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『mean』 作者:うぃ / ファンタジー リアル・現代
全角17221文字
容量34442 bytes
原稿用紙約49.7枚
 ――不老不死とは、古来の人々が思い描いた夢の形などでは無い。
 ある人は神々の力を利用する為の宗教から、ある人は今日では妄想に限りなく近いとされている場所に打ち立てられてしまっている科学から、ある人は哲学的な精神の有り様という観念から、近づこうとするその道筋は数え切れない程に存在するが、誰もがその目標が死に際の旅人が砂漠で見る蜃気楼の様な泡沫の夢などでは無く、走り続ければいつかはたどり着ける場所にある、しかし限りなく遠くに存在する目標として扱ってきた。
 目標を持った人間の力という物のは、中々侮れない。百年も昔の世界なら絵空事として扱われてきた月への到達すら、既に人類は達成している。ならば、その何千年も前から人々の間で求め続けられてきた不老不死すらも、いつしか一部の権力者の手中に収められたとしてもおかしくはないだろう。
 しかし、現実的な視点からして、不老不死という伝説は、やはり夢物語として扱わざるを得ない場所にあると考えられる。
 もし、それでも人々がその夢を追うのなら、全く異なった見解から――――例えば、カパラや呪術や霊術、今までの人類が試してきたアプローチの形から言えば、宗教的な方面からの物に最も近い物が、そこに至るべき正しい道筋なのでは無いのかと、私は推測しているのである。


     ■


 一般の単行本の半分位の厚さの、表紙に児童用の絵本にすら見えない事の無いメルヘンチックな丸文字で 『よくわかるふろーふし!』 と書いてある本を乱暴に机の中に押し込んで、その後すぐに机に突っ伏して溜息を一つ吐き出した。
 失敗した。まさか、あんな表紙の本の内容が、あんなに堅苦しい物だとは思わなかったのだ。
 後悔してももう遅い。確かに目の前に餌がぶら下げられていた事は間違いないが、それでも我が事ながらもう少し慎重に踏み出すべきではなかったのだろうか。この勝負に微塵も勝機が無い事なんて、始める前から判っていた筈なのに。

     ――

 話は先週の土曜日にまで遡る。
「来週の月曜日から、うちのクラスでは毎朝十分間の読書時間を設けます。
 何か文句があるのでしたら、校長室のあの禿親父のところで抗議を致してくださいな。私としてもその方が都合が良いですし、誰か一人の犠牲で全校生徒の毎朝十分間の平和が保たれるのなら、まぁあながち不釣り合いとも言えないとも思いますし」
 今年我が校に配属されてきた教師歴一年目の畑山飛鳥教諭二十三歳が、その言葉を言い渡された俺達と同じような不満の見える顔で、清々しい土曜日の朝をぶち壊したのだった。
 生徒達は私立高特有の大人しさで誰一人言葉には出さなかったが、皆その腹の内に蓄えたドロついた心持ちは同じようだった。連日繰り返される病的とも言える勉学の繰り返しに対する心の準備、言うならばレース直前の最終メンテナンスとも言えるような時間すらも奪い去られるというのだから当然だ。
 朝のホームルームが終わり、抑えつけられた欝憤を晴らすかの如く、生徒達は今朝の伝達事項に対する批判を始める。生徒の一人は、まじだりーなんて言葉を呪文の様に飽きもせず繰り返し、その傍らで作り笑いを張り付けている生徒の一人はまぁまぁ落ち着いて、なんて言葉をその度吐きだして、遠くで座っている一度も話した事のない眼鏡少年は勉強する時間が僅かにでも減ってしまった事を嘆いて、陰鬱そうに大きなため息を吐きだしていた。
 誰一人、建設的な会話を繰り広げている人間がいない。酷く面白みに欠ける高校最後のクラスメート達に軽侮と諦めの入り混じった嫌々しい視線を送っていると、隣に座る小学校からの友人である川西翔太少年が、その豊かな頬肉と瞼の下にこびり付いている贅肉を愉快そうに動かしながら、俺の肩を二、三度小突いてきた。
「やぁ栗本君! 僕は、自分の事をクラス内ではムードメーカー的な立ち位置に納まっているのだと思うのだけど、君はどう思うかな?」
「何だよそのしゃべり方、気持ち悪ぃな。
 まぁ、一応お前の言う事に異論は無いけど、それがどうかしたのか?」
「つまり、この退屈な朝の十分間読書すらも、僕の言動によっては人々の笑いが溢れる素敵な時間になると思うのだよ!
 そして、僕一人でやってもそれなりの成果はあげられるとは思うけれど、やはり競い合う相手がいれば、それは更に加速するのではないのかと思う訳だ!」
 嫌な予感がした。
「つまり、お前は何が言いたい?」
「どっちがクラスの笑いを取れるか勝負しようぜ。小道具とか自分のトークとか一切無しで、ただ本を読んでるだけでどれだけの人間の笑いを掻っ攫えるかっていう単純な勝負」
 彼は先程までの仏の様な満面の笑みをふてぶてしい嫌味な笑いに取り換えて、そんな返答に困るような提案を打ち出した。
「……やんのダルいし、やってやる義理も理由も無い」
 心中で決断した言葉をそのまま口から吐きだして、これ以上話してもやり込められてしまうだけなので、腕枕の中に顔を埋めた。
 それなのに、隣から聞こえてくるわざとらしい笑いは止まらない。不審に思い川西の方へ視線をやると、川西は先程のだらしない笑みとは打って変わった、まるで獲物を捕えた狩人とも思えるような鋭い視線をこちらに向けていた。
「まさか、お前に拒否権があるとでも?」
「まさか、俺に拒否権が無いとでも?」
 その言葉に反応して、川西は右の尻ポケットに突っ込んであった携帯電話を取り出した。見せつけるようにゆっくりとスクロールしていくアドレス帳の中で、俺は一つの無視する訳にはいけない憧れの名前を見た。
「ちょっと待て、お前、なんでこいつのアドレスを」
「お前が転校したのは中二の時で、こっちに戻ってきたのが高一の時だっただろ?
