丸め、苦しげに呼吸をしながら、激しい痛みをこらえるように小さくうめき声を上げている。
夜の薄暗い闇の中、街灯の光でぽっかりと浮かんだ白い世界の中で、恐ろしいものが産声を上げている。博明は呆然と立ち尽くし、ただただその光景を眺めていた。思考はとっくに止まり、ただ彼の目がひたすらそのおぞましくも力強く、神秘的な光景を脳に伝えつづけていた。
やがて黒い翅は完全な姿を現す。それはあまりにも巨大で、描かれている模様はあまりにも美しかった。博明は無意識にゆっくりと後ずさり、バランスを崩して尻から地面に転んだ。
偉大だ。
自分の力など……この世の何者の力も及ばない。それは巨大で、美しく、力強く、繊細で……史上最大の生命で、史上最大の芸術だ。
「そこの人間は残念ね。こんなに素敵なものが見られなくて」
有紀が心底残念そうに言う。
「あなたがあとで、これがいかに素晴らしい体験だったかをちゃんと伝えておいて」
賢祐の翅がゆっくりと動き出した。柔らかい風が吹き始め、それは段々と突風へと変わっていく。
「高橋!」
博明はとっさに叫んだ。
それまで下を向いていた賢祐の顔が瞬時に博明の方へ向き直る。
元の、普段の高橋賢祐の顔だった。
「木田……」
いつも聞いていた彼の声。
「……それじゃあ」
賢祐は少し悩んだようだったが、結局それしか言わなかった。嬉しそうでも、悲しそうでもない……全てを押し殺したような表情だった。
美しい翅が力強く動き、賢祐の体を宙へ浮かび上がらせる。有紀は賢祐の身体に正面からぴょんと飛びついて、賢祐もそれに応えて彼女の体をしっかりと支える。
翅を動かす度に、賢祐の身体は空へ向かっていく。博明から離れていく。お互いの目を見つめたまま。
「高橋!!」
気を失っていた麻衣子が突然起き上がり、殆どそれと同時に彼の名を叫んだ。
「どこ行くの? ねぇ、高橋!」
震える声でそう言いながら、精一杯両手を伸ばして賢祐に追いすがろうとする。賢祐は答えない。ただ博明と麻衣子を見比べるだけ。
「早めに逃げないと、食い殺されちゃうよ」
有紀が振り返って言った。
それを合図にしたかのように、賢祐はついにくるりと向きを変え、博明と麻衣子に背を向けて、どこかへと飛び去っていった。
「高橋……」
麻衣子は弱々しく空に呟いた。
楽園から遥か遠くには、広大な廃墟が存在する。
かつて地上を支配した人々の築いた文明の遺物。そして、この星の傷痕。
その廃墟の中には、重い扉で閉ざされた大きなトンネルがある。
地下へ続くトンネル。
亡者達の住処への門。
人はどこからかやってきて
そこへ消えていった。
(終)
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2008/12/13(Sat)22:31:36 公開 / Yosuke
■この作品の著作権はYosukeさんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
これで終わりです。
随分時間がかかってしまいましたが……。
人間の孤独、信仰心、進化について考えながら書きました。
近いうちに新しいものを書けたら良いなと思っています。
その時はまたよろしくお願いします。