- 『素朴な二人の恋唄 【完結】』 作者:目黒小夜子 / リアル・現代 恋愛小説
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全角48122文字
容量96244 bytes
原稿用紙約138.3枚
二周り近く歳の差がある柴田英介(しばた・えいすけ)と廣瀬(ひろせ)あゆみ。素朴な看護学生二人の恋模様。
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1.浜辺で見つけた思い出
夏の眩しさを残す海空に、夕暮れがゆっくりと色を重ねていく。水面は、夏の輝きを惜しむように優しく揺れ、煌きを離すまいとしているように見えた。僕は浜辺からそんな光景を眺めて、くすりと微笑む。視界の端から群青色の夜が空を支配して、地平線の光を覆い隠してしまう頃、僕は車に乗ってその場を後にした。
二〇〇八年、八月二十五日に僕がこの場所を訪れたのは、ただの偶然ではない。あゆみと一緒に連れ添うようになったのが、一年前の今日だったからだ。変わり映えのしない風景は優しくて、潮風と一緒にあの頃の思い出に色をつけていく。“思い出すのは痛い”、そう思っていたはずなのに。時間とは不思議なもので、僕の胸の中に有余をつくってくれていた。実に自然に、あゆみとの思い出が脳裏に浮かんでは胸に落ちていく。甘く優しい安らぎと、ツンと痛む傷を残しながら。
車の中でエアコンと同時にラジオをつけると、元気良く跳ねる女性の声と、ゆったりと安心させる中年男性の声が聞こえてくる。どうやら音楽番組だったのだろう、どこかの誰かがリクエストしたらしい曲を紹介していた。その中に聞き覚えがある曲が流れる。ナット・キング・コールの『L-O-V-E』。
音楽というものの素晴らしさは、よく聴いていた頃の思い出に浸らせてくれるところだと思う。つまり、楽しい頃に聴いていた曲を聴くと、楽しい頃を思い出せる。『L-O-V-E』は、ただの“仲間”だった僕らを“恋人”にしてくれた一曲だった。
***
二〇〇六年、七月。
「廣瀬あゆみです。よろしくお願いします」
森の木々に囲まれるように建つ看護学校で出会った当時。彼女はひどく緊張した表情で、僕らの前に現れた。僕ら、というのは僕の所属する学年のことで。留年した彼女は、僕らの代の連中にゲストのようなかたちで参加したのだ。留年した理由は、夏休み前の実習で良い点が取れなかったから。実習というのは、学生達が四、五人でグループをつくって病院に行き“看護”をすることだ。それは僕たち専門学生が避けては通れない道で、看護学校に通っていた僕らにとっては厳しくても貴重な経験なのだ。
一目で見てとれるように、あゆみは不安や緊張が強く現れる子で、常にタオルを握っていた。最初は暑がりなのかと思っていたが、どうやら精神的なものからきていたらしい。
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。廣瀬さん、この学年の子たちと一つしか変わりませんし。おんなじようなものですよ」
緊張を和らげようと僕が声をかけると、あゆみは肩をびくりと震わせて、栗の実のようなころんとした瞳を向けた。それは本当に栗みたいで、大きくて茶色い瞳の周りを、栗のイガみたいに長くしっかりとした睫毛が縁取っていた。真っ黒の髪は肩までしかなく、これもまた栗のようにふんわりとした丸みを帯びていて。よほど緊張したのか、白い頬に桃のような色がさして、ちょうど白桃のような色合いになった。なんだか砂糖菓子みたいに、柔らかくて甘い雰囲気をまとっている子だったんだ。
「あ、ありがとうございます」
「まあ僕も、言っても四つぐらいしか歳変わりませんから。気楽にしてくださいよ」
というのは、僕が彼女に向ける初めての冗談だった。張りの無い皮膚からも、艶の無いボサボサの黒髪からも、若者とは少しズレた服装からも、僕が二十歳代でないことは容易に見てとれるはずなんだ。だけど彼女は関心した表情で、口元に手を当てると頷き始める。
「あ、柴田さん……二十三歳なんですね」
「そうそう、僕こう見えても二十三歳……に見えるわけないじゃないですか」
「え? じゃあおいくつですか?」
「うーん……でも二十三歳ってことにしてください」
困ったことにあゆみには冗談が通じなくて、そのくせどこかすっ呆けているところがあった。だから、僕があゆみに冗談を言ってもそれは冗談にならなかったし、逆にあゆみの真剣な一言は僕の下手な冗談よりもよっぽど完成度が高かった。この子は他の子とはどこか違う。そう悟るのは比較的早かったけれど、“この子と僕は相性が合う”と思うのには、少しどころか長い時間がかかった。それについてはまあ、もう少し後で語ることになるけど。
実習中、僕たち看護学生が何をするのか、患者さんや家族の皆さんはご存知無いかもしれない。むしろ深く説明しない方が良いと思うんだけど……。簡単に言えば、患者さんの日常生活のお世話を、その患者さんに合ったようにする、というのがこの実習での僕らの課題だった。
あゆみは凄くよく勉強してくる子だった。患者さんの病気や治療方法、薬の作用・副作用・薬効時間から何から。まるで頭の中に医学書を“飼っている”かのように、すらすらと知識が口から出てきた。それでも、彼女には弱点があって。それは、患者さんの気持ちを考えるということだった。だから、患者さんがお風呂に入りたくないと言ってもお風呂に入らせようとした。それに、わからないことが一度に来ると混乱して、自分でもよくわからないことをしてしまう癖があった。そのことで、熱心な先生によくよく怒られていて。どうしようもなく辛くなったのか涙をぼろぼろ流していた。
先生――その実習はたしか、中沢先生だった――もあゆみの性格をよく捉えていて。他の学生の前であゆみを集中攻撃するようなことはしなかった。皆よりも出来ないという点を指摘されると、あゆみのプライドがぼろぼろになる。そもそも人一倍勉強を頑張るあゆみだ。プライドも高くなっただろうし、他の学生が居なくても大丈夫と言わんばかりに悩みや問題事を、その薄べったい身体に抱え込んでいた。空気をたくさん含んだ風船みたいに、もう少しでも刺激を与えたら割れてしまいそうな、ギリギリの状況で保っていたあゆみだったから。だから中沢先生は、僕たち学生の前であゆみを叱らなかった。
その日、僕には担当の患者さんが
「風呂に入りたいんだよ、学生さんよぉ」
と言ってきた。退院間近だったが、お風呂に入ったことはまだ無い――それまでは蒸しタオルで身体を拭いていた――患者さん。昨日まではそんなことを言っていなかったけど、きっと心の中でずっと入りたいと思っていたんだろう。それまでだって、腫瘍により右脚の太腿から下を切断しているのに、“学生さん、右の膝が曲がって痛い! 頼む、伸ばしてくれ!!”と訴えていて、僕はそれにどう対応すれば良いのかわからなくて困っていた。でも、そんな状況のひとつひとつに困っていたのは、誰よりも患者さん自身だったんだ。
「ずっと入っていませんでしたもんね。看護師さんに聞いてきますので、少しお待ちいただけますか?」
「ああ。待つ、待つよ! だから頼むよ、学生さん」
白いベッドの上で、褐色の肌をした患者さんはすがるようにそう言った。隆々とした筋肉や太い眉に、太陽の下でこそ似合う思い切りの良い笑顔。かつて漁師だったというのにも納得できる。僕は漁師という世界を良く知らないけど、自分よりも年下の人に、そんな職人肌の人が頼み事をしてくる。もしかして、いや、よっぽど辛いんじゃないかと思った。早くお風呂に入って、汚れと一緒に辛い思いをさっぱりと流したいんだと思った。
中沢先生を捜していると、ナースステーションに隣接するこじんまりした部屋で、あゆみに指導をしているところだった。あゆみがまた何かをしてしまった様子で、先生は紙にわかりやすそうな図を描いたりして、何事か――多分看護について――を話していたんだろう。僕の患者さんは、お風呂に入って良いという指示を待っている。でもここで僕が部屋に入ったら、あゆみはどう思うんだろう。きっと、自分の弱い部分を他人に見られて、プライドが傷ついてしまう。僕はあゆみのことを二週間ちょっとしか知らないけれど、そんなに心が強い子には見えなかった。だから、ここでずかずかと乗り込んだら、あゆみが明日から実習そのものに来なくなってしまうのではないかという思いが掠めた。
僕のつま先は、先生とあゆみの居る部屋から、ナースステーションへと向いた。その一瞬、涙を流して真っ赤になったあゆみと眼が合った。
ナースステーションで、その日の学生担当の指導者さんにお風呂のことを尋ねると、指導者の看護師さんは僕と一緒に患者さんの元へ行ってくれた。そして、体温や血圧を測った後で一緒に浴室へ行った。狭い狭い浴室で湯に浸かる患者さんは、笑顔で
「ああ、極楽だ。ありがとう、学生さん」
と言う。
「いやいや、僕何もしてませんよ。○○さん、お風呂に入れて良かったですね」
患者さんは大きい両手で浴槽の湯を汲んでは顔を洗った。何日かぶりに、短い髪の毛をシャンプーの泡で洗う姿は嬉しそうで。起伏の激しい胸板や背中を石鹸とタオルで力いっぱい洗っていた。そして、途中で途切れた脚の周りはやっと自分で洗えるようになった。お風呂からあがった後、右脚の無い患者さんは僕と看護師さんの肩を借りながら椅子に座り、身体をバスタオルで拭いていく。そうして服を着替えたあと、車椅子に移って部屋に行った。白いベッドに身体を沈めると、極楽だった、そう言って真っ白な天井を見つめた。
「そういえば、あんた。男が看護婦さんを目指すなんて珍しいね」
そう言う患者さんに微笑み返す。次に来る言葉が透けて見える気がした。どうして、いい歳した男が看護師なんて目指しているんだ? ということだろう。
「見たところ働きざかりに見えるけど、どうして看護婦さん目指してるんだい?」
悪びれた様子もなく、患者さんは大きい瞳を丸くして尋ねる。ころんとした瞳はあゆみみたいだった。
「僕、昔は老人施設で介護士をやっていたんですけど……なんか納得しないことが多くって。自分より若い看護師にも顎で使われましたよ。だから“見てろよ”みたいな気持ちがあったのかもしれませんね」
苦笑いする僕を頷きながら見る患者さんは、唇を“う”のかたちですぼめて、ひゅうと口笛を吹いた。
「あんた、かぁっこいいじゃねぇかよ」
「そうですかね? いい歳して職業も安定してませんよ」
“○○さんは漁師だなんて、かっこいいですね”。そう言おうとして僕は口をつぐんだ。右脚を切断したのだ。海の男に戻れるのだろうか? そんな思いがあったんだ。
「いやいや、かっこいいよ! あんたいいよ! あんたが居てくれて良かったー。えっと、何歳だったっけか?」
「あ、三十八歳です」
「ほぉー、実年齢より若いじゃねーか。若い心がそうさせるのかねぇ。これからも頑張れよ、学生さん!」
そう言ってくれた患者さんは、退室する僕を精一杯の笑顔で見送ってくれた。でも、僕は気付いた。僕の居なくなった後、患者さんが声を殺しながら涙を流していたことに。はっきりとは見えなかったけど、白いカーテンに、たくましい腕が眼と鼻を拭うシルエットが浮かんだ。次いでぐずっと鼻をすする音。
考えてみれば患者さんは、初めてのお風呂に入ったばっかりだった。手術後の脚を嫌でも見なくてはいけなかったし、僕と職業の話をしていたことからも、本当は心のどこかで仕事のことが気にかかっていたのだと思う。僕は、そんな患者さんの気持ちを汲み取るように話をしなくちゃいけなかったんだ。と、自責の念が小波みたいに押し寄せた。
お風呂のことを報告しようと中沢先生の元へ言ったら、ちょうど指導が終わってあゆみが部屋から出てきた。赤い眼を擦ったタオルをポケットにしまうあゆみは、足もとがおぼつかない様子だ。よほど泣き疲れて、長時間座り続けていて脚に力が入らなかったのだろう。そんなあゆみに、僕は微笑みかけた。あゆみはまたも驚いたように、しかし感激したように、微笑んで会釈をした。実習中はずっと気を張っていて怖い表情をしていたから気がつかなかった。この子の笑顔は、こんなにも可愛い。
「え、柴田さんって二十三歳じゃないんですか?」
実習を終えて、学校であゆみが話した瞬間、メンバー達はお腹を抱えて笑い出したし、他のグループの人々は“今更何言ってるんだよ”と冷めた眼でこちらを見た。
「ふふっ、いや柴田さんは二十三歳だよ」
「永遠の、ぷっ、二十三歳っしょー」
メンバー達の反応を見てあゆみは力が抜けたように呆けた表情になって、僕を見つめた。僕は肩をすくませて首を傾げてみせる。
「廣瀬さん、看護師目指してるんでしょ? 人を見る力が足りなさ過ぎるよ、頼むよぉ」
僕たちの実習評価をしながら、中沢先生は大きな身体全身を使って“呆れた!”と言っていた。
***
「だってあの時は本当に二十三歳だって思ったんだもん!」
ぷくりと頬を膨らませたあゆみがそう言うのは、もう少し後の話になる。
「でも、さすがに二十三歳には見えないよ、普通」
「普通の人なら十五歳もサバを読みません!」
「それもおっしゃる通り」
まるでラジオの番組みたいに、元気良く跳ねるあゆみの声と、穏やかな僕の声がにぎやかに響き合った。あの時。車の中で笑う僕が、あの浜辺にあゆみを連れて行くのも……もう少し後の話になる。
2.古関くん
二〇〇六年、看護学生二年生の秋。実習が終わり夏休みを挟むと、僕とあゆみはほとんど顔を合わせなかった。というよりは、あゆみが落とした科目が夏休み前の実習だけだったので、彼女は学校に来なくても良かったのだ。それでもたまに、勉強熱心なあゆみが図書館で本を漁っては、こんがりと色がつきそうなほど見つめている姿を見かけた。
「相変わらず頑張ってますね」
僕は、図書館でも何処でも、知っている人を見かけたら声をかけるようにしていた。看護師は人を相手にする仕事だから……というわけではなくて、人と話すのが好きな方だっただけだ。特に、意味の通じる人と話をするのは楽しい。認知症の人ばかりを相手にしている時期もあったせいかもしれないけれど。でも、老人施設での思い出は楽しいことが多かった。看護師になったら、あの施設にいつかは看護師として戻りたい、そんな風に思っていた。