 いやぁ、最後が秋穂ちゃんと同じクラスで良かった! 俺あんまり彼女と仲良く無かったんだけど、卒業式の軽いノリでアドレス教えてもらえちゃったんだよなぁ」
 そう言って、川西は携帯を再び自分の尻ポケットへと押し込んだ。そうして人差し指をくるくる回して、身長が低いのに無理やり俺の事を見下して、意地の悪い笑みを浮かべながら、まるで悪魔が口にするような甘美な一言を囁いた。
「やれば、やるぞ」
 大口を開けたコチラをバカにした笑いに腹が立って、再び俺は机の上に突っ伏した。
 数秒の空白。辺りの喧噪も耳に入らず、彼に従う屈辱と、彼女に通じる僅かな接点という究極の二択が俺の中で鬩ぎ合う。しかしその三秒後、勝負は拍子抜けしてしまうほど呆気なく決まってしまったのだった。
「……やる」
 吹き荒れる扇風機の鳴く声を、川西のせせら笑いが押しつぶした。

 それから先の時間が流れるのは早かった。
 小難しい数学のベクトルの話や、もはや同じ星の言語とは思えないような言葉を耐えず口にする古典の授業が重なった事も幸いして、俺は授業の話など露ほども頭に留めずに、川西との勝負でどうやったら勝利できるかだけを考えていた。
 はっきり言って勝ち目は薄い。
 それでも勝とうというのなら、俺以外の人間に知恵を借りるしかないだろう。
 そこまで思い至るのと同時に、今日最後の授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。時刻は二時三五分。今から急いで帰れば時間に余裕はあるし、彼ならば、きっと進むべき道の見えない俺の松明になってくれる筈だ。
 後ろの席の生徒に用事があるから帰ると先生に伝えておいてくれと頼んで、最後に、隣に座る川西へと視線をやった。川西も俺の事を見ていたらしく、何時も通りのニヤケ面でコチラの視線に応えてくる。
「そういう訳で、お前は明後日の勝負を楽しみにしてな。
 まぁ元から負ける気なんて微塵もしないけど、それでも念には念を押さないとな」
「なんでぃ、もしかして今から事前準備か?
 お前って普段はクールぶってるけどさ、何だかんだでやっぱり負けず嫌いなんだな!」
 ひっひっひと不気味に笑う彼を視界から外して、教室の出口へと歩いていく。
 表情に亀裂は見せなかったと思う。敵に情報を与えるのは最大級の愚行で、例え露ほどの勝機しかないとしても、そのたった一滴すら救い上げられてはどうしようもない。
「ちげーよ。俺は、純粋にアイツのアドレスが欲しいだけだ」
 背を向けたまま口にして、一目散に走り出した。周りの生徒の見世物でも見たかのような大袈裟な笑い声や、押し殺された控えめな女子生徒の笑い声なんて気にしている暇なんてありはしない。
 あの家は学校から約十五分。日曜日は朝から誰もいないし、六時になったらどんな用事があろうと締め出される為、約二時間であそこから川西の発想力の上をいく傑作を探し出さなくてはいけない。重要な書類なのか趣味の類なのか、はたまた家主本人すら気付いていないようなゴミ同然の書類なのかも判らないほどに散らかされているあの部屋での作業を考えると、二時間という言葉は普段感じているよりもずっと頼りない物に思える。
 それでも今は駆けるしかない。俺にとって面識の薄いクラスメートの評価なんかよりも、彼女に繋がる、拙い接点の方がずっと尊い物だから。

「――それで、そんな汗だくになってまでこんな辺鄙な所まで来た、ですか。
 へー、ご苦労ですねー。まぁ上がってけば良いんじゃないですか? 俺は特にお茶とか出す気も無いですけど、まぁこんな薄汚い所で良ければご自由に使って宜しいですよ」
「基地外染みた日本語と愛想の無さは相変わらずだな。
 まぁ良いや。許可は貰ったし、そこ等辺を勝手に見させてもらうぞ」
 一言断って、六畳一間の汚れ散らかされた部屋の中央の、口元まで伸びてしまった髪の向こうで、緩やかに揺れ動いている雲の動向を眺めている猫のような瞳をした青年から視線を切った。
 彼の名前は秋空亜紀明という。
 本名でない事は間違いないし、そもそも年齢不詳で素性も知れない。住処も特定の場所に一年以上留まっていた例が無く、日がな一日本と睨めっこをしながら、時々思い立った様に紙に埋もれた三世代程前のパソコンの電源を付け、昼夜も気にせずひたすら何かを打ち込んでいるという特異な人物だ。
 世間の奥様方は断固として息子との関わりを拒みそうな人だが、不思議な事に十年ほど前から俺は彼と親交があった。馴れ初めは覚えていない。ただ気付いた時にはゴミ置き場みたいな彼の家を川西と一緒に訪ねて、俺達は見た事も無い本の山に目を輝かせていたものだ。
 彼の家には見た事も無いような本が山ほどあった。当時の事を明確には覚えていない為確固たる根拠は無いが、それでもこんな出鱈目な家ならば、自宅や図書館を探し回るよりも余程成果が期待できるという物だ。
 手前にある、塔のように高く積み上げられた本の数々を物色していく。半分以上は日本語以外の言葉で書かれた児童書で、残りの半分は授業でもやらないような難しい言葉で埋め尽くされた意味の判らない論文の様な物達だった。
「僕さー、川西君だったら、きっとエロ本で持ってくると思うさー」
 喋るたびに変わる一人称と語尾を気にも留めず、声の出所へと目をやった。そこには、いかにもどうでも良さそうに右手に持った 『特集! 昨今の女学生達の性の乱れ!』 と表紙に大題的に書かれて乳首だけを両腕の人差し指で隠している不細工の写真が写されている本をこちらに見せ付けながら、色の無い瞳でコチラを見つめている秋空の姿があった。
「俺に、コレを読めと?」
「拙者、この本なら周りの視線を掻っ攫えると思うで候」
