- 『銀の翼と永久時計 2(途中)』 作者:勇波あい / 異世界 未分類
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全角16374文字
容量32748 bytes
原稿用紙約49.85枚
飛行<器>の飛び交う街、とある少女の『宝探し』。
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1
ここから空を見上げると、ちょうど時計塔の陰になって、大きな夕日が二分されている。
朝、出かけるときに見た青白い空よりも、真っ赤に染まりあがった茜空の方が、この街には良く似合っていると思う。
どこかで、銀色の翼が飛び立つ遠い音が聞こえた。
「私が思うに、もしもこの世界に心優しい人間しか居なかったとしたら、世界は今の数倍つまらないものになっているはずなのだよ」
と、マイスターはいつもの調子で語り出した。
直視できないほど煌びやかに輝くシャンデリアの下、随分お高そうなソファーに踏ん反り返って、秘蔵のワインを浴びるように飲む、白髪に長い髭の老貴族、フォルデンエヴァン卿、自称『マイスター』。私の雇い主。
彼は語り出すと止まらない。優に一時間ぐらいは語る。語り尽くす。ここへ勤めに来たばかりの頃は相槌を打ったりもしていたような気がするけれど、今ではそれが只の趣味であることがすっかり解っているので、適当に聞き流している。
「何故か? それはだね君、心優しいということは、つまり他人のことを考えて行動できるということだが、しかしそういう人間というのは非常に脆い。他人の傷を我が物と感じるが故、他人が傷つくことを嫌い、必要以上に触れ合うことに恐怖する」
洗剤が手にしみると思ったら、指先がぱっくり割れていた。毎度毎度のことながら、こういうのを見るとどうも眉間に皺が寄る。ま、無理も無いか。工場で一度油まみれになった手で、今度は皿洗いしてるんだもの。手だってストライキぐらいしたくなるはずだ。私は指先がなるべくスポンジに引っかからないように、神経を集中させて流し台と向き合った。
「人と人が関わりあわない世界、ああそれが世界と呼べるのか! 呼べるものか!」
二人分の洗い物をちゃっちゃと片付け、台布巾をざっと洗い、泡が飛び散ったエプロンを洗濯機に放り込み、掃除機を持ち出して、今度は絨毯の掃除。この部屋は広い。いやこの部屋だけではない、屋敷は全てが広大で、入り口の門をくぐるたびに自身が縮んでしまったかのような錯覚に襲われる。だから掃除が一番辛い。最近、この部屋以外の掃除をした記憶が無い。
ちなみにこの掃除機、ここまでコンパクトに改良したのは私。結構自信作。市販物の改造品でなければ、特許出願したいぐらい。
「何より、『心優しい』と一括りにされるような、似たような人間ばかりの世の中など、地獄と大差なかろう」
ソファに踏ん反り返ってワイングラスを傾けるマイスターを横目に、私は黙々と家事をこなした。
この野郎、傷だらけの手で働く家政婦の真横で、よくも威張りくさってられるよな……いらいらが赤い波になって身体の底から溢れてくるようだ。けれど半ば諦めてもいる。
「この世界に生まれてよかったな、マテル。戦争があり、人々が適度にいがみ合い、時々気紛れに助け合い……何より、この私が存在する世界に!」
マイスターは高笑いした。
「……そうですね」
こっちに振らないでほしい。喋りたいならお好きなだけ、お独りで喋っててくださいな。でも良かった、今日の演説は早めに終わりそうだ。様々な負の感情達を練り込んだまま、ため息が口の端からこぼれ出た。
「それでは私は先に寝るとしよう。マテル、グラスを洗って伏せておいてくれたまえ。おっと、くれぐれも割ったり、べっとり指紋をつけたりしないでくれよ」
マイスターは、ソファの横に立て掛けられていた無地の傘を取ると、ステッキのように振り回しながら寝室に引っ込んでしまった。
彼は、いつも肌身離さずあの傘を持ち歩いている。
噂によればマイスターはフェンシングの達人で、あの傘でどんな悪人でもけちょんけちょんにやっつけてしまうらしい。全く非現実的な噂だけれど、一概に嘘話として切り捨てることはできないのは何故だろう。もしかしたら、彼の背負うあの不敵な雰囲気には、そんな事実が隠してあったりするのかもしれない――
ここで家事をこなすようになって、もう三年弱ぐらい経つけれど、まだまだ彼には謎が多い。思考回路も、ちょっと私には理解しかねる。
私はワイングラスをかち割りたい衝動と戦いながら今日の仕事を終わらせると、睡魔に誘われ急ぎ足で自分の部屋へ向かった。
飛び込んだのは廊下の突き当たり。殺風景な部屋だ。ここにはいつも誰も居ない、ここでは誰も『暮らして』いない、揺れるカーテンや佇むベッドがそんなことを主張している。
うつらうつらのベッドの横で、つけっぱなしのラジオから、ニュースの無感情な音声が、耳をくすぐった。
『……の開発により、東大陸の紛争は激化し、……連邦政府はまた……』
雑音交じりの、遠い声。
何の末期症状だろう、その微かなノイズまでもが飛行器のプロペラ音に聞こえたような。
いいよ、疲れているんだ、今日はもう眠らなきゃ。唯一この部屋が使われるときだからね、私が眠るときが。
おやすみ今日の私、明日が迎えに来るまで。
「……でね、その最後の態度がほんっとに許せないの。まるで人のことを召使いみたいにさ」
私はエンジン周りの配線を確認しながら呟いた。
少し顔を上げると、集中という名の防壁に阻まれていた辺りの騒々しさが、わっと耳に戻ってきた。いつもと同じ、工場の皆の怒鳴り声と、機械達のがががが、きゅるきゅる。
「ま、雇われてんだから仕方ないんじゃねーの、金で召使いやってんのと変わんねーんだろ」