「いや、私すっごくビビリなんですよ。だから、勉強してなくてわからないことばっかりになるの、怖くて。本当はそれじゃいけないんですけど。……柴田さんみたいに、人のことを考えられるようになりたいですけど」
と、もじもじして目線を本に落としながら、唇を仕舞いこんで頬を桃色に染めた。でも僕は、桃色の頬は話し慣れていないから緊張していたんだと思っていたし、目線を本に落としたのも、早く勉強をしたいんだと思っていた。
***
「えーちゃんって、昔から鈍感だったよね」
後であゆみはそう言った。僕は鈍感だと気付いていなかったから、首を傾げる。
「そうかな」
「図書館でえーちゃんと会った時、嬉しかったけどどう言えば良いかわかんなくってさ。でも図書館なら学校が無い日も行きやすかったし、えーちゃんに会える確率が高かったから。だから私、しょっちゅう図書館に居たんだよ」
「そうなの?」
「そうだよ。えーちゃんは癒しだったんだよ?」
「気付かなかったー」
「私、嬉しい顔してたのに……鈍感だなぁ」
付き合ってから僕の部屋でアルバムを広げた時、あゆみはそう言って頬を膨らませていた。
「あー……鈍感かもねぇ」
妙に納得させられて、僕も天井を見ながら頷いた。
***
とにかく、この時の僕はそんなあゆみの乙女心に気付かなかったんだ。だから、勉強の邪魔をしちゃいけないと思って、
「いやいや、僕なんて全然ですよ。それじゃお互い頑張りましょう」
と、話を打ち切ってしまった。
「あ、はい……」
と消え入るあゆみの声を背中で聞いて、さっさと自分の探す本を見つけて図書館から出るくらいだった。それくらいに鈍感な僕だったから、あゆみの抱えるもう一つの事情に気付くはずも無かったんだ。
早い話が、あゆみには同期の入学者に彼氏が居た。と言ってももう別れていたし、その彼氏は看護学科ではなく、理学療法学科の人だった。いろいろな理学療法士さんが居る中で言うのもなんだけど、うちの学校の理学の生徒さん方はガラが悪くて不真面目なイメージがあった。あゆみの彼氏も例に漏れず、実習前でもキャラメルみたいな色の髪を黒くしなかった。適当で、誠実さに欠ける彼は同学年からも不評だったらしい。
じゃあどうして、そんな彼と真面目の塊みたいなあゆみが付き合っていたか、というのは謎を深めるところだけど。あゆみは彼のルックスの良さと、ネガティブな自分を明るくしてくれる部分に惹かれていたらしい。確かに、可愛らしいあゆみと、整った顔だちの彼が並ぶ姿は絵になったかもしれない。
一度だけ、図書館のロビーで、あゆみと理学療法学科の彼が話している姿を見かけた。その時彼は、やっぱりキャラメルみたいな色の髪で、紺色に白と赤の線が入るジャージは高校時代の使いまわしか、左胸に“古関”と白い糸で刺繍がされていた。
「お前、留年してんのによく頑張れんな」
「俺だったら年下と一緒なんて絶対無理だし」
「お前プライドとか無いの?」
そんな言葉が、僕が通り抜ける一瞬の間で聞こえた。だから、鈍感でぼんやりしている僕でも、彼を覚えていられたんだ。実習中に、心の壁をつくりながらも僕らと馴染もうとしたあゆみを、何度も唇を噛み締めて涙を流したあゆみを、僕は知っていたから。きっと、僕と出会う前から――留年が決定した段階で――あゆみは何度も泣いていただろうに。
「もうヒロヤスには関係ないじゃん……」
という声がしたのは、もしかしたら気のせいかもしれない。だけど、僕が図書館を出るのと同じタイミングで、あゆみは図書館の本の群れの中に飛び込んでいった。ちらりと振り返ると、古関くんは頭を掻いて、図書館から出て行く僕とすれ違った。
この古関くんという人を、僕はその時の印象と噂でしか考えていなくて。つまり、適当で誠実さに欠けるうえに、昔付き合っていた彼女にあんな台詞を吐きかける奴なんだって。そう思っていた。でも、こんな言い方だと自分でも驚くけど、この後僕と古関くんは大親友になる。彼女の元彼と親友だなんて、振り返れば複雑なんだけど、僕ら二人にはそれを感じさせない絆が出来ていたんだ。
君には本当に、いろいろと教えてもらいました、古関くん。あゆみと僕が恋人関係じゃなくなっても、君とはいつまでも親友でいたいと思う。
***
「えぇ、俺……英介くんにそう言われると、嬉しいんすけどーっ」
二〇〇八年、八月二十五日。国道沿いにあるコンビニに車を停めて、群青色の空に粉を吹いたような星を眺める僕。その耳にあてる携帯電話越しに、古関くんの笑い声が響いた。田舎なせいか、国道沿いにあるのは闇に沈んだ田んぼだけで、光といえばコンビニがあかあかと照らし出すそれしかなかった。
そのコンビニを見て、僕はまた笑う。なんだか、このコンビニは古関くんに似ている。周りが暗くても一人だけ明るくて、その場の雰囲気を変えてくれるあたりが。コンビニの中で元気に笑う店員を外から見て、古関くんに電話をしようという気になったんだ。元気といえば古関くん。長く関われば、あゆみが彼に惹かれた理由もわかる。彼と関わってがっかりしたのは、初対面のあの時だけだった。
「やっべ、超頬緩むし。へへ、俺今、テンションやばいっすよ」
「いやいや大げさだよ。……そうだ、あのさ古関くん」
「何っすか?」
「あゆみ……元気かな?」
今一番気にかかっていることだった。耳元の携帯電話を握る手に力が入る。
「あー元気っすよ。でも……」
「あ、そうなんだ! それなら良かったー」
僕の精一杯の強がりを見透かした古関くんは、心配そうに声をかけてくれた。
「てか英介くん……大丈夫?」
「うぅんん……古関くんの声聞いたら元気になったよ」
「まじすか?! こんな声でいいなら無料配信するんで、会いに来てくださいよ!?」
それもいいな、と思った。いつか、僕のこじんまりした薄汚い部屋か、古関くんの部屋のどっちかで缶ビールを開けて飲み明かしたい。古関くんはいい奴だし、憧れるし、大好きだ。相槌を打つと、電話越しに古関くんの声が弾んだ。
「うわー、なんか楽しみになってきた! 絶対っすよ? じゃあうちで! 待ってますからね?!」
「うん、僕も楽しみだよ」
尋常なく汚くて、座る場所の無い彼の部屋を除いては。
じゃあね、と電話を切って、僕は再び車に乗り込んだ。昼間はかんかん照りの太陽に熱されるアスファルトが、夜は静寂に守られながら冷やされる。その上を、僕のオンボロ車が走って行った。当たり前だけど、座る人の居ない助手席は無機質で、ひんやりと冷えていた。
***
話は学生時代にさかのぼる。二〇〇七年の四月だったと思う。
僕とあゆみが出会ってから、最初の春が訪れた頃。栗の実みたいだった彼女の髪型は、空気を含んだようにパーマがかかり、胸元まで伸びていた。そんなあゆみと僕が出会うのはやっぱり図書館――五十音順でクラス分けがされ、苗字が“し”から始まり一組だった僕と、“ひ”から始まり二組に配属されたあゆみは、授業でかぶることがほとんど無かった――だった。
「伸びましたね」
という声かけに驚いて振り返るあゆみは、一年前一緒に実習した頃よりも女っぽく見えた。彼女は僕と眼が合うとぱぁっと笑顔を咲かせてくれて、それが何だか嬉しかったのを覚えている。あゆみは手で髪の毛を触って一言。
「はい、びよびよ伸びちゃって、もう嫌になります」
あゆみはそう言うけど、可愛いと思った。人魚姫が居るなら、もしかしたらこんな髪型をしているかもしれないな、と思わせるほど柔らかい髪質はあゆみの雰囲気によく似合う。
「ええ、それオシャレじゃないんですか?」
という僕の台詞のどこがツボにハマったのかはわからないけど、あゆみは口元に手を当ててあははと笑った。
「柴田さんは何だか今日、若く見えますよ」
「そうですかね。服のせいかな? 適当に引っ張り出してきたんですけど」
「へぇ。オシャレリーダーですね」
「はい?」
「あ、ファッションリーダーでしたっけ?」
言いたいことはわかったけど、その日の服はアメフト部を思わせる紫と白のボーダーシャツと、色が落ちて水色より薄くなってしまった――元々は濃い青色だった――ジーンズだった。最近の流行はわからないけれど、確かに三十九歳になる僕には若すぎたかな? と思った。
「ああ。……えーと、嫌味ですか?」
「ええぇ? 違いますっ」
あゆみは本気で僕を褒めようとしていた様子で、慌てて右手を違う違うと振っていた。やっぱり僕とあゆみの会話はどこかかみ合わなくて、でもそれがおかしくて、僕らはまたくすくすと笑った。この頃からか、僕はあゆみと一緒にいる時間は安らげることに気がついたんだと思う。
とにかく、会話がかみ合わないまま、僕らの間抜けなやり取りが図書館の隅っこで開催される。
「てっきり、いい歳してそんな服着るなって意味かと思っちゃいました」
「そんな、そんな! 柴田さんは素敵ですよ」
「いやいや、柴田英介ですから」
「いえいえいえ! 私、柴田さんのこと尊敬してます!」
今思うと、この一言が無ければ、僕とあゆみは恋人関係にも何にもならなかったと思う。
「ええぇ。本当ですか? 嬉しいなー」
冗談を言われたと思っていたから。僕は両手で口元を隠して、微笑むあゆみの真似をしてみせた。するとあゆみは、自分の真似をされているとは気付かずに微笑む。やっぱり、僕の冗談は彼女に通じない。
「はい。私、中沢先生と同レベルで、柴田さんを尊敬してます」
「え、中沢先生と一緒? うわー、うれしー……」
これは心の底から出した声だったんだけど。あゆみはむしろ、この言葉の方を冗談と受け止めていた。
「……馬鹿にしてます?」
「?」
結局最後まで、僕らはかみ合わずにやり取りを終えていた。そう、僕らに足りないものといえば、ときめく雰囲気だったと思うんだ。会話がかみ合わないものだから、ロマンティックなムードが音をたてて崩れてしまう。例えば、世間の男女が描く素敵なやり取りを僕らがやると、まるでギャグになってしまう。でも、飾らずに素朴な関係で居られるから、僕はそんな時間が大好きだった。
「えぇ、えーちゃんは面白いけど、私って盛り上がりに欠けない?」
後であゆみはそう言ったけど、正直僕は自分が面白いなんて思ったことはない。それに、あゆみの一言一言が面白くて、見てて飽きなかったから、それは大丈夫だったと思う。
3.夏に気付いたこと
女は若ければ若いほど良い、なんていう人もいたけど、あゆみに会う前の僕は違った。三十歳代の女性が持つ色気や、強さの中に時折見せる優しい表情は、三十歳未満の女性に負けない美しさを持っていると思う。第一僕は自分がしっかりしていない性格だったから、しっかりした女性に引っ張ってもらってバランスをとる方が良かったし、そこに若さは求めていなかったんだ。
だけど、それ以上に僕は、自分のことをよく知ろうとしてくれるあゆみに惹かれたんだと思う。看護学生の柴田英介だけじゃなくて、三十九歳男性としての柴田英介を見てくれるあゆみだったから、僕の心は動いたんだと思う。
***
ジジジジジ、ジージジー。ネジの仕掛けで動くおもちゃみたいに、やかましく蝉が鳴く頃。
合同教室のカレンダーには“2007/8”という英数字が大きくあり、どこかの西洋人が青空の下、水着姿で微笑む写真が載っている。世間一般でいう夏休みだが、ケーススタディという卒論――それまでの実習での患者さんとのやり取りを、本を使いながら深く考え直す――を書きあげるため、僕たちはほぼ毎日学校に行き、先生から指導を受けては直しの繰り返しをしていた。
そもそも、僕らの学校は予定がきつきつに組まれているから、あゆみみたいに留年をする人も一学年に二、三人は居る。単位は一つでも落としたら進級できないんだ。だから一年生は、技術テストも含めて、テストで赤点を採ったら再試で確実に受からないといけなかった。だから二年生は、夏休み前の実習や秋の実習、その他のテストを落としたらいけなかった。……けど、あゆみは単位が二つ分とされる夏休み前の実習を落とし、進級できなかった。
そして、三年生は一年間のほとんどを実習をして過ごしている。
外科・救急、内科、終末期、老年期、小児期、母性、在宅、精神。
これらの実習をこなし、三つ以上落としたら再試をしてもらえないし、卒業できないんだ。二年生の最後の一月と二月に実習が二つ。三年生になってからの五月と六月で実習が二つ。そして、九月から十二月の四ヶ月で、残りの五つの実習をしなくてはならない。
ちなみに、この卒論も単位に指定されていて。なんと夏休みで書き上げた卒論が不合格だと、秋から冬にかけて五つの実習をこなしながら、合間に卒論も書かなければならないんだ。
だから僕らも、なんとしてもこの夏の間に卒論を終わらせたいと願って、熱が入るのである。
「文系の四大生とか二ヶ月休めるのにさ、どうしてうちら一ヶ月なんだろう」
「高校生みたいだよね」
と、すれ違う一年生らしき女の子達が話し合うのを見て、僕は額ににじむ汗をタオルで拭った。一年生は一年生で、ベッドメーキングという技術テストに向け、夏休みの間も自主練習をしに来ているのだ。
夏休みといえば、僕が働いていた頃はまとまった休みなんて四日くらいしかとれなかったし、暑いうえに介護職だから身体を動かし、疲れの溜まる日々だった気がする。だから、僕にとってこの夏は勿体無いくらいに長い休みだった。
でも、考えてみれば彼女達は、高校生からすぐにこの学校に来る子が多い。自由という言葉の外に居るような僕らの生活――それでも学生は温室育ちなんだけど――だから、ストレスの溜まる子も多いのだろう。
合同教室から教員室に行く道には、コピー機と自販機の置いてある空間があって。僕がそこを通りがかる時、ちょうど何かをコピーするあゆみに遭遇した。お互いに小さく“あ”と声を上げて、にこにこしながら会釈をした。離れてみるときっと、お年寄り同士の挨拶みたいだったと思う。