 そこまで口にして、秋空はそのエロ本を他の書類の山と同じ様に投げ捨ててしまった。目を凝らして見れば他にも様々な種類のエロ本が投げ散らかされており、さらに言えば、その中の半分以上は見覚えのある物だった。
「確かに視線は奪えるだろうけど、それじゃぁ乾いた笑いか苦笑いしか貰えねーよ。
 俺が必要なのはあくまで爆笑な訳で、そんな意味の判らない注目のされかたはこっちからゴメンだっての」
「私が君の返答を待たずに本を投げ捨てたという事実から考えて、君は私が君の口にした結論に達したのだという事に思い至らなかったのか?
 そうだとしたら、実に嘆かわしい。私は君の事をそれなりに評価していたのだが、どうやら私の認識を改めなくてはいけないようだな」
「うるせぇなぁ。他人がボケたら他の誰かが突っ込まなきゃならないんだよ。
 様式美って奴だ、判るか? 全く、お前はそういう言葉の裏にある真意とか、そういう物を読み取れないダメな奴だな」
「ここまでの一連の流れも、ウチはその様式美の中に入ってると思うねん」
 瞳の色は変えず、言葉に乱れは無く、それでも淡々と変わっていく腹ただしい一人称と語尾。以前、秋空はこれも小説を書く為の練習だと言っていたが、今の俺には相手を苛立たせる為の嫌がらせだとしか思えない。
 これ以上秋空と話していても苛立つだけだと結論付けて、再びゴミの山と向き合った。しかしどれだけ探しても俺の期待にそうような奇天烈な本は見つからず、次第に窓から見える空の色が燈色に染まっていくような時間へと変わっていってしまった。
 携帯を開き時刻を確かめると、五時五十分と書かれている。今日は一日が短い。何かに打ち込んでいると時間が早く感じられるというが、しかしそういう時に限って結果が出ないのが人生の常である。
「判ってると思うけどぜ、六時になったら出て行くんだぜ」
「……判ってるよ」
 この家の唯一のルールとして、六時過ぎまでには絶対に立ち去らなければならないという物があった。理由なんて知らない。ただ家主がそう言うのだから、俺達はそれに従う他ないだろう。
 タイムリミットはいよいよ一桁を切ってしまった。諦めかけて、それでも染み付いた習性の様に無意識に俺が手を置いた位置にあった本の山々を弄くっていると、一つの本が俺の指先に触れている事に気がついた。
 それは一般の単行本の半分位の厚さで、表紙に児童用の絵本にすら見えない事の無いメルヘンチックな丸文字で 『よくわかるふろーふし!』 と書いてある本だった。
 運命の出会いを、果たした瞬間であった。
「なぁ秋空、これ」
 ゴミ山の中から引きずり出した宝の輝きに、自然と唇が吊り上がる。手に入れたばかりの宝物を誰かに見せびらかしたくて、すぐ傍にいた秋空に声をかけてみたのだが、
「……随分、微妙な物を見付けたんだな」
 秋空は一会話毎に一人称と語尾を変えるという、まるで子供のする飯事のような下らない信条すら何所かに置き忘れて、普段の無色透明な瞳を白く濁した、まるで鳩が豆鉄砲を喰らったかのような間抜け面を浮かべて、呟くようにそう口にした。
 確かに、俺が見せた物は想定外に奇怪な物ではあるが、それにしても秋空の反応は意外だ。普段の彼ならば、これだけの珍品を差し出しても、人を小ばかにした厭々しい微笑を浮かべながら、重箱の隅を突くかのような突っ込みをいれてくるような人間の筈なのだが。
 少し違和感を感じて彼を繁々と見つめていると、彼は先ほどまでの驚きなど元から無かったかのような気の抜けた欠伸を一つ噛み殺して、まるで起き抜けの父親の様な覇気の見えない表情で淡々と言葉を述べた。
「まぁ良いぞ。お前がそれを持っていきたいと言うのなら、別に俺は止めはしないぞ。
 それに、もう六時だぞ。ここの規律通り、早く帰ってもらうぞ」
 秋空はそう言って俺に背を向け、手元にあったエロ本を乱暴に持ち去ってトイレへと歩いていってしまった。
 家主の消えた部屋は居心地が悪い。先程まで芽吹きそうだった喜びの欠片も、秋空の無感動な一言で完璧に潰されてしまった。これ以上ここにいる事も出来ないので、やり場のないわだかまりを晴らすかの様に乱暴に鞄の中へと本を押しやって出口へと歩いて行った。
「邪魔したな」
 そう言って、最後に振り返って彼の部屋を除き見た。
 本が散らかっている。パソコンのディスプレイが横に倒れており、その上にはキーボードとマウスがまるで置物のように鎮座している。部屋には生きてる人間がいない。鳥の鳴き声や蝉の喚き声すら聞こえない、生きてる物がいない世界。
 初めて見みた秋空のいない部屋が、やけに似合っていたのがいつまでも目に残っていた。

     ――

「なぁ栗本、一つ質問しても良いか?」
「なんだよ改まって、気持ち悪ぃな。
 まぁ、言いたい事があるなら言ってみろよ。多分、俺が返せる言葉なんて無いと思うけど」
 川西はいかにも面白くなかったとでも言いたげな仏頂面で、机の上に置かれている四十八手全解説(図解付き)を開けたり閉じたりしている。また、彼の苛立ちに比例してその強さが変わる貧乏揺すりの癖は、まるで学校全体を揺り動かさんとしているのではないかと思える程激しい物となっていた。
 川西の次の言葉は予想が出来る。恐らくそれは俺自身感じているストレスと似通ったものであるという嫌な確信を胸に、川西が喋り出すよりも一歩早く、鬱々しい溜息を一つ吐き出すのだった。
「なんで、このクラスの人間は、こんなに、頭のイカれた、ファッキン野郎共の集まりなんだよ――――!!」
 その時、教室の空気が音を立ててひび割れた。
「だってさ、四十八手全解説(図解付き)だぜ? 男は普通笑うだろ! 女は普通蔑むだろ!?