吐き捨てるような私の呟きを、一応聞いてくれる奴はいるのだけれど、取り敢えず一方的に喋ってないと、正直やっていられない。
ふと、覗き込んだ剥き出しのエンジンの端っこで、出力の導線が擦り切れているのが見えた。いけないいけない。
「エリッサ、赤いほうの導線そっちにない?」
「なーい」
返事は遠くから、いくらか遅れて聞こえた。「ノディに聞いてみるー?」
本体のポッドに突っ込んでいた顔を引っ張り出して、私はエリッサの声のするほうへ目を向けた。
高いはずの空は不揃いなトタン屋根に覆われ、地面はコンクリートで灰色に塗り固められている。ここは、工場の点検修理場だ。沢山の人間や機械が出入りするので、とてつもなく広大だが、とにかく暑くて機材も人口密度も大きいので、清々しい開放感をどうのって訳にはいかない。
少し遠くで、同僚のエリッサが接着前の翼部分を相手に悪戦苦闘しているのを、そのまま特に何ともなくぼうっと見つめていると、さっと足元の隙間から赤いテープの導線が差し出された。
「ん」
聞き取れたのは素っ気ない声。取れよ、とその手が言っていた。
導線の箱を握る軍手の甲に描かれたブランドマークは黒ずんで消えかかっている。これは、反対側でボディの凹みを直すあいつの手。
「ありがと」
機械の騒音の隙間から、ネジがこぼれ落ちる不揃いな音が聞こえた。
黙々と作業を進める手は、常に愚痴と同時進行。
「……それで、この間なんかさ、真夜中に買い物行かされたのよ」
「何買いに?」
「みかん」
真面目に答えたのに、そいつは噴き出した。
通りがかった運搬員のおじさんにまで笑われて、ほんとあんなところに勤めるんじゃなかった、昼間の工場の作業だけでも大変なのに、と私の恨みの矛先はいつも勤め先の老貴族様に行き着いた。
「ところで、お前の愚痴は良いとしてさ」引きつる横隔膜を押さえながら、目の前のそいつは言う。「新型飛行器の零型(プロトタイプ)、完成したらしいぜ」
今度は私が噴き出す番だった。
「嘘!」
けれどそれは驚愕の意味で。
「ほんと。しかも、エンジン診たの俺」
そいつは憎たらしく笑って、自分を指差した。
「何で誘ってくれなかったの、馬鹿!」
「馬鹿って言うなよ、お前が馬鹿だったから声かかんなかったんだろ。精進しとけ」
喉に言い訳が突っ掛かった。
文句は、言えない。原因が自分の技術不足だってことぐらい、解ってるから。
二、三度、私の診た飛行器は、試運転で止まっている。それが、このどろどろのツナギ着て笑ってる同期、一級技師リック青年の手にかかれば、あっという間に大空の彼方だ。
悔しい。けどこれはもう本当に、精進するしかない。
「ロクマルの九号器、調整終わったかー」
「ほらマテル、親方急かしてんぞ」
「はーい! 今やってます!」
今日も私の青春が、こんな金臭い工場で磨耗している。
別にいいの。だって私のコイビトは、この『ロクマル型』だから。
この国の名前を、私は覚えていない。
確かに田舎の中等学校で習ったような気がするのだけれど、どうにも思い出せない。まあ、思い出せないってことは、どうでもいい名前なんだろうと思う。元々名前なんて、都合だけで存在してるようなものなんでしょう?
そんな国のどこらへんかに、この街、ダイナミクス・シティが存在する。
ダイナミクスは工業と魔科学の街だ。私達の住む工業地帯『ジャンクエリア』では、至るところに工場の煙突や、開発途中で放り出された中途半端な道路が覗いている。
世間一般で天才の称号を得た発明家達は、誰もが皆一度はこの街で修行したという。そんなことから、一流の技術者を目指す人間が、ここには掃いて捨てられるほど集まっていた。
私も、そんな中の一人。
もっとも、ダイナミクスから凡人を掃き捨てるとしたら、私は間違いなくその中に含まれているだろうけど。
平々凡々、私を表すとしたらその一言で事足りる。最終学歴たる中等学校の成績は平均、背も胸の大きさも人並み。人生に希望なんてどこを見渡しても落ちているはずは無く、先の職業も『オヨメサン』程度のことしか考えていなかった。今だけを生きて――否、今この瞬間からさえ目を背け、時間の流れを目で追うだけの日々を送って。
そんな毎日を打ち破り、この夢と希望と排気ガスの街に向かわせてくれたのは、そう、あの日の飛行器だった。
名称、『動力式飛行<器>六〇〇型』。
このロクマルいくつの番号を振られた飛行器は通称『ロクマル型』と呼ばれ、移動用に空輸用にと、現在この世界で最も幅広く使用されている。
ちょうど卵に翼が生えたような形をしていて、だから飛行器、フライングポッド。
動力源は『赤石(あかいし)』。熱気の魔力を放つ魔鉱石だ。私が工場で主に担当しているエンジンの仕組みは、この赤石の魔力を引き出す働きが大部分を占めている。だから工場はいつも猛暑だ。
ああ、初めて飛行器を見たのはいつだっけ。そうだ、中等学校の修学旅行だ。大きな飛行場へ行ったときだ。
私は田舎者だったから、飛行器なんて見たことがなかった。だから、そのときの驚きはちょっと表現しかねる。
だってあれは金属でしょう? 紙は軽いから飛んでも違和感無いけれど、紙飛行器とは違うよね? なんて。
とにかく、近づくほどにぐんと加速する飛行器の影が、風を切って唸り声を上げながら頭上を通り過ぎていくのを、私は胸いっぱいの好奇心と驚きを持って迎えていた。あんなに心が動いたのは初めてだったから、良く覚えてる。鼓動が高まりすぎて心臓が口から飛び出すかと思ったぐらいだもの。今でもふいと思い出すことがある、あのときの風、あのときの大空。
――どうして、あんなきらきらした金属の飛行器が、空を飛べるんだろう。そういえば、紙飛行器ってどうやって飛んでいたんだっけ? 軽いからじゃ、ないのかな?