僕はあゆみと居る時間が楽しかったし、彼女と居られる時間を愛おしく思える。あゆみもそうは思ってくれていないだろうか? そう思ってほしい。という思いが、僕の胸にじんわりと広がった。でも、この頃から僕の中で葛藤が始まったんだ。
この時。あゆみは二十一歳で、僕は三十九歳になろうとしていた。僕たちは十八も歳の差があったんだ。つまり僕が成人する時、あゆみは二歳でやっと言葉を理解する頃だったんだ。
まさか、いくら何でも……という思いがあった。あゆみの中で僕は確実に恋愛対象外だろうし、僕だってさすがに、そんなに歳が下だと女性と思えない。そう思っていたはずの僕に、奇跡とも呼べる展開が待ち受けていたんだ。しかも、事の始まりが今日だったなんて思いもしなかった。
「あれ、柴田さん」
教員室から出た僕と、教員室前の本棚に用があったあゆみがすれ違う。僕は眼が悪いくせにその時メガネをかけていなくて、おまけに暑さで――他校と合併寸前のボロボロ校舎で、学費が安い変わりにエアコンなんて文明の利器が無かった――頭がぼうっとしていた。
「えーと……?」
「あ、廣瀬です」
「ああ、廣瀬さん。どうですか、元気にしてますか?」
目の前で微笑むあゆみは、痒いところを掻いてもらえた犬みたいに、人懐っこい笑顔を見せた。こんな言い方をすると思い上がりなのかもしれないけど、“柴田さんと話せて嬉しいです”という気持ちが瞳に宿っている様子だった。
「はい。でも最近……。あの柴田さん、いつでも良いんで、人生相談に乗ってもらえませんか?」
霞がかった僕の頭が、空気清浄機で浄化したかのようにクリアになる。
「え、人生相談?! ってなんですか?」
僕がそんな反応をしたものだから、あゆみは慌てて、いつかそうしたように右手を懸命に振った。
「あ、いや、たいしたことじゃないんで、やっぱり自分でも解決できるかもなんで、えっとやっぱりいいです」
「いやいやいや。僕、三−一の教室に居ますから。声かけてくださいよ」
「あ……じゃあ、後で伺います」
その後、僕は三−一の教室で自分のパソコンを開く。一番黒板に近い席で卒論を修正しながら、引き戸のドアががらがら鳴るたびに振り返ってしまった。そわそわして落ち着かないのはどうしてだろう? という気持ちもあったけど、今日はいつもより長くあゆみと話せる気もして。安らぎの一時が長くなることは、素直に嬉しかったんだ。
何度目かのガラガラという音……そして、すぐにガタンと閉まってしまった音で、僕はあゆみが来たことを悟った。あゆみは人見知りが激しいので、教室に僕じゃない誰かを見つけて、思わずドアを閉めたのだろう。
僕が急いで教室の端っこから端っこに走ってドアを開けると、長細い廊下には案の定、あゆみの後姿があったんだ。出会った頃とおんなじの、栗の実みたいな髪型に、うっすらとした体型や白い肌。ぜんぶぜんぶ、見間違いのない廣瀬あゆみだった。
「廣瀬さん!」
僕の呼びかけにはっとして、あゆみが振り返った。僕だけが居るのを見ると、あゆみは嬉しそうに、そして半分申し訳なさそうに右の拳を口元に持っていった。
「うわ、うわーすみません柴田さん!」
“人生相談”という響きから、なるべく二人きりの方が良い環境なのだろう。そう思って僕は、二−二の教室に入って、スイッチで扇風機を回した。あゆみは何かを手伝おうとして、でも結局何にもできなくて慌てている様子だった。
「じゃあどうぞ」
広い教室の真ん中にちょこんと僕らが座り、天井にある四つの扇風機が四方から風を送ってくれる。光といえば、窓に映る高い空から降り注ぐそれだけで十分だったし、音もしゃわしゃわという蝉の声が心地良いくらいだった。
あゆみは緊張しているのか、ペットボトルのお茶を一口。僕は、この暑いのに私物を教室に置いてきたことを少し後悔した。
“で、どうしたんですか?”と聞きたいけど、ここばっかりはあゆみのペースに合わせようと思った。するとあゆみはポツリと呟く。
「えっと。私……新しいグループメンバーと反りが合わなさそうで。上手くいかなくって」
ぷしゅ、という音をたてて僕の中で何か空気が抜けた。
「本当にそれだけですか?」
「あ、はい」
「そうですかー……」
「?」
僕の中では、彼女はやたらと思いつめる傾向があった。だから、もしかして夜眠れなくて困っているのかとか――それは相談で解決できないかもしれないんだけど――はたまた借金地獄で返済に困っているのかとか、そんなことを考えていて。多分、“人生相談”という言葉が大げさだったんだと思ったし、使命感に燃えた数分前の自分も馬鹿らしく見えてきた。
そもそも、世渡りが上手くない僕にそんな相談をしない方が良いのでは? という気さえしてくる。
「すみません、こんな質問。でも、私の中で柴田さんって、何だか柔軟なイメージで。私も、柴田さんみたいに皆と仲良くなりたいなって思って……」
その一言は、ちょっとだけ嬉しかったりして。萎えた気持ちと同時に、仕方ないなぁと気持ちを立て直される。だから僕は、タオルで口元を隠すあゆみに話し始めることにした。
「皆と仲良くなりたいなら、まずは皆と一緒に行動することが大切なんじゃないかな」
「行動ですか」
「そう。一緒にご飯食べたり。よく“同じ釜の飯を……”って言うじゃん。あれは本当だと思うよ。そういう風にして、最初はぎこちなくても、そのうち関係が築けてくるんじゃないかな?」
「行動かー……」
大きい瞳を見開いて、眉間にシワを寄せながらうんうんと頷くあゆみは、どこか無理をしているように見えた。それもそのはず、あゆみは団体行動が苦手で、傍から見ると不自然なほどに心の壁を作りたがるんだ。
一年前の僕らのメンバーは癒し系で固められていたけど、これからのメンバーは前向き元気に突き進む系で固められている。きっとその雰囲気に押されて、慌てふためいているんだと思った。最も、ネガティブで底なし沼に沈んでしまいそうなあゆみには、引っ張り上げてくれる人達が必要なのかもしれないけど。
こんな感じの質問が二、三続いた後、あゆみはよくよく頷き、
「柴田さん、本当にありがとうございました!」
と満面の笑みを見せた。実に一時間。僕とあゆみでは、七対三の割合で僕の方が多く話してしまったけど、お互いにそれで満足だった。
「いえいえ。じゃあそろそろ行きますかね」
さて帰ろう、と席を立とうとした時だった。
「あ、あの柴田さん。この前も言いましたけど。私、本当に柴田さんてすごいって思ってて。えっと、中沢先生も柴田さんが居ない時に言ってたんですけど」
「? 中沢先生が?」
立ち上がりかけた腰を下ろし、僕はあゆみの話を聞く。黒くてつぶらな瞳が僕を捉え、少しだけドキリとした。
「はい。柴田さんは、自分の経験だけに頼るんじゃなくて、看護師さんの指導をちゃんと聞き入れていて、それがすごいって。私も本当にそう思います。柴田さんと歳が近い人で、先生の話とか全然聞かない人っていますけど。柴田さんはきちんと聞いてから話してくれるから。だから……尊敬してます」
あゆみは直接言わなかったけど、何となくわかった。僕が、それまでのプライドを捨てる覚悟でこの学校に入ったことを、察してくれていたんだ。
僕といえば、今の学年の子たちからは当然のようにタメ口をきかれていたし(それは年齢の壁を取り払えて嬉しかったけど)、要領も悪かったから、出来ないところをよくよく二十歳前後の女の子達に指摘される毎日だった。病院で指導してくれる看護師はもちろん教員にも、僕より五つ以上年下の人は居て、“柴田くん、あなたはあーだから、こーだから”と言われて凹んでいた。そのほとんどはちゃんと受け容れられたけど、入学したての頃は自分で自分が情けなくなったりもしていた。
でも、そうでもしないと進めなかったから、僕はプライドという重い荷物を少しずつ捨てて行ったんだ。そんな僕の思いに、例え先生越しででも、気付いてくれる人が居るなんて思っていなかった。
褒められ慣れない僕は急に恥ずかしくなって、右手で髪をぐしゃぐしゃ混ぜながら早口になる。
「いや、僕も今までの経験で判断すること多くなるよ? いっつも“ああーまた他人の話遮って自分の意見言っちゃった”って思うし。一年生の頃ベッドメーキングで他の子にやり方を教えちゃって。ほら介護士やってたし。あ、でもこの学校の先生に、“柴田くんのやり方が絶対正しいんだって他の子が思ったら、もし柴田くんが間違ってたら皆間違って覚えちゃうんだよ”って言われてさ。だから何ていうか控えようって思ったし。……今日廣瀬さんに言ったことを、僕も先生とかに言われてたんだよ」
あんまりいっぱい話し出す僕を前に、あゆみは驚いたように頷いたけど、最後にはやっぱり安心させてくれる。
「それを活かして自分で言えるようになっていて、すごいです」
そう言って、期待を裏切らないような笑顔を見せてくれたんだ。
「私、この学校で柴田さんに会えて、本当に嬉しいです」
ふんわりと笑むあゆみを見て、僕の胸にも暖かい何かが広がった。その何かは、スカスカしていた心をぽかぽかと温めながら埋めてくれる。
あゆみは歳が下過ぎるから、女性として見られないなんて思っていたのに。甘えてくる女よりも、引っ張っていってくれる女のほうが似合ってると思っていたのに。それでもこの時の僕は、確実にこう思ったんだ。
ああ、この子に恋をしたんだ、と。
4.浜辺に残した思い出
お互いに好意を寄せ合っていたら、それまで時間がかかっていた間柄でも、急激に距離が縮まるものなんだと思う。それは、お互いがお互いに歩み寄ろうとするからじゃないかと、僕は思う。僕とあゆみはそんな具合で、僕が恋心を自覚した瞬間、ミルクがコーヒーに溶けるように、自然とちょうど良い距離を見つけた。
と言っても、彼女の口から直接“好き”なんて言葉は出ないし、僕だって思春期の頃とは勝手が違うから、好きなんて言うことは多分、あゆみ以上に勇気が要ることだったんだ。
何せ歳の差が親子くらいに開いている僕らだから。好意は好意でも、異性愛よりは友情愛としての好意かなとか。お父さんに甘えるように僕を慕っているだけなのかなとか、そんな考えが何度も僕にブレーキをかけた。
ただ、時々あゆみを車に乗せて、一緒にどこかしらをくるくる回った。夏休みもお盆を過ぎる頃には、ひいひい言っていたケーススタディを終えられて。秋からの壮絶な実習生活に向けての事前学習とかも必要なんだけど、僕らは少し休憩時間をとった。いつの間にか、彼女をあゆみと呼ぶようになっていた僕と、いまだに柴田さんのまんまの彼女。距離が縮まったと思っているのは、ひょっとしたら僕だけだったりして。なんて思うと、一緒に食べるソフトクリームが美味しくなくなる。
「あの、柴田さん。……私、これ聴きたいです」
車の中であゆみが取り出したものはCDケースで、ジャケットにはスーツを着て微笑む黒人男性が写っていた。髪をきちんと撫でつけ、弾む風船のようにシワの寄らない肌から、かなり若い頃のものと思われる。
「名曲なんで、きっと柴田さんも気に入ります」
そう言ってCDを入れる手つきはウキウキしていて。耳慣れた曲調と深く優しい歌声に、僕も顔をほころばせる。
「知ってるよ、『L-O-V-E』でしょ。でも……意外と渋いセンスだね」
かける曲と一緒に、僕らはお互いの趣味について話す。僕と合うのが驚くくらい、あゆみのセンスは古めかしかった。例えば、好きな映画は何かと尋ねると『雨に唄えば』と『おしゃれ泥棒』が出てきたし、オードリー・ヘプバーンやマリリン・モンロー、ルイ・アームストロングについての知識は僕よりも詳しくて、話に熱がこもった。
「ねえ、本当に二十一歳? 四十歳くらいサバよんでない?」
「柴田さんじゃないから、そんなことしないよー」
と、あゆみは首を振って可笑しそうに笑いかける。そして肩までの髪がさらりと止まり、はっとして口を抑えている。
「ごめんなさい。タメ口……」
「いやいや、僕ももう敬語使ってないし、むしろタメ口でいいよ。皆もそうしてるし」
「…………」
下唇を引っ込めて“どうしよう!”と黙りこむあゆみの緊張が僕にもうつって、僕まで“ああ、やっちゃった!”と焦りだす。車内に染み付く気まずい雰囲気を取り払いたくて、僕は口を動かすんだ。
「えっとー何処か行きたい?」
カーナビの時計は十六時をまわり、走る町並みはオレンジ色に染まりつつあった。助手席で落ち込んでいたあゆみは夕顔みたいに笑顔を咲かせる。
海に沈む夕陽が見たい。
それまでの間抜けなやり取りと違って、初めてのときめきをもたらしてくれる、あゆみの希望だった。喜んで車のアクセルを踏む僕と、その横で洋楽を口ずさむあゆみを乗せて、オンボロ車は海に向けて走り出す。途中で、あゆみが昔のことを話し始めたんだ。一緒に実習をした時、僕の笑顔で救われたこととか、本気で二十三歳だと思っていたこととか、十五歳もサバを読む人は初めてだとか。
ひとつひとつの会話が楽しかったのは、全てが僕らを中心とする思い出だったからだ。
そして、これから向かう夕方の海みたいに、きらきらとしていたからだと思う。
浜辺に着く頃、夕陽は童話に出てくる赤鬼のように大きく燃えていて。周囲の空をオレンジ色に染めながら、海の向こう側に沈もうとしていた。僕らの頭上には、茜色というよりも青紫色の空が広がり、昼の活気を削いでいく。
波にさらわれないギリギリの浜辺に僕が立って、人間ひとり分の間隔を開けてあゆみが立ち尽くす。肩までの髪は風にびゅうとあおられて、栗の実みたいな形を崩した。彼女は口元をゆるめてただただ、叫び声を上げるようにぎらぎら燃える夕陽を眺めている。
「綺麗だね」なんてことを言えたら素敵かもしれないけど、潮風が寒さを運ぶせいか海岸には僕ら以外に人がいなくて、燃え尽きるように沈んでいった夕陽からも、不気味という言葉の方がしっくりときた。
「……なんか、怖いね」
「うん、わかるよ」
やっぱり僕らにはロマンティックな雰囲気が似合わないんだな、と改めて感じてしまい、僕はぶっと吹きだした。おんなじことを考えていたのか、あゆみも横でお腹を抱えてけらけら笑う。エナメル銅線のように光沢を放つ髪も、マシュマロみたいにすべすべした肌も、薄くて白い紙みたいな身体も、紙をくしゃっと丸めるように笑う様も、とても大人の女性と思えない。