 いや、そりゃぁ確かにうちの担任は赤鬼だって裸足で逃げ出すような恐ろしい奴だし、うちのクラス自体私立高の進学クラスだから大人しいのも判るぜ!? でもさ、それにしたってもっとこう、押し殺した様な、人を小ばかにした様な、大人しいなら大人しいなりのリアクションの取り様が有ったって物だろ!?」
 本日の我がクラスの出席者数三十四。その内俺と川西を除いた三二人の計六十四の瞳が、その叫びが教室内に響き渡るのと同時に、まるで阪神スタンドに単身乗り込んだ巨人ファンでも見るかのような鋭い殺意を込めて睨みつけてきた。
 いい加減視線だけに留まらず手やら足やらも出てくるんじゃないかという懸念を抱き始めた頃、恐らく女性の物だと思われる柔らかい手の平が、卵にでも触れるみたいに優しく俺の肩に触れている事に気がついた。
 背筋に鋭い悪寒が走ったのは、それとほぼ同時の事である。
「――なるほど、川西君。君は、私の事を恐ろしい奴だなんて言うんですね。
 随分とまぁ悲しい事です。まさか生徒の一人からそんな刺々しい言葉を頂くとは、私は泣いてしまうかもしれません」
 文字だけみれば弱々しいようにも見える言葉は、その意味と語感が噛み合っていない。泣き出してしまいそうな筈のその一言は、しかし、まるで新しいおもちゃを貰った子供の様に楽しげだ。
 振り返らずこのまま走り去ってしまえと胸の奥が叫んでいる。緊張と恐怖で茹であがってしまった脳の最深奥の一握りが、その後の事をよく考えろと戒める様に言い寄ってくる。何をするべきか判らない。判らないのだけれど、それでも踏み出さなくては進まない。
 自分の左胸に刃物を突き刺すような悲壮な思いで、未練がましく叫んでいる物を断ち切れるようにと勢いよく振り返る。
 振り返った先には女性がいた。身長は百七十センチの俺よりも頭一つ分程低く、その低身長に違和を覚えない程幼く小さな顔だちに、今日では誰もかけないような黒ぶちの眼鏡が印象的だ。これならば女性というよりも少女と言った方が良いのではという疑問が一瞬頭の先をよぎったが、何をバカな事を考えているのだと頭を振って打ち消した。
 彼女――――我がクラスの担任である畑山飛鳥教諭二十三歳――――は、まるで涙を隠すように目元には手を添えて、耐え忍ぶように短い嗚咽を吐いている。
 まさしく悲劇の少女と題してもおかしくない様な姿である。ただ一つ、口元に見える綺麗な曲線を除けばの話だが。
「川西君。私は自分がけなされた事が悲しくて泣いている訳ではないのです。
 私が悲しい事は一つだけです。貴方がそんな口を利くのならば、私は教師として、貴方が踏み外そうとしている道を正してあげなくてはいけません。たとえ、それが貴方にとって苦い経験になろうともです」
 俺達が見ている目の前で数滴の目薬を注しながら先生はそう口にして、机の上に置いたままだった四十八手全解説(図解付き)を手にとった。川西は 「あっ」 と吐き出すように一言漏らしたが、先生が視線をよこすと顔を伏せて押し黙ってしまった。
「まぁ、この際私に対する暴言は許すとしましょう。
 それよりも、今はこの本について話しましょうか」
 先生はそう言って、川西から奪った四十八手全解説(図解付き)を流し読んでいった。所々で喜々とした悲鳴を揚げながら、全てを読み終えた頃には実に満足そうな笑みを浮かべながら、コチラの視線に気がついたようで二、三度咳払いをして、再び川西へと視線を向けた。
「つまりですね、この本に書かれているR十八指定マークが貴方には見えているのですか? という事です。
 知っていますか? このマークは厳密に言えば高校を卒業するまではダメですよ、っていうマークなんですね」
「あー、そうなんですか。僕知らなかったです。すみません」
 顔をあげる事無く、川西は投げ遣りにそう言った。
 先生はそれに腹が立ったらしく、先程の恵比寿のような笑みを少しだけ眉を釣り上げた不満そうな顔に取り換えて、しかしヘソを曲げた子供を宥める親のように穏やかに川西へと言葉を投げかけた。
「それに、そもそも貴方はまだ誕生日を迎えていないでしょう? 精々あと半年程度の我慢なのですから、それ位は耐えきってみましょうよ」
「……どうでも良いから、早くその本返して下さいよ」
 嫌な予感が全身を駆け巡った。
 それが頭にまで到達する前に、俺の目の前を光の線が通り過ぎて行く。それと同時に、自分の頭と同じかそれよりも幾分高い程度の場所にある川西のコメカミの手前で、先生の右足は僅かな震えすら見せずに静止していた。
 ピッチリと張り付いたスーツに目を奪われる様な余裕すらない、ほれぼれするような上段蹴りだった。
「何度も言っていると思いますが、教師に対する口の利き方という物を貴方はもう少し学ぶべきですね」
 俺を挟んで、二人の間の空間が歪んでいく。先生は未だ笑みの表情を作っているが、一目で判るほどはっきりと目元が笑っていない。川西は、何か意地になっているのではと思えるほど頑なに顔を上げようとしない。他の生徒達は、とばっちりを喰らわぬようにと教室の隣のロッカールームへと一人残らず移動している。汗が止まる。鳥肌が立つ。息が止まる。