世界の摂理に疑問を持ったのは、そのときが初めてだった。
「……そんなこんなで、その後も様々な紆余曲折を経つつ、ここダイナミクスへやってきて、只今修行を兼ねて整備工場で毎日顔を真っ黒に染めている、ってわけよ」
辺りの騒音に負けないよう、テーブルから身を乗り出して喋りまくっていた私は、ふとグラスが空になったことに気がついて、大袈裟にそれを振ってみた。氷とグラスはぶつかり合うことでとてもいい音を奏でるのだけれど、そんなものは他の雑音に交じって聞こえない。
私のグラスを見るなり、一人ウェイターが走ってきた。見慣れない顔、新米かな。それにしても無愛想な仏頂面の男だ。しかも真顔でグラスに水を注ぎ損ねるものだから、ついくすっと笑ってしまった。
「……ふぅん」リックは私の生い立ちを長々と説明されて、随分疲れた様子。「それにしては、才能ねぇよな。今でも十分平々凡々だと思うぜ、俺は」
「うるさい」せっかく説明してあげたのに、頼まれてないけど。
この柔らかい光が満ちたおんぼろ掘っ立て小屋は、こうみえてもちゃんと国から許可を貰ってるお食事処だ。私達の工場のすぐ裏手、列車の高架橋の下で、長年地方料理を振舞い続けている老舗。名前は、『ガード下』。
季節ものらしい濃厚なスープを口に運ぶと、野菜の甘さが口の中に漂った。思わず笑顔になる、おいしい。
ふと湯気の向こう側に、沢山の客の姿が見えた。それぞれが時に笑ったり、嘆いたり、むすっと眉根を寄せたりしながら、一心不乱に喋り続けている。個々の会話は聞き取れないが、一人一人の声や、皿と皿がぶつかり合う軽い響き、隣の工場からこぼれた機械音が、素晴らしく心地よい不協和音を奏でている。そんな工業地帯らしい、ジャンクエリアらしい雰囲気を楽しみながらの食事もいいけれど、只一つ歓迎されないのは――あれ。
「うっ」
不意にどこからか、笛を力任せに吹き鳴らしたような高い高い音が攻め込んできた。
ここまできつい高音だと、うるさいを通り越して痛い。止んだ後も、いつまでも耳に残る。
「来るぞ」
あんなにがやがやしていた店が突然、水を打ったように静まった。来るぞ、来るぞ、そんな微かな囁き意外は、声など無い。ぴんと糸が張り詰めているような、そんな緊張感さえあった。
そして、来た。
後ろから、誰かに突然突き飛ばされたような衝撃が、一気に店中に襲いかかってきた。
頭上の明かりが激しく踊り出し、屋根は頼りなく軋む。
私の腰掛けた椅子が、命を吹き込まれたように跳ね回ろうともがいている。けれど、私はいつもながら自分でも妙なほど冷静に、テーブルの上の皿を押さえた。コツがいるの、これ。
『ガード下』に通いつめて早三年、私達は既にこの現象に慣れっこになっていた。今では、テーブルを体重かけて踏んで押さえるのがリック、皿を寄せて抱え込むのが私、と分担まで決まってしまっている。
この直下地震のような揺れの原因は、ずばり列車。
ここは高架橋の真下だから、爽快に駆け抜ける列車の揺れをもろに受ける。高らかな発車音に見送られた高速の列車は、いつも店とそこに居た人々に地震を彷彿とさせるような揺れを提供してくれていた。高架橋もこの店も出来たのは随分昔だから、ガタがきていてその衝撃は尋常ではない。けれど、驚くことにこのおんぼろ掘っ立て小屋は、今まで一度も倒壊したことがないらしい。奇跡って意外と身近にあるものだ。
それでも、揺れるのはせいぜい一日四、五回。陸路の輸送用特急だから、揺れは激しいけどそこまで頻繁には襲ってこない。これが人を乗せる列車だったら、数分毎の揺れで食事どころの話じゃないだろう。
それにしても今日の揺れは長い。奥のほうで照明が割れた。そして、
「うわわっ」
私達の隣で、一人ぽつんと食事を頬張っていた少年のテーブルが倒れた。
列車の轟音で、皿の割れた音は微かにも聞こえなかった。無残に床へ飛び散ったシチューが私のジーンズに跳ねた瞬間、揺れは轟音を引き連れてすうっと遠のいていった。
