- 『彼女の刺激』 作者:時貞 / ショート*2 リアル・現代
-
全角3399.5文字
容量6799 bytes
原稿用紙約10.05枚
……近年では、主婦や老人、未成年などが遊び感覚や軽い気持ちで万引きに手を染め、常習化するケースが増えており問題視されている……。
*
しごく簡単に、短時間で手早く化粧を済ませる。
ほとんどノーメイクに近い仕上がりだ。
縁無しの眼鏡を掛け、髪にさっさとブラシをあてると、彼女はノーブランドの地味な手提げバッグを掴んで立ち上がった。
彼女の名前は村田喜美子。現在五十二歳である。二十三歳で見合い結婚をし、二十五歳のときに長男を、その三年後に長女をもうけた。
夫の達夫は、平凡を絵に描いたような中年男性である。今年で五十六歳を迎える製薬会社のサラリーマンだが、出世街道からはじき出され、なんとかリストラの憂き目にあわずに会社にしがみついている、いわゆる「窓際族」だ。
世間から見ても、いま現在の日本におけるごく一般的で平凡な、何も珍しくない一家庭であろう。収入が得られず生活保護を受けているような人から見れば、まだまだ幸せな一家だと思われるかもしれない。
実際、夫の達夫も職務遂行能力や世渡りこそ人様に劣る部分があるが、生来真面目だけは取り得の男で、結婚以来浮気や不祥事を家庭に持ち込むようなことは一度もなかった。二人の子供たちも特に問題を起こすことなく、まずまず一人前に育ってくれた。
そう。村田喜美子はごく普通の、ありふれた平凡な主婦だったのだ。
しかしいまの彼女は、病的とも言えるほどある事に夢中になっている。生まれてこのかた、これほど何かに夢中になったことはない。彼女にとって、それは天からの授かりもののようなものであった。
――世の中に、こんなスリリングで素敵な事があったなんて!
彼女はいま、充実した毎日を送っている。
*
彼女がこの充実感をはじめて手にしたのは、三ヶ月ほど前にさかのぼる。
それまで勤めていた、弁当工場のパートを辞めてからだ。コンビニやスーパーに出荷するさまざまな弁当や惣菜、その製造工程ラインでの仕事は正直言ってかなりストレスを感じさせるものであった。
四十五分の食事休憩を除いて実働六時間程度ではあるが、その労働時間中はずっと立ちっぱなしである。コンベアを流れてくるパックに、次々と流れ作業でご飯や惣菜を盛り付けていくのであるが、コンベアの位置が低いためにずっと腰をかがめた状態になってしまう。勤務を始めたばかりの頃は、仕事が終わると足腰の痛みに自転車にも乗れなかったほどだ。
しかし彼女に一番ストレスを感じさせたことは、現場主任からことあるごとに言われる小言であった。
比較的大きな規模の弁当工場は、年中無休の二十四時間稼動であることが多い。彼女の勤めていた工場もごたぶんにもれず、シフト制を組んでの二十四時間フル稼動であった。卸先がコンビニやスーパーだけあって、なかでも一番需要が多いのが夜間と早朝の勤務である。
しかし彼女はパートをはじめる際の夫との約束として、勤務は平日の日中のみ、残業は一時間以内と取り決められていたし、それを忠実に守っていた。現場主任にはそれが気に食わなかったらしい。
「ああ、ああ、村田さんは今日も時間ピッタリの退社でいいねえ。……今夜のパートさん、足りねえんだよなぁ。誰かさん、夜のシフトにも一回くらいまわってくんねえかなぁ――」
たびたび嫌味を言われ、五ヶ月足らずで工場を辞める決意を
した。なんとか五ヶ月近くもったのは、パートに出ることに最初は猛反対だった夫に対する意地だけであった。
それがちょうど三ヶ月ほど前……。
村田喜美子は、色落ちしたジーンズにグレーのカットソーといった地味な服装に身を包み、足早に遊歩道を歩いていた。真夏の太陽が容赦なく照り差し、額から汗が流れてくる。しかし彼女は、いたって涼しい顔をして歩を進めていた。
――退屈だった日常に慣れきってしまっていた自分に、こんなとびきりな刺激が与えられるなんて!