 助けを求めて視線を向けた先の川西は、何故だか確かに笑っていた。
「……このままじゃ埒があきませんね」
 先生は額に手をあてながらそう言って、呆れた様に深い溜息を吐き出した。
 張りつめられていた空気が緩んでいく。呼吸が再開する。汗が流れていく。先ほどの事が気になって川西の方へ目をやるのだが、一層深く俯いてしまっていて表情を窺うことはできなかった。
「取りあえず、この本は私が預かっておきます。
 返してほしければ、今日の放課後第一理科室まで来て下さい。本当なら職員室に呼び出すべきなのでしょうが、貴方には少々きつい指導が必要なようです」
 少々きつい指導、という言葉に寒気がした。俺のちんけな頭ではそれがどんな物か想像もつかないけれど、きっと見る者が目を瞑ってしまうような凄惨な物なのだろうとだけは予想できる。
 そんな言葉を叩きつけられても、川西は死んでしまったかのように何も言わない。何も動かない。川西の心が、俺には判らない。
「……返事は?」
「……はい」
 だけど、口にした言葉は震えていた。
 先生はその言葉に満足したようで、ようやく教室の出口へと歩いていってくれた。川西には同情するが、これでようやく地獄のようなホームルームが終わるのだと思うと、耐えようもなく安堵の息がこぼれ出るのだった。
「あ、そう言えば」
 教室のドアに手を触れて、先生は思い出したように呟いた。
 先生は振り返って俺を見る。いや、そんな筈はない。俺は何もしてないし、何も言っていない。だから俺は何も責められるような要因はない。だから、こんな頭の天辺から足の指の先まで駆け巡ってくる這いずり回ってくるような寒気も、きっと気のせいの筈なのだ。
「栗本君、一緒に話していた貴方も同罪です。それに、貴方が持っていた本が川西君の物と同様の物ではないという確信もありません。
 ですので、貴方も今日は放課後朝に読んでいた本をもって理科室へ来ること。来なかった場合には、それ相応の罰を受けてもらいます」
 そんな思いもむなしく、天使のような笑顔でそう言う先生には、何も異議を唱えることができないのであった。
 先生が教室から出て行ったのを確認して、ロッカールームに避難していた生徒達がなだれ込んでくる。とても平生には見えない先生と俺達の様子に、一体何があったのだと皆は節操無しに訪ねてくる。しかし、俺にはもはや彼等の言葉に何かを返せるような余裕は無いのだった。
 押し潰された時間が元通りに流れていく。その流れていく時間の先に、地獄しか見えないとしてもだ。

     /

 川西は、結局いつまでも沈んだままだった。
 帰りのホームルームは、去年まで俺達の担任を務めていた副担任の中原秋重教諭が執り行ってくれた。朝の一件を知っている生徒達は遠慮がちにちらちらと俺達の方へと目線を向けていた。そして、中原教諭が帰りの挨拶を終えた後こちらの方へと歩いてきて 「畑中先生がお前達の事をお呼びだそうだ」 とバツが悪そうに告げたところで、生徒達は耳を塞ぎたくなるような大歓声をあげた。
 恐ろしい教師が担当をしている時はあんなにも押し黙っていたのに、それがいなくなった途端にこれである。苛立って、少し乱暴に椅子を机にしまうと予想外に大きな音が鳴り響き、それに驚いて生徒達のざわめきは水をうったように止まってくれた。
「行くぞ、川西」
 そう言うと川西はやっぱり無言で立ち上がり、俺を先導するようにずいずいと歩いていってしまった。
 置いていかれないように小走りでついて行く。そして職員室を通り過ぎ、保健室を通り過ぎ、特別教室を通り過ぎ、用事がなければ誰も通らない、用事があってもどうにかその道を避けていこうとする、人気のない薄暗い第一理科室の前へとたどり着いた。
 理科室は電気がついていた。中からはがたがたと何か固い物を動かしている音が聞こえてくる。恐らく、六時間目に何処かのクラスが使った実験用具を片づけているのだろう。スモークガラスの向こうに見える人影は一つだけで、今声をかければ面倒な事になってしまうのは間違いない。
 どうした物かと戸惑っていると、川西は流れるような自然さで一歩前に踏み出して、一切の躊躇を見せる事無く勢いよくドアを開いた。
 俺が教室でした物よりもずっと大きな音が理科室中に響き渡った。まるで小型の爆弾でも爆発したみたいな轟音に俺が目を丸くしていると、だぼだぼの白衣を身に纏った先生が、路傍の小石でも眺めるかのような無関心な瞳で川西の事を見つめているのに気がついた。
「入るのなら入ると言ってくれないと困ります。
 いや、別に見られて困るような事をしていた訳では無いのですが、そこはやはり心の準備というものがあるでしょう?」
 まるで指で無理やり動かしているみたいなぎこちない動きで、先生は違和感のある笑みを作り上げていく。そんな先生の姿を見ようともせず、川西はいつまでも廊下の前で呆然と立ち尽くしている俺の事を見つめている。