神様は時に幼い子供のような無邪気な残酷さを見せる。これじゃあまるで、彼の夕食を台無しにするために揺れたみたいじゃないか。
「おい、大丈夫か?」
「誰か、雑巾もってこいよ」
「破片に触っちゃだめよ、手に刺さるから」
ジャンクエリアの住人は両極端。極悪人か善人か。残念ながら、突然の揺れに怯え引っくり返った机を前にあたふたする少年を見捨てられるような人間は、『ガード下』には出入りしていない。
「すっ……」
少年は涙声でしゃくりあげた。「すみません……」
誰もが笑顔で返す。「いいんだよ、よくあることだから」
客が五人ほど群がり、てきぱきと飛び散った料理を片付け、机を直す。
その手際のよさが、これが『よくあること』だということをよく表わしている――
「お前もやってたよなぁ、昔」
不意に、リックが散らばった皿の破片を見ながら言った。
「……最初の頃だけでしょ」
そう、私にも余所者だった時期があった。誰にでもあるはずだ、新しいことが培ってきたことに変わる瞬間が。
「今はもう慣れちゃった」
「慣れなかったらそれこそ問題だろ?」
リックが私に笑いかけるときは、いつも嘲笑のような気がする。「……三年かぁ。まだまだだな、俺みてーな地元人に比べたら。技術屋見習いは五年目が修羅場だぞ」
「そうなの?」
「そうなの。五年も居れば、そいつが必要な人間か不必要な人間か、見えてくるからさ」
そうなんだ。
ふと、視界がくらりと遠のいたような錯覚に襲われた。所詮錯覚のはずなのに、有能な同僚の顔も、人々の困ったような笑顔も、遠く遠く見えた。
……私は誰かに必要とされているのだろうか?
ふいと私を黙らせてしまった疑問は、けれど少年に呼びかけられた途端にぱちんと弾けて消えてしまった。
「お姉さんっ」少年は妙にもじもじしていた。「その、ごめんなさい、ズボン……」
「え?」
見れば、ジーンズの裾にシチューが転々と飛んでいる。
「ああ、大丈夫だよ、だいじょーぶ」私は少年に笑いかけた。よく気がつく、誠実な少年だ。きっといい大人になる。
少年は私にもう一度わびて、今度は店長兼料理長に頭を下げに行った。
「そりゃあ気にもならねーわな、そんだけ油染み飛んでりゃ」
リックは、ちらと私のジーンズの裾を見た。
「だって工場勤務だもの、仕方が無いよ。初めて自分で選んだ道だし、工場の仕事は嫌いじゃないし、むしろ好きだからいいの」
「あっそ」何故かリックはちょっと不機嫌そうに視線を背けた。
「お前さ、工場とかで働いてたら、ええと……綺麗な服着たりとか、露出度三割り増しで歩き回ったりとかできないんだぞ? そういうのは気にならないのか?」
「何でアンタにそんなこと言われなきゃなんないのよ」妙にいらいらした。自分があの日から今の今まで考えても見なかったことが、リックの口から飛び出したからだろうか。「別にさ、元々そういうことには特別興味ないから。それとも、何、私に露出度三割り増しで出歩いてほしいの?」
リックは深くため息をついた。「性別疑うよ」
「そっちこそ。ちゃらちゃらピアスなんかして」
「コレぐらいがイマドキ普通なんだよ、馬鹿」
それでもちょっと気になったのか、彼は右手でピアスをいじりだした。銀色の、小さな粒。
「俺はすっげぇ気にしたね。だって、ドロドロのツナギ着て街ん中なんて歩けねーだろ?」
「歩いてるじゃない」
「違ぇよ、セントラルエリアとかをだよ」
確かにそれは言えるかもしれない。高いビルがきっちり立ち並び、私と同じような年齢の女の子なら誰もが働くより遊ぶことを優先している清潔感溢れるセントラルエリアの人々には、きっと影指す夕日を背負う私達とは違って、青空の突き抜けるような光のほうが似合うんだろう。
そう思うと、自分は意外と頑張っているのかもしれない、そんな気になる。しかし、羨ましいなんて気持ちが全然無いわけでもないから、複雑だ。
それでも、道は人それぞれが選ぶものだと思う。選ぶことが出来るものだと思う。現にリックは工場で汗と油にまみれる道を歩んでるじゃないか。それぞれが選んだ場所で、自分らしく生きていければいいんじゃないの?