「予想外だね」
と弾む声は、甘くて優しくて、でも子どもみたいだった。
「うん、予想外だ」
こんなに不気味な日没が見たくてアクセルを踏んだわけじゃなかったからね。と付け加えたい。
「でも、面白いね」
「うん、さすがあゆみだよ」
浜辺の砂が僕のスニーカーを汚して、あゆみは茶色いリボンのついた白いパンプスを片方脱ぎ、中に入った砂を落とす。不安定になるからだを支えようと、僕の肩におもちゃみたいに小さい手を置いた。
僕はここで、ある勇気を出すことにしたんだ。“転職に比べたら、きっとたいした勇気じゃないさ”と怖気づく自分に言い聞かせながら。
「僕は、あゆみが居ると……落ち着くよ」
もう一生できないかもしれないと思っていた、僕なりの告白だった。本当はもっと気が効く台詞を用意したかったけど、これが僕にできる精一杯の愛情表現。女性経験は豊富でなかったし、“娘みたいに年下の女に何本気になってんの、ロリコン野郎”と冷められるのでは? という恐怖もあった。多分僕は、あゆみに恋をして自分が傷つくのが嫌だったんだ。
あゆみは、成人しましたと言う方が嘘みたいに子どもっぽくて、甘えたがりで、混乱しがちで不器用で、会話はかみ合わないし時々妙なことをするし、四十年以上前の洋楽をさらりと歌えてしまうけど。昔の僕だったら絶対に興味の湧かない相手だったんだけど。
でも、それら全部を上回る良さがあるって信じられる。素直で優しくて可愛くて頑張りやで、魅力的な子なんだって。もしかしたらそこには、“あゆみの内面の良さに気付けるのは僕だけだ!”なんて自惚れもあったかもしれないけど。
あゆみは話を聞いていないのか、もう片方のパンプスの砂を落としたし、僕はいっぱいいっぱいでそんなあゆみを見られなかった。海辺は先ほど沈んだ夕陽が余韻を残すように、地平線だけほんのりと明るくて、浮かぶ雲はピンク色の光を抱いている。明日は晴れるといいなぁなんて、ちょっと場違いに考えた。そんな僕の肩に、暖かい吐息と一緒に、柔らかい声がふりかけられる。
「柴田さんと一緒に居る時間も、柴田さんの雰囲気も、柴田さんがすることも、私はみーんな好きなんですよ」
ん? と聞き返すと、顔をあげたあゆみの頬は夕焼け空に染まっていた。その染まりようといったら、熱でも出したんじゃないかと思ってしまうくらい。
唇は“一”の字に引き結ばれ、大きな眼の上にある眉毛は“八”の字になり、僕の肩に触れていた手をおずおずと袖の方まで下げてキュッと結んだ。
傍に居るだけでお互いの鼓動が聞こえてしまいそうだったし、抱きしめたら夕陽のように燃え尽きてしまうんじゃないかと思うくらい、僕たちの心は燃えていたんだ。
ここで僕が何かを話せば良かったんだけど。あいにく僕は想定外の反応に絶句していたし、あゆみは僕が何の反応も示さないことで徐々に瞳をうるませていく。そして彼女は眼を逸らしてしまう。
「あああえっと今のは別にそういうことじゃないんで、えっと、特に深い意味も無かったし。だか、だから平気っていうか、えっと今日はもう帰りましょうか」
ついにあゆみの心の容量が限度を超えて、彼女は台詞にならない言葉の羅列を話し始めた。僕がその肩を両手で強く掴むと、“ひっ?”と素っ頓狂な声をあげたあゆみが、がちっと眼を閉じる。
「あのっ、僕何か勘違いしてる?」
「はい?」
「今のが、すごく嬉しい」
後で振り返ると恥ずかしくなるくらい、その時の僕は余裕が無かった。というのも、僕にとってはあゆみが最後の一粒だと思ったんだ。自分を本当の意味で好きになってくれる、最後の人かもしれないと思った。
第一、勘違いだとでも思わない方が不自然だ! と思っていたんだ。僕はあの古関くんとは違って、ハンサムじゃなければ背だって低いし、ポジティブでもないし楽しくない。好きと思える要素が明らかに少ないのだから、あゆみが僕を好きだなんて、誰かに「嘘だよ」と言われた方がよっぽど自然だと思っていた。
「勘違いじゃない、と、思います。私いま、とっても幸せなんです」
目を開いたあゆみは、電波の悪いラジオ音声みたいに不自然な口調でそう言った。
「僕も、とっても幸せです」
「ど、どしてですか」
「それは……」
星が小さく散り始めた空をちらりと見て、僕は両手の中で身をすくませるあゆみに向き直る。あゆみの瞳の中では、墨の中に砕いた真珠をまぶしたように、光がいくつも煌き踊っていた。そんな、天の川みたいな瞳が美しくて、照れた僕は喉のつっかえを感じる。まるで思春期の頃の感覚を取り戻したかのように、自然と台詞が出てきたんだ。
「あゆみが好きだから、幸せって言ってもらえて幸せ……なんだと思う」
なんだか日本語がややこしくなるほど、僕もあゆみも緊張していた。
あゆみは太陽を通り越してトマトみたいな顔になっていく。真っ赤で、シミもシワもないぴんと張った肌がそんな感じだったんだ。医療の世界に“満月様顔貌(ムーンフェイス)”という言葉があって、それはステロイドというものが多量になると起こる症状なんだけど、この時のあゆみはさながら“トマト様顔貌(トマトフェイス)”という感じだった。
「私と付き合うと、きっと苦労しますよ?」
今の僕なら、この言葉の本当の意味がわかるのに。
あゆみはきっと、あの時からもうわかっていたんだろう。僕たちの未来の色なんて、とっくのとうに見据えていて。だから僕に積極的に踏み出そうとしなかったんだろう。だけど、目の前の色しか見られない僕はあっさりと言ったんだ。
「いいよ。辛いことも嬉しいことも、分け合おうよ」
僕は、あゆみの薄い背中に手を這わせて優しく抱きしめる。間もなくやって来る夜が僕の肌を冷やし、そこにあゆみの体温が染みとおるようで、暖かく心地よかった。
あの時はそう言ったのに、僕はまったく、ひどい裏切り者だ。
翌日、あゆみから電話がかかってきたので出てみると、
「ごめんね。どうしても柴田さんに会いたいって人がいてね」
という頼みごとだった。電話の向こう側で、あゆみが困惑しているのが伝わってくる。あゆみと一緒なら、僕はその人に会ってみてもかまわない。それにしても、あゆみの知り合いで、僕が知らない人。となると、同期入学の頃の仲間だろうか?
「別にいいけど、どんな人?」
「多分柴田さん知らないと思うんだけどね、理学療法士の人なんだ」
これが、古関ヒロヤスくんと僕との、新しい出会いになる。
5.神奈川ゆうらくの里
「おおお本物!」
それが、古関ヒロヤスくんから僕への第一声だった。彼は射抜くように鋭い眼で僕をジロジロと遠慮なく眺め、満足そうに笑顔を見せる。子犬のような顔立ちと人懐っこい笑顔は、あゆみとよく似ていた。
***
後で彼は、
「もうあの時の気持ちは、生まれて初めて感動した映画の監督に会った瞬間だったり、何度も読み返す本の著者に会えた瞬間だったり。そういうのに似てると思うんですよ。とにかく本物見た感動っすよ!」
なんて、大げさ過ぎる褒め言葉を送ってくれたけど。僕にとってあの時の気まずさといったらたまらないものだった。ちなみに、彼は“〜っす”という言葉を使っていて、いかにも若者らしいねと僕が言ったことがある。そうしたら驚くことに、彼は“〜です”と言っているつもりらしい。それについて彼はこう言ったんだ。
「ああ、俺超早口なんっすよ。あ、もしかしてまた言っちゃったかな……」
とにかく古関くんは、早口なうえに滑舌が悪くて、とてもせっかちな性格だった。
***
さかのぼること三十分。僕とあゆみは、約束のファミリーレストラン前で古関くんを待っていた。ギンギンと鳴く蝉の声が響き、頭上では太ったプードルみたいにもこもこした雲の間から覗く太陽がジリジリと地面を照りつける。あゆみは緊張しているのか、お花とトマトの柄が描かれる可愛らしいミニタオルで額の汗を拭いていた。場所と時間は古関くんが決めてくれて、僕らは五分前にたどり着いたんだけど、約束の時間を過ぎても彼はやって来ない。
「ちょっと遅れるのかな」
と尋ねる僕は、心の中でため息を大きく吐いていた。連絡もよこさず、平気で待ち合わせに遅れてくる彼の神経が信じられなかった。というか、その時の僕は、古関くんに対して悪者というイメージしか抱いていなかったし、あゆみを傷つけてさんざんもてあそんだ挙句めんどうになって捨てたのだろう、という邪推さえしてしまっていた。後で振り返ると、“そんなことを考える僕の方がよっぽど悪者だった”と思えるくらいに、古関くんは気持ちの良い青年だったんだけど。
あゆみの携帯にも連絡が無いまま三十分が過ぎ、さすがに待ちくたびれた僕たちが“せめてレストランの中で待とうか”と話を切り出した時だった。国道に面した道路を、ガードレールと車に挟まれながら猛スピードで駆け抜けてくる男が一人見えたんだ。僕は暑さで頭がぐらぐらしていたから、“知り合いにああいう人が居たらちょっと嫌だな、親戚だったらもう凄く嫌だな”なんて思いながら、その凄い形相をして全速力で向かってくる男を見つめていた。すると隣で、あゆみが驚きの表情をつくる。
「あ。来た」
「えええぇ、何あれ? すごく必死な感じだよ?」
「あれがヒロヤスだよ」
僕の左手を小さく揺らして、あゆみが耳元で囁いた。僕が驚きの表情をするより前に、彼は目前に迫り急ブレーキでも踏むかのように立ち止まる。そして、おおおと僕を見て驚いたんだ。
あゆみは“美女”ではないけど、彼は“野獣そのまま”と思えるくらい、シャツの間から覗く筋肉はたくましくてこんがりと日に焼けていた。苦労しているのか、少しこけた頬に狼だか鷲だかのように射抜く瞳があり、野性をかもし出す。学生時代にキャラメルみたいな色だと思っていた髪は、社会人になると同時に卒業したみたいで。真っ黒な髪を本人がどう評価しているか知らないけど、僕はかっこいいなと思った。
「あ、てか遅れてすみません! 初めまして、古関ヒロヤスです!」
「どうも、柴田英介です」
あゆみを挟んで自己紹介する姿は、傍から見ると“結婚の許しを得に来た婿と舅”のように見えたかもしれない。その場合はもちろん、僕が舅だ。だけど、次の一言でその立ち位置が逆転してしまう。
「ああ、英介くん。いい名前っすね、よろしく!!」
そう言って彼は、僕よりも一回り――あゆみよりは二回りも――大きい手を伸ばして握手を求める。なんとなくだけど、あゆみと付き合っていくには彼の許しが無いといけない気がして。もしかしたら今日僕を呼び出したのは、あゆみとの関係をあれこれほじくり返すためかな、なんて思うと引け目を感じた。でも、彼が僕に会いたがった理由は他のことであって、それはあゆみとの真新しい関係よりもずっと深くてずっと暗い部分のことだったんだ。待ちかねたあゆみが“メニュー見てくるね”と言ってレストランに入っていくと、古関くんは眩しく照りつける太陽にも負けない笑顔でこう言った。
「俺、いま『神奈川ゆうらくの里』で働いてるんですよ」
その名前を聞いて、僕ははっと眼を開き、口元をゆるませる。神奈川ゆうらくの里。そこは、かつて僕が介護士として働いていた老人施設なんだ。
「え、そうなんですか?」
「はい。で、そこにベテランのおばさん介護士さんが居て。まあどこの学校から来たのーみたいな話に始まり、英介くんのことちょこちょこ聞いてたんです。んでもう俺、ちょっと感情移入しちゃって……」
ベテランのおばさん介護士さんとは、僕の先輩のことで。彼女は不器用な僕に対して、唯一“英介くん”と呼んで何かと目をかけてくれる、優しい人だった。ただ、それは先輩としての顔であって。実際の彼女はイケメンが好みの若々しい二児の母なんだ。先輩がかっこいい古関くんを気に入って、あれこれ話し出す姿は目に浮かぶようで、僕は“はあ”とため息をつく。
「それで俺、できれば今日聴けたらなと思って。……横山さんのこと」
「いや! ここじゃちょっと」
慌てて顔の前で手を振る僕を見て、古関くんは真夏の太陽の下で笑んだ。優しくて、たくましくもある笑顔に引け目を感じるほど、彼は格好良かったんだ。まるで八月の太陽に愛されているかのように明るく、周りの人を安心させてくれる古関くん。この時から、僕は自分の妄想で作り上げた古関ヒロヤスくんを、自分の目で見た古関ヒロヤスくんに変えていった。
「ねぇ、お腹すいた……早く入ろうよー」
レストランのドアが閉まらないようにと身体で支えるあゆみが、両手でお腹をさすっている。相槌を打ったあとで僕らは約束をした。彼の家で、昔の話をすることを。
次の日、僕は古関くんの部屋にお邪魔することになった。彼の部屋は“ゆうらくの里”の宿舎で、新しく設置されたぴかぴかの建物だ。七階建てのそれは優しい木製の色をしていて、中に入るには鍵と部屋番号を認証する機械――それを認証しないと、自動ドアが開かないタイプだ――が設置されていたし、常に監視カメラが動いていた。
「すごいな、僕の居る時は無かったよ、こんなの」
「あ、マジですか? でも俺の部屋ん中はもっと凄いっすよ」
そう言って古関くんが取り出した鍵には、“温泉戦隊露天レンジャー”なる謎のストラップがついていた。恐らくどこかのお土産物だが、黄色い洗面器に暗殺者のような顔が浮かび、申し訳程度の体が生えているそれは、かっこいい彼には似合わないストラップだ。
それだけでも衝撃的だったのに、彼の部屋はもっと衝撃的だった。玄関を開けると、右に大きな洗濯機、左には風呂場、中央に少し進むとキッチン。その奥にリビングと、更に奥には寝室。一人で使うのが勿体ないほど広い部屋だ。
だけど、洗濯機の上には溜め込んだ服がうず高く積まれていたし、道という道には脱ぎ捨てた服(そのほとんどがひっくり返った状態でくたびれている)やお菓子の包み紙のカスや、いつ読んだんだろう? と思う雑誌がある。一体どこを歩けと? と聞きたくなるほどに、座る場所はおろか歩く余地もない。
「ね、すごいでしょ?」
と聞く彼は無邪気で、僕もひきつった笑顔で頷き返す。
「うん、すごい……」
この部屋の汚さが、すごい。
「あ、ゴキブリ見つけたらこれで適当にやってください」
そう言って彼が取り出したのは、大きい殺虫スプレー缶だった。受け取る僕は驚いて、