「入れよ」
 声は、やはり震えていた。
「……お邪魔します」
 入りなれた筈の理科室に、初めて女の子の部屋に入るかのような慎重さで足を踏み入れた。
「あ、ドアは閉めてもらえますか? 外に何か聞こえると、後々面倒ですので」
「はい。判りました」
 ポーカーフェイスは得意だが、動揺は隠しきれない。自分でドアを閉めたその三秒後に、もしかして今先生はとんでもない事を口にしたのではないかと気がついた。
 それなのに、川西は急ぐように理科室の中央へと押し進んでいく。先生の目の前まで辿り着く。俺は再びあの突き刺すような痛みを感じる沈黙が流れるのだろうかと身構えて、しかし予想外の出来事に再び動きが止まってしまった。
 川西は今日一日の鈍重な動きが嘘だったみたいに勢いよく先生の方へと顔をあげた。そして、まるで鼻先がくっついてしまいそうな位にじりじりと顔を近づけて、
「あーっはっはっはっはははは、っはっはっはははは、は、っは、は、はははは――――!!」
 何かが弾けたように、天井へ向けて大きな笑い声をあげたのだった。
 突然の奇行に頭が回らなくなる。歯車が一つ欠けてしまって上手く回らなくなってしまった頭を再び動かしたのは、存外に冷静な先生の呟きだった。
「……唾がかかっているのですけど。
 川西君は少々デリカシーが足りないようです。あんまりそんな事を続けていると、いい加減本気で蹴り倒しますよ?」
 言葉を出している人間から考えれば身の毛が弥立つ様な言葉だが、不思議と朝の時の様な身を突き刺すような怖気や寒気を感じる事はない。
 一度引き戻された現実が、依然変わらず自分の理解の範疇を超えている為に遠ざかっていく。熱に浮かされて視界は定まらないけれど、それでも朝とは打って変わって先生に対して友好的に接している川西には違和感を感じざるを得なかった。
「いや、だって! 朝のあの遣り取りは何なんだって話ですよ! 笑うって、どう考えても絶対笑うって!
 あーもう、本当におもしれー! っていうか本当に、先生ちょっと演出過多なんじゃないですか!? いや、俺はそう言うの大好きですけど!」
「うるさいですねぇ。
 貴方以外の生徒ならあれ位の方が委縮するでしょうし、それに栗本君が態々来てくれたのはあの演出に依るところも大きかった筈です」
 先生は俺に同意を求めるようにこちらに視線を向けてきたが、俺の頭は未だ呆けたままで、促されるままに相槌を打つ事しかできなかった。
 それでも二人は俺をおいてけぼりにして話を続けていく。先生は色気の無い近所のスーパーのビニール袋から今朝奪った四十八手全解説(図解付き)を取り出して、未だに笑いの止まらない川西の鞄に無断で詰め込んだ。
「さて、ではちょっと良いですか? 栗本君」
 そして先生はこちらに向き直って、まるで聖女のような清らかな笑みを浮かべた。後ろでは、ようやく笑いが収まった川西がいつものにやけ面を隠そうともせずに曝している。外では、唯一話に付いていけない俺を嘲笑うような超音波のような蝉の鳴き声が聞こえてくる。
 一番腹がたったのは、外から聞こえる蝉の声だった。
「……いや、それよりも先に、ちょっと良いですか?」
「ダメです。私の方を先にしなさい」
 浅いとは言い難かった先生の唇の歪みは、その一言と共に更にその深みを増した。本来なら花が咲いたような笑みと言ってもおかしくない程華やかなものなのだが、しかしより一層増していく先生の圧迫感を考えると手放しに美しいと言えるものでもないのであった。
 一瞬の空白。その無言を肯定と取ったらしく、先生はそのまま何も口にする事無く俺の傍へとスタスタと近寄ってきて、やっぱり何も言わずに俺の鞄のジッパーを開けた。
「あ」
 先生の行動に余りに違和感がなさ過ぎて、呻くような一言を吐き出すのが精一杯だった。何もできずに立ち尽くしている俺を尻目に、先生は初恋の人を見つめる少女の様な純粋な輝きを両目に宿して、そのまますぐに俺の鞄を物色し始めた。
「栗本君、この学校は整髪料をつけるのは禁止ですよ。それにこのメーカーの物を使うのは中学生が大半です。どうせ使うのなら、仲廼か蟻蚤なんかをお勧めします」
 小さい方のジッパーに入れていた整髪料が外に投げ出される。
「栗本君、学校にえっちな本を持ってくるのはいけません。私以外の教師が見たら、下手したら停学物ですよ?」
 教科書の間に挟まっていたエロ本が先生の鞄の中に押し込まれる。
「栗本君、トランプを持ってくるならもっと見つかり辛い場所にいれておきなさい。これを没収されたら、困るのは貴方だけではないのです」
 鞄の脇の携帯程度ならぎりぎり入りそうなスペースにトランプが挿入される。
 そこまで弄くりまわして、先生は動きを止めた。口からはため息が漏れる。先ほどまでギラギラと歓喜の光が輝いていた瞳は、既に期待外れのガラクタのせいで曇ってしまっていた。それでも頑固にも諦めようとせず、先生は再びあれこれと俺の鞄の中身を弄くり続けていた。
「……栗本君、これですよ」