その通りに言ってやったら、リックはげっそりとこっちを睨みつけてきた。「年齢も疑えるな」
聞き捨てならない。「何、私のどこらへんが人生のセンパイに見えるって?」
年寄り臭いと感じたのは図星らしい。暫く彼は視線を宙に泳がせ、返答に迷っていたけれど、やっとのことで口を開いた。
「……実は、美容整形してるとか」
「馬鹿」
即答してやった。「そんなお金あったら、バイトなんてしてない」
「バイト? ……ああ、例の『マイスター』って奴の」
私が隠居貴族マイスターの豪邸で家政婦のバイトをし、ついでに下宿させてもらっているのは既に有名な話だ。
マイスターの話題が出ると、胸の底のほうへ押しのけてあった不満が、喉元までせり上がってくる。
「ねぇ聞いて。あのマイスターったらさ、この間……」
「ちょ、ちょっと待て」
リックは私の言葉を断ち切った。
「……そろそろ時間だ」
慌てている。薄々感じていたが、そりゃあ誰だって女の長い愚痴は苦手なんだろう。
これ御代、としわくちゃの紙幣を二枚机に置いて、腕時計を気にしながら立ち去ろうとするリックを、私は驚いて呼び止めた。待って、ちょっと素っ気なさすぎやしない?
「待ってよ、何? ねぇ、バイト入ってるの?」
「違う」
振り向いたリックの顔は少年の後片付けを手伝う人々のそれに良く似ていた。「例の新型器の整備、頼まれてっから」
最後、ドアから振り向き様に、リックは言い捨てた。
「試運転明日なんだってよ。暇だったら朝、第二飛行場来てみ」
ばたん、なんて扉の閉じた音はやっぱり聞こえなかったけれど、彼の態度が妙に腹立たしくなって、私は投げやりにリゾットを追加注文した。何もなく平然と佇む扉を見ながら食べたリゾットは、妙にしょっぱかった。
帰り道、大きな大きな夕日の浮かぶ、赤黒い空を見つめながら歩くのは、習慣というより、もう癖だ。
時々視線を落とし、回りを見渡すと、その当たり前な風景が逆に新鮮、いや不自然に思えたりもする。自分の爪先を見つめながら歩く人、機械仕掛けのようにせかせかする人、彼らにとってこの空は一体どういう空なのか、そういう解りようも無いことが気になったり。人には人の空があることなんて解りきっていることなのにね。
せっかく美しく染まり上がった茜空を、まるで突き崩すように煙突が立ち並ぶ。締め付けるように電線が張り巡らされる。覆い隠すように煙が舞い上がる。
でも、それがこの街であって、こういうのが耐えられない人も居るらしいけれど、私はこのがらくたみたいな風景が好きだ。煙突や黒煙のシルエットが、純粋に夕日の魔力を引き出している。
ああ、まるで飛行器のエンジンみたいだ。
この街はきっと世界の何かを動かす原動力なんだ。
私は何か、世界とかそういう想像もつかないような大いなるものの中の機関の一部でしかないのだろう、多分。でも、細い導線一本にも、踏んづけたら忘れられてしまうようなネジの一本にも、ちゃんと役割があるように、きっと私にもあるのだ、役割が。それが既に終わってしまっているのか、まだ始まっていないのかは知る術もないけれど。
そんな、ふっと浮かび上がった答えが、ほんの少しだけ私の歩みを落ち着けてくれたような気がした。気休めだなんて思わない。後ろ向きにはもうなりたくない。
そう思わせてくれるのがきっと、夕日の魔力なんだろう。
2
翌朝工場へ赴くと、いつもの重加工機倉庫の前で、親方が仁王立ちしていた。
その双眸の光があんまりにも鋭かったものだから、私は慌てて首に提げた時計を確認してしまった。大丈夫、ぎりぎり遅刻はしていない。
ふと親方の足元を見ると、纏めきれていないざんばら髪を振り乱した、ツナギ姿の人間が蹲っていた。
あの親方の目の前で居眠りできるなんて、大したものだといつも思う。精神力が桁外れなのか、鈍感なだけなのか。
「エリッサ」私は膝を抱いたまま動かない彼女の肩を揺さぶった。
「ふぇ」
エリッサの返答は、妙に頼りなかった。どうにか上げた顔は真っ赤で、目は眠たげに垂れ下がっていた。
しかし次の瞬間口走った言葉は、
「ここで寝たら駄目って言おうとしたんでしょ?」
ぎょっとするほど早口だった。
いきなりふらりと立ち上がり、溶けかけたような瞳を瞬かせる。
「大丈夫あと三十秒ぐらいで起きるから」
寝ぼけてる。
私はため息をついて、そのふらつく肩を支えた。
我が友人兼同僚の二級技師エリッサは、とても朝が苦手だ。私が来るといつも先に集合しているから、真面目なことは真面目なのだろうけれど、必ずこんな風に座り込んで眠っている。そういえば、彼女は寝ぼけたまま、どうやって工場まで来ているんだろう。ふらふらしながら、身体の中で時を刻む習慣に頼って歩いてくるのだろうか。いつか事故に遭いそうだ。
三十秒に少し遅れて、彼女はちゃんと起きた。瞳に光が灯った。エリッサは、約束はちゃんと守る女だ。
「ノーディンは?」
私はもう一人の同僚の名を上げた。
「遅刻。いつもどーりに」
エリッサは飄々と肩を竦めて見せた。
ダイナミクス・シティの約半分を占める工業地帯、ジャンクエリア。その中央東よりに、この私達の工場がある。