「そんなにしょっちゅう出るの?」
なんて聞いてしまう。
「いや、たまーにチョロチョロっと……みたいな感じですよ」
と彼は言うけど、埃のついていないスプレー缶はうんと軽く、短期間で使ったことが見てとれた。彼がこの部屋に女の子を連れて来る日は、遠いだろう。仕方なく僕は、古関くんと一緒に部屋の片付けをしたというわけだ。
一通り整理を終えると、背の低いガラステーブルの脇に僕が座り、そこに古関くんが
「手伝ってもらってすみません、これどうぞ」
と、涼しげな模様の入った青いグラスにウーロン茶を注いで出してくれた。どうやら全く同じグラスがもうひとつ揃えてあるようで、それは古関くんの分のウーロン茶だった。一人暮らしの男が持つには珍しいな、なんて思ってしまうけど。いただいたウーロン茶は、べっこう飴のような色をした水面に、満月のように丸くて白い氷がひとつだけ浮いている。
「綺麗だね……」
「え? ああ、今ちゃんと洗ったから綺麗っすよ?」
「いや、そういう意味じゃなくて。このグラスが綺麗」
働き終えた後のウーロン茶を一口。喉を通るそれは、僕の身体を芯から冷やしてくれるようで、何故か安らかな気持ちになれた。
「美味しいね」
と僕が言うと、古関くんは嬉しそうに鼻の頭を掻いた。
“あ、じゃあさっそく”。そんな前置きの後で、彼は正座をして、少年のようにきらりとした瞳で言ったんだ。
「俺、この前のこと、英介くんの口から聞きたいんです」
「ああ、……たいしたことじゃ」
「いや! すごいっすよ。俺、いつか本物の英介くんと話したいって心から思ったんです」
自分の声にかぶせてくるような古関くんの台詞。僕と古関くんが話すと、やっぱりどうしても古関くんのペースに僕が飲み込まれる。だから僕は、気が進まなくても
「うん……そっか」
なんて呟いて、夏を美しく表現したグラスから唇を離す。
「昔、僕はゆうらくの里の三階フロアで介護士をやってたんだけど。そこには十歳近く下の後輩が居たんだ。横山って言って、ちょうど古関くんみたいに元気で明るくて、ちょっとかっこいい男の子だった。またね、療養者さんとの接し方がソフトでさ。療養者さんのちょっとした表情の違いも見逃さないような、すごい感性を持った子だった」
古関くんは足が痺れたのか、頷きながら正座を崩してあぐらになり、ウーロン茶をぐいと飲み干す。
「三階フロアは、療養者さんが四十人くらい。AチームとBチームで二十人ずつ、二組に分けてたんだけどね。ちなみに僕はAチームで、横山はBチームだった。ほとんどが認知症の人だったけど、軽度で、時々話が噛み合わなかったり、おんなじ話を何回も繰り返しちゃうくらいの人がいてさ。たまに、物盗られ妄想があるとか変な物食べちゃう人とかいるけど、そういう人は違う階に居たんだ。ゆったりした雰囲気の職場だったよ。で、そこにある療養者さんが来てね。……本当は名前出しちゃいけないけど、佐伯てるさんっていう女性で。たしか、八十三か八十四歳くらいだったかな。身なりを綺麗に整えてて、いつもお化粧をしてて、僕たち介護士に“いつもありがとうございます”なんて声をかけてくれる、優しい感じの方だった」
綺麗に整頓した古関くんの部屋からベランダが見えて、その奥に無機質で真っ白な建物が見える。あれが、神奈川ゆうらくの里。僕と横山が、一生かけても忘れられない場所だ。
「その人、足は悪かったけど、車椅子に連れていけば自分でトイレも出来たし、他は何処も生活に問題ないような人だったんだよね。でも、同じ部屋には口うるさい認知症の人とか、ほとんど寝たきりの人とかが居たんだ。佐伯てるさんの部屋はBチームに割り振られてた。横山はBチーム担当の介護士で、てるさんの部屋によく言っては“今日はお化粧きれいですね”とか、窓際に飾ってある植木鉢を見て“あ、お花が咲いたんですか”とか、そんな一声を必ずかけてた。Bチーム担当の人の話だと、てるさんは横山が来ると嬉しそうな顔になるんだって」
へぇー、と呟いて、古関くんはまた正座になる。僕は、美味しいウーロン茶を一口飲んで、続きを話す。
「でも横山は、同じ部屋の寝たきりの人のところにかかりきりになってることが多くてさ。やっぱり寝たきりだと一日のほとんどを介護士がお手伝いするしさ、認知症もだいぶ進んでたし。女の人なのに“やめろよー”とか叫びながらオムツ交換されてて。横山は優しい声をかけながら手早く終わらせてたんだけどさ。……そんな様子を同じ部屋で見てて、綺麗にお化粧をしたてるさんは、羨ましく思っちゃったらしいんだ」
思えば、こんなことを誰かに話したことはない。多分、古関くんに出会わなければ、僕はこれから先も話さなかったと思う。ぐいと飲み干すウーロン茶で熱を冷ます僕に、古関くんが疑問を投げかける。
「羨ましく? って、その寝たきりの人が? 横山さんがつきっきりで居てくれるからっすか?」
「うん、そう。どうやら、てるさんは横山に恋をしたみたいなんだ。でも、控えめな人でさ。明るいお婆さんなんかは“もっとあたしのとこに居なさいよ”なんて気さくに笑うけど。その人はそんな風になれなかったんだね。ただただ、横山に自分を見てほしくて、でもどうすれば良いのかわからなくて」
僕は苦笑いして、咳払いをひとつ。両手のうちでは、ウーロン茶のなくなった氷だけがコロコロと小さく揺れ動いた。
「それで……ある日、“失禁しちゃおう”、って思ったみたいなんだ」
「…………」
古関くんは黙って、いつかのあゆみのように唇を“一”の字に引き結ぶ。僕は空になったグラスにウーロン茶を注いだ。一口すすると、ツンと胃に落ちるそれが高ぶってしまう熱を冷まし、ちょうど良かった。古関くんの部屋から見えるゆうらくの里を見やって、少し物悲しくなる。
「それで横山が来ると、てるさんはすごく恥ずかしそうに、でも横山が来てくれたから満足してくれたみたい。っていうのも、てるさんはそれしか手段が無いと思ってたから、よく失禁するようになっちゃってさ。当然、横山じゃない人もオムツを交換しに行くんだよ。そうすると、ちょっと残念そうな顔をしたって。そのうちね、てるさんはもう、自分で尿や便を止められなくなっちゃったんだ。昔は自分でトイレに行けたのにさ、どんどん機能が落ちていっちゃって。最後には、ご飯も自分で食べられなくなってて。横山がご飯を食べさせてあげるんだけど、食べさせてくれるのが横山なのか、違うのか、そもそも横山が誰なのかすらも、わからなくなっちゃったんだ」
「認知症、進んじゃったんですね」
「うん」
「そっかぁ。……そっかぁ」
はあぁ、とため息を出す古関くんは、本当に無念そうに肩を落とす。例えば彼みたいな人が看護師だったら、僕と横山にも違う未来があったかもしれない。
「それだけでも、横山は辛かったと思うよ。でもね、もっとひどいことにさ。てるさんは食事をまともに飲み込めないから、何度もムセるようになっちゃって、吸引っていうのが必要になったんだ」
「ああ、あの痰とか吸い取るやつっすよね? チューブを口とか鼻から突っ込むやつ」
「そうそう。それはさすがに、僕たち介護士はできないから、看護師がやるんだけどね。てるさんがそんな状態になって、看護師たちは自分の仕事が増えて嫌になったんだと思うんだ。もともと、老人施設に配置される看護師って少ないからさ。その中で仕事するって、大変なことだとは思う。だけどね、てるさんの吸引が終わるたびに、僕たちにわざと聞こえるように“あー、余計な仕事増やしてくれちゃってさ”“本当、とんでもないことしてくれたよね”なんて。そんな風に話したんだ」
古関くんの眉が“八”の字になる。本当にこの青年は、僕の大切な彼女とよく似た表情をする。
「……ひどい。俺、それ言われたら多分泣いちゃいます」
ああ、と僕も苦笑いをする。ガラステーブルに置いてある青いグラスは、汗をかいたように水滴がついて滴っていた。外ではツクツクホーシの濁った鳴き声がせわしく鳴いている。
「実際、横山も泣いてたよ。何度も僕たち介護士とか、看護師とかに“すみません”って頭下げてた。てるさんが亡くなる時まで横山は、ずっとずっと面倒を見てたよ。てるさんは八十六歳で肺炎になって入院してね、そこで亡くなった。横山にとっては、長くて苦しい二年間だったと思う。だから、佐伯てるさんが居なくなると同時に、横山はゆうらくの里を辞めた。ううん、もう介護士そのものを辞めちゃったんだ。その時、あいつは二十七歳だったかな? “再就職は難しいけど、僕に医療福祉の道は難しかったです”って、言い残してた」
「そんな、横山さんは頑張ってたんじゃないんですか?」
そう言ってくれる古関くんに微笑み返した。全く、その通りだと思うよ。僕もそう付け加えたあとで、でもね、と低い声で続けるんだ。
「最後まで、看護師からの視線は厳しかったよ。“介護士の替えなんていくらでも居るんだ”みたいな目で見てて。許せなかったよ、正直、ふざけるなって思った。看護師ってそんなに偉いもんなのかよって。介護士だって、お前たちと同じプロだよって、その時の僕は思っちゃったんだよね。お前たちなんて、療養者さんの心をうんぬん言ってるけど、本当にてるさんの心を見てたのかよって思った」
あの頃の僕は本当に悔しくて、忙しそうにバタバタと走り回る看護師を見るたびに虫唾が走ったし、介護士を虫けらでも見るみたいに眺めて顎で使ってくるたびに腸が煮えくり返りそうになったし、“見てろよ”と思った。
「それで英介くん、看護師目指したんですよね」
「うん。まあ何ていうかね、僕も熱くなると周りが全然見えなくなるからさ。そんな看護師ばっかりなら、僕がそうじゃない看護師になって、いつかゆうらくの里に戻ってきてやるーって。そんな気持ちになっちゃったんだね」
帰り支度を始める僕の前で、正座していた古関くんが泣き出した。ぎょっとしてその広い肩幅に手を添えると、古関くんは右腕で目をごしごし擦り、鼻を大きくすする。
「すみません。英介くん、本当は今日こんな話したくなかったですよね。なのに俺、英介くんに無理強いしちゃって、本当にすみません」
「いや、別に古関くんは無理強いなんてしてないよ? 嫌だったら僕だって話さないし。何て言うのかな、僕の中ではもう消化できたことだったから話せたんだよ」
時間とは本当に不思議なもので、衝撃的なことが起こった当初は受け入れられないことも、ゆっくりと受け入れるようにしてくれることがある。もちろん、そうはいかない時もある。例えば、僕があゆみと一緒に行った実習で受け持った患者さん。彼は、右脚の無い自分を肯定的に見ることはできるかもしれないけど、病気のことは受け入れられないんじゃないか。もちろん、その人の性格とか環境に大きく左右されると思うんだけど。
僕の場合は、時間をかけて受け入れることが出来た。それは、おばあさんをそうさせたのが僕じゃなかったからかもしれない。だけど、もしかしたら横山は今日も、他の仕事をしながらあのお婆さんのことを引きずっているのだろうかと考えてしまう。そう考えるのは辛いから考えないことにしようと思うけど、一つのことばかり考えるのと一つのことだけを考えないようにしようというのは似たようなことで。結局僕は、そんなことをぼんやり考えてしまうんだ。
いくらなだめても古関くんの涙は止まらなかったし、僕の手に伝わる肩の震えを見て“ピュアなんだな”と素直に感じた。そう、古関くんは“適当でいいっすよ”なんて言いながら情に厚くて、ぶっきらぼうに見えるけど他人への配慮は忘れなくて、強そうなのに意外と脆くて、すぐ泣いてしまう。今だって、“どうしてそんなに泣いてくれるんだよ”と言いたくなるほど目を真っ赤にして、泣きしゃっくりまであげている。
ぶはーっと、古関くんが涙まじりのため息を吐く。そして、少しだけ鼻をすすりながら、僕に握手を求めてきた。彼の手は大きくごつごつとしていて、貧弱な僕はつい比べたくなってしまう。この大きな手が昔あゆみの手を握り、あゆみを抱きしめていたのかと、そんなどうしようもないことを考えたりもした。それでも、そんなものを取り払うような熱意が彼から感じられて、僕もそのくだらない感情を捨てる努力をしようと思ったんだ。
「いつか戻って来てくださいよ。俺も待ってますから」
ぐずっと鼻をすする間隔がだんだん狭くなり、ついにはつないでいた手を離して、ティッシュで大きく鼻をかむ古関くん。そんな姿はイケメンな彼のイメージとかけ離れていて。それでもすごく嬉しくて、僕は微笑んで彼の背中を優しく叩くんだ。
「そうだね。だいぶ経験を積まないと厳しいと思うけど、すぐに走って行くから。きっと待ってて」
僕らはそんな誓いをたてて、別れた。
その帰り、眩しい夕陽にさらされて黄金色に彩られる街を見ながら、僕はもう二度と嗅ぐことのできない風を吸い込んだ。“今日を忘れないぞ”なんて思いながら。堂々と建つゆうらくの里は、憎たらしいほどに美しく映えている。古関くんの部屋から出た僕は両手の拳を握り締めて、踵を返した。
6.破滅の音
僕とあゆみの別れはあっさりとしたものだった。“好きだけど理由があって別れる”だなんて、ドラマのような展開とは違う。飲み残したコーヒーを流し台に捨てるような、ごく当たり前で冷え切ったものだった。
***
二〇〇八年、八月二十五日。僕とあゆみが別れてから半年が経とうとしている。車の窓から覗き見る夜空には細い月が白く浮かび、その周りを真珠のような星がまばらに囲っていて。不覚にも、一年前のあゆみの瞳を思い出してしまった。外灯にのみ照らされる木々と闇に潜む田んぼからは、夏の虫と蛙の声とが交差する。
「山の中だから、うるさくて夜眠れないの」
なんてあゆみが笑ってくれたのは、いつだったんだろうか。エアコンのきいた車内でブレーキランプを踏む僕は、ラジオの音声を下げる。ぱっ、と右方向から光が入り、十字路に入る大型トラックを見送って青信号に迎えられる。隣の助手席を温める人は半年経った今でも現れないけど、僕は後悔をしているつもりもない。もともと僕とあゆみとは付き合うべきじゃなかったんだと、今なら思える。