 静かな呟きだった。
 先生はそれを持ったまま固まっていた。いや、正確に言えば、その本を持った右手だけを小刻みに震え続けさせている。
 曇った瞳が再び光を放ったのは、それとほぼ同時の事だった。
「栗本君。貴方は、これをどこから見付けてきたのですか?」
 先生はそう言って、一冊の本を俺に見せつけてくる。それは一般の単行本の半分位の厚さの、表紙に児童用の絵本にすら見えない事の無いメルヘンチックな丸文字で 『よくわかるふろーふし!』 と書いてある本だった。
 無意識に、俺の口からはため息が漏れていた。
「それは、あまり面白いものではありませんよ。
 僕もちらっとしか見ていませんが、それは漫画でも無ければ挿絵も有りませんし、内容は馬鹿らしく思える程真面目に不老不死について語っている物ですし」
「質問に答えなさい、栗本君」
 先生の視線はいたって真面目だ。むしろ、切羽詰まっていると言い変えても間違いではないだろう。
「……友人の家に置いてあった物です。著者名などはどこにも書いていないので、もしかしたらその友人自身が書いた本なのかもしれません」
「あ、もしかしてそれって秋空さんの部屋の物じゃねーの?」
 外野の声には反応せず、俺は視線を地面に落としたまま先生の言葉を待った。反応してしまえばただでさえややこしい事態に陥っている現状が、更に面倒な事になるのは目に見えているからだ。
「秋空さんとは、一体どなたでしょうか?」
 しかし努力は空しく、話はそちらへと向かってしまうのだった。
「んー、俺達のガキの頃からの知り合いですねー。
 何か十世紀位昔の流浪人な文学家みたいな奴で、一日中本を読むか本を書いてるかのどっちかしかしないっていう基地外さんです」
「基地外さんとはなんですか。そんな素敵な方なんですから、御基地外さんと言いなさい」
 そんなずれた反論をしながらも、先生はその手に持った本をペラペラと本を捲りながら、時折何か呻きながら頷いて、実に興味深そうに眺めている。
 何をしたら良いのだろうか。縋るような視線を送るのだが、先生は本に夢中な様でこちらの悲痛な思いに気付かない。藁にも縋るような思いで川西を眺めると、してやったりとでも言うかのような得意顔を浮かべたままこちらに歩いてきて、先生に聞こえないようにするかのように俺の耳元を手で覆い隠して、そっと呟いた。
「あの人さ、理科教師のくせしてオカルトとか都市伝説とかそう言うの大好きなんだわ。
 今しばらくは声を掛けても殴られるだけだし、準備室の方に行こうぜ。お前も色々と聞きたい事があるだろう?」
 彼はそのまま理科準備室の扉の前まで歩いて行って、扉を開けて手招きをしてきた。不愉快極まりないニヤケ顔に今まで腹の内で溜まってきた感情をぶつけてしまいたくなったが、取り付かれたみたいに熱心に本を読んでいる先生を見て、渋々川西の元へと着いていくのだった。

「さて栗本! 一応俺は判ってるつもりだけど、お前は何が不満でそんな仏頂面をしているんだい!?」
 そう言って、川西は神にその身を晒すかのように両手を開き天を仰いだ。残念ながら、天井しか見えない室内の中ではそんな芝居がかったポーズは見ていて滑稽でしかないのだが、本人はそれに気付いていないらしく、初めての大がかりなポージングに感動で身を震わせているのだった。
 一々リアクションを取ってやれる程、こちらの気も長くは無い。せめてこちらの意が伝わればとわざとらしい深い溜息を吐きだして、すぐに言葉を続けた。
「なんで、お前はあの人とあんなに仲が良いんだ?」
「なんで、俺があの人と仲が良くないと思ったんだ?」
 勢いよく顔を振り上げる。彼は、まるで親に謎掛けをする子供の様な楽し気な表情を浮かべていた。
「何でって……お前さ、小中高とこれまでの十二年間の中で、畑山先生を除いて一度でも教師と仲良くなった事があったか」
 そう言うと、川西は探偵がするみたいに顎の辺りに手を添えて考え込む仕草をする。たっぷりと五秒程考え込んで、何が楽しいのか川西は両手を腰に添えて高らかにはっはっはと笑い飛ばした後、
「ねー」
 呼び声の様な否定の言葉を口にしたのだった。
 頭が痛くなる。元から芝居がかった事が好きな奴ではあるが、このままでは話の進行があまりに遅すぎる。溜めなくてもいい不満を溜め込むのは不毛な事で、そもそもコイツの為にそこまで我慢してやる義理はないのである。
「じゃぁ、なんでお前はあんなにあの人と仲が良いんだよ? あの人は、多少教師と仲良くするような人当たりの良い生徒でも避けるような教師だろ?」
 核心を着いた一言に、今度こそ川西の動きが止まる。先ほどまでの台本でもあるかのような芝居がかった仕草はなりを潜め、試すような微笑を浮かべてこちらを真っ直ぐに見詰めてくる。
「お前はさ、どうしてそう思うんだ?」
「俺が幾ら人付き合いが疎いって言ったって、あの人が赴任してきた初日に起こした事件位知ってるさ」
 ――畑中飛鳥教諭が事件を起こしたのは、今から三ヵ月程前の始業式の事だ。