ここは、ジャンクエリアの大半の工場と同じく、専ら修理や実験、開発の為に動いている。ダイナミクスで工場といえば、大半は新たな機械の実験開発所だ。
私達はいつも、熟練の腕を持つ男、愛称『親方』の下で、チームを組んで動いている。私とエリッサ、遅刻魔のノーディンと、天才青年リック君。主な仕事は飛行器の修理だ。
そう、ここは飛行器関連の仕事が非常に多い。だから私が就職先に選んだって、そういうこと。
私みたいな田舎上がりの二級技師は修理や手伝いなんかで終わってしまうけれど、優秀な一級技師は新しい飛行器の開発に携わることもある。リックの言ってた新型飛行器、私の憧れ、六〇〇型の進化形態がどんなように改良されているのか気になるけれど、部外秘らしくどんなにせがんでも教えてもらえなかった。
「親方」
突然、淀んだ低い声が私の背中を飛び越えた。
驚いて振り向くと、ポケットだらけのツナギが聳えている。
「あれ、今日は早いね、ノディ? 明日は雨かしら」
エリッサは、長身の男――ノーディンに言葉をかけながら冗談めかして笑った。彼女はノーディンの名前を遠慮なく略称している。
「……遅れた」
エリッサと私にちらっと視線を向けて、ノーディンはがしがし前髪を掻き上げた。
うむ、親方はいつになく厳格に頷くと、
「今日も昨日に引き続き、修理中飛行器の点検」
ただし、と親方が言葉を切ると、図ったようなタイミングで、物陰から男が飛び出してきた。
「ちーっす」
彼があまりに派手に飛び出してきたものだから、私とエリッサはつい声を上げて飛びすざってしまった。
それは長い髪を無造作に結わえた、やっぱりツナギ姿の男だった。ひょうきんな顔でいしし、と笑っている。顔が妙に女々しいので、首から上だけ見れば女性と間違えてしまうかもしれない。
「……研修生だ」
親方は煩い蝿でも見るような目つきで彼を一瞥した。あまりいいイメージは感じていないらしい。
研修生。下っ端じゃなくて、研修生。大体、普通の人は一、二年勉強して三級技師の資格を取ってから工場に入るから、研修生として来るということはつまり、お金とかコネとかで宜しくお願いしますって念を押されてやってきたということだ。
研修生が来ることは確かに少ないけれど、そこまで珍しいことじゃない。でも自分の班に迎えるのは初めてだ。私も教えるのかな、いつだったっか自分が新人だった時、先輩達が教えてくれたように。
「レィオ・オールドっす」
それにしても軽そうな人だった。ちゃらちゃらしているのはリックも同じだけれど、このレィオさんからは何というか、真っ直ぐな光が感じられない。これから技師を目指そうっていう人の目じゃない、これは、多分。
「今日からセンパイ方と一緒に作業させてもらいますんで、よろしくお願いします」
レィオさんはしなをつくって一礼した。それが余りにも女性的で、私は吃驚してその研修生を凝視してしまった。うん、首から提げたカードには、確かに『レィオ・オールド 研修生 十九歳 男』と明記されている。
そろそろ、作業を始める時間帯だ。汚れたツナギ姿の人々が、それぞれの班の作業場所へ散らばっていく。運搬員のトレーラーが動き出す音も聞こえた。
私達もいつもの作業場所へ動こうと歩き出すと、不意にエリッサが惚けた声を上げた。
「ごめんマテル、ウチさ、今日溶接班と組立作業だった」
エリッサは頻繁に溶接班へ呼ばれる。志望が溶接工らしいから、本望なんだろうな。でも、エリッサが居ない作業はちょっと寂しい。
「ほんとごめん。先に言っとけば良かった」
私は自分で思った以上に落ち込んだ顔をしていたらしい。エリッサを俯かせてしまった。
「いいよいいよ、大丈夫」
「でもさぁ……」
私は笑って見せたが、彼女はそれでもまだ心配があるらしい。「何かめんどくさそうな研修生いるじゃん、今日はリッ君もいないのに、マテルとノディだけで大丈夫? ほんとに大丈夫?」
「だ、大丈夫だよ……」とは言ってみたものの、エリッサの曇った顔を見ていると、何だか不安になってくる。そうだ、エリッサもリックも抜けたら、残りは親方含め三人だけなのだ。そしてやる気のなさそうな研修生。不安要素ばっかりじゃない。よく『大丈夫』なんて言えたものだ、私。
とはいえ、ここで二人して喋り続けているわけにもいかない。どこからか早くも金属音が響き出し、私を急かす。
「じゃあ、頑張って」
やや不安げな表情のまま、エリッサは溶接所へ駆けていってしまった。
彼女の背が見えなくなると、私の中に感染した彼女の不安が、青空を侵す黒雲みたいに、どんどん増殖し始めた。
本当に、大丈夫だろうか……。
ともかく親方にどやされるのだけは嫌だったので、私はいらない不安を振り切って、作業場所へ走った。
「ええ」研修生は露骨に嫌そうな顔をした。「ここに頭突っ込むんですか」
彼の目の前には、ぽっかりと開いた整備口。
「そう」そんな研修生の態度に腹が立った私も多分、同じぐらいひどい顔だったと思う。その程度の覚悟は持ってきなさいよ、本当に技師になりたいなら。
中をざっと覗くと、パイプに皹が見えた。エンジンを開けると、ちらほら導線が危ない状況になっているのも解る。
「じゃあ、ちょっとパイプの交換とか……やってみてもらっても、いいですか?」