あゆみと付き合っていた時期を振り返って、認めたくない事実があるとすれば、それは“僕は自分が嫌な奴だなんて思いたくない”という、それくらいのものだと思う。僕らの別れはごく単純で、僕があゆみに冷めたのだ。
***
二〇〇七年、看護学生三年目の秋は、地獄のライフスタイルだった。実習、実習、また実習。終わってもやっぱり実習。と立て続けに実習が続き、先が見えないまま疲労ばかりが溜まる。
看護学生の実習中のライフスタイルは特殊かもしれない。要領の悪い僕の例で挙げると、朝五時には起床して、六時には家を出る。八時から実習が始まって、だいたい十七時には実習施設を出る。十八時頃に帰宅して、いつ倒れても大丈夫なようにお風呂と食事と洗濯と歯磨きと明日の準備(制服を鞄に入れるなど)を済ませる。十九時頃から記録開始。大体終わらせる前に眠気がくる。二十三時から二時まで寝る。慌てて起きる。四時か五時に記録が終わって印刷をする。顔を洗って朝食を食べて、六時には家を出る。
と、まあ大体こんな感じだった。この生活が三つ分も四つ分も――だいたい四ヶ月くらい――続いたらさすがに身体も慣れて、苦痛でなくなるんだから不思議なものだ。
とにかくそんな実習と実習の間に学校で会った日に、あゆみの様子がいつもと違った。グループメンバー達と少し離れて息苦しそうにするあゆみは、よく見ないと気づかないくらいの微妙な違いがあって。最初は、“髪が伸びてきたから印象が変わっただけかな”なんて思っていたけど、どうやら違ったらしい。どんぐりと枯葉がプリントされたミニタオルを握り締め、何か思いつめるような表情をするあゆみは、廊下から窓の外をぼんやりと眺めていた。夏休み明けの実習でやつれたせいか、“華奢”という言葉をそっくり表したような体型と、瞬きひとつしない横顔はなんだかマネキンを思わせるんだけど。その中で、鎖骨を浮かばせて上下する胸と、肩まで伸びたストレートの髪だけがほのかに甘く香り、唯一“命ある人間”への鍵となっている。
僕は、ガラス越しの空を見つめる彼女の横に並ぶけど。そのことにも気づかず、ただただ分厚い雲に覆われた灰色の世界を彼女は見つめている。頭上の電球はもう寿命がきているのか、点滅しながらブブブ……と頼りない音をたてて、時々強く光ってはパチリなんて音を出す。
「どうしたの?」
と声をかけると、彼女はびくりと肩を震わせてこちらを向き、大きな眼で僕を捉える。その動きは風がくるほど素早くて、こっちが驚いた。怯えるように僕を見たあゆみは徐々に表情を緩ませていく。きっと全身の力が抜けたんだろう。やっと開放されたどんぐりのミニタオルは、ぎゅっと凝縮された形のままだ。
「……えーちゃん……」
“えーちゃん”という呼び方は、付き合い始めた夏の終わりから始まった。英介の“英”をちゃんづけしたんだ。それは秋になっても冬になっても……別れの春が来た後も浸透しつづけている。僕は、あゆみに優しく笑いかけた。
「辛いことあったんでしょ」
「あは、何でわかっちゃうかな……」
「そりゃわかるよ、すぐわかる。次の実習何? 外科か小児じゃなかったら、ご飯でも食べようよ」
「次は……母性だけど」
「じゃあ大丈夫?」
「ううん、私の予定は大丈夫だけどさ。えーちゃん、次の実習、精神でしょ? 事前学習が半端なく多いからさ」
僕の学校では、内科実習や母性実習は3週間ずつなんだけど。外科実習は4週間だったし、小児実習は他の実習よりも始まる日が一日早いとか、在宅実習は終わる日が一日遅いとか。それぞれの実習の特徴に合わせて若干のズレがあって。だから、違うグループの僕らが予定を合わせることは大変だったんだ。実習は始まる前に事前学習といって、これから行く実習に必要な知識を勉強して、終わった後は事後学習といって、自分たちが実習で学んだことを更に深めるといった作業があった。僕がこれから行く精神実習は、数ある実習の中でも事前学習が一番多い実習と言われていたんだ。それらが提出できない人は、実習をさせてもらえなかったり――患者さんのことに関わるんだから事前に調べておくことは当たり前なんだけど――、実習が終わっても単位をもらえず合否を職員会議にかけられた人だって居たからすごく大切なことだった。
でもこのときの僕は、とにかくあゆみの心のつっかえを取り除こうとしてしまったんだ。
事前学習の提出は明日だけど、もうほとんど済ませているから大丈夫だろう、なんて甘く考えていた部分もあった。
「ああ、でも大丈夫だよ」
なんて、後先考えず口にしてしまったくらいだ。
***
駅前のファミレスは安っぽい印象が強かった。紅茶色の照明――おそらく高級感を出すためにつけたのだろう――の横には、丸文字で“♪ドリンクバーコーナー♪”なんて書かれた看板があって、かえって安っぽさを強調してしまっている。通されたのは、窓側の禁煙席。ペンキでも塗りたくったような赤いソファに座ったあゆみは本当に落ち着きがなくて、グラスの水に唇をつけたり離したり、行き場の無い手をあちこちに動かしてみたりしている。そのまま二十分が経過して、窓越しに見る灰色の空はあっという間に暗くなる。窓に自分の姿が映るようになったあたりから、僕は“残りの事前学習を早く終わらせなくちゃ!”とだんだん焦ってきて。更に十分が経過しても一向に話を切り出さない彼女に腹が立ち始める。
「今なら、言ってもいいよ」
そう言う僕の笑顔は、裏側に“なんで何も言わないんだよ”という怒りにも似た感情を抱いていて。彼女は申し訳なさそうに俯くと、
「なんか……悲しくなっちゃってさ」
と栗のイガのようなまつげを伏せて言った。その後ろで、墨を塗ったようなガラス張りの窓に、首を傾げる僕の姿が映る。不思議そうな視線にさらされて緊張したのか、目線を泳がせるあゆみは、ため息交じりに話し始める。光沢のある水色のワンピースが、それに合わせて小さく揺れた。
「今ね、老年と在宅の実習が終わったの。私さ、性格上おじいちゃんとかに人気が出るから、自分に合ってるかなって思ってたんだけど……違った。老年とか在宅の実習が終わって……本当に本当に酷いと思うけど、寂しくなって、悲しくなっちゃったんだ。えーちゃんは寂しくならなかった?」
僕はうーんとファミレスの天井を見上げる。老年施設で働いた時や、在宅の実習に行った時。僕は、寂しいなんて思ったことがあっただろうか? もしかしたらあったのかもしれないけど。でも次の瞬間には、それはそれと割り切って行動したような気もする。寂しくてもそれが現実なら、自分が適応していくしかないと思ってきた。未来に続かない過去は無いというなら、そういう割り切ってきた過去で今の僕は出来ている。
「特に……。老年はまだ行ってないし。在宅は終わったけど、悲しくはなかったかな。逆に興味深いって思ったけど?」
老年実習は、介護療養型病床と呼ばれる場所で暮らす高齢者を“看護”する実習で、患者さん達は長期入院している方が多かった。そこで暮らす方々は、関節が曲がった状態のまま固まってしまっていたり、認知症が進んでいたりと様々だったけど、ほとんどがもう退院できない方々だろうと思う。
そっか、と悲しそうに笑うあゆみが話を続ける。
「受け持ちの患者さん……あ、老年の患者さんね、認知症だったの。お話しててもさ、ナースステーションに血圧計を取りに行って帰ってくるともう、話の内容忘れちゃっててさ。認知症だから仕方ないなって思ったの。でもね、その人のベッドサイドに写真があったの。中年の女性と、小さい女の子の写真。その患者さんを挟んで一緒に映ってたんだ」
「家族だ」
と推理する僕に、あゆみは細くて柔らかい髪をさらりと揺らして、弱々しい笑顔で頷く。
「そう。患者さんの家族……。でもね、その患者さんに“娘さんですか?”って訊いても“さぁ、誰でしょうね”だって。“私の娘かしら?”だって。普通の病棟ならさ、患者さんの家族の方って、毎日じゃ難しくても一週間に一回以上は来てくれるでしょ? でも違ったの。療養型病床で五年以上入院してたせいかな、わからないけどさ。一ヶ月に一回、来てくれるかくれないかくらいなんだよ? でも、その患者さんはそのこともわからなかったの。それでも昔のことは覚えててさ。もう高齢の方だから、戦争時代の話とかいっぱいしてくれて。きっと、いっぱいいっぱい辛い経験を乗り越えてきた人だったと思うの。それでも、その先で出会えた幸せなこととかをだんだん忘れてきちゃって。昔の辛いことはいつまでも残って、家族も来てくれないし……なんかもう……私が辛くなっちゃって」
ここでもまた、彼女の癖が出てきた。すぐに混乱してしまって、話にまとまりが無くなってくるのだ。このままだと泥沼にはまっていきそうなので、僕は明るい方向に話を持っていかないと、とまた焦り始める。
「ううーん、でも仕方ないよ。多分、自宅で介護するのが困難だったりとか、それぞれの家庭の事情もあるし。やりきれなくなるのは僕もわかるけどさ……」
それ以上何も言えない僕に微笑むあゆみは、はあ、とため息をつく。
「その患者さんの隣のベッドの人ね。認知症じゃなかったの。病棟全体が認知症の人が多くって、それでもその人は違ったのね。“こんなところに居ても生きてる意味なんて無いと思うよ”って言ってた。“そんなこと無いですよ”って口で言っちゃったけどさ、でもね、本当はわかる気がしたんだ。毎日毎日、変わるのはお天気と、外の景色の見え方くらい。看護師さん達も忙しいし、話す相手も居ないし、お風呂に入れる日は決まってるし、……病院の一日のスケジュールに、患者さんが合わせるしかないの」
僕が何を言っても、あゆみは明るくなれない気がして。僕は“そっか”なんて話を聞いて腕時計に目をやり始めていた。本当は、次の実習準備にあてる時間が無くなっていくことに焦りを感じながら。
在宅の実習だってさ、と話すあゆみの目じりから、うっすらと涙が零れていた。
「受け持ちの療養者さん……癌がいろんなところに転移しちゃっててさ。それまで自分は健康だと思ってたのに、検診でひっかかって病院に行ったら手遅れだったって。すい臓がんでさ、肝転移、骨転移とどんどん進んで、三ヶ月の間に寝たきりになったの。三ヶ月だよ? たった三ヶ月で人生が大きく変わっちゃったの」
僕は医者じゃないけど、こんな言葉を聞いたことがある。“膵臓は沈黙の臓器だ”って。膵臓に疾患がある人は、自覚症状があまり無く、気づいた時にはかなり病状が進んでいるということがあるらしい。あゆみの担当の在宅療養者さんはそれだったのだ。悪いことに癌が骨転移してしまったということは、恐らく脊髄を通る神経を骨転移した腫瘍が圧迫してしまって、その部分より下側の神経が麻痺してしまったんだろう。例えば胸に転移したらお腹や足の感覚が無くなって、歩くことが出来なかったり、自分で座っても姿勢を保てなくなる。こんな具合だ。自分は健康だと思っていたら実は膵臓癌で、三ヶ月で麻痺が起こり歩けなくなり、癌の痛みが体を襲う。想像がつかないけど、きっとすごく苦しくて、絶望したくなるのだと思う。
あゆみは、茹でたマカロニのように白くて細い指を丸めて震えだし、息苦しそうにする。睫の間から、雫がわぁっとあふれ出る。ゆでたまごだか白桃のような色白の顔は、生まれたての赤ん坊のように真っ赤だった。
「何ヶ月か前までは自分が健康だって思ってたのにさ。その頃のスキーしてた写真とか水連の花と一緒に写ってる写真が飾ってあるんだけど、それ見て“悪いけどその写真しまってくれないかな”って笑ったの。悲しそうだった。旦那さんがまた明るい人で、介護にすごく熱心な方だったんだけどね。看護師さんはそんな旦那さんを心配してた。“気を張りすぎてるんじゃないか”って。なんかね、わかる気がした。だって患者さん、よくならないもん、仕方ないよね、病気だもんね。でもさ、人って三ヶ月でそれを受け入れられるほど強いのかな?」
何も言えない僕は、あゆみの中の“危険”を感じた。でもそれ以上に怖かったのは、“僕の中にも危険がある”ということを実感してしまったことだ。早い話が、“彼女の話にこれ以上付き合っていられない、黙ってほしい”と思ったし、“お願いだからそれくらい割り切って考えてくれよ! 強くなってくれよ”と怒鳴ってしまいたい衝動にかられたんだ。
そわそわとせわしなく、グラスの水に唇をつけては離すあゆみの癖が、僕にも移ってしまいそうだった。
いらいらとしてうなだれる僕の仕草を、彼女はどう感じたんだろうか?
「他の療養者さんのところは、十年以上も介護をしているお家に行ったんだけど……療養者さんの奥さんも娘さんも険しい顔してた。看護師さんも“長年の介護疲れで訪問看護を依頼された方だから”って、看護師と学生が居る間だけでも家族に休んでもらおうって話になったの。その時に思ったんだ。受け持ちの患者さんの旦那さんもさ、長年介護をしていくうちにきっと変わっていっちゃうんだろうなって。今は療養者さんと笑い合って介護してるけど。きっと先が見えなくなって、疲れて変わっちゃうんだろうなって。そう思ったらすごくすごく悲しくなっちゃったんだ」
在宅の実習では、学生は十軒以上の家を訪問することができる。そこで、それぞれの家庭にある患者さんや家族の人生を思って、あゆみは涙を流していた。多分、混乱してしまっているんだろう。涙を流すあゆみは冷静さを失って、どんどんと話のまとまりが悪くなっている。
遠くで誰かが会計の呼び出し音を鳴らす“ちーん”という音が響かなかったら、僕はきっと彼女にひどいことを言っていたと思う。何故かわからないけど、一刻も早くこの時間が終われば良いと思った。からからに乾いた喉から搾り出すように“もうやめて”と僕は言ったのに、声にならない願いは彼女に届かなかった。
「私たちができることって、何なのかな? 患者さんと同じ気持ちになんてなれないじゃん。わかりたいけど、支えられるほど自分が強くないことも痛感して。でも苦しいのは患者さんだけど……私がこんなにヒロインぶっちゃいけないんだけど……」
「もういいよ」