彼女は口元に微かな笑みを浮かべると、若い頃に流行した歌謡曲を口ずさみながら更に足を速めた。
背後からセミの大合唱が聞こえてくる。
*
大型スーパーマーケット、《タッカイヨー》――。
店内に足を踏み入れると、いつもながらに大勢の買い物客で賑わっていた。
それでも効きすぎるほどに効いた冷房に、ビッシリ汗をかいた背中がひんやりとする。村田喜美子は眼鏡のレンズを軽くハンカチで拭うと、厳しい表情でバッグの手提げを握り締めた。そして、先ほどまでとは対照的に、実にゆっくりとした足取りで店内を進む。
入り口からはいるとまずは、目にも鮮やかな青果物のコーナーが並ぶ。ごく一般的な野菜や果物から、これまで一度も口にしたことのない、珍しい外国産青果物の品揃えも豊富である。
青果物コーナーを過ぎると、威勢の良い掛け声とともに鮮魚コーナーがあらわれる。鮮度の良さを最大の売りにしているだけあって、見るからに新鮮な魚介類がずらりと並べられている。今日はホンマグロの解体ショーがあるらしく、すでに大勢の人だかりができていた。
次の精肉コーナーをぐるりと周って、乳製品や飲料物のコーナーに足を運ぶ。
彼女にはこのスーパーの店内の様子、間取り、店員の配置などが全てハッキリと頭の中にはいっていた。多くの客さえいなければ、目を瞑ってでも歩けそうなほどであった。しかし、その多くの客がいなければ、彼女の求める刺激もまた味わえなくなってきてしまう。
庶民的な昔ながらのスーパーマーケットに比べて、少し高級志向なこの店の商品はどれも魅力的だ。客層はさまざまだが、ある程度裕福そうな主婦の姿が特に多く見受けられる。
彼女はたっぷり時間を掛けて店内を一周した後、また再度入り口に戻り、次は更にゆっくりとした歩調で周り始めた。足を踏み出すたびに、少しずつ心拍数があがってくる。
彼女は乳製品、飲料物の陳列されるコーナーで足を止めた。周囲を見渡すと、予想通り店員の姿が一人も見当たらない。一気にアドレナリンが体内中を駆け巡る。彼女は新しいハンカチをバッグから取り出すと、じっとり湿った手のひらの汗を拭った。
一度素知らぬ顔で通り過ぎ、またゆっくりとその場に戻る。
高級チーズやバター、生クリームなどのイタリア製食品がズラリと並べられている。それらを若い主婦や年配の夫婦などが、おのおの手に取り眺めている。
彼女は一呼吸すると、その群れにゆっくりと近づいていった。一人の中年男性が興味無さげな顔で去っていく。彼女は、カバンの手提げ部分をギュッと痛いほどに握り締めた。そして……。
頭の中で、もう一人の彼女が声をあげた。
――よしッ!
ほんの一瞬であった。
彼女は足早に、しかし足音を立てない静かな歩き方でスーパーの出口を目指す。いつものことながら、あまりの緊張で腋の下から汗が噴出しているのが自分でもよくわかる。
――はぁはぁはぁはぁはぁ……。
心臓が口から飛び出しそうなほど、呼吸が荒くなってくる。思わず駆け出したくなるほどだ。しかし、絶対にここで目立つようなアクションを起こしてはならない。
入ってきたときにはすぐ近くにあるように感じられた出入り口が、いつもながら果てしなく遠く感じられる。彼女はただ一点を見つめ、機械的に一定の速度で足を動かしつづけた。
――はぁはぁはぁはぁはぁ……。
ようやく出口が見えてきた。
頭の中がカッカと熱くなってくる。彼女は興奮を押し隠し、少しだけ歩く速度を早めた。もう出口は間近に迫っている。
――はぁはぁはぁ、あと、あともう少し……!
ついにスーパーを出た。
再び頭の中で、もう一人の彼女が高らかに声をあげる。
――よしッ!
彼女は更に緊張感を高め、もっとも慎重さを要する行動に移った。先ほど乳製品コーナーで目をつけた、一人の中年男性に背後から声を掛ける。
「――あのー、ちょっと失礼しますね。お客さん、いまお会計しないでそのままお店出ちゃったでしょ? え? だめだめ、ちゃんとこの目で見てたんだから。右のポケットの中にチーズ入ってるでしょ? ちょっと事務所のほうでお話したいんでね、一緒に来てくださる――?」
村田喜美子は、万引き取り締まりの仕事に大きな充実感と刺激を感じている――。
了
-
2008/07/29(Tue)16:34:46 公開 / 時貞
■この作品の著作権は時貞さんにあります。無断転載は禁止です。
-
■作者からのメッセージ
はじめまして。お久しぶりです。約一年ぶりの投稿となります。僕のことを覚えて下さっている方は、すごいと思います 笑 今回久々に文章を書いてみて、以前よりも確実に力が落ちていると実感してしまいました。お叱りは甘んじて受けたいと思います。
お読みくださりまして、まことにありがとうございました お辞儀
っと、いきなり修正必要でした 汗大爆破!