 進学校といえど、どこの学校にも出来損ないはいる物である。それは単に学力が低いとか運動が出来ないという物から、普段の学校生活の中で不正を働き周りの人間を困らせる物もいる。そして、そういう人間にとって、新任で小柄な、ましてや中学生程度にしか見えない童顔で気の弱そうな女教師などという存在は、玩具と言い換えてもおかしくはない様な物なのである。
 運の悪い事に――――もちろん、この場において運が悪いのは誰なのかという事は言うまでも無いのだが――――先生は、外見だけならば触れれば折れてしまいそうな可憐な花の様な少女なのである。それは、当然不良生徒諸君からしてみれば餌を与えられたような物で、彼等は新学期早々何かをしでかしてやろうと画策していたのである。
 そして、その時がやってきた。
 我が校の始業式と言うのは頭髪検査を兼任している。さして厳しい校則がある訳ではないが、それでも髪を染めてはいけない等極端な加工は規制しており、またその匙加減は各クラスの担任の感覚のみなのである。新任ながらも担任という役目を負ってしまった先生も、当然その日頭髪検査の検査員として参加していたのだった。
 まだ感覚が掴めなかった為か元々の性格の為か、畑中教諭は普段ならば規制されかねない様な灰色の生徒達にも何も言わずに検査を済ませていった。我がクラスの生徒達は楽な担任が来てくれた物だと心を躍らせていたが、他クラスの生徒達からすれば、それはヒイキと思えてもおかしくはない物であった為、一人の生徒が先生に文句を吹っかけてきたのである。
 聞いた話なので具体的な事は判らないが、どうやら我がクラスの生徒の中に一人、他クラスでは再検査を言い渡された者と同じ髪型をした人間がいたらしい。髪の毛の長さや色も寸分違わず同じだったので、生徒間ではきっと示し合わせた物なのだろうと噂されていたが、そこは俺の預かり知るところではないので言及しないでおこう。
 問題はその後である。
 最初はにこやかに笑って彼を宥めていた先生だが、不良生徒が何かを叫んだ途端に突然蹴りを突き出したらしい。曰く一般生徒が見る限り一発、空手部主将の曲山康秀が見る限り三発、そして川西が見る限り五発の足刀が不良生徒の鳩尾に突き刺さったらしい。不良生徒が親とは不仲で、また普段からの素行の悪さが有名だった為責任問題には至らなかったが、それ以来全生徒達は先生には一切逆らわずにいたのであった。当然先生が生徒と親しげに笑い合っている所を見た事のある者は誰一人おらず、これからも見る事は無いと思っていたのである。
 思っていたのだが、現にこうしてにこやかに笑い合っている川西がいるのだから、現実とは判らない物である。
「あれはどう考えても悪いのはあいつ等の方だ。むしろ、俺はあれを見て先生って良い奴なのかもしれないって思ったんだぜ?」
 川西は呆れたように俺の事を鼻で笑って、そう口にした。その姿は意味もなく誇らしげで、まるで親の自慢をする子供の様に見えた。
「俺が今まで教師達と反りが合わなかったのはさ、別に教師だからって理由じゃねーんだ。
 あいつ等は、こっちが少し腕力が強かったり荒っぽかったりするとすぐに言葉が弱くなるじゃん? こんな事言ったらガキみたいだって言われるかもしんねーけど、俺はあんな曲がってる奴らに従うのが嫌だったんだな」
 そう言って川西はわずかに視線を逸らした。視線の先には未だに絵本を読んでいる子供みたいに熱心に本を読んでいる先生の姿があった。
「じゃぁ、あの人は違うのか?」
「ちげーな。全然ちげー」
 一瞬だって迷わずに、彼はさも当然だと言わんばかりにそう断言した。
 唇が自然と吊り上っていくのが判る。川西は徐々に吊り上っていく俺の唇の両端に違和感を覚えたらしく、不愉快そうに眉を顰めて、少し声を荒げて問いただした。
「何でぃその顔は?」
「いや何だ」
 一呼吸置いて、
「お前、先生に惚れてるな」
「はあぁぁぁぁっ!?」
 初めての反撃を口にしたのだった。
「年の方は五つしか変わらんけどさ、やっぱり生徒と先生の関係にあるお前等の間には大きな障害が待ちかまえてると思うぞ?
 まぁそこまで踏まえた上での物だろうとは思うけど、精々気をつけるんだな」
 最後の止めを口にして、俺は理科室へと戻ろうと振り返った。
 後ろで川西が何かを喚く声が聞こえてくる。だけど今はとにかく愉快で、そんな言葉も気にしないでスキップしそうな位浮かれながら扉を開いたのだった。
2008/08/13(Wed)21:11:52 公開 / うぃ
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■作者からのメッセージ
御観覧ありがとうございます。初めての長編投稿という事で少々緊張しておりますが、何かコメントを頂けたらありがたいなぁと思っております。
ちなみに、秋空亜紀明という文字の読み方は 『あきあきあきあき』 です。
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