僕が口を挟むと、あゆみはハッとして顔を上げた。そして落ち着いたように、だけどやっぱり悲しそうな表情をした。あゆみは昔からそうだった、神経が細いというか心の穴が大きいというか……感性が変なところで鋭くて。だから、自分が傷つかなくて良いところで傷ついてしまうし、余計なことをたくさん考えてしまうんだ。僕はそれを支えられると思ったし、守ることができるなんて思っていたのに。
でもこの時の僕は、あゆみを見ていて怖くなった。逆に言えば、不安定な人といることで自分の弱い部分がかき乱されそうな思いもあった。こんなことを言えばどこまでも嫌な奴だけど、今までの僕はあゆみと自分との間に一線引いていたのかもしれない。あゆみの不安定さが僕に移ることは絶対にない、なんて。
とにかく、この時、不安定なあゆみを支えることなんてできるのだろうかと、僕の中で不安が渦巻き始めた。そもそも僕とあゆみには十八歳のも年齢差があって。日本の平均寿命から計算すると――全てが教科書通り、統計通りにいったら苦労はしないけど――あゆみは僕より二十五年も長生きする計算になる。ああ、とても無理だ。残りの人生を全て使っても、僕はこの子を支えることなんて出来ない。それに、僕は自分自身に余裕が無い時や辛い時でも、あゆみを支えきる自信なんて無い。廣瀬あゆみを守りきれるだなんて、そう思うこと自体が傲慢なことだったと気づかされたんだ。
好きだと思うのにはじっくりと時間がかかったのに、冷める時はどうしてこうもあっけないんだろう。それとも、僕は前々からあゆみのどこかがひっかかっていて、その不満の点が線として結びついたのが今日だったんだろうか。とにかく、あゆみと居る時間が苦痛で苦痛で、仕方なかったんだ。
――私と付き合うと、きっと苦労しますよ?――
脳裏をよぎるのは、沈む夕陽を眺めがら聞いた、あの夏の日の言葉だった。その本当の意味が、やっと僕にも理解できた気がする。あゆみはきっと、僕らがいつかこうなってしまうかもしれないということに、もっとずっと早くから気づいていたんだろう。
彼女の言う“尊敬して”いる“柴田さん”なんて男は、何処にも居なかったのだ。居たとしたらそれは、善人の顔をしたひどい詐欺師だったのかもしれない。
僕の中で、ゆっくりだけど確実に、何かが崩れ始めた。
――ちゃん、えーちゃん。と、マシュマロのように柔らかい響きを持った声が遠くから聴こえた。
「えーちゃん? ね? 大丈夫?」
僕を覗き込むあゆみの、栗のように大きく深い色の瞳に、年老いた男の顔が映っていた。何かを失ったばかりのそれは、世界で一番腑抜けな顔だったと思う。口角を持ち上げようとするのに、不思議なんだ。まるで長い間動かしていなかったかのように、頬の筋肉がスムーズに動かなかった。結局僕は、ギクシャクと音を立てるように頬の筋肉を持ち上げた。手の甲で眼を擦るふりをする。
「うん、ごめん。ちょっとぼーっとしちゃったみたい」
「ごめんね、疲れてるのに……。でも、えーちゃんが聞いてくれたおかげでなんか元気になれた、ありがとう。もう帰ろっか」
「そうしよう」
この日が、僕があゆみに笑顔を向けられた最後の日だった。
7.バイバイ
もしも、僕に強さがあったら、あゆみと一緒に居られたんじゃないだろうかと思う。でもその場合、僕は自分とあゆみとの関係を恋愛関係だと誤解し続けていたかもしれない。とにかく、僕は強くなかったし、あゆみと僕とは恋愛関係になるべきじゃなかったと感じている。彼女と一緒に居るのが僕なら、二人で共倒れになってしまうからだ。
一度、古関くんと電話で話したことがある。あゆみと別れた後、どう思ったか、何を考えたのかとか、そういうことだった。古関くんは電話越しで、あははっと明るく笑いながらうーん、と話を引っ張る。
「これ、英介くんに言わないようにしようって思ってたんだけどなー。でも言おっと。あいつ……なんつーか、病気っぽいとこあるじゃないすか。だから俺、怖かったんですよね。距離が近づくと、見たくない部分までまざまざ見ちゃいそうで。結局俺は、病気っぽいとこ含めてのあいつを受け入れられなかったっていうか……あ、言ってることわかりますか? とにかくそんなんで、俺はあいつから逃げたんです。最初は絶対守るぞーなんて思ってたくせに、まじ情けないっすよね」
僕の気持ちをそっくりそのまま言葉にしてくれる古関くんに、この日ほど感謝したことはまだない。全くもってその通りなんだ。僕は、これ以上あゆみと近づけば、彼女の悪いところしか見えなくなりそうな気がした。それが、怖かったんだ。
「あーやべ、俺、ちと眠くなってきました」
「え、何? ひょっとして酔ってるの?!」
缶ビール一本だけっすよ。なんて言う彼は、声を聞くだけで眼がトロンとしているのが想像できた。
***
月日はさかのぼり、看護学生三年目の十二月中旬。実習が全て終わった時、僕が思ったことといえば、“本当に終わったのかな”ということだった。実習が終わる前までは“終わったら達成感が来るのかな”とか“最初に何をしようかな”とか、そういうことを思っていたのに。いざ終わってしまうと、まだもう一つくらい実習がありそうなモヤモヤとした気持ちが残る。だけどそんなことは無くて、俗に言う“休み”が看護学生の僕らに訪れたんだ。
実習グループのメンバー達との打ち上げに参加して、皆と飲み会をする僕だったけど、あゆみからだけは避けるように動いていた。あゆみに会ってしまうと、僕はイライラしたし、怒鳴ってしまいたくなる気持ちを抑える日も増えてきた。あゆみに会うことで、僕の中にある“危険”も大きくなっていったんだ。“好き”とはほど遠い感情になった僕に気づき始めたのか、あゆみも僕と話す時はだんだんと眼を合わせなくなってきた。話しても、僕らには笑顔なんて無かったし、……あの夏の時のようにときめくことなんて勿論なかった。むしろ、感情の起伏でさえ失ってきてしまう程だった。
「恋愛は、どちらか或いはお互いの気持ちが揺れ動いていないと成立しません」、なんて無理難題なことを言われてしまったら、僕らの恋愛はとっくのとうに終わっていただろう。
「もうすぐ、クリスマスだね」
学校からの帰り道。冷気で凍りそうなアスファルトと、コンクリートのような色の空に挟まれた空間を、僕らの薄汚れたスニーカーが通り抜ける。この日の僕らは似たような格好をしていた。厚手のコートに、ぐるぐる巻きにしたマフラーと青いジーンズ。クレヨンのように濃い青色のマフラーに鼻まで顔を埋めているあゆみは、
「そうだね」
としか返せなくなる僕を見ないで、少しだけ笑った。卒業式のためにと伸ばし続けた髪を寒風がいじり、さらりと音をたてる。
「私ね、小学四年生まで、サンタさんは絶対に居るって信じてたんだ」
「そうなんだ……」
うん、と小さく頷く彼女の視線は“本当はそんなこと話したいんじゃないんだよ”という色を宿しながら、アスファルトの上をさまよった。あんなに寂しそうな横顔を、どうして僕は突き放せたんだろう。
「お父さんとお母さんの演出がすごく凝っててね。寝る前にさ、サンタさんに手紙を書いて枕元に置いておくの。プレゼントを枕元に持って来てくれるお礼に、ね。でさ、手紙と一緒にね、人参を置いておくの。トナカイさんが食べるからって。するとね、プレゼントを置いたお父さんがそれをガリッて食べて行くの。起きたらかじりかけの人参が残ってるわけ。だから私、“あーサンタさんが来たんだなー”なんて思ってて……」
「すごいね」
「すごいでしょ」
しばらく続いた沈黙のあと、あゆみは少し笑んでから、
「今年は……家族と過ごそうかな、クリスマス。来年から社会人になって、一緒には過ごせないんだし」
なんて言っていて。僕は内心“助かった”なんて思いながら、
「そっか。そうだね、それが良い」
と、白い息を吐き出した。
「うん……。あ、あのさ、元旦は一緒に居られる?」
「いや、僕の家は元旦に親戚が集まるから、そっちに行くよ」
「そっか。そうだよね、毎年恒例で親戚が集まるお家って、あるもんね」
「うん」
狐と狸の化かし合いのような嘘を平気で言える僕は、どこまでも薄汚れていたと思う。心のどこかで僕は、いつ別れ話を切り出そうかとか、別れ話で泣かれたら面倒だなとか、僕が居なくなってもあゆみはたくましく生きていけるだろうかなんて。そんなことを考えていたんだ。僕らの関係は、火のついた導火線のように、タイムリミットまでの時間を確実に刻み始めていた。
実際のところ、クリスマスも元旦も予定の無い僕は、ひたすら国家試験までの時間を勉強で埋めていた。時々、友達や学校のメンバーと連絡をとりながら。あゆみとは、休みの間ほとんど連絡をとらずに、僕らはあっさりと国家試験を終えて、自分たちでも実感が湧かないまま卒業の日を迎えた。
***
卒業式の日。味気ないほど一般的な黒のスーツに身を包む僕は、先生方や友達と一緒になってたくさん写真を撮った。でも、淡いピンク色の振袖に、さつま芋の皮のような赤紫色の袴を履くあゆみとは一枚も撮らなかった。卒業証書授与を終えて、望遠鏡のような丸い筒を持つ僕は、あゆみに声をかけた。
「一緒に帰らない?」
彼女の大きな目が僕を捉えて、くるくると回った挙句、首を横に振った。
「今日は……親も来てるから」
「じゃあ、家に帰ってから電話するよ」
僕が話そうとしていることがわかったのか、はっとしたように目を開くと、あゆみはもう一度首を横に振った。
「それは……やだ。ごめん、親には先に帰ってもらうから。やっぱり、一緒に帰ろう」
結局、僕らはぱりっと晴れた空の下を並んで歩いた。国家試験に向けて勉強していた時は、十七時を回ると外は真っ暗になっていたのに。梅の花びらが優しく踊る頃には、十七時になってもいつかのように夕陽が僕らを照らしてくれていて。もう歩かないかもしれないアスファルトの上にうっすらとした影法師を二つ作った。
こんなに清々しい空気なのに、僕は彼女を突き放しきれない自分への苛立ちや、“泣かれたらどうしよう、面倒くさいな”という思いとで、気が重くなっていた。隣に居るあゆみは、影法師の映るアスファルトを見て歩いている。袴に似合うようにとまとめ上げた髪の下、ほっそりとした雪白のうなじがあらわになっていた。
「あゆみ……こっち向いてよ」
何度か瞬きをした後、あゆみは僕の方に顔を向けた。久しぶりに見た顔からは、今まで僕を苛立たせていた“彼女の迷い”が消え飛んだようにさえ見えてくる。お菓子の材料のように、白くてふわふわとした肌も、ゼリービーンズのようにぷりぷりとした桜色の唇も、厳しさを感じさせない柔らかい輪郭と鼻筋も。そして、覚悟を決めたような目も。クリスマス前とは別人のように、すっきりとして見えて。その美しさ、清々しさのせいか、僕の唇は笑みをかたち作った。
「何言おうとしてるか、大体わかるよ?」
その声も、秋の――在宅と老年の実習を終えた後の――頃とは別人のように、凛とした張りと透明感を持ち合わせていた。恐らく、彼女の安定が僕にも伝染したんだ。
「そっか。本当に?」
と聞く僕の精神も、大地に根を下ろす大樹のような安定感を保っていた。あゆみはそれにこくりと頷き、“もうお別れなんでしょ”と、そういった意味のことを話していた。
「うん。……余計なことまで上手く言えないけど、これからはお互い、別の場所で生きて行くのが良いと思うんだ」
もう一度、こくりと頷くあゆみは、泣き出しなんてしなかった。それは僕が予想していた反応とは違っていて。“お願いだから行かないで”“えーちゃんが居ないと私はもう駄目なの”なんてことも言わなかったんだ。ただ一言、
「今まで、ありがと。楽しかった」
とだけ言い残していた。
駅に着くと、僕とあゆみは別のホームへと歩き出した。
僕ら二人の関係はここで終わり、もう連絡はとっていない。
***
「古関くんってさ、どうしてまだあゆみと連絡とってるの?」
卒業後の僕の問いに、古関くんは困ったように笑った。
「……自分でもよくわかんないっす。ただ、ほっとけないんですよね。もう好きじゃないのに。俺と別れた後のあいつが、上手くやっていけてんのかとか、めちゃくちゃ気になるんっすよ」
“俺、若干ちょーしに乗ってますよね!”なんて、真夜中のコンビニのように明るく笑う古関くんだけど。この時の僕は、彼の言っていることの意味がよくわからずに首を傾げていた。
「そいや、英介くん、春からは“ゆうらくの里”に就職するんですか?!」
「いやいや、だから一年目からは無理だよ。でも、“ゆうらくの里”の隣の病院で働くんだ」
「おおお! 近い! 嬉しい!! ふははははは……」
「だいぶ酔ってるみたいだね……」
古関くんは、面倒見が良いからそう思うのかな、と思っていた。だけど不思議なもので、半年立った今では僕も同じような状況になっている。でも、それはお互いを壊すほどに強く求めてしまう恋愛感情とは違う、もっと大きくて優しい何かだと思う。もしかしたらだけど、保護者が子どもを愛するように、僕はあゆみを愛しく思い続けるんじゃないだろうか。
あるいは。
あの時の横山が、ボロボロになっても、最後までてるさんの傍に居たような感覚なのだろうか。
#1.
二〇〇八年、八月二十五日。
私は、国道沿いのコンビニに車を停めると、紙パックのウーロン茶をレジに持っていく。
「いらっしゃいませ!」
と声を弾ませる店員さんは、狐みたいな色の髪の下で、鋭い八重歯を覗かせて、ウーロン茶にバーコード読み取り機をピッと当てた。誰かに似ている。誰だろう? そして私はその答えにあっさりとたどり着く。昔付き合っていた彼氏――古関ヒロヤスに似ている。
ヒロヤスに似た店員さんはウーロン茶をビニール袋に入れて、必要以上に長いストローを添えて渡してくれる。それを受け取って車に戻ろうとした時だった。
駐車場に、見慣れた古い車があったんだ。そしてその隣では、小さな背中をした男性が空を眺めながら電話をしている。真っ黒でツヤの無い髪も、色の落ちたジーンズも、全てが一年前の姿と重なる。見間違いようのない、あの人。
「……えーちゃん」
どうして? どうしてえーちゃんがここに居るの? 神奈川に居るはずでしょ? ヒロヤスの職場に隣接する病院で看護師をしてるはずでしょ? どうして、どうして? 本当に本物のえーちゃんなの?