向き直って言うと、彼はあぁ、と呆けた声を上げた。「オレ、そういうの、全然解らないんです」
「……え?」
「解らないんです。一から教えてもらえませんか」
レィオさんは爽やかな笑顔で言い放った。
「……え?で、でも、学校とかで……」
「オレ、法学部だったんで。パイプとか、飛行器とか……何が何だかさっぱり」
さも可笑しそうに肩を竦める研修生。
「先輩、教えてください」
まさか、三級技師の資格さえ持っていない! 勉強の一つもしていない? 全くの素人じゃないの。じゃあ何でここへなんかに来たのよ、思ったことを面と向かって言えない自分が大嫌い。私なんか、私なんか、高等学校へも行かずに猛勉強して三級取ったのに。
ちらっとノーディンの方を見る。視線がぶつかった。しかし、彼は慌てて目を逸らし、プロペラ接合部をいじり出してしまった。なるほど、俺に助けを求められても困る、ね。よく解ったよ、馬鹿野郎っ。
「ねー、教えてくださいよ、先輩ー。オレそのためにここまで来たんだから」
私の貧弱な精神力では、もう耐えられない。
怒鳴ってやりたい。その程度の気持ちでここに来たんですか、って彼の笑顔に向かって言い放ってやりたい。でも、怒鳴りたくても罵声は喉につっかえて出てこない。どうして、どうして言えないの? 自分に腹が立って仕方がなくって、怒りは無言のうちに冷めると真っ黒い塊になり胸の真ん中に居座る。あれ、何でだろう、喉と目頭が熱くなってきた。
「……待ってて下さいっ」
ようやく出た声は、驚くほどか細かった。
私は研修生と飛行器に背を向けて、余裕を装って歩いていこうとしたのに、気がついたら走り出していた。親方を探そう。親方になんとかしてもらおう。親方ならなんとかしてくれる。
よく解らない。解んないよ。怒ってるのか、泣きたいのか、なんだろう。でも喉の奥が苦い。
何かに引きずられるみたいに走り回って、そして親方は案外あっさり見つかった。いや、単純に無我夢中だったから、時間が見えていなかっただけかもしれない。
彼は、窓際でパイプを吹かしていた。屋根と同じ、剥がれかけたトタンの壁に浅く寄りかかって、真っ白い煙を吐き出している。
そんな、いっそ神々しいほどの親方と目が合ったら、何だか新人に腹を立て成す術もなくめそめそ泣いている自分が空回りしているだけの情けない人間に見えて、私は耐え切れず軍手を捲くった素手で目を覆ってしまった。瞼の熱が冷たかった手の平にじんじん伝わってくる。皆自分の作業で忙しくって、他人を見ている暇なんてないことぐらいは私だって解っているのに、沢山の人間に無様な姿を見つめられているような気がした。
「……エリッサが居なかったのは幸い、か」
私が涙を拭いながら震える声で報告すると、親方はそう言った。
エリッサが居たら、確かにすぐ怒鳴っていただろう。それだったらどんなに良かったか。怒鳴ってくれれば良かったのに。
「みっともねえもんだ」
親方はあさっての方向に目を向けて、吐き捨てるように言った。
「その程度のことで泣くんじゃねえ」
いつもの無機質な声。
解ってる、解ってるんだ本当は、それが慰めの言葉だって。それでも、涙で曇った今のこの耳には、そんな声すらただ痛い。
どうして私は親方を頼ってきたんだろう、もしかして逃げたかった? あの研修生を、親方に懲らしめて欲しかった?怒鳴り散らして欲しかったの? 無力な自分の代わりに?
――そういう考え方をしようとする自分が何より腹立たしい。
「お前のことだから無いとは思うが、怒鳴ったりしようとなんかは思うなよ」
親方は私の思考が読めるのか、それとも私がよっぽど顔に出しやすいのか。
「あの男は、警察の上の方の奴らから『宜しくお願いします』と言われて預かってきてんだ」
咥えたパイプを微かに上下へ揺らしながら、途切れ途切れに煙を吐いて、彼は言う。
シティ警察。ダイナミクスの秩序と治安を守る保安隊。法令の向こう側で、事実上の絶対を誇る機関。
セントラルエリアの片隅で、まるで見上げられることが当然だとでもいうように胸を張る警察本部のビルと、教えてくださいよぉとせがんだあの研修生の青っぽい瞳が、涙目の裏側で重なった。
「警察の上の方の奴の息子とか、そんなんだろうな。だが……問題は起こせん。警察に睨まれるの何ざ、若い頃だけで十分さ」
白い煙は、立ち上っては窓に吸い込まれて消えていく。現れては現れては、トタンと青空の向こう側へ消えていく。
「……あ、ああ、有難う御座いました……っ」
何に対しての礼だったのだろう。解らない。
とにかく私はそう言って一礼して、汚れたツナギの袖で顔を拭いながら、小走りで去っていくしかなかった。
真っ直ぐ飛び込んだのは、化粧室。
何でそこへ向かったのか良く解らなかったけれど、もう何だか解らないだらけになってしまって、でもこんな顔で戻れないから、逃げ込んだ。
意味も無いのに手を洗った。決して清潔とは言えない、薄汚れた全面タイル張り。靴の音が一々響く。
悪い癖だ。ほんとに笑っちゃうぐらいどうでもいいことで、私はぽきっと折れてしまう。誰に「無理だから、技師になるなんて止めなさい」と言われても諦めなかったのに、三級試験の帰りに人にぶつかって、謝ろうとしたら舌打ちされて、やっぱりこんなように消えたくなるほど泣いたことがあった。