両開きの自動ドアを挟んだ向こう側では、丸めた背中を小さく揺らして楽しそうに電話している男性。もしも今彼が振り返ったら、私の存在に気づいてしまう。透明なガラスのドアを開けて声をかければ気づいてしまう。そんな距離にまで、えーちゃんが居る。でも……できない。
私は自分を、臆病な卑怯者だと思う。出来ないと思いながらも、本当は、えーちゃんに振り向いてもらうことを願っている。そして、いつかそうしてくれたみたいに「あゆみ」って名前を呼んで、手を振ってくれることを望んでいるんだ。でも……できない。
愛しい人の後姿が、ぼんやりと霞んで見える。暖かい液体が瞳から溢れて、頬に筋を作った。やがて小さいエンジン音とともに古い車の姿が小さくなり、見えなくなってしまった。コンビニの外に出ると、暗がりの道にいくつものブレーキランプが浮かび上がり、どれがあの車なのかさえもわからない。ふと見上げると、星の美しい夜空が広がっている。白い三日月は沸騰したように揺れて見え、私の喉からは言葉にならない小さい声が上がる。
「私が……甘えてたからだ」
私は甘えていた。えーちゃんの優しさに、ぬるま湯に浸かるように甘えていた。えーちゃんを守ろうだなんて端から考えていなかった。だから、えーちゃんと一緒に居られなくなったんだ。
ブブブブブ、ブブブブ……と、レンガ色の鞄の中から振動が伝わる。慌てて鞄に手を突っ込み、味気の無い白い携帯電話のディスプレイを見ると、白い液晶画面に映った文字に眉をひそめた。
――古関ヒロヤス――
***
三日後、夜勤明けの眠い眼を擦りながら私は、アパートにヒロヤスを招き入れることになっていた。
「おー、お前立派に一人暮らししてんじゃん。鶏のエサでも食って生きてるのかと思ってた」
と、ジロジロと遠慮なく私の部屋を見るヒロヤスに胸を張って
「へへへ、どんなもんだい」
なんて言うと、“今更そんな言葉使うのオメェぐらいだぞ”なんて毒舌が返ってきて。ムッとする気持ちがあっさりと表情に出てしまった。彼の目線が、部屋の隅にあるクリーム色のベッドに向かうのを見て、内心ドキリとする。ヒロヤスはそういう人じゃない、と思いながらも、元彼の中には身体の繋がりだけを継続したがる人が居たからだ。
「あ、ついでに言っとくけどさ? 私その……ヒロヤスとするつもり無いよ?」
ワンテンポ遅れて、“ぶほっ”と大きな声で噴出すなり、ヒロヤスはすっかり陽に焼けて外人さんになったような顔だちをくしゃりと潰した。幅の広い背中が、げらげらという笑い声に合わせて、苦しそうに上下している。
「お前、どんだけ自惚れてんだよ。その身体抱きたがる男が居るかっつの。ガリ過ぎだっつの。起伏も色気もクソも無いだろそれ」
ヒロヤスの目的を勘違いしたことが恥ずかしくて、私は身体中の熱が顔に集まるのを感じながら、精一杯反論したんだけど。ヒロヤスはいまだに腹の底から湧き上がる笑いをこらえようと、痙攣する腹部にゴツゴツした手をあてる。
「うん、うん、あのねぇ? 頼まれたってお前では満たしません。てかお前、英介くんの前でどんだけ猫かぶってんだって話っすよ。明らかにこっちが本当のキャラだろ、こっちがマリオだろ。英介くんの前で可愛くもねぇルイージ演じやがって……」
えーちゃんの名前が出てきて、何も言い返せなくなった私を見て、ヒロヤスの顔から笑いが消えていく。代わりにばつが悪そうな表情になるのが、申し訳なかった。真っ黒になった髪をぐしゃ混ぜにしながら、ヒロヤスは“悪ぃ”なんて言うけど、一度口に出した言葉はどう頑張っても元に戻せなくて。“もういいよ”なんて笑う私も、落ちたテンションを元に戻せなくて、私たちを取り巻く雰囲気は可愛らしいインテリアでも変えることが出来なかった。
「やっぱその、引きずってんのな、英介くんのこと」
「……だからさ、ヒロヤスに会うの、本当はいやだったんだよ。やっと忘れられると思ったのに……よりによって昨日電話しないでよ」
「昨日? 何か特別なの?」
ヒロヤスはカレンダーの八月二十五日を見るけど、その日の思い出はもう話したくなんてない。
「別に。てか、早く用件言ってよ」
苛立ちを出す私にムッとしながらも、ヒロヤスは用件を正直すぎるほど正直に伝えた。
「昨日英介くんから電話あったんだよ。“あゆみ元気かな?”ってさ。俺適当に“あー元気っすよ〜”なんて言っときながら、ぶっちゃけお前と連絡したの四月以来一回もねーじゃん。焦るじゃん。七月に干からびて死んでましたとか、シャレになんねぇじゃん。だからな、様子見がてらな」
なんて、えらく説明くさい口調で話してくれた。新聞の三面記事でも気取ったのか、ご丁寧に“猛暑続くせいか、相次ぐ変死!”なんてタイトルまでつけていて、うんざりした。
「別にいーじゃん、そんなのさ……気まぐれでしょ、どうせ」
私が付き合う人って、どうしてこんなに勝手な人ばっかりなんだろう? と思ってしまう。付き合う時は“絶対に大切にする”から始まって、分かれる時はしれっとした顔で“やっぱりもう終わりにしよう”なんて。そのくせ、時間が経つと“元気かー?”なんて、親戚のような顔をして様子を見に来る。
「お前、俺の前だととこっとん性格悪ぃーし。英介くんの前でもそのくらい素直で良かったんじゃね?」
触れてほしくない“英介くん”の話題を散々出されて、胸の奥から湧き上がる感情が抑えきれなくなっていく。そして私は、堰が切れたようにわっと語りだす。
「仕方ないでしょ。学校のことだってあったし、本当にいっぱいいっぱいだったの。今年で卒業しなくちゃって思ってたし。ヒロヤスにはわかんないでしょ。留年した人の気持ちなんて! 一緒に頑張ってくれた友達が先に行っちゃう気持ちなんて! 本当に皆卒業しちゃうのかなって実感湧かなくてもさ、ある日下駄箱から靴がばーって無くなってるんだよ? それでやっと実感したの、“あー皆、行っちゃったのか”って。もうあんな思いしたくなかったの。絶対に、何が何でも今年に賭けるって思って、私なりに這いつくばったの!」
はあはあと息を荒げる私を見て、ヒロヤスはやっと八重歯を見せて笑った。
「素直なのもいいけどさ、お前は自分ばっかり大切にするんじゃなくて、相手を大事にしてやる思いやりを持ってやれよ。それでも許さないような奴なら、俺がぶん殴ってやるからさ」
上から見下ろすような発言にまた怒りがこみ上げてきたけど、私は見つけてしまった。彼のジーンズにぶっきらぼうに突っ込まれたキーホルダーの断片を。
「……あれ? それ、まだつけてんの?」
「うん」
――温泉戦隊、露天レンジャー――
専門学校一年生の時、友達と一泊二日の旅行をした時に買ったお土産。ちなみにこれは“露天イエロー”といって、露天レンジャーの中でも一番ふざけたキャラクターだったらしい。そのキャラクターがヒロヤスとだぶって、思わず買ってしまった。
ヒロヤスはそれをついと取り出すと、鉄製の輪の部分に人差し指を入れてぐるんぐるんと回した。
「俺、かっこいいキーホルダー持ってなくてさ。お土産でたくさん貰うんだけど、ムエタイの戦ってるキーホルダーとか、タイキックの戦ってるキーホルダーとか、フィジー人が棒で人を叩いてるやつとか。なんかそんなんばっかり来るんだよね」
「きっと野蛮な人だと思われてるんだろうね」
露天イエローとタイキックだったら、タイキックの方がかっこ良い気もするけど……。
***
「九月一日か二日、どっちかで俺んちで飲むぞー!」
なんて。威勢よく言い放ったからには、きっと少しはお酒が強くなったんだろうな、と思う。昔のヒロヤスはひどいもので、飲み会に行っても乾杯の一杯だけで顔が真っ赤になっていたし、二杯目に行く頃には眼がトロトロとしてきてすぐに眠りこけてしまっていた。
「追って連絡するからな、予定空けとけよ」
「空いてたらね」
「絶対空けとけって! いいな!」
こんなに自己中心的でマイペースな男なのに、それでもどうしてか憎めない。
むっとする外の湿気と、りーりーと鳴く夏の虫。遠くなるヒロヤスの広い背中を私は笑顔で見送った。
8.幸せでした
“九月一日に俺んちで飲みましょう”、と古関くんからメールが届いたのは、前日の二十三時三十二分だった。慌てて電話すると、数回のコールの後で古関くんの寝ぼけた声が聞こえる。
「あーもしもしぃ……」
古関くん、いくらなんでもこれは酷いよ。僕は今日たまたまお昼間が勤務だったけど……と話をしていくけど、正直どこまでが彼の頭に入っているのか不明だ。
「そうだ英介くん、飲む前に海でも行って浜辺で花火しましょうよ。まあ飲みも入れつつみたいな感じで」
「いや、いいけどさ。え、でもそしたら僕は飲めないってことか。うーんまあいいけど」
「…………」
「でもいいや、わかった。車だそう。でも二人だけじゃ寂しくない?」
「…………」
「古関くん? 聞いてる?」
「…………」
「寝たの?!」
***
こんな具合で、僕は九月一日の仕事を終えた後で古関くんの家に寄った。陽が短くなってしまったようで、ヒグラシの鳴き声が聴けなくなってしまったことが唯一の悲しみだ。
毎年思うけど、僕は夏の終わりが苦手だ。ワクワクとした何かが終わってしまう感じが苦手だったのだろうか。樹に張り付いた蝉の抜け殻を自分と重ねた幼少時代が懐かしく、いつの間にか自分で何でもできるなんて思わなくなり、いつの間にか自分が脇役であることを悟り……そんな風に変わって僕は生きてきた気がする。
古関くんのマンションにたどり着く頃、水色の空は美しいグラデーションを描きながら、西に沈む夕陽にかけてオレンジ色に染まっていた。水彩絵でできたような淡い夕空は美しく、思わず声を挙げてしまうほどだ。見上げる僕の頬をふわっと撫でる風は熱と湿り気を帯びていた。
古関くんのドアの前に立つと、彼の笑い声に混じって、女の子の声が聞こえてくる。一瞬、部屋を間違えたかと思って一歩下がるが、807号室は間違いなく古関くんの部屋だ。思い悩んだ末、思い切ってチャイムを押すと、ぴんぽーんと響く音に次いで鍵をいじる音。そして、
「はーい」
とドアを開けながら微笑む古関くん。僕と飲む約束をしていたのに、既に顔が赤くて眠たそうな表情だ。そのことにむっとしたせいか僕の声は苛立つ。
「古関くん……」
「来た来た」
彼がおーいと後ろの部屋に声をかけると、ほっそりとした女性が立ち上がり近づいてくる。目が悪くてハッキリと見えなかったが、女性は白い両手を口元に当てて言葉を詰まらせている様子だ。
すぐにわかった。
「えーちゃん」
呟いた女性――あゆみは、白地に小さい人魚が泳ぐイラストがプリントされた涼しげなワンピースの下で、うすべったい胸を上下させる。先ほどの夕空の美しさより衝撃的な瞬間だった。
「どうして、え、今日ヒロヤスと遊ぶのって、えーちゃんだったんだ……」
「…………」
黙りこむ僕の後ろで、ジィーッと、夏の蝉が最後の声を上げた。
彼女の後ろでは、既に缶ビールに手をつけたらしい古関くんが微笑んで「うん」と頷いた。
「これから海で花火してくる」
そう言って古関くんは、リュック型のプールバッグいっぱいに詰めた市販の花火を持って部屋を出ようとする。様子を見ると、あゆみも一緒に来る予定だったのだろう。ワンピースの裾をくしゅりと握る反対の手には、キャラメル色の鞄が握られていた。
まんまと古関くんに出し抜かれた僕らはお互いの存在に驚き、玄関先で立ち尽くすほかない。
その間、最後に会った時から今までに空いた時間を埋め尽くすかのように、僕はあゆみを見つめた。天の川のように煌く瞳も、栗のイガのような睫毛も、僕の胸をかき乱した甘い匂いも、マシュマロのような肌も、僕の肩に触れたマカロニのような指も、エナメル銅線のような光沢をもつやわらかい髪も、うすべったい身体の下で可憐に息づく胸も、あれほど嫌いと思っていた不安そうに歪む表情も。全部。
僕の胸の奥に沈んでいたある感情が、脳みそに指令をだして、それがくっついた唇を動かした。
「早くしないと、太陽が沈むから。……あゆみも、行こうよ」
意地悪そうに笑う古関くんと対照的に、あゆみは泣きそうな顔になった。
「何で泣くの?」
「違うよ。びっくりしたら、涙がでただけだもん」
「それ、泣いてるってことじゃん」
涙を溜めたまま“あはは”と笑うあゆみの頭を、古関くんが右手でぐしゃぐしゃにした。あゆみがバケツとペットボトルの水を持つと、僕らは三人揃って、ゆうらくの里の宿舎から笑顔で出て行った。階段を降りて駐車場に着く頃、あゆみが“えーちゃんの車久しぶり!”なんて言いながら助手席に乗ろうとするが、それ以上に素早い動きで古関くんが助手席に乗ってしまった。僕としては、どっちが助手席でも別に構わなかったんだけど。
でも、結果的にはあゆみが助手席に乗った方が良かった。別に未練とかそういうものじゃなくて、古関くんは身体が大きいから、物理的に狭くなるんだ。そのうえ海が近づくとテンションが上がり、
「海だー!」
なんて叫びながら、車内で両手を思い切り広げるから、危うく僕の顔に拳が飛ぶところだった。更に言えば、浜辺に着く頃、彼はすっかり眠りこけてしまった。
***
「古関くん、寝ちゃった?」
後部座席でシートベルトを閉めているあゆみに声をかけると、明るく笑った。
「熟睡してる。さっき缶ビール1本飲んだからかな?」
それを聞いて、思わず笑ってしまう。野獣のような見た目と裏腹に、お酒に弱い部分が意外だった。
「古関くんて、ギャップの塊みたいな人だよね」
「そだね。でもその方がおもしろいよね」
そうかもしれない。僕は古関くんに会うとワクワクするのはそれがあるかもしれない。まだ意外な部分があるかもしれないと、シャベルで宝探しをするように関わりたくなるのかもしれない。
浜辺で駐車すると、僕と二人で古関くんを揺するんだけど、叩いてもつねっても古関くんは起きなかった。このまま死んでたりして……と思って、僕が呼吸音を確認してあゆみが脈拍を測定したけど、やっぱりただ寝ているだけだったようで。彼の生死を確認したばかばかしさに、あゆみがぷっと吹き出した。
「私達が海辺に来ると、ロクなことがないね」
シートベルトを外して、先に降りちゃおうよと言い出したのは、あゆみだった。ドアを開けた瞬間、夏の温かい風は潮の匂いに満ちていた。浜辺の砂に僕のスニーカーが沈み、ちっちゃいあゆみが助手席のドアを開けるなり、寝ている古関くんから花火の詰まったプールバッグを引き剥がした。琥珀色の宝石がくっついたサンダルを履くあゆみが走り出す先には、穏やかな波音を立てる広大な海と、地平線の向こうに沈む夕陽がつくる光の道。
バケツにペットボトルの水をとぽとぽと注ぎ入れ、あゆみは満足そうに笑った。つられて僕も笑ってしまう。夕陽と、海と、潮風と、あゆみと二人。全てが一年前の思い出と重なっていた。違うのは、僕の車で眠る古関くんと花火とバケツ。
あゆみが微笑みながら、ゆっくりと話してくれた。
「一緒に来られて良かった。実は昨日の夜、今日が休みってことに気づいたの。だからヒロヤスと遊べるかどうかだって、よくわかんなかった。それに……えーちゃんとは、付き合う前みたいな友達でいてほしかったからさ」
そう言いながら彼女はロケット花火のロケットの部分にチャッカマンの火をゆっくり寄せたので、僕は慌ててチャッカマンを導火線の方に軌道修正した。
びぴゆうううぅ、と大きな音を立てたロケット花火はとっぷりと暮れた空に上がり、分厚い雲に消えてしまった。潮風に火薬の匂いが混じった頃、やっぱり古関くんを呼ぼうかとあゆみが話して立ち上がる。見てみると、駐車場に停めた僕の車もゆらゆら揺れていて、先ほどの花火の音で起きた古関くんが慌てて出ようとしているのが見てとれた。
僕に背中を向けたまま、あゆみは駐車場に向かってしまう。古関くんと一緒に、先ほどの和やかな雰囲気になって、きっともう二人きりでは話せなくなる。さざなみの音が僕を後押しして、僕も立ち上がって走った。
「僕も、一緒に来られて良かった。前とは別の意味で好きだから」
僕の唐突な行動に目を丸くしたあゆみは、あははと笑う。
「ほんと? じゃあ、いつか私が結婚する時は招待するから、スピーチしてね」
何度も頷いた。
「準保護者として、古関くんと一緒に、良いことをいっぱい話すよ」
噂の古関くんが駐車場から降りてきて、僕らは花火を再開した。
***
僕とあゆみは、近づき過ぎたからいけなかったのかもしれない。花火が終わり、曇った夜空と黒い海にお別れをした後、後部座席で古関くんと一緒に寝るあゆみを見て、僕はくすりと微笑んだ。
これからはきっと大切にするし、大切にできると思う。僕とあゆみには古関くんという強い味方が居るし、これからは安定した目で彼女を見られるし、彼女の不安定な部分も古関くんと二人で包むことができる。
分厚かった雲の晴れ間から、小さい星が輝くのが覗けた。
僕のオンボロ車は、大切な人を乗せて国道のアスファルトの上を走り出した。
おしまい
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2009/07/31(Fri)19:13:00 公開 / 目黒小夜子
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■作者からのメッセージ
まず、読んでくださった皆様、本当に本当にありがとうございます。
えー、『素朴な二人の恋唄』はこれで完結とさせていただきたいです。
2008年8月後半に、1ヶ月で書き上げるという無茶な計画を立ててからほぼ1年。
やっと書き上げました。かなりの息切れもあり、いただいた感想を踏まえてキャラクターや展開に若干の変更を入れつつなのですが。最後まで柴田英介は20歳代前半の精神年齢を変えられず……今後のわたくしの大きな課題でもあります。
現在の作者は長編をやっと書き上げたことに対する興奮が冷めやまない状態ですので、ここでズバッとご意見くださると嬉しいです。それにしても、ものを作るって難しいことですね……。