ふふ、馬鹿じゃないの。
鏡の中の自分と目が合った。彼女は真っ赤に腫らした目で、私をさも恨めしげに睨みつけていた。
何て顔だろう。
彼女をぶん殴るのを我慢したら、鏡の代わりに私のどこかに皹が走って、またみっともなく涙が出た。
鏡の中の彼女もまた、泣いていた。
暗い部屋だった。
壁も床も、寝床も机も流し台も、およそ平面と呼べる場所の全てに、本が居座っている。その部屋の主は本だった。壁は全て大きな本棚に覆われ日の目を見ない。小さな文庫本も、大判の百科事典も、何もかもが一緒くたに積み上がり、不安定な柱を形成している。
本の住む部屋に、居候のように背中を丸めて机に向かう男がいた。大勢の本に囲まれて、文字通り肩身の狭い思いをしている。本棚に半分隠されてしまった窓から、真っ直ぐに夕焼けの光が伸びて机の上の紙を赤く照らしていた。
男は手紙を綴っていた。乾いて血走った目をかっと見開き、途切れがちにペンを走らせて。正座で痺れた足を机の下から引きずり出した拍子に、膝を引っ掛け本達の塔を一つ崩壊させたことにも気がつかず。
手紙は、着々と文字に埋められていく。
書き、消し、破り、机の上で書き損じの手紙の破片が雪崩れ始める頃、彼はやっと書き終わったそれをそうっと持ち上げた。薄い紙の向こうで淡い赤の光が滲む。
寸分の狂いも無く均等に並べられた文字を眺めながら、男は口元だけで笑った。
隣の部屋で、また一つ本の塔が陥落する音がする。
手紙を封筒に入れて、封をし、本の中から発掘したジャケットをはおり、手紙はまるで宝石でも扱うかのように丁寧に丁寧にポケットに入れて、男は立ち上がった。
その薄汚れた顔が夕日に照らされた。整った、精悍な顔立ちだった。にやついた口元さえ見なければ。
一歩歩くたびに崩れ、道を塞ぐ本を蹴りつけながら、男は本の世界からの出口に手を伸ばす。
窓の向こうで時計塔が鳴った。重たく、胸の奥底まで響くような、優しい音色の鐘。
男は気付かなかった。
あ、れ。
状況がよく飲み込めなくて、一瞬全身が硬直してしまった。
涙が止まって、多少腫れぼったさも引いてきたかな、とそれでも瞼を擦りながら化粧室を出ると、工場の作業場は随分風通しが良くなっていて。
人が、いないのだ。
あの湧き上がるような人の熱気が消えている。さっきまでは、一歩進むたびに人の気配にぶつかっていたのに。あれだけ鳴り響いていた機械の作動音も人の声も無い。まだ残っていたらしい誰かの金属音が、沈黙を突き破って虚しく響く。
「マテルっ」
ふと、向こうからノーディンが長い腕を振り回しながら無我夢中で走ってきた。
立ち止まると同時に身体をくの字に曲げて、苦しげに咳き込む。
「あの研修生、逃げ足が速い」
ちくしょう、と痰でも吐き捨てるかのように呟くノーディン。
「ノーディンっ、えっと、これ……」
とにかく納得のいく説明が欲しかった。私ががらんと空いた工場内を指すと、彼は肩で息をしながら大振りに頷いた。
「さっき、誰かが入り口で、近くで火が出た、とか」
ノーディンはもはや機能していない作業場を振り向く。
「そうしたら、この通り」
なるほど、野次馬根性の成せる技、ってわけね。
「それで、皆仕事放り出してどこへ行ったの?」
「外を見てみろ」
ノーディンは言って、裏口を顎でしゃくった。
火が出た、と呟くのは簡単だけれど、こんな工場密集地帯で火事が起きたら、状況によっては大惨事だ。油に燃え移ったりなんて、想像しただけでもおぞましい。私はただ火がここまで回ってこないかそれだけが心配で心配で、飛びつくように裏口を覗き込んだ。
工場員達の古ぼけたバイクや自転車がひしめき合う狭い駐車場の空を、黒煙が汚している。
黒煙の真下にどこがあるのか、を考えたとたん、ふと最悪の想像が頭の中で閃いて、さっと不安が襲ってきた。たかが想像なのに、押さえつけられたように動けなくなった。ノーディンが固まってしまった私を覗き込んで何か言ったようだったが、聞こえなかった。握り締めた手の痛みではっと我に返る。軍手の網目をないがしろに、爪が手のひらに食い込んでいた。
「ねえ」
多分私はノーディンに向かって言ったんだろうと思う。けれど目は黒煙を捉えたまま何故か動かせなかったし、ノーディンの返答も聞こえなかった。
「あっちって、飛行場じゃない?」
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2009/05/18(Mon)21:21:11 公開 / 勇波あい
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■作者からのメッセージ
ずっと放置したまま、でした。ごめんね飛行器。
それから、いつか読んでくれた方々に、この場でもう一度感謝の言葉を。
異世界長編、未完です。
ただ永遠に未完にはしたくないのです。どれだけ時間を掛けてもちゃんと、この物語を終わりまで書き届けてやりたい。だから身勝手だけれど、こっそりと書き続けようと思います。きっとちゃんとさせてやりたい。
宜しくお願い致します。